得瓶僧正の極私的音楽誌  昭和編

03/05/13 昭和編1/メダカの保育園
03/05/24 昭和編2/上を向いて歩こう
03/06/09 昭和編3/アメリカ文化を追いかける
03/06/24 昭和編4/音楽業界というところ
03/07/08 昭和編5/中古と機械が好きなのは
03/07/28 昭和編6/おとっつぁん、おかゆが出来たわよ
03/08/23 昭和編7/ロックンロールからロックへ
03/09/28 昭和編8/ガツンとくる

昭和編1/メダカの保育園

 五十年前の浦和は正真正銘の田舎だった。
 昭和二十七年八月に父と母が入ってきた東泉寺は、無住で荒れ放題、境内のぺんぺん草をかき分けて本堂に入るようなありさまだった。
 当時、北浦和駅から東泉寺まで二キロ近くの間、民家はぱらぱらで商店もなかったという。おそらく岩槻街道、一本北側の浦高の正門通りの方が昔から栄えていたのだろう。
 スーパーのマルエツは北浦和が発祥の地だが、店というより、駅前で戸板に魚を並べて売っていたと聞く。
 築三百年近い本堂は茅葺きで、屋根から松の木が生え、雨漏りがしていた。雨戸は破れ、床は至る所で抜けている。鼠も猫も、鶏も青大将も出入り自由の本堂だった。
 空高くトンビが飛んでいて、本堂の中ではコウモリが飛んでいたと思う。真っ赤っかかー、猿のケツーとかいう歌をよく歌っていたような気がする。トンビの歌も何かなかったっけ?
 神奈川県庁で福祉の仕事をしていた父と小学校の教員をしていた母は、その本堂で保育園を始めることにした。ご本尊様や仏具は、一時、庫裏の奥の部屋に安置した。
 なぜか子供の頃、この仏様が、突然、動き出す夢を何度も見て、怖くて目が覚めたものだ。
 当初は水道もなく風呂場もなく、外便所だった。冬になると石炭ストーブを焚いて園児のお弁当を暖めていたのを覚えている。冷蔵庫は氷で冷やす式だ。アイロンも石炭を入れたんじゃないか。インドの田舎みたいだ。
 蓄音機があった。手でくるくる回してバネを巻く形式の鉄針の蓄音機だ。今、学研の教材でエジソン式蓄音機とか売ってるぞ。
 今の若い人はレコードも知らないが、当時は78回転のSP(ショートプレイ)だった。何を聞いたかも覚えていないがメダカの学校みたいな童謡だろう。父は学生時代にはベートーベンとか聞いたのかもしれないが、個人的には天台声明のレコードを買っていた。これは今でも倉庫にある。流行歌の趣味はなかった。
 昭和二十九年にピアノを買っている。調べてみたら二十三万円、六十四鍵のルービンシュタイン、立派なものである。よくて月給が一万円の時代なのだ。父は多少器用だったので、学生時代から習いもしないギターやピアノを弾いていた。瀬ヶ崎保育園園歌というのも作詞作曲した。
 変な歌だったような気がする。左手の伴奏、今から思えばコードの付け方がおかしいなどと子供心に思ったものだ。亡くなって五年経った今だからいえるよ。
 ワタシは不器用なので、猫ふんじゃったもろくに弾けなかったが、多分、保育園児の頃から蓄音機の鉄針を取り替えていたオーディオ幼児である。えへん。
 この咳払いというのが父譲りなのだが、おじいちゃんの代からだ。弟ばかりかウチの息子までやっている先祖代々の有り難い咳払いだ。ウォッホン。
 スクールバスやテレビは昭和三十三、四年頃に買っている。バスは知り合いの本間幼稚園から中古を二万円で譲ってもらったそうだ。原付バイクじゃないけれど、セルモーターではなく、クランク棒を回してエンジンをかけた。冬の寒い日はお湯を掛けてエンジンを暖めたり大変だった。
 方向指示器ウィンカーというのはチカチカと電気で光るのではなく、べろっとした長い赤い舌の様なものを手動で横に出したのだ。分かるかなあ。
 当時、住み込みの若い保母さんが運転手を務めたが、よく交差点でエンストして、クランクを回したそうだ。のんびりした時代だ。
 もっと傑作なのは、走っていてタイヤがはずれ、ころころと転がっていったとさ。タイヤ交換の時、力がなくてボルトをきちんと締められなかったのだ。小学校三年くらいになると、よくパンクでタイヤを取り替えたが、最近はやらないなあ。
 境内にはケヤキとイチョウの木があった。ケヤキは切ってしまったが、イチョウの木は今も毎年、銀杏の実を付けている。ウチの名物だ。桜は父が来てから植樹したが、そろそろくたびれてきた。昔は毛虫がぽたぽた沢山落ちた。
 小学校に行くようになると冬の晴れた日には富士山が大きく見えた。二十分歩いていく道の途中には肥だめがあった。とっても臭かった。ビール麦が多かったような気がするが、だから川口にビール工場があったのだろうか。
 お寺のすぐ隣りの神社の下の原っぱで、まさに、草野球をやった。人が足りなければ三角ベースである。グローブを持ってない子供が多かった。多いと外野に小さい子が何人もいた。よくボールが草むらでなくなった。ドブ川にもボールが飛び込んだ。
 ドブ川にはメダカがいた。フナもいたんだろうがドジョウやザリガニをよく捕った。昔なら浦和名物の鰻が捕れたのかもしれない。ずいぶん前に暗渠になった。草むらだったところ、畑や田圃だったところ、みな住宅になっている。
 こんな昔話をするワタシは、やっぱり、もう仙人だなあ。

