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ドリームタイムと出会うべく、野外円形劇場ラフレシアにて芸能の源をさぐる大阪の劇団「楽市楽座」の座長・作・演出・座付作曲演奏家・役者の長山現。そのお日さん西々的思考の歩みをドキュメントします。 とうとうブログはじめました! http://yaplog.jp/nagayamagen/ |
ここ1年位の散歩道がどこかに行ってしまいました。さようなら、この1年!? 今どき主流のブログ形式に背を向けて、このままボチボチと再開することにします。また、ひょっこり出てくるかもしれんし。 で、皆さんからの書き込みもしばらくはできません。 散歩道へのコメントは楽市掲示板にお願いします。(それ以前の過去ログはこの頁の下にリンク) from 2001年08月31日 16時52分09秒 ララパルーザ「オヤジのわがまま」(2007年5月28日) 昔はね、小劇場というかアンダーグラウンドというか、そういう芝居は刺激的な新しいことをやる場所だった。 けれども、新しいことというのもいつもいつもあるわけじゃない。アングラをマネる位なら、オーソドックスな方がずっといい。 最近、少しずつ芝居の本の良さがわかるようになった。これは実際に本が良くなっているのか、それとも、本の良さがわかる、違いがわかるいいオトコに私がなったからであろうか。劇作家の評価ばかりが高いせい? この芝居も、本がまずいい。そして、それぞれを演じる役者たちがいい。 いろんなことを、あえて書かない芝居。そうそう、書いて説明する芝居が多すぎるし、客はいろんなストーリイをもうすでに知っているから、書かなくてもいろんなことを想像できる。わかるであろうことをタタキつけるように書く必要はない。 この「あえて書かない」ということが、この芝居では方法論でもあると同時に、母の「あえて問わない」とか「すべて飲み込む」というところにまっすぐにつながっているんだよなあ。これは家に帰って気がついたことなんだけど。 ちょっと昔なら、こういう母はむしろ非難されたかもしれない。けど、今はむしろ重要だと思う。母も父も。母であり、父であることが、どんなにむずかしい時代だろう。もう私たちはなれないかもしれない、そんなオフクロであり、オヤジ。それこそ「先生」と呼ぶにふさわしい。 いろんなことを書かずにいながら、「謎」で物語をひっぱっていくというのも、あらためて新鮮だった。どんどんいろんなことが起きるのではなく、ナゾが少しづつアキラカになっていくのだ。これもオーソドックスでいい。 最後になって、火事が起きる。こういうクライマックスは寺山がよく使った手法だ。じつはすごくあっさりしているやり方なのだ。物語の外から突っ込んでくる。これがね、そんなにリアリティがないんだけどね、よかった。リアリティが全てじゃないんだな。それでいて、母とこの先生の対比がすっきりと見えてきて、この劇のテーマがくっきりする。みごと! キリコも含め、そういう劇構造を考えさせてくれたし、なによりたっぷり楽しませてくれた役者たちに拍手! ほとんど女優たちの饒舌と含み。一方、田口さんが演じるオヤジは「あえて言わない」という部分はほとんどなく、それがわがままなのかなあ。じつは、こういうオヤジやオフクロへの否定で、現代は成り立ってきたということも、改めて感じたことの一つ。 この1ヵ月(2007年5月13日) あっという間に1ヵ月が過ぎてしまいました。忙しいのもあるが、なんとなく心せわしなく、ザワザワ。落ち着きなく過ぎてしまう。やはり、春のためだろうか。 その上、昨日から虫歯まで痛みはじめ、ああ、歯の虫までが冬眠から覚めて沸いてきたみたいだ。 自分自身のために、ざっと、この1ヵ月を振り返っておくと・・・。 「恋の大和路」(宝塚バウホール)「冥土の飛脚」の宝塚版なんだけど、意外と(?)明るくて楽しい。客の中で浮いている自分が恥ずかしい。それにしても、このタイトルって! 男一人では来るなって? 「ベルギー美術館展」(国際美術館)ブリューゲルの絵が意外と小さいのと、色がまるで町並みみたいだ。アンソールの現物に何とも言えず心惹かれ、マグリットにうっとり。 「サキタハジメ ノコギリライブ」(見感倉庫@奈良)はじめて体験。すごい浮遊感。挑戦したいと思うも、これ以上いろんなことに手を出すわけにはいかぬと断念。 「唐組公演」久しぶりの十貫寺梅軒は、やっぱりあの好きだった十貫寺梅軒! 唐組はやっぱり奇跡を呼び込むなあ。こんなにシンプルな演出で、こんなに引きずり回される劇はない。唐十郎にちょっと元気がなかったのが気がかりだった。 「ゲーテとの対話」(エッカーマン)全3巻をやっと読み終えた。何十カ所も赤線を引いた。読みながらいろんなことを確認し、小さな自信さえもらった。ゲーテのような大らかな人格にはとてもなれないだろうが、いろんなことが見渡せる。