南方手帖・SFと日本古代史


  南郷村神門神社綾布墨書    


                      解読 福宿孝夫
  記国號


白西王城百北三十国守
帝泉帝皇明雲廿六年(為)
福智帝皇白雲元年

上 六国守阿香  大将(霊)官
  四国守(居)戸  少浄(託)官
  二国守我久  勝官将一
 大白部守秀(隅)  尸官将九
 
中 二国守白(亦)大名 尸官二
  六国月(尸)浄山  守官六
  二国部卜尸  正尸官大
  三国天官宝王   守護
  
下 三部大国皇城吉巡月尸尸一
  五国少元皇外(霊)守 下官
  三国今帝王内比丘 尸一
  四部守來結体作人 見
  


 註釈:

 尸 はつかさどると読むらしい。尸官=尸位素餐の役人。尸位は祭りの時、仮に神の代りになること。素餐は空しく食うこと。尸位素餐はその器でないのに高位高禄を貪る者のこと。『漢書』にこの用例があるようだ。ただしこの義はここではふさわしくない。神の形代となってまつりごとをする役人という字義通りの意味だろう。
 帝泉帝皇とは宮崎県南郷村にやって来た禎嘉王のことであろう。禎嘉王の死去にともない、福智王が帝皇位を継いだ。その際、百済の故国の政治体制を記録して、祖国を回復した際の忘備録としてこの文書が作られ、臣下か福智王の衣類の襟にでも縫い込まれたものであろう。時に、伝承に従えば、8世紀半ば。朝鮮半島の百済が滅亡して約100年が経っている。この伝承を真実とすると、こんなふうに考えられるだろうか。百済の分国であった周防にいた百済王の直系の子孫は、百済滅亡とともに自動的に本家本元百済王の位を継ぎ、「定居」と改元し、さらに「倭京」と改元した。それから13代周防にいたが、新羅派の攻勢にたえきれず、日向の国に落ち延びたが、直ちに追っ手をかけられ、王統は絶滅したのではなかろうか。

 桓武天皇のころ、日本で百済王の姓をもらった王家の一族が隆盛を誇ったが、後には没落しているようでもある。これと関係があるのか無いのか。   2000.


宮崎日々新聞 1996.9.11. 1面トップ
「百済王伝説」裏付け
古文書に史実記載 福宿前宮大教授が解読
南郷村・神門神社保管

 「西の正倉院」が五月に完成するなど「百済の里づくり」が本格化している南郷村で、同村の神門神社に伝わる古文書に「百済王伝説」を史実として裏付ける内容が記されていることが、宮崎市大塚町の前宮崎大学教授・福宿孝夫さん(66)の解読で分かった。同村には百済王の末裔とされる禎嘉王伝説が伝えられているが、その存在を文字資料で証明した極めて貴重な発見として注目されている。
 古文書が記されているのは、綾織と呼ばれる茶褐色の絹製の布。同神社に保管されていた衣服に文字を隠すように縫い付けられていた。大きさは縦二十センチ、横二十五センチ。墨書きの古文書は判読できないため、同村が奈良国立文化財研究所に鑑定を依頼した。
 同研究所で赤外線テレビカメラを使って拡大撮影。文字が浮かび上がったが、複雑な字体や不鮮明な文字が多く、解読には至らなかった。このため同村が八月末、比較文字学が専門で先に比木神社(木城町)に伝わる「比木大明神本縁起」を新しく解釈し直した福宿さんに依頼、このほど全文を解読した。
 福宿さんによると、綾布墨書(古文書)は十六行、五十七文字の漢文体で書かれている。不鮮明な七文字があったが、推定判読が可能だったという。文字は楷書が主で行書体が少し交じる程度。増画・略画・誤形などの異字体が多く、字形の特徴から百済特有の観念文字であるとしている。
 古文書は、表題に「記国號( 国ノ号ヲ記ス)」とあり、百済国の布令(ふれ)の文書と見られる。内容は@王城の数と目的A改元の告知などだが、注目されるのは、比木神社に伝わる福智王の命名の由来や、王族の先祖である豊璋王に触れた個所があることだ。
 このため福宿さんは、綾布墨書は豊璋王が人質として日本に来た際に記念品として持参。子供の絲王子から子孫の禎嘉王へ伝わり、日向の国まで運ばれたという。それは「比木大明神本縁起」を裏付けることにもなり、百済王伝説を実証する貴重な資料とみている。


