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救世軍の初期の社会事業 |
十九世紀後半
創立者は人々の魂をこの世とあの世で救うために戦った。しかし、創立者と同労者がすぐ認識したのは、当時の膨大な数に及ぶ人々が置かれた余りに過酷な境遇であり、人々の物質的必要を満たさずには、到底その魂を救うのは不可能と見えることだった。初期にキリスト教伝道会は東ロンドンのショーディッチその他数ヶ所で店を開き、貧しい人々でも買えるよう、極めて安価なパン、スープ、肉、コーヒーを提供した。
1874年に酔漢救助団が組織されたが、その最初は1870年にキリスト教伝道会のショーディッチ巡回区で監督のコリンリッジ夫人が始めたものであり、これをブース夫人がキリスト教伝道会の事業の一部に組み入れた。当初より救助団はアルコールで落ちぶれた人々に働きかけ回復させるのに成果を上げ、この実験的な試みはほとんどすべての小隊に広がって行った。女性アルコール依存症者ホームが一八八七年にカナダで開設され、他の国々も真似てすぐ類似の施設が出来た。ニュージーランドでは救世軍の社会事業の一部としてロタロア島に男性アルコール依存症者のための入植地が経営され、スウェーデンのクロン島にも開設された。
1883年、救世軍の最初の刑務所教誨事業がオーストラリアのメルボルンで、ジェームズ・ベーカー大佐によって始められた。非常な成功を収めたので、以降長らく、市当局は非行少年に対して刑務所に行くか、救世軍の矯正施設に行くか、二つに一つを選ばせるようになった。
こうした成功により、英国の救世軍でも同様の路線を進むべきかどうか議論が起きた。このことがまだ考慮中のとき、刑務所で二十年服役したある男が救世軍の集会で回心した。彼は一日の仕事を真面目にこなしたことが今だかつて一度もなく、泥棒を稼業として生きてきた。この男の話に創立者は大変感銘を受けて、1884年に免囚保護ホームを開設し、刑期を終えた者に宿泊所と木材加工の仕事を提供し、就職先が見つかるまで保護した。
1887年、グレート・ブリテン島のいくつかの町で警察の拘置所や刑務所に囚われている女性を訪問するために、士官が任命された。
囚人のための社会事業は拡大し、1885年には米国に伝わり、コネティカット州ハートフォードで開始された。1886年には南アフリカで教誨事業と免囚保護ホームが始まり、多くの国々で救世軍士官は囚人の友となり刑期中及び後の更生に尽くすようになった。
その頃より軍母は、身を落として売春婦となる女性たちに心を痛め、深夜伝道の働きに乗り出して行った。その中で売春婦たちを個人的に助け更生を支援する方法を見出して行った。1863年の初頭、東ロンドン・キリスト教伝道会はロンドン市内に保護ホームを開設しようとしたが失敗に終わった。そこで後にグラスゴーでの開設を試みた。
何の助けもなく悲惨な境遇に置かれた少女たちがホワイトチャペル小隊に助けを求めて飛び込んで来て以来、ホワイトチャペル小隊の救世軍人は数年にわたって自宅を開放し、少女たちの世話をした。その利用者が多かったので、1884年に救世軍の指導者は最初の女性保護ホームをホワイトチャペルのハンビュリー街に開設し、ブラムウェル・ブース夫人(フローレンス・ブース)を担当者に任命した。
この種の施設の多くは保護する女性の年齢上限を30歳までと定めていたが、救世軍は初めてそうした年齢制限を撤廃した。また、売春から更生させるには、強制ではなく、心の内側の霊的変革によらなければならないことも認識していた。保護ホームに受け入れられるには、心から助けを求めていることが条件として求められた。
当時の法では13歳以上の少女に合意に基づく性交を行う権利を認めていたが、少女たちはそのことがもたらす重大性に無知であった。そうした無知につけこむ行為が実際に広く行われていた。性交同意年齢の引き上げの必要が明白であり、すべての少女を保護する大きな取り組みを開始する必要があった。
