鑑真和上 故安藤更生氏(元早稲田大学教授)の「鑑真」(吉川弘文館人物叢書)と王勇氏の「鑑真和上新伝」に多くを依拠しています。
688年中国揚州江陽県に生まれる。14歳で出家し揚州大雲寺の智満を師とする。洛陽、長安に遊学して21歳で弘景師から具足戒を受けている。揚州大明寺を拠点として戒律を講じ多くの弟子を育てた。40才代半ばにして唐の中部地域で律僧の第一人者と認められるようになる。 |
| 東征伝絵巻 第1巻 少年鑑真が14歳で揚州大雲寺の智満について出家する図 「鑑真和上新伝より」 |
東征伝絵巻 鎌倉時代 蓮行作
第3巻 鑑真和上 「渡海図」 |
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| 鑑真55歳のとき、第10回遣唐使(733年〔天平5年〕正使多治比大成、副使中臣名代、判官平群大成、秦朝元ら)と共に渡航した留学僧栄叡(ようえい)・普照の懇請に応じて、唐に於ける高僧としてのすべてを捨て、日本に渡ることを決意する。当初、栄叡たちは鑑真自身の来日は考えてもみず、弟子を来日させるよう懇願したのだが、弟子たちは日本が遠国であることを理由に、皆しり込みをするばかりであった。それで、鑑真自身が渡日することを決断したので、多くの弟子たちも従うことになったといわれる。その後五度の渡航の試みを密告や暴風などで阻まれ、748年五回目の渡航のときには暴風によって海南島まで流された。下の図にあるように揚州大明寺(現在は法浄寺)に戻るまでの長い旅の間に、第一の高弟であった祥彦(揚州崇福寺)と日本からの留学僧で常に行動を共にしていた栄叡を病で失う。そして自らは失明してしまった。(安藤氏によるとおそらくは白内障の手術の後遺症ではないかという) |
| 揚州大明寺 |
普照が修行していた明州阿育王寺 |
第4巻
天宝12(753)年12月26日、和上一行が大宰府に入る |
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753年遣唐使の藤原清河(大使)大友古麻呂と吉備真備(副使)らの要請を受けたときは目が見えない状態でそれでも志を変えることなく六度目の渡航を行うことになる。栄叡たちの要請に応じて渡航を決意して以来、なんと12年の歳月を経て来日を果たした。
鑑真和上は弟子の法進や思託ら14人の僧、3人の尼と建築技術に通じていたと思われる僧安如宝(胡人=ペルシャ人?)、仏師軍法力(崑崙人)仏師善聴(チャンバ国の人)などの技術者ら計24名を伴い、又貴重な経典類、仏像、仏具、書籍、食品などと多くの医薬品類を日本にもたらした。これら将来品の中には仏舎利とそれを入れた舎利壷そして王義之、王献之父子の真筆がある。(舎利壷と王義之の書は現存する。)
754年に入京してから763年に示寂するまでの9年間という短い時間であったがその間に僧の戒律の制度を整え、仏教の教化に力を注ぐだけでなく美術建築工芸など多くの分野の発展に力を尽くした。和上は特に施薬に関しても通じていたためこの分野での貢献も非常に大きく、中世以降和上を医薬の祖として祀っていたそうである。
法進は鑑真の跡をついで東大寺戒壇院を預かる。文豪淡海三船による詳細な鑑真和上の伝記『東征伝』(779年)が残されているが思託はこの書の原典となった大唐伝戒師僧名記大和上鑑眞伝』(『大和上伝』)の著者として知られる。 |
| 鑑真和上の渡海 |
鑑真和上の渡海ルート |
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742年:栄叡と普照が揚州大明寺に鑑真を訪ねて伝律授戒のために渡日を懇請、和上が受託する。
①743年:誣告されて1次渡航は失敗。
②743年:2次渡航を企てるが出発直後遭難
③744年:栄叡が捕縛され3次渡海準備段階で挫折。
④744年:渡海のため陸行中、黄厳県禅林寺で官によって阻止され失敗。
⑤748年:栄叡・普照が揚州崇福寺に鑑真を訪れ五度目の渡航を乞う。 新河より出港し東シナ海で暴風にあって漂流、海南島に漂着する。海南島の地方豪族に支援され、土地土地で寺の復興や、律を講じながら揚州に戻る。
この途次に一番弟子の祥彦と日本僧の栄叡が没し、鑑真自身も失明する。
⑥753年10月:遣唐使藤原清河らが揚州延光寺に鑑真を訪れて渡日を懇請する。
11月16日蘇州「黄泗浦」を出港し、沖縄本島を経由して薩摩・坊津付近の「秋妻屋浦(あきめやのうら)」に上陸、太宰府を経由して難波から平城京に入る。 |
| 阿倍仲麻呂と藤原清河とその娘のエピソード |
第一船の藤原清河と同船していた阿部仲麻呂は遭難してベトナム近くまで漂流し、抑留先から逃走して長安に戻るがそのまま唐にとどまり二度と日本の地を踏むことはなかった。
阿倍仲麻呂はその後も唐朝廷の要職について安南都護(安察使)や御史中丞(皇帝の秘書、同時に検察・弾劾を掌る次官)などを務め、特に李白・王維・儲光義ら唐代きっての文人詩人と交流し敬愛された。また藤原清河は秘書監(秘書省長官)などの職を務めた。彼は唐の女性と結婚し【喜娘】という娘をもうけた。この娘は亡父の願いを請けて第15回遣唐使()に同船し渡日する。この第一船が難破・破船浸水し副使の小野石根ら38人と唐の護送使節団の趙宝英ら25人が命を落とした。 |