 【写真】綾布墨書(古文書)に書かれた百済文字。「百済王伝説」を裏付ける内容が記されている。  (註。綾布の右上部分の写真)
 


宮崎日々新聞 1996.9.11. 26面
真実味増す王族渡来
「百済の里づくり」に弾み

「百済王伝説」がいよいよ真実味を帯びてきた。南郷村の神門神社に伝わる古文書から、王族の渡来と日向での居住を裏付ける文字が初めて解読。これまで一種のロマンとして語られていた古代日本と百済との交流史が、歴史的事実で新たに補強された形だ。全国的に注目されている同村の「百済の里づくり」に、さらに弾みがつくと関係者は期待している。
 同神社に綾布墨書(古文書)があることは以前から知られていた。だが、複雑な文字で村内では判読ができないままだった。数年前に韓国民俗学会会長の任東権(イム・トンガン)さんが来村した折、「赤外線にかけた方がいい」とその貴重な価値を指摘。古代文字にも詳しい前宮大教授福宿孝夫さんに解読を依頼したところ、歴史的な発見に結びついた。
 同村は約十年前から「百済の里づくり」というユニークな地域おこしに取り組んでいる。今年五月には全国的に注目された「西の正倉院」がオープンしたばかりだが、その根拠になっていたのは、木城町・比木神社とともに伝わる「百済王伝説」だった。伝説にとどまらず、史実としての可能性が一層高まった今回の解読で、同村の「里づくり」に拍車がかかるのは確か。年々深まっている韓国との文化交流にもさらに好影響を与えることは間違いない。
 「里づくり」の立役者である田原正人村長(70)は、今回の発見を最も喜んでいる一人。「『南郷には史実に優る事実がある』という学者の言葉を信じていた。今回、伝説を裏付ける資料が出てきてますます自身が深まった」。伝説が歴史的なリアリティーを増してきたことに満足そう。
 古文書を長く保管していた神門神社禰宜(ねぎ)の若林嘉一さん(63)も今回のニュースを喜んで聞いた。「ただの布切れだと思っていたのに、大層な発見になった。伝説に史実としての確証があった証拠。貴重な資料を今後も大切に保存していきたい」と興奮気味に話していた。
 福宿さんはこれで「比木大明神本縁起」の記述も裏付けられたとしており、古代日向を安住の地にした百済王族の研究も今後深まっていきそうだ。



宮崎日々新聞 1996.9.13. 29面
例見ない「百済文字」
神門神社の古文書解読
王族示す綾織 640年ごろ即位布告と推定


 南郷村の神門神社に布書きで保管され、宮崎市大塚町の 前宮崎大学教授・福宿(ふくしゅく)孝夫さん(66)によってこのほど解読された古文書の存在が波紋を広げている。古文書は百済文字で書かれ、本県に伝わる「百済王伝説」を史実として裏付ける内容だ、とされているからだ。その決め手となったのは、日本でもまれな福宿さんの「比較文字学」の研究だった。福宿説が事実であれば、古代日向を舞台に、百済王族をめぐって繰り広げられた歴史は大きく塗り変わることになる。(14日付文化面で福宿さんの論文掲載)
 
