
冬の旅人
キリスト新聞社主催
第35回キリスト教童話佳作作品
先程来私は、とぼとぼと雪の平原を歩いているのでした。いったい何時からこんなことをしているのか、おかしな事に、いくら思い出そうとしても、思い出すことが出来ないのでした。
ひょっとしたら私は死んで、冥界を歩いているのであろうか。不愉快な疑念が心をよぎり始めておりました。なぜなら、時々雪原から頭を突き出しているいじけた潅木は、近づいて手で触れてみると、びっしり霜で覆われているのに、私の手にはその冷たさがただの微塵も感じられはしなかったからです。
薄い雲に覆われた鉛色の空を透過して、太陽が丸い輪郭をくっきり映し出しておりました。しかし、どれほど歩みを重ねようと、まるで灰色の天井に虫ピンで刺し止められでもしたかのように、太陽はじっと静止しているのでした。おそらくは、死人の肌には感じ取れないほどの恐ろしい寒さのために、太陽までも凍りついてしまったのでしょうか。いや、それどころか、いったい何時から止まってしまったのか、針の動かない自分の腕時計に目をやると、時間そのものすら凍りついてしまったかのような感覚に、逃れようも無く襲われるのでした。
寒さも無い、道も無い、漠然とした世界の中で、私は何故だか自分でも理由がわからずに、ただひたすら黙々と、勤勉な労働者の他人に伺い知られることを拒むような静かな使命感とでも言うべき心の傾きに駆られて、とぼとぼと、ただひたすらどこまでも、歩きつづけているのでした。
「ああ、そう。確か聖アウグスティヌスが言っていたとおり、僕たちの世界は時間の中にある。僕たちの世界の成分は、時間と空間の混ぜものだから。一歩世界の外に踏み出してしまえば、そこには当然、時間が無い。こうして時計が止まって太陽も止まっているのを見ると、どうやらここには時間が流れていないらしい。時間が無いということは、ここは僕のもといた世界ではないということ。やはり宇宙の外側ということなのだろうか」
時計仕掛けの人形のように、ただ黙々と歩きつづける私は、時計仕掛けが壊れたかに見える腕時計と、やはり何かが壊れて微動だにしない太陽とを考察して、せめて頭蓋の中だけでも精神の活動を逞しくし、いくばくかでも心を暖めようと、とりとめもなく考えをめぐらせているのでした。しかし、壊れていない思考が紡ぎ出す結論は、自分は冥界をあてどなくさまよう孤独な旅人だという、ほんの少しも心を暖めはしない考えばかりなのでした。
「でも待て。僕はこうして、とぼとぼと歩いているじゃないか。これはつまり、物理的な運動だ。運動の方程式を思い出してみろ。そこには、時間の要素が含まれているじゃないか。時間が無ければ、運動はありえない。だが、僕はこうして、運動している。ということは、ここでは時間はなおまだ流れているということにならないか」
それにしてもこのような希望的観測は、頭蓋から両目を通して外に放たれ、中空で凍りついている太陽に行き着くと、いともたやすく、はかなく、砕け散ってしまうのでした。
「時間が流れているのなら、この星は当然自転しているはずだのに。それならなぜ太陽が動かない? この星が自転していないとしたら、太陽にさらされた星の半分は灼熱の地獄と化し、太陽に背を向けたもう半分は極寒の世界と化すだろう。そして、膨張した灼熱の大気が、極寒の世界に向かって恐ろしい速さで流れ込み、地表は巨人の爪でえぐられたように、強風で破壊されてしまうだろう。だが、この光景の奇妙なほどの静けさはどうだ。風など少しだって吹いてやしない」
空回りする頭蓋の中身は、こうしてまた最初の振り出しに戻って行くのでした。それからは、つとめて慎重に、とぼとぼと歩きつづけながらも、心の中になんとか時間の流れを刻もうと、やってみるのでした。しかし、動くことの無い太陽と、動くことの無い時計と、いじけた潅木がどこまでも続く灰色の沈みきった雪原とは、いったい自分が何時間歩いたのか、あるいはもしかしたら、すでに何百年も歩いて来ているのか、いかなる確証も与えてくれはしないのでした。
壊れていないように見えるのは頭蓋の中身だけで、体のほうといえば疲れを覚えるわけでもなく、空腹を覚えるわけでもなく、心のほうといえども、別段孤独を覚えるわけでもなく、恐怖を感じるわけでもなく、自分自身の存在もまた、なぜだか太陽や時計のように凍りついてしまっているかのごとく思えるのでした。私はしかたがなく、また、とぼとぼと、いつ果てるとも知れない道なき道を、黙って歩きつづけて行くのでした。
