白光首都圏

 

山崎多嘉子「五井先生随聞記」

 
                                   2005年2月1日:アップ
                            2007年1月: 誤字訂正、リンク先更新など

                              2011年10月: リンク先更新、「紅卍」追加

 

目次

【はじめに】

【五井先生随聞記(1)】

【五井先生随聞記(2)】

【五井先生随聞記(3)】

【五井先生随聞記(4)】

【五井先生随聞記(5)】

【五井先生随聞記(6)】

【五井先生随聞記(7)】

 

 

【はじめに】

 

 山崎多嘉子さんの「五井先生随聞記」は、高橋英雄さんの個人誌「神人」に掲載された文章を、山崎多嘉子さんの許可を得てホームページに発表するものです。

 五井先生について:
http://www.byakko.or.jp/2_goi/goi_prof.html

 

 個人誌「神人」:

http://www.geocities.jp/byakkou51/takahashi/index.html

 

〇著者の山崎多嘉子さんについて

 

 山崎多嘉子さんからは、以下のような自己紹介の文章をお預かりしております。

 

 「昭和2年(1927年)大阪生まれ。

 宗教的な両親の影響か、私は少女時代から内面の充実した人生をどこかで望んでいました。

 26歳のとき、山崎の母の勧めによって、初めて五井先生に見(まみ)え、その温かさ、明るさ、清らかさにふれて、迷うことなく、夫とともにこのみ教えの道を歩み出しました。

 妻として、母として、また嫁としての平凡な日々の暮らしの中で、五井先生のみ教えをどのように実践してゆくかが、私の課題であったと思います。」

 

 いかにも山崎さんらしい控え目な自己紹介ですが、僭越ながら、これに編集者の思い出を付け加えさせていただきます。

 

 私が初めて市川市の聖ヶ丘道場を訪れたのは、まだ大学生のころの1969年4月でした。聖ヶ丘道場に数回通ううちに、ある和服姿のご婦人が私に声をかけてくださるようになりました。お年はそのころすでに70歳くらいだったと思いますが、その温かくてやさしい人柄と、美しく気品あるお姿に魅了されました。それが、山崎多嘉子さんが上の自己紹介で「山崎の母」とおっしゃっている山崎セツさんです。私も含めて、若い人たちをとてもよくかわいがって下さったので、若者たちは「山崎のおばあちゃん」と呼んで慕っておりました。

 

 その息子さんで多嘉子さんのご主人が、山崎雄造さんです。山崎雄造さんは白光真宏会講師で、斉藤秀雄先生や村田正雄先生とともに、初代の宇宙子科学メンバーの一人でした。

 

 山崎さんのお宅は聖ヶ丘道場から徒歩で数分のところにありました。聖ヶ丘道場のすぐ近くですので、五井先生も何度かいらっしゃったことがあると聞いております。

 

 山崎さんご夫妻には、私と同世代のお子さんたちがいらっしゃり、山崎のおばあちゃんと同じく、ご夫妻も私たち青年をとてもかわいがってくださいました。ときには聖ヶ丘統一会が終了したあと、青年たちをご自宅に招いて昼食をご馳走してくださることもありました。昼食をいただきながら、雄造さんから五井先生のみ教えについて色々と教えていただきました。今から思うと、なつかしくも貴重な時間でした。

 

 山崎雄造さんは、私が最初にお目にかかったころはまだ40歳代終わりだったと思いますが、50歳ころから徐々に体調が思わしくなくなりました。雄造さんは戦時中は職業軍人で、戦後も自衛隊にお勤めでした。おそらくは日本の軍隊や軍人にまつわる業を引き受け、浄めていらっしゃったのではないかと思います。

 

 雄造さんはその後、ご自宅で静養するようになり、聖ヶ丘道場でもお姿を見かけないようになりました。この闘病生活はかなり長く続きましたが、その間、奥様である多嘉子さんはご主人を懸命に介護なさっていたと聞いております。しかし、時々聖ヶ丘でお会いしても、そのお顔には苦労の陰が見えず、いつも穏やかで明るいお顔であることには深い感銘を受けておりました。五井先生への信仰心のたまものだと思います。

 

 山崎雄造さんもセツさんも今はすでに神界に昇り、光明霊団の一員となられています。多嘉子さんは現在は富士聖地のお近くで、娘さんご夫婦と同居なさっております。ご一家はみな五井先生、昌美先生に深く帰依し、安心立命の生活を送り、世界平和のために働いていらっしゃいます。2004年に富士聖地を訪問したあるアメリカ人の霊能者が多嘉子さんをご覧になり、「なんと美しいオーラでしょう!」と賛嘆していましたが、さもありなんと思います。