 同村の神門神社には百済王族の末裔とされる禎嘉(ていか)王、木城町の比木神社には禎嘉王の子の福智(ふくち)王が祭られている。言い伝えによると、百済国の内乱で福智王は父の禎嘉王を伴って脱出、日本の安芸・厳島に逃れた。その後、福智王は日向国児湯郡蚊口浦に上陸。一方の禎嘉王は臼杵郡金ケ浜にたどり着き、それぞれ地元の尊崇を集めた…。
 この間のいきさつは比木神社「比木大明神本縁起」に詳しいが、福宿さんが解読した古文書は、この伝説に直接触れているわけではない。内容からして禎嘉王の四代前で、歴史的には百済最後の王とされている義慈(ぎじ)王が即位したころの布告文書ではないか、とみられている。
 では、それがなぜ本県の伝説につながるのか。
 古文書の中に、義慈王の第一王子である豊璋王をうかがわせるくだりがあること。豊璋王は「日本書紀」にも登場、その子の絲(し)王子とともに「比木大明神本縁起」の物語の重要な位置を占める人物。伝説にいう禎嘉・福智の両王は豊璋王の三、四代後に当たり、義慈王から福智王までの線が「本縁起」を通して一本につながるとみるのだ。
 福宿さんによると、この古文書は韓国でもほとんど例を見ない「百済文字」であり、肉筆(墨書)としては日本で初めて登場した文字ではないかという。同村が奈良国立文化財研究所に鑑定を依頼、「これまで見たことがない文字」という返事があったのはそういう事情のためらしい。
 それを決定づけたのが、福宿さんの「比較文字学」という方法だった。比較文字学は字体を比較研究する学問で、福宿さんは古代中国・朝鮮などが専門。福宿さんは「好太王碑文」の全訳者でも知られる。今回の古文書でも、書かれたのが六四〇年ごろの百済と推定、「国」という文字の四通りの使い方を解読するなど、あらためてこの学問の重要性を印象づけた。
 さらに貴重なのは、古文書が記された綾織と呼ばれる絹製の布だ。奈良正倉院が「日本の織りと違う」というほどのもの。古文書は普通紙に書かれるが、古代の布書きはそれが極めて重要な文書であることを示すという。しかもそれが衣服の内側に縫い付けてあったのは、「帝王」(註・帝皇の誤記か)という文字を人目に触れないように隠した事情があったのではないか、としている。
 これらのことから福宿さんは、この古文書は義慈王が形見として豊璋王に与え、人質で日本に来た際に持参。子供の絲王子から子孫の禎嘉王へ伝わり、神門まで運ばれてきた。その流れこそが、貴重な綾織の古文書が神門神社に大切に保存されてきた理由ではないか、とみている。
 福宿説は事実と断定されたわけではない。ただ、今回の古文書解読は、同村に伝わる銅鏡など他の傍証と重ね合わせると、百済との結び付きをさらに強めたのは事実。百済王族をめぐる伝説は、史実との間で一気に揺らぎ出してきた
 【朝鮮古代史に詳しい井上秀雄・樟陰女子短期大学学長の話】百済文字はほとんど残っていないので判読は難しい。ただ時代的な条件を九世紀半ばごろ奈良朝の中で百済王家が衰亡したころと設定するなら、伝説を史実としてみる可能性はある。古文書の内容が事実であれば極めて貴重な発見だ。南郷村の取り組みはかねてから評価していたし、それが残っていたことも大変うれしい。


 【写真】赤外線テレビカメラで撮影した古文書の「百済文字」。異体字が多いが、右側に「福智」と読める文字がある。


宮崎日々新聞 1996.11.14.
伝説の根拠裏付け
前宮崎大学教授 福宿孝夫
豊璋王が形見に持参 南郷村神門神社の古文書解読

 南郷村神門神社に保管されたまま長く判読されなかった古文書(布に墨書きしたもの)を、宮崎市大塚町の 前宮崎大学教授・福宿孝夫さん(66)がこのほど解読。同村に伝わる「百済王伝説」を裏付ける史実を記した内容であることを明らかにした。解読のプロセスや古文書が投げかけている意味などについて福宿さんに寄稿してもらった。

 去る五月、南郷村の神門(みかど)神社の隣に「西の正倉院」が開館した。その百済の里での人々の歓喜の声が響いてくるような気がする。妻と共に拝観し、校倉(あぜくら)造りの構えや展示品に感動したのであった。
 ところで、陳列してある神門神社の宝物類の中で、オープン以前に、綾織の布に墨で書いた古文書が衣服に潜み隠れてあるのを発見し、解読されないままで時を経たのだそうである。
 八月の末、南郷村教育委員会の原田須美雄教育課長から依頼を受けて、解読と文面の解釈に当たった。


