
ビデオドローム
ここまで異常な映画をフィルムで撮影してしまったというだけで奇跡だ。クローネンバーグの狂ったイメージを映像としてフィルムに焼き付けただけの行為。
よく言われるクローネンバーグの哲学とかしゃかいへのメッセージ、文明への警鐘なんてものは後から考えた言い訳に過ぎない。ストーリーさえも余計なものでしかない。
異常で病的なイメージの羅列、それ以上でも以下でもない。
まるで生物のように蠢き、血管を浮き上がらせるテレビ、膨張するブラウン管、突然腹に現れる女性性器、ベトベトと粘液を滴らせながら喘ぎ声をあげるビデオテープ、ピストルから触手が生え、腕に突き刺さる。頭が割れ、中から脳みそが虫のようにモゾモゾ動きながら外へと這い出す。
ヤク中でも思いつけないほどの狂いまくりぶっ飛んだグロテスクの極地。
こうした悪夢を映像化することだけがクローネンバーグの目的であったと俺は断言する。彼は病気なのだ。
自分の中に生まれた悪夢をなんとか形にしないことには気が狂ってしまうのだろう。
彼が正気を保つための手段として、この映画は生み出されたのだ
そして、だからこそこの映画が他にはどこにもないオリジナリティを持ち、消えないトラウマのようにホラー映画の歴史にその存在を刻み続けるのだ。
俺、大好きだよこの映画。
しかし、こんな映画の撮影が可能なカナダって国はすごいな。
アメリカじゃ絶対無理だと思う。
と、ここまでがブログにアップした記事。
しかし思い入れの大きい作品であるにも関わらず淡白すぎる内容なので後で改めてもっと記事を書き足していこうかと思います。
と、いうわけで新しく「ビデオドローム」について書き足してみました。
以下が新規に書いたテキストです。
危険映像
ビデオというメディアが普及する以前。
一般的にはまだまだビデオデッキを所有する家庭は少なかった80年代初期。
この新しいメディアに早くから注目していたのはアニメマニア(当時はまだオタクという言葉はなかった)とSF、ホラームービーマニアだった。
アニメマニアはテレビで放映されるアニメ番組を保存するツールとして、ホラーマニアは日本では未公開の海外のホラー映画のビデオを輸入して鑑賞するために、当時は高価だったビデオデッキを購入していた。
ビデオが普及する以前、日本では見ることは出来ないが海外からその評判が伝わってきた「伝説のホラー映画」というものがあったのだ。
雑誌「スターログ」や「宇宙船」などでその存在を紹介されたホラーファンはそうした未公開の、しかし相当にマニアックなホラー映画を見ることを渇望していた。
ビデオデッキを購入し、海外からそれら噂のホラービデオを輸入しては、当時はまだ市民権を得ていなかったホラーといういかがわしい映画を鑑賞していたのだった。
そうしたアンダーグラウンドで、鑑賞することになにやら引け目のようなものを感じてしまう密かなる楽しみ、ホラービデオの輸入、鑑賞。
そうした輸入ホラービデオマニアの間でもっとも話題になったビデオは、当時日本ではまだ無名だった監督、デビッド・クローネンバーグの「ビデオドローム」だった。
この映画はまさにホラービデオマニアの姿そのもののような内容だった。
アンダーグラウンドで背徳的な映像鑑賞にぴったりの作品であり、また日本で未公開、ビデオを輸入するより他、鑑賞することが出来ない、日の当たらない闇の中に浮かぶビデオテープという趣があった。
ビデオという得体の知れないいかがわしい代物にたっぷりと詰まった異常な映像。
それが「ビデオドローム」だった。
粘液に塗れたビデオテープ、女性のバストのように膨らんでいくブラウン管、映像を見ているうちに腹が裂け、女性器ヴァギナそっくりになりパクパクと開閉する・・・・・・。
映像を鑑賞する行為と変態性欲を混在させてしまったかのようなダイレクトな映像。
映像鑑賞ツールが性器へと変容していく夢想。
それはホラービデオの鑑賞がある種の変態性欲の実践であるかのように感じていた当時のホラーマニアの心情と見事にシンクロした危ない映像であった。
「ビデオドローム」においてクローネンバーグが語ろうとした哲学的テーマについて自分は語る気は無い。
そんな難しいこと俺にわかるわけも無いし、もっと頭のいい人がいままで散々書いてきたことだ。
自分は「ビデオドローム」がビデオが普及する以前の、まだまだアングラな時代を象徴する危険映像であったことをこそ特筆したい。
ホラーのニューウェーブだったビデオドローム
