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日本と中国、二つの「杜子春」

唐代伝奇「杜子春伝」と芥川龍之介「杜子春」の比較
最初の公開 2010-5-5  最新の更新 2010-5-6

 「杜子春伝」(とししゅんでん)は、いわゆる「唐代伝奇」の一つ。宋の『太平広記』巻十六に、唐の李復言『続玄怪録』を出典として引く。
 日本では、芥川龍之介の翻案『杜子春』で知られる。ここでは、陳舜臣『日本的 中国的』所収「二つの杜子春」や新釈漢文大系『唐代伝奇』等を参考に、「原典」の書き下し文と、その要約、芥川『杜子春』を紹介する。
内容
ホームレスになる謎の老人蕩尽を繰り返す失踪を決意
失踪までの準備山に入る老人の正体沈黙の誓い
化け物たち(1)化け物たち(2)妻への拷問地獄めぐり
美女へ転生声を漏らす幻覚から覚めるミニリンク

【杜子春、ホームレスになって嘆く】
【原典】(原文を見る)
 杜子春は、蓋(けだ)し周・隋の間の人なり。少(わか)くして落拓にして、家産を事とせず。然して志気間曠(かんくわう)にして酒を縱(ほしいまま)にして間遊するを以て、資産蕩尽す。親故に投ずるも、皆事に事(つか)へざるを以て棄てらる。
 冬に方(あた)り、衣破れ腹空しくして、長安の中を徒行す。日晩(く)れて未だ食せず、彷徨して往く所を知らず。東市の西門に於いて、饑寒の色掬すべく、天を仰ぎて長吁(ちやうく)す。

【要約】
 杜子春は六世紀末ごろの人物である。若い頃から家の仕事をせず、気持ちばかり大きくて遊び回っていたため、財産を使い果たした。親戚たちにもあきれられて、ホームレスとなった。冬の寒い夕方、ボロボロの服を着て、腹をすかせたまま、長安の東の市場の西門で、天をあおいで深いため息をついた。
【芥川の翻案】
 或春の日暮です。
 唐の都洛陽(らくやう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。
 若者は名は杜子春(とししゆん)といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費(つか)ひ尽(つく)して、その日の暮しにも困る位、憐(あはれ)な身分になつてゐるのです。
 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来(わうらい)にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗(しや)の帽子や、土耳古(トルコ)の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱(たづな)が、絶えず流れて行く容子(ようす)は、まるで画のやうな美しさです。
 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡(なび)いた霞の中に、まるで爪の痕(あと)かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
 杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。
原典:時代は南北朝時代末期、周・隋の間。場所は長安。季節は冬。
芥川:時代は唐。場所は洛陽。季節は春。

【謎の老人があらわれ、杜子春に金銭を与える】
【原典】(原文を見る)
 一老人有り、杖を前に策く。問ひて曰く「君子、何をか歎く?」と。春、其の心を言ひ、且つ其の親戚の疎薄なるを憤るや、感激の気、顏色に発す。老人曰く「幾緡(いくびん)ならば則ち用に豊(た)る?」と。子春曰く「三、五万ならば則ち以て活(い)くべし」と。老人曰く「未しなり」と。更に之を言ふ、「十万」と。曰く「未しなり」と。乃ち言ふ「百万」と。亦た曰く「未しなり」と。曰く「三百万」と。乃ち曰く「可なり」と。是に於いて袖より一緡(びん)を出して、曰く「子の今夕(こんせき)に給せん。明日午時、子を西市の波斯邸(はしてい)に候(ま)たん。慎みて期に後(おく)るること無かれ」と。
 時に及びて、子春往く。老人は果して銭三百万を与へ、姓名を告げずして去る。

【要約】
 杖をついた老人があらわれ、杜子春に「何を嘆いているのか」と聞いた。杜子春は、親戚の薄情をいきどおりつつ、身の上を述べた。老人は一緡の銭を取り出し「とりあえず今夜はこれで。明日の正午、西の市場のペルシャ人の屋敷に来なさい。絶対、遅刻してはならない」と言った。翌日、約束どおりに杜子春が行くと、老人は三百万緡という大金を与え、自分の名を告げずに去った。
【芥川の翻案】
  するとどこからやつて来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇(すがめ)の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、ぢつと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、横柄(わうへい)に言葉をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」
 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な答をしました。
「さうか。それは可哀さうだな。」
 老人は暫(しばら)く何事か考へてゐるやうでしたが、やがて、往来にさしてゐる夕日の光を指さしながら、
「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
「ほんたうですか。」
 杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行つたか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶(なほ)白くなつて、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠(かうもり)が二三匹ひらひら舞つてゐました。
原典:ペルシャ人の屋敷で、現金を与える。
芥川:地面に埋めた宝物のありかを教える。
※「緡」は銭の穴に細い紐を通してたばねたもの。仮に1文=50円として計算すると、1緡(=100文)は5千円、300万緡は150億円になる。

