die pratze dance festival:Critique
ダンスがみたい!8
舞台評

期 間:2006年7月11日〜8月21日
★−批評家推薦シリーズ−
「10人の批評家が選ぶ、10人のダンサー」


☆神楽坂die pratze
◆推薦人=志賀信夫(舞踊批評
■森繁哉 福士正一 阿部利勝
『東北・芸能宣言』森/福士/阿部によるコラボレーション
その他、日替わりでソロ演目
15(土)『稲作ダンス・農機具ダンス・農薬ダンス』  阿部ソロ
16(日)『オドラデク道路劇場〜ぐるぐる』 福士ソロ
17(月・祝)『柳淵舞踏から〜金治伝』 森ソロ
7/15(土)19:30 7/16(日)18:30〜 7/17(月・祝)14:30
 15(土)アフタートークゲスト:中沢新一
 16(日)アフタートークゲスト:中沢けい
◆推薦人=原田広美(舞踊評論)
■ささらほうさら『だいこんどの』
8/15(火)19:30 8/16(水)15:30&19:30
出演=安田理英 樫原佐登美 川鍋具子 松本萌
舞台監督=中原和彦 照明=柿嵜清和 音響=金子伸也
◆推薦人=松澤慶信(舞踊批評)
■ピンク『We Love Pink』
8/18(金)19:30 8/19(土)15:30&19:30
出演=磯島未来 加藤若菜 須加めぐみ 
照明=宇野敦子 音響=矢守学
☆麻布die pratze
◆推薦人=乗越たかお(舞踊批評)
■岩渕貞太『mint』出演=畦地亜耶加 岩渕貞太 照明=阪口美和
『岩渕貞太ソロ(タイトル未定)』
7/11(火)〜12(水)19:30
◆推薦人=吉田悠樹彦(舞踊学・舞踊批評)
■矢作聡子+庄崎隆志+野崎夏世『La trace』
8/1(火)19:30 8/2(水)15:30&19:30
原案・構成・振付・出演=矢作聡子 出演=庄崎隆志  野崎夏世
制作=Dance Hexagon  創作環境運営=小原幸人
◆推薦人=村岡秀弥(舞踊批評)
■神雄二DANCE MISSION
『浄夜』 出演=川野眞子 神雄二 音楽=シェー ンベルク
『テーブルの下の蝿』 出演=今日乃京子 善澄真記 大坪瞳 小川隆生
8/4(金)19:30 8/5(土)15:30
構成・演出=神雄二 音楽構成・作曲=神ゆかり 照明=三枝淳 音響=斎藤瑠美子
◆推薦人=稲田奈緒美(舞踊批評)
■今津雅晴×今津武志『In The Black Pool』
8/6(日)18:30 8/7(月)&8(火)19:30
出演=今津雅晴 映像=今津武志 照明=丸山武彦
◆推薦人=西田留美可(舞踊批評)
■大岩淑子『夜明けのしっぽを聴く/Listening to My Tail at Dawn』
8/10(木)19:30 8/11(金)15:30&19:30
出演=大岩淑子 康本雅子 白井沙 オリヴィエ・ベッソン
◆推薦人=前田允(舞踊批評)
■〈KOGA DANCE〉 presents
『Romeo VS Juliet』Act1「Juliet』−閉ざされたROMEO達
Act2「ROMEO」−光に沈むJuliet達 Act3「Romeo VS Juliet」
『cuirasse』−鎧− die pratze special version
8/13(日)15:00&19:00 8/14(月)19:00
構成・演出・振付・出演=古賀豊 出演=内田香 小松あすか 中村信夫 蓬澤太士 他
◆推薦人=石井達朗(舞踊評論家)
■神村恵×種子田郷『うろ』
8/16(水)19:30 ※アフタートーク
出演=神村恵(dance) 種子田郷(sound)
美術=甲斐さやか 音響デザイン=重信芳光(TOPS) 音響システム=Taguchi


■〈ダンスがみたい!新人シリーズ4オーディエンス賞〉
根岸由季
会場=神楽坂die pratze 『TANZ・AKTUELL』
7/24(月)〜25(火)19:30
出演=根岸由季となかま達 音響=青山るり子
◆トーク司会:志賀信夫
■〈ダンスがみたい!新人シリーズ4新人賞〉
KeM-kemunimaku-project 会場=神楽坂die pratze
『あ、ぶれた』
8/21(月)15:30&19:30
出演=アダチミサト アベミナミ 酒井幸菜
照明=三枝淳 音響=勝俣あや
◆トーク司会:吉田悠樹彦

★★★−インターナショナル シリーズ−

☆神楽坂die pratze
■マイケル・ペステル×工藤丈輝(USA/日本)
『stray birds ―迷鳥舞戯(めいちょうまいぎ)』
7/3(月)〜5(水)19:30
出演=マイケル・ペステル 工藤丈輝 
照明=田中信行 制作=松岡真弥
■ダニエラ/正朔(オ−ストリア/日本)
『Return of the Moon』 出演=Daniela
『廃人倶楽部 「雪の降る器」』 出演=正朔 
照明=神戸保
7/13(木)〜14(金)19:30
■マリー・ガブリエル・ロッテ/イシデタクヤ(イギリス/日本)
『Mutability』出演=Marie-Gabrielle Rotie 曲=Nick Parkin 
衣裳=Anna Fortin
『私をついばむ被虐の鳥へ』出演=イシデタクヤ 照明=宇野敦子
8/1(火)〜2(水)19:30
■山本萌/ルーカス・レドンド+ゾハ・コーエン
 ×鶴山欣也(日本/スペイン/イスラエル)『体通しの息吹き』
出演=山本萌(金沢舞踏館) 関野秀男(尺八・キーボード)
『W.a.u. W.a.g.』 振鋳=Lucas Redondo 
Zohar Cohen 鋳態=鶴山欣也(Kinya"ZULU"TSURUYAMA)
8/8(火)〜9(水)19:30
☆麻布die pratze
■ジャッキー・ジョブ/遠藤寿彦(南アフリカ/日本)
『Untitled』 振付・出演=Jacki Job 
『エクリチュールの長い廊下/和声の構造』
振付・出演=遠藤寿彦(19(土)20(日)のみ)
18(金)ゲスト公演:振付・出演=野沢英代
8/18(金)〜19(土)19:30 8/20(日)18:30
協力=回路派 八重樫聖 脇川海里

