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芥川龍之介が見た京劇

最初の公開 2001-5-9 最新の更新 2014-3-19


 授業の教材用に書いている原稿の一部を、試験的にアップロードいたします。
 書名や引用文中に「支那」という語が出てくる場合は、検索等の便を考え、あえて原文のままにしました。地の文では一貫して「中国」という呼称を使っています。ご理解くださいますよう
2001,5,9 加藤徹

本稿は拙著『京劇』(2002年1月刊)の原稿の一部として使用しました。2003年追記

  1. 京劇改良のアドバイスをした日本人――芥川龍之介(一)
  2. レベルが高かった日本の劇通
  3. 京劇の文学性を発見した日本人――芥川龍之介(二)
  4. 京劇女優の起源は上海から――林黛玉(一)
  5. 京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)
  6. 芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)
  7. 芥川が見た京劇・崑曲俳優たち
  8. オ―ナ―が転々と変わった上海の劇場
  9. 日本の「後見」とひと味違う中国の「検場」
  10. 中国の観客が騒がしかった理由
  11. 中国演劇の立ち回りが猛烈をきわめる理由

京劇改良のアドバイスをした日本人――芥川龍之介(一)

 芥川龍之介が京劇通だったことは、案外と知られていない。
『支那游記』上海篇と北京篇には、京劇や崑曲の詳細な観劇記が書いてある。
 芥川は、中国語はカタコトしかできなかったが、漢籍に対する素養は深かった。また芥川は、梅蘭芳、楊小楼、蓋叫天はじめ、京劇史上に名を残す錚々たる名優たちの舞台を短期集中講座のように見たが、彼の座席の隣には常に村田孜郎、波多野乾一(後述)、辻聴花といった一流の京劇通があり、適切な助言をした。そのため、芥川の天性の才能ともあいまって、彼は京劇について一家言を持つに至った。
 芥川は北京滞在中、有名な文学者・胡適(一八九一―一九六二)に会い、京劇の改良について自分の意見を述べている。胡適が書き残した『胡適日記』民国十年六月二十七日の条を見てみよう。

 八時、扶桑館に到る。芥川先生から食事に招かれる。同席者に惺農および日本新聞界の三四人がいた。私が日本式に日本食を食べるのは、これが初めてである。靴を脱いであがり、席にあぐらをかいて坐るという作法は、なかなか奇抜である。
 芥川さんは、中国の旧式の舞台は改良する必要がある、と言った。
一、背景幕は色柄が地味なものを用いるべきである。紅や緑の緞帳は不適切である。
二、舞台にしく絨毯も色柄が地味なものにすべきである。
三、伴奏楽隊は幕の中にかくれて坐るべきである。
四、舞台上の助手は、色柄が地味な同じ服を着るべきで、舞台上を駆け回ってはいけない。
 私はこれに答えて、中国の旧式の芝居は歌の部分が往々にして長すぎて役者に茶を飲ませる必要があること、机や椅子なども運ぶ必要があること、もし西洋式に場面転換用の幕を採用すれば、助手が茶や椅子を手に駆けずり回らずに済むかもしれないこと、などを言った。
 彼はまた、旧式の芝居に背景は必要ない、と言った。私も同意した。

 芥川の提議は、今日の視点から見ても妥当なものである。実際、その後の京劇の舞台改良運動は、ほぼ彼の意見どおりに進んだ。

レベルが高かった日本の劇通

 芥川の『支那游記』にも出てくる波多野乾一(一八九〇―一九六三)は、京劇史に関する先駆的な研究を行い、『支那劇とその名優』『支那劇大観』『支那劇五百番』などの書を著し、中国の学界にも影響を与えた。
 京劇関係の著作をあつめて影印出版した叢書『平劇史料叢刊』(伝記出版社、一九七四)は、京劇研究者にとって有用な資料集であるが、このなかに外国人の著作として唯一、波多野の『京劇二百年歴史』(『支那劇と其名優』を海賊版的に中国語訳したもの)が収録されている。この叢書の主編者・沈葦窗は、収録書籍紹介のなかで、苦々しげに書いている。

「『京劇二百年歴史』――日本人波多野乾一著、鹿原学人訳。まったくもって恥ずかしい限りである。中国の京劇の歴史を日本人に書かれてしまうとは、味気ないような気がする。この本は民国十六年九月に出版された。私はこの本をじっくり読んだことは無い。お許しいただきたい」