【杜子春、資産の蕩尽を繰り返す】
【原典】(原文を見る)
 子春既に富み、蕩心復た熾(さかん)となり、自ら以為(おも)へらく「終身、復た羈旅せざらん」と。肥に乗り、軽を衣(き)、酒徒を会し、絲管を徴し、倡楼に歌舞し、復た生を治むる以て意と為さず。
 一、二年の間に、稍稍(せうせう)にして尽く。衣服車馬、貴を易へ賎に従ひ、馬を去りて驢とし、驢を去りて徒(かち)す。倏忽(しゆくこつ)として初の如し。
 既にして復た計無く、自ら市門に歎ず。声を発すれば而(すなは)ち老人到る。其の手を握りて曰く「君、復た此くの如し。奇なるかな。吾、将に復た子を済(すく)はんとす。幾緡あらば方に可ならんか?」と。子春、慚(は)ぢて応(こた)へず。老人、因(よ)りて之に逼(せま)る。子春、愧(は)ぢて謝すのみ。老人曰く「明日午時、前(さき)に期せし処へ来たれ」と。子春、愧を忍びて往き、銭一千万を得。
 未だ受けざるの初め、憤発し、以為へらく「此れより身を謀り生を治むれば、石季倫・猗頓(いとん)も小豎のみ」と。銭既に手に入れば、心又飜然たり。縱適(しようてき)の情、又卻(かへ)つて故(もと)の如し。一、二年ならざるの間に、貧なること旧日に過ぎたり。

【要約】
 杜子春は大金持ちになると、また浪費癖がよみがえった。美衣美食のぜいたくや豪華な宴会にふけり、仕事をしなかったので、一二年のうちに再びもとの貧乏に戻ってしまった。また市場の門でため息をつくと、すぐにあの謎の老人がまた現れた。老人は杜子春の手を握り「きみはまた、こうなっちゃったんだね。不思議だねえ。では、また助けてあげよう。お金はいくらあればいいかい?」と聞いた。杜子春は恥じて答えなかった。老人は無理やり、かさねて聞いた。杜子春は恥じ、すみません、もういいですから、いいですから、と言った。しかし謎の老人は「明日の正午、この前のところに来なさい」と言った。杜子春は恥をしのんで行き、前にもらった金額の三倍以上にあたる一千万緡もの大金をもらった。
 最初、杜子春は「今度こそ、事業に投資して、大金持ちになるんだ」と思ったが、実際にお金を手にすると、もとの浪費癖がもどってしまった。一、二年もしないうちに、前よりいっそうひどい貧乏になってしまった。
【芥川の翻案】 
  杜子春(とししゆん)は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。
 大金持になつた杜子春は、すぐに立派な家を買つて、玄宗(げんそう)皇帝にも負けない位、贅沢(ぜいたく)な暮しをし始めました。蘭陵(らんりよう)の酒を買はせるやら、桂州の竜眼肉(りゆうがんにく)をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹(ぼたん)を庭に植ゑさせるやら、白孔雀(しろくじやく)を何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、香木(かうぼく)の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂(あつら)へるやら、その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位です。
 するとかういふ噂(うはさ)を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極(ごく)かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺(てんぢく)生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は翡翠(ひすゐ)の蓮の花を、十人は瑪瑙(めなう)の牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのです。
 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家(ぜいたくや)の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。するとやはり昔のやうに、片目眇(すがめ)の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。
 杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた儘(まま)、暫(しばら)くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐る恐る返事をしました。
「さうか。それは可哀さうだな、ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
 老人はかう言つたと思ふと、今度も亦(また)人ごみの中へ、掻き消すやうに隠れてしまひました。
 杜子春はその翌日から、忽(たちま)ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題(しはうだい)な贅沢をし始めました。庭に咲いてゐる牡丹の花、その中に眠つてゐる白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
 ですから車に一ぱいあつた、あの夥(おびただ)しい黄金も、又三年ばかり経(た)つ内には、すつかりなくなつてしまひました。
原典:「一、二年」。
芥川:「三年ばかり」。


