得瓶僧正の極私的音楽誌  サイケデリック編



03/11/02 サイケデリック編1
03/11/18 サイケデリック編2
03/12/05 サイケデリック編3
03/12/16 サイケデリック編4
04/03/29 サイケデリック編5
04/06/16 サイケデリック編6 みんなまとめて時代は変わる'65-'67改訂版
04/12/03 サイケデリック編7 嘘つけ、ジョン!?

サイケデリック編1/ビートニクからサイケデリックへ

 ビート・グループという言葉は死語になってしまった。1950年代から、ビート・ジェネレーションと呼ばれる作家たちが活躍を始める。古い話だ。
 冷戦時代に発する、社会的・性的緊張状態からの魔術的超越性と緩和状態を信奉するグループということらしい。1956年に出版されたアレン・ギンズバーグの詩「ハウル」、57年のジャック・ケルアックの小説「オン・ザ・ロード」が代表作だ。ギンズバーグの背後にはヒンドゥー教やチベット密教、ユダヤ教がある。
 日本においては、ゲーリー・スナイダーが相国寺や大徳寺僧堂で修行したことがよく知られている。彼は、アメリカ・インディアンの神話も研究し、エコロジー運動の先駆けをした。アメリカ・インディアンの歌には治癒(ヒール)するためものが多く、ヒーリングの草分けでもある。もっとも、個人的な癒しというよりは社会や環境をまっとうなものにしましょうということらしい。
 ビートという言葉は形容詞で、彼等の文学的な仕事に対して、ビートだといわれたものだが、浮浪者や麻薬中毒者についても使われた。いわゆる文壇からは攻撃されていた。
 ビートニクという言葉は、ロシアが打ち上げた人工衛星スプートニクの語から作った軽蔑的な名称である。モンタレー・ポップ・フェスティバルの行われた1967年頃には、あまり使われなくなり、ヒッピーという言葉が用いられる。ロックという語が定着するのも66、67年頃からだろう。
 絵の好きな文学少女ジャニス・ジョプリンは、「テキサスでは、あたしはビートニクで変人だったの」と語り、「ハウル」を手に旅に出た。「ハウル」はヘブライ人の祈祷書のリズムで書かれているというが、「吠える」のは、まさにジャニスの歌い方だ。
 ボブ・ディランはギンズバーグやケルアックのムーブメントの音楽版だ。詩はもともと歌だったから、ギンズバーグはそれを詩人ディランにやらせたかったようで、ディランを最高の詩人と呼んでいる。

知覚の扉を開く

 しかし、それを最もよく体現していたのはステージでもお行儀の悪かったジム・モリソンじゃないだろうか。「オン・ザ・ロード」に出てくるようなビートニクになりたかったそうだ。ギンズバーグにあこがれていた。
 もともと彼は引っ込み思案で詩を書くことに夢中、秀才で読書家、作家志望で歌うことに興味はなかった。エルヴィスは好きだったが、レコードといえばロックンロールではなくて、コメディや詩の朗読が多かったという。彼がうまいヴォーカリストかどうかはしらないが、声にパワーがあることでは一番だ。
 ドアーズというグループ名はウィリアム・ブレイクの詩の一節からとられたオルダス・ハックスリーの「知覚の扉」というサイケデリック小説に基づいている。
 UCLAの映画科でレイ・マンザレレクは、四歳年下のジム・モリソンを見いだす。たまたま大学にやってきたソニーとシェールの伴奏をマンザレクのバンドが勤めることになったが、バンド・メンバーが一人足らなかったので、モリソンに声をかけたのが始まりだ。
 既知の世界と未知の世界の間に扉がある。わたしはその扉になりたいということで、モリソンはドアーズと名付けた。
ドアーズを始めた頃、ほとんどマンザレクがボーカルを務め、モリソンはイェーとか合いの手を入れていたという。ステージに立っても客の方に向いていられないほど照れ屋で、マイクを握りしめてその陰に隠れていた。
 後に有名になってから、ツアー中モリソンがぶっ倒れてステージに現れず、代わりにマンザレクが歌ったことビデオを見たことがあるが、違和感のないものだった。おそらくマンザレクがモリソンに歌い方を教えたためだろう。
 レイは、いち早く1965年にマハリシ・マヘシ・ヨギの超越瞑想を始めている。モリソンは麻薬やLSDとシャーマニズムによって「サトリ」に達することが出来るとし、ヨギの教えには惹かれていなかった。当時、マリファナは非合法で、正体の知れていないLSDは禁止されていなかった。
 「ブレーク・オン・スルー・トゥ・ジ・アザーサイド」、彼岸まで突き抜けろが彼等の合い言葉だった。
 ジム・モリソンがバンドでデビューすると父親に手紙を書いた。父は偉い軍人だった。 「お前はピアノもすぐに止めちゃったじゃないか、クリスマス・キャロルも歌わなかったくせに、バンドを結成するなんて、四年間の学費を無駄にするつもりか。」
 「よろしい、わたしはそんな人間は廃人だと思う」と父は返答した。 


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サイケデリック編その二/まぼろしの世界

 ドアーズは二流のブルース・バンドともいわれた。「ブレーク・オン・スルー」のイントロのオルガンはレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」と同じだ。ブルースのカバーもライブではよくやり、ローリング・ストーンズのレパートリーと重なっていた。
 ジム・モリソンはすぐに「リトル・レッド・ルースター」を歌いたがった。スロー・ブルース、半ば即興的なトーキング・ブルースをやりたかったのだろう。
 彼のもったりした歌は、それじゃロックンロールにならないだろと突っ込みを入れたくなるような歌い方だった。レイ・マンザレクもブルージーなオルガンから離れていく。
 ギターのロビー・クルーガーは、フラメンコの影響を受け、チャック・ベリーやエルモア・ジェームス、ハウリング・ウルフの相棒ヒューバート・サムリンのギター・ワークも「勉強」したはずだが、この時代特有のサイケ調で抽象的なギターを聴かせた。
 ドラムはエルビン・ジョーンズを尊敬するジョン・デンズモアの四人組だが、他のどのバンドにもない独自の色を持っていた。ブルースやブギをやってポップな仕上がりにしているのはむしろ誉めるべきことだろう。そういう意味でアメリカのビートルズだった。とびきり上手というわけではないが、当時、最強のライブ・バンドだ。
 演劇的なパフォーマンスをいち早く取り入れた。マンザレクのオルガン、特に左手で弾くベースの音の反復には呪術的な響きがあった。ドラムにも劇の伴奏的なところがあり、ギターも埋め草的に弾いている部分があるので、映像で見ないとバンドの真価はつかめない。
 何よりモリソンの放つオーラが強い。観客を別の世界に連れて行く能力を持っている。しかし、めちゃくちゃなヤツだった。
 レコード会社のエレクトラと契約を結ぼうという時、プロデューサーの妻の髪に指を這わせたり、ホテルに戻るや悪ふざけでレスリングを始め、ベッドに放尿までする。悪ふざけが過ぎるヤツの動機は「マザー・ルック・アット・ミー」である。
 根はとても恥ずかしがりなので、マイクを両手で握りしめて顔を隠し、観客の視線から隠れようとする癖が残っている。
  父は要職に着いている職業軍人で、引っ越しが多く、また、躾は厳しかった。不在がちな父のことを他人行儀に「中佐」と呼んでいた。子供に口答えは許されなかった。
 母は清潔好きでリーヴァイズをいつもきれいに洗濯していた。完璧な母を求め支配的だった。口うるさく文句をいう。ステージに口を出して照明に指示したことまである。
 モリソンが4歳の時、自ら「人生のなかでもっとも重要な一瞬だった」という事故に遭う。
 ニューメキシコを車で走っているとき、トラックが横転し、荷台からインディアンが投げ出され、瀕死の重傷を負ってアスファルトに転がっている光景を見た。ジミー(7歳まで両親にそう呼ばれていた)は泣き出した。
「助けてあげなくちゃ。みんな死んじゃうんだ」
「もう大丈夫だよ、ジミー」             
 ジミーは、ひたすら泣き続けた。大泣きした。
「みんな夢なんだよ、ジミー。本当はあんなことは起きなかったのさ。みんな夢なのさ」 その時、年老いたインディアンの魂が自分の身体に乗り移ってきたと、数年後、彼は友人たちに話していた。本当に憑依がありうるのかは知らない。しかし、そのプロセスを演じることによってトラウマが解消される可能性はある。

