die pratze dance festival 2007
ダンスがみたい!9<新人シリーズ5>
新人賞・オーディエンス賞と舞台評
 日 時:2007年1月6日〜1月21日
 場 所:東京・神楽坂ディプラッツ
 主 催:ディプラッツ
 年1回の新人コンペで、多くのコンテンポラリーダンス、舞踏などの作品から、ビデオ審査によって36本が上演・審査された。出演者のうち「新人賞」と「オーディエンス賞」の受賞者は、夏に神楽坂と麻布のディプラッツで開催されるダンスフェスティバル「ダンスがみたい!9」に出演できる。
 新人賞選考委員:志賀信夫、西田留美可、坂口勝彦、竹重伸一
 オーディエンス賞:シリーズの通し券を持つ観客の投票
 http://www.geocities.jp/azabubu/
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新人賞
玉内集子「それぐらい、本当にちょっとのこと」


オーディエンス賞
shoppin'gocart「FICTIONS」


新人賞選考経過:最初の投票で、関かおり・木村美那子「だんだら」と玉内集子「それぐらい、本当にちょっとのこと」が同数、井上大輔×辻田暁「Hinata」が次点であり、上位二者について再投票の上、協議した結果、玉内集子に決定した。
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舞台評
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舞台評:志賀信夫、西田留美可、坂口勝彦、竹重伸一(以上選考委員)
      村岡秀弥、吉田悠樹彦、宮田徹也
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★Aグループ:1/6

ハクとオグ「水際の再会」


●毛皮を着たハクが、まだ劇場の薄暗さに目が慣れない観客の心境に寄り添うような、軽いおしゃべりを始める。中盤白塗りをじっくり見せてから本編が開始される。本編の踊りは今後さらに力を入れて充実させていくのだろうが、今回試みた軽いおしゃべりの全体の中での心持ちの配分、あるいは心意気の切り替えについて、もっといくつかの角度から到達度を検討してみても良いのでは、と感じた。根が真面目な人なのだろうと思わせる照れのようなものが見えたからだ。しかしそれは、普通の人(客席側の人)がうっかり舞台に出たみたいな味を醸し出していたのかもしれない。(西田)
●客入れなのか前説なのか、フワフワのコートのハクが客に向かって話しつづけている。たわいない話がいつ終わるのだろう、そして作品はどのようにいつ始まるのだろう、作品とその外部とはどのように区別されるのだろう、そんな不思議な期待が高まる頃、彼は無口になり白塗りを始める。そう、白塗りが内と外とを区別するのだ。無口なオグも登場。ハクは、舞台の前面のすみにある柱をノコギリで切り始めた・・・よく見たら事前に板が張ってあったので会場が崩壊することもなく、それならふたりはその強靱な肉体で何を見せるのだろうと期待していると、ひとりがひとりの上に乗った。前振りの長さに比べると、それはあっという間に過ぎ去った。(坂口)
●アイデア中心の一発勝負的な作品だ。冒頭からすかすことをねらったのかハクが客に話しかける。しかし内輪受けのようで笑いが今一歩機能していない。かとおもえば、神楽坂die pratzeの黒い柱を切ろうとする。これでホンモノの柱を切って見せたらホントに凄かった。客の前で白塗りのメイクを塗るシーンだけで十分に作品に使えるので構成を中心に作品を大きく練り直すことが重要だ。(吉田)
●観客席で化粧しながらのハクの語り、笑いを取りたいが取れないため、ちょっと中途半端に見える。そして舞台に上がっても大きくは動かない。ただ下手中央あたりでオグが光を浴びて立つところ、上手手前でハクが着ているコートを羽ばたくようにして輝くところが、印象的だ。途中で柱を切るパフォーマンスは偽とわかっていても、それなりにインパクトがある。大駱駝艦系の男2人だが、こういう挑戦はもっとやってほしい。(志賀)
●真剣に観ようという気持ちを失わせる上演行為(作品?)だ。と言って、ごく気軽に、お笑い芸を観るような気持ちで楽しめばよいものになっているのかというと、そうでもない。白々とした気分だけが漂う。(村岡)


三木美智代「溺れる記憶」


●女性のソロ。戦前にドイツで活躍した表現舞踊のヴァレスカ・ゲルトは女性の主張をメッセージとして込めた作家だった。三木の作品ではイデオロギーのベクトルが外面ではなく内面に向けられている印象がどうしてもある。シーンとして作品の主題として持たせられそうなシーンがいくつもあるのだが、それらを十分に構成してみせることが重要だ。ジェンダーポリティクスまではいかないが濃密に女性性を前に打ち出しても評価を受けそうな作家であり、故に作品の部分部分が整理されていないことが残念だったともいえる。舞台経験を重ねて大きく羽ばたいて欲しい。(吉田)
●体の一部が勝手に動いてしまう、というパントマイムの作品で見かけるテーマを、自分なりに展開させようと試みたのだろうか。強い感情を見せる表情や叫び声など、勝手に体が動くということとコンタクトしている内面を映し出す表現をコラージュしていた。強い表現は、熱演として強く痕跡を残すものになることもあれば、わざとらしく見えてしまうこともある。自然にクレッシェンドしていると思えるものも、一度立ち止まることも時に必要かもしれない。(西田)
●モダンダンスやパントマイムの香りのする動きやシーンが続く。嵐に立ち向かったり、左手が勝手に動き始めたり、ロープに登ろうとしたり……。そうしたちょっとした物語や出来事がきっかけとなって身体が動き出す。そうしたきっかけは意味や情感に満ちていて……いや、満ちているように見られるようにと身体が動き始めるのだが、そうした導入部の身体がなぜか息苦しく見えたのは意味や内的感情の表出に忙しかったからだろうか。でも、しばらく動いているうちに、きっかけだった物語や情感などをすっかり忘れたかのように彼女の身体は勝手に動き始め、そうなったときの動きはとても美しく気持ちがよかった。意味を失って初めて身体は伸びやかに輝くのだろうか。(坂口)
●女性のソロでマイム的な動き、体が引っ張られるような動きからダンスへとつながるものを作り出そうとしている。しかし「どこかで見たようなもの」という印象が強く、オリジナルな部分が感じられなかったのは残念だった。(志賀)
●現代音楽を1曲そっくり(?)用いた、全体として演技性の非常に強い身体表現だ。ある程度納得させるものを持ってはいるが、あまり細かい身体の使い方はしない方がよい(手先だけとかの)。身体表現における具象性の持つ意味、抽象性とは何か?、具象性と抽象性の塩梅(バランス)、演技対舞踊の対極性と、表現行為におけるその可能性、等々、課題は多い。標題と内容はよく合致しているようだ。いろいろなことをやっていても、総体的には「シンプルに」見える点は好ましい。創作力がある――ということかもしれない。(村岡)


BLANKS!!「微睡、霧、seasON off」


●男1人女2人のトリオ作品。冒頭から、三角関係を想わせる、3人の色々な組み合わせによる場面が続く。3人とも、ダンスといえるほどの動きはしない。かといって、パフォーマンスというわけでもない。終盤で、3人の立つ位置を、細かい暗転によって微妙に変えていくシーンの連続には、独特のポエジーを感じた。作品全体の構成力、空間造形力には非凡なものがあり、人間の存在の仕方を見つめるしっかりした眼も持っている。ただ、まだ視覚先行で、ダンサーの身体が時間を孕んでいないことをどうするのかが、課題ではないだろうか。 (竹重)
●上手で工事現場で働く様子について話をする男。働いた人でなければわからない話に実感もあって、その生々しさと女二人の踊りのだらだら感が並立している風景に、働く自分を外側から見たり内側から眺めたりしながら、自分の存在を別の星から望遠鏡で眺めるような独特の気分が醸し出された。
●語る言葉とポストモダンダンス的ともいえる動き、さらにダラダラ感が「いま」を感じさせる。ビル・ヴィオラのビデオ作品のようなテイストもあり、美術系モードとコンテンポラリーダンスが重なるミニアチュールを見た印象だ。生身のリアリティとどうせめぎあっていくかによって、密度が高まっていくだろう。(志賀)

●短い中にも様々なシーンとイメージを盛り込んだアート+パフォーマンス。ひとつひとつのシーンを絵画のように屹立させようとしているのだろうか、暗転が多用されるシークエンスが始まりと終わりに縁取りのように組まれていた。同じ動きを何度もゆっくりと繰り返しながら少しずつ変化してゆくという一種のミニマルっぽいシーンが多かったなかで、倒れた女が何度も何度も起きあがる粘液質の動きとか、ひとりの倒れる動作が別の身体に伝染してゆくように変化しながらゆく最後のシーンなどは見ていておもしろかった。(坂口)
●良しも悪しきも90年代的なコンテンポラリー・ダンスに影響を受けた作家だ。日常性やモダンダンスを脱構築するといったポストモダン・ダンスの戦略が、もはや彼らの意図とは全く別の次元で動き出しているといえるような作品である。ぶっきらぼうに男女が舞台に立っていたり、一昔前に無為や所作といわれていたような表現技法を通じて、コンセプチャルな作品を立ち上げようとした。彼らの感性が持っているぶっきらぼうさは現代のファインアートよりの20代、30代の作家たち、例えば菊地尚子やRoussewaltzの作品にも通じるものがあるため、あながち否定できないのも事実だ。(吉田)
●作品の持つ不思議感覚は面白いとは思うのだが、統合性には大いに疑問がある。37分位と長く(新人シリーズ参加作品としては)、4つ位の短い作品を見せられている気がした。統合性という観点からは、後半のコミカルな場面が意味を持たない。構成・演出上の問題が大きい。作品として、何をやりたいのかが解らない。シンプルにすべきだ。(村岡)


