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宗教から初期演劇へ

中国演劇を中心に

  これは、青木孝夫編『演劇と映画』(京都・晃洋書房,1998年1月)109-130頁の加藤徹執筆分をhtml化したものである。

目次


要旨
 前半部では「初期演劇の母胎は宗教であり、その本質は擬似再出生体験であった」という説を、中国を中心に、世界各地の初期演劇をもとに検証する。
 後半部では、初期演劇の音楽的演出には世界的に見て「弦鳴楽器排除の傾向」があることを検証し、その謎に考察のメスを入れる。

筆者より一言
 インターネット上の本稿は、縦書きと横書きの違いをのぞけば、ほぼオリジナル原稿(晃洋書房『演劇と映画』掲載)のままです。ただし、パソコン画面上での読みやすさを考えて、各所に「色」を付けました。また「注」も文中に分散配置するよう変更しました。


はじめにーー演劇と宗教

 人間の文化の最古にして最大のテーマは「死」である。無窮の大自然にくらべ「われ」のなんと小さなことか。「死」という限界までが架せられている「われ」に、救いはあるのか。宗教も、文学も、音楽も、人間の文化的営為の淵源は、この問いに解答を見出だそうとする試みと結びついていた。
 宗教とは、「われ」が永遠なるものと出会うための一連の手続きのことである。一般に宗教では、目に見える現実界の背後には目に見えぬ永遠の霊的世界が存在する、と説く。宗教の招魂儀礼は、現実界の「われ」たちに永遠の霊的世界を垣間見せるための演出であった。演劇は、この招魂儀礼を母胎として生まれた再現芸術である。
 世界の初期演劇は、ギリシア悲劇も、日本の能楽も、欧州の受難復活劇も、中国の儺戯(だぎ)も、本質的によく似た基本構造を持っていた。登場人物の多くは、神話なり歴史なりで「実在」したと信じられていた人物である。今は霊的世界に去ったそれらの人物を、招魂儀礼の影をひく呪術的演出によって、現世の劇的空間に再現する。呼び出された英霊的人物は、かって自分を見舞った運命をドラマとして再現する。そして、現実界で不幸づくめの人間にも霊的再生という救済の道が残されているという暗黙のメッセージを現世の人々に伝え、舞台を去って霊界に帰る。
 初期演劇は、おおむねこのようなパターンを持ち、通常、「祭り」の一部として聖域の近くで行われた。演者と観衆の区別は、いまだ曖昧であった。演劇の現場に居合わせた人々は、「われ」の不安や苦悩が決して自分ひとりのものではないこと、その苦悩に意味を与えてくれる世界が現実界とは別に存在するらしいことを、身体感覚のレベルで感じ取り、そこに一瞬の救いを見いだしたのである。
 注意すべきは、宗教は人類に普遍的な現象であるが、演劇はそうでなかった、ということである。人類の歴史を振り返ると、詩や歌舞を持たぬ民族はいないが、自前の演劇を持たぬ社会は珍しくなかった。紀元前五世紀のギリシア、紀元前四世紀のインドは、すでに立派な演劇を持っていたが、中国での自前の演劇の成立は宋代(九六〇ー一二七九)まで待たねばならなかった。イスラム圏に至っては、高度な文明を持ちながらも、自前の演劇はついに完成を見なかった。
 こうした社会や文明圏の状況を比較検討してみると、どうやら、「演劇」が順調に開花するためには、その社会が以下の三条件を満たす必要があるらしいことがわかる。