                                                                    03/05/13
  




昭和編2/上を向いて歩こう


 初めて買ってもらったレコードは鉄腕アトムじゃないか。鉄人28号と一緒だったか。レコードといってもソノシートと呼んでいたぺらぺらのビニールの赤い盤だ。ちなみに、でっくわしたことはないが、鉄腕アトムはウチの近所に住んでいる。アトムの声優、清水マリさんは本太の住民である。
 「ひょっこりひょうたん島」の絵本には、歌詞と一緒にちょっとした物語が書かれていて、ソノシートが付いていたような気がする。もう見つからないな。この頃、父に買ってもらったABCの歌が入っている英語の教材とソノシートはまだ転がっているぞ。ひょうたん島の方がお宝なのに。
 母親というのは何でも整理して捨ててしまうものだ。おかあさん、マーブル・チョコに付いていたぼくのアトムのシール、どこへ行ったんでしょうね。ちなみに、父は七時のニュースを見るので「鉄腕アトム」は見せてもらえなかった。
 当時、テレビは一台しかありません。たまに、父が勤めていた老人ホームに泊まりの時だけ見ることができた。今頃、文句言ってどうする。
アトムより「エイトマン」が好きだった。丸美屋のふりかけにシールが付いていた。正確にいうと、最初に買ってもらった「レコード」はこれだ。克美しげるの「北京の五十五日」のB面だった。
 ひょうたん島で思い出すのは、昭和三十九年、小学校五年生の時に東京オリンピックがあって、その間ひょうたん島が休みになったのがとても残念だったことだ。宇野誠一郎作曲のひょうたん島の歌はみんな好きだった。
 同級生がインドネシアに留学したとき、何か歌を歌えといわれて何もなくて、「ひょっこりひょうたん島」を歌ったと聞くが、ワタシもほとんど同じだ。カラオケは苦手である。レパートリーが全くない。学生が古い演歌を歌っているので感心する。なんでだろ。
 強いて頼まれると坂本九を歌ったりする。ワタシの評価では九ちゃんは日本一のソウル歌手なんだけれど、誰も賛成してくれないなあ。あの音痴とかいわれてしまう。色街の子で元が純邦楽だから音程はぶれるし、ウフエウォ、ムフイヒテーと長唄もどきの変な歌い方をするので作詞の永六輔が怒ったそうだ。中村八大の楽曲は非常に優れていると思う。
 坂本九はいかりや長介がリーダーになる前、ウェスタン・バンドのドリフターズのバンドボーイとして出発した。昭和三十三年に、高校を休んで働いていたのだよ。進駐軍キャンプに行ってGI相手にカタカナで覚えたプレスリー・ナンバーを歌っていた。子供がでたらめにエルビスの真似をして面白いと受けたみたいだ。
 昭和三十六年、NHK「夢で逢いましょう」の構成が永六輔で、この番組から坂本九「上を向いて歩こう」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」などのヒットが生まれた。
 昭和二十八年はNHKのテレビ放映が始まった年であるが、中村八大はジョージ川口、松本英彦、小野満とともにビッグ・フォーというジャズ・コンボを結成し、熱狂的に歓迎された。かけそば一杯二十円の時代にギャラが十日で四百万円だった。
 坂本九はマナセプロに引き抜かれパラダイス・キングに加わるが、森山加代子とコンビを組んだ。彼女は函館の寺の娘だそうだが、「じんじろげ」なんてヒットがあったね。九ちゃんは九重佑三子とも組んで、「明日があるさ」というミュージカル・バラエティ番組をやっていた。ダニー・ケイ・ショーを元に、てんぷくトリオと「九ちゃん!」という番組も作った。この番組では井上ひさしがたくさん詞を書いた。

ああーあああ、小学三年生
 その小学校三年生の時、東京から転校生が来た。リハウスの美少女みたいにブレザーを着てきた。頭も良くてほとんどオール五だった。その子が「シャボン玉ホリデー」を見ているというので、早速、次の日曜日から毎週見ることになる。六時から藤田まことの「てなもんや三度笠」を見て、半から四チャンネルに切り替えた。
 ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツがメインだが、当時、圧倒的に強かった渡辺プロの中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりがレギュラーである。途中から構成作家の元都知事・青島幸男まで出てきた。最後の方には布施明なんかも出ていたと思う。これは歌謡曲というよりは、洋楽の番組だということに今頃になって気が付く。お手本にしたのが「ペリー・コモ・ショー」のようなアメリカのテレビ番組なんだから当然か。
 ザ・ピーナッツのラテン風の曲はサルサといえばサルサだ。クレイジーの面々はジャズ・ミュージッシャンである。植木等や谷啓の歌、とっても好きです。パッケージ・ショーとして演奏も歌もギャグもやるというアメリカの初期のジャズやリズム・アンド・ブルースに近いジャズ精神がある。
 ほかには「ザ・ヒットパレード」という番組があって、同世代の子供はみんな「ひっぱれー、引っ張れー、みんなでヒッパレー」と歌っていたんじゃないかと思う。「ホイホイ・ミュージック・スクール」というのもあったね。
 日曜日の「ロッテ歌のアルバム」というのは演歌系。ドサ回りの演芸を少しだけおしゃれにしてテレビに上げたという感覚なんだろうな。住み込みの保母さんが一所懸命見ていた。当時、東北地方から中卒で上京してくる子供たちは金の卵と呼ばれていた。舟木一夫の「高校三年生」は昭和三十八年だ。橋幸夫、西郷輝彦と並んで御三家と呼ばれた。
 日劇ウェスタン・カーニバルは昭和三十三年から。大騒ぎとなって親たちの顰蹙をかい、しばらくはテレビからも無視されていた。ジャズ・ブームに終焉をもたらし、ロックンロール、ロカビリーの時代になる。ロカビリーは不良の代名詞だった。
 平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチスのロカビリー三人男が現役だった頃は知らない。エルビス・プレスリーのカバーなんかも聴いていたと思う。「ハートブレイク・ホテル」は昭和でいうと三十一年だ。鈴木やすしの「ジェニ・ジェニ」(リトル・リチャードだぜ)はなんとなく覚えている。末期にはカーニバルにグループサウンズが出演していた。
 総括すると?彼らの後ろで演奏していたのが第一プロ岸辺清、ホリプロ堀威夫、サンミュージック相沢秀禎、田辺エージェンシー田辺昭知のお歴々なんだから、ロカビリーは日本のポップス歌謡の出発点でもある。
 九重佑三子や中尾ミエ、弘田三枝子の時代からはよく覚えている。倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」とか好きでした。あこがれていたのは西田佐知子かなあ。「アカシアの雨がやむとき」とっても好きです。「コーヒー・ルンバ」素敵。
 また、スリー・ファンキーズや元祖アイドルのジャニーズがビートルズの歌を日本語で歌っていたような気がするが、ワタシのお気に入りは尾藤イサオの「悲しき願い」。
 「だーれのせいでもありゃしない、みんな、オイラが悪いのサ、ペッペケペッペケペー」。これが決定的な影響を与えたような気がする。子供の時から演歌は興味がなくて、洋楽、エスニックぽいのやリズム・アンド・ブルースもどきが好きだったのだ。
                                                                    03/05/24