 日本人に先を越されたのがそんなに悔しいなら、叢書に入れなければいいのに、という気もする。が、波多野の業績はそれだけ大きなものだった。
 余談ながら、波多野乾一が亡くなるのと入れ違いで生まれてきた孫娘の波多野真矢さんも、京劇の研究者であると同時に、中国本土でも実力を認められた有名な票友である。筆者(加藤)も学生時代、京劇『蘇三起解』や『覇王別姫』を、当時、慶應大学の学生だった波多野さんと一緒に演じたことがある。それにしても、波多野真矢さんといい、平林宣和さんといい、十年前の学生時代に一緒に「京劇研究会」の舞台で京劇を演じた仲間が、今ではそれぞれ大学の教壇に立っていることを思うと、時の流れを感じる。

京劇の文学性を発見した日本人――芥川龍之介(二)

 芥川龍之介『侏儒の言葉』は、「文芸春秋」誌創刊号(一九二三年一月)から二五年十一月まで巻頭に連載された警句集だが、この中に突如として京劇が出てくる。

「虹霓関」を見て

 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたしは梅蘭芳メイランフアンの「虹霓関こうげいくわん」を見、支那にも既にこの事実に注目した戯曲家のあるのを知つた。のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と剣戟とを用ひた幾多の物語を伝へてゐる。
董家山とうかざんの女主人公金蓮、「轅門斬子ゑんもんざんしの女主人公桂英けいえい、「双鎖山さうさざん」の女主人公金定等はことごとくかう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上にとりこにするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適こてき氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士ししんしを除きさへすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆らいていの怒を和げる訳には行かないであらうか?

参考 青空文庫

 驚くべき一文である。芥川は京劇の脚本を文学作品として捉え、ジョ―ジ・バ―ナ―ド・ショウ(George Bernard Shaw一八五六―一九五〇)の戯曲「Man and Superman」(一九〇三)と比較した。中国でさえ、京劇が持つ「はなはだ哲学的」なテ―マについて言及した文章はまれである。
 王大錯編『戯考』は、全四十冊にのぼる京劇の脚本集。一九一五年の初版発行から最終巻の発行まで十年かかった大著である。収録作品は京劇を中心に約六百本で、その大半は作者不明である。
 中国人にとって『戯考』は文学作品ではなかった。京劇は芸能であっても芸術ではなかった。中国人が京劇の劇場に足を運んだのは、自分が好きな役者の「芸」を堪能するためであった。だが、京劇の歌やせりふは難解である。そこで、舞台鑑賞や京劇の歌を覚えるための副読本として、『戯考』のような本が出たのである。
 しかし芥川は、京劇の脚本を「戯曲」として、つまり、それだけで完結した文学作品として読み、それが高度な文学性を持つことを発見した。本来、このような仕事に先鞭を着けるべきだったのは、中国の文学者だったはずである。ところが、当時の中国の「文学革命」の旗手たち、例えば魯迅や胡適などは、京劇を過去の遺物として苦々しい目で見ていた。そのため現在でも
「京劇は舞台芸術である。京劇の脚本とか物語は、文学と呼ぶに値しないくだらないものだ」
 という偏見は根強くある。
 芥川の京劇観は、外国人、それも中国文化に深い造詣を持つ日本人にして初めて可能な創造的思考だったと言える。

京劇女優の起源は上海から――林黛玉(一)

 日本の女優第一号「川上貞奴」は、もともと芸者だった。中国でも、劉喜奎より上の世代の早期の女優は、芸者を兼ねていた。
 京劇女優の歴史は、清末の同治年間(一八六二―七四)、上海で最初の女優京劇団ができたことに始まる。これは北京で食い詰めたある京劇男優が、安徽省安慶の農村で貧しい少女十数人を買ってきて芸を仕込み、上海で働かせたものである。
 当時、少女だけを集めた劇団は他の芸能では存在したが、京劇では初めてだった。劇団といっても、男尊女卑の時代のことだから、一般劇場には出演せず、もっぱら会館での貸し切りパ―ティ―や宴席に出張公演するという特殊な劇団だった。出演料も男性劇団より安く、劇団のもうけは「班主」である男性が独占し、少女たちの取り分は雀の涙だった。
 この女優劇団の「成功」を見て、各地でも女優京劇団が作られるようになった。ただし、女優と男優が京劇の舞台上で共演することは、風紀上の理由で、その後も長いあいだ禁止された。
 清末から民国初年にかけて、女優は「坤角」とか「坤伶」という雅称で呼ばれ、女優劇団は「坤班」と称された。日本語で「乾坤一擲」というときの「乾坤」は天地の意である。陰陽五行思想では、女性を大地すなわち坤にあてる。
 時代が民国になっても、京劇の女役は依然として梅蘭芳など男性によって演じられ、女優の舞台進出は限られていた。また、前述の劉喜奎よりも前の女優は、「妓戯兼営」すなわち芸者業と女優業の両方をこなした。
 ここではその時代の代表的人物、林黛玉(一八六四―一九二四)を取り上げてみよう。
 彼女は幼くして父を失い、母に連れられて上海に流れ、十三歳で妓院(芸者屋)に売られ、京劇や梆子の歌をはじめとする歌舞音曲の芸を仕込まれ、十五歳で芸者デビュ―した。源氏名は『紅楼夢』の才色兼備の美女「林黛玉」から取った。その後一時結婚したものの、すぐに破綻。北京、天津の店で働くが、北清事変(一九〇〇)で南方に避難し、漢口で梆子の花旦を演じて人気を博す。その後、上海にもどり「群仙茶園」の女子劇団の看板女優となって京劇や梆子を演じ、「美仙茶園」の看板女優だった呉新宝や、武小生(若武者を演ずる役柄)の女優・謝湘娥などと並び称された。
 いまや中国でまったく忘れ去られたに等しい林黛玉に会い、その様子を驚嘆の筆致で書き留めた日本人がいる。芥川龍之助(一八九二―一九二七)である。

