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保守主義とは、高貴な自由と美しき倫理の満ちる社会(国家)を目的として自国の歴史・伝統・慣習を保守する精神である。
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保守主義は、自由と道徳を圧搾し尽くす、全体主義(社会主義・共産主義)イデオロギーを排撃し殲滅せんとする、戦闘的なイデオロギーである。いざ戦時とならば、「剣を抜く哲学」である。

保守主義の哲学---自由主義経済学者A・スミス、F・A・ハイエク、M・フリードマンの智恵
―――――エドマンド・バーク保守主義―――――
―――――保守主義(哲学)の神髄―――――
読者の皆さん、及びこのブログへ初めて来訪の皆さんへ。
いつも私〔=ブログ作成者〕の稚拙なブログをお読み頂き、感謝するとともに深く御礼申し上げます。
(ブログ目次)
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自由主義社会では、ある個人が個人的な目的を達成(=成功)せんとして、その目的に向けて最大限努力すれば、その目的の“成功可能性”を高めることは必ずできるとは言えても、必ずしもその努力が「具体的な結果」を保障するわけではなく、成功という結果を得るには、“幸運の女神”の恵みを受ける“偶然”が必要なのである。
そこで、自由主義国家(社会)の政治(=政府)が、為すべきことの原則とは、
第一に、その国家(社会)の“正しい行動のルールの体系=法”の支配を確立し、国民に“法”を遵守させるために“法”に実行力を附与すること。
第二に、“幸運”に恵まれず「成功できなかった個人」に対し、その個人が失敗の経験を生かして再度、目的に向かって努力・挑戦できる機会を確保すること(→これが、本来のセーフティーネットの目的)である。
しかしながら、この自由主義国家の政府は、これらの自由主義の原則に基づく役割以外にも、以下のような「自由市場の外」で行うべき重要な役割が存在する。
(1) すべての国民の共同の努力によって供給することが共同社会の成員たるすべての国民の利益となると思われる公共施設を整備する役割
例えばある市にある道路網を建設する場合、これを自由市場で調整するのは困難である。
なぜなら、個々人がその道路網を使用することから得られる個人的利益と道路網建設のために個人が支払う分担金の割合の把握が困難だからである。
つまり、市場原理による価格の決定が困難であるため、政府が徴税などの強制的な財源確保によって、建設する必要があるのである。
(2) 国民全員に共通する危険に対する保護(=生命・安全の保障)の役割
国防、治安維持、防災など、政府は“法に基づいて”外敵、犯罪、災害などの危険から国民の生命・自由・私有財産を守る役割がある。
自衛隊・警察・海上保安庁・消防/レスキューなどの任務も、市場原理によって調達困難である。
(3) 国民全員に対する一定の生活最小限度の保障の役割
ここで重要なことは、自由主義国家の政府が行う生活保障とは、“ある限度の保障で全員にとって達成可能な、いかなる特定の個人あるいは集団のいかなる特権ともならない保障”でなければならないということである。
つまり具体的には“厳しい物的欠乏に対する保障”=“最低所得の保障”である。
これに対して「絶対的な保障で、それが自由社会において全員にとっては達成不可能な保障」という概念が存在する。
つまり「一定生活水準の保障で、個人あるいは集団の享受する水準と他の人びとあるいは集団の享受する水準を比較することによって決定される保障」=「ある個人が受けるに値すると考えられている特定の所得の保障」である。
読者の皆さんや良識ある日本国民は、この二つの保障概念を明確に区別して、現在の日本国の社会保障制度は、抜本的に改める必要があることを理解せねばならないであろう。
後者の保障は「福祉国家」を煽る野心、すなわち「所得の再分配」を保障するために政府の権力を握りたいという願望(=社会主義・共産主義などの本質である)と密接に関連する。
このように、後者の保障が特定の人びとが特定のものを得ることを保障するために政府の権力(=強制力)を用いるべきであることを意味するかぎり、それは異なった人びと(→例えば、富裕層など)に対するある種の差別と不平等な扱い(→比例課税ではない極度の累進課税など)を必要とするもので、自由主義国家(自由社会)とは両立しない。
日本国政府が、国家権力であるという理由かつ富裕者が富裕であるという理由だけで富裕層に極度に大きな累進課税をかけて、極端に多くの私有財産を没収することが「正義」であるという「社会的正義(分配的正義)」つまり、「○○弱者救済の正義」の論理は、果して正しいのであろうか。
例えば自由主義社会の貧しい村にある大富豪一家が引っ越してきたと仮定する。
そこで村の人口の2割程度を占める村の富裕村民の内の過半数の者たちが集会を開き、
「この村のわれわれ以外の残り8割を占める貧しい村民たちは、他の村や町の人びとと比べてもずっと貧しい暮らしをしているのだから、他の村や町の人びとの平均値程度に裕福になるくらいまではその大富豪宅から私有財産をいくら強盗しても、強盗する富の量は大富豪の所有する私有財産のほんの僅かな一部でしかないのであるから、この村の誰かが大富豪宅の私有財産を強盗してきて、その財産を8割の貧しい村民たちに2割の富裕村民たちの裁量で富を分配することは〈許され得る正義〉である」
と、議決して数名の村人が強盗を実行したとする。
さて、この村人らの行為について、被害者の大富豪が、村の警察署に強盗事件の通報をして、裁判所に対して、「村人たちの行為は〈何の正当な根拠もない、差別にすぎない不正義〉である」と提訴した場合、果たして裁判所は「村民の行為は村の8割の弱者である貧しい村民を救済する慈愛から発した行為であるから〈正義〉であって犯罪ではない」と、判決するのであろうか?