 

 肉体界で五井先生にお会いしたことがある方の数が年々少なくなっていく中で、五井先生と過去世においても今生においてもご縁の深い山崎多嘉子さんが書いて下さった「五井先生随聞記」は、いわば山崎版の「如是我聞」とも言える記録で、私たち白光の後輩にとってばかりではなく、人類にとっても貴重な宝だと思います。

 

 なお、番号には漢字の「一」「二」と数字の(1),(2)がありますが、これは「神人」に掲載されたままの形です。(編集者)

 

「如是我聞」:五井先生の秘書・白光誌編集長・副理事長であった高橋英雄さんが記録なさった五井先生の語録。仏教のお経は「如是我聞」(私はお釈迦様からかくのごとく聞いた)という言葉で始まっているが、それを題名にしており、計3冊が白光出版から刊行されている。ここに掲載した以上の数多くの五井先生の珠玉の言葉が収録されている。

 

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【五井先生随聞記(1)】

「神人」第10号(2004年6月)より

 

一、わたしに免じて……

 

 昭和三十二、三年のことである。

 夫と二人で、五井先生のところに伺った。いつものようにお浄めをいただいたあと、彼は思いきったように申し上げた。

 「先生、私はどうも女難の相がありまして……」

 先生は笑いながら、フムフムとうなずかれた。

 前生の修行の反動とかで、彼はどうも女の人に弱いところがあった。(本人の承諾がすでにあるので、敢えて書きます)

 「いま、いくつ?」

と、先生がお訊(き)きになった。

 「はい、三十六歳です」

 「あゝ、それじゃもういいや。消してしまおう」

 パンパンパンパンパン、とたくさんの柏手で浄めて下さって、

 「ハイ、おめでとう……」

 というわけで、これで彼の云う"女難"は九分通り消え去ったのである。私にとって本当にありがたい日であった。

 それ以来というものは、宴会などに出ても一向に、女性が近づいて来ないから、さびしいくらいだと、彼は、五井先生のお浄めのすごさに感動していた。

 「イヤーァ、お浄め受けるのがチト早すぎたかな?」

 などと冗談云っては、私にニラまれていたのである。

 それから後に、もう一度だけ、女性に関する疑わしい問題が起こった。あとに残るイザコザは何もなかったけれど、彼はまた、先生にご報告して、お詫びした。(そういう隠しだてのないところが、彼のよさだと、私は思っております)

 その時の先生のお言葉、それは私にとって、一生忘れてはならないお言葉であった。

 先生は、私に向って、にこやかに、

 「わたしに免じて、赦してやって下さい」

 とおっしゃったのである。

 とっさに、私は深い意味がわからず、

 「ハイ」

 と答えて、"先生に免じて、でなくても、私はもう許してるんですけど"と、心の中で思っていた。

 ところが、そんな問題ではないのだと、三年くらいたってから、気がついた。

 実は、赦されたのは夫ではなく、私だったのではないか、と気づいたのである。

 多分、夫の浮気に悩まなければならない業を、持っていた私だったろうが、「五井先生に免じて」、つまり"五井先生のみ名を通して""五井先生の愛と赦しの光によって"、私自身が赦された、救われたのは私だった、と思い至ったとき、ハッとした。

 五井先生には直接、お礼を申し上げなかったけれど、心の中で、おくればせながら、五井先生に深く深く、感謝申し上げたのであった。

 今、思えば、赦されたということは、私の本心と私の肉体世界との流れを阻んでいた、何ものかが取り除かれた、ということなのだろう。

 

 

二、今だからよかった

 

 ある日、新田道場へ、Aさんといっしょに行った。Aさんはその頃、気難しい、病気のお姑さんのお世話で悩んでいた。

 日常生活に疲れ果てていたAさんは、ついに五井先生に申し上げた。

 「先生、私は申しわけないと思っても、どうしても姑のことが嫌いで、いやでたまらないんです」

 それをお聞きになった先生は、即座に、

 「私だって嫌いな人あるんだよ」

 とおっしゃって、にっこりとされた。

 Aさんは何だか、ホッと解放されたようで、気分が楽になった。

 それから数ヶ月たって、Aさんがお浄めを受けたときに、

 「今ね、あなたが苦労していることは、結局、娘たちのためになるのですよ。娘たちが結婚してから苦しまなくて済むからね」

 と励まして下さった。

 それからまた、お姑さんが亡くなる少し前になって、先生は、

 「あなたは前生で、ずいぶん借りがあったからね」

 と、さり気なく本当のことをおっしゃった。

 あとで、Aさんはつくづくと云っていた。

 「先生に初めから"前生の借りの分だ"と云われていたら、あのときの私はきっと、ペシャンコになっていたと思う。本当に今だからよかったのよ」

 五井先生の慈愛あふれるご指導を、また見せていただいたのであった。

 