【杜子春、老人の義に感じて失踪を決意する】
【原典】(原文を見る)
 復た老人に故の処にて遇ふ。子春、其の愧(はぢ)に勝(た)へず。面を掩(おほ)ひて走る。老人、裾(すそ)を牽(ひ)きて之を止め、又曰く「嗟乎、拙謀なり!」と。因りて三千万を与へて曰く「此れにして痊(い)えずんば、則ち子の貧は膏肓(こうこう)に在り」と。
 子春曰く「吾、落拓邪遊して、生涯罄(ことごと)く尽(つ)くす。親戚豪族も相顧(あひかへり)みる者無し。独り此の叟(そう)のみ三たび我に給す。我、何を以てか之に当らん?」と。因りて老人に謂ひて曰く「吾、此(これ)を得(え)ば、人間(じんかん)の事は以て立つべく、孤孀(こそう)も以て衣食すべく、名教に於て復た円(まど)かならん。叟の深き恵みに感ず。事を立つるの後(のち)は、唯だ叟の使ふ所とならん」と。老人曰く「吾が心なり。子、生を治め畢(をは)らば、来歳の中元、我を老君の双檜の下に見よ」と。

【要約】
 杜子春は前と同じ場所で、また謎の老人と出くわした。あまりの恥ずかしさに、手で顔をかくして走り去った。老人は杜子春のズボンのすそをつかんで引き留め、「ああ、生活下手なお人じゃ」と言った。そして今度は、三千万緡という天文学的な大金を杜子春に与えた。
 杜子春は「親戚の有力者は、誰もぼくを助けてくれなかった。でも、この見ず知らずの老人は、ぼくを三度も助けてくれた」と感激して、老人に言った。「いただいたお金で、この世での後始末をさせていただきます。そのあと、あなた様のお好きなように私をお使いください」。老人は「そうだ、それでいい。人生の後始末が済んだら、来年の七月十五日に、老子廟の二本の檜のもとで再会しよう」と言った。
【芥川の翻案】 
 「お前は何を考へてゐるのだ。」
 片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問ひかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇(たたず)んでゐたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」
「さうか。それは可哀さうだな。ではおれが好いことを教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの――」
 老人がここまで言ひかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮(さへぎ)りました。
「いや、お金はもう入らないのです。」
「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」
 老人は審(いぶか)しさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」
 杜子春は不平さうな顔をしながら、突慳貪(つつけんどん)にかう言ひました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も追従(つゐしよう)もしますけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。柔(やさ)しい顔さへもして見せはしません。そんなことを考へると、たとひもう一度大金持になつた所が、何にもならないやうな気がするのです。」
 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました。
「さうか。いや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」
 杜子春はちよいとためらひました。が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、訴へるやうに老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になつて、仙術の修業をしたいと思ふのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でせう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になつて、不思議な仙術を教へて下さい。」
 老人は眉をひそめた儘、暫くは黙つて、何事か考へてゐるやうでしたが、やがて又につこり笑ひながら、
「いかにもおれは峨眉山(がびさん)に棲(す)んでゐる、鉄冠子(てつくわんし)といふ仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好ささうだつたから、二度まで大金持にしてやつたのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやらう。」と、快く願を容(い)れてくれました。
 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜(おじぎ)をしました。
「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。――が、兎も角もまづおれと一しよに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、幸(さいはひ)、ここに竹杖が一本落ちてゐる。では早速これへ乗つて、一飛びに空を渡るとしよう。」
 鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、口の中に呪文(じゆもん)を唱へながら、杜子春と一しよにその竹へ、馬にでも乗るやうに跨(またが)りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽(たちま)ち竜のやうに、勢よく大空へ舞ひ上つて、晴れ渡つた春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
 杜子春は胆(きも)をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛(まぎ)れたのでせう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢(びん)の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱ひ出しました。
(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧(さうご)
袖裏(しうり)の青蛇(せいだ)、胆気(たんき)(そ)なり。
三たび嶽陽(がくやう)に入れども、人識らず。
朗吟して、飛過(ひくわ)す洞庭湖。
原典:老人と再会したとき杜子春は恥じて逃げる。蒸発予定日は「来歳の中元」(道教の祭の日)。動機は「叟の深き恵みに感」じたから。
芥川:老人と再会したとき杜子春は臆面もなく普通に話す。その場で蒸発を決意。動機は「人間といふものに愛想がつきた」から。


【杜子春、失踪にむけて入念な準備をする】
【原典】(原文を見る)
 子春は孤孀の多く淮南に寓するを以て、遂に資を揚州に転じ、良田百頃(りやうでんひやくけい)を買ひ、郭中に甲第(かふてい)を起(た)て、要路に邸百余間を置き、悉(ことごと)く孤孀を召して、第中に分居せしむ。甥姪(せいてつ)を婚嫁せしめ、族親を遷祔し、恩ある者には之に煦(むく)い、讐(あだ)ある者には之に復す。

