日本の政治と作戦を動かした三人の上等兵
東條英機大将・後宮淳大将・冨永恭次中将の三人に対して、参謀本部の若い参謀は上等兵と悪口をいっていた。(陰でしか言えません)
肉弾戦だの精神論だの作戦とも思えない言論
がしばしば口にし、士官学校で常識ある作戦行動を勉強してきた若い人たちには          .
バカバカしいと言うかやりきれなかったのでしょう。                                                          


竹槍さわぎ

荒木貞夫大将 陸相時代「武器が無ければ、竹槍で戦う」と演説し、竹槍将軍と人気であった。日中戦争当時の近衛内閣文部大臣であった。
東條英樹大将 毎日新聞社の新名丈夫記者が「竹槍でB29は落とすことができない」と批判したのに激怒し懲罰召集入営させ、毎日新聞社に弾圧を加えた。
冨永恭次中将 太平洋戦争のはじまる直前、兵務局長田中隆吉少将が装備の不足を訴えたとき、当時人事局長冨永中将は「竹槍でやるのだ」と強く一蹴りした。その後、第四航空軍司令官として特攻推進


特攻は特別な攻撃ではない

後宮 淳 大将 最も確実なのは体当たりであり、戦法として命令したい「体当たりは歩兵で言えば白兵突撃であり特別なものでない」航空総監になる

部下より砲弾が大切だ

花谷 正 中将
第55師団長
102連隊第5中隊岡崎少尉が突入に山砲援護20発要求した時、「もったいなくて弾はやれんよ、おまえと山砲の弾とどちらが大切だと思う夜襲が怖いのだろう」といわれ、岡崎少尉が「鉄条網が幾重にもありムリです」すると「貴様腹を切れ」強要した。

国力=戦力ではない (将軍じゃないけどおまけ)

櫛田 正夫 大佐
大本営14課長(物資)
「国力=戦力ではない。アメリカは連合軍の総合兵站であり、対独戦の英仏ソ連などの後方支援をしている。また中国の支援も必要となり、対日戦にどれだけ使用し得るか限界が有る。戦力とは物質戦力の他、無形の戦力があり、中国戦ではわが軍1個大隊が中国軍1個師を撃破している事は先般承知のうえ、要は要所要点に敵に勝る戦力を集中することで、戦勝の戸は開かれる。」と言い切った 
ビルマで戦う日本軍は連合軍の戦車兵団を予想もしないで対戦車戦闘の火器も用意しないで、あるものは皇軍必勝の信念だけだった。

補給が大事    (君が言うからおもしろい)

牟田口 廉也 中将
第15軍司令官
2月 7日 祭師団に牟田口軍司令官と橋本防衛参謀(35)が準備状況視察に来訪した。
 軍司令官のため炊事場の整理を念入りに献立材料も良くしたが、残飯が捨てて有ったのを 牟田口軍司令官が見つけ「いまや、作戦を開始使用としておる。この作戦の最大の問題は補給である。米一粒といえど貴重になるこのように残飯を捨ててかえりみない心がけでは戦を勝ち抜くことはできない」
   
感状を燃やした参謀(将軍じゃないけどおまけ)