喜娘は判官大友継人によって助けられ九死に一生を得て共に入京する。778年14歳であった。奈良では光仁天皇をはじめ藤原氏一族の歓迎を受けた。そして、779年の護送使節の孫興進を送るための16回遣唐使の船に便乗して唐に帰る。
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「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」・・阿倍仲麻呂
第11回遣唐使船に同船して帰国出発のときの送別の宴で阿倍仲麻呂が詠んだ有名な歌
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| 唐招提寺 |
| 南大門 |
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| 戒壇院 南門 |
戒壇
僧尼に対す授戒の場所 |
戒壇院東側 |

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| 唐招提寺の戒壇は創建時からあったものではなく、鎌倉時代に初めて築造されたもので、戒壇院の建物は幕末に焼失して、3段の石壇のみが残った。その後1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。 |
会津八一の句碑
「おほてらのまろきはしらの
つきかげを つちにふみつつ
ものをこそおもへ」
金堂の左手前にあった。安藤更生氏は八一を恩師と呼んでおられる。 |
| 戒壇院西門前 |
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| 金堂の仏たち すべて国宝 |
千手観音菩薩立像 木心乾漆 536cm
天平末-平安初 西京藤原仲麻呂の寄進「化人作」の説がある。現存する千手観音のうちでも最大最古のものである。 |
盧舎那仏坐像 脱活乾漆 305cm
760-770年代 僧義静(元揚州興雲寺)造立 |
薬師如来像 (337cm 796年以降 如宝造立) |
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| 講堂(国宝) |
唐招提寺の講堂の変遷
①と下中の図は平城宮の東朝集殿。これを760年天平宝字4年に唐招提寺に移築した。
②創建時の講堂として改築した建物
切り妻の屋根を入母屋造りに変更している、両妻面と背面の両端部を壁とする以外はすべて吹き放たれていた。
③1275年(建治1)の大改修で改装され、組物を三斗組とし、内陣天井を加えるなどされた。
④明治に改修した現在の姿。屋根の構造強化を行っている。 |
唐招提寺講堂の変遷 |
| 講堂 (東から) |
平城宮朝集殿 復元模型 |
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毎朝、朝集殿には朝政に参列する役人が集まったと考えられている。


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伝薬師如来像 重要文化財 新宝蔵207cm 榧(かや)一木造
もとは講堂にあった像。鑑真と共に来日した仏師によるものと考えられている。
上野の「仏像展」にお出かけ中。12/1に会場でお会いしてきました。
ゆったりとした懐の深い仏様です。 |
講堂(国宝) 南面
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講堂のご本尊 弥勒菩薩像
当初は鑑真と共に来日した軍法力の作となる弥勒三尊が本尊であったそうです。この本尊は鎌倉時代の作と推定されている。 |
講堂(国宝) 北面
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講堂天井の木組み (日本の美を語るⅡより)
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| 鐘楼 (講堂の西南側にたつ) |
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うちわまき「梵網会(ぼんもうえ)」 |
750年余の昔から、毎年5月19日に行われているイベントだそうです。唐招提寺を訪れるまで知りませんでした。****************************************
毎年この日に鼓楼のバルコニーから集まった参拝客にうちわが撒かれます。これに先立ち、講堂で「梵網会(ぼんもうえ)」が行われます。また、法要中に「南都晃耀会」により舞楽が奉納されます。「うちわまき」は、正式には「梵網会(ぼんもうえ)」と呼ばれて、唐招提寺中興の祖とされている覚盛(かくじょう)上人(1194-1249)の命日の法要です。 |
| 鼓楼(国宝) 鎌倉時代 |
うちわまきのうちわ
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| 創建時は経楼であったけれど経楼と舎利殿の性格を持つ建物として再建された。現在は鑑真将来の舎利を納めてあるという。 |