昭和編3/アメリカ文化を追いかける

 小学生の頃はいわゆるティンパンアレー製ヒット曲のカバー全盛時代だった。今でもオールディーズでよく歌われる曲ばかりだ。今時分の曲より楽曲として数段優れていると思う。メロディーはもう出尽くしたといわれてますね。
 テレビ番組もアメリカのものが多くて、あこがれていた。アメリカ文化、アメリカの商品を売り込むための宣教師役でもあった。「パパは何でも知っている」「名犬ラッシー」「名犬リンチンチン」「アイ・ラブ・ルーシー」。「ちびっこギャング」にはスパンキーというガキ大将とアルファルファというもやしみたいないじめられっ子が出ていた。上半身を後ろに退いて手を前に出して殴り合う「拳闘」のスタイルが印象に残っている。
 「ローハイド」「ララミー牧場」「ローン・レンジャー」。しかし西部劇なんて、いかに美化しようとインディアン差別、虐殺、侵略の物語の隠蔽なんだから、さすがにもう、流行らないね。見ればアメリカの正義というのがいかなるものか理解できる。イラク侵略も全く同じ構図なので、今こそ、西部劇を反面教師として見て勉強?しないといけないのかもしれない。
 アニメもディズニーの方が先輩なんだから、アメリカ製が多かった。「ウッドペッカー」「ポパイ」「トムとジェリー」「三バカ大将」。「どらねこ大将」っていったけ、この番組に出てくるネコがいつもハーモニカを吹いていて、カーネギー・ホールに出るのが夢だといってたのが、カーネギーの名を聞いた最初である。うーん、カーネギー・ホールに声明で出演しよう。
 王、長島の全盛期で、相撲は大鵬・柏戸。サッカーなんて誰も見てなかったぞ。子供が好きなのは巨人、大鵬、卵焼きといわれた。当時はまだ、卵やバナナが高級品という名残があって、ハンバーガーなんてなかった。スパゲッティといったら、洋食の付け合わせ?で、海老フライと一緒にちょろっとケチャップを絡めた麺がついてくるような感じだった。
 カレーは小学生時代に、SBのカレー粉に小麦粉を炒めて作るスタイルから、固形のカレールーに移行した。ヱスビーカレーは昭和二十九年だが、三十五年、チョコレート状に山を作ってあるグリコのワンタッチカレーあたりから本格的に普及したか。日清のチキンラーメンは昭和三十三年の「発明」。
 おやつは、パンの耳を揚げて砂糖をつけるとか(家が保育園だったからかな)、夏はトウモロコシ、冬はサツマイモをふかしたものが多かったんじゃないか。低学年の頃は明治の板チョコが貴重だった。森永ハイクラウンは昭和三十九年。
 プロレスは力道山の時代で、今見たりすると凄く本物っぽく見える。リアリティの演出が見事だ。名悪役のフレッド・ブラッシー死んじゃったね。ヤスリで歯を研いで相手に噛みつくという芸を見せた。テレビで見てショック死した老人が何人かいる。プロレスラーで八十五まで生きる人って、まず、いないだろうし、こんな頭のいい演出家ってそういるもんじゃない。
 日曜日など家から出掛けるデパートはたいてい八重洲大丸だった。お母さんが買い物をしている間に、屋上の遊園地で遊んで、戻ってくるとソフトクリームを食べたんじゃないか。そのせいか、夏になるとついついスーパーやデパートで子供にアイスクリームを食べさせてしまう。
 夏休みは千葉にある父の実家に泊まって大原、勝浦、御宿で海水浴がせいぜい。乗り継いで四時間近く掛かったか。これもまた、アイスクリームを停車している駅で買ってもらうのが楽しみだった。
 ジュースは渡辺ジュースの素という粉ジュースがあったね。時々なめていたせいか、たいてい、開け口が湿っていた。プラットホームで売っていたのもこれじゃないのか。バヤリース・オレンジが高級で、法事の時などに出てきた。夏の飲み物は、煮出した麦茶に砂糖を入れたものが定番だった。
 千葉の行き帰りに少年マガジンを買ってもらったのがきっかけで、ブランクはあるものの何十年か?購読した。しかし、今読み返しても「あしたのジョー」も「巨人の星」もあまり覚えていないので、新鮮に読める。忘却力のおかげである。
 赤塚不二夫の「天才バカボン」や「おそ松くん」を見ると恐ろしくパワフルで、よく発禁にならなかったなあと思う。お母様方に嫌われたのは「ハレンチ学園」の方だけれど、こちらはたいしたことないだろう。国際日本文化研究センターに行ったら、図書館に「ハレンチ学園」のビデオがあったぞ。日本文化研究の資料となっているのだよ。井上章一先生が入れたのかな。パンツみえたつ。
 手塚治虫マガジンに「どろろ」が連載されているけれど、当時、これはあまりに生々しいということで、編集サイドからストップが掛かって打ちきりになった。「千と千尋」なんかよりはるかに傑作だと思うのだが。
 昔のマンガは生の情感、試行錯誤で書いてコマ割りなんかの形を練り上げている。今のマンガはそういう名作傑作失敗作を研究して、文化人類学まで勉強して作っているから、展開が読めてしまう。二級品だと思う。天才職人の作品から工房の製品になったということか。
 それは音楽も同じで、中学校の頃から始まった和製のポップスなど、パクリ、というより著作権法違反の曲も少なくなかった。実はロックもそうなんだけれど。アイデアをもらって作品を創造するというより、安直な模造品を作る、使い捨ての商品を流通させるというレベルにだんだん下がってきた。いちいち、日本の作曲家先生の名前は挙げませんが。
 それで本筋?に戻ると、ポール・アンカ「ダイアナ」は、昭和三十三年のヒット。十五歳でこの曲を作詞作曲している。宇多田より凄い。ニール・セダカ「恋の日記」も自分で作曲しているが、十二月発売なので三十四年のヒット。「恋の片道切符」は昭和三十五年。パット・プーン「四月の恋」プレスリーの「監獄ロック」もこの年。
 アメリカの親たちは子供がプレスリーを聞いていると不良になると心配して、パット・ブーンなら安心だったという。
 昭和三十六年のヒットはニール・セダカ「カレンダー・ガール」、デル・シャノン「悲しき街角」、ジミー・ジョーンズ「グッド・タイミング」、ミーナ「コーヒー・ルンバ」、コーデッツ「日曜はダメよ」など。みんなカバーで聴いている。この辺から記憶が鮮明になってくる。坂本九は「素敵なタイミング」「GIブルース」などのカバーに、「九ちゃん音頭」「上を向いて歩こう」と売れまくった。
 この年の特筆すべきヒットは、ベンチャーズ「急がばまわれ」である。アメリカではサーフィンが流行っていて、サーフ・サウンドと呼ばれるものがあった。ガレージ・ロックの先駆けである。
 最初のギター・ヒーロー、アイドルはデュアン・エディといわれている。聞いてみるとトレモロ・アームでギュワーンとコードをそのまま揺らす手法が強調されすぎていて、もっとも、それが波を表現しているそうだが、船酔いしそうで気持ち悪い。
 サーフ・サウンドがティンパンアレー側から見ると予測を超えたブームとなった。これは一大事である。