★Bグループ:1/7

cyori素「うぬぼれワルツ」



●赤いリボンで空間を斜めに区切ったのは、フォーサイスの少女的引用にも見える。舞踊専攻の女子学生という枠を音楽や衣装と感覚で超えようとする何かがそこにある。ショー的に見せられる要素もあるので、多少稚拙ながら期待できる次世代といいたい。(志賀)
●若い踊り手たち3人組による作品は実にしっかりとした構成を用いた内容だった。白いヴェールをまとった女達がワルツと共にそれぞれに踊る。身体の動きを衣裳にあわせてスローにしているががっちりとしたアイデアに基づく振付には好意を持てる。1人が赤いリボンを引っ張って進んでいくと、二人がそのリボンを使って空間構成をしながらストイックに踊ってみせる。世代的に酒井幸菜やお宝。に近い、新世代の感受性を感じる振付だ。リリーステクニックなど90年代以後のダンステクニックを用いながらも、それほど強くその時代の作風を意図していないというのが印象的だ。(吉田)
●赤いリボンで舞台を三角に区切り、その形やリボンと絡んでいき、それぞれがソロを踊ったり、3人で踊ったりする。複数の曲、複数のシーンをつなげていくにあたり、なぜそのようにつながっていくのか、なぜそのようにしたかったのか、もう少し丁寧に考えてみてもいいかもしれない。3人で分担しただけだとその理由が見えづらくなる。オーガンジー風の白い衣装がかわいらしかった。(西田)
●リズミックな音、右奥から左手前への赤い照明の中、白装束にショールを被った三人の女性は光を求めるように対角線を振り向いてはゆっくりと進み、奥の扉に消えてゆく。曲が大胆に展開し、三人は交互に登場し人形を台車に乗せて引っ張ったり、ショールを取ったり、長く赤いリボンを操ったりしながら、柔軟に身体を揺るがす。再び赤い光の中を対角線に進んで終わる。バレエ的でありながらもそれを崩した軽快なジャンプと振付が魅力的であったが、単調すぎる。光の中の行進は、砂漠を進む神々の黄昏のようなナラティヴな面を持ち合わせているが、それを説明し説得するだけの動きは無かったので、返って中途半端な印象を与えてしまった感があった。(宮田)
●始まりと中ほどと最後に三度の、三人の女性が斜めにゆっくりと歩いていくシーンがおもしろい。ひとりが少し遅れて後ろ髪を引かれるかのようにくるりと後ろを振り向いて遠くを眺めやるその感じがおもしろい。とはいえダンスはそれほど新鮮な感じはしなかった。身体はとてもよく動いてはいると思うが、体操を見ているようで、それがダンスというものとして立ち上がっているようには見えなかった。(坂口)
●いかにも大学生らしい雰囲気や作品から感じられる創作態度が好ましい。しかし、構成の意味や物語はどうも判然としない。少しだけ見せるダンスらしい動きの部分は、オリジナリティを感じさせるものではなかった。衣裳は良い。(村岡)


浅川浩代「私がわたしをうらぎらない(決意)」


●この人の入り方には負けました。自分の世界を作り出すということ、オリジナルということにおいては、誰にも負けない。自分のできること、やりたいことを小さい世界で煮詰めていく。こういう孤独な作業は舞台にある種の密度を生む。「精子と卵子がつながって」とか地球云々という歌、台詞は陳腐なのだが、自分にとって必要だという強い思いが感じられて、誰も口を挟めない。少なくとも「自分の中をさぐる」ことから生まれる表現として、圧倒的に素晴らしい。(志賀)
●いわゆる不思議系とかおままごと系とは似て非なる別ものが現れた。奇妙にねじ曲がったからだでひょこひょこ歩いてくる彼女の身体は、見たことのない異様な痛みを伴った捻れを纏っている。「お姉ちゃんが……死んじゃったから……」。両手が胴体よりも遅れてふわりと下がっている。「精子と卵子がつながって、いま、ここにいるよ」。空から何かを取りだしながら呟く。繰り返される呟きがいつしか叫びになる。強く自分で確認していなくては何かが消えてしまうのを追いかけるように切羽詰まった叫び。「私が地球だったら……息苦しい」。エコロジーなどとは無関係に、妄想としての地球の苦しみを苦しみたいという無意味な欲望。自閉的にも見えるそのアクションは、実はあまりにも生の、張りつめてピリピリした自己といえばいいのだろうか、身体とも思考ともいえない曖昧な、それでいてそれでしかないような場から生まれてくるただならぬ気配を孕んだ希有なものだった。その希有性は新人賞には相当しないのかも知れないが、それでも何かが生まれてくる気配に期待したい。(坂口)
●この作品はパフォーマンスに近い要素があるダンス作品だ。ぶつぶつと小さな声でつぶやきながら女が小スペースを歩き回る。ピアノの音が鳴り止み、女は口でピアノの音色をつぶやいていく。そしてこのつぶやきの延長線上に「精子と卵子がつながって、命が生まれ、私がここにある」というフレーズを女は何度も叫び反復していく。言葉をさけびながら身体をひねり、よじらせ、大きく伸びる。ピアノの音がつぶやきとなりフレーズとなるという発想は面白い。全体として作品や動きの構成を練り上げるとさらに効果が上がる作品だ。他の踊り手に振付けてみても効果的な内容といえよう。(吉田)
●バストラインに切り替えのある柔らかなガーゼ風素材のブラウスがふわりとパンツにかかり、腰を落とした独特のスタイルを際立たせる。妊娠した体のようにぷくりと腹部がふくれ、奇妙な体が動き回った。自分の体内で生成する細胞一つから地球の痛みにまでイマジネーションを広げ、その夢想の展開にふわふわと、ときにきりきりとナイーブな感性を弾ませる。作品として歩みだすには幾多の試練があるだろうが、あきらめずに歩んでほしいと思った。(西田)
●全体的にはごく静かな、気ままな動きをするパフォーマンスだ。この作品を評して「主観的に過ぎる」と言うのは正しくはないのだろうか? 少なくとも観客のことを考えているとは思えないのだが…。やはりこれは、主観性ばかりが強過ぎるのだろう。舞台に臨む真摯な姿勢・気持ちは伝わってくるが…。(村岡)
●暗闇で体を叩きつける音がする。ライトが薄暗く点灯する。首を擡げ、顎を引き、腰が曲がった浅川が入ってくる。右側へ歩み、下げた手首を翻す。座り込み、何か言っている。立ち、座り、立ち、壁を見つめる。宙にある何かを探し、見つけ出すと楽しそうにじゃれている。足を投げ出して座り込み、足指を動かしている。「精子卵子が繋がって今ここに生きているよ」と歌いだす。この歌を壊すような、ピアノ音が流れる。うつ伏せに寝転ぶ。「地球が嘆いている」と発言し、立ち上がり足踏みし、嬉しそうに飛び跳ね、「裸足でペタペタ歩いたら地球をマッサージしてあげられるかなあ」と呟く。滑稽さも生まれないのは、身体が不足しているためであろう。(宮田)