あまりも馬鹿馬鹿しい話である。
そのようなことがあり得るわけがない。
自由主義社会の司法の判断は必ず、強盗罪などの「有罪判決」である。
そのような行為は、司法が判断しても「正義であり犯罪で無い」と言える正当な理由は一切ないから有罪とせざるを得ない。
これを強引に「無罪である」と言いきるためは、マルクス主義の「搾取」論と「階級闘争」論、あるいはレーニンの「帝国主義」論さらには、ウェッブ夫妻のフェビアン主義などの概念を持ち出すしかないが、いずれを持ち出しても“自由主義社会”の司法判断では「有罪」にしか成りえない。
なぜなら、これを司法が「無罪」と判断してしまえば、自由主義社会の秩序は一切成立しないからである。
言っておくが、この問題の内容は、小学校5,6年生レベルの内容でしかない。
ところが、実はこの村人たちの行為を「正義である」とする論理が、社会主義・共産主義の社会的正義(=分配的正義)の本質であり、この社会的正義(=分配的正義)が日本国の社会保障制度の多くの部分(=徴税、赤字国債発行などで負担している部分)の理論的根拠とされているのである。
良識ある日本国民はこのことを十分に理解して真剣に社会保障費を“解体的に見直して大幅削減する”か“バッサリと廃止する”ことを主張せねばならないであろう。
なぜなら、皮肉にも日本国の国家財政(あるいは年金財政のみを取り上げても)「社会保障制度」によって「亡国・滅亡を保障される」危機的な債務超過の領域に達しているからである。
ハイエクはこの社会的正義について「全く正当な根拠のない空虚な決まり文句」と切り捨てる。
ハイエク曰く、
「(社会正義は)特定の要求を正当なものだと何の理由も挙げずに主張するためによくつかわれる空虚な決まり文句に過ぎない」
(『ハイエク全集 U−4』「哲学論集」、57頁)
「《社会正義》という語の徹底した中身の無さは、以下の事実がよく示している。
すなわち社会正義が具体的な事例において何を要請するのかについてどんな合意も存在しない
(→例えば「医療報酬や医療費に対する国庫負担割合」の妥当な額・割合について、厚生労働省の官僚が決定するのではなく、すべての日本国民あるいは代表者からなる、国会が議論して決定する場合、妥当な合意に結論するであろうか。不可能である。ただし、国会の与党などが政治的判断で強行採決したり、与野党が政治的に談合して決定したりする場合は、ノーベル賞経済学者であり、自由主義の政治哲学者であるハイエクの定義する「合意」には該当しないことは言うまでもない)
し、人びと意見が異なるときに誰の意見が正しいのかを決定するための既知のテスト(=行為の正しさを判断するルール)も存在しない。
さらに、自らのさまざまな目的のために自らの知識を使うことが許されている(=自己の利益を得る努力ができる)という意味で個人が自由な社会では、どのような分配スキーム(=すべての個人が合意できるどんな分配スキーム)もあらかじめ有効に考えだすことはできない。
それどころか、自らの行動にたいして個人が道徳的な責任をもつこと(→自由主義社会では努力の行為と結果としての報酬は必ずしも一致しないことを承認せねばならないこと)は、望まれるその種の包括的な分配パターンの実現とは両立しないのである
(→つまり、“自己”の努力が必ずしも“望んだ報酬”という“結果に結びつくとは限らない”自由社会において、人びとが(努力不足かもしれない)「他者」への「再配分のパターンに限っては、あらかじめ分配額を決定しておく」ということを承認し、合意できるわけが無いであろう、という意味である)」
(以上、『ハイエク全集 U−4』「哲学論集」、58〜59頁)
国家権力によって行われている「所得に対する累進課税とその再分配による社会保障制度」の理念と政策の本質とは、上記の貧しき村の2割の裕福な村民たちの集会での合意と強盗行為の本質と何ら変わらないのではないか?
そどころか、現在の日本国においては、政府が累進課税によって富裕層から過度に強奪した富を、「分配する必要の無い国民」にまで「過剰分配している」部分が社会保障の全体のかなりの広範囲を占めているかもしれないという問題である。
例えば、
「1,400兆円を超える日本の家計金融資産の約6割を、現在60歳以上の世代が保有している」
「住宅ローンなどの借入金を引いた純家計金融資産ベースでは、何と8割が、現在60歳以上の世代に集中している」
という事実などである。
(鈴木 亘『社会保障の「不都合な真実」』、日本経済新聞出版社、112頁)
つまり、日本国の現行の社会保障制度は、先に述べた二つの保障概念のうちの後者である「一定生活水準の保障で、個人あるいは集団の享受する水準と他の人びとあるいは集団の享受する水準を比較することによって決定される保障」=「ある個人が受けるに値すると考えられている特定の所得の保障」に偏っていると見てよいであろう。
なぜなら、そのことは以下のような愚政策とその実態を見るだけで自明だからである。
○ 一部の「生活保護者」の生活実態
○ 極めて根拠の不明瞭な「医療や介護への高いの国庫負担率」、2000年に設立の介護保険における「賦課方式」採用の愚行
○ 意味・目的が全く不明な「子ども手当の支給」
○ 「義務教育でない高校教育費」に対して、勉学意欲の有無に関わらず、「すべての人びと(在日外国人を含む)の一律無償化」
○ 賦課方式の年金制度導入という「将来世代いじめ」の年金制度
・・・、・・・、・・・、etc.
