十字架の恵みの逆説

マタイによる福音書第5章1節から12節

 

日お読みいただいた聖書個所は、山上の垂訓として知られる、新約聖書の最も有名な個所です。多くの人々に愛されている聖書の言葉であり、クリスチャン以外の、他宗教・他信仰の人々ですら、大事にしているメッセージです。

この聖書の言葉がわたしたちの心を打つのは、希望の無い世界に、なお希望を見ようとし、最も絶望的な状態のなかに、なお幸福を見出そうとする、イエス様のお言葉の力強さのゆえです。

今日わたしたちは、物質的文明の豊かさが限界に達しつつある事をよく知っております。地球の資源を乱用する大量消費文明によって、わたしたちの世界は汚染され、また、ひとびとの精神生活も荒れすさんでしまいました。

このような時代に生きるわたしたちは、なにはなくとも、せめて心の豊かな人間にはなりたい、という、新しい清貧の思想(きよくまずしく生きる)や、心の充足、心の満足を得ようとする新しい宗教哲学に、だれしもが心ひかれるのです。

貧しくとも、心さえ豊かであれば、わたしたちは幸福になることが出来るはずだ。これはわたしたちの多くが常識的に考えることではないでしょうか?

かし、イエス様がこの山上の垂訓で開口一番に言われたお言葉は、わたしたちの常識をまったく覆すような、衝撃的な内容だったのです。

すなわち、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

心の貧しい者。心が満たされていない者。自分が何者であるのか、悟ることが出来ずに苦しみの中にある者。自己実現とか自己充足とか満ち足りた人生とか、そうした理想的姿から最も遠い距離にある者。自分の精神的な貧しさ、自分という罪人の醜い姿を覆うことが出来ないボロボロの状態にある者。

天国は、そういう人のものである、と、イエス様は開口一番そう宣言されたのです。

れはなんという衝撃的な言葉でしょうか。いったいだれが、このような言葉を本気で受け取る事が出来るでしょうか。

しかし、わたしたちは、イエス様の言われたこの言葉が本当であることを、知っているのです。なぜなら、イエス様は、イエス様ご自身が、身をもって、心の貧しい者たちと共に歩んで下さったからです。イエス様は、新約聖書の時代において、神から最も遠いと思われた人々と共に歩まれました。イエス様は、取税人、売春婦、罪人、サマリヤ人の友となられ、彼らと食事を共にし、彼らのために教えをし、働き、語り合い、共に過ごされたのでした。イエス様は「罪人の友」と呼ばれることを、けして恥とは思われませんでした。むしろ、罪人を愛して、罪人を滅びから救うために、命まで投げ出して、十字架にかかり、ご自分の命と引き換えにして、罪人を救って下さったのです。

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
この言葉は、そのままでは信じ難い言葉であるかもしれません。しかし、わたしたちは、このように言うことが出来るのです。

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。なぜならば、イエス様が、心の貧しい者の友となって下さったから。
イエス様は、心の貧しい者を愛して下さったから。口先だけで愛したのではなくて、イエス様は真実、ご自分の命と引き換えにして、心の貧しい者を愛して下さったから。
心の貧しい者は決して滅びない。なぜなら、イエス様が身代りになって、十字架で裁きと滅びを身に負って下さったから。
だから、心の貧しい人々は、幸いである。イエス様のゆえに、その人たちは、赦されて、天国に入ることが出来るのだから。」

タイによる福音書第5章3節の言葉は、まさに「恵みの逆説」と言ってもよい聖書の言葉であると思います。そこには、十字架の恵みの香りが満ちているのです。そこには、十字架の恵みの輝きが、光を落としているのです。心の豊かな人が救われるのではない。心の満ち足りた者が救われるのではない。むしろ、心の貧しい者が救われる。救われて天国に行くという。なぜなら、そこには、イエス様の十字架という恵みが、力強く働いているからです。

