副住職の法話

平等寺副住職 丸子孝仁

「最上の勝利者」  

今から2,500年前に、お釈迦様は話されました。「戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。」

自分に克つとは、どういうことなのでしょうか?

文化人類学者の上田紀行先生から、人類は今から6万年前に初めて埋葬を行い、死と向かい合ったこと、死ぬことが分かった人類は、自分たちが生きていることも分かったとお聞きしました。
 イエスは進むべき道を求め40日間砂漠に行きました。マホメッドも神の指導を仰ぐ為、洞窟に入りました。お釈迦様は6年間ほとんど飲まず食わずに修行したと伝えられます。私達の生き方をしめす宗教も、苦しみや死と向き合った時に生まれたのです。

今、私達は、毎日のようにマスコミで報道される殺人事件ばかりでなく、自分の周りで起きる不幸な出来事でさえも、すべて他人のせいにするような生き方をしているのではないでしょうか?それを他人事として見過ごしているかぎり、同じ過ちを繰り返していくのです。

 苦しんだ人は、心の痛みが分かるから、人にやさしくなれるといいます。

お釈迦様は坐禅をして、お悟りを開かれ、40年間、私達がいかに生きるかを話されました。
 坐禅をしますと、何かそわそわして落ち着かない、浮き足立った自分の心が、静かに整ってきます。何が来ても決して動じない、振り回されない安心感に満たされます。あれも欲しい、これも欲しいと走り回っていたのが、心を乱してまで手に入れる必要のあるものは、ないと考えるようになります。安心できることを、自分の外に求めなくても、自分の中に満ちて、これ以上ないほどに充実してきます。忙しい時は、自分が呼吸していることさえも分かりません。静かに心を整え、静寂に包まれた時に、呼吸をして、生きている自分がみえてきます。

最上の勝利者とは、どんな時でも自分の心を整えることができる人のことです。道元禅師様は、食べることも寝ることも、すべてが修行だと話されました。今、私達が生きていることを心の底から実感できたとき、自分だけでなく、他人をも大切にできるのです。

「お父さんは偉い人」

 毎月、お参りをさせて頂いている、あるお檀家さまのお話です。

お仏壇での読経が終わってから、おばあさんが、「私のお父さんは偉い人だった」と話し始めました。

「まだ妹が生まれて1ヶ月も経たない頃、家に帰るとお母さんが寝ていた。いつも朝早くに畑に行って日が暮れるころに帰ってくるのに、なぜかお母さんが寝ている。どうやら体調をくずしたようだ。家は峠の上にあり、風がいつも吹き荒れるような場所だった。村には車もないので、籠で担いで遠い病院まで運んでもらっていた。だから、滅多に病院にも行けなかった。

だんだん弱っていく母は乳が出なくなったので、昼は私達兄弟で、お寺の奥さんに母乳をもらいに行った。お父さんは、畑仕事から帰ってきてから、夜に米をすり潰して煮たものを妹に飲ませた。冷蔵庫もないので、米のお汁はすぐに腐った。小さな妹は夜中に何度も泣く。家には暖房もなかった。寒い日は泣く度に、綿の入ったちゃんちゃんこを着て、その中に妹を入れて、夜も寝ないで、自分の肌で温めた。そんなお父さんの姿をみて、私達は育った。だから今の私があるのも、お父さんのおかげ。お父さんは、二番目に偉かった。」

それじゃあ、一番偉い人は誰だったんですか?と私は聞きました。

 「妹は2歳ではしかにかかって亡くなった。そのはしかで、お母さんも亡くなった。お母さんがいなくなって、寂しかった私達と遊んでくれたのが、お寺の和尚さんだった。お寺に行くと、いつも満面の笑みで迎えてくれて、とてもやさしかった。だから一番偉いのはお寺の和尚さん、二番目に偉いのはお父さんだった。」

おばあさんは毎日、お父さんの姿を思い出しながら、お仏壇に手を合わしています。み仏とご先祖の思いやりの心は、長い命の連なりの中に生き続けていくのです。

 

「お互いの垣根を超える」

私は過去に、いじめられたことがあります。私は空手の有段者でしたので手はだせませんでした。しかし、その人に対して憎悪の念を持ったことは間違いありません。今でこそ、お寺で空手の道場を持ち先生と呼ばれていますが、当時の私は空手を学ぶ一道場生にすぎませんでした。しかし、いつか空手の先生になって空手を教えたいという夢もあり、ここで手を出したら、今まで築き上げてきた夢を失うことになると思いました。私は、彼に手を出すことを断念し、その場から逃げ出しました。私は周りから、「なさけないなあ、何の為に空手やってたんや?」と言われました。私は、悔しさや悲しさで胸が張り裂けそうな思いで毎日を過ごしました。