なお、ここで特記しておくべきは、賦課方式という年金制度などがもたらす、将来世代への負担の先送り(=押し付け、責任放棄)の問題である。
社会保障制度の成立に関する年表を掲載すれば、次の通り。
―――社会保障制度の成立に関する主たる出来事(年表)ここから―――
日本国の「福祉国家」路線の経緯
1949年(昭和24年)12月 身体障害者福祉法公布
1950年(昭和25年) 5月 生活保護法公布
10月 社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」
(→現在の「社会保障制度の体系」の基礎となっている。審議会のメンバー40名は社会保障制度審議会会長の大内兵衛を筆頭として、概ねマルクス主義者で構成)
1951年(昭和26年) 3月 社会福祉事業法公布
1960年(昭和35年) 精神薄弱者福祉法
1961年(昭和36年) 災害対策基本法
4月 国民皆保険・皆年金の実現(→日本国の「福祉国家」路線のスタート)
1962年(昭和37年) 「社会保障制度の総合調整に関する基本方策についての答申および社会保障制度の推進に関する勧告」
1963年(昭和38年) 老人福祉法公布
1964年(昭和39年) 母子福祉法公布
1969年(昭和44年) 東京都単独で児童手当実施、70歳以上福祉年金受給者の医療費無料化実施
1971年(昭和46年) 児童手当法制定
1973年(昭和48年) 老人医療費支給制度(70歳以上医療費の無料化、所得制限付き)(→「福祉元年」:田中角栄首相が命名)
健康保険法改正,健保被扶養者家族給付5割から7割に引上げ
9月 厚生年金法・国民年金法改正(物価スライド導入)
厚生年金5万円の実現
拠出国民年金は夫婦で5万円(受給者発生は61年4月)、10年年金(5千→1万2千)5年年金(25百→8千)引き上げ
1974年(昭和49年)12月 雇用保険法制定
1975年(昭和50年) 三木首相「生涯設計<ライフサイクル>計画」発表 (→三木武夫 首相が赤字国債の発行を制度化)
社会保障制度審議会建議書「今後の高齢化社会に対応すべき社会保障のあり方」提出
―――社会保障制度の成立に関する主たる出来事(年表)ここまで―――
年金制度は、1961年(昭和36年)の福祉国家路線のスタート時、つまり国民皆保険・皆年金制度のスタート時には“積立方式”の財政方式を採用していた。
“積立方式”とは自分自身が若年の時から積み立ててきた保険料で自分の老後(現役引退後)の費用を賄う“自助原則”の財政方式のこと。
この“積立方式”という財政方式は、前後の世代と無関係であり、世代間依存のない世代独立型の財政方式であるから、将来世代に負担が先送りされることはない。
ところが、1973年の田中角栄による「福祉元年」から1975年(昭和50年)の三木武夫の「赤字国債発行の制度化」という愚行を経て、高度経済成長時代に高齢者の年金受給額の引き上げと、低保険料率の維持が為されたため、積み立てられた積立金が取り崩され、この積立金不足を補填するために、若年世代が積み立てた積立金の一部を流用して当時の高齢世代の年金支給に充てるようになっていったという経緯がある。
このような自転車操業の状態が、1995年(平成7年)の村山富市内閣の社会保障制度審議会『社会保障体制の再構築に関する勧告』を経て、平成12年の厚生年金保険法の改正つまり法律「第4章の2 積立金の運用 (運用の目的)第79条の2」の追加によって、完全に「賦課方式」として合法化してしまったのである。
なお、ここでは、年金制度の主要論点である「確実に到来する年金破綻、確実に存在する年金純債務という債務超過問題、確実に存在する世代間格差問題」について触れると今回のブログの主旨を大きく逸脱するため、これらの議論は福祉国家・社会保障制度を解説するブログにまとめて、後日掲載するので了承戴きたい。
さて私〔=ブログ作成者〕は、上で「真剣に社会保障費を“解体的に見直して大幅削減する”か“バッサリと廃止する”ことを主張せねばならない」と述べたが、これは極論であろうか。
ノーベル賞受賞の自由主義経済学者であるハイエクは、欧州諸国の社会保障制度について、次のように述べているのだが、もし日本国の現行の社会保障制度の実態が、例示された欧州諸国と同じ傾向にあるならば、社会保障制度の抜本改革などさほど難しいものではないようにさえ思えてくる。
―――ハイエク『ハイエク全集T−7』「自由の条件V」、56〜57頁(ここから)―――
形式的な意味では、現行社会保障制度は民主主義的決定によってつくりだされたものであるが、受益者の多数がもし十分にその制度の内容を知っていたとしたら、実際に(社会保障制度の創設に)賛同したかどうか、当然疑いたくなるところがある。
・・・イタリアでは、平均的な半熟練労働者の仕事にたいするその使用者側の総支出の44%が国家に手渡される(=使用者側が労働者に支払うべき総支出の44%が労働者の社会保障という名目で国家に支払われる)で、彼らの暮らしは(社会保障制度のおかげで)楽になっていると本当に信じられるであろうか。
あるいは具体的な数字でいえば、使用者が労働者の一時間あたりの仕事に対して支払う(=時給)49セントのうちから彼らが受け取るのは27セント(=約56%、1位切り上げ)に過ぎず、22セント(=約44%)は国家によって(社会保障費として)彼のために支出されるからといって、(そのことを知った)労働者は暮らしがよくなると信じられるであろうか。