辻 政信 大佐
 第33軍 参謀
第33軍参謀の辻大佐は断作戦終了後、印支ルートの啓開を許した以上、その任務は終り、33軍は持久正面を第56師団で任務達成は可能であり、主戦場になる第15軍に配属を軍司令官に願い出た。
軍司令官は「15軍司令官の立場では作戦が成功すれば辻の力だと言われ、失敗すれば自分の責任になる。感状を貰ってねたまれもする。君を第15軍に配属するのは絶対反対だ。」と受け入れられなかった。
「軍司令官には俺の気持ちがわかって貰えなかった。」とうかない顔で方面軍司令官から貰ってきたばかりの断作戦で活躍した時の個人感状にライターで火を付けて燃やしてしまい、「ご用の方は適宜捺印して下さい。辻参謀」と張り上に書き印鑑を乗せて、自室に毛布をかぶってサボタージにでた。山本参謀長がなかに入り司令官を説得し辻参謀の希望通り15軍に転属で解決した。
山本参謀長は涙を流して「君はおそらく戦死するだろうが、俺はあれを(感状)遺族に渡してやりたかった」と叱りつけた。辻参謀も涙を浮かべて頭を垂れ神妙に聞き入っていた。
辻 政信 大佐
 第33軍 参謀
現状を見ずただ強気の田中方面軍参謀長がサジの第33軍戦闘指揮所に訪れたとき、戦況説明を演出し、見方の機関銃二ちょうを説明の最高潮のとき参謀長の頭上に実弾を撃ち込ませた。
辻参謀が「敵戦車一両破壊するに砲一門と兵50人が必要で敵戦車200輌で・・・・」の説明最中に司令部に機関銃が撃ち込まれた。「参謀長危ない伏せて下さい。敵が侵入したようです」と戦場の厳しさをアピールし、田中参謀長から「33軍は現地点で敵を阻止、15軍の撤退を掩護されたい」と33軍は攻勢から守勢に作戦変更させた。
辻 政信 大佐
 第33軍 参謀
菊司令部がバーモまで撤退し、ジャングルの中に張った天幕の司令に、突電一人の中国兵が突撃してきた。
中には田中師団長・辻軍参謀・山崎第55連隊長・師団参謀が数名いた。中国兵は銃剣をかざし、突撃してきた。
辻軍参謀は本能敵に身をかわし転がっり、他の幕僚も身を引いた球咲き連隊長の後にいた伊藤上等兵が持ち合わせ
ていたスコップで一撃し事無く済んだが、撲殺された中国兵に胸ボケットから母の手紙が出てきた。その手紙に
は「母の事は心配せず、卑怯な振る舞いをせず男らしく立派に戦え」と書いてあった。 辻軍参謀がそれを読み
て感動し、蒋介石総統に出来事をいちじゅうしじゅうを手紙をかき撤退する道路の目の付きやすい位置に置いた。
これが蒋介石に届いた。終戦後、参謀や将軍が戦犯容疑で連合軍から狙われているとき、辻参謀は金塊とキニ
ーネを懐に、タイの山中に逃げ僧衣に化けカンボジヤラオスから中国重慶まで来たときに蒋介石から手紙の一件を
聞かされ、軍事顧問の様な事をしながら、復員船を蒋介石の保護を受けて日本に帰った。

  率先模範の司令官水中で落馬

本多 政材 中将
第33軍司令官
敵の機甲師団がシッタンに着く前に、シッタンに昼夜兼行で急行してるとき、先頭の第18師団がシュエジン河(幅約100m)が雨のため増水し渡河にてまどい後続部隊が渋滞し、さらに敵が砲撃を打ち込み大混乱してるとき。
本多司令官は幕僚を従え部隊をかき分け先頭にたち、自ら乗馬のまんま河中に乗り込んだが中流で落馬し全身ビショ濡れの濡れ鼠になったが、軍司令官の勇敢な率先垂範は志気奮い立たせた危機を救った。