京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)

 芥川は大阪毎日新聞社の社員だった大正十年(一九二一)、満二十九歳のとき、海外視察員として中国に特派された。三月十九日に東京駅を出発後、旅先で病気による入退院を繰り返すという体調不良に悩まされつつ、七月末に帰国するまで、上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津などの地をまわった。その時の紀行文は大正十四年(一九二五)に単行本『支那游記』にまとめられ、改造社から出版された。
『支那游記』「上海游記」「十五―十六・南国の美人」を読んでみよう。原文の文字づかいや句読点、一部の表現は改めた。
 場所は一九二一年の上海。中国共産党が上海で秘密の結党大会を開く、直前のことである。

「上海では美人を大勢見た。見たのはいかなる因縁か、いつも小有天という酒楼だった。(中略)私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長・余洵氏と食事を共にしたときに勝るものはない。これも前に言った通り、小有天の楼上にいたときである。小有天は何しろ上海でも夜は殊に賑やかな三馬路の往来に面していたから、欄干の外の車馬の響きは、ほとんど一分も止むことはない。楼上ではもちろん談笑の声や唄に合わせる胡弓の音が、しっきりなしに沸き返っている」(『支那游記』)

 余洵は、上海の美人芸者たちを宴席に呼ぶため、指名呼び出し状に名前を書く。彼は「梅逢春」という名前を書くと、にやにや笑いながら芥川に見せて、
「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年間の政局の秘密を知っているのは、大総統の徐世昌を除けば、この人一人だとかいうことです。あなたが呼ぶことにしておきますから、参考のためにご覧なさい」
 と流暢な日本語で言った。
 余洵の意味深長なコメントは、暗に、彼女を含めた早期の女優が権力者の枕席に侍らされる存在だったことを指す。
 民国初年の上海では、西洋式の新式劇場が雨後のタケノコのように建設された。
「茶園」すなわち明清以来の旧式劇場は不景気となり、林黛玉の群仙茶園もつぶれてしまった。そこで彼女は、芥川と会う三年前の一九一八年から、再び芸者業を始めたのである。
 芥川は林黛玉を待つが、彼女はなかなか来ない。
 そうこうするうちに、若い芸者が次々と来て、客席に侍り、京劇の歌を唱う。

「その内に秦楼という芸者が、のみかけの紙巻を持ったなり、西皮調の汾河湾とかいう宛転たる唄をうたいだした。芸者が唄をうたうときには、胡弓にあわせるのが普通らしい。胡弓弾きの男は、どういう訳か、たいてい胡弓を弾きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶっている。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮を張ったのが多かった」(『支那游記』)