※新田道場:JR市川駅から徒歩5分ほどの新田町にあった小さな道場。昔はここで毎日のように五井先生の個人指導が行なわれていた。敷地の門の前に「五井先生はここ」という札が掲げられていた。多いときには1日300人も来たことがあるという。さすがの五井先生も対応しきれなくなり、新田道場での個人指導は昭和43年に廃止された。新田道場は、市川市中国分に聖ヶ丘道場が建設されてしばらくして、閉鎖された。その聖ヶ丘道場も今は閉鎖され、白光真宏会の本部は富士朝霧高原の富士聖地に移っている。

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【五井先生随聞記(2)】

「神人」第11号(2004年7月)より

 

(1)

 「人間は感情想念を超えることだけに、一生をかけても決して惜しくはない。特に女性はネ」

 とおっしゃった。

 私はこの頃(昭和31)から、先生のおっしゃる通りに"消えてゆく姿で世界平和の祈り"の生き方を、一生涯つづけてゆこう、と決心しはじめた。

 

(2)

 「人間は、神界、霊界、幽界、肉体界を通して、神さまの光が流れてきている存在、と伺っていますが、一筋の光で神体、霊体、幽体、肉体と区別されるのは、どういうような状態なのでしょうか?」

 と質問したとき、先生は、ご自分の眼鏡を出して、少し動かして見せながら説明してくださった。

 「ほらネ、この眼鏡を考えるとよくわかるでしょ。同じ光がレンズの角度で違ったものに見えるでしょ。それと同じです」

 先生の眼鏡はかなり度(ど)が強くて、傾けて動かしてくださると、光の屈折の具合がよくわかった。私たちは肉体界に居ても、神界から真直ぐな光の一条が、中断することなく、ここに届いていることを確信した。

 

(3)

 五井先生のお母さまのご逝去のあと、先生がそのご昇天の様子を、じきじきにお話しくださった。

 「……どこまでもどこまでも高く昇ってね、マリヤ様と同じか、いやそれ以上に高いところだった。

 まじめで、正直で、律義なだけのただのおばあちゃんだったけどね、今ごろびっくりしているかもしれないよ」

 と、楽しそうにおっしゃった。私は思わず質問した。

 「お母さまは、そんなに高いところへ急にいらっしゃっても、戸惑ったりはなさらないのですか?」

 先生は笑いながらお答えになった。

 「人間はね、誰でも汚れ()さえ落とせば、もともとはみな神なんだから、光り輝いているんだからね、大丈夫です」

 考えれば、私もずいぶん失礼なことを申し上げたものです。(平身低頭)

 

(4)

 お浄めのお部屋に入ったとたん、いい香りの漂っていた日があった。

 やや強烈な香の花があるのか、と思ったが、それらしいものはない。香水をふりかけていそうな人は見当たらない。

 まさか、五井先生が女性の香水をおつけになるわけがない。

 「何だろう?」と思いつつ、その場を辞した。

 そのあとで、お浄めを受けに行った人が、

 「あら先生いやだ、女の人の香水なんかつけちゃって!」

 と申し上げたそうである。そうしたら

 「これはね、霊界の香(かお)りなんだよ」

 というお応えだったよし。

 その日は一日中、芳香がただよっていたという。

 それはお香(こう)とは全く違ったもの、ほのかな淡い香りというのでもなく、はっきりと強く花の香りに似たものであった。

 

(5)

 ある日、私は激しく咳きこんで、五井先生の前に出た。お浄めのとき、五井先生は合掌しておっしゃった。

 「ありがたいねエ、年(とし)をとってから咳が出るのはつらいからね、今のうちに消してくださるんだ、有難うございます」

 なんと、五井先生は私の代りに、私の守護霊さまに感謝を捧げてくださったのであった。

 私の咳は二十四歳から始まった。そのきっかけとなったのは、夫のもとへ遊びに見えたお酒の客が、徹夜で飲まれ、そのおもてなしで、ひいていた風邪をこじらせたことから、咳が止まらなくなった一件であった。