芝居をやっている人、なにかを作っている人は必読。ちなみに、ニーチェもずいぶん読み込んだらしいというのに驚く! 反面教師として読んだのか? 「守銭奴」(モリエール)ドタバタ喜劇なのだが、愛に溢れてる。ラストはほとんど「オチ」で、これでいいんだよなあと同感。モリエールは座長でもあり、苦労話が解説にある。 「ロミオとジュリエット 恋におちる演劇術」(河合祥一郎)「ロミオとジューリエット」(平井正穂訳)と併せて読む。ロミオがどうやってジュリエットに出会って14行でキスまでこぎつけたか・・・といっても、恋の指南書ではなかった。しかし、シェイクスピアの作劇術はまさしく「演技のサーカス」だ。時間の飛ばし方、場面と飛び方、感情の飛び方、いずれをとってもスゲエ。とくに「ロミジュリ」は、大好きなのだ。読み返して思った。こんなに下ネタ満載だったのね。笑い、笑い、笑い、そして、急激な涙! 参った! シェイクスピアには本来「場」の表示もないし、ト書きもほとんどない。そこが演技のサーカスたるゆえんなのだ。 「日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか」(久坂部羊)医者が書いた本なのだが、長生きはどこまでいいことかと疑問を述べている。いろんな意味で目からウロコ。しかし、親に読ますわけにはいかんか。 「わが悲しき娼婦たちの思い出」(G・マルケス)「眠れる美女」(川端康成)「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」ではじまるG・マルケスは、川端の小説をヒントにしている。そっちの冒頭は、「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」なのだが、どうでしょう? この二つの比較で、ほんとはいくらでも書けるだろうな。 「なぜ日本人は劣化したか」(香山リカ)久しぶりに彼女の本を読む。「私の愛国心」以来だ。今回は、とくに数値を上げながら、いかに日本における「活字」、「モラル」、期待されるはずの「コンテンツ事業」、「若者の生きる力や体力」、「社会」、「寛容」とか「忍耐力」など、全てが衰退・劣化してきているかを解く。その根底には新自由主義政策があるとする。確かにそれもあると思うのだが、私には、新自由主義政策もすでに一つの帰結だとさえ思える。明治からの「追いつけ、追い越せ」精神が、とうとうここまで来ているのだ、と考えるからだ。 香山リカさんは批判的だろうけど、このあいだはじめて「オーラの泉」を見た! 江原という人、オモシロイ! 熱狂するほどのことはないが、私は丹波哲郎も好きだったので。スピリチュアリズムは、キマジメじゃない方がいいというか、キマジメではいけない。 次回公演? まあ、ボチボチと進行中! それはまたお知らせします! 夏目漱石「吾輩は猫である」(2007年4月14日) なかなか秋公演の準備が進まないのだが、日程と場所は決まった。10月5〜8日、場所は中之島の科学技術館北の空き地。残念ながら、いつものクスノキはないが、広々している。川も少し遠い。ラフレシアはいつもより乾いた場所に咲くだろう。 公演準備はまだなのだが、出演者は少しずつ決まってきたし、体力調整のためにプールで泳いでいるし、ギターの練習にも精を出している。 さて、「我輩は猫である」を読みました。芝居の参考というわけではない。ずっと読みたいと思っていた。面白い! なかなか声を出してまでは笑えないのではあるが、クククと何度も笑った。ちょっと落語でもある。後半に行くにつれ、その言葉・観念は強烈になっていく。特に、最後のあたりにある個人主義が行き着く果てのギロンはスゴイ。このまま文明が進めば、死は自殺しかなくなり、中学校では倫理の代りに自殺学を教えるようになる。個人主義のために結婚は不可能になる。芸術も皆が作り手で、人の作品は理解できなくなる。冗談めかして書いてはいるが、たぶんこれらが漱石の生涯のテーマになっていったのだろうと思う。このテーマは今もあり続けて、むしろどんどん大きくなっている。自殺は増え、離婚と未婚が増え、出生率は下がり、小劇場なんてもんが存在する。たぶん、私の「お正月」もこういうこととリンクしている。 最初、この1節を書いたときは、続きを書き続けるということなど考えていなかったらしい。タイトルもなく、最初の一行を別の人が勝手にタイトルにし、面白いからもっと書けと言われ、書き続ける。書き終えた後、漱石は次第に作家になっていく。角川文庫で読んだのだが、巻末に漱石の文章が載っていて、その文章がノホホンとしていてありがたい。 漱石はこれを39歳で書き上げて、49歳では亡くなっている。たったの10年間なのだ。・・・衝撃。漱石は、その10年でなんらかの光を見つけたのだろうか。 最後に、写真で見ると、夏目漱石って男前だよなあ! 