 念のために付言すれば、ある社会が自前の演劇を持たぬから後進的だとは言えない。演劇の発生は、むしろその社会の不幸の現れとさえ言えるからである。
 また、母親の影響力が強すぎると子の自立が遅れるように、宗教が強すぎても演劇は生まれない。初期演劇は、ギリシア悲劇や日本の能の作品を見てもわかるが、神や英霊が活躍する作品が多い。したがって、初期演劇が生まれる最低条件として、生身の人間が神や英霊を演じてもよいという黙契が、その社会に確立していなくてはならない。
 例えば、イスラム圏の演劇不振の理由は、宗教が厳格で、もともと享楽的行為を罪悪視する土壌があったうえに、生身の人間が「神」や「預言者」を演ずるのは容認し難い不敬と考えられたからである。イスラム圏の演劇で世界的に有名なのは、トルコの影絵芝居「カラギョーズ」とイランの宗教劇「テアズィレー劇」であるが、両者のありようは、かえってイスラム圏の演劇不振を象徴している。前者は、生身の役者が登場せず、上演場所も劇場でなく茶館だった。後者は、シーア派の宗教儀礼である自鞭行進(1)から派生した厳格な宗教劇で、成立も遅く、最初の台本が書かれたのはやっと一八世紀だった。
注1:イスラム教シーア派は、ムハッラム月の十日に「フセイン受難」を悼む祭りを行う。この祭りで、半裸になった信者たちは自分の体を鞭や鎖で打ちながら行進し、最後に、野原や広場でフセイン受難の場面を再現する。夜になると子供たちは悲しみの歌を合唱して歩き回り、大人たちは家に閉じこもって忍び泣きし続ける。いつ始まったのか定かではないほど、古い伝統を持つ祭りである。多数派であるスンニー派は、この流血凄惨な自鞭行進を狂信行為であると言い、冷ややかに眺めるだけである。
 ちなみに中国にも、宗教儀礼としての流血を伴う行列行進があり、やはり演劇と密接な関係を持っている。田仲一成『中国郷村祭祀研究』(東京大学出版会、一九八九)二五八ー二五九頁参照。
 同じ一神教圏ながら、キリスト教圏では、ずっと早い段階で、同様の自鞭行進が演劇に開花した。一三世紀、大衆の自然発生的な自鞭行進がヨーロッパを席巻したときは、教皇がこれを禁止したため、運動は終息した。しかし一四世紀中葉のペスト大流行で、ヨーロッパ各地で自鞭行進の熱狂が再燃したとき、これを阻む教会勢力は崩壊していた(2)。
注2:聖職者はペスト患者の介護や埋葬に立ち会うため、感染の危険が大きかった。当時の記録によれば、例えば、イングランドでは短期間のうち聖職者総数のほぼ半数がペストで死亡したという。村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波書店、一九八三)一三一頁。
かくて、この自鞭行進で自然発生し、唱い継がれるようになった「歌謡」(laudesi )は、その後しだいに変化を被って内容も劇的になり、それが神秘劇に変容して、イタリア舞台芸術の重要な一部門を構成するようになった(3)。
注3:上掲『ペスト大流行』一五二頁
 自鞭運動が演劇に結実した中世ヨーロッパ社会が、そうでなかったイスラム社会より幸福だったとは、決して言えまい。
 日本でも、宗教が強すぎた王朝時代には、自前の演劇は生まれていない。例えば、太陽神の死と再生をテーマとする「天の岩戸」神話のドラマは、初期演劇の恰好の題材となりうるが、そのドラマの再現は、大嘗祭の一部「鎮魂祭」の秘儀として、禁裏に独占されていた。この、「天の岩戸」のドラマを儀礼化した鎮魂祭とは、平安朝の記録類から伺うに、ホコを手にした巫女が宇気槽の上に立ち、アメノウズメノミコトの子孫である猿女が歌舞をするなど、劇的要素に富む宗教儀礼だったらしい(4)。
注4:西郷信綱『古事記の世界』(岩波書店、一九六七)八三頁
 日本での初期演劇の成立は、宗教の大衆化が進み、社会体制が乱れ、多くの横死者が出た武家政治の時代である。「天の岩戸」のドラマも、能「絵馬」の中で劇中劇として再現できるようになった。能の登場人物には、西国で滅んだ平家の亡霊、人買いに誘拐されて死んだ子供の霊などの横死者や、仏の歯を盗んだ足疾鬼、神話時代の威光を失って凋落した葛城山の神などがいる。これは、生身の役者が神や幽霊を演じられるほど、中世日本の宗教緩和が進んでいたことを意味する。