飛ぶのが怖い

 ステージ上でくりかえし彼は死に、彼は父を殺し、彼はインディアンのシャーマンのような踊りを踊る。この足がもつれたような踊りは、彼の内面の屈折を表しているのではないか。最後にはうずくまってしまう。胎児に回帰したい。
 胎内から産道を通って外界に出るのは、子宮の世界から見れば一種の死であって、しかも生命は続いている。
 それを逆にたどる。死ぬという形の静かな生を望んだのだ。甘美な死の世界に憧れていたが、本当は死にたくない。自殺ノートのような詩の手帳を書き散らしたが、実行に移すことはない。
 「アンノウン・ソルジャー」ではライフルで撃たれて倒れて死ぬ演技を見せる。「ジ・エンド」には、父を殺し、母を犯すというモチーフが表れる。あまりにも型どおりの虚構だ。
 告白でもなんでもなく、劇、あるいはエディプス・コンプレックスの神話として演じたものだが、当時としてはスキャンダラスである。行く先々で観客ともめて騒ぎを起こした。 当局からも常に狙われていた。ステージ上に警官が現れて、そのまま連行されたこともある。観客は何事かが起こるのを期待して会場に出かける。面白くない。
 1969年3月、マイアミにおけるコンサートで、彼はへべれけに酔っぱらい、開演時間に遅れてきた。「バック・ドア・マン」を歌いだしても、すぐに止めてくだを巻き、観客と口論を始める。
 誰かがシャンペンをぶっかけたので彼はシャツを脱いだ。ピッチリとした革のズボンまで脱ごうとした。ステージに駆け上がってきた客と間違えたか、セキュリティの一人が彼を投げ飛ばしたので、真っ逆さまに客席に落ちた。なんとか難を逃れた。一万人の群衆を従えスネーク・ダンスを踊って楽屋に戻ってきた。彼はトカゲの王を名乗っていた。
 歌も演奏もぼろぼろでコンサートとしてはひどいものだが、客はそれなりにチャージされ満足していたようだ。
 数日後に逮捕状が出た。罪状はオーラル・セックスを示唆するような挑発的猥褻行為と公然猥褻罪だった。実際はそんなことはなかったのに、集団幻想か、ジム・モリソンの一物を見たというものまで現れた。
 彼はエレクトリック・シャーマンと呼ばれた。託宣のように詩を紡ぎ出して即興的に歌い込む。オルガンにインスパイアされ、ドラムに鼓舞され、ドアーズが構築する扉を突き抜け、別の世界に飛翔しようとした。
 薬を使うのも、多分、あちらの世界を垣間見たいと思ったからだ。何処跳べるか、何処まで跳んで行けるのか、ありとあらゆるドラッグを試した。
 薬物中毒というよりは、アルコール依存症だった。ベロンベロンに酔っぱらって、ジミ・ヘンドリックスのステージに飛び込んでくだを巻き、滅茶苦茶な詩を朗読したこともあり、レコードに残っている。
あいにく彼は、薬の助けを借りても現実には空を飛ぶことは出来なかったが、その代わり、しばしばステージから飛び降りた。本当はステージを降り、バンドを止めて、詩人として認められたかったのだ。スキャンダラスなセックス・シンボルの座から降りたかった。
 にっちもさっちもゆかないところに来て、さらに突き抜けてゆかなければならなかった。 1971年、ひそかにドアーズから逃げ出して、恋人パメラのいるパリに移り住んだ。もともと肥満児だった彼は、すっかり太ってたくわえた髭には白いものが混じり、まるでビート詩人のように見えた。
 その年の7月3日、バスタブの中で死んでいるのか発見された。飛べないで沈んだ。27歳。死亡診断書によると死因は心臓麻痺。ヘロイン中毒のパメラも三年後にオーバードースで亡くなり、死の真相は謎につつまれたままだ。


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サイケデリック編その三/苔の一念

忘れ去られた石ころがいる。12歳の時からクラリネットを習い、音楽的才能に恵まれ、サックスもすぐにものにして、若いときからセミプロとしてジャズ・バンドに加わる。三十もの楽器を操ってレコーディングに参加している。アイデアも豊富だった。
 父は航空エンジニア、母はピアノ教師。ころころと転がるように仕事に就いたり、バンドを替わったりしていた。
 ブルースに出合ってのめり込んでいった。イギリスではいち早く、エルモア・ジェームスのスライド・ギター奏法をものにしている。アラブ音楽に取り組んだり、シタールを演奏したのも先駆者だ。なんでも、すぐに出来るようになるけれど、その後伸びないヤツっているなあ。自己プロデュース能力がないのだ。
 その名は、ブライアン・ジョーンズ。二度、麻薬で逮捕され、三人とも五人ともいわれる私生児を産ませている。自意識過剰な女たらし、感情の起伏が激しくて神経質な頑固者、偏執狂といわれた。
 1959年にバディ・ホリーが飛行機事故で、翌60年にエディ・コクランが自動車事故で亡くなるとロックンロールは死んだといわれた。エルビス・プレスリーは兵役に着いた。
 ローリング・ストーンズのデビュー当時、古くさいロックンロールのグループではなくリズム・アンド・ブルースを標榜していた。そのなかには、チャック・ベリーのみならず、今の我々がブルースとして認識しているマディ・ウォーターズやハウリング・ウルフも含まれていた。
 当時のイギリスでいうジャズはディキシーランド・ジャズのスタイルに近かったようだが、リズム・アンド・ブルースやフォーク・ブルースも混じえていた。
  1956年にはクリス・バーバーの楽団でバンジョーとギターを担当していたロニー・ドネガンが「ロック・アイランド・ライン」のヒットを放ち、若者たちの間でスキッフル・ブームが起きた。ロカビリーの歌い方を取り入れているが、元はレッドベリーのフォーク・ブルースだ。
 クリス・バーバーの経営するライブ・ハウス「マーキー」などでは、ジャズとリズム・アンド・ブルースのグループが混じり合い、それをブレイン・ドレインと呼んで交流も深かった。
 49年からバーバーのバンドに参加していたアレクシス・コーナーはマディ・ウォーターズ流のギターを弾いて61年にエレクトリファイド・ブルースのブルーズ・インコーポレイテッドを結成する。
 他のジャズ・クラブでは電気楽器を使わせてくれないので、1962年3月、自らロンドン郊外にシリル・デイヴィス(ブルース・ハープと歌)と共にイーリング・クラブを立ち上げたら、大成功してしまった。
 そのヨーロッパ初のリズム・アンド・ブルースのクラブには、ブリティッシュ・ロックの中心人物が多くがバントに出入りしていた。当時のクラブ・シーンでは、飛び入り歓迎、オールナイトのジャム・セッションが繰り広げられた。
 アレクシスは、ジャズもやればフォーク・ブルースもやっていた。ジャズ畑ではジョン・サーマン、デイブ・ホーランドもバンドに参加してレコーディングを残している。グラハム・ボンドがジンジャー・ベーカーとジャック・ブルースを従え、アルトでブロウしているトラックも悪くない。一番おかしいのはロバート・プラントがアレクシスとやったときで、ツェッペリンそのままに絶叫している。
 アレクシス・コーナーは上流階級の出身、元は「ジャズ・ジャーナル」のライターだった。バンドのホーン・セクションにはケンブリッジ出身が二人もいたという。
 多くのアルバムをレコーディングしたものの、イギリスのアマチュア・スポーツが貴族のものであったように、音楽を職業にするという意識はなかったのではないか。ブルース研究会的なノリの生真面目な取り組み方だ。コマーシャル・ベースで売れるものではない。満足したのかしないのか、矛盾しているのは確かだ。
 ロンドン北100キロにある静かで上品な町チェルトナムに、クリス・バーバーがシカゴからブルース・ハープのソニー・ボーイ・ウィリアムスンを呼んだのは、1960年末だった。本来はトロンボーン奏者の彼自身も、ロニー・ドネガンの歌のバックでブルース・ハープ(ハーモニカ)を吹いたりしている。
 翌年にはアレクシス・コーナーを連れてチェルトナム・タウン・ホールにやって来た。ブライアン・ジョーンズがステージの後、感激した旨をアレクシスに伝えると、今ブルース・バンドを作っていて、62年3月17日にロンドンでクラブを始めるから見に来てくれといわれた。
 ブライアンはブルース仲間のリチャード・ハットレルとともにヒッチハイクでロンドンに出た。
 イーリング・クラブのバンドには、シリル・デイヴィス、後にクリームを結成するジャック・ブルース、クリーム解散後にジャックとしばしば共演するテナー・サックスのディック・ヘクトール・スミスらがいた。
 週末にはロンドンに出てきてアレクシスの家に泊まり、ブルースについて夜を徹して語るということを続けた後、ブライアンは子供を抱えた恋人とロンドンで暮らし、キューリのサンドイッチを食べ続けるような困窮生活を始める。
 イーリングでアレクシスは、腕試しのように若いミュージッシャンに演奏させた。ブライアン・ジョーンズは、いわばアレクシス・スクールの愛弟子、優等生だった。私生活はめちゃくちゃだったけれど。天才シリル・デイヴィスからブルース・ハープも学んだ。
 後にマンフレッド・マンを結成するポール・ジョーンズの歌で「ダスト・マイ・ブルーム」を演奏した。ブライアンの弾くスライド・ギターに驚いたミック・ジャガーとキース・リチャードは、彼にさそわれバンドを結成する。
 すなわち、ストーンズはブライアンが始めた。なかでも一番の伊達男だった。
  やがてブライアンは、ミック、キースとノミのいる同じベッドに三人で寝るような共同生活を始める。ミックが大学に行くと、真っ昼間から仕事もないブライアンはキースとひたすらギターを弾いて暮らした。
 エルモア・ジェームスやボ・ディドリーのギター・スタイルのコピーで何時間もレコードを聴いて秘密を盗んだ。キースはチャック・ベリーのギター・スタイルをものにした。
 ストーンズとしての初仕事は、1962年7月12日マーキー・クラブのアレクシスのコンサートに出演した時だ。この時まだビル・ワイマンは加わっていない。チャーリー・ワッツはアレクシスのバンドの方にいた「プロ」だった。といっても広告代理店でデザイナーの仕事を続けていたが。
 ブライアンは中産階級の出身であり、親は大学に進学して固い仕事に就くことを望んでいた。ローリング・ストーンズとして成功した後も、父に認めてもらえるように二日も徹夜して手紙を書いたものである。
 ブライアンは子供の頃から喘息持ちで、体育の授業にも出られないくらいだった。小児喘息は母親の愛情不足ともいわれるが、そこにすでに、薬物に依存する体質があった。神経が高ぶると発作を起こした。人とのつきあい方がよく分からず、他人の弱いところをついて服従させるという手法を用いた。
 音楽をやることによって、中産階級の状況から、いや家庭から逃げ出して自由になりたかった。スターになりたかった。なぜなら彼の家庭の中でスターになれなかったから。妹のバーバラは素敵な人で、学校の先生になりたがっていたという。
 彼が育った町の通念では、彼のポップ・スターという地位は評価に値しないものだった。また、マスコミを騒がす最も嫌われるグループとしてのストーンズと自分とのギャップにも悩んでいた。ことさら、不機嫌な顔、攻撃的なポーズの写真を撮られるのがいやだった。 実は、オレはストーンズのなかで一番生まれも育ちもいい、繊細で礼儀正しい人間だといいたかったに違いない。それを否定したくてロンドンに出たのに。
 半ば暴動のように騒いで、ステージに駆け上がってくる観客が恐かった。本当は自分を理解してくれる人、特定の音楽ファンのために演奏したかった。ロンドンのクラブ一の伊達男になれば十分だったのに、転がりだしたストーンズは世界に飛び立った。
 覚醒剤、アンフェタミンをかじってはジャック・ダニエルで流し込んでカツを入れていた。