【要約】
 杜子春の一族の孤児や寡婦は、多くが淮南(わいなん)地方に住んでいた。杜子春は自分が人間社会から姿を消す前に、揚州に投資し、上等の農地を百頃ほど購入し、町の中に大邸宅を建てた。要所要所に百件あまりの住宅を用意し、自分の一族の孤児と寡婦を全員ここに呼び寄せ、大邸宅の中の一戸建てを全員に分け与えた。甥や姪は結婚させ、一族の遺骸を先祖の墓に合葬した。恩人には恩返しをして、仇には復讐して、それぞれきっちりかたをつけた。
【芥川の翻案】 
 (該当箇所無し)
原典:杜子春は宗族社会の一員。社会的責任を自覚し、恩義のしがらみを大事にする。
芥川:杜子春は天涯孤独。社会的責任から自由で、人間に愛想を尽かす。


【杜子春、老人にしたがい山に入る】
【原典】(原文を見る)
 既にして事畢り、期に及んで往く。老人は方に二檜の陰にて嘯(うそぶ)く。遂に与(とも)に華山の雲台峰に登る。入ること四十里余、一処の室屋厳潔にして常人の居に非ざるを見る。彩雲、遙に覆ひ、驚鶴飛翔す。其の上に正堂有り。中に薬爐(やくろ)有り。高さ九尺余。紫焰光発し、窗戸(さうこ)に灼煥(しやくくわん)す。玉女九人、爐を環(めぐ)りて立ち、青龍・白虎、分れて前後に拠る。

【要約】
 杜子春は約束どおり、老子廟に行って老人と落ちあった。二人は、華山の雲台峰に登った。山の奥に、秘密の実験室があった。高さ九尺余の調薬用の爐があり、紫の炎をあげて輝いていた。装置のまわりには、九人の美少女と、霊獣や霊鳥がひかえていた。
【芥川の翻案】 
  二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞ひ下りました。
 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるものは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
原典:長安からたった130キロメートルの距離にある華山の、40中国里(約20km)ほど奥まった場所まで徒歩で登る。
芥川:洛陽からはるか西に離れた、四川省の峨眉山に飛んでゆく。


【老人の正体が明らかになる】
【原典】(原文を見る)
 其の時、日、将に暮れなんとす。老人は復た俗衣せず、乃ち黄冠・縫帔(ほうひ)の士なり。

【要約】
 夕暮れどき、老人は黄色の冠をつけ、袖のない赤いはおりを着た道士の衣装に着替えた。
【芥川の翻案】 
 (該当箇所無し)
原典:老人の正体は道士。
芥川:老人の正体は、『三国志演義』でも活躍する有名な仙人、左慈(号は鉄冠子)


【老人は、杜子春に沈黙を守ることを約束させる】
【原典】(原文を見る)
 白石三丸、酒一巵(さけいつし)持して子春に遺(おく)り、速やかに之を食はしむ。訖(をは)れば、一虎皮を取りて内の西壁に鋪(し)き、東向して坐せしむ。戒しめて曰く「慎んで語ること勿かれ、尊神・悪鬼・夜叉・猛獣・地獄、及び君の親属の困縛する所と為りて万苦すと雖も、皆、真実に非ず。但だ当(まさ)に動かず語らざるべく、宜(よろ)しく心を安んじて懼(おそ)るること莫かるべし。終(つひ)に苦しむ所無からん。当に一心に吾が言ふ所を念ずべし」と。言ひ訖(をは)りて去る。子春、庭を視れば、唯だ一巨甕(いちきよをう)の満中に水を貯ふるのみ。

【要約】
 老人は杜子春に、白い石薬を三丸を与え、酒といっしょに飲ませると、戒めて行った。「絶対に声を出してはいけない。これから、さまざまな鬼神や猛獣、そして身内の人間があらわれて、きみを苦しめようとするが、みな幻覚にすぎない。私の言葉を思い出して、声を出すな」。老人は立ち去った。庭には、水を満々とたたえた巨大な甕(かめ)があるだけだった。
【芥川の翻案】
 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞ひ下りました。
 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるものは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行つて、西王母(せいわうぼ)に御眼にかかつて来るから、お前はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなくなると、いろいろな魔性(ましやう)が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」
と言ひました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐます。」
「さうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行つて来るから。」
 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨(またが)つて、夜目にも削つたやうな山々の空へ、一文字に消えてしまひました。
原典:道士は、これから起こることは現実ではなく、薬物の副作用による不愉快な幻覚(バッドトリップ)にすぎないことを、あらかじめ説明する。
芥川:仙人は、これから起こることが現実か幻覚か説明しないまま、杜子春に留守を命じて立ち去る。