あるいは、もし労働者が(社会保障制度の)事情を理解しているとして、その(社会保障制度の)仕組み(を存続する場合)と(その仕組みを無くして)可処分所得が社会保障なしで(=なしの替わりに)2倍になる場合(→今まで時給27セントだったのが時給49セントの1.81倍になるため)との選択を許されるとすれば、彼は前者を選択するであろうか。
あるいはフランスの場合では、全労働者(の社会保障費のため)に向けられる額は総労働費用の平均約3分の1に達しているが、この比率は労働者から見て、国家が見返りとして提供する(社会保障)に対して(納得して)自ら進んで提供する額以上(になっているの)ではないであろうか。
あるいはドイツの場合は、総国民所得の約20%が社会保障行政の手にゆだねられている(=社会保障制度のために徴税されている)が、これは人びとが明らかに望むよりもはるかに多く、(を政府が)強制的な資源配分(=累進課税と所得再分配)にあてているのではないだろうか。
もしも、その金額が人びとに手渡され(=課税が減少し)、彼らが私的企業から自由に自分の保険を購入するとすれば(=選択の自由があるとすれば)、これらの人びとの大半は暮らしが楽になるだろうということを、まじめに否定できるだろうか。
( )内:私〔=ブログ作成者〕の補足説明
―――ハイエク『ハイエク全集T−7』「自由の条件V」、56〜57頁(ここまで)―――
私〔=ブログ作成者〕の意見:
「社会保障制度」を聖域とし、「厚生労働省の官僚や厚生労働族議員と民間特定事業者の特権」は一切削減しないで、歳入確保目的の名目で累進税率や消費税率や相続税の引き上げによる「大幅増税」を目論む民主党の税制大綱は、常識の領域を完全に逸脱した狂気であろう。
良識ある日本国民は、社会保障制度の「現状維持」のために「消費税増税などの増税による私有財産の強制没収はやむを得ない」という詐欺的な論理に簡単に「Yes」のサインを出してはならない。
況や、「消費税増税を口にする」政治家を見て、「言いにくい本音を述べる愛国心ある」政治家だ、などというような論理を180度反転した賞賛などをしてはならないし、制度改革論を全く語らずに、そのような増税論のみを展開する政治家は、「詐欺政治家」と見る方が正しい見方である。
そして政府、厚生労働省の官僚、国会議員らに対して、現行の社会保障制度の「政策毎」にその「仕組み」や「各世代の負担額と受給額の関係」や「中長期的な制度の安全性」や「政策の詳細な内容」、「所得再分配の状況」等々について、すべての日本国民が理解して納得できるように国会という公の場で徹底討論して国民に対する説明責任(アカウンタビリティー)を果たさせなければならない。
5.自由主義経済学者 A・スミス、F・A・ハイエク、M・フリードマンの智恵
5−1 ソクラテスの「無知の知」とハイエクの“自由主義経済学”
さて、ここで話を変えて、簡単な経済学の話をしたいと思う。
我々人間は、社会(国家)のすべてを知り、すべて理解し、そのすべてについて単一の計画を立てること(=計画主義)は不可能であるという「人間の無知=智力の限界」を謙虚に認めることが“自由”・“自由主義”・“市場原理”を理解するための第一歩である。
例えば、F・A・ハイエクは次のように述べる。
―――ハイエク『ハイエク全集T−9』「法と立法と自由〔U〕」、16〜17頁(ここから)―――
大きな社会における諸活動の全体的秩序がそこに基礎を置いている特定の事実のすべてを知ることは誰であれ不可能であるということにほかならない。
(行動の)ルールはわれわれが生まれながらにしてもつ無知に対処するための手立てである。
それだけが、これらのルールの意義を明瞭にするはずなのである。
(個人が自分の知識を用いて自由に追及する)異なる目的すべての相対的重要性にかんする合意が得られる全知全能の人びとのあいだでは、ルールの必要性などあり得ないであろう。
注:( )内は私〔=ブログ作成者〕の補足説明
―――ハイエク『ハイエク全集T−9』「法と立法と自由〔U〕」、16〜17頁(ここまで)―――
私〔=ブログ作成者〕の解説:
興味深いことに、このような当たり前の事実については、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが今から約2500年も前に以下のように述べたとされている(プラトン『ソクラテスの弁明』)。
読者の皆さんもよくご存じであろう、いわゆる「無知の知」である。
―――プラトン『ソクラテスの弁明』(ここから)―――
私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。
・・・この人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。
それで、私は彼にそうではないという事を説明しようと努めたのです。
・・・私は、一人になって考えたのです。
彼より私のほうが、知恵がある。
なぜなら二人とも善や美についてよく知らないと思われるが、彼は知らないのに知っていると思っているが、私は知らないので、知らないと思っている。
その点で私のほうが少し彼より知恵が優れていると思う。
―――プラトン『ソクラテスの弁明』(ここまで)―――
私〔=ブログ作成者〕の解説:
哲学者ソクラテスの表現を借りれば、社会主義者・共産主義者とは、「実は、ほとんど何も知らないのに、自分はすべてを知っていると思い込む」という「傲慢で致命的な思い上がり」をしている人間の典型である。