■
いじけた潅木は、やがて樹氷で覆われた白樺の林へと変わっておりました。その白樺の林の中から、一軒の家が姿を現して来たのでした。孤独を感じていたわけでもなく、空腹を感じていたわけでもありませんから、人家を見つけたからといって、走り寄るわけでもなく、ことさら歓喜の叫びをあげるでもなく、ただ、とぼとぼと同じ足取りで近づいて行き、ついに行く手を立ち塞いだ山小屋風の家の軒先で、歩くのを止めたのでした。
「カフェー 金輪際」
黒い木の板に掘り込んだ浮き出し風の白い文字の看板は、どうやらこの建物が喫茶店であるらしいことを告げていました。
上半分がガラスの格子窓で出来たドアーを空けると、カランカランと客の来訪を告げる牛鈴が控えめな音で鳴りました。足を踏み入れると、木の板が張られた床の真中に据えられた鋳造ストーブが、松ノ木だかオンコの木だか、ヤニの多いことを示す盛んなパチパチという音を爆ぜながら、部屋をやわらかな暖気で満ちさせておりました。
おそらくは樫の木で出来ているのであろう、堅牢な造りのローチェストには、朝顔の花を咲かせたようなラッパをこちらに向けて、古い蓄音機が音も無く置かれておりました。店には人のけはいが確かにあります。やはり樫の木で出来ているらしいカウンターの上で、湯気の出始めたばかりの真鍮の薬缶が、ガスコンロの火に焼かれてサワサワと泡の弾ける音を立て始めておりました。それでも、人の姿は見えません。
私は立ち上がって蓄音機に手を伸ばし、ハンドルでゼンマイを巻き、レコードに針を落としました。ブツブツという雑音のすぐあとに、建物の木をすべて共鳴させるようにして、私の体をすっぽり包み込んでしまうような、やわらかく心地よいチェロの調べが、響いて来るのでした。
「お待ちしておりました」
目を瞑ってチェロの音に耳を済ませていた私は、驚いてカウンターの方に目をやると、緑色の服を着て、編み上げた髪を頭周に巻きつけた黒い瞳をした婦人が、微笑みながら立っているのでした。
「もう少し後からいらっしゃるかと思っていましたが、ずいぶん早くお着きになりましたね。さぞかし一生懸命歩かれたのでしょう。ここはコーヒーしか差し上げられないのですが、よろしいですか」
私は居心地悪そうに、立ち上がったのだか中腰になったのだか、はっきりしない曖昧な姿勢で婦人にお辞儀をしてから、返事をしたのでした。
「ありがたいですね。コーヒー。いただきます。ところで、私のことを待っていらしたということですが、私がここへ来ることを、どうやってお知りになったのですか」
婦人は真鍮の薬缶の火を止めると、カウンターの下から取り出したサイフォンの中に、濛々と湯気の立つ熱湯を注いでしまってから、こう答えたのでした。
「底奈落に入って来られた方は、どなたでもみな必ずここ、金輪際に引き寄せられるようになっているのです。先程、率流局の係官から電話で連絡がありましてね。手違いがあって、一人そちらに落っこちてしまったから、きっかり百十五年あとに来るのでよろしく、とのことでした」
コボコボと心地よい音のするサイフォンを眺めながら、私は聞き返しました。
「ソツルキョクというのは、一体何です?」
陶製のコーヒー茶碗を布巾で拭きながら婦人は答えました。
「率流局というのは、天国の上級管理者ですわ。あなたの住んでいらした世界にいる生きとし生けるものすべては、物質的生命を終息させると、その永遠不滅の構成要素が(霊魂と言った方がわかるかしら)率流局の決めた手はずに則って、大階梯を上昇して行くのです。ところが千年か二千年かに一度、誤配が生じますの。私たち天使だって被造物に過ぎませんから、完全な存在ではないのです。それで間違いがごくごくたまにありまして。あなたのような方が、その、なんと言って良いかしら、被害をお受けになるのです。まだあなたの時がいらしてないのに、時の外に飛び出してしまわれるわけ。そういう方があってはいけないと、泰城階からいつも見張っている係がおりますのよ。率流局の出張所のようなものですわ。係が遭難者を見つけると、ここに連絡して来るのです。あなたのようなお方は手違いでこちらに来てしまわれたわけですから、大階梯にお連れするわけにも行きませんし、さりとてこの底奈落にさまよわせておくわけにもまいりません。そこはそれ、その、製造物責任法というのがありますでしょ。それで、私がここでいつでもお待ちしていて、あなたのような方をしかるべき場所にお送りする手筈をすることになっているのです」