「紙巻」は、紙巻タバコのこと。「西皮」は京劇の唄で使われるふしまわしの名称。
「汾河湾」は当時の人気演目の一つ。内容は、唐の太宗(李世民)の部将だった薛仁貴と、その妻・柳迎春の交情を描いたもの。ちなみに、この柳迎春というキャラクタ―は、皇なつきさんの京劇漫画『燕京伶人抄』にもチョイ出している。
 そのあらすじは、薛仁貴は若いころは貧乏な雇われ人で、主家の娘・柳迎春と駆け落ちする。やがて大きな戦争が始まり、薛仁貴は出征。柳迎春は男子を生み、「丁山」と名づける。年月がたち、丁山は少年となり、弓で雁を射落として母を養う。いっぽう、薛仁貴は東の外国との戦争で大手柄を立て、出世を遂げ、妻を探しに故郷にもどり、汾河湾の地まで来る。突然、虎があらわれ、薛仁貴はあわてて矢を射て、誤って丁山を射殺する。その後、薛仁貴は妻を探しあて、感激の再会を果たす。息子が生まれていたことを知って彼が喜んだのも束の間。彼は妻の話を聞くうちに、さきほど矢で射殺した少年が自分の息子であることを悟り、夫婦は悲嘆にくれる。――
 ちなみに、この演目で死んだはずの薛丁山は、別の京劇演目「馬上縁」では何事もなかったように生きていて、父・薛仁貴とともに戦争に行く。そして敵将の娘で女武者である樊梨花に一目惚れされ、芥川が『侏儒の言葉』の中でコメントしたように(後述)、無理やり夫にされてしまうのである。
 京劇はもともと小伝統だったので、演目も相互に矛盾した内容のものが少なくない。が、中国の観客はこの種の矛盾には寛大であった。
 さて、かの梅蘭芳も柳迎春を演じて好評を博した。この芸者さんが唄った「汾河湾」のさわりの部分は「梅派」の唄いかただったかもしれない。
 梅蘭芳のブレ―ンで、のち台湾に渡った文人・斉如山(一八七五―一九六二)は、
「いまの京劇の『汾河湾』は、梆子腔よりも雅であるだけでなく、(京劇版が原作とした)崑曲の『射雁記』よりもずっと良い。しかし、梆子腔の俗っぽさも少なからず残っている」
 と評している。
 このあとも、次々と芸者が来て、京劇の歌を披露する。そのうち、芥川の友人で当時有名な京劇通だった村田孜郎(烏江)も立ち上がり、京劇『武家坡』の、
「八月十五月光明」
 というくだりを唱い始め、芥川を一驚させる。この『武家坡』も、前出の『汾河湾』と同趣向の京劇で、外国との戦争で行方不明になっていた薛平貴(前出の薛仁貴と名前がそっくりだが、赤の他人)が、突然、妻・王宝釧のもとに帰ってきて、自分の正体をかくして妻の貞操を試したあと、感激の再開を果たす、という演目。
 近代中国は、内憂外患の戦火が絶えず、社会も保守的だった。『汾河湾』も『武家坡』も、ヒロインは親でなく自分の意思で結婚相手を選び、外国との戦争に行き帰ってこない夫を何年でも待ち続け、最後には夫と再会する。
 人々は、現実の世界では得られぬものを、京劇のなかに見いだしていたのである。

芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)

 この夜の宴席の呼び物である「林黛玉」は、いかにも大物らしく、一番最後にやって来た。

「林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶のヒレの湯(ス―プ)が荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、よほど娼婦のタイプに近い、まるまると肥った女である」(『支那游記』)

『紅楼夢』の林黛玉は、胸を病むほっそり型の美女である。しかし芥川が見た彼女は、今年で五十八歳というのに、若い時分に真珠の粉末(不老の薬)を服用していたため、せいぜい四十にしか見えぬという魔性の女だった。
 芥川は、彼女の服装やアクセサリ―について詳細に描写するが、その部分は割愛する。

「これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢とが入り交じった、たとえば『天鵞絨の夢』のような谷崎潤一郎氏の小説中に髣髴さるべき姿である」

 彼女の芸の力量は、中国語がほとんどできない芥川にも理解できた。

「彼女がいかに才気があるか、それは彼女の話しぶりでもすぐに想像ができそうだった。のみならず、彼女が何分かのち、胡弓と笛とに合わせながら秦腔の唄をうたいだしたときには、その声と共にほとばしる力も、確かに群妓を圧していた」

 秦腔は、ここでは「梆子腔」と同義語。秦腔の唄の伴奏のときは、京劇のときには無かった「笛」が加わる、と芥川はさりげなく描写する。筆の精確さは、さすがである。
 芥川を驚嘆させた林黛玉は、積年のアヘン吸引がたたり、翌二二年冬、寝たきりの状態となった。そして二四年五月、苦痛にのたうちまわりながら死んだ。
 清末民初の京劇女優については、その「妓戯兼営」という性格上、京劇史研究における扱いも冷淡である。
 芥川が最晩年の林黛玉に会い、彼女の才気と芸の力量を証明する文章を書き残してくれて、良かったと思う。