「恵み」とは、本来ならそれを受けるに価しない人間に対して、神様からの一方的な愛のゆえに、無償で、たたで、しかも、あらゆる条件抜きに与えられる、無限の価値を持つ贈り物、という意味があります。「恵み」が働くとき、罪人が赦されて天国に入ります。希望の無い人が希望を持つことが出来ます。未来の無い人が未来を持ちます。悲しんでいる人が、涙を拭うことが出来ます。苦しんでいる人が、いやされることが出来ます。

ったいわたしたちの世界では、「恵み」というものは、本来的には存在しません。わたしたちの世界では、あらゆるものが条件付られています。家庭でも、学校でも、社会でも、ある一定の基準を満たさなければ評価されません。ある一定のノルマを達成しなければ、報酬を得られません。ある約束を守らなければ、認められません。ある点数に達しなければ、合格することが出来ません。それは、あらゆるものが「条件付られた世界」です。そして、条件付られた世界からは、いつもつねに、敗北者が生まれて来ます。脱落者が生まれて来ます。疎外された人たちが生まれて来ます。「条件付られた世界」とは、裏返せば「人間が疎外される世界」でもあるのです。

しかし、イエスキリストの十字架は、神の愛という「無限の恵み」をわたしたちにもたらすのです。恵みが触れるときに、敗北者が神の世界での勝利者となります。脱落者が神の世界での成功者となります。疎外された人たちが、神の世界での王子や王女となります。それは、恵みの世界であり、勝利の王国なのです。

ョン・ニュートンという人は、18世紀のイギリス人で、奴隷貿易船の船長をしていました。彼は、自分が人間として最もひどい仕事をしていること、自分の良心をごまかして、心を窒息させなければ、とても務まらないような仕事をしていることを、だれよりもよく自覚していました。ジョン・ニュートンには、心の満足も平安も何もありませんでした。彼はただ無情で無慈悲な奴隷貿易船の船長として働き、金をもうけていました。

ある航海で、ジョン・ニュートンはひどい嵐に遭遇しました。彼は神様に命乞いして、叫びました。「神様!命だけはお助け下さい。命をお助け下さったら、必ず牧師になりますから!」すると、嵐は静まり、彼は命拾いしました。

ジョン・ニュートンは、そのとき、神の驚くべき恵みを身をもって体験したのです。

奴隷貿易船の船長として、冷酷無慈悲に奴隷を扱って来た自分は、地獄に真っ先に落ちて当然の人間である。それなのに、神様はなお、彼を愛して、人生をやりなおすチャンスを与えて下さったのです。人間として最もひどい生き方をしている自分をなお愛して、その祈りに耳を傾け、その叫びに応えて、命を救って下さる神。

その瞬間、ジョン・ニュートンは、愛されるに価しない者をなお愛し、救われるに価しない者をなお救われる、「十字架の恵みの神」に、出会ったのです。

の体験を、ジョン・ニュートンは「アメージング・グレース」という讃美歌に歌いました。その第1節は「おどろくばかりの みめぐみなり」と歌い出されています。

「驚くばかりの恵み」とは、「わたしたち人間の想像や常識をはるかに越えた、神の無限の愛と恵み」ということを歌っているのです。

のことはまさに、マタイによる福音書第5章3節の言葉に共鳴して来るのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

この言葉に、イエス様の十字架上のお言葉が鳴り響いているのを、わたしは感じるのです。

十字架の上で、イエス様はこのように言われました。

 

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか、わからずにいるのです。」

イエス様は、まさに、生きる意味も目的も見失って闇の中にいる、心の貧しい者たちのために祈られたのです。

 

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

神にまっさきに見捨てられるべきなのは、神を知らない、心の虚しい、心の貧しい者たちでなければはらないはずです。しかしここでは、イエス様は、心の貧しい者たちの身代りになって、「神に見捨てられる」という裁きの苦しみを、おひとりで担って下さったのです。

