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(バーク保守主義の神髄)
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保守主義とは、高貴な自由と美しき倫理の満ちる社会(国家)を目的として自国の歴史・伝統・慣習を保守する精神である。
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保守主義は、自由と道徳を圧搾し尽くす、全体主義(社会主義・共産主義)イデオロギーを排撃し殲滅せんとする、戦闘的なイデオロギーである。いざ戦時とならば、「剣を抜く哲学」である。
(英国)




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エドワード・コーク |
ウィリアム ・ブラックストーン |
エドマンド・バーク |
ウィンストン ・チャーチル |
マーガレット ・サッチャー |
(米国)




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アレグザンダー ・ハミルトン |
ジェームズ ・マディソン |
ハンナ ・アーレント |
フリードリッヒ ・ハイエク |
ロナルド ・レーガン |
(注)ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は保守哲学の系譜上にある名著であるが、アーレントは真正保守主義者とは言えない。
ハイエク(オーストリア)は、自身の思想の立場を「英国の旧ホイッグ党員のホイッグ主義(=真正自由主義)者である」(『自由の条件V』)と述べているから、英国に含めるべきであろうが、英国にも米国にも在住していたため、紙幅の都合上、米国に含めた。
その他の真正保守主義者たち





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アクトン卿(英) |
トックヴィル(仏) |
オルテガ (スペイン) |
カール ・ポパー(英) |
ベルジャーエフ(露) |



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ウォルター ・バジョット(英) |
ヒューム (英・スコットランド) |
ドストエフスキー(露) |
(日本国)


井上 毅 與謝野 晶子
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---はじめに--- このホームページの内容は、中川八洋 筑波大学名誉教授の著作群によるところが大きい。 それは、良識ある健全な日本国民に真正の「保守主義とは何か」を唯一、最も明確に定義・解説する著作は、“エドマンド・バーク研究の第一人者”であり、日本国の“真正の保守主義者(=バーク保守主義者)”であり、“碩学の政治哲学者”である中川八洋先生の著作群しかないからである。 中川八洋 筑波大学名誉教授の著作を読めば、誰でも「目から鱗」の大洪水となる。このホームページの目的は、概略すれば以下の三つである。 @多くの日本国民が政治とその背後にある政治哲学を理解し、また、「日本国民の自由の淵源としての日本国の“法の中の法”である天皇及び皇室」=「皇統」を守護する義務をわれわれ全日本国民が負っていることを理解し、21世紀の日本政治の頽廃状況とそれを見抜く「政治読解力」の基礎知識を養って欲しいこと。 A「大東亜戦争とは何であったのか」をいわゆる、東京裁判史観(自虐史観)の観点からではなく、バーク保守主義の観点(→昭和という時代を支配した思想・哲学を徹底分析する観点)から、徹底的に歴史事実を再検証し、その正当性の有無について結論する。そしてその教訓を21世紀の日本政治に役立てて欲しいこと。 B“法の支配”、“立憲主義”、“世襲の原理”、“自由主義”などの文明社会の悠久の繁栄に絶対的に必要な政治諸原理 未来とは暗闇に満ちた未知の世界である。政治はその暗闇を祖先の遺してくれた、過去の歴史・伝統・慣習という懐中電灯で模索しながらゆっくりと注意深く漸進していくものである。自然科学や科学技術は確かに急速に進歩する。 しかし、人間精神や文明社会の政治制度などは、自生的自由秩序によって漸進的な自然成長を遂げるものであるから、文明社会を設計主義的合理によって人為的に急速に進歩させることができると妄想し、現実社会で実行すれば、“自由”は破壊され共産ロシア(旧ソ連)やナチス・ドイツなどの“暗黒の全体主義社会”へ転落する。 例えば人間精神について言えば、紀元前の「儒教や仏教やキリスト教」などより優れた宗教や道徳の教えが、紀元後約二千年以上経つが、世界に発生しただろうか。『論語』などを超える人徳に関する教えが発生しただろうか。 「全くない」と言っても概ね間違いではない。 逆に、人間精神は平等主義や進歩主義や未来主義に起源をもつ社会主義やマルクス主義や共産主義(=マルクス・レーニン主義)によって「無神論・唯物論・無宗教・無道徳・無責任」へと大幅に退歩したが“進歩”することなど決してなかった。 文明社会の政治制度も全く同じことが言えるのである---等々を日本国民に理解してほしいこと。 以上の3点などの解説に、ささやかでも貢献できるならば、私〔=ホームページの製作者〕にとって幸いである。 |
『エドマンド・バークの系譜・真正保守(自由)主義:目次』
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バーク保守主義とは |
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啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーの正体 |
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2−1 ルソー主義の呪縛を滅すための試書 |
日本国の“復興”と“自立”への道標(平成24年4月29日) |
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日本では神聖化されるフランス革命(人権宣言) |
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誰が決めた?生得の権利(人権・主権・平等) |
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進歩主義と全体主義(社会主義・共産主義) |
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バーク保守主義から見た改憲論の“正”・「悪」の判断基準 |
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バーク保守主義から見た大東亜(太平洋)戦争の歴史事実 |
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ブログ「保守主義の父」エドマンド・バーク保守主義 |
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「権利の章典」の全文邦訳(→HP&Blog作成者による) |
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PHP研究所(抜粋) |
「世襲(相続)」の哲学 |
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エドマンド・バーク『旧ウィッグは新ウィッグを裁く』 (一部抜粋、邦訳) |
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英国の偉大なる宰相、MARGARET・THATCHERのバーク保守主義 |
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日本国民の道徳の復興に向けて ---サミュエル・スマイルズ『品性論』 |
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日本書紀〜明治皇室典範:日本人の天皇(皇室)観 |
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英語原文・邦訳文対照(順次掲載作業中) |
※ 現在、ホームページの更新作業中ですが閲覧に支障はありません。
上記1.〜4.については、目次の表題をクリックしてください。個別ページへ移動します。
5.進歩主義とマルクス・レーニン主義───「宗教・神話主義」
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内容項目 |
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十九世紀はデカダンス(=虚無的、退廃的傾向)の世紀であった。
十八世紀のコンドルセ以来のその後継者たちは、サン=シモン/コント/ヘーゲル/マルクスと続き、進歩史観(進歩の宗教)が十九世紀に完成した。また、ダーウィンらによる「(人間の)進化」という単なる仮説が科学として受容され、世界の常識となり、その「数十万年の進化」説が、数十年でも進化する、にすりかえられ神話化して、この「進歩」の宗教と「進化」の神話とが相乗効果をなして、また、現実における科学技術の明白な進歩に傍証され幻惑されて、「人間の進歩」「社会(国家)の進歩」という虚構が信仰されるに至った。
フランス革命という十八世紀の全体主義の源流は、この十九世紀の「進歩」の教理によってその水量をさらに増やして社会主義(全体主義)の二十世紀になだれ込んでいったのである。文明を形成してから高々数千年の歴史しかない人間に、“科学技術の技術知の進歩”は別として、「人間精神(=道徳)の進歩」や「政治社会(=政治道徳・制度)の進歩」は全くないと言ってよい。いやむしろ、近代のフランス革命以来、人間も政治社会も、進歩とは逆の“退行(退歩、退化)”をしている。人間の“退行”であり、政治社会の“退行”が生じているのである。
そして、この「ダブル退行(退歩、退化)」を進歩史観や進化論の謬説そのものがさらなる元凶となって加速したのであれば、人類にとっては何という皮肉な悲喜劇であろうか。ブルクハルトは次のように嘆じている。
ブルクハルト曰く、
「<現代>は、しばらくは字義通り進歩として通り、それにはさらに精神の完成いな道徳性の完成に向かうかのような最も笑うべき自惚れが結び付いた。・・・・(しかし、人間の)精神はすでに早くから完成していた。・・・・古代に既に一人の人間が多くの他人のために生命をささげたとするならば、それ以後、もはやそれを越えたためしはなかった」
これが正しい人間観察であろう。紀元前四世紀頃のデモクラシー下のアテネの人々と近代デモクラシー下のヨーロッパ人とを比較において省察したブルクハルトの指摘するごとく、フランス革命(1789〜94年)以降は、政治社会の“負の進歩”と人間の“負の進化(退化)”こそが、真実である。近代とは科学技術や産業社会の絶大なる進歩に反比例して、政治社会と人間とが退行の道を転落し続けている時代である。もっと厳密に言えば政治社会や人間が「進歩」するとの神話の信仰こそが、これらの政治社会や人間の“退歩(退行)”の推進剤である。
●「進化論」──科学と非科学との間
ダーウィンの博物学者としての博識はその巨大で広汎な業績とともに第一級のものであるが、それはダーウィンの「進化」論そのものが正しいという根拠になるものではない。ダーウィンの進化論の重大な問題はこの生物学という学問領域をこえて、十九世紀の哲学思想史上におけるその甚大な“負の影響”そのことの方であろう。具体的に言えば、進歩主義の狂信に火をつけたことである。
多くの識者は、ダーウィンの「進化」論は間違っていないが、その弟子であるスペンサーの社会ダーウィニズムなどが間違っていた、とする。しかし、ダーウィン自身、次のように述べており、ダーウィンその人もやはり、十九世紀「進歩主義」の信徒であった。
ダーウィンは言う、
「いくらかの自信を持って、・・・・確かな未来を、見通すことができる。そして自然選択(=自然淘汰)はただおのおのの生物の利益によって、またそのために、はたらくものであるから、身体的および心的の天性はことごとく、完成に向かって進歩する傾向を示すことになるであろう」
そもそも、ダーウィンは進歩主義の信徒であるハーバート・スペンサー(1820〜1903年)の直系であり、スペンサーの造語である「適者生存」を駆使しているのである。社会学者のスペンサーの『進歩について─その法則と原因』1857年刊。ダーウィンの『種の起源』は1859年刊で、二年後であった。ダーウィンはスペンサーの影響を受けたことを『種の起源』のなかで触れている。
この進歩(progress)の概念が生物学に適用されて「進化」(evolution)になったのであり、「進化」を「進歩」と次元の異なる別なものと解してはならない。例えば、「進化」は長い年月がかかる漸進的発展に限られるのであって、「進歩」のような劇的な短期間での発展を含まないとする説明などであるが、これなどまさに「進化」論を知らない誤りである。「進化」論の“突然変異”説とは劇的な進歩(変化)を「科学」だとするものではないか。だから、“突然変異”説を政治社会にあてはめれば、社会の暴力革命の正当化を支援するものとなるのである。
社会学が、生物学と結合することによって、「科学」の錦を着ることになったのが十九世紀の学問にとって不幸であった。例えばスペンサーの社会進化論すなわち社会ダーウィニズムがその猛威的な伝染(汚染)力を獲得したのはこの故であった。スペンサーはダーウィンの「師」に当たるが、同時にダーウィンの「弟子」でもあった。スペンサーの『生物学原理』(1864年)はダーウィンの『種の起源』の五年後、スペンサーの『社会学原理』(1876年)はダーウィンの俗に『人類の起源』と呼ばれる『人間の由来、ならびに雌雄選択』(1871年)と『人間と動物の表情』(1872年)の、数年あとに出版されている。
マルクスやエンゲルスの手を通じて完成された「進歩の宗教」(進歩史観)を支援したダーウィニズム思想の系譜の主要な哲学者を挙げれば次のようになろうか。

現に、マルクス/エンゲルスの主要著作の刊行とダーウィンのそれの時期が一致する。ダーウィン側からは、マルクス/エンゲルスや社会主義思想とはいささかも関係していないが、結果としてマルクスらに影響を与えたのである。例えばマルクスの『資本論』の第一巻は1867年であり、ダーウィンの『種の起源』の八年後であった。
エンゲルスは自説に影響を受けた同時代の著作として、マルクスの『資本論』やモーガンの『古代社会』とともにダーウィンの『種の起源』を挙げている。現にエンゲルスの『家族・私有財産及び国家の起源』(1884年)は『種の起源』が強い影を落としている。それ以前にエンゲルスは論文「サルの人間化成に当たっての労働の役割」(1876年)を書き遺している。この論文は「労働が(サルから)人間を創りだした」とするものでダーウィンを活用して「労働」をもってサルから人間への進歩をもたらしたと「労働」を聖化する、あのエンゲルスのドグマティックな詭弁の根拠としている。
また、エンゲルスは、「(・・・・全歴史は階級闘争の歴史であったとのマルクスの)思想は、ダーウィンの学説が自然科学の進歩の基礎となったと同様に、歴史科学の進歩の基礎となる使命を持つ」と、ダーウィンの進化論とマルクスの階級闘争史観を同列に扱っている。
マルクス自身も『種の起源』について、「ダーウィンの書物ははなはだ重要で歴史的な階級闘争の自然科学的な土台として僕は気に入った」と述べている。ダーウィンの進化論は狂気のマルクス主義を完成させる栄養の一つとなったのである。
また、本能による行動を至高善と考え幸福をその一つの結果とみなす神託主義のベルクソンについて若干言及すれば、その主著『創造的進化』で次のように「人間は不死になる」とまで言い放つベルクソンはパラノイア(誇大妄想症)の疑いもある。ベルクソン哲学とは、生物進化論がヘーゲル主義と化合したものであり、それはポパーの指摘するとおり「創造的進化の宗教」であった。
● 今西錦司の「棲み分け論」
ダーウィンの進化論は、その自然淘汰(自然選択)という仮説で成り立っており、自然淘汰が全面否定されるとダーウィンの進化論はその土台から崩壊して雲散霧消する。科学としては否定され遺棄される。このことはよく知られている。そして、今西錦司が指摘するように、自然淘汰は明白に「妖言」であり、「虚妄」であり、破綻した仮説である、その可能性はゼロではない。仮にそうであれば、実はダーウィンの進化論は自然科学としては完全な謬説として排斥されなければならないものとなる。
今西錦司が自然淘汰の説を「妖言」「虚妄」として全面否定するのは、自然淘汰説の前提である、「生存競争(生存抗争、生存闘争)」によって、最適者が生存してその有利な個体差が遺伝して新種が形成されるという、この前提が何ら実証されていないからである。生物が「生存競争」していないのは事実であるし、全く実証されていない。いわんや、「適者生存」による生物新種の発見は、自然界においてダーウィン以降すでに百年も経つが何一つない。ダーウィンの進化論は、あくまでも思想(ドグマ)であって、まだ科学とはなっていない。“世俗神学”の可能性すら高い。せいぜい検証待機中の仮説というものである。
例えば、今西は「生存競争」の「虚妄」については、植物の種子を事例にして、「種子と種子が(発芽に)よい条件をそなえた土地をめぐって、殴り合いの喧嘩をするはずはない」と明快に一蹴する。そしてこのような生存をもって競争(闘争)ではなく、“幸運による生存”という概念を導入する。
同種の個体間には生存競争はないが、異種の生物間のそれについても、今西は、「生物は種ごとに棲み分けしているから、ここでも争い(生存競争)のないのが原則なのです。・・・・この棲み分けをとおして、種とは平和共存という立場をとっている」とする。生物の進化や生命の謎はまだまだ不可知の域を出ず、人間はこの問題にも、もう少し慎重さと謙虚さが必要である。
統合失調症でもあったルソーは、露骨に未開人や野獣を憧憬し、これをもって人間の理想としたが(『人間不平等起源論』)、人間がサルの子孫であることが自分の結論であると何度も強調する『人類の起源』の異様さは、ダーウィンが反キリスト教運動化のヴォルテールの直系であることは言うまでもないが、このルソー哲学の系譜上にもあるかもしれない。野蛮人や未開人の共同生活(原子共同社会)をもって人間社会の理想形態と信じるルソー主義者のエンゲルスが、ダーウィンに寄せるあの親近感もまた、ダーウィンとその「進化」論の本籍地をどうやら示唆している。
人間は数百万年前の原人から発展したとは言えても、サルから進化したというのは科学的に虚偽であると証明されているから、今ではこの「人間の祖先=サル」説は、人間は神々が創造したとする神話や神学と五十歩百歩、とするのが通俗的な解説である。しかし、同じく「非科学」であろうとも五十歩百歩と解するのは妥当でない。なぜなら、文明の政治社会の人間の祖先として「神の創造した人間」という非科学的な神話は人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与えるが、「サルの子孫」という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する。
また、現在の生物学では人間の祖先をネアンデルタール原人や北京原人など、サルではなく「原人」とする。生物学であれば間違いではないが、政治哲学においては健全ではないし間違いとすら言える。なぜなら、文明の政治社会の人間は数百万年昔の原人を「先祖」とは決してしていない。われわれは、例えば日本であれば、聖徳太子や藤原道長、あるいは源頼朝など以降に文明の“祖先”を感じるが、それは彼らもわれわれと同様に“法”や“道徳”のある政治社会を営んでいたからであり、われわれという子孫が共感するものがあり、その歴史がわれわれにとって遺産だと思うからであって、それ以外ではない。
「原人=人間の祖先」説には、生物学上の「祖先」とわれわれが大切にすべき真の“祖先”とを混乱させ、政治社会を正しく思考するのにマイナス効果がある。政治哲学における人間の祖先とは国家・国民の“祖先”のことであって、生物学的ヒトの祖先ではない。人間の歴史と生物学上のヒトの歴史との混同、それがダーウィンの遺した人類にとって負の遺産であった。政治哲学の対象とする人間としては、国家(都市)誕生の数千年昔までのそれが遡及する限界である。それ以前に政治哲学が対象とする文明の人間社会にとっての“祖先”など存在しない。いわんや、数百万年昔のヒトに言及する哲学や社会学は、狂った詭弁であって学問のイロハからあまりにも逸脱している。
● スペンサー社会学の害毒
「進化」という“世俗神学”、つまりダーウィニズムの一大汚染にスペンサー社会学はあまりにも猛威を振るいすぎた。
「進化」には退歩はなく「進歩」のみであるというダーウィンの見解は、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて「進化」と「進歩」が同義語となるのに決定的なものとなった。それ以上に、「進化」(進歩、前進)は人間の意志を超越して完全なる幸福に向かって永遠に進んでいく、とのスペンサーの次のような「神託」は、人間の描く未来への夢想や妄想に「科学の化粧」以上のことをしてやることになった。
スペンサーは言う、
「したがって理想的人間の究極的発展は論理的に確実であり・・・・いわゆる不道徳なものは消滅するし・・・・人間は完全になるのにちがいない」
生物学とは生物学であって、人間集団の文明の営みとしての政治社会に万が一にも適用されるべきものではない。スペンサーは、デカルトやコンドルセらが数学をもって文明の政治社会の再創造の学問分野だと錯覚したのと同じ妄想、同じ誤謬を、生物進化論に託して犯したのである。
スペンサーは言う、
「有機体(生物)進歩の法則が一切の進歩の法則である・・・・地球、地球上の生命、社会、政治、製造、貿易、言語、文学、科学、芸術、その他のいずれの発展においても、単純なものが順次の分化を経て複雑なものに至るこの(生物と)同じ進化があまねく見られる。たどり得る限り最も古い宇宙の変化から文明の最新の成果に至るまで、(生物進化史と同一の)同質から異質への変化が進歩の根本である」
「進歩は偶然でなく必然である。人工的である文明のかわりに、進歩は自然の部分であり、花のつぼみあるいは開花の発展とまったく同型のものである」
未来への進歩が「必然」だという、進歩の到来の不可避性などあろうはずはない。政治社会が、生物と同じ自然法則によってその進歩が定められているはずはない。政治社会とは智恵と汗(努力)のその一部が、幸運であれば、やっと報いられる、その結果として、ほんの少しだけ漸進する。これが現実である。
しかし、進歩に(ニュートン力学のような)一切の変化が従う法則があると考えるスペンサーはまた、「社会進歩とは、社会という有機体の構造上の変化であり、この変化が──人間の欲求を満たすのに必要なより多量でより多様な物品の生産、生命及び財産の安全性の増加、行動の自由の拡大などの──結果を伴う」と定義して、このような社会進歩は人為を超えた自然法則だとの信仰(神学)を流布せしめたのである。そこにあるのは科学万能の迷信に基づく「未来=理想の現実」の未来主義であり、われわれの祖先が営々と築いてきた現在の文明の政治社会のその過去に対する無視であり、その歴史の遺棄でしかなかった。
スペンサーの未来主義は、人間現在が拠って立つその歴史と過去とを否定したのである。各国家・各民族の歴史を営々と築いてきた、真の人間の歴史そのものを否定したのである。
歴史を失った人間とは、歴史のない野蛮人あるいは動物と同じことであり、人間としての退行でしかないが、スペンサーは、文明の人間社会を論じるのに、人間と動物(生物)とを同じに扱い、区別することはなかった。
スペンサーの『第一原理』(1862年)は、生物と人間と社会とを必ず並列的かつ類比的に言及するのである。単純化して言えば、「人間は生物であり、動物でしかない」との信念の持ち主であった。
動物と人間との区別ができないスペンサーとは、未開人や野獣をもって人間の理想としたルソーの再来であった。
例えば、スペンサーの教育論は、禁欲や忍耐を訓練する教育を弊害だと断じたのである。そして、子供の感覚〈要求〉の充足という「肉体的幸福」絶対視する。つまり、人間の子供の教育を馬などの家畜の飼育方法をそのまま踏襲したのである。人間の教育方法を家畜の飼育方法に学ぶ、人間=家畜の教育論などというものからは、どう見てもスペンサーは、一般常識において、ルソーと同じく狂人としか考えられない。
動物(家畜)と人間の相違の一つは道徳(倫理)の有無であり、人間の完全性とは倫理においてしか測りえないが、スペンサーは人間の生の完全性を(道徳とは次元を異にする)「幸福」だとして、これを人間教育の究極の目標とした(『教育論』、1860年)。
スペンサーは言う、
「力強い健康とそれに伴う溌剌とした精神とは、他のどのようなものよりも幸福の大きな要素であると考えるから、この幸福の大きな要素を保持する方法を教えることは、その重要さにおいて他の何物にも劣らない」
善悪の峻別という道徳律の鍛錬や倫理的人間への陶冶とか人間としての高貴さの保持とかを、人間の教育からスペンサーは排除した。だから、スペンサーのこの『教育論』第四章の「徳育論」はわれわれの一般通念上の道徳教育論ではないのである。それは人間を野生化する自然主義・放任主義の勧め以外の何物でもない。スペンサー自身、動物の「子供」訓練と人間の“子供”とに共通する普遍的原則を追求したと白状している。
そもそも、道徳とは自己の課す高貴な義務のことであるが、スペンサーは、「進化が完成することによって道徳的義務感が(例外を除き)消失する」と、道徳の自然消滅(無道徳)を進化と考えている。マルクスの描く共産社会において倫理喪失の人間が理想の共産主義者となっているのと同じく、悪が消滅した、よって善も存在しない、善悪と無縁な動物と同じ人間をもって、「完全な人間」という進化の究極的理想だとスペンサーは妄想している。
なお、スペンサーは正規の学校教育を受けたとは言い難く、ルソーと同じく、教育を論じる資格のない人物であった。教育を受けたことのない人格破綻の狂信家に過ぎないルソー『エミール』やスペンサー『教育論』をもって、教育学部(人間学部、人間科学部)で「教育の哲人」だと今日も教授している日本の大学とは、教育学を転倒し教育を自己否定する一種の狂気であろう。
A最悪の「進歩」の宗教──社会主義教(マルクス・レーニン主義)
「進歩の宗教」(進歩教)のなかで最悪かつ猛毒なドグマをもつのは、社会主義であり、そのなかでもマルクス・レーニン主義という共産主義思想である。マルクス・レーニン主義はルソー/ロベスピエール主義の土壌に誕生し成長したものであるが、後になって加味された、いくつかの肥料によってさらに強度の毒性を持つに至った。この肥料とは、「進歩」の教理(ドグマ)のことであり、「進歩」の狂信のことである。
マルクス・レーニン主義は「社会の進歩」とそれによる「人間の進歩」の信仰を絶対とする宗教であって、この教理からの逸脱は万に一つも認めない。しかも、マルクス・レーニン主義は、人間と社会それぞれについての「進歩」の関係も明確に定める。
『共産主義と哲学』(1975年)において、フェードセーエフは言う、
「共産主義社会の進歩は、個人の全面的発達なしには考えられず、個人は社会の進歩なしに開花しえない」
人間の進歩については「創造的人格」という言葉で表わされるような指標において測られており、また社会は経済的な産業生産力でもってその進歩の度合いを測定している。
「社会主義の偉大な進歩的役割は、・・・・個々人としてのすべての人々・・・・を、創造的人格に転化させる」
「社会進歩の主たる基準をなすのは、生産諸力の発展である。歴史上のそれぞれの時代にとって進歩的とされるものは、生産諸力の発展にもっと好都合な社会構成体(=共産主義社会)である」
そして、社会の進歩が先か、人間の進歩が先か、の「鶏と卵」問題については、前者だと簡単に割り切っている。
「社会主義こそが科学=技術の進歩という条件のもとで、そしてこの進歩の助けをかりて、・・・・人格の発達(=進歩)にとってこのうえもない好条件を保障することができる」
マルクス・レーニン主義に限らず、マルクス主義者や社会主義者はすべて、人間が進歩するとの絶対的な信仰の前提に立っている。だから、社会主義者とは皆、現在から見ればマンガ的水準の夢想にすぎない「人間の進歩」信仰を持っていた。ダニエル・ベルはこれを次のように描いている。
ダニエル・ベル曰く、
「社会主義は一つの限りなき夢であった。フーリエは社会主義のもとでは、人々の身長は少なくとも十フィート(約三メートル)の高さになる、と約束した。教訓主義の化身であるカール・カウツキーは次のように宣言した。社会主義社会の一般市民は超人になるだろう、と。情熱に燃えるアントニオ・ラブリオラは彼のイタリアの随従者に、彼らの社会主義教育を受けた子弟たちはそれぞれガリレオやジョルダノ・ブルーノのような人物になるだろう、と語った。そして、おおげさに大言壮語するトロッキーは社会主義の千年王国を、<人間が測り知れぬほどますます強力・賢明・自由になり、その身体は測り知れぬほどで、よりもっと調和がとれて釣り合い、その動作は一層律動的になり、その声は一層音楽的になり、そしてその姿態は劇的な活動力でみなぎるようになるであろう>状態として叙述した」
このトロッキーの部分はさらに、「人間の平均タイプがアリストテレス、ゲーテ、マルクスの水準にまで高まる」と説くのである。
このような「人間の進歩」に対する、留保無しの夢想や妄想、これが社会主義思想の原点である。そして、改造された社会あるいは革命された社会こそが、この「人間の進歩」の温床だと考える。つまるところ、社会主義者とはすべて、迷信を狂信するユートピアンである。とすれば、社会主義を、エンゲルスのように、サン=シモンらの「ユートピア社会主義」とマルクス/エンゲルスらの「科学的社会主義」に二分類することはできない(『空想より科学へ―社会主義の発展』)。社会主義とはすべて、ユートピア思想にすぎないものであって、現実には成立しないから万が一にもそれは「科学的」たりえない。宗教や狂信は、「科学」ではない。
マルクス・レーニン主義の社会主義の要素の一つとなった「進歩教」の中核的な教祖たちの系譜は、前述したが、マルクス/エンゲルスまでを図示すると次のようにまとめられる。

「人間の進歩」を哲学的に思惟したのはコンドルセであり、この意味で、チュルゴーの影響にあるが後代への伝染力の強さにおいて、コンドルセこそは「進歩教」の教祖の一人であるし、その開祖とも言える。
コンドルセの直系でありコントの師に当たるサン=シモンもまた、天才たちを指導者にして人類のために働かせれば人類の知識が増大し人類が無限にかつ飛躍的に進歩すると夢に見る。その発想はニュートン崇拝から生じており、「ニュートン教」というべきものであった。サン=シモンにとってニュートンの水準にある天才たちを「神」とする宗教国家をつくること、それが究極目標(理想)であった。サン=シモンは人類を三階級に差別し、進歩の信奉者を第一階級としたのであった。社会主義とは本質的に宗教上の狂信であり、社会主義社会とはこの狂信から生じた妄想上の社会システムにすぎない。
J・S・ミルもまた、このサン=シモンやコントと同様に、歴史の発展が人間の智力や意志で左右できるとの迷信を信仰していた。そのため、ミルが「英国の社会主義の父」となり、集権的管理による社会に改造することが進歩だとするあの堅い信念の核となったのである。
●「進歩教」の教祖・コンドルセ――人間は完成する?
チュルゴーは、ソルボンヌ大学で、人間の進歩について講演している。このチュルゴーを下敷きにディドロの仮説を敷衍して、デカルト主義に立脚しつつ、ライプニッツに従い、フランス革命の激動の渦中にあって、「時代の子」たるコンドルセは人間の進歩を論じていく。『人間精神進歩史』(1794年、正式題名『人間精神の進歩に関する歴史的展望の素描』)である。
コンドルセは言う、
「人間精神の進歩・・・・は個体(=個々の人間)における能力の発達(=幼時から大人への発達のこと)のうちに観察せられたものと同じ普遍的法則に従っている。何となればこの進歩は、相結合して社会を構成している大部分の人々のうちに同時に考察される能力の発達の結果であるからである」
「自然は人間能力の完成に対して何らの限界を示さなかったこと、人間の完成は真に無限であること、この完成への進歩は、これを停止しようとすべての権力とは爾来全く関係なしに自然がわれわれを生んだ地球が存在する限りは限界を有せざること」
コンドルセのこの進歩の信仰が、人間は人間完成へと無限に進歩するとして、このための跳躍的な発展段階(「突然変異」)としてフランス革命を正当化したのは当然であろう。人間の進歩の障害物としての王制と教会(宗教)が消滅した状態となれば、人間の頭脳・知力(「理性」)だけで構築された新しい人類の社会が出現し、このとき人間が完成するとコンドルセは夢想していたのである。このコンドルセの夢想はまた人間の寿命すら「(不死とならなくても)絶えず無限の長さに接近していく」という妄想レベルの「進歩」信仰でもあった。
現実の政治に対する進歩主義(進歩教)の害毒の一つは、このような人間の完成可能性の信仰であり、とりわけ人間が道徳的に進歩するとの神話にある。人間は不完全であるが故に完全を目標としての努力という美徳が存在しうるのであり、また、人間は生まれたままでは道徳的にあまりに未熟であるが故に道徳的に自己鍛錬すると人間的価値が輝くのである。儒教とは、この現実を踏まえて、人格の陶冶は各個人の意識と努力しかなく教育がその補助をなすと正しく理解する。神なき近代以降に当たって、各個人の人間として道徳的向上の方策は儒教的なものしかないようである。
この人間の完成可能性を信仰した哲学者としては、生物進化論のウォレス、スペンサー、ドイツ社会主義者のデューリングらがこのグループに入る。
このダーウィニズムの流行発生より約百年前の近代の始まりにあって、人間の完成可能性は、すでに哲学的に論じられていた。フランスの唯物論者エルヴェシウスや英国のジェレミー・ベンサムや英国の無政府主義者ウィリアム・ゴドウィンや英国のジョーゼフ・プリーストリーらである。なお、ベンサムの有名な「最大多数の最大幸福」はこの人間の完成可能性が前提であり、この文言自体がプリーストリーの『政府論随想』(1768年)から着想(盗作?)している。
人間が進化や社会の進歩によって完成へと進歩するという明らかに狂信にすぎない妄想が十八世紀後半から十九世紀全体を通じて約一世紀半も流行したことは、暴力革命を正当化し全体主義体制へと人類を導いただけではない。個々の人間が自己鍛錬によってしか向上することのできない道徳的練磨を無用なことだと短絡的に否定して、人間の道徳的退行に拍車をかけることになった。「人間の進歩」の信仰や迷信こそが「人間の退歩」の触媒となりそれを加速することになったのである。
人間が進歩しないことは、「不毛にして不必要な戦争」である第一次/第二次世界大戦が勃発したり、暗黒の共産ロシアをつくったり、などの数々の二十世紀の愚行が証明した。それ以上にわれわれの社会の卑近な現実もまた、「人間の進歩」を幻想だと断じてくれている。例えば、犯罪者(窃盗、横領、詐欺、恐喝、傷害、殺人、・・・・)は、人口比にして減っている傾向はない。人口の一定数は、立件されたか否かは別として、犯罪者であり、それが人口の数パーセントを占める。これが一切改善される兆候すらないとすれば、「人間の進歩」「人間の完成」は幻想というより妄言に近い。
●進歩史観――終末思想と救世主思想
ブルクハルト曰く、
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウルス)で、形容矛盾を犯すものと言える。なぜなら歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである」
ブルクハルトが『世界史的諸考察』の冒頭で述べるヘーゲル批判である。ヘーゲルの歴史哲学はフランス革命においてフランス革命において「理性」が神化されたように世界史が理性の摂理で支配され進行するとの「歴史」を宗教的に神化して信仰することであったが、ブルクハルトは現在の基盤をなす過去を忘れずに、「歴史を人生の教師とする」ための歴史的知識(智恵)習得の努力を本筋として、歴史を始源もない終末もない、むろん進歩もない連続性に帰着せしめた。そして連続性とは伝統の継承にあるとした。
一方の、ヘーゲルの歴史哲学の「歴史」とは、バーク等の保守主義の“歴史”の尊重とは似ているが、全く別の異質なものである。ヘーゲルの「歴史」は、フランス革命の「自由」「平等」「共和国」などが「理性」の神々とみなされたように、民族の歴史に神的意志(=「進歩」的意志=「立法者の意志」)を見るのである。われわれの一般通念上の“歴史”ではない。
ポパーも次のように、ヘーゲル歴史哲学への激越な批判でブルクハルトと共通する。
ポパー曰く、
「歴史哲学は歴史でもないし、歴史信仰を奉じることは、歴史理解の現れでもないし歴史感覚の現れでもない」
そしてヘーゲルの「理性が世界を支配する」「世界史においてもまた一切は理性的に行われてきた」「世界史は世界精神の理性的で、必然的な行程であった」というヘーゲル歴史哲学を非難すべく、ポパーは「歴史主義」という概念を導入した。
ヘーゲルのごとく絶対的な世界精神の原理をもって歴史を体系的に説明できるとするとするのがいかに不可能なことかは、何もブルクハルトならずとも理解できる。「世界精神」なるものは存在しないし、われわれ人間にはそのように歴史の合理性を把握できるほどの知力も与えられていない。
どうやら、ヘーゲルはキリスト教の摂理を「理性」に、神の意志を「世界精神」に置き直しているだけであって、だとすれば、歴史哲学でなく歴史神学であり、「神の国」を此岸において実現させねばならない世俗的神託である。あるいは歴史の行方が予測されるとするのであれば、生物進化論的な宿命論の先取りともいえよう。そしてそれがドイツ民族の民族至上主義へと、転換されていく。未開的で“野蛮な力”の支配の論理のみが、すべての行動を神格化している。ヒトラーがヘーゲルの系譜にあることはすでに明らかだろう。
ヘーゲルは言う、
「世界精神の理念のさき(=未来)の必然的契機が自然的原理として帰属している民族には、この契機を、世界精神の発展してゆく自己意識の前進のなかで完全に実現する任務がゆだねられている。この民族は世界史のなかで、この時代にとって支配的民族である」
このヘーゲルの「神託」は、神の恩寵をうけて、選ばれたドイツ民族の未来への予言でもある。ベルジャーエフも次のように述べている。
ベルジャーエフ曰く、
「歴史哲学の予言者的性格は世俗的な形態をとりうる。そのことは十九世紀に起こった。カントは言う、哲学は(キリスト教神学と)同様にその千年王国説をもちうると。千年王国すなわちメシア理念への信仰は、見かけ上はキリスト教と断絶した十九世紀の全歴史哲学のいちじるしい特色をなしている。この歴史哲学においては、その予言的要素は、聖アウグスティヌスやボシュエの宗教的歴史哲学よりもさらにきわだったものですらある。このことは、ヘーゲル、マルクス、サン=シモン、オーギュスト・コントにあてはまる」
ヘーゲルの後継者であるマルクスとエンゲルスによって書かれた『共産党宣言』とは、歴史哲学のこの預言者的性格の、まさしくその予言の書のなかの抜きんでたものであった。プロレタリア階級の勝利とそのプロレタリア単独支配の「神託」の叫びは、ヒステリー症的に囁き続ける魔性の力をもつものであった。
「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。・・・・プロレタリア階級はさまざまな発展段階を経過する。・・・・発展の進行につれて、階級差別が消滅し(=ブルジョア階級が敗北し)・・・・プロレタリア階級が・・・・革命によって支配階級となる」
「人類が住んでいる惑星(=地球)の状態が、乗り越えられない障害とでもならない限り、人類は絶えず進歩する文明を築き得る」「人間の精神は、科学や技術の発達において、最も優秀な知性の持ち主(=天才)をも超越する所定のコースをたどる」などと熱狂的な進歩教徒のコントは、前記のヘーゲルと「双子の兄弟」かと思われるほど人類の歴史の発展法則、すなわち将来の歴史発展を予測可能とする哲学者でもある。後年のマルクスが、この「双子の兄弟」ヘーゲルとコントの両名から、強い影響を受けたことその方が重要である。(サン=シモンと)コントを読めばJ・S・ミルのように誰でも社会主義者になり、(ルソーと)ヘーゲルを読めば誰でも全体主義者になる。同様にコントとヘーゲルを読めば誰でも「マルクス」になる。
コントは、人間発展の全体つまり、社会進歩が哲学的な大法則に従っているとし、しかもそれが、(ニュートン力学のような)真の科学的原理の理論であると考えた。そして、この大法則とは、原始的な神学的段階、過渡的な形而上学的段階、究極的な実証的段階という三段階だとした。この法則を真理だと妄想するコントの根底には、「人類発展全体の必然的支配原理として真っ先に出てくるのは知性の発展である」「人類進化全体が行われたのは、常に知性の必然的指導のもとにおいてであった」と、人間の知力を神とまでみなす人間の知力への狂信があるのは明らかであろう。
また、先述の社会進歩の大法則に従っての「知的体系の全分野にわたって、人間精神を究極的にますます実証的哲学だけの方向に引っ張っていき」、究極的な学問分野は「実証的哲学」に収斂するのだから、この「実証的哲学」が「全世界にわたって、最も広大な政治組織の堅固な基礎となるべき真の知的共同体を永続的で幅の広い土台の上に自然発生的に樹立できる」、とコントは考えた。つまり「知的共同体」が誕生してそれが新しい政治社会を建設するとコントは信仰したのである。コントのこの「実証的哲学」が「マルクス・レーニン主義」になったのである。(コント⇒マルクス⇒レーニン)は直線的につながっている。進歩のルールが科学であって実証的な自然法則とみなすコントとは、ヘーゲルとともに、マルクスの「父」の一人であり、レーニンの「祖父」の一人であった。
「進歩の宗教」はマルクスやレーニンに見られるごとく個々の人間にいささかの関心もないが、それもまたヘーゲルとともに、「人間の社会的進化が主として死(=世代交代)を基礎としている」とのコントの実証哲学の系譜にあるからである。世代交代を一定のスピードで行わずして社会進化はなく、進歩の方向の維持もできない、とのコントの思想とは、進歩そのものが、人類全体の進歩が、あるいは社会の進歩が、絶対的な価値であるとするのだから、そこには各個人への人間的配慮はなく個々人はこの価値実現の単なる手段に堕されている。マルクス・レーニン主義が個々の人間の生命について一顧だにしない、大量殺戮をためらわないその非人間性は、実はコントの実証哲学を相続してそれを究極に追求したからでもあった。
●「進歩」の宗教と人間供犠(テロル)
マルクス主義に代表される「進歩の宗教」が、ソ連/共産中国/北朝鮮/ポル・ポト(共産カンボジア)などでおびただしい殺戮を実行したが(総計で約二億人の殺害)、それは「進歩の宗教」の教理に忠実に従った残虐性のためであって、ベルジャーエフが「進歩の宗教は死の宗教」と名付けたとおりになった。
人間の諸課題が世界歴史の未来において完全に解決して現世に「神の国」を創造しうるとの理論はまた、完全に幸福な社会の出現というこの終極の目標に対して、それに至るまでの歴史的経過とこの経過に生きている、進歩に不適合な人間(以下、「人間」と表現する)すべてを供犠すべき手段とみなす。進歩の信仰においては過去と現在の「人間」はこの進歩によって完全となる未来の人間に至るための「未進化の未開人(野蛮人)」でしかないのであるから、
イ) それは、文明のキリスト教徒でないという口実においてインカ帝国の人々を虐殺し尽くしたスペイン人ピサロと同じ論理において、真の人間として扱う必要のないものと非人格化される。
ロ) 「進歩の宗教」の教理では、すべてを解決する至福をもたらす新しい完全な社会創造とこの完全な未来の人間の誕生とは不可分な関係(社会が主体で人間が客体)にあって前者(社会)が後者(人間)より優先するのであるから、不完全な過去と現在の「人間」の存在そのものはこの新しい完全な社会の創造の(到来)の障害であると冷酷にみなす。
「進歩した完全な社会」という「神の国」を待望する宗教的な熱情においてすべての障害は除かれるべきものだから、この過去と現在の「人間」についても例外たりえず、これらを抹殺することが「神の国」への道づくりにおいて正義となる。
次のように言い直してもよいだろう。「人間の進歩」が宗教的に信仰されて、それが単に可能であるだけでなくさらには追及されるべき価値であると狂信されるとき、この人間が進歩して「完全な人間」に改造されることが絶対目標となる。そしてこの目標を達成する手段が新しい社会(社会主義社会、共産主義社会、ユートピア)の建設だとのもう一つの宗教的信仰と複合するとき、これらの狂信がそう信仰する人々(信徒)をして新しい国家づくり(社会主義革命など)運動へと駆り立てる。
そして一旦この運動が始まると目標と手段とは入れ替わり、この新しい社会の建設(「新体制」の国家づくり)が絶対化(目標化)されて、現存する「人間」は、そのための単なる手段とみなされて、モノとなり、非人格化される。これこそが、ヘーゲル/マルクス/デュルケーム(彼らは、自分は進歩に適合した人間だと独断している)らの狂った知性(ドグマ)であり、人類にとっての負の遺産であった。
「人間の進歩」を信仰する思想は、現在の「人間」は不完全であるが故に“中古の機械”と同様であって消耗するまで使用して廃棄すればよいと考え、つまり現存する「人間」に対するいかなる犠牲も悲劇も同情されるべきでないと考える。これが、「人間の進歩」に潜む、「人間」に対する大量虐殺や奴隷化を実行する、冷酷で残虐な非人間性の教理である。だから、現在の「人間」は、未来の「完全な人間」に供されるべき単なる生贄となる。
「進歩の宗教」が希求する未来は、再びベルジャーエフの言葉に従えば、「過去を喰いつくし、過去を殺害する未来」であり、「未来を神化した」宗教である。よって、その進歩とは、「永遠の生ではなく、復活でなく、永遠の死であり、未来による過去の破壊、後続の世代による先行の世代の永遠の抹殺」とならざるをえない。
そもそもコンドルセ以降のマルクス・レーニン主義に至る進歩主義「進歩の宗教」の狂える謬説は三つの妄想に依拠している。
イ) 歴史過程における人間の完全性への進歩という妄想が一つ。しかし現実には、未来のある世代の人類が過去のいかなる世代の人類よりもはるかに高度な人間になっていることはありえず、人間全体が完全性に進歩(進化)することもない。人類の進歩とは科学技術の技術知については、確かに進歩していくが人間の精神(倫理・道徳)は逆に退行しているのが現実ではないか。例えば、紀元前に発生した、キリスト教や仏教や儒教などの教える倫理・道徳を超越するそれを人間は生みだしたか。答えは否であり、逆にそれらは退行する一方である。
ロ) 人間の幸福が進歩するという妄想がその二つ目。しかし、人間の幸福は個々の人間の内面的・精神の問題であって、進歩という次元のものではない。例えば経済的・物質的に豊かになっても、子供が重病を抱えて苦労したり、DVで苦しんだり、失恋等の人間関係で悩んだりする、このようなことは過去の人間も、現在の人間も、未来の人間も全く変化することのない(進歩することのない)永久普遍のものである。
ハ) 善のみの完全な社会の創造というのが三つ目の妄想だが、善のみの社会への進歩とは悪の消失であるから、それはまた善もまた消失した(悪が全くなくなれば、善という概念も自動的に消失する)暗黒の社会への転落である。健全な人間の社会とは、悪の最小化をしつつ善の最大化を図るその努力をする社会のことである。悪のない、従って善もない社会を創ることはできない。善のみの社会を創造できると妄想するのはそれ自体が自己矛盾であり(=善のみの社会を創造しようと思考するとき、必ずその思考には善の観念と対峙する悪の観念が存在する。つまり人間の思考において悪の観念なしに善の観念のみを、思考することは決してできない。決して思考できないものを創造することなど決してできない。)努力や善を選択するときの緊張を嫌う怠惰性に通低した人間の怠慢以外の何物でもない。そしてまた、われわれの政治社会の現実においてわれわれの選択は善と悪のうちの善の選択ではなく、多くは二つの悪のうちひどくない悪を選ぶ余地しかないと理解すべきであろう。ジョージ・オーウェルはこの善のみが選択されるべきものとの考え方を「幼児期に属する信仰」と難じて退けるが、卓抜する見識である。
しかしながら、進歩主義・未来主義のより深い根底的な瑕疵は、政治社会や人間の諸問題が歴史の進展(時間の経過の中)で解決できるとの宗教的な狂信にある。十八世紀におけるキリスト教神学の色褪せた没落が、その教理から解放されたはずのヨーロッパ世界の人々に世俗神学(代用宗教)を渇望せしめた(これが精神の支柱を失った人間の弱さ「不完全性」の本性である)。それが、十八世紀と十九世紀におけるユダヤ・キリスト教的な宗教にほかならぬ歴史哲学の誕生となりその隆盛の礎となった。マルクス・レーニン主義もまた、この歴史哲学の一つであった。
歴史哲学とは、哲学という「非宗教」の衣装を着た、その実、最も宗教的な歴史神学であった。コンドルセもコントもヘーゲルもマルクスも、みずからをメシア(救世主)あるいは預言者と自任しつつ神の御業を哲学的言葉(福音)で置換する宗教者そのものであって、今日の一般通念上の哲学者では決してない。哲学者の仮面をかぶった擬似宗教の教祖であった。
最後に、進歩は“未知の発見”であるのに進歩主義は進歩が「既知の目標」への前進であるとしている、進歩主義のこの自己撞着を指摘するハイエクの批判を紹介する。
ハイエク曰く、
「われわれが従わねばならない進化の必然的な法則を導出できると主張するならば、それは愚かなことである。人間の理性は、自らの未来を予測することも意図的に形づくることもできない。人間理性の前進はそれが誤っていたところをみいだす(過去・現在の人間理性の過ちを発見し、それを教訓として未来に活かす)ことにある」
「ユートピアはつねに自由の敵である」
このベルジャーエフの名言のとおりに、ユートピアを目指す革命すべては、フランス革命にしてもロシア革命にしても、その大量・無差別殺戮に見るごとく、自由を窒息せしめ、自由を死に至らしめた。ユートピアはたしかに自由を破壊する、自由の敵である。
以上のことは、何も現実の政治や政治哲学だけでなく、ユートピア文学においても疑う余地なく成立している。ユートピア文学を代表する三代名著は人間の自由の圧搾をもって理想社会/完全社会として描いている、トマス・モアの『ユートピア』(1516年)と、カンパネラの『太陽の都』(1602年出版は1623年)およびカベーの『イカリア旅行記』(1840年)である。この三著とも、人間の理想社会は自由ゼロの全体主義体制だとしてそれを描いている。
それなのに、これほど戦慄すべき恐怖の全体主義の政治体制を理想とする怪奇なユートピア文学に対する拒絶反応が、自由社会において必ずしも鋭敏ではなかった。むしろ、ユートピアという言葉に甘美なロマンチックの意味あいを夢想する。だから、ユートピアという語は近代から現代においても何世紀にもわたって消えることなく、むしろより頻繁に未来への進歩と展望を象徴する言葉として使用されてきた。この事実は、自由社会の一般の人々には、単なる無知や誤解というよりも、全体主義への無責任な憧憬の感情がそれなりに根強く潜んでいることを示してはいないだろうか。
物事は、冷静に思考することが必要である。つまり、あなたの思考するユートピア(=理想郷)とは何か、どんなものかを明確に説明でき、設計できるのか。そしてそれを現実社会に存在させる方法があるのか。未来永劫、実現できないから理想郷(ユートピア)というのではないか。そう思考すれば、ユートピア文学などという文学の名称自体が、不可思議であり、奇怪であり、極めて有害であるような気配を背後に感じ取るはずである。いや感じ取らなければならない。
●モアとカンパネラとユートピア文学
『ユートピア』や『太陽の都』などが描く理想の社会とは、驚くことなかれ、修道院や刑務所や軍隊の生活と同一である。自由ゼロである。それはまた、あの陰惨であった七十四年間のソ連の共産体制社会ともまったく同じである。まさしく全体主義的な社会のそれである。
モアの『ユートピア』で言えば、「ユートピア」国での生活は、実に機械的かつ画一的に定まっている。また、服は仕事の時は質素な皮革製のものでほぼ七年間着用。その他は二年に一着程度更新。粗末で質素であることを絶対原則とする。宝石や金・銀への蔑視観の教育。結婚は、女性は十八歳以上、男性は二十二歳以上、それ以前の処女喪失等は処罰される。犯罪処罰の法規はなく(「法の前の平等」でなく)、市会がそのつど裁定する。重犯罪は奴隷(年中無休の重労働)に処する。このシステムは、反革命罪で強制重労働収容所送りとしたあのソ連とそっくりである。
むろん、私有財産は否定され、貨幣が無い点でも、やはりソ連体制と極似する。二十世紀の共産諸国の通貨はあるにはあったが、市場経済のそれとは異なり、物々交換の代用切符や軍票に似たものであった。また、宝石を子供のオモチャにしたり、金を囚人をつなぐ鎖に用いたり家庭の便器に使用することも、貧困・無財産を価値とみなし裕福を憎悪する、二十世紀の共産体制に通じている。
プラトンの『国家』とモアの『ユートピア』の双方を後継する思想的系譜において書かれたカンパネラの『太陽の都』においては、その全体主義性はより峻厳となり、そこには自由が呼吸する余地がつゆほどもない。カンパネラ(1568〜1639)は貧民の子であり、(カトリックの)ドミニコ修道士(十四〜二十一歳)となり、しかし異端として告発され迫害され拷問されたその獄中にあって数々の著を書いた。『太陽の都』とはその著作の一つである。獄中にあること監禁や幽閉を含めて総計三十二年のも及ぶ。不撓不屈の精神の持ち主であるが、正常な人間ではない。「ロボコップ的な狂人」というべき人物であった。
この理想の都市国家は政教一致であり、「太陽」と呼ばれる「形而上学者」の統治者がいる。生まれや身分においても、カンパネラ自身を統治者としてイメージしている。つまり、カンパネラは自分自身を「太陽」と信じているのであり、やはりルソーと同じタイプの狂人であることは間違いない。そして、食糧・栄誉・娯楽・婦人(女性)が共有の共同生活体である。すなわち、私的所有権の絶対拒否に立ち、個人の利己心が一掃されて存在しない。ただ、公共心のみの人間を理想としている。『共産党宣言』そのものである。
また、家族否定、日常における友人否定に立脚しており、「中間組織」が絶滅された共同体生活を理想としている。レーニン/スターリンのソ連体制であり、金日成・金正日の北朝鮮体制そのものである。
この理想の共産国家は、われわれ一般の常識において例えてみれば、この地球上に男性の刑務所と女性の刑務所しかなく、種族保存のため、双方の刑務官の命令と監視下で子づくりをさせる(むろん相手を選ぶ権利はない)、そのような国家である。
「プラトン⇒トマス・モア⇒カンパネラ⇒ルソー⇒マルクス⇒レーニン」とこのユートピア思想の流れは直線的である。マルクス・レーニン主義の国家全体とはソルジェニーツィンによって『収容所群島』と正しく名付けられた、完全な刑務所であったように、ユートピアの共産社会が現実にこの世に実現すれば“刑務所国家”にしかなりえないのは、このようにカンパネラ以降、初めからそれを理想としているからである。また、ルソーの『社会契約論』の描く社会とこの『太陽の都』が全くの同一であることは、「社会契約」とは、国民(人間)が狂信的宗教者(哲学者)と契約を結びこの狂信的宗教者が刑務官となる刑務所の囚人となること、それを意味している。
ところで、社会主義思想とはユートピア志向であるから、社会主義化論がユートピア文学となってもおかしくない。先述のフランス人のエティエンヌ・カベー『イカリア旅行記』(1840年)はその先駆であるし、米国のエドワード・ベラミの『顧みれば―2000年〜1887年』(1888年)や、熱烈なマルクス主義者でありアナーキスト的でもあるモリスの『ユートピアだより』(1891年)などもこの分類に入るだろう。なお、『イカリア旅行記』も『顧みれば』も、それぞれの国でベスト・セラーになった。
カベーはバブーフの系譜にある社会主義者であり、社会主義革命が未完で終わったフランス革命を再生させ続行させ、完全平等の社会を創造することを夢想した。同じ服、共同食事、物資の国家管理と配給、独裁者(イカール)による独裁政治体制など、最悪の社会主義社会そのものを描いたのであった。
一方、ベラミは、米国人らしく暴力革命のない「進化」によって米国が国家統制至上主義の社会主義的な体制の国家となり、私有を廃止した共同(協同)の無階級の理想社会になることを描いた。ベラミ自身が跋文で、「本書は進化の原則にしたがって、人類の、特にこの国の、産業と社会の発展の次の段階の予測を全く真剣に意図した」と自慢しているように、その背景にあるのは人間と社会が無限に進歩(進化)するとの信仰である。科学技術と産業の発展に無限の全能性を見る進歩主義の信仰である。(皮肉にも『顧みれば』の出版の翌年から東欧諸国の解放が始まり、1991年にソ連は崩壊した)
モリスは、そのアナーキスト(無政府主義者)的立場と労働運動絶対視のマルクス主義的立場から、ベラミを攻撃的に批判した。このベラミ批判の書が『ユートピアだより』である。国家否定と手工業時代の中世への懐古、それはモリスが都市文明の終末を妄想するからでもあったが、そこにはルソーからマルクスに脈うつ、全体主義(社会主義)の教理に潜む、文明や近代に対する同じ憎悪が潜んでいる。
●「逆ユートピア」文学の反撃
前記のようなユートピア文学に対して、人間が知性で空想しその実現を目指すユートピア社会が、実は「逆ユートピア」(dystopia、暗黒社会)だと警告する一群の未来社会小説がある。ディストピア文学という。ザミャーチン(ロシア、フランスに亡命)の『われら』、ハックスリー(英国、米国移住)の『すばらしい新世界』、ジョージ・オーウェル(英国)の『1984年』などはその代表的なものである。
青年時代は共産主義者であったザミャーチンの『われら』は、レーニン体制下の1921年に執筆された。自由ゼロの理想が実現した「単一国」という未来都市の物語である。
ザチャーミン以後、逆ユートピア文学としてハックスリーとジョージ・オーウェルが続くが、ザチャーミンの『われら』は、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』(1864年)からかなりの影響を受けたように思われる。この『地下生活者の手記』とはドストエフスキーのルソーに対する痛烈な批判の書であり、また、ルソーの『社会契約論』が全体主義体制を目指すものだということを鋭く見抜いての世人への警告の書であった。
ドストエフスキーはこの『地下生活者の手記』のなかでルソーのことをフランス語で「自然と真実の人」(=野蛮で虚妄の人)と揶揄している。そればかりか、「悪をもって敵(上流階級)に復讐しようという穢らわしい下等な欲望」の持ち主であるとも断じている。また、当時ロシアで流行したフーリエ社会主義を念頭に置きながら、それが(人間の知力<理性>を万能とする信仰であるが故の)合理主義的統制をすることによって創造される社会を「水晶宮」と名付け、このような国家権力が個人の何から何まで監視できる社会こそ人間に対する反人間的な奴隷化にほかならないのだと反駁し、ドストエフスキーは反・社会主義の旗幟を鮮明にしたのであった。
「水晶宮」とは共産主義共同生活体のことであり、そこでは「人生のことを一切計量し明示してくれる」ので人間が完全な行動をして、あらゆる社会問題が消滅しているのだが、そのような「水晶宮」社会こそが人間の精神を圧搾するものである、とドストエフスキーは怒りをぶつけている。
祖父があのダーウィンの直系弟子たる生物進化論のT・H・ハックスリーであるオルダス・ハックスリーの『すばらしい世界』(1932年)は、レーニンの共産主義体制の恐怖に対する風刺であり、ヒトラーのナチズムなどの出現を予告するがごとく独裁者「総統」を描き、全体主義体制の未来社会の暗黒と非人間性を告発する。
未来小説『1984年』(1948年)は、恐怖の共産主義体制が英国にも誕生するかもしれない悪夢を阻むためにその逆ユートピア性を訴えるべく、オーウェルが自らの命を削って自らの信条を結実させたものであった。
全体主義体制への死体解剖的な洞察力において、オーウェルはハンナ・アレントと双璧と言うべきかも知れない。小説『1984年』がアレントの『全体主義の起源』に並ぶほどに不朽であるということではなく、後者は民衆抑圧の全体主義が実はこの民衆の政治参加において成立することを重苦しいほどに証明をなし、前者は共産主義体制の外(英国)にあってソルジェニーツィンの『収容所群島』を先取りしているからである。また、オーウェルは、自由社会に絶対的な善の社会を夢想する浅薄で無責任な知識人の存在する限り全体主義が発生する危険は立ち去らない、と憂慮する点でエドマンド・バークにも通じている。
『1984年』は、全体主義国とは、
イ) 人類史上最悪の貧困
ロ) 「テレスクリーン」(TV+盗視聴器)による人民の私生活にまで至る二十四時間監視
ハ) 「過去」に対する中傷と誹謗(過去・歴史の全否定)
ニ) 永続的な戦争
ホ) 「戦争は平和である」「自由は屈従である」などの転倒語法(ニュー・スピークス)
ヘ) 仮想敵への条件反射的な憎悪感情教育
などなしには存続できない体制である、と全体主義の戦慄する現実を“1948年”に喝破している。レーニンの共産ロシアも金日成の北朝鮮もオーウェルの描いたとおりであったことは、のちに世界が知るところとなった。
●大衆はユートピア文学と訣別できるか
未来とは未知であり暗闇である。現在を棄てて跳躍的に未来に足を踏み込むことは危険の報いを覚悟しなければならない。しかし、過去よりも現在が、現在よりも未来が、良い方向に発展しているとの未来志向の確信が何らの根拠なく人類に広く一般化したのは近代以降であり、とりわけフランス革命を契機とする。恐らくは長足に進歩する科学技術と発展してやまない産業の成果に幻惑され、さらに宗教的権威の衰微とあの世の世俗化(現世化)がこれと複合したのであろうが、それだけではあるまい。
怠慢な人間や無責任な人間そして放縦な人間にとって、未来が現在よりベターであるならば明日の困難を予見して今日を真摯に生きる必要はないのだから、今日の瞬間をふしだらに享楽することが可能となる。指導する側のエリートであれ、指導される側の大衆であれ、現在の諸問題を未来に託して(=先送りして)現在の責任や生き方について逃避することが可能となる。ユートピアという麻薬から人類が卒業しない原因の一つは、このように未来への責任転嫁が可能となるからである。
それに加えて、これら怠慢、無責任、放縦な人間たちは、このユートピアを盲目的に憧憬する。1992年の米国大統領選挙でクリントン候補の「変化(change)!」キャンペーンや同じく2008年の米国大統領選挙でのバラク・フセイン・オバマ候補の「We say, we hope, we believe, yes we can (change)! やChange Has Come to America.」が有権者の過半数獲得に効果があったように、変化は望ましい方向の変化しかないという迷信を絶対的に確信しているからである。将来への変化はすべて福音とみなしているからである。「変化」すらそうなら、社会の全面的「変革(革新)」のアピールはより拍手喝采を受けることになる。「変革」によって自由の喪失や幸福の喪失などが生じることを、想像することができない。だから、正しい政治とは大衆を「地上のユートピア願望」「進歩の信仰」から覚醒させ脱却させること、それにつきる。
政治は、未来をバラ色に描くものではない。過去(歴史)に学びそれをもって暗闇で危険に満ちた未来をほんの少しばかり照らしながら、試行錯誤と慎重な熟慮において現在の今日を日々努力していくだけの夢のない仕事である。完全に調和した社会とは、モアやカンパネラの描く自由の死んだ全体主義体制しかありえない。科学技術の激するような進展と産業革命以来二百年以上にわたる豊かさの上昇する時代にあって、政治というものを進歩の信仰の対象からはずして、若干の漸進はしても基本的には停滞的でしかありえない政治の本質をいかにして大衆に理解させるか、それが政治指導者や知識人の使命の一つである。
ユートピアは、その文学を見ても哲学から生じた共産体制の現実を見ても、人間の人格を破棄(破壊))することによって生じる未来世界であり、そこでは人間の持つべき暖かい血は人間から抜き取られている。人間の倫理が消えて道徳のない未来であり、人間自身がモノになってしまう未来である。そもそも未来を夢想して現在を最善に生きようとしない人間など倫理喪失の無頼の徒であって、かくも即物的な人生しかできないものが建設する未来社会が即物的以外でありえるはずはない。
マンハイムの「歴史」についても同様であって、彼の「歴史」はヘーゲルと同じ歴史哲学(歴史神学)の歴史であって、歴史をある方向に向かって進行しつつあるものと把握しておりそれを「洞察」(=ヘーゲルの「世界精神」)と称し、それに従って社会を「計画」し、「改造」することを「歴史を作ろうとする」と表現している。マンハイムはマルクス主義に立脚している。マンハイムには、そのような歴史主義の「歴史の創造」こそが暗黒のソ連体制の出現となったことを理解できない。ポパーは、このようなマンハイムの歴史主義を批判して次のように指摘する。
ポパー曰く、
「全体論的な意味での歴史学、つまり、<社会有機体の全体>あるいは<一時代のあらゆる社会的・歴史的出来事>を明示する<社会の諸状態>に関する歴史学といったものが存在しうると信じるのは間違っている」
たしかに現在のわれわれとは未来と過去の間にある。ハンナ・アレントの言葉に従えば「過去と未来の間の裂け目」に住んでいる。伝統や慣習が希薄化し、いやむしろそれらが放擲されてきた近代にあっては、「進歩の宗教」の魅惑力は高い。そしてそれこそが、われわれを未来主義(ユートピア主義)においやる。だが、未来にあるのは暗闇の深淵だけであることをわれわれはもう一度肝に銘じる必要がある。
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1. 日本国憲法と憲法改正論議―――改憲論の“正”・「悪」の判断基準
上記1〜5まで、読破し、内容を理解いただいた方は、エドマンド・バークの保守主義(伝統主義)とは何か、ルソーとはどのような狂人(=統合失調症であった)であり、そのルソーの教理がフランス革命をどのように導き、(世界中で日本でのみ、讃美されている)フランス革命の真実(ロベスピエールのジャコバン党独裁)が、いかほどに残虐で暗黒であったかを理解いただけたと思います。
また、革命の教理である「(自由ゼロの)自由」、「(貧困の)平等」、「博愛(など微塵もなかった)」、「人権(=自然社会の野蛮人の権利、文明社会の人間の権利と相容れない)」、「人民(国民)主権(実際には立憲主義において主権など存在しえない概念)」、およびフランス革命から派生した「社会主義教(=革命教理のうち、平等と人権を精鋭化)」、「デモクラシー(=大衆政治参加制度、多数者の専制から全体主義へ至る可能性を含む概念)」これに「進歩主義(=人間精神や政治社会は進歩しない<逆に、退歩しているのが現実>のであり、進歩し得るのは科学技術の技術知だけ)」、「未来主義(ユートピアは実は暗黒の逆ユートピア)」が化合した最悪の共産(マルクス・レーニン)主義の持つ意味を理解いただけたと思います。また、上記1〜5の文中の青色(濃紺色)文字で示した思想が、バーク保守主義(伝統主義)思想であり、保守主義の真正の本流思想です。日本の「保守主義者」と呼ばれる論客の中には、これらの本流から大きく脱線した論客も多く存在します。バーク保守主義から大きく脱線する思想は保守主義の名を語るに値しません。保守思想家といわれる論客の著書やエッセーを読むときはこの点に注意が必要です。
また、文中の赤色(濃赤色)文字で示した思想を一般に左翼思想・極左思想そのよな思想をイデオロギーとする人々をコミュニスト(共産主義者)・社会主義者などと言います。左翼の中でも、どの思想に傾倒するのかあるいはどの程度強く信仰するかによって様々な論客がいますが、日本の政界・官界・学界・マスメディアに占める左翼の大半は、コミュニストです。これらの論客の多くはコミュニストであることを公にすることは好まず、新聞・雑誌・テレビ等の論説のなかで、オブラートに包んだ言葉や転倒語法を用いて知らず知らずのうちに、読者や視聴者を左翼思想に誘い込む卑怯な手法を用います。
健全な日本国民が、これらの左翼論客に騙されないよう、左翼思想や左翼用語を十分理解してもらうことが、このホームページ開設の目的の一つでもあります。
例えば、気をつけるべき、左翼用語の一例を挙げます。「人権」「死刑廃止」「平和」「市民」「地球市民」「市民団体」「NPO」「環境」「環境保護団体」「ゆとり教育」「男女共同参画社会」「少子化対策」「アジア共同体」「平等」「基本的人権」「国民主権」「女系天皇」「女性天皇」「開かれた皇室」「皇室典範改正」「個人の尊厳」「両性の本質的平等」「地方分権」「ジェンダー・フリー」「夫婦別姓」「ジェンダー」「子どもの権利」「人権教育」「福祉国家」「福祉社会」「階級闘争」「唯物論」「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「戦争責任」「改革」「構造改革」「平和憲法」「進歩的」「進歩主義」「格差社会」「ユートピア」「平等社会」「搾取」・・・・など、まだまだたくさんあります。これらの用語を使用する人すべてが左翼人というわけではありませんが、これらの用語を頻繁に、信念のように語る人は、極めて左翼人の傾向が強いと言えます。
バーク保守主義と左翼・極左(共産主義・社会主義)どちらが正論かどちらが安全か危険か、よく考えてみてください。
以下では、バーク保守主義の観点から、GHQ欽定憲法である現日本国憲法(1947年5月3日施行)についてこの憲法が、世界的な常識である“正しい憲法原理”に基づいた、“日本国民の正統な憲法”と言えるのかどうかを検討しながら、昨今の改憲論議において、様々な方面で試案されている改憲案が“正しい憲法原理”に基づいた“改正”であるのか、「革命の教理の反・憲法原理」基づいた「改悪」であるのかを判断する基準を国民に提供することを目的として論及するものである。
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内容項目 |
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(1)正しい憲法原理の概説
@ 憲法の二大目的
“自由社会”である国家の憲法とは、次の二大目的に奉仕するものでなくてはならない。また、そうあるものをもって憲法と言う。
A) 過ぎしの幾多の時代、幾多の世代を経て祖先より相続した、歴史と伝統と慣習の宿る誇りある国家を未だ生まれていない未来の子々孫々に引き継ぐべく、国家にひそむ永遠に“永続させうる生命源”を守り、たゆむことなく再活性化を図るものであること。
B) 国民一人一人の“美徳ある自由”を擁護する、または国民一人一人を“美徳ある自由”に教導する、働きをなすものであること。
憲法の最高目的が、この二大目的、“国家を永続させうる生命源”と“美徳ある自由”にあるのであるから、“正統な憲法”とはこの二大目的を害する概念や思想を排撃したものでなければならない。
A 憲法が排撃すべき四つの革命教理
国民を無制限に殺戮した、血塗られたフランス革命の、この大量殺戮(テロル)を推進し正当化した宗教的教理(ドグマ)である「人間の権利(人権)」(≠「国民の権利」とは別次元)と「国民(人民)主権」であり、これらは生命という自由の根幹すら尊重しない「反・憲法」を極める狂気のドグマであり、悪魔の思想であるため、われらが日本国憲法から完全に排撃されなければならない。
また、フランス革命とは無神論・理神論を背景にした擬似宗教国家(≠真の“宗教を尊重する国家”)の創造運動であり、それは“約1800年の信仰の歴史と伝統を有する真の宗教であるキリスト教”を尊重し事実上それと一体化したフランス王国からキリスト教を簒奪し、撲滅する野蛮で残虐な「政教分離」革命であった。「政教分離」こそは、教会を破壊しその財産を没収し、国民の信教の自由を否認し弾圧した、反宗教のドグマであった。このキリスト教という既成宗教撲滅を推進した「政教分離」は、ロシア革命でもレーニンに継承され、あの残忍で陰惨な教会破壊と大量殺戮へと発展した。「政教分離」は自由社会にとって赦しがたい最も野蛮な「反・憲法」の暴力破壊主義の教理であり、憲法から排撃されなければならない。
宗教に関しては、それぞれの民族なり国家なりが数百年あるいは一千数百年以上の歳月をかけて試行錯誤した叡智において、国家との関係が定まっているのであって、この関係にある世代の浅薄な知力による人為的・強制的な改革を加えてはならない。
宗教はすべて、脱会の自由と私有財産の尊重の二つの条件を満たしている限り、その活動に国家権力(政治)は介入してはならない。
英国においてはマグナ・カルタを始めとする中世ゲルマンの法思想から発展した正しき憲法原理、「法の支配」から誕生した「法の前の平等」を例外として、憲法的基本文書のどこにも「平等」は存在しない。米国憲法にもそのようなものは全く存在しない。米国憲法に「平等」の二文字が例外的に挿入されたのは、憲法制定から約九十年を経た、修正第十四条で1868年であった。南北戦争(1861〜65年)で解放された黒人にも米国籍であることにおいて法的保護等の「平等」な適用を定めた「平等」であった。
「平等」のドグマはルソーの『人間不平等起源論』(1755年)において初めて提唱され、それがフランス革命の教理となり、ついには階級間不平等、生まれによる不平等、物質的不平等、・・・・などのあらゆる不平等の除去を国民が国家に要求し、国家権力の行使でもって実行することを正当化するドグマとなった。かくして、その後の人類史はこの「平等」によって、ロシア革命に見るような阿鼻叫喚の「世紀の蛮行」が歴史を汚すこととなった。「平等」の強制は、ホロコーストに至る。正統な憲法は、この故に「平等」を断固として排斥するのである。米国の憲法にも英国の憲法にも、“法の前の平等”はあっても、いまだ平等主義の「平等」は皆無である。
要するに、次の四つの革命の教理は、とんでもない反憲法のイデオロギーである。正統かつ正常であるべき、我が日本国憲法から完全に排除されねばならない。
イ) 「人間の権利(人権)」
ロ) 国民主権
ハ) 政教分離
ニ) 平等権(ただし、「法の前の平等」を除く)
B 憲法が危険視すべき、二つのイデオロギー
「民主主義」と「平和」という、二つの言葉は、日本ではイデオロギー化しており、憲法の用語としては明らかに適さない。そもそもデモクラシーとは、デモス(民衆)のクラシー(制度)であるから、「民衆の政治参加制度」と正しく訳すべきものを「民衆」を「民が主体・主人」の意になる「民主」と意図的に誤訳し、あげくに「制度」を「主義(ism)」としてくっつけたから「民主主義」というイデオロギーとなってしまった。
また、ソ連も北朝鮮も人民抑圧というより、“人民殺し”の体制であった(ある)が、それらの政治体制を「人民民主主義」と呼んでいたように民主主義は悪逆残忍な暴政の政治になりうる政治制度である。ナチ・ドイツのヒトラーとその全体主義も民主主義から誕生したのが現実である。
米国憲法は、デモクラシーの危険性を熟知したうえで、いかにそれを制限(抑制)するかに細心の注意をはらって起草され制定された。英国憲法もデモクラシーを政体の一部にとどめて、それを手放しで称賛するようなことは決してしなかった。
日本では、国会が国民一般の投票による代表(国会議員)によって投票される以上、デモクラシーは憲法上認められた制度になっている。しかし、デモクラシーは、正統な「憲法の原理」ではない。デモクラシーにかかわる正統な「憲法の原理」は、あくまでも、自由を圧搾して専制や全体主義に至らしめる危険なデモクラシーの暴走をいかに阻止(抑制)するかである。デモクラシーによって発生する国民の堕落と腐敗をいかに防止するかである。
「平和」という概念は、古来より、かつ世界広く普遍的に二つの対極的意味があるので軽々に用いることができない。二つとは、「奴隷の平和(自由と独立のない平和)」(=他国の占領下における隷従的な平和)と「自由(独立)ある平和」である。このため、「平和」がどちらを指しているかは、「平和」という言葉だけではわからない。
日本国が「自由ある平和」を望んで、一方周辺の侵略国が日本の「奴隷の平和」を望んだ場合に、仮に日本国が「平和」という二文字だけ唱えるなら、侵略国は日本が「奴隷の平和」に同意したとして、日本を侵略することを正当化するものとなる。自由と独立にとって、「平和」は危険な言葉である。このために、諸外国では通常、「平和」を用いず、「自由と独立」とか「独立と安全」などという言葉を用いるのである。
さらに、レーニンが得意の転倒語法で「平和(ミール)」=「世界共産化(ミール)」というイデオロギーの意味をもたせたから、日本でも共産党は「共産化運動」のことを「平和運動」と称しているので、良識ある国民は騙されてはいけない。
B “美徳ある自由”と“国家永続の生命源”の擁護―――憲法上に聖別されるべき「五つの制度」
自由は、「法の支配」のほか、「中間組織」の存在の最も擁護されるが、君主制の働きも極めて大きい。天皇を戴くことによって、日本国民の享受する自由が“高雅なる自由”となるばかりではない。自由が国家的な(=国民全体の)「相続(世襲)」によって、ある特定な国民の享受されるものとなるのは、君主制における「世襲」の法理が援用されているからである。自由と君主制の不可分性は、近代的自由が英国という君主制国発生した世界史の常識においても明らかである。「皇室(天皇)は、日本国民の自由の淵源である」といって間違いないのである。
美徳(美しき道徳)は、伝統と慣習の土壌に咲いた美しき人間の感性に基づく行為であるが、それが「自然成長的な制度」に高度に発達したのは、日本においては、武士階級という担い手によってであり、ヨーロッパでは貴族によってである。そして、封建制度の終焉に伴う近代以降にあっては、軍隊が武士階級を、軍人が武士(サムライ)を代替して倫理・道徳を顕現する新しい担い手となった(*ルソーやマルクス等の思想の影響で、陸軍・政府首脳に社会主義者や共産主義者などソ連と通牒するものが徐々に多くなり、その影響で軍隊の規律が乱れ、倫理・道徳が形骸化していったのは残念なことであったが・・・)。
すなわち、名誉や大義のために自らの生命も犠牲にする覚悟をもつ究極の美徳を担う国家的組織と職業が国防軍と軍人である。国防軍と軍人なくして、一国における美徳は確実に萎えて枯れていく。
美徳はまた、社会全体に、美徳を讃美し子々孫々に語り継ぐというような、伝統と慣習が共有されていなくては、棲息していけないから、具体的には家族にその自覚がありそれを子弟に教育することがない限り、美徳もその感性が磨かれず開花することはない。
一般的にも、最も発展した伝統と慣習が世代を超えて民族全体に共有されるには、家族という世代間をつなぐ臍帯(パイプライン)が不可欠である。要は、家族とは、国家全体の倫理・道徳にとって基盤的な土壌である。
いかなる国家も、憲法において“家族”が重視されて特段の保護を受けるものと定める理由の一つはこれである。
また、未来の子々孫々にわたる国家の連綿たる連続は、祖先から子孫に至る血統の連続においてしか維持できないから、墓石と仏壇に象徴される家族による祖先の祭祀こそは国家永続の最重要な生命源の一つである。
国家は、内的には精神や特性の衰退を招かないようにすべきだが、外的にも国家を物理的危害から守り続けない限りその生存は危殆に瀕する。国家防衛への自己犠牲の魂が民族全体に漲って初めて国家は最小限の安泰の状況を獲得する。“靖国で再び会おう”と約束して、日本国を守らんとして散っていった多くの祖霊が眠る神域である靖国神社の社こそは、日本国民の最も高貴な精神と魂が凝集しており、それこそ国家永続の生命源の一つでなくて何であろうか。
以上述べたとおり、日本国として聖別すべき「制度」は五つある。天皇、国防軍、家族、墓石、靖国神社である。これらは、憲法において、その旨と精神とが、条文において闡明されていなくてはならない。
(2)日本国憲法の絶対三条件―――皇室・国防軍・家族の紐帯
@「世襲の共同体」日本の皇統―――天皇への崇敬は悠久の日本の礎
(A)「女系天皇」か、旧十一宮家の皇族復帰か
日本人の知的教養の低下と品性の劣化は今日甚だしく、その度合いは年々ひどくなっている。まずは、「女性天皇」などという奇妙な言葉の氾濫であり、それを咎めようとしない問題である。次に「女帝」などという、中国の西太后のような、非日本的な二文字でもって、最も尊い地位の天皇を表現するのは、天皇を貶めようとする悪意があるからだが、これを咎める声すら皆無である。
皇室典範第二条が、皇位は「男系の男子」に限ると定めるのは、古来より日本の天皇は“男系において万世一系であり、過去百二十五代を通じて一度として「女系の天皇」の即位がない不易の伝統を順守せよとの旨である。「男性優位」などという思想とは全く次元を異にする。
二千年近くに及ぶ皇位の伝統こそは、“法(Law)の中の法”であり、この“法”をくつがえす法律その他を制定することは違“法”である。二千年にも及び無数の試行錯誤と無数の賢者の介在によって積み重ねられ磨きに磨かれた、祖先の巨大なる叡智よりも優れた判断が選挙民に阿諛叩頭する日常に明け暮れる現世代の国会議員や幼稚的思考しかできない憲法学者やジャーナリストごときにできるとでもいうのだろうか。できると思うのは、今日の日本に増大する下劣な日本人たちの傲岸な思い上がりである。「男系の天皇」は、わが皇族の“永久不変の真理”であって、われわれ現世代の日本国民に許されている選択肢はただ一つ、この“永久不変の真理”を、敬意をもって未来永劫の子々孫々にわたって遵守し続け継承していくことのみである。
皇婿は、日本の天皇二千年史に存在されたことはない。すなわち、「女系の天皇」を議論することは、伝統を全面的に否定するという暴言・暴論の類である。
「女系の天皇」という、“法”に背反する伝統破壊をせずとも、皇族の男子は敗戦のどさくさにまぎれての赤い大蔵官僚の暗躍で臣籍降下を余儀なくされた旧十一宮家を復活すれば何ら問題はない。すなわち、旧十一宮家の皇族復帰で皇統正しく皇位継承者の問題が解決するのに、そのような方策が論議されていないのは、天皇制廃止=「コミンテルン三十二年テーゼ」を信奉する共産主義者もしくはその思想に汚染された人々が今も根強く政界・財界・学会・マスメディア界に蟠踞しているからである。現に、「女性天皇論」が天皇制廃止の共産党系やアナーキストから盛んに喧伝されている。「女性天皇」論の多くは、日本の皇統を確実に絶やす策略である。このことにすべての正しい日本国民は気付いて欲しい。