 それ以来、忠実に毎年、一年の半分を咳とともに暮すことになった。そのまっ最中の頃の話だったのである。

 「本当にありがとうございます」と云う私に、先生は一言(ひとこと)つけ加えてくださった。

 「咳が出ることが有難いんじゃないよ。咳が出ることによって業が出て、中がきれいになることが有難いんだよ」と。

 これは、前生(ぜんしょう)熱心なクリスチャンであったという私の傾向が、ともすれば受難礼賛におちいりかねない、とお思いになってのお諭しであったのだろう。私はこのお言葉をしっかりと受けとめさせていただいた。

 後日談となるが、この咳は私の七十一歳までつづいた。少し軽い年と、かなり激しい年とかはあったが、咳と縁切れになることはなかった。

 それでいて、健康診断のときにひっかかったことが一度もないのは、不思議なくらいである。五十年近くつき合った咳との暮らしも、ついに終りを告げることになった。

 ちょうどこちら(富士ヶ嶺)へ移る半年ほど前から、風邪をひいても咳があまり出なくなった。咳の出ない風邪は、なんと楽なものかと驚いたほどである。

 私は今、咳のない冬を有難く、楽しませていただいている。

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【五井先生随聞記(3)】

「神人」第12号(2004年8月)より

 

(6)

 「"自分は偉くなった"とか"われこそは"とか、想念にくるのは自惚(うぬぼ)れだね。

 自信というのは想いではなく、自分の中から、何だか知らないが、ひたひたと力強いものが湧き上ってくる……そういうものが自信なのです」

 

(7)

 「先生、地球が本当に平和になったら、そのあとはどういう状態になるのですか?」

 ある日、お伺いしてみた。

 「そうね、今のような国境というものがなくなって、人類はみな一つになります。そして地球全体が一つになって、神格の人による神権政治が行なわれる。今のような多数決ではない。一人一人の生き方もまるで変ってきます。

 言葉なんかも、いずれ、今のような言葉の使い方ではなく、言葉というよりひびきだね。たとえば音楽のようにひびきが通じあいます」

 「それから先はどうなるのですか?」

 「いろんな他の天体とも、自由に行き来ができるね」

 まだ何かいいたげな私に、先生は

 「もういいでしょ」とおっしゃった。

 「はい」と答えて、私は心の中で"そうでした。これから先は、全くの興味本位の私の発言です。すみません"と思っていた。

 

(8)

 「人間は星と同じ、とうかがいましたけれど、あまりよくわかりません」と申上げたことがあった。

 「アハハ……まだわからないよね。人間はこんな小さな肉体だけじゃない、ってことはわかるでしょ?」

 と先生はおっしゃった。

 「はい」

 「人間は、本当は神から分けられた光でしょ。星もそうなんです。だから一般社会でも、大人物が亡くなると"巨星墜(お)つ"なんて言いますね。一人ずつが星なんですよ。一人一人は地球と同じようなもんなんです」

 「ヘェッ、地球と?」

 「ハハハハ……いずれわかるからね」

 と面白そうにお笑いになった。

 

(9)

 私は、五井先生のみ教えにつながってからは、この道ひとすじと信じ、自信をもっているつもりであった。

 それなのに、クラス会など大勢の集まりに出席すると、自信がゆらぐわけでもないのに、「何故祈らなければならない?」「祈っていない人も充分幸福そうなのに、一体、どこが違うというの?」等々の想いがチラつくのである。

 そういう自分が不愉快でたまらなかった。

 そんな日の翌日、私は五井先生のところへとんでゆく。

 「先生、きのうは私、なんだか信仰心が変ったとは思わないのですが、ちょっとグラッとしました」

 と正直に申上げた。先生はニコッとして、

 「みんなそうなんだよ。あの長老たちだってグラッとするんだから、グラッとしないのは私だけ」

 とおっしゃってお浄めして下さった。

 

(10)

 「物ごとをしようとするとき、これは本心の意志か? 業想念ののぞみか? と考えると、わからなくなることがありますが、何によって判断すればよろしいのでしょうか?」

 とうかがってみた。

 五井先生は、ひょいと、ご自分の着物の袖(そで)口からお手を引っこめたり、また出したりしながらおっしゃった。

 「ほらね、これみたいに、業想念を上から被(かぶ)っている時でも、中には、ちゃんと本心がある。だから両方が全く別にあるものではなく、本心そのものか、本心の表面に業想念を被っているか、の違いだけです」

 

(11)