この問題をめぐって、刑法の修正法案が上院を三度通過したが、その度に下院で阻止された。上院委員会は、少女を売春目的で斡旋し売春宿に売り付けるという、「白人少女奴隷売買問題」を十か月にわたって調査した。委員会の結論は、「古代から現代にいたるまで、世界のあらゆる場所で人類が行ったいかなる商売よりも、はるかに度を越して悪辣である」というものであった。この報告書を受け取ったにもかかわらず、下院の大多数が法案を否決した。
このような時、ロンドンの救世軍本営に17歳の少女が早朝助けを求めて飛び込んで来た。彼女は広告を見てその気になり田舎の家を出たが、自分が大きな不道徳に落ちる危険な状況にあると気づいた。たまたま荷物の中に救世軍歌集があり、本営の住所が記してあったので、夜中にこっそり窓から逃げ出し、徒歩でクイーン・ヴィクトリア街まで来て、自分の身の上を参謀総長ブラムエル・ブースに話したのだった。
その結果、ブラムエルはどんな犠牲を払ってでもこの悪弊を止めさせ、そのために世論を喚起し、法の改善を呼びかけ、犠牲者に脱出の道を開く決意を固めた。ブラムエルは直ちに白人少女奴隷売買の調査を指示し、『ペルメル・ガゼット』紙編集者WTステッドに依頼して秘密調査委員会が設立され着手された。これは危険を伴なう冒険であった。ブラムエルとステッドは法衣をまとった利害関係者や有力者─それらは腐敗せる個人でもあった─の復讐を受けることになる。
ウイリアム・ブースはロンドン及び英国諸州で大規模集会を繰り広げ、ステッドは悲惨極まる調査結果を『ペルメル・ガゼット』紙上に「現代のバビロンにおける少女の生贄」と題して連載記事を張った。こうしてついに、世論の関心が喚起された。
創立者が始めた請願運動は署名者34万3千人に達し、署名は八人の頑健な救世軍人によって下院議事堂に運び込まれ、床に広げられた。刑法は、英国史上類例を見ない早さで修正され、性交同意年齢は16歳に引き上げられた。
この勝利の直後、不愉快な出来事に驚かされる。政府は、その残虐非道なふるまいを暴露された首謀者たちよりも、悪の存在に向けて世論を喚起した者たちの方を訴追する決定をしたのである。ステッド氏は、ロンドンでは五ポンドもあれば少女を手に入れ、嘘をついてわなにはめ、法の注視の前で売春宿に売り飛ばすことが可能である、と宣言した。これを証明するために、回心した元売春宿女主人のレベッカ・ジャレットの協力を得て、アームストロングという名前の少女を金銭で得た。彼女が不道徳なはずかしめを受けることがないよう細心の注意が払われた。共謀して「白人少女奴隷」を売り飛ばすための道筋を、いかなる障害にも阻まれず進める事実を一つ一つ明らかにし、最終的に少女はパリの救世軍の保護の下に引き渡された。ステッド氏は自分の主張を立証したが、法を破ることになった。
裁判は12日間続き、判決はステッド、レベッカ・ジャレット及び他の三人の被告の禁固刑であったが、ブラムエル・ブースは無罪となった。
「アームストロング事件で救世軍はつぶれるだろう」と有力者は公言した。ところがそれどころか、この一件で救世軍は弱者の強い味方と認知され、悪人には脅威となり、国に悪弊が侵入するのを防ぐ防波堤である、と見られるようになった。
他にも、これほど劇的ではないが、女性のための働きが発展して行った。当時、未婚の母が生後二週か三週にもならない乳児を抱いて、病院や感化院から出て来ても、差別的な境遇に遭い、面倒を見てくれる施設はどこもなかった。救世軍はそうした未婚の母がふさわしい環境を見つけるまで、乳児と共に数か月過ごせる母子ホームの必要性を認識していた。チェルシーとロンドンのハックニーに開設された二つのホームは、その後続いて全世界に開設された同種の施設の第一号となった。当初より非常に効果的なアフターケアの制度が確立された。