玉内集子「それぐらい、本当にちょっとのこと」


●今回の新人賞を獲得した作品。私も1番に推した。サンバ風の音楽が流れる中、赤いタンクトップと赤い短パン姿で、腰を起点にした、一見ヒップホップ風のダイナミックで肉感的な踊りが展開されるのだが、よく観ると、音楽と動きにはズレがあり、身体内部の音楽性の方が浮き出てくる。しかも、伸ばした腕を内側に絞り込んだりといった、身体の外部を内部に折り畳むような動きがふんだんに盛り込まれていて、観る側の生理に不躾なまでにグイグイと入り込んでくる。今後、欠けている抽象的な要素をどう獲得するかに注目して観ていきたい。(竹重)
●ボリュームのあるカーリヘアに赤のタンクトップとショートパンツで、玉内は壁に体をぴたりと貼り付けている。壁にとまる蛾か蝶か。動き出すと、その軽快感のある俊敏な動きと動かない間合いの絡み合いに、野生リスの跳ねる様を夢想した。わずかな小さい動きから、いかにどちらにどのように動きを展開させていくかという選択が、計算されたことがわかるものであっても、動く衝動に突き動かされて見える瞬間があり、そこに魅力と力量が感じさせられた。(西田)
●真っ赤なスウェットっぽい衣裳。スッと伸びて軽やかに踊ろうとする線と、幾重にも重なって入り組んで内へと回り込む線とがせめぎ合っているような動き。そうした拮抗から生まれる動きは、一瞬たりとも或る既存の形をとどめることなく変化してゆかざるを得ない。何に駆られてそうした苦役を自らに強いているのかわからないが、外へと発散することもできず、内へと収斂することもできず、だからこそ、いつまでも踊っていなくてはならない、そうした宿命というか運命というか、あるいは自らに強いた呵責のように、彼女は踊り続ける。(坂口)
●記憶も定かでない幼少の頃より踊っている玉内は、近年、様々な舞台経験を積んでいるが、未だ自身の踊りのスタイルを見出すには到っていないようだ。そのことが、観客をしてある「不安感」へと誘うのだろう。情念的な踊り/身体表現は向いていないのか、いつもかなり無機的な動きに終始するのが「持ち味」ではあるが…。今回の作品は持ち時間に比して短めだが、「ダンスのボディビル」といった観のあるかっちりとした存在感のあるパフォーマンスを見せた。が、しかし、終景では自らそれを壊して見せるのだった。――「実験」から脱することのできないように宿命づけられているのだろうか? 少女のような趣を失わない玉内であるが、同時にそれは「開花」を拒んでいるとも言えるだろう。(村岡)
●赤い衣装で踊る姿はとても印象的で動きにも力がある。音楽とともに場面が変わり見せる。しかしオリジナルな動きとは感じられなかった。何がオリジナルかは難しい。すべて記憶の中から生まれてくるし、何かのコピーであるともいえる。しかしいま切実に玉内がこれを踊る、踊りたいというものには感じられない。模索しながら抜けられない迷路をもがいている。それ自体を表現にするという確固たる意志があれば、それはそれでいいのだが、そうではない。「踊れて」しまうゆえに難しいのだ。(志賀)
●インド音楽が流れるなかで、作家は高瀬譜希子や昆野まり子、横田佳奈子といった正統的なモダン=コンテンポラリー若手・中堅作家たちの磨きこまれたムーブメントに対するアンチテーゼのようにひねった動きを展開していく。座ったままで身を反らせ、腕でポーズをとってみせたり、たったまま不恰好なポーズで腕をよじってみせたりする。ポストモダン・ダンスや彼らに影響を受けたダンスの様に見えてしまうことが作品を若干レトロに見せてしまう下りがあるが、その鍛えられた肉体は作品に込められた意図を的確に打ち出した。欲を言えば、『Non-Dance』といった現代の舞踊論に対して問題提起を見せて欲しい。(吉田)
●サンバが暗闇に轟く。赤いパンツとシャツで身を包んだ玉内が、後方の壁に頭を打ち付けている。挙げられた踵が緊張感を生み出す。頭を中心に体を捻り、立ち位置となる。左側へ進み、上方に視線を流して腰を落としながら手を振り流す。ゆったりとした曲に反して激しく手足は稼動する。左側、後方と体の向きを変えてポージングを繰り返す。ノイズ音が響き渡り、左掌を胸の上に充て、時計回りに大きく歩く。立ち止まり、前屈みから膝を伸ばし、掌を床につける。爪先立ちから屈伸の動作を繰り返す。再びサンバが流れる。客席に角度をつけて正座し、そのまま飛ぶ。これを繰り返す。断絶するように終わる。玉内は二度と同じ型を形成せず、常に胎動する。(宮田)

★Cグループ: 1/9

中野ちぐさ「見える場所を変えればかわるかもしれない」



●暗転の中、ポリフォニックに3人が床を鳴らし、リズムと戯れる。これをいかに展開させていくか、ということもまた難しい課題だ。赤いテープで切り取られた空間、その中に置かれた椅子に座りながら踊る、という制限を設けたのだが、制限に拮抗する体を見せるところまでいってなかったようだ。制限を設けた意図がもっとクリアになっていけばその先にある選択肢の選び方も違ってくるかもしれない。(西田)
●三つの丸椅子がそこにあり、そこに座って踊ることでどこまでの踊りが可能だろうかと探るかのようなダンスが続く。椅子から遠くまで手足を伸ばそうとするものの、必然的に椅子に引き戻される。そうした引き戻しまでも身体の必然性として提示しようとするかのようなのだが、そうした意匠が充分に体現できていなかったように思う。(坂口)
●椅子の上で踊る、というモダンダンスなどでよくある手法。だが「物を使って踊る」ということは、「なぜ使うか」「その物とどう対峙するか」をしっかり問わないと、物に踊らされる。つまり「椅子で踊っているんだな」としか見られない。対象の意味を振付家がどこまで考えるかがまず問われる。そしてさらに踊り手が対象をどこまで自分のものにするか、つまり自分の肉体と同様に対象を考え、感じとらないと、「使ったダンス」にしか観えない。(志賀)
●新人シリーズには珍しいテクニカルなダンスのように一見思われたが、実はテクニカルとは言えない――と言うか、ダンスのテクニックは全く大したことはない。そして、筆者としては通常全く気にならないはずの、ユニゾンでの不揃いが妙に気になったものだ。作品の意図も不明であるし、時間も短い。意欲があまり感じられない。(村岡)


まあさ 那由多「セワ合チ待」


●マイムの動きとダンスの動きがどのようにコラボレーションとして成立するのか、成立させたいのか。共有する地点をどこに置いているのか、まだ二人の中でしっくりきてないかもしれない。単に場を共有するだけでコラボレーションは成立しないし、また面白いものにもなっていかない。スリリングな瞬間が生まれる仕掛け作りは悩みどころだがそれを探す楽しみもある。(西田)
●マイムの男とダンスの女。男は思わせぶりたっぷり、ねっとりした情感を伴ったマイムを披露。女は水が流れるように滑らかにしなやかに踊り続ける。ベクトルの異なる女と男が、どこまですりあわせることができるのだろうかとハラハラさせる展開。それゆえなのだろうか、消化不十分な感じが残った。(坂口)
●那由多はしなやかな動きで身体を十分に使った踊りが好ましいものの、それに没頭するというほどの時間踊ってみせたりしないのが不満。そもそも、小洒落た作品を創って見せるのではないやり方を希望(完成度が十分に高ければ無論言うことはないのだが)。音楽への依存性も強過ぎる。要するに「身体性」が足りないのだ。(村岡)
●マイムは日本に入ってきたころは、前衛として扱われ、60年代、大野一雄もマイムを学び、その舞台にも出たのみならず、舞踏の舞台にマイムダンサーも登場した。しかしそれはいつしか分かれ、舞踏とマイムは両極のようにも思われる。しかし勅使川原三郎はマイムから出発して大野にも学び、自分の世界を作った。水と油は新しいマイム、アート的なマイムを創造しようとした。その意味でもマイムから新しいものが生まれる可能性はまだまだある。舞台はまだマイムの型をようやく学んだレベルだが、今後も挑戦してほしい。(志賀)


捩子ぴじん「フルエテ!透明」


●体が動き出すことを待ち、そこから踊りを作っていくというシンプルな作業を無音のなかで行う。微妙な動き、揺れや筋肉の震え、骨の感触が伝わってくる。それがいつしか踊りとして立ち、密度をもってくる。シンプルな光でそれを十分見せ、感じさせられる表現力は凄いし完成度が高い。ただ「手馴れた」と思われてしまうところを、どうやって打ち破るかが課題かもしれない。(志賀)
●無音。力を抜いてそっと立っている。そのうちにどこかが動く。自然に動くかのように。それは装いなのかもしれないが、自然に動くことを願っているように動く。筋肉が動くより前に骨が動くような動き。そんなことないのだけれど。普通なら意識が筋肉を動かして骨が動かされるのだろうが、意識が筋肉を動かす前に骨が動き始めるような感じに見える。彼の身体で何が起きているのか気になる。骨が動き始めるのを静かに辛抱強く待っているのだろうか。待ってたものは生まれたのだろうか。そこまでは確認できなかったが。(坂口)
●左手の左手首から発生した(?)らしい小さな動きがどのように展開していくのか、丁寧に見届けようとした。その丁寧さとしつこさに見せるものがある。シャツを脱いで床にたたきつけたり、脱いだり着たりといった展開もごく自然に当然のことと受けとめた。今自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、その踊る瞬間の、さらに自分のいる位置を良く見ている人にちがいない。しかし彼にとってこの作品は、既知想定圏内の冒険だったかもしれない。(西田)
●頭脳的なプレイ(パフォーマンス、演技)としてああいうものを見せられても、筆者(観客)としてはちっとも面白くない。身体を解き放ってあげて、自由に自発的な運動を見せるのであったならば、たとえ(結果的に)似たような動きであったとしても、結果は大違いなのだが…。「頭脳的」とは言ってみたものの、何かコンセプトがあるとは思えないようなものだ。(村岡)


★Dグループ:1/10

井上大輔×辻田暁「Hinata」



●すみっこのベンチで何となくぶらぶらする男と女の対話なのかすれ違いなのか、そんな仕草のダンスが続くうちに対角線上に展開されるそれぞれ踊りは、外へと大きな形を作って動こうとする井上、内へと褶曲して捻れていく身体を追うような辻田の、そんなふたりの踊りの違いがおもしろく、そうすると一緒に動く体操みたいなダンスも何かスッと向こうへ行く瞬間が幾度かある気持ちよいものになって、新人らしい新人賞というなら期待をこめてこのふたりでもよかったかなと少し思う。(坂口)
●ダイナミックな動きにちょっと癖がある井上、動けるのだが、質感が鈍重な辻田、どちらも別の魅力があって惹きつける身体性をもっている。構成はもっと練っていけばいい作品になると思うが、動けて独自の魅力がある男性ダンサーとして、井上のこれからに期待できるように思った。(志賀)
●ベンチ風横長椅子とその脇にライトが立っている。二人がデュエットで絡む踊りとそれぞれのソロが交互に挟まる構成。意表を突くような所でジャンプしてみたり、男が女をリフトしてみたり、空間が狭く感じられる大きな動きを展開させて見せるかと思えば、そっとライトに絡むソロを始める男性がいる。すっとライトを天井に向け、明るさが天井に移ると空間の明度が変わると女性のソロが始まる。既に多くの作品を創ってきているので、既知のものや面白いと感ずる地点に焦点を合わすのでなく、違和感のある領域に踏み出すと、さらに別境地へ飛び出せるかもしれない。(西田)
●身体を大きくいっぱいに使ったオリジナリティのある振りの踊りが好ましい。パワーや切れ味も感じられるが、十分と言える水準に達しているわけではない。2人のうちの一方が退場してしまったりする時間が長いのは残念。作品世界を構築する力も十分とは言えないが、オリジナリティがあり、可能性を感じさせる。選曲も面白い。(村岡)


