聖書箇所 マタイによる福音書14:22-33

 

 
というのは不思議なものです。風がまったく吹かない日は、まるで鏡のように平らな、波ひとつない静まりかえったすがたになるのです。そんな日に船で湖に出ると、まるでガラスの板の上をするすると進んでいるような感じがするのです。

 わたしたちの人生にも、そのようなおだやかな日があります。鏡のように平らかな日々。みわたすかぎりどこをみても、波ひとつない、おだやかな日々。行く手をさえぎるものはなにもありません。何の苦労も、何の不安もなく、自分の目的の場所に進んで行くことが出来る。そういう平安なときが、わたしたちの人生にはあります。

 

 しかし、湖というのは、いつもそのように「べたなぎ」の状態であるわけではありません。風の吹き方が強くなれば、波が起きてきます。激しい風が吹けば、波もさかまき、やがて、大きなうねりとなり、小さな山ほどの高さの波が、次から次へと生まれて来ます。不幸にしてそんな日に、船で湖に出てしまったら、波にもまれて船のコントロールは出来なくなり、悪くすると、船がひっくり返されて、波に飲み込まれてしまうことすらあるのです。

 わたしたちの人生にも、そのような嵐の日があります。どこを見まわしても平らな場所がなく、次から次に押し寄せる波にもみくちゃにされ、自分の心も思いも感情もコントロールすることが出来ない、自分の目的とする場所を見失い、どんどんと波に流されて行ってしまう、漂流するような日々。そういう嵐のときが、わたしたちの人生にはあります。

 

 わたしたちは、自分の力でコントロールすることの出来ないものが、たくさんあります。わたしたちは、風がどこから吹いてどこに行くのか、また、どのくらいの強さで風が吹くのかを、自分の力でコントロールすることは、できません。あるいはまた、波がどこから来て、どこに行くのか、また、波がどのくらいの高さで来るのかを、自分の力でコントロールすることは、できません。

 わたしたちの人生の中にも、そのような、コントロール不可能なものが、たくさんあります。わたしたちは、鏡の板のような、なにもない人生をいつも生きていたいと思うのです。しかし、わたしたちの人生の中には、コントロールすることが不可能な局面が、くりかえし、くりかえし、起きてくるのです。

 

 そのような、コントロール不可能なものに直面したとき、わたしたちは、悩み苦しむほか、ありません。それは、荒れ狂う湖に船をこぎあぐねている弟子たちの姿にそのまま重ね合わせることができるでしょう。聖書はこのように言っています。

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向う岸へ先に行かせ、その間に群集を解散させられた。群集を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、船は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」

 人生の逆風が吹くとき。コントロール不可能な、正面から吹きつけてくる強い風。強い波。それらに行く手をはばまれるとき、わたしたちはイエスの弟子たちと同じように、ただ悩むほか、ありません。悩み苦しむことしか、わたしたちには、出来ません。

 

 かし、ひとつの慰めがあります。イエスの弟子たちが逆風に悩まされていたとき、わたしたちの主イエスは、祈っておられたのです。イエスは祈っておられました。イエスはひとり山の中で、祈っておられました。逆風に悩み苦しむ弟子たちの姿を、イエスは遠くから心の目で見ておられました。イエスは見守っておられました。そして、イエスは弟子たちのために祈っておられました。弟子たちが守られるように。風向きが変わるように。波が静まるように。弟子たちの命が救われるように。イエスは夜を徹して、祈っておられました。

 

 わたしたちの人生の中で、イエスが一緒におられないように感じるときがあります。人生の逆風が吹いているとき、イエスの姿が見えないときがあります。そのときイエスは、わたしたちを見捨てておられるのではありません。イエスの姿が見えないとき。そのとき、イエスは、山の中で祈っておられるのです。ほかのだれのためでもなく、ご自分のためでもなく、まさにわたしたちのために、わたしたちが悩みから救われるように、窮地から脱出できるように、わたしたちの命が救われるように、イエスは山の中で祈っておられるのです。

 ですから、わたしたちはいつもこのように言うことができるのです。

「今日イエスはわたしと共におられます」あるいは「今日イエスはわたしのために祈っておられます」そのどちらかなのです。

 