ホラーが80年代初頭におおいにセンセーショナルでムーブメントを形成したジャンルであったのは、その当時はホラーは間違いなく「危険」なものであり、しかし他には無い刺激的なメディアであったからだ。
血や内臓を画面に映すという行為は異常で危ないものだった。
だからこそ「13日の金曜日」のような、ただ残酷な殺人場面が並んでいるだけでほとんど内容の無い作品であったとしても、そこには「やってはいけないことをあえてやる」といった反体制的な表現におけるアナキズムがあり、そこにこそ意義が見られたのだ。
自分はホラー映画を、音楽に例えるとパンクロックであると考えている。
既成の価値観の破壊行為であり、刺激と衝撃を与えることをこそ目的とした表現手段。
それが80年代のホラー映画、とりわけスプラッター映画の目的としてきたことだったと思う。
が、セックスピストルズがぶちあげたパンクというお祭りが、その後多くのフォロワー、モノマネを生み出してきたことによりパンクは一般化し、パンクが当初目的としていた既成の価値観の破壊、アナキズムという理念は形骸化しポピュラーなものと成り果てる。
ホラーもパンクと同じ道を辿る。
続々と続編が作られる「13日の金曜日」や、そのフォロワーと言える数多くのスプラッター映画は観客に恐怖と戦慄をもたらすのではなく、気軽に楽しめる娯楽へと変容していった。
そんな中、パンク、そしてホラーが本来持っていた革新性と衝撃を実践するには新たな手段が模索されていった。
そんな中で音楽はパンクからさらにマニアックで歪んだ暗い音楽を実践するジョイ・ディビジョンを筆頭とするニューウェーブ、パンクの衝撃、破壊性を徹底的に追及したディスチャージがその始祖となるハードコア・パンクへと進化していくのだが、ホラーもまたパンクと同様の進化へと歩みを進めることとなる。
スプラッターを極限まで推し進めたハードコア・ホラーと呼べるものが「死霊のはらわた」であり、暗く歪んだ妄想を映像化していくニューウェーブ的進化を果たしたのが「ビデオドローム」である。
「死霊のはらわた」がディスチャージであり、「ビデオドローム」がジョイ・ディビジョンだったのだ。
「死霊のはらわた」、「ビデオドローム」というこの趣が異なる2本の映画は形骸化へと進んでいくホラーに対する新たな道を示唆した革命的作品である。
ホラーはこの2本により息を吹き返したが、ハードコア・パンクにおいてはディスチャージがニューウェーブにおいてはジョイ・ディビジョンが、今なお超えるものの無い頂点に位置するバンドであるのと同じように「死霊のはらわた」、「ビデオドローム」を越える作品はまだ現れていないと言える。
「死霊のはらわた」は多くのフォロワーを生み出すものの、「ビデオドローム」において表現された感覚を引き継いで新たに作り上げようとした映画は無い。
唯一、クローネンバーグ自身が「ビデオドローム」のニュースタイルを目指して「イグジステンズ」を撮るにもかかわらず失敗している。
「ビデオドローム」はクローネンバーグ自身さえも超えられない壁だった。
内臓映画
80年代ホラーでは血を散々見せつけたスプラッターが飽きられてくると、血よりももっと刺激の強いものを模索し始める。
そこで目をつけられたのが「内臓」だった。
「内臓」がぶちまけられる様を観客に見せつける映像ショックがにわかに注目される。
60年代に内臓をばんばん画面にぶちまけたハーシェル・ゴードン・ルイスの激安ゴア・ムービーがにわかに注目され掘り返されてホラーファンの話題を集めることなったのにもこうした背景がある。
血が駄目なら「内臓」
この安易な発想が、しかし実際効果的でもあった。
「内臓」を見せるという異常で変質的な行為はホラー映画においてはしばらく有効に働いた。
この「内臓」を見ることから得られる生理的嫌悪感を直接的にではなく、感覚そのものを映画全編に漂わせるという手法をクローネンバーグは実践した。
それは彼の処女作「シーバース」においても顕著であったが、その「内臓感覚」の到達点が「ビデオドローム」である。
「ビデオドローム」では直接的にではなく、間接的に「内臓」を連想させるアイテムが散りばめられている。
粘液に塗れた、悩ましく呼吸する「生きているビデオテープ」
膨張し、これまた悩ましく喘ぐテレビのブラウン管。
そのテレビの両脇には血管が走り脈打つ。
主人公である、アングラテレビ局の社長、マックス・レンの腹にはヴァギナ状の裂け目があらわれ、ひくひくと蠢く。
マックス・レンの拳銃はドロドロと半分溶解し、銃を握るマックスの手と一体化していき、表面に血管を走らせた生きている銃と化す。