澤田有紀「キン魚。」


●私の中では、玉内に匹敵する中身と可能性を感じた作品。タイトル通り金魚のイメージで、赤い薄物とその下に白い薄物だけを身体に巻き付けて、四肢を露出し、下駄履きで踊る。当然、どこかギクシャクした、不格好な踊りになるのだが、かなり奇妙なフォルムになっても、動きの止め方が上手く、説得力がある。ダイナミックな動きの中からも、躍動感とともに、どこか歪なエモーションがこちらに伝わってくる。まだ子供っぽい部分もあって、不気味さを漂わすという所までには至らないのだが、これで緩慢とした時間が身体に入ってくると素晴らしいダンサーになると思う。(竹重)
●下駄は見知ってはいるものの、実はもう生活の中に生きているものではない。その下駄という素材を選んだのも、履きなれないからこそ履いた感触が新鮮だったからだろう。アンバランスの妙味を見せたいという意図は鮮明だった。ロック調の音楽に下駄ダンス。あるいはバランスを崩しながらの下駄ダンス。アンバランスとバランスが拮抗する魅力をみせるには、異なる素材、異なる質感の取り合わせが必要だが、同時にそれぞれに対する理解も必要だ。自分でわかっている理解と人にもわからせる理解は異なるので、それが難しい。(西田)
●見るからに、赤い金魚の姿になろうとする赤い布をふうわりとまとったからだは、それに似合わない硬い下駄で制約を受けざるを得ない。動こうとする身体の欲望を下駄が押しとどめ、そこに奇妙なバランス生まれている。いやアンバランスなのだろうか。それを見せてしまう身体はそうとう強靱なものだと思う。その巧さを下駄によって歯止めをかけていたのかもしれないが、下駄を突き抜けてその上で見えてくるはず一段上の巧さがまだ現れてきていなかったようにも思う。下駄を脱いだら、あるいは、下駄に頼らなかったら、どれだけの動きができるのだろうと見てみたくなった。(坂口)
●視覚的な美しさと魅力を伴っている。「悪戯好きの妖精」といった趣である――下駄を履いた妖精。音楽が加わってくると、元気よく力一杯の踊りを存分に見せてほしいと筆者は期待してしまうのだが、澤田は一貫して非常に抑制された動きに終始する。それはなぜなのだろうか? 力があるのだから、中途半端に踊ったり作品を構成したりしないでほしい。(村岡)
●下駄で踊る部分は、それなり。金魚というイメージも借り物のように見えて、どちらも踊るためのモチーフにしか感じられない。下駄で踊る面白さだけでももちろんいいし、それなりに「逸らし」を行っているのだが、「技術」として、「芸」以上に見えなかったのは残念だった。(志賀)


平田友子「work for a dialogue」


●赤いコートを着て膝を伸ばしたまま丁寧に落ち葉を拾い、ことさら丁寧に円環状に並べる最初のシーンは儀式のように見えながらも、意味を纏いそうになるあやういところで留まっていて、その落ち葉の円環の中央で始まるダンスが縁取りされたように思えて忘れられなくなる。止まっていたものが動き出すときのグキッグキッという感じの動きがかなり長く続くと、そのうちにしなやかな大きな動きへと身体が広がり円環の外に溢れ出して天井までにとどく。静から動へとシンプルな構成ながら、様々なニュアンスのアクションが展開されていく。そこに彼女の歴史というか、様々な層を見るように思えた。(坂口)
●無音の中、落ち葉を並べる作業とその作業から生成された緊張感が後半の踊る欲望に火をつけた。するすると下手の柱によじ登ったときの熱の高まり方とその頂上で何かをぽそっとつぶやいた時の力の抜け具合は面白い瞬間だった。体内温度の高低がめまぐるしく変化していて、その変化に翻弄されつつ踊る姿に好感を持った。沸点近くまで体内温度が急上昇していく姿を見せられる場合、入り込めない距離の遠さを覚えさせられることもあれば、こちらまでその渦に巻き込まれてしまうこともある。沸点近辺はリスクが大きく取扱注意だが、魅せられる人も多い。(西田)
●ダイアローグ、対話とは誰との対話を意図していたのだろう?舞台上には不在の親しい人?それとも、観客?何れにしても、この作品のしっかりした構成力は、平田がはっきり他者の存在を意識して創っていることによると思う。1景の、それだけでは退屈してしまう、下手側で円形の落葉を拾っては、また戻す場面の意味は、2景での、その円形の落葉の中でのミニマルなダンスによって、明確に浮かび上がってきた。ここでの腕と膝を主体にした踊りは、軸がしっかりしていて、密度があった。ただ3景では、少し予定調和的に弾け過ぎて、作品を壊してしまった感もあった。(竹重)
●前半は長い長い無音のパフォーマンス。枯れたプラタナスの葉を舞台上から丹念に拾い集め、次いでそれを舞台面に、結界を作るように並べていく。観客には辛い時間だ(たまにごく短時間の音楽)。後半、音楽が本格的に加わってからは、身体を大きく十分に使った力一杯の踊りを見せる。鍛え抜かれたと言ってもよいような身体を持っている。踊りの時の身体感覚もよい(最後のシーンは静止だが、この時もよい)。静と動の対比はよいとして、しかし、構成的には疑問が多い。(村岡)
●落ち葉を円形に置いていくというアイデアと、そこから踊るというコンセプトはいいのだが、踊り、動き自体には新しいもの、あるいは体の中から出てくるオリジナルなものが感じられない。こういう踊りでは、動き一つ一つの自分にとっての意味を探るという作業が必要だと思うのだが。(志賀)


★Eグループ: 1/12

祖父江洋子「ゆうじょ」


●少しずつ動きをずらしながら重ねていくローザスのミニマルなダンスに似た趣。しかしローザスの緻密な構成ははずし、その重ねられる動きと動きのずれのなかにある隙間にいろいろな要素を入れ込み展開させてみた。体をぱたぱたとはたいたり、柱に黒いゴムをくくりつけ、その伸び縮みする力を利用して振り回されたり。挟み込む材料の方に焦点を合わせたのだろう。それをなくしたらどうなるのか、ミニマルなダンスがさらに何か生まれる可能性があるのか、などつらつら思った。(西田)
●黒のサテンのスカート。ちょこっと動いてすぐに寝っ転がって、機械的に手を動かす仕草、それが意外に面白い。寝てる態勢を幾何学的に変えてゆきながらミニマルな音楽でミニマルな動き。両手を前に出しながらズンズンと進む動き。同じ動きが方向を変えて延々と続くミニマル。どこかローザスの動きが混ざってきたなと思ったらスッと手を前方へ延ばして回転する『ファーズ』の動作。ケースマイケルへのオマージュか。ミニマルが終わるとショパン。動きもずっと有機体的なものになり、ゴムなどの小道具などを用いて小細工に走るものの、ローザスへのオマージュを徹底させたらどうなったのだろうと思わせる作品だった。(坂口)
●人形のような機構的(メカニカル)な存在感の内に少女の身体性を包み隠している(実年齢はそれほど若くはない)。「反復」は、神経症的な意義を剥ぎ取られ、単なる機械的な運動として展開される(その方法は決して間違ってはいない)。そして歩行は、舞踊、ダンスの基本である「なんば」をしっかりと意識しつつ実行している。黒を基調とし、他の意味でも派手な要素はほとんどないが、実は、神楽坂 die pratze の舞台空間をとても効果的に巧く活かして利用している。率直に言ってあまり面白い舞台ではなかったのだが、批評的には否定的な要素はほとんど見出せない。独創性という点でも言うことはない。単なる「実験」の領域(段階)に留まるものではない、立派な作品だと思う。(村岡)
●青いドレスの裾を持ち、揺らめく。手を離し、素早く胴体を移動しスポットライトから外れ、左側に頭を向けて仰向けになる。足を投げ出し、手のみ、スティーブ・ライヒのミニマルミュージックのような音に合わせて振る。立ち上がり膝を折り曲げ体を捻って回転するが、足が立ててないし腋が締まっていない。キメるのに早急でミニマルにも成っていない。ピアノ曲が流れる。髪を掻き揚げへたり込む。大きく息を吸い、正座し手を交叉させ、崩れる。柱に寄り掛かる。崩れる。柱の袂にあるデニム地の紐を胸元の高さまで引き上げ引っ張る。コンパスのように回る。手から腰へ、膝へ、足首へ。立ち上がり手で持ち離して終わる。次の動きが読めてしまう。(宮田)
●黒い衣装のソロで、飽きずに見せられる魅力があるのだが、全体としては既視感があって、「何か新しいものを見た」「見たことのないものを見た」という感動はなかったのが残念。(志賀)


