白西王城百北三十国守
帝泉帝皇明雲廿六年(為)
福智帝皇白雲元年
上 六国守阿香 大将(霊)官
四国守(居)戸 少浄(託)官
二国守我久 勝官将一
大白部守秀(隅) 尸官将九
中 二国守白(亦)大名 尸官二
六国月(尸)浄山 守官六
二国部卜尸 正尸官大
三国天官宝王 守護
下 三部大国皇城吉巡月尸尸一
五国少元皇外(霊)守 下官
三国今帝王内比丘 尸一
四部守來結体作人 見
註釈:
尸
はつかさどると読むらしい。尸官=尸位素餐の役人。尸位は祭りの時、仮に神の代りになること。素餐は空しく食うこと。尸位素餐はその器でないのに高位高禄を貪る者のこと。『漢書』にこの用例があるようだ。ただしこの義はここではふさわしくない。神の形代となってまつりごとをする役人という字義通りの意味だろう。
帝泉帝皇とは宮崎県南郷村にやって来た禎嘉王のことであろう。禎嘉王の死去にともない、福智王が帝皇位を継いだ。その際、百済の故国の政治体制を記録して、祖国を回復した際の忘備録としてこの文書が作られ、臣下か福智王の衣類の襟にでも縫い込まれたものであろう。時に、伝承に従えば、8世紀半ば。朝鮮半島の百済が滅亡して約100年が経っている。この伝承を真実とすると、こんなふうに考えられるだろうか。百済の分国であった周防にいた百済王の直系の子孫は、百済滅亡とともに自動的に本家本元百済王の位を継ぎ、「定居」と改元し、さらに「倭京」と改元した。それから13代周防にいたが、新羅派の攻勢にたえきれず、日向の国に落ち延びたが、直ちに追っ手をかけられ、王統は絶滅したのではなかろうか。
桓武天皇のころ、日本で百済王の姓をもらった王家の一族が隆盛を誇ったが、後には没落しているようでもある。これと関係があるのか無いのか。 2000.
【写真】綾布墨書(古文書)に書かれた百済文字。「百済王伝説」を裏付ける内容が記されている。
(註。綾布の右上部分の写真)
南郷村の神門神社に布書きで保管され、宮崎市大塚町の
前宮崎大学教授・福宿(ふくしゅく)孝夫さん(66)によってこのほど解読された古文書の存在が波紋を広げている。古文書は百済文字で書かれ、本県に伝わる「百済王伝説」を史実として裏付ける内容だ、とされているからだ。その決め手となったのは、日本でもまれな福宿さんの「比較文字学」の研究だった。福宿説が事実であれば、古代日向を舞台に、百済王族をめぐって繰り広げられた歴史は大きく塗り変わることになる。(14日付文化面で福宿さんの論文掲載)
同村の神門神社には百済王族の末裔とされる禎嘉(ていか)王、木城町の比木神社には禎嘉王の子の福智(ふくち)王が祭られている。言い伝えによると、百済国の内乱で福智王は父の禎嘉王を伴って脱出、日本の安芸・厳島に逃れた。その後、福智王は日向国児湯郡蚊口浦に上陸。一方の禎嘉王は臼杵郡金ケ浜にたどり着き、それぞれ地元の尊崇を集めた…。
この間のいきさつは比木神社「比木大明神本縁起」に詳しいが、福宿さんが解読した古文書は、この伝説に直接触れているわけではない。内容からして禎嘉王の四代前で、歴史的には百済最後の王とされている義慈(ぎじ)王が即位したころの布告文書ではないか、とみられている。
では、それがなぜ本県の伝説につながるのか。
古文書の中に、義慈王の第一王子である豊璋王をうかがわせるくだりがあること。豊璋王は「日本書紀」にも登場、その子の絲(し)王子とともに「比木大明神本縁起」の物語の重要な位置を占める人物。伝説にいう禎嘉・福智の両王は豊璋王の三、四代後に当たり、義慈王から福智王までの線が「本縁起」を通して一本につながるとみるのだ。
福宿さんによると、この古文書は韓国でもほとんど例を見ない「百済文字」であり、肉筆(墨書)としては日本で初めて登場した文字ではないかという。同村が奈良国立文化財研究所に鑑定を依頼、「これまで見たことがない文字」という返事があったのはそういう事情のためらしい。
それを決定づけたのが、福宿さんの「比較文字学」という方法だった。比較文字学は字体を比較研究する学問で、福宿さんは古代中国・朝鮮などが専門。福宿さんは「好太王碑文」の全訳者でも知られる。今回の古文書でも、書かれたのが六四〇年ごろの百済と推定、「国」という文字の四通りの使い方を解読するなど、あらためてこの学問の重要性を印象づけた。