その他
■シンポジウム『コンテンポラリーダンスの現在と、これから』
8/20(日)15:00 会場=麻布die pratze
パネラー=貫成人 木村覚 西田留美可
司会=志賀信夫
■田中英世写真展
期間中、神楽坂、麻布両会場のロビーにて開催


◆舞台評◆

 実行委員の吉田悠樹彦、西田留美可、志賀信夫に加えて、坂口勝彦、竹重伸一、宮田徹也各氏の評を掲載します

                                                   吉田悠樹彦

 矢作聡子、庄崎隆志、そして野崎夏世『La trace』は実に知的な作品だ。1つの方向に進む人間が別の地点にたどり着くということがテーマだ。まず矢作と庄崎の身体が絡み出す。庄崎は聾演劇で活躍する作家だ。背景にロールシャッハテストで用いるようなイメージが投射される。一連の映像は海外でも活動するCellのファンタスティックな世界だ。日々の流れの中から多層的な物語が描き出される。演劇的な作風と一線を画した内容で、矢作が踊るとシークエンスが展開し、次のシークエンスへと連なっていくといったように身体、演技、そして発話が互いに連なっていく。認知・脳科学は現代社会でも注目を浴び、舞踊学でもフロンティアだ。昨年から今年にかけてクオリアなどをテーマにした作品(三浦太紀(バレエ)、石山雄三(コンテンポラリー))と数多く現れてきた。人間の認知という行為に果敢に挑戦を見せた。


 古賀豊も自らのスタイルで挑戦を見せた。『Romeo VS Juliet』は恋人同士の恋愛をロマンティシズムと共に描いた。前衛演劇のセリフではなく身体の動きを活かした俳優のパフォーマンスから幕を開ける。まず男たちが空間いっぱいに集うとそれぞれの渇きと鼓動がスペースいっぱいに充満する。踊りそのものとピュアに向かい合う姿勢が伝わってくる大久保雅文の踊りが印象的だ。すると清らかな乙女たちも登場。キューピッドのような小松あすか、神秘的な皆川まゆむ、そして少女のような金沢恵美といった面々だ。すると愛し合いついに心中を迎えた男女の物語が朗読される。そして目の前には数組のアダージョが繰り広げられる。ワイルドな蓬沢太士と共に踊る稲川千鶴は実に幻想的だ。稲川は高い資質を持った踊り手でありより認知をされるべきだ。グラスマスな鈴木と清純派ともいうべき池田美佳が絡み合う。神秘的な空気を持ったCottsuと久磁恵里奈も愛の深みに迫る。白髭真二と金沢の初々しいペアからも目が離せない。『cuirasse』 die pratze special versionでは現代日本の状況が日本の60年代やジャンヌ・ダルクの物語と重ねられていく。やがて軍服姿の内田香が現れる。舞台いっぱいに現れた女たちと内田はお互いに笑いあい朗らかに踊る。前線の男たちが力強く踊ると、内田はドラマティックな演出と共に男から女へと姿を変えていく。古賀はモダン=コンテンポラリーの作家の中でも社会派と言われるこのように作品を並べてみると奥深い作家であることは解る。オリジナルな様式のさらなる確立が課題である。


 Kem Kemunimaku Projectは『あ、ぶれた』という作品を 上演した。踊り手たちが歩くいていくとお互いの動きがぶれあい、ずれあい、重ねあっていく。女たちが歩き出すとその手から水がこぼれ落ちる。その上を踊り手たちが歩くとひたひたと音が生まれる。肉体たちはひたすら歩き通し、お互いが発する空気が空間に立ち込める。そんなお互いの表情が融合を始めていく。演劇的な90年代的なコンテンポラリーダンスにないスリリングな作風は好意的に評価できる。
 小劇場は『アイデアやコンセプトで勝負」という部分がある空間である。しかし小スペースで評価を受けた芸術家たちを中劇場や大劇場という空間、あるいは長時間の作品というシチュエーションに持ち込んでも意外に通用しないということがコンテンポラリーダンスの作家たちを論じる上で90年代以後指摘をされることが見られた。「小劇場 / アンダーグラウンド=コンセプチャルな発想」という筋書きに収まりきらないアイデアや表現を打ち出すことが彼らに課せられた課題だろう(麻布die pratze 8月1日、13日 ソワレ 神楽坂 22日)

吉田サイト:http://yukihikoyoshida.hp.infoseek.co.jp/
ブログ:http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/

                                             西田留美可
マイケル・ペステルと工藤丈輝『stray birds-迷鳥舞戯』
 マイケル・ペステルが、手作りの楽器を持ち込み、鳥のさえずる声を奏でる。東京の真ん中の、薄暗い観客席―きっちり自分の体サイズだけ占有できる小劇場の中の一席―で、瞬時に広大な自然の中に放り出されたような気にさせられる。工藤のダンスはまさに音との駆け引きだった。引きずられたり、引っ張り返したりしながら、格闘した。踊りがなければ、マイケルの音楽は、自然をクリエイティブに再現したと思って終わるところだったが、工藤の踊りがあったために、いかに不撓不屈の強烈なマイケル独自の世界なのか、が明らかになった。工藤が乗るにせよ反るにせよ音に反応すれば、一つのダンスとして成立していくのだが、彼がマイケルを自らの世界に引き込もうとすると、彼は抵抗しようとして見える。工藤が音に身を任せて踊りだすと、鳥になってくる。音もまさしく鳥の声。二人のバランスとアンバランスな揺れが面白さを生み出していた。


神村恵×種子田郷 『うろ』
ある意味マイケル×工藤と対照的で興味深かったのが、この組み合わせ。種子田のノイズ系の音、採集した音の組み合わせは、マイケルよりずっと意図的、作為的で、硬質な質感がある。マイケルの音やリズムがいかに激したとしても、体を包み込み、どこか心地良い帯域の音域にあるが、彼は心地良さなどには、頓着していない。ボリュームレベルの振り幅も、最大から最小までを行き来する。神村は、小さな動きをリピートしながら、そこで生まれる体感を一つずつ確かめ、じわじわと自らの世界を外へ外へと侵食させていく。神村のダンスに、新たな世界が開けてくるかもしれない予感も感じさせられた。しかしコラボレーションとして見えてきたのは、互いの世界の距離の遠近感だった。近づいたり、遠のいたり。それ自体興味深く見えることもあったが、まだまだ凌ぎを削りあう余地が残っていたと思える。次なる展開がどのような方向性を持つのか、が楽しみである。