演劇の萌芽 ーー巫尸の歌舞対唱

 筆者の専攻は中国の伝統演劇である。いささか前置きが長すぎたが、以下、中国において宗教から演劇が成立した過程を、他国の事例も参考にしながら概観してみたい。
 中国は昔から人間中心主義の文明であり、一神教圏と比較すると、宗教の力は弱いように見える。が、それでも、宗教の演劇に対する拘束力には驚くべきものがあった。近世に入ってからでさえ、儒教の祖・孔子を俳優が演ずることは忌避された(5)。

注5: 清朝のころまで、役者が孔子を演ずることは法律で禁止されていた。この規定に違反し役者が孔子に扮したため、劇団長が官から厳罰を受けた事例もある(焦循『劇説』巻六)。伝統中国では、役者は一種の賤民とみなされており、また演劇というジャンル自体も、芸術としての地位を認知されていなかった。役者が古しえの帝王聖賢を演ずる不敬をどの程度目こぼししてやるかは、時代の権力者の腹ひとつだったのである。
 余談ながら、「文化大革命」終了まで役者が毛沢東を演ずることが厳禁されていた事実は、こうした伝統の延長ともとらえることができる。当時、日本の劇団「文学座」が日本での公演の直前に、中国大使館から公演中止を要請されるという事件があった。劇中、青年期の毛沢東が登場する場面があるから、というのが主な理由であった(「中央公論」昭和五一年四月号に、当事者の手記がある)。
 また、道教の有力な神である関羽(6)や玄宗(7)を演ずるには種々の宗教的制約があった。中世、古代に溯れば、こうした宗教的制肘はなおさら強力だった。
注6:『三国志』の英雄・関羽は、道教において、無数の「関帝廟」が建てられるほど有力な神となった。京劇の役者が関羽を演ずる場合、「点破」ないし「破臉」(はれん)と言って、化粧の最後にわざと顔に墨を一点はね、化粧の完璧さをそこなう習慣があった。この墨は一種の「ダッシュ」であり、神・関羽への畏敬の念のあらわれである。曹国麟『国劇臉譜芸術』(漢光文化事業、民国七三年、台北)一一三頁参照。
 また関羽の非業の最期を描いた演目「走麦城」も、同様の宗教的配慮から、滅多に上演されない。同じ『三国志』の英雄でも、神ではない張飛や諸葛孔明については、この種の配慮はなされない。
注7:唐の玄宗皇帝は、道教では梨園(芸能界)の祖神とされる。そのため、玄宗と楊貴妃の故事を描いた長編演目『長生殿』の全劇を演ずると、その劇団は必ず解散に追い込まれる、という迷信があった。清の乾隆三十何年かに、ある大官が試みに『長生殿』全劇を春台班という劇団に上演させてみたところ、春台班は、別の理由によってではあるが、確かにその年のうちに解散してしまったという(焦循『劇説』巻六稿本)。
 中国でも「演劇の萌芽」は、なかなか開花できなかったとはいえ、悠久の昔から存在していた。例えば「鬼」の甲骨文字は「招魂のため仮面をかぶった霊媒」をかたどった象形文字であるという。とすれば、遅くとも今から三千数百年前の殷代には、後世の仮面劇の萌芽が存在していたことになる(8)。
注8:この字形を「頭の大きな幽霊の姿そのもの」と解釈する説もある。
 また春秋戦国時代の文献記録類を伺うに、他国の場合と同様、古代中国でも、招魂儀礼として、神を招く巫(かんなぎ)と、神を自分の体の上に憑依させた尸(かたしろ)の対話が行われていたことがわかっている。この巫尸の歌舞対唱こそ、演劇における俳優間の舞踊、歌唱、科白などの起源であるという説がある(9)。
注9:田仲一成『中国祭祀演劇研究』(東京大学出版会、一九八一)三頁
 巫尸対唱の一例として、紀元前三〇〇年ころに成立した『楚辞』「九歌」から、神と人間の対話を掲げよう。( )内のト書は原文には無いが、脚韻の変換等をもとに推定した。