さらに貴重なのは、古文書が記された綾織と呼ばれる絹製の布だ。奈良正倉院が「日本の織りと違う」というほどのもの。古文書は普通紙に書かれるが、古代の布書きはそれが極めて重要な文書であることを示すという。しかもそれが衣服の内側に縫い付けてあったのは、「帝王」(註・帝皇の誤記か)という文字を人目に触れないように隠した事情があったのではないか、としている。
これらのことから福宿さんは、この古文書は義慈王が形見として豊璋王に与え、人質で日本に来た際に持参。子供の絲王子から子孫の禎嘉王へ伝わり、神門まで運ばれてきた。その流れこそが、貴重な綾織の古文書が神門神社に大切に保存されてきた理由ではないか、とみている。
福宿説は事実と断定されたわけではない。ただ、今回の古文書解読は、同村に伝わる銅鏡など他の傍証と重ね合わせると、百済との結び付きをさらに強めたのは事実。百済王族をめぐる伝説は、史実との間で一気に揺らぎ出してきた
【朝鮮古代史に詳しい井上秀雄・樟陰女子短期大学学長の話】百済文字はほとんど残っていないので判読は難しい。ただ時代的な条件を九世紀半ばごろ奈良朝の中で百済王家が衰亡したころと設定するなら、伝説を史実としてみる可能性はある。古文書の内容が事実であれば極めて貴重な発見だ。南郷村の取り組みはかねてから評価していたし、それが残っていたことも大変うれしい。
【写真】赤外線テレビカメラで撮影した古文書の「百済文字」。異体字が多いが、右側に「福智」と読める文字がある。
変化に富む筆致
この布は二〇センチ×二五センチほどのサイズで、墨書きの字を内側にして衣のえりに縫ってあったものである。奈良正倉院の吉松技官(染色専門)は「綾織と呼ばれる奈良時代からあった織物で、糸の締まり具合からすると、日本の織りと違うようだ」と話されたという。綾布の墨書では、平安中期に伝藤原佐理の「綾地歌切」の例がある。それよりも昔の百済人の書品であると見当をつけて、胸を躍らせた。
対象の墨書が不鮮明なため、一月末に南郷村から奈良国立文化財研究所へ搬入し、赤外線カメラによる撮影がなされた。解読も依頼されたそうであるが、マイクロフィルムの映像から判読したメモだけで、まだ解釈の回答がないという。そのメモの字類には、不十分な点が見受けられる。
写真のコピー資料を見て解読をした。十六行、百四十九文字の漢文体である。鮮明でない七文字の推定判読を加えて全文を解読し、かつ解釈を試みた。文字は、楷書が主で行書体が若干混じる。純唐風でなく、筆致は変化に富み、稚拙美がある。増画・略画・誤形などの異体字が多く、比較文字学の観点から、字体は高句麗や新羅の物ではないと判別できる。
「国」字の変体による四種の書写を特色とする。表題の中で、方形の中に小さい百の字があり、百済国を表す「国」の字と認めた。本文中では二国・五国の部で方形の中に「卜
」の字が入り、他は四角の中に横線数本入りの国の字と、六国・二国・三国の部で王字の左右に点付きの国字の異体がある。これらは百済特有の観念文字であると考える。百・皇・月・西・元・香などの字は、曲線入りで字体の独自性がある。
表題は「記国號」
「綾布墨書」の表題は、「記国號」とある。「国の号を記す」と読む。百済国の布令(ふれ)の文書である。本文には、王城長官への布告文が記してある。末尾は「見」(すすム)の一語で終わり、紹介するの意味で結んでいる。
この古文書の内容は、次のようである。抄出の釈文を訳語混じりで記し、推定の文字は【 】内に示す。
(1) 王城の数と目的
「白(もう)ス、西ニ王城ハ百、北ニ三十アリテクニノ守リトスト。」
(2) 改元の告知
「帝は、泉(黄泉。あの世)ノ帝皇(先代の王)ノ明雲廿六年ヲ、福智ナル(幸福を与える賢い)帝皇ニテ、白雲元年ト【為】シタリ。
(3) 王城の守(長官)の任命と部(軍区)の任務
「上、六国ノ守(長官)ハ阿香ナリ。大将ノ【霊】官トス。」(以下略)
「中、二国ノ守ハ、白ス亦大(えきだい)ナル名ニテ(大きな名誉で)、尸(つかさど)ル官ハ、二トスト。」(以下略)
「下、三部(六国・四国と二国の三軍区)ノ大国ノ皇城(王城)ハ、吉(よ)ク巡リテ月(年月)ニ尸リ
尸(つかさど)ルハ一ツニス(統合する)」(中略)
匹部(ひつぶ。仲間、同類の軍区)ノ守(長官)ハ(外敵が迫り)来タレバ、体ヲ結ビ(互いに関係付けて)、人ヲシテ作(おこ)サシメヨ(奮い立つようにさせよ)。」
文中の「上・中・下」の標示は、段落構成で、中段以下が役目の説明となっている。多分、日向にゆかりの福智王の命名は、文中語を引用したものだろう。