天皇(皇室)を護持する“日本国民としての義務”において日本は国をあげて旧十一宮家の皇族復帰を直ちに決断し実行しなければならない。
当時の僅か十四宮家しかないのにそのうち、八割を廃止するという1947年10月の革命は、敗戦のどさくさで日本政府部内に潜む赤い政府高官たちの暗躍でそうなったのである。GHQ(連合国軍総司令部)は「皇室財産の解体」と「皇室の特権の廃止」を命じたが、十一宮家の皇族離脱には全く関与していない。そして、これらは1947年2月までに完了していた。
1946年2月3日、マッカーサーがホイットニー民政局長に手渡した憲法改正三原則のうち、「皇族」に言及したのは第三項の「皇族を除き」だけであった。「宮家皇族の削減」など、GHQは一言もいっていない。
「(第三項)華族の権利は、皇族を除き、現在の一代以上には及ばない」
1947年2月13日に日本側に渡されたGHQ憲法草案にも、次の第十三条の文中にある「皇族のそれを除き」のみであった。
「第十三条 華族としての権利は、皇族のそれを除き、現在の一代限りとする」
また、皇室典範が現行憲法の施行(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)の直前に改正されたが(1947年1月16日、施行は憲法施行日と同じ)、皇族については「附則A 現在の皇族は、この法律による皇族とし、・・・・」とあり、あの十一宮家は、いまだ皇族であった。つまり、この十一宮家の臣籍降下は、不自然にも新・皇室典範の施行から半年もたったずっと後のことである。十一宮家の臣籍降下を画策した犯人たる日本政府高官はいったい誰なのであろうか。これぞまさしく国賊の類である。
また、GHQによる「皇室財産の解体」の理由は、いろいろ憶測されているが、それによって、1947年2月20日に皇室は財産税として三三億四二六八万一二九〇円という巨額を納付した。お手元には僅かしか残らなかった。
このGHQの皇室財産解体の方針は現憲法にそのまま記載された。現憲法8条の「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基づかなければならない」と第88条の「すべての皇室財産は、国に属する。すべての皇室の費用は予算に計上して国会の議決を経なければならない」である。この両条の存在は、現在の憲法が、皇室の私有財産は一切認めず国の管理下に置くことを、GHQと占領下の日本政府との間で密約した“契約書”であったことを示している。日本国憲法は、通常の憲法でなく、あくまでも占領行政当局と被占領国の間の“契約書”である。
この皇室財産の解体によって、皇族全体の財政が逼迫し、この事態が日本側の赤い官僚に悪用されて十一宮家の臣籍降下が余儀なくされていった。1947年5月3日施行の新憲法と皇室経済法に従い、1947年4月からの国の予算の中にこの十一宮家の経費を皇族費として計上すれば何ら問題は生じないのに、日本政府の大蔵省は、十一宮家の皇族費を政府予算の中に一円も計上しなかった。十一宮家が臣籍降下せざるを得ないよう、大蔵省主計局がペン先一つで追い込んだのである。十一宮家つぶしの真犯人、それは大蔵省であった。
大蔵省の皇室に対する、このような嫌がらせは戦後一貫して今も続いている。高度成長で物価が上昇しているとき、また他の予算額が急上昇している時、宮廷費も内廷費も皇族費(この三つを合わせて皇室経費という)も事実上据え置いて、毎年毎年、皇室の生活を実質的に大幅に低下させるという悪辣極める策を遂行した。
さらなる大蔵省の極めつけは、何といっても昭和天皇の崩御に伴い、1989年に皇室に相続税を適用した暴挙である。今上天皇は、約四億二千八百万円を納税されたという。
「ノーパン・しゃぶしゃぶの課長補佐事件」で朝日新聞等が始めた、“大蔵叩き”の後遺症で、1999年には「財務省」へと名称変更させられ、1869年からの百三十年間に及ぶ「大蔵省」の栄光の歴史に幕が落とされたのは、この皇室への課税という暴挙への天罰だったのであろう。
*そもそも「大蔵省」という名称は701年の大宝律令の律令体制下での官制で既に用いられた名称であって、その官制の頂点は当然のごとく天皇であった。その旧き歴史と伝統を誇りに持っていれば、このような皇室への執拗な嫌がらせができるであろうか。今後もこのようなことを続けていれば、今度は天罰でなく天誅が下るであろう。
(B)「開かれた皇室」論―――生きているコミンテルン(1932年テーゼ)
●大逆事件から首都移転まで
今に続く反・天皇のイデオロギーは、二つの系譜がある。
第一の系譜は、明治維新政府のなした、愚昧にすぎた武士階級の解体と秩禄処分などによって身分と収入を喪失した旧武士層の一部によって、反政府・反天皇の怨念がルソーやフランス革命あるいはクロポトキンで理論武装化されてアナーキズムになり、それがさらに社会主義思想と化合して発展したもの。大逆事件(1911年)の幸徳秋水らはこれにあたる。1925年の治安維持法の適用を逃れるために「天皇主権」論で「右翼」を偽装した上杉真吉(東京大学教授、憲法学)は、この幸徳秋水の直系である。韓国併合論の嚆矢といわれる『大東合邦論』(1839年)の樽井藤吉もアナーキストであり、大陸浪人の多くはこの種のグループに繋がっている。「天皇主義」であれ、「民族主義」 であれ、「右翼」「保守」という嘘ジャケットを着たアナーキストは、現在でも少なくない。民族系アナーキストの松本健一(麗澤大学教授)、ポストモダン思想の福田和也(慶応大学教授)もアナーキストであり、彼は保守主義者では決してない。
第二の系譜は、日本共産党員やそのシンパの、主にコミンテルン「32年テーゼ」に従った「天皇制廃止」の革命運動であり、現在も朝日新聞や各主要大学において大きな勢力を持っている。この意味で、コミンテルン「32年テーゼ」がいずれ出されることをことも予測して、ソ連共産党の管轄下にあった日本共産党員がなすであろう「天皇制廃止」の暴力・非暴力運動を取り締まるべく1925年に制定した治安維持法は、自由主義社会の国家であれば当然の法律であった。米国で現在も有効に適用されている「共産主義者取締法」を制定したのは1954年であり、日本より約三十年も遅かった。
ただ、日本の法律は社会主義思想そのものを取り締まりの対象としなかったことで、欠陥が大きいものであった。1930年代に社会主義は日本中に蔓延していたが、治安維持法はその全てを放置した。また、日本政府の諜報能力は低く、ソ連と通牒した多くの政府高官や軍人は野放しであったことも、日本で社会主義が猖獗をきわめた原因である。
戦後における「天皇制廃止」は、この「32年テーゼ」を公然と真正面に掲げたもので、四つの戦術からなっていた。
第一の戦術は天皇をどこかの国の、しかも昔の物語の“暴君”のイメージにレッテル貼りをすることであった。1946年5月12日には、共産党は、赤旗を乱立させて皇居内に乱入した。天皇の食生活の贅沢三昧ぶりを暴こうと、台所を探索するためだった。しかし、これらの共産党の反天皇行動によって逆に、庶民並みの質素きわめた昭和天皇の私生活の実体が広く知られ、共産党は戦術を直ちにやめた。
共産党の第二の戦術が、大東亜戦争の「戦争責任論」で昭和天皇を裁き、それによって天皇制廃止を実現しようとするものであった。米国主導の東京裁判が天皇を訴追しないとしたことで戦勝国の手を借りての天皇制廃止ができなかった共産党は、「戦争責任論」のボルテージをあげ、そのキャンペーンをやめなかった。それは、天皇・皇室に対する国民の崇敬の感情を破壊するから、天皇制廃止の運動として効果があったからである。昭和天皇崩御(1989年)以後の今も、それは散発的に続いている。
現在の反天皇運動は、第三の戦術として「政教分離」、第四の戦術として「開かれた皇室」論と「敬称・敬語・皇室用語廃止」、が主戦力である。
共産党以外の「天皇制廃止」キャンペーンで特異なものとして、「民族系アナーキスト」松本健一などの「京都還幸」論がある。「皇居つぶし」論はこの派生体である。堺屋太一が1990年代に声を大にして首都移転構想をぶち上げてきたが、その秘められた目的は東京のど真ん中にある皇居をつぶして、天皇の地位を貶めることにあったろう。「ポストモダン思想のアナーキスト」福田和也は、つとに「天皇抜きナショナリズム」論で共産党員も驚くほどに天皇廃止を画策してきた人物であり、「僕は大杉栄とか幸徳秋水とかが大好きなんです。」と述べ、自ら幸徳秋水の嫡流のアナーキストであることを告白する。
なお、コミンテルンの「32年テーゼ」について。
コミンテルンというのは、どう訳されようともその実態はソ連共産党国際部のことで、その「32年テーゼ」とは、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」と題された、ソ連共産党が「コミンテルン日本支部(日本共産党の正式名称)」に対して発した革命命令書のことをいう。ドイツ語版からその第一節と第二節を川上肇(前京都大学助教授、党員)が、第三節を村田陽一が訳し、『赤旗』特別号(1932年7月2日号)に載せた。この「テーゼ」の天皇制廃止の箇所は、次のとおりである。
「社会主義の達成を主要目標とする日本共産党は、今日の日本における諸関係の下では、プロレタリアートの独裁への道は、・・・・天皇制の顛覆、地主の収奪、及びプロレタリアート・農民の独立の樹立を越えてのみ、達し得られる」
●皇室への崇敬の感情
昭和天皇の崩御に伴い、1989年の「開かれた皇室」「親しまれる皇室」が大々的にキャンペーンされるようになった。むろん、テレビや新聞から流れる「開かれた皇室」の意味は、キャンペーンする側がその真意を隠すから、さっぱりわからない。皇室(天皇)が国民との距離を縮めよ、皇室(天皇)は目線を民衆の低さまで下げよ、と主張しているのであろうか。
そうではないだろう。他意(悪意)がある。なぜなら、テレビや新聞は、すべてテレビ・カメラとともに取材が許されている天皇陛下の国事行為―――国会の開会式、大臣の承認式、外国大使の信任状奉呈式、植樹祭など―――をほとんど報道しない。仮にしても一瞬の画像程度である。いわゆる“天皇隠し”である。目的は、天皇の国事行為が「存在しないもの」にすべく、徹底的に無視する「検閲」をしているの(開かれていないの)は、日本の新聞とテレビの方である。「開かれた皇室」論とは、「国民の眼から」閉め出された元首としての天皇」と表裏一体となった、「私人の私生活しかない皇室」という偽イメージをつくる目的である。
また、「開かれた皇室」論による天皇制廃止運動は「もっと見せろ!」の芸能タレントの私事(プライバシー)あばきを皇室に適用し強制して、皇室を芸能タレントレベルに貶めて、皇室からその威厳と高貴性を奪うのが目的でもある。暴力的な天皇制打倒!のコミンテルン「32年テーゼ」を甘いケーキでつつみ直したもの、それが、「開かれた皇室」論である。
“天皇の尊貴”は天皇の正統性をかたちづくっている基盤の一つであり、今日の「開かれた皇室」が、“天皇の尊貴”を傷つけるものであれば、直ちに禁止されねばならない。とりわけ、日本の天皇は、デンマークやオランダ、あるいはベルギーやスウェーデンの君主と異なり、元首という政治的行為だけでなく、「祭祀」という宗教的な神事の諸行為を自らなされる。政治的な至尊性と宗教的な聖性をもつ、世界に類例なき君主である。この故に、しばしば外国の学者は日本の天皇をもって「祭祀王」と呼ぶ。必然的に天皇の神秘性は、英国国教会の首長たる英国などの君主とすら異なっていて、格段に守られていなければならない。
しかも、ヨーロッパの多くの君主国では、あくまでも“威厳”のある君主の制度的伝統が保守されることが国民に要求されるし、政治的な至尊性の擁護に配慮がなされている。とすれば、天皇の“宗教的・神秘的な聖性”を「開かれた」とか「閉ざされた」とかの次元で扱うマスメディアの報道は、法律をもって厳格に排除せねばならない。
とくに昭和天皇の崩御(1989年)と皇太子浩宮徳仁親王殿下のご成婚(1993年)を機に朝日新聞が中心となって、陛下・殿下の敬称を抹殺し、また、敬語使用を積極的に否定するという違法かつ野蛮な行為が公然となされるようになった。例えば皇室典範第二十三条で定められている、殿下・妃殿下の敬称を皇太子殿下のご婚約発表(1993年1月)と同時に朝日新聞は使用しないことにした。同年六月六日付けの同紙社説はわざわざ、「皇室報道では、まだ敬称や敬語が多すぎる」と述べ、公然と敬称・敬語廃止を宣言した。
敬称・敬語の発展とは文明の発展の高級性を示すものであり、最も人間を柔らかく高雅な人間にする働きがある。最も人間的な社会とは美しい敬語の満ちる世界である。しかし、最も非人道極まる、非人間的な社会である北朝鮮などを支持してきた朝日新聞は、このような文明の高級性の発露である敬語・敬称を認めることができないのである。
だから同紙は、天皇の「崩御」を「死去」と言い、「陛下」という敬称を消して天皇・皇后「ご夫妻」だと、庶民レベルに貶める。しかし、庶民レベルの天皇や皇室はそもそも存在しないのだから、「天皇ご夫妻」などという野蛮な言葉には、ルイ十六世をギロチンで殺害した“王抹殺の教理”の信仰が秘められている。皇族への敬称・敬語の廃止は、その全存在の否定に発しているので、少なくとも、皇室への敬称・敬語つぶし運動は、「平等」イデオロギーを根拠として「天皇制廃止運動」の一つとしてなされている。「開かれた皇室」論も、皇室を庶民レベルに近づけるという理屈において、敬称・敬語の違法な不使用を正当化する詭弁となっている。
戦後、司法省(法務省)刑事局によって、刑法第七三〜六条の不敬罪は、ばっさりと削られた(1947年)。現憲法第一四条の「平等」を根拠に、刑事局の“赤い官僚”たちがやったもので、GHQは全く関係していない。朝日新聞のように悪質な敬称・敬語不使用は、皇室典範に対する無視という違法行為である以上、刑法にこの不敬罪の復活が急務である。それなくして皇室典範は守れない。
ちなみに、刑法第七六条を例に挙げると次のようであった。
「皇室に対し不敬の行為ありたるものは二カ月以上の四年以下の懲役に処す」
(C)皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源
真に自由な社会とは「君主制下のデモクラシーはどうあるべきか」を論じても、必ず、「デモクラシー下の君主制はどうあるべきか」という転倒した思想を排除する。なぜなら、君主制は保守し擁護するべき“法の中の法”であるから、“法”を明文化した憲法と同等またはそれ以上の高級な制度であるが、一方のデモクラシーは憲法下において、制限し抑制されるべき低級な政治制度の一つにすぎない。君主制は国民が積極的に守るべき「制度」だが、デモクラシーは消極的に容認されて存在が許される現実の政治にすぎない。
この理由は明白であろう。君主制は政治理念たる“美徳ある自由”の淵源の一つであるのに、デモクラシーは民衆(デモス)の要求する「平等」という、徳性を喪失した非道徳で反・自由な制度(クラシー)だからである。
現実にも、英国であれ、日本であれ、君主のもつ尊厳と尊貴とが、国中に君主の威徳を満たして英国民や日本国民の“自由”に徳性を附与してきた。“美徳ある自由”が、君主制と封建体制のある国に限定されて発展してきた理由の一つであるが、一方のデモクラシーは(橋・道路をつくってくれ! 福祉を充実させろ<でも消費税は上げるな>! 景気が悪い政府が何とかしろ! 医者が足りない何とかしろ! 彼此が不平等だ、改善しろ!・・・・等の)数限りない下劣な欲望をすべて政府(国家)に押し付ける無責任を背景とした投票に、政治家が議員になりたいがために屈服する政治制度である。つまり、デモクラシーは民衆のそのような非道徳もしくは反道徳的な政治参加によって国中から美徳を破壊して、野卑を蔓延させる制度である。この故に、君主制は憲法原理であるが、一方のデモクラシーは、「デモクラシーの暴走抑制(たがをはめること)」のみが憲法原理となっても、デモクラシーそのものは反・憲法制度としかなり得ない。
このようなことは、「米国建国の父」で米国を建国したアレクサンダー・ハミルトンやハミルトンとともにジョージ・ワシントンに仕えた初代副大統領(第二代大統領)ジョン・アダムスらにとっては常識であった。米国憲法(起草1787年、施行1788年)は、「平等」を完全に拒絶し、デモクラシーを可能な限り抑制することを根本思想として制定された。「建国の父たち」の絶対多数意見は、新生アメリカがアナーキーな政治状態に転落することを防ぐことと、古代ギリシャに始まりそれ以降のすべてのデモクラシー国が政治を腐敗させ自壊的に亡国した歴史を繰り返してはならないという反デモクラシーの思想に立脚すること、の二つで一致していた。
●イギリスの「権利の章典」―――憲法原理の神髄
国民の“自由”は、デモクラシー(民衆政治参加制度)とは何の関係もない。むしろ、デモクラシーは“自由”を侵害する危険をはらむ。また、“国民の自由”と表現しても、決して「人間の自由」と表現されえないのは、“自由”はそれぞれの国家・民族に固有な“ナショナル”なものだからである。現実にも世界百九十ヶ国の各国でその“自由”は千差万別で、“自由”は人類に普遍的なものではない。
例えば、全体主義のレーニンやスターリンの共産ロシア時代に生まれた人間は、生まれながらに“自由”がないように、“自由”は“自由”の伝統がない国(“自由”の制度を過去から引き継いでいない国)では棲息できない。“自由”とは人間の智力や制度の移植で簡単に創造することのできないものである。なぜなら、“自由”とは先祖から“相続”した“国家制度”だからである。そしてそれをたまたま享受できた、ある特定の国の国民が、この“相続した自由”を育んでいる伝統的な“国家制度”を一生懸命に保守する義務を果たしたときだけ、この“自由”が満天の星空のごとく光を放つ。逆に現在の国民が“相続した自由”を育んでいる伝統的な“国家制度”を人為的に改造もしくは破壊した時、次世代の国民に“自由”が生存できなくなる。このため、伝統的な“国家制度”を現世代の国民の浅薄な知力で軽々に改革・改造することは非常に危険である。経済バブル崩壊後の1990年代より日本は改革ブームで国家制度の改革が嵐のごとく吹き荒れているが、その改革が、必ず未来の発展(進歩)に向かうと狂信しているのではないだろうか。国家改造は“自由の死”に向かう可能性が大であることに、日本国民は目覚めるべきである。
さて、“自由”を擁護する伝統的な諸「制度」には主要なものが三つある。
イ) 「世襲(相続)の原理」が機能していること
ロ) 「法の支配」が守られていること
ハ) 「中間組織」が繁茂していること
である。
世界の近代史を見ても、“自由”と不可分の関係にある生命と財産が擁護されているのが、ヨーロッパ諸国と日本だけに限られていたのは、その双方のみが君主制と封建体制(貴族/武士階級)の二つの政治制度を共通に持っていたからであった。君主制が主としてイ)「世襲の原理」を、封建体制がハ)の階級や家族という「中間組織」を発達させたからであった。
ロ)の「法の支配」は“古き法は良き法”と考え、“法(Law)”を神よりも王よりも上位にあるとし、いわんや議会での立法による「法律(legislation)」は、この“法(Law)という支配者に従う身分をわきまえよ”と考える中世ゲルマンの法思想が、近代ヨーロッパの中で一国だけ残っていた“英国”において発展した。この「法の支配」は、十七世紀のアメリカの英国人植民地人によって米国にも継承されていき、「法の支配」が米国の憲法原理として不動のものとなった。
日本にも、この英国に発祥した「法の支配」に類似な思想が、英国の法思想的な表現ではないが、存在していた。皇室(天皇)が連綿として守り続ける「祖宗の遺訓」がそれである。明治憲法の告文は、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし・・・・」「皇祖皇宗の後裔に貽したまへる統治の洪範を紹術する・・・・」としているから、記録や記憶をこえての「皇祖皇宗の遺訓」こそが、“法”で、憲法とはこの“法”を文字で条文とした最高の法律だと考えていることになる。
立法に当たって、この立法を道徳その他の上位の規範に従って拘束し無制限な立法を禁じる思想(=“法の支配”⇒“憲法”)が存在しなければ、立法権力は必ず暴走する。
日本は偶然にも英国に似て、自由の三つの淵源―――「世襲の原理」「法の支配」「(階級などの)中間組織」―――を成長させていたことになる。日英の相違は、英国では主としてコークが「法の支配」と“自由”の関係を明らかにしたのに、日本にはそのような理論的作業が全くなかったという点であろう。ただ、明治憲法の起草者である井上毅の法思想には「旧慣」という概念など、エドワード・コークやエドマンド・バークを思い起こさせるものもあるが、井上は例外的であった。
1688年の名誉革命によって英国はオランダより、ウィリアム国王・メアリ女王を奉戴した時、翌年サマーズ卿が起草した「臣民の権利及び自由を宣言し、王位継承を定める法律」(「権利章典(Bill of Rights)」)を制定した。この権利章典とは、「英国臣民の権利/自由」は「古来より相続した」「家産である」が故に、国王陛下に対してそれらを尊重していただきたいと奏上する形式となっている。フランス人権宣言のように、俺は人間だから人間の権利をもっているぞ!と、アフリカのジャングルで吼えている形式のものではない。
つまり、国民の享受する自由や諸権利は、
イ) 英国の国王(女王)陛下の臣民であること
ロ) 祖先から家産として相続したこと
の二つを法的根拠にして国家より尊重されるものだとする論理である。これが、マグナ・カルタ(1215年)から権利の請願(1628年)を経て英国を貫く「世襲(相続)の権利」という憲法原理である。バークの、次のような説明は、見事にその核心を表現している。
バーク曰く、
「われわれ(英国民)の自由を主張し要求するに当たって、それを、祖先から発してわれわれに至り、更には子孫にまで伝えられるべき限嗣相続財産とすること、また、この王国の民衆にだけ特別に帰属する財産として、何にせよそれ以外のより一般的権利(=人間の権利)や先行の権利(=自然権)などとは決して結びつかないこと、これこそマグナ・カルタに始まって権利章典に至るわが国体(=憲法)の不易の方針であった」
だから、この自由の権利の要求には、“臣民の義務”として国王への忠誠が発生するのである。“臣民の義務を果たさずして、自由の権利なし”こそ、永遠の真理である。
臣民が国王の王座(世襲)を守る、代わりに国王は臣民の自由(世襲)をまもる、という、このような自由擁護の構造は、名誉革命よりさらに四百五十年以上も昔のマグナ・カルタを踏襲したものである。
つまり、“自由”とは、国王の王位が“世襲(相続)”であるが故に正統性をもつように、父祖から“世襲(相続)”したが故に正統性をもち、王のご加護により、国家(政府)権力の横暴(暴政)から、最大限に保障されるという原理である。
日本にあてはめれば、“世襲(相続)”である天皇に“世襲(相続)の義務”として忠誠を尽くすが故に、陛下の臣民である日本国民は“自由”を“世襲(相続)”として享受できる、ということである。一言で言えば、天皇制廃止の運動をするものに対しては、自由は保障されない、保障しなくてもよいのである。逮捕して牢屋で一生不自由に暮らさせるか、国外追放して外国で天皇制廃止論をいくらでも自由に叫ばせればよい。英国が共産主義者の団体を「非合法」としているのは、その憲法原理からも自明の、きわめて正しい立法というべきだろう。
●ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『皇室論』
君主制擁護論として、十八世紀のバークに続く影響のある著作はバークから約百年後のバジョット著『英国憲政論』(1867年)であろう。バジョットはまず、国家の政治機構を“威厳ある部分”と“機能する部分”からなるとし、この“威厳ある部分(国王、君主)”が、とくにその演劇的要素が被治者大衆を動かし忠誠や信頼を獲得し、一方“機能する部分(政府、議会等)”はこれを利用して統治をおこなっていると考えた。つまり、「立憲君主制」こそ、理想の統治が可能となる、強権を発動する抑圧を不要とする、正しい統治が体現しうるという。また、国民を統治機構に関心をもたせうる働きをするという。
この“威厳ある部分”が存在すれば、国家権力は国民に対して、秩序や法への従順や遵守に強権をもって強制する度合いは格段に少なくて済むから、そのぶん国民の自由への抑圧が大幅に減ることになる。君主制の国に自由社会が誕生したのは、君主のもつこの働きによる。
同じ頃、日本では、福澤諭吉がその『帝室論』(1882年)で、政治権力をソフトにする天皇の機能について、次のように述べている。
「帝室(皇室)はひとり万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催すべし」
「国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水のごとく、その情の薄きこと紙のごとくなりといえども、帝室(皇室)の恩徳はその甘きこと飴のごとくして、人民これを仰げばもつてその慍を解くべし」
これこそ自由の精華であろう。
さて、日本の問題は、今日、日本国民一人一人が皇室の尊貴性と聖性を守る“世襲の義務”を果たしているかである。また、日本は憲法上の制度として、皇室の尊貴性と聖性を守る“制度”をつくっているか。いずれも否である。例えば、東京大学法学部ですら、世界の古典であるバークの『フランス革命の省察』もバジョットの『英国憲政論』も教えていない。いや国会議員ですら読んでもいない。君主制に関する日本国民の無教養は目を覆うレベルにある。
(D)皇位の藩屏をどう再建するか
●華族制度の復活、とりわけ公家の復活は急務
国民に天皇(皇室)への崇敬が少なく、国家に天皇(皇室)の尊貴性と聖性を守る制度がなければ、皇室の式微は不可避である。とくに、皇室の国民的人気は崇敬とは次元が異なるものだし、移ろい易い人気に皇室の存立の基盤を求めるのは虚空に城を建てるようなもので愚かである。この意味で、今日の皇室は実に危うく脆い事態に陥っている。「天皇危うし」である。
国体護持をもっての敗戦受諾でありながら、元総理の近衛文麿(=凶悪なコミュニスト)らが昭和天皇の「退位」という中間段階をもって天皇制廃止に至らしめる動きをしていたように、政府の内部、その周辺、そしてマスメディアと学界では大胆かつ巧妙な天皇制廃止の策謀が続いていた。
近衛はまた華族制度をつぶすべく、1945年11月には自ら公爵拝辞を願い出て、その先鞭をつけた。華族制度廃止が一歩間違えば皇室廃止にいくことを知った上でのことだった。今日と同じく「天皇危うし」の事態であった。
近衛文麿は共産主義者であり、確信的な天皇制廃止論者であった。
だが、マッカーサーによって天皇(皇室)はかろうじて擁護できたが、日本の左翼勢力は時間をかけた天皇制廃止に作戦を変え、その一つとして“皇室の藩屏つぶし”にとりかかった。
1956年2月13日にGHQが日本側に渡した憲法案には「第一三条 貴族の権利は現存の生存中を限り之を廃止す」(=一代華族であれば華族制度の存続を認めている)であった。華族は廃止されていない。しかも、昭和天皇は「堂上華族」――「公家」のこと――だけでも世襲として残せないか、と参内した幣原総理と松本国務大臣に直接述べられた。急ぎ閣議にもどった幣原はこの件を諮ったところ、岩田宙造なる弁護士あがりの司法大臣が反対して、閣議として「天皇の御希望は無視する」ことが定まったのである。
が、佐藤達夫(内閣法制局第一部長)らは、世襲の公家の維持どころか、さらにGHQの「一代華族」の第一三条の部分を補則に移した。その代わりに「華族は認められない」に条文を変更する旨をGHQに申し入れている。GHQ案をさらに改悪したのである。
なお、補則にあった「一代華族」を定めた第九七条の条文の方も衆議院の審議の中ですべて削除された。
華族の廃止は、五摂関家出身の近衛文麿が爵位返上などの動きを示したために、GHQとは無関係に日本側でひとつの大きな流れとなっていた。日本人の方が、英国や米国のアングロ・サクソン系の“伝統を保守する”思想に希薄である。国民の自由や国家の永続性にとっての公家とか華族とかの価値やその働きというものが、日本人の方が英米のエリートほどに理解できない。日本人の感覚における大衆性であり、思考におけるエリート性の喪失である。一言で言えば日本人の方が英米人より無教養である。
皇室の式微を救う方法の第一は皇族を可能な限り増やすことである。最小限「宮家皇族三十家」くらいを目途に早急に制度化するべきである。
第二は、皇族の周辺に、旧・公家華族と旧・大名華族を復活させる復活させ藩屏としることである。仮に四百家がこれに応じたとして、それ相当の邸宅その他に供するために各家に二十億円を下附しても、八千億円にすぎない。中国共産党が日本に対して今や、約百基の水爆を投下するミサイルを展開しているが、この中国共産党にすでに三兆円ほどのODA(政府開発援助)を与えたことを考えれば、簡単なことである。
なお、皇室と皇族と家族への相続税の適用は禁止されねばならない。
公家などを復活して皇室の藩屏を再建することが急務であるのは、現在の皇室は公務を除けば「閉ざされた空間」に拘禁された状況にある。広大な森におおわれた皇居の中の御所にて、外部からの情報が遮断されているからである。摂家や清華家の公家が存在していれば、私的空間においては、この公家たちから主種な情報がもたらされるし、国民もまた、これらの公家を通じて自由に天皇に自分たちの考えなどを伝えることができる。実際にも、公家は古来より天皇と国民の間をつなぐ情報交換機能を果たしていたのである。“皇室の藩屏づくり”を考えない「開かれた皇室」論こそ虚構の極みである。
●近衛師団の創設―――テロからの皇居防衛、並びに儀容を担う
天皇の威徳を守ることで欠いてはならない制度は、元首として国防軍に対する「大元帥」の地位もしくはそれに相当する国事行為がなされうる制度であろう。天皇(皇室)は「君臨すれども統治せず」の原則に立つので、政治・軍事に直接的な権限を持つことはあってはならない。が、福澤諭吉の「帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給うものなり」、である。
現在の自衛隊であれば、統幕議長、陸幕長、海幕長、空幕長の四名は天皇より皇居にて認証(現在の国務大臣や最高裁判事などの認証と同じこと)されなければならない。また、天皇は軍の儀仗(=儀式に用いる装飾的で形式化した武器)を受けられるのはむろん、軍の連隊旗(=軍旗)は天皇から下賜されなければならない。これらは先述の、バジョットの言うところの、“威厳ある部分”の演劇的要素のことである。軍を指揮する権限を持つ“機能する部分”を決して意味しない。
この問題で思い起こされるのは、1989年2月24日の御大葬にあたって、陛下の玉体の眠る霊轜に対して沿道に延々と直立不動の最敬礼で並び立つ自衛隊の諸官の光景である。国をあげての悲しみが、この自衛官の堵列という葬送の儀容において見事に顕現され、日本国の元首の崇高な国葬はその荘厳さをました。昭和天皇は、主権回復から約四十年もの長きにわたって、国民からなる重要な国家機関である自衛隊の儀仗を受けられることが禁止されるという異常を強いられてきた。政府が左翼マスメディアの非難を恐れて「過剰な軍隊アレルギー演技」を天皇に強要したのである。
明治憲法の第十一条「天皇は陸海空軍を統帥す」は、敗戦と同時に軍部の独走を許した諸悪の根源のように糾弾された。しかし、この条項それ自体は、英国、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン等においても、そう定められている。世界の常識として、立憲君主国としては至極当然のものであり、君主を戴く国において、君主以外の誰がいったい軍を統帥すると言うのか、である。大統領を元首とする共和国等において、大統領以外にいったい誰が軍を統帥するのか、と全く同一の問題である。
が、日本に限って1930年のロンドン海軍軍縮条約交渉を機に、「統帥権干犯」などという、この条文が解釈において異様なものへと歪曲された。そして、この歪曲の責任をとらされる形で戦後「統帥」という言葉がタブーとなった。
ちなみに、各国の憲法条文は次のとおり。
スウェーデン憲法(政体書)第一四条「国王は軍の大元帥である」
ノルウェー憲法第二五条「国王は、王国の陸海空軍の総司令官である」
ベルギー憲法第六八条「国王は陸海空軍を統帥し、戦を宣し、・・・・」
また、戦時にあって、軍令機構とくに海軍軍令部が「嘘、嘘、嘘、・・・・」のあの大本営発表をし続けたのは、明治憲法のこの第十一条を悪用したからであった。これをもって海軍は政府ばかりか「大元帥」の天皇まで徹底的に騙し続けたのである。例えば、昭和天皇は、1942年5月のミッドウェー海戦の大敗北を戦後に至るまで知らされず(=連合艦隊司令長官・山本五十六の罪の隠蔽のため),残存艦艇の正確な数字の報告を受けたのは、やっと1945年4月の戦艦大和の沖縄特攻の直前であった。昭和天皇は、それ以前の「報告」(帷幄上奏)の内容とはうってかわって数分の一にもならない日本海軍の消滅寸前の惨状に驚愕の余り絶句した。
この意味で、「日本の賢者」井上毅が世界的な明治憲法に「戦時内閣」の設置を求める次のような一条があれば、すべてが解決するものであった。
すなわち、
「国防軍の最高指揮権は、天皇により、内閣総理大臣に授権される」
すなわち、軍令と軍政は政府機構において截然と分離されていなくてはならないが、内閣総理大臣においてそれは統合されていなくてはならない。
改憲論の国防軍に関する条項には上記条文の明記が必要である。
これによって明治憲法第三条と第五条に定められているような天皇の無答責(軍令及び軍政における無答責)条項が完全に有効となるのである。
さて、新しく創設される国防軍について、近衛師団の設置を忘れてはならない。任務が二つある。
イ) サリンなどの化学兵器や天然痘などの細菌兵器を含むテロリズムから皇居を防衛することであり、また、ノドンや東風21号などの原水爆から皇居を守る核シェルターの運営をする部隊である。
ロ) 近衛師団の第二の任務は、「君主(元首)の儀容を担うこと」である。この必要性は、1989年2月24日に充分に証明されたことである。
A美徳ある国民、名誉ある国家―――道徳の主体としての国防軍
国民の「祖国への献身」なくして、いかなる国家もその生存はいずれ必ず危うくなる。軍事小国であれば、なおさらに、この哲理は真理である。
「祖国への献身」は二つある。
イ) 自国を(周辺の侵略国から)守らんとする“国防”における、国民の自己犠牲の精神。そして国防は物理的国防と情報的国防があり、軍隊と諜報機関がそれぞれに対応する。
ロ) 繁栄と平和によって祖国に瀰漫する退嬰と腐敗から、国民精神の高貴性と健全性とをたえず再生せんとする憂国の至誠を捧げること。
物理的国防を担う、精強たる軍隊と精鋭の軍人こそは、この“国防”において、戦場で自らの生命を国家防衛のために率先して捧げる、その芳醇なる倫理性の究極を実践することにおいて、「祖国への献身」を顕現する国家組織であり、職業である。軍隊なくして、軍人なくして、いかなる国家も、生存はもとより、倫理的・道徳的ではあり得ないことは、明白なことであろう。名誉ある国家と、国防軍や軍人の存在とは不可分の関係にある。
『文明の衝突』(1996年)の著者で国際政治学者のサミュエル・ハンチントンは、『軍人と国家』(1946年)を次のような文言で結んでいる。文中の「アメリカ」を「日本」に置き換えて読めばよいであろう。
ハンチントン曰く、
「軍人的価値―――忠誠、義務、自制、献身―――はアメリカが今日最も必要としているものであるということを否定しうるであろうか。・・・・もし彼らが軍人精神を放棄するならば、彼らはまず第一に自分自身を破滅させ、究極的には彼らの国家を破滅させることになるであろう」
(A)吉田茂はなぜ、憲法第九条の堅持を選択したか
軍隊の保有を禁止する憲法第九条は
イ) “国防”を否定する。
ロ) 日本から倫理・道徳を奪う働きのあることは明らかである。
ハ) 日本が自国の未来や子孫のことに責任を果たすという、国家・民族の永続のための現世代の義務を忘却せしめる有害な働きをする。
ということを忘れてはならない。
なお、この第九条について、「日本を亡国へと自壊せしめていくことを狙って米国が押し付けた」というのは反米運動からの牽強付会的な謬説である。占領下の敗戦国は国家主権を喪失しているのであるから、それは物理的な国防(軍隊)も、情報的な国防(諜報・防諜の機関)も占領軍が代行する以上、第九条のような契約(協定)は締結されておかしくない。GHQが、この第九条とともに、日本が占領期間中は諜報・防諜機関をもてぬよう刑法第八三条〜八六条の削除も命じたとの話は事実かどうかは別として、主権喪失に伴う占領側の当然の措置と言える。
実際に、1950年の年頭、まだ朝鮮戦争が始まる前、ダレス特使が来日し、米国は、主権回復と同時に第九条の改正をするよう吉田茂総理に迫っている。これを拒否し、日本を占領下と同じ憲法でよいとしたのは日本側(吉田)であって、米国ではない。憲法第九条は、1952年4月28日(主権回復)以降も、日本の自由意思において、積極的に堅持されたのである。
第九条が1952年以降にも存在しつづけたことに関する、すべての責任は日本のみにある。この点で米国を責めるとすれば、自我が未発達の幼児的な精神の未熟からくる責任転嫁である。現に、日本は、主権回復に欠くことのできない、防諜という国家安全保障の要である刑法八三条〜八六条の復活すら忘れたのである。日本こそが1952年4月の主権回復で、誰にも干渉されず、“反国家”の道を選択したのである。
ちなみに、削除された刑法八三条〜八六条とは次のとおりである。
(第八三条)
敵国を利する為め要塞、陣営、戦艦、兵器、弾薬、汽車、電車、鉄道、電線其他軍用に供する場所又は物を損壊し若しくは使用すること能はさるに至らしめたる者は死刑又は無期懲役に処す
(第八四条)
帝国の軍用に供せさる兵器、弾薬其他直接に戦闘の用に供す可き物を敵国に交付したる者は無期又は三年以上の懲役に処す
(第八五条)
@敵国の為めに間諜(=敵の情報を集め味方に通知すること、スパイ行為)を為し又は敵国の間諜を幇助したる者は死刑又は無期若くは五年以上の懲役に処す
A軍事上の機密を敵国に漏泄したる者亦同し
(第八六条)
前五条に記載したる以外の方法を以て敵国に軍事上の利益を与え又は帝国の軍事上の利益を害したる者は二年以上の有期懲役に処す
そして、とりわけこの第八五条がないから、日本の政治家や大学教授たちがソ連や中共や北朝鮮のエージェント(工作員)になるのが少なくないのである。1982年のレフチェンコ証言のあと、この第八五条の復活をしようとした自民党その他に対して法務省刑事局は「法制審議会刑法会は認めませんよ」と答えて、国会の立法行為の自由を否定した。法制審議会は国会の上位にある機関だというのであるが、どうもこれが現実のようである。三権分立は法制審議会にだけは無力である。
吉田が憲法第九条を維持して国防軍の再建を回避し、警察と軍隊の中間的な実力組織―――現在の自衛隊―――にとどめようとした理由は明白で、それは旧陸軍の軍人に数多くの共産主義者がいたからである。米軍が日本に駐留しているので、後から振り返れば杞憂であったが、その時点では国防軍の再建がすぐ旧陸軍の赤い将校によるクーデターによる共産政権の樹立になると、吉田はおそれたのである。実際に、日本共産党の中枢は陸士卒の秀才の牙城になっていたから、復活した陸軍が日本共産党と一体となるかもしれぬとの吉田茂の恐怖は根拠のないことではない。
1945年1月の「近衛上奏文」のほとんどは、近衛文麿ではなく実は吉田茂が執筆したのであって、そこには次のように書かれている。吉田がその後、陸軍憲兵に逮捕され約一カ月間拘留されたのは、この執筆の件であった。
(上奏文)
「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じおるもののごとく・・・・。いはゆる右翼者流なるも背後よりこれを煽動しつつあるは、・・・・つひに革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨みをり候。・・・・一方において徹底的に米英撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつあるやうに御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずるものあり、また、延安(中国共産党)との提携を考へをるものあり・・・・」
1944年ころからの陸軍は、この「上奏文」のとおり、「革新将校」というよりはっきりと「コミュニスト軍人」と化した革命屋の巣窟になっていた。彼らは、公然とソ連共産党や中国共産党と頻繁に接触していた。例えば、ソ連一辺倒の共産主義者であった瀬島龍三は、1944年12月に一人でモスクワに二週間も滞在している。瀬島龍三は、東京裁判で「昭和天皇の戦争責任」を追及するソ連側証人として出廷した。そして、1956年夏までの十一年間のシベリア抑留中のほとんどは、モスクワで優雅なホテル暮らしをしていた。
また、陸軍参謀本部戦争指導班長の種村佐孝(大佐)は、「ソ連側の言いなり放題になって眼を潰」って、満州/遼東半島/南樺太/台湾/琉球/北千島/朝鮮をソ連に貢いで、代わりにソ連と連合して米英との戦争を継続せよと、陸軍省内で公然と主張した。陸軍におけるスローガン「国体護持」も、米英との戦争続行にあってソ連軍をして日本を占領させるべくポツダム宣言を拒否するための口実であった。天皇制護持など、多くの赤い将校にとってひとかけらの関心もなかった。種村大佐は、戦後、胸を張って日本共産党に入党した。
例えば、1945年8月15日未明に天皇の終戦の詔書(玉音放送の録音盤)を奪い天皇を監禁しようとした共産主義の赤い将校達がいた。ソ連軍に日本を占領させるのが目的の、ソ連軍が日本に到達するまでの対米戦争を続行するためである。陸軍省軍務課の椎崎二郎中佐と畑中健二少佐らである。
昭和天皇と米国が日本の亡国を救ったことは、ソ連軍が占領した東ヨーロッパの諸国の悲劇が証明している。八月十日の御前会議での「このままでは日本民族も日本も滅びてしまう」との、昭和天皇の御聖断こそ、“日本の永続”という真正の“国体護持”の魂そのものであった。
ソ連に日本の将校・兵隊を奴隷労働力として差し出すことは、日本側で公然と議論されており、1945年7月に講和仲介をスターリンに依頼すべく訪ソする予定の元総理の近衛文麿が準備したその仲介条件案にはそれが明記されている。「シベリアで凍死・餓死した五十三万人」(拉致された総数百三万人から帰国した五十二万人を差し引く)の第一責任はソ連(ロシア)にあるが、近衛文麿や瀬島龍三らの罪もまた万死に値する。近衛は、その「犯罪」の全貌があかされる東京裁判を回避するために自殺した。しかし、瀬島は平成にも老残の身をさらして生き続け、「昭和の名参謀」ともてはやされて天寿を全うしつつあるが、あの世で必ず地獄に落ち、その子孫は永遠に呪詛されるであろう。
さて、ダレスがわざわざ来日しての憲法九条改正要求を吉田茂が1950年の年頭に蹴ったのは、共産主義やソ連から日本を守るために、日本人からなる日本の軍隊を信用できず米国を信用したからである。2002年9月に北朝鮮の拉致が公的に確定した後ですら、日本人被害者の奪還で日本の外務省より米国政府のほうが信用できると考えた日本人は多数派ではなかったか。これと同じである。1956年8月にシベリアから帰還した「ソ連の第スパイ」瀬島龍三が陸上自衛隊に入ろうとするのを阻止してくれたのも米国政府であって、日本政府ではなかった。日本政府より米国政府の方が日本国を守ってくれているケースは、かなりの数に上る。
ただ、吉田に難があると言えば、第三の道―――国防軍を再建すると同時に、軍隊内共産主義者を監視する特殊防諜機関を総理大臣直属に設置する―――を選択しなかったことである。
大東亜戦争とは、スローガン「東亜新秩序」が叫ばれ大東亜会議(1943年)が開催されるなど、マクロ的にはレーニンの『帝国主義論』に従ったアジア共産化に至るその中間段階的な解放戦争であった。実際にもこの戦争の推進の中枢にいたのは近衛文麿ら日本の共産主義者であり、ほとんどは文民であった。
このような共産主義者の陰謀うずまく戦争の犠牲として陸・海を問わず特攻隊として死地に従容として赴いた、数千名の二十歳前後の若者の勇気に、そして、そのような人類史上に残る最も美しき徳性ある模範を示した名誉ある祖先を持ったことを日本人すべては涙をもって誇りに思わなくてはならない。
※大東亜戦争については、7.大東亜(太平洋)戦争の歴史に極めて詳細に歴史事実を記述しているのでぜひ、参照されたい。大東亜戦争の驚愕の事実を記載しています。
(B)職務上の戦闘が殺人罪?―――“軍人”でない自衛官の恐怖
自衛隊が軍隊でないのは、自衛官が“軍人”でないからである。“軍人”から成る組織を「軍隊」というのであるから、公務員が二十万人集まった自衛隊は軍隊にはなれない。あくまでも警察もしくは警察軍である。この問題は、自衛隊法を大胆にいかに改正しても解決しない。憲法第九条がある限り、軍人刑法(the Uniform code of military justice)の制定と軍法会議(軍事法廷、military court)の設置ができないからである。
例えば、警察官のような公務員が、職務中に自らに危害を加える相手を殺傷した場合、それは正当防衛であり、違法性が阻却される。しかし、戦場における敵兵殺害の戦闘が、この違法性阻却の一般刑法の正当防衛でないことは自明ではないか。それとも、戦争終了後に、東京地方裁判所の法廷で戦闘の一つ一つを正当防衛か否かの事件として裁くとでも言うのだろうか。
すべての軍隊保有国が軍人刑法と軍事法廷をもつのは、上記のような問題があるからである。そして、国際法もまた、この故に国民を次の三つに分類する。軍人と公務員(文民)の峻別は国際法の常識中の常識である。つまり、この常識が欠落し、軍人がいないのに、自衛隊をもつ日本は、国際法上も様々な齟齬をきたすのである。

公務員である自衛隊員は文民であり、軍人ではない。
実際に、自衛官の職務行為としての敵の殺傷に関して、殺人罪で刑事告訴しようとした動きがあった。1987年12月のソ連のバンジャー偵察機の沖縄上空の領空侵犯において、航空自衛隊のファントム戦闘機は警告射撃にとどめて国際法上の撃墜をしなかったが、それをしたら刑事告発していた吹聴した、「ソ連よ!わが祖国」の社会党の国会議員がいたのである。
正常な国防を法的に妨害しているほとんどのものは、自衛隊法を徹底的に改正すれば何とかしのげるが、軍人刑法の欠如のみは憲法第九条がある限り決して解決しない。自衛隊法をどんなに改正しても軍人刑法の代替はできない。現憲法九条がある限り、軍人刑法は制定できないし、実際できていない。
なお、現憲法は、特別裁判所の設置を認めていないから、軍法会議を設置すべく憲法第七六条も改正の必要がある。自衛隊法でまだ改正をし残している最大のものは、自衛隊を準・警察だとみなしての「武器使用」を規制する第九五条である。その全文削除は急がれる。その条文は「国際法規・慣例に従う」の一行に置き換えればよい。
(C)南下するロシア、東進する中共―――迫りくる日本の危機
日本は、自国に国家存亡という重大な危機が迫っているのがなぜ見えないのだろうか。侵略の牙はある日突然襲ってくるのであって、事前に鉦や太鼓で警告しながらの侵略などない。1945年8月の満州の悲劇を忘れたのか。1945年8月9日未明の静寂が戦車と爆撃機の轟音となったときは、既に遅かったことを忘れたのか。
百五十五万人の在満の一般邦人に対し、ロシアは国際法もポツダム宣言もすべて無視して殺戮とレイプと強盗を繰り返し、主に婦女子十三万人は日本の故国の土を踏むことはできなかった。佐渡開拓団跡事件、葛根廟事件、などヒロシマ、ナガサキに匹敵する惨劇は幾多も発生したのである。しかし、ヒロシマとナガサキの原爆被害者のみ毎年丁重に追悼されるが、ロシア兵にレイプされあげくに殺された日本の婦女子は戦後六十数年間一貫して、虫けらのごとくに扱われ追悼されることもない。日本人の生命に対する差別である。唯一の正しき平等である、“法の前の平等”に反する行為である。
シベリアに強制連行された105万人の関東軍の将兵と一般男児は、うち“五十三万人”が極寒の中で餓死・凍死・病死した。しかし、厚生省引揚げ援護局は、ソ連と通牒して「五万五千人死亡」というでたらめ数字をもって国民をあざむいた。五十二万人の帰還者数は確定しているからシベリアへの拉致数を「57万5千人」と実際の半分にしてあげれば、ロシアが殺戮した日本人数は十分の一になる。ジュネーブ陸戦法規違反の、戦後におけるロシアの日本人大量殺戮――原爆被害の五倍以上――を隠してあげるためであった。
日本の国家官僚の国民騙しは、最近では社会保険庁の年金問題等で明らかになっているが、すでに戦前・戦後から常習化しており、国家叛逆罪に相当するものが非常に多い。特に赤い官僚の行為は、国益に反するため、米国の「共産主義者取締法」や「新・治安維持法の制定」など、何らかの取り締まりをする必要があると思われる。
社会主義思想(特に共産主義思想)は、国家テロルの思想を根底に持っているのは自明なのだから、このような思想に本当に思想の自由を認めてよいのだろうか。少なくとも社会主義思想(特に共産主義思想)・アナーキズム思想等を国民に煽動することができないように危険思想の言論・出版の自由は制限をかけて当然ではないか。
このロシアは日本の固有の領土―――樺太、国後、択捉、歯舞、色丹―――を日ソ中立条約に違反して侵略し、今も居座っている。このような国家と国交をもつ必要はないので1956年10月の日ソ共同宣言を破棄して、この現実を正しく反映した日ロ関係を国民に示す必要がある。
しかもロシアは、日本へのさらなる侵略の意図を、ソ連崩壊後も変更しない。
日本におけるロシア専門の大学教員の九割は、ロシアの“意識した情報工作員”であるので、決して1990年代以降のロシアの大軍拡を語ることがない。が、例えば、ロシアの新型核兵器開発のペースは、ソ連時代と変わらず、日本の自衛隊に比すれば、巨大かつ加速的である。新型のICBMのSS−27を1997年には配備開始したし、すでに数十基を生産した。航空機もSu−35など新型の開発に余念がないし、とくに巡航ミサイルには資源をかなり投入している。
つまり、ロシアは日本に対する核攻撃態勢を重点的に充実してきている。ロシアが爆撃機バックファイヤーのほとんどを極東に移駐させたのは、それによる対日核攻撃をするためである。現在バックファイヤー百三十七機を日本に向け発進できる。それぞれ、三機の核巡航ミサイルAS−4を搭載できるので、これだけで四百個以上の水爆を日本に投下できる。
対日攻撃を任務とする太平洋艦隊のスバラ級巡洋艦一隻は、三五〇キロトンの水爆をつけた核巡航ミサイルSS−N−12を十六基装備しているが、これだけでヒロシマ原爆の五百倍の破壊力で日本を襲うことになる。しかし、日本には、先の空中発射巡航ミサイルAS−4や、海上発射巡航ミサイルSS−N−12を撃墜できる兵器は何一つとしてない。米国からMD(弾道ミサイル防御)―――スタンダード・ミサイルやパトリオットPAC3など―――の導入で北朝鮮のノドン弾道ミサイルには対処できても、MDはロシアの巡航ミサイルには全くの無力である。
日本は英国のように、米国からの“核の傘”には依存し続けるが、これに加えて、独自の核を持つ必要がある。そうしない限り、日本の命運は危ういからである。日本が核を持つことで、報復を恐れるロシアは所有する核を使用できなくなるからである。いわゆる核対核による核抑止論である。平和主義とか非核三原則とか核廃絶などの妄想的理想論を日本がいくら叫んでも、上記の現実を見れば、相手国(ロシアや中国)が核ミサイルのボタンを押してしまえば、数時間後に、1日で、日本のすべてがこの世から、消え去るのである。戦争は予告なくある日突然おこるのである。1991年、イラクが突然クウェートに侵攻したように。その瞬間に、平和主義や非核三原則や核廃絶を叫んでいた人々も、その妄想とともに、この世から消え去るのである。戦後六十数年もたつ。1853年に黒船が来航し、欧米の脅威に日本が慌てふためき、目を覚ましたように、いい加減に現代日本も上記の現実に、目を覚まして欲しい。日本の現状は、明日この国が消え去ってもおかしくない危機的状況にある。
問題は、ロシアが日本に向けて核攻撃を行った場合、日米安保条約によって在日米軍が対ソ報復を行うかであるが、常識的には答えは“No”である。なぜなら、それを行った場合、ロシアから米国本土へ大陸間弾道ミサイルが発射される恐れがあるからである。自国の国益を最重視するアメリカが、国益を大きく損失する行動をとる可能性はゼロである。
日米安全保障条約が本質的に有効なのは、ロシアや中国が日本に戦争を仕掛けてくる直前までの抑止力の効果のみである。相手国がもし、先制の核攻撃を行えば、その時点で日米安全保障条約の役割は終焉する。
この現実を日本国民は真摯に受け止め、「非核三原則」だの「核アレルギー」だの「平和主義」だの、“平和夢物語”を言っている余裕は一刻もないのである。こちらが、“夢”と思っても敵は“現実”に動いているのである。
ロシアは、日本に対して現在一千から三千発の核を投下する体制にある。
同様に中国共産党も約100基ほどの水爆搭載ミサイルを日本に投下すべく照準を合わせている。日本は核武装を含め、可能な限りの軍事力の強化をしない限り日本の独立と安全はもはや保障され得ない。
「非核三原則」を含め、「防衛費GNP1%」など日本の国防を阻害する、狂った防衛政策の廃棄は当然だとしても、このようなものが再び決定されることの無いように、憲法上ハッキリした条文がいるかもしれない。「読売憲法試案」は、逆立ちしているのであろう、「核武装の禁止」を定めている(第十一条第二項)。日本の独立と安全を破壊しようとしている、とんでもない「試案」である。
日本の国防と外交に憲法上の制約があってよかった時代は、とっくに過ぎ去っている。国民の自由は国家が独立していて初めて享受できる。“自由の諸権利を主張する”のであれば、まず“国家独立と安全に最大限の努力をする義務を果たす”ことである。また、国防政策については、いつでも、いかなる世代でも、その時々の世界情勢に対応して、自由に政策の選択ができなければならないから、憲法にはそれを阻害するような条文は匂いすらあってはならない。
A「家族」―――家族は祖先と子孫を結ぶ日本永続の臍帯
二十一世紀に入って日本では、親が子を殺す事件が続発する。しかも、母親・父親を問わず親による子殺しが、暴力だけでなく、餓死という最も残虐な殺人方法で実行されるようになった。また、子が母親・父親をたわいもない理由で殺害するという事件も増加している。
人間とは、他の動物と違って、生まれたままでは子育ての知識が全くないという、唯一例外的な生物である。妊娠や出産までは本能と生理でできても、乳児をどう育てるか、幼児をどう育てるか、学童になったらどう育てるかなどの知見はすべて後天的な学習と訓練によってであり、人間の脳には一切のプログラムが入っていない。
つまり、家族は、遠い祖先から連続した人間が人間らしく生を全うするためにも、種を子孫につないでいくためにも、欠くことのできない「必要情報の蓄積された組織」である。親による子供に対する躾(言葉遣い、立ち居振る舞い)や(子育てを含めた)学習・訓練なしには、人間は人間として成長することは万が一にもない。人間の誕生と家族の誕生は同時であって、家族がなければ人類は生存していない。マルクス主義の筆頭エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』は、非科学にすぎた妄説・謬説のたぐいである。
また、家族によって伝統や慣習が蓄積・継承されていき、家族の集合体としての社会規模の拡大とともに、文明社会を作り上げたのである。家族は、言語、市場、国家、道徳、法などとともに、自然的に成長・発展した「制度」の一つである。家族なしにいかなる文明もなかったし、“法”の成長もなかった。家族こそがその出発点であった。
上記のような母親・父親の残虐な“子殺し”が日本で急速に増える実情は、日本の家族の家族性そのものが急速に弱体化しているからである。家族の「制度」としての衰微は、二つの悪い結果をもたらす。
イ) 家族を通じて訓練され学習される子育てのノウハウを持たない日本人の急増である。
ロ) 親となる日本人が人間としてその人格が健全に形成されないという事態の発生である。
そしてこの二つの欠陥を同時に有する人間が“子殺し”に走るのである。日本の“子殺し”の蔓延は、家族解体のマルクスの『共産党宣言』の狂気を日本が戦後六十数年間も吸引し続けた成果である。また、この『共産党宣言』を下敷きにして書かれた「子供の権利条約」を批准した成果である。
家族の「制度」としての衰微は、日本の場合、とくに1947年12月末の旧・民法の改悪(施行1948年1月1日)に見るように、司法省(法務省)民事局の計画的実行で始まった。法律という国家権力の強制手段で、家族の自壊的消滅を狙ったのである。
日本は民法を、早急に旧・民法にできるだけ近いものに戻さないとすれば、日本の社会は、自壊の度を深めるだろう。親による“子殺し”事件の続発は、五十五年前の民法改悪が日本社会の深刻な崩壊現象の元凶であることを警鐘的に知らしめてくれた。
日本における親による子殺しや子供虐待は、政府が共産党の宣伝に屈して「児童(子ども)の権利条約」を批准した1994年5月以降に本格化した。紙切れの文字にすぎない条約が子供を健全に育ててくれるわけではない。1928年の「パリ不戦条約」が平和を維持するのではなく、領土拡大欲を捨てた各国の国防努力が平和な安定を持続させるものであったことに似ている。子供の幸せな成長は、伝統と慣習という規範が宿る家庭で育った親が子供を育てたときであり、家庭こそがすべてである。日本は家庭重視に反する「子どもの権利条約」を破棄するときが来ている。なお、米国は当初からこの条約を批准していない。条約批准が家族の崩壊を導くことを予見しての米国らしい賢明な判断であった。
(A)家族解体イデオロギーで改悪された民法――日本の民法学界は共産主義者の巣窟
1947年の民法改悪の標的が「家」制度の廃止であることは広く知られているが、それは、『共産党宣言』の家族解体イデオロギーを指針としてなされたことを知らない日本人は多い。また、それが、GHQの意向とはまったく無関係であったことも知らない。逆にGHQが民法改正を押し付けたという神話を信じている日本人は多い。歴史の真実は、日本側から民法の大規模改悪をしたい旨をGHQに申し込んだのである。当時のGHQは民法不干渉の方針であった。
さて民法改悪の「主犯」格の人物には六名おり、筆頭が奥野健一(司法省民事局長)。学者には三名、我妻栄(東大教授、日共系)、中川善之助(東北大教授、日共党員?)、川島武宜(労農派系、スターリン主義者)である。このほか大審院判事の横田政俊と司法事務官の村上朝一である。
まず、この奥野が職権で、ガイドライン「民法親族編および相続編の改正につき考慮すべき諸問題」を書き、民事局の基本方針を“家制度の完全つぶし”にすることを決定した。そして民法改悪の基本方針たる「民法改正要綱(案)」が司法法制審議会第二小委員会で起草されたが、そのうち、「家、相続、戸籍法」の最重要な部分を担当したのが上記の横田、村上、川島である。それは1946年7月20日には次のようにまとめられていた。
『一 家
1 民法上の<家>を廃止すること。
・・・・・・・・・・・・・・
二 相続
1 家督相続を廃止し相続は財産相続のみとすること。
2 相続人の範囲は戸主に代へて兄弟姉妹を加へる・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・
10 遺留分は次の通りとすること』
このような「要綱」に従えば、自ずと民法の具体的な各条項の改悪は定まってしまい、現行の民法になっていくのは必然であろう。なお、前述の奥野のガイドラインには、その説明に当たる「事項試案」という文書があるが、そこには旧民法の「家」をマルクス主義に従った表現「封建的残滓」と決めつけ、蛇蠍のごとく嫌っている記述がある。1930年代以降、とくに大東亜戦争を通じて、社会主義を信仰する赤い司法官僚が主流になっていたのである。
また、我妻栄と中川善之助の両名はコミュニストであったから、1947年5月2日の民法改悪草案の公表後に日本共産党の野坂参三からの一枚紙の下記の「意見書」(5月12日付)に感激して褒めちぎっている。
「我妻・・・・この内容もしっかりしたものですね」
「中川・・・・この問題については共産党が一番勉強していたといえますね」
「全体として、・・・・進歩的(=共産主義的)法案というべく、関係者の努力に深く敬意を表する」
「民法民主化(=家族解体、共産化)の最大の眼目である封建的<家>制度の除去がなお、不徹底」
我妻らがどういう思想の持ち主であったかを紹介しておこう。
中川善之助の「家」を破壊せんとする呪詛的な、その否定論の第一は、国民の中には民法上の「家」とは全く無縁もしくは乖離している者もいるから、というものであった。そして民法をこの後者の実態の方に合わせて書き直せというのである。なんという暴論であろうか。「所得がない人がいるから所得税は不要!」「相続する財産がない人がいるから、相続税は不要!」という共産党員らしい詭弁である。
旧・民法は、両親のいない、両親の名すらわからない、財産もむろんない、天涯の孤児にすら、新戸籍を編成した。この孤児一人だけの戸籍つまり「家」をつくった。どんな下層民であっても、すべての国民に名門明家と同等な「家」を法律上附与した。「法の前の平等」である。国民すべてに法的には「上層における平等」を与えたのである。一方、ソ連などの共産諸国では「貧困における平等」「最下層における平等」を理想としたから、下に、下に下降して暗黒の“最低の社会”となった。
中川善之助はまた、旧・民法に規定された戸主権が濫用されたという。しかし善之助のあげる戸主の居所指定権も婚姻の同意権も、それと衝突する家族の意志の方が絶対的に優先され、事実上死文であった。実際に、旧・民法が民法の戸主権の規定をもって婚姻の自由を奪ったケースは一件もない。このケースで、戸主と衝突して婚姻する家族に対して戸主に実際に附与されていた対抗措置は「離籍」だけであった(旧民法第七五〇条)。民法上の「家」制度の規定の中のこのような死文は、しかし全国民の家庭を名門明家に扱うからその精神を高雅にさせ、また、そのような名門明家になろうとする向上を激励するすばらしい効果を発揮していた。「家」制度の定めが、日本国民全体に、努力して財をなしたいとの意欲の向上や、あるいは倫理・道徳を向上させる機能を果たしていたのである。
戦後の新民法でつくられた核家族制とは、すべての人間がバラバラに社会に浮遊する“個体(単体・アトム)”となる究極の共産社会(コミューン)への中間段階として考えられたものである。善之助の主張は、ただソ連を憧憬する共産主義革命家としてのレトリックだけしかなかった。その「学問」はすべて政治的なものであり、事実をことごとく恣意的に無視した。
川島武宜は、我妻や善之助のような自らの信条マルクス・レーニン主義を狡智にカムフラージュすることはしなかった。堂々と日本を共産社会に改造するために、『共産党宣言』をむき出しにしたまま家族解体せよ!と正直に叫び続けた。だから、川島の言う「民主主義」はデモクラシー(民衆の政治参加)という意味ではなく、共産主義の「人民民主主義」のことを指していた。
川島は言う、
「(日本の)民主主義(=共産主義)革命は、民族の絶対的信仰の対象であった家族制(の解体)・・・・を見逃しては達成されえない」
「日本の社会・・・・で支配する家族的原理は民主主義(=共産主義)の原理とは対立的なものである。・・・・この家族的生活原理・・・・の否定なくしては、われわれは民主化(=共産化)をなしとげえない。だから、民主化(=共産化)はわれわれにとって、・・・・革命を意味するものであり、革命でなければならない」
共産主義者は公私の区別がつかないし、「私」を認めない恐ろしい思想である。「私」のなかの「私」である家庭のなかに、政治社会の政体の一つたる「民衆参加制度」(デモクラシー)を平気で持ちこむ愚に気づくことがない。
我妻栄は言う、
「日常生活の最も基本的な家庭生活が、民主的に営まれることこそ、日本民主化の出発点でなければならない。・・・・我々の家庭生活の裡に、いかに多くの封建的なものが根をはっていることであろうか。それを規律する民法の規定の中に、いかに多くの非民主的なものが残存していることであろうか。
我妻は、個人的で私的領域の家庭生活を、法律をもって国家権力を介入させ恣意的に改造しようとした。私的領域に属する自由を、国家はどのように侵害してもよいという思想の持ち主であった。私的領域の擁護こそが自由社会の法的ルールだということがわかっていないし、それを逆さにした思考しかできなかった。
家族が民族固有の伝統と慣習で運営されていることは、自由社会の一大原理であり、憲法の擁護する憲法原理である。国家権力が家族から一定の距離以上は近づけないようにする民法こそが真正の民法である。
要は奥野らは、『共産党宣言』や『家族・私有財産・国家の起源』と、旧民法とがあまりにかけ離れているから、旧民法の方を前者のマルクスらに近づけようとしたのである。
マルクスの家族解体・消滅は、人類の消滅を究極に見据えてのものであるが、日本はマルクスの希望通りになりつつある。出生率の大幅低下である。日本国内の家族解体論者の絶滅を急がないと日本の人口は減り、日本は亡国に至る。マルクス主義の一掃、それは出生率の回復にも欠くことができない。
(B)「婚姻は両性の合意」――スターリン憲法に魅せられたロシア人女性の起草
日本政府が、GHQの存在を全く無視して強引な「家」制度の廃止に暴走している時、当然それに反対する声も大きいものがあった。例えば、裁判官の圧倒的多数は「家」制度の存続に賛成であったと、前述の大審院判事の横田政俊は認めている。そこで、民法改悪派が葵の御紋として持ち出したのは、言うまでもなく、GHQ憲法であり、現憲法の第二十四条と第十三条であった。
(憲法第二十四条)
「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
(憲法第十三条)
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
この二つの条項ともホイットニー民政局長の下に設置された「公民権(civil rights)小委員会」に属する三人のメンバーが原案起草者である。ロウスト陸軍中佐(インド専門の民族学者、菜食主義者)、民間人ワイルズ博士、民間人ベアテ・シロタ嬢である。具体的には、第十三条はロウストが、第二十四条はベアテが書いた。
ベアテがGHQ民政局に入ったのは1946年の暮れであり二十二歳であった。日本で言う女子短期大学程度の、法律学には無教養な単なるタイピストである。両親はウクライナ生まれのロシア人でユダヤ教徒。国籍はオーストリア。一家全員が社会主義者というより共産主義者だった。ベアテは、スターリンの書いたソ連憲法と、社会主義思想を基調としたワイマール憲法について次のように述べている。
ベアテは言う、
「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた。・・・・ソビエト憲法は、・・・・社会主義が目指すあらゆる理想が組み込まれていた」
現憲法第二十四条は、ベアテがソ連のスターリン憲法第百二十二条とナチス下でも有効に生き続けた社会主義思想のワイマール憲法第百九条、第百十九条を下敷きにして書いた、と考えてまず間違いないだろう。自由社会が決して参考にしてはならない憲法を母胎に第二十四条は生まれたのである。ベアテは、「男女平等」も「平等」思想も存在しない“米国憲法”をなぜ参考にしなかったのだろう。
この第二十四条には法律学的にはなじみのないというより、尋常でない文言が二つある。一つは「婚姻は両性の合意のみ・・・・」であり、もう一つは「個人の尊厳と両性の本質的平等」である。
「両性の合意」の定めとは、両性の合意のない、レイプ婚や掠奪婚がこれまでの日本の風俗・習慣であった、としてそれを禁止する規定となっている。
実際ベアテは「見合い結婚の禁止」を企図したものというが、そんなものを憲法の条文にするとは非常識ではないか。また、もしそうであれば、それこそ自由の一つである「民族の伝統・慣習・文化・しきたり」の破壊となるから、いわゆる自由侵害の反・憲法原理の規定である。しかも、外国の一般の人々がこの第二十四条を仮に読めば、戦前までの日本ではレイプ婚や掠奪婚が盛んであったと解するであろう。なぜなら、憲法とは自由侵害を禁じる基本法だから、レイプ婚や掠奪婚の横行が激しい国の場合、その禁止を憲法条文とすることはありうるからである。一方、「見合い結婚の禁止」は、見合い結婚という私人や家族間の自由の禁止だから、憲法はそれを定めることはできない。この点からも「婚姻は両性の合意」という文言は、憲法がそれを定めてはならない、「とんでも条項」であろう。
なお、ベアテは「婚姻は両性の合意で成立し」と書いたのに、GHQからそれを渡された日本政府の方が帝国議会に提出する直前、そこにさらに「のみ」を挿入した。「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」にさらなる改憲をしたのである。佐藤達夫(内閣法制局第一部長)であった。当時の日本政府の中枢には、ベアテよりもはるかに過激な共産主義者が潜んでいたと言える。また、佐藤達夫はGHQ憲法草案にあった「家族は人類社会の基底にしてその伝統は善かれ悪かれ国民に浸透す」の方を逆に削っている。しかし、「家族は、・・・・国民に浸透す」の方こそ、表現を修正すれば憲法的な内容である。「両性の合意」や「両性の本質的平等」の方こそ、憲法にそぐわない暴論・戯言のたぐいではないか。
次に、全く理解不能な文言「個人の尊厳と両性の本質的平等」は、いったいどこから発想したのだろうか。「個人の尊厳(individual dignity)」はロウスト中佐の書いた第十三条にある「個人として尊重される(be respected as individuals)」から持ってきたのだろう。「両性の本質的平等(the essential equality of the sexes)」は、世界の誰が読んでも笑止千万の妄語である。男女が社会的権利の享有で平等、あるいは法の前に平等とは言えても、男と女が本質的に平等だなどという思想はこれまで地球上にあったためしはない。
フランスのアレクセス・ド・トクヴィルは次のように述べた(1840年)。
トクヴィル曰く、
「両性のそれぞれ異なっている諸特性を混同して、男女を平等なもの・・・・とする人々がいる。・・・・彼らは両性をともに堕落させている。・・・・弱い男性と恥知らずの女性だけが出てくる・・・・」
それから約百年を経て、米国ではウーマン・リブ運動(女性解放運動)が1960年代に発生したが、1970年代半ばからは全米の女性の過半数が反ウーマン・リブとなって、そのERA(憲法に「男女平等」の規定を設けること)運動を粉砕してしまった。米国では今でも「男女平等」という四文字は、おおかたの女性に不評で嘲笑され、警戒される。
男と女は相違し不平等であるが故に男女関係が成立するし、この差異が文明社会の文明的な発展にそれなりに貢献したのである。「男女の本質的平等」は、医学的・生物学的には狂気だし、社会的には幻覚以上の何物でもない。ベアテ自身も、自著の冒頭に「この本をお読みになる男性は、そういう女性を支えてくださいますよう・・・・」と男女の本質的不平等を前提とした“お願い文(男性に女性がお願いしている)”をかいている。ベアテのこの“お願い文”は、「男女の本質的平等」を否定している。自分が起草した日本国憲法第二十四条の「本質的平等」に違反する文言である。
さて、第二十四条の「個人の尊厳」と第十三条の「個人として尊重」は、いずれも、文明的人間のその自由にとって危険な思想である。人間の自由とはまず、「法の支配」において擁護されるから、「法の支配」がなければ、「個人の尊厳」「個人としての尊重」などは絵空事の呪文にすぎない。人並み優れた能力とか熟成した人格など質の不平等において人間は尊重されるがそもそも「個人」であるが故に尊重されるような現実は決して存在していない。尊厳は、「国家」「国王」、あるいは「立派な人間」には属性として存在しうるが、単に「個人」だからという理由で「尊厳」などありえるはずはなかろう。そんなものは単なる言葉上の遊びであり、憲法条文に適さない。削除されねばならない。以上を図示してまとめると、次のようになる。

国家権力は両刃の剣であって、米国や日本のように個々の国民の自由を擁護もすれば、ソ連や北朝鮮のように自由を剥奪する場合も多い。その境の一つは、国民がいくつもの「中間組織」―――家族、ムラ(地域共同体)、カイシャ(職場共同体)、教会(宗教共同体)、階級―――の中で複雑な人間のしがらみを有しているか否かである。つまり、個体(アトム)になっていないことである。
自由社会とは、その自由を擁護するために、人間が「個体」になるのを回避する「中間組織」の存在の自由を認める社会のことである。「個体」とは、人間が確実に隷従や牢獄に至る道である。
問題の第十三条の原案起草者であるロウスト陸軍中佐はルソー直系のアナーキストとして、第十一条と第九十七条の「人権(human rights)」の起草をした。さらに、“レッド条項”としてGHQ民政局の中ですら大問題となったために、すぐに削除が命ぜられた「土地の私有財産権を否定する条項」もつくっていた。しかもそれはスターリン憲法第十一条を盗用したものであった。ロウストは、ルソーの『人間不平等起源論』とマルクスの『資本論』を継承する、無私有の社会を夢想する極度なコミュニストでもあった。
(憲法第十一条)
「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
(憲法第九十七条)
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に耐へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
(マッカーサー草案第二十八条)=“レッド条項”
「土地およびすべての天然資源の究極的所有権は、人民集団を代表する国家に帰属する。」
ロウストがルソーの『人間不平等起源論』を信奉するアナーキストであろうとの推定の根拠は、もう一つある。現憲法第十四条の「すべて国民は・・・・」と日本側が修正した部分は、その原案では「すべての自然人(natural persons)」と書いていたからである。日本国民をルソーの「自然人」という、国家喪失状態にもっていこうとロウストが企図していたことは明らかである。これほど極端なルソー原理主義者の書いた日本国憲法第三章は、その全てを削除か大修正しない限り、憲法としての健全性をもつことはできない。自明であろう。
(C)夫婦別姓という「親子別姓」――戸籍の廃止と“家族解体”を狙う法務省民事局
世界と時代に逆行する、日本の1990年代の共産革命運動は、1991年に静かに始まった。
なぜなら、1991年1月、法制審議会民法部は夫婦別姓の民法改正への作業を開始した。法務省民事局は1991年9月18日付の、奇々怪々の文書を、「参事官室」の名で国会議員にバラまいた。そのタイトルは「夫婦の氏及び待婚期間の改正問題について」であった。「待婚期間」とは女性が婚姻の解消・取り消し後(離婚後)再婚が禁止されている期間を言う。そして、この法務省民事局の動きと連動したというより、明らかに共謀した報道や出版が目立つようになった。
例えば、ぎょっとする異様な内容の福島瑞穂(現社民党党首)の『結婚と家族』(岩波新書)が前年末のソ連崩壊の大騒ぎがまだ収まらず興奮の続く1992年1月に店頭に並んだ。さらに『楽しくやろう夫婦別姓』(明石書店)が、そして同年7月には『産まない選択―――子どもを持たない楽しさ』(亜紀書房)など、福島瑞穂がからんだ本がつづいて出版された。
特に、『結婚と家族』で福島瑞穂は次のように語り、ソ連の悪と非が暴かれてなお「レーニン崇拝者」であるのには驚くばかりである。
レーニンとは、チェーカー(KGBの前身)と強制収容所をつくり、大量殺戮(約五百万人)をなした「テロリズムの狂人」「共産革命の祖」である。
福島は言う、
「ソ連は、1926年<婚姻、家族及び後見に関する法典>で、事実婚を採用している。・・・・ロシア革命の後、さまざまな政策が根本から見直され、一時的であれ、事実婚主義がはっきり採用されていたことはすばらしいことだと思う」
何から何までレーニンを厳格に踏襲したスターリンだったが、たった一つだけ例外的にレーニンの政策を間違いだとして変更した、あのおぞましい結末を招いたレーニンの家族解体をもって、あろうことか「すばらしい」と絶賛しているのである。
マルクス/エンゲルスの信徒であったレーニンは、1917年の革命前後から、離婚を奨励し、刑法から重婚/近親相姦の加罰規定条項を全面削除した。レーニンの命令としての家族制度破壊の総仕上げが(1924年のレーニンの死後となったが)1926年の福島が引用する<婚姻、家族及び後見に関する法典>であった。しかし、この家族制度の廃止は、凄まじい数の重婚とレイプの大洪水となった。当り前であろう。事実婚になれば、モテる男はとっかえひっかえ若い「妻」を二十名から三十名持つことができる。若さと性的魅力を失った女性はことごとく捨てられる。また、レイプを、短期間の事実婚と法的に区別することは困難である。
このレーニンの史上最悪・史上最愚の実験によって逆に判明したのは、法律婚や慣習の儀式を経た婚姻こそが“女性を守る”ことを「第一の目的」として、自生的に発展してきた人類最高の智恵に基づく制度であるということであった。“女性を守る”とは、@少女や若い女性をレイプから守ることであり、A中年以上のおいた女性が(男に捨てられて)孤独や貧困に陥ることから守ることである。
また、法律婚や宗教的・慣習上の儀式を経た婚姻の「第二の目的」とは、社会秩序が維持された方が是であり倫理・道徳のある社会のほうが是であるが、これらを具現するためであった。社会秩序と倫理・道徳を支える基盤として婚姻制度は自生的に発生してきたのである。
現実に、レーニンの家族破壊後に生じたのは、掠奪・殺人を含めた非行少年の爆発的な増加であり、また、全国的な犯罪発生率の急騰であった。「家族の存在」において、「子どもは躾けられ社会秩序の基本や倫理・道徳が教育される」のである。
だが、それなしには、社会は文明の社会としての機能を全面的に麻痺させていくしかない。かくして、数千万人の自国民の殺戮をしたあのスターリンですら、(これ以上、いくら殺戮してもきりがないと諦めたのだろう)、1934年頃から1944年にかけてこの犯罪の余りの激増に懲りて、「家族破壊を聖なる正義とみなしたレーニンの法令」を廃止して、婚姻関係の法令をほぼ皇帝時代のものに戻したのである。
福島瑞穂を筆頭として、1990年代から跋扈する「夫婦別姓」運動とは、法律婚主義を全面否定する思想に立脚しているから、この史上最悪の「レーニンの実験」を日本にもう一度復活させることを目的としている、非常に危険な運動である。このことに日本国民は早急に気づくべきである。
一見、チャーミングなオバサンに見える、福島瑞穂の仮面の下の素顔は「本物のサタン」である。
話を、法務省民事局参事官室名での1991年9月18日付の怪文書に戻そう。それは一流の詐欺師も顔負けの、狡猾なトリックと虚偽で塗り固められている。法と正義を担う法務省として、断じてしてはならない偽情報(嘘)宣伝であるから、一種の「犯罪」といってよい。この参事官室のスタッフは全員、職権濫用であることをもっても分限免職に相当しよう。
まず、そこの第二節は「2 諸外国の立法例」というタイトルで、英米仏独中韓の六カ国を挙げている。だが、アングロ・サクソンの英米に夫婦別姓などあろうはずもなく、また、慣習優位の法思想において、夫婦の姓(氏)をわざわざ法律にする発想はない。それなのに、さも英米にも何とはなく夫婦別姓の法律があるかのようなムードをかもし出す表現をしている。フランスについてもそうであって、子は父の姓とすることを定める、父母を差別する法律はあるが、夫婦の別姓など定めている法律はない。節タイトルの「立法例」という言葉自体、そんな立法は一つもないのだから、あきらかにペテン師と同じ詐欺語である。ドイツは、妻が結婚以前の姓を称したいときは、夫の姓の前にそれをつけて夫の姓とともに用いてもよいことになっているから、「夫の姓を共通とする」原則に立っている。ドイツにも夫婦別姓はない。つまり、英米仏独に、夫婦別姓の法律は全く存在していない。
漢族及び朝鮮族は、血統系図を明らかにするため、古来より、妻は生家の姓を生涯用いるが、それは近代民法とも近代家族とも何の関係もない
法務省民事局が国会議員に配布した(1991年9月18日付)怪文書の六ヶ国のうち、「英米仏独という四ヶ国は虚偽の例、中韓の二ヶ国は空体の例」であった。百パーセントの嘘であった。ほとんどが共産主義者の官僚という法務省民事局の偽情報宣伝の狡猾ぶりのひどさは想像を超える。
それから四年、1995年9月12日に法制審議会(民法部会)はついに法務大臣にこの家族解体と戸籍廃止を狙った答申を出した。
この夫婦別姓に伴う戸籍法改正を、法務大臣のもう一つの諮問機関である民事行政審議会も、上記の法制審議会の答申の一ヶ月前の1996年1月30日に答申していた。そこではまだ戸籍の廃止を明確には打ち出してはいないが、夫婦別姓の本当の狙いが、まず、「戸籍上で家族の分解」をして、次に「(日本国民をバラバラの個体に分解して一人ずつの)個人登録制」にすることであるのを鮮明に示唆していた。なぜなら、戸籍において父母の姓がそれぞれ異なり、子供たちの姓がその父もしくは母の姓と異なるならば、これらを一つの戸籍としておくことの意義はなく、(戸籍がバラバラの)他人同士の同居と差異はない。必ず、この形の戸籍になれば、時間を経過したあと、戸籍不要論が法務省からキャンペーンされてそれへと確実に暴走する。実際にも、民法部会のメンバーのほぼすべてがこの恐ろしい戸籍廃止論者である。
まとめると、「夫婦別姓への民法改正⇒戸籍法改正⇒戸籍上での家族解体⇒戸籍不要論のキャンペーン⇒戸籍の廃止と個人登録制⇒<家族の解体(国民の個体化・アトム化)=最重要の中間組織の解体>⇒全体主義化(共産主義化)」である。これが、『共産党宣言』をバイブルとする、その信徒たちが牛耳る法務省民事局/法制審議会民法部会/民事行政審議会が三位一体となっての、「家族解体」という、日本を非暴力で共産社会に改造する共産革命運動プランの全貌である。
「家族解体」を、家族単位の戸籍を個人別戸籍にすることによって実行しようとした、日本の“家族解体革命家”の第一号はどうも我妻栄のようである。彼は、1946年に早々と、戸籍を家族単位から個人単位にしようと試みたからだ。コミュニストであるのに世間にはそうとは指弾もされず、実に要領よく生きたこの東京大学の民法学者は、今日の日本の国家的衰退をリードした「悪の知識人」というべきであろう。
それにしても、東京大学法学部は共産主義者の生産工場であるかのように思えるのは、私だけであろうか?