「気休め」について(2007年4月11日) そろそろトップページを整理しなくては思いつつ、書き込む時間もなかなかなくてイカン。 「気休め」という言葉について考えてみたい。いや、未来形なんで。これから考えてみたいなあと。 だいたいアカンよな、気休めだわな、と使われるのだが、じゃあ、気休めじゃないのはなんやねんと考えてみると、ほとんどがやはり気休めだったのではないか、いわゆるテツガツというもんは。もちろん宗教にしても。ひょっとすると愛さえも。 このザワザワした胸の中、ウロウロする心理があまりに重くて、なんとか一本スジを通したいという思いはなにか確かなものを求めるのだ。 他人から見て、「それはぜんぜん確かなもんじゃないよ」という場合、そいつは「気休めでしかない」というわけなのであるが、ときには、自分で「気休めってことぐらいわかってらい」というものもある。気休めであるとわかっていながら、気休めでいいから、とりあえずすがっておこうというものだ。 なんとなくなのだが、そういう気休めちうのがイトオシイのである。ジンクスなんちうのは一番の気休めだが、いや、ヘタすると弱点にさえなるのだが、そういうもののありようが、なんともいえない気がするのである。 宗教やテツガクに比べて、芸能というのはしばしば気休めにすぎない。かなりの部分までウソでしかないし、その根本的な世界観にしたって、半分以上ウソだったりする。場合によっては、たんなる仮説みたいなものかもしれない。スターに惚れ込むのも、人生にとっては気休めでしかないかもしれない。 虚実の「実」が気休めではないマコトであるのであれば、それはいかほどのものだろうか。「ほんとに?」「ほおんとうに、ほんとに?」と聞かれて、「まあっことほんまじゃあ!」と、タンカを切ってみせることにしたって、それはいかほどのものだろうか。 ああ、そういう美しい気休めの存在を信じたいのだ。・・・これも気休めなのか? などというようなことを、ちょっと気休めに考えてみたりしたいと思っているのです。人類が常に根源的な不安にさらされている生き物としてあるとするなら、この「気休め」というのは、もしかすると非常に大きなテーマかもしれないとも思うわけです。そして、宗教や哲学以上に芸能が人類に重要な理由も、もしかするとそこらへんにあるのかもしれません。 劇燐「猟銃ノナク」(2007年4月1日) 今回の劇燐はいい。銀行乱射事件を起こした梅川の心理を追ったものなのだが、私は不覚にも涙してしまった。正義と共感は別のものだ。 劇はとてもオーソドックスに作られていて、たぶん今回がはじめてである作の檪原氏(イッチーのことね)はかなり大竹野氏(くじら企画)の影響を受けている(先日会ったときも大好きだと言っていたし)のだけれど、そのスタイルに溺れることなく、丁寧に描いている。そして、役者も熱演。梅川を演じた出本も若いのだが必死さが伝わる。いいなあ、直球。 次回の楽市出演が決まっている篠原さんがまた、スバラシ。いや、身びいきじゃなくて。酔っ払いで嫌がられる女を演じていて、これがオモシロク、みんな笑う。 このところいつも出演してくれている西宮さんも、年寄りのお母さんを真面目に丁寧に演じていて、最後の梅川と母のシーンに胸をしめつけられる。 今までの劇燐とは全く違うスタイル。音楽も全てクラシックで、不思議な感じ。大胆なことや思わせぶりなことはしていないのだが、細かいいろんな工夫をした演出。それぞれの役者にあった役の設定。 こういう芝居がまた、ウイングフィールドはすごく似合う 劇燐に拍手! 私だったら、梅川をどう描くだろう? まず、時代を描くかな。昭和54年、1979年。遅れてしまった闘争者。あてのない革命。なぜあの銀行を選んだのか。この年はオイルショックの年でもある。<BR> たぶん、私が大学に入り、大阪に来た翌年だ。当時、劇はやはり一つの闘争だったし、自らのシラケとの闘争だった。その年、私は初めての劇を書いた。それは眠っったような町に起きた事件を載せた新聞紙を貼り付けてまわる、シスコンの少年の話だった。今回、この劇を見て当時の自分を思い出した。そして、それは実は今の若い連中であるのかもしれない。 劇中、梅川が否定しようとした周囲のくだらなさは、当時は「プチブル的なもの」「小市民的なもの」と呼ばれていたものかもしれない。これらの価値は、現在全く180度変わったと思う。今見ると、そのへんにおいて梅川の否定は小さく見えてしまうのかもしれない。 上野の美術館めぐりとフランダースの犬(2007年3月26日) なかなかここに書き込むヒマがない! ねんけど、先日上野の美術館を駆け足でハシゴした。「オルセー美術館展」「イタリア・ルネッサンスの版画」それと西洋美術館の常設展。ほんとに駆け足でもあったのだが、考えてみると欲張りでバカな見方だ。 オルセーはテーマ別という展示で、その感性がわからん。