つまり、彼等は次の(1)から(3)のように思考して行動する。
(1) そもそも、“大きな社会における諸活動の全体的秩序がそこに基礎を置いている特定の事実のすべてを知ることは誰であれ不可能である”という事実を知らない、理解しようとしない。
真実は、誰であれ、“諸活動が基礎を置いている特定の事実のすべてを知ることは不可能である”から“人びとの経済活動のすべて”に関する「単一計画」を立てて、それに従って人びとの経済活動のすべてを集中的に監視・管理するのは「不可能である」。
(2) (1)の無知を知らない、理解しようとしないゆえに、人びとの経済活動のすべてが、中央当局によって決定された単一の計画に従って集中的に監視・管理されるのが正しいと考える(=正義を知っていると思い込んでいる、勘違いしている)。
なお、経済学上の「計画主義」、「計画経済」などの「計画」とは「(2)の意味でしか用いない」ことに注意。
というのは、経済活動とはすべて、あらゆる競合する目的に対応して資源の利用“計画”を行う決定であるから、経済学者がこのような最も一般的な意味での“計画”に反対するなどということは、絶対にあり得ない。
経済学者が計画に反対する場合は「計画」主義、「計画」経済などの「計画」の意味に対してだけである。
(3) そして、我々にとって、最も迷惑千万なのは、彼らが「計画主義が正義であると思い込むこと」だけに飽き足らず、その「傲慢で致命的な思い上がりである計画」に国家(社会)の他のすべての国民(人びと)を隷属させようとして現実行動に出ることである。
すなわち国家(社会)の“法”や“伝統”や“慣習”を破壊して、彼ら社会主義者・共産主義者などが計画するユートピア(→実際にはディストピアでしかない)へと国家(社会)を変革・革命して我々の“自由な価値観”を否定しようとすることである。
上記の(1)〜(3)の思想は、「夫婦(親子)別姓の議論」や「在日外国人地方参政権付与」論や「価値相対主義に基づくルソー主義の内容空無なジェンダー・フリー教育論」などの思想を法制化(=すべての国民に強制化)しようとする政府・国会の動向つまり、夫婦(親子)別姓法案、外国人参政権付与法案、男女共同参画社会基本法(立法済み)を見れば典型的である(→ここでは、「選択的」などの幼稚な詐欺的な形容詞に関する意味のない議論はしない)。
しかし、そのような考えは全くの誤りであり、人間理性を過信する、傲慢で致命的な思い上がりにすぎない。
例えば、現在の夫婦(親子)同姓を夫婦(親子)別姓に制度変更した場合に日本国社会にどのような混乱と悪影響が生じるのかを我々は予想すらできない。
できることは、共産ロシアのレーニンの政策やスェーデンの「国民の家」政策による婚外子率55%以上の惨状という過去の悪例から、学ぶことができるという程度である。
ここで、私〔=ブログ作成者〕は、我々人間が如何に無知であるのかを客観的に示す興味深い経済に関するあるエピソードを紹介する。
それは、ノーベル経済学賞受賞者で自由主義経済学者のミルトン・フリードマンらの『選択の自由』からの引用である。
(※F・A・ハイエク、M・フリードマンら、シカゴ学派の自由主義を“新自由主義(New-Liberalism):ハイエクの弟子である西山千明の命名”=“ハイエクの自由主義”と呼ぶ。Neo-liberalismは意味が異なるので注意。)
―――ミルトン&ローズ・フリードマン『選択の自由』「自立社会への挑戦」、日本経済新聞社、18〜22頁(ここから)―――
『吾輩は鉛筆である』と題する愉快な物語がある。
この物語は、自発的な交換のおかげで、何百万人といった人びとがどんな具合に相互に協同することができるのかを、生き生きと描き出している。
・・・物語の冒頭で、鉛筆君は、「私をどうやってこしらえるか、知っている人は一人もいない」と、われわれにはとても信じられない宣言をする。
その上で、一本の鉛筆をこしらえる過程において、次から次へと発生していくすべてのことを、(作者の)リードさんは説明している。
まず、最初に「カリフォルニア州の北部やオレゴン州に生えている一本の真っすぐなヒマラヤ杉」が材料の材木となる。
この木を伐採して、鉄道の引き込み線があるところまで木材を運んでいくためには、「のこぎりやトラックやロープや、その他にも数え切れないほど多様な道具や用具」が必要となる。
「のこぎりや斧やエンジンをこしらえるためには、鉱石を採掘し、鋼鉄をこしらえ、これらをさらに精練し精製しなければならない。
重くて強いロープをこしらえるのには、麻を栽培し、麻の繊維をつくり、その他あらゆる必要な過程へと、これを通過させていかなくてはならない。
材木切り出し小屋のためベッドも必要となるし、食事場もこしらえなければならない。
・・・それどころか、働いている人びとがそこで飲むコーヒーのどの一杯でも、これをこしらえるためには、まったく知られることがない何千人もの人びとが、いろいろな形で関係しているのだ」
と、リードさんは説明する。
このように、材料となる材木の切り出しのためだけでも、実に多くの人びとの数えきれないほど多様な技術やウデが、入りこんでくる。
リードさんはさらに、材木が山から製材所へと運ばれて製材され、さらに産地のカリフォルニア州からこの鉛筆君が製造されたウィルクスバリーへと運搬されていく過程も、説明している。