                                                                    03/06/09


昭和編4/音楽業界というところ

 ヴィー・エー・シー・エー・ティー・アイ・オー・エン、タノーシイーナ。昭和三十七年「ヴァケーション」が大ヒット。といっても、当時、ヴァケーションに出かける人なんていなかった。ワタシなんぞ、未だにそんなものは行ったことがない。日本語カバーを歌った弘田三枝子は、身体こそ小さいがパンチ力溢れて歌唱力抜群、元歌のコニー・フランシスより上手いといわれた。そりゃ日本語で歌えば日本人の方が上手いに決まっている。彼女は後にジャズ畑に行って騒動を起こすが、結構好きです。
 この年、アメリカではツイストやロコモーション、マッシュ・ポテト、リンボ、チャチャなどのダンス曲が大当たりした年だった。その前年あたりからR&Bフレイバーのシレルズやマーヴェレッツ、グラディス・ナイトとピップス、ベン・E・キングやレイ・チャールズらの活躍が目立つ。西暦でいうと一九六二年の全米ナンバー・ワン・ヒットが「ザ・ツイスト」で、第二位が「愛さずにはいられない」だった。
 白人が黒人音楽を消化し始めたのと同時に、黒人側もソフト路線というのか、レイ・チャールズがC&Wを歌ったりした面白い年だ。ダンス音楽も白人の資本側が仕組んでヒットさせた企画物で、そういえばランバダなるものが十数年前に出来たが、今何処?
 昭和三十八年は全米年間ベストテンに「ドミニク」「ヘイ・ポーラ」「ルイ・ルイ」が入っている。注目すべきはリトル・スティーヴィー・ワンダーが「フィンガーティップス」で九位。ようやくモータウンが軌道に乗りだした。
 坂本九「スキヤキ」も全米十位の快挙!!「ウォーク・ライト・イン」「パフ」「天使のハンマー」とかフォーク勢の台頭が目立つ一方、ビーチポーイズ「サーフィンUSA」もこの年二十三位。狭間の年だ。
本場のローカル・スター
 アメリカの音楽産業はティンパンアレーが牛耳っている。ティンパンというのは鍋やフライパンを叩く音だ。ニューヨークはマンハッタン、ブロードウェイと五番街に挟まれた通りには、音楽出版社や楽器店が並ぶ。
 レコードが出来る前の音楽産業というのは楽譜の出版と販売なので、この辺りで宣伝をかねて賑々しくチャンチキと楽譜のたたき売りをしたのがその名の起こりだ。ブロードウェイ・ミュージカルやミュージカル映画、ハリウッドの映画産業と共に発展し、五十年代はヒット曲の九割もが六大メジャーによって放たれた。
 SPレコードの時間的制約のためだろう、架空の恋などをロマンチックに歌い、生活感や個人的な悩みなどは反映されず、一曲二分半の虚構の世界に遊んだ。インド映画みたいなものだな。それも悪くない。
 そんな中でマイナー・レーベルのサンからエルビス・プレスリーが出てきた。雨後の竹の子のようにロカビリー歌手が誕生するが、サニー・バージェスというやはりサン所属の歌手が出てくるビデオ「歌うアメリカ/ミシシッピ音楽の旅」を見たことがある。細身で長身の白髭爺さんだがいい味を出している。こんな格好いいヤツは日本にいないぜ。え、ミッキー・カーチスだって?
 エルビスのような大スターにならなかったおかげで、かえって「本場のローカル・スター」として充実した音楽人生を過ごせたのだ。今でもアーカンソーのジャズクラブでギターを抱えて歌っている。五十年台の声とさほど変わらない。奄美や沖縄の唄者みたいだなあ。こういうのが人間国宝だよ。いや、一隅を照らす人か。
 スターというのは自分自身にもお金が入るかもしれないが、むしろ音楽産業を儲けさせる役割だ。ピンクレディーがあれだけビクターや事務所のために?ほとんど寝ないで活躍して、手元に残ったのはささやかなマンションの部屋だけだったと聞く。
 ロックスターも寝ないで薬を打ってトップスピードで疾走できるのは、わずか二、三年のことだ。金に女に名声に酒にドラッグにと何もかも手に入れたようでいて、命を失っているのは何故だ。大スターが人身御供になって産業界は豊作となり世界が華やぐ。
 黒人音楽レイス・ミュージックの色濃いエルビス・プレスリーをメジャー入りさせることによって音楽産業も大いに潤った。六十二年には五十九年以来、ひさびさに年間ベスト百位に四曲送り込んだ。しかし、エスタブリッシュドな映画スターになったエルビスになんか興味ないね。
ベンチャーズ登場
 一方では、これまたメジャーから離れたところで胎動があった。ベンチャーズというのはおそらく、その名の通り企画物だったのだろう。ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルが当時流行の兆しを見せていたサーフィン音楽を手がけると大当たりしてしまった。
 昭和三十七年に、ベンチャーズはこの二人で初来日している。レコーディングにはその都度、腕利きのセッションマンを雇っている。これがハリウッド・システムである。ベンチャーズという企画も、やがてレギュラー・メンバーを固定してツアーを行うようになる。
 モンキーズが来日したときに演奏は影武者がしていたことが話題になったものの、これは業界的には常識の範囲内だった。ちょっと歌えるルックスのいい少年たちがバンドの顔で、多くの場合バンドの音は一握りのプロである「お助け隊」が録音していた。ハリウッド映画やテレビで用いる音楽と同様に。
 ドアーズのデビュー・アルバムもドラムはスタジオ・ミュージシャンであるハル・ブレイン、なんとベース!はキャロル・ケイであることが、鶴岡雄二「急がば廻れ’99」に書かれている。モンキーズのレコーディングにもこの二人は参加している。
 ママス&パパスも、グラスルーツ、ハーブ・アルパート&テイファナブラス、サイモン&ガーファンクル、ソニー&シェール、キャプテン&テニール、そして、カーペンターズ!!と、みんなみんな、同じドラマーのハル・ブレインが演奏していると聞くとちょっと驚くでしょ。
 ドアーズとモンキーズは兄弟バンドだったんだ!?それから、アル・ウィルソン、ラリー・テイラーのいたキャーンド・ヒートとベンチャーズは実の!!兄弟バンドだったんだ。
 インストルメンタル・バンドにしても、程度の差こそあれ、ちょっと演奏できる青年?がツアー用のバンドとして活動し、レコーディングはまた別だった。これは決して否定すべきようなことではなくて、その素人臭さゆえ、オレにもできるとばかりバンド・ブームが起きたのだ。
 しかし、ボーカル・グループだったはずのミリ・バニリが、実は口パクだったとバレた時にはさすがに驚いた。彼らはダンス・ユニットだったんだね。インド映画の女優じゃないけれど、プレイバック・シンガーが別にいたのだ。
 昭和四十年一月には、おなじみのノーキー・エドワーズとメル・テイラーを引き連れてベンチャーズが二度目の来日。前年「太陽の彼方に」で大ヒットを飛ばしたアストロノーツとの競演で、会場が大混乱する騒ぎだった。日本中にエレキ・ブームを巻き起こし、この年六月に「勝ち抜きエレキ合戦」なんて番組が始まる。
 それでワタシも父にねだって安物のエレキギターを買ってもらった。実は昭和四十年十月に、足利市教育委員会でエレキ禁止令が出て、不良の音楽というレッテルが貼られた。 もう一つ大きな事件があって、翌四十一年六月にはビートルズが来日する。「勝ち抜きエレキ合戦」もその年九月に終わる。エレキ・ブームは収束し不良在庫の山が出来た。それを何割引かで売っていたというわけだ。
 例の、テケテケテケテケというヤツしかできなかった。それでもうれしかった。これって何なんだろうね。 