未婚の母への支援事業が発展するにつれ、救世軍は多くの国々で近代的な産科病院を擁するようになり、未婚の母だけでなく、既婚の母をも受け入れ、産科に関連して、小児科の診療も実施されるようになった。クラプトンの「母の病院」は多年にわたりロンドンで最も重要な産科病院の地位を占めて来た。
一方、貧困や飢餓の問題も忘れられていたわけではない。ごく初期より、食料、簡易宿泊所、衣料などを提供していたが、1887年にロンドンの街頭で眠る多くの男女に触れてこの問題に目を開かれた創立者は、新たな取り組みに着手した。「行って何かをなせ!」と創立者は命令した。数週間のうちに、ライムハウスに大型の簡易宿泊所と食料配給所が開設され、続いて次々に他の場所にも設置された。1889年のロンドン・ドックでのストライキにより問題への関心が高まり、『タイムズ』紙は「救世軍の救援施設がもしなかったら、今回の暴動はもっと大規模になっていただろう」と述べた。

米国救世軍のスラム奉仕団
1890年に、こうした問題を心に深く示された創立者は、歴史的な著書『最暗黒の英国及びその出路』を出版し、悲惨と邪悪の大海に飲まれつつある多くの人々の姿を世論の前に提示した。それまで、そうした問題を世論は認知していなかった。この出版に際してウイリアム・ブースは募金を呼びかけ、著書に概要を示した社会事業計画を実施するために救世軍への財政的支援を求めた。1891年二月までに10万8千ポンドの基金が集まり、さらに次の年の九月までに12万9千288ポンドに達した。
ブラムエル・ブースと同僚は直ちに創立者の計画を実行すべく仕事に着手した。食料配給所、簡易宿泊所、救護ホーム、職業紹介所が大工業地帯に開設され、エセックスに農園を取得し、救世軍の社会事業が全体的に再編成された。
(ハロルド・べグビーはこう言っている。)最暗黒の英国計画は、非常な数の人々の劣悪で不正な社会的環境をすぐに変化させ、今もなお変化させ続けている。この大きな成功は、人間の変革はただ神の意志に対する人間の意志の明け渡しによってのみ生起すると知っている人々が、事業の運営にあたっているからに他ならない。
『最暗黒の英国及びその出路』の著者は、為政者の悩みの種である最もやっかいで困窮する者たちのため、面倒を引き受けてくれる国際的組織の指導者として、またたく間に全世界に知られることとなった。創立者が世界各地を旅する所どこでも、文明を崩壊させる社会悪の危険性をよく認識する人々から手厚く歓迎されもてなされた。救世軍は1890年から広く知られるようになり始め、救世軍人は困窮する人々のために存在し助けてくれる、と世界のどこででも見られるようになった。
その本の中で示された多くの事柄が、政府や人道援助団体によって採用されたが、そのひとつが移民支援事業である。創立者が移民支援の事務所を設立するよう提案した時、そうした類いのものは当時ひとつも存在しなかった。しかし、1903年に移民支援事業が開始されてから、250万人が新生活を目指して海を渡ったのである。
「失業者の再編成」と題する章では、英国の都市と地方の間での労働者の移動を行うために、職業紹介所を開設するという計画が示されている。ウイリアム・ブースはこう述べている。「現在、英国では労働者の交換ということが行われていない。」 しかし、救世軍はこの事業をすでに試みつつある。
『最暗黒の英国及びその出路』で示したウイリアム・ブースの提案は、海外植民地に関するものを除けば、そのほとんどすべてが実際に、現在の救世軍の事業の主要部分を占めている。

スラムでの石炭無料配給
『最暗黒の英国及びその出路』の出版から今日に至るまで、救世軍の社会事業の歴史は着実な発展を遂げて来た。永久の原理原則に強固に根ざし、社会事業が開始されたまさにその対象である人々に対して、物質的、霊的利益をもたらす能力を、いよいよ充実しつつある。
二十世紀初頭
1902年にロンドンで組織立った深夜伝道が開始された。士官の組が深夜に売春地域を巡回し、少女たちを一室に連れて来て、生き方を変えるよう説得に努めた。