 それから2年後、福井県大野市宝慶寺の堂長さんの取り計らいで、その人と再会し二泊三日の修行を共にすることになりました。過去の千仏、現在の千仏、未来の千仏の御名が記された「三千仏名経」の一仏ずつを唱えながら、五体投地を行います。三日目には肘も膝も、きしむように痛みました。本堂の畳に打ちつける額からは血が流れ、まるで三つ目の目ができたかのようになりました。この修行をしたのは、私とその人だけではありませんでした。堂長さんはじめ、その時、宝慶寺にいらっしゃった全員が一緒につとめてくださったのです。その修行を終えた後、その人は私に「とんでもないことをしました」と言い、私はその人に「私の性格が悪かったからです」と答えました。長い間のわだかまりがとけて、私は嬉しさのあまり、思わずその人を肩に担ぎ、その辺を走り回りました。

 いじめや差別は、あってはならないことです。二度と繰り返さないように自らの心を深くみつめなければなりません。しかし、いじめや差別をした人を責め続けても何の解決にもなりません。共にかけがえのない命をもつ人間であることを認め合った時、お互いの垣根を超えることができるのです。

 

「韓信の股くぐり」

 私は、いじめにあったことがあります。「穴があったら入りたい」という思いで毎日を過ごしていました。

 その時の私に、福井県大野市宝慶寺の堂長さんが「韓信の股くぐり」という話をして、励ましてくれました。
『漢王朝統一前、中国に韓信という人がいた。幼いときに両親を失ったが、貧しくとも親より代々伝わる立派な剣のみを持ち、戦国乱立する荒れた中国を統一しようと志す、一人の若者であった。韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみろ!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。
 その後も韓信は、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。のちに漢王朝の建国皇帝劉邦に認められて大将軍となり、劉邦が天下を取る過程で勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。大将軍となった韓信は、まず初めに自分を馬鹿にした若者たちに会いに行き、「あなたの侮辱に比べれば何も大したことはなかった」と語り、一生その若者たちの世話をしたそうだ。』

 股をくぐった苦しみが、韓信を育てたのです。人生、楽しいことばかりではありません。つらいこと、しんどいこと、腹が立つこと、いっぱいあります。ですが、それをバネにして、がんばってください。そして、ピンチをチャンスに変えるのです。

 

 「心のこもったおもてなし」

毎月、お参りをさせて頂いている、ある御檀家さまのお話です。お寺からは一時間以上もかかる、遠方の檀家さんで私はいつも楽しい時を過ごさせて頂きました。

私がお参りに行くと、必ずお婆ちゃんが玄関で出迎えてくれます。隅々まで掃除の行き届いた御仏壇に向かってお経を唱える私の真後ろに正座され、とても上手にお経を唱えます。お経を読み終わると、御仏壇の前に置かれた小さなテーブルでお茶を頂きます。しばらくお話していると、二階からお爺ちゃんが降りてきて戦時中の辛かった話を聞かせてくれます。お爺ちゃんの失敗談も交えたユーモア溢れるお話は途切れることもなく一時間を超えることもしばしばでした。

時に法事等が重なって忙しい私が、お爺ちゃんの話を途中でさえぎるように急いでいることを伝え挨拶して席を立つと、何とも不満そうな寂しい顔でお別れしました。そんなある日のこと、玄関のチャイムを鳴らしても扉をノックしてもお婆ちゃんが現れません。すると、お家の中から、「どうぞ中へ入って下さい。」という、かすれるような小さな声を聞いて上がってみますと御仏壇の前にベットが置いてあって、そこでお婆ちゃんが横になっていました。

お婆ちゃんはどこかでつまずいて骨折して、歩くことも出来なくなっていました。御仏壇とベットに挟まれた私は、かすれるようなお婆ちゃんのお経を聞き取りながら、お婆ちゃんと一緒に唱えました。何ヶ月かして、お婆ちゃんは亡くなられました。その後、残されたお爺ちゃんは大変だったと思います。

 それでもお爺ちゃんは、お湯を沸かしお茶を入れ私を迎えてくれました。私がお参りの時にできることは、お手洗いの掃除ぐらいでした。お婆ちゃんが亡くなられてから半年後にお爺ちゃんも亡くなられました。

