−日記帳(N0.093)2002年1月22日−
アフガン復興支援会議閉幕
昨日から開かれていたアフガン復興支援会議が今日、成功裏に無事閉幕しました。 アフガニスタンのカルザイ暫定行政機構議長(首相)、アナン国連事務総長、パウエル米国務長官、オニール米財務長官、小泉首相等、緒方貞子首相特別代表等の錚々たる顔ぶれが揃い、タリバン崩壊後のアフガン支援関連の国際会議としては、11月の米国、12月のドイツでの会議を上回る最大級の会議だっただけに、議長国の日本、米国、EU、サウジアラビアの各国は会議の成功を祝福しあっておりました。

カルザイ議長は今日の会議終了後に東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、各国の復興支援に「非常によいニュースを国民に持って帰ることができうれしい」と感想を述べ、会議の成功を強調しました。今日の会議で各国合計で2002年に18億ドル以上、総額では45億ドル以上の支援が決まったことを受けて、2年後をメドに民主的な選挙を実施、憲法を制定するなど民主化を推し進めていく方針を説明し、将来は「支援を受ける国ではなく、国民が経済的にも自立し、他国に援助できる国にしたい」と抱負を語ったのが印象的でした。

確かに、カルザイの流暢な英語での救済を訴えるスピーチ、歴史的な意味を持つとして絶賛された緒方氏の議長ぶり、そして45億ドル以上の支援額の拠出声明等からみて会議の成功に異論を挟む余地はないものと思われます。

その支援額の拠出の内訳は、イランの5.6億ドルを最高に、日本の5億ドル、ドイツの3.5億ドル、米国の2.96億ドル、 英国の2.88億ドル、サウジアラビアの2.2億ドル、中国の1.5億ドル、インド、パキスタンの各1.0億ドル、世銀、アジア 開発銀の計5.0億ドル、・・・・であるが、これを見て首を傾げざるを得ないことが有ります。

アフガニスタンの荒廃の一因に旧ソ連の10年にわたるアフガニスタン侵攻がありますが、そのロシアが具体的な金額を出さずに人的な面での協力に留めていること、G7で日本より財政事情のいいカナダやオーストラリアは具体的表示が無く、そしてフランスやイタリーもEUの総額の中に隠れてよく判りません。

米国も空爆で散々荒らした割には当面の支援額が何時も非難しているイランの半分とはこれまた納得できません。 先日、テレビ東京に生出演したルーディー・ローンブッシュMIT教授が「日本は公的債務超過によるバランスシートの悪さではアルゼンチンより危ない危機的状態にある」と比喩したり、米国の格付け機関が日本の国債をG7最低のレベルに引き下げたりして日本経済をボロクソに言っておきながら、支援の話になると日本に過分の額を要請するのが国際世論ですが、GDP世界第2位の日本としては国民一人当たり500円程度の負担に当たる5億ドルは妥当なところでしょうか。

この会議を成功させた最大の要因はカルザイ議長(下の写真)の存在だと思います。 カルザイ議長はまだ46歳で、アフガンスタン多数派パシュトゥン族上層部の名家の出身です。 祖父は君主制時代の議会で演説でならし、父も議員でモハンマド・ザヘル・シャー王の治下に、いくつかの重要なポストを歴任しております。

彼は1980年代中頃からアメリカCIAとの関係を持っており、流暢な英語はその時に培われたものと思われます。 そして、実行力も有り、タリバン勢力切り崩しの秘密工作を行い、一時は部下25人もろともにタリバンに拘束され処刑されたとの説や、米海兵隊が救出に向かったとのニュースも流れたことがありました。 昨年末も米国の誤爆で軽症を負うなど、常に危険を返りみず現場で活躍する献身的な行動に複雑な勢力争いを続ける北部同盟を含む4派からも一目おかれて議長に就任した経緯があります。
−日記帳(N0.094)2002年1月23日−
八甲田死の行軍から100年
今から丁度100年前(明治35年)の今日、日露戦争に備えて青森県の厳冬の八甲田山で過酷な訓練として雪中行軍が行われ、折からの記録的な寒波と大雪により、248名中199名が凍死すると言う史上稀にみる惨事が起こりました。 この悲劇は山岳小説家として著名な新田次郎氏により小説「八甲田山死の彷徨」として語られ、また「八甲田山」として映画化され広く世に知られるようになりました。

青森第5連隊からの中隊編成210名は青森から弘前へ、一方弘前第31連隊からの小隊編成38名は弘前から青森へと、お互いに逆のコースをとったのですが弘前第31連隊38名は無事目的を達成して全員帰還したのに対し、青森第5連隊210名は11名しか帰還出来ず残り199名は途中で凍死すると言う対照的な結果に終わりました。

従って、一見、天災のようにも見えるこの惨事は実は人災であり、青森第5連隊が弘前第31連隊の見事な準備と統率をしていたならば当然防ぎ得たはずと、この小説は暗示しているように受け取られます。 この小説を教材にしてリクルート社によって作成された管理職教育システムはその後多くの会社で採用され、私もその教育を受けた経験が有ります。

この行軍は下図の弘前から青森を結ぶ国道に近いコースを通ったものと思われます。普通の天候なら約40キロ程度の行程ですので1日で楽に走破できたはずです。 しかしこの時、東北・北海道地方を襲った大寒波は今だに日本最低気温となる零下41度(旭川)を記録する程猛烈で それ相応の準備と装備をしない限り、走破は不可能と思われます。それ故に、両隊の準備と装備の違いが危機管理の上でも参考になりますので以下に簡単に触れてみたいと思います。
その違いは大きく次の4点と考えられます。
  
         第5連隊     第31連隊
1.目 的:  訓練→×        確認→×
2.隊編成: 中隊(多数)第31連隊×  小隊(少数)→◯
3.案内人: 無し→×       有り→ 
4.携行食: おにぎり→×    パン→◯
まず、目的を訓練でなく厳冬期の行軍の可能性確認と明確に割り切って考えたことが全てでした。 そのために、第31連隊は非常時に統率可能な小隊編成にしたのに、第5連隊は練習を目的として大人数にしたため指揮系統が乱れてしまいました。

第5連隊は案内人無しで行うのが練習目的として案内人を付けなかったのに対し確認が目的とし案内人を付けたことが徹底的な違いとなりました。実は極低温では磁石が使えなくなり方角の判断は案内人の土地勘しかなかったからです。

そして、おにぎりは凍り付いて石のようになり殆ど食べられなかったのに対しパンや案内人の女性が携行したお餅は体温で暖めることで充分食べることが出来たのです。

第5連隊の隊長は1.2.3.については第31連隊と同じ考えで行軍計画書を提出したのですが随行することになった上司の大隊長に反対され変更を余儀なくされた上、行軍の指揮を任されたとは言え行軍の中での上司の存在は無視出来ず指揮系統に乱れを生じさせてしまったのです。
目的を持つ集団での管理を考えるのにいい事例と思います。


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