 「五井先生のみ教えが、なんとか、頭ではわかるようになったと思います」

 とある日、申上げた。

 いつものように、やさしくうなずいて「よかったね」とおっしゃってくださるかと思ったらとんでもない。

 「頭でなんてわかったって何にもなりやしない。体でわからなければ。体ではっきりと体得しなければ……」

 と、きびしいお言葉が返って来た。

 このお言葉が、私の一生を左右する大きな指針であったことを、今、心から感謝申し上げている。

 

(12)

 「バカならバカのまま、グスならグスのまま、そのままでいいから、それをさらけ出して、そして、それを一つずつ超(こ)えてゆけばよい」

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【五井先生随聞記(4)】

「神人」第13号(2004年9月)より

 

(13)

 むかし、統一会におけるある男性の発言に対して、五井先生がめずらしく一喝されたことがあった。

 その翌日のことである。新田道場のお浄めのお部屋から出ていらした先生が、つかつかと私の前に立たれた。午前十時のお祈りの直前だったので、誰も居合わせず、私一人だった。

 先生は笑顔で話しかけて下さった。

 「ねえ、人間の想いの習慣を変えようというのは大変なこと。例えばネ、水の流れを変えようとする時は、土手を造ったり、土嚢(のう)を積み上げたりして、水を堰きとめてから、別の方へ流すでしょ。ましてや人間の想念の流れを変えるのは、容易なことではない。大きな力がいるのです。だから私は叱るんですよ。

 私の"叱(しか)る""光(しか)る"だからね。相手にうんと光(しかり)を入れるんです」

 私はしっかり肝に銘じたのであった。

 

※五井先生は江戸ッ子で「し」「ひ」の区別がつかない。それで叱るが光るになったかもしれない。――高橋英雄注――

 

(14)

 「私は人間が好きだね。花や草木でも、動物たちでもみんな好きだし、自然はみな勿論、すぱらしくて好きだけど、人間ほど面白いものはない。人間は本当にすばらしい」

 

(15)

 「ああ神さまは公平だねえ。なんであの人が……と思ってみることもあるけれど、ズーッとよく見ると、やっぱりそうなんだねえ、神さまは実に公平だ」

 ある日のこと、まるで独り言のように話していらっしゃったことがある。

 

(16)

 世界平和の祈りが打ち出された時のことである。

 その頃の私は、自分の心をよく見つめると、世界のことより、自分と自分の周辺の平穏だけが念頭にあることに気づいた。

 頭では世界の平和の大切さがわかっているのに、感情は自分の域を脱していないことが情けなかった。

 「私は世界平和の祈りを、そらぞらしく、口先だけでしているような気がしますけれど、そんな状態でもお祈りつづけてよろしいものでしょうか?」

 と先生に質問した。

 「気持をこめていなくても、口先だけだと思ってもいいから、祈っていらっしゃい。そのうち自然に本気になってくるから」

 とおっしゃったが、そこには何か大きな強い広がりのようなものを私は感じ、安心して祈って行こうと思った。今では、

 "先生のおっしゃった通り、本当に本気になれました。本気どころか、今は、世界人類が平和でありますように、がすべてです"と私は五井先生に申し上げ、心から感謝申しあげている。

※五井先生が「世界平和の祈り」を提唱したのは昭和30年(1955年)。この年、宗教法人が設立された。

 

(17)

 五井先生のまわりには、いつも自然と人が大勢集まっていた。当時はまだ真理がほとんどわかっていない私たちなので、女性の中には、五井先生に憧れ、敬愛するあまり、まるで恋人に対するように、なれなれしい態度をとる人もあった。またそれを見て、むらむらと嫉妬心をかき立てられる人もあった。

 そんな日々の中で、あるとき五井先生は、少人数の集まりでおっしゃった。

 「わたしはね、全く自分が無いから済んでいるんですよ。いろんな人があるからね。純情で妖艶な人なんていうと、たいていの男はひっかかるだろうね。

 私はネ、時には川岸の草なんかにつかまって、流れに身をのり出して、流れてゆきそうな人を救い上げる――というような場面もある人です。捨て身だからね。そんなとき、私にちょっとでも私心があったら、一緒に川に流されてしまって、いのちはないのです。

 私はこの通りに生きているでしょ。だから絶対心配いりません。どんな女性が近づいてきても私は大丈夫です。

 大体ね、一人の人間を救えないようなら、世界を救うことは出来ないからね」

 

(18)

 先生のお賞(ほ)めの言葉について。

 「本人に向ってではなく、私が他の人に"あの人はいい人だね"って言うときは、それは本当なのです。

 本人に向って言うときは嘘かというと、決してそうではないが、励ましの気持が多分に入っている場合が多い。けれど私は無責任に賞めっ放しにはしない。必要があって一時賞め上げても、本人が錯覚して、あとで困るようなことにはしない。時を見て、必ず正しく受けとれるように納めておく」