(尸、大司命の神に扮して登場、歌う)
  広開兮天門   天の扉を広く開いて
  紛吾乗兮玄雲  われは黒いむら雲に乗る
  令飄風兮先駆  つむじ風に命じて先駆けをさせ
  使[水東]雨兮灑塵  夕立に命じて塵を洗い清めさせよう
       ([水東]は「サンズイの右に東」という 字の代わり)
(巫、神を見上げながら伴唱)
  君廻翔兮以下  神は飛び舞い、下りたもう
  踰空桑兮従女  空桑の山を越え、あなたについて行こう
(尸、下界を見おろしながら歌う)
  紛総総兮九州  世界にひしめく人間たち
  何寿夭兮在予  いかで、一人一人の寿命を予が関知しきれよう

 大司命は星の名で、古代中国では人間の寿命を司る神とされた。夕暮どき、天空を飛翔しはじめた星(神)と、自分の長寿を祈ろうとする人間の、二人の対唱。人間は必死で神なる星を追いかける。

(巫、神を見上げながら伴唱)
  高飛兮安翔   高く飛び、安らかに翔け
  乗清気兮御陰陽 清らかな風に乗り、陰陽を統御したもう
  吾与君兮斉速  私はあなたと同じ速さで走り
  導帝之兮九坑  天帝を九坑の山にご案内したい
(尸、飛翔のしぐさを舞いつつ歌う)
  霊衣兮被被   神の衣はひらめき
  玉佩兮陸離   身に佩びた宝石はきらめく
  壹陰兮壹陽   個々人の寿命でなく、大自然の陰と陽の循環こそが
  衆莫知兮余所為 余の職掌であることを、人間どもは知らぬ
(巫、神を見上げながら伴唱)
  折疏麻兮瑤華  聖なる疏麻の美しい花を手折り
  将以遺兮離居  離れゆく神に贈ろうとしたのに……
  老冉冉兮既極  老いはじわじわ忍びより、もう限界だ
  不[宀/浸]近兮愈疏  なのに祈るべき神は、近づくどころか離れてゆく
        ([宀/浸]は「うかんむりの下に浸」という 字の代わり)
(尸、舞いつつ歌う)
  乗龍兮[車米/舛][車米/舛]   竜車に乗ってリンリンと
        ([車米/舛]は「車へんに、隣の右半分」という 字の代わり)
  高馳兮沖天   天頂たかく馳せのぼる
(尸、退場。巫、ひとり佇み、歌う)
  結桂枝兮延佇  捧げものの香木の束を手に、佇むばかり
  羌愈思兮愁人  ああ、思えば思うほど切ない
  愁人兮奈何   でも、はかなんで、どうなるのだ
  願若今兮無虧  せめて今この瞬間が完全であれと願おう
  固人命兮有当  もとより人の寿命は天命だ
  孰離合兮可為  霊肉の離合を、誰が自由に作為できよう

 こうした巫尸の歌舞対唱が順調に発展すれば、そのまま初期演劇の演出の祖型となりうる。ギリシア悲劇「ペルシアの人々」では、巫は舞唱隊に、尸はダレイオス王の亡霊になる。日本の夢幻能では、巫は旅僧を演ずるワキに、尸は幽霊を演ずるシテになる。
 中国では巫尸の歌舞対唱が宗教の範疇にとどまった期間が長く、なかなか演劇に開花できなかった。強力な宗族支配の存在という社会的構造が、宗教儀礼の演劇化を阻んでいたのである。古代の演劇の萌芽は、早い段階で有力宗族の「廟祭」に吸収されてしまい、有力宗族による村落支配の道具として秘儀化されてしまった(10)。ちょうど、古代日本で「天の岩戸」のドラマが鎮魂祭に吸収され秘儀化した経緯を想起させる。