遠藤寿彦『エクリチュールの長い廊下/和声の構造』
ジャッキー・ジョブ『HECTISM』

 素材がいろいろあるのだが、面白くなりそうなところで次にいってしまう。作品自体が意図していることと、実際に見えてくるもの、未分化で混沌としており、渦巻いている。世界はそもそも混沌としている。それを見せるだけではまだ足らない。混沌をさらに蹴飛ばすか、突き落とすか、勇気を持って次のフエーズへ飛び出して欲しく思う。ジャッキーの作品は、その点で対照的だ。作品としてはわかり安過ぎる位だが、混沌に対しては、対決の姿勢がある。意図がシンプルなだけに、明快で力強い。内側で何度も噴火している人間的な感情の起伏を、そのままダンスにする、という力強さだ。人間を振り回す感情の表現は、説明的で「描写」の域に留まることが多いのだが、この作品は描写の域を超える臨場感があり説得力があった。


ささらほうさら『だいこんどの』
 福士たちの東北舞踏が大地の豊かさを背景に生まれた舞踏だとすれば、彼女たちの舞踏は、都会的だ。ファッションにせよ、音楽にせよ目も耳も肥えている。だから選ぶ衣装や音楽も、ファッショナブルな用い方ができるし、キュートな印象も残せる。ひょこりひょこりと異様な動きをしようが、ぷりぷり震えようが、かわいらしさと今っぽさが溢れる。4人の女性の動きの連なり方、シーンシーンが次々と展開していくスピード感、選択する音楽とそれに合わせるシーンの組み合わせ方、それぞれに彼女たちの生を謳歌する楽しさが溢れていて、見終わった後清涼感があった。どんな紆余曲折があろうとも、80、90になるまで踊り続け、元気な「ばあちゃんダンサーズ」になってもらいたいものだ。そこまで根性があったら怖いものはない。


大岩淑子『夜明けのしっぽを聴く(Listening to My Tail at Dawn)』
 「体の声を聞く」、というコンセプトは、舞台作品の中で現わしていくものなのか、創作過程で発見されるものなのか、それは観客にも見えるものなのか、その3点の違いは大きな課題であり難題であった。さらには大岩自身がダンスの中で掴みとり、確信している真実は、即興という枠組みの中で見せられるものだったのだろうか。長年即興を観客に見せ続けてきたオリビエ・ベッソンと、即興はせず常に振付して作品化するというスタンスの康本。一度に料理するには難しい二人だ。この二人と大岩がどのようにデュエットを組んだかで、出会いの違い、動きに対する感性の違いが見えた。オリビエと大岩の場合は、動きの連鎖をどう展開させていくか、に焦点があったし、康本と大岩の場合は、相互に動きの質感を変化させて楽しむことに焦点があたっているように見えた。今回の挑戦は、創作活動において次なる展開へのステッピングボードとなるに違いない。

西田サイト
website:http://quebec.pa-navi.org/
ブログ:http://blog.goo.ne.jp/qpan/

                                               志賀信夫

工藤丈輝VSマイケル・ペステル『迷鳥舞戯』7.3
 マイケルはフルートを吹く音も多種多様、この楽器からこんな音がという驚き。鳥寄せの笛などいくつも鳴らし、鼻の穴まで使い全身で音を表現する。案山子のようなオブジェに、さまざまな鳥笛や音の出るもの、アルミの灰皿までくっつけてあり、これを操って音を出す。「鳥機械」と称するが、そのフォルムも美しい。マイケルが全身で音楽を表現するのに対し、工藤も鳥になりきって踊り回る。音楽に対する反応を意識しているため、いつもの型破りさは弱まったが、丁寧にコラボレーションする意識が見え、時折、本当によく感応する場面が立ちあがった。だが工藤は鳥以外の動物になってもいい。マイケルは「鳥になりたい」といい、十分ダンサー的な感性なのだから。多彩なマイケルの演奏の音と姿に惹きつけられたが、この二人はいいトリ合わせだ。

岩渕貞太『mint』7.12
 1本目は畦地亜耶加とのデュオ。2人とも「伊藤キム+輝く未来」への参加など、実力があるダンサーで、自在に動ける部分、動かない部分などをコントロールして、作品を立てようとした。かなり見応えのある部分もあるが、全体としてエチュード的な感じに留まった。おそらく繰り返し練っていくと、いい作品になるだろう。2本目は岩渕のソロ。中央でほとんど移動せずに踊りつづける。真っ赤に塗った手を顔に当てて、顔を赤く染めて踊り続ける姿は、インパクトがある。たぶんモダンダンス創世記にもこういうダンスがあったのでは、と思わせる古典的手法ではあるが、移動せずにストイックに踊り続けたために、身体の存在感はかなり強く伝わったと思う。

ダニエラ・レーナー『Return of the Moon』7.13
 ダニエラは、オーストリアの舞踏家。大駱駝艦で修業してキャリアは6年。オーストリアに帰り舞踏グループを立ち上げ、この秋には初公演予定という。下手手前にツンのみでしゃがみ、動きだすポーズがなんともいい。美的意識がはっきりしている。そして捩れた姿勢のアンバランスさが魅力。だが、その景の終わりのあえぎ声はいま一つ。オリジナルと思われる前半の音楽と演劇的照明はうまく見せたが、音と踊りの関係がベタで、表情も作りすぎの感がある。捩れた身体の魅力に期待しよう。


正朔『廃人倶楽部 「雪の降る器」』7.13
 正朔は前のタイニイアリス公演同様、観客席前に後ろ向きで座り、立ち上がっても後ろ向きで長く踊る。ノイジイな音から次第に踊りが立ち上がってくる。しかし布を敷いて横になるあたりから、少々急いだ印象。モノを使うところこそ丁寧に踊らないと、「使っている」印象で、モノに使わされる。「月光」の曲でさらに甘くなった。そして激しく暴れるところ、曲がベタな印象だが、そのあとの「手」による「舞い」が生きた。そこで終わるかと思うと、スモークが雲のように漂い、新たな景が始まる。見応えがあり、展開がいい。かなり「踊る」舞台で、正朔の魅力がでた。ただ、少し削ぎ落としてもいい。