その中で、セザンヌのヴィクトワール山の透明さとゴッホの室内を描いた絵が間に一枚はさんで並んでいて、なんだか不思議。どちらも影がまったくない。セザンヌが画法だからともかくとしても、ゴッホはわざと影を消しているとしか思えない。あと、ルネ・ピオという画家をはじめて知った。ジイドの家で壁画を描いたらしい。マチスのダンスに似たモチーフ。 版画は細かい! なんで版画家ってのは細かさを競う? グロテスク模様という、オバケのアラベスクにほへ〜と感嘆。 で、ついでに入ってしまった常設展がす、すごかった! 大阪に来る前、つまり小学生〜高校生までの間に何度か来たはずなのだが・・・。入り口のロダンにまず圧倒され、それからテンペラ画の色彩にぼうっとし。すごいコレクションだ。こんなに買い集めてどうすんだ? 「フランダースの犬」では少年が最後に教会の絵をチラリと、風でカーテンがめくれて見ることができて死んでしまうのだが、あの少年は不幸でもなんでもなく、心底幸せだったのではなかったか。少年は苦労の果てに、あの美しさに触れた。犬ももちろん幸せだったんじゃないか? 可愛そうと思う(私もそう思ってきたんだけど)私たちの方こそ、よっぽどかわいそうなのかも。そう作者は言いたかったんじゃないかと、原作もきちんと読まずに夢想する。テンペラ画の色彩を駆け足で眺める私(予定に遅れそうだったので)なんかは、ほんとにみじめなもんかもしれない。 パフューム ある人殺しの物語(2007年3月13日) 「詩人たちはみんな、まるで自分たちは病人であり、世界全体が病院であるみたいに書いているのだ。(中略)もともと誰も不満を抱いているのに、その上他人をそそのかして不満をつのらせるのだ。これこそ詩の濫用だ。詩は本来人生の些細ないざこざをなだめて、人びとが世界や自分の境遇に満足するように仕向けるために与えられているのだ。ところがいまの世代は、本当の力をすべて恐れ、弱弱しいものに惹かれる場合にだけ、情操ゆたかで詩的な気分になる。(中略)私は彼らの詩を『病院文学』と呼んでやろうと思う。」(「ゲーテとの対話」より) もう少しロマンティックな映画を期待していたのだが、いやはや全くのホラーでしたね。私が敏感すぎるのか、緊張の連続で、見終わったらぐったり。途中で逃げ出そうかと思った。しかし、物語はとんでもなく面白い。面白いけど、もう見たくない。なんなんだろう、これは。そういう映画が増えている気がする。面白いとか強烈だとかいうことが、しんどいね。 ついでにいっぱいグチを言っておこう。なんでしょうね、最近の、このシュゴウードカンっと効果音つきの映像は。地面をなめながら走る視線は。虫眼鏡と望遠鏡を行ったり来たりするズームは。つかれるんだなあ、オジサンは。椅子から飛んだり、ズリ落ちたり。いいセリフがないしね。物語はとてつもなく面白そうなんだけど、ラストもオチにしかならないし。なにより、たいして匂ってこないのが致命的。これは「映像」と「音響」に頼りすぎてるせいだろうな。テンポも速すぎる。シュゴウードカン的映像は、もう、ほとんどの映画がそうだね。けっこういい映画もあるんだけど、ここまでアレもコレもとなると、いかがなものか。 いや、相当面白かったのだなあ。もしかすると、原作を読んでみるかもしれません。しかし、もはやテクノロジーによる美学は行くところまで行ったという感じ。映画としての物語の作り方、刺激的な、効果的な見せ方、組み立て方。もう限界かもしれないなあ。よかったなあ、私はそっちに行ってなくて。こんなにスゴイ物語で、これだけ刺激的な映像で、それでもなんか不満を言う私みたいなお客がいるんだから。そういや、この監督の「ラン・ローラ・ラン」だっけ、あれもやっぱりそう思ってしまいました。ごめんなさいね、グチばかりで。後半はだんだんこなれてくるんだけど、前半、とくに冒頭が格調低いんだよなあ。あれじゃただのホラーだ。 もしこの物語をパゾリーニが撮ってたらと夢想してしまう。もっと即物的に撮れたんじゃないかな。シロウト俳優たちの、生なザラザラした笑顔がいいんだよね。この映画では久しぶりのダスティン・ホフマンがよかったな。鼻がでかくて選ばれたんでしょう、きっと。白塗りで頬紅つけてカツラかぶって、立ったまま居眠りして登場。ユーモアたっぷり。いや、さすが! 室生犀星「蜜のあはれ」(2007年3月11日) 国書刊行会の「日本幻想文学集成32」、矢川澄子編。いくつかの作品で編まれているのだが、表題のものがとくにスゴイ! 金魚が出てくるということで、キリコが見つけてきた。老人の作家と人間に化けることができるようになった金魚が、会話している。 「あのね、このあいひだね。あの、」 「うん。」 こんな会話にドヒャヒャとくる。「うん。」なんていう相槌がたまらなくいとしい。「うん。」と言っているのは老作家の方。室生犀星はこの「うん」をニヤっと笑いながら書いたんじゃなかろうか。 