                                                                    03/06/24




昭和編5/中古と機械が好きなのは

 去年iPodを買ってから、ずっと60年代ロックとブルースにはまっていたが、最近アマゾンからCDを買ってないな。
 そのかわりパソコンに凝りだした。というのは元の研数学館の校舎に週一回通いだしたからだ。神保町はお宝の山。古本や古CDを探すのが楽しみだった。
 それにも飽きて先月あたりから秋葉原に通うようになった。アキバにはもう、37年通っている。高校の頃はスピーカー工作をしたものだ。ハンダ付けが苦手だったのでアンプは作らなかった。
 今でいうと石丸電気の何号店の場所なのか、昔、秋葉原に日の丸電気というのがあり、レコードが一割引になる券を出していたので、中一の時からケンジと通ってた。そこの店員がすごかった。
 こちとら結構マニアックだから、スペンサー・デイビス・グループの何とか、ビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーとかいうのだが、すぐに盤を引っ張り出してくる。それもレコード番号を復唱しながら。ほとんど全部覚えているんだね。
 この人は今どうしているのだろう。未だにシミュレーションして「リヴォルヴァー」は東芝のOP−7600番なんてやってたりして。古い友達がきたときの宴会芸にいいね。
 今はなんと呼ぶのか知らないが、昔はステレオと呼んだ。小学校三、四年の頃か、最初に父が買ってきたステレオはコンソール型といって、衣装ケースみたいな横長の木箱の中にスピーカーを二つ入れたもので、ラジオとレコードプレイヤーが一体になっていた。勿論、真空管アンプだ。
 トランジスタ・ラジオがようやく出回った頃で一万円近くしたんじゃないか。一度お風呂で聞いていて落っことしたことがあるが、乾いたらちゃんと聞こえた。ホッ。
 六年の頃、自分用にゲルマニウム・ラジオを作った。千円くらいの電池なしで動くラジオだが、出力が小さいのでイヤフォンで聞く。胸ポケットに入る大きさだったから今のiPodみたいだな。
 その頃、ラジオの番組表をみると、どの局のどの番組にもビートルズ、ビートルズ、ビートルズと書いてあって、ビートルズというのは「普通名詞」でいくつもあるのかと思っていた。
 テープレコーダーもソニーだった。もちろんオープンリールで真空管を使うからかなり大きくて重い。A3のレーザー・プリンターくらいの大きさか。
 当時はFMがなかったのかなあ。ステレオ放送の受信をするためチューナーを二つ搭載し、NHK第一と第二とを両方同時にチューニングし、右チャンネル、左チャンネルから別々に音を出してステレオにするという実験放送をしていた。ピーヒョロローとノイズが多くてちゃんと聞こえなかったような気がした。位相もあわないしね。
 そのあとコロンビアは音がいいんだぞとかいって、北浦和駅前の古道具屋から新ステレオを買ってきた。これにはFMがついていたのだろうか。覚えていない。中三の頃まではそれでビートルズやなんかを聞いていたと思う。45回転のシングル盤はモノラルだった。 ジューク・ボックスで使うために大きな穴が開いていてドーナツ盤と呼ばれていた。なんか谷中銀座にジューク・ボックスがあると森まゆみさんが書いてたような気がするから、今度、みんなで探検しよう。ジャズ喫茶とジューク・ボックスは滅びゆく文化遺産です。
打倒ダライラマ!?
 父も結構、新しい物好き、機械好きで当時三種の神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機も早くから入れている。家には井戸があったのでクーラーは水冷式が居間にあった。瀬ヶ崎保育園に在宅通園していた頃は、冷蔵庫なんか氷で冷やすものを使っていた。二十数年前のインド留学時にも確かあったような気がする。氷屋さんって知ってるかい?
 ベナーレスで街角の洗濯屋さんは木炭のアイロンを使っていた。当時のインドでは夏場など停電が毎日のようにあるので、もし、電気アイロンだったら仕事にならない。
 カメラも蛇腹式のものが家にあった。当時の物価からは、さぞかし高かったことだろう。ワタシも小学校高学年で青い電球式のストロボを使った覚えがあるが、低学年の頃ウチで使っていたカメラのフラッシュは、なんか白い粉を被写体の距離にあわせ目分量で集めて爆発させ?ピカッと光らせるすごいものだった。
 小学校高学年の頃8ミリも入った。8ミリ・ビデオじゃないよ。兄弟でボールを投げたりバットを振ったりした場面を何十回も繰りかえし見たものだ。
 その時のグローブも北浦和の古道具屋で買ったやつじゃないか。父は横浜市役所に通っていたが、ちょうどその裏通りに軽自動車を置いて出かけていたのだ。のんびりした時代だった。
 メインの乗用車は当時のベストセラーのコロナの中古だったが、十年位前、ネパールに行ったらまだその型が現役だったな。軽自動車は通勤用に、大村昆ちゃんがミゼット、ミゼットと連呼して宣伝していた三輪車だ。五万円で大古車を下駄代わりだよといって買ってきたが、お年頃のワタシはその助手席に座るのが恥ずかしかった。
 今や、ミゼットUというのが出ていてクリーニング屋が使ってる。、なんか懐かしくて乗りたくなるが、さすがに六十万くらいすると買う気にはならない。中古で六万なら買うよ。それじゃバイクの値段だな。
 古本も古レコードもなんかワタシが買うのをじっと待ってくれてるみたいで愛おしい。そして、雑誌は捨てても本は捨てられない。オーディオもパソコンも捨てられなくて、そのまま転がっている。一回、火事で燃えてしまったが。ああ、JBLモニター、アキュフェーズのアンプ。
 NECのPC-98シリーズはさすがにもう使えないが、五年前のバイオ(ペンU400メガ)を何とかしようと先月からいじり始めた。ジャンク屋に通って中古パーツを見ているうちに、とりあえず練習で?一台組んでしまった。
 そして、バイオ改造計画に着手すると、そこから取り出したマザーボードとCPUで、また一台作れちゃうぞ。どうする?
 それより壊れたバイオ・ノート200メガを自分で修理改造してみるか。趣味が時計修理のダライラマに勝つにはこれしかない!?
 