芥川が見た京劇・崑曲俳優たち

『支那游記』には、林黛玉のほかにも、俳優についての記事がたくさん出てくる。彼らについては『芥川龍之介全集』の注でもほとんど解説されていないので、こちらで紹介しておく。
○蓋叫天 京劇の武生。この名優については後述する。
○小翠花 またの名を于連泉(一九〇〇―六七)。京劇と梆子を兼演した花旦(男性)。木や布でこしらえた小さな足で歩く「蹻功」の技で芥川の心をとらえた。「蹻功」の演技は纏足を模写し、バレリーナのつま先立ちと同様、蹄行美をアピールするものだが、のちの京劇改革運動で、封建的で淫らであるという理由で廃止された(この間の経緯は、黄育馥『京劇・蹻和中国的性別関係』に詳しい)。
 芥川は京劇の演技の象徴性について説明したあと、
「そう言えば今でも忘れないが、小翠花が梅龍鎮を演じたとき、旗亭の娘に扮した彼はこの敷居を越えるたびに、必ず鶸色の梆子(ズボン)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底のごときは、架空の敷居でなかったとしたら、あんなに可憐な心持ちは起こさせなかったのに相違ない」
 と書いている。
「梅龍鎮」は、別名「美龍鎮」「遊龍戯鳳」「下江南」ともいう。明の正徳帝(武宗。在位一五〇六―二一)が民間人に変装し、おしのびで地方を旅行したとき、ひなびた旗亭(居酒屋兼旅籠)に泊まり、旅籠の主人の妹・鳳姐を見そめてモーションをかける。鳳姐は、はにかんだり、怒ったふりをしたり、と、可憐でなまめかしい演技をする。最後に正徳帝は自分の正体を明かし、鳳姐を妃にする、という内容。
 後述するように、かの毛沢東はこの芝居を好み、死の数ヶ月前に極秘のうちに映画に撮影させて鑑賞した(当時は文革中で古典京劇を禁止していたため)。
〇白牡丹 京劇俳優・荀慧生(じゅん・けいせい1900〜1968)の若き日の芸名。京劇四大名旦(梅、尚、程、荀)の一人で、梅蘭芳と並ぶ「おんながた」の名優となった。文革中に迫害を受けて死去。
 「私(芥川)が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋というよりも、舞台裏と言った方が、あるいは実際に近いかもしれない。とにかくそこは舞台の後ろの、壁が剥げた、ニンニク臭い、いかにも惨憺たるところだった。なんでも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来たとき、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗なことだったというが、こういう楽屋にくらべると、なるほど帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない」(『支那游記』)
 芥川が、荀慧生が演じた『玉堂春』は面白かったと誉めると、彼は日本語で「アリガト」と答え、床の上へ手鼻をかみ、芥川を驚かせた。
 芥川の『支那游記』初版では「白牡丹」であったが、後の版では、理由は不明ながら別の京劇俳優「拷イ丹」(黄玉麟1907ー1968)の名前に直されてしまった。筆者(加藤徹)も、拙著『京劇』(中公叢書、2002)執筆時には当時最新版の『芥川全集』しか参照していなかったため、「芥川が会ったのは黄玉麟である」という前提で記事を書いてしまった。
 後に、研究者である秦剛氏が、研究発表「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(2008 年上海外国語大学 日本学研究国際フォーラム。予稿集p.134-p.135)や「芥川龍之介上海観劇考」( 『芥川龍之介研究』、 第5・6合併号、国際芥川龍之介学会、2012年)で、芥川が上海で見た京劇について一次資料を駆使して実証的に明らかにされたとおり、芥川が上海の楽屋で会ったのは、初版のとおり白牡丹こと若き日の荀慧生であった。
 この「拷イ丹への書き換え問題」について、筆者は、「やぶちゃん」氏のブログ「Blog鬼火〜日々の迷走」の記事、
  2009/06/01 上海游記 九 戲臺(上)
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2009/06/post-84c2.html 
が詳しくてわかりやすい。
(以下は昔、筆者が書いた記事。拙著『京劇』でも、以下のように書いてしまった。(^^;;
上述のとおり、現行の『芥川全集』の「黄玉麟(拷イ丹)」は、「荀慧生(白牡丹)」の誤り。
訂正の意味をこめて、以下にあえて昔書いた誤りの記事を残しておく。)