物語はシリキレトンボのようでもあり、あまりに幻想的でありながら、生々しくもあり、ちょうど楽市の劇のよう。私自身の先輩はこんなところにいたのかという思いなのだ。ブルトンも絶賛してくれるのではないだろうか。資質はぜんぜん違うけど。 コマゴマとしたことがたくさんあり、それらがいとおしい。古文体の詩人が、ある抑制をもって生き、作品を作っていたことが、どことなくわかる気がし、それが気持ちよく、美しい。 きっとタコみたいな人だと思う。ペタペタと吸い付くような。エロティックに、生々しく、肌でいろんなことを感じられる人なんだ あと、今「ゲーテとの対話」(エッカーマン)を呼んでいる。これがむちゃくちゃ面白いのです。また、紹介します。 菜の花(2007年3月6日) 今日、江坂の新御堂のそばの空き地に、菜の花がたくさん咲いていた。あれだけたくさん咲いているということは、よく淀川の土手で見かけるセイヨウカラシナではなく、誰かが菜の花を咲かせたんだと思う。 菜の花はスグレモノ。ツボミのおひたしは絶品だし、花は美しく飾れるし、タネからはもちろん菜種油が取れる。 「いちめんのなのはな」というフレーズが繰り返される詩を思い出した。いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな ・・・・ ひらがなばかりの詩の中に、まるで間違い探しのように、違うフレーズが隠れているのだ。 私たちは激動の時代を生きている(2007年3月5日) 歴史的な大きな転換点は、今までいくつもあった。ゲーテはフランス革命やナポレオンの激動の時代に生きたことをラッキーと思っていたし、私たちの親たちは、戦中戦後を生き抜いてきて、苦労もたくさんあったはずだが、やはり2度とない時代を生きたという実感を持っているはずだ。それが私は少し羨ましかったんだよね。遅れてきたような、シラケ世代としては。 今、現在が激動の転換点だということは、あまり感じられていないような気がする。なんとなく、静かな内向の時代を、少なくとも今の日本は味わっているようだ。平和ボケなどという言葉すら聞こえるし。 けれども、しかし、でもでも、じつはこの時代というのは、ひょっとすると人類史始まって以来、いや、生物史始まって以来の、激動の転換点かもしれないのだ。 温暖化が話題になっている。それもあるし、少子化もある。なにより、食糧不足ではないのに、人口が減るというのは、おそらく生物史がはじまって初めてのことではないだろうか。 テレビという受動的なものではなく、インターネットという世界との出会い。株価の世界同時推移も象徴的だ。生物としての欲望を、ついにヒトとしての欲望が超えたかもしれないとも思う。楽しさ、美しさ、権力、人生の意義、そういう「価値観」が生物的な条件を超えてしまって、飽食の中の人口減少が起きているかもしれない。 私たちは、スゴイ時代にいるのかもしれない。 そんな自覚を持っておきたい。 地球の気候が安定してきて、「季節」というものができたのは、ここ一万年のことだそうだ。 農耕が可能になって、やっと人類は「文明」というか「文化」というか、そんなもんを築いてきた。 今、その一万年の中でも、もっとも重要な転換点に、私たちは出会っている。 ポー「黒猫/モルグ街の殺人」(2007年2月28日) ここ一年ちょっとの散歩道が消えてしまったんだけど、このところはまっているのが、光文社の古典新訳文庫。やっぱり古典はええなあ。芝居でも歌舞伎や文楽、狂言、落語はええねんなあ。21世紀前半は新たな古典再評価の時代になるであろうな。しかも、光文社のこのシリーズ、訳のせいなのか、それとも私の個人的な事情もあるのか、いろんな小説がユーモアたっぷりに蘇る。このポーも同様でして、昔はグロテスクで怪奇趣味で、またそこが魅力的だったポーなのだが、今新しい訳で読んでみると、これがまた、ユーモアたっぷりなんだ。 作者の息使いというか、「ここ、おもろいやろ?」みたいな、ポーのおちょくりというか、クスグリが見えかくれするわけです。推理小説の元祖といわれているポーなんだけど、推理というより、「オチ」に思えてしまうのは、私自身が最近は劇のラストとかクライマックスとか思わずに、「オチ」とか「サゲ」とか思っているせいなのかもしれない。 その文章も、なにかの解説というか、説明書みたい。妙に分析的で。これは訳のせいもあるかもしれないけど、ポーの持ち味でもあるだろう。 この中の「邪鬼」というのははじめて読んだのだが、ヒトは心で思っていることとついつい反対のことをしてしまうという場合が多々ある、ということを、延々と書いている。落語のマクラにあたるのだが、ここらへんの論理、いや、リクツが果てしなくオモロイ。思わず落語調に翻訳し直したくなるのだが、いちおうそのまんまに引用しておく。訳は小川高義。 あるいは迅速に遂行すべき任務があるとしよう。