知足

 知足とは、“足るを知る”で、<老子>からの出典であり、宗教、特に禅宗では、人間の欲を戒めるために、よくこの言葉を引用するようです。“足るを知る”とは、字句のとおり、充分に満ち足りていることを知り、不足感を持たないということです。

 人間というものは欲が深く、“足るを知る”ということがないようです。人間は、満足するということを知らず、充分な金や物を得ても、さらに欲張って、『より多く、もっと欲しい』と、自分に快楽をもたらすものを際限なく追い求めるようです。この世に生きるほぼすべての人間がものに飽かされるということを知らず、『もっと、もっと』と、金や物、名誉や名声、地位、権力などの現世的な功利を求めて奔走すると言っても過言ではないでしょう。足るを知って、慎み深く生きる高尚な人は、この世にはそうそう存在しないものなのかもしれません。

 なぜ人間は満足することができないのでしょうか。それは、人間が生の本質を理解していないからです。この地上のほとんどの人間が生の本質を理解していないと言っても過言ではありません。生の意義、生の本質を知っている人であれば、財物や名利という、物質界で快楽をもたらすものなどに執着を示すことなく、生を維持するのに必要なものだけで満足して、この世の生を楽しんで生きていくことでしょう。そのような人は、現世は自分が霊的に上昇していく過程における一段階にすぎないことを知っていますから、物質に捉われて物質現象界に引き留められることを厭い、速やかにより高次な生へと上昇することを願って、自己の精神的な成長に重きを置いて生きていくのです。

 人間として生まれて、生の意義を知らないということは悲しいことです。生の意義を知っていれば、心に不安や悩みを抱えて、現象界でのこの生を卑小なものにすることもなく、自己の生を充実させて喜ばしいものにすることができるでしょう。そして、死に対しても恐れを抱くこともなく、より高次の次なる生を確信できて、絶対安心の境地に住することができるのです。

 人はどうしたら、生の意義を知ることができるのでしょうか。生の意義を知って、現世のこの生を充実させるために、人はどうしたらよいのでしょうか。人々は、日々を忙しく働き、そして日常の雑事に流されてしまって、生の哲学を学ぶということをしないようです。この世界で生きるために必要な知識は、学校で義務教育として私たちに施されたり、また、私たちが成人して働くようになったとき、世の中を生き抜く実際的な生活の智慧、いわゆる世間知という形式で身につけることが可能です。しかしながら、生の意義、生の本質というような形而上学的な知識は、学校や自分の周りにいる人々から学べるものではありません。生の意義を知ろうと発心して、正統の宗教や哲学の書物に触れて自分から学ぶことをしなければ、人は終生、生の意義を知ることができないでしょう。

 人間がこの物理現象界で生きていく上で、まず第一に優先されるべき事とは、自己の生を維持することです。与えられたこの肉体生を寿命が尽きるときまで無事に生き抜いていくには、日々の生を安心して安全に暮らしていけることが、すべての人間にとって最も重要なことでしょう。そのために、人間は働いて金を稼ぎ、その金で生活に必要なものを購って、肉体生を維持していくのです。人間には、肉体生を維持しなければならないという、物理現象界での制約があるために、人間はどうしても即物的にならざるを得ません。人間は、肉体生をつつがなく全うできればもうそれだけで充分なことであると考え、それ以上のこと、すなわち肉眼では見えない世界、不可視の霊や精神進化という事柄は、生を維持するだけでも大変なこの物質界においては二次的なこと、あるいは無意味な事柄として閑却してしまうのです。それゆえ、人間は、形而上学的な生の本質、生の意義というものに対してはなかなか目を向けられないのです。

 しかしながら、人間の本質である霊性、精神性を忘れ、そして生の意義というものを顧慮することなく、物質界での肉体生のみに心が沈潜して、物欲的な生を続けていくならば、人は精神進化の道で停滞してしまい、ますます物質に繋縛されてしまうでしょう。物質に繋縛されるということは、現象の物質界に長く引き留められ、霊性における上昇が遅滞してしまうということです。基本的に意識は、霊性においてより高次の内在性へと向かって上昇するものです。その意味は、人間として顕れた個々の意識が、意識の本質である純粋意識、意識の普遍性へと向かい、神性へと昇華することです。

 私たち人間というものを成り立たせている意識は、人間の根幹のものであり、人間の深奥の本性です。そして人間の本性である意識というものは、目には見えず、具象的なものではないゆえに、多くの人々は意識というものについて具体的に思考することができず、その本質や普遍性について把握することができないのかもしれません。しかし、人間というものは、すべての人が意識的であれ無意識的であれ、心の奥底で自己の存在意義や存在の目的を模索しているものだと思います。その理由は、人間とは意識であり、そしてその意識そのものが、存在することの意義、そして上昇することの意義を基本的に把持しているからです。万人が自己の存在意義や生の目的を心の奥底で模索しながら現世の生を生きているのですが、人間は物質で成り立つ物理現象界に生きていますので、生における存在の意義や目的が、本来向かうべき意識という、形而上で把握されるべき対象からそれて、人間にとって把握しやすい具象的な世界、すなわち物理現象界で適合する観念となってしまうのでしょう。従って、人間は、心の奥底では生の意義を模索しているのでしょうが、人間の本質である意識という、形而上の実体に向かわないので、多くの人々は生の真実を悟得することができないのでしょう。

 人が生の意義を知りたいと心から願うのならば、人は真正な宗教や哲学の書物に触れるべきでしょう。宗教や哲学は、人間の本質を探究する学問であり、物理を超えた領域を思惟する形而上学です。人間の本質を探究するとは、人間存在の意義や人間の本性である意識について理解を深めていくということでしょう。それゆえ、宗教や哲学を学ぶことによって、生の意義を認識して、この現象界に生きる意味を自分自身でしっかりと把握すれば、<知足>の深い意味も自ずと理解できて、『もっと、もっと』と、ものを欲しがる卑しい欲の心が消滅して、意識進化の道に足を置いた高尚な人間となることでしょう。