森繁哉 福士正一 阿部利勝『東北・芸能宣言』7.15-17
 コラボレーションと日替わりでソロ
 15(土)『稲作ダンス・農機具ダンス・農薬ダンス』 阿部ソロ
 16(日)『オドラデク道路劇場〜ぐるぐる』福士ソロ
 17(月・祝)『精霊の王』森ソロ
 阿部のソロは、若い細めだが鍛えられた身体でタイトに踊る。2日目の福士ソロは、白塗り、着物姿で腰を突き出し上半身を反らせたまま踊る姿に、独特の雰囲気と緊張を醸す。3日目は3人のコラボと森のソロ。森は老婆に扮したり、高下駄のように竹を引きずり、烏帽子に猿楽のような衣装と、コミカルさと日本的な雰囲気を重ねて魅せる。3人のコラボは飯を乗せ箸を立てた茶碗、舞台手前に御膳を置き、そこで3人が絡み戯れるという趣向。コミカルな芝居のような構成だが、楽しい。それぞれ青森、山形で活動しているが、日本の田舎性と舞踏がミックスして、独特の世界を作り出している。どこにもない舞踏、これまでにない世界を作り出している。いつも踊っている野外だとまた違った雰囲気だろう。


根岸由季『TANZ・AKTUELL』7.24
 「新人シリーズ4」のオーディエンス賞の作品。新人シリーズのときはソロだったが、今回は役者とダンサー人を交えて舞台を作った。縛られた状態で暴れて踊る冒頭にインパクトがある。山内克也(俳優)はバイト先のおじさんの奇妙な話を語り、カワムラアツノリ(初期型主宰)は体をくねらせる奇妙な動きで絡む。指によるボレロや化粧など、アイデアも惹きつける。色々な要素が入ったことを、面白いと評価できる一方、散漫になった部分もある。次にどういう「ネタ」で登場するか、楽しみだ。


マリー・ガブリエル・ロッテ『Mutability』8.1
 マリーは上手で上からの光、サスペンションのなかで体を緊張させて歪めた姿勢から、ゆっくりと動き、時折鋭い声を発する。背骨を強調したような衣装など、室伏鴻を思わせたが、海外で室伏とデュオも踊っていることでうなずけた。舞踏的な緊張とダンスの感覚が、欧米人のなかで混じりあって、個性を作っている。舞踏が海外で変化しているその好例を見た気がした。

イシデタクヤ『私をついばむ被虐の鳥へ』8.1
 イシデは日常的な姿で登場しながら、次第に身体の緊張を高めていき、舞踏家らしい本性を見せ始める。技術と力強さ、女性的な柔らかさなど、間違いがない力量を感じさせる舞踏家だ。しかし後半では黒いスーツでちょっとエンターテインメントの要素を見せた。その部分は賛否が分かれるところだろう。欧米のストリートでも長く踊ってきたその力は、劇場という枠をはみ出したほうが面白いかもしれない。

矢作聡子+庄崎隆志+野崎夏世『La trace』8.2
 矢作と男女2人、背景を白く分割してそこを光らせるという今風、コンテンポラリー風の装置。矢作は狂言回し的な役をこなし、他の2人はしっかり踊るのだが、そのボキャブラリーは凡庸。アイデア、動きも、雰囲気的には新しいのだが、全体を貫く感覚自体が「いま」のものにはならず、モダンダンスの枠組みのなかにあるため、コンテンポラリーダンス好きの観客を惹きつけられるかどうか。

神雄二DANCE MISSION『浄夜』『テーブルの下の蝿』8.5
 最初は神と川野眞子のデュオ。2人の愛を描くようなダンスで、眞子は奇妙な動きが僕には面白いダンサーだが、ここではそれを出さずに普通に踊る。最後にテーブルや食器を持ち出すが、激しい愛を交したあとの朝食というベタな発想だった。二つ目は役者を交えて、蜘蛛男とと女たちというダンスドラマのような展開。役者がなかなか上手い。冗長な部分を削ぎ落とせば面白い。エンターテイメント的であり、何か新しいダンスドラマのような世界の萌芽があるかもしれない。


今津雅晴×今津武志『In The Black Pool』8.8
 上手半分にスクリーン、そして映像を交えながら、かなり自由に踊る。しかしその工夫が今津の踊りを際立たせたかというと、もう一つそうではなかった。いいダンサーなのだから、もっとシンプルに音楽と照明を変える程度で踊り切ったほうが、彼の魅力が出たのではないか。例えば数曲の音と僅かな映像、そして光を狭めたスポット、サスペンションなどで肉体を際立たせる演出をすれば、かなりいい舞台になると思う。


山本萌『体通しの息吹き』8.10
 尺八の関野秀男と呼吸を交すところから始る。スーハースーハー、この部分はちょっと面白い。そして尺八ととも自在に踊る。前半はかなり踊りに入り込んでいたので、動きに見応えがあった。後半ちょっと意識が戻って素になった。

ルーカス・レドンド、ゾハ・コーエン、ヒメナ・ガルニカ、鶴山欣也『W.a.u. W.a.g.』8.10
 鶴山のところでワークショップを受けている外人ダンサーを鶴山が振り付けた。動きを制限して踊らせたのだが、最初のヒメナのソロも含めて、もう一つ個性が出なかったが、個々をよく見ると、なかなかいい動きをしている。見せ方と時間配分を変えれば変わった。そのなかで鶴山はいつもよりもしっかりと存在感を見せた。
 海外からのゾハ、ヒメナ、ルーカスら3人を舞台にのせた。よく見るとそれぞれ動きが面白いが、伝わりにくい。ヒメナのソロはあったが、もっと個々を立たせ見せる工夫が必要だった。鶴山はさすがにしっかり存在感を見せていた。


大岩淑子『夜明けのしっぽを聴く』8.10
 大岩淑子と康本雅子、岡本真理子は高校からの同級生。その康本とフランス人男性オリヴィエ・ベッソンの3人でのインプロコラボ。奥に衣装をいくつも吊るし、その場で着替えながら踊っていく。ある程度位置と設定を決めただけインプロということだが、康本はいつもの動きを制限して、シンプルに踊ることを心がけているようだった。また大岩も、後半の1カ所だけ、パワフルに踊った。フランス人はコンタクトインプロの専門家ということだが、体が重く、対象的な効果を狙ったとしても、魅力的な絡みとは思えなかった。もっと完全に動かない人として、オブジェ、物体的に扱ったら面白かったかもしれない。大岩と康本の動きにも遠慮が多すぎて、インプロの持つ偶然の魅力があまり感じられなかった。