【杜子春、化け物たちに襲われる】
【原典】(原文を見る)
 道士適(さ)り去(ゆ)けば、旌旗(せいき)・戈甲(くわかふ)、千乗万騎、崖谷に徧満し、呵叱(かしつ)の声、天地を震動せしむ。一人の大将軍と称する有り、身の長(たけ)丈余にして、人馬皆金甲を着け、光芒人を射る。親衞数百人、皆剣を杖(つ)き弓を張り、直ちに堂前に入り、呵(か)して曰く「汝は是れ何人ぞ。敢へて大将軍を避けざらん」と。左右、剣を竦(そばだ)てて前(すす)み、逼(せま)りて姓名を問ひ、又「何を作(な)す物ぞ」と問ふも、皆対へず。問ふ者は大いに怒り、摧斬(さいざん)し射を争ふ声、雷の如し。竟に応へず。将軍なる者、極怒して去る。
 俄にして猛虎・毒龍・狻猊(しゆんげい)・獅子・蝮蝎(ふくかつ)、万計(ばんけい)哮吼(かうく)して拏攫(だくわく)せんとし、争ひ前(すす)みて搏噬(はくぜい)せんと欲し、或は其の上を跳び過ぐ。子春の神色動かざれば、頃(けい)有りて散ぜり。  既にして大雨滂澍(はうじゆ)し、雷電晦瞑し、火輪其の左右に走り、電光其の前後に掣(の)び、目開くを得ず。須臾(しゆゆ)にして、庭の際、水深きこと丈余となり、流電吼雷し、勢ひは山川の開破するがごとく、制止すべからざるなり。瞬息の間、波、坐下に及ぶ。子春、端坐して顧みず。

【要約】
 道士が去ると、おどろおどろしい鬼神の軍団が登場した。大将軍と名乗る異形の巨人があらわれた。鬼神の家来たちが「おまえは何者か、答えよ」と武器をかざして怒鳴り、杜子春を脅したが、彼は答えなかった。鬼神の軍団が去ると、無数の毒虫や猛獣があらわれ、杜子春に襲いかかったが、彼が無視し続けたので、退散した。大雨がふりはじめ、暴風と雷が杜子春を襲ったが、彼は老人との約束を思い、正座したまま無視し続けた。
【芥川の翻案】 
  杜子春はたつた一人、岩の上に坐つた儘、静に星を眺めてゐました。すると彼是(かれこれ)半時ばかり経つて、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透(とほ)り出した頃、突然空中に声があつて、
「そこにゐるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。
 しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにゐました。
 所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく嚇(おど)しつけるのです。
 杜子春は勿論黙つてゐました。
 と、どこから登つて来たか、爛々(らんらん)と眼を光らせた虎が一匹、忽然(こつぜん)と岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮(たけ)りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思ふと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇(はくだ)が一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
 杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。
 虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも窺(うかが)ふのか、暫くは睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬(またた)く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなのです。杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待つてゐました。
 すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく雷(らい)が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しよに瀑(たき)のやうな雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つてゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山(がびさん)も、覆(くつがへ)るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟(とどろ)いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
 杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに聳(そび)えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、鉄冠子(てつくわんし)の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたづら)に違ひありません。杜子春は漸(やうや)く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。
原典:杜子春は平然と「端坐して顧みず」。
芥川:杜子春は「額の冷汗を拭」ってすわりなおす。


【鬼神の軍団が杜子春に自白を強要する】
【原典】(原文を見る)
 未だ頃(しばら)くならずして、将軍なる者、復た来たり、牛頭の獄卒、奇貌の鬼神を引き、大钁(だいくわく)の湯を将(もつ)て子春の前に置く。長鎗、兩叉、四面に週匝(しうさふ)す。命を伝へて曰く「姓名を言ふを肯(がへ)んぜば即ち放たん。言ふを肯んぜずんば、即ち当(まさ)に心(しん)を叉に取り、之を钁中に置くべし」と。又応へず。

【要約】
 まもなく、鬼神の軍団が戻ってきた。異形の化け物たちは武器を手にして杜子春を取り囲み「名を言え。言わねば、きさまの心臓をえぐって、鍋で煮てやる」と脅した。杜子春は無視して答えなかった。
【芥川の翻案】 
  が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の鎧(よろひ)を着下(きくだ)した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉(みつまた)の戟(ほこ)を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて叱りつけるのを聞けば、 「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地開闢(かいびやく)の昔から、おれが住居(すまひ)をしてゐる所だぞ。それも憚(はばか)らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。
 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然(もくねん)と口を噤(つぐ)んでゐました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属(けんぞく)たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」
 神将は戟(ほこ)を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満(みちみ)ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。
 この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。
原典:「将軍」は二度目。部下を介して杜子春と接触する。
芥川:「将軍」は初登場。自分で直接、杜子春に言葉をかける。