伽耶の金首露王が「今上皇帝」と称された例は「高麗史」の中にあるが、百済王を「帝」・「帝皇」と述べているのは初耳である。「少(わか)キ元皇」は、第一王子であり、「最高長官からはずし、将官を下賜する」とある。豊王子に該当するものだろうか。「宝王(今ノ帝王)」は、帝皇の親族として考える。
「明雲」と「白雲」の私年号は、文献を調べても、今のところ見当たらない。武王(30代)は在位四十二年、在位半ばで改元の例もあるので、義慈王(31代)の即位当初の文書かも知れない。中西龍氏の『百済史研究』に、末期の王城は五部制で、約百五十城とある。当文書では計百三十城と少なく、五部の軍区に類するが、三部に重点が置かれ、未完の旧制度と思われる。書写年代は、下限を義慈王の初頭か武王朝、上限を在位二十三年の武寧王(25代)よりも後の四代の範囲内と推測する。
「帝皇」の語隠す
「綾布墨書」にある四つほどの折り目は、畳んで保管していた跡形を示す。衣に裏返しに縫い付けたことは、「帝皇」の語を人目に触れないように隠した事情や賊に盗まれない画策をした理由によるのだろう。従って王族の証拠品として秘蔵して来た遺物と言える。
従来、南郷村神門と木城町比木の百済王伝説は、百済国の内乱で日本へ逃亡して来たとされていた。ところが、「比木大明神縁起」を解読した結果、日本国内での逃避行であると判明した。奈良時代中期の天平宝字二(七五八)年に、福智王が蚊口浦(高鍋町)に、父君の禎嘉王が金ケ浜(日向市)に漂着したとある。当時の朝鮮半島は統一新羅の国であり、かの地に百済国王が存立したはずがないのである。
本縁起に、「百済の滅びるや(六六三)、扶余豊【豊璋王】は高句麗に奔(はし)りたれば、則ち、その子の絲は流寓を以てし」とある。六六〇年に義慈王が唐に降参した後、日本に人質で来ていた第一王子の豊が送還されて王位に就き、白村江の戦で敗れて高句麗に逃亡した。その豊王の子供が日本に身を寄せて生活し、「裏切り者の子、世の仇」と呼ばれながらも、子孫を残したのであった。落ちぶれた境遇のため、「日本書紀」に現れず、この史実の記載は「本縁起のみ」と明記されている。
王家直系を証明
絲王子から三、四代目に至り、近畿に住み百済王と愛称された禎嘉・福智の親子一家は、豊王の弟で百済王の賜姓を受けた善光の子孫の王族から、ねたみ恨まれ、百済王族間の乱れにより無実の罪で追われ、厳島を経て日向の国に上陸したのであろう。
「綾布墨書」は、義慈王と王子の豊が別れて来朝した時、形見として持参した物で、わが子に残して子孫に伝えられ、南郷村まで運ばれて来たことになる。この遺品は、「比木大明神縁起」の記述を裏付け、禎嘉王らが日本に居住したこと、百済王直系の末流であることを証明している。貴重な史料であり、「西の正倉院」の宝物として大切に保存されるよう希望する。
【 図版 解読文面】 福宿さんが解読、再現した
綾布墨書(古文書)に記されている149の文字。「百済王伝説」を裏付ける記述があるという。
(註。「その子の絲は流寓を以てし」は福宿の解読である。宮崎県史では「その子孫は流寓を以てし」と読まれている。 以下はこの図版の採録である。)
[ 資料解読 ]
[
・印は新判読文字を示す 。]
( )内は推定文字である。
記ス国ノ・號ごうヲ
・白もうス、西ニ王城ハ百、北ニ三千アリテ国ノ守リナリト。
帝みかどハ、泉せんノ帝皇ノ明雲廿六年ヲ(為)シタリ
福智ナル帝皇ニテ白雲・元年ト。
上、六国ノ守リハ阿香ナリ。 大将ノ(霊?)官トス
四国ノ守リハ(居?)戸ナリ。 少浄ノ(託?)官トス
二国ノ守リハ・我久ナリ。 勝まさリ官ニ将ハ一トス
大イニ・白もうス、部ノ守リハ秀(隅?)ニシテ、 尸つかさどル官ヲ将ハ九トスト
中、二国ノ守リハ、白もうス(亦マタ)大ナル名ニシテ、 尸ルハ官ヲ二トス。
六国ハ月ニ(尸?)ル・浄山ヲ。 守ル官ハ六トス。
二国ノ部ハ卜ぼくシテ尸つかさどル。 川正ノ尸ルハ官ヲ大ナリ。
三国ノ天官ハ宝王ナリ。 ・ 守護セシ
下、三部ノ大国ノ皇城ハ吉よク巡リテ月ニ尸つかさどリ、尸ルハ一ツニス。
五国ノ少わかキ・元皇ハ外はず シ(霊?)守ヲ、 下さグ官
三国ノ今ノ帝王ハ内いれテ比丘びくヲ 尸つかさどル一ツニ
・匹部ひつぶノ守リハ、來タレバ・結ビテ体ヲ作おこサシメヨ人ヲシテ。 見すす
(註。この解読は福宿孝夫の中間作業稿とみられる。採録に当たり返り点は省略した。・の右の文字が新判読文字である。図版の下の部分が切れていて採録できない文字がある。)