ノット・フェイド・アウェイ 

 初期のストーンズはブライアンのコンセプトに基づいたリズム・アンド・ブルース・バンドだったが、アラン・プライスのいたアニマルズの方がバンドとしてはうまい。
 当時、イギリスに300以上あるといわれたビート・グループの一つで、ビートルズからもらった曲「アイ・ウォナ・ビ・ユア・マン」を二枚目シングルのA面にするなど、弟分的な存在だった。
 デビュー当時のミックは身体の使い方も悪く、音程も不安定だったが、妙に人を惹きつけるところがあった。
 マネージャーとなったアンドリュー・オールダムはビートルズをオーディションで落として悔しがっていたデッカにストーンズを売り込んだ。優等生イメージで売り出したビートルズに対抗してワルのイメージで売った。
 実際はビートルズだって、当時テディ・ボーイと呼ばれた不良少年で、大した違いはなかったが、何でもセットでライバルとしてマスコミに取り上げてもらった方が都合がよい。
 さらに、レノン=マッカートニーに対抗して、アンドリューはジャガー=リチャーズとして作詞作曲させたが、これがまんまと成功してしまった。
 面白くないのはブライアンである。彼は音程は正確だったといわれているが、人前で歌わない。ブルース時代の作曲というのはリフをいじくる程度のことで、それは得意だったが、詞を書けない。
 ステージでも少し離れた立場でシニカルに参加している。三人が前で歌っているのに、彼はいつでも逃げ出せるポジションを確保しているかのようだ。実は、常に喘息の発作が起きることを怖れていた。
 フロントマンのミックが脚光を浴びる。彼はインタビューの受け答えもそつがなくて気を惹く。聡明でどこまでも上昇志向だった。すぐに、ビートルズに対抗するスーパー・グループの地位を築いた。
 キースは世界一のぶきっちょギタリストという独特の地位を築いたが、ブライアンは単に先駆者であるというだけで終わってしまうきらいがある。
 イギリスの音楽は、本場ではないのでアメリカ黒人音楽のコピーをするという意識だった。ジャズ・バンドがクラブで演奏していた時代から、リズム・アンド・ブルースのグループがその仕事を奪っていくように移り変わっても、黒人の代用品としてイギリス人が演奏するという意味では同じだ。ブライアン・ジョーンズはその時代の寵児だった。
 しかし、時代は「ロック」になってしまった。黒人音楽をベースにしながらも表現の幅を広げた。臆病な彼は、いち早くそれを感じ取っていたのか、様々な民族楽器にチャレンジしてブルース以外の可能性を求める。彼がシタールを演奏した「ペイント・イット・ブラック」はストーンズの暗い魅力に満ちた傑作だ。ストーンズ内で彼なりのポジションを求めてのものだったのかもしれない。
 ビートルズのようにさまざまな音を持ち込んだのは彼だったが、ストーンズのビートルズ化(より正確にはジャガー=リチャーズの曲を演奏すること)には反対で、初期のリズム・アンド・ブルースのグループを続けたがっていた。  
  モンタレー・ポップ・フェスティバルにエキゾチックなファッションで現れ、ラヴィ・シャンカルの演奏に感銘し、ストーンしながら客として楽しんでいた。
 最後の頃は、レコーディングに顔を出したりすっぽかしたりの厄介者になっていた。来てもギターを抱えたまま寝っ転がっていたり、かと思うと、突如、素晴らしいアイデアを持ってきて思いもよらない楽器を演奏したり。
 酩酊しているとかストーンしているというよりは、もはや、憔悴しきった抑鬱状態に陥っていた。頭が痛い歯が痛いといっては鎮痛剤、マンドラックスを服用し、落ち着くまもなく覚醒剤のアンフェタミンをやっていたのだろう。
 依存心が強く受動的な彼は、結局は大人になりきれていなかったということだ。「くまのプーさん」の作家A.A.ミルンの家を買った。自分の城を築ければよかったのだが、出来なかった。誰か他の人が作った夢の世界に入りたかった。ポップ・スターという夢の世界からはじき出された代わりに。
 商業的に突っ走るストーンズを止めて、新たにブルース・バンドのようなのものを起こそうとも思っていたが、世界的に転がる石の特急列車から下車する決心は付けられなかった。飛び降りたら大けがをするのが恐い。逃げ出したい、抜けられないというどん詰まりの状況にいた。
 ヤードバーズ時代のエリック・クラプトンを誘ったこともある。当時はグループから独立してソロでやる形態は考えられなかった。後に、ミルンの家にジョン・メイオールやミッチ・ミッチェルらを誘って、セッションを続けていた。
 亡くなる数週間前は、アレクシス・コーナーと新しいバンドの構想について楽しそうに語って相談していた。当時、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルがお気に入りだったという。
 ちょっと躁状態になったのか、ジョン・レノン、ジミ・ヘンドリックスやジェフ・ベックにも話を持ちかけていた。実際、録音時期は不明だが、最近、発売されたジミヘンの「Axis Outtakes」の「Little One」にシタールで参加している。
 ミルンの家にはプールがあり、幸か不幸かブライアンは泳ぎが得意だった。アルコールを痛飲し、アンフェタミンなどを服用しながら泳いだ。肝臓も心臓も弱って肥大していた。思わぬ事故で溺死してしまった。1969年7月3日死亡。
 アメリカ公演に耐えられないと判断してブライアンの首を切り、代わりにミック・テイラーを入れ、7月5日ハイドパークで予定されていた公演を、急遽、追悼公演と銘打って強行した。
 皆に惜しまれつつ、人生において最大の注目を浴びた。彼のブルースに掛ける情熱を何らかの形で実らせてあげたかった。無頼庵古巣上手居士、安らかに眠れ。

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サイケデリック編4/クリームということ、クラプトンというヤツ