KOGA DANCE『Romeo VS Juliet』8.13
 ロメオとジュリエットなどを題材とした小品を組み合わせて,演劇的なコントでつないだ作品。だがイラクなど時事的テーマを入れており、オヤと思わせる。きけば古賀豊は、つかこうへい劇団などに関係しているという。ヒロインを客演する内田香はさすがに美しく踊り、他に女性2人、男性1人のかなりいいダンサーがいるため、群舞もかなり充実していた。この劇場には多すぎるほどのダンサーが一杯で、その密度とともにの迫力。ダンスのパワーと楽しさが単純に感じられた。


ささらほうさら『だいこんどの』8.15
 大駱駝艦から自立し活動してすでに長い。中心となる安田理英のソロはさすがに巧みというか、アピールする部分は多いのだが、「慣れ」になっており、新鮮なテンションとはいいがたい。全体の構成もしっかりしているのだが、まとまりすぎて、舞踏のパワーのようなものが響いてこないように思う。また後半は少々冗長で音楽とも予定調和的。駱駝艦の「見せる力」は十分に継承しているが、そこに何を立てるか、他にはない「これは」というものが感じられなかったのは少々残念だった。

神村恵×種子田郷『うろ』8.16
 ともに頑固に自分の世界を追求し、広く受け入れられることとは対極にある。それがどう1つの作品を作るか、大きな見物だった。種子田は周囲の音が聴こえることを逆手にとり、屋外の生音をわざと流し外部と内部をつなごうとした。そこから深い暗い舞台に観客を落とす。「うろ」と名づけた大きな木にある洞穴。都市に闇の空間を作ろうとした。手前の巨大なスピーカーから重低音のノイズが観客に響き、その奥で神村が踊りを作ろうとする。踊りを立ち上げる瞬間を模索し続けることが、神村の中核だ。時にはそれは踊りになり、時にならない。しかしその感触がいかにスリリングであることか。表層的な意味でここに踊りはない。しかし本質的に踊りはここにしかない。踊れる技術を獲得しつつ、普通の身体で踊りを探す身振りが、瞬間瞬間に踊りを生む。それは種子田が他にない世界を模索する姿と重なる。神村は背後にドレープのついた黒い衣装を着たが、袋にもぐる場面とともに、音と踊りをつなぎ、見せる助けになった。背後に広がる闇をどう生きるかを感じさせる舞台だ。

ピンク『We Love Pink』8.19
 メンバーの磯島未来、加藤若菜、須加めぐみは東京女子体育大学ダンス部の若手だが、以前から黒沢美香とダンサーズでも活動している。そのため、技術も元気さもあると同時に、いい意味での「変な影響」を受け、アイデアの展開に非凡さが出る。今回はブルマ、体操着でマラソンなどスポーツネタをひとしきり行う。アイデア自体はノーマルだが、それよりもこの高校スポーツっぽさを倒れるまで走る、暴れることなどで、ダンス化するよりは、壊そうというそのモードがいい。テーマ曲を作って踊ったり歌ったりのニセアイドルごっこも、戦略としてキッチュに楽しめる。

遠藤寿彦『エクリチュールの長い廊下/和声の構造』 8.20
 下手半分に上から金属板のようなものが下がる。そのもとでひとしきり踊る。それから映像を自分で流し、フットスイッチで音楽をかけるなど、すべてを自分でこなしながら踊るというアイデアはいい。しかし踊りのボキャブラリーを制限して、最初に出した動きを使いそのままずっと踊る。動きを細分化してミニマルにでもすれば意味が出るだろうが、そうではなく普通に即興的に踊るので、新たな刺激がなかった。ちょっと装置とコンセプトに走りすぎた感がある。

ジャッキー・ジョブ『Untitled』8.20

 中央にサスペンション、限られた光だけでシンプルな動作から踊り出す。この冒頭は凄く美しかった。アフリカともラテンとも重なるリズム感とモダン、コンテンポラリーダンスのテクニック。しかしその後、自分の感情を描くようなダンスを踊り出したのは、ちょっと残念だった。こういうモダンダンス的な感情表現に、いまの観客は「嘘」を見出すのではないか。照明と音楽の使い方、見せ方などいずれも優れている。あとはこの感情表現をどう客観化するかが課題だろう。

KeM-kemunimaku-project『あ、ぶれた』8.21
 今年新年の新人シリーズで選ばれたグループ。縦の一方向に三人の女性が動くという、シンプル,抽象化された表現に徹するコンセプトがすばらしい。かつてポストモダンダンスの文脈でなされたことを、いまの観客にどう感じさせるか。それは彼らがまだ大学生など若い感覚で、歴史の模倣ではなく、自分たちの執着、こだわりとして、はっきりとコンセプトにしているがゆえに、すっと受けいれられた。あの時代になされている云々にとらわれすぎると、何もできなくなる。知識として知っていても、自分のオリジナルを信じれば、いい作品ができる。極論すれば、どの世界でも、そんなに本当に新しいこと、オリジナルはない。ただ、強く思い込み、執拗に行う意識が、そのアイデアをオリジナルにするといえるかもしれない。今回は縦の動きを横にして、途中入れ替わるなど工夫を見せた。グループの1人酒井幸菜もソロで、一方向の動きを斜めに生かした舞台を作っている。その意味では、このこだわりには裏打ちされた強さがある。

志賀サイト:http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4320/
ブログ:http://butoh.air-nifty.com/


                                            坂口勝彦

イシデタクヤ『私をついばむ被虐の鳥へ』
 イシデタクヤは影のなかからつかのま眩しい光に照らされて戸惑うように現れる。その滑らかさとぎこちなさが同居するざわめきはいったいどこから生まれるのだろう。舞踏なのかマイムなのか。ノイズっぽい音楽で異形の物体と化して四肢が震えて収斂するとき、そこには滑らかな足の動きがそっと寄り添う。抒情的な曲で嘆き悲しむ聖母のような過剰な情緒を身体に纏いながらも、震えて歪む腕と頭がかたむきながら冷徹に意味を破壊する。このパラドキシカルな身体はいったいどこからやってきたのだろう。そんな形而上的疑問をあざわらうかのように彼は黒衣のダンサーとなって颯爽と現れ、それでもどこか戸惑いながら、踊りまくる。音が消えてもそのまま動き続ける彼の身体はダンサーとしてのまとまりある身体から再び寸断され小間切れに切り裂かれてゆく……。即興を主とした彼の動きは、つかのまの強烈な出会いを辛抱強く待っている、彼を見る者だけではなく彼自身にとっての出会いを。