1895年には虐待を受けた少女のホームをロンドンに開設し、中には11歳の少女もいた。これに先立ちオーストラリア政府は、育児放棄された子供たちの保護と世話について、救世軍の協力を求めた。これと似た境遇の子どもたちを保護する施設が、ロンドンにも1901年に作られた。
インドでの大飢饉がきっかけとなって、救世軍は現地に孤児院を開設した。その他の国々でも必要に応じて同種の働きが着手された。現在西欧諸国では救世軍は児童養護施設の働きから退いているものの、今なお何千人もの身寄りの無い少年少女が救世軍に保護されている。
1895年には、陸海軍人のための働きが周到な準備の上で始められた。陸海軍人の霊的道徳的向上、住宅及び娯楽の提供のために、ホームや集会所が開設された。
1907年には、いのちを断とうと考える人々のために、ロンドンで自殺防止部が始められた。間もなくロンドンの全警察署に通達が出て、警官は自殺未遂者を救世軍に引き渡す権限を付与され、警察の介入を避けるようにした。救世軍の自殺防止の働きは、自殺に対する世間の認識を明かに大きく変えた。以前は自殺未遂者は罰せられたが、今や、暖かい同情心をもって必要ないやしが提供されるべきだと考えられている。
救世軍が日本で開戦した当時、公娼制度がまだ続いており、少女の人身売買が行われていた。身売りされた少女は一生社会から隔離され、町の特殊な区域に住まわされ、警察の管理下に置かれた。娼妓の自由廃業を認める法律が施行されていたものの、煩雑な手続きが必要なため、実際の問題解決には遠かった。救世軍が開戦して間もなく、東京に婦人救済所が開設された。1900年には、自由廃業の手続きを詳しく説明した『ときのこえ』特別号が発行され、少女たちに救世軍に逃れて手続きを取るよう呼びかけた。
この『ときのこえ』を携え、遊廓で頒布しようと士官の一隊が向かった。内容を知った楼主たちは暴徒を雇い、救世軍の一隊を攻撃した。救世軍人が襲われたとの一報が伝わると、東京と横浜の新聞各社から記者が急行した。日本の新聞全部が救世軍及び娼妓の自由廃業制度を擁護した。
自由廃業を申請する少女や両親が救世軍に飛び込んで来るようになった。少女たちは自力では解決不能な困難を抱えていたので、救世軍はただちに少女の身の安全と自由を確保する手はずを取った。救世軍が世論に訴え続けた結果、日本史上初めて政府が売春の許可制度に新指針を定め、負債のために女性を遊廓に拘束することを禁止した。
インドでは150万人から300万人と推計される人々が、カースト制度のためにきちんとした仕事に就くことが出来ず、村落全体が犯罪部族として、犯罪を生業としていた。インド政府は数十年にわたり巨費を投じて犯罪部族の更生を試みたが、良い結果を見なかった。
1908年にインド連合州統治官ジョン・ヒューィット卿は、英国における救世軍の社会改良事業の方策に感銘し、試みとして、警察の監督下にあった300人の犯罪部族を救世軍に依託した。一年後、救世軍の更生事業の成功に政府は満足し、パンジャブ、マドラス、ベンガル、ビハール、オリッサ、アンダマン諸島に定住地を拡大させた。
定住地では様々な事業及び学校が設置され、定住者や子どもたちの中から教師が養成された。
更生事業が成功したため、政府は人々が普通の村落の暮らしに戻ることを許可し、数多くあった定住地は廃止された。もはや警察の管理下になくても、人々は社会の一員として立派な生活をすることが可能となった。
インドネシアのジャワでは、飢饉が起きるまで、救世軍はオランダ人にも現地人にもまったく認知されていなかった。飢饉に対する政府の様々な方策が失敗に終わり、救世軍が食料と建物の提供を受けて、救援事業の運営を依頼された。これ以降、ジャワでの救世軍の働きが発展し始めた。
後に、医師で救世軍士官のワイリー大佐補が、小さな萱葺き小屋で、当時まだ不足していた眼科診療を開始し、やがて、政府がウイリアム・ブースを記念してセマランに眼科病院を開設した。飢饉救援事業のもう一つの結果として、スラム生活者のための働きが組織された。