ところでここまでの物語では、まだ鉛筆の外部の木部に関することしか説明していない。
では鉛筆の中心部にある鉛芯は、最初から鉛芯だったかといえば、実はまったくそうではない。
それはセイロン島で採掘される黒鉛が、そのそもそものはじまりだ。その黒鉛が数多くの複雑な過程を経たあとで、ようやく鉛筆の中心になる鉛芯となることができる。
鉛筆の片方のはじっこ近くにある金属部分――金環――は、真ちゅうだ。
リードさんは、「亜鉛や銅を採掘し、またこうして採掘された自然の材料から、ピカピカ光った真ちゅう板をこしらえる技術やウデをもった人びと。こういったすべての人のことを、まあ考えてもごらんなさい」という。
消しゴムとして知られている部分は、この業界では「プラグ(詰め物)」と、通常呼ばれている。
この消しゴムを、普通の人はゴムそのものだと思いこんでしまっている。ところがリードさんによると、ゴムは、消しゴムのいろいろな成分を凝固させ弾性あるものとするためだけのものでしかない。消しゴムで「消す」ことができるのは、旧蘭領東インド(現インドネシア)から来た菜種油を塩化硫黄と作用させ、それでできるゴム様生成物「ファクティス」のおかげだというのだ。
こういった説明がいろいろとなされた最後に、鉛筆君は改めてこう宣言する。
「どうです、みなさん。これでも、この私をどうやってこしらえるかを知っている人はこの地球上に一人もいないという、私の主張にまだ挑戦してみたいと思う人が一人でもいらっしゃいますか」と。
鉛筆を生産する過程に加わった何千人もの人びとの、どの一人をとってみても、その人がその人の分担の仕事をしたのは、鉛筆がほしかったからでは決してない。
その何千人もの人のなかのある人びとは、この世でそもそも鉛筆なるものを見たこともなければ、鉛筆がいったい何のためのものなのかさえ知らないかもしれない。
たとえそうではなくても、何千人もの人びとが鉛筆生産のため、それぞれなりの仕事をしたのは、それぞれなりに(自分が)ほしいと思った(自分の仕事に関係のないであろう)他の財貨やサービスを手に入れるための手段のひとつとしてだったのだ。
彼ら(=鉛筆生産に関わる人びと)がほしいと思った(鉛筆以外の)財やサービスは、鉛筆をほしいと思い、鉛筆を手に入れるためのおカネを稼ぎ出そうとして、われわれ(=鉛筆を欲する人びと)が(鉛筆生産に関わる人びとのために)生産したり提供したりしている可能性が大きい。
われわれがお店へ行って鉛筆を買うときには、いつもわれわれは何千人もの人びとが鉛筆生産のため寄与したサービスの極小部分と、われわれ自身が提供したサービスの小部分とを交換しているということだ。
それにしても、もっと驚くべきことは、そもそも鉛筆なるものが、チャンと生産されているという、この事実そのものだ。
鉛筆の生産に関係したあの何千人もの人びとに対して、誰かが中央集権的な本部にいて、いっせいに命令を下しているというわけではけっしてない。
このように、そもそも命令が下されていないのだから、命令が貫徹されるように強権をふるっている憲兵が、一人でもいるわけがない。
しかも、あの何千人もの人びとは、あちらこちらの諸国に住んでいて、異なった言語をしゃべり、いろいろな違った宗教を信仰しているだけでなく、ひょっとするとお互いに憎悪しあっている可能性さえある。
そうだというのに、このような相互間の相違は、鉛筆を生産するためお互いが協同するのに、なんの障害にもなっていない。
どうして、こんなことが可能なのだろうか。
この疑問に対して、アダム・スミスが二百年も前に、答を与えてくれている。
・・・アダム・スミスが『諸国民の富』と題する著作で示したすばらしい洞察のなかでも、もっとも大事だと思われるもののひとつは、実はきわめて簡単なことだ〔実のところ、あまり簡単なことなので、かえって逆に人びとに誤った理解をもたせてしまうこともある〕。
それは、二人の人や二つのグループの間で行われる交換が、当事者たちの自発的な意志にもとづくものである限り、その交換によって利益をえることができると、どちらの側も信じているのでなければ、交換が実際に行われることはない、ということだ。
経済学上の誤った考えの大半は、この簡単な洞察をおろそかにして、この世の中にはつねにある一定の大きさのパイ〔洋菓子〕(=富の量)しかないと考え、したがって誰かが利益をえるためには、必ず他の誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう傾向(=迷信)から発生してきている。
スミスの簡単な洞察がどんなに正しいかは、問題が二人の個人の間のことであれば、誰にでも明らかなことだろう。
ところが世界のすべての場所に住んでいる、無数といってもいいほど多くの人びとが、それぞれなりの利益を促進するために相互に協力できるようにするには、いったいどうしたらいいかということになると、問題ははるかにもっと難しくなる(→人間の智恵では理解不能=無知である)。
世界の多くの人びとが、どんな中央集権的な命令も必要としなければ、お互いに話し合ったりお互いを好きになったりすることさえも必要とせず、しかもお互いが協力しながら、それぞれなりの利益を促進できるようにするという仕事を、われわれのためにやってくれるのが「価格機構」だ。
たとえばあなたが鉛筆や毎日のカテであるパンを買うときに、その鉛筆やパンの原料である小麦粉が、白人か黒人か、それとも中国人かインド人か、いったい誰によって生産されたかは、あなたにはまったくわからない。