 かし、イエスはただ遠く離れた場所で、わたしたちのために祈っているだけのお方ではありません。イエスは祈り終えられます。そして、イエスは立ちあがり、近づいて来られるのです。ひとあし、ひとあし、イエスは近づいて来られます。逆風に悩まされているわたしたちを救うために、イエスはひとあし、ひとあし、近づいて来られるのです。

 

 ときは夜遅く、月の光も、星の光もありませんでした。嵐に荒れ狂う湖は、濃いヤミにつつまれていました。そのヤミの中を、イエスはひとあし、ひとあし近づいて来られます。どんなに濃いヤミも、イエスがわたしたちに近づいて来るのを邪魔することはできません。

 荒れ狂う湖には、小山のような波がつぎからつぎへとおどっていました。どんな立派な船も、この波を越えて進むことは出来ませんでした。しかし、イエスは、その波の上を、裸足で、ひとあし、ひとあし、近づいて来られます。イエスは波の上に浮いているのです。イエスはどんな波もものともせずに乗り越えて来られます。どんな波も、どんな逆風も、イエスがわたしたちに近づいて来るのを邪魔することはできません。

 あらゆる障害物を、まるでそれらが存在しないかのようにして、ひとあし、ひとあし、近づいて来られるイエス。見渡す限りの湖は、嵐に荒れ狂っているのに、近づいてこられるイエスだけは、まるでガラスの板の上をなめらかに進むように、弟子たちの方へまっすぐに向かって来られるのです。そして、イエスはわたしたちに話しかけられるのです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

 イエスは、夜通しわたしたちのために祈ってくださいます。イエスは、立ちあがって、ひとあし、ひとあし、近づいて来られます。

 今やイエスは、わたしたちのもとに、やって来られました。今、イエスが、わたしたちと共におられます。そうして、イエスは、言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

 「安心しなさい!」 この力強い、慰めに満ちたイエスのお言葉によって、わたしたちの心の中の嵐は、静められます。

 人生の嵐はまだなお荒れ狂っているでしょう。外側の環境は、荒れ狂っているでしょう。しかし、イエスが「安心しなさい!」と言われます。聖書の原語では「平安あれ!」です。イエスのこの力強いお言葉は、わたしたちの心の中の嵐を沈めてしまうのです。

 

 して、イエスはわたしたちを招かれるのです。「来なさい!」

 弟子の一人であるペテロは、このイエスの招きに応えて、小さなボートの中から一歩足を踏み出しました。外側の環境はまだ何一つ変わっていませんでした。依然として、風をコントロールすることは、できません。依然として、波をコントロールすることは、できません。依然として、船をコントロールすることは、できません。状況は、前と同じまま、悪いままで、何一つ変わっていません。

 しかし、ペテロは、イエスが共におられるので、イエスを信頼して、船の外へ一歩足を踏み出しました。そして、荒れ狂う波の上に、自分の足を降ろしました。その足は、沈みませんでした。荒れ狂う波の上で、ペテロは超然としていました。ペテロはそこに静かに立っていました。

 ペテロは荒れ狂う波をコントロールすることができませんでしたが、荒れ狂う波はペテロをコントロールすることができませんでした。荒れ狂う波は、ペテロをもはや悩ませることが出来ませんでした。荒れ狂う波は、ペテロをもはや飲み込むことが出来ませんでした。なぜなら、イエスが「平安あれ」と言われ、イエスが「来なさい!」と招かれたからです。

 

 これが信仰によって超然としている、ということです。外側の環境は何一つ変わらなくても、わたしというひとの心の中にイエスの平安が満ちているなら、わたしたちはもはや、環境によって左右されることがないのです。

 

 かし、ペテロはいつまでも超然としていることは出来ませんでした。ペテロは、信仰の強い人ではありませんでした。ペテロは信仰の弱い人でした。ペテロは、いつまでも「イエスの平安」によって満たされていることが出来ませんでした。恐ろしい外側の環境によって、自分もまた恐ろしくなってしまいました。その途端、ペテロの足は水の中に沈み始めました。