 変化に富む筆致
 この布は二〇センチ×二五センチほどのサイズで、墨書きの字を内側にして衣のえりに縫ってあったものである。奈良正倉院の吉松技官(染色専門)は「綾織と呼ばれる奈良時代からあった織物で、糸の締まり具合からすると、日本の織りと違うようだ」と話されたという。綾布の墨書では、平安中期に伝藤原佐理の「綾地歌切」の例がある。それよりも昔の百済人の書品であると見当をつけて、胸を躍らせた。
 対象の墨書が不鮮明なため、一月末に南郷村から奈良国立文化財研究所へ搬入し、赤外線カメラによる撮影がなされた。解読も依頼されたそうであるが、マイクロフィルムの映像から判読したメモだけで、まだ解釈の回答がないという。そのメモの字類には、不十分な点が見受けられる。
 写真のコピー資料を見て解読をした。十六行、百四十九文字の漢文体である。鮮明でない七文字の推定判読を加えて全文を解読し、かつ解釈を試みた。文字は、楷書が主で行書体が若干混じる。純唐風でなく、筆致は変化に富み、稚拙美がある。増画・略画・誤形などの異体字が多く、比較文字学の観点から、字体は高句麗や新羅の物ではないと判別できる。
 「国」字の変体による四種の書写を特色とする。表題の中で、方形の中に小さい百の字があり、百済国を表す「国」の字と認めた。本文中では二国・五国の部で方形の中に「卜 」の字が入り、他は四角の中に横線数本入りの国の字と、六国・二国・三国の部で王字の左右に点付きの国字の異体がある。これらは百済特有の観念文字であると考える。百・皇・月・西・元・香などの字は、曲線入りで字体の独自性がある。


 表題は「記国號」
 「綾布墨書」の表題は、「記国號」とある。「国の号を記す」と読む。百済国の布令(ふれ)の文書である。本文には、王城長官への布告文が記してある。末尾は「見」(すすム)の一語で終わり、紹介するの意味で結んでいる。
 この古文書の内容は、次のようである。抄出の釈文を訳語混じりで記し、推定の文字は【 】内に示す。
 (1) 王城の数と目的
  「白(もう)ス、西ニ王城ハ百、北ニ三十アリテクニノ守リトスト。」
 (2) 改元の告知
  「帝は、泉(黄泉。あの世)ノ帝皇(先代の王)ノ明雲廿六年ヲ、福智ナル(幸福を与える賢い)帝皇ニテ、白雲元年ト【為】シタリ。
 (3) 王城の守(長官)の任命と部(軍区)の任務
  「上、六国ノ守(長官)ハ阿香ナリ。大将ノ【霊】官トス。」(以下略)
  「中、二国ノ守ハ、白ス亦大(えきだい)ナル名ニテ(大きな名誉で)、尸(つかさど)ル官ハ、二トスト。」(以下略)
  「下、三部(六国・四国と二国の三軍区)ノ大国ノ皇城(王城)ハ、吉(よ)ク巡リテ月(年月)ニ尸リ 尸(つかさど)ルハ一ツニス(統合する)」(中略)
  匹部(ひつぶ。仲間、同類の軍区)ノ守(長官)ハ(外敵が迫り)来タレバ、体ヲ結ビ(互いに関係付けて)、人ヲシテ作(おこ)サシメヨ(奮い立つようにさせよ)。」


 文中の「上・中・下」の標示は、段落構成で、中段以下が役目の説明となっている。多分、日向にゆかりの福智王の命名は、文中語を引用したものだろう。
 伽耶の金首露王が「今上皇帝」と称された例は「高麗史」の中にあるが、百済王を「帝」・「帝皇」と述べているのは初耳である。「少(わか)キ元皇」は、第一王子であり、「最高長官からはずし、将官を下賜する」とある。豊王子に該当するものだろうか。「宝王(今ノ帝王)」は、帝皇の親族として考える。
 「明雲」と「白雲」の私年号は、文献を調べても、今のところ見当たらない。武王(30代)は在位四十二年、在位半ばで改元の例もあるので、義慈王(31代)の即位当初の文書かも知れない。中西龍氏の『百済史研究』に、末期の王城は五部制で、約百五十城とある。当文書では計百三十城と少なく、五部の軍区に類するが、三部に重点が置かれ、未完の旧制度と思われる。書写年代は、下限を義慈王の初頭か武王朝、上限を在位二十三年の武寧王(25代)よりも後の四代の範囲内と推測する。