ではこれから日本としては、この「夫婦別姓」の狂気をどう鎮圧したらよいのであろうか。一つは、刑法や民法の改正を審議する法制審議会は、「刑法や民法の改正案」を内閣提出法案とするからとの理由において法務省にあるが、今後は民法と刑法に限ってこの内閣提出を禁止して、法制審議会を無用にし、廃止することであろう。刑法や民法の研究は、あくまでも国会の専管であるとの新しい定めをつくり、制度化するのである。とくに、法務大臣が法制審議会という共産主義者の学者や弁護士のたむろする機関に左右されているのは自由社会の国家としてあるまじき事態であろう。民法部会のメンバーの過半を超える共産主義者は追放されねばならない。とすれば、法制審議会民法部の全廃こそ最善かつ確実な方法であろう。
また、「夫婦別姓」を画策する現在の人々は嘘をつくのが日常であるから、その嘘をすぐ見破る知見を豊富に持っていなくてはならない。例えば事実婚の夫婦を法律婚の夫婦と法的に同等に扱ったら出生率が向上するという嘘をスウェーデンを例として彼らはあげる。確かに一、二年そのような傾向があったが、スウェーデンの出生率はすぐに元に戻った。福祉国家を含め、今日のスウェーデンは何から何まで反面教師であって参考にならない。
(D)「家族は保護され尊重される」―――正しい憲法条文(憲法原理)
憲法は、国家永続にとって“柱の中の柱”たる家族について、「保護され尊重される」ことが明記されていなければならないし、それが憲法である。
それなのに日本は、1946年の帝国議会で、この「家族尊重」を現行憲法第二十四条に挿入することが衆議院・貴族院で提案されたが、いずれも賛成多数(三分の二)をえられずに却下された。
さて、元来の憲法は、上記の「家族の保護・尊重」の規定で十分であるが、世界で日本のみ、『共産党宣言』の家族解体の教理に国民の多数が汚染されている状況を鑑みれば、自由の擁護とコインの裏表である、家族の尊重に反する立法の動きを禁止する必要がある。それは、「家族を尊重しない、いかなる立法も許されない」という憲法条文になるだろう。
さて、家族は文明の社会において絶対に重視されるべき理由が三つある。
イ) 伝統・慣習・しきたりその他の古きものが棲息している家族から、さまざまなそれらの情報を得ないとすれば、人間は自我を形成できないし、人間として生きていくに必要最小限の指針を身につけられない。家族の弱まりが「根無し人間」「無気力人間」「無規範人間」を増大させていることは、二十世紀後半の日本が世界の嘲笑をあびつつ実験している。
ロ) 家族は、民族・国家の、自由と道徳と文明性と文化を決定的に支える伝統と慣習を宿し、育む最良質の温室である。また、それらを後代に伝えていく唯一のパイプラインである。ノーベル文学賞を受賞したT・S・エリオットも、「文化の伝達にとって基本的な役目をつとめるものが家族である」と述べている。そして、伝統と慣習も家族の中で育てられて生命を得ているから、家族なしにそれらは後代に伝えられていくことはない。必ず腐敗し、消滅していく。そのとき自由は萎え、道徳は雲散霧消する。“美徳ある自由”の社会をつくり維持するのに、家族が最大の機能を持つことは、家族否定の二十世紀の社会主義国の実験が反面教師となって証明した。家族の絆が拒絶され、家族を通じて訓練される歴史的な道徳の規範とか因習から、“解放”されたからといって、個人が自由となり自己を発見し歓喜を持って創造へと歩むことになるだろうとの考えは進歩主義的な「絵に描いた餅」である。幸福が倍加すると思うのも妄想である。逆に、魂の孤独に恐怖する“疎外”という精神の空洞化を必ずや手にするだろう。自らの存在が「個体(アトム)」となって社会に浮遊し社会にとって無意味になっていることの無力さに絶望することになるであろう。自ら生きていく能力も意志も失って、自殺や精神病へと誘われていくのは、すでに統計的にも充分に証明されている。要は、伝統や慣習・因習を教育してくれる家族という場こそ、人生において正常に生きる指針を培ってくれる、人間として書くことのできない最良の“人生の学校”である。
ハ) 親による子供に対する言葉遣いと立ち居振る舞いの躾である。
(3)フランス革命の教理の排除―――国家簒奪・大量殺戮の思想の排除
@「国民主権」は暴政・革命に至る――デモクラシーの制限と抑制こそ憲法原理
(A)英米憲法が、「国民主権」を完全排除している事実を日本国民は全く知らない
日本の憲法学は、授業でも教科書でも、米国憲法に事実上、全く触れない。避ける。東京大学法学部ですらしかりである。この理由は明確で、米国憲法に言及した瞬間、日本の憲法学者の九割が虚偽とプロパガンダの常習者、つまり詐欺師とわかってしまうからである。
例えば、米国憲法には「国民主権」などというものは匂いほども存在しない。そんなものは積極的に排斥され否定されている。とくに米国は、その憲法制定によって「立憲主義(constitutionalism)」を憲法原理としたから、いかなる権力も憲法によって制限される。このため、「制限されない権力」の意味である「主権」は、当然に憲法違反であり、完全に排撃される。「立憲主義」と「国民主権」は水と油で両立しないから、米国は「立憲主義」を採用して「国民主権」を追放した。日本の憲法学者が「立憲主義」と是とし、「国民主権」を称賛しているのは、自己矛盾的思考であり、デタラメである。
バジョットは、米国憲法の起草者たちは「どこにも主権を置かないようにしたのである。それは、主権によって暴政が生じることを恐れたからである」と、米国憲法を正しく観察している。ハンナ・アーレントも次のように述べている。
アーレント曰く、
「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては主権と暴政は同一のものであると洞察したこと」
統治に関する「主権」の廃止は、英国本国のコーク以来の伝統であって、「アメリカ的革新」ではない。また、「主権」と“暴政”の同一視も英国本国の常識であって、「アメリカの発明」ではない。このような、小さなミスはあるが、アーレントは米国憲法の核心を正確に把握している。ノーベル経済学賞受賞の政治哲学者ハイエクは、次のように「国民主権」のことを「迷信」という。その通りであって、政府の統治を受けている被治者である国民を「主権者」(=無制限の権力者=統治者の発する憲法・法律等を自らの権力で無視できる)などとは、酔っ払いの寝言か戯言かであろう。あるいは迷信とか妄念上の幻覚としか言いようがない。
ハイエク曰く、
「主権がどこにあるかと問われるなら、どこにもない・・・・というのがその答えである。立憲政治は権力が制限される政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はありえない。・・・・無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、・・・・迷信である」
統治において「主権を」排除するのは、自由にとって最高の憲法原理である「法の支配」のもとで憲法を成長させてきた英国においても同様である。英国の「法の支配」の原理にあってはブラクトンの法諺のとおり、“法”は神よりも国王よりも上位にあって神や国王を支配するから、神や国王ですら主権者になりえない。かくして、「何にも支配されない権力」という意味である「主権」は英国では、“法”に支配される国王にすら適用されなかった。
むろん、英国にも、ボーダンなどの『国家論六書』(1576年)などによって「主権」というフランス生まれの思想が上陸していから、国王周辺の臣下の中には国王に阿諛すべく「国王主権」を言い出す者は少なくなかった。だが、英国は幸運なことに「法の支配」を死守せんとするエドワード・コーク卿というコモン・ロー(=英国で古来から通常裁判所により判例の形で集積された法体系)の大法曹家が存在し、「国王主権」論を断固排撃した。例えば、チャールズ一世時代の1628年の「権利の請願(Petition of Right)」の草案に貴族院が「国王主権」の文字を挿入した時、当時下院議員であったコーク卿は「主権は国会の用語ではない」とばっさりと削ってしまった。現代風の表現では、「主権は憲法に背反する」である。
今日に至るも、英国に憲法を含め国家の統治関係に「国民主権」という概念が全く存在しないのは、コークに代表される「法の支配」を守らんとした多くの英国の法曹家と政治家の汗の結晶による。かくして、英国には、ブラックストーンの「“法”主権」やダイシーの「国会主権」の概念はあっても、「国民主権」も「人民主権」も存在しないのである。
政治先進国の英米の憲法が“正統な憲法”として世界的にもそのモデルになっている事実については、国際的に(=日本でも)広く知られている。この点からでも「国民主権」が存在しないか、否定されているのが“正しい憲法”であるのは自明であろう。つまり、自由を擁護する「立憲主義」国家において、「国民主権」は「非・憲法原理」であり、憲法から削除されねばならない。
米国社会から排除された、“アメリカのはぐれ者”たちの巣窟であったGHQ民政局では日本国憲法を書くに当たってスターリン憲法やワイマール憲法を参考にしたように、彼らは通常の“米国人”ではなかった。そのことは、非英米的な「国民主権」が前文や第一条にあることですぐわかる。彼らは「英米の憲法が正統」であることに耐えられない“アメリカの異分子”たちであった。
ところで、明治憲法は「天皇主権」の憲法であるというのが定説であるが、明治憲法の条文の中に「主権」の文字は一文字もない。「天皇主権」は、いわゆる「天皇機関説論争」で東大教授である美濃部達吉の「天皇機関説」に対して、同じく東大教授である上杉真吉の「天皇主権説」から発生した造語である。また同じく東大教授である宮沢俊義は、自らの天皇制廃止のイデオロギーから、明治憲法の一条〜三条を講義しなかったのは有名である。ところが、大東亜戦争が勃発するや否や、1942年(昭和17年)の著書『憲法概説』で「天皇主権」論の上杉真吉を超える「神勅主権」論を展開している。そして、天皇を「神の子孫」とか「現人神」とまでいう。
宮沢は言う、
「(憲法第三条は)天皇が神の御裔として、現人神としてこれを統治し給ふとする民族的信念の法律的表現である。神皇正統記の著者が<大日本は神国なり>と書いた所以もここに存する」
明治憲法の第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」とは、ヨーロッパ諸国の憲法における君主の無答責を定めるごく平凡な、世界共通の普遍的表現にすぎない。日本固有のものではなく、憲法起草者の伊藤博文も井上毅も「神の御裔」「現人神」など述べたこともないし、考えたことすらない。宮沢はまた、「神勅」とか「神孫」とか「神」という漢字を乱発する。
宮沢言う、
「(憲法第一条は)皇孫降臨の神勅以来、天照大神の神孫この国に君臨し給ひ、長へにわが国土及び人民を統治し給ふべきことの原理が確立し、それがわが統治体制の不動の根底を形成してゐる」
宮沢のこのような「神がかり的解釈」は「天皇主権」論を超える「神勅主権」論であり、戦争へ国民を煽動する魔語というべきものである。そして驚くべきことに戦時中は宮沢流「神勅主権」論でいったん明治憲法を歪曲解釈しておいて、戦後に宮沢は事実無根の自論こそが「明治憲法の実像」だとすりかえて明治憲法を悪の根源であるかのように罵倒する。「虚像の明治憲法」を創作してこれに悪罵を投げつける。
ところが、この宮沢の「明治憲法つぶし」の詭弁――いわゆる八月革命説――は、戦後日本において左翼勢力の支持の下に広く定着した。そして現日本国憲法は明治憲法に存在もしなかった「主権」の文字を「天皇」の高貴性や威厳性など全くない、ただの「国民(民衆=デモス)」に単純にくっ付けて「国民主権」として憲法に明記したのである。大東亜戦争で「特攻」や「玉砕」時の合言葉「天皇陛下万歳!」が「天皇主権論」や「神勅主権論」に起源を発し、政府及び軍部が国民を煽動するのに利用されたとすれば、大東亜戦争の戦争責任において、これらの東京大学法学部教授らも思想的指導者として「重要戦犯」に値するであろう。
話を戻して、米国憲法が「国民主権」を排しているのは、米国がイギリス十七世紀の法思想で建国されたからである。独立戦争(1775〜83年)とは、この十七世紀という百年ほど昔の古き英国の法思想(=“法”主権的思想)で武装したアメリカ植民地に住む“古い英国人”と、議会が強くなりすぎた(=“国会”主権的)十八世紀後半の英本国に住む“新しい英国人”との闘いであった。
また、建国当時のアメリカのエリートたちとは主として大農園主であるが、コークの『英国法提要』とこのコークを継ぐブラックストーンの『イギリス法釈義』を座右の書とする、高い教養人であった。コークとブラックストーンこそは「法の支配」の法曹家であるが、アメリカ「建国の父たち」は主としてこの両名の法思想を学び、そこから「立憲主義」とか「違憲立法審査」とかを「発明」した。
十九世紀において、英国では「ベンサム⇒オースティン」らの命令法学に汚染され、「法の支配」が衰退していった。しかし、米国は十九世紀末までは継承し続けた。二十世紀に入って米国でも「法の支配」は衰退した。しかし、「国民主権」などという、暴力とテロルを生んだ革命の、国民一人一人を「主権者」という名の暴君に仕立て上げてこの凶暴な暴君に自分たち自身の自由を侵害させる狂気のドグマは、全く芽すら出ることなく今日に至っている。「国民主権」という言葉は、米国では今でも火星語のようなもので誰も理解できない。
一方、英国とは、マグナ・カルタに代表される中世封建時代からのコモン・ローと、それと不可分な関係にある自由擁護の憲法原理「“法”の支配」とを死守すべく、フランスから流入する「主権」思想を撃退するに血を流した歴史を持つ国家である。革命フランスに宣戦し、二十二年戦争(1793〜1815年)を戦ったのである。英国にとって「国民主権」は、英国に上陸してはならない、根を張ってはならない、有害な教理として合意され現在に至っている。
「国民主権」が米国にも存在せず米国人の関心の対象にもならなかったことは、米国にルソーやその他のフランス啓蒙哲学(モンテスキューのみ例外)がさっぱり流入せず、革命フランスの革命思想も簡単に排除されたこととも関係している。英国ではエドマンド・バークを先頭にして国をあげて革命フランスの革命思想の流入阻止に血眼にならざるを得なかったが、米国はそんな苦労はなかった。
英米憲法の思想は、革命フランスの思想とは水と油のごとく対立的である。フランス自身が、十八世紀の「フランス革命の思想」こそが“本当の憲法”を蹂躙すると悟って、英米系の憲法思想の正しさにやっと気付いたのは、1875年の第三共和国憲法からであった。フランス人権宣言の狂気から正統な第三共和国憲法に目覚めるまで、実に八十六年の歳月を要した。
米国憲法に「国民主権」がはっきりと不在になっているのは、憲法起草者が一致して民衆(demos)というものに「潜在的専制者」を透視し警戒したからである。育ちも教養も高い君主ですら「専制君主」になると恐れるならば、その逆の、育ちも悪く教養も低い民衆は主権を与えられれば直ちに“暴君”になるだろうと恐れることは、「米国の建国の父たち」にとって当然であった。教養の低い民衆が多数を恃んで(=多数決の原理で)その意志(=低教養のために悪意となる)を強制力(国家権力)に転換したならば、それは必ず国民の自由を侵害するものとなるのは自明であった。
「建国の父」の一人で、米国憲法の起草者であったマディソンは、この「多数者の専制」を次のように恐れている。
マディソン曰く、
「民主政治(popular government、民選政府)の下で多数者が一つの党派を構成するときは、党派が、公共の善と他の市民の権利のいずれをも、その圧倒的な(多数者の)感情や利益の犠牲とすることが可能となる」
このようにデモクラシーへの警戒感は、権力を握った“人間というものへの不信”という、正しい人間観に基づいている。
マディソン曰く、
「そもそも政府とはいったい何なのであろうか。それこそ、人間性に対する最大の不信の現れでなくして何であろう。万が一、人間が天使ででもあるというならば、政府などもとより必要としない」
「建国の父たち」の筆頭アレクサンダー・ハミルトンも、デイビット・ヒュームの影響もあるが、「すべての人間は悪漢(a knave)と見なすべきである」と、政治家が持つべき正しき人間観を持っていた。
ニューヨーク邦(建国以前は州でなく邦)での米国憲法批准会議で、ハミルトンは次のように演説した。
ハミルトン曰く、
「純粋デモクラシーは、歴史を紐解けば、これほどの政治における偽りは他に類を見ない。古代デモクラシーでは市民(国民)自身が議会に参加するのが決して良き政府を持ったことがない。その性格は専制的であり、その姿は奇形(異常)である」(1788年6月21日)
国民の自由擁護は、民衆の政治参加を警戒し、その代表者の議会に対してすらさらに警戒し、デモクラシーを制限する「制度」をつくることであるが、これが「建国の父たち」の一致した意見であった。マディソンは、民衆が選出した代議士たちの議会(立法府)に対して、この議会が国家権力(行政・司法をも)を簒奪しないかともおそれた。
実際に革命フランスでは、「議会」が権力を簒奪して、国民を好き放題にギロチンその他で殺害するに至った。ジャコバン党独裁下の「国民公会」は、単なる“殺人許可証を発行する村役場”であった。
日本の憲法学者のほぼすべては、米国憲法の解説の書『ザ・フェデラリスト』(=明治憲法起草者の筆頭、伊藤博文の座右の書であった)をその教科書でまともに取り上げないし、逆に、フランス革命憲法(人権宣言)を称賛する。
(B)「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する憲法学者たち
日本の憲法学者の多くは、一種の詐話師である。いかに言論・思想の自由があるとはいえ、何らかの刑法上の犯罪になるのではないかと思われるほど、彼らが書き散らした教科書は嘘とトリックだらけである。「国民主権」を例とすれば、英米憲法はそれを排除している。現代フランスの第五共和国憲法(1958年)は“蝉の抜け殻”のようにその形骸を残してはいるが、憲法として何かの意味を持たせているわけではない。つまり、フランスは、「国民主権」を実態上、死刑にしているが、その屍を埋めた跡に「国民主権」という名の墓を建ててあげた。それが、第五共和国憲法の第三条に当たる。
ところが、日本の憲法学は、プリンセス天功・Mr.マリック・セロなどのマジシャンも顔負けに、まず現実の自由社会の世界地図から英国も米国も現代フランスも、主要三ヶ国を消してしまう。次に、歴史のかなたにとっくの昔に葬られたはずの、1785年〜1794年にかけての血塗られた革命フランスを「現在」に存在する、「世界の唯一の憲法先進国である」という“大幻想”のスクリーンを映し出す。例えば、杉原泰雄の『国民主権の研究』や辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』などは、彼ら自身が「ジャコバン」になりきっており、彼らの思考も時間もこの十八世紀末のフランスに止まっている。そして、この十八世紀が、「二十世紀後半である」「二十一世紀である」とのマジックに専念している。
なお、フランス革命のフランスに憲法原理などまったく存在しないから、この辻村の著書『フランス革命の憲法原理』のタイトル自体がすでに虚偽広告に当たる。
なぜ、日本の憲法学者の九割がこれほどまでに虚偽と欺瞞に狂奔するのか。その理由は、彼らはマルクス・レーニン主義者とそのシンパであり、日本を何としても社会主義化したい、共産主義国にしたいという「革命」の執念のみに生きている宗教信者であるからであろう。そして、革命を排除する正しい“憲法原理”が憲法に宿っていなければならないのに、革命に誘導する革命の教理(=反・憲法原理)を、あろうことか憲法学だと詐言的に転倒する。このように、「虚偽=真実」と転倒させて人を欺く発想自体がすでにルソー主義・マルクス・レーニン主義の系譜であることの証明である。
辻村みよ子は、フランス人権宣言(1789年)や1793年ジャコバン憲法に関して荒唐無稽かつ出鱈目なプロパガンダ(嘘宣伝)をなす人物である。先述したその作品『フランス革命の憲法原理』で、辻村の嘘は「はしがき」の冒頭の一行目から始まる。そこでは、「(フランス革命二百年目にあたる今年)フランスをはじめ世界の国々で、大革命の偉業を讃え、その意義を考える記念行事・・・・」としているが、実際には、フランスにおいてすら、フランス革命離れは決定的である。フランス政府は、革命記念行事その他を今では可能な限り低調化(控えめに)している。フランス革命は二百年祭を機に、老人役者のごとく静かにそろりそろりとフランスから退場しつつある。フランスは東欧の解放(1989年11月)とソ連の崩壊(1991年12月)をもって、フランス革命記念日の安楽死を模索している。世界のどこにもフランス革命の「偉業を讃える」、そんな国は実態としては一ヶ国もない。辻村の虚偽記述はジャコバン・ウィルスに侵された革命病である。また、「フランス憲法学の最近の傾向、すなわち1789年宣言の憲法規範性を認め、・・・・」などは無視すべきレベルの妄言である。人権宣言はフランス王国を新宗教国家に改造する宣言で、“モーゼの十戒”などをモデルにしたカルト宗教の戒律・呪文の性格を持つことは、今では世界の定説であろう。かくも憲法から程遠いものが、どうして「憲法の規範性」を持ち得ると言うのか。また、「近代市民憲法原理ないし近代立憲主義の基本原則を確立したのは、人権宣言かジャコバン憲法か、あるいは1791年憲法かジャコバン憲法か」などと言い、それが「<新しい問題>である」などと述べている。「立憲主義」とは、憲法に従っていかなる権力も制限されることを指すから、「国民主権」などという「主権」が高らかに謳いあげられた革命フランスには存在しなかったのは明々白々ではないか。
例えば、ジャコバン憲法は制定されたが施行されなかった。そればかりか、この憲法に定められていない“無法組織”たる公安委員会と革命裁判所をもって独裁とフランス国民の大量殺戮が実行された。「立憲主義」とは対極的な“憲法破壊主義”がジャコバンの本性であった。だから、自由、生命、財産への大々的な侵害という蛮行が実行されたのである。フランスが米国生まれの「立憲主義」を理解したのは、約百年後の1875年であった。
しかも「フランス人権宣言」こそが“憲法破壊主義”を牽引し正当化した。その第三条が「国民主権」を定めたからである。この「国民主権」によって、人間を無制限に殺戮したいという、一部の国民の“意志”に“正当な権限”が与えられたからである。これが大規模テロルに至った主要な理由の一つである。このように、「国民主権」が反・憲法原理であることは、このフランス革命史が百パーセント以上に証明している。
樋口陽一は、東京大学教授として最も強い影響と深い傷跡とを日本に残した憲法学者である。この樋口もまた、時間がフランス革命で止まり、事実上、それから現在に至る二百年間の歴史が抹殺されている。
具体例をあげると、樋口陽一の主著『憲法T』は英国憲法を全面無視し歪曲する、米国憲法は完全拒否する、オランダ、ベルギー、北欧の立憲君主国憲法はないことに処理し、現代フランス憲法は隠す、・・・・。マジックショーのトリック以外の記述が全くないという奇本、それが樋口著『憲法T』である。別の表現をすれば、憲法としてはとっくの昔に死んでいる革命フランス憲法とカルト宗教の経典であった人権宣言だけをもって、「樋口流の世界の憲法理論」を創り上げる
まず、第T部では、主に「立憲主義」をとりあげる。(第一章第三節、第四章その他)。ところが、そこでは、米国の「立憲主義」にはまったく言及しない。
次に、近代憲法の基本構造が「主権」と「人権」だとする(第二章第一節)。ここでも、樋口は卑劣なトリックで論述していく。なぜなら、そのタイトルは一般的な「近代憲法の基本構造」としているのに、実際には、「身分秩序を否定する国家=国民主権原理によって、人権主体としての個人が成立した」などと、革命フランスのみに限定してその「憲法」なるものを記述しているだけだからである。羊頭狗肉である。また、この第一節のタイトルを「主権と人権――その近代性」としているのは、革命フランスのみに特殊であった「(国民、人民)主権」と「人権」が当時の欧米に一般的にも存在し、「近代的」であったかのように学生が誤解するよう誘導するためである。
近代の英米憲法には「国民(人民)主権」も存在しない。「人権」も存在しない。が、この事実について、樋口は一文字も書いていない。「抹殺」である。次に、ここまで米国憲法を抹殺するのも極端でまずいと思ったのか米国に言及するところがある。が、米国憲法とは何の関係もない、1835年のトクヴィルの作品を出して誤魔化すのである(三十頁)。
英国については、十七世紀の“主権つぶし”のコークなどには一言も言及せず、それから二百年以上もたった十九世紀のダイシーの『憲法序説』のさわりにちょっと触れておしまいにする(二十五頁)
全体を通して見ると、結局、革命フランスの部分だけで「全世界の憲法と近代以降二〜四百年間のすべての憲法の話をした」ことにしている。レトリックというより、低級な詐言としか言いようがない。
「立憲主義」に話を戻せば、樋口は次のように、出鱈目も度が過ぎた虚偽定義をする。
「近代立憲主義は、人権主体としての個人の尊厳という究極的価値を前提にして、権利保障と権力分立をその内容とする」
「立憲主義」は統治機構内のいかなる権力をも憲法に従って制限される(=権力抑制による国民の“自由の保障”を目的とする)という、1788年の米国憲法を嚆矢とするアメリカ的な憲法原理である。が決してこれには触れない。また、マディソンらの「建国の父たち」が起草した米国憲法には「人権」は匂いすらなく、「個人の尊厳」もない。当然、「権利の保障」とも無関係である。いったい、「人権主体としての個人の尊厳」と「立憲主義」とがどう関係するというのだろう。
次のような、もう一つの虚偽定義も全くの意味不明である。
「近代立憲主義の想定する個人は、ひとことでいえば、強い個人である」
なぜなら、「立憲主義」は「国民主権」や「絶対君主」を排撃するものであるが、単なる「個人」を対象とはしないからである。
樋口の「強い個人」の意味ははっきりしない。が、おそらく、樋口の意味する立憲主義は個人の権利保障を謳っているから、権利を保障された守られた個人というくらいの意味であろう。
ただ、「権利を保障される」=「権利を立法者に譲渡する」、「個人」=「アトム化された個人」と理解するのであれば、ルソーの『人間不平等起源論』からうまれた、平等主義と表裏一体を為す概念となる。
つまり、樋口はこの一文で「立憲主義(米国憲法思想)」=「平等主義(フランス啓蒙哲学)」が成り立つというミラクル・マジックショーを展開している。
樋口陽一の「憲法学」は“憲法学”ではない。「法の支配」など、自由を擁護する憲法原理を完全に無視するか、歪曲している。ひたすら、フランス革命を日本に起こすことのみに執念を燃やす煽動のパンフレットである。
●国民主権に係る読売憲法試案(2004年5月3日)について
読売憲法試案(2004年5月3日)は、樋口陽一や辻村みよ子の直系の、フランス革命イデオロギーまたは共産革命のロジック、それが冒頭に展開されている。「日本国民は、日本国の主権者であり、・・・・」が前文の最初に書かれているからである。
その意は、日本人は「一億二千六百万分の一の絶対君主」になったとでも言いたいのであろうか。しかも、一般に日本人のほぼすべては被治者であるから、この主権者(立法・行政・司法に関わる一部の統治者)に絶対的な服従を強いられる「一人の奴隷」になったとの宣言である。「立憲主義」に相容れない反・憲法原理である「主権」を憲法に明文化するのは、憲法の自己矛盾であるのは明白であるから削除すべきである。そればかりか、わざわざ「第一章 国民主権」を新しく設け、それを現憲法第一章「天皇」の前に持ってきている。天皇は、「主権者」たる国民の下にある、と言いたいのである。読売憲法試案より、現GHQ憲法の方が日本国にとって何倍もましである。
読売憲法試案は「憲法“改悪”案」である。
A「人権」というテロルの教理――文明と人間を破壊した「フランス人権宣言」
フランス革命において数十万人がギロチン、溺死刑その他で殺されるという大量殺戮(大テロル)は、「フランス人権宣言」(1789年8月)がもたらした必然の暗黒であった。「人権」、それは自由社会の個々の国民が祖先より相続している自由、生命、財産の権利を粉砕すべく、新宗教国家建設のカルト教の「暴力の教理(ドグマ)」の一つとして誕生した。
しかし日本では、「人権」がさもすばらしい近代の哲理とみなされ、「人権」が“自由”を擁護する魔法の力をもっているとの、転倒した錯覚が広く共有されている。このように逆立ちした異様な「人権」妄想は、「人権」を発明したフランス自身ですら今では実態的には存在しない。
フランスは、このおぞましい「人権宣言」を、その約九十年後の1875年第三共和国憲法ではいったん葬儀に出した。現在の1958年第五共和国憲法では、前文で一言高らかに触れることで一種のモニュメントに扱い、敬して遠ざけることにした。現代フランス憲法は、「フランス国民の権利」を擁護して、「人間の権利」などはできるだけ思考の外に出てもらうことにしている。
日本の狂ったような「人権(人間の権利)」信仰は、ルソー主義者で、スターリン憲法こそ“理想の憲法”だと考えていたロウスト中佐(GHQ民政局所属)が、1946年2月に、現在の日本国憲法の「第三章」の起草を担当したことに始まった。もちろん米国憲法には「人権」という概念は匂いすらなく皆無だから、ホイットニー民政局長のような“リベラル(=左翼的自由主義者)の中のリベラル”米国人にとってすら、「国民の権利」より一ランク下にある「civil rights(公民権)」を発想するのがやっとであった。ホイットニー准将は、ロウスト中佐にあくまでも「公民権(civil rights)の章」の起草を命じたのである。
だが、ロウスト中佐は、命令の「civil rights(公民権)」を無視して勝手に「fundamental human rights(基本的人権)」などという、非・米国的な思想、つまり屍と化したフランス革命時の純フランス的概念を墓場から掘り出してきた。フランス人権宣言とはフランス国民に「文明的フランス国民を棄てて自然状態(無国籍)の自然人になれ!」を呼びかける呪文であったが、ロウスト中佐はルソー主義であったから、これに共鳴し、これを日本に再現しようとしたのである。そして、これがそのままGHQ憲法となった。
ロウストはまた、ルソー主義者であったから、現憲法の第十四条になっている「すべて国民は」のところを「すべての自然人は(all natural persons)are equal before the law」としていた。「自然人」という概念も、それこそを“理想の人間”だとしたのも、オランウータンを“人間の理想”だと妄想したルソーから生まれた。そしてこの「自然人」という言葉にはアナーキズムの核心部分たる、【“文明的人間”=“国民”】⇒【「人間」=「非・国民」】⇒【「自然状態の人間」=「自然人」】と蛮行させる、日本人へのルサンチマン的な呪詛が漂っている。
しかしなぜ、このような戦勝国の、敗戦国への侮蔑と復讐に燃えたロウストの造語「基本的人権」を「日本にとって屈辱である」「国家として死活的に有害である」とは捉えずに、日本の憲法学者のほとんどは1946年から歓喜し絶賛し続けたのだろうか。また、この狂気がなぜ沈静化せず、二十一世紀に入ってもますます炎上しているのだろうか。
GHQ憲法に秘めた、GHQあるいはその民政局の意図には、「軍国主義の復活の芽をつぶす」など複数ある。が、宮沢俊義(東京大学教授)らの憲法学者を含めて当時の日本側の極左勢力は、GHQ憲法を日本が「共産社会に至ることを正当化する天の賜物(手段)だ」と考えた。
イ) 現憲法第九条の武装解除条項は、日本をソ連軍が無血占領させるに好都合なものであった。日本の現左翼勢力が単独で暴力革命をおこし成功するにも好都合であった。
ロ) 現憲法第一条の「国民主権」は、フランス革命、ロシア革命を再現するに不可欠な、天皇制廃止に転用できる“武器”であった。
ハ) 現憲法第十一条の「基本的人権」も、日本人を「文明的で高級な日本国民」から、「自然的で低級な人間」に落とす定めだから、このような「低級な人間」からなる社会は日本国ではなく非ナショナルで未開・野蛮な「共産社会」に時間の経過を持って改造される。(実際に戦後六十数年かけて、二十一世紀の日本国民の精神的側面はこの経過をたどりつつある。国家・国民意識の著しい低下、道徳の崩壊など。)
つまり、日本国憲法で共産革命の遂行に最も都合のよいところは、第九条、第一条、第十一条(及び第九十七条)であるから、日本の憲法革命屋たちはそれらをそれぞれ、「平和主義」「国民主権主義」「基本的人権主義」の三大原則として強調することにしたのである。憲法の定めには仮にも“主義”などがあろうはずがない。憲法には正しき「“法”の原理」のみが明文化し規定されるべきであって、それはあくまでも特定のイデオロギーに基づく“主義”とは無縁のものである。
それなのに非学問的で政治運動用表現の「・・・・主義」にした理由は、キャンペーンするのに、この方が絶大に効果的だからである。
このことは、例えば日本国憲法を「世襲の天皇主義(第一条)」「議会主義(第四十一条)」「私有財産(=自由)主義(第二十九条)」の三大原則と言わないかと考えればすぐ理解できよう。こちらの方がはるかに日本国憲法の“正しい憲法原理”と言うのにふさわしいのに、である。
つまり、「平和主義」「国民主権主義」「基本的人権主義」をキャンペーンするのは、日本の憲法学が革命に奉仕する政治パンフレット学だからである。共産革命に都合のよいところだけつまみ食いする「プロパガンダ(嘘宣伝)憲法学」だからである。
(A)偉大なるエドマンド・バークとその人類初の「人権」批判
1789年秋頃、「フランス人権宣言」と言う美名の、邪教の「福音」が英国に上陸せんとしていた。このとき、ドーバー海峡の水際でフランス革命思想の上陸を阻止せよと、英国中にこだまする大声をもって立ち上がった“知の巨人”がエドマンド・バークである。その『フランス革命の省察』(1790年)は、フランス革命思想の排除に決定的な働きをなした。その後にあっても人類に多大の影響を与え続け、世界史的な古典となった。この『フランス革命の省察』のなかから、バークが「人権」の核心を最も正しく観察した、そして「フランス人権宣言」の批判となった部分を例示しておこう。
バーク曰く、
「人間は(「人間の権利=人権」などの)自然権という非文明社会の権利と(国民の権利という)文明社会の権利の双方を同時に持つことはできません。・・・・文明社会の政治は、自然権によって形成されたのではないし、自然権は文明社会の政治とは全く無関係に存在しているものです」
「人間の権利」は、文明社会の文明的な(=自由と法秩序をもたらす)「国民の権利」とは対極的もしくは対立的なものである。バークはフランス人権宣言が、文明社会のこの文明性(=自由と自由を擁護する法秩序)に対する憎悪感が基調になっていることをすぐ喝破した。
バーク曰く
「文明の社会とは慣習の上に発展してきたものです。だから、慣習こそは文明社会の“法(Law)”でなければならないのです。・・・・文明社会の慣習つまり“法”がさも存在しないと仮定しての(=“法”を否定しての)人間の権利―――文明社会の慣習の積み重ねがあって初めてつくられえた国の基本政体等と絶対に両立できない人間の権利―――などいったいどうして要求できるのでしょうか」
“自由”とか“権利”というのは法秩序が存在して保障されうるものであるし、要求できるものである。法秩序の形成以前の未開・野蛮な自然社会を理想としての、「人間の権利」という言葉自体形容矛盾である。バークは正しい。
なお、バークの主張を以下に図示する。

トマス・ペイン著『人間の権利』(1791〜92年)は、バークの「人権」批判などに対して、反論というより単に口汚く罵声を浴びせたものである。当然、フランス革命のすべてを否定する英国政府によって悪書『人間の権利』は1792年12月には販売禁止となった。しかし、日本の学界・教育界は、平然とペインの方のみ何か高邁な学説のごとくに教えている。それが標的とした、世界随一の古典バークの『フランス革命の省察』の方は存在しないもの、読む価値のないものと扱い隠しに隠した。
米国の大学では、すべての政治学科でバークの『フランス革命の省察』は何らかの形で講義されているが、ペインについては語られることもない。アナーキストで無神論のペインは米国には存在していない。英国も同様である。確かに1775年に独立戦争が始まるやペインの『コモン・センス』(1776年1月刊)はアメリカ植民地の英国人を「独立」へとふるいたたせはした。が、のちに、「人権」を含め「反・キリスト教」などのペインの政治思想を知った米国民はペインを決して許さなかった。初代大統領ジョージ・ワシントンは、ペインの名を聞くだけですぐ嫌悪の感情をあらわにしたという。そして、米国人はペインの骨まで米国から追放せんとして墓をあばこうとしたため、友人が慌てて骨を英国に持ち帰った。が、英国も国をあげてペインの墓を拒否した。その友人の死とともにペインの骨は散逸してしまった。つまり、英国、米国においては、悪書『人間の権利』とともにペイン自身の存在も跡形もなく消滅した。
英米で単なる“ならず者”と目されているペインの方のみを教えて、数百年に一人の天才で「政治家必携の、政治的叡智の不朽の手引き」と世界最高の評価を受けているバークを隠すのは、東京大学法学部を始めとする憲法学の教官が、教育者としても学者としてもひとかけらの良心もないからである。
ナチの迫害と恐怖にあって、また二十年間に及ぶ国籍喪失にあって、「人権」というものが、自由にも権利にもまったくの空疎で無価値であることを体験したこともあって、ヤスパース、ハイデッカーの愛弟子ハンナ・アーレントは、その著『革命について』(1936年)でバークを支持して次のように述べた。
アーレント曰く、
「人権に対するバークの有名な反論は、時代遅れなものでも<反動的>なものでもない」
さらに、日本の憲法学者が米国にも人権思想があるかのような虚偽を捏造するために、フランス人権宣言は、統一国家以前のアメリカの諸邦にあった権利章典を模倣としたのだという嘘を言い続けている。が、アーレントは次のように否定する。この方が事実に即している。また、形式の模倣は、思想の模倣ではない。
アーレント曰く、
「人権宣言がモデルにしたアメリカ(諸邦)の権利章典と異なって、フランス革命における人権は、人間の政治的地位(=国民の権利)ではなく、人間の自然に固有な基本的・実体的権利(=自然権)を明らかにすることをその目的としていた」
そしてバークと同じく、アーレントは、文明の「政治」を文明以前の未開の「自然」に退行させようとしたのが人権宣言であったと指摘する。
アーレント曰く、
「(フランス革命による)この人権は実際、政治を自然に還元しようとした」
フランス人権宣言を読んで、どこかの未開人の、文明を呪う“経文の声”に聞こえないとすれば、それこそ無教養の極みであろう。アメリカ独立・建国の思想とフランス革命の思想を比較したアーレントの『革命について』は、この分野での入門書として第一級である。
アメリカという英国の植民地における諸邦のエリートは、英本国のジェントリー層(=英国の大地主のこと。貴族とヨーマン(中産農民)の中間に位置する)と同一の感覚をもち同一の生活をしていた。ほとんどが高い教養と知力に抜きんでた大富農であった。そして、英国のコーク卿の『英国法提要』とブラックストーンの『イギリス法釈義』を座右の書とし、英本国の法曹家に準じる法学と法思想の教養を身につけていた。フランスの啓蒙哲学に傾倒するものはほとんどいなかった。非コーク卿的、非ブラックストーン的なジョン・ロックに魅せられたトマス・ジェファーソンや理神論のベンジャミン・フランクリンなどは、当時の米国エリートのなかでは例外的な少数派であった。
「人権」などというのは「動物愛護協会のパンフレットと大して変わらぬ」とのアーレントの「人権」批判は、ガス室で大量殺戮された同胞ユダヤ人に思いを馳せつつ、また、ドイツの故郷を喪失して二十年もの歳月を経てやっと米国籍をとった、この二十年にわたる無国籍の自分の体験に照らして、「人権」という虚構と欺瞞を衝いているのである。
なぜなら、「人権」は「人権」を奪われた無権利状態(=「人権」を保障する主体である「国家」を失った状態)の人々を救済はしない。
「国家」は「人権」など無くても成立する(法の支配の下に“国民の権利”や“公民権”が擁護されればよい)。が、逆に「人権」はそれを保護する主体である「国家=政治社会」がなければ、全くの“無力”であり、人間の知性がつくり出す“絵空事”にすぎない。つまり、国家Aにおける「人権」とは「国民Aの権利」であり、国家Bにおける「人権」とは「国民Bの権利」であり、国家Cにおける・・・・である。近代政治社会において、自然状態の「人間の権利」=「人権」など何の効力も持たない妄想である。
従って、国家の基本法たる憲法にとって「人権」は反・憲法原理であることは明らかであろう。正しい憲法原理は、その国家固有の歴史・伝統・慣習など(=“法”の支配)を基盤とて成立する“国民の権利”である。
満州国が崩壊し、また邦人保護権をもつ「在外の陸軍部隊」となった関東軍がシベリアに拉致されたあとに満州の邦人155万人がロシア軍にどんなに「われわれには人権がある、人権を保障せよ!」と叫ぼうと、「人権」は保障されないのは明白であろう。自由とか生命は、“国家”ならびにその“国家”において、成長した法秩序の二つがあって保障される。“国家(ナショナル)”である以上それは、「国民の権利」である。つまり、自由は「国民の権利」としてのみ要求しうるものであり、「人権」は自由をわずかも保証しない。
つまり、自由を含めて実体ある諸権利は“ナショナルな権利”(=「国民の権利」)とならなければ体現されない。かくも「人権」とは虚構である。非実在の蜃気楼に描いた空無である。アーレントは、「人権」という教理が、国家の法秩序との関係を転倒させた、その自家撞着性を次のように述べている。
アーレント曰く、
「人権は譲渡することのできぬ権利、奪うべからざる権利として宣言され、従ってその妥当性は他のいかなる法もしくは権利にもその根拠を求め得ず、むしろ原理的に他の一切の法や権利の基礎となるべき権利であるとされたのであるから、・・・・人権を守るための特別な法律をつくったとすれば理に反することになる」
実際に、革命フランスには「人権宣言」のみが存在し、それを保障する法も法秩序も瓦解した。よって、フランス人は無法において勝手放題に殺戮された。「人権➡無法(=人権を侵害する法は無用)➡殺戮(人権の喪失)」という“魔のサイクル”は、「人権」のドグマから生じたのである。人間の自由も権利も、古来からその国に“世襲”されてきた“法”と“慣習”によってしか保証されることはない。これのみが真理であり、また真実である。
だから、コモン・ローの母国である英国も、その継承国家の米国も、この程度のことは常識にすぎないから、憲法思想の中に「人権」が匂いすらなく皆無である。フランスも時々は先祖返りときがあるようだが、今では反省して英米を模倣している。日本のみ世界で事実上一ヶ国「人権」を崇拝している。
(B)日本国民を騙し続ける日本の憲法学
日本の憲法学が、学問ではなく、フランス革命教の宗教教理のような状況を呈するに至った元凶の一つはカルト的な「人権」崇拝にあるだろう。カルト宗教ならば、真実かどうかではなく、信仰するか否かであるから、どんな嘘でもかまわない。宮沢俊義らが編集した岩波文庫の『人権宣言集』(1957年刊)は、この嘘の中でも嘘がひどく、特段に伝染力の強い経典となった。
なぜなら、例えばイギリスのところでは、マグナ・カルタや権利章典や王位継承法など七つの制定法を収録しているが、むろんこれらの中に「フランス人権宣言」に類するものは一つもない。すべて「英国民の権利」を定めたものである。より正確に言えば英国王(女王)陛下の臣民であるが故に、臣民に限定されて附与される「臣民の権利」を定めたものである。要するに、極めて“国家的(ナショナル)”なものを喪失し、伝統や慣習と無縁となった、「フランス人権宣言」のような「裸の(無国家的な)人間」の権利を定めたものは英国の憲法文書は一つもない。一例として「権利請願」(1628年)の核心部分をあげる。そこには次のように、「国王陛下の臣民は・・・・」とある。
「国王陛下の臣民は、国会の一般的承諾に基づいて定められない限り、税金、賦課金、援助金、その他同種の負担の支払いを強制されない、という自由を相続しております」
「人間としてこの地球に生まれたが故に有している権利」というフランス人権宣言の「人権」の意味は、英国では完全に否定されている。英国における自由の権利はすべて、@英国民でA国王(女王)の臣民でB祖先より相続したから、という三条件を満たしているが故に享受できる権利だと定められている。
1689年の権利章典もこれと寸分違わぬ思想の法律である。そもそも、その正式な法律名は「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」である。英国には今日も、憲法的文書の一つとして、「人間の権利」を宣言したようなものは皆無である。宮沢俊義らは事実の捏造に長けた人物であった。その『人権宣言集』(岩波文庫)は、計画的なトリックとマジックでつくられた“世紀のプロパガンダ本”でしかない。
米国についても同様であり、米国憲法(1787年起草、88年制定)には「人権」の文字も概念もどこにもない。あくまでも英国と同様、「国民の権利」しかない。いや、英国よりもはるかに中世封建時代的であった。なぜなら、「国民の権利」ですら、憲法に定めることにハミルトンら「建国の父たち」は反対であった。英国並みの「国民の権利」を憲法に定めることに反対して、ハミルトンは次のように述べた。
ハミルトン曰く、
「権利の章典を、憲法案の中に入れることは不必要であるのみならず、かえって危険ですらある・・・・。もし権利の章典を入れるとなると、それは元来連邦政府に附与されていない権限に対する各種の例外を含むことになり、その結果、連邦政府に附与されている以上のものを連邦政府が主張する格好の口実を提供することになる」
ただ、中庸的な性格のマディソンが妥協して、建国してから二年後の1791年12月、(フランス革命に対する世論の広まりによって渋々)憲法に修正の形で十項目を追加した。これが、修正第一条から第十条である。だが、それはフランス人権宣言とは似ても似つかぬもので、あくまでも「アメリカ国民の権利」であって「人間の権利」ではなかった。あげくに、「反戦・反軍備=ソ連の日本無血占領」の日本の極左憲法学者がとまどい目を閉じ口ごもる「国民の武器を保有し携帯する権利は、これを侵してはならない」が米国憲法修正第二条である。
さて、この「人間の権利」のない米国憲法に困惑した宮澤俊義らは、その『人権宣言集』にどういう歪曲や嘘を細工して、米国にも「人権」があるというプロパガンダに成功したのだろうか。これには三つのトリックがある。
イ) 米国が建国される以前の十三邦の憲法文書にすりかえる。
ロ) 独立戦争に在植民地イギリス人を駆り立てた煽動パンフ「独立宣言」にすりかえる。
ハ) 憲法修正第十条、第十三条〜第十五条、そして第十九条が米国憲法の「人間の権利」を定めているという嘘をつく。
まず、ハ)についてであるが、修正第十三条〜第十五条について言えば、米国憲法の起草、制定から九十年が経過した、この1868〜70年の追加条項をもって、米国憲法の(制定時の)精神を語ることはできるのか。また、それらの修正条項は、南北戦争(1861〜65年)後の黒人解放による、黒人への法的保護の附与の条項である。つまり、黒人もアメリカの「国民(citizen)」と認めたうえで、「国民の公民権(civil rights)」が附与されると定めたものであった。「人間の権利(human rights)」とはしていない。
修正第十条は、連邦の権限と定められていないものは州または国民に留保されているというもので、中央政府の統治権力を制限する“立憲主義”の定めの一つであり、「人間の権利」とも「国民の権利」とも何の関係もない。
修正第十九条は、女性参政権の附与である。それは、「The right of citizens(国民)of United States ・・・・」で始まるように、米国籍をもつ成人女性に限っての参政権であり、「国民の権利」だと明記されている。外国人の投票権を排除しており、「人間の権利」条項ではない。
米国憲法は修正(追加)条項のどれに言及しようと、「人権」はどこにもない。皆無である。岩波文庫『人権宣言集』の第二章は、見事なまでに宮沢俊義らの常軌を逸した詐言性を示すものとなっている。
東京大学法学部の憲法学教室は、学生を騙し、国民を騙すための研究をしているのだろうか。これが、日本法曹界のトップに位置する者の本質であれば、日本の憲法学は死んで腐っているとしか形容できまい。
次に、イ)については、例えばマサチューセッツ邦憲法(以下、マ邦憲法)は1780年の起草にあたってジョン・アダムスがその指導的立場にあった。このジョン・アダムスは、「すべての人々は不平等に創られている」という政治信条の持ち主であった。だから、このマ邦憲法はアダムスの信条に従って「邦民の不平等」が中核となっている。それなのに宮沢俊義らは、表向きの化粧で飾りにすぎない、このマ邦憲法の第一篇第一条「all men are born free and equal(すべての人は、自由かつ平等に生まれた)」をもって、この憲法の精神=「人間の権利」だと喧伝する。しかし、マ邦憲法はその第二編で、財産無きものの政治参加を禁止し、次に財産の多寡をもって議員に立候補できる資格の要件とした。このようにマ邦憲法は財産による人間の不平等と差別を普遍的原理と考えるものであった。この第一篇と第二編の矛盾を解く鍵は、マ邦憲法の起草(1780年)が独立戦争中だったことにある。アメリカの植民地の“英国民”は、独自の政府を樹立する目的でこの戦争をしているのであり、それは自らの政府をもつ英国本国の“英国民”との「平等」を要求することに他ならない。すなわち、マ邦憲法第一篇の「平等」は、植民地の“英国人”と英本国の“英国人”との間の「平等」を正当化するためのレトリックにすぎない。フランス人権宣言が立脚する、自然法論に厳格に従う全人類の人間としての普遍的な「平等」=「人権」を意味しない。要は、マ邦憲法の「平等」は、生命/自由/財産/安全/幸福における、マ邦英国民の権利は英本国の英国民の権利と「平等」であるべし、という以上の意味は何もない。
そもそもフランス人権宣言とは、思弁上の抽象的「人間」を想定し、全人類に共通するこの「人間」の権利を宣言したものである。つまり、フランス人権宣言とは、「フランス人の主張する権利が全人類普遍の権利である」との主張(勝手な決めつけ)であるから、裏返せば、「フランス人の世界人類の中での最高優越性」を主張しているに過ぎない。一方マ邦憲法の権利章典は、そのタイトルが「マサチューセッツ邦民の権利の宣言」とあるように「英国民の権利」と同一の「国民の権利」を自分たちも持っていると主張しただけである。とすれば、マ邦憲法の第一条「すべての人々は・・・・」は、「マ邦の英国系住民も英本国の英国民も・・・・」という意味である。また、前文でも「マサチューセッツ邦民」が「自分たちとその子孫のために」諸権利の宣言をなしたと明記してある。これは、普遍的な「人間の権利」ではなく、明らかに「マサチューセッツ邦の人々」のみに差別的に適用された憲法(権利章典)である。よってイ)についても宮沢俊義らの説は謬説である。
最後に、ロ)については、1788年の米国憲法が1776年の独立宣言の思想をほんの僅かでも継承しなかったのは、独立宣言が独立を実現するための一時的な方便だったからである。いわば、J・ロックらの自然法思想の「借物」であって、米国固有の「本物」の思想でなかったからである。
このため、米国では、独立を達成するや、米国人の思考と記憶の中から独立宣言の思想があっという間に消えてしまい雲散霧消してしまった。米国人全体がアダムスのようにそれを独立のための政治的方便に過ぎないと考えていたからである。独立宣言の第二パラグラフ冒頭の著名な一節「all men are created equal(すべての人々は平等につくられる)」=「人間の権利」は「アメリカンマインド(米国人の精神)」ではなかったからである。そして1788年の米国憲法が、真の「アメリカンマインド(米国人の精神)」であり、そこには「人権」の文字も概念もどこにもない。つまり、アメリカ独立宣言の思想と米国憲法の思想は米国の独立をもって完全に断絶しているのであって、独立宣言をもって米国憲法に「人権」の概念が存在するとするのは、宮沢らの恣意的な歪曲であり、虚構である。
さらに言えば、米国という統一国家の憲法に「人権」が完全に排除されている現実の状況下で、米国誕生以前の十三邦の「憲法」や独立宣言をもち出して強引に歪曲した解釈で仮に「人権」があると証明したところで何の意味があろうか。邦の憲法は邦の憲法であって、独立宣言はあくまで独立宣言であって、米国憲法ではない。自明ではないか。宮沢ら日本の憲法学者の、マジック・ショー的な詭弁には呆れるほかない。
日本で「人権」というドグマが瀰漫してしまった原因であるが、第一はフランス革命を美化してフランス人権宣言について宣伝してきた効果であろう。第二は、国連が1948年に総会で採択した「世界人権宣言」が、これまた、日本で大々的に宣伝された。この効果も大きい。
なぜなら、「世界人権宣言」も、冒頭の第一条より、許しがたいほどの嘘を掲げているからである。
「第一条 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とにおいて平等である」
北朝鮮に生まれた子供たちは、生まれながらにして飢餓と圧制の下でいっさいの自由をもっていない。内戦に明け暮れるアフリカのいくつかの国では小学生でさえ武器弾薬の運びや殺しをしなければ生きていけず、子供たちに自由はない。「生まれながらの自由」など「すべての人間」には与えられていない。飢餓や殺人を強制されていて尊厳などどこにあるのか。自由はあくまでも“国家”ごとであり、自由ある国に生まれない限り自由の享受は不可能である。
つまり、自由とはその“国家”からも賜物であり、「祖先から”相続”したから享受できる」ものである。現実とは、「人間は生まれながらにして自由がなく、尊厳もなく、<権利の平等>などという言葉が戯言以上の何物でもない」人々が、世界には何億人もいるということである。国連の「世界人権宣言」の真っ赤な嘘は、第二条にも続く。
「第二条 すべての者は、・・・・この宣言に掲げる権利と自由とを享有することができる」
例えば、北朝鮮の人々のうち、数十万人は日々、食料にあり付くこともままならず、ついには餓死を余儀なくされている。「この宣言に掲げる権利と自由を共有できる」などというのは、悪質な虚言であろう。そして、日本の憲法学の欺瞞性は、第一条から第三十条まですべて嘘、嘘、嘘の、この「世界人権宣言」を、あるいは「人間人格の固有の尊厳及び平等の権利」を前文に掲げる「国際人権規約(1966年)」を、その文字面のままに事実だと詐称して「人権」を論じていることである。
しかし、虚偽や事実誤認に発した前提に立つ、自由や権利のアピールをしたところで、自由や権利が擁護されるわけではない。つまり、そのような前提の下でそれらを享受することは決してできない。人間の自由や人格の尊厳は、憲法が“国家”毎であるように“国家”という枠組みのもとで擁護される。これが唯一の真理である。だが、この真理を冒瀆して、それらが“国家”の枠をこえて地球あまねく普遍的に存在しているなどという「世界人権宣言」は悪質な虚構である。憲法学がもし、“学問”であろうとするならば、「フランス人権宣言」をまず、拒絶するとともに「世界人権宣言」や「国際人権規約」も全否定することから出発しなくてはならない。
B自由と人間性を侵害する「平等」――倫理・道徳の死滅を夢想したルソー
憲法において定められるべき「平等」の二文字を冠した条項は、もしそれをどうしても明記したいのであれば、次の一つのみである。
「日本国民は法(法律)の前に平等である」
これ以外の「平等」は決して憲法に規定してはならない。なぜなら、「法の前の平等」は“自由”を擁護するが、それ以外の「平等」は何であれ、“自由”を侵害する、もしくは侵害するに至るからである。このことは、「平等主義」を革命の大義としたレーニンの共産ロシアや、金親子による「平等のパラダイス」北朝鮮が自由ゼロの暗黒の社会になった、いくつもの歴史的事実において完全に実証済みである。
米国憲法は、抜きんでた賢者が起草しただけあって、「平等」は排除された。「平等」の字句は、南北戦争後に黒人への「法的保護」を定めた1868年の修正第十四条一節の「その州の管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない」が最初であった。米国憲法の制定からちょうど九十年という歳月が経っていた。
しかも、この黒人への白人へのそれと同等(平等)な法的保護は、あくまでも憲法原理「法の前の平等」の適用の拡大であった。「黒人=白人」の“平等イデオロギー”からのものではない(=白人・黒人のいずれにも人種固有の長所・短所があり、人種の本質的平等などは想定していない)。これは女性への参政権を定めた修正第十九条(1920年)においても同じで、「女性が男性と平等(=両性の本質的平等)だから女性に参政権を附与した」のではない。成人男性に与えられている選挙権を、米国籍の成人女性にも与える、つまり米国籍に伴う法的権利は「法の前の平等」において「性差に優位する」との定めである。
しかし、1970年代の米国で沸騰した、憲法への男女平等条項の追加ERA(Equal Rights Amendment)は「男女差別をするな」という“平等イデオロギー”から発したものであった。このため、最終的には全米の保守系の女性たちが猛反対し、つぶしてしまった。米国の女性の過半は「男女平等」という“平等イデオロギー”に拒絶反応を示す。「自由の王国」である米国には「平等主義の平等」思想は、建国から長く存在しなかったが、1960年代に入り、キング牧師らの公民権運動の高まりの中で初めて発生した。それでも、この「平等主義の平等」が、米国民の過半に受容されることはなかった。だが、2004年5月のマサチューセッツ州の同性婚の許可はこの平等イデオロギーの「平等」からのものであるので、「平等」嫌いの米国が全体的にはこれをどう処理するかは、米国思想の推移や変化の一つのメルクマールとなろう。
なお、日本における「男女平等」は、「法の前の平等」からのものではなく、「平等主義の平等」から生まれている。しかも、この「男も女も同じ」という一種の共観妄想は、1990年代から、「男は女、女は男」という「ジェンダー・フリー」という狂気のカルト宗教へと発展して日本列島を席巻している。日本の「男女平等」は、脳科学などの科学すら全面的に無視しており、人類史上に前例がない。過激さを通り越して狂気である。
(A)日本はなぜ「フランス人権宣言」を嘘解釈するのか
フランス人は、自由がいっさい理解できなかった。ハイエクが「自由理論の発展は・・・・イギリスとフランスの二ヶ国で始まった。イギリスは自由を知っていたがフランスは知らなかった」、と指摘するとおりである。一般通念上の“自由”の概念をもって体系的な哲学思考をした最初のフランスの哲人は、アレクシス・ド・トクヴィルである。『米国のデモクラシー』(1835年、40年)は、その作品で世界的古典となった。トクヴィルのあと、フランス人は“自由”を徐々に理解するようになった。1875年のフランス第三共和国憲法は、英米と同じ“自由”の思想に立脚していた。
すなわち、1789年の『フランス人権宣言』は、フランス人が自由を全く理解できなかったことを示す、その笑うべき無知の証拠でしかない。ところが、日本の憲法学者は“自由”が全く理解できないか、“自由”を許すことのできない闇の精神に病んでいるのかであるため、『フランス人権宣言』に対して「間違った解釈」を加えて経典として崇めるのが一般的である。例をあげる。
「『自由とは、他人を害しないですべてをなしうることである』というフランス人権宣言第四条の規定は、自由と平等が同根の原理であることを示している」
これは、小林直樹監修の『現代憲法体系』第三巻の、平等の権利(1984年刊)のなかの一文である。著者は阿部照哉(京都大学教授)と野中俊彦(金沢大学教授)である。この極めて短い文に、阿部らは次の二つの嘘をついている。
イ) フランス人権宣言第四条には、「平等」の文言はない。第四条とは、自由の意味を死ぬまで理解できなかったJ・S・ミルの『自由論』に継承される“間違った自由”を述べているが、自由と平等の関係については何も述べていない。おそらく阿部らは「他人を害しない限り、万人に平等に自由が与えられる」との解釈に立って自由と平等が同根だと歪曲しているのだろう。
ロ) この第四条は革命フランスが自由を理解できなかったことを示す証拠の一つであるのに、それを逆立ちさせていることである。
「他人を害しないですべてをなしうること」は“自由”とは何の関係もない。なぜなら、この定義では「何が他人のを害することなのか」を規定していないから、人間は自分の行為が「他人を害しているか否か」の判断が不能となるので自他相互に自由の侵害が生じ、弱肉強食の無法に至らしめる。つまり、むしろ自由の消滅をもたらす。「他人を害しない」と言うが、例えば「日本人が日本国内で牛や豚を食することは他人(日本人)を害しない。しかし、日本人がインドで牛を、イスラム諸国でブタを食すれば明らかにインド人またはアラブ人の信仰心を害するのである」。
つまり、それぞれの国家の慣習・道徳・法律・宗教などのルールを知って(守って)初めて「他人を害しない」の客観的判断ができるのである。しかし、フランス人権宣言第四条には、そのような客観的ルールが一言も書かれていない。だから、人は「何が人を害することなのか、あるいは何が人を害しないことなのか、の判断ができず、自由の行為が全く不能となる。ゆえに、この条文は自由を保障する条文ではなく、自由を圧搾(消滅)する条文である。革命フランスは自由を理解できていなかったことを明示している。フランス革命で約50万人のフランス国民が殺戮されたのは、革命に反対する人を殺すことは、神聖な革命を正義と考える人々に対して何も害を与えていないので自由であると理解されたからである。
そもそも、フランス人権宣言第一条とは“差別するぞ(不平等に扱うぞ)!”との差別(不平等)宣言条項である。「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」とは、裏返せば「共同の利益に基づくものであるならば社会的差別が設けられる」という意味である。ロベスピエールのジャコバン党独裁が、恣意的に、自分たちの権力(=ジャコバンの利益が「共同の利益」)に刃向かう(=「共同の利益」に反する)ものを「反革命罪」として次々にギロチンで殺害する「差別(不平等)」をなしたが、この第一条を根拠としたのである。
しかも、「法律は社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない」と定めたフランス人権宣言第五条とは、法律さえ制定し、そこに「社会に有害な行為」だとさえ、どんな理屈でも書き込めば何でも禁止できるということである。ジャコバンによる圧制宣言の条項である。だから、「社会に有害な行為」とは何か、について人権宣言は一言も書かなかった。それは、人権宣言が、圧制・独裁・大量殺戮をする企図をもつ一握りの革命屋によって起草されたからである。
たった、この数条の条文を見るだけでも、「フランス人権宣言」とはその見かけの装飾的な文言とは全く逆の悪意を隠し持ってフランス国民を革命に煽動した「フランス大虐殺宣言」とも形容できよう。
1215年のマグナ・カルタは、正しく“自由の大憲章”であった。一方、1789年のフランス人権宣言は第一条、第五条で「自由の剥奪」を定めた、「テロルの宣言」であった。「平等」をアピールすることにおいて“自由”を圧搾するとアピールしたのである。この事実においてフランス人権宣言は自由と平等は両立しない(対立的である、対極的である)ことの、最高の証拠である。
阿部らがフランス人権宣言を指して、「平等を確立することは自由を実現すること」と述べているが、これも百パーセントの虚偽である。「平等」が百パーセント達成された社会は、ソ連や北朝鮮のように、“自由”は必ずゼロパーセントとなる。いっさいの根拠なく阿部らは自由と平等の関係で転倒の誤解釈を出鱈目の限りでなしている。
「自由と平等は、二つの異なる歴史的起源から出発し、発展した自然法思想ではなくどちらも近代的な人間の尊厳、個人の尊重に同じ根をもつのである」という阿部らの主張もまた、歴史事実を無視した架空の捏造である。
イ) フランス人権宣言の前文には「人の権利」について「人の譲り渡すことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示する・・・・」とある。そして「第一条 人は、自由かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」とあるから、人権宣言のいう自由と平等とは歴史的起源はともかく、自然法思想における自然権である。
ロ) フランス人権宣言の前文から第十七条までのどの条文にも「人間の尊厳」とか「個人の尊重」という文言は一言も出てこないし、自由と平等との関係も記されていない。例えば、「個人の尊重」で言えば、「個人の自由を尊重」すればその社会の「個々人の間には必ず不平等」が生じる。自由と平等が「個人の尊重」に同じ根をもつというのは論理矛盾である。
ハ) フランス革命の現実を見ても、数十万人という人間が権力を握ったジャコバン党の独裁で勝手気儘に殺される状況が「人間の尊厳」「個人の尊重」の社会と言えるのか、ということである。
阿部らが、自由と平等の対立性という、自明の真理を何としてもくつがえそうと執念を燃やして、事実無根の嘘を重ねるレトリックを展開する理由は何か。言うまでもなく反・憲法原理である「平等」を、憲法原理だと言いたいからである。
“正しい自由”は価値であり、憲法はこれに奉仕する手段である。しかし、「平等」は「法(法律)の前の平等」を除いて“自由”を侵害するから憲法原理ではない。むしろ米国憲法のように「平等の否定」こそは、憲法原理である。しかし、日本の憲法学者が、あらゆる歪曲と捏造をもって「革命のドグマ」にすぎない「平等」をもって、「憲法原理」である“自由”と同格にしようと躍起になる理由は、「自由ゼロこそが理想」と心底では考えている「フランス革命教=ルソー教」の信徒だからではないか。
話を平等主義のレーニンのロシア共産革命に移せば、このときモスクワに住みレーニン革命を直接自分の眼でつぶさに観察したベルジャーエフは、次のように述べた。ソ連の七十四年史も、今まさに崩壊せんとする北朝鮮も、暗黒の中の暗闇社会であるが、ベルジャーエフはたった一年間の観察でそう正しく観察した。
ベルジャーエフ曰く、
「絶対的平等を求める要求は、始元的な未分化のままの混沌的暗黒状態に復帰せよという要求である」
「混沌的暗黒の底部に淵源をもつ、そこからの平等化強制の要求は、不平等の中に生まれた人間人格そのものを破壊しようとする企図である」
しかし日本では、「平等」は「差別」の反対であり、「差別」が“悪”だから、「平等」は“善”であると小学生以下の幼稚な発想に思考が停止したままにある。(小学生レベルで正しく思考すれば、「平等」は「自由」の反対であり、「自由」が“善”だから、「平等」は“悪”であるとすべきである。)なぜ平等主義は必ず暗黒の社会をつくるかを二十世紀の世界史(ソ連、東欧、毛沢東の中共、ポル=ポトのカンボジア、キューバ、北朝鮮)の事実の中に追及することすらしない、日本人は知力も知性も全く喪失した。
国家権力が「平等」政策を実行することは、不平等に創られている現実を平等に扱う強制行為をすることであるから、それは国家権力が個人の自由を一切認めなくて良いというドグマなくしてはできない。国民の自由を僅かでも尊重しなければならないとなれば、いかなる平等政策も遂行できない。所得の差は能力の差と幸運の差によって必ず生じるのに、「所得の平等」を図ることは、貧困者以外の所得から貧困者の水準以上のものをすべて国家権力が強奪して「貧困の水準における平等」を強制することである。実際にレーニンはこれをテロル(大量殺戮)をもって強制した。「平等」要求が、「平等こそ正義」と考える狂気が、自由の圧搾と殺人を正当化したのである。
自由も美徳も法秩序も、文明社会の文明性のすべては不平等の中に育まれて成長したものであるから、「平等」の強制は、“自由の死”“美徳の死”“法秩序の死”を不可避とする。「平等」をもって「近代的」「進歩的」「善なるもの」と錯覚するのは、今や世界広し、といえども日本しかない。
人類の「平等」思想は、ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)で初めて唱導された。ここでルソーは、事実の間違いは多々あるが、全体のモチーフには首尾一貫していて論理明晰である。ルソーは、オランウータンなどの野生動物をもって「理想の人間」と妄想しつつ、これらが家族も私有財産も法律(民法、刑法)も皆無(ゼロ)であることをもって「理想」と考え、このような野生動物と化した「新しい人間」が創る社会をもって、「理想の社会(ユートピア)」「自然」と叫んだ。
そこはまた、“財産ゼロにおける平等”、“無家族における平等”、法律の廃止によって合法と違法に差別されない“無法における平等”の「平等の社会」であった。また、ルソーの描いた「理想の社会」=「自然」は真善美のいずれも存在しないから、「真偽の平等」「善悪の平等」「美醜の平等」が体現された社会でもあった。つまり、無法と野蛮において野生動物並みとなった、人間が相互に「平等な社会」である。それが暗黒なのは、もはや自明ではないか。それとも真善美が全く消えた社会が「明るい」とでもいうのか。
レーニンは「経済」をマルクスに学んだが、「政治」はルソーに学んだ。ベルジャーエフがモスクワで直接その目で観察したレーニンの革命社会が、ルソーの『人間不平等起源論』を忠実に再現していたのは、レーニンがルソー教徒であったからだ。なお、ルソーからレーニンに至る「ルソー➡フランス革命➡マルクス『共産党宣言』➡レーニンのロシア革命(=第二フランス革命)」という系譜は、思想の血統においては一直線につながった嫡流である。
かつて社会主義者であったベルジャーエフは、1917年から約一年間のレーニン革命をつぶさに観察して、すぐに『不平等の哲学』(1918年執筆、1923年刊)という世界的に有名な古典を書いた。
「平等」が、“自由”を侵害し、「不平等」が“自由”を擁護する、あるいは自由と平等は万が一にも両立しえない、という真理をベルジャーエフはレーニンを反面教師として初めて知ったのである。『不平等の哲学』はベルジャーエフの転向声明でもあった。
ベルジャーエフ曰く、
「平等に対する渇望は、人間の自由にとって常に最大のおそろしい危険である」
「平等は何よりも自由に対する侵害であり、自由の制限である」
「自由と平等の間にあるものは、調和ではなく、和解できない敵対的矛盾である」
「平等は自由を貪り喰ってしまう」
「民主主義的平等は、精神的生命の質を識別する能力(=自由)の喪失である」
「創造は不平等と向上を要求する」
(B)自由喪失の危機に立つ「平等教」の日本
日本の憲法学者は、実は本心では、自由が平等と万が一にも両立しないことを充分に熟知している。このために、日本の憲法学者の教科書のほぼすべてが、一般通念上の“自由”を擁護する思想や憲法的制度をさも存在しないかのように「抹殺する」。徹底した検閲である。もし彼らが、「平等」は“自由”を破壊しないと考えていたならばバークやハイエクなどの“自由”に関する主要な思想や、コークなどの自由擁護の「制度」論について、存在しているままに教科書に紹介し、自信をもって論破しておくだろう。(ある哲学思想を紹介して論駁せずに、それを紹介することを避けること自体が、その哲学思想の不戦勝を認めていることである)
例えば、“自由”のために「法の支配」の近代的理論化をなした史上最高の法曹家コークに言及して、それを論破するはずである。「自由の騎士」で天才哲学者のバークをとりあげ、バークの自由論を非難するはずである。さらに、平等主義が匂いすらしない米国憲法とその解説書『ザ・フェデラリスト』を真正面から否定するはずである。また、二十世紀における自由の哲学で燦然と輝く「知の巨星」ハイエクの自由論を俎上にあげるはずである。
しかし、「平等」を狂信する前述の阿部、野中の憲法教科書をみてもわかるように、他の諸外国の憲法学講座では決して欠くことのない、以上の世界的な思想上の業績や古典については口をつぐむ。「バーク」について、阿部らは次のように一箇所のみ触れている。が、バークを百八十度逆に転倒したトリックとして紹介するのである。
「古くはバークをはじめ、現在なお広くいきわたっている(自由と平等は両立しないという)このような考え方は、自由と平等の内容の捉え方によっても異なるが、抽象的であり、非歴史的である」
バークは下院議員という政治家であり、現実にしか関心がない。そのいっさいの抽象思考を排した哲人として世界史に名を残した大哲学者である。また、アクトン卿にヒュームの『英国史』に代わるべきであったと称賛されたバーク著『イギリス史略』があるように、歴史学においても天才にふさわしい水準の造詣であった。
一方、ホッブスにしろ、ルソーにしろ、彼らの方が、抽象的な思弁に徹し、歴史事実を全否定した。ルソーは『人間不平等起源論』で「すべての事実を無視してかかろう」と述べている。阿部と野中は、意図的に、現実と歴史重視のバークを、抽象と反歴史のホッブスやルソーの同類だと、マジック・ショーさながらに、つくり話をしている。
また、阿部と野中は、「自由と一体となった平等表現はすでにフランス革命に先立ってヨーロッパに共通の近代自然法思想のなかに根付いていた」と、事実に反する虚説を神託のごとく大仰に述べる。だが、例としてあげるホッブスもルソーも自由を全面的に否定して、“自由ゼロの全体主義社会”をユートピアだと妄想した先駆者たちである。「自由の全否定」という信じられない狂気は平等主義の思考からうまれて展開されたことを、ホッブスやルソーほど端的に明らかにしたものは他にいない。
ホッブスは、平等について、次のように言う。
「人々はうまれつき平等である。自然は、人間を、心身の諸能力において・・・・平等につくった」
そして、自由については、一般通念上の“自由”を転倒させる。人間の“自由”が侵害されてついにはその人間が殺害されるというまったくの“自由”ゼロの状態について、このような「死」という“自由”の完全な喪失も「自由の行為である」と詭弁を駆使して「自由である」といいくるめようとする。黒を白だと言う、バカバカしい、悪ガキの強弁そのものである。
ホッブスは言う、
「臣民各人は、主権者がおこなうすべての行為の本人であり、したがって主権者は、・・・・どんなものに対しても権利を欠くことは決してない・・・・。国家において、臣民が主権者権力の命令によって殺されてもいいということがありうるし、またしばしば生ずる・・・・。そのようにして死ぬものは、その行為をする自由をもったのであり、・・・・殺されても(自由への)侵害(をされたの)ではない」
ホッブスは具体的には、次のようなことをイメージしているのである。英国のピューリタン革命(1640〜60年)後の共和制の独裁者クロムウェルに無実の罪で処刑された英国民は多いが、これらの英国民は主権者クロムウェルと一体であるから、主権者クロムウェルがおこなった処刑という行為は、処刑された英国民本人の行為(=自殺行為)であり、英国民が自殺という自由を行使したのであり、主権者に自由を侵害されたのではない、と。この『リヴァイアサン』は、亡命中のホッブスが独裁者クロムウェルの歓心を買いたいばかりに、クロムウェルたった一人に献上する予定で書いたものである。人格破綻者ホッブスの売春的な阿諛が『リヴァイアサン』のすべてである。
ルソーは、ユートピアとして世俗的な絶対独裁者の全体主義体制を構想したホッブスをさらに過激にエスカレートさせ、カルト宗教の教祖を絶対神的な独裁者とする宗教団体としての全体主義体制(=「契約社会」)を提唱したのである。それが、『社会契約論』(1762年)であった。無所有(私有財産ゼロ)と無家族において完全平等な人間を理想としたルソーの絶対平等主義を論じたのが『人間不平等起源論』(1755年)であったが、このような完全平等な人間が集合して「社会契約」によってつくる人工国家が「契約社会」であった。