 ヤードバーズという伝説的なグループがある。三大ギタリストを生んだといわれる。もともとは、ストーンズやアニマルズのようなリズム・アンド・ブルースのグループだった。 優男でファッショナブルなエリック・クラプトンはクラブで注目を集めていた。63年10月、ヤードバーズに参加する。チャック・ベリー風のギターを弾いていたりするが、チャック・ベリーならジョージ・ハリソンの方が上手いぜという感じだった。
 ジョルジョ・ゴメルスキーの経営するクロウダディ・クラブにストーンズの後釜としてヤードバーズが入った。ヴォーカルのキース・レルフより「スローハンド」の異名をとるギタリストに注目が集まり、順調に出世していった。
 しかし、「フォー・ユア・ラブ」でコマーシャルに走ったとして、クラプトンはヤードバーズを去る。彼はポップ・スターになんぞなりたくなく、生涯一ギタリストが望みだったのかもしれない。実は、商業主義は嫌いでも、常に、注目を浴びていたかったのだが。たとえギターを弾いていないときでも……。
 「フォー・ユア・ラブ」は佳作だ。今から考えると「ロック」の先駆けで、決して間違っていたわけではない。周知のようにクラプトンの後釜のギタリストとしてジェフ・ベック、ジミー・ペイジが入り伝説となる。
 アレクシス・コーナーはイギリス中のクラブを回って、面白い若者を引っ張り上げた。マンチェスターで見いだし、ロンドンに呼び出したのジョン・メイオール。ブリティッシュ・ブルースの父といわれる。
 彼は膨大なブルースのレコードのコレクションでも知られる。ブルース研究家が歌って演奏もしたという感じだ。1963年、後にフリートウッド・マックを結成するジョン・マクヴィーらとともにブルースブレイカーズの活動を開始する。
 65年にヤードバーズから飛び出したクラプトンを迎えるとはまってしまった。「ブルース・ブレーカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン」は、全英でトップ10に入るヒット・アルバムとなった。それまで、ブルースは売れないというのが定説だった。
 ここでオーティス・ラッシュの「オール・ユア・ラブ」やフレディ・キングの「ハイダウェイ」がいち早くカバーされるという、ブルース名曲集だった。B.B.キング流にチョーキング、あるいはスクイーズと呼ばれるギターの弦を引っ張り、絶妙のタイミングでビブラートをかける。ギター・キッズの教則本となった。
 後に、B.B.キングが彼のことを恋人のように思うと語ったが、女にも男にも愛された。繊細で、静かではあるがちょっと気難しい。エリック・クラプトンは神であるとまでいわれた。世界中のギタリストがコピーして、これより後、クラプトンのように弾くギタリストが輩出した。
 しかし、メイオールのブルース研究会でこの手本レコードを出すと、さっさとおさらばする。これくらいならすぐに出来るぜ、こんな連中とはずっと一緒にやってられないと思ったか。時々、バンドの仕事をずらかり、マーキーでスペンサー・デイヴィス・グループにいたスティーヴ・ウインウッドとジャムをやっていた。
 メイオールのバンドにいた時に、腕利きのスティーヴ・ウインウッド、ジャック・ブルース、ポール・ジョーンズらとセッション・バンド、パワーハウスを作り、「クロスロード」などのブルースをレコーディングしている。何を目指していたのだろう。
 本家の「ハイダウェイ」よりクラプトン版の方が良いという意見があるが、それは誤解だ。フレディ・キングは「ハイダウェイ」をダンス用リフ集成として弾いている。そこでインプロヴィゼーションを行う気はない。
 クラプトンは観賞用の音楽としてメロディアスな即興パートを付けている。同じ曲をやっても大リーグのベースボールと野球の差がある。フレディ・キングの投げるタマはドライブがかかって重い。クラプトンは星飛雄馬のように軽い。
 また、ハウリング・ウルフの相棒ヒューバート・サムリンの「スプーンフル」などのフレーズをなぞることはできても、そのノリと気合いは再現できない。そこに気が付くと恐くてブルースが弾けなくなる。あるいは、クリームに逃げたのか、結果的にブルースからロックへという筋道がつくことになるが。

その場限り

 エリック・クラプトンはもちろんのこと、ジャック・ブルースもジンジャー・ベイカーも生きているのに再結成の話を聞かないのが凄い。みんな、お金が欲しくなって、図々しくも昔の名前で出てくるのに。
 というか、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーは折り合いが悪く、グラハム・ボンドのバンドにいたときはステージ上で取っ組み合いの喧嘩をした。ベイカーがスティックを投げつけるとブルースはダブル・ベースを放り投げるというすさまじいものだった。
 実質的にバンドを仕切っていたベイカーがブルースを追い出した。お互いに相手の音がやかましいと思っている。だからこそ三人のバンド、クリームが成立したのだが。
 クラプトンもジャック・ブルースも在籍していた時のブルースブレイカーズが66年4月にフラミンゴ・クラブで収録した『プライマル・ソロズ』における「ハヴ・ユー・エヴァー・ラブド・ア・ウーマン」は優れている。
 この曲でまだ、ブルースはフェンダーの6弦ベースをゆったりと弾いているが、同じセッションの「フーチー・クーチー・マン」になるとブルース独特のベースのうなり節が聞こえてくるから面白い。多分、メイオールは怒っただろうが、これがクラプトンをかき立てる。
 ある時、ブルースとクラプトンはつるんでクラブに出かけジャム・セッションに参加した。たまたまその小屋でドラムを叩いていたのがベイカーだった。過去のいきさつを忘れて二人は、いや三人はセッションを心ゆくまで楽しんだ。
 やがて、ベイカーからクラプトンに電話が入った。バンドを結成しよう。クラプトンは二人の確執を知ってか知らずか、ジャック・ブルースを入れるならいいよと返事をした。当時のブルースは結婚したばかりであってブルースブレイカーズでは食えないので、人気グループのマンフレッドマンに移ったところだったが、ダブル・クロッシングをする。
 ま、ベイカーと一緒でもいいかと、空前絶後のクリームということが起きた。その後は毎日、喧嘩の連続で間に割って入るクラプトンは心を痛めた。おいおい、自分で言いだしたことだろうが。
 ライブ・アルバムもまさに、喧嘩腰でインプロヴィゼーションを繰り広げている。海賊版のライブを聴いてみたら、ただの喧嘩になってしまってひどい演奏のものがあった。すぐにドラッグ漬けでヘロヘロになっていた。「フェアウェル・コンサート」も良くはない。クラプトンの手は動くものの、目はうつろで立ち姿に力がない。
 編集も上手いのだろうが「クリームの素晴らしき世界」は、本当に最高の瞬間を捉えたライブ・アルバムだ。ジャズ評論家の油井正一がこのアルバムを評して「下手なジャズより面白い」といったことを今でも覚えているが、ベイカーもブルースも元はジャズだった。 当時、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのモード奏法がロックの世界にも取り入れられてきたところだった。モード奏法もシタールの奏でるラーガの影響を受けているのだろう。薬をやってだらだらとという雰囲気に合っていた。フリー・ジャズとまではいかないが、ロックでこれ以上の即興の自由を獲得したことはない
 スタジオ録音はよくいえば実験的、いろいろとまぜこぜのところがあるが、デビュー・アルバム「フレッシュ・クリーム」、二枚目の「カラフル・クリーム」でロックを確立する。クラプトンのロック・ギターはここで完成しちゃっている。困ったもんだ。これじゃ、後のギタリストはみんなクラプトンの替わりだぜ。
 クリームは1966年7月3日、土砂降りの雨の中、ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルで正式デビューする。7月3日はロックの特異日だ。1969年にブライアン・ジョーンズが死んで、1971年にはジム・モリソンが死んでいる。
 クリームはジャック・ブルースのコンセプトで組み立て、詩人ピート・ブラウンと共にクリームの代表曲を作曲した。ブルースはクラシック畑の出身でチェロを学んだが、ジャズ・ピアノもうまい。やはり、インド音楽に興味を持って、ザーキル・フセインのタブラとも共演している。
 ベイカーは後にアフリカ音楽に取り組む。こいつは面白いヤツで打倒エルビン・ジョーンズを目指すイギリス一、二のジャズ・ドラマーだった。年長の彼は彼でクリームを作ったのは自分だと思っているだろう。
 強引に物事を進めるブルースに反発する。クリームの解散後、一時休戦して1989年、ブルースの「クエスチョン・オブ・タイム」で2曲参加している。彼のビートはやはりジャズではなくロックだ。後のヘヴィー・メタルなどにも影響が大きいロック・ドラムの確立者だ。
 ピート・ブラウンとジャック・ブルースの曲でブルースが絶叫し、ベイカーが鋭くタイムを刻み始めると、「あ、これはクリームだ」と思う。逆にいうと、ギターならその都度替わりがいる。

トラウマ

 クラプトンは自分が一番注目を集めるスターだと思っている。しかし、ライブで演奏を始めると、コード進行はベースが規定して、リズムはドラムが支配する。ソロを取っていてもバックの二人がバックではなくなってしまい、いつの間にか喧嘩を始めて割り込んでくる。ギタリストであるというのがクラプトンのトラウマなのだ。
 ことギターに関しては万能だけれど自己プロデュース力に欠けている。行き先が分からない。腕に覚えがあっても自分に自信がない。2年4ヶ月を全力疾走したツケは大きかった。もっとも、クリーム後遺症は彼だけではないが。
 マネージャーのロバート・スティグウッドはライブでひたすら稼ぎたかった。休みながらやればもっと続いたという意見もあるが、クリームというグループ自体も死に急いだ。
 解散後にクラプトンとベイカーはウインウッドを誘ってブラインド・フェイスを結成する。決して出来は悪くないのだが、クリームのイメージで追いかける者は失望した。今でいう癒し系である。おそらくクラプトンにとってその時必要な音楽をウィンウッドがプロデュースしたんじゃないかと思うが、まだ、立ち直れない。
 アメリカできついツアーをしなければならなかった。クリームのようなアップ系のバトルを期待した客にダウン系の音楽を提供しても収まらない。プロデュース側は大儲けを狙って大会場を押さえたが、PAが十分でなく暴動まで起きる騒ぎとなった。「キャント・ファインド・マイ・ウェイ・ホーム」、クラプトンには帰る家がなかった。
 クラプトンはドラッグにアルコールに女にチョコレートに?時にはテトリスにはまりと、常に、何かに依存する。16歳の娘の私生児として生まれ、祖母に自分の子として育てられた。2歳で母と別れる。満たされない気持ちが心の底に残っているのだろうか。
 母が実家に帰ったときも甘えることは出来ず、姉として受け入れなければならなかった。回りの様子を伺って、ことを起こさないようにする。
 彼自身も私生児を産ませ、また、その子が事故死する。連絡を受けて現場に駆けつけても、彼は恐くて顔を会わせることができず、そのまま帰ってしまった。40年前の自分の死に出会ったような気がしたのだろうか。また、沈む。
 さすがに答えたのだろう。ようやくこれを契機として生まれ変わることが出来た。しかし、自分の子供の死をプロモーションに使うなよ。やっぱり、芸能人だなあなどと突っ込みを入れたくなる。
 彼が沈むたびに、こいつは才能があっていいヤツだから、みんなで助けてあげなくちゃいけないと回りが騒いでくれる。かわいそうなエリック坊やをみんなでかまってちょうだいというキャラだ。
 たびたび自分に引き戻してくれたのは音楽的ルーツのブルースだった。ロックは常にブルースと出合うことで再生する。
 アレクシス・コーナーはブルージーなジャズを目指し、そのルーツを研究するためにブルースを試みた。クラプトンもアコースティック・ライブをやり、古いブルースの完全コピーをやって力みが抜け、全身を上手く使って歌えるようになった。最近のバック・バンドは、クラプトンがいなくても成立するくらいの名人揃いだ。大人のジャズだな。うんと楽できる。
 「大人のジャズ」にはつまらない音楽という意味もある。もっと、とんがっていなきゃロックじゃないという向きも少なくない。しかし、やっと枯れてきて着地点を見つけたクラプトン。「オーバー・ザ・レインボー」を歌ってもクラプトンのブルースになっていると思うよ。
  クリームは68年11月25、26日にロイヤル・アルバート・ホールで解散コンサートを行った。ロック界に切り込んでくるのも早ければ、去っていくのも早かったが、その後十年以上もクリームは隠れキャラとして君臨していた。
 疲れ果てて分解した絡繰院彩華大願信士よ、クリームの野望は実現したのかしないのか。一体、それは何だったのか。バンドの面々は最強だったけれど、バンドとしては最強ではなかったかもしれない。ともかく、クリームは腐りやすかった。