 

(19)

 「何事も水の流れるようにサラサラと流しているのがいいね。たとえ善いことであっても、溜(た)めておかないで、すぐ流すのです。水でも溜めると淀むでしょ。そうすると汚れてくるんです。善いことも悪いことも、何もつかまないで、サラサラと生きることだね」

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【五井先生随聞記(5)】

「神人」第14号(2004年10月)より

 

(20)

 「この間、音楽会に行ってね」とエミール・ギレリスのピアノ演奏について、お話し下さったことがあった。

 ギレリスは弾いているうちに自分がなくなってしまう。先生がごらんになると、なんとリストが弾いていた。

 「私は感動して涙が出た。美しい女性がハンカチでそっと目頭をおさえる、なんていうのはいいものだけれど、私のは手拭だ。大の男が手拭でグシャグシャ涙をふいているなんぞは、サマにならないよね、ハハハ……」

 とお話しになった。

 

※エミール・ギレリス(1916年〜1985年):ソ連(現在ではウクライナ)オデッサ生まれの名ピアニスト。

 写真:http://www.jinmei.info/data/20041217001.html

 

(21)

 ある女性の方が「私は消えてゆく姿というのが何だか難しくて、なかなか出来ないんでございますけど……」と云い出されたことがあった。先生は、じっとその方を見てから、

 「そうね、あなたなんかは"神さま有難うございます"でもいいね。何があっても神さま有難うございます、と云えるようになればいい」

 とおっしゃった。はたでこれをお聞きした私は、いいことを伺った、そうだ、私も神さま有難うございますで行こう、その方がラクだ、と思った。

 ところが、それは誤算だった。数日後、何かがあった時、それに気づいたのである。神さま有難うございます、と言葉では云えないこともないが、その時の想念は、全くそれについて行けなかった。

 「あゝ過去世のものが今消えていった。消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように、神様有難うございます」という想いの経路を経て、はじめて有難くなれた。

 神様の大きな赦しである「消えてゆく姿で世界平和の祈り」というみ教えの重要さ、有難さが身にしみてわかった時であった。

 

(22)

 「自分がないのが一番いいね。自分の立場とか自分の面目とか、私なんかそんなもの何もないからね、ラクなもんだ」

 

(23)

 「"消えてゆく姿"というのは、自分に対して使うんです。人を責めるように"それが消えてゆく姿でしょ"などと使うものではない」

 

(24)

 「金星は地球の兄貴星。世界平和を祈っている人達というのは、金星が今の地球と同じような状態の時に、金星にいて、それを救うために働いた経験のある人達がほとんどです」

 

(25)

 「個性と性癖とは違う。性癖は業で消えてゆくもの。個性はあの世へ行ってもつづく魂の色あいと云える」

 

(26)

 「同じ会員と云っても、皆働き方が違う。人はそれぞれ個性が違うからである。おおまかに三通りある。

 祈ることによって世界平和に尽す人。

 人に話すことを主として世界平和に尽す人。

 行ないを通して世界平和に尽す人。

 誰でもこの三つを持っているのだが、その中で最も強く現われているものがある。それは人の働きのあり方である」

 

(27)

 「人って面白いもんでね。こうして見ていると、大きく働いていそうな人が、意外に敵が多くて大したことなく、目立たなくて一見、大した働きをしていないような人が、案外、敵もなくて影響力が大きい、ということもあるんです」

 

(28)

 「神経は先が細く鋭く、そして根元は図太くというのがよい。繊細ですぐにヘナヘナしてしまうようでは困るし、かといって鈍感で細やかさが何もないというのも困る」

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【五井先生随聞記(6)】

「神人」第15号(2004年11月)より

 

(29)

 木や花の精についてお話し下さったことがあった。

 「聖ヶ丘の庭を歩くと"ゴイセンセイ、オハヨウゴザイマス"という声が聞こえる。はじめは誰かな? と思って見廻わしたけど、誰もいない。よく見ると、それが小さな花たちなんです。とてもかわいい。花の精はいかにもその花らしいって感じでネ。だから私はいつも話しながら歩くんです。

 愛宕神社の大銀杏、それは樹齢四百年くらいで、銀杏の精は白い鬚の老人の姿が迎えてくれる。松の木はまたちょっと珍しくてネ、透き通った黄みどり色の衣冠束帯で現われます」

 