歴史もなく伝統も慣習もない、人工国家において、ルソーは自由ゼロの論理を次のように説く。社会契約によって、確かに“自由”をいっさい喪失する。しかし、代わりに「一般意志」(=「立法者」=独裁者)に支配された「市民的自由」を獲得するから、“自由”を喪失したことにならない、と。
あげくにルソーはあからさまに「市民」は恣意的に無制限に殺されるべし、と説く。
ルソーは言う、
「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死なねばならぬ」
「この教理(=「社会契約」)を公に受け入れたあとで、これを信ぜぬかのように行動するものがあれば、死をもって罰せられるべきである」
このルソーやホッブスでわかることは、両名とも「人間は平等➡人間の“自由”はゼロであるべし(=“自由”の喪失は「自由」という詭弁)➡独裁者は人間をいくら殺してもよい(=人間の“自由”はゼロであるから“生存の自由”もゼロ)」という論理を貫いている。「平等」の絶叫がこだました革命フランスがテロルの巷と化したのは、「平等の宗教」が「テロルの宗教」とコインの裏表の関係であったからである。そして、この阿部と野中だけでなく日本の憲法学者の多くはルソーやホッブスの大量殺戮(テロル)の論理を崇拝して「憲法学」をつくりあげている。辻村みよ子のような、フランス革命の大量殺戮の指導者であるロベスピエールに心身を捧げている憲法学者が次々に輩出するのはこのためである。
生命の尊重に逆行し生命の軽視や生命の無視を原点とする「平等主義」においては、当然に「人間の尊重」など初めから弊履のごとく棄てられていて存在していない。真に「人間の尊厳」を考えるならば、「平等主義」の排撃がまず出発点とすべき一大前提であろう。「人間の尊厳=個人の尊重」は、「平等主義」があっては棲息できないし、人間の差別化において初めて現実となりうる。「人間の尊厳」は“不平等が大切にされ、人間の絆が伝統と慣習につながれた社会”において初めて顕現されうる。
英国も米国も、憲法において「平等」を排撃するし警戒を怠らない。「平等」は、自由ばかりか、生命や財産(幸福追求)まで危うくすることを知っているからである。フランスも第三共和国憲法以降になると、「平等」を敬して遠ざけて、1789年のフランス人権宣言を、どこか外国の歴史であった他人ごとかのごとくに扱っている。世界広し、といえども、フランス人権宣言のままの「平等」にはしゃいでいるのは、今や日本一ヶ国である。
(C)「個人の尊重」―――倫理・道徳と自由を剥奪する思想
日本では、憲法学者のプロパガンダの効あって、「個人の尊厳」とか「個人の尊重」(現憲法第十三条)とかが、何か高慢な思想のごとく錯覚されている。そして、その第十三条にある「個人の尊重」について様々な“学説もどき”が賑わっている。が、「個人の尊重」も「個人の尊厳」も、実は憲法としてはきわめて有害無益で危険思想である。
(憲法第十三条)
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
(憲法第二十四条第二項)
「2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
なぜなら、この第十三条(ルソー教徒のロウスト中佐起草)でいう「個人」は、個人が皆バラバラで対等なルソーの「平等」思想から生まれた、アトム(原子・個体)となった「個人」を指している。ハイエクの言う「偽りの個人主義」の「個人」である。伝統や慣習と一体となった人間と人間の間の紐帯をもつ「正しい個人主義」の「個人」ではない。そのようなアトム的個人は、複数の「中間組織」(家族、階級、ムラ、カイシャ、教会、・・・・)に包まれていないから、伝統や慣習や権威の宿る情報の継承がなされないため、自由や幸福を追求していくガイドラインすら欠く。このため、自由や幸福とは無縁な人生しか歩むことができない。
「個人の尊厳」「個人の尊重」のアトム的個人は必ず、根無し草的・夢遊病的な人間いわゆる、(幾つかの「中間組織」のどれにも貴族できない人間である)「マージナル・マン」に堕ちてしまう。自由以前のヒトへの転落である。アメリカの著名な社会学者ニスベットは次のように述べている。
ニスベット曰く、
「家族、宗教団体、そして地方共同体・・・・の(中間組織の)絆から人間が解放されたあとに得るものは、自由と諸権利ではない。耐え難い孤独と恐ろしい不安と悪魔的劣情への従属である」
要は、個人を尊重してくれる「中間組織」から解放されたら、当たり前だが、「個人の尊重」そのものが生じる基盤が全く消えているので、「個人として尊重される」ことを望んでも不可能である。つまり、「個人の尊重」を欲するならば、この個人を包む伝統と慣習の「中間組織」が大切に保守されていることがまず絶対的前提となる。
すなわち、憲法原理はあくまでも「中間組織(特に最も重要なのは“家族”)」の保守であって、「個人の尊重」は憲法として排除すべき、危険な反・憲法原理である。
このことは、ヒトラー・ドイツやレーニンのソ連の惨たる歴史において証明された。
レーニンもヒトラーも徹底的に「中間組織」を破壊したが、それは国家権力が国民一人一人を直接的に支配することを可能とする、個人を“裸の個人”にするためであった。個人が家族や教会やそのたの中間組織から「解放」された時、個人は自由を手にしたのではなかった。巨大な全体主義という機械の、“小さな歯車の一つ”になっていた。すべての自由を喪失していた。
各個人が、国家権力の前に「平等」に並べられたら、個人はこの全体主義国家という機械を動かす、「献身」と「熱狂」とを強制される、小さな“一個の歯車”になるしかない。「個人の尊重」を定めた現憲法第十三条は、日本を全体主義に移行せしめる危険条項の最たるものである。アーレントは、ヒトラーやスターリンの体制と個人の関係を次のように言う。
アーレント曰く、
「共通の世界(=「中間組織」)が完全に破壊され、(個人が)内部に何らかの相互関係をもたない大衆社会、(つまり、個々の個人は)単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何物にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会、が成立した時初めて、全体的支配は、全権力を揮って何ものにも阻まれずに自己を貫通し得るようになる」
現憲法第十三条の危険性は、以上のことばかりでない。「個人の尊重」が日本人をして、無道徳国家・無道徳人間に堕していく、悪魔的な負の働きをするからである。家族のない、伝統や慣習のない社会では個人にも社会にも、倫理や道徳は全く存在せず、ゼロである。第十三条を書いたロウスト中佐は実際にルソーの“理想の人間”である「倫理・道徳を失った野蛮な個人」から、この「個人の尊重」を考えついたのである。
なお、ルソーは、このような「個人」を再集合させて「契約社会」をつくることを考えついた。それが『社会契約論』である。J・S・ミルも個人単位で人間社会を観るが、ミルもまた、ルソーと同じく無道徳社会や無道徳人間を理想だと妄想した。「平等」は、反・倫理と反・道徳を前提としない限り実現しないから、この「平等」と不可分のアトム化した個人もまた、倫理や道徳から「解放」された野蛮人とならざるを得ない。
しかし、国家も個人も、倫理・道徳的であることが正しく、憲法とはまさしくそれを定めるものである以上、憲法から「個人の尊重」が排斥され、「中間組織(特に家族が重要)の保守」が明記されるのが、正しい憲法である。
この意味で、「個人の自律」や、このような非常識で間違った「個人」を再集合させる「相互の協力」という、ルソーの社会契約論の亜流をもって「理想である」として、それらの文言を前文に入れてはしゃいでいる読売憲法試案とは、何のことはない、その本心においてレーニンやヒトラーの全体主義体制を理想としているからである。
このような読売憲法試案とは議論されるまでもなく廃案である。迫りくる日本最大の危機は、全体主義の煙が濛々とたちこめている読売憲法試案に、何の危険すらも嗅ぐことのできない「無教養民族・日本人」に日本人全体が知的劣化してしまったことの方かも知れない。
➡リンク:読売憲法試案
C大量虐殺を生んだ「政教分離」―――無神論による神道・神社の絶滅運動
(A)世界が拒絶する「政教分離」
「政治(国家、政府)と宗教の分離」などという、フランスにおける1789年の不可解で奇怪な政治教理(ドグマ)は、フランス革命を巨大な炎となってつつみ、それを凄惨な殺戮の「宗教内戦」へと牽引した。このように「政教分離」は血塗られた出生をもつ。このようなものを近代の憲法原理だと考える国は、あえてあげるとすれば、小声でつぶやく程度のフランス一ヶ国を除けば、日本だけしかない。それ以外の世界の百九十ヶ国においては全く存在しない。妄理の最たるものだからである。
ところが、米国が、このフランスとともに、数少ない「政教分離」の国であるとの謬説を唱える憲法学者が日本に多い。現実には、米国憲法のどこにも「政教分離」などは存在しない。しかも、それは修正第十一条だという。
(米国憲法 修正第一条)
連邦議会は、国教を樹立し、若しくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論若しくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。
つまり、修正第一条には「国教の樹立の禁止」と「信教の自由の保障」としか明記していない。つまり、「国教の樹立の禁止」をフランス革命で生まれた「政教分離」と言葉をすりかえているのである。
イ)
米国の場合
国教とはその国の国民が信じるべきものとして、国家が認め、法律によって保護などの特権を与えている宗教(=信教の自由を侵害する)
➡「国教樹立の禁止」と「信教の自由の保障」➡「国家の非宗教化」を意味しない=国家と宗教の関わりを否定していない。=「政教分離」ではない。(つまり、国家が特定の宗教(キリスト教等)と関わりを持とうと、国教化して国民に強制せず、国民の信教の自由を認めるならば、「合憲」である。国家と宗教を分離せよ、などとは一言も言っていない。)
ロ)
フランスの場合
(フランス憲法第一条)「フランスは、不可分のライックな(=国家は非宗教化されて=宗教から中立して)、民主的かつ社会的な共和国である」➡「国家は非宗教化されている」=国家と宗教の関わりを否定している。=「政教分離」である。
日本の憲法学者の多くは詐言とトリックの名手である。
“国家の宗教的中立化が今のフランスの「政教分離」であり、その内容は全四十四カ条からなる1905年の「政教分離法」において明示されている。
以上のことから、日本の憲法に「政教分離」条項が必要であるという主張とは、世界的には例外中の例外である、フランスの「政教分離法」を日本国憲法上の規定とすべきである、という主張である。がもし、そう主張するならば何故そうしなければならないのかの理由が必要である。だが、四文字スローガン「政教分離」を鉦や太鼓で喧伝する、日本の憲法学者のその教科書のどこにも、この理由について書かれていない。
あるいはなぜ日本は、フランスではなく英国国教会を“国教”とする英国を参考にしてはいけないのか、同じく国教をもつスウェーデンを参考にしてはいけないのか、これも説明がない。あるいは、輸入すべき憲法思想はなぜ、米国の「国教樹立の禁止」だけではいけないのか、これも説明がない。つまり、国際的に例外中の例外たるフランスの特殊ケース、しかもフランスも振り返りたくない1789年革命段階の「政教分離(=キリスト教潰し)」をもって、普遍的に近代憲法の原理だと強弁している憲法学の教科書とは、明らかに、真っ赤な嘘をついている。これほどの嘘をつかなければならないのは、日本の憲法学者が本心を隠しているからである。
日本の憲法学者の約九割はマルクス・レーニン主義の信者か少なくともそのシンパであるから、「宗教は熱狂的な信仰を生み、その団体は結束力ある中間組織となる」と考え、あるいは「特に神社神道の復興は、皇室神道=天皇尊崇の強化となり、天皇制の廃止の『コミンテルン32年テーゼ』に逆行する」と考え、宗教(特に神道がターゲット)の絶滅が絶対的真理であると信仰している。いわゆる無神論もしくは理神論(=無神論の分派、人間の理性を神とする邪教)者である。そして、フランスの「政教分離」は、1789年の革命とともに発生したが、それは、ヴォルテール系の無神論や、ルソーとロベスピエール系の理神論の立場から、実態的には国教の状態であった、キリスト教(カトリック)絶滅の論理としてつくられた。「政教分離」は、既成宗教を根こそぎ破壊する「革命の教理」であった。
だから、日本における「政教分離」の運動は、この革命フランスと同じく、日本土着で日本の伝統(伝統の中の伝統は皇室・天皇)と慣習と不可分の関係にある神道(神社神道、皇室神道)を主としてターゲットとする。神道絶滅の反宗教運動が、「政教分離」の名の下に正当化されている。訴訟となった、津市地鎮祭事件、国鉄南延岡駅神棚事件、箕面市忠魂碑・慰霊祭事件、自衛官護国神社合祀事件、八街町民葬補助犬支出等事件、愛媛県知事玉串料等奉納事件、鹿児島県知事大嘗祭参列事件、・・・・は皆、神道に関わっている。ところが、仏教系・キリスト教がらみのものは皆無に等しい。伝統破壊(=天皇制廃止)を主義とするマルキストやコミュニストである憲法学者にとって仏教やキリスト教はどうでもよいのである。
フランスにおいてカトリックはフランス民族のほぼ全員の信仰の対象であり、それを通じてフランスの歴史・伝統・慣習のかなりの部分が形成されている。宗教は各個人の内面の信仰だけでなく、その民族社会全体の文化と深くかかわりあっており、このため既成宗教から国民を切断することは、国民をして、民族の過去からの切断、社会全体からの切断に導く。その結果、国民は人間性を喪失して記憶喪失的な「無機質な人間」に変質する。人間の人間性は、伝統と慣習から形成されている。革命フランスは、伝統を喪失した「新・人間」による「新・宗教(理神教=無神論)国家」創造へと突っ走っていった。既成宗教カトリックの撲滅が第一段階(1789〜93年)である。そしてこの既成宗教カトリックの壊滅とともに、革命は新しいカルト宗教づくりの第二段階(1793〜94年)に入って行った。人間の理性を「最高存在(=神)」として崇める、要するに人間の理性が「神」だと狂妄する新しい宗教(理性教)=無神論の創造が進んでいった。「最高存在」(=理性神)は、「国民会議は、最高存在前に、・・・・宣言する」と、すでに1789年8月の人権宣言の前文で、「国民会議は、最高存在の前に・・・・宣言する」とアピールされていたから、この狂気が着実に計画的に進展していったのである。1789年フランス人権宣言とはモーゼの十戒をイメージして、理神教の経典としてつくられたことがよくわかる。「フランス人権宣言」についての、このような解釈は今日、世界の常識である。「フランス人権宣言」を何か近代の政治進歩のメルクマール(指標)かのように喧伝し、そう錯覚しているのは、今日では日本と国連に潜む共産主義者だけである。
フランス人権宣言について、日本ではそれを近代的な政治上の宣言だとのプロパガンダが盛んである。日本の憲法学者は読めないふりをして嘘八百の解説をする。しかし、「フランス人権宣言」とは、フランスをもって、この理性神を拝むカルト宗教的な宗教国家に改造すると宣言している宗教宣言の文書であるのは明らかだろう。
世界的古典の一つとなった『米国デモクラシー』の著者トクヴィルは、別の書でフランス革命を次のように分析している。
トクヴィル曰く、
「フランス革命は、フランスの改革というよりも人類の再生を目指していた節がある・・・・フランス革命はそれ自体、ある種の新しい宗教となった。実に、この宗教には神もなく礼拝もなく、また来世もないけれども、イスラム教と同様、全地上を自らの兵士、布教者、殉教者であふれさせた未完の宗教となった」
ドウソンもトクヴィルと同種の観察をなしている。
ドウソン曰く、
「ロベスピエールは新しい教会の法王であったのであって、これまで彼以上に精神的権力の優越性を擁護しようと決心していた法王はいない。・・・・断頭台は『自由の樹』と同様にジャコバン的理想の象徴であり、『自由の女神』は(生贄の血を捧げる)人間の犠牲の伝統的な儀式によるのでなければ、なだめることのできない嫉妬深い神であった。革命の広場の彼女の像の前で毎日絶えず増加する被害者たちの犠牲を捧げられたのであって、・・・・処刑は、その個人的・司法的性格を失って、非個人的・象徴的なものになり始めた」
日本の「政教分離」の学説は、フランス革命から生まれたこの時の既成宗教絶滅の教理をそのまま用いている。フランス革命のキリスト教つぶしをそのまま“神道つぶし”に応用している。革命を成就させる、特定宗教撲滅の政治的詭弁の活用である。
なお、マルクス・レーニン主義は無神論なのか理神論なのかについては、定説はないが、レーニン廟でレーニンのミイラを崇めているロシア共産党員や、金日成の廟で同様なことをしている朝鮮人を見る限り、ロベスピエールと同様に、理神論でないかと思われる。完全な無神論者とは、死後の霊魂を認めず、死体を石や土と同じモノとみるからである。以下、「無神論」で双方を含むものとする。(理神論とは「人間の理性」を「神」とするものであって、一般通念上の宗教における“神”の観念とは異なるため、無神論に分類する)
話をフランス革命に戻せば、そのキリスト教の撲滅の教理が「政教分離」であったように、「政教分離」は「信教の自由」を否定する、悪魔の思想である。簡単に言えば、「政教分離」とは「国家による無神論の国教化(強制)」である。だから、「信教の自由の否定」である。
「政教分離」こそ、異論の余地なく、反・憲法原理として排除しなくてはいけない。一方、「信教の自由」は普遍的な憲法原理と考えてよい。故に日本国憲法の第二十条と第八十九条が「政教分離」を定めていると言うのであれば、そのいずれも「信教の自由」の部分のみを除き、削除しなければならない。
(憲法第二十条)
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。」
(憲法第八十九条)
「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」
宗教と国家(政府)の関わり方はすべて伝統と慣習に従うべきものである。この故に憲法を含めて法律がこの「伝統と慣習に基づく、宗教と国家の関係」に反したことを定めるとすれば、それ自体「“憲法”の本義」(=国家の歴史・伝統・慣習の中に継承されてきた“法”を明文化するもの)に反する。あえて憲法上に定めるとすれば「信教の自由の保障」のみであろう。
このほか、どうしてもと言うならば、米国的な「国教を定めないこと」のほか、信仰の自由を破壊する無神論者などによる宗教破壊活動を禁じることであろう。
(宗教破壊活動の禁止)
「宗教の破壊活動を画策し、これを行うことは認められない」(条文案)
なお、明治政府が国教化した「国家神道」はそれと抵触しない限度内で信教の自由を認めていたが、満州事変から大東亜戦争にかけて国家神道は強化され天皇制イデオロギーと超国家主義と聖戦の根拠となったとするGHQの見解により、「神道指令」が指示された経緯を踏まえれば、米国的な「国教を定めないこと」という条文も規定しておく方が望ましいであろう。
(B)皇室の祭祀と靖国神社―――「政教分離」からいかに守るか
日本では、無神論者は野放しである。「神」を戴かない無神論者とは、必ず自らを絶対神と狂妄しているから、「神と」同じく他の人間の生死を司ることができると信じていることが多い。このため、大量殺戮に至る者がでる。また、無神論者は、すべての既成宗教を破壊せんとの情動をもつ者が多いから、日本で言えば他人の神社仏閣への参詣の行為すら憎悪の対象となる。他者の宗教信仰へのいわゆる“寛容”という人格に欠ける者が多い。
福岡地裁の亀川清長裁判長も、無神論者であろう。このため、小泉首相の2001年8月13日(必ず8月15日に、と公約していたが国民を欺いた)の靖国神社参拝に対して、憲法二十条第三項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」=「政教分離」に違反した、との傍論(盲腸意見)を判決に付けた(2004年4月7日)。なお、主文に関係しない、このような「個人的見解」を判決につけるのは、民事訴訟法を改正して禁止する必要がある。
総理大臣の靖国神社参拝とは“戦没者の英霊”を追悼する気持ちを国家として表明する儀礼である以上、それに宗教性があるのは当然であろう。宗教性の全くない、“英霊”の追悼など存在しえない。だが、「宗教性」のある追悼をもって、「国家による神道の布教という宗教活動だ」とするのは不見識・非常識の極みである。“宗教性を帯びること”と「宗教活動」とは全く次元の異なる概念である。総理は、この参拝において、靖国神社への参拝を国民に呼びかけていない。財政的に困窮する靖国神社への資金援助を国民に呼びかけていない。国会議員や裁判官や官僚など数百名とともにそこで追悼式典をしたわけでもない。玉串料十億円を税金から奉納したわけでもない。これのどこが、国家の「宗教的活動」にあたるのか。
あえて、小泉総理が批判を受けるとすれば、自民党総裁選時に「必ず8月15日の“終戦記念日”に参拝する」と公約しておきながら、中国・韓国とそれに内通する(マネートラップかハニートラップにかかって、中国の言いなりの)国会議員及び左翼マスメディアの内政干渉に屈して参拝日を8月13日にずらして国民を欺いておいて、そのことについて国民に謝罪もしなかったことである。
この福岡地裁判決が、無神論者の反・神社(神道)闘争の一翼を担っているのは、この違憲判決が憲法第二十条第三項を、捏造に近いほど曲解していることにおいても、明白である。
憲法第二十条はそれを起草したGHQ民政局の作業において次のように記録されているように、“教会(宗教団体)と国家の分離”を定めた条項であって「宗教と国家の分離」ではない。
「本条は、運営委員会により、簡略にされ、修正され、信教の自由を正面から保障し(a straight forward guarantee of freedom of religion)、かつ教会と国家の分離(the separation of church and state)を規定するものとなった」
つまり、第二十条の趣旨は「信教の自由の保障」と「国教会(=国教)の樹立の禁止」のみを定めた米国憲法修正第一条と全く同じではないのか。
とすれば、国家と宗教の関わりを否定するものではないのではないか。
憲法第二十条第三項とは国家が国家予算で国民に靖国神社参拝を呼びかけるパンフレットを三千部ほど刷り全世帯に配したりすること(神道という国教樹立を呼びかけること)を禁じていると解釈されうるかも知れないが、天皇陛下の御幸(御親拝)や総理や他の大臣の参拝問題に関わるような文言は一切存在しない。「政教分離」という、共産革命のための政治用語は、「政府と教会(宗教団体)の分離」という米国憲法的な意味から、日本共産党シンパの憲法学者によって「政府と宗教の分離」へとすりかえられた。歪曲されたのである。この状況の打開と治療は、この憲法第二十条第三項を削除するのが確実である。
ちなみに、この1947年からの現憲法第二十条のもとですら、次のように、もともと靖国神社参拝はなんら問題なかった。参拝が不自由になったのは、隠れ共産主義者で神道絶滅イデオロギーの信徒であった三木武夫首相が、1975年(昭和50年)8月、「靖国参拝を私人の資格でしました」と極左マスコミと事前打ち合わせをした上で発言したことに始まった。天皇・皇后両陛下には「私的資格」などはありえないから、その御親拝が不可能となった。
その上に、憲法解釈の問題ではないが、1985年からは、中国共産党の「A級戦犯合祀はけしからん!」という単なる内政干渉の戯言が、無視すれば済むのに、わざわざ日本側にそれをもっともだと呼応した中曽根康弘(後に詳しく述べているが、中曽根康弘は保守主義者を演じているが、正体は極左中の極左である。)のような人物がいたことによって政治問題となった。中国の靖国神社に関する内政干渉は、日本を中国の属国とみなす、古来からの中華秩序思想による意図と、中国共産党政府の失政に対する中国国民の反発をそらし、日本への反発に転化させる意図からである。中国共産党政府は「大東亜戦争で日本軍ために犠牲になった中国国民の“英霊”に対する冒瀆だ」などと言うが、本心ではそんな事には全く関心など無い。なぜなら、大東亜戦争終結後も中国国内では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が交戦状態にあって多くの自国民の犠牲を出しているし、中国共産党勝利して中華人民共和国を建国した後も毛沢東は文化大革命で数千万人(最低二千万人から二千五百万人、最大五千万人位という研究もある)の中国人民を殺戮しているからである。
そんな国に内政干渉を受けてもっともだと呼応し、自国民の“英霊”を国家として追悼できない、日本政府とは恐るべき無能政府としか表現できまい。加えて言えば、いつまで、日本国民に、六十数年前の戦争(それも日中平和友好条約締結(1978年)、日韓基本条約締結(1965年)で戦争処理は完了している)のことを謝罪させ続けるつもりなのか。しかも、なぜ、中国/韓国の虚偽と偽造だらけの歴史の押し付けに反論もせず、謝罪ばかりするのか。日本政府は、中国や韓国の偽造だらけで、真実などほとんどない、歴史教科書の内容を承知しているのか。そして、将来生まれてくる子孫にも未来永劫、偽造の歴史に対して謝罪を繰り返させるのか。国民を馬鹿にするのも程々にしてもらいたい。
話を戻すと、昭和天皇は戦後八回、現憲法下で七回も靖国神社に御親拝されている。今上陛下は、皇太子時代に四回、御親拝されている。
戦没者の御霊を祀る靖国神社は、日本という国家が永続するための生命源の一つである。靖国神社の擁護は、そのことにおいて真正の憲法原理である。とすれば、現在の憲法第二十条は、わが国の“あるべき憲法”に抵触している。“あるべき憲法”に違反している。“信教の自由の保障”部分を除き現憲法のこれら関連の条項すべてが削除されねばならない。
また、日本国の至宝である、二千年近い伝統において発展してきた皇室の祭祀と儀式に、「政教分離」などという、十八世紀フランス暴力革命の教理を介在させてはならない。つまり、憲法第二十条(第一項前段を除く)と第八十九条を全面削除するのは当然だが、それとともに次の条項を規定しておく必要がある。
(皇室の祭祀と儀式の聖性)
「皇室の祭祀ならびに儀式の聖性は、これを侵してはならない」(条文案)
加えて、英国における慣習法(コモン・ロー)に相当し、明らかに“法”として今も生きている旧・皇室令についても、形式的には「復活」という形になるが、この“法”は明文化され法令にしておくべきであろう。1989年1月の昭和天皇の崩御に伴う「御代始め」の儀式には五つあった。践祚、改元、御大喪、即位の礼、大嘗祭である。ところが政府は、日本国の“法”たるこの諸儀式に関して、共産主義者の巣窟たる朝日新聞ら極左の諸団体からの「政教分離」の大合唱に屈して、この“法”に手を加えたのである。自ら違“法”を犯したのである。やはり旧・皇室令については、政令でよいのであるから、すべて復活しておかねばこのように一時の政治判断で枉げられてしまう恐れが多い。「法の支配」に立つ自由日本も、これでは崩れていくしかない。
以下、例をあげる。
御大喪(1989年2月24日)の“葬場殿の儀”を、姑息にも何と「葬場殿の儀」と「大喪の礼」の二つに分割し、
イ) 「葬場殿の儀」➡皇室の儀式
ロ) 「大喪の礼」➡国の行事
この儀式の分割の証として、儀式の途中で、鳥居と大真榊を撤去したのである。国民の多くは唖然とした。この鳥居は、神道における神域の標識ではなく、古来より葬儀において天皇の葬儀を象徴するものであったから、これこそ天皇を戴く日本国の国体そのものへの損傷でなくて何であろうか。
次に、同年一月七日の、践祚の四つの儀式についても、二つを皇室の行事、二つを国事とする、姑息な分割をもって「政教分離」に屈したのであった。
イ) 「賢所の儀」「皇霊殿・神殿に奉告の儀」➡皇室の儀式
ロ) 「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」➡国の行事
さて、「三種の神器」、すなわち賢所の“鏡=八咫鏡(やたのかがみ)”、と“剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)”“璽=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)”とは、その名の通り不可分である。ところが、前の一つ“鏡”を皇室の儀式、後の二つ(剣と璽)を国の行事に分割したのである。どうして「三種の神器」を分割できるのか。さらに、1959年の今上天皇の「結婚の儀」における「賢所の儀」は国の儀式であった。政府の姑息は、明らかに皇室の伝統を破壊している。
また、1990年11月12日の「即位の礼」においても、恥ずべきことがなされた。
イ) 御祝いの言葉を述べる海部首相が燕尾服(洋装)であった。束帯の古装束でないのである。さらに、この儀式において、伝統をいっさい無視して「臣下」たる海部が宮殿にのぼるという非礼を極めるものをなした。海部俊樹が共産主義シンパであったことと無関係ではない。
ロ) さらに、万歳旛の「万歳」の文字の上「厳」の刺繍と大錦旛に描かれた八咫烏(やたのからす)と霊鵄(れいし)が記紀(古事記、日本書紀)の神武天皇東征の神話に由来するという理由において削られた。神話は、神話として事実である。神話は「真実」の物語とは言いきれないが、そのような物語が古来より継承され、信じられてきたという点で神話として“事実”である。また、神話の“事実”が存在した歴史は“真実の歴史”ではないか。神話否定こそ歴史事実の全面破壊へと通じている。
皇室の祭祀・儀式のすべてに関して、日本国民は最大限にそれを擁護する“世襲の義務”を負っている。二千年近い歴史に息づく皇室の祭祀・儀式に国民が一体となってそれにつつまれるのが、我が日本国の高貴なる伝統であり、それこそが日本の憲法(国体)である。生きている国家は過去の産物であり、過去への尊崇において現在があって、その延長に未来への生命と活力を手にする。それ故に皇室の祭祀・儀式は「時効」の国体である。「時効」に変更を加えることは反憲法の暴力である。
文明の政治とは荘重で伝統的な儀式と不可分であり、これを欠いてはこの文明性を維持できない。そして伝統的な儀式とはいかなるものも必ず宗教色豊かなものであって、宗教色の一掃は赤い広場の軍事パレードしかなかったソ連のごとくに、必ず非文明の野蛮に退行する。マスゲームと軍事パレードしかない北朝鮮をみてもわかる。しかもこの宗教を絶滅した野蛮なソ連も北朝鮮も国家として存続する能力を喪失した。
一歩その逆に、世界の科学技術の大半をリードする超大国として発展する米国は、その実態は国あげて宗教的である。もともと宗教的であることを絶対不可欠だと考えて、この宗教重視において建国されたのであるから当然であろう。自由ある文明国として大なる発展をしたいのであれば、米国を見習え、とばかりに国家は宗教性と分離してはならぬことを証明しているのが米国である。「建国の父」ハミルトンは次のように述べた。
ハミルトン曰く、
「政治的繁栄に導くすべての気質と習慣のなかでも、宗教と道徳こそは欠くことのできない支柱である」
「国民的道徳が宗教的原理を排除しても維持できるとは頭で考えても、経験からしても、思えない」
なお、米国憲法のどこにも「政教分離」の条文はない。米国では、四年ごとの大統領就任式も、その他の国葬や戦没者の追悼式典も、すべてキリスト教式でとり行われている。また、教会、裁判所、軍隊などにはすべて専属牧師(チャプレン)が配置されている。連邦議会はキリスト教の礼拝堂がある。また、すべてのドル紙幣にも「我らは神を信ず(In God We Trust)」と印刷されている。米国政府の中に非宗教性を見出すことは不可能である。
宗教性こそ、文明と自由と美徳に欠くことはできない。国家(政府)から宗教を剥奪したソ連では六千六百万人が殺害された。宗教否定は、野蛮と残虐への人間の退行、いや人間の悪魔的な非人間化を確実にする。
(4)亡国に至る、三つの憲法改悪――― 一院制、首相公選、地方分権
日本では今まさに本格的に始まろうとしている憲法改正は、米国社会を追放された「アメリカのはぐれ者たち」が書いた現在のGHQ憲法よりはるかにひどい、“憲法改悪”の方向に突き進むだろう。現に、読売新聞社が社をあげて鳴り物入りで宣伝するその憲法試案は、GHQ憲法を数十倍もひどくした、改悪の見本となった。
例えば、驚くことに、読売試案はその第六十三〜六十六条で、「憲法裁判所」という名の下に、数十万人を虐殺したジャコバン党のテロルと独裁の国家機関である「公安委員会」(1793年4月設置)をこの日本に再現しようとしている。ロベスピエールら僅か十名程度からなる「公安委員会」は、「国民公会」(国会)を完全に支配してその残虐なテロルの実行者となったが、読売の「憲法裁判所」の権限は、これと全く瓜二つである。
この「憲法裁判所」の九名の裁判官は、日本国全体の条約、法律、命令、規則、処分につき、最高裁判所の権限をはるかに凌駕して、勝手気儘にそれらの無効を宣言する権限を有する(第九十四条)。その決定を“不磨の大典”とすると定めている。(第九十五条)この条文は「その決定は、それ以降、あらゆる国及び地方自治体の機関を拘束する」とし、「憲法裁判所」の決定はそれ以降、国会の立法によっても最高裁の判決によっても、一切変更(改正)できないとする「超独裁機関」である。
要するに、最高裁判所を最終審と認めずその地位を下級審にして、また国会の立法を勝手気儘に廃止でき、さらに内閣(行政)の締結した条約をも勝手気儘に廃棄できる、無制限の権力を与えられているのが、読売「憲法裁判所」である。むろん日米安保条約は直ちに「違憲」の一言で廃棄される。象徴天皇制も「国民主権に矛盾するので違憲」の一言で廃止できる。読売試案は、国民の“自由”にとって非常に危険極まりない「最強の改悪案」であり、すべての日本国民は一切無視すべき類のものである。
司法による「違憲立法審査権」は米国憲法の「発明」であるが、この米国憲法には憲法裁判所などない。通常の裁判所が、訴えられた具体的な事件ごとに審査して、稀に法律の違憲性が判決とされる。これが違憲立法審査権の実際である。また、米国の立法に対するこの司法審査の制度は、「建国の父」アレクサンダー・ハミルトンの理論に従って、三十四年間も最高裁長官の職にあったジョン・マーシャル(1801〜35年)の判決を通じて確立していったものである。が、日本では東京大学法学部を始め、このハミルトンについてもマーシャルについても戦後一度も講義されたことはない。そもそもハミルトンが「建国の父」であることすら日本では知られていない。トマス・ジェファーソンだと虚偽を教えられている。ジェファーソンは、米国が建国される1787〜88年にはパリ在住の公使であって、建国の作業には一切かかわっていない。独立宣言(1776年)の思想と、それから十年後の統一国家の建国とは思想的に峻別されるべきである。
米国が、違憲立法審査のアイデアを得たのは、英国のコモン・ローを教養としていたからである。コークの『英国法提要』やその『判例集』を米国のエリートたちが座右の書として精読していたからである。だか、東京大学ですらコークはまったく授業されたことはない。コモン・ローの概念やハミルトンの思想に精通することなくして、どうやって違憲立法審査というものを理解できるのであろうか。
読売試案は読売新聞社調査研究本部が中心となって書き上げたものだが、そこは社内の共産主義者の巣窟と言われている。彼らが読売新聞社全体を代表しているわけではないが、社員の一部であっても、憲法改正の動きに便乗して、共産党による国家簒奪に協力しようとしていることで、読売新聞社としての社会的責任が免除されるわけではない。同様に、読売新聞社以外の団体であれ個人であれ、憲法改正の推進という仮装(内容は改悪)において「変身した共産革命」「チャールズ・ライク著『緑の革命』(1970年)が説く、暴力を要しない、新世代の革命」を遂行することは今後ますます増えるものと思われる。国民は油断してはいけない。
以下、憲法改正の動きの中でも、「最も危険な改悪のケース」を幾つか挙げて論及するのは、このような深刻な「憲法改悪論」の横行に対する対処と“憲法改正論”の識別の基礎的知見を提供するためである。
憲法改悪思想(=反・憲法原理)のワースト・セブンは次のようなものである。
イ) 「首相公選制」
ロ) 「憲法裁判所」
ハ) 「地方分権」
ニ) 一院制(参議院の廃止)
ホ) 環境権及びその他の無闇矢鱈な「権利」の羅列
ヘ) 得体の知れない「市民グループ」が地方行政を牛耳れる「情報公開制度」
ト) 憲法改正手続きを低い敷居にして簡単に憲法改正できるようにすること。
今では、改正派の過半は、天皇制廃止を真正面の射程においている。「改正派=保守」というイメージはもう古い。現実離れしている。護憲からこっそりと移動した「改正派=極左」が、今や改正論者の主流になりつつある。
上記のホ)「権利」のオンパレード的羅列は、倫理・道徳と不可分の「義務」について、その軽視を今以上に煽ることになるだろう。「権利のリスト・アップ」を減らし「義務のリスト・アップ」を増やしてこそ“正しい憲法”である。憲法はまずもって、国と国民の倫理・道徳の指針であるべきで、それが“憲法”である。
米国憲法の制定にあって、ハミルトンが主張したように、そもそも憲法には「権利」など書かないのが正当である。英国もまた、不文憲法であるから当り前だが、日本のような権利の羅列はない。それで、米国も英国も何か不都合が生じているだろうか。逆に、米国、英国では憲法に「権利」を書かないことで国家権力が抑制され、国民の「権利」の簒奪がなく、むしろ世界で最も“自由”である。
ここでは、「一院制」「首相公選」「地方分権」の三つの謬論を俎上にあげ、その非を明らかにしていく。
@参議院の再生―――その役割は、「法の支配」の番人・国の伝統と慣習の守護
日本における参議院廃止論は、二つのグループがある。
イ) 第一グループ➡シェイエスの『第三階級とは何か』の煽動に始まるフランス革命の一院制イデオロギーが、僅か五年でロベスピエール(ジャコバン党)独裁をつくった歴史から日本の共産革命のための有効な手段とみなす一院制論である。殺人鬼ロベスピエールを崇拝する東北大出の憲法学者・辻村みよ子は、このグループを代表する。共産党くずれの管直人の一院制論も、ここに属する。
ロ) 第二グループ➡参議院が衆議院のカーボン・コピー的で独自性がなく、また衆議院に対する第二院としての牽制力において非力であることから、侮蔑もあって「不要である」と短絡的に思い込んでいる人々である。小泉純一郎など衆議院議員にかなり多い。
この参議院問題は、GHQが貴族院の廃止を命じたが(1945年10月)、貴族院に代わる第二院のアイデアが未熟なままに、どんなものでもとりあえず第二院でありさえすれば良いではないかというちそく拙速でつくったことに最大の原因がある。
衆議院だけでよいとする、危険な極左革命に奉仕する一院制の動きを防止するためにも、第二院は絶対に堅持しなければならない。むろん現在の参議院を根本的に改良する必要はある。しかし、戦後日本の憲法学者は九割がマルクス・レーニン主義者及びそのシンパであるために、議会無視論もしくは議会軽視論の学者であるが、議会重視論の学者であっても、それは議会を革命の道具と観る議会重視論でしかない。第二院を正常に構想するに必要な知見は、日本では、学界・政界ともにいっさい欠いている。
(A)大量殺戮に走った一院制の起源
一院制を提唱したシェイエスの著『第三階級とは何か』の、フランス革命への影響力は異常とも言えるほど決定的であった。1789年6月、ルイ十六世が三部会(=三院の国会)を召集したことに乗じて、いっきに第三身分の部会のみが独立し「国民会議」と称し、貴族身分(第一身分)と聖職者身分(第二身分)の部会を崩壊せしめた。このフランス革命の第一幕は、『第三階級とは何か』というマニュアルがなかったならば、決してあり得なかっただろう。
「世紀の詭弁家」シェイエスは、一院制のイデオロギーを次のように煽った。
シェイエスは言う、
「第三階級(平民)は国民である。この資格においてその代表者は完全に国民議会を構成する。彼らは国民の全権をもつ」
「第三階級とは何か――すべてである。・・・・国民を構成するあらゆる部分の中に、貴族の占める場所を見出すことができない」
このシェイエスを教祖として崇拝する日本の憲法学者は多いが、その言説の中に一院制議会を正当化する合理的理由は一つもない。王殺し、反革命派への無差別殺戮と財産没収、独裁党による独裁、議会の簒奪、憲法の凍結・・・・と暴力革命にとって、障害物をすべて一掃してくれる働きが、一院制にあることをフランス革命史が証明したことに基づき、日本共産革命を図る憲法学者は詭弁をもって一院制を吹聴するのである。“狂える殺人鬼”ロベスピエールを崇拝する憲法学者辻村みよ子も、1793年のジャコバン憲法を“理想の憲法”と信仰する、われわれ常人にはとても理解しがたい人物だが、やはり一院制主義者である。
ここで、革命フランスの「一院制の歴史」を概観する。
【1789年6月17日】一院制の「国民議会」(非合法組織)の創設(三部会の簒奪)
【1791年9月 3日】「1791年憲法」の「国民議会」による採択
【 〃 10月 1日】一院制の「立法議会」の召集
【1792年8月10日】憲法廃止と王権剥奪
【 〃 9月21日】一院制の「国民公会」(非合法組織)の設立。無憲法状態。
【1793年3月10日】革命裁判所の設置。
【 〃 4月 6日】「国民公会」の上位機関として「公安委員会」を設置。
【 〃 6月 24日】「公安委員会」起草の「1793年憲法」の可決
【 〃 8月10日】同憲法の布告。
【 〃 10月 10日】公安委員会は、この憲法を凍結し自らが独裁する旨を宣言。
このように、革命フランスにおける一院制の歴史は、憲法との関係で重要なことを明らかにしてくれている。議会である「国民議会」も「国民公会」も憲法に基づかない暴力による権力簒奪でつくられた、恣意的で非合法の機関であったという事実である。“憲法下の議会”は、例外的にたった十一カ月間の寿命の「立法議会」のみであったが、それすら簡単に廃止された。革命フランスには、米国と相違して、「立憲主義」が全く存在しなかった。いやそれ以前に「ルールに従う」という初歩的な文明性がなかった。
そして、憲法が統治機構において憲法らしく機能するものとなったのは、1875年の第三共和国憲法からであった。天才革命煽動家シェイエスの狂妄からフランス人がやっと覚醒するのに八十六年という三世代の歳月がかかったといえる。第三共和国憲法は「人権宣言」と完全に縁を切っていた。
さて、フランスの一院制の「国民公会」について、そのありのままの歴史をたどってみる。一院制がいかに法秩序を破壊し尽くし、国民の生命を奪い、財産を奪い、自由を奪うかという客観的史実を知ってもらうためである。
「国民公会」は、断末魔の「立法議会」において(1792年9月21日)、その創設が議決された、と言われているが、嘘である。この日の「立法議会」には定員745名中、248名しか出席しておらず、373名をもって議決できるとする憲法の規定に反する以上、その議決は無効である。「国民公会」は非合法組織であった。
憲法も存在しない上に非合法組織である「国民公会」は、翌年、国民を殺戮する機関として公安委員会を設置した(1793年4月6日)。1793年憲法(ジャコバン憲法)はこのテロルを主任務とする公安委員会が起草したものであった。公安委員会の「欽定憲法」であった。しかしロベスピエールは、この新憲法の施行を凍結した。フランスの無法状況は続くこととなった。
この無憲法の政治は、フランス人権宣言で高らかに謳われた「国民主権」と矛盾するわけではない。米国は「立憲主義」(=あらゆる権力の暴走に憲法が制限をかける)に立脚することにしたから、「国民主権」(=憲法をも超越する国民の主権力)を排撃したように、「立憲主義」と「国民主権」は両立しない。革命フランスは「国民主権」を神聖視したから、「立憲主義」を排撃した。「国民主権」の下では、主権者たる国民は憲法を無視してよいのだから、憲法があることの方がおかしい。米国もフランスも、この意味において、論理的に整合している。日本の憲法学者の多くは、日本は「立憲主義」である、と同時に、「国民主権主義」である、と述べている。この論の方が明らかに論理矛盾である。
ともあれ、公安委員会と革命裁判所と反革命容疑者法(1793年9月17日)とが三位一体となって、国民は無制限に逮捕され無制限に処刑された。近代初の国家権力による悪魔のホロコースト体制の誕生であった。レーニン、スターリン、毛沢東、ヒトラー、金正日、ポル・ポトの大量殺戮の起源となった。ポーランドのアウシュヴィッツは、このフランス革命のジャコバン体制の直系によって実行された犯罪の爪跡である。
さて、「国民公会」はすぐに、ジャコバン党の大政翼賛機関になり下がった。「一院制」とは、主権ある国民の意思が無謬であるが故に第二院のチェックは不要とする考えに立脚する以上、「一院制主義」そのものが無謬の独裁機関(=公安委員会)や独裁者(=ロベスピエール)正当化する論理となる。「一院制」の国会は、独裁機関を生んで、そのあとは自死するか、この独裁機関の奴隷になる。
「国会とは可謬の民衆の代表にすぎないから、“可謬の法律”“可謬の組織”をつくる可能性こそ大である」、と恐れることがないのであれば、国会の暴走や国会の自死を止めることはできない。「第一院」を牽制する「第二院」、国会を牽制する三権分立、立憲主義、のいずれも国会の暴走に未然にたがをはめて国民の自由を擁護するシステムとして、祖先が考えついた知恵である。また、それこそは国会が自死せずに国会として機能していくために祖先が考えついた知恵でもあった。これ以上の知恵を考えつく知力をいかなる人間ももっていない。我々は、「国会の二院制」という英国発祥の叡智を尊重するべきであろう。
(B)英、米、仏(第三共和国 以降)に学ぶ第二院の神髄
現在もそのままに生きている米国憲法は、デモクラシーを危険視し、それを制限(抑制)することを主眼としてフィラデルフィアで起草された。米国の「建国の父たち」が頻繁に用いた「共和制(republic)」という言葉は、“デモクラシーが制限された政体”という意味であった(米国共和党the Republican Party⇔米国民主党the Democratic Party➡アメリカには国民主権の概念はないから、「民主」党と訳すのは誤訳ではないか?「民政」党と訳すのが正解ではなかろうか)。
革命フランスにおいての、君主制が打倒され排除された、という意味の「共和国」とは全く相違する。
とくに米国は、革命フランスと対極的に、民選政府(popular government)が「多数者の専制」「デモクラシーの暴政」になることを恐れた。『ザ・フェデラリスト』第十篇は、「多数者の党派」が公共善も少数者の権利も侵害するから、「直接デモクラシーの政体」はまずもって決して認めてはならないと、指摘している。次に、代表者によるデモクラシーである議会制の下ですら、立法府による権力簒奪が生じやすいので警戒を怠ってはならないと、警告している。たしかに、革命フランスでは、非合法組織にすぎなかった「国民議会」(1789〜91年)や「国民公会」(1792〜95年)が、権力を簒奪した。これらの議会は、ギロチンなどの大虐殺を、つまり無制限の無法と暴政を、血の雨の中で遂行した。次のような米国の「建国の父たち」の中の一人であるジェームス・マディソンの警告(1788年2月)を、革命フランスの革命屋たちは、まったく読まなかった。フランス革命は、アメリカ建国と思想的に水と油の関係で、実行された。
マディソン曰く
「むしろこの立法府に対してこそ、冒険的な野心をもつことがないように、国民はそのいっさいの猜疑心をそそぎ、警戒をおさおさ怠りのないようにしなければならない」
アメリカの「建国の父たち」は、立法府(議会)に対して、「三権分立(モンテスキューの『法の精神』の思想)」ともいわれる、行政府(大統領)の法案拒否権や司法府の違憲立法審査権をもって対抗できるようにした。その上に、立法府を“二院制”の二つに分け(「権力分割」)、相互にチェックできる機能を附与することを考えた。立法府を二重三重のたがでしめあげて、その暴政が万が一にも発生しないようにしたのである。
日本のように、無制限にデモクラシーを礼讃する思想は、米国には僅かも存在しない。大統領が公文書でデモクラシーという言葉を用いるようになったのは―――大統領がデモクラシーという言葉を用いて国民からの信頼にマイナスになることがなくなったのは―――第一次世界大戦中のウィルソン大統領からであった。この時初めて、建国以来ずっと米国の伝統であった“反デモクラシーの思想”が、百二十五年の歳月を経て、消えたことになる。米国のデモクラシーは、第一次世界大戦(1914〜18年、1919年パリ講和条約)以降に始まった、新しいものである。
要するに、日本国憲法第四十一条「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」のような、国会を危険視しない国会(立法府)礼讃思想は、米国憲法には無縁である。立法府不信という米国の政治思想の一つは、今も根強く継承されている。
そもそも米国の議会における上院は、一般有権者によって選出される下院というデモクラシーの立法府をいかに抑え込むかを、英国貴族院をモデルにして考案されたものである。このために州から各二名という選出方法にして、有権者の直接投票を排除した。州の有権者が投票できるようになったのは、アメリカがデモクラシーを受容した二十世紀に入った、1913年であった。
つまり、建国時の上院の設置理由は、デモクラシーで選出される下院に対する牽制を主目的としたものであった。
議会は“二院制”でなければならないとしての、上院設置の六つの理由を『ザ・フェデラリスト』第六十二〜六十三篇は次のように挙げている。
イ) 権力簒奪をする側にとって一院より二院の方が困難。
ロ) 一院の方が、「突発的で激越な感情による衝動に支配される」「党派的な指導者に迷わされて途方もない有害な決議をする」。
ハ) 下院議員では、公職の余暇を法律研究に没頭するようなことができない。立法における高い知的教養の議員からなる議会の存在は必要。
ニ) 下院議員は選挙ごとに入れ替わりが激しいから、それだけでは慎重で長期的・安定的な政策が疎外される。
ホ) 下院だけでは、(国内の有権者の利害に左右され)諸外国から尊敬される政策を考える余裕がない。
ヘ) 下院(任期二年)に対しては議会の政策の結果責任を問うことはできない(上院の任期は六年)。
フランスが革命の狂気からようやく覚醒して英米的な憲法観を取り戻したのは、1875年の第三共和国憲法であった。無法者の無法行為にすぎなかった三部会簒奪から八十六年という歳月が経っていた。この第三共和国憲法の延長上に今日の第五共和国憲法(1958年)がある。
ところで、フランスの上院である元老院は、日本の参議院改革にとって貴重な参考例である。とくに、その選出方法である。それは二つの特徴をもつ。
イ) 選挙団による間接選挙であり、一般有権者の投票を排除していること。
ロ) 地方(田舎)が主としてこの上院議員を選出し、都市選出の上院議員を確実に少数となるように工夫されていること。
選挙団は、@国民議会(下院)議員A県会議員B市町村会代表で構成されており、その総数十万四千人のうち、市町村会代表が約十万人と九十七パーセントを占める。1968年の数字であるが、市町村会代表の過半数(五十三パーセント)が人口、千五百人以下の田舎村である。これによって元老院議員三百十九名の多くをできるだけ“地方の旧貴族階級”から選出しようと図っているのである。
要するにフランスの上院の制度は、米国の「建国の父たち」と同じく、“民衆への不信”に立脚して“地方名士”のみを選挙人とし、この古き良き伝統と慣習の残る農村部を基盤としている旧貴族をできるだけ議員にすることにした。下院を通過する法案を、上院が古き良き伝統と慣習からチェックしようという制度である。もちろん、英国貴族院のようにすべてが貴族(一代貴族を含む)ではないし、旧貴族は一部でしかない。がフランス革命を愚行として反省している現代フランスは、上院とはどうあるべきかの本質がよくわかっている。なお、フランスの上院の権限は、内閣と組めば、下院とほぼ対等になるようにしている。
英国の貴族院については、これほどデモクラシーと完全に隔絶した上院をもっている国は他になく、英国の憲法体制が世界の憲法の規範であるという事実を勘案するとき、日本の新しい参議院の道は自ら定まってくるように思える。
(C)参議院は改善できる―――「法の支配」と第二院の復権
日本の参議院には、二院制であるという最小限の機能を果たしている以上のものは何もない。衆議院議員になれなかった政治家の二軍キャンプ的な雰囲気がある。しかし、参議院は第二院として、衆議院とともに、国会の任務の半分もしくはそれ以上を担う責任がある。
このためにも、参議院は第二院の存在意義の原点に立ち返らねばならない。
イ) デモクラシーの抑制という任務である。思想的にも制度においてもデモクラシーを制限するものでなくてはならない。
ロ) 国会の枢要な任務の中で第一院(衆議院)が果しえない部分を、参議院こそがそれを中核となって担うということである。
イ)について具体的に言えば、参議院議員は、一般有権者の投票にすべきではない。英国の貴族院議員のごとくデモクラシーから完全に超越することは、“デモクラシーへの抑制”という点で理想的なものである。あるいは、フランスの元老院や建国から1913年までの米国の上院のような、間接選挙による方式もこの“デモクラシーへの抑制”という責任を果たしている。あるいはフランスの元老院の投票の不平等配分による、“大土地所有者のいる、地方(田舎)重視”も第二院として十全の働きに資するものとであろう。
例えば、日本の参議院は、英国型の貴族院とフランス型元老院の折衷型として次のような議員方法が考えられる。
【フランス型による選出】・・・間接選挙型
間接選挙によって選出された、四十七都道府県から各三名の計百四十一名をもって参議院議員とする。
【英国型による選出】・・・旧華族互選型
次に、復活した旧・公家華族の互選で選出される五十名の議員、同じく旧・大名華族の互選による五十名の議員である。
以上、【フランス型】+【英国型】=【総計二百四十一名】の参議院議員となる。
フランス型の間接選挙の方式は、県知事及び全地方議員(県、市、町、村)が投票権をもつものとする。一般有権者には投票権を与えない。そして、投票人一人当たりの票数を役職の重要度を考慮して、県知事三十票、県議会議員五票、市町村長五票、市町村議会議員一票などと格差配分する。
そして、最も根本的なことはこの間接選挙で選出される百四十一名の参議院議員の政治家としての質である。それは高い教養と真正のエリート性が要求されるが、都道府県相互で“選出する議員の質”=“都道府県の名誉”の競争のようなものになれば、日本の参議院は実体において衆議院より優位に立つであろう。
さて、今日の日本の問題は、参議院の問題もさることながら、国会そのものが腐敗と堕落の階段を滑り落ちているという、国会全体の問題の方が深刻だろう。
日本の国会の腐敗と堕落の実態と特徴には次の三つがある。
イ) 国家の永続と子孫に対する現世代の責任意識が完全に欠如している。日本の国会議員は未来を棄てている。現世代が日本の資産を喰いつぶしてもよいというワン・ジェネレーション主義に立脚している。そして、その附けを未来の子孫に先送りしてしる。国会の中に自己破壊に至るニヒリズムの衝動が発生している。
ロ) 日本の国会は「法の支配」を全く無視している。文字通り無“法”状態になって、無制限に立法(=法律の制定)をなしている。
ハ) 二千年の歴史をもつ日本国の伝統と慣習、あるいは祖先の叡智は、“法”の一つである。これらの“法”を尊敬の念をもって保守する、「法の支配」の遵守が、国会の原点である。が、逆に日本の国会はこれらを破壊する方向に精を出している。
衆議院は、国家の永続や子孫のことを必ずしも考えない一般有権者に選出されるのであるから、以上の三点に堕す可能性は高い。よって参議院こそが真正の“立法府の守護神”という意識に立って上記の三点を是正することこそ最優先の任務だと心掛けるべきである。
予算案については、憲法第六十条で衆議院の優位が定まっているが、一般有権者から距離のある、家系の連続が日常の義務意識が旧・公家とか旧・大名家の名門出身者が中核的に活躍する参議院となれば、この衆議院通過の予算案をチェックする質は格段に向上するだろう。子孫に七百兆円を超える借金を遺すという非人間的行為を看過することは決してしないからである。異常を極める日本の大借金財政に健全なメスが入ることは間違いない。
ヨーロッパの貴族であれ、日本の公家・武士であれ、これらの「家」では、ある世代は子孫のために自らの生命の犠牲すらいとわない精神が涵養されている。数百年間以上も続く血統の名門においては、この数百年以上にわたる全世代が同一時代の同一家族だと観相されているので、通常の家族における無償の愛情の絆が数百年以上の縦軸に伸びて、幾世代も未来の、未だ生まれていない孫や曾孫や玄孫のために、私的な享楽も自らの人生も犠牲にすることをためらわない。ニヒリズムから生まれた、反倫理、反道徳の信条に立つ国債乱発主義のケインズ経済学とは逆の発想、それが血統の連続というものの働きである。
いまだ生まれていない遠い霞のかなたの子孫への義務観、それは、日本では、皇室についで、旧・公家華族と旧・大名華族に最高レベルで培養されている。日本の今日の衰退をとめるためには、日本の国会が彼らを活用することが急務であろう。
また、参議院が上記のような議員で構成されるならば、“世紀の狂気”「男女共同参画社会基本法」(1999年施行)を通過させることは万が一にもなかったはずである。「男女共同参画社会基本法」はその第四条で日本の伝統と慣習の破壊を目指すと定めているのである。自由社会の立法はすべて、伝統と慣習に損傷を与えてはならない。その理由は、伝統と慣習こそ、自由が棲息するための土壌の一つだからである。
あるいは、歴史的な日を無視して勝手に月曜日に移動させたり、日本国の本当の重要な歴史とは無関係な日を祝祭日としたり、今や日本の歴史と伝統の破壊を主目的とした「国民の祝日に関する法律」の抜本的な正常化もなされるだろう。そして、「体育の日」「敬老の日」「成人の日」「海の日」などは廃止する(名前は残してもよいが祝日にする歴史的意味がない)のが、常識だろうし、「文化の日」は「明治天皇誕生日」、「昭和の日」は「昭和天皇誕生日」と正しく表記されるべき(なぜ、堂々と表記しないで姑息で中途半端な表記をするのか理解できない)だが、これらは国の伝統と慣習の保守を一義的に担う新しい参議院の仕事である。
さらに、“法”と法律はもともと全く異なるものであり、“法”は法律を支配するものであるがら、法律に対して上下関係にある。これからの日本の国会は、この“法”と法律の区別や差別をすべきである。“法”と法律の区別の衰退が、英国では十九世紀に、米国では二十世紀に入って生じてはいる。が、それでも、英米ではこの相違は誰にもわかる。とりわけ日本では、「法の支配」を復権して、“法”による立法(法律)の制限をしない限り、日本の国会における「何でも立法できる」という現状はさらにひどく悪化して、逆差別を正当化する「人権教育推進法」とか、家族解体を秘めた「少子化対策基本法」とか常軌を逸した悪法をますます国中に垂れ流すだろう。
とりわけ、民法と刑法は、必ずしも“法”とは言えないが、民族固有の伝統や慣習と不可分である以上、“法”的性格も強く持つ法律である。このため、他の法律とは同列に扱わず、これらは参議院に先議権を与えて特別な審議の対象にする必要がある。
加えて、この民法と刑法に関して法務大臣の諮問機関として法制審議会があるが、民法と刑法の改正を独占して、これに関しては国会議員の提案権を慣行と称して奪っている。国会の上位にあると主張して、公然と三権分立を冒瀆し憲法第四十一条に違反することをなす。この審議会は即刻廃止するほかない。そして、これからは、民法や刑法の改正にかかわる研究その他の作業すべては、国会(立法府)の任務に属する、と定めなくてはならない。内閣の法案提出権は、民法と刑法に限っては原則禁止すべきである。
また、法務省民事局や人権擁護局などは、極左官僚のたむろする赤色不法廃棄物の投棄場所のようになっている。これらも法制審議会と一緒に廃止してはどうか。法務省は今や、日本解体の牽引屋たちの居城であり、日本国にとって最悪の癌細胞の一つである。
A中曽根康弘「首相公選」論の正体―――(1961年1月1日付『憲法改正試案』)
(A)保守主義を演出する極左主義者――中曽根康弘の『憲法改正試案』(1961年)
1960年の「安保騒動」の翌年、1961年頃に衆議院議員の中曽根康弘その他によって、奇妙な四文字スローガン「首相公選」がアピールされ始めた。当時はまだ日本に議院内閣制という近代英国によってつくられた政治制度は正しく評価されていたから、中曽根らの「首相公選」は、集中的に非難を浴びて封じ込まれた。
しかし、小泉純一郎が総理になった2001年頃から再び軽薄な流行現象となった。
「首相公選」は、あくまで現行憲法第六十七条に違反する。よって、あくまでも「憲法改正の構想全体の中の一つ」であるから、「首相公選」論者の「憲法改正案全体をまずもって吟味すること」を怠ることをしてはならない。そのとき、「首相公選」の問題の核心つまり、その背後に潜む「企図」・「哲学」・「思想」が明らかとなる。中曽根が1961年1月1日付起草の『憲法改正試案』を発表したのは、三十六年後の1997年6月1日発売の月刊誌『正論』誌上であった。
つまり、1961年頃の中曽根の「首相公選」論は憲法改正の構想の枠組みの一つとして考案されたもので、「首相公選」だけを単なる思い付きで主張したのでなかった点で論議に値する。だがまた、この三十六年以上も『憲法改正試案』を秘匿したまま「首相公選」論のみを宣伝したその意図に潜む何か怪しげなものも充分臭ってくる。「首相公選」論の背後には、何か巨大な“妖怪”がうごめいている。
中曽根の「憲法改正試案」で判明したことは、その名称が『高度民主主義民定憲法草案』とか、「日本は、主権が国民に存する民主主義共同体」とか、異様なほどの「民主主義礼賛」と反日的なムードを醸し出す“国家否定”色が強い。「共同体」などとせず、なぜ素直に「国」と言わないのか。ルソーは『社会契約論』の中で、「社会契約」の理想国家のことをしばしば「共同体」と呼ぶ、ことからしても共産主義の影が見え隠れする。また、「国家間の一体的な平和秩序」などと、スローガン「平和」も乱発する。さらに「労働」という二文字をも中曽根憲法は重視する。ここまでくると、「平和」(=レーニンの「平和」=「世界共産化」)と「民主主義」(=人民民主主義=共産主義)」「労働者(=プロレタリアート)」の共産主義の臭気が中曽根憲法を包んでいることが明らかになってくる。
中曽根の構想する統治機構は「憲法評議会」が最高権力機関であり、この「憲法評議会」の下に、行政の全権を握る「内閣」を置くもので、“内閣首相は公選”される。つまり、「憲法評議会」=「ソ連共産党政治局」と「内閣首相およびその内閣」=「米国の大統領の行政府」とが共同で独裁するという、何とも奇妙な政治システムである。しかし、この中曽根の統治機構においては、「憲法評議会」が「公選首相」を支配しているから、アメリカ大統領的「首相公選」でカムフラージュしたスターリン体制が主軸となっている。中曽根は国民を「労働」に強制的に駆り出すことからも、ソ連の計画経済をモデルに考えていることがわかるが、このことと中曽根が「理想政治」として描く変型スターリン体制とは符合する。
中曽根は言う(1997年6月1日、月刊誌『正論』誌上)、
「(首相公選を提唱した理由は)第一に、現在の日本の議院内閣制は、次の時代を切り開く原動力である科学と労働を中軸とする長期計画(=ソ連の五カ年計画のような計画経済)の推進力となっていない」
「アメリカは国民の直接選挙による大統領制で、任期四年、平均二回当選するから在任八年、(計画経済の)三カ年計画は三回繰り返すことができる。ソ連においては、権力的強制により、スターリンもフルシチョフも任期はその葬式まで続く。そして五カ年計画を既に数回繰り返している。このような国が飛躍的に前進し、日本やイギリスやイタリー、フランスのような国が追いつけない原因はここに明らかであろう」
1997年と言えば、1991年12月25日のソ連崩壊から約6年半も経っており、ソ連の暗黒の74年間の実態も明らかになっているのに、「ソ連が飛躍的に前進し」とは何という不見識であろうか。科学技術(軍事技術)の発展のために、約六千五百万人の国民を犠牲にしたのが、ソ連の実態である。それも周知のはずである。
中曽根の「憲法評議会」はまず、「公選首相」の独裁を固める機関である。この「憲法評議会」と「公選首相が」組めば、国会の立法をすべて無効にできるようにしている。つまり、「公選首相」の提出する法案のみを無審査で拍手して通過させる“拍手屋”に国会議員を貶めて(=共産党支配下のソ連邦最高会議のような国会にして)、実質的に国会を形骸化することを定めている。議院内閣制は国会あっての内閣だから、議院内閣制に対する中曽根の憎悪は国会への憎悪になっている。中曽根の議院内閣制の廃止論は、“国会の実質廃止論”となっている。
「中曽根憲法」は、このところを、次のように書いている。これでは、国会はどんな法律を立法しても、「内閣首相」の気に入らなければ「八日以内」に無効にされる。
「第九十六条・・・・内閣首相・・・・は、法律については公布前に、条約についてはその発効前に、当該の法律又は条約がこの憲法に違反するかどうかの裁定を、憲法評議会に要求することができる」
「憲法評議会は、要求の日から一箇月以内に裁定しなければならない。ただし、緊急の必要がある時は、・・・・当該期間を八日とすることができる」
この「憲法評議会」は「衆・参の両議長(2名)と内閣首相経験者と衆・参議長の推薦する各三名(3+3=6名)からなる」(第九十三条)としているから、この憲法改正直後では「内閣首相経験者」が不在で計8名がメンバーである。つまり、「内閣首相」と衆・参議長の三名が組めば、他の六名は彼らのイエス・マンを推薦するだろうから、この「憲法評議会」は完全に牛耳れる。日本のすべての法律と条約を支配できる。
中曽根の「首相公選」制とは、まずは“トロイカ(三者=公選首相、衆・参議長)独裁”であり、次に最初の「公選首相」が第二代にその席をを譲って、第一代の「内閣首相経験者」となって「憲法評議会」のメンバーになってしまえば、あとは実質的に憲法評議会を独裁できるから、このときスターリン体制が確立する。
さらにそうなってしまえば、憲法改正など易々とできるから、共産主義者の中曽根は、自分の憲法試案に嫌々ながら書いている、第一条〜第十一条までのいわゆる「天皇の章」をすべて削除する憲法改正をするだろう。
“議院内閣制”と“君主制”とは不可分のものであって、前者の消滅は後者の消滅の口実に必ず至る。
実際に中曽根は、天皇制を廃止することを絶対前提としているから、「首相公選」という言葉を造り、「総理大臣公選」という君主制から生まれた言葉を嫌う。また、珍妙な言葉「内閣首相」を造語して「内閣総理大臣」も決して用いない。さらにレーニンの独裁行政機関の名称をもじった「内閣委員」などという新語を造って「国務大臣」という言葉を断固排除している(第七十八条)。
「内閣総理大臣」や「国務大臣」という名称は、“君主の臣下”から生まれた、君主制あっての内閣用語である。君主制廃止を想定して、前もってそれを用いていないのである。実際に共産主義者は、「総理大臣」を嫌い必ず「首相」という。「○○大臣」の言葉を嫌い「○○相」にこだわる。要するに、君主制の下で自然的に発展して今日に至っている議院内閣制への中曽根康弘の憎悪感情は、「君主制の内閣」を一掃せんとする「赤い」情動を原点としている。
なお、今から八十年以上も昔のロシア革命を思い出して欲しい。レーニンがロマノフ王朝を倒し、世界初の共産国家をつくった時、政府の各官僚を「外務人民委員(=外務大臣)」「内務人民委員(=内務大臣)」・・・・と命名して、それまでの「大臣」という呼称を廃止した。中曽根は意識してこれを継承している。中曽根の正体がレーニン/スターリンの直系であるのは疑う余地がない。いわゆる「極左」である。
また、中曽根は共産主義者の暴力革命を援護する平和運動の担い手の一人として、「反軍隊」「反軍備」も主張する。中曽根憲法改正試案が、日本共産党の「反戦平和」の一分派であるのは、何の不思議さもない。
中曽根はまず、軍隊(国防軍)の章を憲法の末尾にもっていく。(第百一条〜七条)しかも、その第一任務が“国防”ではなく、「国際平和機構」への協力である。(第百十一条)。それは次のような規定であって、この「国際平和機構」は国連を意味していない。
「第百十一条 国は、・・・・国際的な相互集団安全保障制度に参加することができる。・・・・主権の制限に、他国とともに同意することができる」
「主権の制限された相互集団安全保障制度」と言えば、冷戦時代のソ連の植民地としての東欧諸国が強制加入させられた「ワルシャワ条約機構」が典型的である。中曽根は、日本が「反軍備」「反軍隊」の状態において、ソ連に無血占領されてソ連の支配下のアジア集団安全保障の軍事機構の一員になることを想定している。「前文」にある「国家間の一体的な平和秩序」もこの意味であろう。日本がソ連に占領されてソ連と一体的に「平和=共産化」になると言っているのである。
中曽根康弘の「反軍備」「反軍隊」の共産主義イデオロギーは、彼の防衛庁長官(1970年〜71年)として、また、総理大臣(1982年11月〜1987年11月)としての“行動”において、もっと鮮明であった。ほんの数例をあげる。
【防衛庁長官時代】
イ) 左派社会党のイデオローグの一人で、生涯その本心は過激な親ソ主義・スターリン崇拝者であり続けた猪木正道を、防衛大学校校長に起用した(1970年7月)
【総理大臣時代】
イ) コミュニスト(共産主義者)と広く認知されていた三木武夫の反防衛政策の一つ「防衛費GNP一パーセント枠」(1976年11月)をすぐ廃棄するだろうという国民全体の予想に反して、それを断固堅持した。
ロ) 米海軍との五ヶ国共同演習「リムパック’84」への海上自衛隊の参加を禁じる策謀をなした。なお、海自は中曽根の圧力に屈せず、1984年5〜6月、艦艇五隻と哨戒機八機を参加させた。
ハ) ヒロシマの反核集会への、自民党総裁としての事実上初めての出席(1983年8月6日)。この時、秘書官等が作成したスピーチに自ら「非核三原則は国是」等を独断で加えた。この1983年秋には米海軍艦隊の核トマホーク搭載とその寄港(トランジット)の問題が予定されており、自民党内はもとより日本国内では、非核三原則の撤廃か、少なくとも「核のトランジット(寄港)は、核の持ち込みとはしない」との政府答弁かは時間の問題とだと予想されていた。これを百八十度逆に裏切ったのである。また、このスピーチで「核廃絶は平和」の文言を中曽根自身が挿入した。米国の“核の傘”に依存する日本政府の安全保障政策を「核廃絶」の是認において否定した。
ニ) 日米同盟の正常化に不可欠な「集団的自衛権の行使は合憲」という政府解釈の変更をすぐするだろうと予測されていたが、中曽根は頑としてそうしなかった。
ホ) KGB将校スタニスラフ・レフチェンコの米国亡命(1979年)と米議会での証言(1982年7月)により、KGBによる日本のスパイ組織網に関するKGB日本人エージェント約二百人のうち、何名かは実名で報道されたりして、自民党はスパイ防止法を議員立法する直前まで準備していた。また、警察庁もいつもとは違って捜査を精力的に進めていた。が、1983年5月、警察庁は捜査打ち切りを発表した。また、自民党内でも同年秋頃には、スパイ防止法制定の動きがぱったりとまった。中曽根総理が中止させたという噂が飛び交った。コード名「クラスノフ」の瀬島龍三をかばうためであったとか、中曽根自身に火の粉が飛ばないようにしたのだという憶測はそれなりに根拠があった。少なくとも、これほどの「証拠」がレフチェンコから出されながら、一人の逮捕者も出ない、自民党のスパイ防止法もお蔵入りしたことにつき、中曽根総理が無関係であったとするのは無理があった。
中曽根とは「右」を演技する天才名優であった。(今でもそう騙されている日本人がほとんどだろう。)その手法は、まっすぐと「右」の“言葉”を発して、「右向け右」のムードをつくって、その中で「極左」の“行動”をするのが常であった。
例えば、本物の保守主義者であった米国大統領レーガンを騙して「ロン・ヤス関係」をつくっておいて、その上で米国との同盟協力を秘かに極力妨害する。例えば、極東のソ連空軍基地を先制攻撃するぞ!と同じ意味をもつ、「ソ連のバックファイアー爆撃機から日本列島を不沈空母にする」という、口先だけのメッセージをレーガンとの首脳会議をしたワシントンでぶちあげておいて(1983年1月)、その半年あとにヒロシマに行き、「核武装は決して致しません」「米国の核トマホーク艦船を入港させません」とソ連に媚を売り、共産党系の平和運動家と見紛うほどの「反核」に戻る。
あるいは、靖国神社に参拝しておいて(1985年8月15日)、中国共産党からの抗議があると直ちに同意する。そして中共と一緒になって、A級戦犯が合祀されている以上、天皇も総理も参拝はできないと派手に大キャンペーンする。法務死(刑死)となったA級戦犯の遺族から「分祀」の同意を取り付けようとまでした。“天皇・総理の靖国参拝つぶし”の固定化というより、靖国神社そのものの解体が狙いであろう。
なお、このA級戦犯合意問題は、官房長官でコミュニストの後藤田正晴を通じて中国共産党と事前に打ち合わせたシナリオに従った、いわゆる自作自演の可能性が高い。そして執拗にも、2004年2月にまた、中曽根は本件をむし返し、神道そのものの否定に通じる「完全分祀」の圧力をかけた。“靖国神社解体”の手を、無神論者の中曽根はゆるめようとはしない。
戦後日本の政治腐敗の原因は、中曽根のように自らの信条を隠し有権者を騙し国民を騙す政治家が無数に輩出するばかりか、国民もまた、政治家の発言や行動からその人物の正体を見抜く、政治的知見を欠き、放置してきたことが大きい。むろん、政治家だけでなく、変節の学者や偽装の知識人、偏向マスメディア人は、政治家以上にその数が多い。
一言で言えば、戦後日本をダメにしたのは米国でもないし、「東京裁判」でもない。中曽根康弘・後藤田正晴・瀬島龍三・末次一郎・猪木正道の「スターリン五人衆」を放置したことに見るように、その腐敗と堕落はすべて日本人の退嬰的な無教養と無責任に発している。
➡リンク 中曽根康弘『憲法改正試案(原文)』(1961年1月1日付)
また、中曽根康弘が会長を務める、(財)世界平和研究所が2005年1月20日付で、平和研憲法草案を発表している。この草案は明らかに上記の1961年1月1日付の中曽根試案をベースにしている。問題点をいくつか挙げておくので興味あるひとは研究してみて欲しい。
イ) 国家元首としての地位を第一条で掲げながら、第一章は国民主権の章となっており、第二章に天皇の章を設け、元首(象徴)としての権能以外に実質的な権能を有しないことを示している。➡「国民主権」=反・憲法原理、「天皇」=憲法原理の根幹➡両者を転倒している。
ロ)
第三章 安全保障及び国際協力
第十一条第一項に現行憲法第九条第一項をそのまま残している。
同条第二項で日本国防衛のための防衛軍を明記。
同条第三項で国連や国際協調の枠組みでの防衛軍の参加を認め、第四項で武力行使も行えること(国会承認必要)を定めている。
➡第一項と第三、四項が矛盾しないか。
ハ)
第四章 国民の権利および義務
➡自然権としての「人権」は反・憲法原理、(文明社会)の“国民の権利”=憲法原理を規定すべき。
➡外国人に対しても「人権」が保障されるとしている。人類普遍の「人権」などない。あるのは日本国の“国民の権利”だけ。
➡「個人として尊重×」「政教分離(第十九条第三項はやや改善されている△が、消去する方がよい)」第二十八条第一項で「家庭は社会を構成する基本的な単位△」と規定はやや前進だが、なぜ「家族」でなく「家庭」なのか。第二項「両性の合意のみ×」、第三項「家族は・・・・国はこれを保護する○」=憲法原理
ただし、第三項、第四項の「個人の尊厳×」「両性の本質的平等×」
➡第二十三条(人格権)インターネットや携帯裏サイト・ブログ・プロフの悪質な書き込みを意識した人権か?よくわからない。人格に権利?あるとすれば他人の人格を傷つけない“義務”ではないのか?