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サイケデリック編5/しみじみジョージは偉大なるフツーの人

 おとなしいビートル、末弟と称されるジョージ・ハリソン。1943年生、実生活でも四人兄妹の末っ子だった。決して生活が楽だったわけではないが、親との死別や離婚もなく平穏に育った。ジョン・レノンほどのテディ・ボーイではないが、若い時分にはそれなりのやんちゃもした。
 彼が一番ビートルズというカリスマと生身の自分のギャップに悩んでいたのかもしれない。1966年8月に最後のライブを終えると「もう、ビートルズのふりをしなくていいんだ」と喜んだ。
 「ヒヤ・カムズ・ザ・サン」「サムシング」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「マイ・スイート・ロード」など多くのアーティストにカバーされている。皆に愛されるキャラだった。ほのぼの、へろへろ、ふにゃふにゃ、ほんわか。ハ行の人だ。ユーモアのセンス、文才も知られていた。
 が、出遅れたビートルズというか、リンゴも映画などで俳優として異彩を放つなか、一番目立たなかった。
 ビートルズのなかではポールが一番ギターが上手いという説もあり、結成当時、ジョンとポールは年少のジョージにベーシストをやらせようとしていた。レコーディングでポールにリードギターの役を譲ることもあった。

一周忌コンサート
 「コンサート・フォー・ジョージ」というDVDを買った。盟友エリック・クラプトンが音楽監督を務め、ゆかりのミュージシャンとモンティ・パイソンを呼んだ。トリビュートとはちょっと違うかもしれないが、「バンクラディッシュ・コンサート」のようなライブ・エイドを手がけたのも彼の功績である。お人柄ゆえにといつもいわれる。
 ご存じのように最初の妻パティをクラプトンに譲っている。いや、奪われたのかその辺のことはよく知らないが、相当苦しんだことだろう。日本の文人の間にも友情や信頼の証に同性愛関係になったり、愛人を共有したり、妻を譲ったりということがあったようだが、欧米のミュージシャンの間でも珍しいことではない。
 「コンサート・フォー・ジョージ」はサンスクリット語の聖句が唱えられるなか、妻オリヴィア・ハリソンの献灯で始まる。クラプトンのMCに続いてラヴィ・シャンカルが登場し、娘のアヌーシュカ・シャンカルがシタールを弾く。
 東洋趣味というのか、最初にインドに注目したのはビートニクのジョンなんだろう。LSD体験と神秘思想が不可分の関係にあった。皆でマハリシ・マヘシ・ヨギのキャンプに出かけたものの、どうもヨーガと瞑想の師はビートルズが一緒に連れて行った美人の方に興味があり、ミア・ファーロウに手を出して総スカンを食う。「ア・フール・オン・ザ・ヒル」とは彼のことだといわれてしまう。
 その後、ジョージはクリシュナ意識を唱えるISCONに多額の寄付を行っている。欲の素になりかねない金銭は寄付した方が良いと考えている。また、死んだら灰にしてガンジス河に流してくれと遺言し、実行されたようだ。「マイ・スイート・ロード」のライブなどを聞くと、本気でインドの神々に呼びかけているように聞こえる。
 当時、サンタナもスリ・チンモイに私淑するなどインド・ブームがあった。さすがに、サンタナはシタールを弾かなかったかもしれないが、ジョージが「ノルウェジアン・ウッド」で弾いてこの楽器は一躍有名になった。「ウイズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」でタブラーを聞いて、生き物みたいな音のする何と不思議な打楽器だと思った。
 このコンサート、ウクレレで弾き始めて「サムシング」を歌うポールもいい。それにクラプトンが加わるのだからたまらない。
 強いていうとギタリスト特有の放り投げるような歌い方が共通するので「ホワイル・マイ・ギター」などクラプトンが歌っても違和感はない。ここでのギターはむせび泣いている。これがジョージ・ハリソンの気持ちなのか。
 映画「ヘルプ」のインド料理屋のシーンにエキストラで出ていたインド人音楽家の演奏を聴いて、興味を持った。また、そのロケ中にデーヴァーナンダ師に出会ったのがインドとの縁である。
 日本公演の後、南回りのロンドン行きはインドでストップ・オーヴァーするので、4日間滞在してシタールを求めた。デリーでも、ビートルズ、ビートルズと追いかけられて驚いたという。後にラヴィ・シャンカルに師事し、毎日、何時間も練習した。
 「コンサート・フォー・ジョージ」にジョージが出ていないのは、当然のことでありながら不満ではあるが、彼の息子の顔が生き写しなので許せてしまう。インド音楽のドレミファソラシド、サリガマパダニサのダ(ラ)と二(シ)をとってダニーだそうだ。リンゴ・スターも久々にジョージと共演するかのように楽しそうだ。
 ジョージはそれほど個性が強くないためか歌もカバーしやすいのだと思うが、しみじみとジョージしたコンサートで悪くない。扇の要はもちろんクラプトンなんだけれど、気に入ったのはビリー・プレストンの歌う「マイ・スイート・ロード」だ。彼の顔がまるでインド人に見えてしまう。もともと彼が即興で歌ったものをジョージが整えたというが、ベースにはゴスペルがある。
 実はこの曲はシフォンズの「ヒー・イズ・ソー・ファイン」という曲によく似ている。古いガールズR&Bの好きなビートルズがこの曲を知らないわけがないので注意すべきだったが、おそらく、薬漬けでボーッとしていたのだろう。この訴訟でジョージはずいぶん苦しむことになる。音楽は好きだけれど業界は嫌いなんだ。

ライブ・イン・ジャパン
 ソロになってから74年の北米ツアーでぼろくそにいわれて、ジョージはライブ恐怖症になっていたが、91年12月、クラプトンが励まして日本に連れてきた。日本の客なら温かく迎えてくれるよと。クラプトンがぼろぼろだった時代にジョージが励ましてくれたお礼でもある。
 また逆に、その年の3月、息子を事故でなくしたクラプトンにカツを入れたいと思ったのかもしれない。「ライブ・イン・ジャパン」は彼の名曲集をライブで聞ける唯一の盤だ。
 最近、輸入盤でジョージのボックス・セットが出たので買った。なかなか再発されなかったダークホース時代のアルバムも含めて6枚、さらにおまけのDVDが付いている。
 ダークホースとはジョージ自身のことだ。そして7つの頭を持つレーベルのデザインは、太陽神スーリヤが7頭立ての馬車で引かれるという神話に基づくものと思われる。
 この中に何曲か「ライブ・イン・ジャパン」のお宝映像が収録されている。こんなものがあるんなら、何でいままで出なかったんだ!?と思うくらい品質も良いものだ。
 特に、ジョージが弾くスライド・ギターの映像というのを初めて見るような気がするが、これは貴重でとっても興味深かった。
 ご存じのように?彼は決して歌がうまくない。不安定である。彼のスライド・ギターもその曖昧な音程を上下していてそっくりなんだ。
 歌のヴォイシングと操る楽器のフレーズが似ているというのは定説だが、彼の場合は典型的で、スライドこそ彼の楽器、肉声だった。突き刺すようなスライドは凄くいい。彼の叫びだ。何を叫びたかったんだろうか。
 そして、もっと面白かったのが彼の身体の動きである。なんか、一所懸命たどたどしく、でもうれしそうにスライド・ギターを弾く。そして、「タックスマン」では楽しそうに肩を揺らすのだが、その下半身の動きをも含めて、はっきりいうとロックのグルーブじゃないんだ。とっても素人っぽい。でも、そこがなんかフツーの人ジョージという感じがして愛しい。
 それに対してクラプトンの立ち方はピシッとしているし、後ろに一歩下がって控えているのが好ましい。師の後に三歩下がって影を踏まずといった佇まいである。彼はジョージの気持ちになって替わりにギターを弾いている。
 本来、彼はクリーム時代みたいに自分が自分がでしゃばってギンギン弾くよりも、渋いバイ・プレイヤーという役が好きなようで、バックに回ったときの名演奏が数多くある。彼は彼で、自分の思わぬ側面がその時々で触発され出てくるのを楽しみにしていたのではないか。インド音楽のオーケストラに加わっても、ちゃんとそれなりの仕事をしている。
 さて、ジョージだ。インド音楽風のアルバムも出しているし、喉頭癌のため晩年は声のコンディションも悪かった。1970年「オール・シングス・マスト・パス」がしみじみとジョージ、ジョージした傑作だ。ダークホース時代のものも悪くはないが、より一本調子だ。
 なんとなくおまけで付いてくるビートルズという役回りだったけれど、結果的には才能を開花させて少なからずの名曲、名盤を残している。
 フツーの人でもここまでなれるんじゃないかなんて錯覚させるのがジョージの凄いところだ。誰もジョージになれやしないよ。晩年は渋い男の容貌になった。やや短かったけれどいい人生を送った証だ。
 2001年11月19日、58歳で亡くなる。肺癌の手術をし、最後は脳腫瘍だったともいわれる。成就院楽術達成居士。静かなビートルよ、やっと静かに眠れるぞ。
                                                                    04/03/29