 「帝皇」の語隠す
 「綾布墨書」にある四つほどの折り目は、畳んで保管していた跡形を示す。衣に裏返しに縫い付けたことは、「帝皇」の語を人目に触れないように隠した事情や賊に盗まれない画策をした理由によるのだろう。従って王族の証拠品として秘蔵して来た遺物と言える。
 従来、南郷村神門と木城町比木の百済王伝説は、百済国の内乱で日本へ逃亡して来たとされていた。ところが、「比木大明神縁起」を解読した結果、日本国内での逃避行であると判明した。奈良時代中期の天平宝字二(七五八)年に、福智王が蚊口浦(高鍋町)に、父君の禎嘉王が金ケ浜(日向市)に漂着したとある。当時の朝鮮半島は統一新羅の国であり、かの地に百済国王が存立したはずがないのである。
 本縁起に、「百済の滅びるや(六六三)、扶余豊【豊璋王】は高句麗に奔(はし)りたれば、則ち、その子の絲は流寓を以てし」とある。六六〇年に義慈王が唐に降参した後、日本に人質で来ていた第一王子の豊が送還されて王位に就き、白村江の戦で敗れて高句麗に逃亡した。その豊王の子供が日本に身を寄せて生活し、「裏切り者の子、世の仇」と呼ばれながらも、子孫を残したのであった。落ちぶれた境遇のため、「日本書紀」に現れず、この史実の記載は「本縁起のみ」と明記されている。


 王家直系を証明
 絲王子から三、四代目に至り、近畿に住み百済王と愛称された禎嘉・福智の親子一家は、豊王の弟で百済王の賜姓を受けた善光の子孫の王族から、ねたみ恨まれ、百済王族間の乱れにより無実の罪で追われ、厳島を経て日向の国に上陸したのであろう。
 「綾布墨書」は、義慈王と王子の豊が別れて来朝した時、形見として持参した物で、わが子に残して子孫に伝えられ、南郷村まで運ばれて来たことになる。この遺品は、「比木大明神縁起」の記述を裏付け、禎嘉王らが日本に居住したこと、百済王直系の末流であることを証明している。貴重な史料であり、「西の正倉院」の宝物として大切に保存されるよう希望する。


 【 図版 解読文面】  福宿さんが解読、再現した 綾布墨書(古文書)に記されている149の文字。「百済王伝説」を裏付ける記述があるという。
 
 (註。「その子の絲は流寓を以てし」は福宿の解読である。宮崎県史では「その子孫は流寓を以てし」と読まれている。 以下はこの図版の採録である。)
 
  [ 資料解読 ]
                         [ ・印は新判読文字を示す 。]
                        ( )内は推定文字である。

  記ス国ノ・號ごうヲ

・白もうス、西ニ王城ハ百、北ニ三千アリテ国ノ守リナリト。
帝みかどハ、泉せんノ帝皇ノ明雲廿六年ヲ(為)シタリ
福智ナル帝皇ニテ白雲・元年ト。

上、六国ノ守リハ阿香ナリ。  大将ノ(霊?)官トス
  四国ノ守リハ(居?)戸ナリ。  少浄ノ(託?)官トス
  二国ノ守リハ・我久ナリ。  勝まさリ官ニ将ハ一トス
 大イニ・白もうス、部ノ守リハ秀(隅?)ニシテ、  尸つかさどル官ヲ将ハ九トスト
 
中、二国ノ守リハ、白もうス(亦マタ)大ナル名ニシテ、 尸ルハ官ヲ二トス。
  六国ハ月ニ(尸?)ル・浄山ヲ。  守ル官ハ六トス。
  二国ノ部ハ卜ぼくシテ尸つかさどル。  川正ノ尸ルハ官ヲ大ナリ。
  三国ノ天官ハ宝王ナリ。  ・ 守護セシ
  