➡第三十五条「すべて国民は、国の平和と独立を守る責務を負う」とは、徴兵令による徴兵制を念頭においている?第三章と関連していると考えられる。
ニ)
衆議院の優位性の拡大➡参議院を改善し第二院の復権を目指すべき。
衆議院選を利用した実質的首相公選制(衆議院選で首相候補の明示の義務付け)
➡衆議院選が政党の政策選択の選挙でなくなり、首相候補の人気投票となる。首相公選制は不要。また、公選首相の首相権限が強化され、首相が提出した法案が国会と対立した場合国民投票に付すことを可能としている。首相独裁→国会形骸化
ホ)
憲法裁判所の創設➡全く必要ない。現行憲法第八十一条“最高裁の違憲立法審査権”でよい。
本当に必要なのは、防衛軍の防衛官の身分を軍人とし、軍人刑法の制定と軍法会議(軍事法廷)の設置を規定することである。これなしにして第三章の自衛軍は機能しない。
➡リンク (財)世界平和研究所 憲法試案(2005年1月20日付)
(B)死守すべき議院内閣制―――「首相公選論」の愚鈍
日本の「首相公選」論には、二つの流れがある。第一は、真意を隠して「首相公選」のジャケットの中では、ソ連型独裁体制(最終段階で天皇制廃止)をめざしているグループ。中曽根康弘はその源流であり、政府の憲法調査会での討議から。1961年にその宣伝と偽情報活動は始まった。つまり、この第一グループがあげる「首相公選」へ変革する理由などは、あくまで表向きの理屈であって、実際にはすべて嘘にすぎない。
このようなものに生真面目に批判しても何の意味もない。「非武装中立」のイデオローグ土井たか子のブレーンとしての山口二郎(北海道大学教授)は、今もマルクス・レーニン主義者の妄念を棄ててはいない。極左革命なら何でも参加する佐々木毅(東京大学長)は、自民党を政権の座から引きずり降ろすことで1993年の「政変」の仕掛け人の一人だったし、2003年秋には「マニフェスト」ブームをつくって管直人政権を誕生させる大策謀のリーダーであった。この山口二郎と佐々木毅はいずれも極左の革命屋だが、その「首相公選」に関する考え方は、2002年刊の中公新書『首相公選を考える』に示されている。
第二のグループは、中曽根康弘らに刺激されて派生した人々で、彼らの表向きの言葉と真意との間にギャップはなくその主張は本心からのものであろう。社会主義のワイマール憲法に汚染された小林昭三の『首相公選入門』(1970年)は、この代表であった。
小林昭三らの首相公選論は、簡単に言えば、時代の流行に浮薄に飛んでいるタンポポの種子のようなもので、無教養を背景にしたものである。悪意はない。が、有害であることは変わらないから、その責任は重い。
彼は首相公選で“民意の統合”を期待するから、国家の政治を小学校の学級会のレベルで把握している。次に、福祉国家という行政権を過剰に増大せしめる“本当の問題”の方にメスを入れるのではなく、次のように、この福祉国家によって不可避となった行政権の増大の方に迎合することを是として、この現状にあう内閣をつくるという発想になっている。
小林は言う、
「今日は福祉国家・行政国家の現実は、民主政治(デモクラシー)の必然的帰結と見られている。“しごと”をする政府が期待され、それに伴い議会に対する内閣の優位は、当然のこととされている。・・・・内閣、なかんずく首相の役割が重視されるようになった。・・・・このような指導力への期待に応えるものとして、首相公選が引き合いに出されよう」
小林昭三の思考は、すべて本末転倒している。第一に、福祉国家を全面否定しない限り、財政的に日本という国家自体の破綻が近付いている。それなのに福祉国家の暴走を是認するとは、無知なのか、国家の破綻を望んでいるのか。第二に、立法において議会が行政府への従属的状況(福祉関連法案の原案は「行政府=中央官僚」が作成し、議会はその内容を詳細に吟味することなく、多数決で議決するのみ)から脱出する道は、ハイエク(ノーベル経済学賞、政治哲学者)の言う通り、この「福祉国家」という「亡霊」をはらいのけることなくしては不可能である。福祉国家が、“国是”であれば、「際限のない欲望による民衆の権利の要求➡行政の肥大➡国会は行政の下僕となって法律を次々と議決する➡国家財政の破綻」のシナリオを断つのは不可能である。
つまり、このシナリオをどう断ち切るかこそ今日の日本が直面している国家存亡レベルの急迫の課題ではないか。なのに小林昭三は、この「行政の肥大」を正しいとして、首相権限をそれに比例させて肥大させようとする。行政の肥大も間違っているし、首相権限の肥大も間違っている。
第三に、首相公選の方が首相の権限が強くなり、指導力が発揮できるという、小林の根拠なき思いつきは、その憲法学者としての資質を疑う。例えば、選挙人による間接選挙であるが、事実上の国民の直接選挙によって選出された米国のウィルソン大統領は国際連盟をつくったが、上院の阻止にあって、米国は加盟できなかった。その権限も指導力も惰弱であった。逆に、第二次世界大戦中の英国の首相チャーチルの、あの偉大な指導力は、議院内閣制の下であった。1950年代から衰退に下降する英国を救った強烈な指導力をもつサッチャー首相の1979年の誕生は、議院内閣制の下であった。しかも十一年間の長期政権となった。要は、日本の首相権限はすでに過剰にすぎるほど大きい。これ以上の権限を持たせれば、ヒトラーやスターリンを崇拝したかつての危険な独裁者待望論に与することになる。
国家の危機に際して、逸材を発見し迅速に指導者の地位に就かせうるに適した制度は議院内閣制の方であって大統領制ではない。このようなことはバジョットの『英国憲政論』(1867年)でとっくに解決済みの常識ではないか。
バジョット曰く、
「議院内閣制の下では、突発的な緊急事態には、国民はその事態にふさわしい指導者を選ぶことができる。・・・・しかし(アメリカの)大統領制のもとでは、そんなことはできない」
つまり、国家存亡の危機などの緊急事態が発生した場合、議院内閣制のであれば、国会議員の中には優れた人材が多数いるから、その中で最も事態解決に適する人物に首相を交代させることができる。が、大統領制(や首相公選制)ではその大統領(または首相)が愚鈍であっても、即座に交代させることができない。大統領には四年の任期があるし、仮に大統領選を行うとしても、最短でも一年以上の歳月を要する。緊急事態にそんなことをやっている暇はない。
そもそも議院内閣制を貶める、あるいは否定する学説は世界に存在しない。例えば、米国が建国にあたってフィラデルフィアで憲法の起草をするのに(1787年)、議院内閣制への尊敬や憧憬はあってもその逆は存在しなかった。英国の議院内閣制は君主(国王)あってのものだったから、王室(ロイヤル・ファミリー)を有しない米国の「建国の父」たちは消極的に大統領制を考案したのである。
小林昭三らは、憲法学者でありながら、バジョットの『英国憲政論』も米国憲法の最高無比の解説書『ザ・フェデラリスト』も読んだことがないようである。「首相公選」論とは、このように、歴史の基礎教養も憲法思想の基礎教養も欠く、無教養の幼児的な思い付きの枠を出ない。
『ザ・フェデラリスト』第十篇は次のように書いている。
「国民の代表によって表明された公衆の声(=代議制)のほうが、民意表明を目的として集合した国民自身によって表明される場合(=直接デモクラシー)よりも、よりいっそう公共の善に合致することが期待される」
「このゆえに直接民主制はこれまで常に混乱と激論の光景を繰り広げてきた・・・・その生命は短く、しかもその死滅に際しては暴力をともなうものとなってきた」
米国は今でも大統領は直接選出ではない。あくまでも五十の州の選挙人による選出であり、間接選出にしている。それは、世界史の古代から近代に至る経験からの「民意」というものへの警戒であり、「民意」が直接に政治を牛耳ることの危険に対する警戒と慎重が働いているからである。オルテガの『大衆の反逆』(1930年)やル=ボンの『群集心理』(1895年)も警鐘したように、二十世紀以降の現代にあって民衆は「大衆」化しているから、全体主義の危険は背中合わせ存在している。また、煽動の政治家が出現すれば民衆が時として「群衆」と化するのは、ワイマール憲法下のヒトラーで体験済みである。議院内閣制が、これらの危険に対して、完全ではないにせよ、一定以上の防波堤の機能を果たすことは周知ではないか。
この意味で、1962年に吉村正(当時、早稲田大学教授)が『首相公選論』の編者となって、辻清明、中村哲、カール・レーヴェンシュタイン(ミュンヘン大学名誉教授)、田畑忍らを動員して、中曽根康弘の首相公選論を粉砕しようとした。吉村は、日本の“自由”を守るために行動したのである。
レーヴェン・シュタインは、首相公選制を危険なものだとして、いくつもの問題を列挙する。その一つに大臣が矮小化する危険を指摘する。
シュタイン曰く、
「(公選首相の下の大臣は)責任ある大臣となるかわりに、大臣たちは強力な首相の助手、下僚、さらには道具とすらなるであろう。・・・・ドイツ帝国の実例は、それを繰り返してはならないということを十分教えてくれている」
あるいは吉村正の、中曽根は政治を根本的に見誤っているとして、十項目あげて糾弾している。
吉村曰く、
「中曽根氏は、あれだけ積弊を認めるなら、その根因は政党にあり、したがって政党を改めねばならぬというべきが当然であるのに、政党を改めねばならぬとは一言も言わない。・・・・政党自体の責任を国民全体の肩に転嫁する・・・・国民としてはまことに迷惑千万な話である」
「首相を公選とすれば、かえって国民はいよいよ対立して争うことになろう。政党の争いの場を国会から国民の間に広げるだけである」
とりわけ、吉村正の、核心を衝く批判は次の点である。
「中曽根氏の諸論は、・・・・ムッソリーニやヒトラーのやり方に通ずる独裁主義的臭味ふんぷんたるものを感ぜしめずにはおかない。・・・・中曽根氏のような考えによるなら、政党をも解消しなければならないのではないか」
A「地方分権」論の正体は、国家解体の極左革命である
1990年代以降の日本における左翼運動は、1991年12月25日のソ連邦崩壊によって日本を社会主義国にする道が不透明になった腹いせとして、日本の国全体を分解して廃墟に至らしめるアナーキズム的な破壊運動に主軸を転換した。「社会主義国(共産主義)国・日本」を断念する代わりに、「廃墟となった日本」あるいは「日本国の終焉」を追求するものに転換されている。
つまり、“日本国”➡「国家の形態を喪失した日本」=「主権のない日本列島」
“日本国民”➡「無国籍の日本人」=「地球放浪者(ディアスポラ)」
への方向転換である。

この“廃墟となった日本”に至らしめる方法は二つある。
第一は、日本国の国家全体の統治機構を応仁の乱の時代のごとく、バラバラに分解すること。
イ) 地方分権
ロ) 男女共同参画社会
第二が次代の日本人の能力と資質を国家の運営ができないレベルにすること。
イ) ゆとり教育
ロ) ジェンダー・フリー教育
ハ) 性器・性交教育
ニ) 家族解体(夫婦別姓)による子供への躾教育の放棄
これらの反教育のすべてが、1990年代に入ってから本格化したように、1991年末のソ連邦崩壊によって、ソ連の対日侵略・占領による社共政権樹立の夢が破れた日本の極左勢力が、練りに練った新しい反日革命であった。共産党政権樹立のための暴力革命的な“赤いマルクス・レーニン主義”の旗を降ろして、文化マルキストによる日本国の破壊に徹する静かな“透明色の(目に見えない)マルクス・レーニン主義”の旗への転換であった。
しかし、一般の日本人は“赤いマルクス・レーニン主義”の旗が見えなくなったら、マルクス・レーニン主義がなくなったと勝手に思い込んでいる。社会主義(共産主義)革命がなくなったと思い込んでいる。しかし、マルクス・レーニン主義とはカメレオンであって、威圧するために派手な赤色が有効である時はそうするが、それが有効でないと思えば透明色を選択する。「地方分権」とは“透明色のマルクス・レーニン主義”の典型であった。
実際に「地方分権」も「男女共同参画社会」も、アナーキズムの破壊運動に主軸を転換した社会党政権(村山富市、1994年6月〜96年1月)時代に、この政権下のきもいりで国家の政策となった。
「地方分権」については、1995年5月19日に「地方分権推進法」が成立した。同年7月3日に、七人の地方分権推進委員会が発足した。委員会メンバーの半分は「極左中の極左」、残り半分は「リベラル(左翼)」であった。保守系は一人もいない。
なお、「リベラル」とは直訳すれば「自由主義者」という意味であるが、米国では「リベラリスト」と言い、「左翼的自由主義者」あるいは“保守”に対する蔑視の意味を込めて「左翼」と呼ぶ。
七名の委員のうち、前者の半分「極左中の極左」は
イ) 樋口恵子(古色蒼然たるマルクス・レーニン主義者、評論家)
ロ) 長州一二(共産党系共産主義者、元神奈川県知事)
ハ) 西尾勝(三派全学連出身、東京大学教授)
後者の半分「左翼」は諸井虔、その他である。
この時日本解体への牽引車が、汽笛を鳴らして出発したのである。“国家”がわかる人材は一人もいない。むろん愛国者も一人もいない。
(A)「地方分権」―――「経済が上向く」、「バブル景気の復活」、・・・と信じる妄想
「地方分権」とは、ポスト・バブルとポスト冷戦の二つが同時に発生した1991年以降、自我喪失的に茫然となっていた、日本人をタイムリーに襲って成功した革命である。
1986年から1991年にかけてのバブル経済は、日本人に“労せずして一攫千金”を体験させたから、株の大暴落、地価の大暴落に直面した1991年からのバブル崩壊後の日本人は、今度も“労せずして一攫千金”としての制度改革信仰が広がっていた。政府が政治制度を少しいじるだけで、頭も使わず汗もかかずに、あのバブル経済がもう一度簡単に蘇ってくる―――これを「制度改革信仰」という―――が国中に蔓延したのである。そして、この政治制度をやたらにいじくり回すことが日本では「政治改革」と呼ばれ、日本再生の特効薬だとの“神話”が定着した。
その結果、「政治改革ヒステリー」が伝染病となって日本を覆ったのである。この「政治改革ヒステリー」の一つとして正当化された「地方分権」は、その中でも、「地方分権」すれば、経済が回復するという真っ赤な嘘で粉飾された。この嘘は、経済評論家(という名の経済素人)、経済専門出版社、、政府(経済企画庁・・・・)から一斉に噴出し国中に流された。日本の政治家はエリートとしての意識も教養も欠いているので、一も二もなくこの「地方分権」という毛鉤の嘘宣伝に喰らいついた。
この時、経済評論家の大前研一の著『平成維新』(1989年)が、この「地方分権」フィーバーの経典(バイブル)の一つとなった。この著が直接的に主張しているわけではないが、道州制など「地方分権」にするとバブル経済が再来する!かのような錯覚をふくらますムードが、主にこの本で醸成された。『平成維新』の英語タイトルは「Zero-based Organization and Constitution」であるように、この著は“いったん日本を完全に壊してみよう”という提案である。大前のもともとの仮題も「日本政府解体論」であった。
大前は言う、
「古いアバラ屋を部分的に修繕しても近代建築にはなり得ない。こわれた床にタイルを敷けばその重みで土台まで歪んでしまう、といったところが関の山である。このような家は一回壊してしまい、景色がすっきり見えてきたときに、もう一度はじめから新しいものをつくる方がよほど効率的だし、良いものができる」
「破壊を恐れる人もいるが、わが国の今日の繁栄は、戦後、アンシャン・レジューム(旧体制)の徹底否定と破壊があったからこそ敷くことができた」
大前研一は、破壊主義(ヴァンダリズム)者であり、フーコーのポスト・モダン思想系のアナーキスト(反国家・反政府主義者)である。日本の戦後と戦前は、天皇はむろん国民も連続している。そして戦前の教育を受けたものによって戦後の日本の経済的繁栄は築かれた。しかし、大前は戦前と戦後で日本人の総入れ替えがあったと妄想している。アナーキストらしく政治に対して盲目性が強いのだろうか。あるいは、日本解体を煽動する反日運動化だからであろうか。次のように「憲法も無視せよ!」とまで絶叫して、徹底的に日本という国家をバラバラに大手術しようとする。国家の連続性を切断したいのである。
大前は言う、
「国家運営の理念としての憲法まで、今までのものに捉われずにゼロベースで見直すのである」
そして、日本国を「地球」に、日本国民を「人類」にしたいと、自らが日本国民になりきれず無国籍のディアスポラ(地球放浪者)であることを白状している。
大前は言う。
「私には、<君が代は千代に八千代に・・・・>、と歌う気になれない。・・・・我が地球は、とか、我が人類は、ということならもっと好感がもてる」
また、日本新党の結成に当たって、大前研一と密接な関係にあった細川護煕もまた、この「反日」の「地方分権」の煽動では共犯者であった。しかも細川は、「地方反乱」とまで言ってのけているから、日本を国と地方の「内戦・革命運動」的秩序破壊に至らしめることを考えていたようだ。戦国時代でもあるまいに、なぜ地方が反乱する必要があるのか。地方分権すれば何のメリットがあるのか。全く理解不能である。あげくの果てに、能力もないのに小沢一郎の画策で内閣総理大臣になって、すぐに職責に耐えかねて政権を投げ出した。それが、細川護煕である。このような人物の唱える「地方分権」に国民が納得する論理があるわけがない。「地方分権」を唱える場合、その必要性の論理をきちんと説明すべきである。
※これは、橋本徹大阪府知事の「地方分権論」にもそのままあてはまる。何か「地方分権」をすれば、地方にメリットがある雰囲気だけ醸し出して、国民を煽動しているが、その根拠は全く不明である。橋本徹「地方分権論」は、要するに、これまで「地方の政策責任の怠慢(地方官僚の無知・無能・無責任)」によって積み重ねてきた「地方の借金の山」を「国の政策責任に転化」して、「だから、国には任せておけない」という転倒した論理を国民にアピールして、政策権限と財源を地方に移譲すべきであるとする。そうすれば、地方の責任で、国民の税金を自由に借金返済(財政再建)にあてられる、というものであろう。しかし「地方の政策の責任怠慢(無知・無能・無責任)」で積み重ねた「借金の山」を「地方への権限と財源移譲」だけで解決できるとは論理転倒であろう。地方官僚の「施策責任の怠慢(無知・無能・無責任)」が抜本的に改善されない限り、地方へ「財源のみを移譲」すれば、地方の借金はさらに増大するであろう。行き着く帰結は見えている。
話を細川に戻す。
細川はいう、
「日本新党は、中央に対して地方から反乱の手をあげる<地方反乱の時代>を提唱し、常に<地方分権の確立>を訴えている」(1993年)
地方分権推進委員会によって法律とまでなった、地方の中央への反乱を煽る「国・地方紛争処理委員会」は、細川的な「地方反乱」ができるよう、それを法的に制度化したものである。
当時の日本の経済界は、「地方分権」がバブル経済を再到来させる特効薬と信じていた。が、「地方分権」を唱える日本新党の党首・細川護煕政権の誕生こそ、日本経済衰退の序曲となった。これが現実である。
(B)地方への「財源移譲」―――日本国の破産から社会(共産)主義革命へ
ひたすらマルクスとソ連だけを信仰した無教養な社会主義者の村山富市が総理(1994年6月30日〜1996年1月11日)になったことで始まった、日本解体の「地方分権」は、ポスト村山で自民党が政権に復帰したから、つぶすチャンスはいつでもあった。しかし、世界で唯一例外的に日本人のみに魔力をもつスローガン「地方分権」に自民党も思考を呪縛された。そして、迷信「地方分権」を法律とした。“日本の国家解体推進法”というべき、「地方分権一括法」の成立であり、1999年7月8日のことであった。自民党は社会党化していた。「反日」の革命団体になっていた。
しかも、“日本の共産革命推進法”というべき「男女共同参画社会基本法」の成立は、その前月の、1999年6月23日であった。1999年6月〜7月にかけて、極左の社会主義革命家たちがつくった「反日」法律がたてつづけに二本も成立したのである。それら日本にとって“悪魔の法律”は、ポスト冷戦の「社会主義の終焉」に世界で唯一逆流した、村山富市という社会主義政権が産んだのである。
なお、“上からの共産革命”である「男女共同参画」の始まりは、1994年6月24日の男女共同参画審議会の設置と、それにつづく7月12日の「男女共同参画推進本部」の設置によってである(閣議決定)。この男女共同参画審議会は、メンバーの過半が共産党系の活動家と全共闘の活動家であり、マルクス・レーニン主義信奉者が三分の二以上を占めていた。
「地方分権一括法」は二十四府省庁・委員会にまたがる、合計四百七十五件の改正法律からなるものであり、その内容は概説すらできないほど膨大であるが、その基本的な考え方わかりやすく言えば次のようになる
イ) 国と地方の役割分担の明確な線引き
ロ) 機関委任事務制度の廃止(=国と地方を「対等」の関係にする)
ハ) 国と地方の間の紛争・対立の奨励
日本国民一人ひとりは、国の行政の下にもあるし、都道府県の行政の下にもあるし、市町村の行政の下にもある。国民にとっては、行政サービスはそれらのどれから受けようと、@行政の質が高いこと、A負担する税金が安いこと、B自由が侵害されないこと、が行政への要求であってそれ以外ではない。つまり、国民にとっては、ある行政サービスを国から受けようと、都道府県から受けようと、市町村から受けようと、上記三点が満たされれるならば、どこからでもよいのである。
また、国民の各個人について言えば、それは一人の個人であるから、「国の個人」と「地方の個人」に分離はできない。あくまでも一個の人間で一個の生命体である。合理主義的設計主義を信仰する人物からなる地方分権推進委員会の傲慢な頭においては、国民一人ひとりが「国の個人」と「地方の個人」の二重人格に分離している。
例えば、社会保障は、国民年金をみても厚生年金をみても、それは、全国民の“法(律)の前の平等”において国がやるべきものであるため、「福祉国家」とも言う。「福祉地方自治体」とは決して言わない。が、分権推進委員会は先述のイ)の原則を振り回し、「福祉は地方がすべきだ(=地方の個人である)」と決定した。それなのに、分権推進委員会は「国の社会保障制度(=国の個人である)は全廃せよ」とは言わない。「社会保険庁は四十七都道府県に分割して地方組織とせよ」とは言わない。分権推進委員会の重大な犯罪性は、言っていることとやっていることが“口から出まかせ”であることである。この“出まかせ”の重大な犯罪性とは、上記ハ)の「国と地方の間の紛争・対立」の“種をまいていること”である。
つまるところ、「地方分権推進委員会」とは「国と地方の間の紛争・対立」の種まき機関であるということである。
男女共同参画社会基本法とは、徹底した全体主義の、中央命令型の法律である。“地方自治”を全面的に無視し否定する法律である。例えば、第四条で日本の伝統と慣習の全面破壊を定めたその延長上に、第十四条で地方に対して、この国の定める「男女共同参画社会基本計画」に従って、日本の伝統と慣習を破壊せよと定めている。
【男女共同参画社会基本法】
(社会における制度又は慣行についての配慮)
第4条 男女共同参画社会の形成に当たっては、社会における制度又は慣行が、 性別による固定的な役割分担等を反映して、 男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、 男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、 社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響を
できる限り中立なものとするように配慮されなければならない。
(都道府県男女共同参画計画等)
第14条 都道府県は、男女共同参画基本計画を勘案して、 当該都道府県の区域における男女共同参画社会の形成の促進に関する施策についての基本的な計画(以下「都道府県男女共同参画計画」という。)を定めなければならない。
2 都道府県男女共同参画計画は、次に掲げる事項について定めるものとする。
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一 |
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二 |
前号に掲げるもののほか、都道府県の区域における男女共同参画社会の形成の 促進に関する施策を総合的かつ計画的に推進するために必要な事項 |
3 市町村は、男女共同参画基本計画及び都道府県男女共同参画計画を勘案して、当該市町村の区域における男女共同参画社会の形成の促進に関する施策についての 基本的な計画(以下「市町村男女共同参画計画」という。)を定めるように
努めなければならない。
4 都道府県又は市町村は、都道府県男女共同参画計画又は市町村男女共同参画計画を定め、又は変更したときは、遅滞なく、これを公表しなければならない。
つまり、この法律は、地方の独自性や自由をひとかけらも認めてはいない(すべて中央からの命令型である)。とすれば、この十四条をもつ男女共同参画社会基本法は、前述のイ)を絶対視する地方分権推進委員会としては万が一にも許し難いものであるはずであるが、そんなことを一言も述べたことがない。地方分権推進委員会とは、狡猾な二枚舌を主義にしている人々が集まっている。
そもそも現代の社会において、国民の生活を直撃する社会・経済問題は、金融をはじめ、鳥(豚)インフルエンザや狂牛病の問題、食品の安全問題、食糧・資源問題、環境問題、大規模災害対策であれ、すべて国レベルにおいて一括して解決するしかない。“くらし”の根幹は、水道やゴミや警察(治安)や消防などを除けば、「地方」にはその権限は存在しえない。世界がどんどん狭くなっている以上、地方の行政を逆に独自に存在させることの方が、行政コストを巨大につりあげる。“地方行政を極力簡素にし、残りの大部分は国が責任をもって行政すること”こそ、国民のための二十一世紀の正しい行政と言える。“地方の大リストラ”+“国の責任行政”、これこそが今日本がとるべき経済再生の近道である。
この意味で、財源や権限の地方への移譲の方が時代と世界各国の現実に逆行している。そもそも、国と都道府県と市町村の行政の関係は、もっと一体化すべき(二重、三重行政を一元化して無駄を省くべき)であって、それなくして行政の効率化は進まないし、行政のコストの削減も望むべくもない。民間の子会社は親会社との関係において決して平等でないのと同じく(=親会社が権限や財源を子会社に譲るということなどあり得ないし、親会社が許さないのが常識だろう。)、地方が国との関係において上下関係である方が正常である。それ以外の統治機構などいかなる国家にも存在しない。地方分権推進委員会は、「国と地方が対等の権限と財源をもつ」という、常軌を逸した国が世界百九十ヶ国の中に一ヶ国でも存在するなら、その国名を挙げ、国民に分かりやすく説明する説明責任があるのではないか。
また、法律や政令の制定権は憲法により「唯一の立法機関である国会」にしかなく、地方には、この法律及び政令に基づく条例しか定められない。なのにどうやって国と地方が対等であろうか。地方分権推進委員会は、しかし、「対等」だと主張する。とすれば、彼らは地方を、法律制定権をもつ統治機構にすることを企図しているとしか考えられない。これは、地方を日本国から独立させること(=「国家解体」)に他ならない。少なくともそのような騒動を起こすことを狙っていることになる。
昨今の橋本徹大阪府知事の国批判連発の騒動などは、彼らの企図にすっぽりとはまってしまっている典型例である。これがさらにエスカレートしていき、全国へ飛び火していくとすれば、まさに地方分権推進委員会の思うつぼ、“平成の応仁の乱”状態になっていくだろう。「国・地方紛争処理委員会」という全く不必要で危険な行政組織を新しく新設したのは(地方自治法第二百五十条第七項)、この最たる証左であろう。
さて、世界の実情はどうか、ということだが、日本の政治学者は、事実や現実を虚偽をもって歪曲する癖があるものが多い。このため、日本では、外国に関する嘘がつくられ、この嘘が流布して神話となる。世界には地方分権の国家が一ヶ国もないのが事実である。
米国は、1789年3月、“先に成立していた十三の邦”がその上に“強力な中央政府(+合衆国憲法)をのっけて”誕生した。このとき十三の邦は十三の州へと形式的には格下げされたが、州の統治機構はそれ以前のままであった。米国は十三の邦の上に新しく“国”の中央集権機構をつくったのである。先に成立していた一つの国が権力を十三州に分割した(地方分権した)のではない。ところが、米国は「連邦制だから分権した」などという作り話をを展開する奇怪な学者が大手を振って歩いている。
ドイツもイタリアも十九世紀後半に中央政府をつくり統一された中央集権国家である。そこには地方分権は、匂いすらない。フランスも1789年のフランス革命時にロベスピエールらが超中央集権国家を創造して以来、中央集権国家である。1979年に誕生したサッチャー首相率いる英国も、地方の財源を中央政府に召し上げる方向性を強く打ち出して財政再建に成功したように、財政的に中央集権化を進めるしか窮乏する英国を救う道がないという、常識を政治とした。近代以降の世界には、日本の「地方分権」に類する前例は一つもない。
また、日本の学界は、歴史と伝統の産物である国家を人為的に手術できる(=改造できる)という、知的傲慢さに自己陶酔している。このため、バジョットらの次のような警告は一顧だにされなくなった。
バジョット曰く、
「古い制度を完全に変更して、よりよいものに替えるべきであるという考えを即座に放棄しなければならない」
コーク曰く、
「裁判官と賢者の智恵は、コモン・ローの価値を下げることになる新しい革新をつぶした。・・・・裁判官は言った、変更されたり革新がもたらされるぐらいなら欠陥のあるままにしていた方がましである」
ハイエクは、人間が合理的な推論によって改革や革新をしてより有効なものにしようとする思考を、デカルト的な設計主義と名付け、それが社会に対して自己破壊の力をもつことを警告した。伝統・慣習・歴史(時間の経過)によって発展し機能している多くの文明的「制度」は、理性(人間の知力)には限界があるため、数学的に証明されることはない。ところが、明示的(数学的)に説明(証明)のつかないものをすべて捨て去る(例えば、神の存在は理性では証明できない。故に神は存在しない。私は無神論である。)デカルト哲学においては、このような文明的「制度」は当然に排除され、棄てられる。この結果、社会は自然に発展してきた文明的「制度」を失って、機能不全におちいていく。
日本における、神話というより事実を転倒させた巨大な嘘は、「3割自治」などという言葉があるように、地方がもっと財源をもってよい、地方がもっと自主的に課税し自主的に支出を決定してもよい、という世界のいずこにも存在しない“狂気の地方行政論”において顕著である。道楽息子を、親は無限に甘やかして欲しいだけ“小遣い”を与えるべきだという、その家族の解体を狙った悪魔の囁きの国家版が、日本の「地方行政論」の正体である。
以上のことは、「地方自治」の母国である英国を参考にすればすぐわかる。英国は日本と違って地方税というものは一つしかなかった。伝統的に地方が自主財源を持つことは可能な限り制限されたからである。この地方税を「レイト(Rate)」といい、土地・建物等に対する課税であった。日本で言う、固定資産税、家屋税に当たる。
サッチャー首相は、税制改革を行い、「地方税のサービス料金化」と「税制の中央集権化」を行い、今日の英国には地方税というものは、「カウンシルタックス(財産税的な自治体税のこと)」と「レイト(非住居用資産にかかるレイト)」の“二種類”しかない。しかもそれらは中央政府の監督下にある。
しかし、日本では地方税は、直接税のみでも次のごとく、何十もある。
「都道府県民税、事業税、特別所得税、自動車税、鉱区税、狩猟者税、狩猟免許税、市町村民税、固定資産税、自転車荷車税、鉱産税、特別土地保有税、目的税(自動車取得税、軽油取引税、入湯税を除く。)、国税付加税、特別地税、地租、家屋税、営業税、段別税、電柱税、漁業権税、軌道税、電話加入権税、電話税、雑種税(一部)、段別割、個別割、家屋割、扇風機税、屠蓄税、犬税、使用人税、舟税、自転車税、荷車税、金庫税」
日本の「地方」の課税自主権は、世界の常識において、天文学的に無制限である。日本の地方は、“世界一の道楽息子”である。「これだけの地方自主財源を持ち、それでも足らずの財源を国からの地方交付税で補い、さらに、事業補助金制度で国から多額の補助金を受けているにも関わらず、多額の借金を抱えるに至り、財政再建対策に懸命になるあまり、住民への必要な公共サービスを削減している」のが現在の“地方の実態”である。「地方分権」で地方に権限や財源を移譲したからといって、地方は健全な財政運営を執行できる能力があるのだろうか。現状をみる限り、“全く無い”どころか、“ますます借金を膨らませるだろう”としか予見できない。
日本が第一にすべきは、第一に地方の自主財政を徹底的にリストラすることである。次に、国の管轄下におくことである。例えば、都道府県民税や市町村民税は廃止して所得税に一本化するのは当然であろう。
英国では、「地方」の歳入に占める自主財源率はほぼ15%以下である。日本流に言えば、「1.5割自治」である。つまり、歳入の85%は中央政府からの助成金である。そして歳出のベースで見ると、1993〜4年度で、地方の歳出は国全体(「地方」+「中央」)の歳出の28.7%である。
一方、日本は、歳入における地方の自主財源率は、地方分権推進委員会が(1995年の)発足時に参照したであろう1993年度の決算ベースで見ると、37.8%である。「約4割自治」である。地方の自主財源率は、英国の2倍以上もある。
さらに歳出ベースで見ると、「地方」の歳出は国全体(「地方」+「中央」)の歳出の何と65.6%に当たる。家計に例えると、道楽息子の“小遣い”が所得の3分の2におよび、親は残りの3分の1でやり繰りしている、信じがたい家族、それが日本の真実である。フランスの地方は、英国よりもっと自主財源が貧弱である。州の財政的独立性の強い米国ですら、多少英国よりましな程度である。
このように、「自主財源の天国」たる日本の「地方」に、「もっと財源移譲を!」と叫んでいる人々の意図は、それらの人々のほとんどが極左の暴力革命屋で「計画経済」や「計画政治」という超中央集権の信者であることを考えれば、明らかであろう。本心は超中央集権論でありながら、それとは逆の「財源の地方分散」を推進するのは、「地方」という“道楽息子”が財政的に日本を崩壊させることを狙っているからである。“超”中央集権(全体主義体制)論もレーニンやヒトラーでわかるように、究極的には国家の破滅を願望するイデオロギーからつくられている。「“超”中央集権論」も「“超”地方分権論」も多少色の異なる花だが、反国家(反日)という同根から咲いている。
参考に国の借金状況及び地方の借金状況を見ていただきたい。われわれはこの借金をすべて未来の子孫に押し付けて、現世代のわれわれのみが、借金を重ねて享楽・安寧に一生を終えてよいのだろうか?。未来の子孫である日本国民と未来の日本国との悠久の繁栄を一顧だにせず、自分の世代のみの繁栄を享受して、その借金を子々孫々に押し付ける。無責任と義務感の欠如した、衆愚政治、それが現代日本の政治及び政治家と、そのような政治家しか選出できない知的退廃と無教養の国民、それが現代(現在の)日本国民の実像である。政治家やマスコミは決まり文句のように「日本国民は賢明である。利口である。政治が良く分かっている。国民の良識を信じる。」というが、そんなものは、全くのでたらめであるし彼らも本心では分かっている。はっきりと言うが、日本国民の実像は「政治に対して全くの音痴・無教養・無知である。」「日本国民は政府の政策に対して、何が正しくて何が間違っているかの判断材料となる政治知識を全く持っていない。例えば、立憲政治と国民主権は両立するか?とか、完全平等社会の追求が共産主義の暗黒国家に行き着くのが政治の必然であるとか、象徴天皇制が衆愚政治から自由を守る砦であるとか、共産主義者の唱える平和とは世界共産化のことを意味するとか、1945年の終戦後から福祉国家を目指した英国労働党政権の“ゆりかごから墓場まで”政策が破綻し、1960〜70年代の英国は財政が逼迫し、産業も停滞して“英国病”といわれるほど国家が退廃したが、バーク保守主義者を自称サッチャー首相が完全に英国を蘇らせたとか、ベトナム反戦運動期ころから顕在化した米国の教育の退廃と学力の低下に対し、全米の保守主義者の父兄が教育黒書運動を全米に巻き起こし、バーク保守主義者であるレーガンが大統領になり、米国の教育を立て直した、とかレーニン/スターリンに始まる毛沢東/ポル・ポト/金日成などの共産主義国家が合計2億人の自国民を殺戮した事実とか、保守政治家の筆頭をを演ずる中氏根康弘が実は超極左であるとか、人間であるというだけで持つとされる人類普遍の人権などは実は存在せず、あるのは各国家ごとの国民が持つ国民権のみであるとか、・・・・・等々(まだまだあるが、あとは本ホームページを読んでいただければ理解できると思う)をどれだけの日本人が知っているか?」「日本国民の政治の判断材料は新聞・マスメディアの意図的に偏向した社説や論説、芸能人化した政治家の人気度、その時々の政治家の発言に対する一時的な感情的衝動でしかない。そして最大の関心ごとは、どの政党が現世代の日本国民にどれだけの享楽や贅沢を与えてくれるのか、何をどのくらい無料にしてくれるのか、負担を減らしてくれるのなど、お金の損得に関することばかりである。こうした政策には必ず増税や国債発行による巨額の負担が未来の子孫たちにのしかかるのに、“そんなの関係ねえ―”とばかりに無責任を決め込む。そして、その無責任さに気付きもしていない。」「日本の文明社会は、これまでに約二千年の歴史を持つ。二千年の歴史の末端に現在のわれわれが存在する。われわれの祖先たちが、未来のわれわれを思い、子孫の悠久の繁栄を願って日本国を相続し継承してきたから、現在のわれわれ日本国民が存在しているのである。とすれば、現代のわれわれ日本国民も、祖先がわれわれのためにしてきてくれたのと同様に、これから数千年先の未来の日本国民が悠久の繁栄を享受できることを考慮して政治政策を選択し、政治について考えるのが、われわれの義務ではないか。」「われわれ一世代が生きている高々80〜90年程度のスパンだけの享楽・安寧を求めて、子孫たちの今後数千年の日本未来の悠久の繁栄を考慮もしない、借金まみれの政策や政治家など存在の価値もないし、そのような政治を選択する国民の無知・無能も限界に達している。日本国の将来は極めて危うい状況にある、という自覚をもってもらいたいものである。」
それが、このホームページ作成の第四の意図である。
(C)「非・国民」への参政権付与―――参政権は国籍ある「国民の権利」である
外国人とは日本国民ではない。自明の原理である。しかも、外国人は無国籍ではなく、母国(祖国)の国籍を持っている。地方(都道府県・市町村)であれ国であれ、日本国の統治機構への外国人参政権付与とは、その外国人にとって、二重の参政権を得ることになる。“二重の国籍”は非としておいて“二重の参政権”を是とするのが、「外国人にも参政権を!」の運動の核心である。
しかし、日本では、外国人という「非・国民」に対して、この“二重の参政権”を与えようとしている政党がある。選挙の票欲しさが狙いの政党もあれば、「反日」イデオロギーの実践としてそれをなしている政党もある。
そもそも憲法において、統治機構に参加する選挙権・非選挙権は、ともに「国民の権利」と定められている。当然に、外国人という「非・国民」が除外されている。この単純なる憲法条文と、国際的にも“二重参政権の禁止”という普遍的なルールが、さも「時代遅れ」かに錯覚されるのは、左翼諸団体の執拗なプロパガンダ(嘘宣伝)もさることながら、1995年2月28日の最高裁判決(第三小法廷)判決文にある「盲腸意見(傍論)」で生じた、大きな誤解である。
憲法第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
憲法 第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
「憲法第九十三条第二項は、日本国籍を有しない在日外国人には参政権は与えられないと解するべきである。」が判決の主文でありながら、それと極度に齟齬をきたした「盲腸意見」が判決文にくっついていた。むろんそれは、判例として法的拘束性を有さないが、そんなことは一般の人にはわからない。この「盲腸意見」とは、「ただし、永住者等(=出入国管理法に規定されている「特別永住者など」)の者に法律で選挙権を付与することは憲法上禁止されるものではない」として、地方レベルの選挙権を認める余地があることを示したものであった。つまり、外国人参政権は憲法違反と判決しながら、「この憲法を無視した法律を新しく制定し、この憲法違反を可能にしてやれ!」という、誰がどう読んでも自己矛盾的な「とんでも判決」であった。しかもこの判決は、憲法第十条で定められた国籍法には一切言及していない。初めから極めて政治的なものであった。
憲法第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
在日コリアンによる地方参政権要求や地方公務員採用要求は、その原点は日本人に対する憎悪に発する「反日」運動であり、日本国の解体運動である。このことに、日本人は気付くべきである。この「反日」を彼らは「共生」という糖衣錠(オブラート)にくるんでいる。もっと、警戒すべきである。これらの問題は、「人間性」とか「同情」とか「侵略の罪意識」とかの“感情”の問題ではない。「立憲主義国」における「法の支配」の根幹に関わる“ルール”の問題である。
外国人という「非・国民」が「日本国民」と同等な権利を行使することは、「日本国民」をして「非・国民」並みにすることであり、「日本国民」の存在価値そのものを否定することに他ならない。しかも、例えば在日コリアンのように、実際には祖国で軍隊に入隊する権利を持っていたり、祖国での参政権を持っている。つまり、参政権付与とは在日の「非・国民」は、「日本国民」の二倍にも及ぶ権利を持つことになる。とすれば、「日本国民」の権利は「非・国民」の半分に差別されることになる。これこそ、「平等」の名の下の“不平等”ではないか。国家間の主権の在り方に関する“不平等”である。
極端な言い方をすれば、「非・国民」が日本国の主権に関わる政治に参加することは、「非・国民」による日本国の主権侵害を可能にする危険性を孕むことを意味する。
「在日コリアン」に対する「国籍条項」の緩和は、1997年から本格化し、実行された。この年に神戸市、大阪市、川崎市が先鞭をつけたからである。“日本国民からなる国が日本国”という、国家の原点が根底から破壊されている。そして、「地方」なら、仮に害があってもさほどの害もあるまいとたかをくくって、日本国民のほとんどは気にもかけない。いや、むしろ「平等」や「人権」の誤った概念で“正しいことをしている”とさえ思っている節がある。
日本の亡国、それは「地方」における「国民否定」という暴走によって着実に進展していくだろう。
なお、この「国籍条項」を標的として「非・国民」を反乱させる方便の選挙権問題と公務員問題は、1996年うに組織的にキャンペーンされた。
この1996年の、組織的に展開された国籍条項キャンペーンに抗して、たった一人で「在日」の良心を語った鄭大均は、「日本で生まれ、生活の場も日本であり、税金も払い、地域の一員になっている・・・・人々から見れば、国籍条項が『排除と差別』と映ってきたことも理解しなければならない」という『朝日新聞』1996年5月18日付け社説に対して次のように語った。
「日本の公務員には日本人をもってあてるというのは常識的なことであって、外国籍を有する者がここから除外されるのはいわゆる『排除』や『差別』の問題とはいえない」
「また国籍に固執する余裕があるということは、『在日』の彼女が本物の差別とは今や無縁なところで生きていることを示唆するものであろう。つまり、C氏の態度に見てとれるのは差別に対する抗議というよりは遊戯精神の発露であり、それは不遇意識に対する郷愁や自虐趣味をモチーフにしたものではないだろうか」
「国籍条項」が日本では法令で明示的に定まっているため、“日本国民つぶし”に狂奔する「共生」屋たちは、新しい詭弁を模索する。例えば、米国は“Nation”ではなく、“United States”である以上「国籍」を意味する言葉として“nationality”が使えない。代わりに“citizenship”を使う。ここに目をつけ、この“国籍=citizenship(米国人には常識中の常識)”をわざわざ「市民権」などと巧妙な誤訳をしておいて、米国は参政権について「国籍」が基準ではなく「市民権」を基準にしているのでと、参政権について「国籍(nationality)で論じる必要はない」の根拠にする。米国の法曹家が聞いたら腰を抜かす、悪質な大嘘である。さらに米国で用いられている“civil rights(公民権)”という言葉と、この「国籍」としか訳せない“citizenship”とを意図的に混同させる。しかし、米国では、参政権は厳格にこの「国籍=citizenship」保有者のみに限られている。英国も同じである。
そして、なぜか、文明社会の法体系の発展が未成熟のまま近代に入ったスウェーデンの、永住資格をもつ者を一種の「準・国民」として扱う、国際的には例外な国を過剰に宣伝する。もしそんなにスウェーデンを参考にするのであれば、有事に全男児を徴兵し戦闘の軍務に就かせるスウェーデンの「国民皆兵」の制度や全国民への核シェルターの完備などの方も参考にすべきであろう。あるいは、スウェーデンでは、国民の戦闘(国防)意欲を阻害するマスコミ報道は規制されており、この規制を担当する「心理防衛庁」という役所まであるから、この方も日本は参考にすべきだと主張すべきである。防衛反対の朝日新聞などはすぐに廃刊状態になる。スウェーデンの、ある政策はその他の無数の政策と密接に関連して存在している。「永住市民」だけをつまみ食い的にとり出すとは、バランスを欠いた、あまりに作為的なやり方で「卑怯」である。
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(1)歴史学と東京裁判批判
@歴史学―――“過去の史料を評価・検証”する過程を通して“歴史的事実、及びそれらの関連”を追究する学問
(A)歴史学の概要
人間にとって、何かしらの物事の成り立ちや経緯・来歴を知ろうとするのは半ば本能的な行為である。それ故に過去に関する記述を残す、或いは過去を知る為の技術は古代から存在していた。しかし、学問としての方法論を確立させた近代的な歴史学が成立したのは、ルネサンスの時代に史料批判に関する技術の体系化が進められ、17世紀以降に古文書学として成立した。
古文書学者でもあった歴史家レオポルト・フォン・ランケ(近代歴史学の祖)は、古文書学の史料批判法を歴史研究において重要視する事で実証主義的な歴史学(実証史学)を確立し、歴史学を科学の域に高めた。ランケの実証史学は欧州史学界に大きな影響を与え、今日の歴史学の基礎とされている。
過去を教訓として受け取る態度は古くから見られるものである。しかし“過去”を安易に“今日の基準でみる”ことは過去を色眼鏡でみることになりかねないため、注意が必要である。例えば、今日戦争は悪であるとされているが、かつては紛争解決の最終手段として戦争は肯定されていた。現世代の価値観や倫理感を機械的に過去へ適用し、批判することは、しばしば歴史の実相を見誤ることになりかねない。
(B)歴史研究法
歴史を振り返るのは人間の主体的な行為であり、「各人の問題意識に従ってテーマが設定」され、研究が行われる。このことは、歴史研究が主観的なもので客観性がないという意味ではない。“客観的な根拠を示し、論理的な考察を行う”ことで、他者を納得させられる研究が求められる。通常、歴史研究は先人から受け継いだ蓄積(研究史)があり、“先人の業績を踏まえて研究を批判あるいは深化・発展させる”ことが歴史学の目標である。
●史料批判
歴史学において史料批判は欠かせない作業である。史料批判とはその史料が信頼できるものなのか、信頼できるとしてどの程度信頼できるのかを見定める作業である。例えばある事件について、史料Aと史料Bが矛盾している場合、両方の史料の性格を考え、どちらが正しいか確定してゆく作業が含まれる。史料Aが事件から1年後の第三者による伝聞であり、史料Bは当事者の日記だとすれば、一般には事件に対して(時間的・空間的に)最も近い史料が確実なものと考えられるが、「当事者の証言」には(意識的・無意識的な)自己正当化が含まれることも多く、「必ずしも真実とは限らない」から、できるだけ多くの史料を集めて相互に批判検討を加えることが重要である。なお、伝聞であっても、その事件に対する世間での評価を含んでいるなど、史料として利用できる場合もある。
(C)様々な「歴史観」がある―――特定の歴史観だけでの歴史解釈は歴史を歪曲する
「歴史観」とは上記の方法論によって導き出された様々な歴史的事象の関連性や構造を考察する上において、どのような要素を重要視しているかの違いを指す用語である。歴史的事象の間に関連を見出そうとする事は歴史学にとって重要な営みの一つだが、その際、論者の歴史観によって大きく見方や意見は異なってくる。ここでは、主な歴史観の概要をいくつか列挙しておく。
イ) 古代ヨーロッパでキリスト教の影響力の元、「神話上の出来事を史実として記す普遍史観」が成立した。神学者アウグスティヌスの『神の国』のように、聖書(旧約聖書・新約聖書)をそのまま事実と捉え、天地創造 - アダム - ノアの方舟等を経てイエスが誕生し、現在があり、やがては最後の審判を迎えるという流れが存在する、中世にわたって支配的な歴史観であった。後の啓蒙思想の時代に否定されたが、「歴史には一定の目的があるとする発想」は後世にも大きな影響を与えている。
ロ) ルネサンス以降、自然科学が発達し自然界に多くの法則があることが証明されてくると、歴史の中にも何らかの法則があるのではないかという思潮が高まり、啓蒙思想の時代になると、「歴史は法則に基いて無知蒙昧な時代から啓蒙の時代へと進歩してゆくという歴史観(進歩史観)」が主流となった。ヘーゲルは人類の歴史の世界史的発展過程により理性(「世界精神」)が自己を明らかにするものと捉えた。これも「進歩史観」の一つである。
ハ) 歴史学者ランケは「法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観」に反発し、その反動として徹底した「実証主義的証明」に基づく近代的な研究方法を確立し、歴史学を科学に高めた(実証史学)。ランケはヘーゲルらの「歴史法則論を否定」し、また法則性が求められた遠因とも言うべき「実用性を至上視」する学問の傾向に対して警鐘を鳴らした。
ニ) マルクスはヘーゲルの進歩史観を継承しつつ、「思想や観念」を歴史の原動力とした部分を批判、「経済的な関係」こそが歴史の原動力であるとした「唯物史観」を確立した(フォイエルバッハの唯物論にヘーゲル弁証法を適用)。また、生産力と生産関係の矛盾が深まると社会変革(革命)が起こると考えた。(「マルクス史観」、「階級闘争史観」)
ホ) マックス・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、人間の行動を規定するものとして「宗教」に注目し、「宗教倫理と経済活動の関連」を研究した。ウェーバーのこうした手法は、「文化的な差異が歴史の進展にも差異を生じさせている」ことを明らかにした。また、ウェーバーは学問に価値判断(例えば社会主義が正しい、革命は必然的である等)を持ち込むことを厳しく批判した。
(D)「歴史法則」―――存在しないか、存在しても人間の智恵での構築は困難
近代において主流となっていた啓蒙主義や唯物史観においては、「歴史はある法則に基づき一定の方向へ進んで行く」ものと考えられ、「歴史法則の発見」が主要な研究目標として掲げられた。しかし実証主義を基幹とする今日の歴史学では、基本的に一回性の連続であり、こうした「普遍的・絶対的な歴史法則が存在するとする意見は否定」されている。また仮に何らかの法則性が存在したとしても、「歴史は人類文明に存在する全ての要素から構成されている極めて複雑な概念」であり、その要素が全て解明されでもしない限り、「普遍的法則を構築する事は困難」である。「法則のように見えるもの」は概ね一つの「仮説」に過ぎず、例えば「唯物史観」は正しいか、そうでないかということではなく、それが「歴史的事象を的確に説明できる限りにおいて」正しいものと考えられる。
●「歴史法則」:ヘーゲルの『歴史哲学』とマルクス『共産党宣言』『資本論』
「歴史法則」が存在するとする、ヘーゲルの「歴史哲学」とマルクスの「唯物史観・階級闘争史観」を簡潔に図示すると以下のようになる。

A東京裁判批判―――「極東国際軍事裁判(東京裁判)」とは何だったのか
極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)とは、合法的かつ正当な手続きを踏んだ裁判であったのだろうか。この疑問を解く例として以下に、東京裁判の実体について幾つかの事例を取り上げ、検証する。なお、事例については藤岡信勝/自由主義史観研究会著『教科書が教えない歴史2』(2005年6月30日)から抜粋する。
● 復讐劇だった、山下・本間裁判(episode 1)
1945年12月7日、フィリピンのマニラ軍事法廷に世界中の目がくぎ付けにされました。その日は第二次世界大戦の戦犯を裁いた最初の裁判の判決が下った日だったからです。
裁かれたのは山本奉文陸軍大将。山下は大東亜戦争緒戦のシンガポール陥落(1942年2月15日)の際、イギリスのパーシバル将軍に「イエスかノーか」で降伏を迫り、連合軍に「マレーの虎」としてその名を恐れられていた将軍でした。
山下裁判は、1945年10月8日、日本降伏直後に慌ただしく始められます。ところが、連合国軍最高司令官のマッカーサーによって任命された裁判官五人は、全員がマッカーサーの部下の職業軍人で、裁判にはズブの素人でした。それだけではありません。マッカーサーは、軍事裁判所の訴訟手続きも、自らが全部定めてしまいました。
山下は、日本軍が行ったとされたマニラでの虐殺行為に、指揮官として責任があるという理由で起訴されていましたが、山下にとっては全く身に覚えがないことでした。事実、検察側がいくら多くの証人を繰り出しても、山下が残虐行為に関係していたという証拠は出てきませんでした。
それどころか、法廷での真摯な山下の態度に、多くの人が感銘を受けました。裁判を最初から傍聴していた各国の新聞記者十二人に、あるべき判決を事前にアンケートしたところ、十二対〇で全員無罪でした。しかし、裁判官によって下された判決は有罪、しかも絞首刑でした。
続いて、同じ年の12月18日、今度は本間雅晴中将の裁判が始まりました。本間は「バターン死の行進」の責任者として起訴されました。この事件は1942年4月のフィリピン・バターン陥落後、輸送中の約七千人の捕虜が飢えとマラリアで死んでいった事件です。
裁判は何もかも山下裁判の引き写しでした。本間の場合も、残虐行為のどれか一つでも命じたか、知っていたことを示す証拠を検察側は何一つ提出できませんでした。それどころか、本間は捕虜輸送については国際法を順守して有効的に扱うよう部下に厳命していました。実はマッカーサーは、本間に対しては激しい復讐心を抱いていました。というのは、彼は、本間によって三年前にフィリピンから追い落とされ、それが、彼の輝かしい軍歴の唯一のキズとなっていたからです。翌年2月21日、本間に下った判決は銃殺刑でした。
山本・本間裁判は、裁判という名を借りたマッカーサーの私怨を晴らす復讐劇にすぎなかったといえます。軍事裁判で山下の弁護人であった米国人のフランク・リールは、こう書いています。
「祖国を愛するいかなるアメリカ人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、この裁判記録を読むことはできない・・・・。われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」(『山下裁判』)
この二つの裁判こそ、東京裁判の前哨戦だったのです。
● 突如持ち出された虚報の「南京大虐殺」(episode 2)
昔から中国の村や都市は外壁に囲まれていました。自衛のためです。南京の巨大な城壁は一周すると山手線と同じ三十四キロもありました。城壁に守られた南京のほぼ中央に南京戦の直前、民間人が戦闘に巻き込まれるのを避けるため、外国人によって国際管理の安全区が設定されます。1937年7月、支那事変(日中戦争)が勃発。戦火が南京に飛び火する直前の同年12月、蒋介石や多くの市民が南京を脱出します。南京に残った人々二十万人は軍の布告にしたがって安全区に避難しました。
12月13日未明、城壁の一角が日本軍によって陥落します。陥落しても降伏の命令を下す指揮官がいません。南京防衛軍司令官の唐生智が逃亡していたからです。城内の中国兵は軍服を脱ぎ捨て、安全区に逃げ込みました。日本軍は安全区の市民は攻撃しませんでしたが、軍服を脱いだ中国兵が便意兵(ゲリラ兵)とならないよう、これを摘発し、南京市民立ち会いのもと兵士と市民を区別しました。そして場合によっては揚子江岸で兵士を処刑します。
この処刑は法的には合法的なものでした。戦時国際法は戦場での兵士でも降伏した場合は捕虜として特別待遇(助命)すると謳っています。しかし、その戦時国際法は「軍服を着用し、訓練され、かつ上官のの指揮下にある戦闘員のみ」に適用されるものでした。司令官が逃亡して全軍を指揮するものがいず、軍服も着用しない兵士には捕虜の特権はありませんでした。
にもかかわらず、南京陥落から一カ月後には、この処刑が南京虐殺として英字新聞や英文雑誌などで報道され始めます。しかし、これは誤報でしたから英文雑誌の支那事変一周年記念号から南京虐殺の四文字は消えるのです。
ところが、これとほぼ時を同じくしてまたもや南京虐殺説が浮上します。ティンパリー編『戦争は何か』(青木書店)に「四万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示している」という告発状が載ります。筆者は安全区の委員の一人で米国人のベイツ教授でした。
確かにベイツの責任編集になる記録によれば、南京の死体埋葬活動は紅卍会の手で「完了」し、記録が正しいとすれば約四万体をベイツは虐殺体と考えたわけです。が、実際は、当時の朝日新聞北支版がいうように「敵の遺棄死体」でした。ベイツの四万人虐殺説は根拠なき主張でした。
このように戦前、国際的文書でも南京虐殺はすべて虚報として否定されました。虐殺を証明する公式資料が一つもないからです。ところが、敗戦後の東京裁判で突如として南京虐殺がもちだされました。キーナン首席検事は数万人虐殺とぼかし、中華民国はベイツ説を七倍に粉飾して三十万人虐殺を主張しました。
南京虐殺はこのように不可解な点が多い事件なのです。
● 東京裁判批判を封じ込めた検閲(episode 3)
オウム真理教の信者のマインドコントロールは良く知られていますが、戦後六年八カ月にわたる占領期間中の日本人に対するマインドコントロールについてはあまり知られていません。
占領軍は日本人に戦争についての罪悪感を植え付けるための宣伝計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を実施し、検閲による徹底した言論統制を行いました。検閲というのは新聞や雑誌に発表する内容を事前に調べて、掲載を禁止したりすることです。
連合国がポツダム宣言において言論の自由の確立を約束しておきながら、自ら厳しい検閲を行い、日本人の言論の自由を奪ったことは、大変矛盾したことでした。
とりわけ、1946年から行われた東京裁判に対する批判は一切禁止されました。占領軍による検閲の重要な目的は東京裁判を批判させないことでした。そのことは、東京裁判の被告人たちの逮捕が始まる前日の1945年9月10日に検閲が始まり、東京裁判が終了した三日後の1949年11月15日には検閲組織(民間検閲支隊――CDC)が解散したことからもうかがい知れます(検閲そのものは、他の組織に引き継がれて占領終了まで続けられました)。
国際法学者の信夫淳平は、連合国側にも一般住民に対する無差別爆撃など国際法違反の行為があったことに目を向けなければならない、という内容の論文を雑誌に書きました。しかし、この論文は連合国を批判しているという理由で大部分を削除されました。
東京裁判の法廷の中でも、言論は制限されました。例えば、「戦争による殺人が犯罪になるのなら、なぜ、原爆を投下した者がそれを裁くことができるのか」と、この裁判の本質を批判したアメリカ人のブレークニー弁護士の発言は、途中から通訳を打ち切られました。
これに対し、東京裁判の被告人たちが犯したとされることについては、新聞やラジオ、ニュース映画などを通じて大々的に報道され、日本がいかにひどい侵略国であり恐ろしい犯罪を行ったかという宣伝が繰り返し行われました。その中にはいわゆる「南京大虐殺」のように誇張され、事実を曲げて伝えられたこともたくさんありましたが、ほとんどの日本人はそれらがすべて本当のことあると思いこまされていました。
占領軍が全国誌に掲載を強要した『太平洋戦争史』をドラマ化したラジオシリーズ『真相はこうだ』という番組もそのひとつです。これを批評した雑誌の対談記事は「占領政策全般に対する破壊的批判である」という理由で全文削除の処分を受けました。
東京裁判の判決は、被告人のうち七人が絞首刑、十八人が終身禁固刑などの厳しいものでしたが、判決に対する批判や被告人への同情を発表することは許されなかったばかりか、全被告人を無罪とした「パール判決」は当時一般には知らされませんでした。
日本人が本当のことを知り、自分の意見を述べることができるようになったのはサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が再び独立国となった1952年4月のことでした。
しかし、いまだに日本が占領下の厳しい検閲によるマインドコントロールから抜け切れていないでいることは悲しむべきことです。
● 日本に有利な証拠を次々と却下(episode 4)
東京裁判では、検察団はもちろん十一人の判事も戦勝国である連合国からの御選ばれ、弁護団は敗戦国と連合国の双方から選ばれました。では、その東京裁判では、法理に基づいた公正な審議が行われたのでしょうか。いな、裁判は公正ではありませんでした。裁判の名を借りた勝者の敗者に対する一方的な復讐、つまり「勝者の裁き」だったのです。
裁判の審議は、概ね証拠調べが中心となります。数々の証言や文献資料の中で、何を取り上げ法廷証拠として採用するかどうかが、審議を左右する重要問題です。
弁護側は審議の過程で、日本に有利な証拠の数々を法廷に提出しました。しかし、検察官の主張や裁判長の自由裁量によって、それらの多くは却下されました。弁護がせっかく作成したにもかかわらず、却下になることを予想して提出前にあきらめた未提出分の証拠を合わせるとそれは、二千三百六件に及びます。提出した資料のうち弁護側のものは実に三十二パーセントが却下されたのです。
弁護側の証拠が却下された理由は「証明力なし」「関連性なし」「重要性なし」というものでした。それでは、どういう証拠資料が却下されたのかを挙げます。
@当時の日本政府・外務省・軍部の公的声明のすべてが却下されました。敗戦国の正式な言い分を一切認めないというのが、この裁判の本質だったのです。A共産主義の脅威および中国共産党に関する証拠は大部分が却下されました。とりわけ、日本の正当な権益を脅かした組織的な排日運動があった事実は、全く無視されたのです。B満州事変以前に、満州人の自発的な民族運動が、独立運動であった資料は、すべてが却下されました。これは、満州国が日本の傀儡(あやつり)政権であることを強調するためでした。C「この法廷は日本を裁くものであって、連合国を裁くものではない」という理由から連合国側の違法行為の証拠資料は大量に却下されました。アメリカの対日戦争準備や原子爆弾投下等の問題は、すべて不問にされたのです。
戦争には両方の当事者がいます。一方的に日本の行為の非のみを見て公正な判断ができるはずがありません。
それに比べて観察側の証拠は、たとえ伝聞証拠であってもほとんどが法廷証拠として採用されました。却下されたのはわずか三パーセントです。さらにそれらに偽証罪は適用されませんでした。検察側は何でも言いたい放題だったのです。
弁護側は、とても悔しかったことでしょう。却下及び未提出の証拠資料は、法廷外では公表できません。そして世に出ることなく、長く埋もれたままになっていました。1995年、『東京裁判却下未提出弁護側資料・全八巻』(国書刊行会)と、その抄録としての『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫)が出版されました。これらは、戦後半世紀が過ぎて、封印されていた日本の立場を公に明らかにしたものであり、とても意義あるものです。
● 事後法の裁きに反対したパール判事(episode 5)
「日本人よ、日本に帰れ!」――これは、インドのラダ・ピノート・パール博士の言葉です。
1952年に来日したパールは、日本の教科書に「日本は侵略戦争を行った」と書かれていることを大変嘆き、「日本の子供たちが歪められた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されていくのを平然と見過ごすわけにはいかない」と訴えました。
パールはこれより前に行われた東京裁判において、国際法に基づき、日本の全被告の無罪を主張したインド代表の判事です。
東京裁判の判事は日本と戦争をしたアメリカ、イギリスを含む九ヶ国と、アメリカの保護国であったフィリピン、イギリスの属領であったインドからそれぞれ一人ずつ選ばれました。すべて連合国から選ばれ、中立国や敗戦国からは一人も選ばれませんでした。
パールはこれら十一人の判事の中で、ただ一人の国際法の専門家でした。そのため、パールは国際法を蹂躙して東京裁判を強行した連合国を批判し、邦の権威と人類の正義と真の世界平和を守るために、敢然と日本の全被告の無罪を訴えたのです。
東京裁判は1946年に連合国最高司令官だった米国のダグラス・マッカーサーの指令によって作られた「裁判所条例」に基づいて行われました。
しかし、この「条例」は当時すでに確立していた国際法に基づいたものではありませんでした。
裁判では日本の戦時指導者たちを「平和に対する罪」などを定めた「裁判所条例」により、過去にさかのぼって裁きました。これは文明国では決してしてはならないことです。
このため、パールは東条英機元首相ら七人に死刑を宣告した判決に異議を唱え、別の意見書を提出しました。その中でパールは、この裁判が事後法(事件のあとに、それを裁くためにつくられた法律で、近代国家では基本的に禁じられている)による裁判で不当であること、裁判の目的が復讐心と満足と勝利者の権力の誇示にあること、勝者が敗者を罰することによって将来の戦争を防止し得ると考えるのは過信にすぎないと説きました。
1952年に広島の原爆慰霊碑を訪れたパールは「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書かれた碑を見て次のように言いました。
「この『過ち』とは誰の行為を指しているのか、日本人が日本人に謝っているのは分かるが、それがどんな過ちを犯したのか私は疑ってしまう。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊である。原爆を落とした者が責任を明らかにして『過ちは繰り返さぬ』というのなら分かる」
戦争が犯罪であるというのなら、なぜ日本とドイツの指導者だけを裁いたのか、原爆によって無差別殺人を行ったアメリカこそ裁かれるべきだ、という思いがパールにはあったのです。
● 原爆投下を告発した米国人(episode 6)
「勝者の裁き」であった東京裁判においては、戦勝国の戦争犯罪は基本的に追及されることはありませんでした。
ところが、法廷で、広島、長崎に原爆を投下したアメリカの戦争責任が追及されるという事態が起こったのです。それも日本人によってではなく、原爆投下国であるアメリカの弁護士によってです。そのアメリカの弁護士はベン・ブルース・ブレークニーと言います。
東京裁判でイギリスやアメリカの法律や英語に不慣れな日本人弁護士たちを補佐するためにアメリカの弁護士たちが、日本人被告の弁護に当たりました。その一人であるブレークニーは1947年3月3日「原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して多数の一般市民を殺した連合国側が、捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるのか」とただしたのです。
連合国側はあわてました。
ウェッブ裁判長は「仮に原子爆弾の投下が国際犯罪であるにしても、アメリカがそれを行ったということは、本審理といかなる関係もない」と述べ、ブレークニーの発言を無視しようとしました。
しかし、ブレークニーは引き下がりません。「日本はその非法なる原爆投下に対して報復する権利をもつ。報復の権利は国際法の認めるところである」と応戦しました。
このため、裁判長もついに、原爆投下以降、終戦に至る三週間の捕虜虐殺については、日本側の責任を問わないことを言明したのです。
ローガン弁護人も徹底してアメリカの戦争責任を追求しました。
1948年3月10日の最終弁論において、連合国側、特にアメリカがいかに経済的・軍事的に日本を追い込んだのかを論証したローガンは、大東亜戦争(太平洋戦争)は連合国の不当な挑発によって引き起こされたのであるとし、この法廷で訴えました。「日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」
アメリカ人弁護士はこのほかにもスミス、ファーネス、ブルナン等二十人いました。彼らはそれぞれ、自分たちがアメリカ国民であることを決して忘れはしませんでした。しかし、弁護の必要から日本の立場を深く知るに至り、日本が侵略戦争をしたわけではなかったという風に理解し、正義を守る弁護士の面目にかけて日本を擁護したのです。
ローガンは東京を去るに臨んで日本の全被告に対して次のように挨拶しました。
「私は最初日本に着いた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもなかった。しかるにその後、種々調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であって、日本には二十年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに確信をもつに至った。したがって起訴事実は当然、全部無罪である」
東京裁判がいかに不正義な裁判であったのかを明らかにしたこれらアメリカ人弁護士たちの功績は絶大なものがありました。
● 裁判の違法性をついた清瀬弁護人(episode 7)
東京裁判が開廷して被告の罪状認否も一通り済んだ1946年5月13日、日本側弁護団の副団長を務める清瀬一郎(後に衆議院議長)は、裁判所の管轄権に関する重大な弁論を行いました。この東京裁判において裁こうとしている被告の起訴内容は成り立つかどうかという問題を取り上げたのです。
まず、第一点、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した以上、この宣言の第十条に明記されている戦争法規の違反者だけが裁判の対象となるべきで、「平和に対する罪」「人道に対する罪」などというポツダム宣言後に作り出された罪状をこじつけるとは法理に違反すると指摘しました。
さらに起訴状では、満州事変から大東亜戦争(太平洋戦争)終結までを対象としており、このまやかしにも言及しました。なぜなら、ポツダム宣言は大東亜戦争の終結に関するもので、それ以前の満州事変などの戦いの大半はすでに決着済みなのです。したがって、法廷に持ち出す根拠はないのです。
これに対してキーナン首席検事は、日本は無条件降伏したのであって、なにを今さらという趣旨で反論しましたが、清瀬はこう切り返しました。ドイツは総統のヒトラーも死に、首都ベルリンも占領されて無条件降伏した。ところが、日本は本土決戦の前にポツダム宣言という降伏条件を了承して受諾したのだと反駁しました。ポツダム宣言を見よ。第五条に「吾等ノ条件左ノ如シ」とあって以下に降伏条件を列挙しているではないか、と反証を挙げたのです。
しかるに、裁判所はこの時点でも理由も明らかにしないまま却下したのでした。
こうした背景のもとに1947年2月24日、清瀬は日本側弁護団を代表して冒頭陳述に臨むことになりました。
とりわけ明治以来、日本が目指してきた対外政策の本質は、独立主権の確保、人種差別の廃止、ならびに外交の要義としての東洋平和の三点に集約できることを、条理の限りを尽くして明らかにしました。
歴史を顧みれば不平等条約、三国干渉、ハル・ノートなど日本の主権を脅かす圧力は次から次へと襲ってきました。また、第一次世界大戦終結のためのパリ講和会議において日本が提出した人種差別撤廃の動議が列強によって否決された事実もあります。これは二十世紀前半に根強く残っていた白人優先主義を象徴する史実に他なりません。
さらに押し寄せる欧米の植民地政策に対して如何にして国土国民を守るかは、極めて深刻な課題でした。二十世紀初頭のアジア、アフリカ全域で辛うじて独立を保持できたのは、エチオピア、リベリア、タイ、日本ぐらいだったのです。しかも、日本は自国だけの独立を求めたのではありません。東アジア一帯にわたって外交努力を払ってきたのです。
清瀬は、これらの歴史事実に則って検察側によって起訴された日本弾劾の具体的内容の一つ一つに反証を挙げて是正を迫りました。この冒頭陳述は日本の名誉を、また、昭和史の真実を、渾身を傾けて訴えた記念すべき資料です。
● 「自衛戦争」と主張した東条元首相(episode 8)
1941年に、日本がアメリカと開戦をした時の首相であった東条英機は、東京裁判で連合国側からもっとも敵視された人物でした。
それは、戦後の日本社会においても同じでした。終戦後の生活物資の貧しい中で「東条の家族には何も売りたくない」という時代が続き、東条の孫は転校した小学校すべての教師から担任になるのを拒否されるという経験もしました。東条は、戦後一貫して「軍国日本」の負の象徴であり続けたのです。
勝者が敗者を裁く東京裁判において、東条がどのような判決を受けるのか、その答えは、東条自身ばかりでなく、誰もがわかっていました。東条は連合国に拘束されることを潔しとせず、一度は自殺を図っています。しかし、東条は、東京裁判において被告になるや、総理大臣としての敗戦責任を認めつつも、戦争をするにいたった日本の立場を主張し、また、東京裁判のあり方などについて批判を残しています。
まず、東条は、この戦争の直接の原因が、世界経済の構造的な変化によって起きた世界恐慌にあるとしました。そして、これによって、資源をもっているアメリカなどの国が資源をもたない日本をいわゆるABCD(米、英、中、蘭)ラインの武力包囲と経済封鎖、日本資産の凍結、物資の禁輸などによって排除しようとしたために、窮地に追い込まれた日本が、実力(武力)で資源獲得をしなければならなかった、と主張しました。東条にとって、この戦争は明確に自衛戦争であったのです。
また、その一方で、東条はこうした日本経済の弱さに由来する日本の大陸政策の限界についても指摘しました。それは東亜(東アジア)の保全と支那(中国)との協力を求めていながら、中国に対して侵略的な行動に出てしまったこと、また、人種平等を要求していた日本が中国に不平等条約を強要し、それを維持し続けるという矛盾のために、半植民地、半封建主義の状態から抜け出そうとしていた中国の民族主義と激しく対立してしまったと論じました。
さらに、東条は世界戦争が勃発する背景には、歴史的に根深い原因があるとしながら、戦争責任を一方の指導者にかぶせ、国際法上、外交上の開戦責任を論じても、本質的な原因を究明することにはならないとして東京裁判のあり方を批判しました。
それは、東京裁判が「文明と人道」を法基準とする以上、当然それは連合国側にも及ぶべきものではないのか、というものでした。この東条の主張は、連合国側の戦争犯罪行為が追求されなかったという東京裁判の欠落を鋭く指摘するものでした。
中国には「鹿の死せんとするやその声善し」という諺があります。東京裁判において、他の被告の中には自分を守るために責任のなすりつけ合いをするものもいました。その中ではじめから死を覚悟していた東条の主張は、東京裁判では決して顧みられることのなかった日本の弁明の一つとして再考される価値があるといえるでしょう。
● 国際法違反と批判した米国人たち(episode 9)
1945年8月30日、厚木飛行場に着いた連合国軍のダグラス・マッカーサー司令官はその日のうちに東京裁判の被告たちの逮捕を命じました。正式な占領統治を始める前から東京裁判の準備だけは始めていたのです。連合国がいかに東京裁判に熱心であったかが、このことからも分かると思います。
敗戦国の戦時指導者を「犯罪者」として裁く東京裁判のやり方は当時の国際法からすれば極めて奇異なものであり、はっきり言えば国際法違反の行為でした。欧米の政治家や外交官の多くは国際法の素養をもっていましたので、このことに気づいていました。このため、インドのパール判事や被告弁護人をアメリカ人弁護士だけでなく、アメリカの政府高官やGHQ幹部の中にも「たとえ国策であるとはいえ、国際法違反をすべきではない」として、東京裁判を批判する人がいたのです。
その一人、ロバート・A・タフト上院議員は、裁判開始からわずか半年後の1946年10月5日、ケニヨン法科大学で開催された学会での講演の中で東京裁判に触れ「勝者による敗者の裁判はどれほど司法的な体裁を整えてみても決して公正なものではあり得ない」と説きました。
このタフトは、アメリカの生んだ偉大な上院議員としてその功績を讃えるためワシントンに壮麗な記念碑が建てられているほどの人ですから、その率直な批判はアメリカ国民を驚かせました。
政治家ばかりではありません。ジョージ・ケナンは共産主義封じ込め政策を立案し、戦後のアメリカ外交の骨格を決定した外交官としてあまりに有名です。そのケナンが国務省政策企画部部長だった1948年に来日し、対日占領政策についての詳しい報告書を書いています。
その中で驚くべきことに、「東京裁判は正義と関係ない。また、そういう勝者による敗者に対する制裁を東京裁判という、いかさまな法手続きで装飾すべきでない」として、東京裁判を実行したマッカーサーの対日政策を激しく非難しているのです。
東京裁判の実質的な遂行者であったGHQ内部でも批判がありました。
マッカーサーのアドバイザー役を務め、連合国対日理事会議長という要職にあったウィリアム・シーボルトも「当時としては、国際法に照らして犯罪ではなかったような行為について、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかった」と回想録に記しています。
このように、東京裁判に対する批判が内外から相次いだため、連合国は東条英機元首相らを絞首刑にした後、残りの準A級戦犯容疑者を一度も裁判にかけることなく、そそくさと釈放してしまいました。そして裁判はその後二度と開かれることはありませんでした。
連合国は「国際法に則って東京裁判を行った」と言い張りました。しかし、良識ある政治家たちの批判の前に、ついにその続行を断念したのです。
● 釈放要求という形の異議申し立て(episode 10)
講和独立後、わが国の政治家や国民は「東京裁判」をどのように受け止めていたのでしょうか。独立直後にわが国で盛り上がった「戦犯釈放運動」を通じて、このことを考えてみたいと思います。
国際社会の慣例からすれば、1952年4月28日のサンフランシスコ対連合国講和条約の発効とともに、独立を回復した日本政府は連合国が戦犯として拘束していた人々をすべて釈放することができたはずでした。
ところが、そうはなりませんでした。講和条約第十一条に、「関係国の同意なくして日本政府は勝手に戦犯を釈放してはならない」と規定されていたため、千二百二十四人もの人々が独立後も海外や国内の刑務所で戦犯として服役しなければならなかったのです。
そこで、留守家族の人々が中心になって同年の6月5日から「戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動を全国一斉に始めました。国民はこの戦犯釈放運動を圧倒的に支持しました。
署名はある調査によれば地方自治体によるもの約二千万、各種団体によるもの約二千万の合計約四千万に達し、各国代表部や国会・政府・政党などに対する陳情もおびただしい数にのぼったといいます。
当初は、独立後も釈放されていない人々への同情という色彩が強かった「戦犯釈放運動」でしたが、この運動の広がりとともに、東京裁判とは何だったのかという問題意識が国民的に高まってきました。
折しも、占領中、発行を禁止されていた東京裁判批判の本が次々と刊行されていました。特にインドのパール判事の著書や、元英国官房長官ハンキー卿による『戦犯裁判の錯誤』などは、評判を呼び、国民は争ってこれらの本を読みました。その影響を受け、戦犯釈放運動も東京裁判批判の色合いを強めていきました。
こうした世論の変化に、政治家は敏感でした。政府は直ちに戦犯釈放のため関係各国と折衝を開始し、議会も動き出しました。
同年、12月9日、衆議院において労農党を除く自由党、改進党、社会党左右両派、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」を圧倒的多数で可決したのです。
決議文では、B・C級戦犯の釈放を訴えており、東京裁判は直接触れていません。しかし、自由党議員の田子一民は趣旨説明の中でハンキー卿の所論を引用して「東京裁判は失敗だった。この戦争裁判の失敗を拭い去るためにも一切の戦犯を釈放すべきだ」と訴えています。
また、改進党議員の山下春江も、東京裁判を「法律の権威を失墜せしめた、拭うべからざる文明の汚辱」と激しく非難しています。国会決議は明らかに、東京裁判を否定する意図をもって行われたのです。
国際社会に復帰した日本がまず行ったことが、戦犯釈放要求という形での東京裁判への異議申し立てであったことは、戦後政治の原点を考えるうえで忘れてはならないことではないでしょうか。
● 社会党も熱心だった批判決議(episode 11)
日本が独立を回復した後に、東京裁判否定の国会決議を推進したのは何も、自由党や改進党といった当時の保守政党だけではありませんでした。革新政党だった日本社会党も同じく東京裁判を否定する国会決議に積極的に取り組んだのです。
1952年12月9日の本会議において、自由党、改進党、社会党左右両派、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決されました。このとき発議にあたって社会党議員の古谷貞夫は次のように主張しました。「敗戦国のみ戦争犯罪の責任を追及するということは正義の立場から考えてみましても、基本的人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても私は断じて承服できないところであります・・・・。世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の虐殺行為をよそにして、これに比較するならば、問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしますならば、これらの人々に対して与えられた弁明ならびに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますことは、ここに多言を要しないのでございます。
さらに、1953年、戦犯で処刑された人々を公務死と認め、その一家の主人を失った家族の生活を援助するための遺族援護法改正が国会の場にて論議されました。このときもこれを支持して右派社会党議員の堤ツルヨは、「処刑されないで判決を受けて服役中の者の家族は留守家族の対象になって保護されておるのに、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもそも英霊は靖国神社の中に入れてもらえないということを今日の遺族は非常に嘆いておられます」と切々と訴えました。
戦犯として処刑された人々を公務死と認定することには深い意味がありました。それは、たとえ連合国にとって戦犯あっても、日本にとっては国のために亡くなった戦死者であるという意味でした。日本では、戦犯という言い方をしませんでした。だから、遺族を援助するのは当然であり、戦没者をまつる靖国神社に合祀されることを望んだのです。
このように保守政党のみならず、政策的には対立する革新政党までもが、ともに東京裁判を否定したのでした。これらの主張は同じ日本人同胞に対する愛情であるとともに、明確に連合国による勝者の裁きである東京裁判を批判し、日本の正当な立場を表明するものでした。
独立を回復した直後の日本の政治家は、自国の立場に立って堂々と国会の場で東京裁判を批判しました。とても占領軍の言論統制下では考えられなかったことです。それは、独立国家となった日本の政治家として「われわれの歴史」をとりもどすための第一声だったのです。
● ナチスと同じ罪にしたかった連合国(episode 12)
先の大戦で日本はアジアの各地で大殺戮を行った、それはちょうどヨーロッパでナチス(国家社会主義労働者)党が支配していた時期のドイツが犯した犯罪と同じようなものだった――こう思い込んでいる日本人はまだたくさんいます。これはとんでもない間違いです。
ナチス党の党首ヒトラーは行政命令を出し、ドイツ国内の病人七〜八万人、障害者一〜二万人など約十万人を「劣等者」であるとして殺害しました。日本はそんなことはしていません。ナチスはユダヤ人を絶滅させるために、アウシュビッツなどの強制収容所に送り込んで、五百万人のユダヤ人を殺害しました。日本はどこかの民族を絶滅させようなどと考えたことは一度もありません。
戦争が終わってから、ナチスの犯罪を裁く裁判がニュンベルクで開かれました。戦時国際法では、民間人を殺傷してはならないなど、戦争のルールを決めています。これに違反するのが通常の戦争犯罪です。戦争犯罪は、どこの国も犯します。しかし、ナチスのホロコースト(民族集団殺戮)は、通常の戦争犯罪ではありませんでした。戦争とは別に組織的・計画的になされた大量殺人でした。そこで連合国は、このナチスの犯罪を裁くために「平和に対する罪」「人道に対する罪」という今までの国際法になかった新しい罪をつくったのです。
ところが、アメリカはこのナチスに対するのと同じ罪を日本にかぶせようとしました。東西に日独という同じような犯罪国家が出現したのが第二次世界大戦の原因だとすると話のつじつまが合うと思ったのです。
しかし、裁判が始まっても、ナチスのホロコーストに相当するような規模の大量殺戮を日本は犯していませんから、日本糾弾の迫力がありません。そこで持ち出されたのが「南京大虐殺」事件でした。それも数千や数万の規模では戦場ではどこでも起こりがちですから、宣伝材料になりません。ナチスに匹敵する犯罪であるとするためにはどうしても数十万規模(それでも一桁少ない)でなければならなかったのです。
しかし、この試みは失敗しました。日本に対しては「人道に対する罪」を有罪の素因とする処罰は結局行えませんでした。東京裁判はすっかり腰砕けになってしまいました。米国マサチューセッツ大学のマイニア教授は次のように述べています。
「ナチスの行動は確かに暴虐であった。それに対しては何らかの懲罰が必要であった。だが、日本はドイツではなかった。東条はヒトラーではなかった。太平洋戦争はヨーロッパ戦争と同じではなかった。こうした重大な相違があったにもかかわらず、ナチスを罰するためにしつらえられた飾りが、そのまま日本の指導者たちに用いられた。・・・・ニュンベルク裁判の範疇や前提は、東京裁判に適用されると、完全に崩壊した」
東京裁判史観を克服し、日本の過去を正しく見つめることが今こそ必要です。
※ 以上の内容は終戦後のGHQ占領政策欺瞞性と「東京裁判」の違法性(どこの国の法律および国際法に照らしても法的根拠なし)を示す「事実」を示したものある。
しかし、この「東京裁判」のあり方の是非を論じたり、インドの国際法学者であるパール判事の判決を称賛することと、大東亜戦争に日本の大義があった、あるいは大東亜戦争は日本に正当性があると断ずることは全く別次元の問題である。
われわれ日本国民は、戦後の1960年代後半から1970年代前半まで続いた、「内政の」文化大革命により、自国民を最低三千万人、最大七千万人を殺戮しておいて、「戦時の」南京大虐殺とやらをでっち上げて(仮にあったと夢想しても数十万人)平然とわが国を非難するような中国共産党の毛沢東によって仕掛けられた、日支戦争に対して謝罪し続ける必要など全くない。また、そのような無道徳・無神論の悪逆非道な中国共産党に、日本国の総理大臣が靖国神社を参拝し、大東亜戦争で家族/恋人/友人など最愛の人々を、そして自分と同じ身の上にある日本国の全ての同胞を護らんとして、最高の勇気と美徳と愛情を示して戦い散っていった、勇敢な戦士達の英霊に追悼を捧げることに対して、抗議される筋合いもないし、そのようなことは許されない。
また、朝鮮国家の運営に最低必要である概ね三千万円(日韓併合当時の概算額)の国家財政を組む能力もなく、税収等の収入による歳入が七百万円しかなく、国家破綻状態であった朝鮮に、日本への併合という形において、国家財政の支援/社会インフラの整備/銀行の設立/通貨の安定/鉄道の敷設/教育制度の確立/貧農の救済支援、等々のすべてのすべてを当時の日本・本土からの持ち出し資金(日本国民の税金含む)や国債発行で賄った。そしてようやく近代化でき、現在の韓国があるというのが事実であり、捏造でも何でもない。現在の韓国があるのは、すべて日本の親切すぎるほどの努力のでその下地を整えてあげたおかげであるのに、こともあろうか、歴史を平然と捏造し偽造し、「日本に謝罪を求める?」ことまでする。日本の歴史教科書に干渉する?。全くの狂気ではないか。日本統治時代に日本が貸し付けた債務残高未払い分約60兆円(現在価値換算)を返還してから、ものを言ってもらいたい。このような、恩義にも道徳にも正義にも欠陥のある国家?「韓国」などに一切の謝罪の必要もない。逆に謝罪してもらいたい。明白であろう。
このように、中国や韓国に対しては、われわれ日本は、自虐的になる必要など何一つない。それらを訴えることは何ら問題ないだろう。逆に今の日本人には、中国や韓国の歴史の捏造・偽造を逆追求し、「逆歴史教科書干渉」をしていく位の心構えがいるであろう。
しかし、である。対英米戦争になると、日本は自虐的にならざるを得ない。それは英米に対してではなく、内政においてである。日本の“法の中の法”である昭和天皇は、最後まで対英米戦争に反対であった。その天皇のご意志つまり“日本の法”を無視して、対英米戦争に踏み切った日本政府・中央官庁高官・大本営・海軍軍令部・陸軍参謀本部は“絶大な違法”を犯した。“法”の明文化である“明治憲法”も踏みにじった。陸軍は共産主義に冒され、海軍は統帥権干犯問題を引き起こし、ワシントン/ロンドン両海軍軍縮条約から脱退し、英米の自由主義国と海軍無条約時代に踏み込んだ。ドイツ・ヒトラーやソ連・スターリンのような“全体主義国家”と手を結び、日独伊ソの全体主義同盟を目指し、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。
日本は国家の体制として全体主義国家の仲間入りをした。スターリン型計画経済を礼賛し、国内では“統制経済体制”をとり、国民の自由を簒奪した。
すべて“自由の淵源である法の無視”から始まった政府・軍部の暴走の帰結である。また、山本五十六連合艦隊司令長官らのパール・ハーバー奇襲の無計画で杜撰な開戦から始まり、ミッドウェー海戦大敗北に始まる大本営海軍部の嘘戦果報告の常態化、東条英機の「戦陣訓」の「「生きて虜囚の辱を受けず」をもって多くの兵士・日本国民を玉砕に追い込んだ。そして非人道的攻撃である「特攻」攻撃を国民に強いた。「航空特攻」「桜花」「回天」「震洋」などの無意味な「特攻」攻撃で日本の将来を担うべき多くの若者が戦場に散った。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、硫黄島の戦いで惨敗してなお白旗をあげず、「本土決戦で一憶玉砕を!」と叫ぶ軍部将官もいた。そして、沖縄で敗れ、広島・長崎の原爆投下で敗戦した。日本政府が、英米との和平仲介の望みとしたソ連・スターリンが対日参戦し、多くの日本人がシベリアに抑留され強制労働されられたうえ、凍死・餓死した。
このように、政府・軍部が日本国・天皇・日本国民に対して行った、“国家叛逆行為”に日本国民が日本国に対して自虐的にならないわけがなかろう。
日本国民の“自虐観”は、「東京裁判」やGHQの占領下における「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」影響よりも、日本政府が、無法と無道徳・非人道の対英米戦争を国民に強制し、国民が恐怖と絶望と大敗戦の痛烈なショックを受けたことによる“国民総うつ状態”の影響の方がはるかに大きい。今に続く、国民の“自虐観”とは戦争の“敵”に対してではなく、“無残な戦争をし、大敗北して多くの大切なものを失ったということ、それ自体”に対して“自虐的”なのである。このような、国民に対して「無法・無道徳・非人道で無益な戦争」だけは二度と起こしてはならない、という教訓において日本人は常に“自虐的”“自己反省的”であらねばならない。さもなくば同じことを繰り返すであろう。
だから、「東京裁判」のあり方の非➡「大東亜戦争の正当化」とは決してならない。
なお、フランス革命思想を徹底批判し、その思想流入を断固拒絶した、バーク保守主義において、「ルソー教」の直系である「マルクス・レーニン主義」の共産主義日本を標榜した昭和日本の「大東亜戦争」を正当化することは決してあり得ない。(正当化すれば、極左である。)
バーク保守主義としてすべきことは、帝国政府(筆頭・近衛文麿内閣及び帝国陸海軍が、ソ連(スターリン)と通牒してアジア全域を共産化する目的で行われた「大東亜戦争」の事実を国民の下に明らかにすることと、「特攻」「玉砕」で散華した祖国を守らんとする高貴なる精神を示した勇敢なる若き戦士達の霊前に追悼を捧げることである。
(2)社会主義を標榜した昭和日本
昭和前期(1925〜45年)とは、内政・外交の主要国策が社会主義・共産主義に呪縛された時代であった。つまり、「社会主義思想の全盛期」であったのだが、戦後になって、共産党(=コミンテルン日本支部)が治安維持法(1925年)をとてつもなく恐ろしい法律であったかのように、針小棒大に中傷と歪曲に精を出した効果もあって、「社会主義思想は弾圧されて逼塞させられた」との転倒した嘘の方が定説となった。
治安維持法は、コミンテルン(ソ連共産党国際部)の命令に従った、天皇制廃止などの革命運動をする“団体”(コミンテルン日本支部=日本共産党)を取り締まったが、社会主義思想・共産主義思想の“思想”は全面的に放置した。治安維持法は、(思想規制ではなく)団体規制/運動規制に絞る、立法上の一大欠陥を犯していた。いわゆるザル法であったのが事実である。
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治安維持法 第一條 國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス 第二條 前條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ニ關シ協議ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 第三條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 第四條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身體又ハ財產ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 第五條 第一條第一項及前三條ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財產上ノ利益ヲ供與シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ爲シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス情ヲ知リテ供與ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ爲シタル者亦同シ 第六條 前五條ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減輕又ハ免除ス 第七條 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行區域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス 附則 大正十二年勅令第四百三號ハ之ヲ廃止ス |
治安維持法とは、第一条で定める、「結社」の「活動」の規制法であり、規制される「活動」とは、「国体」の変更(天皇制廃止)と私有財産制廃止の二点のみであった。
「国体」とは明治憲法第一条〜第四条が規定する天皇制度を護持することであり、天皇制度はわが国の国民が享受する“高貴なる自由”の淵源でありわれわれ日本国民をして祖先の智恵と感情とに連続させる偉大な制度であることにおいて国民の“自由を守る法の中の法”であるから、それを転覆して反自由の野蛮と無法を求める、暴力や洗脳活動の狂気などは、自由社会である正しき文明国家において、断固として断罪されて当然である。
また、私有財産の擁護は自由社会の根本であり、現憲法第二十九条においても「財産権はこれを侵してはならない」と定められている。
治安維持法の主旨は、国民の自由と権利を擁護するに欠くことはできない普遍的な真理を定めたにすぎないから、治安維持法を否定非難する理屈は、“大量殺人鬼”スターリンと同種の、反人間のドグマに立つ狂った人格でないと、思いつかない。
米国では、今も日本の治安維持法より厳しい「共産主義者取締法」が存在し十全に執行されている。英国でもドイツでも共産党は非合法である。
私有財産否定の思想に対し、米国民はすぐ怒り激昂し、排撃するように、米国は反・『人間不平等起源論』が建国の血肉的な精神となった国家である。「ルソー」という黴菌が完全消毒されているため、マルクスやレーニンの思想は自ら洗浄してほぼ完全に排撃してしまった。
一方、1920〜1930年代の日本は、米国とは百八十度逆の方向――スターリン型共産国家――に国づくりを目指した。大東亜戦争とは、日本国民を共産主義思想に洗脳する上(政府・軍部)からの革命であったが、それが八年間も続いたのである。
(A)『資本論』を読まなかった帝国大学生はいなかった
戦前日本では、政府も軍部も学会も、殺意がほとばしる人間憎悪に生きたマルクスを、経済を破壊するその反経済学を、転倒して経済的な利益を大いに日本にもたらす“世紀の賢者”だと見做していた。実際にも、マルクスの本はどれでもバカ売れするので、複数の出版社が競争するかのようにこぞって出版した。
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出版年 |
著者 |
著作名 |
出版社名 |
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1919年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』 |
緑葉社 |
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1919年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』 |
経済社出版部 |
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1923年 |
マルクス |
『経済学批判』 |
大鐙閣 |
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1923年 |
マルクス |
『賃労働と資本』 |
弘文堂 |
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1924年 |
マルクス |
『ゴータ綱領批判』 |
内外出版 |
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1920〜24年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』、第一〜九冊 |
大鐙閣 |
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1925年 |
1/20‐日ソ基本条約(日本は共産ソ連を承認) ●日ソ基本条約および議定書の内容 ・外交・領事関係の確立 ・内政の相互不干渉 ・日露講和条約(ポーツマス条約)の有効性再確認 ・漁業資源に関する条約の維持確認および改訂 ・ソ連側天然資源の日本への利権供与 議定書 ・日本軍の北樺太撤退期限(尼港事件による) ・日本側の北樺太石油利権に関する規定 4/22‐治安維持法公布 5/5‐ 普通選挙法公布(25歳以上の男子に選挙権) 7/18‐ アドルフ・ヒトラー『我が闘争第1巻』公表 12/18‐ ソ連で第14回共産党大会開催(スターリンの一国社会主議論が採択、トロツキーの永続革命論は排除) |
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1925年 |
マルクス |
『フォイエルバッハ論』 |
同人社 |
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1925年 |
マルクス |
『猶太(=ユダヤ)人問題を論ず』 |
同人社 |
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1925〜26年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』、上/下 |
新潮社 |
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1926年 |
マルクス |
『哲学の貧困』 |
弘文堂 |
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1926年 |
マルクス |
『経済学批判』 |
叢文閣 |
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1927年 |
マルクス |
『賃労働と資本』 |
岩波書店 |
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1927年 |
マルクス |
『哲学の貧困』 |
新潮社 |
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1927年 |
マルクス |
『ロシア農村共同体の研究』 |
同人社 |
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1927〜30年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』 |
岩波書店 |
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1927〜28年 |
マルクス/エンゲルス |
『資本論』 |
改造社 |
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1928年 |
マルクス |
『ケルン共産党事件の闡明』 |
希望閣 |
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1929年 |
マルクス |
『フォイエルバッハ論』 |
岩波書店 |
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1930年 |
マルクス |
『哲学の貧困』 |
岩波書店 |
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1930年 |
マルクス |
『ドイツイデオロギー』 |
永田書店 岩波書店 希望閣 我等社 |
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1932年 |
マルクス |
『ブリューメール十八日』 |
共生閣 |
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1935年 |
マルクス |
『賃金・価格および利潤』 |
岩波書店 |
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1935〜36年 |