野沢英代『MATERIAL SONGS』
 既に幾度かなされた野沢英代のソロは、いつも真摯に身体を待ちつづけていた。そして今回も。日常的に耳にする鳥の鳴き声や足音やオルゴールの音などが背景から迫るノイズ音にかき消されたり前面に出たりして遠近感がつねに揺らぐなかで、からだが反応するのを野沢英代は静かに待っていた。何に反応するのだろう。彼女のからだを形成する過去の痕跡である身体の到来に反応するのだろうか。両手を真っ直ぐにさげて手のひらを前方にそっと差しだす体勢、『カフェ・ミュラー』のピナ・バウシュを思い出させるその姿は、自らを他者の他者として受け入れようとするかたちにも見えた。完成を目指すというよりは、方向性が定まらずにノイズのように身体に彷徨しているものを身体でていねいに受け止めようとする試みなのだろうか。こうした真摯な探求がまだまだ続いていきそうだ。

ピンク『We Love Pink! ?夏休み?』
 Jazzzz dance の台の上で、おそろいの制服に、たしかピンクの靴下を首に巻いて踊っていた3人が、今ではコンポラダンス界を賑わすようになった。体育大と黒沢美香に鍛えられた3人娘。前半は準備運動の如く、とにかく走りまわり、ストレッチやらヒンズースクワットやらをやり続ける。それだけでもう息が上がってしまうほど動き続けるこうした理不尽なまでの無意味な単純作業は、彼女たちのボスである黒沢美香のパフォーマンスを思い出させる。ぶったおれるまで動いたあとにようやくダンスらしい動きが始まるが、それが少々気の抜けたものに見えてしまったとしたら、それは前半で疲れてしまったというわけでも、海から上がったけだるさでもなくて、前半の動きの方が単純でバカみたいでありながら、おどろきに満ちていたからなのかもしれない。


遠藤寿彦『エクリチュールの長い廊下/和声の構造』

 遠藤の身体は鞭のようにしなやかに力強く自らの身体に巻き付きぶつかりはじけてくずおれる。その、自らのうちから自らではないものを顕わさしめて自らを複数化しながらつねに先回りして前のめりでねじれる身体は、意味をになう痕跡であるエクリチュールを追い越す身体のようだった。上からは棒が何本か吊り下がり、パソコンで制御された映像がスクリーンに映り、フットスイッチを踏むと和音が鳴る。などなどといった、物と映像と音が身体と戯れることになるのだが、そうした戯れあるいは関係性がお上品というか、いわゆるアートっぽいひとつのかたちにおさまっているようにも思えた。小物と戯れる必要などないほどに、彼の身体それ自体の動きが奇妙で力強くおもしろくあったのだが。

KeM-kemunimaku-project『あ、ぶれた』
 3人の女性が平行に並んでいつまでも歩き続ける。舞台の端までくるとくるりと回転してまた歩き続ける。ただ歩くだけ。いつまで続くのかと不安とめまいをおぼえるころ、平行線が交差して、歩く位置がこっそりと入れ替わる。遅れ出す者もいる。ミニマルミュージックのように、少しずつ動きがずれてゆき、ずれの振幅が次第に大きくなり、気づくと3人はそれぞれ勝手な動きをしている。その振幅も次第に消えて行き、単調な平行歩行運動に収斂してゆく。歩くという単純な運動から何が見えてくるのか。ロードムーヴィーのように、単調に移動する対象を見る者がいつのまにか対象に憑依して対象の身体運動を疑似体験するのだろうか。歩くという単純な行為が空間と時間の中で行われているというよりは、行為自体が時間や空間という感覚を産み出していくことの確認ないしは剔抉、とでも言いたくなるような鋭利なパフォーマンスだった。作品は終わらなくてはならない。3人は黒のブラとパンツになってはじけ飛んだ。爽快ではあるが、それまでのストイックな歩く行為を忘れさせる危険もあるように思えた。



                                                   宮田徹也

 2006年の『ダンスがみたい!8」は、ダンスと音楽のコラボレーションが目立った。近年のダンスは、美術作品との共演がメッキリ少なくなった。単に一緒の場所にいるだけの関係に、成り下がってしまった。その点、音とのライブは共に時間軸での戦いだから、面白い。しかしそれは、ダンスが何かに縋り、自信と訓練を怠っているようにも見える。それだけ今回は、心に残る公演が少なかった。繁栄の末の自滅的破綻にならないことを、期待する。

マイケル・ぺステル×工藤丈輝、7.4
 工藤は腹這に移動する。ペステルはそれをフルートで追う。鳥の様に飛び跳ねる工藤。鳥の音、鳥の動き。バードマシンが唸りをあげる。それはハン・ベニングのような繊細な音だった。工藤が退場、ペステルのソロ。再び金色の工藤が入場、終わる。淡々としながらも儀式的側面が発見できて面白い。両者のレヴェルが高く、安心して見られる。ライティングも巧い。銅鑼が客席上部にも設置され、それにめがけてペステルは矢を放ち、鳴る。

岩淵貞太×畦地亜耶加&solo、7.11
 男女が同じワンピースを着て同じようで異なる動きを見せる。軽快な音楽に全身を使った動きは小手先のものではない。女の手をペチペチ叩く、頭を抑える。互いに体当たりをする。それはまるで生きていることを確認しているかのようだった。ソロ。両手を握り締めて佇んでいる。手を広げると、赤い顔料が施されている。顔に塗りたくる。太鼓の音に合わせて体を左右に揺さぶる。それだけだ。一度止まり、飛び跳ねる。和風の意識が強い。


福士正一solo&森繁哉×福士正一×阿部利勝、7.16
 福士は、着物で登場する。その直立した動きは舞踏というよりも、女性的な色気の要素を多々含んでいる。J-POPが流れ、ギターを持った男が乱入して実際の曲を弾き歌う。福士はそれに合わせて踊り、終わる。Trioは圧巻だった。白塗りの三者は、箸を立てた御飯茶碗を持って寄り添う。死者の舞が始まる。森は本物の婆様のようだし、福士は何かに憑依され、阿部はイタコのように眼に見えない何かを操る。笑いを誘うのは、死を通過しているからだ。