○緑牡丹 またの名を黄玉麟(一九〇七―一九六八)。京劇の青衣兼花旦。清朝の官僚の家柄の出身で、父親が一九一三年の「第二革命」のとき袁世凱討伐軍に参加して敗北したため、一家は上海に逃げ、困窮。一六年、黄玉麟は家族の生活のため、勉学を中断して京劇の道に入り、芥川と会見した二一年には、数え十五歳の若さで大スターになっていた。
「私(芥川)が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋というよりも、舞台裏と言った方が、あるいは実際に近いかもしれない。とにかくそこは舞台の後ろの、壁が剥げた、ニンニク臭い、いかにも惨憺たるところだった。なんでも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来たとき、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗なことだったというが、こういう楽屋にくらべると、なるほど帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない」(『支那游記』)
 芥川が、黄玉麟が演じた『玉堂春』は面白かったと誉めると、彼は日本語で「アリガト」と答え、床の上へ手鼻をかみ、芥川を驚かせた。
 この少年はその後、四十七年を生きた。芥川との会見の四年後の二五年には来日公演を果たすが、彼がスターの座を保った時期は短かった。三〇年代に入ると、アヘン吸引のため身体をこわし、容色と喉も衰え、ドサ周りなどもした。日中戦争終結後の一時期は、役者業をやめ商売に転向したが、経営破綻し、京劇を教え口を糊する苦しい日を送った。新中国成立後は、短期公演で舞台に立ったり、上海市戯曲学校の教師をつとめた。六六年に文化大革命が始まると激しい暴力と迫害を受けた。六八年十一月、胃癌のために死去。
 以上は、芥川が上海で見た俳優である。
 その後、芥川は北京に行き、おとといは前門外の三慶園で余叔岩や尚小雲を、きのうは東安市場の吉祥茶園で梅蘭芳と楊小楼を、というように、一流の京劇俳優の舞台を堪能した。
 芥川は同楽茶園で崑曲『胡蝶夢』を見て、
「今までに僕の見たる六十有余の支那芝居中、一番面白かりしは事実なり」
 と大いに気に入り、『支那游記』の中で舞台や劇場の様子を詳細に解説している。
この『胡蝶夢』は、荘子が、自分の死後も妻は貞操を守るか否か、幻術を使って試す、という芝居である。新中国成立後は淫戯として上演禁止になったが、外国人の間では評価が高く、例えばアメリカの舞台芸術高級研究所(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)では、A・C・スコット教授の指導のもと、京劇版『胡蝶夢』をアメリカ人俳優を使って公演して好評を博した(一九六一)。
『胡蝶夢』に関心を持った芥川の深層心理では、もしかすると、このときすでに、六年後の自殺にむけての時限スイッチが入っていたのかもしれない。
 芥川が『支那游記』で名前をあげている『胡蝶夢』の出演者四人のうち、二五年に死んだ一人をのぞく三人が、三七年からの日中戦争で被害を受けた。
○韓世昌(一八九八―一九七七) 「北崑」すなわち北中国の崑曲の名優で、河北省高陽県河西村の人。『胡蝶夢』で荘子の妻の役を演じた。彼は貧農の家に生まれ、幼時から科班で崑曲を、陳徳霖に京劇を習った。芥川が自殺した翌年の二八年十月に日本公演を果たす。日中戦争中は舞台を自粛し、京劇女優の言慧珠や朝鮮舞踏家の崔承喜など若手の教育に専念。新中国成立後は、北方崑曲劇院院長を勤め、六〇年に中国共産党に入党。政治協商会議委員や中国戯劇家協会理事など、要職を歴任した。
○陶顕庭(一八七〇―一九三九) 芥川は「陶顕亭」と記す。北崑の俳優、河北省安新県の人。『胡蝶夢』で荘子を演じた。孫悟空ものなどで人気を保ち続けたが、三七年に日中戦争が始まると、髭を伸ばし、日本人のために舞台に立つことを拒否した。三九年秋、天津で水害にあって困窮。その直後、故郷の家が日本軍の侵攻によって消滅したことを聞き、にわかに病を発して倒れ、その翌日に急死。
○馬鳳彩(一八八八―一九三九) 芥川は「馬夙彩」と記す。北崑の俳優で、韓世昌と同じ村の出身。『胡蝶夢』で楚の公子を演じた。二八年には韓世昌とともに日本公演に参加。三七年、天津で崑曲の科班の教師となるが、ほどなく日中戦争が勃発して科班は解散。彼は生徒が故郷に帰るのを護送し、そのまま郷里で病没。
○陳栄会(一八七三―一九二五) 北崑の俳優、河北省三河県の人。『胡蝶夢』で老胡蝶を演じた。芥川が舞台を見た四年後に病死。

