ツーリズム・プロデューサー

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日本の観光

8BE094E49785009.jpg 金比羅金丸座。金比羅詣でのついでの芝居見物は、江戸のタビ観光のハイライトである。


いま、日本の観光は―――

名所旧跡温泉宴会観光バスからの脱却は

 観光と言えば、まず、名所旧跡。佳景、絶景、秘境、古寺、名刹と、一度は行きたい観光名所。それに名湯、秘湯に地酒も旨し温泉宿。これらは私も大好き。
 しかし、ご団体一同様が観光バスに揺られてその夜は大広間で宴会騒ぎ、というのはちと古いようで、こんな光景は近頃全く見かけなくなった。いわゆる団体旅行は5%程度で(でも、まだ、やってらっしゃる!)、95%は個人旅行のご時勢。個人旅行の中身は、コースや宿泊がセットになっているパッケージ旅行がおよそ半数。残りの半数は個人が切符やホテル・宿を手配して自分でコースを決める完全個人旅行。観光地や観光施設によって大きな差はあるが、ざっと、このように理解しておいて、間違いはない。
 この傾向は、自分のクルマで長距離ドライブ観光という旅行形態の増加や「ロンリープラネット(地球の歩き方)」や「ジパング倶楽部」が拍車をかけている。近頃はパッケージ観光にも自由行動の時間がたっぷりあったり、お仕着せ部分がどんどん縮小している。

でも、なにか変

 「もう景色は見飽きた(日本はどこもきれいな海と緑なす山)」「お寺はどこも同じ(結局、京都・奈良に尽きる)」「宿の料理はみな同じ(なぜか海老フライ)」ということで、ありきたりの観光に満足しなくなった観光客が「私だけの体験をしたい」ということになる。
 そうすると、旅行会社の企画も大変だ。海にもぐったり、空を飛んだり、特別料理に特別衣装、特別の部屋で特別のパーティ。「あなただけの時間」「あなただけの体験」を、ということでてんやわんや。 
 しかし、個人で観光を計画する人々も、観光ガイドブックを参考にして、あそこへここへ、ついでにここもと、結局、名所旧跡を‘個人で’追いかけている状態。「しまった、ここへ行くのを忘れていた。損をした」と帰りのクルマの中でガイドブックを見返して残念がるという観光である。
 これが、いまの日本の観光。何か変。何が変なのか。
 確かに、だれでも同じのお仕着せ観光は減ってきた。しかし、ここまで来ても、個人観光客でさえ、結局、ありきたりの観光をしている。そのことに、誰も疑問に思わないらしい。そこが変だと、私は思っている。 
 この問題、実は奥が深い。観光なんて所詮、余暇の気晴らしなんだから小難しい話はやめてよ、という御仁には、次の小文字部分なんて跳ばして読んでほしい。
 観光で個人が自立していないのは、現代の社会生活で個人が自立していないことの反映で、近年、この傾向はますます激しくなっている。一時「指示待ち人間」が若者の傾向として問題になったことがあるが、かれらもすっかり大人になり、いまや社会全体が「他人任せ」の「指示待ち」になっている。これはまぎれもなく成熟化した大衆社会現象であるが、D・リースマン教授の指摘した「他人指向型人間」(『孤独な群集』)が世に溢れていることだ。さらにはイ・オルテガの『大衆の反逆』に遡る。「自分の考えを持つことなんてキケン、他人に協調することがタダシイ」社会になってしまったのだ。もう、戻らない。どうしよう。観光どころじゃないよ。



観光の微妙なバランス

 日本の観光は、一方で、誰にでも平等に与えられた情報を自分流でこなしていく楽しみ。みんなが見ている名所旧跡は自分だって見逃したくない。釧路で流氷も、尾瀬の水芭蕉も、竹富島の水牛も見たいもんね。タラバもケガニもマツバもワタリも食べたいもんね。このような「自分も同じような体験をしておきたい(同じように生まれてきたんだから)」という大衆横並び観光がある。個人観光のほとんどをこのような観光が占める。
 ところが、ほんのわずかだけれど、個人の私的体験を追及しようという観光も目立ってきた。ここの親父の打つ蕎麦を食いたい、この蔵の酒を飲みたい、この寺で座禅がいい、ここの残照がたまらない、なんてやたらと個人的な思い込みだけど、「だから毎年ここへ来るんです」という人たちによく出会う。私的個人旅行の顧客は、「自分だけ」の「時間消費」を求めているので、旅行費用が少々高額になることは覚悟している。近頃は「持って死ねない」を口癖にして私的個人的体験を求める熟年老年観光客が間違いなく増えている。豪華客船「飛鳥」での世界一周クルージングが満杯になるんだもんね。