このように価格機構は、他の側面ではそれぞれなりに自分で考えたやり方で活動している多数の人びとが、その生活のある一局面では平和に相互に協力しあうようにしてくれている。
アダム・スミスが天才としてのヒラメキを見せたのは、売り手と買い手との間における自発的な交換〔これを簡単にいえば「自由市場」〕から発生してくるいろいろな〔相対〕価格が、それぞれなりに自分の利益を追い求めている何百万人もの人びとの活動を相互にうまく調整し、その結果、すべての人の生活が以前よりはよくなるようにしてくれるのだと、気が付いた点だ。
「それぞれなりに自分自身の利益しか追求しておらず、経済秩序を生み出そうなどとはまったく意図していないというのに、これらの多数の人びとの活動は、結果的にそのような秩序を発生させることができるのだ」
という考えは、アダム・スミスの時代においてひとつの驚くべき考えだったが、今日においてさえ依然としてそうだ。
価格体系は、あまりにもうまく、あまりにも効率よく作用するので、ほとんどの場合、われわれはその存在(=価格体系の市場秩序の形成力)に気がつかないでいる。
価格体系が機能できないように、なんらかの要因によって阻害されるまでは、これがどんなにうまく機能しているかを、われわれが認識することはまったくないし、また、阻害されてようやくこれに気がついたときでも、ではそこで発生した困難の源泉が何であるかを認識できることはほとんどない。
注:( )内は私〔=ブログ作成者〕の補足説明
―――ミルトン&ローズ・フリードマン『選択の自由』「自立社会への挑戦」、日本経済新聞社、18〜22頁(ここまで)―――
私〔=ブログ作成者〕の解説:
M・フリードマンの「鉛筆君」の生産過程についての平易な解説の中に、実は多くの経済学の基本原理が含蓄されている。
(1) 企業間“分業”
近代経済学の祖と言われるアダム・スミスの説く真の“分業”とは、「一定製品をつくるために計画されたプロセスの諸段階に別々の個人が連続的に寄与していく企業(ある仕事場)内での設計・計画された手はず」の意味ではなく、“市場を通して行われる最終生産物(例えば「鉛筆」)の製造に不可欠な原料・道具・半加工製品を供給するにあたり、多数の企業主体が行っているさまざまな努力の間の市場の調整機能”の意味である。
(2) 自由市場で行われる交換の持つ意味
アダム・スミスの「二人の人や二つのグループの間で行われる交換が、当事者たちの自発的な意志にもとづくものである限り、その交換によって利益をえることができると、どちらの側も信じているのでなければ、交換が実際に行われることはない」の言説に含まれる最も重要な意味は、“自由市場における交換は、すべての交換の担い手らがその交換によって利益を得ることができるという高い確信が持てる場合でなければ、成立しないということ”にある。
これを裏返して言えば、“自由市場で交換が成立する場合に限って、交換の担い手すべてが利益を得る確実性が高いこと、つまり交換の担い手すべての富の量が拡大する確実性が高いから、市場全体の富の総量が拡大する確実性が高いこと=経済が成長・拡大する確実性が高いこと”を意味するのである。
ゆえに、ミルトン・フリードマンは「経済学上の誤った考えの大半は、この簡単な洞察をおろそかにして、この世の中にはつねにある一定の大きさのパイ〔洋菓子〕(=富の量)しかないと考え、したがって誰かが利益をえるためには、必ず他の誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう傾向(=迷信)から発生してきている」と述べているのである。
日本国でしばしば行われる議論「自由主義経済における勝ち組・負け組二分論」とは、このアダム・スミスの簡単な洞察を忘却し、経済の成長(拡大)原理を一切無視し、「一定不変の経済のパイ(富の量)」の奪い合いの論理であり、フリードマンの言う「経済学上の誤った考え」であるのが容易に分かるのではないか。
このような暗愚な議論しかできない経済学者や経済専門家などと言われる人びとが21世紀の日本国が取るべき道は“新自由主義の方向”か「福祉国家の方向」か、などと議論ずるのは、高校生レベルの経済雑談であり、聞くに堪えない。
少なくとも言えることは、政府が自由市場に大きく介入する「福祉国家路線」によって、経済のパイが拡大(=経済成長)できるなどという誰もが認める「経済学の原理」などは、現在まで古今東西どこにも存在しないということである。
(3) 価格機構は市場のシグナルである
自由市場の成功は、企業間分業と分業分野における企業の専門化にかかっているのだが、同時に市場がそれらを可能にしている。
我々は、フリードマンの「鉛筆君」の生産過程で見たように、企業間分業が確実に成立していること(=市場の機能が働いていること)は認識できるが、そのシステムの構造・機構のすべてについては決して認識できない。つまり「無知」なのである。
この人間の「無知」を補って、自由市場での交換を成立させる役割を代替しているのが“価格機能”なのである。
生産者が市場で見いだすいろいろな“価格”は、今後何を生産すればよいのか、それを生産するために何をすれば利益を得る確実性が高くなるのかを生産者に教えてくれる。