遅れたら取り返しがつかない。まさに人生の一大事、寸刻を争う、と叱咤の声が聞こえるようだ。もう体が熱くなって、すぐにでも始めたくて、これが成就したらどれだけ晴れがましいかと思えば魂に火がついたようである。何が何でも本日中に、という仕事なのだけれども、やはり明日に延ばしてしまう。なぜだ。答えはない。ひねくれていると言うしかない。また、言うだけは言えるが、その原理まではわからない。そして明日が来る。任務遂行への焦りが募る。だが、焦れば焦るほど、正体がわからないだけに空恐ろしい欲求も出る。遅らせたい。この欲求が強まり、どんどん時が逃げていく。いよいよ締め切りが迫る。体が震えるような激しい内部抗争がある。かたや明快、かたや曖昧。実態と影が争うようなものだ。しかし、ここまで来れば戦局は見えている。勝つのは影だ。あがいても無駄。時間切れ。かくして身の安泰に弔鐘が鳴る。だが、いままで取り憑いていた悪霊が去っていく鶏鳴の時である。ついに心が自由になる。活力が戻る。さあ、仕事だ。いまさら遅い! どう? まるで枝雀の落語のマクラのようじゃあ、あ〜りませんか。活字でその雰囲気を出すために、任務とか遂行とか、内部抗争とか、弔鐘とか、最後の「いまさら遅い!」なんていうオチとか、翻訳もすばらし〜! こういう翻訳を読むと、翻訳っていうのは演出だなあとつくづくおボいバズね。 おそらく、日本の翻訳術というのは、世界で一番高いんではなかろうか。これは絶対比較できないことですけどね。 で、最後に、いちおう私なりにセリフに演出してみようかな。 それから、「どうしてもやらねばならぬ」なんいうものも、ありますね。遅れちゃえば、もう全部ダメになっちゃう。まさに人生の一大事です。「今が勝負や!」そんな声が頭の中で聞こえてる。もう、お尻に火がついちゃって、「やらんでかい! これができたアカツキには、こりゃ賞賛のマトなるであろうのう」と、心底燃え上がるのであります。なにがなんでも今日中にやったるわ! そう思うんねんけどね・・・明日にしちゃおかな・・・なぜだ。いや、はっきりしたワケがあるわけじゃないんですね。ただもうアマノジャクというだけ。そんなふうに言えると言えば言えるわけですが、なんでそうなのか私自身わからへん。明日しよか。いや、やらねばならぬ。焦りますね。焦れば焦るほど、なんやわからへんけど、苦しくて苦しくてたまらない。とりつかれたみたいに時はどんどんすぎていく。そして、ついに、締切が来ます。気持ちはグチャグチャ、体はぶるぶる。スッキリしたいのか、グチャグチャでいいのか。ちょうど物質と影みたいなものですが、どっちが勝つのか。結局、グチャグチャの方なわけや。どんなに頑張ってもあかんねんね。あー、とうとう締め切りすぎてもうた・・・ゴーン・・・鐘の音が聞こえる・・・ツキモノ落ちたみたいにさっぱりして、ゴーン・・・ふうっとラク〜んなって、はあ、気持ち軽〜くなってきて、急に元気になっっちゃってね、よっしゃ、やったるかあ。・・・遅いやろ! 今年の秋は中之島ではない(2007年2月26日) 今年の秋は中之島公園が工事で使えないということで、いまだに公演場所が決まらない。 精華小学校グラウンドや太陽の広場(大阪城公園)、扇町公園など、いくつか候補地はあるにはあるのだが、なにしろ旗揚げから中之島公園でやってきた。 正直なところ、中之島と楽市楽座はすでに一体化しつつあった。クスノキあってのラフレシア、川にはさまれてのラフレシア、公園に住んでいる人とも何人かは知り合いだ。 秋になにがあるのかは知らない。へんなことにならなきゃいいが、とも思う。 中之島は大阪が栄えた河運の中心だ。そこ自体が、まるで川に浮かんでいるヘビのように地図の上で見える。 中之島との出会いは、5月連休の中之島祭りだった。しばらくずっと5月にやっていた。今でもサブテントを毎年借りたり、実行委員会とつきあいがある。 私は30年前に大阪に来たのだが、中之島でやるようになってじんわりと大阪に溶け込むことができるようになった気もする。 中之島で野外劇をやるのはじつは大変なのです。なにしろ、トンネルがあって、大きなトラックでは入れない。仮設資材のトラックも3台に分けて来るので、運賃もかかるし、駅からもそれほど近くない。大雨が降れば、中之島全体が水没しそうになるしね。 けれども、どれだけ色んなことを中之島から発想してきたことか。ギンカが以前演じていたローズ、太ももにバラの刺青をしていたけれども、リルケの薔薇の詩と共に、中之島のたくさんのバラにもインスパイアされている。中之島公園がもっともっと人でにぎわうようになったら、もっともっとみんなに愛される公園になったらと、心底思わずにいられない。 ああ、さびしい! 今年できないとわかると、どれだけ愛着があったかわかるのだー。みなさん、今年は要注意ですよー! 