オ―ナ―が転々と変わった上海の劇場

 上海の劇場は、北京と違い、オ―ナ―がめまぐるしく変わった。
 一例として、芥川龍之介が一九二一年に京劇を見た「天蟾舞台」を取り上げよう。
 この劇場は、民国元年(一九一二)、上海随一の遊び場「楼外楼」の一部として上海市九江路湖北路口で開業した。当時としてはモダンな鉄筋コンクリ―トの建物で、開業時の名前は「新新舞台」であった。が、翌年にはオ―ナ―が変わり「醒舞台」と改名。一四年には人員が入れ替わり「竟舞台」と改名。一六年には賃貸契約の借り手が変わり「天蟾舞台」と改名(「天蟾」は月の雅称)。そして、芥川が観劇した九年後の一九三〇年、「天蟾舞台」の看板は、賃貸契約満了にともない、福州路雲南路にあった別の劇場に引っ越した。
 この復州路の建物も、二六年の開業時は「大新舞台」、その後「天声舞台」と、それまでに二度も改名している。
 清末から民国期にかけての上海には、地方の劇団や俳優が次々に流れ込み、劇場が雨後のタケノコのように作られ、活況を呈していた。劇場や劇団は、人気が出ると、少しでも条件の良いところに引っ越した。その反面、いろいろ問題も生じた。劇場が引っ越してばかりいると利権関係が複雑になりやすく、秘密結社や裏社会の組織が暗躍する余地ができる。また、経営側は短期決戦で利益をあげようとし、劇場を大型化し、入場料を高く設定するため舞台装置にも金をかけたがり、しばしば俳優側と対立した。
 上海の「海派京劇」が、北京の「京派京劇」と違う独特な傾向を持つに至った一因は、劇場がコロコロ変わったことにある。これは、後述の蓋叫天の骨折事故をはじめ、京劇にはマイナスに働いたのである。

日本の「後見」とひと味違う中国の「検場」

 舞台浄化運動が進んだ今日では、演技中の俳優以外の者がフラフラと舞台上をさまようことはないが、民国期までの舞台はそうではなかった。
 芥川は、北京で崑曲の孫悟空を見たとき、異様な人物が舞台上にいるのを見て不思議に思った。

「悟空の側にはまた衣装を着けず、粉黛を装はざる大男あり。三尺余り(九十センチ以上)の大団扇をふるって、たえず悟空に風を送るを見る。羅刹女(牛魔王の夫人)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王か何かと思ひ、そっと波多野君に尋ねてみれば、これはただ扇風機代りに役者を扇いでやる後見なるよし」(『支那游記』)

 芥川は歌舞伎や能の用語で「後見」と書いているが、京劇の用語では「検場」あるいは「検場的」「検場人」と言う。中国の劇場に場面転換の幕を使わなかったころ、舞台に小道具を運び込むための「必要悪」だった。
 検場の職務のうち、俳優の演技中に小道具を舞台上に運んだり、俳優の着替えを手伝う、というのは日本の後見に似ている。しかし検場は、舞台上のストーリーと関係なく、俳優にお茶を運んだり、立ち回りのとき机を手で支えたり、汗を拭くタオルを渡したり、扇風機代わりにあおいでやった。しかも服装は平服だったり、時には半裸だった。中国の観客は、舞台上に無い物を想像するだけでなく、舞台上に有る事物を無いものと見なす「マイナスの想像力」にも長けていたのだ。
 中国演劇の後進性とだらしなさの象徴のように言われた検場だが、れっきとした芝居のプロフェッショナルである。正式には「劇通科」と呼ばれ、俳優や楽隊と同じく「戯界七行七科」中の一科であった。一般に検場は五人編成が多く、「検場頭」(リーダー)、「上手」(上場門の係)、「下手」(下場門の係)、ふたりの「打簾子」(上場門と下場門の幕をかかげあげる助手。自動ドアのモーター代わり)と、仕事も細分化されていた。中でも「上手」の仕事が一番むずかしく、熟練した者があてられた。
 名優や名奏者と同じく、検場にも流派があり、歴史に名を残した名検場も少なくない。
 また、普段は透明人間のように扱われる検場も、時に芝居の流れに入って興を添えることがあった。昔の丑(道化役)は、ときどき検場をネタに観客の笑いをとった。
 例えば『背娃入府』という演目の末尾では、丑が、わが子に見立てた「喜神」(福の神)を舞台に置き「あの子の舅舅(おじさん)が来て抱きあげてくれるのを待とう」と言う場面があった。検場を自分の妻の弟に見立てて言っている訳で、観客はここで爆笑した(斉如山『戯界小掌故』)。たとえて言うと、今日のテレビのバラエティ番組で、お笑いタレントが、舞台に物を運んでくるアシスタント・ディレクターをからかって笑いを取るようなものだ。
 かっての検場の職務は、新中国になってから、観客から見えない舞台の袖幕の中や楽屋で行われるようになった。廃止されてみると、おかしな演目もでてきた。
 例えば『戦冀州』(三国志)や『漢宮驚魂』(『姚期』旧本)では、それぞれ馬超や光武帝(劉秀)が僵屍の技で床に勢いよく卒倒する演技を、何度も披露する。そのたびに役者を扶け起こすのは、検場の仕事だった。だが、検場が廃止されたあと、馬超の場合は副将が、光武帝の場合は宦官が助け起こすという演出に変わった。それまで副将や宦官は黙々とデクノボーのように舞台の隅に立ち、主人が倒れるのを待っている。なんとも間が抜けて見える。
 もし日本人なら、検場を一律に廃止せず、演目によって検場を存続させたであろう。だが近現代の中国では、いったん制度を改革する以上、万事につけ妥協を許さない。京劇の検場と歌舞伎の後見の違いは、そのことも象徴している。