マルクス |
『ドイツイデオロギー』 |
ナウカ社 |
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1936年 |
山田勝次郎 |
『マルクス 資本論』 |
岩波書店 |
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1937年 |
マルクス |
『ドイツイデオロギー』 |
白揚社 |
エンゲルスの著作の一例については、以下の通り。
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出版年 |
著者 |
著作名 |
出版社名 |
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1927年 |
エンゲルス |
『家族・私有財産・国家の起源』 |
白揚社 |
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1927年 |
エンゲルス |
『仏蘭西および獨逸に於ける農民問題』 |
同人社 |
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1927年 |
エンゲルス |
『ドイツ農民戦争』 |
同人社 |
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1927年 |
エンゲルス |
『反デューリング論中の〈道徳と法律〉』 |
同人社 |
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1928年 |
エンゲルス |
『マルクス主義経済学大綱』 |
共生閣 |
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1928年 |
エンゲルス |
『住宅問題』 |
同人社 |
なお、マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』の出版は、堺利彦と幸徳秋水との共訳で『平民新聞』(1904年11月13日付け)が掲載したのが最初であったが、直ちに発禁となった。だが、堺利彦はそのあとすぐ、全訳を『社会主義研究』創刊号(1906年3月)に掲載した。なぜかこれはなんらの処分もなかった。
治安維持法の規制対象の筆頭であるべき『共産党宣言』は、治安維持法があるのに堂々と地下出版が相次いだ。1932年には、河西書店が公然と出版した。
1932年の五・一五事件という、海軍の赤い若手将校を中心とする軍部クーデターの檄文は、『共産党宣言』とレーニンの1917年ロシア革命を踏襲する旨の宣言であった。
この事実は、陸軍や海軍の士官学校では、「共産党は至高の善である」との左翼革命思想が蔓延していたことを示している。
さらに、犬養毅・総理大臣という、一国の首相に対する暗殺と大規模武力騒擾事件の主犯、三上卓と古賀清志に死刑判決を下せず、懲役十五年となった。当時の朝日新聞らのマスメディアが煽った、五・一五事件支持の過激な熱狂に、軍法会議を所管する海軍・陸軍が迎合したのである。
1932年には、軍部もしくは霞が関官僚による「上からの共産革命」の方向を日本は選択していた。五・一五事件と二・二六事件はこの方向の暴発であったが、1937年のコミュニスト近衛文麿内閣の誕生こそは、「コミンテルン三十二年テーゼ」を忠実に実行する共産党以上に共産党的な革命内閣であった。
なお、レーニン、スターリンあるいはブハーリンはマルクス(学者・思想家)と違って暴力革命家である以上、これらの著作は必ずや日本の官憲が徹底的に取り締まったはず、と戦後の日本人は大いなる誤解をしている。実体はその逆で、マルクス同様、それらの著作の出版は全く放置されていた。この三名に関する厖大な量の翻訳出版の一部を以下に列挙する。
【レーニン著作の邦訳出版】
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出版年 |
著者 |
著作名 |
出版社名 |
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1927年 |
レーニン |
『貧農に與ふ』 |
マルクス書房 |
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1927年 |
レーニン |
『三月革命より十一月革命まで』 |
マルクス書房 |
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1927年 |
レーニン |
『組織問題』 |
マルクス書房 |
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1927年 |
レーニン |
『一九○五年以後』 |
政治批判社 |
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1927年 |
レーニン |
『マルクス主義の源泉と構成』 |
南宋書院 |
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1927年 |
レーニン |
『社会民主主義と選挙協定』 |
南宋書院 |
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1927年 |
レーニン |
『哲学的唯物主義』 |
南宋書院 |
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1927年 |
レーニン |
『弁証法の具体的運用』 |
南宋書院 |
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1927年 |
レーニン |
『一九○五年の革命についての演説』 |
南宋書院 |
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1927年 |
レーニン |
『労働者と農民』 |
共生閣 |
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1927年 |
レーニン |
『遠方からの手紙』 |
叢文閣 |
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1927〜28年 |
レーニン |
『レーニン叢書』第1〜24篇(巻)』 第1篇『〈人民の友〉とは何ぞや』 第10篇『帝国主義戦争』 第12編『民族問題』 第13篇『帝国主義論』 第22編『協同組合論』 |
白揚社 |
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1929年 |
レーニン |
『第一革命とその前夜』 |
白揚社 |
スターリンとブハーリン著作の邦訳版の一部は以下の通り。『レーニン主義の諸問題』は、丸山真男の生涯変わらぬ座右の書だった。丸山は、自分が熱烈なスターリン崇拝主義のコミュニストであるのを隠したことはなかった。日本人のスターリン崇拝が退潮したのは1968年の「ソ連軍チェコ侵攻」からであった。1927年から1968年までの31年間、日本ではスターリンが信奉されていた。共産党を始め、さもスターリン崇拝でなかったとか、日本共産党はソ連共産党とは違うとかの言辞をするが、虚言であり歴史の捏造である。日本共産党の党中央委員長だった、ペンネーム不破哲三の「哲」は、「鉄」とも言われたスターリン、「不破」はブハーリンを指しているように、日本は濃淡には種々の意見はあろうが、紛れもない“スターリン崇拝国”であった。
【スターリン・ブハーリン著作の邦訳出版】
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出版年 |
著者 |
著作名 |
出版社名 |
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1926年 |
ブハーリン |
『唯物史観』 |
白揚社 |
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1927年 |
ブハーリン |
『労農ロシアの社会主義的建設』 |
弘文堂 |
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1927年 |
ブハーリン |
『解放戦線における農民の地位』 |
極東社 |
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1927年 |
ブハーリン |
『新反対派について』 |
南宋書院 |
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1927年 |
スターリン |
『レーニン主義の基礎』 |
プレブス出版社 |
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1927年 |
スターリン |
『レーニンの基礎』 |
白揚社 |
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1927年 |
スターリン |
『レーニン主義の諸問題』 |
希望閣 |
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1928年 |
スターリン/ブハーリン |
『世界資本主義の安定より危機へ』 |
マルクス書房 |
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1928〜30年 |
スターリン ブハーリン |
『スターリン・ブハーリン著作集』第一〜十五巻 この中に スターリン著 『支那革命論』『ロシアにおける階級闘争と革命』『世界資本主義の現段階』『十月革命への道』 ブハーリン著 『ブルジョア経済学批判』 『唯物史観』 などが収録されている。 |
白揚社 |
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1930年 |
スターリン |
『レーニン主義の基礎』 |
共生閣 |
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1930年 |
ブハーリン |
『唯物史観 史的唯物論の理論その他』 |
白揚社 |
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1933年 |
スターリン |
『レーニン主義の基礎』 |
改造社 |
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1933年 |
スターリン |
『レーニン主義の諸問題』 |
白揚社 |
上記のレーニン/スターリン/ブハーリンの著作に対して、1925年の治安維持法が施行されたあとも、政府は取り締まりを全くしなかった。官憲(内務省と司法省のエリート官僚たち)も、天皇制廃止を除けば、「ソ連=人民の理想の国」だと信仰していたからである。
1927年、与謝野晶子は、学生が猫も杓子もマルクスとレーニンばかり読んで、それ以外の思考ができなくなった状況を新聞『横浜貿易新報』で次のように嘆いている。
晶子曰く、
「マルキシズムよりレェニズムへと云ふのが、優秀な大学生間の近頃の研究題目であり・・・・それを人生の唯一の準拠として万事を批判し照準する傾向が著しい。この考え方は余りに冷たくかつ非人間的である・・・・人間が物質に負けて隷属した形である」
「唯物思想に偏することも一つの迷信である。・・・・目前流行の階級意識や唯物主義や過激な破壊思想を超越して大きく豊かに考へ得る人間であらねばならない。・・・・欧米の国民が日本の青年ほどにロシアから来た一つの思想に熱狂しないのを羨ましく思ってゐる」
1960年の安保騒動で湯川秀樹とともに全国の学生を日本共産党の指揮の下の暴動に扇動した、清水幾太郎は言う、
「昭和初年の1926〜27年ですら、神田の本屋街で、平積みの新刊本はみな、マルクスとレーニンばかり。そんな環境で読書好きな優秀な学生が、どうやって共産主義者にならないことが可能ですか」
『ビルマの竪琴』の竹山道雄もその著『昭和の精神史』で曰く、
「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めは〈赤にあらずんば人にあらず〉という風だった」
小説家の杉森久英も曰く、
「私の学生時代は、昭和初年だが、思想界はマルクス主義一色に塗りつぶされていた」
このように、昭和の御代は、不吉にも、「悪の思想家」マルクスと「悪の革命家」レーニン/スターリンの著作の大洪水で始まった。“日本の共産化”が国是であると、学界と新聞・雑誌界と軍部と官界が合意していた時代、それが昭和前期であり、これが歴史の事実である。
(B)バカ売れした「スターリン計画経済」礼賛本
●労農派(非共産党系共産主義者)を対象とした「人民戦線事件」
(非共産党系の)労農派の経済学者たちが、治安維持法で一斉に逮捕されたのは、「人民戦線事件」と言われるもので、1937年12月15日の一次検挙から1938年2月1日の二次検挙にかけてであった。しかし、この逮捕は十二年ほど遅すぎで、無力だった。日本の学界・官界をマルクス経済学に汚染した中心勢力は、共産党系ではなく、非共産党系のこれら労農派であったが、その精力的な活動は1925年頃から大規模かつ精力的に展開され、十年を経た1934年頃には当初の目的を完了していた。後の祭りだった。
治安維持法は、共産党の活動を取り締まるべく制定されたもので、「結社」でない労農派を逮捕しても「無罪」になるのは必定であった。少数の例外を除いて、「人民戦線事件」は大量無罪という、官憲側の大敗北となった。
日本全体をマルクス経済学に爆発的に汚染した『全集』は二つある。いずれも労農派が執筆の主体で、共産党は脇役か無役だった。二冊とは『経済学全集』(改造社、1928〜33年)及び『日本統制経済全集』(改造社、1933〜34年)である。「人民戦線事件」逮捕劇はこれらの出版から四年も経っていた。
治安維持法が労農派に無力であったのは、この法律が労農派を想定していなかったからである。法案起草者(内務省)が、共産党の十倍以上の、マルクス主義の教育宣伝力を持つ「非共産党(労農派)」が、革命勢力の主力になることを予見できなかったからである。1925年当時、「共産主義者=共産党(員)」というステレオタイプしかなかった。
なお、限りなく無力だからと言って、治安維持法の価値を低く見做してはならない。社会主義と計画経済礼賛の熱狂のもと、国家総動員法その他、国民の自由が圧搾されていく1930年代の日本にあって、治安維持法こそは“自由の精神を守る灯”であった。戦前日本の“自由は”、明治憲法の憲法体制と治安維持法が、その最後の砦であった。その存在価値は、測り知れぬほど偉大だった。
だが、戦後になって、共産党が治安維持法(1925年)をとてつもなく恐ろしい悪の法律であったかのように、超針小棒大に中傷と歪曲に精を出したため(特に、日教組系教師が教育現場で生徒にそのような嘘の洗脳をするため)、「社会主義思想は弾圧されて逼塞させられた」との全く転倒した嘘の方が定説となったのである。
以上を踏まえて、今後は“過激革命思想出版”の規制法を至急制定する必要があると考える。このような、出版規制が思想・表現の自由や学問の自由に違反すると短絡的に結論付けてはならない。なぜなら、マルクス主義者は、「言論の自由もおろか生命の自由もなく、国民が共産党独裁権力に好き放題に殺されるソ連体制」に日本を改造すべく、日本と日本国民を誤導しようとするのである。彼らの学問と出版活動は、「国民の大量殺人予備」というべき刑法犯罪に相当する。これを未然に規制するのは自由の擁護であり、憲法の命じるものである。
共産主義者が権力を掌握すれば、国民を大量虐殺するのは、レーニン/スターリンのソ連、毛沢東の中国、金日成の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアで合計約2億人の自国民を殺戮した「歴史の事実」が証明しているからである。
大東亜戦争の悲惨は、労農派のマルクス主義者の活躍からも、もたらされた。大東亜戦争は、自国民三百十万人以上の「国家・国民に対する大虐殺の最凶犯罪」であるが、それをこの“過激革命思想出版規制法”一つで未然に防止できたとすれば、この規制法こそは“真正の自由の法”であろう。
●大嘘で「ソ連計画経済」を煽ったマルクス経済学者
1929年の世界恐慌に直面して、日本では「資本主義の終焉」が経済学者のコンセンサスとなった。九十九パーセントの学者が、「統制経済か計画経済への移行がなければ日本は破綻する」と念仏のように国家・国民の不安を煽った。「統制経済」「計画経済」のタイトル本は、世界恐慌から日本を救う“聖書”だと信仰され次々に大量に出版された。市場経済を是とする経済学のテキストは一冊もなかった。
ソ連型計画経済に誘惑・洗脳するマルクス経済学のテキストが、1932年〜34年に厖大に出版された事実を直視すれば、1930年代の日本の対外政策や内政がスターリン型計画経済の持つ麻薬的な魅惑に引きずられていった歴史の推移が見えてくる。1937年からの大東亜戦争が、この背景において決断されたことも見えてくる。
マルクス経済学のテキストの例をあげる。
イ)
猪俣津南雄の著『統制経済批判』
「統制経済批判」とは自由経済擁護論ではなく、「計画経済か、統制経済か」の選択における、計画経済の方を支持し、統制経済を批判するという意味である。猪俣は、私有財産を廃止し、日本が完全なソ連型の共産国になることを信条とする過激なスターリン主義者であり、その著はソ連の五カ年計画経済についてありもしない嘘成果を大宣伝した。例えば、たった四年三ヶ月(1928年10月〜1932年末)の第一次五カ年計画によって、
「ロシアは、農業国と言う旧態を脱して巨大な工業国に発展転化した」
「全発電能力は1928年の187万kwから、五年後の1932年には456万kwに増大した」
「播種面積は1928年に比し1932年には2,100万ha増加した」
「12万台の新しいトラクターが供給された」
「鉄道貨物輸送は41%増加した・・・・鉄道旅客輸送は243%増の約三倍反にも達した」
「航空輸送旅客数も三倍になった」
等々、猪俣の「ソ連計画経済」礼賛は嘘宣伝の枠を超えない、噴飯物の陳列館であった。特に輸出された農作物は、農民を大量餓死させるべく種もみまで強制徴発するなど、人類史に残る悪魔の所業であったが、猪俣はこの事実を架空の物語にすり替えている。
「資本主義国では1930年から31年にかけて、旧速度の生産低下が起こり、失業者の数はむやみに増大していった。しかるにソ連では、同じ時期において旧速度の増大を続け、それとともに失業者は一人もいなくなった・・・・。1931年には作付面積は950万haも増加し、綿花の栽培は二倍になり、・・・・」
「飢餓に苦しみ崩壊し混乱しつつあるはずのロシアが、大量の小麦やその他の商品を輸出し始めた。・・・・赤色コロンブスは卵をまっすぐ立てたのだ」
スターリンはレーニン同様、農民への憎悪は尋常ではなく、富農であろうと貧農であろうと餓死させる方針を敢行した。実際に兵士に銃口を突き付けさせ、農作物の私有と家族単位・村単位の伝統的な農業とを完全破壊して、「私有なき、農業の工場化」のコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)への改造を強行した。このため農民の多くは、餓死するにいたった。猪俣が礼讃する1932~33年にかけて、ウクライナだけでスターリンの無差別餓死刑で殺されたものは、コンクエストによれば、500万人とされる。これには、「富農=反革命農民」に対する処刑やシベリア送りは含まれておらず、最小推定値である。猪俣とはスターリンの大嘘をさらに拡声器で日本人に読ませた“嘘増幅屋”であった。
なお、餓死処刑とは、コルホーズの農作物すべてを“国有”と定め、家の中の食糧をすべて強制的にとりたて、かくして、ひもじさと飢餓の余り、自分が耕作した畑の小麦一本でもジャガイモ一個でも食べると、その場で銃殺した。このため、農民は餓死を選択するしかなかった。この“農民大虐殺”の方法を初めて考案したのがレーニンである。
また、コンクエストは、次の指摘もしている。「計画経済であればインフレが起こらない」などとは、現在の北朝鮮を見ればすぐわかる神話だが、ソ連でも「1933年の労働者の実質賃金は、1926~27年のそれに較べると約十分の一に減っていた」ようにインフレは市場経済よりもひどい水準で発生していた。
ロ)
向坂逸郎の著『統制経済論総観』
『統制経済論総観』も残忍で反人間的なスターリンの計画経済を讃美し嘘宣伝する。
「ロシアにおける五カ年計画は、全世界の恐慌の嵐の中に、成功をもって終わった」
「計画経済は社会主義の社会の存在形態である。・・・・土地、工場は言うに及ばず、すべての銀行、交通機関、外国貿易、そのほか商業等が社会化されていることである」
ハ)
ボハノフスキーほか共著『ソヴェート同盟(連邦)計画経済』
コミンテルンの対外情報工作員が書いた、嘘の洪水である悪書、計画経済バラ色論の『ソヴェート同盟(連邦)計画経済』は1932年に早々と邦訳出版され、かなり読まれた。そこでは次のようなべらぼうな虚偽が書かれている。
「ブルジョア的生産諸関係、生産手段の私有は生産力の発展を拘束し、これを破壊しさえする。しかるにソ連で支配的かつ優越的な社会主義的生産諸関係は生産力の向上を可能とし、その未曾有の急速な発展・・・・を積極的に促進する」
「両三年中(1936年頃か?)には米国と世界第一位を争う闘争を開始するだろう」
日本の学界と雑誌・出版界は、1930年代、ソ連計画経済について、超架空の嘘を徹底的に日本人に刷り込んだのである。
(3)共産主義者“近衛文麿”内閣と「コミンテルン32年テーゼ」
(A)日本共産党の1933年壊滅と1937年の近衛文麿内閣(=共産主義政権)誕生
(B)近衛文麿の大東亜戦争は「コミンテルン32年テーゼ」の実行であった
(C)「コミンテルン32年テーゼ」に従い、天皇制廃止を図った近衛文麿
(D)日本を「統制経済体制」に改造した近衛文麿の「国家総動員法」
英米との友好と同盟の絶対は、昭和天皇のご遺訓である。
“四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ”
対英米開戦に対する、絶対反対のご意志の表現として、明治天皇の、この御製を、パール・ハーバー奇襲の三ヶ月前、1941年9月6日の御前会議において、昭和天皇は拝誦された。
昭和天皇とは、歴史にかつてない、日本国の偉大な大帝であられた。世界の動向を完璧に透視されたのみならず、日本の“国家の悠久”に益するか害するかの、外交の選択肢を鋭利に明察されたことにおいて、近代の世界史においても、英国のチャーチル首相やドイツの大宰相ビスマルクに優れても劣られることはない。
そのような昭和天皇の“御聖慮”に牙をむき公然と弓を引いたのが、(前日の五日に陛下から直接「反対である」旨を申し渡されていた)総理の近衛文麿であり、陸軍参謀総長の杉山元(陸軍大将)であり、海軍軍令部総長の永野修身(海軍大将)であった。近衛は、明治天皇御製を拝誦された昭和天皇を嘲笑うかのごとくに無視し、「対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意のもと・・・・戦争準備を完整す」を御前会議の決定とした。
以下は、この日本史上最悪の日本人・近衛文麿と「コミンテルン32年テーゼ」の関係について上記(A)から(D)の内容を軸に、年表形式でまとめていく。
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グレゴリオ暦表示 |
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年 |
出来事名およびその事実説明 |
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(A)日本共産党の1933年壊滅と1937年の近衛文麿内閣(=共産主義政権)誕生 ◎日本の共産主義・社会主義政権への革命は、1926年に再建されたコミンテルン日本支部(=日本共産党)と陸軍(赤い将校)の二方向から始まった。 |
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1925年 |
1/20‐日ソ基本条約締結(=日本はソ連を承認) ➡締結に至る経緯 1918年夏(=当時、日本のマルクス主義の思想汚染は、まだほぼ皆無)、共産主義の極東への波及による天皇制の破壊や満州、朝鮮半島の利権侵害の阻止を目的に、日本は対米協調してシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目にシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1922年、日本軍は撤兵を声明し、10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。しかし、依然として北樺太には尼港事件をきっかけとして追加出兵した日本軍が居座っていた。1923年より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の北京で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年5月から日本側代表芳沢謙吉とソ連側代表レフ・カラハンの間での正式交渉に入り、1925年1月20日に至って北京で日ソ基本条約が締結された。 ➡日ソ基本条約および議定書の内容 ・外交・領事関係の確立 ・内政の相互不干渉 ◎日露講和条約(ポーツマス講和条約)の有効性再確認 ・漁業資源に関する条約の維持確認および改訂 ・ソ連側天然資源の日本への利権供与 議定書 ・日本軍の北樺太撤退期限 ・日本側の北樺太石油利権に関する規定 1月‐ヴォイチンスキーがコミンテルン極東セクションの上海会議を召 集。共産党再建が決定された。 4/22‐治安維持法公布 治安維持法は、コミンテルン(ソ連共産党国際部)の命令に従った、天皇制廃止などの革命運動をする“団体”(コミンテルン日本支部=日本共産党)を取り締まったが、社会主義思想・共産主義思想の“思想”は全面的に放置した。治安維持法は、(思想規制ではなく)団体規制/運動規制に絞る、立法上の一大欠陥を犯していた。いわゆるザル法であった。 5/5‐普通選挙法公布(25歳以上の男子に選挙権) |
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1926年 |
12/4‐第二次日本共産党再結党 |
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1928年 |
3/15‐共産党「3・15大量検挙」 1928年(昭和3年)2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。 |
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1929年 |
4/16‐共産党「4・16大量検挙」 1929年4月16日に行われた日本共産党(第二次共産党)に対する検挙事件のことを指す。 三・一五事件以後、日本共産党は未検挙の党員が党の再建を目指し、国外に党員を派遣し、また国内では早速活動を再開した。しかし、3月28日に党組織部員が検挙され、その党員が党員名簿を持っていたことから、4月16日に共産党員の全国的な検挙が行われた。その後も検挙は続けられ、1929年で4942人が治安維持法で逮捕された。この検挙により共産党は壊滅的な打撃を受けた。また、1932年11月の熱海事件で党幹部が一網打尽にされる。 |
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◎治安維持法のおかげで、1933年から1945年10月の徳田球一や宮本顕治の「解放」まで共産党の活動は沈静化した。しかし、1930年以降の日本の社会主義革命・共産革命の主体は、もう一方の陸軍(赤い将校)であった。 |
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1930年 |
9月‐「桜会」が結成される 参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが結成し、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名が参加した。 ➡主な主張は、@政党政治が腐敗しているA満蒙問題を主張し農民の窮状解決の活路を求めるB「反ソ・親米路線」を廃し「親ソ・反米・反中」への転換C政党内閣を廃して軍事政権を樹立する |
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1931年 |
3/17‐三月事件(未遂) 桜会の橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆(クーデター)を画策した。これに小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼(=実体は反資本主義の左翼)の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画。また、活動資金として徳川義親が20万円を出資(戦後返還)した。宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の3月17日に撤回された。 ➡本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者に対して何らの処分も行わず、緘口令を布いて事件を隠匿した。 9/18‐柳条湖事件が発生、「満州事変」が勃発 外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。 10/17‐十月事件(未遂) しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。 十月事件の計画概要は、軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁と定め、関東軍が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。 具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。 しかし、計画に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済についてどのようにするかについては無計画であった。17日早朝に中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。十月事件首謀者に対する責任の追及は、さまざまな裏工作のにより結果的には曖昧なままにされることとなった。しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上の解体を余儀なくされた。 |
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◎これら、三月事件(未遂)と十月事件(未遂)の発生は、「軍事クーデター(=暴力革命)によって社会主義政権を樹立することは正義である」という宗教的世界観(=マルクス・レーニン主義)が1931年当時、すでに陸軍全体の脳細胞を侵食していたことを明瞭に示す事実である。 1932年の「五・一五事件」は大川周明の指導であるが、大川にとって「三月事件➡十月事件➡五・一五事件」は、社会主義軍事政権づくりの連続的な試みであった。 また、北一輝の「十月事件➡二・二六事件」も日本の社会主義化を実現する革命の試みであった。 さらに、「二・二六事件」の決起趣意書には、「五・一五事件」の遺志を継ぐ後継クーデターであると明記してあるから、1930年の「桜会」という軍隊内の「狂った社会主義のカルト集団」は、1936年の「二・二六事件」の暴発まで一直線に繋がっていたのである。なお、治安維持法は、コミンテルンの指揮下にない組織や「軍隊内の共産主義団体」を取り締まれなかった。 ◎陸軍による社会主義政権づくりはもう一つある。1931年9月18日の柳条湖事件(=三月事件と十月事件の中間に発生している)を発端とする満州事変から生まれた「満州国」の建国である。「満州国」建国宣言の日1932年3月1日は、本国日本では、自由主義を捨て社会主義に移行する、革命を決意した日となった。満州国は、「満州人の溥儀を戴く満州人の国家」という仮面をかぶっていたが、仮面の下の実体は“関東軍(陸軍)が全権を掌握した、社会主義実験国家”であった。関東軍を「経済参謀本部」とするソ連型計画経済(私有財産制は承認)を実験する国家であった。実際に溥儀が皇帝となり「満州国」が「満州帝国」になったのは、「満州国」建国から2年後の1934年3月であった。 「満州国」が「社会主義実験国家」であったことは、関東軍がその経済政策の立案を南満州鉄道株式会社(満鉄)に要請した事実から明白であり、議論の余地は全くない。満鉄での経済政策立案の中核は、満鉄調査部−経済調査会であった。満鉄調査部のメンバーは、東京帝国大学新人会(=社会主義者・共産主義者輩出のメッカ)出身者や企画院(スターリン型計画経済政策の推進本部)からの出向組である革新官僚、大川周明や笠木良明などのちに右翼(=当時は左翼)団体行地社結成に向かう者、等から構成されていたからである。 |
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1932年 |
3/1‐「満州国」建国宣言の日 5/15‐五・一五事件
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◎社会主義革命は“聖なる大義“であり、どんな手段でも許されるとの「レーニンの革命論」が1932年当時の日本国民の多くに、「狂った常識」となって浸透していたことがわかる。 |
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◎「満州事変」についての考察
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1933年 |
6/10‐共同被告同志に告ぐる書「佐野・鍋山転向声明」 共産党の獄中指導部の佐野学・鍋山貞親の共同声明に始まる組織的転向を通じ多くの党員が組織から離脱、党としては「壊滅状態」になった。 ➡「コミンテルン32年テーゼ」の実行者不在となる。 ◎しかし、戦前日本の社会主義革命・共産主義革命の中核主体は「陸軍」であった。陸軍の共産革命運動の最初は、陸軍参謀本部内部での「桜会」の結成だとすれば、1930年9月である。 |
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1936年 |
2/26‐二・二六事件
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1937年 |
6/4‐第1次近衛内閣(=日本の歴史上最大の不幸の発生) ➡近衛文麿という純度100%の共産主義者が総理大臣の職に就いた。近衛は、東京帝国大学で哲学を学んだが飽き足らず、共産党員でマルクス経済学で狂信的な革命家であった河上肇(=コミンテルン32年テーゼの翻訳者)に学ぶため、京都帝国大学法学部に転学したほどの共産主義信仰者であった。 このため、組閣直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。 |
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◎近衛内閣の誕生とは、「コミンテルン日本支部」の政権掌握を意味した。1937年7月から1945年8月15日までの大東亜戦争の八年間、日本の外交・内政は“昭和天皇退位という形での天皇制廃止”までが暗黙に合意されるなど、スターリンの命令のままに動いていたのである。これが歴史の事実である。 近衛文麿こそは、「コミンテルン27/32年テーゼ」を奉戴する共産党の忠実な後継者であった。 |
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1937年 |
7/7‐盧溝橋事件 7月7日に北京西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。 ➡22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、竜王廟方面から何者かにより複数発の銃撃がおこなわれた。 盧溝橋の軍事演習場で、日本の小部隊に対して実弾を撃ったのが、国民党軍なのか毛沢東軍なのかは、今も確定していない。しかし、日本側の被害はゼロだから、戦争をする理由は全くなかった。支那政府に犯人の逮捕と処罰を求めるにとどめ、慎重に情報収集するべきであった。 7/11‐しかし、この事件の1937年7月7日からわずか四日後の7月11日、近衛文麿は支那に対して戦争を開始する旨を、国民に高らかに宣言した。「北支派兵に関する政府声明」である。 本来事件は、現地での停戦交渉の成立をもって終息に向かうはずのものであったが、現地情勢を無視した政府の派兵決定は、中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となった。 |
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◎盧溝橋事件は、状況証拠的には毛沢東軍(共産党)の発砲だから、これが事実だとすれば、近衛文麿(共産主義者)が毛沢東と謀議して、さして重要でないこの事件に便乗して日中の大戦争を決行したことになる。この7月7日以降の、毛沢東軍の動きは、あらかじめ想定されていたかのように、迅速かつ正確にすぎる。実際にも、大量の共産主義者を蒋介石に釈放させたばかりか、(非合法な共産ゲリラ部隊から)蒋介石政府の正式な「第八路軍」となった(8月22日)。 ともあれ、近衛が、コミンテルンが日本共産党に命じていた「32年テーゼ(共産主義者への命令)」に従って行動を起こしたことは次のように明白である。なお、「コミンテルン32年テーゼ」は、近衛の恩師の河上肇の訳が日本語訳したものであった。 ●コミンテルン32年テーゼ 「日本の共産主義者の行動スローガンは、〈(共産党支配の)中国の完全な独立のための闘争〉でなくてはならない」 「日本の共産主義者は敗戦主義者(=日本を敗戦に導くこと)であることにとどまらないで、さらにソ連邦の勝利(=対日戦争でのソ連の日本占領)と中国人民の解放(=支那全土の共産党支配)とのために積極的に戦わなければならない」 つまり、近衛文麿が国民党軍に対してなぜ戦争を開始したかは、弱小の軍隊にすぎない毛沢東の共産党軍に代理として中国共産党が単独でも対国民党戦争に勝利し、全支那征服ができるまで、蒋介石の国民党軍を潰してあげることであった。だから、当然に蒋介石との講和はありえず、「国民政府(蒋介石)を相手とせず」の声明を出すのである。汪兆銘という傀儡政権までつくり、支那全土を毛沢東の手に渡すまで、日中戦争を継続するのが近衛の堅い信条であった。
➡近衛文麿は、日本を敗北させるために、大東亜戦争(日中戦争含む)に踏み切ったのである。これを東条英機が引き継ぎ、対英米戦を開始するのである。東条が対米戦争中に「特攻」や「玉砕」という非人間的な方法で日本の多くの若き青年を犠牲にできたのは、すべてマルクス・レーニン主義を意識的にしろ、無意識的にしろ継承していたからである。なぜなら、「無神論」「唯物論」を基底におくマルクス・レーニン主義は“人間”を「物」とみなすからである。 これは、マルクス・レーニン主義の理論を全く知らない人間でも、ソ連のレーニンが6年余りで1,000万人近くのソ連人民を殺戮したこと、レーニンと後継者のスターリンを合わせると6,600万人のソ連人民を殺戮したこと、中共の毛沢東が「大躍進−文化大革命」で中国人民を最低3,000万人−最大7,000万人殺戮したこと、カンボジアのポル=ポト政権が、4年弱でカンボジア全人口の四分の一に当たる200万人を虐殺したこと、エチオピアの共産政権(=メンギスツ陸軍大佐が率いるソ連の傀儡政権)がエチオピア人民を150万人虐殺したなど、多くの歴史事実を見れば、自明であろう。北朝鮮の金日成−金正日政権もまた然りである。 そういう観点でみれば、大東亜戦争は、マルクス・レーニン主義に洗脳された近衛文麿−東条英機政権及び赤い帝国陸海軍大本営による、「対英米戦争(=親ソ戦争)」という大義でカモフラージュした、日本国民約300万人の大量殺戮であったと理解するしかないであろう。 したがって、「大東亜戦争(1937〜1945年)」とは戦後教えてこられたように、「侵略戦争か自存自衛戦争か」という対外的側面に関する議論は日本国民にとって意味はない。なぜなら、南京大虐殺があったという明確証拠は全くないが、あったと仮定しても中共の発表でも(当時の南京の人口が20万人であるのに)最大40〜50万人であり、その中共自身が戦後、自国人民を3,000万人−7,000万人虐殺しているのだから、全く桁が違うではないか。中国人民は「反日」を叫ぶべきでなく、「反中共」を叫ぶべきである。日本による侵略がどうのこうの言う以前の問題であろう。そして南京大虐殺をした不動の証拠は、(虚偽・捏造の証拠等はいくつもあったが、)今日まで皆無であるから、日本は中共に謝罪などする必要は全くない。逆に、桁違いの自国人民を殺戮しておきながら、平然とありもしなかった南京大虐殺を国際社会に宣伝して回り、日本の対外的信用を貶めようとする中共の対日工作のほうを日本に謝罪すべきである。中共の論理は全く転倒しているが、それが共産主義特有の転倒思想である。この意味(対外的)において日本国民は自虐的になる必要は皆無である。 しかし、「大東亜戦争」における、日本の「共産主義政権及び軍部による自国民の大量虐殺」という対内的側面は非常に重要な意味があり、このことにおいて日本人は自虐的であらねばならない。 つまり、社会主義(特に共産主義)政権は今後決して日本において樹立させてはならない、という教訓として胸に刻むべきである。その意味で自虐的にならないのであれば、日本国民は将来同じ愚行を繰り返すことになるであろう。 日本国、日本国の象徴たる天皇・皇室そして全日本国民を守護する目的に限って、戦争を遂行しなければならないこともある、という“美徳ある勇気”と“高貴な義務の精神”の涵養が現在の日本国民にとって危急の課題であろう。 |
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◎近衛文麿の内政も「コミンテルン32年テーゼ」と一致する。近衛は次の三つを@、A、Bの順序で着々と進めていた。 @日本経済の計画経済化 A日本政治のスターリン的な一党独裁化(政党政治の抹殺) B天皇制廃止 |
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(C)「コミンテルン32年テーゼ」に従い、天皇制廃止を図った近衛文麿 |
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Bについては、連合国軍の進駐とともにすぐに、近衛が「天皇の退位=天皇制廃止」を声高に語り、自身の「公爵位の拝辞」までやって、天皇制廃止の動きを創ろうとしたしたことで明らかである。また、近衛は、1941年10月の内閣総辞職以来、1945年2月の近衛上奏文に伴う謁見までの3年3ヶ月、皇居にたった一度のお見舞い伺いすらしなかった。ところが、天皇制廃止の特効薬である“昭和天皇の退位”の工作だけは、熱心に開始していた。 長野県松本市にある、地下深く坑道で構築された「松代大本営」は、実は、昭和天皇を監禁する「監獄」であった。これはまだ、B29の空襲など全く想像もされていないときに構想され着工した。これは、大本営移動計画が、後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省のコミュニスト井田正孝・陸軍少佐が1944年1月に発案していることからもわかる。B29による本土空襲が現実味を帯びてくるのは1944年7月9日のサイパン陥落以降である。昭和天皇はこのことを気づかれていた。
なお、この「近衛上奏文」のほとんどは、近衛文麿ではなく、実は吉田茂が執筆したのである。吉田茂がその後、陸軍憲兵に逮捕され、約1ヶ月間拘留されたのは、この執筆の件であった。 また、ソ連に日本の将校・兵隊を奴隷労働力として差し出すことは、日本側で公然と議論されており、1945年7月に講和仲介をスターリンに依頼すべく訪ソする予定の近衛文麿が準備したその「近衛仲介条件案」にはそれが明記されている。シベリア抑留で凍死・餓死した53万人の第一の責任はソ連にあるが、それを密約した近衛文麿やコミュニスト瀬島龍三らの罪は万死に値する。 |
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(D)日本を「統制経済体制」に改造した近衛文麿の「国家総動員法」 |
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@の、統制経済・計画経済への改造は、1937年7月の日中戦争の開始と同時に、近衛が最も精を出した。日中戦争の第二の目的は、日本の計画経済化であった。「計画経済」に移行する前段階の「統制経済」は日中開戦と同時に直ちに導入された。 以下、統制経済への移行過程を見ていく。 |
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1937年 |
8/9‐上海事変が勃発 8/13‐二個師団追加派遣を閣議決定 8/15‐海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行 「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表 8/17‐不拡大方針を放棄すると閣議決定 9/2‐「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定 (開戦直後で不拡大論が基調として根強く残っていたのに) 9/10‐臨時資金調整法公布 輸出入品等臨時措置法公布 ➡この、まったく不要な法律が日本の計画経済化の始まりである 12/13‐南京攻略 |
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1938年 |
1/11‐御前会議で支那事変処理根本方針が決定 ➡ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針 1/14‐和平交渉の打切りを閣議決定 1/16‐「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。 4/1‐国家総動員法公布(5/5施行) ➡「決して支那事変には適用しませんから」と国会を騙した。 ➡日中戦争ではいらないが、対英米戦争なら必要となる国家総動員法が、1937年秋〜38年の国会審議で制定されたのは、対英米戦争がこの時点で予定されていたことを意味する。近衛文麿は日中戦争を独断専行して開始した時点ですでに対英米戦争の開始も決断していたのである。 電力国家管理法公布(5/5施行) 10/27‐日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領 11/3‐近衞首相による「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)。 |
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◎輸出入品等臨時措置法と国家総動員法は日本を統制経済国家に改変したのみならず、ソ連型の計画経済に準じる社会主義体制に改造していった。、商工省と農林省などはこの国家総動員法をもって“市場つぶし”と国民の私有権への侵害を目的に乱用し、不必要な勅令(政令)や規制をあらん限り乱発した。そのほとんどは日中戦争の兵器生産とは、いっさい関係がなかった。ただひたすら日本を社会主義的な経済体制の国に改造する暴走であった。 1941年12月8日の対英米戦争開戦以降なら、総力戦になるから、戦時経済統制は必要との理屈において、これらの立法は首肯でき、一概に否定するのは難しい。しかし、1937年7月から1941年12月までの4年4ヶ月間に制定された不必要な統制経済法とその関連政令・規則は例外を除き、基本的には「戦時=非常時」を錦の御旗にして@市場破壊とA私有権侵害とB個人の私生活の国家管理、の三つを目的とした、日中戦争には無用なものだった。 このような統制経済化・計画経済化は、透明な人間が強盗をしているのに似て、国民に気付かれない「上からの革命」で、これが大東亜戦争の形をとった日本の共産革命だったのである。大東亜戦争は、不可解な戦争として、世界が訝しがり、戦争終了後の「東京裁判」ですら、その真像把握が困難であったのは、それが、戦争の形をとった、自国の共産革命(革命のために、自国を敗戦に導く戦争、もちろん昭和天皇・一般国民は政府・軍に騙されていたのだが。いや、昭和天皇は明察されていたかもしれないが「君臨すれども統治せず」の原則を最後まで貫かれたのであろう。)だったからである。まさにマルクス・レーニン主義の「革命的祖国敗北主義」に忠実に従った戦争であった。そして、敗戦後、英米より先にソ連(スターリン)に満州及び日本本土を占領してもらい、冷戦時の東欧諸国のごとく、共産主義国家日本となることを予定していた。しかし、思わぬ大誤算が生じた。米国が原子爆弾という最凶にして最強の兵器を開発し、使用し、ソ連を威嚇したことによって、ソ連は日本本土占領計画をあきらめ、満州及び樺太、千島列島の占領に踏みとどまらざるを得なくなったのである。これが大東亜戦争の事実である。英米は表面上、ソ連を連合国の一員として協調姿勢をとる演技をしながら、ソ連の野心を見抜いていたのである。 1937〜41年の、日本政府の経済政策に対する批判的考察のない「大東亜戦争論」は、大東亜戦争の事実(日本にとって不都合な事実)を藪の中にしまいこむ点で、ランケの実証史学を逸脱する。 天皇(制度)は、わが国の国民が享受する“高貴なる自由”の最大の淵源であり、われわれ日本国民をして祖先の智恵と感情とに連続させる偉大な制度であることにおいて国民の“自由”を守る“法の中の法”である。 しかし、昭和初期の日本国民はこの“法”を無視し、破壊する方向に歴史を動かしたと言える。つまり、昭和日本人(特に政府や軍上層部)は明らかに“法の無視”・“反国家”の愚行を犯したのである。にもかかわらず、この事実を全く前提に置かず、単に“自存自衛”と“アジア解放”のみを根拠にして「大東亜戦争は自存自衛の正当な戦争であった」「大東亜共栄圏(アジア解放)を目指した大義ある戦争であった」とする歴史肯定観とは、“法の無視”・“反国家”行為を「無視する」点において、日本の崇高なる“法”をヘーゲルの「世界精神(歴史法則)」のごとき低劣な「理性の摂理」に貶める「歴史哲学」にすぎないのではないだろうか。 簡潔に言えば、日本の“法の中の法”である昭和天皇の「対英米戦争反対の“御聖慮”」を無視して始めた大東亜戦争(特に対英米戦争)をいくら、“自存自衛”や“大東亜共栄圏(アジア解放)”を並べ立てても、正当化できるものではなかろう。それをすれば、少なくとも「“法”の無視」を肯定する点で、その論者は、もはやエドマンド・バーク系列の保守主義からは逸脱者となる。バーク系列の保守主義・伝統主義を語る資格はない、ということである。少なくともバーク保守主義を正確に理解する人間なら、それが解るはずである。 話を戻して、1938年10月27日の武漢三鎮攻略で日中戦争の長期化が展望され、また、11月3日の近衛の「東亜新秩序」声明で、日中戦争の目的が日中問題の解決ではなく「東亜新秩序」づくりに大転換したことで、日本の統制経済は加速された。いや、事実は逆さまで、統制経済化を促進すべく、「東亜新秩序」声明を発して日中戦争を長期化させた。 |
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政府は、1937年9月の輸出入品等臨時措置法【輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律(昭和12年法律第92号)】の第二条の超・拡大解釈において、広く国民の私生活を左右する、(兵器ではない)各種生活用品の生産から配給・消費に至るまで広範囲な商工省令/農林省令を発出した。それらは、日中戦争の軍需とは全く関係がなかった。 輸出入品等臨時措置法の第二条とは、次の通り。 第二条 政府ハ大東亜戦争ニ関聯シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ輸入ノ制限其ノ他ノ事由ニ因リ需給関係ノ調整ヲ必要トスル物品ニ付左ノ措置ヲ為スコトヲ得 一 命令ノ定ムル所ニ依リ当該物品ヲ原料トスル製品ノ製造ニ関シ必要ナル事項ヲ命ジ又ハ制限ヲ為スコト 二 当該物品又ハ之ヲ原料トスル製品ノ配給、譲渡、使用又ハ消費ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコト 次に、悪法の極み、商工省令・農林省令の例をあげる。 |
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1938年 |
6/29‐綿製品の製造制限加工制限販売制限の、三つの商工省令 |
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1940年 |
6/10‐麦類配給統制規則 7/6‐奢侈品等製造販売制限規則 7/9‐青果物配給統制規則 7/15‐小麦配給統制規則 8/8‐小麦粉等配給統制規則 8/20‐臨時米穀配給統制規則 10/4‐砂糖配給統制規則 10/4‐マッチ配給統制規則 10/5‐練炭配給統制規則 10/10‐牛乳・乳製品配給統制規則 10/24‐米穀管理規則 10/25‐鶏卵配給統制規則 |
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綿の洋服・米・マッチ・砂糖・小麦粉・牛乳・鶏卵などは充分にあったのだから、市場に任せればよいのに、わざわざ、これらを配給等の国家命令制度を定めたのは、国民の着るもの・食べる物、つまり個人の日々の生活に至るまで、商工省・農林省がソ連共産党を模倣して国家権力で管理してみたかったのである。“社会主義ごっこ”であった。その究極は、七千万人の日本国民を“七千万匹の羊”のごとく、顔のない同質の人(同じ食べ物、同じ服、同じ住居・・・・)に改造して、ソ連型の“暗黒の平等社会”をつくることであった。だが、戦場の将兵の苦労を分かち合うためとの理屈において、日本国民は協力した。日中戦争を悪用した、政府による恐ろしい計画経済体制づくりだとは、国民の誰もが気付かなかった。奢侈品等製造販売制限規則(「七・七禁令」)については、「奢侈を禁止すれば、日中戦争に勝てる」わけでもないことは誰もが理解していた。「奢侈禁止」の目的は、個人の私生活の領域まで国家が土足で踏み込んでよいとする、全体主義体制への制度づくりであった。 1938年5月5日施行の国家総動員法は、もっと強権的に“市場の絶滅”を狙った法律であった。 次の政令が乱発されたことでも余りに明らかである。 |
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1939年 |
10/16-賃金統制令(国家総動員法第六条に基づく) 10/18-価格等統制令(国家総動員法第十九条に基づく) 賃金臨時措置令(国家総動員法第十九条に基づく) 12/6-小作料統制令(国家総動員法第十九条に基づく) |
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1940年 |
10/19-地代家賃統制令(国家総動員法第十九条に基づく) 11/21-宅地建物等価格統制令(国家総動員法第十九条に基づく) |
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1941年 |
1/30-臨時農地価格統制令(国家総動員法第十九条に基づく) |
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これらが、日中戦争の遂行に必要であるとの理屈はどう考えても詭弁であった。明らかに、価格を官僚が決定するソ連型計画経済の実験をしたのである。 かくして、1941年9月現在で、公定価格になった品目数は、主務大臣の指定が8万9,477品目、地方長官の指定が45万1,000品目となった。 国家総動員法第六条及び第十九条とは、下記の通りである。 第六條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ從業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ從業條件ニ付必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得 第十九條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ價格、運送賃、保管料、保險料、賃貸料 、加工賃、修繕料其ノ他ノ財產的給付 ニ關シ必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得 ◎資本主義経済について 国家が個人の経済活動を、社会や公共の利益(=国家利益への隷属的な奉仕のみ)を目的とするものとさせれば、ソ連七十四年史(1917〜91年)が証明したように必ず自壊する。昭和初期においてただ一人市場経済の重要性を説いた山本勝一は、「社会や公共の利益は政府の施策であって、経済活動から得た私人・私企業の利潤に課した税金を用いてなすものである。経済はあくまでも、個人や私企業の(自由で)私的な利益追求が中核となったときのみ右肩上がりに発展する」と、自明の“経済の一大哲理”を声高に論ずべきであった。 この経済原理を人類初に発見したマンドヴィルは、その著『蜂の寓話』で、世界的な箴言ともなった「私人の悪徳(=純粋な私的利益追求のこと。詐欺や強盗のような、美徳に対する悪徳の意味ではない)は、公共の利益」と定義した。これこそは物理学のニュートンの法則に匹敵する“経済の一大哲理”である。経済に関する、“不変の真理”である。 マンドヴィル曰く、 「すべてに個人の・・・・くだんの悪徳(私利追求)そのものは、巧みな管理(最小限の政府介入)によって(国家・国民)全体の壮麗(富裕)と現世的幸福とに奉仕させられる」 |
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●戦前日本の「右翼」はなぜ、反・資本主義の“左翼”だったか??
戦前の日本では、日本特有の奇妙な政治団体の存在は、無視できないほど力があった。いわゆる「右翼」である。戦前の右翼を正確に理解できないならば、大東亜戦争の事実を見誤ることになる。
戦前の「右翼」は、「国家社会主義」の「運動団体」と目され、そう呼称された。正鵠を射た、うまいレッテルである。「右翼」運動団体の多くは、「社会主義」を信仰していて、必ずと言っていいくらい「資本主義からの脱却」とか、「統制経済・計画経済化への日本」とかを標榜した。「右翼」は反・資本主義を是とする「左翼」イデオロギーの団体であった。経済体制の選択に関して、「右翼」と共産党・労農派とを峻別する垣根は存在しなかった。ただ、国家に関して、国家否定で「世界共産化」の共産主義者とは対極的に国家(国境)重視のために、その社会主義は国家(民族的)的であった。
そのほか、「反・議会主義」にしても「反・政党主義」にしても戦前の右翼は、共産党や労農派と差異がなかった。これらの点に関しては、スターリンの共産ソ連やヒトラーのナチス・ドイツ(ナチスとは「国家社会主義ドイツ労働者党」の略称)と変わるところがない。
ただ、ナチス・ドイツやソ連が悪逆非道に人間を無差別に殺戮するヒトラーやスターリンを国家の精神的支柱に据えたのに対し、日本の「真の右翼」は、実態的には政府と軍部の軟禁状態にあったが、「わが国の国民が享受する“高貴なる自由”の最大の淵源である」天皇(=右翼が「そういうものとして」天皇を認識していたかは非常に疑問であるが)を精神的支柱に据え、この「天皇制を死守」しようとした点では前者と異なっていた。しかし、多くの「偽右翼」は「真の右翼」として守るべきこの“唯一の大義”さえも喪失していた。いわゆる完全な「左翼」と化していたのでる。
1933年に、内務省警保局がまとめた資料その他によれば、各団体の「反・資本主義宣言」は、次の通りである。
神武会「私利を主とし民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し」
日協「産業大権の確立により資本主義の打倒を期す」
新日本国民同盟「反資本主義統制経済の実現を期す」
日本国家社会党「合法的手段により資本主義経済を打破し、国家統制経済の実現・・・を期す」
尊王急進党「資本主義もまた日本主義にあらず故に・・・・反対す」
愛国勤労党「搾取なき国家の建設を期す」「産業大権の確立によりて全産業の国家的統制を期す」
日本社会主義研究所「資本主義の無政府経済制をもってわが国民の生活を圧殺するものと認め・・・・これが撤廃を期す」
「生産手段の国有および国家による集中的計画経済の施行」
日本共産党「生産者立国の国家統制経済政策確立」
建国会「産業の国家統制」
日本ファッシズム連盟「国家統制に拠る経済形態の確立を期す」
皇道会「資本主義経済機構を改廃し、国家統制経済の実現を期す」
急進愛国党「非国家的資本主義の徹底的改革・・・・搾取なき国家の確立を期す」
(4)米内光政の真像は“国家叛逆者”
米内光政については、戦後、糾弾する声が皆無ではないが、ほとんどない。
一般には、ポツダム宣言を受諾せよとの、昭和天皇の“御聖断”を支持して、本土決戦を阻み、国土のさらなる疲弊と国民のさらなる大量死を未然に防止したとの、良いイメージが、米内評価の骨子となっている。
ここでは、このような米内光政像にかかわる一般通念を、いったん白紙にして歴史事実を明らかにする。
なぜなら、米内光政とは、北支(黄河流域)に限定していた日中戦争を、揚子江流域の中支に、さらには海南島の南支まで、次々に拡大していった張本人である。これは、確定済みの歴史事実である。米内光政がトラウトマン和平調停を(近衛文麿とともに)断固として拒否したのも明白な歴史事実である。「日中戦争の拡大屋」こそ、米内光政の客観的な実像である。
歴史事実の冷静な分析に先入観は排除すべきであるし、史実は丹念に収集され事実に従って冷静に言及されるべきである。
以下、歴史事実を年表形式で追いながら、米内光政の真像を解明する。
@中共の張治中と近衛内閣の米内光政・海軍大臣―――二人は本当に無関係か
以下、歴史年表を追いながら、重要ポイントに解説を加えていく。
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グレゴリオ暦表示(1937年〜1940年、1945年) |
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年 |
出来事名およびその事実説明 |
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1937年 |
1/23-廣田内閣総辞職(衆議院解散を主張する寺内陸相と政党出身閣僚との閣内不統一) 宇垣一成に組閣命令(陸軍の反対により29日辞退) 1/25-陸軍三長官会議が陸軍の入閣拒否を決議 1/26-林銑十郎内閣成立 2/2-予備役陸軍大将の林 銑十郎が第33代内閣総理大臣に任命され、1937年(昭和12年)2月2日から1937年(昭和12年)6月4日まで続いた。林内閣は、昭和12年度予算が可決されたのを見て、政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した(3/31)。しかし、政党や国民は、予算成立というご馳走を食べ終わるなり解散をしたということで、「食い逃げ解散」と非難した。 3/7-ソ連でニコライ・ブハーリンが逮捕される。 3/19-純国産航空機神風号完成 4/1-東京・札幌間に定期航空路開設 4/13-ビルマ、英国の準自治州に。 4/15-ヘレン・ケラー来日 4/26-スペイン内戦中、 ナチス・ドイツ空軍がゲルニカを空襲。 5/12-英ジョージ6世戴冠式 5/28-英ボールドウィン内閣総辞職 英 チェンバレン内閣成立 6/4-第一次近衛内閣成立 貴族院議長の近衛文麿が第34代内閣総理大臣に任命され、1937年(昭和12年)6月4日から1939年(昭和14年)1月5日まで続いた 7/7-盧溝橋事件 ➡北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。 7/28-日本軍、華北で総攻撃を開始。 7/29-通州事件 華北各地の日本軍留守部隊や日本人居留民が虐殺される。日本の対中感情は悪化。 盧溝橋事件から一ヶ月の8月では、陸軍は参謀本部次長の多田駿(中将)や同作戦部長石原莞爾(少将)ら、8月初旬-不拡大派がまだ主流であった。このため、日中戦争は北支に限定されていた。 8/9-大山事件 ➡国民党軍に潜入していたコミュニストで毛沢東軍に本籍を置く張治中が、上海に駐留していや日本の海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤要蔵一等水兵の二名を射殺。 (8/10)@米内大臣は閣議で上海への陸軍出兵を強引に要請 ➡杉山・陸軍大臣は、消極的な反応を示す (8/12)A近衛私邸の四相会議で米内大臣は再度陸軍出兵を要請し、二個師団の出兵が決定する。 8/13-第二次上海事変 ➡中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した。 国民党軍機が日本の第三艦隊の旗艦「出雲」ばかりか、海軍陸戦隊本部や日本人小学校を爆撃した。 8/14-B閣議で米内大臣は閣僚で初めて「南京占領」に明言する。 ➡外務・海軍両大臣はこれに反対した。 A米内大臣は、長谷川清(第三艦隊司令官)に長崎県大村と台湾から、海軍機(九六式陸上攻撃機、中攻)などの渡洋爆撃を命じた。台湾⇒南昌の飛行場爆撃、長崎県大村⇒南京の飛行場爆撃 8/15-C米内大臣が「頑迷不戻な支那軍を膺懲する」と、支那への宣戦布告と見做しうるラジオ演説 |
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(解 説) (A)1937年8月15日の米内光政の対支宣戦布告 上記、大山事件と第二次上海事変に対し、海軍大臣の米内光政の行動は常軌を逸していた。通常であれば、蒋介石の意図を確認・確定する情報作業を、外務大臣に要請するとともに、海軍独自でも行うはずである。しかし、外務省や海軍がそのような作業をできないよう、米内は独断専行して、間髪をいれず、軍事的反撃の即時実行に全力を挙げた。 @まず、大山事件の翌8月10日の閣議で、米内・海軍大臣は、上海への陸軍出兵を強引に要請した。しかし、たった二名の死亡でかくも迅速に全面戦争に訴えるのは常識ではありえない。杉山・陸軍大臣は、消極的な反応を示した。 Aしかし米内は8月12日、近衛文麿首相の支援を受けて、近衛私邸での四相会議(総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣)で陸軍出兵を再び強く要請し、二個師団出兵が決定した。➡近衛文麿は、重要国策の決定を官邸でなく、私邸でするなど、公私の峻別をしないことが日常で、この性向は近衛が国家を私物視していた証左である。8月15日、米内大臣は、長谷川清(第三艦隊司令官)に長崎県大村と台湾から、海軍機(九六式陸上攻撃機、通り名:中攻)などの渡洋爆撃を命じた。 B8月14日の閣議で米内大臣は「南京占領」を口にした。これが、閣僚で最初の「南京占領」発言である。このとき、外務・海軍両大臣はこれに反対した。 Cこのように南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政であった。しかも総理でもないのに8月15日午後7自30分「頑迷不戻な支那軍を膺懲する」と、支那への宣戦布告と見做しうるラジオ演説までした。 上記の8月9日大山事件から8月15日宣戦布告ラジオ演説までの米内の行動は、米内とと中国共産党との共同謀議及びその背後で操る巨大な赤い影を想像させるが、これはあくまで想像の域をでず、歴史事実ではない。 このようにして、1937年8月から上海戦が開始されたが、上海戦は壮絶・熾烈を極め、日中ともに大ダメージを受けたことはあまり語られない。 イ)
日本軍の損耗は絶大なるものとなった。たった三ヶ月で戦死傷者は(死者9千人以上を含む)4万人を超えた。 ロ)
蒋介石の国民党軍も支那での情勢が一変し、毛沢東の人民解放軍と国共合作せざるをえない状況に追い込まれた。まず、共産主義者三百余名が釈放された。 ハ)
毛沢東の人民解放軍は、形式的には、国民党軍の一部となり、「八路軍」と称し正規軍となった。かくして毛沢東の共産軍は好き放題にその勢力を支那全土に伸長していった。 近衛文麿と米内光政の、1937年7月から1938年1月にかけての対支那軍事・外交政策のすべては、(意図するとしまいと)結果として、毛沢東の“赤い支那づくり”に決定的に貢献したのは歴史事実である。 D米内の「罪」は、何といっても、日中戦争の無期泥沼化にあろう。南京陥落直後の1938年1月、蒋介石が出してきた対日講和の提案を、近衛文麿と共謀して蹴ったのは米内・海軍大臣であった。“日本史上、例のない悪の巨魁”近衛文麿が考案した「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の声明(1938年1月16日)を断固阻止しようとして食い下がる陸軍参謀本部の参謀次長・多田駿を「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたのは、米内光政であった。 (B)海外駐在と「親ソ」米内光政 米内はサンクトペテルブルク(帝政ロシアの首都)に駐在武官補佐官として二年間勤務して(1915年2月〜1917年4月)ロシア語が堪能なだけでなく、大変なロシア贔屓であった。1917年11月、革命によってロシアはソ連となったが、米内光政は「親露」からそのまま「親ソ」になった。 帝国海軍の歴史研究で「親英米」とか「親独」とかは議論になるのに、なぜか「親ソ」については語られない。だが、「日本の親ソ提督」と言えば、第一が、加藤寛治(海軍大将)第二が米内光政(海軍大臣二回、総理大臣一回、海軍大将)である。この事実は、海軍研究で決して無視できない重要問題である。敗戦間際になると、開戦時と同様、「親ソ」でコミュニストでもあった高木惣吉(少将)が暗躍し大きな影響力をもってくる。 なお、加藤寛治や米内光政は「親ソ」であるが、瀬島龍三や高木惣吉とは異なり、コミュニスト(共産主義者)ではない。 米内のソ連駐在はさらに続く。日本のシベリア出兵に伴い、ウラジオストクに一年間勤務した(1918年8月〜1919年9月)。ソ連共産革命の情勢を調査分析すべく、ワルシャワやベルリンに二年半も駐在した(1920年6月〜1922年12月)。このベルリン等での二年半に及ぶソ連革命調査の米内の特命活動について戦後の米内論は全く言及せず、口を閉ざす。そして不思議なのは、米内光政のソ連革命情勢報告書はすべて焼却処分されたようであるが、誰がいつなぜそうしたかについて、旧海軍関係者は完全に口を閉ざすことである。報告書の実物がなくても、それを読んだ誰かが「これこれの内容であった」と回想してもよさそうだが、それもない。米内の報告書は、海軍外部に知られると随分とまずい内容のようであることは事実であろう。 |
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1937年 |
9/2-日本政府が北支事変を支那事変と改称 9/23-第二次国共合作 ➡蒋介石が中国共産党の合法的地位承認を発表 10/5-国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を九カ国条約・不戦条約違反とする決議採択(翌10月6日、総会でも決議)。 米国のフランクリン・ルーズベルト大統領、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説。 11/2-トラウトマン工作 ➡トラウトマン駐華ドイツ大使による和平工作始まる 11/6-日独伊防共協定成立(イタリアが日独防共協定に加入) ➡昭和11年(1936年)の日独防共協定が昭和12年(1937年)11月のイタリアの加入によって三国に拡大した「反ソ」「反共」を目的とした協定。 11/20-国民政府、南京より重慶へ遷都 日本、大本営設置 12/12-パナイ号事件 ➡日本海軍機が米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆沈し、乗務員に対し機銃掃射を行った事件。同船に先導案内されていた米国スタンダード・バキューム・オイル社のメイピン(美平)号、メイシア(美峡)号、メイアン(美安)号にも同様の危害を加えた。 ➡橋本欣五郎大佐の指揮する陸軍砲兵が英国砲艦のレディバード号及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた事件 これらの事件を日本側は南京を脱出中の中国国民党軍と誤って攻撃したと陳謝したが、英米国は日本側の故意の攻撃とみなし、反日感情が沸騰した。 12/13-日本軍が南京城を陥落 |
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1938年 |
1/3-女優岡田嘉子が杉本良吉と共に樺太国境を越えてソ連に亡命 1/16-近衛文麿首相、「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)。トラウトマン工作打ち切り。 2/1-山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授グループ約30人が検挙(第二次人民戦線事件):治安維持法 3/13-ナチス・ドイツ、オーストリアを併合(アンシュルス) 4/1-日本、国家総動員法公布 5/5-国家総動員法施行 5/17-米国で第二次ヴィンソン法成立 5/19-日本軍、徐州占領 6/9-日本軍の進撃沮止のため、中国国民党が黄河の堤防を爆破、氾濫により数十万の住民が水死(黄河決壊事件) ➡黄河決壊事件は、日中戦争初期の1938年に起きた事件。日本軍の急進撃を止める目的で中国国民党によって起こされた。事件は洪水による多大な犠牲者を生んだのみならず、農作物の被害も甚大となり住民を苦しめる焦土作戦という面があった。この後、国民党の食料調達の際は農民からの搾取が厳しいものとなる。 商震将軍は蒋介石から日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じられたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破を延ばしていた。この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省(河南省・安徽省・江蘇省)の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。 7/5-阪神大水害 7/11-張鼓峰事件勃発(〜8月10日) 張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。 9/29〜9/30-ミュンヘン会談 ➡チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題を解決するためにドイツのミュンヘンにおいて開催された国際会議。イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席した。ドイツ系住民が多数を占めていたズデーテンのドイツ帰属を主張したアドルフ・ヒトラーに対して、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わないとの約束をヒトラーと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることになった。1938年9月29日付けで署名されたこのミュンヘン協定は、後年になり第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型とされ、一般には強く批判されることが多い。 10/1-陸軍が作戦要務令を制定 10/21-日本軍、広東占領 10/27-日本軍、武漢三鎮占領 ➡日中戦争により1938年には蒋介石の南京政府が武漢(武昌、漢口、漢陽)に仮の首都を置いた。その後、日本軍に推された汪兆銘により南京に傀儡政権が樹立される。その後日本軍に押される形でさらに重慶に移った。 11/3-近衛首相による「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明) 11/9-ドイツでユダヤ人迫害開始される 11/12-中国国民党が長沙に放火し住民数万名が焼死(長沙大火) 12/4-日本軍、重慶爆撃開始 12/20-重慶を脱出した汪兆銘がハノイに到着 12/22-近衛首相が日支国交調整のため善隣友好・共同防共・経済提携の近衛三原則を声明(第三次近衛声明)。 ◎「東亜新秩序」(近衛文麿)⇒「東亜協同体論」(昭和研究会)⇒「大東亜共栄圏」(=「基本国策要綱」に対する松岡洋右外務大臣の談話での発言)➡対英米戦争と繋がっていく。近衛三原則などデタラメの極みである。 |
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1939年 |
1/4-第1次近衛内閣総辞職 1/5-平沼騏一郎内閣成立 枢密院議長の平沼騏一郎が第35代内閣総理大臣に任命され、1939年(昭和14年)1月5日から同年8月30日まで続いた。日独軍事同盟の締結交渉を進めていたが、1939年(昭和14年)8月に突然、「反ソ」「反共」のはずのドイツ(ナチス・ドイツ)がソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したため、衝撃を受けた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して同月末に内閣総辞職。彼にとって規範となる国家像であったナチス第三帝国がその最も憎む社会主義国ソ連と同盟を結んだのは、もはや彼の理解を超えていたのであろう。 1/26-バルセロナ陥落、フランコ軍の占領下に置かれる(スペイン内戦) 2/10-海南島占領(2月10日陸軍、2月13日海軍) 2/14-日本国民に対し「金製品回収・強制買い上げ」を日本政府が実施 2/27-イギリス・フランスがスペインのフランコ政権を承認 3/15-全国の招魂社を護国神社に改称 ドイツがチェコスロバキアのボヘミア占領 ハンガリー王国がカルパト・ウクライナを攻撃 3/16-ドイツがボヘミア・モラヴィアの保護領化を宣言(チェコスロバキア併合)、ハンガリーがカルパト・ウクライナ共和国を併合 3/23-ドイツがリトアニアのメーメルを併合 ハンガリーがスロバキアを攻撃 4/7-イタリアがアルバニア王国に侵攻 4/12-米穀配給統制令法公布 4/27-イギリスで徴兵制導入 4/28-ドイツがドイツ・ポーランド不可侵条約破棄を宣言 5/12-満蒙国境で日本・ソビエト連邦両軍が衝突(ノモンハン事件) ➡ノモンハン事件は「日本の一方的惨敗」が強調されたが、1990年代からソ連側の資料が公開されが公開されると、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約400両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。次の両軍の損失を比較しても「日本の一方的惨敗」が事実ではないのは明らかである。
5/22-独伊軍事同盟締結 6/14-日本軍、天津のイギリス租界を封鎖 7/8-国民徴用令公布 ➡国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の法令である(勅令第451号)。一部地域では白紙などと呼ばれた。 ・国家総動員法第4条の規定に基く国民の徴用 ・国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令
の二つについて規定した。 8/2-亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらがアインシュタインの署名を借りてルーズベルト米大統領宛に原子爆弾開発を促す書簡を送付、マンハッタン計画の契機となる。 ➡ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きを促す最初のものとなった。この「進言」では、核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。 8/23-独ソ不可侵条約締結 ➡ドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。犬猿の仲といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。1941年6月22日から開始されたバルバロッサ作戦でナチス・ドイツがソ連に侵攻するまでこの条約の効力が続いた。 また両国は、不可侵の条件だけではなく、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド及びルーマニアという独立国を、それらの国々の「領土と政治の再配置」を期待しながら、ナチとソビエトの勢力範囲に分けた秘密議定書を含んでいた。 8/28-「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を出して平沼内閣総辞職 8/30-阿部内閣成立 予備役陸軍大将の阿部信行が第36代内閣総理大臣に任命され、1939年(昭和14年)8月30日から1940年(昭和15年)1月16日まで続いた日本の内閣。1940年(昭和15年)1月14日に総辞職し、次の米内内閣が成立するまでの間、職務を執行した。 9/1-ナチス・ドイツ軍とスロバキア軍によるポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発 9/2-イタリアが中立を表明 9/3-イギリス・フランス・オーストラリアがドイツに宣戦布告(まやかし戦争) ➡まやかし戦争とは、第二次世界大戦初期における西部戦線のことを意味する。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻の後、1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻まで、ドイツとフランス・イギリスは戦争状態にあったにも関わらず、陸上戦闘が皆無に近い状態であったことから、奇妙な戦争とも呼ばれる。 ただし、海上ではUボートによる攻撃やラプラタ沖海戦など活発な戦闘が行われており、北欧では冬戦争やドイツ軍による北欧侵攻が行われていた。 9/3-大本営が関東軍にノモンハン事件の作戦中止を指令 9/4‐日本、第二次世界大戦への不介入を表明 9/5‐米国が中立を表明 9/6‐南アフリカがドイツに宣戦布告 9/10‐カナダがドイツに宣戦布告 9/15‐モスクワで東郷茂徳大使とモロトフ外相間にノモンハン事件停戦協定成立 9/17‐ソ連軍がポーランド東部に侵攻 9/18‐日本で「賃金統制令」・「価格等統制令」(九・一八停止令)公布 9/27‐ワルシャワがドイツの空爆で陥落 9/28‐独ソ友好条約調印(ポーランド分割占領を決定) 9/30‐厚生省が「結婚十訓」を発表。「産めよ殖やせよ国のため」の標語を掲げる (1)一生の伴侶として信頼できる人を選びませう (2)心身ともに健康な人を選びませう (3)お互いに健康証明書を交換しませう (4)悪い遺伝のない人を選びませう (5)近親結婚はなるべく避けることにしませう (6)なるべく早く結婚しませう (7)迷信や因襲にとらはれないこと (8)父母長上の意見を尊重なさい (9)式は質素に届けは当日に (10)産めよ殖やせよ国のため 10/1‐日本国内の石油が統制品となり、配給制となる 11/ 6‐米穀強制買上げ制公布実施 11/21‐イギリス、自国が参加している海軍軍縮条約の無期限停止を国際連盟に通告 11/30‐ソ連軍がフィンランドに侵攻、冬戦争勃発 ➡冬戦争は、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵入した戦争である。フィンランドはこの露骨な侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守り抜いた。 12/1‐白米禁止令実施(七分づき以上を禁止) 12/13‐ラプラタ沖海戦 ➡ラプラタ沖海戦はラプラタ川河口(アルゼンチン)の沖合いで生起した海戦。開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたドイツのポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリスの巡洋艦3隻と交戦した。戦闘後、損傷を受けた「アドミラル・グラーフ・シュペー」は中立国ウルグアイ のモンテビデオ港に入港し、17日港外で自沈した。 12/25‐木炭の配給実施 |
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1940年 |
1/12‐ソビエト連邦、フィンランド各都市を空襲 1/14‐阿部内閣総辞職 1/16‐米内内閣成立 海軍大将の米内光政が第37代内閣総理大臣に任命され、1940年(昭和15年)1月16日から同年7月22日まで続いた。 昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下された。組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランスがドイツ(ナチス・ドイツ)に降伏すると、独伊への接近を企図し、近衛文麿を中心とする新体制に期待して倒閣の機会を窺っていた陸軍は、その目的を達すべく、畑俊六陸相を単独辞職させる。米内は後任の陸相を求めたが陸軍が推挙しなかったため、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。 1/21‐浅間丸事件 ➡房総沖公海上で英国軍艦が貨客船、「浅間丸」を臨検し、兵役につく事ができる年齢のドイツ船客21名を引致した事件。当時関係が悪化していた日本と英国の間において大きな国際問題に発展した。 2/11‐日本、皇紀2600年(紀元2600年)祝典。阿部定を含む多数の囚人が恩赦を受ける。 2/16‐ノルウェー領海で英・独が軍事衝突(アルトマルク号事件) 2/12‐津田左右吉の『神代史の研究』など発禁となる
3/7‐戦争政策批判により衆議院が民政党斉藤隆夫を除名処分 ●戦争批判演説」(2/2「支那事変処理に関する質問演説」) 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである。 @近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか Aいわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか B世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか C近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 D第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 3/12‐ソ連フィンランド講和条約がモスクワで調印(冬戦争終結) 3/28‐内務省が芸能人の外国名・ふざけた芸名禁止を通達(ミスワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16名) 3/30‐汪兆銘、南京で親日政府樹立(南京政府) 4/1‐所得税法施行規則改正施行(勤労所得の源泉徴収開始) 4/9‐ドイツ軍がデンマーク王国・ノルウェー王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏 米殻強制出荷命令発動 4/10‐ドイツ軍がオランダ王国・ベルギー王国・ルクセンブルク大公国・フランスに侵攻開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダの戦い) 5/10‐英チェンバレン内閣総辞職 - チャーチル挙国一致内閣成立 ➡チャーチルは第二次世界大戦の間、保守党・労働党・自由党という、ほぼ全政党による挙国一致内閣を組織した。 英国がアイスランドに侵攻 5/15‐ドイツにオランダが降伏 5/18‐日本軍、重慶を大空襲(〜9/4) 5/28‐ドイツにベルギーが降伏 6/3‐独空軍がパリを空襲 6/4‐独軍がダンケルクを占領したが、抱囲されていた英仏軍の大半は脱出に成功(ダンケルクの戦い、ダイナモ作戦=撤退作戦) ➡撤退:戦略においてある部隊が外国の作戦地域から部隊を後方へ移動すること。はその地域を保持できなくなったためという負の意味合いが強い。 ➡後退:現代戦術論において、現在の戦況の改善を目的とし、戦闘を中止して敵との交戦を回避しつつ前線に対して後方への機動、または敵から距離を置く戦術行動である。後退行動。 ➡撤収:軍事的、政治的に勝利を収め、その地域を保持する必要性がなくなって部隊が引き上げること。 ◎大東亜戦争(特に対米戦争)中、日本陸軍は、前進攻撃に執着し、後退行動戦術を駆使しなかった。このため、玉砕などの多くの無駄な戦死者を出した。この後退行動戦術を駆使し、米軍と善戦した模範的戦いは「硫黄島の戦い」であった。 6/5‐独軍が対仏総攻撃を開始 6/10‐伊が対英仏宣戦布告
伊の対応を米ルーズベルト大統領が「背中から刺すようだ (Stab in
the Back)」と非難 独にノルウェーが降伏 6/11‐仏政府がトゥールに移転 6/13‐仏軍がパリより撤退 6/14‐独軍がパリに無血入城 仏政府がボルドーに移転 米国で第三次ヴィンソン法成立(カール・ヴィンソンによる第三次アメリカ海軍拡張計画) 6/15‐伊軍が仏領に侵入 ソ連軍がリトアニアに進駐開始 6/16‐仏レノー内閣辞任、ペタン元帥が首相に就任 6/17‐仏ペタン首相が独軍に休戦提議 ソ連軍がラトビア・エストニアに進駐開始 6/18‐仏ド・ゴール将軍が自由フランスとしてロンドン放送で対独抗戦継続を呼びかける 6/22‐独仏休戦協定締結 6/24‐近衛文麿が枢密院議長を辞任し新体制運動推進を決意表明 ➡「親独・親ソ・反英米」思想に基づく、「日・独・伊・ソ」4ヶ国の軍事同盟の模索と対英米戦争の決意 6/27‐伊仏休戦協定締結 6/28‐ソ連がルーマニア領に進駐 7/2‐仏政府がヴィシーに移動 |
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ヴィシー政権は、第二次世界大戦中のフランスの政権(1940年〜 1944年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。6月にフランスがドイツによる攻撃に敗北し、政府内の和平派が政権を握るとポール・レノーにかわって首相となった(6/16)フィリップ・ペタン元帥はドイツ(6/22休戦協定)とイタリア(6/27休戦協定)に対し休戦を申し入れた。休戦協定により、パリをふくむ北部と西部をドイツに、マルセイユを含む南部をイタリアに保障占領されたため、政府は7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦時にフランス軍の指揮を取ったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した(7/2)。海外植民地及び海軍は降伏前からのものを引き続き保有した。しかし、かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲された。
黄、橙、紫・・・ドイツ軍の占領地 青・・・ドイツへの割譲地 緑・・・イタリア軍の占領地 白・・・ヴィシー政府の支配地域 ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。 ●政治 7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は第三共和政憲法を圧倒的多数で破棄し、ペタンを国家主席にする新憲法を採択した。新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみであった。また、多くの政策はドイツの意図に沿うもののみが適用された。また、戦争に敗北したエドゥアール・ダラディエやポール・レノーといった政治家を裁判(リオム裁判)にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。これらの「改革」はドイツ側が強制したものではなく、ピエール・ラヴァルらといったフランス側の政治家が主導して行われたものであった。 ●軍備 本国の陸軍は10万人に制限されたが、マダガスカルやインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。これらの体制は、ナチス・ドイツ側にとっても有効であった。しかしヴィシー政府は30万人に及ぶドイツ軍の駐留費用を支払わねばならず、重い負担に苦しんだ。 海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったため、大部分が存置された。このフランス海軍の戦力がドイツ支配下に置かれることを懸念したイギリスは、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙い、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。 ●対外関係 ヴィシー政府は苛酷な休戦協定を受け入れて対独協力体制を築き上げたが、主権国家としての体裁は一応維持することができた。「休戦監視軍」の名のもとに一定の軍事力を保有し、自由フランス側についたフランス領赤道アフリカやニューカレドニアなどを除く大部分のアジア・アフリカに広がる広大な植民地はヴィシー政権に引き継がれた。(ただし仏領インドシナ連邦においては、ヴィシー政権の合意の元にドイツの同盟国である日本の仏印進駐を許した)。このため、イギリスを除く主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。 |
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1940年 |
7/3‐メルセルケビール海戦 英艦隊がアルジェリアのオラン港の仏艦隊を撃滅 7/4‐陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告 ➡軍部大臣現役武官制を陸軍が悪用 7/5‐ヴィシー仏政府が対英国交断絶 7/10‐独空軍による英本土空襲開始(バトル・オブ・ブリテン) 7/11‐仏ルブラン大統領辞職
- ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出(第三共和政終了) 7/15‐満州国の新京に建国神廟が創建 建国神廟(けんこくしんびょう)とは、満州国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設。満州国皇帝の帝宮内に創建された。日本のいわゆる国家神道上の神社とはされなかったが、祭神をはじめ、建物の構造や儀式等は神社そのものであった。 ➡昭和天皇は、満州国が天照大神を祀ることに、あまり気が進まなかったとされ、「中国には古来、祭天の信仰があるから、天を祀るのが妥当ではないか」と言われたという。 7/16‐米内内閣総辞職(畑陸相の単独辞職) 7/19‐近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾が会談(荻窪会談) 独ヒトラーが英国に和平を求める国会演説を行う 米国で両洋艦隊法成立(ハロルド・スタークが提案、第四次海軍拡張計画) 7/21‐リトアニア、ラトビア、エストニアが独立した「社会主義共和国」であると宣言 日本労働総同盟解散 7/22‐第2次近衛内閣成立 公爵貴族院議員・元首相の近衛文麿が第38代内閣総理大臣に任命され、1940年(昭和15年)7月22日から1941年(昭和16年)7月18日まで続いた。 |
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◎第2次近衛内閣は、米内内閣のあとを受けて、新体制運動の主導者であった元首相・貴族院議員の近衛文麿が組閣した内閣である。組閣直後の1940年(昭和15年)7月26日、「大東亜新秩序建設」(大東亜共栄圏)を国是とし、国防国家の完成を目指すことなどを決めた「基本国策要綱」を閣議決定する。同年9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結し、同年10月12日に新体制運動の指導的組織となる大政翼賛会を結成。翌1941年(昭和16年)4月13日には日ソ中立条約を締結した。 ➡すべてが、第1次近衛内閣から継続される、コミュニスト近衛文麿の「反英米・親ソ」思想に基づく、“対英米戦争開戦”への(準備/誘導)政策である。これらすべての「過てる国策」を遂行したのが、近衛文麿であったことが分かるであろう。 |
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1940年 |
7/26‐閣議で基本国策要綱を決定(大東亜の新秩序建設・国防国家) |
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@生成する国家群が必ず発展する基調を持つとする進歩史観 ➡現実は、ナチス・ドイツも負け、日本も負け、戦後、ソ連も崩壊した。 つまり、全体主義国家へ変革しようとした国(日・独・ソ)は敗北し、自由主義国家を保守しようとした国(英・米)は勝利した。(仏はコロコロ政治思想が回転する国で、回転するたびに害毒のある思想を生みだすので個人的にコメントしない。) A世界史的発展の必然的動向 ➡ヘーゲル歴史哲学・マルクス史観で世界の動きを捉えている。 B国家国防体制 ➡統制(計画)経済による国家社会主義のこと。 C自我功利の思想を排し国家奉仕の観念を第一義 ➡全体主義思想である。まず、国家があって個人は国家という機械の歯車に過ぎないとする考え方。個人の自由ゼロ、貧困の平等に陥る。 D即応し得べき議会制度の改革 ➡一党独裁のヒトラーやスターリン的全体主義体制の標榜。議会制民主主義の圧殺。 E計画経済の遂行、一元的統制 ➡ソ連型計画経済体制への移行方針を明確にしている。 F国民生活を刷新し真に忍苦十年時難克服 ➡国策遂行のため、国難克服まで「自由ゼロ、貧困の平等」に耐えなさい、という「全体主義のススメ」 @・・・・八紘を一宇とする・・・・先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する 「八紘一宇」とは、舎人親王らの撰で、グレゴリオ暦720年に完成した『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。 『日本書紀』が編纂されたのが奈良時代(630年の犬上御田鍬に始まった遣唐使派遣は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、仏教の日本への伝播に大いに貢献するなど唐と日本は大変良好な関係にあった)であること、「八紘一宇」の記述が『日本書紀』第三巻神武天皇(紀元前660年)の条にあることから考えれば、「八紘(世界)」とは当時の日本国領域を指すとしか解釈できない(唐は高宗などの皇帝が治めていた)。 この「八紘」を「大東亜」とか「地球規模の世界」など解釈できるはずがないし、アメリカ大陸の発見さえ、約770年後の話である。 故に、「八紘一宇」を「大東亜の新秩序」建設の皇国の国是とするのは明らかに論理的齟齬をきたしている。➡つまり、「大東亜の新秩序」は皇国の国是でなく、“皇国”の仮面をかぶった、「マルクス・レーニン主義の国是」であった。 だから、この国是を具現するための国策も必然的にマルクス・レーニン主義と化す。「“自由ゼロ”は自由である」、「“貧困の平等”がユートピア的平等社会である」さらには「平和とは世界共産化である」などのマルクス・レーニン主義者のニュースピークス(転倒語法)を用いて、近衛文麿は「皇国とはマルクス・レーニン主義国家である」と転倒し、国民を欺いたのである。それが、上記の“レッド条項だらけ”の基本国策要綱である。 |
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1940年 |
7/27‐大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定 |
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「帝国は世界情勢の変局に対処し内外の情勢を改善し速やかに支那事変の解決を促進するとともに好機を捕捉し対南方問題を解決す 支那事変の処理いまだ終わらざる場合において対南方施策を重点とする態勢転換に関しては内外諸般の情勢を考慮しこれを定む 右二項に対処する各般の準備は極力これを促進す」 「仏印(広州湾を含む)(=仏領インドシナ連邦)に対しては援蒋行為遮断の徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給担任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝国の必要なる資源の獲得に勉 情況により武力を行使することあり」 |
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1940年 |
8/1‐国民精神総動員本部が「贅沢は敵だ!」の立看板1500枚を東京市内に設置 ➡スローガン「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」 ➡戦意昂揚の標語「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」、「遂げよ聖戦 興せよ東亜」、「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」、「石油の一滴、血の一滴」、「日の丸弁当」奨励、「パーマネントはやめましょう」など。 8/15‐立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止 8/20‐八路軍(=共産党軍)、日本軍に対して大攻勢(百団大戦、〜12月5日)。 8/30‐第二次ウィーン裁定:ルーマニア王国、北トランシルヴァニアをハンガリー王国に割譲 9/7‐クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロジャをブルガリアに割譲。 9/19‐御前会議 ➡(議題)日独伊三国同盟条約 9/23‐日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐) 日仏印軍事協定成立➡(蒋介石支援ルート封鎖目的) 9/27‐日独伊三国軍事同盟成立 ➡日本、ナチス・ドイツ、イタリアの間で締結された「日独伊三國間條約」に基づく日独伊三国の同盟関係を指す。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。日独伊三国同盟とも表記される。 |