※愛宕神社の大銀杏:聖ヶ丘道場の近くの北国分町の神社にある銀杏の巨木。以下で写真を見ることができる。

 

http://seseragi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_2b5e.html

http://www.city.ichikawa.lg.jp/edu09/1321000001.html

 

 (30)

 「私は常識人です。家を空けて出る時は、必ずガスは閉めたか、電気はどうか、水道はしまっているか、戸締りは大丈夫か……と確かめます。不安なのではない。この世の生活としてそうするのが当り前でしょ。当り前のことを当り前にするのが大事です」

 

(31)

 「夫婦というものは、親子のような関係になってしまうと、うまくいくんだろうね。例えばあるうちの場合、完全に父と娘だからね」

 とあるとき先生はおっしゃった。聞いておられた村田正雄さんが殊更目をまん丸く、クリクリさせて云われた。

 「うちはお母さんですわあ」

 どっと笑いが起った。

 

※村田正雄さん:副理事長も務められた会の長老。霊能豊かな方で、『私の霊界通信』『霊界に行った子供達』(いずれも白光出版)などの著書が多数ある。

 

(32)

 映画館で"キング・オブ・キングス"の映画をご覧になった時のお話を、五井先生がして下さった。

 「あれはいい映画だったね。聖書に基づいて作った何本かの映画の中で、イエスさんのことが一番よく表れているように思うね。あの主演男優はイエスを演じるために生まれてきたような人だ。目がきれいだった。

 イエスさんがローマ兵に捕らわれて、後手に縛られてピラトの前に引き出されるシーンがあったでしょ。あの辺から本もののイエスが入ってきたんです。あの場面からガラリと変った。神の姿のイエスになった。

 はりつけのところでは、画面のイエスさんが、パーッと私に光を送ってよこした。私は観客席で大きく手を広げるわけにいかないから、こういうふうに(小さく両手をひろげて)それを受けたんです」

 私は吸いこまれるようにお話をうかがっていた。その時、夫が一言発した。彼はよく先生のお話に対して、漫才の相棒のように、すぐあいの手を入れる面白い癖があった。

 「先生、私はなぜかあの映画を見て頭が痛くなったんです。いっしょに見ていた家内のほうは何ともないのに!」

 先生はチラッと私の方に目を向けてから「それは、それだけのわけがある――」

 「エッ、それじゃわたしはユダだったのですか?」

 「いやいや、ユダじゃあないよ。ハハハ」

 と先生はお笑いになった。皆も彼の表情がおかしかったので笑い出された。

 何日かたってから彼は云った。

 「そうかあ、もしかしたらペテロだったのかなあ……」(これは少々アツカマシイ)

 真偽のほどは全く知りません。

 

"キング・オブ・キングス":1961年の映画。

 参考 http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=6055

 

(33)

 江戸時代にキリスト教禁止の際に行われた、という踏絵の話が出たことがある。

 「踏絵については、どう考えるべきでしょうか」という質問だったのであろう。先生は

 「そんなことで信仰心の深さなど測れるものではない。今の世の中では勿論あり得ないことだけど、もし私の写真が踏絵に使われたらどうします? そんな時は遠慮なく踏めばいい。私は痛くも痒(かゆ)くもない。踏まないで処刑なんかされたら、本人はいいとしても、家族はどうなるか。家族はやりきれないでしょ。堂々と踏んでおいて、あとで真理のために働けばいいでしょ。

 踏まないから信仰心が厚い。踏んだから信仰心が薄いかと云うと、そんなものではないんです」

 とお答えになった。

 

(34)

 ある日、元クリスチャンで、今も時々教会を訪れるという一人の法友が云った。

 「キリスト教では、人類の犯してきた様々な誤りをみんなで懺悔して、泣きながらおわびの祈りを神に捧げているけれど、私たちはそんな罪の許しを乞う祈り方はしなくていいのかしらね」

 この言葉は前生クリスチャン(五井先生のお言葉によると)である私には少々心にかかるものであったのだろう。c修(いくしゅう)庵で五井先生にお伺いしてみた。

 「先生、人類は今まで生き方を間違ってきたのでしょうか?」

 私はどこか悲しみを含んだ重い気持だった。

 先生は即座にキッパリとおっしゃった。

 「いいえ、人類は間違っていません。間違ったように見えるのは、人類の消えてゆく姿のほうでしょ」

 私は咄嵯に涙が出そうな感動を覚えた。

 「ハイ有難うございます」と最敬礼した。

 この「有難うございます」は、なんと、瞬間、人類の代表者になったような気分で、心から五井先生に感謝申し上げたのである。それは震えるほどの感謝であった。最高の幸せであった。