中国の観客が騒がしかった理由

 芥川龍之介は、民国期の京劇の劇場のさわがしさにビックリした。

「その代わり中国の芝居にいれば、客席では話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。(中略)現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向こう三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった」(『支那游記』)

 当時の中国人のために弁護すれば、中国に限らず、いわゆる「小伝統」の劇場は、どこでもこのような状況であった。現在でも、例えばロックのライブ会場の観客は、ステージ同様に騒ぐ。昔の中国の京劇の観客も、ざわついたり騒がしいことによって芝居に「参加」していたのである。
 近代の西洋式劇場の設計思想は、ベンサムのいわゆる「一望監視装置(パノプテイコン)」型システムにのっとっている。観客席は一人用の椅子を並べたもので、すべて舞台の方を向く。上演中は客席の照明を落とし、舞台だけを照らす。こうして「観衆」は横の連絡を絶たれ、個人化した「観客」となり、舞台上にのみ神経を集中する。劇場空間の支配権は舞台上の演技者にあり、コミュニケーションの動線も一元集中化されている。
 いっぽう「茶園」と呼ばれていた頃の中国の伝統的な劇場建築は、舞台と観客の交感だけでなく、観客どうしの交感も重視するクロスオーバー式の設計思想に基づいていた。芝居は一種の祝祭であり、客席は社交の場であった。客席の机やテーブルも、そのような設計思想にもとづいて配置された。
 そういう本質を無視し、昔の京劇の客席がにぎやかだったことを、短絡的に中国人の民度の低さに結びつけてはならない。
 今日、京劇は西洋式のプロセニアム劇場で上演されることが多い。一方、北京市の湖広会館劇場、正乙祠劇場のように、清代の劇場を修復して、昔の雰囲気そのままに京劇を味わえる劇場も何カ所かあって、人気の観光スポットとなっている。

中国演劇の立ち回りが猛烈をきわめる理由

 一九二一年、上海と北京で京劇を見た芥川龍之介は、その立ち回りのすごさに驚き、

「武劇の役者は昔から、腕力が強いということだが、これでは腕力がなかった日には、肝腎の商売が勤まりっこはない」(『支那游記』)

 と書いている。魯迅も、童年時代に故郷で地方劇を見たときのことを回想した短編小説のなかで、一度に連続八十四回もトンボを切る「鉄頭老生」の立ち回りについて書いている(『社戯』)。
 中国演劇の立ち回りの峻烈さは、演劇のルーツである追儺系の武技にまでさかのぼる。古来、中国の農村の祭りでは、村から悪い病気や日照り害、イナゴの害を追い払ってくれる儺神を招くことがあった。農村の選ばれた屈強の男が、神聖でおどろおどろしい仮面をかぶって儺神に憑依されたことを示し、刀や剣、槍、矛などをブンブンと振り回し、農村に害をもたらす目に見えぬ鬼と戦う所作を演ずる。この、現在でも南中国の奥地の農村で伝承されている儀礼は、鍛錬された武技であり、演劇の祖先の「生きた化石」である(詳しくは田仲一成『中国演劇史』第一章を参照)。
『水滸伝』に出てくる史家村とか祝家荘のような武装農村は、中国に実在した。国が平和なときでも、農村部では「械闘」という村落同士の戦闘で死者が出た。非常時ともなれば、カリスマ性を持つ役者を中心に、武装した民衆がまとまることもあった。
 例えば、李文茂(?―一八六一)は、粤劇(広東の地方劇)の二花臉で『蘆花蕩』の張飛などを得意としたが、太平天国の乱に呼応して反清の兵を挙げて一大勢力となり、平靖王と称するまでになった。また、光緒十一年、フランス軍が台北を攻めたときも、現地の俳優・張阿火は、有志数百名を率いてフランス軍を待ち伏せし、これを見事に撃退している。
 辛亥革命で清朝がくつがえると、土豪や貴顕につかえていた用心棒たちが職を失って芝居の「武行」になったため、立ち回りの水準はさらに高まったという。

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