サイケデリック編6 みんなまとめて時代は変わる'65-'67

伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンを引っ張り出そうとしたのは、偉大なプロデューサー、ジョン・ヘンリー・ハモンドだった。
 カウント・ベイシーやベニー・グッドマンらの大御所と共に『フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング』のコンサートに招くつもりでいたが、返ってきた返事は、彼はすでに死んだというものだった。
 ロバート・ジョンソンに夢中になったのは、むしろその息子、ジョン・ポール・ハモンドだった。実は幼いうちに両親は離婚しているのだが、その影響は絶大である。アメリカの初期のフォーク・シーンで活躍し、ヴィレッジ・ゲイトやヴィレッジ・ヴァンガードにも出演し、自らギターを持ってフォーク・ブルースを歌った。  
 フォーク・シーンの中ではいち早く、エレキ・ギターを導入した。三作目の『ソー・メニー・ローズ』(1965年)には面白いメンバーが参加している。ザ・ホークスのギタリスト、ロビー・ロバートソンとドラムのレヴォン・ヘルムだ。
 後にボブ・ディランのバックを勤め、独立してからはザ・バンドとして知られている。
 さらに、面白いのはマイク・ブルームフィールドがハモンドのアルバムにピアノで参加していることだ。二人は1960年にすでにシカゴ大学のブルース・フェスティバルで出会っている。
 ジョン・ハモンドはカフェ・オ・ゴー・ゴーにジミー・ジェイムスと一ヶ月間、一緒に出演していた。ジミ・ヘンドリックスのことである。
 『ジミ・ヘンドリックスの伝説』(晶文社)によると、ハモンドが出演していたグリニッチ・ヴィレッジのカフェ、ガスライトの筋向かいにあるカフェ・ホワッ?にジミヘンが出ていた。
 聞きに行くと、彼のアルバム『ソー・メニー・ローズ』から何曲かとってロビー・ロバートソンのパートを演奏していたという。1966年のことだ。ちなみに、1961年、「上京」してきたボブ・ディランはこの二つの店に出演している。
 ジミヘンはハモンドに会えて感激し、さらに「仕事をくれ!」と叫んだという。それで、格上のカフェ・オ・ゴー・ゴーを紹介し、自らバックを勤めたというから、面倒見のいいやつだ。
 ジミー・ジェイムスのバンドにはアル・クーパー、バリー・ゴールドバーグ、ランディ・カルフォルニアが参加することもあったが、はっきりいってくすぶっていた。
その頃、元アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーが、「ヘイ・ジョー」を歌っている彼を発見し、ジミヘンはイギリスに渡る。デビュー・シングル「ヘイ・ジョー」はその年の12月だ。

ディランの夏から始まった
 1965年を引っ張っていったのはボブ・ディランだ。ディランの曲「ミスター・タンブリンマン」はバーズでヒットした。アルバム『追憶のハイウェイ'61』を発表し、その中に「ライク・ア・ローリングストーン」が収録されている。フォーク・ロックの誕生である。そのレコーディングにマイク・ブルームフィールド、アル・クーパーが参加している。 それらをひっさげて、同年7月25日、ディランはニューポート・フォーク・フェスティバルに出演する。このフェスティバルではジョーン・バエズがスターだった。ディランはフォークのプリンスという位置づけだ。重鎮のピート・シーガーやピーター・ポール・アンド・マリーなどが出演するほか、「再発見」されたブルースメンも、毎年、参加していた。
 ブルースまでは日本に入ってこなかったが、日本でもフォーク・ブームが起きて森山良子がアイドルだった。学園祭でもフォークだらけだったな。ほんとに一世代半前の話だ。
 65年、マイクもポール・バタフィールドのメンバーとして参加していたので、ディランはバタフィールド・ブルース・バンドから黒人のリズム・セクション、ジェローム・アーノルド(ベース)とサム・レイ(ドラム)を借りて、さらにアル・クーパー(オルガン)、バリー・ゴールドバーグ(ピアノ)を加えてバックに付ける。
 ちなみに、ジェローム・アーノルドとサム・レイはハウリング・ウルフのバンドからお金で引っ張ってきた。当時としては珍しい、黒人と一緒にやる白人のバンドだった。
 ディランは当時、いつも、マイク・ブルームフィールドのことを、「世界一のギタリストを紹介しよう」といって紹介していた。確かに当時、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスの一歩先を走り、二人からも尊敬されていた。ツアーに連れて行くつもりだったが、マイクはバタフィールド・ブルース・バンドを優先した。
 後にディランのバックをザ・バンドが勤めるようになると、今度はロビー・ロハートソンを世界一のギタリストといって紹介していると聞いて、マイクは途端にディランを嫌いになったという。
 マイクこそブルース・ギター一筋なのだろうか。のめり込んでいる。フェスティバルの映像ではすごい猫背で鋭いギターを弾いている。歌には苦手意識を持っていて、滅多に歌わない。それで、一般衆には受けが悪いのかな。
 『フィルモアの奇蹟』では何曲か歌っているが、子供の時から好んで歌ってたと思われる、アーサー・クルダップの「ザッツ・オールライ・ママ」とか「アイ・ワンダー・フー」とかレイ・チャールズの曲だ。ぶっつけ本番で知ってる曲を歌ったらしい。レイ・チャールズも亡くなったばかりだ。合掌。
 ちなみに、アーサー・クルダップは、昔はロバート・ジョンソンばりのギタリストで、次第にバンド・スタイルに移っていく。もし、ロバート・ジョンソンが生きていたら、やはりエレキを手にとって元祖ロックをやっただろうなあと思う。
 マイクは不眠症で悩んだことが伝えられているが、こういう猫背の人には鬱病傾向がある。
 彼の評判を聞きつけ、毎回、ステージには有名無名のギタリストが最前列に座り、彼の指の動きを見るようになる。それがいやで、後ろを向いて演奏した。クラプトンにもそんな逸話があるな。音響的な理由もあるのだろう。スターにはなりたくなかった。
 でも、マイクは裏クラプトンじゃないぞ。なんといっても「先輩」なんだからな。ほんの数ヶ月だけど。イギリスのブルース・シーンは仮免でブルースを演っていたようなものだ。ヤードバーズがソニー・ボーイ・ウィリアムソンの伴奏をしたときには、彼にバカにされたが、同じ頃、マイクやバタフィールドはシカゴのクラブでジャムっていた。
 ソニー・ボーイはその後、ホークスをバックに付けて演奏したが、その際、イギリスの連中はブルース好きだが、下手だったと言ったのをクラプトンは伝え聞きしたようだ。
 その時から、クラプトンは「本場の人」ロビー・ロバートソンをうらやましがっていた。
 クリームは67年アメリカに上陸し、8月にはフィルモアでバタフィールド・ブルース・バンド、マイク・ブルームフィールド率いるエレクトリック・フラッグ(ドラムは後にジミヘンとバンド・オブ・ジプシーズを結成するバディ・マイルス)と共演する。その他のバンドはたいしたことないなとクラプトンは思った。
 ジェファーソンもデッドもだめだってさ。ロックの殿堂フィルモアを経営していたビル・グラハムの貢献度は高い。
 ちなみに、66年にはマニアに珍重されるオムニバス・アルバムがエレクトラから発売されている。『ホワッツ・シェイキン』だ。なんといっても、クリーム結成直前のジャック・ブルースとクラプトンが共演し、その「クロスロード」でリード・ヴォーカルを務めたのはスティーヴ・ウィンウッドなのだ。
 バタフィールド・ブルース・バンドが「スプーンフル」を演奏し、アル・クーパーは後にブルース・プロジェクトでヒットさせる「アイ・キャント・キープ・フロム・クライン」を歌っている。さらにジョン・セバスチャン率いるラヴィン・スプーンフルも参加している。
 ラヴィン・スプーンフルは65年のデビュー。セバスチャンもギターのザル・ヤノフスキーも44年生で、マイクと同い年だ。
 64年には同じエレクトラから『ザ・ブルース・プロジェクト』というアルバムが出ていて、セバスチャンはダニー・カルブのバックでブルース・ハープを吹いている。
 65年11月にはアル・クーパーもブルース・プロジェクトに参加するのだが、ダニー・カルブに追い出されて、スティーヴ・カッツと共にブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを結成し、68年2月に『子供は人類の父である』を発表するのが、ここでもまたすぐに追い出されてしまう。
 ブラス・ロックの父であった。ここにはジャズ界の大物となった若き日のランディ・ブレッカーも参加している。ちなみに、同じ時期バタフィールド・ブルース・バンドを止めたマイクも、エレクトリック・フラッグで、ホーンを加える。マイクの去ったバタフィールド・ブルース・バンドもまたデイヴィッド・サンボーンらを迎えジャージーな方向に向かったから面白い。