 話は逸れるが、個人の色彩が強くなると「観光」が「旅行」という言葉に換わる、おかしいね。そもそも「観光」は『易経』の「国の光を観る」が語源らしいから、他国の風物に触れること、つまり旅行と同じことなのに。「観光」という言葉も手垢に汚れたものだ。

 日本の観光は、いま、50%のパッケージ観光と50%の大衆個人旅行と、ちょっぴりの私的個人体験旅行でできあがっている。これらは3者が微妙なバランスにあって、日本の観光を非常にわかりにくくしている。

地方の観光業者のみなさんへ

そろそろパッケージから脱却を

 いつまでも「お仕着せ」のパッケージが「観光」だと思っていたら、大間違い。ましてや大広間で宴会が売り物だと思っていたら、商売の先はない(各地の温泉地で実証ずみ)。ということで、誰もが団体客をもはやアテにはしていない。しかし、旅行会社が送り込んでくれたパッケージ客はまだまだ健在で(これをかつての団体さまと同様に思い込んで混同している観光関係者も多い)、つい旅行会社のセールスに頼ってしまう。しかし、旅行会社のほうがパッケージ客は50%に過ぎないと知っているので、顧客開拓は個人観光客にいち早く向かっている。ホテルも旅館も、そろそろパッケージ客に頼ってのラクな商売は考え直すときがきた。ときがきたけれど、経験がないものだからこの発想の転換が難しい。
 しかも、パッケージ観光組も、眼も舌も肥えてきて、払いは安くとも気分はわがままだ。顧客は、もはや無口な追従者ばかりではない。いわんや残りの50%の私的体験観光組は、カネも払うが、要求する気分はもっと高度である。
 そうこうしてぐずぐずしているうちに、顧客の要望にあったサービスを提供するB&B(朝食付き宿泊)や個性的な料理を出す小旅館が旧い業者を侵食していく。観光地も同じで、いつまでもいままでの古ぼけたイメージで勝負しているところは、衰退の一方だ。



 どうすればいいのか。
 もはや、いままでの常識にとらわれない革新以外にない。といっても、スクラップしてやり直すわけではない(いままでの改革論者は、建物の建て替えや施設の改良をやたらと勧めてきた観光ハード屋さんだったが)、観光地そのものの‘見え方’を変えてしまうのだ。リコンセプトというが、簡単にいうとイメージのやり直しだ。それにあわせて各個人業者がそれぞれにできる努力をする。これ以外に生き残る方法はない。ハードの改築のように巨額の費用をかけずに、それでいて効果のある変身を遂げる。焼酎だって変身した、水がペットボトルでドリンクになったように。

観光客のみなさんへ

タビ観光のすすめ

 日本の観光が、「21世紀の基幹産業」といわれて久しいが、依然として「おまけ産業」の地位を脱していないのは、業者の対応が遅れていることもあるが、むしろ観光客の観光についての考え方とあり方が遅れていることに、主な原因がある。もうそろそろ他人にはとらわれない自分流の自立した観光がどっと増えてきてもよさそうなのに。
 さまざまな大衆社会現象のなかで、観光行動だけが自立するわけないというのもわかるが、仕事や日常生活のしがらみでは自分をいつも圧殺しているこの時代、せめて観光のときぐらいはもっと個人的体験を追及したらどうだということ。いや、自分を解放するために観光をとらえなおしたらどうだということ(このように表現するとき、手垢に汚れた「観光」という言葉より「ツーリズム」なり「タビ(旅)」なり、もう少し気取って言いたくなる)。人それぞれに人それぞれの人生があるなら、それぞれのタビがあっていいと、そろそろ居直ったらどうだ。日光東照宮を見なくて死んでも、人生に何も損をしたことにならない。ヤンキースタジアムでホットドッグを食わなかったからといって悔やむことなんか何もない。行きたいと思ったところへ行って空を見上げたり、誰かを思い出したり、酒を飲んだりして、それでいい。そんなタビ観光をそろそろやらなくっちゃ。そこで「まち歩き」のすすめになるわけだけれど、これは別のページで詳しく語ろう。こんなタビ観光は、外国旅行だと結構やってるくせに(そんなブログがいっぱいある)、どうして国内ではやらないの。
 それをやるには、時間と体力と何より知力が必要だ。ねぶたを横目に弘前の鍛冶町安居酒屋でじゃっぱ汁啜って酒を飲むのが格別だ。永観堂でなくとも京都の東山はいたるところで紅葉が美しい。長崎の面白みは人家の裏道の坂段を息を弾ませて昇り降りしなきゃわからない。これを生活観光という人もいる。つまり「まち観光」で、そこで「まち歩き」のすすめになるわけだけれど、これは別のページで詳しく語ろう。こんなタビ観光は、外国旅行だと結構やってるくせに(そんなブログがいっぱいある)、どうして国内ではやらないの。
 しかし、こんなタビ観光を楽しもうとする人は、いま、確実に増えていっている。もう少しだ。そうすると、観光業者や地方の観光地の考え方も変わって来る。そうすると、その地方の魅力はもっと高まる。何気ない景観が保存され、本物の地産地消が実現し、人と人の交流が盛んになる。これで、やっと地域が自力で活性化する。