創られた軍神 

加藤 建夫 中佐
飛行第64戦隊長(士37)
北海道出身
 日華事変やモノンハンでは敵機を10機撃墜している。太平洋戦争が始まり、海軍の真珠湾に突入し特殊潜航艇五隻の搭乗員を「九軍神」と宣伝した。ところが陸軍にはまだ一人の軍神も現れない。陸軍は開戦半年当たりで対抗上軍神を出す必要があった。日ロ戦争の橘中佐のような、大隊長クラスで若人の心をつかむ為には先端の兵科が望ましく飛行科の格好良い戦闘機乗りの飛行第64戦隊長加藤中佐が選ばれた。
最新の隼(1式戦闘機)を持つのは飛行第64戦隊と第59戦隊だけであった。太平洋戦で加藤中佐が、撃墜した敵は8機で、敵戦闘機の撃墜スコアーを誇り合うことを禁じ個人プレーを排し、部隊全体のスコアーにした。
加藤中佐が戦死する一ヶ月前に30機撃墜(5位)黒江保彦(のちに少佐)が飛行第64戦隊に入っている。
   加藤中佐は昭和17年5月10日市の防空のため1個中隊(12機)でアキャブに進出した。5月22日午後2時ころ英軍のブレニム双発爆撃機1機が低空で攻撃してきため、加藤中佐含む4機の隼がスクランブルし、4機が後方から12.7ミリ機銃を撃ったが、ブレニム双発爆撃機の後方射手に1番機2番機が損傷を受け、更に3番機(加藤中佐)中央部から火を噴き海面付近で宙返りし水しぶきを上げベンガル湾に落ちた。部下達は海面をグルグル回り隊長を探したが見つからなかった。敵のブレニム双発爆撃機はカルカッタに帰投した。軍神にふさわしくない最後であった。戦死から8日後5月30日南方軍総司令官から感状を与えられ軍神にされた。
   「加藤隼戦闘隊」は飛行第64戦隊の隊員が部隊歌として作詞し陸軍軍楽隊が作曲した。昭和19年3月東宝(山本嘉次郎監督)「加藤隼戦闘隊」上映された。

抗命撤退の師団長
佐藤幸徳 中将 (25)
 山形県出身
 
31師団長に親補

 それまで、ソ満国境の守備隊や、モノンハンで大隊ほどに細った師団の歩兵団長や、急造師団の兵務部長など陽当たりの悪いところを廻っていた。
 183
31師団長に親補され意気揚々ビルマに乗り込んで来た。大きな体格に面貌は自分自身も戦国武将の再来と思いこんでいた単純な思想とがさつな性格であった。
 する話は自慢話ばかりで良く笑い自分に惚れ込んでいた。唯我主義で自信にみちており、糞を踏んづけても自分の不注意とは思わず失敗は全て他の責任で自分には一切の責任はないと、言った陽気さがあった。

 インパール作戦のとき
46日コヒマまで占領したが補給が無く敵が空からの補給援軍が来る中を四個師団の敵と戦っていた。
 
524日に食も弾薬も無く、撤退を打診したが
    佐藤「兵団は戦うにも食はなく、武器弾薬も消耗し尽くした。六月一日までにコヒマを撤       退し、補給を受けられる地点まで移動する。」
   牟田口「補給困難を理由にコヒマを放棄とは何事か。十日間は死守せよ。」
    佐藤「撤退を認めぬなら、全員自滅する」
   牟田口「烈は六月八日までに祭と交替シ、サンジヤックの西方へ展開完了後インパールを攻       撃せよ」
 佐藤は、健康体でも20日はかかるのに餓死寸前の上一週間でいけとは何事か。
        抗命撤退を決意した。
7月9日にタナン・ミンタに師団は集結したが、佐藤はビルマ方面軍司令部付きに転属になった。
 佐藤を抗命罪で軍法会議にかけるはずであったが、敗戦の軍法会議でさらけ出るのを恐れた将官達の工作により不起訴になり、1122日予備役となりましたが、内地に帰したら都合が悪いためジャワ第16軍付きとされた。復員後東京に住み34265才で亡くなりました。


将軍でも馬鹿野郎呼ばわり
片倉 衷 大佐
ビルマ方面軍高級参謀
 板垣征四郎大佐・石原完爾中佐・花谷正少佐・片倉衷大尉らが満州事変を画策し実現させ関東軍を暴走させた首謀者であり、関東軍を支配していた。 一大尉の片倉の一言は関東軍の確定的意志として実行された。
 相手かまはず、大声で叱りつけののしるので有名で、牟田口司令官がインパール進攻計画実施要求にきたときも「牟田口の馬鹿野郎が」と参謀に反対意見を伝えさせた。
 激しい性格は嫌われ政治的に動きすぎ作戦指導の妨げにもなった。