埋没する男
 マイク・ブルームフィールド(1944年7月28日生)の生い立ちについてはあまり記述が見られない。厨房器具を製造する会社の社長の息子だがドロップアウトした。大金持ちの息子というのもトラウマなのだろうか。
 ハイスクールの頃はワルだったというが、インタビューなどの話しぶりからは純朴な青年のように思える。父親は厳しく、マイクには自分のようなビジネスマンになってほしかった。そのため、何回もギターを叩き壊したりしたそうだ。
 彼の最初のアイドルは、エルビス・プレスリー、その伴奏ギタリストのスコッティ・ムーアだった。彼の家の黒人メイドがシカゴのラジオ放送局、ヴォイス・オブ・ニグロを聴いていたので、次第に黒人音楽に惹かれるようになる。
 15歳のガキの頃から黒人のクラブに入り浸って、直接、大物ブルースマンから教えを受けている。62年にマイクはハモンドをつれてクラブに行き、マディ・ウォーターズを紹介する。のみならず、マディは客席にいたマイクを呼び上げて、一緒にセッションを始めたので、ハモンドはぶったまげた。そんなことは彼が17歳の頃からやっていたことなのだが。
 バタフィールド・バンドで同僚のエルヴィン・ビショップはオクラハマ州タルサの農場の出身、ブキッチョなギタリストだが骨太で大地に根ざした強さがある。より南部的で、R&B系に接近した。
 そんな境遇にあって、ブルースばかりか、マイクはお決まりで薬、ヘロインにはまってしまう。魂を悪魔に売り渡してしまった。大嫌いなお金を最もくだらないことにつぎ込むのが父親への反逆だったのだろうか。
 ブルース一筋かと思うと、66年発売の二枚目のアルバム『イースト・ウエスト』ではラヴィ・シャンカルのインド音楽やジャズのモード奏法の影響を受け、延々とアドリブを繰り広げる。
 これは、クリームが「スプーンフル」なんかをライブでやる前で、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアなんかにも影響を与えている。マイクはまるで作曲するかのように練習しながらフレーズを考え抜くので、長尺物に関しては、クラプトンやジミヘンより一日の長がある。もともと、ブルースの伝統の中でソロは間奏であって、長いアドリブはなかった。
 アルバムでの「イースト・ウエスト」や「ワーク・ソング」は緊張感があって構成がよくまとまっている。後に発表されたライブ録音の「イースト・ウエスト」三連発はダラダラしていて眠くなる。これは実は、薬をやったときの気分にピッタリで気持ちよくなるそうだ。時代の精神を常に先取りしていた。
 バンドのメンバーで角砂糖にのせたLSDを決めた翌朝のめちゃくちゃ早い時間、マイクが「インド音楽の神髄を極めた!」とマーク・ナフタリン(キーボード)のところにきて叫び、その後、各パートを練り上げて作ったワン・コードの「オリエンタル」な曲だ。この曲はロックの歴史を変えた。
 これは、シカゴ・ブルース・オンリーのバタフィールドが志向するものと違っていたのだろう。そして、バタフィールド自身は見るからに気むずかしそうな顔をしているが、暴君であってステージ上でメンバーを引っぱたくこともあった。
 後には彼自身も純粋なシカゴ・ブルースから離れていくのだが、エイモス・ギャレット、バジー・フェイトンという通好みのギタリストを発掘してバンドに入れた名伯楽でもある。
 アルバム『イースト・ウエスト』の後、マイクは脱退してエレクトリック・フラッグを結成し、アメリカン・ミュージックを称する。
 フラッグが解散すると、やはりBS&Tを止めたばかりのアル・クーパーと『スーパー・セッション』を行い、68年に発表。この時、レコーディング・セッションにマイクが現れず、連絡が取れなくなった。連絡しまくって、ようやくスティーブ・スティルスを捕まえ参加させる。
 そのライブ版である『フィルモアの奇蹟』でも、本番前に不眠症でダウンし病院に担ぎ込まれ、代役としてカルロス・サンタナがデビューする。
 サンタナもマイクの信奉者だった。当時は自分のスタイルを確立する前、しかし、ビル・グラハムのお気に入りで、いつも、他のバンドがすっぽかしたとき、穴埋めで演奏していた。
 マディ・ウォーターズ、オーティス・スパン(彼には息子のように可愛がってもらったらしい)というブルース界の大物と共演して『ファーサーズ・アンド・サンズ』を発表したのは69年。どちらのアルバム・タイトルも普通名詞として定着した。まさに、先駆者として駆け抜けた。
 その後、目立った活躍はしていないので、スーパー・ギタリスト列伝のなかで埋もれてしまうことが多い。81年2月15日にドラッグのオーバードースが原因で命を落としている。車の中で死んでいるのが発見された。ブルースに没頭していた。猫背で頭を沈める姿が目に浮かぶ。
 76年から77年にサンフランシスコのオールド・ウォールドルフというクラブで演奏し続けたレコードが発表されたが、これは素晴らしい。その後は、ヘロインを止めようとして、アルコールに浸るとかどんどん崩れていって、80年頃にはボロボロだった。
 近年のクラプトンはヴォーカリスト、エリック・クラプトンの伴奏ギタリストみたいな風があるが、マイクは生涯一ブルース・ギタリスト。
  魔育院舞流究明居士。27で死んでいたら神様と祀り上げられていたかもしれない。でも、37まで生きていたから"Live at Waldolf"を残せた。スライド・ギターの切れ味に鬼気迫るものがある。鬱の塊りを嗚咽のように吐き出すギターだ。フレーズ的なまとまりはよくないが切迫感がある。不細工なままの真実のブルース。命を削ってブルースを磨いた。眠れ眠れマイケル。



                                                                    04/06/16
                                                                  04/07/20改訂


サイケデリック編7 嘘つけ、ジョン!?

 それこそ中一の頃かなあ。勝ち抜きエレキ合戦のような番組をやっていて、元気の良いでかい姉ちゃんがゲストで出て、「ビー、バーッパ、ルーラー」と熱唱していた。なかなか見事だった。すぐに、歌謡曲デビューしたのは和田アキ子だった。
 僕らの世代だとジーン・ヴィンセントやカール・パーキンス、バディ・ホリー、エヴァリー・ブラザーズは過去の人、聴いたのはビートルズ、聞こえてきたのはベンチャーズだった。
 ジョン・レノンの「ロックンロール」が例によってデジタル・マスタリング、曲目追加で再発になった。これも、例によって新たに買おうという気はしないが。
 若い人はどう聞くのだろうか。ジョン・レノンという人のロックンロールとして聴くのか。20歳位の人にしてみれば、ジョン・レノンは歴史上の人で、プレスリーも何も同時代、60年代のオールディーズとして受け止めるのだろうが。
 違う違う。
 ビートルズはロックンロールじゃなくって「ロック」を作った。そして、革新的なことをやった後、本卦還りでロックンロールを試みた。というか、「作品」作りにくたびれて、リラックスして遊んでみたかったのだろうが、少し、気を抜きすぎだぞ。
 ジョン・レノンは着想については天才、意識の底から汲み上げ、時代の空気を先取りする力を持っていたけれど、多分、「作品」としてまとめ上げるにはポール・マッカートニーの力を必要としたのだ。その代わりにアルバム「ロックンロール」には、かねてから尊敬していたフィル・スペクターを招いた。
 ジョン自身のコンディションは良くない。ベロンベロンに酔っぱらっていたともいう。プロデューサーのフィル・スペクターも、これまた例によってスタジオで拳銃をぶっ放すなど情緒不安定で、原盤を持ち去ってしまった。何とかかんとかつじつま合わせで仕上げたアルバムだ。
でも、それだけに地が出ているところが面白いかも知れない。ギリギリのところで踏みとどまっている。平和の闘士、愛の使者なんていう金看板はいらない。
 ビートルズのロックンロールの原点を聞くのには、これより面白いアルバムが出た。「ジョン・レノンのジューク・ボックス」という二枚組CDだ。ジョン・レノンの所有したジューク・ボックスの中身を再現したものだ。何国製のどこのメーカーのジューク?って、ちょっと、気になるけどね。