観光はなぜ重要なのか

地方自治体の指導者のみなさんへ

 近頃のムードとして、どの地方でも「観光」の重要性は叫ばれている。しかし、地方へ行くと、いや大中都市でも、自治体の指導者たちがそのことをよく理解しているとは思えない。それは、観光とはホテルや旅館や土産業者、観光バスなどの一部のサービス業の業界の話とタカをくくっているからであって、私が「地方が生き残るにはもはや観光しかない」と力説しても、「観光客の機嫌をとりながら地域が成り立つか」と冷眼視される。
 観光の重要性を簡単に書く。
 ①製造業の企業誘致(工場誘致)による雇用確保なんて、大都市近郊に限ら れた話で、地方ではもはやない。工業団地造成地の売れ残り土地は大問題だ。  
 ②日本の人口は減少する。東京でも減少する。いわんや地方は激減する。そのときに地方を支える産業は、一次産業か観光しかない。農業か漁業か林業か、観光だ。私は一時産業は今後、とても有望な産業だと思っているが、当面は観光だろう。観光が一次産業を活性化する効果のあることは農水省の調査(『19年度食料・農業・農村の動向』)でも明らかになった。しかも、観光消費は裾野が広く、地元の加工食品や日常サービス、水道消費まで誘発する。
 ③観光の国内消費額は23.5兆円と算出されている(国交省「旅行・観光
産業の経済効果に関する調査研究」)が、GDPとの比率や国際的な産業動向から、日本ではさらに伸びる。日本の地方は、これに賭けるしかないのではないか。

 ④観光は本来、属地的産業である。青森観光も鹿児島観光もは東京や大阪でできない。つまり立地が限定されているから、地方から逃げない。地方での努力がそのまま実る。*それにも関わらず、地方観光が東京で消費されている(旅行着もバッグも、切符も旅館の手配も、場合によってはお土産まで、東京に住む人は東京の業者に支払っている)という発地型ビジネスモデルが出来上がっているので、地方は浮かばれない。これを打破するには着地型観光のモデルを地方主導で大至急開発しなきゃ。
 ⑤観光客がたくさん来ると、まちに活気がでて、みんな元気になる。外からやってくる観光客が消費してくれる(観光の外需)だけでなく、市民が消費活動を活発にする(観光の内需)という効果がある。つまり、まちがいきいきとしてくるのだ。だから世界の有力都市はいずれも、国際的な観光都市を目指している。そうすることで、地域経済を活性化しようとしているのだ。
 ⑥このまちで生まれ、このまちに帰ってきて、このまちで死ぬ。まちと人生との関係が最近、非常に明確になってきた。自分のまちは、自分の人生の舞台として愛着の持てるまちか、自慢のできるまちか、自分のまちの観光にいまそれが問われている。

 こんなに利点があって、しかも将来有望とあれば本気で取り組むのが当然なんだけれど、地方自治体で「観光課」が独立しているところはほとんどないのが実情だ。つまり、いままで半導体製造業の工場誘致に集中していたもんだから、観光活性化なんて本気で考えてこなかった。日本の地方の観光が遅々として前進しないのは、ひとえに、指導者たちの無理解によるところが
大きい。
 このままでは地方ごとに観光政策格差が大きくついて、勝ち組・負け組が取りざたされることになるだろう。日本の地方都市がこのまま衰退していくのを黙って見ていることはできない。