下、三部ノ大国ノ皇城ハ吉よク巡リテ月ニ尸つかさどリ、尸ルハ一ツニス。
  五国ノ少わかキ・元皇ハ外はず シ(霊?)守ヲ、 下さグ官
  三国ノ今ノ帝王ハ内いれテ比丘びくヲ 尸つかさどル一ツニ
  ・匹部ひつぶノ守リハ、來タレバ・結ビテ体ヲ作おこサシメヨ人ヲシテ。 見すす

(註。この解読は福宿孝夫の中間作業稿とみられる。採録に当たり返り点は省略した。・の右の文字が新判読文字である。図版の下の部分が切れていて採録できない文字がある。)
 


宮崎日々新聞 1996.11.21. 15面
多くの傍証史実を投影
百済王族伝説の謎を解く
南郷村でのシンポから
本格的検証へ道
日韓の学者ら高い関心
 
  史実との関連がさまざまに指摘されている本県の百済王伝説。それを学術の面から検証する初の国際シンポジウム「百済王族伝説の謎を解く−−日向・百済・飛鳥はトライアングルだった」(南郷村など主催、宮崎日々新聞社など協賛)が十七日、同村で開かれた。本県はじめ日韓の民俗学者、歴史学者ら十人が登壇(コーディネーターとコメンテーター含む)、それぞれの立場から伝説の意味や史実との関連について問題提起した。時間が足りず具体的な討論には至らなかったが、発表のほとんどが「伝説で片付けるにはあまりに史実(事実)を投影している」という内容だった。用意されたレジュメと合わせ、パネリストの発言要旨を紹介する。
 
  南郷村では、今年五月に完成した「西の正倉院」はじめ約十年前から百済王伝説を基にした「百済の里」づくりに取り組んでいる。今回のシンポジウムは同村の事業を評価する一方で、ともすれば「村おこし」だけで見られがちな百済王伝説を、学術のレベルから検討してみようと宮崎公立大学のスタッフを中心に初めて企画された。
         ×    × 
  シンポジウムには、日本から古代朝鮮史の第一人者である井上秀雄・蔭女子短期大学学長、綾織古文書の解読で注目される福宿孝夫・前宮崎大学教授ら三人、韓国から崔仁鶴・仁荷大学教授ら五人のパネリストが参加。コメンテーターに崔吉城・広島大学教授が加わった。韓国からはこのほか数人の学者も同行、百済王伝説への関心の高さをうかがわせた。
  今回のシンポは、副題に「日向・百済・飛鳥はトライアングルだった」が掲げられた。コーディネーターの荒木博之・宮崎公立大学教授の説明にもあったように、これまで伝説を根拠に単線的に語られて来た百済との関係を、大和朝廷を含む東アジア古代史というグローバルな視点から見つめ直す狙いだった。
         ×    ×
  そしてその謎の三角形の中で、南郷村を含む古代日向の持つ歴史的な意味が、多くのパネリストたちの発言や多くの傍証でようやくその輪郭をあらわにしてきた。西都原古墳群を含め、古代の日向は当時の日朝関係や国内の政治状況と決して無関係ではない。百済王伝説と史実との距離は、これからの研究で一層縮まっていくだろう。
  討論の時間はなく、わずかに福宿・前宮大教授の古文書解釈に対し、朴成寿・韓国精神文化研究院教授が私見を述べるにとどまったのは残念だった。もう少し踏み込んだ議論があってもよかったが、ただ、百済王伝説の研究は始まったばかり。韓国の学者らを交え、伝説と史実との関連に多くの示唆を与えた同シンポジウムの異議は大きい。
 

宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
綾織墨書は王の形見
福宿孝夫氏 前宮崎大学教授(比較文字学)
 