【杜子春、妻への拷問を平然と座視する】
【原典】(原文を見る)
 因りて其の妻を執(とら)へて来たり、階下に拽(ひ)き、指して曰く「姓名を言はば之を免(ゆる)さん」と。又応へず。鞭捶(むちう)ちて流血し、或は射、或は斫(き)り、或は煮、或は焼くに及びて、苦しみ忍ぶべからず。其の妻、号哭して曰く「誠に陋拙為(た)りて、君子を辱しむる有り。然るに幸ひに巾櫛(きんしつ)を執ることを得て、奉事すること十余年なり。今尊鬼の執(とら)ふる所と為り、其の苦に勝へず。敢へて君の匍匐(ほふく)拜乞(はいきつ)するを望まず。但だ公の一言を得ば、即ち性命を全うす。人、誰か情無からん。君、乃ち一言(いちげん)を忍惜(にんせき)するか!」と。庭中に涙を雨ふらし、且つ呪ひ且つ罵る。春、終に顧みず。将軍、且つ曰く「吾、汝の妻を毒すること能はざらんや」と。剉碓(ざたい)を取り、脚より寸寸に之を剉(き)らしむ。妻、叫哭すること愈(いよいよ)急なるも、竟に之を顧みず。

【要約】
 化け物たちは、杜子春の妻を連れてきて、庭先にひきすえた。そして杜子春に「名を言え。言えば、この女を助けてやる」と行った。杜子春は無視した。化け物たちは、杜子春の妻をムチで打ち、矢を射かけ、刀で切り、煮たり焼いたり、拷問のかぎりを尽くした。妻は泣き叫び「十年以上もあなたにつれそった私を、どうして助けてくれないの。たった一言、あなたが口を開いてくれれば助かるのに。どうして!」と、杜子春に呪詛の言葉を浴びせた。将軍は、押し切りの切断装置で、杜子春の妻の体を、足のほうから一寸刻みで切断した。妻はますます泣き叫んだが、杜子春は無視した。
【芥川の翻案】 
 (該当箇所無し)
原典:杜子春には、結婚生活十数年以上の古女房がいる。年齢は三十代か。
芥川:杜子春は独身の若者のイメージで描かれる。年齢は二十代か。


【杜子春、道士との約束を思い、地獄の責め苦に耐える】
【原典】(原文を見る)
 将軍曰く「此の賊、妖術已に成れり。久しく世間に在らしむべからず」と。左右に敕(ちよく)して之を斬らしむ。
 斬り訖(をは)れば、魂魄は閻羅王に領(ひ)き見(あ)わさる。曰く「此れ乃ち雲台峰の妖民か? 捉へて獄中に付せ」と。是に于(おい)て鎔銅・鐵杖・碓擣(たいたう)・磑磨(がいま)・火坑・鑊湯(くわくたう)・刀山・剣樹の苦、備(つぶさ)に嘗めざるは無し。然れども心に道士の言を念ずれば、亦忍ぶべきに似て、竟に呻吟せず。

【要約】
 将軍は「こいつの妖術は完成している。この世から追い出せ」と言い、部下に杜子春を斬り殺させた。杜子春の魂は地獄に落ち、閻魔大王に裁かれ、地獄の責め苦をすべて味あわされた。だが杜子春は心に道士の言葉を念じ、苦痛に耐え、うめき声ひとつあげなかった。
【芥川の翻案】 
 「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」
 神将はかう喚(わめ)くが早いか、三叉(みつまた)の戟(ほこ)を閃(ひらめ)かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。
 北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向(あふむ)けにそこへ倒れてゐました。
 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道(あんけつだう)といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き荒(すさ)んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯(ただ)木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて森羅殿(しんらでん)といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、階(きざはし)の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な袍(きもの)に金の冠(かんむり)をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて噂(うはさ)に聞いた、閻魔(えんま)大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ跪(ひざまづ)いてゐました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」
 閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖(おし)のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の笏(しやく)を挙げて、顔中の鬚(ひげ)を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ? 速(すみやか)に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責(かしやく)に遇(あ)はせてくれるぞ。」と、威丈高(ゐたけだか)に罵(ののし)りました。
 が、杜子春は相変らず唇(くちびる)一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に畏(かしこま)つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
 地獄には誰でも知つてゐる通り、剣(つるぎ)の山や血の池の外にも、焦熱(せうねつ)地獄といふ焔の谷や極寒(ごくかん)地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を抛(はふ)りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵(きね)に撞(つ)かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、――その苦しみを数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる責苦(せめく)に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。
 これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り杜子春を階(きざはし)の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言ふ気色(けしき)がございません。」と、口を揃へて言上(ごんじやう)しました。
原典:「将軍」は部下に斬らせる。地獄の責め苦の理由は、「妖民」ゆえの懲罰。
芥川:「神将」はみずから手をくだす。地獄の責め苦は、取り調べで自白させるため。