マルギットさんとわたくしたち 川上暁子・小川水素「ヘソノヲ」


●ふたりの歩くシーンが心地よい。ただ歩くだけなのだけど、見ていてワクワクする。暗転を多用してシーンを瞬間的に切り取って写真のように見せるワザが多用されたが、たしかに映像として際立って見えるものの、そればかりに頼っていては少々弱くなるように思う。(坂口)
●客席が休憩中でも、既に小川と助っ人は立っている。小屋のスタッフがラジカセを中央に持って入り、喧騒な音を流す。客席の照明そのままで公演が始まる。二人は走るポーズでゆっくり歩む。暗転し、左側に小川が立ち、右側に助っ人は座る。音は止まっている。助っ人が立ち上がると、小川は助っ人の足首を手で持つ。二人は離れる。小川は横とびで助っ人に近づき、寝る。暗転。解けると二人は腕組をして並び、同じ振りの動作をする。暗転。右壁際に死体のように転がる。暗転。小川が前方に立ち、助っ人は後ろに座る。小川は嗚咽する…。二人の動きが全く予想できない点が面白かった。呼吸が合っていないことも味になる。暗転の多さが気にならない。(宮田)
●ショットショットを切り分けて、場面が転換するのだが、よく見ると、それぞれで女性二人が絡む絡み方が実に凝っている。そして二人の身体の質感が時折漂ってくる。近くで見ているとそれはかなり面白いのだが、ちょっと離れるとわからない。それを感じさせるためには、場面の数を減らし、整理しながら、「体」の感触がもっと強く出るような見せ方を考えるといい。(志賀)
●暗転から明るくなると様々なシーンが現れるというプラッツでなぜか多用される手法。動きのコラージュの一つ一つを完全に切り分けるのに便利なのだろう。しかしそれがうまくいくかどうかはそれぞれのシーンの魅力次第だが手軽な手法に頼ってみえ逆効果ではないかと感じている。二人が折り重なっていたり、ずるりところがってみたり、選ばれる動きはぬるりとした感触があり、こうした演出に頼らず、無骨なままでもこのまま展開させるとどうなるのか、質感の変化をみつめる作業を重ねてみてほしいと思った。(西田)
●演出主導の、舞踊的要素は皆無のパフォーマンス。身体性も精神性も希薄である。正直、つまらない。頭で考え過ぎているゆえに良いものが出て来ないのだろう。(村岡)


秦真紀子「4℃の時間」


●薄暗いすみっこでジッとしているカラダ。動くような動かないような。とても柔らかな身体で、何やらわけのわからない動きに蠢いている。柔らかいカラダがふわりと浮かび上がるような動きが現れたときがとても気持ちいい。何やらわけのわからない動きの生き物になってしまった彼女の身体は、なかなか彼女以外ではなかなか見ることのできない形を見せる。くねくねとねじくれたものがスッと伸びたときに、ダンスではなくてもっと何か見たことのないようで伸びやかなものが生まれてきたらいいなと思う。(坂口)
●暗がりの中、秦は右奥で座り込んでいる。揺らめき、立ち上がり、床へ長方形に当たっているライトの閾を干渉し、水の音に反応し、倒れ、起き上がり、座り、立ち、柱と絡み、壁に手を這わせ、しゃがみ込み、立ち、揺らぐ。この繰り返しではあるのだが、一つ一つに意義と必然があり、動きに確実さがある。移動のルートに無理はなく、相当に造り込んだ気合が伺える。動作はこれまでより丁寧で気持ちもこもっているので見苦しくない。照明、音もよく考えているので幻想的な美しさの生成に成功している。体は充分に出来上がり、作品のコンセプトも端的に仕上がっているのだから、もっと自己に厳しく振付け、自己の履歴を信じて無理をするべきだと思う。(宮田)
●パスカル・コムラードの音や水琴窟の水滴のような音などを用い、透明感のある空間を作り出した。一環してゆるゆるとした動きなので、倒立のような直線的な動きが現れるとおやと思う。だが再びそこからゆるりと床に崩れ込み、ゆるゆるした体に戻る。このゆるりとした体は、何かの物質の循環する姿を見せているのかもしれない。4度なので水ではなかろう。それは凝固する温度なのか、溶解する温度なのか、おそらくその境界の温度なのだろう。(西田)
●身体性はあるのだが、身体感覚は不明瞭。これでは、しかし「意味」(身体的内面性、etc.)がないなぁ…と思ったものだが、長い無音の時間を過ごした後、音楽が加わると、輪を掛けて意味のないものになってしまった。ダンスの陳腐な振りが侵入してくるからだ――瞬間的にといった感じなのだけれど。これも頭で考え過ぎている。それゆえに、身体的時間が「開花」していかないのだ。しっかりした身体を持っていて、トレーニングもできてはいるのだが。(村岡)
●動かせる体を持っているし、動いてしまう体でもある。それを抑えると何かが生まれるように思える。しかし見つめるべきは、体自体と自分自体だ。精神的な自分への追い込みを徹底すると、体の表象のみに頼らない自分の踊りが生まれるのだろう。(志賀)


★Fグループ:1/13

市川まや「NUKENUKE 半分だけ本当」


●天井から吊り下がっているたくさんの白いてるてる坊主。白い衣装はからだと一緒に気持ちよく動く。とても楽しそうに踊っている彼女はいったいどこに向かっているのだろう。てるてる坊主もあんなにもたくさん吊り下がっていると、なぜか寂しげに感じてしまうのは、いつもひとりで吊り下がっているものだからだろうか。楽しく動き回っているのはわかるが、それ以上のものがなかなか見えてこなかった。(坂口)
●白の照る照る坊主に白い衣装。アフリカンや民族音楽のような音楽で、雨乞いダンスだったのだろうか。白い照る照る坊主に目を入れたのだが、それは雨乞いか何かの祈りが成就されたことを意味するのか。やろうとしていることが今一つ見えてこない。動きあるいはあるシーンの展開の理由が見えてくれば、その意図が見えずとも何かしらの説得力が生まれてくるものだが、この目を入れるシーンが出てくる理由はその前のシーンとどのような関係を持つのか見えてこなかった。(西田)
●ジャンプしたり、身体をよく動かしてはいるのだが、パワーがあまり感じられない。上体中心の運動であるのが欠点。てるてる坊主をいっぱい吊るした舞台美術を設え、てるてる坊主の顔を描いたりするパフォーマンスもあるのだが、踊りもパフォーマンスも、どういう意味がそこに込められているのか、そもそも何をしたいのかも判らなかった。(村岡)
●テルテル坊主はアイデアだけでリアリティが乏しい。自分にとって「面白いこと」は「なぜ面白いのか」を少し考えてみると、また違ってくるのではないだろうか。大阪からの参戦だけに、次回に期待したい。(志賀)


ナオミミリアン「チルチル…満…チル」(306「L⇔R」の予定が独舞に変更)


●冒頭、舞台中央奥で、内側が電飾で輝く紺系のコートを暗闇の中でゆっくり脱いでいく。神秘的で見事な効果。脱ぐと、ベージュの背中の開いた下着を着ている。そこから、細長いライトが延びて、ほとんど、その空間の中でストイックに踊る。特に、後ろ向きに屈み込んで丸まりながら、裸の背中を曝して、肩甲骨やお尻を盛り上がらせた動きには、エロティシズムと強さが相俟っていて強い印象を受けた。しかし、激しい動きになると、ボキャブラリーがあまりなく、全体の印象が散漫になってしまったのが、残念だった。(竹重)
●黒いピッチリとした「鉄の処女」のようなコートを開けると中はあざやかな電飾。大宇宙と照応する小宇宙という趣向か。そこからそっと抜け出る細身の身体。その一瞬が小気味よかった。(坂口)
●黒のコートにはその内側に輝くライトがちりばめられており、コートを広げてそのまばゆい光を放つ電気仕掛けの衣装は強いインパクトがあった。このコートから浮き上がる体がなまめかしく、光と戯れて踊る姿はキュートでもある。だがこのコートを見せる面白さが際立つだけに、コートより際立つ体を見せるのが難しくなってくる。主客逆転の勢いが生じてしまう可能性がある。(西田)
●全体として静かなゆっくりとした動きだが、腕〜手の筋肉を硬直させて痙攣させたりして、緊張感を漂わせる。全体としてはパフォーマンスで、宇宙的、サイファイ(SF)的な雰囲気の漂う作品であるが、何か物語があるのだろうか?――別に物語を演じて見せようというわけではないのだろうが、と言って、何をしたいのかが伝わってくるものでもなかった。(村岡)
●黒いコート、そしてそれを開くと電飾、舞台のインパクトと美しさは素晴らしい。テクニックも十分なのだが、その踊り、動き自体に「見たことのない」ものが出てくれば、かなり優れた舞台になったろう。(志賀)


池田聖智子「性(さが)」



●齧られたリンゴにスポットがあたっている。誘惑に抵抗しつつも、それから決して逃れられず結局は負けてしまう人間の姿をダンスにしたのだろうか。宗教的な命題であり、良く知られた物語であるだけに、それをダンスにしていく作業は、自己の内部に深く沈潜する作業と同時に、どのように見えるかという客観的な作業の両方を同時に綿密に詰める必要がある。後者の作業をする際に必要なのは、このように広く知られているテーマの本質を自分がどう解釈しているのか、なぜこのテーマを取り上げるのか、について明確にすることだろう。(西田)
●ひとくち囓ったリンゴ。それはイブのリンゴなのだろうか、知の原罪に踊らされているかのように彼女は黒いドレスでリンゴと戯れる。つねにリンゴとの距離を意識しながら、それは自分自身との距離を舐めるように確かめることでもあるようで、陶酔というのだろうか、ゆっくりと自分の動きに酔いしれてゆくように見える。もちろんときどき手足はダンスの動きを思い出してパッと広げられるのだが、それが物語世界の中でのことなのかどうなのか中途半端な感じにも見えた。(坂口)
●舞台に出てただ立っているだけでも「美しいから」許されると思っているのではないだろうか?――と感じさせるほどナルシスティックな気分ばかりが濃厚な舞台で、その一方、一貫して「単なる演技」以上のものは何も感じさせない。筆者は、演技が悪いとも、虚構が悪いとも言うつもりは毛頭ないが、リアリティとか深みとかがそこに感じられなければ何の意味もないだろう。終盤近くではやや激しい動きのダンスも見せるのだが、ダンスっぽいところはと言うと、全く月並みな振りや所作しか見られないので、創造性という観点からも疑問しか湧かなかった。(村岡)
●林檎を使って自分と何かを生み出そうとしたのか。そうは思えなかった。演劇的な雰囲気があり、舞台に映えるのは特徴だが、それだけでは「表現」には至らない。ダンス的動きも誰でもやっている以上のものはなく、では換えがたい「存在感」があるかというと、そうでもない。(志賀)