 南郷村に伝わる「綾布墨書」を解読することに成功した。「国のお触れ書きを記す」の意で、十六行百四十九文字があった。くにがまえのつくりの中に「百」の字があり、その他の孤立的、独創的な文字からこれは百済国の表記文字と認めた。
 この古文書によると百三十城、五部制となっている。百済末期の王城は百四十七、五部制と記されているので滅亡時期(六六〇年)よりも早期のものと考えられ、義慈王即位時の布告文(六四〇年ころ)と推定した。
 禎嘉王が日向市金が浜に漂着したのは七五八年で統一新羅時代に相当する。義慈王の子・豊璋王が白村江の戦いで高句麗に逃亡したのが六六三年。この間の九十五年の世代歴を考え合わせると義慈王、豊璋王、絲 王、禎嘉王の順の家系をまとめることができた。
 綾布の墨書は豊璋王が人質になって逃亡した時、形見として持参したもので、その子孫が代々遺品として南郷村まで運ばれてきたことが予想される。
 この古文書は高級品の綾絹に記されていること、四つ折りの折り目があること、針の穴が残っていることなどから、国王の書類で人目に触れない(奪われない)ように隠しながら大切に保存されていたことなどが推測される。
 

宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
確かな受け皿が存在
金宅圭・韓国嶺南大学名誉教授(文化人類学)
 
 郷土史は客体化することで歴史学になる。伝統はつくられるものであり、だからこそ過去を踏まえた明日の伝統が生まれる。豊かな伝承を伝える南郷村に感銘した。その意味でいい実例になるように思う。
 神話・伝承のルートの中に、大別して日向系文化と出雲系文化がある。日向系文化は扶余−高句麗−百済−九州−畿内・大和とつながっていて、その中心をなすものに記紀系や高天が原、天孫降臨型、天皇などの要素が考えられる。
 出雲系文化のルートは、穢(あい)−新羅−伽耶−出雲−畿内・大和という線になる。この文化の指標として風土記系、根の国系、渡海系があり、天日槍、スサノオ、大国主などの要素が見られる。ほかに開墾・治水・製鉄・青銅の神々などもこの中に含まれる。
 白山信仰について触れてみる。韓文化における白山は太白正幹以東で長白山、太白山、小白山がある。日本の加賀の白山は新羅系渡来人秦澄開山の三神で、白山神社は二千七百余。また九州の白山は天道信仰に関連していると思われる。
 南郷村に伝わる百済系文化は直接に朝鮮から来たものか、大和を通じて逃れてきたものか、まだ分からない点は多い。ただ、これだけ多くの文物があるわけだから、やはりそれを受け入れる受け皿があったのは確かだと思う。
 

宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
師走祭りには普遍性
井上秀雄・樟蔭女子短期大学学長(歴史学)
 
 日向、大和、百済の三者関係を総合するものとして神門伝承がある。歴史的事実と合わせて考察する。
 百済王族・貴族の大和王朝への亡命が始まるのは六四二年、大量に亡命してくるのは六六三年からだ。まず亡命王族の禎嘉王一族を追討した軍隊はどこの軍隊かを考えてみる。当時百済と敵対関係にあったのは新羅だが、新羅は百済と高句麗の侵入に悩み、その後も唐との対立が八世紀前半まで続いたのでその余力はなかったと考えられる。
 また大和王朝と新羅は友好関係にあったので新羅からの軍派遣は考えにくい。以上から追討軍は大和王朝の軍隊となろう。
 次にいつのことと考えればよいか。七−九世紀にかけて熾烈だった大和王朝内の政争に百済王族が巻き込まれた可能性は強い。事実、百済王氏は九世紀半ばまで王朝内で活躍したが、同世紀後半になると姿を消している。この時期の動向から禎嘉王が中央を追われ追討を受けたのはこのころと考えるのが妥当。
 このように浮かび上がった歴史的事実を尊重しながら、今後未来へつなげる可能性を探ることが大切だ。神門伝承や師走祭りの交流の精神は、地域の祭りという性格ではなく普遍性を持っている。これに対する村民の思い、同村の試みが未来へ、そして諸外国へつながることを期待する。
 
 
 註 これは11月17日南郷村で行われた国際シンポジウムの際の発言要旨。福宿孝夫と金宅圭と井上秀雄の要旨を採録した。このシンポジウムは『百済王族伝説の謎』(三一書房・1996)として刊行されている。