救世軍がジャワで開戦する五十年も前から、オランダの植民地政府はハンセン氏病患者の定住地をオランダ軍の管轄下で設置していた。飢饉の後、救世軍がその責任を依託された。施設の再編と運営に非常な成果を挙げたので、訪れたローマカトリックの司祭は「ここは以前は地獄であったが、今は天国のようだ」と感想を述べた。
インドでは、マドラスのハンセン氏病患者の定住地が財政難のために閉鎖されかかっていたのを、1928年に救世軍が引き継いだ。後に、二つのハンセン氏病患者施設をインドで開設した。
1896年にインドのタミールナドゥ州に診療所として開設されたカサリン・ブース総合病院は、現在同州で最先端の建築物のひとつとなっている。この病院は救世軍にとって最初の大規模な医療伝道事業となり、インド、日本、インドネシア、韓国、アフリカにおける五十以上の病院と150の診療所の原型となった。
インドでは身体障害者の職業訓練が始めて試みられ、後に救世軍の事業のひとつとして他の国々に広まった。カリブ海と東アフリカにおける視覚障害者の訓練施設や、ケニヤのジョイタウンにある重度身体障害の子どもの施設は、特筆に価する。
ノルウェーでは1909年に最初の老人ホームが開設され、各国に広がった。現在オーストラリアその他多くの地で、「退職者の村」が救世軍によって運営されている。
1928年には、仏領ギアナに救世軍士官が送られ、フランスの最後の監獄島における受刑者と刑期終了者の更生事業が可能かどうかを調査した。フランス本国に届いた報告書は、監獄島の惨状を明らかにして、世論を喚起した。フランス政府は1933年に六人の救世軍士官を送り、刑期を終了したものの法律によって生涯島から出られない1500人と終身刑の囚人のために、働きを着手した。
外界から隔絶された人々のため、三つの集会所が開設され、社交、仕事、娯楽の機会を提供した。また、受刑者のために新たに定期的に集会を行った。やがて、救世軍の監督下で二年間良好な成績を収めた人は、フランス本国に帰還出来るようになった。後に、救世軍は新聞や講演を通して、監獄島の弊害とその廃止を世論に訴え、特に、懲役七年以上の受刑者は刑期終了後も島から出られないとした法律を批判した。この制度は現在は廃止されている。1952年に最後の受刑者が本国に帰還し、病気のために動くことの出来ない数百人の刑期終了者だけが仏領ギアナに残った。残った人々のために、その必要がなくなるまで、救世軍は働きを続けた。
どの時代にもその時特有の社会問題が存在したが、悪のいくつかは、成功裏に解決することが出来た。救世軍がその初期に直面した社会悪のいくつかは今日なお存在している。ホームレス、失業、アルコール依存、薬物依存は、今日なお西欧の諸都市で対策を講じなければならない問題であり、このために、欧州、米国、オーストラリアでは様々なアイデアに富む解決策が発展した。
救世軍の現在(1999年1月1日現在の統計)
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小隊および分隊(教会) アルコール依存症関連施設 |
15669ヶ所 158ヶ所 |
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出典
Marching On! The Salvation Army - Its Origin and Development,
The Salvation Army International Headquarters, London, 1990, pp.44-58.Year Book of The Salvation Army - 2000, The Salvation Army International Headquarters, London, 2000.
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