                                                                    03/07/08



昭和編6/おとっつぁん、おかゆが出来たわよ

 ザ・ピーナッツはピンクレディーのように爆発的に人気を得ることはなかったが、日本ポップス史的には一、二の役割を果たした女性ヴォーカルだと思う。「情熱の花」は「キッスは目にして」というタイトルでリバイバルしたね。
 「恋のバカンス」「恋のフーガ」「ウナ・セラ・ディ東京」名曲です。「ハロー・メリー・ルー」をカバーして日本語で歌っているが、これがハワイアン風カントリーで、当時こういうスタイルがはやったらしいことが推測できる。
 サルサという音楽が日本に紹介されたとき、あ、これはピーナッツみたいだと思った。ラテン・フレイヴァーがあって面白い。それで最近ピーナッツを聞いてみたら、曲にもよるけれど、ますます面白いと思った。
 バックの演奏がラテン風であって、なおかつ、ピーナッツの節回しが演歌風でせつなく声を震わせている。今の耳には、いかにも外国人なまりのあるポップスというかんじで、エスニックしていて愉快だ。
 ポップスのみならず、唱歌風の曲とか青春コーラス風のものとか、ハーモニーが古くさかったりもする。お座敷風のものなどがあり、ベースは邦楽なのかなあ。ねっちょりした小節が面白いのだ。ピーナッツは、「モスラの歌」というインドネシア風のテーマソングも歌っている。
 「シャボン玉ホリデー」(昭和三十六年から昭和四十七年)でクレイジー・キャッツの面々とギャグを繰り広げた。結構、好きだったのが、「おとっつぁん、おかゆができたわよ」とピーナッツがいって、寝込んでいるハナ肇が「いつもすまねえなあ」というコントだ。もはや、ハナ、安田、石橋が故人となった。
 風邪などで寝込むとおかゆだった。今のお母さんはどうしているのだろう。家でもウイダーみたいなゼリーを飲ませたりするが。
 子供の頃、学校を休んで天井板の模様など眺めていたことを思い出す。溲瓶じゃなくってなんていったっけ、吸い口というのかな、寝たまま水を飲んで、オブラートに包んだ苦い薬を飲んだ。
 小学校では病気で休んだ子に食パンを持って行ってあげた。今はそんなことやっていない。脱脂粉乳は飲めない子も多かった。
 食パンやミルクのアメリカからの供給も決してお慈悲ではなくて、日本の食文化を奪い小麦で食料支配しようというアメリカ帝国の陰謀だった。ようやく今頃気がついても、もはや、日本の農業は崩壊してしまった。なんてこった。五十年かかったんだね。負けました。
 クレイジー・キャッツも坂本九もCDを聞くとホントに雑多なジャンルの曲が入っている。誰か、上手なコンピレーションを作ってくれないのかなあ。クレイジーは、あのジャズマンのりのアドリブ・ギャグが好きだ。今では坂田明なんかがその味だ。
 ハナ肇はキューバンキャッツというバンドをやっていた。当初、女性ヴォーカルが二人いて、一人は島田歌穂のお母さんだと後で分かったそうだ。一説ではアート・ブレイキーを聞いて、あ、こりゃもう駄目だ、かなわんとギャグに転向したという。シャボン玉が始まる年の元旦にアート・ブレイキーが来日している。
 植木等がリード・ヴォーカル?のギタリストで無責任男の看板で売れてしまった。実は、三重県の浄土真宗、お寺の息子の超真面目人間なので、あのイメージが一人歩きしてしまって、すごく悩んだという。父は仏の教えに反すると反戦運動をした傑僧だった。植木以外は東京出身だ。上京して東洋大学でバンドをやっていた。
 谷啓はトランペット、トロンボーンを担当し、ミュージシャンとしても評価されているが、彼はあのとんでもなく高い発声やガチョーンのイメージ通り、ぶっとんだ男だった。谷啓は逗子開成、石橋、桜井、犬塚は暁星中学出身だ。
 当時、フランキー堺のもとでスパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズの冗談音楽の真似をしていた。そこに、植木や萩原哲晶がいた。谷はピストル担当だった。競技で使うスターターだ。それがやたら音が大きいので、鼓膜をやられてしまった。
 医者に行って「これは治さないと死にますか」と聞いて、そんなことはないといわれ、安心して?放っておいたそうだ。そのため今でも耳の中でジーッと虫が鳴いていて、マイクのハウリングの音などが聞こえないそうだ。ミュージシャンなのに。
 桜井センリはフランキー堺のゲイスターズに、なんと秋吉敏子の後釜として入ったんだから相当の腕だったんだろう。その桜井が、同じピアニストの石橋エータローはものすごくうまくて、天才的にジャズのセンスがあったと誉めている。
 安田伸は芸大管楽器科卒でサックス担当だ。不本意ながら奥さんの竹越美代子と一緒に戦った闘病生活で有名になっちゃったね。。
 犬塚弘の前歴というのは、IBMで経理担当だったというから見た目通りの堅い人だったんだ。兄とグリーングラス・シャック・ボーイズというカントリーみたいな名前のハワイアン・バンドでベースをやって、萩原哲晶とデューク・セプテットに参加した。
 前述のピーナッツの「ハロー・メリー・ルー」がそれだが、スチール・ギターが共通しているとはいえ、カントリーとハワイアンのミックスというのは、日本的な誤解に基づく文化創造なのだろうか、世界中の人にお聴かせしたい逸品です。
 当時はまだ洋楽が根付いていなかったので、ピーナッツにしろクレイジーにしろ坂本九にしても、邦楽的ベースのポップスが独創的で面白い。洋楽が身に付いて技術的に上達すると、かえってコピーしかできなくなるから皮肉なものだ。
 青島幸夫の歌詞もとっても面白い。「遺憾に存じます」はイントロが「抱きしめたい」のパクリでベンチャーズ風ギターが入るのだから、大笑いの大傑作だ。青島とコンビを組んだ萩原哲晶の作編曲です。
 「ウンジャラゲ」という曲は音楽としてジャズじゃないけれど、感覚はまさにジャズそのものだ。こんな粋な音楽をできる人は今いないな。
 やはり、クレイジーは一級のミュージシャンだから、レコーディングのバックバンドはシャープス・アンド・フラッツあたりかもしれないけれど、歌いこなしがパーフェクトで傑作揃いだ。ピーナッツは、今聞くとカタカナ英語だし、はしゃいで歌っちゃっているから未熟だと思う。それだけに成熟した、老成した?今のピーナッツを聞いてみたいものだ。
 ピーナッツの「月影のナポリ」「指輪のあとに」などは、ブルースやロックのコード進行でありながら、全くロックンロールになっていないところが、ザ・ピーナッツというジャンルを確立していて素晴らしいんじゃないか。クレイジーの方が「アッと驚く為五郎」でロックンロールして、これもまた面白い。
 ちなみに「アッと驚く為五郎」というのは浪曲の広沢虎造の清水次郎長伝に出てくる決めセリフなんだよ。虎造も粋だから聞いてね。チャンチャン。