注:10上掲『中国祭祀演劇研究』一二頁
 かくして中国では演劇の無い時代が長く続いたが、その補償作用として、劇的ストーリーを持つ長編叙事詩の名作が輩出した。「艶歌羅敷行」「孔雀東南飛」「木蘭辞」「長恨歌」などの古詩や、「変文」と呼ばれる韻文型式の語り物がそれである。こうした叙事詩は、後世、中国演劇が生まれたあと演目の題材を提供しただけでなく、叙事詩のスタイル自体が、演劇の歌詞のスタイルの祖型の一つになった。

   

祭祀演劇の発生(11)

注11:本節の記述は、ほぼ上掲『中国祭祀演劇研究』一四ー三一頁の説を踏襲する。
 中国で演劇発生を阻む社会構造の緩和が進んだのは、律令国家体制が崩れる中晩唐期以降からである。農村では「社」の組織が宗教色を失い、祭祀儀礼の芸能化が進んだ。そして五代十国の動乱期を経て宋代に入ると、

などの演劇発生の素地が整い、中国でもようやく演劇が発生した。
 昔の日本語で役者を「河原乞食」と呼ぶ蔑称があったが、中国でも「河市」という水路沿いの市に芸能者が集まり、芸を売る生活をしていた。社の祭りの演劇化が最初に実現したのは、この河市だったらしい。河市は、范成大(一一二六ー一一九三)の詩(12)に、

注12:范成大『石湖集』巻二六「詠河市歌者」
  豈是従容唱渭城  ゆったりと「陽関三畳」の曲を歌ってるように見えても
  箇中当有不平鳴  その中には不平の調べがこめられているに違いない
  可憐日晏忍飢面  あわれむべし、日が暮れても飢えを顔色に出さず
  強作春深求友声  春深くして友を求める鶯の声を、しいて出している

と詠まれているように、下級遍歴俳優が集まる場所であった。
 こうした「市」で芸能化した社の祭りは、再び農村に帰り、村落演劇となった。村落の祭りの日、小市場地の寺廟で演じられていた当時の演劇については、脚本も残っていない。ただ、演劇上演に対して役所が出した禁令とか、当時の村落演劇を観劇した文人が書いた随筆や詩などの文献資料が残っている。これらを総合するに、当時の演劇は、現在でも中国の辺境や朝鮮半島で演じられているような仮面劇であった。
 楊万里(一一二四ー一二〇六)は、当時の農村の祭りにおける村落演劇の様子を、

  作社朝祠有足観  祠に向かって献ずる社の祭りは見ごたえがある
  山農祈福更迎年  片田舎の農夫は福を祈り、豊かな実りを迎えた
  忽然簫鼓来何処  突然、どこからか笛と鼓の音が聞こえてくると
  走殺児童最可憐  子供たちが駆けて行くのも可愛らしい
  虎面豹頭時自顧  虎や豹の仮面をかぶった者たちは時おり互いに見かわし
  野謳市舞各争妍  農夫の歌と市の俳優の舞が互いに妍を競いあっている
  王侯将相饒尊貴  王侯貴族は上流の生活に飽食しているが
  不博渠儂一餉癲  彼や私のようなお祭り騒ぎの醍醐味は味わえまい

と詠じている(13)。

注13:楊万里『誠斎集』巻三七「観社」
「市」の芸能が農村に流入し、仮面をかぶった役者が笛と鼓の里神楽に乗って舞う様子が、目に見えるようである。

[後半に続く]