【杜子春、絶世の美女に転生させられ、結婚する】
【原典】(原文を見る)
 獄卒、罪を受け畢(をは)れるを告ぐ。王曰く「此の人は陰賊なれば、合(まさ)に男と作(な)すことを得べからず。宜(よろ)しく女人と作(な)し、配して宋州単父県(そうしうぜんぽけん)の丞、王勧の家に生まれしむべし」と。
 生れて多病、針灸・薬医、略(ほ)ぼ停日無し。亦嘗(つね)に火に墜(お)ち牀(しやう)より墮ち、痛苦斉(ひと)しからざるも、終(つひ)に声を失せず。俄(にはか)にして長大し、容色絶代なり。而るに口に声無し。其の家、目して唖女(あぢよ)と為す。親戚の狎(な)るる者、之を侮ること万端なりも、終に対ふる能はず。
 同郷に進士の盧珪(ろけい)なる者有り。其の容(かたち)を聞き之を慕ふ。媒氏(ばいし)に因りて焉(これ)を求む。其の家、唖なるを以て之を辞す。廬曰く「苟(いや)しくも妻と為りて賢なれば、何ぞ言を用ひん。亦以て長舌の婦を戒むるに足る」と。乃ち之を許す。廬生は六礼を備へ、親迎して妻と為す。

【要約】
 地獄の刑罰は終わった。閻魔大王は「この人間は、陰の気をもつ賊であるから、女に生まれ変わらせよう。宋州の単父県の副知事、王勧の家の子としよう」と言った。こうして杜子春は、女児に転生した。が、生まれつき病弱で、鍼やお灸など痛い治療を毎日のように受けた。またいつも火に落ちたり、ベッドから落ちるなど、事故が絶えなかった。しかし女児に生まれ変わっても、杜子春は一言も声を出さなかった。家族は、この子は生まれつき口がきけないのだと思った。身内の意地悪な者からいじめられても、杜子春は声をあげなかった。杜子春は絶世の美女となった。盧珪という男が、仲人を立てて杜子春に求婚した。彼は、科挙の試験に合格して「進士」となった秀才だった。杜子春の家族は、障がい者であることを理由に遠慮しようとしたが、盧珪は「妻は内面が大事である」と、丁寧な態度で杜子春を妻に迎えた。
【芥川の翻案】 
 (該当箇所無し)
原典:杜子春は絶世の美女に転生し、結婚する。
芥川:杜子春は地獄で取り調べを受け続ける。


【杜子春、老人との約束を守れず、ついに声を漏らす】
【原典】(原文を見る)
 数年、恩情甚だ篤し。一男(いちだん)を生むに、僅(わづ)か二歳にして聰慧(そうけい)なること敵(かな)ふ無し。盧、児(こ)を抱き之と言へども、応へず。多方に之を引くも、終に辞無し。盧、大いに怒りて曰く「昔、賈大夫(かたいふ)の妻、其の夫を鄙(いや)しみ、纔(わづ)かにも笑はず。然れども其の雉(きじ)を射たるを観て、尚ほ其の憾(うら)みを釈(と)けり。今、吾は陋(ろう)にして賈に及ばざれども、文藝は徒(ただ)に雉を射るに非ざるなり。而も竟に言(ものい)はず。大丈夫、妻の鄙しむ所と為(な)らば、安んぞ其の子を用ひん!」と。乃ち両足を持ち、頭(かしら)を以て石上に撲(う)つ。手に応じて碎け、血は数歩に濺(そそ)ぐ。子春は、愛、心に生じ、忽ち其の約を忘れ、覚えず声を失して云ふ、「噫(ああ)!」と。