 お爺ちゃんとお婆ちゃんの年忌法要の際、涙で声も出ずお経も唱えられませんでした。お爺ちゃんとお婆ちゃんがして下さった、できる範囲での精一杯のおもてなしには手を合わせずにはおれません。目を閉じて思い返せば、たくさんの方から数えきれないおもてなしを頂いてきました。そこに思いをはせた時、恩人たちが微笑みかけているのです。

 

「さつま芋が教えてくれた」

十数年前まで、私にとって「人権」は、数ある学習項目の中の一つにすぎませんでした。人権学習会に自ら足を運ぶこともなく、他人事のように「人権」から目をそらしていたと思います。ある日、私はいじめに遭いました。私はその時、自分自身が無力であることに絶望し、どうすることもできない苦しい立場が、この社会にあることを実感しました。それからの十数年間は、もがき苦しむ自分自身が救われんがための、人権学習であったと思います。

岡山県の東部、日本のエーゲ海といわれる牛窓の近くに国立ハンセン病療養所「長島愛生園」があります。「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議」主催の人権学習会をきっかけに石田雅男さんと奥さんの懐子さんとお付き合いをさせて頂くようになりました。

石田さんは十歳の時にハンセン病を患い、愛生園に連れてこられました。到着してから裸にされて番号札を持って写真撮影の後、十日間はクレゾールという消毒液のお風呂に入れられたそうです。まだ幼い石田さんは、「殺されてしまうのでは・・・」と小さな身体が恐怖に震えました。まだハンセン病の薬が普及されていない当時、一日一本と決められていた松ヤニのようなものが入った大きな注射を、早く家に帰って両親に会いたい思いから看護師さんにお願いして二本打たれました。異物が注入された腕やお尻は当然のように大きく腫れ上がりました。

入所して間もない頃、石田さんの大好きだった巻き寿司を持って両親が面会に来られました。石田さんが右手で巻き寿司を食べている間、左手に薩摩芋を握りしめている姿を見て、お父さんが不思議に思って聞きました。「雅男、そのさつま芋はどうしたんだ?」すると石田さんは、「これはボクの晩ご飯だ」と答えたそうです。当時、愛生園では昼ご飯はじゃが芋一個、晩ご飯はさつま芋一個の代用食の日々でしたので、その芋をその辺に置いたりしますと誰かに取られます。それで石田さんは、左手にさつま芋を握りしめていたのです。

国の施設とは言いながら、入所者の人達は、「お前らは国家のごくつぶしだ、ざしき豚だ」と罵られ、友人でさえも、「このまま故郷にも帰れず、生きていても何の役にもたたない、せめて魚のえさにでもなれば」と海に投身自殺しました。また、結婚するにあたっては子供が生まれないように断種手術をさせられ、もし生まれてきた時には、その場で殺されました。治らない病気、伝染する怖い病気、そして不浄で汚い患者として社会から排除され、徹底隔離のもとで非人道的な扱いをされながら、石田さんは何時死んでもいい、早く死にたいと望むようになり、自暴自棄の生き方をされていました。

それから年月が流れ、やっと社会的にも、ハンセン病が感染力の非常に弱い病気で、まずうつることもなく、プロミンという薬で100%治るということが認識されるようになり外出も自由に出来るようになりましたが、お父さんはすでに亡くなられ、お母さんが大阪で暮らしていることを知り、会いに行かれました。その時に、こういう話を聞いたのです。「雅男、私達がお前のところに初めて面会に行った時、お前は夢中で巻き寿司を食べながら大事そうにさつま芋を持っていた。あれから父さんは、『わしらの子があのような代用食を食べているのに、わしらも食事を変えんといかん』そう言って芋を長い間、飯の代わりに食べたんやで」

石田さんは大きなショックを覚えました。どうしてこんな人間に生まれてきたのか、親を怨み、世の中を怨んで投げやりのような生き方しかできなかったが、私のことをこんなに思い、愛して見守ってくれた父がいた、そして母がいる・・・。石田さんはじんと胸が熱くなると同時に今までの生きざまの何と愚かなことかと、反省すると共に亡き父に頭を下げました。そしてこれからは、一生懸命に生きなければいけないと誓われました。

 人と人との絆が人権であります。私は石田さんから目には見えないところにも絆があることを教わりました。因縁に恵まれて生かされ生きている私達が、目には見えない心の絆を見失ったとき、悩み苦しみをつくり出しているのではないのでしょうか。心の絆が見えたとき、人は生きがいと幸福を見出せるのです。

 

お坊さんの法話も聞ける曹洞宗近畿ネットへのリンク

 
戻る Top