★Gグループ:1/14

カワムラアツノリ「グレムリン」


●パイプで組まれた大きな立方体にナマケモノのようにぶら下がる彼はゆっくりと動き始める。黒いパンツに黒いかぶり物。ナマケモノはのんびりと動く。ときどき落ちる。で、またぶら下がる。立方体からピョンと跳びだすと、こんどはカエルのよう跳ねたりもする。それでもまた立方体へ戻ってナマケモノになったり、人間になって枠の上を危なげに歩いたりする。とにかく立方体でどんな遊びができるのか色々考えた成果を披露したように見えたが、あまりそれにこだわりすぎて作品が小さくなってしまったのではないか。窮屈な感じがしてしまった。もっと奇妙な動きを身体で体現できるはずなのに。(坂口)
●パイプでできた箱型のオブジェで遊ぶ。オブジェの面白さをあれこれ試した結果、これでなくてはならないというものだけを抽出したのではなく、オブジェと戯れながらでてきた動きをあれこれとコラージュしたように見えた。コミカルな動きや動物的な動きは面白さがあるが、それを発展させていくことに興味がそれほどあるようにも見えなかった。退化した人間が動物園のケージに展示される姿なのか。オブジェと戯れる面白さに引っ張っている割には面白がり方の振幅幅が狭く、今一歩踏み込んで欲しく思った。(西田)
●前半、無音にて、気ままで怠惰なパフォーマンス。パイプの上に乗ったり、ぶら下がったり…。正直、つまらない。その後、音楽が入るとともに、パイプからも離れて動きも多くなる。が、ひょうきんさ、茶目っ気は中途半端で、それほど面白くもない。失敗の原因はなんだろう? ユーモアあるいはエスプリといった点に関して、「真面目さ」、「真剣さ」が足りないようだ。(村岡)
●パイプのジャングルジム上で遊ぶ、ということをダンスにしようとした。しかし後半それをやめてしまうのは残念。ずっとやり続けて、そこでいつしかそれが「見たことのないもの」にと自然と変貌していく、そういう手法があるのではないか。ある種の「徹底」がないと、アイデアのみと思われてしまう。(志賀)


清藤美智子「漂う背中」


●女三人、男一人。かなり作り込んだ作品に見えた。白い椅子、青い水の入った丸い金魚鉢。背中が広く開いた衣装。色々な動きのダンスが組み合わされる。二人が椅子の上で様々に交錯する動き、カンフーの組み手を模した動き、などなど。ただ、純粋な動きであるはずのそうした動きが、どうしても物語性というか意味にからめられて提示されているように見えて、それが作法なのかもしれないが、動いているだけでいいのにどうしてまたそこに余計な意味づけをしなくてはならないのだろうと思えてしまう。(坂口)
●説明する要素が多すぎると、見る側がイマジネーションを広げる余地が少なくなってしまう。メレデス・モンクのボイスミュージックとダンスが相互に説明しあうような関係に聞こえ見えてくる。タイトル通り、しっかり背中が見える衣装。その背中に水をたらしたり、踊る4人が背中を見せるシーンで終わる。どれも説明の要素が強い。説明しないと見る人はわかってもらえないのではないか、という不安に立ち向かうことから始めねばならない。説明し過ぎると自分でも見えなくなるものがあるから。(西田)
●主張、メッセージを持った作品(言葉も使用)。「漂う背中」というのは衣裳に表現されているが…。振りが、意味・内容に添っている、妥当であると感じさせる箇所は、多くはない。が、しかし、小器用に纏めてほしくはないので、これでよしと言うべきだろうか?中盤から終盤にかけて存分に踊るところはパワーもある(踊り手は4人)。真面目さは十分に感じられるが、作家(演出・出演)当人が批判・否定しているはずの「窮屈さ」がダンスの中に忍び込んでしまっている。もっとのびのびとした開放的かつ解放的な踊りを見てみたい。(村岡)
●通常のモダンダンス的手法というか、既知の枠組みから超えて何かを表現しているようには思えなかった。体も動くのだが、踊りを見せることと「表現」とは似て異なるものだ。踊る鍛錬を積んだモダンダンサーは、ピナ・バウシュやキリヤン、フォーサイスに「踊り」ではなくて「表現」を見てほしい。「なぜこれをみんなが評価するのか」を考えることなくしては、自分のダンスは広がらない。(志賀)


PICK.LE (柴田恵美)「やさしい砂」


●冒頭、ガウンの下だけ開いて中からの光が足だけを照らす、それがとても美しい。ガウンを剥ぐと黒の下着に薄い衣裳で砂場に倒れてもがきまわる。そんな震える動きが多くて、舞台のあちらこちらで震え続ける。場所を変えてはいつまでも同じような動きをしているのだが、そんなミニマルな動きが積み重なって、ある情念のようなものが浮かび上がってくるようにも思えた、少しずつ何かがかたまってゆくように。(坂口)
●寝て踊るところが多かったりするが、存在感はある。各場面の動き〜踊りの意味や必然性までは判らないが…。自己に向き合っている感じもわりとある。が、しかし、この感じ(やり方)だと、主題性をもっと明確にした方がよい。視点を変えて言うなら、作品としての統合性が足りないということだ。音楽・選曲はよい。(村岡)
●「震える」ことにこだわることで、何かを出そうとしている。ミニマルなものから自然と出てくることを突きつめるには、同じテーマで執拗にやり続けることが必要かもしれない。(志賀)


★Hグループ:1/16

shoppin'gocart「FICTIONS」



●奥の壁に新聞紙が貼られ、マンガを読む人がいる。紙の帽子を被せたり、被せられたりのゲームを行ったり、寝こける人いたり。その辺にいそうな人の描写やら子供同士がしそうなちょっとした遊びなどから動きを作っていく。ありふれた生活の一場面からどこまで面白くできるか。構成なども良く練られており、目のつけどころも悪くないが、どこかで見たような既視感を持たされてしまうのが残念。もう一ひねりか、もう二踏ん張りか(!)があるとさらに良くなるのでは。(西田)
●五冊の漫画雑誌、五人の女性、当然のように読むだろう。漫画雑誌でできた紙袋、当然のように被ったり被せたり、取りあったりの抗争。小刻みに揺れて動きまわるダンス、小刻みに痙攣し続けるダンス、そして最後の、床に転がって激しく暴れ回る動き、どうしてもBatikを思い出してしまこともあって、既視感というか予定調和的に見えてしまうが、なにか突き抜ける方策はないのだろうか。ていねいによくできている作品だとは思うが、小ぎれいにまとまりすぎているような気もする。(坂口)
●よく考えて構成されている。全体としてはパフォーマンスで、舞踊的な要素は少ない。身体性という点についても、強いものはないが、非現実的な存在感を醸し出している。繊細なとても良いセンスを持っており、すべての要素(美術、音楽、等々)において満遍なく得点を稼いでる。軽妙さ、ユーモアといったものが持ち味だが、終幕のシーンのみややシリアスに創られているのも賢明なやり方だ。その直前、奥の壁面に貼られた新聞紙を破いて剥す行為の意味は判然としない。標題は抽象的過ぎていただけない。(村岡)
●新聞紙の舞台装置、漫画の袋や女性たちの争いや動きは、ゲームのようで、いわばモダンダンス的な文脈で作る「約束事」とあまり変わっていないように見える。見ていてそこそこ面白いけれど、次の「ネタ」も予測されるし、何よりもこれだけの人が熱心に踊っていて、「体」がほとんど感じられない。(志賀)


林慶一「ゼニゲバ」


●パフォーマンス指向が最も強い方に属するが、舞踏的な身体性も十分に備えている。様々な小道具的な要素を駆使した暴力的なパフォーマンス。おまけに語りまで用いている。内容は、日常の内に潜む「狂気」を抉り出し、演じてみせるといったもの。上演時間は実質19分ほどだが、短いとは感じさせなかった。見応え十分で、強い意欲とともに、素質・才能を感じさせる。OM-2の俳優である佐々木敦の影響が明らかと思われるが、だからと言って減点の必要もないものだ。標題は適切とは思われない。(村岡)
●椅子をテレビに投げつけて壊す、バケツの中の液体を被ると真っ白になる、叫ぶ。恐らくは自室なのだろう、そこで行われる破壊行為、自傷(を思わせる)行為は自らの感情の破裂を託したもので、自己破壊の代替作用としているのだろう。まずこの作業をやる必要があったのかもしれない。これをやる前とやった後でどう違ったか、その変化は次の創作でどのように生かされるだろうか。(西田)
●白い液、テレビ、椅子、呟き、突然の暴力。OM-2の『ハムレットマシーン』での佐々木敦への熱いオマージュと思えるが、それでもこれだけのことをやってしまうのはかなりの力業だ。あまりにも圧倒的な佐々木敦を相対化する試みといえるかもしれない。佐々木敦を不可侵の聖域とせずに世俗化する行為のようでもあった。世俗化された力はこれからどこに向かうのか。(坂口)
●破壊的パフォーマンスを自らに課すというのは、今時アナクロでありながら、やはり観客の目を強く惹きつける。美術パフォーマンスとの違いは「感情」である。林の鬱屈した感情がそこに露呈していて、何かが見えるような気がする。こういうことを真剣にやる表現者はもっと出てきていい。なぜならそれは、行為自体が自分と向き合うことになりうるからだ。(志賀)