何でまたジューク・ボックス?
 若い人はジューク・ボックスなんて見たことも聞いたこともないだろう。そもそもレコード自体、あ、お母さんの実家に沢田研二のレコードがあった、もうプレイヤー捨てちゃって聞けないって、という感じになっているだろう。
 ジューク・ボックスは、昔、観光地によくあったが、いちいちコインを入れるのが惜しかったから自分で聞いた記憶は残っていない。45回転のドーナツ盤と呼ばれたレコードが何十枚か入っていてA面もB面も聞ける自動演奏装置だ。米英のジューク・ジョイント、ディスコティックと呼ばれるダンスホールにはジューク・ボックスがあり、生演奏も聴け、「不良」のたまり場だった。
 ドーナツ盤、シングル盤はジューク・ボックス用の規格なのだろう。ドーナツのように大きな穴が開いている。家庭のプレイヤーにかけるときには、五百円玉大の大きさのアダプターを介して、ターンテーブルのスピンドル用の小さな穴に合わせないといけなかった。言葉で書くと難しいな。
 昔はレコードなんか買えなかった。というか、レコードより、レコード・プレイヤーが高くて買えなかったのだ。
 日暮里の谷中銀座には今でもジューク・ボックスがあるというから、今度、見に行こう。ワタシの死後には僧正様のiPodとかって公開されるのだろうか。変な趣味だ。変なヤツだ。訳が分からんと言われることだろう。
 意外にも彼らがよくカバーしたガールズ・グループはないのだが(それはジョージの十八番か?)、R&Bやロックンロールでもあまりヒットしなかった曲、B面などを数多く拾っているのが凄く面白い。もろブルースは入っていない。ギター・リフの格好いい曲が多い。
 ウィルソン・ピケットは「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」、オーティス・レディングは「マイ・ガール」と一曲ずつ、ミラクルズは5曲も入っているので、スモーキー・ロビンソンの歌い方をものにしたかったんじゃないか。あまり重いのは入っていない。ほっと息を抜ける軽いリズムの曲ばかりだ。これで、ショーンと踊って遊ぼうというんじゃないだろうな。
 オーティスを一曲聴くというのなら、ほとんどの人が「トライ・ア・リトル・テンダーネス」を選ぶと思うが、歌うとなったら難しくて誰にも歌えない。しかし、「マイ・ガール」を聴いてもうますぎる!
 異色とも思えるのはボブ・ディラン、ドノヴァン、アニマルズが一曲ずつ、大体、渋いというかヒットしなかった曲だ。カバーしようとかステージで歌おうと思って目を付けていた曲が多いのではないか。ただし、ラヴィン・スプーンフルは「デイ・ドリーム」「魔法を信じるかい」という代表曲になっている。もっと珍しいのはポール・リヴィアーとレイダーズの曲が入っていること。これを聞いて「あ、マーク・リンゼイの声だ」とすぐ分かる人は、今時、少ないだろうな。
 アイズレー・ブラザーズの「ツイスト・アンド・シャウト」、リトル・リチャード「ロング・トール・サリー」、トミー・タッカー「ハイヒール・スニーカーズ」、バレット・ストロング「マネー」もしっかり入っているが、一番ホーッ!?と思ったのはジョンのお気に入り、ラリー・ウィリアムズの「バッド・ボーイ」。初めてオリジナルを聞いた。この曲は大好きだった。
立花隆がワタシはこんな本を読んでいたとかいう本を書いたが、ジョン・レノンはこんな曲を好んで聴いていたのかと思うと感慨深い。ワタシにしても初めて聴く曲が多い。ブルースはさんざん聴いたけれど、この辺は手薄だった。

母胎に帰る
 12月8日が命日、仏教風にいえば二十五回忌だからジョン・レノンのことを書こうと思い立ったのだが、非常に難しい。ジョン・レノンの死はインド留学中にベナーレスで聞いた。同じ大学の美術科に行っていた長髪に丸眼鏡の日本人が自転車でかけてきて、「ジョン・レノンが殺された」と言ってきたような記憶がある。ラジオですぐに報道されたのだろう。
 おそらくレノン本というのは日本語になっているだけで100冊近く出ているんじゃないか。家にも何冊かある。結局は、どれも自分の思いこみを書いているにすぎないだろう。河出書房新社の文藝別冊「ジョン・レノン」みたいなのが最悪だ。中にはジョン・レノンの霊と交信するという本もある。ワタシの書いているのもそれに近いか。
 本人のインタヴューといっても、正直に語るキャラではない。インタヴューで言っているからと真に受けてはいけない。確かなのは、決して聖人君子ではないということだ。
 一言でいえばロックンロール好きのやんちゃ坊主だろう。音楽と出会わなかったら、ビートルズを結成しなかったら、ただの犯罪者、人生の敗残者となっていたに違いない。
 よく言われるのは母親を二度も亡くしたトラウマを持つということだ。その思いが名曲「マザー」に表れていると。帰るべき母の胸を失って、何処へ帰って行ったらよいのだろうか。彼の思いは常に「マザー」「ルック・アット・ミー」だった。
 ジョン・レノンは有名人の中で、精神科の治療を受けているということを最も早く公言したことでも知られている。多分、好き放題に乱暴狼藉をしていたハンブルグ時代が一番楽しくって、上り詰めている時にはもう「ヘルプ!」だった。ビートルズじゃない自分は一体どうすればいいのだ。大変な人生だったな。
 1970年頃、アーサー・ヤノフ博士のプライマル・スクリーム療法というのを受けていて、叫ぶことによって心の奥底のしこりを解消し、魂を解放させた。も何も、ロックンロールを歌い叫ぶこと自体が彼にとっては療法みたいなものだ。「マザー」で療法の影響か、絞り出すような声で歌っているが、これは歌い方としては失敗、反則だろう。前衛というのだろうか、オノ・ヨーコと一緒に反則を始めた。
 ビートルズの中でも彼の曲が1/fのゆらぎリズムを持つと解析されている。ゆったりとした癒しのリズムだ。「イマジン」などのアルバムに典型的に現れていると思う。彼の原点回帰とは、きっと、おだやかな羊水の中に戻ることなのだろう。女は海と歌う人もいましたな。自ら弾いている「イマジン」のピアノは、羊水にほんわり、ぷかぷかと漂っているイメージじゃないだろうか。
 当然、体制もなければ規範もない。自分が溶けて母体と一体となる、世界はただ一つだ。自分と外の区別がない。「ゴッド」という曲では、イエスも仏陀も真言もヨーガもエルヴィスもビートルズも信じないと歌う。そりゃそうだ。
 だから、羊水にいるときに「自分だけ信じる、ヨーコと僕だけを信じる」というのは恣意的で間違っていると思う。ただ、何も信じないと続けて歌ってしまうと、聴いてる方は???となって歌として、「作品」としてしまらない。ヨーコと自分を信じるのところで急に声が小さくなっている。嘘をついているな、ジョン・レノン!うわべを飾る言葉より、残された音だけが真実だ。

嘘と嘘の間に間に浮かぶ真実
 彼は自分の本心を常に隠していると思う。平和に貢献するなんてのもフェイクなんだ。元ビートルズのジョン・レノンが演っていたことだ。嘘をやってて素のジョン・レノンが殺されちゃったんだからたまらないよな。
 「ベッド・イン」だって彼の方からみると、はみ出したことをやって注目されたいというバッド・ボーイの性癖そのままで、平和運動とは関係ない、ちょっとしたいたずらのはずだった。
 「五年間の専業主夫時代は、パンを焼いて、子供を育てて」というのもジョークだ。その間に膨大なテープ録音を残している。そんな生活にも飽きてヨーコとアルバム「ダブル・ファンタジー」を製作した矢先のこと、凶弾に倒れた。
 本人も意識していなかった潜在的な可能性を引き出して、ジョン・ウィンストン・オノ・レノンを振り付けたのは小野洋子だった。そこからもう一度、子供時代にジョニーと呼ばれたリアル・ジョン、本人そのものに帰ることができたかどうか、あるいはニュー・ジョン・レノンに脱皮できたものか。
 「アイム・ア・ルーザー」なのかどうかよく分からない。ちょっと損してもったいないことしたな。でも、ジョン・レノンのその後の人生、その後の音楽というのもなかなか考えにくい。ふにゃふにゃした曲をそのまま量産されても困る。はっきり言ってビートルズ解散後の曲はきちんと仕上げていないものが多い。なかなかおさまらない男で、また、何かとんでもないことをしでかしたかも知れない。聖人、愛と平和の伝道師と伝説化されて死んで良かったのかも知れないよ。
 死の世界には、あいにく、行ったことがない。そもそも生というのは母親の胎内から見ると、平和な世界から追い出される、つまり、一度死んで外界に出ていることになる。それで今度死んでみたら、再び平安な世界に入れたのだろうか。やっとサバサバしたのかな。
 眠れ眠れ、ジョン。母の胸に安らいで、さらに、寂静の世界に。
 胎蔵院蓮穏和平居士。和ちゃんにしちまったな。僧正様の子供の頃の呼び名だ。命日にはお経を読んであげよう。特別サービスだぞ。


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