「テヘランでロリータを読む」(2007年2月24日) アーザル・ナフィーシーというアメリカ文学教師(イラン女性、念のため)が、ホメイニが支配するイスラム世界で、ヴェール着用を拒否して大学を追われ、少人数の女子学生たちと隠れてアメリカ文学を読むというノンフィクション。こいつは、恐ろしく面白かった! 全体主義社会の中で、どうやって心の自由を守っていくか。そのとき、文学が役に立つのか。それは、芸能が何ができるのかということでもあるはずだ。 ナボコフ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンを中心に、イランの政治・治安、大学や学生の様子、社会の在り様、女たちの地位、などが、彼女の生活と文学を読むことによって語られていく。 この本を読む前に、ナボコフの「ロリータ」を読んだんだけど、そのときは、何を描いた小説なのかよくわからなかった。 彼女は、ハンバート(少女を軟禁する主人公のオッサンね=娘目当てに母親と結婚するから義理のパパでもある)を「権力者」として読む。そして、ロリータを普通の女の子として救い出そうとする。 この小説はハンバートの手記として書かれている。軽佻浮薄と言ってもいいような、少しふざけた調子で書かれていて、ロリータの描写も薄っぺらい(あばずれ、ヤンキー、映画雑誌ばかり読む、産毛)。その薄っぺらさこそ、ハンバートの彼女に向けた「視線」なのだ。つまり、ロリータ自身はハンバートの視線に「軟禁」されているのだ。よほど気をつけて読まないと、ハンバートの視線の向こうにいるロリータ自身は見えてこない。この小説自体が、すでにロリータにとってポルノ的な牢獄かもしれないのだ。 そ、そうか、それでハンバートに思い入れできなかったり、ロリータ自身が深く描かれてないような気がしたんかあ。(にしても、ナボコフさん、そんな不親切な小説なんかいとツッコミたくなるが、私が読んだ動機もまあ不純だったかもしれんし・・・) 学生たちは「アメリカ文学は退廃的だ」と何度も彼女に迫る。「ロリータ」は幼女監禁の物語だし、「ボヴァリー夫人」は浮気の話だし。「ギャツビー」は成り上がりの話だし。そのたびに、ナフィーシーは言う。これはフィクションだ、想像力が問題なのだ、と。フィクションという言葉には、どこか現実逃避的な意味が感じられるかもしれない。非常に女性差別的で、宗教を強制される当時のイランでは、フィクションの方が生のリアリティがある。けれども、権力の側は、まさに「想像力の欠如」によって権力たりうる。「想像力はただの想像力でしかない」のではない。ハンバートはまさくそうなのだ。 ともに秘密の読書会をやる女学生たちも、それぞれとても生き生きと描かれていて、それぞれ現代的だ。逆に、ホメイニの死後に少し自由が戻ってきたとき、大学で焼身自殺してしまう男子学生も出てくる。 少し長いが、メモしておこう。アメリカ文学を否定する学生に向かって、反論するところ。 ――ナボコフはすべての優れた小説はおとぎ話だと言っている、と私は話した。なるほどそうかもしれない。第一に、おとぎ話には子供たちを食べる恐ろしい魔女や美しい義理の娘に毒を盛る継母、子供を森に置き去りにする弱い父などがあふれている。しかし、(中略)あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。私はもったいぶってそう断言してみせた。形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。だからこそ私たちは「ボヴァリー夫人」を愛してエンマのために涙を流し、無作法で空想的で反逆的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ「ロリータ」をむさぼり読むのだ。 そこでは、読むことは切実だった。 でも、果たして日本にはこんな切実さがあるだろうか、などと思ってはいけない。当時(今は少し変わってきているようなので)のイランでも、読むことが切実ではない人間もたくさんいたんだから。 2月5日、長居公園で野宿者テントの強制撤去があった。野宿者たちは「非暴力・不服従」を決め、その代わり、舞台を作り、衣裳・メイクをして自分たちの状況を劇として上演した。撤去する職員たちは、その劇をどう受け止めただろうか。職員たちは3方から取り囲み、拡声器3台を使い退去を命じ続けた。半ばニヤニヤ笑いながら「退去してください」と繰り返している映像をネットで見た。その後、結局引きずるようにして力ずくで野宿者らを排除した。そういう映像はニュースでは流れなかったらしい。この日、野宿者らと職員たち、どちらに想像力はあったか。また、マスメディアはどのような想像力を封じ込んだのか。 この国でも、想像力の欠如はいたるところに存在する。そして、想像力の欠如は、いろんなものを「ないもの」にしてしまうという点については同じなのだ。 