マックス・レンに銃口を向ける生きているテレビ、なにか皮膜のような血管の浮いたブラウン管が、その内側から銃で押し出され伸びていく。
そうした本来「内臓」とはかけ離れた無機物であるはずのものが次々と「内臓化」していく。
無機物と有機物の境界が失われ、世界全体が「内臓」へと変容していく果てに、ついに内臓が直接的にぶちまけられる。
マックス・レンは妄想の果てに「映像を媒介にした世界の内臓化」をもくろむスペクタキュラー・オプティカル社の社長の頭を「生きている銃」でぶち抜く。
スペクタキュラー社の社長コンベックはもんどりうって倒れるが、その死に様は銃で撃たれたもののそれではない。
なんと銃で撃たれたコンベックの頭がバリバリと裂け、中から脳髄がまるで芋虫のように蠢きながら這いずり出てくる。
絶叫をあげるコンベックとその頭から這いずり出る脳髄という「内臓」
もはやその脳はコンベックの1部ではなく、それ自体が意思を持つ別の生き物と化していた。
世界が内臓によって支配されていたことを示唆する衝撃的シーンである。
ラスト、廃墟の中で「生きているテレビ」に銃を向け打ち抜くマックス・レン。
砕けたブラウン管の中から溢れ出したのはおびただしい量の「内臓」の山だった。
そして自殺を(あるいは新人類ビデオ人間としての再生)を決意したマックス・レンは自らの頭に銃口を向け引き金を引く。
その後、マックスの頭から溢れ出したのは果たして虫のように這いずり回る「生きている脳」だったのか?
明らかにされないまま映画は銃声とともにブラックアウトする。
「ビデオドローム」は映画全体にじわじわと「内臓感覚」を漂わせ、最後には直接的に内臓を山のようにぶちまける究極の「内臓映画」だった。
物体Xとの共通点
クローネンバーグが「テクノロジー、あるいは医学に対し、肉体が反逆する」というテーマにこだわっていた。
彼の追求したテーマの到達点が「ビデオドローム」である。
テクノロジーにより発達した映像メディアによって肉体が変容していく。
それはテクノロジーが肉体を支配するのではなく、作用と反作用のように肉体がテクノロジーから受けた付加を、変容することによって押し返しているもののように見える。
クローネンバーグ自身はテクノロジーよりも、肉体のほうに信頼を寄せているらしく「シーバース」や「ビデオドローム」で見られたテクノロジーに逆らい変容していく肉体を肯定的に捕らえているらしい。
「一見悲劇に見えるがそれは新たな進化の始まりなんだよ」
「シーバース」や「ビデオドローム」のラストについてクローネンバーグはそう答えている。
実際見ているほうは、そんなクローネンバーグの楽観は伝わってこないのだが・・・・。
しかし、クローネンバーグは肉体の変容、あるいは肉を持たないものが肉化していくというビジョンには大いに関心があるということはわかる。
自分は「ビデオドローム」を、自分の最も愛する映画、ジョン・カーペンターの「遊星からの物体X」と同じビジョンを持った作品だと思っている。
「内臓」を見せることによる視覚的なショッキング描写と、肉体の変容を追及したという点でこの2作品は共通している。
「物体X」では犬が内臓まみれのドッグシングへと変容していったのに対し「ビデオドローム」ではテレビが「物体X」に取り付かれたのだ。
また無機物が肉化していくという悪夢めいたビジョンは漫画家・諸星大二郎のデビュー短編「生物都市」を連想させる。
時期的にはカーペンターの「物体X」、「ビデオドローム」より先に書かれた「生物都市」は宇宙から飛来したウィルスにより金属が全て肉化し生物へと変容していくというおぞましい情景が描かれている。
当然、その肉化した生物は内蔵めいている。
無機物の肉化は「ビデオドローム」と、さらに肉化した金属に触れた人間はその生物に取り込まれてしまうというビジョンは「物体X」(あるいはロメロのゾンビ)と酷似しており「生物都市」のラストではやはり「人類の新たな進化」が示唆されて終わる点など「ビデオドローム」との共通点が多く見出され、「ビデオドローム」は「生物都市」を発想の元としたのではないだろうかと勘ぐってしまうほどだ。
「物体X」、「ビデオドローム」、そして「生物都市」はあらゆるものが肉化、内臓へと変質していくというおぞましさと同時に、ある種の官能を感じさせる。
それぞれの作品が具現化した内臓ビジョンは、なぜだか非常に快感なのである。
まだ書き足りない気がするのですが今回はここまで。