                                                                    03/07/28



昭和編7/ロックンロールからロックへ

 昭和四十一年六月、ビートルズ来日。新宿厚生年金会館のようなところでは収容が間に合わないので日本武道館で五回公演が行われることになった。
 中一の時に新聞で読んで応募しようかとも思ったが、東京に出てきたばかりの少年はそこまで踏み切れなかった。だいたいワタシはくじ運が悪いし。
 五万枚に対して二十一万枚の応募ハガキがあったとされる。チケットは余っていたという説もある。高校生にも買えるようにということでチケットは二千円台だったんじゃないか。当時LPは二千八百円。六月二十九日の来日から日本を離れるまで、延べ一万人近い警官が警備に動員され、六千五百人が補導されるという大騒ぎだった。
 過剰警備、つまり、ただの女子高生をこづき回すようなことが行われていた。当時は全学連のデモの警備に慣れていた。七十年安保弾圧の予行演習になったともいわれる。何が起こるか予測できないので心理学者に綿密な対策を立ててもらった。『頭の体操』の多胡輝である。
 会場に詰めて見張っていると、彼は、謎の人物を発見した。彼と同じようにステージを向かず、ステージ側から客席を眺めている男がいた。それは三島だった。
 武道館のような神聖なところを訳の分からない不良グループに使わせるなんてという議論もあったようだ。ゴミの島でやればいいとか。何はともあれ日本における一万人規模のコンサートの始まりで、日本のグループは武道館でやるのが目標となる。
 もっとも、当時の機材では悲鳴と歓声ばかりでほとんど聞こえなかったはずだ。出来もよくなかったので、これ以来、ビートルズ演奏はヘタ説がある。しかし、どのロック・グループだって実は演奏はヘタ、というかライブは荒い。レコードではスタジオ・ミュージシャンが演奏していたりする。ビートルズは自前の演奏だ。
 音楽評論家などの業界人は価値が分からないで、むしろ、三島由紀夫や大島渚、クラシック畑の武満徹などがビートルズに注目していた。もちろん衝撃を受けたのはティーンエイジャーである。
 中学に入って夏の臨海学校に行ったら、誰か先輩たちがビートルズをハモって歌っていたので驚いた。少年たちはベンチャーズでエレキを手にして、ビートルズに触れて自分で曲を作って演奏し歌うことを始める。
 最初に自分で買ったレコードはビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」とか「ツイスト・アンド・シャウト」などの入ったEP、すなわち、三十三回転、四曲入り五百円也だった。四十五回転で二曲しか入っていないシングル盤よりずっとお得な気がした。夏休みになると東芝独自の赤いビニール盤の来日記念盤を買った。これが初めて買ったLPだ。
 ローリング・ストーンズがリズム・アンド・ブルースやロックンロールの有名曲をストレートにカバーするのに対して、ビートルズは、割合、B級のガールズ・ポップスみたいなのをカバーしているのが洒落ていて面白い。ハーモニーはエヴァリー・ブラザースに学んだ。子供心にもティンパンアレー製の綺麗なポップスとは違う、ちょっとへんな味に惹かれていた。
 彼らのアイドルはバディ・ホリーやエディ・コクランだった。自作の歌をギターを弾きながら歌う。二人とも二十代初めという若さでありながら相次いで事故死した。最近、DVDで見たらエディ・コクランのリズム・ギターのドライブ感もなかなか凄い。ビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」なんかもこの感じだ。
 今、こういうギターを弾く人がいなくなってしまった。これも世界文化遺産だ。ジョン・レノンは自分のリズム・ギターはバンドをドライブさせることが出来ると自負している。クラプトンも誉めてくれたと。
 ロックンロールをロックというジャンルに進化させたのはビートルズだ。アルバム「ラバー・ソウル」、これも黒人にはなれないことに対する開き直りかもしれないが、続く「リヴォルヴァー」で新たな世界に入った。モノクロ・ジャケットは今でいえば脱アイドル、アーティスト宣言か。
 このアルバムは来日前後に制作していたことになるが、今までの一発録りに近い感覚から、スタジオ・ワークに力をこめる。ガキがキャーキャー騒ぐだけのライブ・ツアーや「アイドルという身分」に嫌気がさしてきたようだ。全速力で疾走できるのは三年位のものなのだ。
流行歌から歌謡曲へ
 都はるみが、デビューした頃は演歌なんていわないで流行歌といったなんて話していた。すると歌謡曲って一体なんだろう。
 ベンチャーズ、シャドウズのコピーから寺内タケシとブルージーンズなどが出て来たが、ビートルズ、ストーンズ、アニマルズらの刺激を受けて日本でロック?をやった先駆けがスパイダースやブルーコメッツである。
 アイドル化したグループとしてタイガースやテンプターズ、ワイルドワンズなどが続き、グループサウンズとか和製ポップスとか呼ばれていた。いかにもヘタクソなまがい物という感じで、ワタシは好きになれなかった。ロックのコピーはむちゃくちゃ下手だった。
 当時、果たして日本語でロックは歌えるかなんて議論がさかんになされていた。ジャックスとかハッピーエンドの名前が出てくるが、これにも興味はなかった。
 日本語のロックを完成させたのは山口百恵かもしれない。先日、赤坂にある阿木耀子の店「ノベンバー11」に行ったら、控え室にチャック・ベリーの大きなポスターが貼ってあった。さては宇崎竜道のアイドルということか。
 ロックから出た宇崎の曲作りと、プロデューサー的役割を果たして、アイドルではなく歌手、あるいは少女から女へという山口百恵の魅力を引き出した阿木耀子の組み合わせは特筆に値する。
 「バカにしないでよ」はそれまでの作詞の流れからは出てこない。これはロック魂だ。
へんにコブシを回さないで、スパッと歌いきる百恵も偉い。百恵の出生の秘密はロック的だが、結婚してハッピーエンドというのはロック精神からはずれる。アーティストの私生活というのは不幸なものだ。もう一回やり直すと面白いが。え、その代わりに桜田淳子が復活するって?
 和製ポップスという中途半端な状態から、日本語でロックを歌うようになったのが「歌謡曲」なのかもしれない。今や「演歌」だってほとんどオフビートである。
 ワタシがコンサートに行くようになった十五歳前後の頃は、オジサンたちが曲に合わせて手拍子を打つと必ずオンビートになっていた。これもホントに昔話だね。 
 山口百恵の名を出したら、もう一方の雄?はピンクレディーである。この頃は「ザ・ベストテン」という番組で久米宏と黒柳徹子が司会を勤め、歌謡曲の黄金時代だった。もう、これは歴史の時間だね。
 百恵は一代限り?だけれど、ピンクレディーというのは阿久悠のプロジェクトなので、ある意味ではミーとケイの二人でなくても続けられたかもしれない。
 楽曲的にはこちらの方がポップスのイメージが強いが、小泉文夫が指摘したように、「あんたがたどこさ」などの童歌の音階が策略的に使われている。とっても業界的で面白い。百恵がビートルズならピンクレディーはモンキーズということか。
 ピンクレディー解散の後、同じようなプロジェクトで継続することも不可能ではなかったと思うが(ビューティペアの後にクラッシュギャルズが出たように、あ、ちょっとはずしたかな)、ある意味でモーニング娘なんかは、ツンクの考えたピンクレディーなんじゃないだろうか。だいぶ、タマは悪いけれど。
 