芸能は、「人生のはかなさに対する生の肯定、本質的な抵抗」、そして「祝福」でなければならない。 男と女の孤独(2007年2月21日) このあいだ雑談をしていて、「なぜ酒を飲むのか」という話になった。 そのとき、男たちは「基本的に生きていることがさびしいから酒を飲むのかもしれない」という話になった。事実、そういう歌もある。「飲んで〜、飲んで〜、飲まれて〜飲んで〜」というやつだ。 ところが、意外なことに、女たちは「恋をするとさびしくなる」という。だから、一人で酒を飲むことはあまりないそうだ。 思うに、男たちは恋をすると発奮し、さびしさはなくなる。目的意識が高まるからである。 逆に言えば、男は人生に恋を強いられているのかもしれない。 女たちは、人生を人生として生きているのか。 う〜ん、普遍的な男と女に分けることはできないだろうが、こんなふうに違う感性があるということが新鮮だった。 男と女がどう違うかというのは、一方で差別的な考えにつなったりすることもあるが、別な意味では、だからこそ付き合って面白いということがある。そういう違いを楽しむために、現代の差異が存続しているのかもしれないということに思い当たると、ちょっとどうよ、とも思うのだが。ちょうど血液型のように。 祝福と息のブレス(2007年2月20日) ブレスという英語がある。「祝福する」という意味と「息をする」と意味があり、それぞれ綴りも全く違う。けれども、これは日本人的感覚なのかもしれないが、「息を吹きかける」という言葉として、つまり、「生き返らせる」という意味として、ほぼ同じ言葉に思えてならない。 涙を流したり、ため息をついたり、笑ったり、それぞれ全て「息」に関係している気がする。声が漏れる。すべて祝福しているのではないか。 劇の登場人物に対して、つまりフィクションでしかないものに対して、涙を流したり、感動してため息をついたり、おかしくて笑ってしまったり、それはフィクションを実在のように感じたというアカシであり、一方でそういう存在を深く認めたということでもある。 私は、劇の登場人物が、しばしばそういうふうに受け止められることで、「神話的」と感じてきたし、そこから「ドリームタイム」という言葉をみつけた。何度も、「大昔から、生まれたり死んだりしている人物に感じた」と言われてきたからだ。 表現することが、とくに役者という存在が、まったく対価を求めなくてもやっていられるのは、その行為が祝福されるからではないだろうか。ほかの表現は、裏方になりがちで、なかなか息がかかるほどの場にいられるものではないが、とくに役者というのは、目の前でリアルタイムに演じるだけに、息がかかる。 現代においては、この「息」がかかるということがとても重要になりつつあるように思えてならない。 ブレスという英語からの連想は、誤解に満ちているとは思いつつ、そこからの発想はあながち間違いであるとは思わないのだ。 お笑いみたいになってきた(2007年2月18日) 失ってみると、ここにゴソゴソ書き込んでいることが一つの持続的な力になっていたことに改めて気がつく。あれ? この一年何して何考えてきたっけ、なんてちょっと記憶喪失のような。まあ、それほど大したことは書いてないか。 さて、無事にお正月音太小屋公演も終わり、すでに秋のラフレシアに向けて準備中。客演にも声がけしつつある。 今回のお正月公演は久しぶりの劇団員のみ、小屋芝居だったわけだが、自分なりに、いっそう芸能性が明確になったと感じる。 この現代世界は、悲惨で残酷で、たまらなく暗い。それでいて、自分たちが生きている「世間」は、かぎりなく軽く(ある意味では重苦しく)、手がかりすらも失いがちだ。そんな中で、果たして「希望」はどこに可能なのか。私はその希望を、芸能やドリームタイムの中に見つけたいと思う。 劇はエンゲキからはみ出して、どんどん「お笑い」みたいになってきた。 田口さんの新エンドンはもちろん、佐野キリコの金魚姫、朧ギンカの蛇ダンディーも、かなり一歩踏み込めたつもりなのだが、おわかりいただけただろうか。唄もハーモニーに挑戦。音も全て生演奏になった。 開演前には、少しだけギター一本のミニライブもしてみた。 公演は終わったが、今しばらくはこのお正月芝居を稽古用にブラッシュアップしていく予定だ。 2005年10月までの散歩道 2004年9月までの散歩道 2004年8月までの散歩道 2004年5月までの散歩道 2004年3月までの散歩道 2003年11月までの散歩道 2003年6月までの散歩道 2002年11月までの散歩道 2002年6月までの散歩道 2002年4月までの散歩道 2001年11月までの散歩道(工事中) 過去の掲示板 メール リンク 自己紹介 楽市楽座ホームページ 管理者用ページ
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