 わたしたちの人生もまたペテロのようです。わたしたちもまた、信仰の強い人ではありません。わたしたちもまた、外側の環境によって、たやすくおじけづいてしまいます。一度は心の中にイエスの平安を頂いて、環境から超然とすることが出来たとしても、それは、長く続くことは非常に難しいのです。わたしたちはイエスだけを見つめていることができずに、すぐに、目を転じて、外側の恐ろしい環境だけを見つめてしまい、心の平安を失ってしまうのです。その途端、わたしたちもまた、ペテロのように、水の中に沈み始めるのです。わたしたちの心は沈んで行きます。どんどん、どんどん、沈んで行きます。そして、もうわたしたちは、助からないようにさえ、思われるのです。

 

 しかし、そのとき、イエスはすぐに手をのばして、わたしたちを捕まえて下さるのです。聖書はこう言っています。

「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」

 

 わたしたちは喜んで「信仰の薄いものよ! なぜ疑ったのか」としかられたいと思うのです。事実、わたしたちは信仰の薄いものであり、疑うものなのです。わたしたちは、イエスにしかられて当然なのです。わたしたちの信仰が薄いので、イエスはすぐに手をのばして、わたしたちを捕まえて下さるのです。

 

 言葉に注意しましょう。わたしたちがイエスを捕まえるのではありません。わたしたちがイエスにすがりつくのでもありません。わたしたちがイエスの手を握るのでもありません。絶対にそうではありません。

 事実はその反対です。イエスがすぐに手をのばして、わたしたちを捕まえてくださるのです。イエスがすぐに手をのばして、わたしたちを引っ張りあげて下さるのです。イエスの手がわたしたちの手を握りしめるのです。イエスがわたしたちを捕まえるのです。

 イエスは救い主であり、わたしたちは信仰が薄い者なので、イエスがわたしたちを捕まえて下さるのです。わたしちが滅びないように、イエスが捕まえて下さいます。わたしたちが死なないように、イエスが捕まえて下さいます。わたしたちが沈まないように、イエスが捕まえて下さいます。

 

 イエスは今日もわたしたちをしかられるでしょう。「信仰の薄いものよ! なぜ疑ったのか」そう言いながら、イエスは手を伸ばして、わたしたちを捕まえ、わたしたちを救って下さるのです。

わたしたちは、感謝し、喜んで、イエスを礼拝しましょう。イエスの弟子たちはこう言いました。「本当に、あなたは神の子です」

 わたしたちもまた、この言葉を感謝と喜びをもって言いたいのです。「イエス様、本当にあなたは神の子です」。これがわたしたちのささげるべき、礼拝なのです。

 

 今日の聖書のメッセージをまとめてみましょう。

 人生の嵐に遭遇するときに

 

 第一に、イエスはわたしたちのために、夜を徹して祈っていてくださいます。イエスの祈りがわたしたちを守り、支え、みちびいているのです。

 

 第二に、イエスは、悩むわたしたちに向かって、ひとあし、ひとあし、近づいて来られます。イエスは来られます。わたしたちを救うために、ひとあし、ひとあし、近づいて来られます。

 

 第三に、ついにイエスはわたしたちのそばに立って、「平安あれ!」と言って下さいます。わたしたちは、イエスの平安を、わたしたちの外側の環境にではなく、わたしたちの心の深いところにいただくことができるのです。

 

 第四に、イエスは「来なさい!」とわたしたちを招かれます。その招きに応えて、わたしたちが一歩足を踏み出すときに、わたしたちは嵐の中でも超然としていることができるのです。

 

 第五に、わたしたちは信仰の薄い、疑うものです。いつまでも、超然としていることは難しいのです。わたしたちは簡単に信じられなくなり、心が沈み、希望も喜びも失ってしまうのです。ですから、イエスがすぐに手を伸ばして、わたしたちを捕まえて下さいます。わたしたちがイエスを捕まえるのではありません。イエスがわたしたちを捕まえて下さるのです。だから、わたしたちは、救われるのです。

 

 第六に、わたしたちの口から出て来る言葉は感謝と喜びの言葉です。「イエス様、本当にあなたは神の子です!」。これがわたしたちのささげるべき礼拝です。

 

 ご一緒に、共にいてくださるイエス様に心を向けて、お祈りいたしましょう。

 「主よ。わたしたちは信仰が薄く、疑う者であるゆえに、あなたがすぐ手をのばして、わたしたちを捕まえて下さることを感謝します。どうか、今日もあなたの手で、わたしたちをしっかり捕まえていて下さい。イエスの名によって、アーメン。」