                                                                    03/08/23


昭和編8/ガツンとくる

 物騒な世の中になってきて、懐古趣味のせいか昭和ものが流行っている。音楽もリメイクが多い。昭和の歌謡曲について書かれた本も、ふと気が付いてみるとずいぶん出ている。
 当時は歌謡曲というより流行歌と呼ぶのが普通だった。ポピュラーソングの訳語だろうか。そして、流行り歌は日本の歌のみならず、欧米や第三世界の歌もカバーした。
 ビートルズを招聘したキョードーの永島達司は、米軍基地へのミュージシャン派遣から出発し、やがて、ジャズ歌手の草分け笈田敏夫とナンシー梅木のマネージメントをする。「テネシー・ワルツ」をヒットさせた江利チエミを手掛けたこともあるが、彼女も当時はジャズ歌手、しかも吉本興業の所属だった。永島は、英語の歌詞なのに何でこんなに受けるのかと林正之助や田岡一雄に聞かれたそうだ。昭和30年前後の話だ。
 美空ひばりのジャズも結構上手い。流行歌手のレパートリーはジャズなどのアメリカのポピュラー音楽のみならず、カンツォーネやシャンソンもカバーしていた。ラテン音楽も含めて三味線ではなくバンドで演奏するものはジャズというくくりだったのだろうか。カレーライスも洋食だからなあ。
 ザ・ピーナッツもひょっとしてジャズ歌手か。それはともかく「シャボン玉ホリデー」で何でもかんでも歌わされ、演らされ、踊らされ、必死でこなしているけなげな子供たちだったのだ。
 小学校の頃になると洋楽には日本語の訳詞が付いていて、その多くが漣健児の手によるものだった。歌謡曲と思って今聞いてみると、バックはジャズ。結構、好き勝手にアドリブっぽいサックスが入っていたりする。子供の頃は歌しか耳に入らなかった。
 そんな日本の音楽状況に殴り込みを掛けたのがベンチャーズである。これは歌ものではなくてバンドものである。ジャズはすぐにできない子供たちも、コード進行やリズムの単純なエレキ・バンドを真似するようになる。四人集まればよい。そしてやって来たのがビートルズ。ついでに、歌も歌ってやれと。

ビートルズ・ショック
 ビートルズは「固まりもの」だ。歌手がいてバックがいるというスタイルではなくて、バンド演奏と三人の歌が一丸となり、ガツンと飛び込んでくるところが新しかった。荒れた声が歪みの多い電気楽器の音色とマッチしていた。
 また、プロになるトレーニングをしてから歌手や演奏家になるのではなく、歌を作って人前で演奏しているうち、いつの間にかプロになってしまうという形が出てくる。
 聞く方も、「あなた歌う人わたし聞く人」ではなくて、同じレベルになる。素人なりの自作自演という意味ではなく、例えば、ビートルズの武道館コンサートに行って、叫んで泣くことによって「演奏に参加する」ようになる。もはやコンサートは手を膝にのせて観賞するものではなくなってしまった。
 この辺が大人には分からなくて、酷評された。古本屋で買った「ビートルズってなんだ?」(講談社文庫)に53人のレポートが載っているが、今日でも通用するようなことを書いたのは数人である。
 作曲家林光のヘタ論議が面白い。また、草野心平なんて、当時でもすでに爺さんだった人がビートルズに惹かれたなんて話を読むのは興味深い。
 大人は十人いれば九人半は反ビートルズだった。いわゆる識者、音楽家、音楽評論家が罵詈雑言を浴びせたが、これこそエリザベス女王からもらった勲章よりはるかに価値のある真の勲章だ。いまやそのビートルズが「教養」になっているのだから皮肉なものだ。
 ビートルズ・ショックの日本的な消化の仕方というのもなかなか面白い。アニマルズの「悲しき願い」を尾藤イサオがカバーしたが、バックはジャッキー吉川とブルーコメッツみたいだ。彼等はなぜかグループ・サウンズと呼ばれた。

プロジェクトXの時代
 美空ひばりの「真っ赤な太陽」の伴奏もブルーコメッツ。ひばりはオールラウンダーなので、マンボにドドンパ、ハワイアン、ツイストと何でも出しているが、「さのさブルース/ロカビリー芸者」のカップリングはちょっと聞いてみたい。 
 演歌のイメージの強い橋幸夫もサーフィンのリズムで「恋をするなら」をものにしている。植木等「遺憾に存じます」のイントロはビートルズ「抱きしめたい」のパクリだが、バックでベンチャーズばりのエレキが炸裂する。誰かと思ったら寺内タケシだった。実は千昌夫もエレキ歌謡をやっている。演歌というくくりも怪しいものだ。
 レコード会社側ではこうしたパッケージで対応した。一方、ウエスタン・カーニバルの頃からロカビリーをやっていた、かまやつひろし等はスパイダースを結成して、アニマルズやビートルズのコピーをした。
 さらに、演奏するアイドル・グループというコンセプトだけいただいて、タイガースやテンプターズ等を売り出し、GS全盛時代を迎える。雨後の竹の子のように、のこのこと素人同然のグループが、続々レコード・デビューするが、これも一過性だった。
 ビートルズやボブ・ディランのメッセージ性というのはフォーク・クルセーダースなどのフォーク歌手が受け継いでいく。反骨のマイナー精神を持つオヤジが多く、商業的には松任谷由実等のいわゆるシンガーソングライターが成功する。
 反骨精神は、決して反体制というような大袈裟なものではなく、紅白歌合戦に出ないということでしか発揮できないようだが、中島みゆきに続いて、御大も今年は出場するか。 和製ポップスとかフォークとかいっても、アリスやさだまさし辺りは演歌にくくった方がよほどぴったりくると思うし、日本語で歌う以上、所詮は歌謡曲である。それが悪いと思う感覚の方が倒錯している。
 布施明も昔は「霧の摩周湖」とか「シクラメンの香り」とか歌わされるのがいやだったそうだが、最近はそれが自分の財産なんだと思えるようになってきたという。
 流行歌、歌謡曲の歴史というのもハイブリッドそのもので、何が演歌なんだか歌謡曲なんだか、つねに目新しいものを取り込んで生成している。
 プロジェクトXではないが、昭和時代にアメリカは遠い国、直接に触れ合うことはなかなか出来なかった。そこでアイデアだけもらって自分で工夫し、それらしいものを作っていったのが歌謡曲の歴史だった。
 平成に入り十年以上経って社会も心もデプレッションが進むと、バブル期のヴィジュアル系バンド、あるいはチャゲアスや小室音楽みたいな、聴くと疲れる系が退潮し、癒し系という言葉がさかんにいわれるようになった。
 それがポップスでいうと何になるのか分からないが、音楽はもともと癒すものである。コンサート、リサイタルというのも宗教儀式のようなものだ。泣き叫んで失神するビートルズのコンサートは異教徒のミサだった。
 しかし、音楽を聴かないで鳥のさえずりや秋の虫を聴いていた方がよほど癒される。
 え、電気的増幅をしたエレキやビートルズはだから駄目だっていうのか。オヤジの議論になるのかよ。ちゃんちゃん。
   この項終わり

                                                                    03/09/28



PAGE TOPへ

HOME PAGEへ