イシデタクヤ、8.1
 暗闇の中から本当にゆっくりと光は溢れ、座って物凄いスピードで下を向きながら手を動かしているイシデを、やっと認識することが出来る。会場の、光と闇が逆転するような錯覚を受ける。場を変えた宇野敦子の照明に脱帽する。一度退場し、黒いスーツを着用して登場、立って踊る。裸体からスーツへ、座位から立位へと対比関係を見せるが、座っている時には立って、立っている時は座って見える。宇野の光に、イシデが答えたのだった。

山本萌×関野秀男(尺八)、8.8
 二人は座って向き合い、息吹と呼吸が対応する。山本は、猫の様に動く。白目を剥いている。宙に浮く足、柔らかい膝、足首と腰の連動の特異さが他の舞踏にない美しさを放つ。関野は歩き回り、様々な場所で様々な種類の笛を吹く。水を張ったバケツに笛を突っ込みさえする。山本がさまよい、何かを探している間に、関野は息吹に戻る。呼吸を発し、目を見開き、呆然とした表情のままの山本と関野は始めのように向き合って座って終わる。


大岩淑子×康本雅子×オリビエ・ベッソン、8.10
 小屋は白い空間に変化した。いつもより狭く感じる。奥には服が干してある。DJがディスクを回す。ポケットに手を入れ、客を見て笑う大岩。岩のようにうごめくベッソン。いつもの動きをする康本。三者は服を何度も着替えて、入れ替わり立ち代る。アフタートークで大岩は「即興」を強調するが、インプロヴィゼーションで同じ動きを繰り返すのは感心しない。康本に即興性はない。ベッソンのコンタクト・インプロは、全体の構成性がない。

神村恵×種子田郷×甲斐さやか、8.16
 蜘蛛の巣のような電子音を、神村はかわしつつ踊る。立ち、座り、寝転び、突然動き出し、止まる。神村が歩むごとに空間が生まれる。梁に上がり手のみを提示する。下に降りてしまった。確実な模索ではなく、断片と自己の動きの引用に終始した。現代フランス哲学が好きな人には面白いのであろう。黒いドレスは、神村が染み付けた自らの体の線に似合わない。それが互いの美しさを引き出す。ドレスは動きのフォルムを知り尽くしていた。

野沢英代、8.18
 ホワイトノイズが溢れる中、野沢は4機あるラジカセのスイッチを順番に入れてゆく。雨、海鳥、古時計、台所、電話、ドア、オルゴール、蝉、工場の音等、様々な音が重なり、消える。野沢は振り返り、屈み、座り、転がり、捩れ、足を入れ替える。足と肩が強く強力に稼動するのだが、抜けきれない。それは作り込みすぎている為か。自らに課したルールの為か。断片の空回りが、空虚を生み出していく。それは一つの美しさとも解釈できる。


ジャッキー・ジョブ、8.18
 中央後方で、曲に合わせて激しく動く。右の壁にへばりつくと赤いライトがジャッキーを照らす。中央手前に出てきてタップを行う。暫く動きは沈黙し、内面を表出するように声をあげ、黒いズボンと靴下を脱ぐ。ピアノ音が発するとなだらかに自己の腕を見つめ、歌い始める。まだ躊躇いがある。アベマリアが流れる。溢れるように踊りだし、始めの場面に回帰していく。長い手足、柔軟な体、スピード感、キメのポーズ、全てに嫌味がない。(完)

                                             竹重伸一

 今回の「ダンスがみたい8」シリーズを、私は、かなりの数の公演を観たが、その中で、全部を観た「インターナショナルシリーズ」の公演について、意見を述べてみたい。一つ印象に残ったのは、舞踏は外国人には難しいという固定観念が打破されたことだった。

マイケル・ペステル+工藤丈輝『straybirds-迷鳥舞戯』
 マイケル・ペステルには驚いた。ベースはフルート奏者なのだが、正規の音楽教育を受けたわけではないらしく、リズム感が独特、その上に、自作の奇妙奇天烈なオブジェ兼楽器を縦横に駆使し、さまざまな音も出す。しまいには、舞台の正面手前と奥の2箇所に吊るされた鐘に、口から吐き出した物質を、見事に命中させて響かせるなど、アナーキーかつポエティック。それに対した工藤は、残念ながら、鳥を思わせる動きもマイム的で、日常の次元から飛翔させるものがなかった。

ダニエラ『Return of the Moon』
 冒頭、舞台中央手前付近で、横座りで、左側の側面を観客に見せて、ほの白い照明の中で浮かび上がる。この姿勢から徐々に立ち上がっていくと、身体の肌に黄金色の光が当たり、非常に美しい。白い腰紐だけを付けた半裸の姿で、顔は白塗り、髪だけ赤茶色に染めている。動きは腕の表現に特徴があり、肩や肘の関節を上手く使って、独特の浮遊するようで、歪んだエモーションを醸し出す。全体のイメージの基調には、P・デルヴォーの絵画の影響があるかも知れない。月明かりの美しさと、その魔力が呼び起こす、自らの無意識に潜む性的欲望、獣性、暴力性といったことを印象付けられた。彼女は西欧人としては例外的に身体を縮ませてみせることを知っている。

正朔『廃人倶楽部「雪の降る器」』
 観客に、背中を向けて座っている所から始まる。ここから立ち上がって、ひとしきり背中を見せて踊る。この部分が、今回の踊りの主調音を奏でるはずだったと思うのだが、背中の表情には、もう一つ魅力が感じられず、作品の世界に入りそびれてしまった。ただ終盤近く、舞台奥から正面を向いて、両腕を真横に広げて、漂うように、舞うように前進してくるシーンは美しかった。こうした、ある種の鳥のような浮遊感に満ちた表現に、彼の美点はあるのに、やや無理に、年齢以上に老成した重い表現を、気持ちで創ろうとし過ぎているのではないだろうか?