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◎日独伊三国軍事同盟 ●概要 日独伊三國間條約では1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊防共協定では曖昧であった三国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。 このため日本はドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化した。ドイツにとってはヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する狙いがあったが、かえってアメリカの対日感情は悪化することになった。 ●締結に至る経緯 日独伊三国同盟への動きは、@1938年夏から39年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、A40年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。@は対ソ同盟を目指したもの「親独・反ソ(反共)・反英米」であり、独ソ不可侵条約の締結(ドイツ:「反ソ・反共」⇒似非「親ソ」)により頓挫した。Aはドイツの似非「親ソ」を真の「親ソ」と誤認し、「親ソ」一辺倒のコミュニスト近衛文麿が、「ソ連を加えた4ヵ国による対米同盟」を目指したものであった。 |
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1940年 |
10/1‐第5回国勢調査(内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人) 10/12‐大政翼賛会発会式 ➡1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。 独軍がルーマニアに進軍開始 10/27‐メキシコが対日禁輸を解除 10/28‐伊軍がギリシャに進軍開始(ギリシャ・イタリア戦争)
ヒトラーとムッソリーニが会見 10/31‐バトル・オブ・ブリテン終了 ➡イギリス軍の勝利(イギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。) 11/5‐米大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが三選 11/11‐英海軍が空母艦載機により伊(イタリア)のタラント軍港を攻撃(タラント空襲)➡イギリスの勝利 11/13‐御前会議で「支那事変処理要綱に関する件」ほかを決定 11/14‐海軍省が兵備局を新設(15日発足) ドイツ軍がイギリス中部の都市コヴェントリーを空爆 11/20‐ハンガリーが枢軸国に加入 11/22‐トルコ全土で戒厳令 11/23‐ルーマニアが枢軸国に加入 タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。 ➡タイとフランス植民地軍との国境紛争である。 タイ王国はフランスに対し以前割譲したフランス領インドシナ(仏印)の返還を求めてきた。 9月23日、日本軍が北部仏印進駐を行った為、日本と友好のあったタイは日本軍が南部に進駐すると領土要求が難しくなるという懸念が生まれたためである。 当時のタイ政府は軍事政権となっており、あくまで強硬な姿勢だった。しかし、フランス政府はこの要求を拒否した。 11/24‐元老西園寺公望公死去(国葬12月5日) スロバキアが日独伊三国条約に加入 11/30‐日華基本条約・日満華共同宣言調印(汪兆銘政権承認、日清通商航海条約破棄) 12/6‐内閣情報局設置(内閣情報部廃止) ➡戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局図書課、逓信省電務局電務課の各省・各部課に分属されていた情報事務を統合して設置された日本の内閣直属の機関である。公式名称は「情報局」である。 12/18‐独ヒトラーが独ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命令 ➡作戦名は神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ1世の渾名である Barbarossa(赤髭)に由来する。フリードリヒ1世は名君と呼ぶべき伝説的な人物で、東方に力を傾けたこともあり、対ソ戦にふさわしいと判断されたと思われる。またドイツ陸軍は、ポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があり、それの発展形とも考えられる。 12/29‐米ルーズベルトが「米国は民主主義国の兵器廠となる」と発言 |
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A「反ソ」反対――1939年の日独伊三国同盟に反対した米内光政の真意 米内光政や山本五十六に関して、彼は「親米」との謬説が戦後ずいぶん流された。謬説の唯一の理屈は、1939年には「日独伊三国同盟」に反対していたというものである。これは論理の転倒で彼らが、1940年の9月に「日独伊三国同盟」に賛成したから、対英米戦争を目的とする、とんでもない軍事同盟条約が締結されたのである。一貫しての三国同盟反対者は、少数の良識派の外務官僚と昭和天皇ただ一人であられた。 最終の意思決定が、その人の本意である(特に、政治を見るとき、観点が不可欠)から、その途中経過での反対は「反対した」ことにはならない。すなわち、彼らの最終意思決定である1940年9月の「日独伊三国同盟」賛成が彼らの本意であり、ゆえに彼らは「反英米」であった。 では、なぜ米内光政は1939年の時点で「日独伊三国同盟」に反対したのだろうか。 (A)「親独・反英米」派を二分した、「反ソ」と「親ソ」 1930年代の、日本の外務省・陸軍・海軍では、ヒトラーもナチズムも充分に研究されていた。ヒトラーの『わが闘争』は熟読されていた。ヒトラーが激越な「反ソ」「反共」主義者であることも軍部と外交当局のよく知るところであった。 陸軍はむろん、海軍ですら、「親英米」から「親独・反英米」への転換が急速に進む1930年代の日本では、「親ソ」と「反ソ」に限ってのみ、外務・陸軍・海軍の傾向は一致していなかった。 陸軍では主流の「反ソ」(=対ソ防衛優先主義)と若手の「親ソ」の両極に分かれつつあった。若手の赤い将校は、ソ連のGRU/NKGB工作員に次々とリクルートされていた。海軍では、多数の「ソ連無関心派」と少数の「親ソ派」が存在した。 ➡GRU:ソ連軍参謀本部情報総局のこと。例えば、リヒャルト・ゾルゲはこの将校であった。また、米ルーズベルト大統領にソ連スターリンのヤルタ秘密協定を諒解させたアルジャー・ヒスもGRU工作員だった。ハル・ノートの原案執筆者のハリー・ホワイトは最初GRU工作員だったが、NKGB工作員に所轄変更になった。日本では、尾崎秀実(近衛文麿の側近)や瀬島龍三(シベリアから帰還後はKGB所属)/高木惣吉/種村佐孝など、大東亜戦争中多くの学者・軍人がGRU工作員に一本釣りされていた。 ➡NKGB:国家保安人民委員部のこと。1954年以降はKGBとなるが、第二次世界大戦中は、実態ではベリヤの内務人民委員部(NKVD)の所管であった。終戦時の関東軍参謀副長の松村知勝や南方軍参謀の美山要蔵などは、このNKGB工作員であったと思われる。 日独伊三国同盟が「反英米」なのは明白だが、問題はそれが、「反英米+親ソ」なのか、「反英米+反ソ」なのか、はっきりしないところにあった。米内が1939年、この三国同盟条約に反対していたのは、この条約が1937年11月6日の日独伊防共協定の延長上にあり、「反英米+反ソ」の条約と読んだからである。 1939年1月5日発足の平沼内閣の平沼騏一郎首相は、三国同盟を「反英米+反ソ」と考えたから締結を決断していた。ところが、1939年8月23日、それまで犬猿の仲と言われていたヒトラー・ドイツとソ連・スターリンが突然、独ソ不可侵条約を締結した。ヒトラーが「親ソ」路線に転換した時、平沼は「欧州は複雑怪奇」と声明を出して総辞職た(8月28日)ため、三国同盟問題は棚上げされた。が、海軍は、米内と同様にドイツが「反英米+親ソ」路線に転換したと考え、三国同盟支持へと豹変した。 さらに、1940年1月16日米内内閣が発足し、米内光政が首相になると、海軍はソ連と同盟を結ぶように松岡洋右・外務大臣を絶大に支持し煽った。 ➡1930年代の日本にあって、「親英米・反独・反ソ」の、真正の保守主義を堅持するものは、昭和天皇を別とすれば、吉田茂ら、外務省に僅かに存在するばかりであった。 三国同盟に対する米内の賛否は「反英米」か否かではなく、「親ソ」か否かが、決定要素であった。ヒトラーが個人的信条としての「反ソ」「反共」を凍結して、ナチ国家として「親ソ」に転換したとの米内の確信(ヒトラーの本音を読めない、詰めの甘い確信であった)において、三国同盟に反対する理由はなくなった。米内にとってあとは海軍全体が三国同盟賛成に回るのを待つだけとなった。そして、1940年の海軍は(反独の吉田善吾を除き)三国同盟賛成派にすっかり豹変していた。 1940年7月16日、三国同盟締結の二か月前、陸軍の策謀によって米内内閣は倒閣されたが、米内光政としては、“反英米/親ソ一辺倒の巨魁”近衛文麿に首相の座を譲ったことにおいて、より過激にはなるが、基本的に米内と同じ立場の外交路線が引き継がれることになる。1940年7月22日、第二次近衛内閣の発足である。 近衛内閣の外務大臣・松岡洋右は矯激な表現・行動の“反米屋”であり、外交をすべてこの「反米」の完遂に絞っていく。松岡は、「日独伊三国同盟➡日独伊ソ四国連合」を構想し、ユーラシア大陸からの米国の追放を狙った。ただ、松岡の「親ソ」が近衛の「親ソ」と異なるのは、あくまで「反米の手段としての親ソ」だったことである。近衛の「親ソ」は、共産主義者として、世界共産化における宗主国・ソ連に日本の外交を一本化させるための「イデオロギー上の親ソ」であった。 日独伊三国同盟の支持に当たって、「親ソ」の海軍次官・豊田貞次郎は、松岡洋右に「もう一つ大事なことはソ連を同盟にいれることだ」と述べている。海軍では、「日独伊ソ四国同盟条約」がコンセンサス的に夢想されていた。及川古志郎・海軍大臣と豊田貞次郎・海軍次官は、米内の持論「日ソ同盟論」を実現する方向で、三国同盟条約に賛成した。 ただ、及川の個人的な本心は三国同盟に反対であったろう。なぜなら、及川とは「海軍最後の反ソ」であり、「海軍最後の反独」であった前海軍大臣・吉田善吾とともに思想において海軍では孤独だった。堀悌吉と山梨勝之進が追放された後、「親英米」も「反ソ」も海軍において、その存在は許されなかった。及川は、1937年の日支事変の勃発後、自分の思想を忘れることにして、「反ソ」に立つことはなかった。例えば、1941年7月2日の御前会議での「南進」決定にも賛成している。 さて、ヒトラーだが、1940年12月18日に本心である「反ソ」「反共」に再び回帰し、対ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命令した。「反英米+親ソ」であったはずの三国同盟(1940年9月27日)は、独ソ戦開始(1941年6月22日)によって、二年前の1939年における「反英米+反ソ」に回帰した。ヒトラーの意図を察知できずに、「日独伊ソ四国同盟」を妄想して、日ソ中立条約を(1941年4月13日)を締結するとは、松岡洋右とは愚鈍だった。だが、海軍の方は、もっと愚鈍で幼稚だった。日ソ中立条約を永遠に信頼できると護守して、ひたすら南進に熱を上げ、ソ連のアジア共産化(世界共産化の一環)の謀略に全面協力してしまった。 (B)インドシナ半島北東部の海南島占領は、英米に対する「第一次宣戦布告」 「反米」においても、米内光政のほうが松岡洋右よりも強硬で過激だった。松岡の「反米」は、日独伊ソによるユーラシア大陸横断同盟を完成させれば、それは英米との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与すると思考するもので、米国と戦争することは想定外であった。しかし、米内の「反米」は米国との戦争が前提となっていた。事実上の英米に対する宣戦布告だった海南島占領(1939年2月10日〜13日)は、「反英米」の極みだが、米内光政こそが海軍大臣として1938年11月25日の五相会議で「海南島は作戦上の必要ある場合これを攻略す」と強硬に諒解させ、国策としたものである。 海南島占領は、1939年2月10日から13日に米内の希望通り敢行された。翌3月15、16日のヒトラーのチェコ解体・保護国化に相当する、対英米戦争を準備する敵対行為であった。蒋介石は米内主導の海南島占領を指して「第二の満州事変」だと非難し、米国は、日米通商航海条約の破棄を通告した(1939年7月26日)。英国もまた、日英通商航海条約の破棄を通告した(1941年7月26日)。これらの国の対応は、外交的には合理性の範囲で妥当である。 対英米戦争が「日本国政府・軍部の日本国自身(=天皇・国民)に対する犯罪」であるとするならば、海南島占領を国家の意思としたことにおいて、米内光政は、海南島占領という「犯罪」の全責任を負う立場にある。「海南島占領➡南部仏印進駐➡香港攻略/フィリピン攻略/マレー半島攻略/シンガポール攻略/スマトラ・ボルネオ攻略」のドミノ的な軍事推移は止められないからである。 ソ連を“我が祖国”とする近衛文麿が、ソ連を攻めんとする「北進」主義の陸軍を「南進」にUターンさせるべく決行させた、米英に対する「第二次宣戦布告」である南部仏印進駐の部隊は、海軍艦艇も陸軍の輸送船団もみな、この海南島の三亜湾から出航した。1941年7月25日であった。海南島占領こそは、対英米戦争への確実な第一歩であった。 |
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1945年 |
1/2‐連合軍がニュルンベルクを空爆 1/3‐トルコ議会が対日断交を決議 マリアナ諸島から発進したB29×78機が名古屋・大阪を空襲 米艦載機500機が台湾・沖縄を空襲 1/6‐リンガエン湾(フィリピンのルソン島)に侵入した米艦隊が艦砲射撃を開始
B29×80機が九州を空襲 1/9‐米軍がルソン島に上陸 B29×60機が関東・東海道・近畿を空襲 1/12‐ソ連軍がドイツに大規模反攻を開始 バルジの戦いで独軍が撤退 1/13‐三河地震 ➡1月13日午前3時38分23秒に愛知県の三河地方を襲った直下型地震。震源が浅くマグニチュード6.8と規模が大きかったにも関わらず、現在でもこの地震について詳しいことは判っていない。 地震が発生した当時は大東亜戦争中であり、戦意を低下させないように(敵への情報流出も作戦へ影響するため)報道管制がしかれ、国は三河地震のことを一切報道するなと圧力をかけた、と言われる。死者1180人、行方不明者1126人、負傷者3866人。家屋の全壊は7221戸、半壊1万6555戸。 1/14‐B29×73機が名古屋を空襲、伊勢神宮外宮も被弾 1/16‐独軍がワルシャワより撤退 第4航空軍富永恭次司令官が独断で司令部をフィリピンから台湾に移す
アドルフ・ヒトラー独総統が総統地下壕での退避生活を開始 1/17‐ソ連軍がワルシャワを占領 1/18‐最高戦争指導会議で本土決戦体制を決定 1/19‐B29×80機が阪神を空襲 ソ連軍が独国境に到達 1/23‐ハンガリー臨時国民政府が連合国と休戦 1/24‐ルソン島に上陸した米軍がマニラへの南進を開始 1/27‐ソ連軍がアウシュヴィッツ強制収容所を解放
バルジの戦い(ヨーロッパ西部戦線)終結
B29×70機が東京を空襲 1/29‐米艦載機130機がスマトラ島を空襲 2/4‐ヤルタ会談(ソ連)開催。米大統領ルーズベルト、英首相チャーチル、ソ連指導者スターリンが対日本戦について協議する(〜2/11まで) |
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ヤルタ会談 ヤルタ会談は、1945年2月4日〜11日にクリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソ連)による首脳会談。 連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。 併せてヤルタ秘密協定が締結。ドイツ降伏後90日以内のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定された。 |
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1945年 |
2/13‐ソ連軍、ハンガリーのブダペスト占領(ブダペスト包囲戦終結)
英米軍、独のドレスデン爆撃 ➡米軍と英軍がドイツ東部の都市ドレスデンに対して実施した無差別爆撃を指す。この爆撃はドレスデンの街の85%を破壊し、3万人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。 2/18‐アメリカ軍、硫黄島に上陸 |
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1945年 |
2/14‐チリ、エクアドル、パラグアイ、ペルーが連合国に加わる 2/23‐アメリカ軍、フィリピンのマニラを占領 トルコが日本への宣戦布告ならびに国交断絶を正式に表明。 2/26‐エジプトが日本への宣戦布告を表明。 3/1‐サウジアラビアが日本への宣戦布告を表明。
3/3‐ソ連と休戦後中立であったフィンランドが枢軸国への宣戦布告を表明。
3/10‐アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)。死者は約10万人。 3/16‐硫黄島守備隊司令官栗林忠道中将が東京に訣別電報を送る。
3/18‐アメリカ軍がベルリンを空襲。 3/26‐硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅(硫黄島の戦い終結)。 アメリカ軍が沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸(沖縄戦の開始)。 3/27‐最後のV2ロケットがロンドンを空襲。
アルゼンチンが日本ならびにナチス・ドイツへの宣戦布告を表明。 3/29‐V1飛行爆弾による最後のロンドン空襲。 3/30‐ソ連軍がドイツ領オーストリアへの侵攻を開始する。 4/1‐米軍が沖縄本島に上陸 救援品輸送船「阿波丸」を米潜水艦が撃沈(阿波丸事件) ➡この事件で、船員1人を除く2,129名が死亡した。なお、阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に応じた緑十字船であり、これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権(=Safe-Conduct)を与えられ、船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。 4/5‐小磯内閣総辞職 ➡何をするにも動きが遅く効率が悪いため、「木炭自動車」と揶揄された。ついには、1945年(昭和20年)3月に米軍の沖縄上陸を許し、同月には中国国民党政府(重慶国民政府)との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職に至った。 4/5‐ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告 |
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◎日ソ中立条約の不延長通告について
➡この条約は、1941(昭和16)年4月30日に公布された。 しかし、1945(昭和20)年4月5日(条約どおり、期間満了の1年以上前である)、ソ連邦政府は本条約の期限満了1946(昭和21)年4月30日以降、延長しない旨の通告を行い、1945年8月8日にわが国に対して宣戦を布告した。 この延長しない旨(つまり、期限満了にともなう条約の廃棄)の通告は、本条約の正当な履行である。しかし、8月8日の宣戦布告以降のソ連の満州国侵略行為等は、日ソ中立条約有効期間内の明白な条約違反行為である。 |
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1945年 |
4/7‐鈴木貫太郎内閣成立 (➡「終戦内閣」) 枢密院議長の鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)4月7日から同年8月17日まで続いた。 外務大臣・東郷茂徳 海軍大臣・米内光政 戦艦大和が沖縄戦で沈没 4/11‐米軍がブーヘンヴァルト強制収容所を解放 スペイン政府が日本への宣戦布告ならびに国交断絶を表明 4/12‐ルーズベルト米大統領急逝、ハリー・S・トルーマン副大統領が第33代大統領に昇格 4/13‐ソ連軍がオーストリアのウィーンを占領 爆撃により皇居の一部や明治神宮の本殿・拝殿が焼失 4/15‐英軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放
4/16‐トルーマン米大統領が「日独の無条件降伏まで戦う」と声明
4/20‐ソ連軍がベルリン東北郊外に迫り、市街に砲撃を開始
4/22‐ソ連戦車隊がベルリン市街に突入(ベルリン市街戦、5月2日占領) 4/25‐サンフランシスコ会議開催(6月26日まで)、国際連合創設について議論
イタリア社会共和国が降伏を表明する 4/28‐ムッソリーニら銃殺さる 4/29‐米軍がダッハウ強制収容所を解放 英空軍が窮乏中のオランダに食料を投下 4/30‐独総統アドルフ・ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・ゲッベルスが首相に就任 日本政府が官庁の休日全廃を決定 5/1‐ドイツでヨーゼフ・ゲッベルス首相夫妻が子ども達6人を殺害後に自殺。 ユーゴスラビア軍がイタリアのトリエステに入る イギリス軍がラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)を占領 5/2‐ベルリン陥落。ソ連軍がドイツ国会議事堂に赤旗を掲げる 5/5‐チェコスロバキアのプラハで対ナチ蜂起 デンマーク、ドイツ支配から独立 ドイツのデーニッツ大統領がUボートに戦闘停止を命令 5/7‐ドイツがフランスのランスで降伏文書に調印。
5/8‐ドイツの降伏文書が発効。 5/9‐ドイツとソ連との間で降伏文書の調印式が行われる
ソ連軍がプラハに入る(プラハの戦い) 駐日ドイツ大使館で、ヒトラーの告別式が行われる 5/15‐スロベニアでの戦闘が停止する。第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線が終結 ドイツでデーニッツ大統領が戦犯として逮捕される。 5/23‐ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺
デンマークが日本への宣戦布告を表明。 6/6‐ブラジルが日本への宣戦布告を表明 6/21‐アメリカ軍が沖縄を占領 6/23‐沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(沖縄戦の組織的抵抗が終結。後にこの日が沖縄県の慰霊の日と定められる) 6/26‐サンフランシスコ会議で国際連合憲章が調印される ギリシャが日本への宣戦布告を表明 7/1‐連合軍によるドイツ分割統治が始まる(連合軍軍政期)
7/5‐フィリピンが独立を宣言する 7/6‐ノルウェーが日本への宣戦布告を表明。 7/16‐アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で史上初の原子爆弾の爆発実験に成功(トリニティ実験)
7/17‐ポツダム会談開始。アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、南京国民政府主席の蒋介石が会談。 |
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ポツダム会談 【時期】 1945年7月17日〜8月2日 【場所】 ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿
【主な出席者】 アメリカ合衆国大統領:ハリー・S・トルーマン
英国首相:ウィンストン・チャーチル(途中に選挙で政権が交代しクレメント・アトリーと交代) ソヴィエト連邦共産党書記長:ヨシフ・スターリン 【ポツダム会談の内容】 会談では主に第二次世界大戦の戦後処理とソ連の対日参戦を含めた日本の終戦について話し合われた。 ・連合国として日本に対するポツダム宣言の発表。 |
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1945年 |
7/21‐アメリカ大統領トルーマンが原子爆弾使用を承認する
7/23‐フランス・ヴィシー政権の元首だったフィリップ・ペタンが反逆罪で告発される
7/26‐ポツダム宣言発表。連合国は日本に降伏を要求する イギリスで第二次大戦後初となる総選挙が実施され、労働党が第一党となる。ウィンストン・チャーチルは下野し、クレメント・アトリーが首相の座に着いた。 7/28‐日本はポツダム宣言を黙殺する声明を出す。 政府は、7月27日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。鈴木貫太郎首相は同日、記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。 |
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ポツダム宣言
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1945年 |
8/2‐ポツダム会談終了 8/6‐米軍が広島市へ原子爆弾投下 |
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8/7‐海軍がジェット戦闘機橘花の試験飛行を実施
8/8‐ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告 8/9‐ソ連軍が満州・北朝鮮・樺太で対日参戦開始
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8/9日本で断続的に終戦の方法を巡って御前会議が開催される 米軍が長崎市へ原子爆弾投下 |
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8/14‐日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を回答。なお、終戦直後は8月14日が日本政府にとっての終戦の日であった マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国軍最高司令官に就任 大本営が攻勢作戦の停止を発令(自衛反撃は継続) 8/15‐陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件) |
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8/15‐玉音放送 日本時間正午に昭和天皇の肉声で読み上げられた終戦詔書がラジオで放送される。日本国民にとっての終戦の日となる(終戦記念日) 鈴木貫太郎内閣総辞職。 8/16‐スターリンがソ連軍の北海道占領を米トルーマン大統領に要求(トルーマンが18日に拒否) 8/17‐東久邇宮内閣成立 皇族・陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が第43代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)8月17日から同年10月9日➡皇族が首相となった内閣は史上唯一 8/18‐満州国皇帝 愛新覚羅溥儀(あいしんかくら
ふぎ)退位 ソ連軍が千島列島で攻撃開始 8/19大本営が戦闘中止を発令 昭和天皇が東久邇宮首相に燈火管制解除等を指示 8/22‐海軍総隊司令部が戦闘停止を発令 天気予報(ラジオ)復活(3年8カ月ぶり)
燈火管制解除・信書検閲停止 8/23‐日本陸海軍の復員開始 ➡復員とは、軍隊の体制を「戦時」から「平時」に戻し、兵を戦地から母国へ帰還させること 音響管制解除・電報小包制限解除・娯楽興行再開許可 8/28‐連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行場に到着 東久邇宮首相が記者会見で「将来言論を活発に」「一億総懺悔」等発言(新聞発表は8月30日) 8/30‐マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部を横浜税関に設置
ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を停止
8/31‐米軍主力が横浜・館山に上陸 9/2‐東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印(第二次世界大戦終結) |
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B残存艦艇のソ連譲渡計画―――ソ連の対日侵攻に協力しようとした米内光政 鈴木貫太郎を首班とする「終戦内閣」の誕生に伴い(1945年4月7日)、海軍大臣最後の数カ月における米内の行動は異様であった。第一は、ドイツ降伏(5月7日)以降に米内の行った異様な人事であり、第二は常軌を逸した「親ソ」行動である。 (A)大西瀧治郎のマニラから呼び寄せ及び及川古志郎と井上成美の馘首 イ) 「一憶玉砕/本土決戦」に血が上り、狂気の形相を強めていく大西瀧治郎(=「親ソ」とか「反英米」とかのイデオロギーがさっぱりわからぬ人物)をマニラから呼び寄せ、軍令部次長とした(5月19日)。大西は案の定「二千万人特攻!」の一憶玉砕論を最後まで展開した。この米内人事の意図は、もはや日本の余力では米国に勝てる見込みはないから、一憶玉砕の本土決戦をつづけ、ソ連が行動を起こしてくれる(仲介に入る、または日本に侵攻してくる)まで、粘り続けることであったとしか理解できない。(➡この米内の意図は、あくまで状況推測である) ロ) 海軍の中で、唯一例外の「反ソ」を心に秘めた、及川古志郎を軍令部総長のポストから追放した(5月29日)。後任には“継戦”を叫ぶ、豊田副武をもってきた。この米内人事の意図も先と同じで、継戦している間に、ソ連の仲介又は日本侵攻が実現した時、「反ソ」を心に秘める及川は邪魔になるからであった。(➡これも、あくまで推測である) ハ) 井上成美は、社会主義思想が嫌いであり、本心からの早期終戦主義者であった。嫌がる井上成美を海軍大将に昇格させて(5月15日付)、次官ポストから追放した。この米内人事の意図も先と同じ、米内にとって何が何でも「早期終戦=米国日本占領」は避けたかった。あくまで、継戦し「ソ連仲介・ソ連日本侵攻」に動いてもらいたかったのである。(➡米内の意図は推測であるが、真実味を帯びてくる) ニ) ソ連大使館(NKGBとGRUの巣窟)の謀略工作網の一員である近衛文麿の子分でコミュニストの高木惣吉については、従来のまま「終戦の研究担当」という偽装看板で最後まで重用することにした。この米内人事の意図もおなじで、ソ連が日本侵攻した時、ソ連とのパイプを繋いでおくことであろう。(➡米内の意図は、ここまでくれば確信的である) (B)米内の「親ソ」行動―――ソ連への「日本の海軍艦艇」譲渡計画 米内の親ソ行動は、常軌を逸していた。ドイツが降伏して、日本の惨たる敗北とソ連の対日侵攻が既定と思われた時点での信じがたい二つの行動である。 イ) 第一は、米内は、東郷茂徳・外務大臣に、 ロ) 第二は、自分の腹心でかつての副官の横山一郎・海軍大将を、(在モスクワの臼井淑郎・海軍大臣に替えて)新しい駐ソ海軍武官に事実上の発令をしていた。ソ連への亡命後の自分の処遇について、ソ連と交渉させるためではないか。だが、この件はソ連大使館が横山にビザを出さなかったので立ち消えになった。 この対ソ秘密接触は、海軍大臣としては大スキャンダルである。「空母/戦艦/巡洋艦の対ソ譲渡」は、これらの艦艇が日本への侵攻時に極めて有効な戦力になる以上、米内が祖国日本に叛逆して、ソ連の対日侵攻に協力したことになる。海軍刑法第二十二条の叛乱罪に相当する行為である。米内は1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻と同時に、叛乱未遂罪(海軍刑法第二十六条)で逮捕され軍法会議にかけられ、処断されていなければならなかった。
以上の米内光政の行動の、その真実は一つしかない。米内にとって“ソ連こそ我が祖国”であったのである。よって、米国より先にソ連に日本を占領させるのが第一目的、それが叶わない時のためにソ連への亡命の準備を整えておく、これが第二目的であった。 つまり、米内光政が「親米」であったなどというのは、全くの虚像であり、歴史事実に反する。祖国日本よりソ連を慕った「激越な親ソ」、それが、米内光政の真像である。 親ソ一辺倒の米内が、1945年7月26日のポツダム宣言の受諾を支持したのは、@自分の腹心でかつての副官の横山一郎・海軍大将の駐ソ海軍武官構想(亡命構想)がソ連側のビザ発給拒否によって失敗に終わったこと。A1945年7月8日頃から始まった、近衛文麿によるソ連和平仲介工作が、仲介の見返り条件について難航し、結局7月26日のポツダム宣言を迎えてしまい失敗に終わった、これら@、Aの洞察において、もはやソ連の和平仲介(参戦)は期待できないと洞察したからである。 特にAのポツダム宣言は交戦国である英米中(=意図的に日本と非交戦国のソ連抜きで宣言した)により発せられた無条件降伏を迫る和平宣言であるから、この宣言(和平・停戦案)が発せられた以上、ソ連の和平仲介(和平参戦も含む)は理論上、全くなくなってしまった。よって、戦後の米国占領下で、大東亜戦争中、自身が「反米・親ソ分子」の「最重要人物の一人であった」ことで摘発されるのを回避するため、早急に証拠をもみ消し、「親米」であったことを装う必要に迫られたための「親米」偽装工作の一環であった。 ところで、コミュニスト近衛文麿がソ連による和平仲介工作の見返りとして用意した条件は恐るべき売国的条件である。以下に近衛がソ連(スターリン)に示そうとした「近衛和平仲介」案を紹介する。
この「近衛和平仲介案」と対極的な、先述の「近衛上奏文」の関係はいかなるものか。それは、「近衛上奏文」の第一の目的は、「親英米」の昭和天皇を騙し、ポスト小磯内閣の終戦内閣の首班(首相)になることであった。第二の目的は、「近衛終戦内閣」において、スターリン直轄の「近衛共産内閣」(1944年につくられた、スターリン傀儡のポーランド「ルブリン政権」や、1945年の北朝鮮の「金日成政権」と同一タイプ)を、ソ連軍の日本侵攻に呼応して作ろうとしたのである。「近衛上奏文」は、近衛のこのひめた真意をカムフラージュする煙幕であった。が、昭和天皇は見抜かれていた。「終戦内閣」は「近衛文麿内閣」ではなく「鈴木貫太郎内閣」であった。 C“国家叛逆者”米内光政―――「大東亜戦争」三つの大罪 米内光政の、大東亜戦争に関する「罪」は以下の三つである。 イ) 日支戦争拡大の「罪」 ロ) マリアナ沖海戦後の1944年7月、敗北必至の日本海軍の惨たる実態と講和・終戦を、天皇に上奏しなかった「罪」 ハ) 特攻制度創設とトンデモ兵器生産の「罪」 |
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(5)コミュニスト高木惣吉と「第二ゾルゲ事件」
@大東亜戦争開戦時の海軍赤化工作と終戦時のソ連日本占領工作
高木惣吉は、いかがわしさの漂う不気味な海軍軍人であった。海軍の中で、後にも先にも高木惣吉のような、“海軍内の政治宣伝・洗脳工作”を職業とした海軍将校は一人もいない。高木惣吉ほど極左人脈をもった海軍軍人も前例がない。
高木とは、熱烈なコミュニストであったし、「天性の情報工作屋」であった。高木の真像を見誤ると@1941年の対米開戦にいたる本当の海軍の意思も、A1945年の終戦において海軍が何を企んで動いていたかも、その歴史が事実から遠のいてしまう。
1941年の海軍の対米開戦の決断に関し、石川信吾・大佐の「第一委員会」とともに、高木惣吉・大佐の「昭和研究会・海軍支店(第二昭和研究会)」を軽視してはならない。それは重大な働きをしたからである。
(A)海軍内「対米開戦」洗脳と調査課の研究会―――高木が隊長のGRU宣伝隊
高木惣吉の異様な行動は、なんといっても海軍の中に全く不必要な「第二昭和研究会」をつくったことである。しかも、近衛文麿の「昭和研究会」を模倣して自身の発案でつくったのではなく、近衛文麿(ソ連)の指示・命令でつくられた、正真正銘の「昭和研究会・海軍支店」であった。
この「研究会」における高木の狙いは、対米戦争を決断するムードを、海軍内に広く充満させていくことだった。この意味で、1941年1月から6月にかけての「研究会」の精力的な活動は、外部から海軍嘱託にした左翼人士達の思想が海軍内に大きく浸透していくことに貢献し、目的は、百点満点で達成された。なお、宣伝・洗脳・煽動の対象は、ふつうは、“組織の外”を標的とするが、高木は海軍の“組織の内”を標的とした。これが、国民を標的とした陸軍の政治宣伝活動との相違でもあった。
この「海軍版・昭和研究会」が、「海軍のブレーン・トラスト」でないことは、そのメンバーが軍事や海軍の専門家ではなく、海軍が必要としない連中ばかりだった事実において明白である。
つぎに、各「研究会」の主な構成メンバーとその思想本籍を示す。
イ)「政治懇談会」
メンバーは、以下の通り。
「岸本誠二郎、佐々弘雄(朝日新聞社)、杉原荒太(外務省)、田中慎次郎(朝日新聞社)、田中二郎、細川護貞、矢部貞治(幹事)、湯川盛夫」
岸本誠二郎:マルクス経済学者で、著書に『講座 近代経済学批判T〜W近代経済学の基本性格』 岸本誠二郎、都留重人(監修) 東洋経済新
報社。都留重人は外務省で大暗躍した「GRU工作員」
佐々弘雄:東京朝日新聞社論説委員・昭和研究会に参加し、近衛新体制運動の理論面を担当。太平洋戦争中は東條内閣に批判的見解から内閣倒閣を進めるべく近衛文麿、細川護貞、海軍の高木惣吉、陸軍皇道派の柳川平助、小畑敏四郎、五・一五事件の三上卓、血盟団事件の四元義隆などの人物と親しく交友を持って東條暗殺を企てた。ゾルゲ事件の尾崎秀実と交友があり、事件発覚時に、関連の記録を実子の淳行らが、風呂場で焼却した。という筋金入りのコミュニスト。
田中慎次郎:朝日新聞政治経済部長。1941年7月2日の御前会議の内容を尾崎秀美に渡してゾルゲを通じスターリンにリーク打電させた。「GRU工作員」
杉原荒太:戦後外務省条約局長。鳩山一郎の外交ブレーン。1956年の日ソ国交回復の時、北方領土の返還妨害で、河野一郎と杉原荒太が“二大ワル”として歴史に名を留めている。
※1956年10月18日の北方領土問題交渉中、河野一郎は、フルシチョフの大きく先端が鋭いペーパーナイフを見て、刺されたらたまらないと、警戒していた。レーニンの写真入りのそのペーパーナイフを取ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをくれるよう頼んだ。フルシチョフは気前良く河野にペーパーナイフをあげた。河野一郎は会談後、鳩山一郎に、「フルシチョフがそれを振り回すからヤバクて仕方が無いから分捕った。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう。」と、ペーパーナイフを鳩山にプレゼントした。
矢部貞治:「コミンテルン32年テーゼ」を信奉するれっきとした共産党系コミュニスト。尾崎秀美と同じ「GRU工作員」であった。
このような、ソ連と通牒している赤い人物たちがどうして(各国の軍艦の性能諸元や海軍関係の統計数字の分析などを所管する)海軍省調査課の業務として必要なのか。
ロ)「太平洋懇談会」
『改造』『中央公論』『日本評論』『文藝春秋』の四名の雑誌編集長だけがメンバーの、雑談会であった。対外的になぜかこの存在はマル秘にされていた。『文藝春秋』を除けば、マルキストばかりが執筆人の、“共産革命バンザイ”を社是としていた三雑誌の「最極左」編集長三名の話をどうして海軍は拝聴する必要があるのか。
ハ)「対米研究会」
「対米研究会」のメンバーには外務省で大暗躍をしていた「GRU工作員」都留重人がいた。都留重人と高木惣吉が、このように交友関係があった事実は特記に値する。
以上のほかに、「外交懇談会」「思想懇談会」「総合研究会」「戦時生産研究会」「法律研究会」「国防経済研究会」の6研究会があった。
これら、九つの高木惣吉の「研究会」の最大の成果が、1941年6月の『帝国国防国家論』で海軍内に広く配布された。石川信吾らの「海事国防政策委員会第一委員会(第一委員会)」の『現情勢下において帝国海軍の執るべき態度』(1941年6月5日)が、海軍首脳の決裁を受けた直後だった。
そして、石川信吾の『現情勢下において帝国海軍の執るべき態度』と高木惣吉・矢部貞治らの『帝国国防国家論』とが両輪となって、海軍の意思を統一して、「対英米戦争を辞せず」の1941年7月2日の御前会議「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」へと繋がっていく、大きな役割を果たしたのである。
『帝国国防国家論』の内容は基本的に二本柱からなる。
イ)
第一は、日本は「東亜新秩序」を作らねばならないから、この東亜(東アジア)全体から英米を追放しなくてはならない。
ロ)
日本が計画経済に移行せねばならない理由は、それによって、「国防国家=共産体制」が実現し、ソ連のような大産業生産力を手にすることができるからである。
と、なんとも合理的根拠なき妄想ではないか。
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情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱(1941年7月2日御前会議 第二次近衛内閣) 第一 方針 1.帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す
2.帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す
3.帝国は右目的達成の為如何なる障害をも之を排除す 第二 要綱 1.蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す情勢の推移に対し適時重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す
2.帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完追し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
3.独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す
4.前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ 5.米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三国条約に基き行動す但し武力行使の時機及方法は自主的に之を定む
6.速に国内戦争時体制の徹底的強化に移行す特に国土防衛の強化に勉む 7.具体的処置に関しては別に之を定む |
(B)対米終戦妨害とソ連軍導入の研究―――高木惣吉の「終戦の研究」
1944年8月から「終戦の研究」が特命になった高木は、もっと露骨に、近衛文麿を中心とするコミュニスト・グループの重要メンバーになっていた。高木惣吉は、ソ連軍を日本列島に侵攻させて、冷戦期の東欧のように、日本をソ連の支配下に置く「ソ連の奴隷国」化を目指す、大東亜戦争の最終過程の諸工作に入っていた。
「第一ゾルゲ・尾崎機関」は、主として、大東亜戦争開戦前の1941年7月2日の御前会議の機密情報をスターリンへと漏洩した、「近衛文麿/富田健治➡田中慎次郎/佐々弘雄➡尾崎秀美/ゾルゲ」のルートに犬養健/西園寺公一/牛場友彦らを加えた、起訴されたのは僅かだがいったんは“容疑者となった犯罪者”のグループを指す。
1944〜45年大東亜戦争終戦前の「第二ゾルゲ・尾崎機関」は、近衛文麿を中核に、ソ連軍の日本列島侵攻・占領を手引きするもので、外務省からは尾形昭二/伊藤述史/杉原荒太、陸軍からは種村佐孝(すけたか)/酒井鎬次、海軍からは高木惣吉、内務省からは富田健治、など錚々たるGRU工作員たちで構成されていた。
外務省の伊藤述史は、「第二次世界大戦は、世界を共産化するための戦争だ」と世界共産革命を公然と吹聴する講演をするほど、そのコミュニストぶりは、白鳥敏夫/尾形昭二/杉原荒太らと並び、当時の外務省内でも知られていた。
なお、高木惣吉は矢部や富田ばかりではなく、この杉原荒太とも昵懇であった。
なお、高木惣吉がソ連べったりの“スターリン信徒”で熱烈な共産主義者であったことを、高木惣吉の『日記』から証明しておく。なお、この内容が、ヤルタ秘密協定を踏まえているように、高木にはソ連からヤルタ秘密協定が知らされていたと解される。1945年6月22日付の高木惣吉『日記』の一部を順不同で紹介する。
@日本の承認事項
「米ソ戦に至るまで、および米ソ戦に際し、日本の対ソ協力(=日本はソ連陣営)」
「アラビア海、イラン湾に対するソ連勢力の進出(=ソ連のイラン占領=イランからの英国追放)」
A対ソ接近工作
「内蒙古をソ連邦内または延安(=毛沢東)政権下編入」
「ソ軍隊物質の北支への通過許可(=北支の毛沢東支配の容認)」
B対ソ交渉
「南樺太の還付、北千島の譲渡、津軽海峡の解放・・・・」
「北満州鉄道の譲渡、北満州の一部および内蒙古のソ連行政化編入(=ソ連属国化容認)」
「ソ連に対する関東租借(=旅順/大連)移譲」
「ソ連軍の満州あるいは北支・中支進駐」
「南朝鮮あるいは北支港湾のソ連租借」
「日本における赤化運動(=日本の共産化)の容認」
「南洋占領地(=インドネシア、フィリピン、シンガポール他)のソ連移譲」
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1945年2月11日 外務省仮訳 [全文] 三大国即チ「ソヴィエト」聯邦,「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ 一 外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルベシ 二 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃(=日露戦争)ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ
(甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ (乙)大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルベク又「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルベシ (丙)東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満州鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルベシ但シ「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス 三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ 前記ノ外蒙古竝ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領(=米大統領)ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス
三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」聯邦ノ右要求ガ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルベキコトヲ協定セリ 「ソヴィエト」聯邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス |
近衛は、ソ連に和平仲介の特使として行く際、「随員」を七名選んだ。
@細川護貞(秘書・娘婿)
A富田健治(内務官僚としては先駆的共産主義者)
B松本重治(蒋介石との和平チャンネルつぶしの立役者・戦後もソ連工作員)
C酒井鎬次(「近衛和平仲介案」のスターリンへの報償(土産)リストをソ連大使館と協議して書いた男)
D松谷誠(高木惣吉の親友(陸軍)・確信犯のコミュニストだが、GRUや戦後の日本共産党との関係は不明)
E高木惣吉
F伊藤述史(コミュニスト外交官・GRU工作員)
なお、最終の随行員リストからは、東条グループの反対から酒井鎬次が落ち、伊藤述史も外務省内の「親ソ反対」グループが反対して「やや反ソ、やや親米」の松本俊一に変更になった。
松谷誠は、終戦時の自分のソ連観について、次のように、スターリンを崇拝し日本の共産化を是としていたと、あっけらかんと告白している。
「スターリンは独ソ戦後、・・・・人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとするごときは考えざらん」
「ソ連の民族政策は寛容のものなり。・・・・よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん」
「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織(=共産独裁政権)の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」
スターリンに対して、松谷は、なんとも度外れの妄想を抱いていたのだろう。このような狂信的な共産主義者の松谷が、近衛文麿とともにソ連と交渉したら、日本は“ソ連の奴隷国”になって、人口の半分以上が殺戮と餓死を強要され、日本国は永久に地球から消えていただろう。
近衛文麿の訪ソを阻んだのは、
@ポツダム宣言
A(原爆犠牲者・被害者には申し訳ない言い方だが、この悲惨な犠牲がソ連から日本国・日本国民を守ったという意味での)広島・長崎への原爆投下
B昭和天皇のご聖断
であった。
松谷誠が、阿南惟幾・陸軍大臣秘書官をし、1945年4月からは鈴木貫太郎・総理大臣の秘書官をしていたのである。日本国が英米との終戦工作を全く拒絶したのは当然であった。
(C)今に続く、高木惣吉の虚像づくり、帝国海軍の虚像づくり
高木惣吉がコミュニストであることは、当時から、近衛文麿の目にとまり、“近衛専属のソ連スパイ”に選ばれるほど、周辺によく知られていた。高木が「ソ連の工作員」になったのは、ソルボンヌ大学への留学(聴講生)を含め、パリに駐在していた時であろう(1928年2月から1929年11月、身分は単なる語学研修生)。
戦後すぐ高木は、共産党のフロント組織となった岩波書店の“お抱え執筆者”になるが、これも高木がコミュニストだったからである。『世界』には、高木のエッセー七本が掲載された。高木の岩波新書は、二冊もある。
それよりも、高木惣吉の正体は、「コミンテルン32年テーゼ」を奉戴する、過激な天皇制廃止論者であった。ポツダム宣言受諾の昭和天皇の“ご聖断”は、(せっかく俺が作戦を立てたソ連軍の日本占領をふいにした)憲法違反だから、昭和天皇を断頭台で処刑しろと、下賤な「プロレタリアート」高木惣吉の怒り狂う、共産革命信条が露わである。
「一国国政の最高責任者である(昭和天皇)は、国利民福のために・・・・(ポツダム宣言受諾という)憲法違反の責を負うて断頭台に登る覚悟と勇気とを願うものである。」
また、高木惣吉は、1944年、東條英機政権打倒の急先鋒だったから、「親英米」かに誤解されている。東條は、確かに「反英米」で社会主義シンパであったが、ソ連軍の侵攻があればためらわずソ連と戦う、伝統的な陸軍軍人であった。東條が「心からの親ソ」でなかったことが、高木の「反・東條」の動機であった。現代的に言えば、東條は「左翼」にとどまって、ソ連軍の日本侵攻を歓迎する「極左」でなかったことが、高木の倒閣運動となった。
高木惣吉の「終戦研究」とは、海軍首脳が、また、できれば陸軍と外務省の高官たちも、@ソ連に関して正しい認識をしないように、A米国に関して間違った認識をするようにBソ連軍の対日侵攻という迫る危機に無関心となり「ソ連が中立を守る」とか「ソ連が米英との終戦を斡旋する」とかの非現実に思考と議論を浪費するようにしむける「洗脳工作」そのものであった。
ソ連軍の日本侵攻・占領まで、対英米への降伏をさせない、いわゆる「終戦妨害」の任務を遂行する、軍内・政府部内に潜入した「ソ連の謀略部隊の一員」であった。
ソ連と通牒した共産主義者が跋扈するようになった陸軍参謀本部の方は、巨大組織の陸軍のいたるところにまだ存在した「反ソ」将校たちが考える、対英米戦/対支那戦の早期終戦と対ソ防衛戦への転換の動きを封じ、その芽をつぶすべく、「情報遮断の謀略」が、公然と行われていた。
例えばルーズヴェルトとスターリンのヤルタ会談(1945年2月)の上記内容「ソ連は(ドイツ降伏後)二、三ヶ月をもって日本に参戦す」をすっぱ抜いたスウェーデンの小野寺武官の電報は参謀本部作戦課に届いたが、同課の何者かに破り捨てられ陸軍の上層部にも外務省にも伝わることがなかった。犯人は瀬島龍三であろうとするのが通説である。
また、原田統吉(満州国チタ領事館勤務)が、六月初旬に、新京の関東軍を通じて送った「ソ連軍の侵攻は7〜8月」の二回目の電報は、東京の参謀本部に、届いていなかった。関東軍参謀本部でこの情報を握りつぶして東京に転電しなかった者がいたからである。草場辰巳、瀬島龍三とともに東京裁判でソ連側証人として出廷した、松村知勝(参謀副長兼作戦課長)や情報課長(第二課長)の浅田三郎ら数名が容疑者として考えられる。なお、軍事史学会編『機密戦争日誌』の4月16日付け「チタ領事館の3月1日における目撃・・・・」とある記述は、どうも原田統吉の一回目の電報を指している。それにしても、「3月1日」の重要情報を、どうして一ヶ月半もたった「4月16日」に種村佐孝は記録したのか。原田統吉が6月に打電した「ソ連侵攻は7〜8月」の二回目の電報の方は、『機密戦争日誌』に記録されていない。転電されなかったからである。もし、転電されていたとすれば、東京の参謀本部の誰かが握りつぶしたことになる。実は、参謀本部内では、作戦課による“電報握りつぶし”は日常化しており、“作戦課の無法と独裁の体制”が確立していたのである。話を海軍に戻す。
在スイスのアレン・ダレス(OSS:米CIAの前身の「戦略事務局」、フォスター・ダレス米国務長官の実弟)と藤村義朗・海軍中佐との間で進んだ終戦協議に関する「海軍少将以上をスイスに派遣せられたい」との藤村の二十一回(5月8日〜6月15日)に及ぶ電報を、米内大臣はそっけなく扱い関心を示すことはなかった。ソ連以外は信じない、「親ソ一辺倒」「反英米一辺倒」の米内光政らしい行動である。こんな米内だから、米内を標的とする近衛・高木コンビの「対英米終戦妨害の洗脳工作はうまく進んでいったのである。
ここで、1937年7月7日から1945年8月15日までの大東亜戦争のうち、対米戦争期間の1941年1月1日から1945年8月15日頃までの世界史年表を掲載する。
その後、海軍の対米戦争の詳細な考察を行う。
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グレゴリオ暦表示(1941年〜1945年) |
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年 |
出来事名およびその事実説明 |
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1941年 |
1/2‐海軍航空部隊が昆明を爆撃(〜3日) 1/6‐米海軍が ミズーリ (戦艦)を起工 1/7‐皖南事変。国民党軍が移動中の新四軍(主力は中国共産党軍)を包囲攻撃(第二次反共攻勢) 1/8‐東條陸相が戦陣訓を通達 ➡このなかに「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節がある。 1/10‐独ソ不可侵条約更新 1/17‐国民政府が新四軍に解散命令 1/20‐中国共産党が新四軍を再編 1/21‐松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を申入れ、両国受諾 1/22‐中国共産党が皖南事変に抗議し国民政府に国共調整臨時弁法12条を要求 1/23‐野村駐米大使が出発 ➡野村 吉三郎がルーズベルトとは旧知の間柄ということが期待されて駐米大使に起用された。 1/31‐日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し停戦協定を妥結 2/3‐大本営政府連絡会議で対独伊ソ交渉要綱を決定(日ソ国交調整) |
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1941年 |
2/7‐タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催 2/13‐統制経済の複雑化に対応するため,警視庁が経済保安課を経済警察部に昇格 2/14‐野村駐米大使がルーズベルト大統領と初会談 2/15‐堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と初会談 2/26‐情報局が各総合雑誌に執筆禁止者(非左翼自由主義者)の名簿を内示(➡自由主義の圧殺) 2/28‐タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引揚げを準備 3/8‐野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉開始 3/11‐米国レンドリース法成立(武器貸与法) この法律はアメリカ合衆国大統領に対して、「その国の防衛が合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分する」ことを認めるものであった。 アメリカ合衆国が1941年から1945年にかけて、イギリス、ソビエト連邦、中国、フランスやその他の連合国に対して、イギリスの場合はニューファンドランド、バミューダ諸島、イギリス領西インド諸島の基地を提供することと引き換えに、膨大な量の軍需物資を供給するプログラムのことである。 総額501億ドルの物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、4月には16億ドルが中国へ提供された。逆レンドリース(Reverse Lend Lease)は、航空基地を提供するなどアメリカに対するサービスで構成されている。額にして78億ドル相当で、そのうち68億ドルはイギリスとイギリス連邦諸国によって提供された。 ➡レンドリース法の中国への適用は日本の反米感情を煽る 4/1‐国民学校令施行(義務教育六年から八年へ延長、教育目的変更)
4/1‐ドレミファの階名がイロハとなる 4/3‐ロンメル将軍の独軍が北アフリカ戦線で英軍を撃破 ➡エルヴィン・ロンメル 砂漠のアフリカ戦線において巧みな戦車部隊と歩兵戦術により戦力的に優勢なイギリス軍をたびたび打ち破り、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。 数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動・多才な人柄・ナチス党員では無かった事などから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥のひとりである。 4/6‐ユーゴスラビアがソ連と不可侵条約に調印 ナチス・ドイツを始めとする枢軸国がユーゴスラビアとギリシャに侵攻 4/13‐日ソ中立条約成立 |
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相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵をうたった声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。 ●条約締結の意図 日本:日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的➡対英米戦争への準備 ソ連:独ヒトラーが独ソ戦の準備を進めていることを察知し、その場合、日本とドイツの東西からの挟み撃ちとなることを恐れ、それを回避するためだけの目的。 ➡日本が企図している四国同盟などさらさら考えていない。 ➡ドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻を企図しているように、ソ連には、この日ソ中立条約をいつまでも遵守する意図などさらさらなかった。そのような「法の無視」は「ルソー教の直系」である全体主義国家の独裁者の根本思想である。 |
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1941年 |
4/17‐ユーゴスラビアが独に降伏 4/17‐「日米諒解案」を野村大使が近衛文麿外務大臣臨時代理に対して電報送付 (駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハル会談)
4/23‐ギリシャが独に降伏 5/19‐越南独立同盟(ベトミン)成立 ➡ベトナム独立同盟会は、フランス植民地からの独立を求めるために、結成されたベトナムの独立運動組織である。ホー・チ・ミンによって率いられ、ヴォー・グエン・ザップおよびファン・バン・ドンは、ベトミンをともに指導した。 5/24‐デンマーク海峡海戦 ➡デンマーク海峡を進んでいた独戦艦ビスマルクに英戦艦フッドとプリンス・オブ・ウェールズの部隊が南から接近し、戦闘となった。戦艦フッドは戦艦ビスマルクに撃沈され、乗組員1415名中、生存者は僅か3名だった。その後、プリンス・オブ・ウェールズは、司令塔が破壊され、艦長外1名を除く司令塔要員全員が死傷したほか、喫水線下にたてつづけにビスマルクの主砲弾三発が命中して浸水したために戦闘海域を退避した。
このときまでに、戦艦ビスマルクは戦艦プリンス・オブ・ウェールズの主砲弾三発の命中を受け、2,000トンの海水が流入していた。 5/27‐ドイツ海軍の戦艦ビスマルク沈没 ➡戦艦フッド沈没の一報にイギリス海軍は、戦艦ビスマルクに対する復讐心を燃やし、本国艦隊のほぼすべてを注ぎ込んで捜索を続け、英戦艦キング・ジョージ5世およびロドネイ、英重巡洋艦ノーフォークおよびドーセットシャーとの88分間の戦闘で独戦艦ビスマルクは約400発の砲弾と3本の魚雷を受け4つの主砲塔のうち3基が破壊された上、火薬庫の温度上昇のため注水処置で反撃不能となった。残燃料も攻撃を回避するだけの量は無かった為自沈を決定した。ビスマルクは午前10時40分に沈没した。ドーセットシャーは乗組員の救助に当たったが、Uボートの接近により途中で救助を断念した。結局2,206名のうち救助されたのは115名であった。 なお、ビスマルクの船体は1989年6月8日に発見された。発見者はタイタニック号の探査も行った海洋考古学者のロバート・バラードである。 5/27‐ルーズベルト米大統領が国家非常事態宣言を発令 6/22‐ナチス・ドイツがソビエト連邦に対して攻撃開始(独ソ戦開始) ➡独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。ポーランドを共に占領し同盟国であると考えられていたドイツとソ連であるが、1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称した。 |
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◎独ソ戦開始 ●ナチス・ドイツ(ヒトラー)の思想 ナチズム=「反・ユダヤ主義」+「反共産主義」+「民族至上主義」+これらを達成するための手段としての「全体主義(国家社会主義)」の複合 @ドイツ貧困の原因はユダヤ人資本家による搾取であり、あらゆる企業を国有化または準国有化し、ユダヤ人をドイツから絶滅させ、ドイツ人労働者が暮らしていけるようにする。
➡マルクス主義を「反ユダヤ主義」へ転化 「ブルジョアジー=ユダヤ民族」「プロレタリアート=ドイツ民族」➡ドイツ民族による独裁(内政) A国際資本(=世界革命を目指すソ連共産党及びコミンテルン)の手先である共産主義者(=ドイツ共産党)を排除し、ユダヤ人マルクスの共産主義(=共産主義も所詮ユダヤ民族であるマルクスの考えたドイツ民族からの搾取のイデオロギーにすぎないとヒトラーは考えたと思われる)からドイツとドイツ国民を守る。「反共産主義」 ➡ドイツ共産党粛清(社会ファシズム論排撃)、ナチス独裁へ(内政) ➡独ソ不可侵条約(共産主義の流入排除)(外交) ➡独ソ戦開始(共産党本部撃滅を目指す)(戦争) Bユダヤ人は、世界の文化を破壊する最も劣悪な民族であり、社会に害悪をもたらすので徹底的に絶滅しなければならない ➡民族主義(内政=国内のユダヤ人虐殺、戦争:国外のユダヤ人虐殺) Cドイツ人は、世界全ての人種の中で最も優れるアーリア人種の子孫であり、世界で最も美しく優秀な民族である
➡「アーリア人至上主義」「ドイツ第三帝国・千年王国」➡民族戦争(ヨーロッパ全土侵攻へ) Dドイツ民族には、世界の文化発展を指導する使命がある「アーリア人至上主義」 ➡アーリア人の世界支配(ソ連に敗北し、夢かなわず) ●ソ連(スターリン)の思想 @農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。 ➡国家死滅論(ユートピア思想)の否定⇔国家権力強化論 A第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」とする『共産党宣言』以来の国際主義を維持するためにも、その中心となる世界の「共産党本部・ソ連」の絶対護持という戦争目的をベールで覆い、あくまでロシア人の愛国心に訴えかけてロシア人の祖国護持という戦争目的にすりかえて煽動した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまず(共産党に忠実な)ロシア民族の健康のために乾杯する。それは、(共産党に忠実な)ロシアの民族が、ソ連を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。➡レーニンと合わせて自国民6,600万人を殺戮した張本人が、何をかいわんや、である。 ◎結局1939年8月23日の独ソ不可侵条約締結とは、 思想的には全く相いれない、犬猿の仲のヒトラーとスターリンが、ナチス・ドイツが欧州戦争を始めるに当たり、 @ナチス・ヒトラーとしては、 とりあえずナチスの欧州占領までは、ソ連・スターリンの対独参戦を牽制するためだけの目的であった。 Aソ連・スターリンにとっては、ナチスが対ソ開戦した場合、 1937年の日独伊防共協定に基づいて日本が東から対ソ開戦し、日独の東西からの挟撃を回避すること。 ナチスの欧州占領が成功すれば、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド及びルーマニアという独立国を、独ソで「領土と政治の再配置」する秘密議定書を含んでいたように、漁夫の利が得られること。 以上@、Aの相互の目的が当面合致する理由においてのみ締結されたものであり、いずれ独ソ戦は回避できないことは、両者とも心中想定済みであり、独ソ戦は欧州戦争の状況による時期とタイミングだけの問題であった。 ➡日本はその意図を正確に見抜けず、1941年4月13日の日ソ中立条約締結は、ソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶことで、国力に勝るアメリカに対抗することを構想した、「反英米・親独ソ」松岡洋右外相の迷妄の産物であった。この条約締結でソ連はいつヒトラーが対ソ戦を開始しても、東の日本からの挟撃を懸念する必要が払拭された。ただし、ソ連から対独開戦すれば、日独伊三国同盟により、日ソ中立条約があるといえども、日本の対ソ開戦の可能性が残るが、ナチス・ドイツから対ソ開戦させれば、日本の対ソ開戦は日独伊三国同盟、日ソ中立条約のいずれにおいても、日本の対ソ開戦の大義は消滅する。 |
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1941 |
6/26‐フィンランドがソ連に対して宣戦布告(継続戦争) 6/27‐ハンガリーがソ連に対して宣戦布告 ユーゴスラビア(チトー)がパルチザンを組織し、ドイツ軍に対するゲリラ戦を開始 6/30‐ドイツが日本に対して対ソ参戦を申入れるも日本は拒否 7/2‐御前会議「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」 7/7‐アイスランドにアメリカ軍が駐留 関東軍特種演習(関東軍が独断で対ソ戦=北進を準備、〜8月) 7/12‐英ソ相互援助協定締結(6/22の独ソ戦開始に伴う協定) 7/16‐第2次近衛内閣総辞職(松岡洋右外相更迭) |
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1941年(昭和16年)7月2日 御前会議決定
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1941年 |
7/18‐第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎) 引き続きの近衛文麿が第39代内閣総理大臣に任命され、1941年(昭和16年)7月18日から同年10月18日まで続いた。 ➡松岡の後任の外相には、第2次内閣で商工相を務めた豊田貞次郎があてられたが、豊田本人は外交畑出身ではないため、肝心の対米交渉がまったく進捗しなかった。(このような人選からして、対米交渉を成立させる意図が全くない。) 7/23‐ルーズベルト米大統領,シェンノート指揮下の義勇空軍の中国配置を認可し,軍事援助を明らかにする。
日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い成立 ➡コミュニスト近衛文麿は、7/7の関東軍特種演習(関東軍が独断で対ソ戦=北進を準備、〜8月)を懸念し、陸軍の南進を方向づける策略を企てる。(陸軍南進=対英米戦の決意) 7/25‐米が在米対日資産を凍結(➡米国が日本南進準備に反応) 7/26‐英が在英日本資産を凍結(➡英国が日本南進準備に反応) 極東アメリカ軍をフィリピンに創設(司令官ダグラス・マッカーサー中将) 7/27‐蘭印が在蘭印日本資産を凍結(➡蘭領インドネシアが日本南進準備に即座に反応) 7/28‐日本軍、フランス領インドシナ南部進駐(南部仏印進駐) 1940年9月23日に日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)している。➡日本軍は仏印全土に進駐完了する。
8/1‐米、石油の対日輸出全面禁止を発表 ➡7/25〜8/1頃までにおける一連の対日措置を、アメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べABCD包囲網、ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ぶ。 ➡日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。 8/12‐大西洋憲章発表(英米) 8/18‐豊田外相が日米首脳会談を要請 9/3‐日米首脳会談の要請を米国が拒否 9/6‐御前会議にて「帝国国策遂行要領」を決定 ➡アメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められた。しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。その際、以下の明治天皇の御製が引用されている。 “四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ” |
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◎帝国国策遂行要領 昭和十六年九月六日御前会議決定 帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾撥性に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に依り遂行す 1.
帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す 2.
帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
3.
前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外(=中国及び満州)の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む
別紙 1.
米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
1.
帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し事変を解決せんとする企図を妨害せざること
2.
ビルマ公路(=蒋介石支援ルート)を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をなさざること 2.
米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること
1.
日仏間の約定に基く日仏印間特殊関係(=仏印進駐)を容認すること 2.
泰(=タイ)、蘭印(蘭領インドネシア)、支那及極東ソ領内に軍事的権益を設定せざること 3.
極東に於ける兵備を現状以上に増強せざること 3.
米英は帝国の所要物資獲得に協力すること 1.
帝国との通商を恢復し且南西太平洋に於ける両国領土(=英:マレーシア、シンガポール等、米:フィリピン等)より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること
2.
帝国と泰及蘭印との間の経済提携に付友好的に協力すること 第二 帝国の約諾し得る限度 第一に示す帝国の要求の応諾せらるるに於ては 1.
帝国は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること
2.
帝国は公正なる極東平和確立後仏領印度支那より撤兵する用意あること
3. 帝国は比島(=フィリピン)の中立を保証する用意あること |
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1941年 |
9/28‐日本軍、西貢(サイゴン)に上陸 10/16‐近衛首相、内閣を総辞職 10/18‐東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣 陸軍大臣の東條英機が第40代内閣総理大臣に任命され、1941年(昭和16年)10月18日から1944年(昭和19年)7月22日まで続いた。 ➡この時、近衛も東條も、時局収拾(=己らの失政の尻拭い)のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。しかし、木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対したため、東條が組閣することになった。 ➡木戸幸一(あるいは昭和天皇)は、近衛と東条の天皇・皇族への責任転嫁、つまり、「皇族内閣の失政」=「天皇制(皇族)廃止論」の陰謀を見抜いていたと思われる。 11/5‐御前会議にて「帝国国策遂行要領」を変更決定(対英米戦争決定) |
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◎帝国国策遂行要領 昭和十六年十一月五日御前会議決定 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し左記処置を採る 1.
武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
2.
対米交渉は別紙(甲案、乙案)に依り之を行う 3.
独伊との提携強化を図る 4.
武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す
5.
対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す 別紙 甲案 九月二十五日我方提案を左の通り緩和す 1.通商無差別問題 九月二十五日案にて到底妥結の見込みなき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す(=日本に対する経済制裁が解かれるなら、蒋介石への軍事物資の供給も認める)」と修正す
2.三国条約の解釈及履行問題 我方に於て自衛権の解釈を濫りに拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては従来屢々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
3.撤兵問題 本件は左記の通り緩和す A.支那に於ける駐兵及撤兵 支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙疆(=内モンゴル)の一定地域及び海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始治安確立と共に二年以内に之を完了すべし
(註)所要時間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途ろするものなる旨を以て応酬するものす B.仏印に於ける駐兵及撤兵 日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし、尚四原則(=4/17「日米諒解案」のハル四原則)に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明なるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす 乙案 1.
日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す
2.
日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす
3.
日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油の対日供給を約す
4.
米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
備考 1.
必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし
2. 必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する既定を追加挿入するものとす
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1941年 |
11/17‐東條首相の施政方針演説を録音放送(初の議会放送) 11/23‐南雲機動艦隊が択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に集結 ➡南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊 11/26‐ハル国務長官が日本側乙案を拒否し中国撤兵要求を提議 ➡いわゆる「ハル・ノート」 同日、南雲空母機動部隊は、米国務長官ハルが野村駐米大使にハル・ノートを提示する前に、既にハワイへ向けて出港した |
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◎いわゆる「ハル・ノート」原文 日米交渉十一月二十六日米側提案 合衆国及日本国間協定ノ基礎概略 第一項政策ニ関スル相互宣言案 合衆国政府及日本国政府ハ共ニ太平洋ノ平和ヲ欲シ其ノ国策ハ太平洋地域全般ニ亙ル永続的且廣汎ナル平和ヲ目的トシ、両国ハ、右地域ニ於テ何等領土的企図ヲ有セス、他国ヲ脅威シ又ハ隣接国ニ対シ侵略的ニ武力ヲ行使スルノ意図ナク又其ノ国策ニ於テハ相互間及一切ノ他国政府トノ間ノ関係ノ基礎タル左記根本諸原則ヲ積極的ニ支持シ且之ヲ実際的ニ適用スヘキ旨闡明ス
日本国政府及合衆国政府ハ慢性的政治不安定ノ根絶、頻繁ナル経済的崩壊ノ防止及平和ノ基礎設定ノ為メ相互間並ニ他国家及他国民トノ間ノ経済関係ニ於テ左記諸原則ヲ積極的ニ支持シ且実際的ニ適用スヘキコトニ合意セリ
第二項合衆国政府及日本国政府ノ採ルヘキ措置
●日本政府の反応・対応 ハル・ノートの前段には“Strictly Confidential, tentative
and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)”との記述があり、ハル・ノートは試案であることが明記されているのにもかかわらず、なぜ外務省が“tentative
and without commitment”の箇所を削除して枢密院に提出し、東郷が天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになったのか、外務省および東郷外相の真意は不明である。(日本の国立公文書館の記録では“tentative and without commitment”の箇所は有り) 日本政府はハル・ノートを最後通牒であると受け取った。ハル・ノートを提示されたことを理由に、軍部を中心に強硬意見が主流になり、それに引きずられた形で昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたとされる。この結果、12月1日御前会議にて対英米開戦が決議され、ハル・ノートが提示される以前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分、真珠湾攻撃の攻撃命令が発せられた。 ➡「ハル・ノート」は上記原文のとおり、日本としては到底受け入れることができないものであり、米国の一方的な国益追求文書であり、日本に対米開戦を決定づけさせる企図のある文書である。しかし、「ハル・ノート」に対する日本側の対応も不可思議な点が多すぎる。つまり、この「ハル・ノート」を対米開戦の決定的根拠(=日本に先制攻撃させるためのアメリカの謀略である)と短絡的に結び付けるのは、稚拙である。 「ハル・ノート」に対する日本政府の対応(上記)を見れば、日本政府も「ハル・ノート」の内容が日本にとって「YES」であれ「NO」であれ、対米開戦を決定していたことが明白である。 外務省の「ハル・ノート」の「tentative and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)」部分の意図的削除は、公文書偽造によって「最後通牒」を強調づけ、“最後まで対米開戦に消極的でった昭和天皇”を説得する格好の材料である。 また、南雲 忠一司令長官率いる第一航空艦隊が、「ハル・ノート」提示前に択捉島の単冠湾をハワイに向けて出航している。仮に海軍が対米開戦に消極的なら、「ハル・ノート」が提示される前に、第一航空艦隊の出航を命ずるであろうか。もし、海軍が「ハル・ノート」の内容が日本側に「YES」の内容だったら、すでに出航させた第一航空艦隊に「反転して帰還せよ」などと命ずる作戦を立てたとすれば、それは軍事的に“素人海軍”である。 そう考えれば、南雲 忠一司令長官率いる第一航空艦隊は“「ハル・ノート」の内容が日本側に「YES」でも「NO」でも関係なくハワイを攻撃せよ”との命令の下に出航した、と結論付ける外ない。 さらに附け加えると、米国のコーデル・ハル国務長官の11月26日「ハル・ノート」は、日本側にとって「最後通牒」と受け止めても仕方がない内容であるのは事実だが、4月17日に駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」の内容は日本側に受容できるものであった。強硬派の陸軍でさえ歓迎した。 この極めて重要な、対米開戦を回避できたかもしれない、“最後の平和交渉”であった「日米諒解案」を完全無視した、「反英米・親ソ」のコミュニスト・近衛文麿首相と「超反英米・親独・親ソ」の松岡洋右外相の両名の犯した罪は非常に重い。この両名は、堂々の「A級戦犯」である。 |
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1941年 |
11/27‐大本営政府連絡会議が「ハル・ノートは日本に対する最後通牒である」と結論 12/1‐御前会議(対米英蘭開戦の件) 12/6‐英国がフィンランド・ハンガリー王国・ルーマニア王国に対して宣戦布告 12/11‐日独伊単独不講和協定(12/17公布) 12/8‐日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃(パール・ハーバー奇襲)で「対英米戦争」が開戦する。日本、対米英宣戦布告。 |
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1942年 |
1/1‐円建公定制実施(為替相場のドル基準廃止)
ワシントンDCで連合国共同宣言(Declaration
by United Nations)調印(枢軸国との単独不講和を確認) ➡連合国26カ国(一部は亡命政府)により署名された宣言で、第二次世界大戦の戦争目的を述べ、各国が持てるすべての物的人的資源を枢軸国に対する戦争遂行に充てること、ドイツ、日本、イタリアと各国が単独で休戦または講和をしないことを明らかにした。(前年12/11の日独伊単独不講和協定に対抗) 1/2‐日本軍がマニラを占領 1/8‐英米軍がタイ王国の都市攻撃を開始 1/11‐日本軍がセレベス(インドネシア/スラウェシ)島に上陸 (1/20)‐(独首脳が欧州ユダヤ人の殺害を決定(ヴァンゼー会議)) ➡この会議については、存在および決議文書の信憑性についての賛否がある。ただし、ナチス・ドイツが数百万人のユダヤ人を大量殺戮したのは歴史事実である。 1/23‐日本軍がパプアニューギニア領ラバウルに上陸 1/25‐タイ王国が英米に対して宣戦布告 2/9‐日本軍がシンガポールに上陸(日本VS英) 2/14‐パレンバン(インドネシア・スマトラ島)に日本軍落下傘部隊降下 2/15‐日本軍がシンガポールを陥落させる。➡日本勝利(山下奉文中将) 2/20‐バリ島沖海戦(日VS米/蘭/英)➡日本勝利(阿部俊雄大佐) 2/27‐インドネシア・スラバヤ沖海戦 (〜2/28)(日VS米/蘭/英/豪)➡日本勝利(高木武雄少将) 3/1‐バタビア(ジャワ島・ジャカルタ)沖海戦 (日VS米/豪/蘭) ➡日本勝利(原
顕三郎少将) 日本軍がジャワに上陸 3/8‐日本軍がラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)を占領
日本軍がニューギニアのラエ・サラモアに上陸 3/9‐ジャワの連合軍が降伏(蘭印軍9万3千人、英米豪軍5千人)
3/12‐マッカーサーがフィリピンからオーストラリアに脱出 ➡フィリピン・コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアに飛び立った。この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。 3/22‐第2次シルテ湾海戦(地中海海戦:伊VS英) 3/28‐英空軍が独リューベックを大空襲 4/9‐バターンの捕虜行進 ➡バターンの捕虜行進は日本軍の大本営によって計画され、組織的に行われたものではない。当初、トラックや鉄道も利用した輸送計画を立てていた。捕虜数が想定より多すぎたことや、計画実行段階での齟齬により、結果的に徒歩行進となった。が、米国側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として、戦意向上、すなわち世論の反日感情を掻き立てることに利用した。 4/18‐空母発進の米陸軍機16機が東京・名古屋・神戸などを初空襲(ドーリットル空襲) 5/1‐日本軍がビルマのマンダレーを占領 5/5‐大本営がミッドウェー島・アリューシャン西部の攻略を命令 英軍がマダガスカルに上陸(マダガスカルの戦い:仏VS英) 5/7‐コレヒドール島の米軍が降伏(日本軍が東南アジア全域を制覇) 珊瑚海海戦(〜5月8日)(日VS米/豪) ➡日本海軍はニューギニアのポートモレスビー攻略という当初の作戦目標を達成できなかった。 5/27‐チェコのプラハでラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件(6/4死亡) 5/30‐英空軍がケルン大空襲 6/5‐ミッドウェー海戦(〜6月7日 ) |
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1942年 |
6/10‐ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。 6/24‐ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのレジャーキで住民を虐殺 7/1‐関門鉄道トンネル開業(貨物列車のみ) 7/6‐ミッドウェー海戦での敗北後、日本軍はFS作戦を行うことに決め、ガダルカナル島ルンガ岬に飛行場設営隊を送り飛行場の建設を開始した。飛行場の第一期工事は8月5日には完成し、16日に戦闘機を派遣する予定だった。 8/9‐第一次ソロモン海戦 8/13‐米国でマンハッタン計画開始 8/24‐第二次ソロモン海戦 10/26‐南太平洋海戦 11/8‐米英連合軍が北アフリカ上陸作戦を開始(トーチ作戦) 11/9‐仏ヴィシー政権が北アフリカ上陸作戦に抗議し対米国交断絶 11/10フランソワ・ダルラン(ヴィシーフランス)軍総司令官が、フランス領アルジェリアのヴィシー政府軍と連合軍の休戦協定を結ぶ。20万人の兵が連合国側に投降。 11/11‐独軍がヴィシー政権統治下のフランス本土を占領(アントン作戦)
11/12‐第三次ソロモン海戦(〜11月15日) 11/22‐独軍がスターリングラードでソ連軍に包囲さる(スターリングラードの戦い) 11/30‐ルンガ沖開戦 12/2‐米国シカゴ大学でウラン核分裂連鎖反応に成功 12/7‐フランソワ・ダルラン大将がアフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督にに就任する。(➡連合国側の承諾による) 12/8‐ニューギニアのバサブア島で日本軍兵800人玉砕 12/20‐汪兆銘南京政府主席来日 12/24‐ダルラン大将が暗殺される。 12/31‐大本営がガダルカナル島撤退を決定 |
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1943年 |
1/2‐ニューギニアのブナで日本軍全滅 1/29‐ソロモン諸島のレンネル島沖海戦(〜30日) 2/1‐ガダルカナル島から日本軍撤退(以後4日および7日に実施) 電力および電灯の使用規制が始まる 2/2‐スターリングラードで包囲されていたドイツ第6軍が降伏 2/18‐ナチスによって「白いバラ(非暴力主義の反ナチス)」運動のメンバーが逮捕される➡ミュンヘンの大学生五名がギロチンで処刑 2/18‐ゲッベルス独宣伝相がベルリンで総力戦演説 3/18‐首相の権限強化などを含む戦時行政特例法・戦時行政職権特例等公布 4/18‐山本五十六・連合艦隊司令長官、米軍機の攻撃を受け戦死(海軍甲事件) |
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1943年 |
4/19‐ワルシャワ・ゲットー蜂起勃発 ➡第二次世界大戦中のポーランドのワルシャワのワルシャワ・ゲットー(=強制収容地区)において、1943年4月19日から5月16日の間、続いた武装蜂起である。この反乱は、強制収容所に送られることが死を意味することに気がついたユダヤ人が命をかけてドイツ軍に対して起こしたものである。 5/1‐木炭および薪が配給制に移行 5/12‐アッツ島玉砕 5/29‐米領アリューシャン列島にて海軍守備隊玉砕 6/1‐東京都制公布。(7月1日施行) 6/8‐衣料簡素化の実施決定 日本海軍の戦艦「陸奥」が呉港沖柱島泊地に停泊中、爆発事故を起こし沈没 7/5‐「クルスクの戦い」始まる。8月27日まで ➡クルスクの戦いとは第二次世界大戦中の東部戦線において、ドイツ軍の「ツィタデレ(=城塞)作戦」によってソ連軍との間で行われた戦闘を指す。両軍合計6000両以上の史上最大の戦車戦 7/10‐英米連合軍シチリア島へ上陸開始 7/12‐ソロモン諸島(コロンバンガラ島)沖海戦 7/25‐伊でムッソリーニが失脚、ピエトロ・バドリオが首相就任 8/1‐アメリカ軍によるルーマニアの油田への爆撃作戦 ➡ドイツ、イタリアへの重要な石油供給源となっていたルーマニアのプロエシュティ油田に対する爆撃作戦 9/8‐イタリアのバドリオ政権 連合国に無条件降伏 9/21‐徴兵猶予の取り消しと法文系大学教育停止の決定
9/23‐勤労挺身隊(25歳未満女子)の動員 9/30‐御前会議にて「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定。絶対国防圏設定 |
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「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」 昭和18年9月30日 閣議決定 方針 一、帝国ハ今明年内ニ戦局ノ大勢ヲ決スルヲ目途トシ敵米英ニ対シ其ノ攻勢企画ヲ破砕シツツ速カニ必勝ノ戦略態勢ヲ確立スルト共ニ決勝戦力特ニ航空戦力ヲ急速増強シ主動的ニ対米英戦ヲ遂行ス 二、帝国ハ弥々独トノ提携ヲ密ニシ共同戦争ノ完遂ニ邁進スルト共ニ進ンテ対「ソ」関係ノ好転ヲ図ル 三、速ニ国内決戦態勢ヲ確立スルト共ニ大東亜ノ結束ヲ愈々強化ス 要領 一、万難ヲ排シ概ネ昭和十九年中期ヲ目途トシ米英ノ進攻ニ対応スヘキ戦略態勢ヲ確立シツツ随時敵ノ反攻戦力ヲ捕促破砕ス 帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス 戦争ノ終始ヲ通シ圏内海上交通ヲ確保ス (➡絶対国防圏) 二、「ソ」ニ対シテハ極力日「ソ」戦ノ惹起ヲ防止シ進ンテ日「ソ」国交ノ好転ヲ図ルト共ニ機ヲ見テ独「ソ」間ノ和平ヲ斡旋スルニ努ム 三、重慶ニ対シテハ不断ノ強圧ヲ継続シ特ニ支那大陸ヨリスル我本土空襲並海上交通ノ妨害ヲ制扼シツツ機ヲ見テ速カニ支那問題ノ解決ヲ図ル 四、独ニ対シテハ手段ヲ尽シテ提携緊密化ヲ図ル但シ対「ソ」戦ヲ惹起スルカ如キコトナカラシム 五、大東亜ノ諸国家諸民族ニ対シテハ民心ヲ把握シ帝国ニ対スル戦争協力ヲ確保増進スル如ク指導ス 敵側ノ政謀略ニ対シテハ厳ニ警戒シ機先ヲ制シテ所要ノ措置ヲ講ス 六、統帥ト国務トノ連繋ヲ益々緊密ニシ戦争指導ヲ愈々活溌ニス 七、速カニ国内総力ヲ結集発揮スル為決戦施策ヲ断行シテ決勝戦力特ニ航空戦力ヲ増強シ挙国赴難ノ士気昂揚ヲ図ル 八、対敵宣伝謀略ハ一貰セル方針ノ下ニ強力ニ之ヲ業ヒ其ノ重点ヲ枢軸道義ノ宣揚、我カ大東亜政策ノ徹底、主敵米ノ戦意喪失、米英「ソ」支ノ離間及印度独立ニ指向ス 「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」ニ基ク当面ノ緊急措置ニ関スル件(略) |
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1943年 |
10/3‐インドネシアにて郷土防衛義勇軍創設 10/11‐日本国のフィリピンにおける軍政が撤廃 10/14‐フィリピン第二共和国成立 11/5‐大東亜会議(〜11/6) 11/6‐大東亜共同宣言 |
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大東亞共同宣言 抑〻世界各國ガ各〻其ノ所ヲ得、相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ。然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家、他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞シウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因ココニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス 一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ、道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ、大東亞ノ親和ヲ確立ス 一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ、各〻民族ノ創造性ヲ伸暢シ、大東亞ノ文化ヲ昂揚ス 一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ、其ノ經濟發展ヲ圖リ、大東亞ノ繁榮ヲ攝iス 一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ、人種的差別ヲ撤廢シ、普ク文化ヲ交流シ、進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス 【歴史事実】 (1937年)盧溝橋事件➡第二次上海事変➡日独伊防共協定➡パナイ号事件・レディーバード事件➡(1938年)「国民政府を相手とせず」➡第二次ヴィンソン法➡東亜新秩序➡近衛三原則➡(1939年)海南島占領➡独紙不可侵条約➡第二次世界大戦➡(1940年)汪兆銘南京政府樹立➡ドイツがパリ占領➡第三次ヴィンソン法➡近衛新体制運動➡バトル・オブ・ブリテン➡両洋艦隊法➡基本国策要綱(大東亜新秩序建設)➡大本営連絡会議「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」南進を促す➡北部仏印進駐➡日独伊三国軍事同盟➡(1941年)野村大使がルーズベルト大統領と初会談➡野村大使とハル国務長官が日米交渉開始➡米国レンド・リース法成立(蒋介石への軍事支援)➡日ソ中立条約➡「日米諒解案」(無視)➡御前会議「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」➡日本・仏印間に南部仏印進駐の細目話合成立➡米国が在米対日資産凍結➡英国が在英対日資産凍結➡蘭印が在蘭印対日資産凍結➡南部仏印進駐➡米国・対日石油輸出全面禁止(ABCD包囲網)➡御前会議「帝国国策遂行要領」(対英米戦争を辞せざる決意)➡御前会議「帝国国策遂行要領」(対英米戦争の決定)➡南雲空母機動部隊がハワイへ向け出航⇒「ハル・ノート」➡真珠湾攻撃・マレー侵攻➡大東亜戦争(対英米戦争)開戦 さて、大東亜戦争の原因は「英米」か「日本」か決定できるのか?どの事件が原因であると決定できるのか?。戦争の原因とは、外交戦略に敗れ、先制武力攻撃に訴えた側にあると考えるしかないのではないか?。 |
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1943年 |
11/10‐米艦隊がタラワ沖に侵攻 11/23‐ギルバート諸島のマキン島、タラワ島にて横浜海軍航空隊の残留海軍守備隊が玉砕 11/27‐カイロ会談 11/28‐テヘラン会談(〜12月1日まで) 12/1‐学徒出陣第一陣(陸軍) ➡兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。それまで(旧制)高校や(旧制)大学に在籍する学生は、26歳まで徴兵猶予されていた。 12/10‐文部省、学童の疎開を促進する 12/24‐徴兵年齢を1歳引き下げ、満19歳からとする |
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1944年 |
1/2‐米軍がニューギニア島のグンビ岬へ上陸 1/4‐モンテ・カッシーノの戦い開始 ➡1943年9月3日の連合軍のイタリア半島上陸から、9月8日のイタリア王国降伏を挟み、1945年5月まで続けられたイタリア本土における戦い。1943年7月24日、ムッソリーニは逮捕・幽閉された。新しいピエトロ・バドリオ政権は連合軍のイタリア半島上陸と同時に連合軍との休戦を表明。この休戦の結果、ドイツ軍はイタリア半島全土を占領した。ドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを救出し傀儡の「イタリア社会共和国」を作らせ、イタリアに増援部隊を送り連合軍との交戦を続けた。 1/7‐大本営がインパール作戦を認可 ➡インパール作戦とは、1944年(昭和19年)3月8日に日本陸軍により開始され7月3日まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。 補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端となった。
無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。(指揮官:牟田口廉也中将) 1/14‐ソ連軍がレニングラードとノヴゴロドで攻勢を開始 1/20‐イギリス軍ベルリン空襲。2300トンの爆弾を投下 1/22‐連合軍、シングル作戦開始(イタリアのアンツィオおよびネットゥーノで行われた戦い) 1/24‐大本営が大陸打通作戦(一号作戦)を命令 ➡日中戦争(支那事変)中の1944年4月17日から12月10日にかけて日本陸軍により中国大陸で行われた作戦 【戦略目的】 @華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することで、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶこと。中国戦線の兵力の機動力を高めて、小兵力での戦線維持を実現する狙い。
Aアメリカ陸空軍の長距離爆撃機B-29基地に使用されると予想される航空基地を占領し、本土空襲を予防すること。