 

「すべてが終わった」

このお言葉は「すべてが完了した」と訳すことが出来ます。イエス様の救いのみわざは、その十字架の死をもって完了しました。今や、この十字架の恵みは、心の貧しい者を救い取って天国に入れることが出来る、完全な実行力をもって働いているのです。それは、今日、いまこの瞬間にも、その完全な実行力をもって働き続けているのです。

 

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

この聖書の言葉の前に、わたしたちは、本当の、ありのままの自分になるように、と勧められているのです。

「条件付けられた世界」に生きているわたしたちは、ともすれば、真実の自分の姿、すなわち、弱く、愚かで、貧しく、いやしく、貪欲で、偽りに満ちた本当の自分を、巧妙に覆い隠して、「満ち足りた自分」という偽りの仮面をつけてしまいがちなのです。

「満ち足りた自分」を演じることは、なんとつらいことでしょうか。

しかし、この聖書の言葉は、わたしたちの心にまっすぐに語りかけて来るのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

たしたちは、心の仮面をはずしてよいのです。神の前では、ありのままの、本当の、偽らない自分の姿をさらけ出してよいのです。貧しく愚かな、罪深いありのままの自分を、神様の前にさらけ出してよいのです。神様はそのようなわたしたちを受け取って下さいます。そして、十字架の恵みがわたしたちに触れるのです。神の恵みが私たちの傷ついた心の中にしみこんで来るのです。

わたしたちは、本当なら愛されるに価しないはずの自分が、今や愛されている、という奇跡を、その時、体験するのです。イエス様がご自分の命と引き換えにして愛してくださった、それほどまでに愛されている自分が、今ここにいる、今ここに生かされている、ということを体験するのです。

この恵みの体験、愛されている体験が、わたしたちを「まったく新しい生き方」の中へと進ませるのです。それは「もろもろの条件付けを満たすことによって豊かな自分になる」という古い生き方から離れ去った、まったく新しい生き方です。

それは、「神によって無限に愛されているゆえに、あらゆる条件付けから解放された、恵みの豊かさに生きる自分」という新しい生き方です。

のジョン・ニュートンは、牧師となり、奴隷制度廃止運動のリーダーとなりました。18世紀の世界にあって、奴隷制度に反対することは、多くの人々の反感と敵意を買う行為でした。奴隷制度なしには動かない18世紀の社会にあって、奴隷制度を否定することは、社会そのものを否定することにつながりました。ジョン・ニュートンは、社会的に評価されるための条件付を、あえて、満たそうとはしませんでした。なぜ、ジョン・ニュートンには、そのようなことが出来たのでしょうか。

まさに、ジョン・ニュートンは、神によって無限に愛されているゆえに、あらゆる条件付から解放された、恵みの豊かさに生きる、新しい人間に生まれ変っていたのです。だからこそ、彼は奴隷制度廃止運動のために立ち上がることが出来たのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

なたはもう神様の前で、心の仮面をはずしましたか? 神様の前では、ありのままの、本当の、偽らない自分の姿をさらけ出してよいのです。貧しく愚かな、罪深いありのままの自分を、神様の前にさらけ出してよいのです。神様はそのようなわたしたちを受け取って下さいます。そして、十字架の恵みがわたしたちに触れるのです。神の恵みが私たちの傷ついた心の中にしみこんで来るのです。

様の前で、本当の自分をさらけ出しましょう。そうして、十字架の恵みで触れていただきましょう。その時、わたしたちは、本当なら愛されるに価しないはずの自分が、今や愛されている、という奇跡を、体験するのです。イエス様がご自分の命と引き換えにして愛してくださった、それほどまでに愛されている自分が、今ここにいる、今ここに生かされている、ということを体験するのです。わたしたちは、そのような体験を今日もすることが出来ます。なぜなら、十字架の恵みは今日もこの場所に、信じる者のために、生きて働いているからです。

 

 

 

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