舎利容器 金亀舎利塔(しゃりようき きんきしゃりとう) |
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国宝 銅鋳造・鍍金

鑑真和上の渡来時にもたらしたといわれる仏舎利を安置する容器。
亀に乗っている。 |
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| 東室と礼堂(らいどう) 重要文化財 |
| 講堂の東側に南北に長い建物がある。元々は僧坊として立てられたもので全寮制の学問寺であった名残りと考えられる。南側は鎌倉時代に道場兼礼堂として改築しその東側から舎利殿(鼓楼)の舎利を礼拝する拝殿としている。 |
| 東室 |
馬道(めどう) を挟んで左が東室、右が礼堂 |
東室 東側 |
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| 礼堂 南面 |
礼堂 拝殿 (東側) |
礼堂 東面 |
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| 宝蔵・経蔵 |
宝蔵 この校倉は創建後の伽藍整備の一環として建てられた建物のため、使われている材料も良いものが使われているそうだ。
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経蔵
新田部親王邸の蔵を流用したものと思われるので唐招提寺の中でも最も古い建物の一つであると同時に校倉建築としては日本で最古のものである。 |
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開山堂(現在:本願殿) 若葉して御 めの雫ぬぐはヾや 芭蕉
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| 当時このお堂にあった鑑真和上の像を拝して松尾芭蕉が詠んだ句の碑がある。鑑真和上の意思の強靭さと辛苦の程に思いして芭蕉も涙したことでしょう。 |
| 元開山堂(本願殿) |
芭蕉句碑 |
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| 御影堂 |
国宝鑑真和上像 脱活乾漆像 奈良時代 |
興福寺の旧一乗院門跡の遺構を移築復元した建物で平安貴族の邸宅を窺うことが出来るそうです。ここに、鑑真和上像を安置されているのですが、毎年開山忌の前後三日間(6月5日~7日)だけ開扉されるということでご尊顔を拝むことは出来ません。
〈追記〉ところが、2007年の7月に福岡を訪れたとき、福岡市博物館で鑑真和上展が開かれていました。念願であった鑑真和上にお会いできたのです。鑑真さんはそこに1000数百年のときを超えて泰然とおりました。心打たれてお像の前からしばらく動くことができませんでした。 |
弟子の忍基は和上の死期の近いことを悟って他の多くの弟子たちを率いてこの像を作った。生前に身近なものたちが制作した像であるので和上を生き写しにしていると考えてよいのではないか。日本最古の肖像 |
| 御影堂 |
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| 北原白秋の歌碑 (御影堂に向かい) |
鑑真和上揚州へ里帰り |
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水楢の柔き若葉はみ眼にして
花よりもなほや白う匂はむ |
1980年4月、鑑真和上の座像が祖国の土を踏んだ。中国仏教協会の会長を務める趙樸初氏に伴われ、揚州の大明寺を訪れた鑑真像を護持する奈良・唐招提寺の森本孝順長老ら。日本に渡る前、鑑真和上は大明寺の住持だった。 「人民網日本語版」2002年9月30日 より |
鑑真和上廟
| 和上の墓は円寂から1200年唐招提寺境内の西北の地にある。高名な僧の墓所としてはその場所が明確になっている例としては生駒山山麓の竹林寺にある『行基菩薩』の墓所とともに数少ないそうだ。古い築地塀に囲まれた林の中の参道を進むと周囲を池に囲まれた小山がある。そこが和上のお墓だった。林の間のみずみずしい青苔が美しい。訪れたときは他に人影もなくひっそりと静かな昼下がりでした。 |
| 築地塀 |
門 |
参道 |
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| 和上の廟 |
| 鑑真和上の円寂がその故郷に伝えられたのは14年後の777年末、小野石根らの16次遣唐使が揚州に漂着したときであったそうだ。この時、地元の僧侶たちは鑑真ゆかりの龍興寺(大明寺)に集まり大斎会を催したという。 |
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| 1980年中国揚州に鑑真和上の肖像が里帰りし大ブームが起こったそうだ。唐招提寺の和上の廟にはそのときを記念して故・趙樸初氏(前中国仏教協会会長)から贈られた詩が刻まれている。下の写真 |
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