【要約】
 杜子春の夫はやさしかった。男の子にもめぐまれた。二歳でも、抜群に賢かった。夫は、かわいいわが子を抱いて、杜子春にあれこれ語りかけた。それでも杜子春は、一言も発しない。やさしい夫も、とうとう怒り出した。夫は「きみはぼくを内心、馬鹿にしてるから、黙っているんだろう。もう子供はいらない」と言うと、二歳の息子の両足をもち、その頭を石に叩きつけた。頭蓋骨が砕け、血が数歩の距離まではね跳んだ。杜子春の心のなかに、たちまち「愛」が生じた。その瞬間、道士との約束を忘れ、「ああ」と声をもらしてしまった。
【芥川の翻案】 
  閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひついたと見えて、
「この男の父母(ちちはは)は、畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。
 鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」
 杜子春はかう嚇(おど)されても、やはり返答をしずにゐました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、好いと思つてゐるのだな。」
 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」
 鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の鞭(むち)をとつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈(みれんみしやく)なく打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を悶(もだ)えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもゐられない程嘶(いなな)き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」
 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし)の前へ、倒れ伏してゐたのです。
 杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊(かた)く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おつしや)つても、言ひたくないことは黙つて御出(おい)で。」
 それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色(けしき)さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……
原典:杜子春が「ああ」と声を出したのは、母が子を思う「愛」の気持ちから。
芥川:杜子春が「お母さん!」と声を出したのは、子が母を思う「孝」の気持ちから。


【杜子春、幻覚から目覚める】
【原典】(原文を見る)
 噫の声未だ息(や)まざるに、身は故(もと)の処に坐す。道士は亦其の前在り。初めて五更なり。
 其の紫焰、屋上を穿ち、大火起こりて四合し、屋室倶(とも)に焚(や)くるを見る。  道士歎じて曰く「錯大(そだい)、余を誤ちて乃ち是のごとし!」と。因りて其の髮を提(と)り、水甕(すいをう)の中に投ず。未だ頃(しばらく)ならずして、火、息(や)む。
 道士、前(すす)みて曰く「吾子(ごし)の心、喜・怒・哀・懼(く)・悪(を)・慾は皆、忘れたり。未だ臻(いた)らざる所の者は、愛のみ。向使(もし)、子の噫の声無くんば、吾が薬成り、子も亦、上仙せんものを。嗟乎(ああ)、仙才の得難きや! 吾が薬は重ねて煉るべし。而して子の身は猶ほ世界の容るる所と為るがごときなり。之を勉めよ」と。遙かに路を指して帰らしむ。
 子春、強(し)ひて基観に登りれば、其の爐、已に壊(こぼ)ちたり。中に鉄柱有り、大いさ臂(ひぢ)ごとく、長さ数尺。道士は衣を脱ぎ、刀子を以て之を削る。
 子春、既に帰り、其の誓ひを忘れしを愧づ。復た自ら效(つと)めて、以て其の過ち謝せんとして、行きて雲台峰に至るに、絶えて人跡無し。歎き恨みて帰れり。

【要約】
 「ああ」の一声が終わらぬうちに、杜子春はもとの姿、もとの場所に戻っていた目の前に道士がいた。午前四時だった。周囲は火事だった。部屋も建物も焼けていた。道士は「この貧乏書生め、わしの言いつけを破りおって」と言うと、杜子春の髪の毛をつかみ、甕のなかの水に投げ込んだ。まもなく火事は消し止められた。
 道士は言った。「そなたは、喜び、怒り、悲しみ、恐怖、憎悪、欲望の情は、忘れることができた。しかし愛だけは忘れられなかった。もしきみが『ああ』の一声さえあげねば、わしの薬は完成し、きみも仙人になれたのだが。ああ、仙人の才能は得難いものだ。わしはもう一度、仙薬を作り直すことにしよう。きみは、人間の世界にもどるがよい。がんばれよ」。道士は、遠くの道を指し、杜子春を帰らせた。
 杜子春は帰りかけたが、どうしても気になったので、炉の土台にのぼって中をのぞいた。炉は壊れていた。中に鉄の柱があった。長さは数尺、太さは臂くらいだった。道士は服を脱ぎ、ナイフで炉心の鉄柱を削っていた。
 杜子春は帰ったあとも、誓いを忘れたことを恥じた。あらためて老人にお詫びを述べようと、華山の雲台峰に登った。だが、人のありかはどこにもない。歎息して帰った。
【芥川の翻案】 
  その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳(おごそか)な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」
 鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸(さいはひ)、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓(ふもと)に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。
原典:テーマは「信義」。杜子春は自分が約束を守れなかったことを深く恥じる。
芥川:「嘘も方便」。杜子春は約束を守れなかったが「反つて嬉しい気がするのです」と幸せな表情を浮かべ、 仙人も「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ」と、とんでもないことを言う。



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