そして生産者は“価格”という“市場のシグナル”から、かかった経費を取り戻すに足る価格で売れると期待できることを知り(→アダム・スミスによれば、この“期待できることを知る”ことが、“自由市場”において“交換が成立する”ための必要条件なのであった)、また、特定の財やサービスの生産に費やす資源の量を最小限にできる(=さらに“価格”を下げることができる)ことを知るのである。
(4) 分配行為が存在しないところに「分配的正義(=社会的正義)」など存在し得ない。
誰も分配しなければ、「分配的正義(=社会的正義)」など存在し得ないのであるから、自由な市場経済の結果に対し「社会的正義」の概念を適用して、正義とか不正義とかを論ずること自体が不適切であり誤謬である。
5−4 ハイエクの自由主義経済理論における“分業”と“価格”
さて、私〔=ブログ作成者〕の解説だけ
(→といってもハイエクやフリードマンの自由主義経済思想を私〔=ブログ作成者〕の言葉で〈誰にでも解る程度に簡単に?〉書き直しているだけなのであるが)
では、物足りない読者の皆さんも多いであろうから、“分業”と“価格”に関するハイエクの経済理論を引用して、今回の、私〔=ブログ作成者〕のブログを締め括りたいと思う。
―――ハイエク『ハイエク全集U−4』「哲学論集」、63〜64頁(ここから)―――
専門化した知識にもとづき、各人の目的がどうしても異ならざるをえず、そして各人の努力が未知のパートナーとの将来における生産物交換に向けられるようになった社会(=大きな社会)では、社会の秩序と平和の基礎として、しだいに具体的な共通目的(=小さな社会において、よく知る仲間の必要性のみを満たせばよいという具体的で可能な目的)に、共通の行為ルール(=開かれた抽象的な社会では、個人が自らの知識を自らの目的追求のために使うに際して、各人が同一の抽象的な行為のル−ルの体系=“法”を遵守することから生じる秩序)がとって代わった。
個人と個人の相互のやりとりは、一つのゲーム(=ルールを遵守した自由な取引)となった。
なぜなら、それぞれの個人に求められるのはルールの遵守であって、(最低限)自分自身や家族を養うこと(=家族の衣食住を満たすこと)は(義務であるから)別としても、(その他のやりとりの)具体的な結果に関心を持つことはない(=ルールを遵守して行為しても、必ずしも望んだ結果を得るとは限らないという意味)からである。
このゲーム(→ハイエクはこの市場ゲームを「自由参入」、「自由交換」の“カタラクシーのゲーム”と呼ぶ)をもっとも効率的にしたがゆえに徐々に発展してきたルールは、基本的に所有(=私的所有、私有財産)と(交換)契約の法というルールであった。
そして、これらのルールが今度は、分業の継続的深化と、分業が機能するために必要な独立した諸活動間の相互調整(→分業の漸進的深化・進化によって、分業に関する“自由と秩序”が同時的に自然発生し、自然成長していくこと)とを可能にしたのである。
―――ハイエク『ハイエク全集U−4』「哲学論集」、63〜64頁(ここまで)―――
―――ハイエク『ハイエク全集U−7』「思想史論集」、104〜105頁(ここから)―――
(アダム・スミスの)分業に関する有名な議論が果したもっとも重要な貢献とは、(小さな部族社会における)親しい仲間によく知られた具体的なニーズや能力によってではなく、貨物の需要・供給を市場で調節する抽象的な価格シグナルによってその活動を支配される人間こそが、「どんな人間の叡智や知識をもってしても十分に」見渡すことができない(=すべてを知ることができない)ような「大きな(=開かれた)社会」の広大な領域のために奉仕できる、という認識であった。
個人は「その理解力の狭隘さ(=すべてを知りえないという意味の無知)」にもかかわらず自らの知識を自らの目的のために使用するのを許されることで〔スミスは「自らの利益を、平等、自由、正義の自由な計画の基礎(=法の遵守)のうえで、自らのやり方で追求する」と書いている〕、その人が知ることのできる範囲をはるかに超えた世界にいる人びととそのニーズのために奉仕し、またそれらの人びととその技能をもちいることができるようになる(→「鉛筆君」の生産過程を述べている)のである。
たしかに大きな社会が可能となったのは、個人が自らの努力を、目に見える欲望にたいしてではなく、価格シグナルが示すような、支出以上の収入を獲得する(=純粋な金銭的利益を追求する)可能性に対して向けることによってであった。
大規模な商業中心地が豊かになったやり方によって、個人は、その隣人の認識可能なニーズと能力でガイドされる場合(=小さな部族社会のやり方)以上に大きなニーズに奉仕し、多くの財を生産できることがわかったのである。
アダム・スミスが利己主義を説いたというのは誤謬である。
スミスの中心的な主張は、増大した生産を個人がいかに使用すべきかについて語るものではなく、またその(=スミスの)同感(という概念)とは、その増大した所得が仁愛をもって用いられることに関わっている。
彼は、人びとが社会的生産物にできるだけ多くの貢献を果たすことが可能になる(=企業間分業による経済の拡大・成長)ための方策に関心を持ち、そのためには、彼ら(=供給者)のサービスがその受け手(=需要者)にとってどれだけの価値を有するかによって支払われることが必要である、と考えていた(だけである)。
―――ハイエク『ハイエク全集U−7』「思想史論集」、104〜105頁(ここまで)―――
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【平成23年1月24日】
エドマンド・バーク保守集義者(神戸発)