マリー.ガブリエル・ロッテ『Mutability』
  冒頭、ほの白い照明の中、マリーの全身像が浮かび上がる。長身で、がっしりした骨格でグラマー。衣装はナイロン製みたいなベージュ色の透ける下着で、ノースリーブ、膝丈の長さ。所々に微細な模様が描かれている。この衣装はヌードと着衣の中間のような微妙な感覚を与えて、ヌードよりも反ってエロティックだ。彼女は観客と正対したまま動かずに、両腕の動きや身体のバランスの微妙な変化で、内面のエモーションの変容が表現されていく。中心軸がしっかりあって、すべての動きがそこに戻っていく。立っているだけで、両性具有的で硬質な存在感だが、その硬い身体の輪郭を溶解させようという方向性も見える。後姿も存在感がある。途中で屈み込んで、猫のポーズをとって鳴いてみたりもする。ただ床に横になってからの踊りには雑な所が垣間見られ、床と親和できない部分が意識の中にあるやうに思われた。


イシデタクヤ『わたしをついばむ被虐の鳥へ』
 下手の客席への通路から、ゆっくりとした歩みで現われ、身体を微妙に震わせながら、上手の奥へと舞台を横切っていく。小柄で細身の身体と相俟って、女性的な繊細さを強く印象付けられる。ただ、この後の踊りを追っていっても、この貴重な繊細さが、心理的な部分に留まっていて、身体にまで降りていっていないように見受けられた。中盤辺りで、黒の短パン一丁の半裸姿になって床に座り込み、両腕を上げてぶらぶらさせながら踊った所は、シルエットだけを浮かび上がらせた絶妙な照明との相乗効果で、骸骨の踊り、ヨーロッパでいうところの死の舞踏を想起させて秀逸だったのだが、こうした暗い部分よりも、明るい部分が多過ぎた様に思う。

ルーカス・レドンド+ゾハ・コーエン×鶴山欣也『W・a・u・ W・a・g・
 正確にはもう一人、コロンビア人の女性が加わり、カルテットの踊りとなった。最も印象的だったのは、冒頭の鶴山のソロで、ほの暗い照明の中、下手の奥のアルコーブから登場すると、両手を顔の横で微妙に動かしながら、首が据わらないまま小刻みに震え続ける状態で、舞台上をひとしきり漂い続ける。何ということもない動きなのだが、ある種の精神的不安感の見事な表現となっていた。この後、三人の外国人のトリオの部分となるのだが、残念ながら、鶴山の鋳態の意図が十分に咀嚼されているとは言えず、何かワークショップを見ているような気分になってしまった。全体的には、ゆったりとした動きの中に、静謐で詩的な美しさを感じさせる作品だっただけに残念だった。外国人三人に全て任せてみて、やりたいようにやらせてみても面白かったのではないか?

山本萌『体通しの息吹き』
 昨年のこのシリーズでは、カフカの「変身」のテキストを基に、オーストリアの俳優たちと「舞踏テアター」ともいうべき、演劇と舞踏の融合に一つの答えを出す作品を観せてくれた山本だが、その成功がソロ活動に於いては、逆にマイナスに作用しているように思われる。どうも、芝居仕立ての設定が先行し過ぎて、踊る身体の存在が置き忘れられているように感じられるのだ。この舞台でも、尺八の関野との、禅の修業を思わせるような腹式呼吸の掛け合いから始まり、関野を伴奏者としてではなく、共演者として、上手く作品に取り込んでいるのだが、それが舞踏としての面白さにつながっているようには思われなかった。


野沢英代『MATERIAL SONGS』
 野沢は、舞踏とコンテンポラリーの間で、自分の踊りを模索しているように思われる。白の半袖のポロシャツに黒の短パンという、ごくごく日常的でニュートラルな衣装。舞台には4つのラジカセが置かれ、海辺を思わせるような鴎の声や、室内を思わせるドアをノックする音、台所で包丁を使う音などか゜断続的に聴こえてくる。そうした環境音は、身体に刺激を与えるよりは、外側の状況的枠組みを与えることに作用して、観る側が身体に集中するのを妨げているように思われた。前回の「地図の作成」のソロの時は、舞台空間に身体一つで対峙して、未知の空間を創り出そうという方向性がはっきり見えていたのだが、今回は、コンテンポラリー流の滑らかな動きが多く、動きの軌跡の中に、身体の存在が消えてしまったようだった。ただ部分的に、例えば、床に座り込んで踊っている時に、腰から下が奇妙な形に歪む。こうした所に、他の誰でもない、彼女の存在を感じたのだが、残念ながら、その動きはその後、意識的に深められることがなかった。

ジャッキー・ジョブ『HECTISM』
 身体能力の高さというものを、まざまざと見せ付けられたダンスだった。身体自体は、寧ろ小柄で、日本人女性とさして変わらないのだが、50分程度の舞台の中で、バレエ、コンテンポラリー、ショーダンス、果てはタップのテクニックまでもが開陳され、しかも、どれを踊っても一流のレベルに達していることが感じられた。しかし、更に重要なのは、彼女が、そのテクニックの高さに安住せず、テクニックを超えた内面的な表現を求めていることだ。日本に来て舞踏を勉強しているのも、そのためだろう。冒頭とラストで繰り返された、舞台中央奥で、上から光を浴びて、立って静止したまま、腕や上体を激しく動かす場面は、中心軸が全くぶれない下半身の見事なコントロールが、激しいパッションと祈りのようなものを同時に感じさせて、特に美しかった。ただ、舞台に流れる時間自体は、西欧的直線的なもので、今後、舞踏的な時間観念をどこまで吸収できるかが課題ではないだろうか。


遠藤寿彦『エクリチュールの長い廊下/和声の構造』
 田中泯と土方巽に師事した経験を持つ、いわば、舞踏を出自に持つダンサー。しかし現在は、舞踏のコンセプトとはきっぱり縁を切っているように思われる。下手から中央にかけて、4本の白い細い棒が下がっており、更に中央奥に、着替え用のシャツが吊り下げられている。上手には、機器操作用の机と、その上方に、映像用のスクリーンが掛かっている。観客席側から登場して、始まるともなく始まると、流動的だが重力を無視したかのようなダンスが続く。肩を起点にした動きで、上半身を決して開こうとしない。そして、しばしばダンスは中断され、遠藤は、棒と戯れたり、機器を操作したりする。映像は、主に音楽の和声に関する説明である。そして、一度の着替えを挟んで、終わるともなくダンスは終わった。ポストモダンダンスのように、抽象的でニュートラルでありながら、どこか、遠藤自身の身体の癖も残っている。三次元ではなく二次元的なダンスを目指しているように見えるのだが、果たして、身体そのものが開く空間性を排除して、ダンスの豊か
さにつながるのだろうか?
掲載されている文章・写真の無断使用・転載を禁じます。all photos:田中英世