PANCHA「ARARE」


●演歌に合わせて踊る。チラシに父の人生と父の最期のことが書かれている。亡き父へのオマージュとして踊ったのだろう。踊る弔いでもあったかもしれない。好き勝手に生きた父への複雑な思いを抱きつつ、演歌を丸ごと流し、それにのって踊り、最後には花吹雪を散らす。父への別れの踊りの次には、どんな踊りが出てくるのだろうか。(西田)
●初景と終景で演歌を用いており、当て振りと言ってよい仕方で踊るのが珍しい。第2景と続く中盤は、眠りの中でたゆたうような踊り。そして、悲哀や苦悩といったものをそこはかとなく感じさせる。全体に回想的な雰囲気が濃厚だが、自身の回想なのか、他者を演じているのかは判らなかった。が、プログラムパンフに述べられているように、これは言わば「喪の仕事」なのだろう。それで、紙吹雪を舞わせるシーンも活きていると感じた。(村岡)
●演歌ネタで踊るベタな踊りが舞台からはみ出して、奇妙な世界をつくり出す。「ネタ」のように見えて、しっかり自己が露呈していると思える、独特の存在感、身体性、モードが揃っている。観客を前にしての表現力はおそらく抜群だといえる。(志賀)

★Iグループ:1/17

番外作品:原田広美「『Requiem』(抄)?I wish I'm wishing always something..」
(プラハ在住 Ryuzo Fukuhara の参加が不可能になったため)



●金髪に黒のパンツで椅子に座って小刻みに震え続ける乱雑な動き中に、ときどき右足を大きく回してヒールで床を打つ動きが杭を打ちこむようなアクセントになって差し挟まれ、それがなかなか気持ちがいい。暗転した後のダンスでは、ジョン・レノンとかモルダウなどの情感たっぷりの曲に合わせて表情豊かに踊る。硬いのか柔らかいのかよくわからない独特の身体が踊りに誘う。(坂口)
●冒頭は苛立ったようなバタバタした動き(質は異なるが、Abe"M" ARIA を思わせる)。身体の奥から湧いてくるものに身を任せて踊る(動く)ことをある程度知ってはいるようだが、浅いので、時間が経過するにつれ、徐々にそれも失われ、頭で考えたような動きになっていく。と言うより、楽曲により「作品」を構成していて、音楽に依存するしかたで踊ることの方に問題があるのだろう。終幕にかけ、「パッヘルベルのカノン」、「モルダウ」、「上を向いて歩こう」と進むにつれ、皮相な演技になってしまう。――どういうことをやろうとしているのかは解るのだが…。(村岡)


坂本知子「dreamless」


●白の半袖体操着に、紺のスウェットパンツという簡素な衣装。冒頭は、奥から手前に淡白に動くだけで、印象が薄い。もう少し、観客を引き擦り込む工夫がほしい。面白かったシーンは2つ。下手側奥で、正面を向いて立って、右腕を、肘を曲げてゆっくり上下させた場面と、ラスト、仰向けに寝転がって、足でゆっくりと自転車漕ぎをした後、その足を頭の方に下ろしていき、上げた両腕と重ね合わせるようにして、全身を小さく包み込んだ場面だ。一見地味だが、誠実に、動きの根拠を身体の内部に探そうとする姿勢は好ましい。後は、自分の生理的な部分にもしっかり向き合ってほしい。 (竹重)
●無音で始まる導入部とくるまる形で終わる終盤に印象が残った。中盤はほわりとした音楽の中で、体と向き合いながら、小さな動きに命を入れていく作業を丁寧に行った。どの角度から眺めたらもっと違って見えてくるか、という仕掛けを考えていくことが今後は必要かもしれない。(西田)
●短い作品だったが、ひとつひとつの動きがとても気持ちよく感じられた。たとえば、まっすぐに立って右の手のひらを水平に掲げてそれをジッと見つめながら少しずつ動かしてゆくだけの単純な動きでも。美しいというよりはむしろ、見ていて気持ちいいと感じられたのは、彼女のひとつひとつの動きがよけいな小細工やテクニックに頼らずに、身体からそっと生まれてくるからだろうか。(坂口)
●導入部は無音で、速い動きの踊りを見せたりするが、やや月並み。その後はごくゆっくりとした動きや歩行に終始するが、身体の内面に入り込むまでには到っていない(たとえば、視線や瞬きにそれが明らか)。すべての面において地味なのはよいとして、このやり方だったら、まずは時間枠をいっぱいに使って見せてほしい。でないと、それだけの意欲がないかのように見えてしまう。(村岡)


青山るりこ「穴飽キズムズム(仮)/いれてだす」


●生卵やゆで卵を多く用い、暗喩の効いたパフォーマンスを行った。透明の花器に卵を入れ、そこに花をいけ、眺める、だが花の茎で卵を潰す。卵の入った金たらいの中で踊る。派手な暴力行為ではないが、日々残虐なことを何気なく行っているような怖さを感じさせられた。(西田)
●ぶっきらぼうな仕草と几帳面な仕草とが奇妙に入り交じったパフォーマンス。卵がたくさん入った金だらいが彼女の主要な舞台となり、ふくらんだ子供っぽい服でお尻からスッポリと入ったり、そのなかに立ってキッチュな踊りをしたりする。細長いガラス瓶に花を「いれてだす」。舞台のすみで、身体を使ってていねいに間隔を測りながら卵をひとつひとつ並べていく。単純な操作を大げさにおこなうのはパフォーマンスの基本とはいえ、それぞれの所作がていねいに作られていて、エロスは機械的反復の労働と通じるものがあるのではないかと思わせるおもしろさがあった。(坂口)
●純然たるパフォーマンスかと思われたが、後半、踊りらしい動きを見せるシーンもある。冒頭、金盥(かなだらい)から出るまでの10分間くらいは、何かを期待させる緊張感があったが、金盥から出て正面を向いて坐るところからは緊張感が失われてしまった。愚行の要素を持っているのは好ましい点なのだが、中途半端である。知的によく練られたパフォーマンスとは言えない。面白いようでいて、それほど面白くはない――不満が募ってしまった。下手壁際の床に玉子を並べていくところは、どうということのない反復なのだが、その所作に工夫が見られた。全体としては、狙いがはっきりしないという観を否めない。(村岡)


★Jグループ:1/19

井手実「Me Light」



●日常生活の事象のあれこれを引っ張り出し、それを再び行いながら少しずつずらしてゆき、映像を用いて自分の世界に浸っている、と見えた。ブラインドを使って質感の異なる映像を見せたり、片方袖のはずれたセーターを着てみたり、細部の様々な工夫が生かされて作品に色合いを添えていた。個の世界で起きる事件が外の世界へどの程度連結されていくものか、今後外への視線がどのように向かっていくのか、に興味を持った。(西田)
●装置に凝ったパフォーマンス。力の抜けた平板なパフォーマンスの部分と、いかにもエキセントリックな部分とを対比的に配置することで衝撃性を狙っているのであろうが、見え透いているという印象が勝る。むしろ、そのような少々白けた構造の上に意図的に乗ることで表現としての効果を狙っているのかとも思われるが、知的・情念的な深みのあるパフォーマンス作品には近づいてもいかない。――終景の一つ前、中空から何かを掴み取って食べるやや長いパントマイムに、いったい何の意味があるというのだろうか?(村岡)


Mins choco「ホクホクの口づけ」


●風呂板のようなものを置き、そこでタップダンス。コンテンポラリータップ目指すとのことで、目下修行中の身ということだろうか。タップがあるから面白いという要素と同時に、タップなくても面白いという要素も必要なので、両方の目配せをしつつ創っていくのは大変。タップの面白さをどう生かした作品を創るか、やりがいも大きいだろうがやらねばならないこともたくさんある。(西田)
●タップダンスをベースにオリジナルな作品を創り出すべくいろいろと工夫をしているが、如何せん、基礎的な技能が追いついていない。フォービートのモダンジャズ、カントリー&ウェスタン等を多用しているのだが、楽曲のリズムに全く乗らずに踊っているように見えるのは意図してのことなのだろうか?意欲は買いたいと思うのだが、アマチュアなりに観客を楽しませようと思ったら、それは楽な作業ではないのだ。(村岡)


ナンセンス「untitled」


●この2人は存分に踊りたい身体を持っているのではないかと思う。それだったら、寝たりするのは極力やめて、ちゃんと立って踊ること。また、舞台から「はけずに」、できるだけ舞台上に居続けることだ。エスニック系の楽曲を主として使っていて、踊りにも幾分かそういう要素が感じ取れる。が、まだ何かになっている(踊りとして格好が付いてる)とは言い難い。(村岡)