出来あがったコーヒーを茶碗に注ぐと、婦人はカウンターを立って私のテーブルへ運んでくれました。私は、ありがとう、とまたお辞儀をしてから、話を続けました。
「よくわかりました。それで、私はこれからどうなるのでしょう」
「コーヒーをお飲みになって、その間に私は泰城階へ電話しておきますから。すぐ係の者が天津浮船で迎えに参ります」
私は砂糖壷から一匙をコーヒーへ移すと、ぐるぐる混ぜながら言いました。
「アマツウキフネですか。たのしみだな。どんな感じがするのだろう」
婦人は蓄音機のゼンマイを巻き直すと、もう一つ別のチェロのレコードにかけ変えてから、カウンター横のドアーを通り奥の部屋に姿を消してしまいました。
私はコーヒーを飲みながら、また目を閉じて、チェロのやわらかな響きに耳を傾けることにしたのでした。
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ふと気がつくと、私は再び白樺林の中に立ちつくしておりました。私の目の前には灰色のシルクハットを被り、モーニングを着て、ウィングカラーに縞ネクタイを締めた三十ぐらいの男が、脇に大きな皮表紙の帳簿を抱えながら立っているのでした。男は帳簿を開くと、インクでびっしり何やら書き込まれた古くて黄色く変色した記録用紙を一枚一枚繰り始めて、赤鉛筆で印をつけた箇所を見つけると、口を開いてこう言いました。
「お待たせいたしました。当方のとんでもない手違いで、ご迷惑をおかけいたしました。ご説明申し上げますと、宇宙の天秤針を調整するために、千三百四十一年と三カ月と五日の間隔を置きまして、定期的に重力独楽をあなた様の世界にお送りしておるわけなのです。それで、今回配送局の指定した場所というのが、たまたまあなた様が散歩をされていたサロマ湖の竜宮台の海岸ぶちでして。摂理局の方では、あなた様はあの時あそこで貝殻を拾ったりなさらない計算でした。ところが、あなたさまが貝殻を拾われたものですから、ちょうどあなたが前かがみになられたところを、重力独楽と衝突してしまわれたわけなのです」
私は言いました。
「ああ、確かに。あの時私は貝殻があまりに綺麗だったもので、思わず手を伸ばして拾ってしまったのです。それがいけなかったわけですね」
男は慌ててシルクハットを取ると、首を振りながら釈明して言いました。
「いいえ、とんでもございません。あなた様には自由意志が与えられているわけですから。貝殻をお拾いになるのは何も問題はございません。むしろ問題なのは、摂理局の連中が計算の間違いをしでかしたことの方で。聞くところどうやら、不確定性原理を適正に見越すための変数、これが、上の指示でしょっちゅう変更になるやっかいものなのですが、それを数日前のとごっちゃにしてしまったらしいのです。誠に申し訳ございません。それではこれから、あなた様を天津浮船にご案内して、サロマ湖の海岸ぶちにお帰りになって頂くことにいたします」
男はそう言うと、モーニングのポケットから木彫の小さな船を取り出したのでした。そっと船を私の足元に置くと、それは見る見るうちに大きくなり、先のカフェーの半分程にもなったのでした。木で出来た船体は、丸太船と言うべき素朴な造りのものでしたが、表面には熊だのフクロウだの鷲だの狐だの鹿だのの、精巧な細工が施された多種多様の木彫が埋め尽くして、まるで森のようなのでした。
言われるままに男の後ろから乗り込むと、船はゆっくり上昇し、白樺の林を垂直に抜け出て、どこまでも広がる雪原をはるか高く上から見晴るかしながら、するすると進み始めているのでした。男がフクロウの彫刻をなでた瞬間、私は自分が一羽の大きなフクロウと化して、灰色の空を力強く羽ばたいているのを見出していたのでした。ホロー、ホローと、人間でなくフクロウの歌をうたいながら、私は中空の彼方に向かって飛びつづけて行くのでした。
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中腰になり、砂から半分顔を覗かせている貝殻に手を伸ばし、つまみ上げると、私は貝殻から砂を払って空にかざして見つめていました。時計が再び時を刻み始めているのを確認すると、私は散歩を終えて車の場所に戻ることにしました。もう五時を回っているので、家で待つ妻と娘のもとに帰らなければなりません。今晩はどんな夕食なのか、私は楽しげに思いをめぐらしているのでした。 〔了〕