 

※c修庵:「c修」は、五井先生が紅卍会で「フーチ」によっていただいた道名で、「光をおさめた者」という意味だとうかがっている。c修庵は聖ヶ丘大道場の隣りにあった五井先生の個人的居宅。五井先生の個人指導や来客の応接に使われていた。五井先生は市川市八幡にご自宅があったが、晩年は人類の業のお浄めのために、c修庵の二階にこもりきりになり、「お床の中の男」になってしまわれた。

 なお、紅卍会のホームページには五井先生の名前が上げられている。http://www.jprss.org/enkaku.html

 高橋英雄さんが、個人誌『五井先生研究』No.99201111月号)に、紅卍会の開祖・呂洞賓について解説している。
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【五井先生随聞記(7)】

「神人」第16号(2004年12月)より

 

(35)

 五井先生はあるときおっしゃった。

 「悟りには漸得(ぜんとく)の悟りと頓得(とんとく)の悟りと、二通りあってネ、いっこう進歩なく、泥沼の中を這いまわるような心境でいた人が、何か大きな出来事に直面すると、それをきっかけにして、急に目が覚めたように悟りを開くことがある。一気に数段をとび上るような悟り方、これを頓得の悟りというんです。

 漸得の悟りというのはネ、一つ一つ体験して行って、小さな悟りをたくさん積み重ねて、やがて大きな真の悟り(大悟)に至る、というものです。あなたの場合は漸得の悟りだね、一つずつ悟って行きます」

 私は「ハイ」とお答えしたものの、内心はちょっとつまらない気がした。

 「頓得の方がドラマチックでいいのにな」

 と思ってしまったのである。

 ところが、今になってつくづく思う。

 "とんでもないこと、私は漸得の悟りのタイプでよかったな"と。そして五井先生のお写真に向って、

 「五井先生、私には漸得の悟りでも、ここまでくるのにさえ充分すぎるほどドラマチックでした」と申し上げているのである。

 一つ一つの体験が、私の魂にとって、いかに尊いことか、またそれらを精一杯のりこえた時のよろこびが、いかに大きいものか、身にしみて感じている。

 このよろこびは、何ものにも代えられない深い幸福感、充足感といえるものであると思う。

 "これからも、私はまっすぐに、この道を進んで行こう、あの世とこの世の境目なく、ひたすら真直ぐに、ゆったりと進ませていただこう"と、よろこびと感謝とともに、心深く思っている。

 

(36)

 ある寒い夜のこと。
 「今から先生がお帰りになります。お車お願いします」

 といつものように聖ヶ丘から、土肥さんがお使いとして走って来られた。私はすぐタクシー会社に電話してから、手近かにあったコートをひっかけて外へと出た。外は思ったより風が強くて冷えこみの激しい晩だった。

 林の入り口で、五井先生のご一行をお待ちして、姑と私は立っていた。

 近くの家々の窓からは、温かそうな灯りが洩れていた。きっと夕食後の団らんのときなのだろうと、ほほえましく眺めていたが、佇(た)っているだけで、コートを通して寒さが肌につきささるし、ポケットに人れた両手がこごえそうになってくるのであった。

 タクシーが到着しても、五井先生ご一行のお姿はなかった。そのうち、みぞれまじりの雨まで降りはじめたのである。

 十分ほども経った頃だろうか、ようやく、林の向うに小さな懐中電灯の灯が見えて、やがてそれが揺れながら近づいてきた。

 五井先生は、息づかいもただならぬ当時の昌美先生を抱えるようにして、坂道をゆっくりゆっくり、上っていらっしゃった。

 世の人々が何も知らず、温かく過しているであろうこの寒い晩に、世界を救う大神業に立たれる五井先生と昌美先生が、こういうお姿で雨の中をお歩きになって……と思うと、私は胸がいっぱいになった。

 五井先生は「疲労困憊(こんぱい)」とおっしゃって、それでも私たちに笑顔で会釈なさり、車にお乗りになった。遠去ってゆくお車の赤いテールランプが涙でかすんでしまった。

 この光景を目のあたりにしたのは、今ではもう私だけになっている。(あとの方々はもうこの世におられない)

 私はこの晩のことを、必ず後の人々にお話しよう、五井先生方のお姿をお伝えしなければならない、と、この時、固く心に決めたのだった。

 

※土肥さん:会の職員。聖ヶ丘道場のすぐそばに住んでいた。

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      白光首都圏      【清水勇著『ある日の五井先生』】