★Kグループ:1/20

関かおり・木村美那子「だんだら」



●審査の過程で、玉内と最後まで新人賞を争った作品。2人とも典型的なコドモ身体なのだが、なんとか、その殻を打ち破ろうと苦闘している跡は窺える。腰というかお尻の使い方が独特で、顔のペインティングや小道具の使用で、何か不気味な感じを出そうとしているのはわかるのだが、カワイイという範疇から脱け出せていない。2人の背格好、雰囲気ともよく似ているので、ハレーションもおこらない。ただ、どこか不器用でギクシャクした動きの感触は記憶に残る。言葉で身体を追い詰めていくような経験も必要かもしれない。(竹重)
●ぱたりぱたりと後ろに倒れてみたり、無機質な動きを淡々とやることで、動作の面白さの味わいが出てくるのだが、後半足に黒い斑点が出てきたり、赤い粘土を服の中から出して食べてみたり、と異様な姿、異様な行為へ移行していく。その移行が本当に必要だったのか、移行して見えてくるものが本当に見せたいものだったのか、そのあたりがどこまで考えられていることなのか、がよくわからなかった。(西田)
●薔薇のワンピースと白い丸のワンピース。薔薇は足を伸ばして座り、幾度も後ろに上体が倒れる。白は立っていて、突然筋肉が緊張して手足が動いてしまったり、腰が直角に曲がってお尻が突き出て背中が弓なりに揺れたりする。この動きは幾度も行われる。最後の方になって、白が薔薇に襲いかかるような動きをする。カマキリのように手が持ち上がって薔薇を襲うからそう見えるのだけど、実際にそう見えるようにやっているようだ。後ろ足でごろりと転がして、内臓を引き出して食べる仕草。どうやら二人は昆虫なのだと分かるけど、別に分かる必要もないだろうけれど。(坂口)
●ダンサーにとってとても良くない身体の使い方を敢えてすることで何かを得ようとしているのだろうか? 床に腰を下ろして坐った姿勢から単に後ろに倒れるとか、四つん這いになって腰をくねらせるとか…。それも、全体的に非常に反復にこだわっており、神経症的と言うより、これは病的な感じがする。暗く、閉鎖的だ。ここから何かが開けるとは到底思えない。(「ハルコの娘」の方が意欲も感じられ、ずっと良かった!)(村岡)
●女性二人というコンテンポラーダンスの定番的構成でやり続けているのだが、二人の動き自体にはよこう考え込まれた何か「新しさ」あるいは、「見たことのない」ものがある。展開もラストもかなり考えられており、舞台としての緊張感、密度も十分だ。前作のほうが美術と構成は魅力的だったが、この「他にない」感覚をぜひとも生かしてほしい。既存の女性コンテンポラリーダンスグループにはないテイストがはっきり感じられる。(志賀)
●一人は立ち、背を向けて手を痙攣させる。一人は腰をつき、背中を床に叩きつけている。二人とも普段着のワンピースだが、腰をつく女は死斑のような斑点が足や首に描かれている。オルゴール音が鳴る。倒立、四足、震え、破損人形、ガラガラ玩具人形と様々な不気味な動きを見せ、立位置を入れ替えたり、遠く離れて交霊したり、近づいてスキンシップを図ったりという作業を延々繰り返す。最後は片方が片方を切り刻み、内臓を取り出し、食し、開演直後の状態に戻す、エンドレスなイメージを醸し出す。上辺だけのイメージで、全く残酷性の本質に到達しない。かといってB級ホラーにもなれない。聖が無ければ暴力は生まれない。暴力から肉体が派生する。(宮田)

ココ●テン「おもうきょり」


●三拍子で壊れた曲が鳴る。右上からのライトが形成する床の空間に踏み入れるように、三者は両手を落とし、無表情で膝によって歩行する。ほぼ全灯となり、電子音が響き、三者はぱたりと倒れる。今度はサンバが流れ、立ち上がり爪先立ちでぶるぶる震え、顔を下に向け、ゆらゆらと手を差し伸べる。壁に後退して壁に体を打ち付けたり倒れたり、それぞれの動きになる。「ねえ」と声を出しつつ後ろ向き、正常な向きで円を描くように走り回る。それぞれがポージングを行い、転がったり乗り越えたり正座したりする。金属音が流れ、三者は層のように重なり左側へ消えてゆく。服の色彩や光の使い方、空間の使い方等、美術的インスタレーション的センスが光る。(宮田)
●このグループも普通とはちょっと違う身体の使い方をすることで作品を創っているのだが、どのシーンも、確かではないものの、その意味とか必然性が何となく理解・納得できる。序景は膝歩きであり、ほかにも寝た姿勢のところなども無いではないのだが、ほとんどはしっかりと脚で立っている。そして、足腰と全身をよく使っている。2人あるいは3人の関係性も大事にしており、センスの良さが光っている。余人には真似のできない境地に達していると思う。選曲・音響もよく、敢えてフラットな照明に徹している点も成功。衣裳も妥当。不満はと言えば、3人の身体表現の能力(技能と言ってもよい)にかなりの差があるため、完成度に関して不足が認められることだ。(村岡)
●女性3人が震えつづけるなどポストモダン的な動きをしたり、ユニゾンだったり絡んだりちょっと抗争的になったりという、場面場面がとても楽しめる舞台。センスも音楽もいい。セッションハウスで見たときよりも要素を増やしてきたが、色々盛り込んで、またタイトに削ったりを繰り返して試行錯誤すると、かなり面白い作品に仕上がるのではないか。(志賀)


Cherry's noise「▲tento▲」


●プロローグや幕間(まくあい)の静かなパフォーマンスのシーン(主として土屋1人による)と、明るい照明のもとで2人で元気よく踊ってみせるシーンとを交互に配置した構成。それにしては、クライマックスであって然るべき、桜井がテントの被り物を取ってソロで見せるシーンのパワーが全く不足。それより前の、2人で踊る「テントの踊り」は、コミカルなものだが、センスの良さが輝いている。身体のパワーがあるため、軽過ぎるものにはならない。ただし、わずか1〜2秒間の(真の)終景の意図が伝わっては来ない。楽しいが、創作的には反省すべき点が多い。(村岡)
●サーカステントのようなかぶりモノで何が始まるのかと思うが、何も始まらない。エンターテイメント的な盛り上がりを求めるのか、実験的としたいのか、その覚悟が明確でないために、楽しそうだが楽しくないという仕上がりで残念だ。本当はもっと面白いことができそうな才能という感じが、二人か滲み出している。何か別のものをぜひ見たい。タイトルはそのまま。(志賀)
●古時計が鳴る中、80cm程のサーカステントが赤い光に照らされている。ラビオリはチョークで床や壁に池、林檎が3つ生った木、山、草、雲、向日葵を描く。テントから足が出て立ち上がり動き出す。三拍子のタンゴが流れるとラビオリは桜井を抱きかかえるが、逃げる。追いかける。二人は壁に手をつき背を向け同じ動きをする。やさしいコーラスが流れる。桜井はテントに戻る。ラビオリは天を指差しその指を床から自己に這わせ、顔に到達すると望遠鏡をつくり覗く。テントから齧られた林檎や風船が出てきては破壊される。再び動くテントをラビオリは捕まえ、抱え、暗転し、赤いライトの中で桜井はテントを捨てて終わる。物語が強すぎて動きに集中できない。(宮田)


Lグループ:1/21

Akoatik「U+I」



●心地よい音楽と踊りに始まったが、中盤でのやや早い踊りの部分になると、踊りの無意味さが際立ってくる。冒頭のような、静かな、動きの少ないシーンの方に持ち味があるが、と言って、深い身体的内面性があるわけではない。重心をもっと低くすることも必要。全体を通じてそうなのだが、全く演奏優位(音楽主導)なのが欠点で、不満。ダンサー2人の関係がいかにも疎遠であり、関わり方が、単に形の上からだけ見ても感心しない。演奏家を含め、4人も出演しているというのに、時間も短い。(村岡)
●アジア音楽などをベースにした民族舞踊モードのモダンダンスという印象。動きはそれなりになのだけれど、じっくり練られていないし、見せるという点でも弱い。体はおそらく動くのだが、それもあまり生きていなかった。ベースがちょっと面白い。(志賀)


山縣美礼「domentia praecox ― Where is the child I was,still inside me or gone?」


●一見、パフォーマンスあるいはパフォーマンス志向のように見えるが、本当はダンス志向なのだろう。しかし、中盤〜後半の、音楽も加わった動きの多い場面でも、身体の使い方から言っても、ダンスになってはいない。11分間ほどで終結にできるような完成度など無い。良い点は、他人の真似をしてはいないように見える点だ。(村岡)
●舞踏系の出身ということだが、身体の密度、内面への訴求も特に感じられず、ではダンス的に面白いか、パフォーマンスとして他にないものが感じられるかというと、そうでもない。期待したので残念だった。(志賀)


川上暁子「irony」


●前回東京ダンスカフェに出たときは、魅力を感じなかったが、今回はかなり存在感と身体が迫ってくるように思えた。自分の中に入って踊りを作っているように感じられて、好感が持てた。(志賀)
●筆者としては、基本的にこのようなやり方も受け容れることができないわけではないのだが、受け容れてみたところで、評価できるような要素が見出せない。上演家は客観的な「心の目」を養うことが必要。表現行為(というのはつまり、不特定多数の受け手を対象とするわけだが)は、私的な営為などでは決してないからだ。(村岡)

筆者サイト
志賀信夫:http://www.geocities.jp/butohart/
吉田悠樹彦:http://yukihikoyoshida.hp.infoseek.co.jp/
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