B蒋介石の率いる中国国民党軍の撃破とその継戦意思を破砕すること。 C戦況悪化の中で勝利のニュースを作り、国民の士気を維持すること。 1/26‐東京・名古屋で初の疎開命令 1/27‐ソ連軍がレニングラード市を解放 1/30‐米軍がマーシャル諸島マジュロ環礁に侵攻 1/31‐米軍がマーシャル諸島クェゼリン環礁に上陸 2/3‐米軍がマーシャル諸島占領 2/4‐大学・高専での軍事教育全面強化 2/7‐イタリア軍、アンツィオで反攻開始 2/15‐米軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃(イタリア) 2/17‐米軍によるトラック島空襲 エニウェトクの戦い開始(カロリン諸島) 2/23‐竹槍事件 ➡竹槍事件とは、東條英機首相による新聞記者の言論弾圧事件。 東條英機首相は、戦争遂行のために「東條幕府」と揶揄されるほどの独裁的政治を行い、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施したため、2月23日付の毎日新聞朝刊に「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」の見出しで新名丈夫記者の執筆による記事が掲載された。この記事に対し、東條は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。これを海軍が国民徴用令によって庇護下に置き、新名を救った。 3/3‐政府が三綱領発表(国民学校学童給食・空地利用食糧増産・疎開促進) 3/8‐日本軍がインパール作戦を開始 3/18‐ドイツ軍がハンガリー王国を占領(マルガレーテI作戦) ➡ナチス・ドイツが計画した、ハンガリー王国とルーマニア王国の制圧作戦。ハンガリーの制圧作戦がマルガレーテI、ルーマニアの制圧作戦はマルガレーテIIである。1943年7月25日イタリア王国が降伏し、ドイツは衝撃を受けた。これを期に他の同盟国も寝返るのではないかと懸念したヒトラーは、国防軍最高司令部に対し、ハンガリー・ルーマニアの占領計画策定を下令した。この際にマルガレーテ作戦は作成されていた。1944年になると独ソ戦でソ連赤軍が優勢となり、ドイツはこれらの国を枢軸国側に引止めるために、両国を占領し政権を掌握することを計画した。 3/27‐初の疎開列車(夜に上野発、上越・常磐・東北へ) 3/31‐連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将が殉職 4/1‐福留繁・連合艦隊参謀長(中将)が、マリアナ沖海戦に関する最高機密「Z作戦文書」と暗号書の入った鞄をフィリピン・ゲリラに盗られ、それが米陸軍に渡り完全に翻訳された事件。古賀峯一海軍大将の殉職と合わせて(海軍乙事件)という。 4/1‐旅行制限強化 4/17‐日本軍が大陸打通作戦を開始(〜12/10) 5/9‐ソ連軍、セヴァストーポリ解放 ➡セヴァストポーリは、人口360,000人の、黒海に面したクリミア半島南西部に位置するウクライナの都市 5/12‐ドイツ軍がクリミア半島(黒海の北岸、ウクライナにある半島)から撤退 5/18‐ソ連がクリミアからクリミア・タタール人を追放する ➡スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、全住民が中央アジアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、住民の多くが命を落とした。この出来事は「追放」として、現在でも、クリミア・タタール人の間で広く記憶されている。 6/2‐拉孟・騰越の戦い(〜9月14日)。 ➡拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟・騰越地区で行われた、日本軍と中国・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のこと 6/4‐連合軍、ローマに入る。 6/6‐連合軍によるノルマンディー上陸作戦発動(〜6/26) ➡ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。世界史上、最大の上陸作戦である。「D−DAY」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。 6/9‐ソ連軍、フィンランドを攻撃開始 6/13‐ヴィレル・ボカージュの戦い ➡ノルマンディーに上陸を果たした連合軍は、順次内陸部への進行を開始。フランスのカーン市南方、ヴィレル・ボカージュで生起したイギリス軍とドイツ軍の戦い。 6/15‐マリアナ諸島のサイパン島に米軍が攻撃開始。(サイパンの戦い) 6/19‐マリアナ沖海戦。B29が北九州を空襲する。 6/22‐ソ連軍がバグラチオン作戦を開始。(〜8/19) ➡ベラルーシ(白ロシア)で開始されたソ連赤軍のドイツ軍に対する最大の反撃作戦である。長期戦により兵力を消耗していたドイツ軍は、膨大な物資を元に損害を度外視した赤軍流の電撃戦に敗走を重ね、同年7月末までには独ソ戦開始時の国境付近まで押し戻されることとなった。 7/3‐日本軍はインパール作戦を放棄 7/7‐サイパン島で日本軍が全滅 |
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1944年 |
7/9‐イギリス軍とカナダ軍によるカーン占領 ➡カーン(Caen)はフランスの北西部に位置する都市。ノルマンディー上陸作戦ののち、カーンは激戦地となり、街は灰燼と帰した。カナダ軍とイギリス軍がカーンを確保したのは7/9日である。 7/18‐日本の東条内閣総辞職 7/20‐ドイツでヒトラー暗殺未遂事件が発生。 7/21‐米軍がグアム島に上陸し、グアムの戦いが始まる。 7/22‐小磯内閣成立。 予備役陸軍大将・朝鮮総督の小磯國昭が第41代内閣総理大臣に任命され、1944年(昭和19年)7月22日から1945年(昭和20年)4月7日まで続いた ➡昭和天皇は、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を持たない小磯の指導力不足を懸念し、新内閣は小磯と米内光政元首相の連立内閣という形式を取らせることにした。このため、米内は現役に復帰し、副首相格の海軍大臣に就任した。 7/22‐米ニューハンプシャー州において開かれていた連合国金融通貨会議においてブレトン・ウッズ協定が締結される。国際通貨基金・世界銀行が設立。➡連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され1945年に発効した国際金融機構についての協定 |
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◎ブレトン・ウッズ体制 国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制をブレトン・ウッズ体制という。この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。 そのため金1オンス=35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定された。 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。安定した自由貿易の利益が先進工業国全体の経済を改善した。 その後、アメリカ経済の拡張的な姿勢によりドルのインフレが進行。一段の景気拡張と完全雇用を志向したニクソン政権により通貨価値の保持が放棄された。 1971年にニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止した。 1973年には変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は崩壊した。以後、1970年代はドルの凋落とオイルショックによる政策の迷走に見舞われた。 |
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1944年 |
8/1‐ワルシャワ蜂起 ➡ナチス・ドイツ占領下のポーランドのワルシャワで起こった武装蜂起である。 8/2‐トルコ共和国がドイツと断交 8/5‐大本営政府連絡会議を最高戦争指導会議と改称する 8/10‐グアムで日本軍全滅 8/12‐連合軍、イタリアのフィレンツェ占領 8/15‐ドラグーン作戦 ➡南フランスプロヴァンス地方への連合軍の上陸作戦 8/20‐在支米空軍約80機が九州・中国地方に来襲 8/22‐沖縄からの疎開船対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃により沈没(学童七百人を含む千五百人が死亡) 8/23‐ルーマニア王国でクーデター(ルーマニア革命)。国王ミハイ1世が政権を掌握し、連合国と休戦して枢軸国から離脱 8/24‐パリ市民が反独武装蜂起 8/25‐連合軍によるパリの解放
ルーマニア王国がドイツに宣戦布告 8/26‐ブルガリア王国が枢軸国から離脱 8/30‐ソ連軍がルーマニアを占領 9/2‐フィンランドがドイツと断交。 9/3‐連合国軍がベルギー(ブリュッセル)に入る
9/5‐ソ連がブルガリアに宣戦布告 9/7‐ベルギー政府が本国に復帰。 9/8‐ドイツがV2ロケットによるロンドン攻撃を開始 ➡ドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケット(弾道ミサイル)であり、大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。 9/9‐シャルル・ド・ゴールによるフランス臨時政府成立 ➡シャルル・ド・ゴールは、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第五共和政初代大統領 ブルガリアで祖国戦線によるクーデター。 9/10‐ブルガリアがドイツに宣戦布告 9/19‐フィンランドとソ連が休戦 10/2‐ワルシャワ蜂起がドイツ軍に鎮圧される 10/9‐イギリスのチャーチルとソ連のスターリンがモスクワで会談 10/9‐ワシントンD.C.のダンバートン・オークス会議でアメリカ合衆国、イギリス、中華民国、ソビエト連邦の四ヶ国代表が国際連合憲章原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成 10/10‐米国機動部隊、沖縄本島を空襲する 10/12‐連合国軍がアテネに入城 台湾沖航空戦(〜16日) 10/14‐ドイツのロンメル将軍が自殺 10/20‐ソ連軍がセルビア(旧ユーゴスラビア)のベオグラードを占領
10/21‐ドイツのアーヘンが陥落 ➡連合軍側は、アーヘンを包囲し、補給線を断って孤立させることを目論んでいた。これに対し、カール大帝戴冠の街であり、神聖ローマ帝国(後に「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれた)、すなわちヒトラーの言うところの「第一帝国」の故地であるアーヘンは、ドイツ史上に非常に重要な街であった。さらには、連合軍の進攻を受ける最初のドイツ本土の主要都市でもあり、ヒトラーは、どのような犠牲を払ってでもアーヘンを防衛するように命令した。 10/23‐レイテ沖海戦(〜10/25)。レイテ島の戦い (1944-1945年)が始まる。 |
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1944年 |
11/7‐アメリカ大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが4選される 11/24‐マリアナ群島のサイパン米軍基地からB-29が東京を初めて空襲した 12/7‐東海道沖で東南海地震発生。M(マグニチュード)7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件。 12/10‐仏ソ相互援助条約調印 12/16‐ナチス・ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢が始まる。 ➡バルジの戦い (Battle of the Bulge)とは、第二次世界大戦の西部戦線におけるドイツ軍の最後の大反撃に対する連合軍からの呼び名 12/31‐ハンガリーの独立戦線臨時政府がドイツに対して宣戦布告 |
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1945年 |
1/2‐連合軍がニュルンベルクを空爆 1/3‐トルコ議会が対日断交を決議 マリアナ諸島から発進したB29×78機が名古屋・大阪を空襲 米艦載機500機が台湾・沖縄を空襲 1/6‐リンガエン湾(フィリピンのルソン島)に侵入した米艦隊が艦砲射撃を開始
B29×80機が九州を空襲 1/9‐米軍がルソン島に上陸 ・ルソン島の戦いが始まる(〜終戦まで) B29×60機が関東・東海道・近畿を空襲 1/12‐ソ連軍が大規模反攻を開始 バルジの戦いで独軍が撤退 1/13‐三河地震 ➡1月13日午前3時38分23秒に愛知県の三河地方を襲った直下型地震。震源が浅くマグニチュード6.8と規模が大きかったにも関わらず、現在でもこの地震について詳しいことは判っていない。 地震が発生した当時は大東亜戦争中であり、戦意を低下させないように(敵への情報流出も作戦へ影響するため)報道管制がしかれ、国は三河地震のことを一切報道するなと圧力をかけた、と言われる。死者1180人、行方不明者1126人、負傷者3866人。家屋の全壊は7221戸、半壊1万6555戸。 1/14‐B29×73機が名古屋を空襲、伊勢神宮外宮も被弾 1/16‐独軍がワルシャワより撤退 第4航空軍富永恭次司令官が独断で司令部をフィリピンから台湾に移す
アドルフ・ヒトラー独総統が総統地下壕での退避生活を開始 1/17‐ソ連軍がワルシャワを占領 1/18‐最高戦争指導会議で本土決戦体制を決定 1/19‐B29×80機が阪神を空襲
ソ連軍が独国境に到達 1/23‐ハンガリー臨時国民政府が連合国と休戦 1/24‐ルソン島に上陸した米軍がマニラへの南進を開始 1/27‐ソ連軍がアウシュヴィッツ強制収容所を解放
バルジの戦い(ヨーロッパ西部戦線)終結
B29×70機が東京を空襲 1/29‐米艦載機130機がスマトラ島を空襲 2/4‐ヤルタ会談(ソ連)開催。米大統領ルーズベルト、英首相チャーチル、ソ連指導者スターリンが対日本戦について協議する(〜2/11まで) |
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1945年 |
2/13‐ソ連軍、ハンガリーのブダペスト占領(ブダペスト包囲戦終結)
英米軍、独のドレスデン爆撃 ➡米軍と英軍がドイツ東部の都市ドレスデンに対して実施した無差別爆撃を指す。この爆撃はドレスデンの街の85%を破壊し、3万人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。 2/14‐チリ、エクアドル、パラグアイ、ペルーが連合国に加わる 2/18‐アメリカ軍、硫黄島に上陸(硫黄島の戦い、栗林忠道・中将の健闘) |
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1945年 |
2/23‐アメリカ軍、フィリピンのマニラを占領 トルコが日本への宣戦布告ならびに国交断絶を正式に表明。 2/26‐エジプトが日本への宣戦布告を表明。 3/1‐サウジアラビアが日本への宣戦布告を表明。
3/3‐ソ連と休戦後中立であったフィンランドが枢軸国への宣戦布告を表明。
3/10‐アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)。死者は約10万人。 3/16‐硫黄島守備隊司令官栗林忠道中将が東京に訣別電報を送る。
3/18‐アメリカ軍がベルリンを空襲。 3/26‐硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅(硫黄島の戦い終結)。 アメリカ軍が沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸(沖縄戦の開始)。 3/27‐最後のV2ロケットがロンドンを空襲。
アルゼンチンが日本ならびにナチス・ドイツへの宣戦布告を表明。 3/29‐V1飛行爆弾による最後のロンドン空襲。 3/30‐ソ連軍がドイツ領オーストリアへの侵攻を開始する。 4/1‐米軍が沖縄本島に上陸 救援品輸送船「阿波丸」を米潜水艦が撃沈(阿波丸事件) ➡この事件で、船員1人を除く2,129名が死亡した。なお、阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に応じた緑十字船であり、これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権(=Safe-Conduct)を与えられ、船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。 4/5‐小磯内閣総辞職 ➡何をするにも動きが遅く効率が悪いため、「木炭自動車」と揶揄された。ついには、1945年(昭和20年)3月に米軍の沖縄上陸を許し、同月には中国国民党政府(重慶国民政府)との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職に至った。 4/5‐ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告 |
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◎日ソ中立条約の不延長通告について 大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約(昭和16年条約第6号) 大日本帝国天皇陛下及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦最高会議幹部会ハ 両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ強固ナラシムルノ希望ニ促サレ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ 大日本帝国天皇陛下 外務大臣従三位勲一等松岡洋右 「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦駐箚特命全権大使陸軍中将従三位勲一等建川美次 「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦最高会議幹部会 「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦人民委員会議議長兼外務人民委員「ヴヤエスラウ、ミハイロウイチ、モロトフ」 右各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之ガ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ如ク協定セリ 第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス 第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ 第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ 第四条 本条約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ 右証拠トシテ各全権委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本条約二通ニ署名調印セリ 昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス (署名略) --------------------------------------------------------------------------- 声明書 大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス ➡この条約は、1941(昭和16)年4月30日に公布された。
しかし、1945(昭和20)年4月5日、ソ連邦政府は本条約の期限満了1946(昭和21)年4月30日以降、延長しない旨の通告を行い、1945年8月8日にわが国に対して宣戦を布告した。 この延長しない旨(つまり、期限満了にともなう条約の廃棄)の通告は、本条約の正当な履行である。しかし、8月8日の宣戦布告以降のソ連の侵略行為は、明白な条約違反である。 |
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1945年 |
4/7‐鈴木貫太郎内閣成立 枢密院議長の鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)4月7日から同年8月17日まで続いた。 戦艦大和が沖縄戦で沈没 4/11‐米軍がブーヘンヴァルト強制収容所を解放 スペイン政府が日本への宣戦布告ならびに国交断絶を表明 4/12‐ルーズベルト米大統領急逝、ハリー・S・トルーマン副大統領が第33代大統領に昇格 4/13‐ソ連軍がオーストリアのウィーンを占領 爆撃により皇居の一部や明治神宮の本殿・拝殿が焼失 4/15‐英軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放
4/16‐トルーマン米大統領が「日独の無条件降伏まで戦う」と声明
4/20‐ソ連軍がベルリン東北郊外に迫り、市街に砲撃を開始
4/22‐ソ連戦車隊がベルリン市街に突入(ベルリン市街戦、5月2日占領) 4/25‐サンフランシスコ会議開催(6月26日まで)、国際連合創設について議論 イタリア社会共和国が降伏を表明する 4/28‐ムッソリーニら銃殺さる 4/29‐米軍がダッハウ強制収容所を解放 英空軍が窮乏中のオランダに食料を投下 4/30‐独総統アドルフ・ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・ゲッベルスが首相に就任 日本政府が官庁の休日全廃を決定 5/1‐ドイツでヨーゼフ・ゲッベルス首相夫妻が子ども達6人を殺害後に自殺。 ユーゴスラビア軍がイタリアのトリエステに入る イギリス軍がラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)を占領 5/2‐ベルリン陥落。ソ連軍がドイツ国会議事堂に赤旗を掲げる 5/5‐チェコスロバキアのプラハで対ナチ蜂起 デンマーク、ドイツ支配から独立 ドイツのデーニッツ大統領がUボートに戦闘停止を命令 5/7‐ドイツがフランスのランスで降伏文書に調印。
5/8‐ドイツの降伏文書が発効。 5/9‐ドイツとソ連との間で降伏文書の調印式が行われる
ソ連軍がプラハに入る(プラハの戦い) 駐日ドイツ大使館で、ヒトラーの告別式が行われる 5/15‐スロベニアでの戦闘が停止する。第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線が終結 5/23‐ドイツでデーニッツ大統領が戦犯として逮捕される。
ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺 デンマークが日本への宣戦布告を表明。 6/6‐ブラジルが日本への宣戦布告を表明 6/21‐アメリカ軍が沖縄を占領 6/23‐沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(沖縄戦の組織的抵抗が終結。後にこの日が沖縄県の慰霊の日と定められる) 6/26‐サンフランシスコ会議で国際連合憲章が調印される ギリシャが日本への宣戦布告を表明 7/1‐連合軍によるドイツ分割統治が始まる(連合軍軍政期)
7/5‐フィリピンが独立を宣言する 7/6‐ノルウェーが日本への宣戦布告を表明。 7/16‐アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で史上初の原子爆弾の爆発実験に成功(トリニティ実験) 7/17‐ポツダム会談開始。アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、南京国民政府主席の蒋介石が会談。 |
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1945年 |
7/21‐アメリカ大統領トルーマンが原子爆弾使用を承認する 7/23‐フランス・ヴィシー政権の元首だったフィリップ・ペタンが反逆罪で告発される
7/26‐ポツダム宣言発表。連合国は日本に降伏を要求する イギリスで第二次大戦後初となる総選挙が実施され、労働党が第一党となる。ウィンストン・チャーチルは下野し、クレメント・アトリーが首相の座に着いた。 7/28‐日本はポツダム宣言を黙殺する声明を出す。 |
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8/2‐ポツダム会談終了 8/6‐米軍が広島市へ原子爆弾投下 |
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8/7‐海軍がジェット戦闘機橘花の試験飛行を実施
8/8‐ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告 8/9‐ソ連軍が満州・北朝鮮・樺太で対日参戦開始
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8/9‐日本で断続的に終戦の方法を巡って御前会議が開催される
米軍が長崎市へ原子爆弾投下 |
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8/14‐日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を回答。なお、終戦直後は8月14日が日本政府にとっての終戦の日であった マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国軍最高司令官に就任 大本営が攻勢作戦の停止を発令(自衛反撃は継続) 8/15‐陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件) |
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1945年 |
8/15‐玉音放送 日本時間正午に昭和天皇の肉声で読み上げられた終戦詔書がラジオで放送される。日本国民にとっての終戦の日となる(終戦記念日) 鈴木貫太郎内閣総辞職。 8/16‐スターリンがソ連軍の北海道占領を米トルーマン大統領に要求(トルーマンが18日に拒否) 8/17‐東久邇宮内閣成立 皇族・陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が第43代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)8月17日から同年10月9日➡皇族が首相となった内閣は史上唯一 8/18‐満州国皇帝 愛新覚羅溥儀(あいしんかくら
ふぎ)退位 ソ連軍が千島列島で攻撃開始 8/19‐大本営が戦闘中止を発令 昭和天皇が東久邇宮首相に燈火管制解除等を指示 8/22‐海軍総隊司令部が戦闘停止を発令 天気予報(ラジオ)復活(3年8カ月ぶり)
燈火管制解除・信書検閲停止 8/23‐日本陸海軍の復員開始 ➡復員とは、軍隊の体制を「戦時」から「平時」に戻し、兵を戦地から母国へ帰還させること 音響管制解除・電報小包制限解除・娯楽興行再開許可 8/28‐連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行場に到着 東久邇宮首相が記者会見で「将来言論を活発に」「一億総懺悔」等発言(新聞発表は8月30日) 8/30‐マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部を横浜税関に設置 ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を停止 8/31‐米軍主力が横浜・館山に上陸 9/2‐東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印(大東亜戦争終結) GHQ: 陸海軍解体・軍需工業停止などを命令 マッカーサー元帥が北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を発表 9/3‐ソ連軍が日本の北方領土を占領 英人記者バーチェットが広島の惨状を取材し「No More Hiroshima」と打電 9/8‐ソ連軍が朝鮮北部を米軍が南部を占領し分割統治が開始される GHQ: マッカーサー元帥が東京に進駐 9/9‐南京において中国の日本軍が降伏文書に調印 9/10‐GHQ:「新聞報道取締方針」を発令し検閲を開始 GHQ: 大本営廃止を発令(13日24時以前に廃止) 9/11‐東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條は自殺未遂➡己の『戦陣訓』に背く醜態) 9/13‐大本営廃止 元厚相小泉親彦中将がGHQの取り調べを拒み、割腹自殺 9/14‐GHQ: 占領軍の動静を海外に発信していた同盟通信社に業務停止命令(事前検閲に移行) GHQ: 総司令部を東京・日比谷の第一生命館に移転 9/15‐GHQ: 民間検閲支隊フーバー・大佐が「連合国に対する批判禁止・100%の検閲実施」を表明 枕崎台風来襲(死者・行方不明2400名) 9/17‐重光葵外相辞任(後任吉田茂) 9/18‐GHQ: 鳩山一郎談話他を掲載した朝日新聞に発行停止命令 9/19‐GHQ: 日本新聞遵則 (Press Code for Japan) を発令(発表21日) GHQ: ニッポンタイムズに発行停止命令 9/20‐日文部省が教科書の軍国的表現に墨塗りを指示(終戦二伴フ教科用図書取扱方二関スル件)
9/22‐GHQ: 日本放送遵則 (Radio Code for Japan) を発令
9/24‐GHQ:「新聞界の政府からの分離」を発令 9/25‐外国人記者2名が昭和天皇に拝謁しインタビューを行う 9/27‐昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問 9/29‐新聞各紙が昭和天皇のマッカーサー元帥訪問時の写真、および天皇のインタビュー記事を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とするが、GHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令し頒布禁止を無効化。➡GHQ自らの検閲政策と「新聞と言論の自由」政策とは、自己矛盾あり。 10/2‐連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 設置 10/5‐東久邇宮内閣が総辞職 10/9‐幣原喜重郎内閣成立 第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月) 10/11‐GHQ:
五大改革と憲法改正を指令 10/15‐治安維持法が廃止される |
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(6)パール・ハーバー奇襲の怪―――山本五十六の「大罪」(T)
@「空母ゼロ、老朽戦艦二隻」―――戦果なしのパール・ハーバー奇襲
山本五十六が、連合艦隊司令長官として、自ら立案し実行し全責任を負う作戦は三つある。パール・ハーバー奇襲(1941年12月8日)、ミッドウェー海戦(1942年6月5日〜6月7日)、ガダルカナル島攻略戦(1942年8月7日〜1943年2月7日)、である。この三海戦の、山本五十六の成績は、それぞれ「戦果ゼロ」、「大敗北」「大敗北」である。
しかも、ミッドウェー作戦の「大敗北」には、軍法会議で裁かれるべき山本五十六の海軍刑法上の「犯罪」が複数存在し、死刑に相当する。少なくとも、将官の階級剥奪と軍籍剥奪と勲章剥奪の、三つの加罰は最低限なされておくべき、それほどの「重犯罪」であった。山本五十六とは、海軍大将もしくは連合艦隊司令長官としては「愚将」のタイプを超えて、インパール作戦の牟田口廉也・陸軍中将やヒトラーと同種の、精神医学的な意味での「無法の狂将」であった。山本五十六がミッドウェー海戦で、戦場から、540kmも後方に「敵前逃亡」したのは、インパール作戦の全面敗北に腰が抜けて率先して「敵前逃亡」した牟田口廉也・陸軍中将の事件とそっくりである。
日本海軍は、ミッドウェー海戦の「大敗北」を不問に附し、山本五十六の「犯罪」を放置した。このとき日本は、国家としての堕落と腐敗が、極に達したのである。自国の法律に対する違反と無視が大手をふるって常態化したこと自体、国家の終末状況である。大東亜戦争を遂行する日本とは倫理と法を喪失した、自国に対して“ならず者国家”であった。反倫理と無法に堕した大東亜戦争に、“戦争の大義”などあろうはずもない。
(A)軍法会議が手を出せない、“無法の将”山本五十六
山本五十六の独断専行による、パール・ハーバー奇襲の戦果は、限りなくゼロであった。なぜなら、主目標である米空母の撃沈はゼロ、従目標の戦艦の撃沈は最終的にはたったの二隻(アリゾナ、オクラホマ)だった。航空機破壊はたったの188機であった。この航空機数は、米国が第二次世界大戦中に生産した新規生産の航空機数の1%にも満たなかった。こんな“貧困な成果”をもって「奇襲大成功」とみなすのは笑止千万である。欺瞞である。
しかも、パール・ハーバーでの沈没戦艦や大破した戦艦の多くは、サルベージ(=沈没船の引き上げ)され、修理され、兵装を近代化され、戦力を増強して現役に復帰した。山本五十六こそは、米海軍の強大化に貢献した。これが、パール・ハーバー奇襲の、客観的な結末であろう。
イ)
「被害を受けたが沈没しなかった軍艦」
ペンシルベニア(戦艦)、メリーランド(戦艦)、テネシー(戦艦)、ヘレナ(巡洋艦)、ホノルル(巡洋艦)、ローリー(巡洋艦)、ヘルム(駆逐艦)、ヴェスタル(工作艦)、カーティス(水上機母艦)
ロ)
「沈没した戦艦」
ネヴァダ(戦艦)、カリフォルニア(戦艦)、ウェストヴァージニア(戦艦)、アリゾナ(戦艦)、オクラホマ(戦艦)、ユタ(廃艦定めの標的艦)、オグララ(機雷敷設艦)、ショー(駆逐艦)、カシン(駆逐艦)、ダウンズ(駆逐艦)
ハ)
「日本側の戦果」アリゾナ/オクラホマの二隻の戦艦のみ。上記の他の多くはサルベージされ、戦力を増強して現役復帰した。
ところが、日本の新聞は、逆さに報道した。戦果が理解できないとは、日本人がいかにお粗末だったかを示す証左であろう。戦果を正しく客観的に把握できなければ、戦争などできない。こんな誇大な新聞報道、すなわち大本営海軍部(=海軍)の嘘報道において、日本の大敗北と国家滅亡は、対米戦争の初戦から確定していた。
「米海軍に致命的大鉄槌 戦艦6隻を轟沈大破す 航母(空母)1隻、大巡(重巡)4隻をも撃破」(『朝日新聞』1941年12月9日付け)
ハワイ奇襲が、どうでもよい戦艦が二隻という“寂しい戦果”になった理由は、パール・ハーバー軍港の水深がせいぜい14mと浅く、撃沈しても撃沈にならなかった(水中深く沈んでしまわない)からである。パール・ハーバーの水深は、山本五十六はむろん、軍令部の誰しも知っていた。ところが、日本海軍は、沈没戦艦がサルベージされるのを想定しなかった。帝国海軍の幹部は“軍人失格の欠陥者”ばかりであった。
それはともかく、このように軍事的に無意味な奇襲を、なぜ山本五十六はやったのか。米国に対する(軍事的には無意味でも、相手をショックで戦意喪失に追い込む)心理的効果が抜群と妄想したのだろうか。いやそうではない。山本五十六は二年有余(1925年12月〜1928年4月)も駐米武官として米国に滞在している。だから、一般米国民の不撓の精神と単細胞的に必ず反撃する習癖は分かっていたはずである。アメリカ人は、一発殴られれば、勝敗にかかわらず、必ず一発は殴り返してくる。また、どんな最悪の事態に陥っても、日本人のように抑うつ状態にならない。実際に、結果は、米国は「リメンバー・ザ・パール・ハーバー」と、その後の猛反撃となった。
山本五十六は、そのような米国民の習癖をを承知した上で、米国を怒らせ、日本に対する全面戦争をさせるべく、ハワイ奇襲という“蚊が刺すようなチョッカイ”を出したのであろう。
そもそも、「パール・ハーバー奇襲成功」というならば、それは次の二つのうち、いずれかが達成されていなければならない。
A.米国太平洋艦隊の空母3隻のうち、最低2隻(レキシントン、エンタープライズ)の撃沈。一隻(サラトガ)についてはカリフォルニア州サンディエゴに回航されていたので、会敵も撃沈も困難で、これは免責される。
B.ハワイ諸島の占領。
Aはハワイ奇襲の最低限の目的だから、「空母二隻の撃沈」がない以上、目的達成度はゼロ点の不合格である。「空母撃沈ゼロ、奇襲は不成功、無事帰還」と報道するのが、軍事的に正しい。
この空母二隻撃沈のあとしばらくは、奇襲部隊はそのままハワイの海域をシー・コントロールしつつ、日本からの陸軍10個師団以上の急派を待って、Bという、陸・海軍合同のハワイ上陸・占領作戦を敢行するのが、戦争の常道であろう。このBなしには、あとのCとDはあり得るべくもなく、対終戦講和交渉も(勝利への)対米戦争続行も、いずれの選択肢も日本にはない。少なくとも、「Bは不可能で実行しないが、Aだけでも、これこれの価値があるから、これこれの戦争終結の方法があるから、やることにしよう」という検討は、最小限なされていなくてはならない。だが、そのような、軍事的常識の範囲の検討はまったくなされなかった。
C.(米国太平洋艦隊の後衛基地である)軍港サンディエゴの破壊。
D.パナマ運河の閉塞。
「山本海軍」の異常さは、“海兵隊がない”事実一つでも明白である。敵の大規模攻撃下で強行する上陸作戦用、十個師団規模の海兵隊を有さないとは、太平洋戦争をする最小限の軍備が無いに等しい。「山本海軍」は、現代戦を全く知らない“日露戦争の化石”であった。
海兵隊なき海軍だったことが、無目的な“前方進攻作戦”に突き進むこととなった。島嶼上陸・占領など、帝国海軍は一度も考えたことも無く、ノウハウもなく、演習したこともない、ズブの素人であった。それなのに、ガダルカナル島攻略などを敢行するから、惨劇と大敗北となった。
山本五十六も海軍軍令部も、ハワイ奇襲を決定するに当たって、陸軍とのする合わせは、決してしなかった。海軍軍令部は、ハワイ作戦の“戦争としての研究”をしていなかった。それは、山本五十六と黒島亀人(特攻を発案した異能の指揮官)、これに大西瀧治郎(最初の特攻の実戦指揮)と源田実(特攻隊戦術の考案者の一人)が加わった、「素人(特攻)四人組」の赤提灯談義から生まれた、素人作戦であった。このため、ハワイ奇襲の目的すらはっきりしなかった。六隻の空母を率いた、指揮官の南雲忠一・海軍中将は、何しにハワイへ行ったのか、定かに理解していなかった。「第二撃」である、石油タンク群(四百万バレル)と高い修理能力を持つ巨大な海軍工廠とを攻撃・破壊してこなかったのは「愚の極みだ」などの議論が後で起こったこと事態、ハワイ攻撃が無計画奇襲だった証左の一つであろう。しかも、「第二撃」の問題より、「ハワイを占領し、この石油を接収して帝国海軍に供する」との策が、全く検討されていなかった方が問題であった。
「俺様は、瀬戸内海の天皇」とばかり、独裁者然と瀬戸内海でカードや将棋の博打に興じ、愛人との逢瀬やラブレターにうつつを抜かし、堕落と優雅な日々を送る山本五十六は、もともと軍人として正常の域にない。しかも山本の、無計画的で衝動的な戦争のやり方は、ヒトラーの対英戦や対ソ戦を彷彿とさせる。山本五十六とヒトラーは、同種の思考、同種の人格で、共通性が強い。山本五十六には精神医学的な考察が不可欠と考えられる。
米国民に心理的ショックを与え、反撃の方向ではなく、屈服の方向で、日本との外交交渉のテーブルに引きずり出すには、上記Bのハワイ占領後に海軍のなすべき作戦として、最小限上記CとDの二つが計画され、少なくとも毅然とした実行の姿勢だけは存在しなくてはならない。だが、現実には、Bのハワイ占領以上に、このCとDは勝機どころか、実行すら簡単ではない。山本五十六が「Bは、しない」「Cは、しない」「Dは、しない」と決めていたならば、Aのパール・ハーバー奇襲など初めからすべきではなかった。議論以前の問題である。
(B)「後退邀撃」(栗林忠道)こそ戦争の王道―――敗北に致る「前方進攻主義」(山本五十六)
山本は、「攻撃的な対米戦争計画」をまじめに検討しなかった。代わりに「防勢的な対米戦争計画」を考えたかと言えば、その逆で一顧だにせず排斥した。ハワイ奇襲とミッドウェー海戦とガダルカナル攻略という、「攻勢作戦(=時間的・空間的・手段的・心理的な意外性を付加した攻撃・敵の意表を突く作戦)の中の攻勢作戦」を、“無知の蛮勇”で敢行して、「防勢的な対米戦争」の方は全く放棄していた。山本には職業意識がまるでない。“戦争計画の不在”山本には、これしかなかった。
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※ 攻撃的作戦: 積極的・能動的・主体的に敵を求めて侵攻し、これを攻撃で撃破・撃滅・無力化しようとする軍事作戦である。戦略的または作戦的な目標を達成するより効率的な手段である。 防勢的作戦:敵の攻勢を待ち構えて、これを破砕しようとする作戦。防勢作戦は柔軟な計画と機敏な実施に長ける。攻者はまずいつ、どこで戦いを求めるのかを状況判断に基づいて決心するが、同等の戦力を持つ防者はこれを効果的に撃退することが常に可能である。戦術的な柔軟性であり、防者は選択上の優位性を得ることとなる。また攻勢を一度制御することに成功すれば、敵を無防備な態勢に追いやることも出来る。また攻者の勢いが殺がれた機会を捉えて予備戦力を以って逆襲し、部分的に攻撃転移に移ることによってさらに戦果を拡張することも可能である。 攻勢的作戦:攻勢作戦の特性は時間的・空間的・手段的・心理的な意外性が付加されていることにある。つまり、敵の意表を突く作戦である。これは防者は防御戦闘を準備する際に、攻者の攻撃がどのような時期・位置・規模・進路で行うのかを綿密に予測するからである。そのために攻勢作戦は作戦計画の立案の段階で防者の意外を突くものが求められる。意外性を伴う攻勢作戦が成立すれば、第一撃の奇襲によって得られる物的・心的な防者の戦闘力を効果的に減衰させることに成功するが、意外性(奇襲)を敵に察知され、敵の防勢作戦の罠にはまると大敗北する危険性がある。 |
戦争計画なくして、「世界最強の国家」米国に宣戦布告し、ハワイ奇襲を敢行してしまったのが帝国海軍であった。無計画と衝動、それが、「山本海軍」であった。“ならず者の博打”と同類の思考しかできず、「国家の軍人」としての素養や責任感はひとかけらもなかった。
なお、防勢的な対米戦争計画であれば、「ハワイ奇襲もない」「ミッドウェー海戦もしない」「ガダルカナル島攻略もしない」「ポートモレスビー占領もしない」「ブラウン(エニウェトク)環礁やクェゼリン環礁も攻略しない」。これこそが、「大提督」東郷平八郎以来の、日本海軍の正しい伝統的な海軍戦略、正統戦略であった。
もし、日本海軍が、この伝統に従って対米開戦をしていれば、勝利はないが、米国と五年以上に亘って互角に戦争を続けて不敗ではあり得ただろう。日本にとってより有利な条件での戦争終結の方法が探れたと思われる。
「防勢的な対米戦争計画」とは、日本の劣勢と敗北が明らかとなった1943年9月30日に定めた「絶対国防圏」内での邀撃戦争計画となる。すなわち、1941年12月時点で定めておくべき、正統戦略に覚醒するのに、帝国海軍は負け戦をし続けること1年10カ月(1941年12月8日〜1943年9月30日)が必要だった。だが、この覚醒と路線転換は、時すでに遅く、自滅の敗北が定まった後であった。

日本の海軍力がぼろぼろ寸前となり、米国側の戦力は逆に、とてつもない規模に強化されてしまった後で、路線を正常化したところで何になろう。やるべきは、無意味な路線変更ではなく、米国への白旗をあげる、本当の愛国的な決断だけだった。しかも、1943年9月こそ、軍事合理的に“降伏の好機”であった。ヒトラー・ドイツもスターリングラードの大敗北(1943年2月2日)を機に、敗戦の道に転がり落ちていた。ドイツより早く白旗をあげるのは、外交的に日本が急ぐべき選択だった。イタリアは1943年9月、バドリオ政権が樹立しムッソリーニは北イタリアに逃亡した。9月8日バドリオ政権は連合国側に無条件降伏した。日本が三国同盟を破棄して、率先して英米に白旗をあげる好機は、この時であった。
しかし、帝国海軍は、“降伏の好機”なんかどこ吹く風とガダルカナル島撤退の1943年2月1日から、1944年6月19日のマリアナ沖海戦まで1年4ヶ月の長い休眠に入った。海軍は、この「休暇」の最中に、サイパン島・テニアン島の要塞化やレイテ島の要塞化、あるいは上陸阻止作戦の錬度を上げ、対潜水艦戦の能力向上や米国のソナーに探知されないよう潜水艦のエンジンやスクリュー音の軽減の技術開発をし、暗号の全面改訂やレーダーの開発など、やることは山ほどあった。だが、海軍は、何もせず、ただ「無為な1年4ヶ月」の大休暇を楽しんだ。
「後退を旨にして、進攻を自制する」のが、戦争における“兵法の王道”である。
例えば、『孫子』五、勢篇(勢 五)
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「故に善く敵を動かす者は、之を形すれば敵必ずこれに従い、之に予うれば敵必ず之を取る。利を持って之を動かし、卒を以て之を待つ」 |
とりわけ、大規模な戦力の強者が敵の時、ナポレオン戦争でロシア帝国の将軍たちがとった「一千キロメートルの後退」戦法こそ正道である。
1812年のロシア軍総司令官のバルクライ将軍/クトウーゾフ将軍は、ロシアの国土を敵に蹂躙されないよう、ポーランドやリトアニアなどのロシアの「前方」でナポレオンを邀撃したわけではない。それとは逆に、ロシアの内部であるモスクワまでナポレオンを引き込み、代わりにその進攻ルートの(自国民の刈り入れ前の)農作物を焼く焦土作戦までして、敵の兵站たる食糧の欠乏作戦をなした。ナポレオンが占領したモスクワでも、食糧不足に持ちこむため、自分の都市住民の餓死の危険をあえて冒してまで、モスクワの半ば以上を放火・消失せしめて焦土と化した。
ナポレオンと同じく、ソ連(ロシア)軍にウラル山脈まで後退されて、あえなく敗退に反転させられたのが、1941年〜1945年のヒトラー・ドイツであった。
日本の戦史でも、この兵法は戦訓として残っている。1336年、後退戦法を採らんとして、瀬戸内海を東上する足利尊氏「進攻軍」の上陸地点の湊川(兵庫県神戸市)での迎撃を避け、京都を主戦場として、湊川から70kmの「後退縦深」をつくろうとした楠木正成の策は、藤原清忠ら京都の公家たちが拒んだ。楠木正成は、「後退縦深ゼロ」の敵上陸地点で戦う羽目となり、大敗北と戦死があきらかな最悪の選択をさせられた。
正成・正行父子の「桜井の駅(宿)の別れ」は、上陸地点での上陸阻止の不可能性と、後退戦法なき劣位の軍隊の防衛戦敗北の必至とを戦訓として後世に残している。なお、楠木正成は、藤原清忠に「湊川で戦えば必ず敗北する。しかし天皇と新田義貞軍が比叡山にいったん後退し戦力を整備して、足利軍を京都に引き込んだ後、新田軍と楠木軍で挟み撃ちにすれば、兵糧不足を生じさせ、勝利できる。」と説いている。
以下に『太平記』の一節(口語訳)を紹介する。
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尊氏は、九州でたちまち勢力を盛り返し、僅か四ヶ月の間に兵力を整えて大軍となり、再び京都への進撃を開始した。足利軍は、尊氏が率いる海路を進む軍と、尊氏の弟・直義が率いる陸路を進む軍の二手に分かれて京都を目指し、それを迎え撃つため後醍醐天皇も軍を差遣されるが、義貞の率いる追討軍は劣勢で、勢いのある足利軍に圧されてじりじりと兵庫まで後退しつつあった。 このため、後醍醐天皇は正成を召して、急いで兵庫へと下って義貞と合流して戦うようにと命じられるのであるが、これに対して正成は、以下のような提案を献言した。 『太平記』口語訳 『尊氏卿が九州の兵力を率いて上洛して来たとあっては、定めてその数はおびただしい事でございましょう。味方の疲れた小勢で、この勢い付いた大軍と尋常の戦い方をしたのでは敗北は必至、ここはひとまず新田殿を都へ呼び戻し、彼をお供に、帝は前と同様比叡山にお移り下さい。私も本拠地である河内へ下って畿内の兵力を集めて、淀川尻を封鎖致しましょう。このようにして新田殿と私で都に入った足利勢を挟み込み、兵糧を費やさせれば、敵は疲れて戦力が低下し、一方味方は日を追って集まって参りましょう。その上で新田殿は山門から、私は河内側から攻め寄せれば、敵を一戦で滅ぼす事ができると思います。新田殿も多分そう考えておられるのでしょうが、途中で一戦もせずに退却してはあまり不甲斐無く思われるのではないかと、それを恥じて兵庫で防戦しておられるように思われます。しかし合戦は中途はどうあれ、最後の勝利が大切でございます。よくよくお考えあって御決定を下されますよう。』 当時、京都の台所の過半は琵琶湖と淀川の水運が支えていた事から、京都の糧道を断つ事はさして難事ではなく、このため正成は、尊氏に京都を一旦明け渡し、兵糧が尽きるのを待って挟撃し、一挙に殲滅しようという作戦を献言したのである。実際、正成のこの献策は、劣勢にあった後醍醐天皇方がこの状況下で勝機を生み出しうる唯一の作戦であり、諸卿も「まことに、合戦の事は武士に任せるべきだ」と正成の意見に従う決定がなされかけた。しかし、諸卿の中の一人である坊門(藤原)清忠が、以下のように正成の献策に対して異議を差し挟み、結局正成の献策は否定されてしまった。 以下に藤原清忠の反論を太平記の口語訳で紹介する。 『正成の言う所ももっともではありますが、勅命を受けて出発した将軍の義貞が一戦も交えないうちに、我々がいち早く都を棄て、一年のうちに二度までも帝が比叡山に避難されるというのでは、帝の威厳が失われ、かつ官軍の面目も失われてしまいます。尊氏がいくら筑紫の兵力を率いて上洛して来るといっても、よもや昨年関東八カ国の軍勢を従えてやって来た時以上の事はありますまい。この度の合戦にあっては初戦から敵が西国へ敗走するまで、味方は小勢ながら常に大敵を破っております。これは武略が優れているのではなくて、ひとえに天皇の御運が天意に叶い、その助けを得られているからでございます。されば敵を都へ引き入れず、都の外で滅ぼす事も容易いはず。時を移さず、楠木は兵庫に罷り下るべきであります。』 つまり、官軍の体面や面子のため、正成の献策した唯一の必勝の戦略は簡単に退けられてしまったのである。清忠の見解は全く非現実的であり、客観的に考えても、勢いづいている圧倒的な大軍の足利軍に対して、地の利がある訳でもない兵庫の地に於いて僅かな小勢で当たれというのは、正成に対して「死ね」と言っているようなものであるが、正成は、「この上は異議を申しますまい」と言ってもはや反論はせず、自らの死を覚悟して五百余騎を率いて兵庫へと向かった。 そして正成は、決戦の地となる兵庫の湊川へと向かう途中、それまで行動を共にしてきた11才の嫡子・正行を河内の本領へと返すのだが、この時の正成と正行の別れが、俗に「桜井の別れ」と称されているのものである。正成は既に死を覚悟しているだけに、正成・正行父子の別れは感動的で涙を誘うものである。 以下は、戦前の小学校で使われていた日本史の教科書「尋常小学国史」からの引用である。 『この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰へるのを待つて、一度にうちほろぼさうという謀を建てたが、用ひられなかつた。それ故、正成は、おほせに従つて、ただちに京都を立つた。途中、桜井の駅に着いたとき、かねて天皇からいただいてゐた菊水の刀を、かたみとして子の正行に与へ、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した時は、天下は足利氏のものとならう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあつても、自分に代つて忠義の志を全うしてもらひたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。 それから、進んで湊川に陣を取り、直義の陸軍と戦つたが、その間に尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかつて来た。正成は大いに奮戦した。けれども、小勢で、かやうに前後(まへうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に十一箇所の傷を受けた。そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいつて自害しようとした。 この時、正成は弟の正季に向つて、「最期にのぞんで、何か願ふことはないか。」とたづねた。正季は、ただちに「七度人間に生まれかはつて、あくまでも朝敵をほろぼしたい。(➡「七生報国」の由来)ただそればかりが願である。」と答へた。正成は、いかにも満足そうににつこりと笑ひ、「自分もさう思つてゐるぞ。」といつて、兄弟互に刺しあつて死んだ。時に、正成は年四十三であつた。今、正成をまつつた神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には徳川光圀の建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」としるした碑がある。実に、正成は古今忠臣のかがみである。』 |
1812年のロシアのクトウーゾフ将軍と1336年の楠木正成は同じ戦法だった。
1945年2月18日〜3月26日の硫黄島戦でも、栗原忠道・中将とクトウーゾフ将軍の智慧は、共通している。栗原忠道は、最長わずか6km強の小さな孤島の硫黄島で、“後退戦法の地下坑道”を張り巡らしたが故に、超劣勢ながら、彼我の戦死・戦傷者数を同数(日本の戦死1万9,900名/戦傷1,033名、米国の戦死6,821名/戦傷2万1,865名)にもっていき、「敗北したとはいえ、互角の戦い」として、世界の陸戦史に名を残した。なお、戦死と戦傷は、軍事的には、いずれも戦力の喪失だから、同等に扱う。
この栗林と対照的に、山本五十六ほか帝国海軍の将官は、一人の例外なく「後退邀撃」がわからなかった。素人以下の「愚将」や「狂将」ばかりだった。世界の戦史に、恥ずべき記録を残した「トンデモ海軍」、それが帝国海軍であった。
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【硫黄島の戦い】(1945年2月18日〜3月26日) 硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima)は、大東亜(太平洋)戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘である。 1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し、11月以降B-29による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし、日本軍にとって、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点として機能していた。特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。これにより、日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることができ、日本の都市を焼かれつつも多数のB-29を返り討ちにする戦果を収めていた。また、米軍にとって、マリアナ諸島からの出撃では、距離の関係上護衛戦闘機が随伴できず、さらに日本上空で損傷を受けたり故障したB-29がマリアナ諸島までたどり着けず海上に不時着することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」の機銃掃射によって、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場で11機のB-29が破壊され、8機が大きな損害を受けた。 このような状況の下でアメリカ統合作戦本部は、 ・日本軍航空機の攻撃基地の撃滅 ・日本軍の早期警報システムの破壊 ・硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
・損傷爆撃機の中間着陸場の確保 ・長距離護衛戦闘機の基地の確保 等を目的として、硫黄島の占領を決定した。 1945年2月19日にアメリカ海兵隊の上陸が開始された。3月17日、米軍が島を制圧し、日本軍の部隊が多数玉砕した。3月26日、栗林忠道・中将以下300名余りが最後の攻撃を仕掛けるが玉砕。これにより組織的戦闘は終結した。 後援・救護部隊を持たなかった日本軍は、2万933名の守備兵力のうち1万9,900名までが戦死・1033名が戦傷した。損傷率は95%にのぼる壮絶な激戦であった。 一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。 「 組織的戦闘の終結」 1945年3月16日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送った。「物量的優勢ヲモッテスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ、克ク健闘ヲ続ケタルハ小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ…然レドモ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪エザル所ニシテ、幾重ニモオ詫ビ申シ上グ…。」 3月26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将(3月17日付大将へ昇進)、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。日本軍の最後の攻撃は所謂バンザイ突撃ではなく夜襲であった。 市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」 「硫黄島の戦い」は、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイ(「D-DAY」はノルマンディー上陸作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。)を含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。このことからも、硫黄島戦が如何に壮絶な戦闘であったかがわかるであろう。 なお、1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日、建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」 |
(C)「前方進攻」は、海軍が仕組んだ、陸軍将兵の「大量戦死」作戦か?
帝国海軍は、戦闘は学んだが、戦争を学んだことが一度もない。しかも、帝国海軍が想定する戦争は“戦争の戦争”ではなく、ボクシングのような“スポーツとしての戦争”である。帝国海軍の作戦がすべて非合理きわめた理由は、ここにある。キスカ/アッツ島への陸軍部隊の駐兵にしても、エニウェトク(ブラウン)環礁の駐兵にしても、クェゼリン環礁の駐兵にしても、防衛不可能な「前方進攻」ばかりである。
このような、戦争が皆目わからない海軍に独立の軍令組織を与えては国滅ぶ。あくまでも日露戦争時のように、陸軍参謀総長の下、「陸軍参謀本部の一翼としての海軍部」とするほかない。海軍軍令部の、陸軍からの独立に政治力を発揮した山本権兵衛とは、40年後の日本に「亡国」をもたらした。東郷平八郎を起用した、山本権兵衛の功績は、この大ミステークで帳消しである。
以下に簡単に、太平洋戦争における、帝国海軍の「前方進攻」が、いかに愚昧で自己破壊的であったかを見ていくこととする。
山崎 保代・陸軍大佐が守備するアッツ島は、山本五十六発案のミッドウェー島攻略の一環で、1942年6月3日から7日に攻略し以来占領していたが、1943年5月12日、米軍がアッツ島に上陸し、米海軍等の猛攻の前に、戦死者2,638名/生還者27名(生存率1%)にて29日に玉砕した。キスカ島の日本軍は7月29日に撤退した。ミッドウェー攻略失敗と同時に撤退すべきであったのに、ミッドウェーの大敗を隠蔽し山本五十六の責任を糊塗すべく放置されていた。
エニウェトク(ブラウン)環礁は、海軍が艦隊の停泊地として目をつけ、1943年3月に「中攻(中型陸上攻撃機)」攻撃機の滑走路を完成させた。しかし、航空機用シェルターは全くない。アッツ島の玉砕の経験から、米軍の島嶼攻撃の戦法はわかっており、死守など決してできないから、すぐに撤収すべきであった。しかも、「絶対国防圏」が1943年9月30日に決定され、ブラウン環礁は、この外にあるから、遅くともこの時放棄するのが当然であろう。これらの兵力をサイパン島やテニアン島に後退・移動させて、そこを要塞化するのが戦争の常道である。
しかし、不可解にも、その逆に、このマーシャル諸島・ブラウン環礁の守備を陸軍がすることになり、満州の黒龍江省チチハルの独立歩兵第11/15/16大隊が、さも海軍かのようなまぎらわしい部隊名「海上機動第一旅団」(旅団長:西田祥実・陸軍少将、以下3,942名)となって1944年1月に配備された。1944年2月17日〜18日、この旅団は陣地をつくろうとした矢先、米軍の猛襲を受け、玉砕した。生存者は負傷による僅か数十名であった。
海軍は一隻の軍艦も一機の航空機も救援に差し向けることはなかった。これとほぼ時を同じくして(1944年2月17日〜18日)、トラック島は航空攻撃を受け、「阿賀野」など軽巡3隻、「太刀風」など駆逐艦4隻、潜水母艦2隻、特設巡洋艦3隻ほか、多数の艦艇・船舶が撃沈された。航空機も270機が撃破された。
海軍の行動は、不可解というより不審である。1943年9月30日に定めた「絶対国防圏」とは、“トラック島/ラバウル基地以東・以南の前進基地の放棄・後退の決定”のことのはずである。
しかし、軍令部総長の永野修身が、「絶対国防圏」決定を否定して、マーシャル諸島/ギルバート諸島海域での決戦で勝機が生まれると妄想していた。決戦どころか、その逆の瞬時の玉砕しかない急迫の事態が、視力ゼロの永野修身・軍令部総長には全く見えていなかった。1943年9月15日、永野修身は、昭和天皇に、次のように上奏している。
「マーシャル、ギルバート方面は・・・・海軍としては極めて有利なる決戦場と考えますので、なし得る限りこれが確保に努めましてこの戦場において敵を捕捉撃滅するに努めねばならぬ・・・・」
さて、前述の「海上機動第一旅団」のうち、第二大隊の約1,000名は、マーシャル諸島のクェゼリン島にいたが、1944年1月31日米軍が上陸、米軍の攻撃によって海軍の将兵とともに玉砕した(2月4日、陸海の3,900名はほぼ全員戦死)。ルオット島/ナムル島では2月3日に玉砕した。ここでの軍人の生存者は(1,900名のうち)僅か3名であった。永野修身とは、痴呆症の初期といわれるが、本当は、ただの気狂いだったのではないか。
ソ連国境(チチハル)の守備隊を、陸軍が、玉砕するのを知りつつ海軍の言いなりになって派兵したのは、ソ連軍が満州侵攻を無傷でできるよう、瀬島龍三がソ連と通牒していたからである。「海上機動第一旅団」という奇怪な名称を考えついたのも、どの部隊にするかを考えたのも、すべて陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三・陸軍少佐であった。ブラウン環礁の玉砕を大本営陸軍部が発表しなかったのは、満州の陸軍部隊を引き抜いたことを国民に知られないようにする、「ソ連工作員」瀬島龍三の画策であった。
1943年夏(7月5日〜8月29日「クルスクの戦い=ドイツ対ソ連の両軍合計6000両以上の史上最大の戦車戦」、7月25日伊でムッソリーニの失脚等が発生)を境に、陸軍参謀本部では、それ以前の「北進派=対ソ戦派・反ソ派」は減滅していてソ連通牒派が主流になりつつあった。陸軍の「赤い革新将校」たちは、「絶対国防圏」の定めとは逆方向の中部太平洋に陸軍兵力を振り向け、満州における対ソ戦力を弱体化する秘かな「ソ連軍の満州無血侵攻準備」に、海軍の無能と狂気を悪用していた。
つまり、陸軍参謀本部の「中部太平洋で米国と戦う海軍を援軍せよ」の命令は、解釈を転倒させれば、「西部でドイツと戦うソ連を援軍せよ=ソ連から極東(満州)の不安材料を取り除くよう、関東軍を弱体化せよ」という意味になる。「表現上非常にもっともらしい印象を与えながら、その腹の内に全く異なる黒い意図を有する言語」=「精神の病んだ、すべての共産主義者に共通の転倒語法(ニュースピークス)」の最たる悪用である。
話を戻して、ギルバート諸島(タラワ島、マキン島)は1943年11月23日に玉砕していた。「絶対国防圏」の外で、米軍の上陸を阻止する戦闘が曲がりなりにもできるのはラバウルだけだから、それより東の島嶼は、1943年9月30日をもって、放棄すべきであった。少なくともギルバート諸島玉砕を機に、マーシャル諸島とブラウン環礁からの即時撤退は当然ではなかったか。
<ブラウン環礁/マーシャル諸島/ギルバート諸島を占領し続ければ、対米戦争を我が方に利をもたらす>と考えた永野修身は、処罰されねばならない。永野修身とは、ミッドウェー海戦大敗北以降も、山本五十六を軍法会議に起訴しての処分すらせず、連合艦隊司令長官の椅子に置いた罪科を含め、死刑が相当の“世紀の愚昧(バカ)”提督であった。
なお、海軍の言いなりに、1942年、もし「前方進攻」のバカさの極み「フィジー島・サモア島・ニューカレドニア島の占領(F・S作戦)」をしていたら、もっと多くの陸軍部隊は“海軍に”殺されていた。補給も救援もする気のない、頽廃し腐敗の極にあった帝国海軍の提督とエリート将校は、口先だけの“気狂い刃物”的な、ならず者の集団にすぎなかった。
A反米狂(艦隊派)だった山本五十六―――事実を転倒する「山本神話」
(A)山本五十六の対米戦争決意は「1934年」、ハワイ奇襲の決意は「1940年」
山本五十六が、反米一辺倒の反米主義者であることは、無目的のパール・ハーバー奇襲を考案した事実、それを実行した事実、において余りに明らかすぎる。山本五十六が「親米」とか「知米」とかは悪意ある歪曲で虚構である。
第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉に出発する直前の山本五十六は、岩永裕吉邸にて、斎藤博駐米大使に次のように語った(1934年9月)。
「俺も軍人だからね。<どうしてもアメリカとやれ>といわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。・・・・俺の夢なんだがね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで<真珠湾>と<マニラ>を空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊をつぶすことは確実にできるんだよ」
「少なくとも1年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機は存在しないってわけさ。それだけの<戦争>はやって見せる」
この山本五十六の発言は、軍人の発想ではなく素人以下の妄想である。
イ)
ハワイの米国太平洋艦隊をつぶしたからといって、米国太平洋艦隊の海軍力が1年間存在しないことなどあり得ない。米国としては、パナマ運河を通して米国大西洋艦隊の一部を太平洋に回航すれば済むことである。
ロ)
仮に米国が1年間太平洋の海上覇権を失ったからといって、米国は何も困らない。米国本土全体が日本の攻撃から無傷の安全地帯だから、その経済活動にすらなんらの影響もない。むしろ、この1年間、遊休であった産業施設がフル操業されるから、失業は解決し経済の大発展が生じる。実際パール・ハーバー奇襲のあと、米国経済のGNP/GDPの伸びは、天文学的なスピードでの急傾斜の右肩上がりであった。
ハ)
山本の言う「1年後」に、米国は、再建した「新・太平洋艦隊」を、日本が北太平洋とパナマ運河を制覇している場合ですら、マゼラン海峡を通って南太平洋から展開できる。この時、帝国海軍は何をするつもりだったのか。米国海軍と何度も何度も海戦をするほかない。この無数の海戦で、山本には、日本が必ず勝利する目算があったとは思われない。石油が先に無くなり、軍艦が動かなくなるのは日本に決まっている。
山本とは、「戦争をどのように推移させ」、「どのように終結させ」、「どのように戦後処理するか」を何一つ考えていなかった。山本五十六は、「戦争」を自分の趣味である「博打」と錯覚していた。
山本五十六にかかわる、創られた虚偽話の数々は、「山本神話」と呼ばれる。それは、「山本は親米だった」「山本は知米だった」だけではない。悪質な「山本は対英米協調派」「英米との海軍軍縮を支持していた」「山本は条約派」「山本は最後まで米国との妥協を求め和平を欲していた」とかの“神話=嘘”も、その一つである。
だが、「山本神話」の中でも本当に危険な神話は、語られない方にある。山本が、帝国海軍きっての「親ソ・反米の巨頭」加藤寛治(=統帥権干犯問題の確信犯)を継ぐ「艦隊派」に属していた事実の隠蔽は、まさしくこの「危険な神話」の筆頭であろう。
日本では、「条約派」を演技する山本五十六が、実は「艦隊派」である正体を露にしたのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約交渉においてであった。日本海軍史家の野村実は、「財部・海分大臣の指示により山本五十六は、全権の若槻礼次郎に意見開陳した。・・・・斎藤博はその状況を、『日本全権団員の息の根を止めるような猛烈果敢さがあった』と述べる」と歯に衣を着せているが、山本五十六は「第二の加藤寛治」となって、元総理の若槻礼次郎全権の胸倉をつかんで、暴行寸前で、「艦隊派」の強硬路線の受け入れを迫ったのである。
山本五十六がただひたすら、米国と戦争することだけを念じていたことは、ハワイへの奇襲部隊の出撃の時期も、その証拠である。もし、僅かでも対米戦争を避けようと思うならば、ハル・ノートを受け取り、それを読んだ上で、政府の再検討を経た上で、ハワイへの南雲・機動部隊を出撃させていたはずである。だが、山本五十六は、ハル・ノートがワシントンで日本側に手渡される前に、奇襲部隊の出撃を敢行して、ハル・ノートが、過激案であろうと、穏健案であろうと、対米戦争の決意が政府内部で揺るがないよう、既成事実を作るべく急ぎ出撃させた。
南雲忠一・海軍中将率いる空母6隻の機動部隊の出撃は、ハル・ノートが手渡されるワシントン時間の1941年11月26日以降で充分だったし、数日を慌てる必要などなかったが、ワシントン時間の11月25日、野村/来栖両全権がハル・ノートを受領する「23時間前」に択捉島の単冠湾から慌ただしく出撃させた。「月明かりから、この日しかなかった」というのは詭弁で、軍事的合理性もない。また、「対米交渉が妥結したら帰還せよと南雲忠一に命じた」のは事実だが、この機動部隊の作戦は奇襲作戦であるから二度目など無いから、帰還するなどというのは(山本の考案した真珠湾奇襲計画を海の藻屑と化すことであり)現実的にあり得ないから、これも山本らしい滑稽な詭弁でしかない。
(B)帝国海軍は、1934年、対米戦争を基本路線にした
帝国海軍は、陸軍と違って、「共産主義イデオロギー」には、さほど汚染されてはいなかった。高木惣吉などコミュニストは、ほんの僅かな例外でしかなかった。ソ連共産党や中国共産党と通牒していた将官・佐官は、陸軍に比すれば、ゼロではないが、ほとんどいなかった。
ソ連と通牒していた容疑のある将官は、加藤寛治と米内光政の二人であろう。前田稔・海軍中将を含めてよいかもしれない。佐官クラスでは高木惣吉ぐらいであろう。
コミュニストは、海軍には高木惣吉や石川信吾などしかいなかった。石川信吾とは、北一輝的な過激な計画経済教徒で、実際にも二・二六事件の主謀者たちとの交流があった。石川信吾が戦後に書いた回想記『真珠湾までの経緯――開戦の真相』は、異様な“反米の狂妄”が漂う「反米」本であるが、自分が海軍軍務局第二課長として主役だった「海事国防政策委員会第一委員会レポート(第一委員会レポート)」については、全く触れていない。石川信吾が戦時中に豪語していた「この戦争(=対米戦争)は俺がはじめさせたようなもんだよ」についても、何にも書いていない。石川とはコミュニスト特有の人格破綻者であったと思われる。
帝国海軍では、『帝国国防史論』(1908年)などの著作がある「反米イデオローグの嚆矢」佐藤鐵太郎の煽動もあって、沸騰する「反米の狂気」が広く蔓延していた。「反米」でないのは、加藤友三郎以降、堀悌吉/山梨勝之進/左近司政三/小林躋造など少数派であった。
つまり、帝国海軍は、日本の国益を害し、日本国の永続を考慮しない、「反米」を奉戴する狂気の軍事組織になっていた。1940年以降で「反米の狂気」から醒めていたのは井上成美など、ほんの数えるほどしかいなかったが、この井上とて「親米」の軸足は持ってはいなかった。「反独」の吉田善吾も、海軍の中ではめずらしく“親独・親ソの流行病”から醒めていたが、「反独、反ソ・親英米」という、日本の国益が完全に見えていたわけではなかった。1940年に入った時、海軍には、「親英米・反独・反ソ」の正しい外交路線に立つ海軍将官は、一人もいなかった。
1920/1930年代の、海軍における艦隊派・条約派の分別は、出世を争う「派閥」や「人脈」が実態であった。条約派は、山梨や堀などの少数を除き、1934年には「条約の破棄」に賛成しており、その仮面の下は“反条約派=艦隊派”であった。本当の親英米派(条約派)の堀悌吉/山梨勝之進/左近司政三らは、背後で加藤寛治が操っていた「反米・反独」の大角 岑生・海軍大臣の大角人事(1933〜34年)によって追放された。「親英米」=「条約派」は、海軍の中ではもはや存在できない異分子になっていた。小林躋造も1936年に予備役へと斬られ海軍を放逐された。つまり、山本五十六や米内光政が、1934年以降も海軍大将として出世街道を登りつめたという事実は、彼らが決して条約派とか親英米派でなかったことの証左である。
組織人間であれ政治家であれ、出世しているものは、センシティヴな問題であればあるほど、最後の段階(=その時)まで本心を語らないのが通常である。近衛文麿/米内光政/山本五十六など、二枚舌/三枚舌に長けている人物の場合、その言葉は、その行動から吟味する作業が不可欠である。彼らの語った言葉だけを額面通りに受け止めると、その人物の真像を誤解する。
山本五十六は、先に述べた、1934年の斎藤博駐米大使との懇談で、対米戦争を決意している(=自分の夢だと言っている)反米派であるから、「親米派=条約派」であろうはずもない。1939年に連合艦隊司令長官となった山本は、1940年3月頃には、さっそくパール・ハーバー奇襲を構想する、筋金入りの“反米屋”であった。
山本が、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟締結に黙して賛成したのも、この三国同盟で、米国の海軍力の半分を大西洋に振り向けさせ、空母は日本10隻、米国は3隻の「対米三倍の絶対優位」の海軍力格差のもとで、対米開戦したかったからである。
帝国海軍そのものも、1934年になると、対米戦争がコンセンサスとなった。だから、1934年12月29日ワシントン海軍軍縮条約からの離脱を米国に通告した。このときすでに、「対米戦争用の最終兵器」と思い込んだ、戦艦「大和」「武蔵」の設計研究を進めていた。ワシントン海軍軍縮条約は、1936年12月31日失効した。この条約からの離脱(1934年)が、対英米戦争への道だと考えなかった海軍将官/佐官など、果たして幾人いただろうか。ロンドン海軍軍縮条約からは1936年1月15日に離脱した。帝国海軍は、開けて1937年、英米との“海軍無条約時代”に突入した。そして、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとして、支那からの英米追放を目的とした、反英米イデオロギー一色の日支戦争が、始まったが、「コミュニスト・反英米・親ソ」近衛文麿・総理大臣及び「反英米・親ソ」米内光政・海軍大臣を筆頭に、積極的にこの戦争の拡大を推し進めていく。つづく1937年12月12日、揚子江沖に浮かぶ米海軍の小さな砲艦パナイ号等に対する日本の第三艦隊の艦載機による爆撃(同日、英国砲艦レディーバード号等に対する陸軍の砲撃事件も起こった)は、「誤爆」を演技しての、海軍に昂揚する“英米戦争開始への勝鬨”であり、“宣戦布告ごっこ”であった。
B海事国防政策委員会第一委員会(第一委員会)―――“暗躍する黒幕”石川信吾
帝国海軍が、全体として対米戦争の意思を固めて海軍内の不動のコンセンサスとし、その準備を始めた本格的なスタートは1940年7月22日の第二次近衛内閣発足の直後、1940年8月の出師準備発動であった。海軍にとって不可逆となった対米戦争を、「パール・ハーバー奇襲で開戦する」との開戦方法に関しては、山本五十六の及川・海軍大臣への書簡をもって、その合意形成がスタートした。
その日付け、1941年1月7日の時点で、パール・ハーバー奇襲が海軍内で広く噂されるようになった。米国のグル―駐日大使は、まさしく、この1月中に情報を入手し、1月27日、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」と米国政府に打電した。4月頃には、海軍において、秘密であるべきものが、“公然の最高機密”と非・機密になっていたから、海軍の機密管理(情報管理)がいかにいいかげんであったかの証左である。情報管理への無関心が日常化した“退嬰の軍隊”、それが帝国海軍であった。山本五十六は、1941年9月11日から20日にかけて海軍大学校で、ハワイ攻撃の図上演習を実施した。海軍全体としての「ハワイ作戦=開戦時の最初の攻撃地点」最終決定は1941年10月19日であった。
この種の問題で、次の三つの事実を厳密に区別しないと、歴史の事実は見えない。
イ) 「海軍」の対英米戦争の決定はいつか。
ロ) 「国家」の対英米戦争の決定はいつか。
ハ) 「海軍」の対英米戦争の開戦方法が「どのように、攻撃地点はどこで」と定まったのはいつか。
ロ)の対英米戦の「海軍の意思」が「国家の意思」となるのが、1941年7月2日の御前会議が最初であった。そして、その再確認が、二カ月後の1941年9月6日の御前会議であった。御前会議は、重要国策についての政府の意思を天皇陛下臨席の下で国家の意思として決定する場であるから、御前会議までに「政府の意思」決定を行っておく必要がある。
つまり、「海軍の意思」➡(政府部内で説得・決裁・最終了解)➡「政府の意思」➡(1941年7月2日・御前会議、9月6日・御前会議)➡「国家の意思」という工程となる。とすれば、海軍が、「海軍の意思」を「政府の意思」に昇格させようと政府部内で説得してまわり、決裁を受け、最終了解を取り付けた時期は、1941年6月である。海軍の対米開戦にかかわる研究が、必然的に「1941年6月研究」となるのはこのためである。
海軍の意思を、陸軍と政府に合意させて、国家全体の意思へと昇格させていく、その勢いを海軍に醸成したのは、以下の「四アクター」に集約される。
このうち、2.の永野修身、3.の石川信吾の「第一委員会」、4.の高木惣吉の「第二昭和研究会」の3アクターは、こぞって「1941年6月」に勝負に出て、政府全体に劇的な影響を与え、日本の戦争意志を左右した。
1.
連合艦隊司令長官の山本五十六と、先任参謀の黒島亀人。
2.
軍令部総長の永野修身。
3.
1940年12月12日に海軍内に設置された親独・反英米を絶対基軸とする「海軍国防政策委員会」のうち、「第一/第二委員会報告書」と石川信吾・海軍大佐の暗躍。➡『現情勢下において帝国海軍のとるべき態度』(1941年6月5日)
4.
高木惣吉の「調査課の研究会=第二昭和委員会」。➡『帝国国防国家論』(1941年6月)
海軍が、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟に賛成したのは、それが、対英米戦争にプラスだと歓迎したからである。海軍が三国同盟に反対した形跡は、吉田善吾・海軍大臣がうつ病になった以外、何一つない。そればかりか、山本五十六は、三国同盟締結からわずか3ヶ月の1941年1月7日には、及川・海軍大臣宛ての書簡という形で、“三国同盟を前提にしたパール・ハーバー奇襲”を決心している。
(A)「政策委員会」の下克上と海軍の意思決定制度の崩壊
「第一委員会」は、対英米戦争という日本の重大な歴史に、決定的な役割を果たした。海軍が「海軍国防政策委員会」を設置したのは、日独伊三国同盟の締結(1940年9月27日)に伴い、“対英米戦争が可能になった”と判断したからである。1940年12月12日、及川・海軍大臣は、その設置を認めた。委員長は岡敬純・軍務局長(=親独・対米最強硬派)としてこの下に四名の「常任幹事」と四つの(子)委員会をつくった。
「海軍国防政策委員会」は、海軍として、公式の組織か否か判然としない(辞令が出ていない)。その意味では、海軍の中は、公私の区別が消滅し、“個人の下克上力”の競り合いで海軍の意思が決定される“無法”状態になっていた。この「(親)政策委員会」の下にある、四つの「(子)委員会」のうち、「第一委員会(戦争指導)」の委員は、たった四名で、以下の通り。この「たった四名の第一委員会」が、1941年海軍を牛耳る“海軍の最高意思決定機関”的な下克上力を発揮したのである。「(親)政策委員会」の四名の「常任幹事」は、高木惣吉(=反英米・親ソ・コミュニスト)/高田利種(=対英米強硬派)/石川信吾(=コミュニスト・対英米開戦論者)/神重徳(=大の親独)で、高田と石川は「第一委員会」の委員を兼ねていた。
「第一委員会」メンバー四名
@海軍省軍務局第一課長(高田利種・大佐)/A同第二課長(石川信吾・大佐)/B軍令部第一課長(作戦課長、富岡定俊・大佐)/C同甲部員(戦争指導班長、大野竹二・大佐)
「第二委員会(軍備、物資動員)」のメンバーは8人で以下の通り。石川信吾だけが重複している。
「海軍省軍務局第二課長(石川信吾・大佐)、兵備局第一/第二/第三課長、経理局第一/第四課長、軍令部第三/第四課長」
さらに、石川信吾だけは、第三委員会にも第四委員会にもメンバーであり、「海軍国防政策委員会」とは実態的には「石川信吾の委員会」であった。そしてこの「第一/第二委員会」の連名で1941年6月5日、「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」が、海軍大臣と軍令部総長に回覧され決裁された。原案は石川信吾が書いた。
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◎「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度(1941年6月5日)」の抜粋・概要 第一 情勢判断 二 物資に関する情況判断 (三)米 米の供給源たる仏印及泰を経済的に確保すべきこと論なき所 而して其の供給に支障を来す場合 帝国は実力を以てするも両地域を確保せざるべからざる亦必然の勢なり (四)燃料 ○現有液体燃料額 昭和16年9月戦争開始と想定す 16−9迄に於ける国内貯蔵総額 970万竏 ○供給量 1年目(1941年9月から)〜3年目(蘭印:0、100、250;合計:80、205、375万竏) ○消費量 1年目〜3年目(海軍:300、250、250;陸軍60、60、60:官民需240、240、240万竏) 主力決戦が在る場合は一回につき50万竏を別に必要とす (五)重要戦用資材(ニッケル、生ゴム、錫、モリブデン、コバルト、銅、バナヂウム、など) (ロ)ニッケル:不足最大にして生産拡充 使用制限回収強化 混合比減少の方法を執るも現勢力圏内に於ては対策なく セレベス島ニッケル鉱(住友にて操業中)及びニューカレドニヤより取得せば所要量生産可能なり (ハ)生ゴム:泰及仏印より経済協定に基く取得量は予定量4万5千瓩なる処 国内需要額は6万5千瓩にして現在量は5百瓩に足らず故に対策として仏印(産額7万瓩)泰(産額4万8千瓩)よりの取得量を増加するか蘭印より2万瓩以上を確保せざれば国内産業特に軍備進捗は重大影響を蒙るに至るべし 第二 帝国海軍の執るべき方策 二 欧州情勢変化に対する態度 (イ)帝国は独の対英屈服工作長引き米の欧州問題介入深入りを希望す (1)三国枢軸の強化は絶対緊要なり (2)対米調整は之を焦慮することなく継続し米をして欧州介入態勢を促進するを可とす 六 武力行使に関する決意 帝国海軍は左記の場合は猶予なく武力行使を決意するを要す (イ)米(英)蘭が石油供給を禁じたる場合 (ロ)蘭印 泰 仏印が生ゴム 米 錫 ニッケルの全面禁止をなしたる場合 (ハ)帝国が自衛上必要とする軍事的協力を仏印泰が拒否したる場合 (ニ)米英蘭の極東増派兵力が作戦上許容し難き程度に達したる場合 (ホ)対支交戦権発動後英米が帝国の軍事行動を妨害したる場合 (ヘ)英米が泰に軍事行動を起こしたる場合 |
この文書の重要性については、戦後の研究者は二派に分かれる。過小評価するのは、野村実や高木惣吉ら海軍出身者である。だが、彼らはその根拠を示さない。重大視する方は、角田順/麻田貞夫/中尾裕次/杉田一次らである。要するに海軍軍人でない海軍研究者たちである。池田清のみ海軍出身者だが、後者に近い。
しかも、高木惣吉自身が「第一委員会」を過小評価しているのは、驚くべき情報操作である。なぜなら、高木自身が「(親)政策委員会」の「常任幹事」であったからである。第一委員会や第二委員会に出席しては、活発に過激な意見を述べた張本人であった。
高木惣吉が、海軍きっての対米強硬派なのは、陸軍にも広く知られるほどであった。
この“スーパー反米屋”兼“コミュニスト・ソ連GRU工作員”高木が、1944年から、「海軍の終戦工作研究」担当になったのは、放火犯に消防自動車を任せたような、奇怪きわめた人事であった。戦後、高木のイメージが真偽転倒したのはこの「高木の終戦工作研究」という虚構に発している。
高木惣吉と石川信吾は、過激な「反米」で強度のコミュニスト同士、協力し連携し二人三脚で、海軍内の対米開戦を推進していた。高木の「第二昭和研究会」は、石川の「第一委員会」と結託し、海軍の対米開戦の決定を大きく牽引した。
石川信吾・第二課長らの「第一/第二委員会レポート」(1941年6月5日)がとてつもなく重要文書なのは、その翌日6月6日には、それに従ったと断定できる、瓜二つの「対南方施策要綱」(大本営陸海軍部決定)が策定されたからである。実際にも6月6日の「対南方施策要綱」は同年1月31日の「対仏印、泰(=タイ)施策要綱」(政府・統帥部の連絡懇談会決定。これは閣議決定より上の扱い。上奏は2月1日。書いたのは第一委員会)とともに、その後も、一字の変更もなく堅持された。1941年6月22日のドイツのソ連侵攻などの重大な事態が発生しても、変更されることはなかった。
そればかりか、7月2日御前会議の「対英米戦を辞せず」も、9月6日御前会議の「対米、英、蘭戦争を辞せざる決意」も、たとえ米国と戦争になろうと東南アジア全域を占領する「南進」を決行するとの、「第一/第二委員会の研究レポート」=「対南方施策要綱」の枠組みに縛られている。蓮沼蕃・侍従武官長は、新任の嶋田繁太郎・海軍大臣に対して、宮中で、次のような愚痴を漏らしている。
「六月には、陸海軍ともに(対米)不戦なりしに、海軍省某課長(石川信吾)の反対にて一夜に変じ、ついで七月、九月の御前会議となりたり。この態度(事態)に導きたるは海軍なり」
実際に後日、石川信吾は、対英米戦争の立役者を自認し、「(日本を)戦争にもっていったのは、オレだよ」と公言している。
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◎「対仏印、泰施策要綱」(1941年1月30日 大本営政府連絡会議決定、2月1日 允裁) 第一 目的 大東亜共栄圏建設の途上に於て帝国の当面する仏印、泰に対する施策の目的は帝国の自存自衛の為仏印、泰に対し軍事、政治、経済に亘り緊密不離の結合を設定するに在り 第二 方針 一、帝国は竝に仏印及泰に対する施策を強化し目的の貫徹を期す 之か為所要の威圧を加へ已むを得されは仏印に対し武力を行使す 二、本施策は英、米の策謀を排し敏速に之を強行して成るへく速に目的を概成す 第三 要領 一、帝国は失地問題処理を目標とする仏印、泰間紛争の居中調停を強行し之を契機として定刻の仏印、泰両地域に於ける指導的地位を確立する如く施策す 二、泰に対しては成るへく速に日、泰協定を締結し仏国に対しては経済交渉の速決を図ると共に機を見て日、仏間結合関係を増進すへき一般的協力竝仏印、泰間紛争防止を保障及日、仏印間通商交通擁護を目的とする軍事的強力に関する協定を締結す (イ)仏国をして仏印に対し第三国と一切の形に於ける政治的軍事的強力を為ささることを約せしむ (ロ)仏印特定地域に於ける航空基地及湾港施設の設定又は使用竝之か維持の為所要機関の設置 (ハ)帝国軍隊の居住、行動に関する特別なる便宜供与 三、政戦両略の妙用を期する為速に所要の作業準備を整ふると共に武力行使の時期は予め機を失せす之を定む 四、交渉の経過に応し適時威圧を増大し目的の達成に勉む 右威圧行動に対し仏印か武力を以て抵抗せは当該部隊は武力を行使するも之を強行す 五、仏国か紛争解決に応せさる場合には仏印に対し武力行使を予定し其の発動は別に設定せらるるものとす 協定締結を拒否する場合に於ける武力行使は予め之か準備を為すも其の発動は当時情勢に依り決定す 右武力行使は仏国をして我要求に聴従せしむるを限度とし武力行使後に於ても極力仏印の治安維持、政治経済等は仏印当局をして当らしむるに勉む 六、泰にして我要求を拒否する場合に於ては日、泰協定の内容を変更し又は威圧を加ふる等極力我要求を容認せしむるに勉め如何なる場合に於ても泰をして英、米側に赴かしめさる如く施策す 七、本施策に応する如く帝国の輿論を統一すると共に、徒に英、米を対象とする南方問題を激化せしめ無用な摩擦を生せさるに留意す |
海軍は、昭和天皇の強い“ご反対の聖慮”すら無視して、脇見ひとつすることなく、1940年8月15日の出師準備から1941年9月6日の御前会議まで、僅か一年で、対米戦争へと邁進し、その決行準備を完了した。対米戦争にかける海軍の決意は1941年6月の時点で政府が米国と交渉をしようとしまいと、ドイツがソ連に戦争をしかけようとしかけまいと、その他どんな事態が起ころうとも、すべてを無視して断行するとの視野狭窄的な硬直で固まっていた。海軍には、対米交渉や妥協を求める意思は微塵もなかった。
対米戦争を日本の国家意思とする煽動文書、石川信吾の「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」は、海軍省内で海軍大臣まで決裁されている。軍令部内でも軍令部総長まで決裁されている。やたらに過激で侵略的であった、こんなレポートに、海軍の上層部が、同意ではないが同意的に目を通したことは、海軍上層部も過激で侵略者然に変貌していたからである。
このレポートの趣旨は、【日本が南部仏印・泰(ベトナム南部とカンボジアとタイ)に侵攻し、オランダ領インドネシア(油田のあるスマトラ島・ボルネオ島など)の占領・盗奪を敢行した時、英国/米国/オランダがこれに対抗して日本に禁輸の“制裁”を課したら、日本の「自存」を侵すものと断じて、対英米戦争を躊躇わず決行する】というものであった。この論理なら、【生活のため、貧困者が犯す泥棒や強盗はみな「自存」となるから、刑法犯罪の多くは“合法”となって刑法体系は崩壊する。】
つまり、このレポートの図式は、
持たざる国日本の<南進>(=貧困者プロレタリアートの富裕者ブルジョアジー宅への侵入)➡英と蘭が所有するスマトラ/ボルネオの石油盗奪(=貧困者の富裕者宅からの金品・財産の強盗)➡英米蘭の反撥と経済制裁(=富裕者及び警察による強盗の取り押さえ行為)➡日本の<自存>への侵害(貧困者プロレタリアートの自存への侵害)➡日本の武力反撃は<自衛・合法>(=貧困者プロレタリアートの富裕者・警察に対する武力反撃は自衛であり、合法である)
ということであり、無法者の論理である。かつ、マルクス・レーニン主義の教理そのものである。「持てざる国は、持てる国の財や資源を奪取してよい」とのレーニン著『帝国主義論』の援用である。海軍でも陸軍並みに、(意識していたか否かに関わらず)マルクスとレーニンの思想に汚染された者が続出していた。
ここで、英と蘭が所有するスマトラ/ボルネオの石油自体が、もともと、現インドネシア(=当時は原住の諸王国)から盗奪されたものであるから、日本は英と蘭という石油強盗からさらに石油盗奪をしただけという解釈もできる。
しかし、第一に、「強盗が多くの強奪品を持っていて金持ちだからといって、自分が貧しいことを理由に、その強奪品を暴力で強奪するのは合法である、正当である」という論理は、バーク保守主義的な“法の支配”の下では決して成立しない。しかし、“無法・無道徳・無神論”のマルクス・レーニン主義の下では“正当”として成立するのである。
第二に、スマトラの石油は、オランダが1883年に試掘を開始し、1885年に採掘に成功したもので、試掘に当たったロイヤル・ダッチ社は、今日のロイヤル・ダッチ・シェルの前身である。つまり、スマトラの原油は、オランダ資本が調査・試掘し採掘したもので、現インドネシア(=当時は原住の諸王国)が採掘たものをオランダが盗奪したものでない。ゆえに、この石油については確実にオランダの利権であり、所有権がある。
第一の論理をつきつめると、以下のような重大な事実につきあたる。
「大東亜共栄圏」はアジアを一つの国家連合(圏域)をみなすから、アジア圏域を植民地支配する「欧米」は「アジアを搾取するブルジョアジー」であり、「アジア」は「搾取されているプロレタリアート」である。だから、プロレタリアート(=アジア)による、ブルジョアジー(=英米蘭)に対する、暴力革命(=解放戦争)は正当性を持つのである。大東亜戦争は確実に「マルクス・レーニン主義」の型にはまっている。
そして、アジア(支那を除く)を代表して、その暴力革命(=解放戦争)の先頭に立たんとしたの(スターリンに誘導されたの)が日本政府及び帝国陸海軍である。とすれば、日本は、ロシア革命(暴力革命)の先頭に立ったレーニンであり、フランス革命のロベスピエールではないか。
大東亜戦争とは、帝国陸海軍の大臣や将官の多くが、ソ連・スターリンと通牒していたこと、そして、強度のコミュニストでスターリン崇拝者の近衛文麿が日支戦争期間も含めて3期も日本の内閣総理大臣を務めて対英米戦争を主導し、「スターリン型・統制(計画)経済」を導入し、この近衛が「大東亜共栄圏」を打ち出したという事実を総合すれば、次のような、大東亜戦争の事実が見える。
『「大東亜戦争」とは、マクロ的視野(資本主義VS共産主義という視野)で見た時、ソ連・スターリンの陰謀により、日本が、共産主義思想に汚染され、主導させられた、「大東亜共栄圏(アジア全域)の共産化への加担戦争」であった』という事実ある。
「日支戦争」も、日本が、「反中共」の蒋介石・国民政府と徹底抗戦することで毛沢東・中国共産党の勢力を拡大させた。つまり、日本は日支戦争を通じて、支那の共産化促進に逆説的に協力した。1941年に対英米戦争が始まってもなお、日支戦争をいつまでも、だらだら長引かせたのは、この支那共産化促進のためであり、意図的であった。すべてソ連・スターリンの意図どおりに動いていた(動かされていた)。
(B)開戦前、嘘だらけで対米戦争勝利ムードの煽動
「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」で最も驚くべきことは、対米戦争三年目(実際には、1944年)でも、石油は問題なく確保できると断定していることである。超・空理空論の非現実な数字で、海軍を対米戦争に誘い込むべく、でっち上げた煽動文書である。
帝国海軍中枢が、対米開戦の前、“先行する勝利ムード”に酔っていたのは、彼らは、戦争が何たるかも知らず、空母戦や潜水艦戦の方法も知らず、石油や経済・産業についても知らず、何でもかんでもズブの素人だったからである。対米戦争の勝敗は「対米軍艦比率7割」が問題であったのではなく、「海軍のエリート将校や将官のIQが対米7割」こそが問題であった。
石川信吾の「第一/第二委員会レポート」で、決して看過してはならない、留意すべき箇所がある。明らかに日本の共産化を目指している点である。
「N工作成立せば(=野村大使の対米交渉がうまくいけば)国内情勢は急激に英米依存に復帰すべくひいては国防国家体制(=全体主義体制)の建設 統制経済(=計画経済)施策等に一大動揺をきたすところ極めて大なるをもって事前非常立法を立案する準備を要す」
「特に海陸軍に対する反動政治力(=市場経済、政党政治、国会立法を堅持せんとする自由主義勢力)の抬頭に対し深刻なる対策(=自由主義勢力を潰すこと)を急要とす」
当時の海軍は、近衛文麿総理と同様、対米交渉がうまくいっては困ると考えていた。対米交渉は決裂こそが絶対に必要であった。海軍の中枢もまた、日本をスターリン型体制の国家に改造する、共産主義革命を目指す、一握りの極左グループに占拠されていた。
石川信吾らが、「対米戦争なんか怖くない」との狂気にふけることができたのは、この日本の共産体制化の革命が進んでいたからでもあった。先述のとおり、マルクス/レーニン/スターリンの「共産主義本」「計画経済本」が大ブームで、帝大生で読まない者はいなかったくらい、当時の日本では、共産体制といえば“打ち出の小槌”で、経済がいとも簡単に右肩上がりに大成長する、との神話が蔓延していた。とりわけ、1926年〜1933年には、そう教えられていた。
計画経済への移行と「国会の凍結」を目指す、国家総動員法や大政翼賛会などによって、“日本のスターリン体制化”が徐々に現実味を帯びようとしていた当時、スターリン化がもっと進めば「英米との友好関係なしでも、日本経済は盤石になる。石油はいくらでも湧いてくる」などの妄想が、海軍エリート将校の多くに浸透していた。
近衛文麿の日支戦争は、日本の共産化を秘めた目的としていた。海軍の太平洋戦争(対英米戦争)は日本が共産化するのを前提しており、この前提が「日本を米国と対等の経済力に発展させるから米国と対等に戦える」という対米強硬路線・対米戦争勝利ムードを引き起こした。
石川は、「二隻の超弩級戦艦(「大和」「武蔵」ともに基準排水量65,000トン)を、1941年中に就航させれば、米国は<対日比率5対3>を維持できず絶対劣勢となる。パナマ運河の拡張工事がそんなに簡単にできず、太平洋に回航できないからだ」と二隻の新型戦艦が出現するだけで“対米戦争に勝利できる”とはしゃいでいる。
イ)
仮に米国が「大和」級の六万トン排水量の超弩級戦艦を大西洋側に就航させた場合、マゼラン海峡を通ってハワイに回航するのだから、パナマ運河の拡張工事など必要ない。「マゼラン海峡は、この地球上に存在しない」と妄想している。
ロ)
「日本が機先を制して大和/武蔵をつくるから、米国は<対日比率5対3>を維持できず絶対劣勢となる」との主張は、米国産業の“建艦力”が、日本と同一レベルしかないと妄想したからである。当時の現実の米国産業の“建艦力”は“日本の10倍”はあった。現実の<スーパー・パワー米国>を認識できず架空の中級国家米国を妄想している。
以上は、共産主義の絶対性を信仰すると現実を歪めてしか認識できない証左である。
また、石油について、石川信吾は、「第一/第二委員会レポート」で対米戦争三年目(実際には、1944年)でも、石油は問題なく確保できるという、楽観的な輸入・生産数字を掲げたが、それは現実離れした荒唐無稽な数字であった。
【石川信吾の石油需給計算】
1941年(昭和16年)9月時点の国内貯蔵量970(単位:万KL)
供給量:蘭印(一年目0、二年目100、三年目250)
ソ連(一年目50、二年目55、三年目55)(※独ソ開戦前の計画のため)
人造油(一年目30、二年目50、三年目70)
供給量合計(一年目80、二年目205、三年目375)=660(万KL)
消費量:海軍(一年目300、二年目250、三年目250)
陸軍(一年目60、二年目60、三年目60)
官民需要(一年目240、二年目240、三年目240)
消費量合計(一年目600、二年目550、三年目550)=1,700(万KL)
※ただし、主力決戦一回につき50万KLを別に必要とする(上記消費量に含まれていない)
上記により、開戦3年間の
貯蔵量+供給量=970+660=1,630万KL
消費量=1,700万KL
で、ニアリーイコールであるとし、不足分70万KL及び主力決戦一回の50万KLは統制経済のもと、官民需要の節約で捻出するものと考えたと推定される(それしか方法が無い)。
官僚は、机上の数字合わせが得意なので、数字だけを見て頻繁にニアリーイコールをもって、さもイコールのように見做す傾向が強い。しかし、数字には必ず単位があって、単位の大きさによっては、数字比較上はニアリーイコールに見える場合でも、実際の政策実行の段階で、ニアリーイコールとイコールの差がとんでもなく大きな不具合が生じる場合がある。極論すれば、国家及び地方の財政赤字の根源的原因はこの官僚の数字認識の甘さから生じていると言ってよい。例えば、官僚が予算を論じるとき、1億円=100,000,000円のことを1億円とか1億とか言わない。上三桁をとって「100」と呼ぶ。1千万円=10,000,000円なら「10」と言う。100万円は「1」である。この数字感覚が問題で、例えば、550と520がニアリーイコールだという時、その差額を「30」と読む。しかしこれは実際には3,000万円のことであり、民間の企業や家計にとっては大金である。官僚は「30」と読むから金銭感覚がマヒする。実際に官僚の世界で「30」などは少額の中の少額の感覚である。さらに100万円を意味する「1」などは、「0」に等しい扱いである。この感覚で予算編成するから、年々大きな借金が積っていくのである。国も地方も同じである。国民から集めた税金が財源であるから、“自分の家のお金・家計であったら・・・”という感覚が無い。そういう感覚があれば、「1」の重みがわかるはずである。「1」=100万円は決して「0」ではない。
話を石川信吾の石油問題に戻す。
J・B・コーエンの統計によると、オランダ領インドネシアからの石油輸入は対米戦争第三年度である1944年に入ると激減し、あっという間にゼロになった。制海権を奪われた、日本のタンカーが米海軍の潜水艦その他ですべて撃沈されるようになったからである。海軍は南シナ海の制海権について、その確保方法も全く検討した形跡がない。良識と見識を持つ優秀で正常な軍人の方を「恐米病」と蔑視して一人残らず排斥し(大角 岑生・海軍大臣の大角人事・1933〜34年以降)、石川信吾のような“赤い政治家的アジテーター”ばかりに、中枢を牛耳らせたのは帝国海軍自身であった。
C「一年暴れる」後、山本五十六は、戦争をどうする積りだったのか
(A)「一年たったら日本は敗北する、東京も大都市も空爆焼尽する」
山本五十六の対米戦争構想については、1934年から次のように述べるのが常だった。斎藤博・駐米大使に1943年、そう語っている。次の1940年9月の近衛文麿総理への回答も、山本の“本心中の本心”であろう。
「それは是非やれと言われれば、はじめ半年か一年の間は随分と暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」
この近衛総理への回答を読んで、「山本が、本心は対米戦をやりたくないが、総理に是非やれと言われるなら、渋々やりますが、二年三年後の戦況については確信が持てぬので、対米戦はあまり、賛成いたしかねますが・・・・」と読み、山本は「親米派」と考えるのは大きな誤りである。
なぜなら山本は、1934年9月に斎藤博・駐米大使に次のように語っている。
「俺も軍人だからね。<どうしてもアメリカとやれ>といわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。・・・・俺の夢なんだがね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで<真珠湾>と<マニラ>を空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊をつぶすことは確実にできるんだよ」
「少なくとも1年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機は存在しないってわけさ。それだけの<戦争>はやって見せる」
山本は対米戦を“軍人としての自分の夢だ”とはっきり言っている。「どうしてもやれと言われれば」というのは軍人として政府/軍部・首脳の許可なしに開戦などできないから、返答として当然の条件文である。いや、それどころか、上記二回の山本の会話からは、この条件文の中に“是非開戦せよと命令して欲しい”という願いがにじみ出ている。なぜなら、“対米戦争”が軍人・山本五十六の“夢”なのだから。
問題なのは後半部分の「半年か一年間は、・・・・二年三年となれば全く確信が持てぬ」とか、「少なくとも1年間は、太平洋に・・・・それだけの戦争は屋って見せる」である。
対米戦争は、日本が敵の首都ワシントンの占領も米国の諸都市への爆撃もできないから、アメリカ国民の戦意喪失が起こり、米国側から対日講和を持ちかけてくるまで戦争は終わらず、この米国民の戦意喪失は、日本がアメリカと無期限戦争ができるか否かにかかっている。例えれば、1959年〜1975年のベトナム戦争の状態である。
「二年三年の戦争」もできないなら、「日本は完全に敗北します」との答えになるである。それを「一年は随分と暴れて見せる」では、国家の命運を預かる軍人の語り口ではない。
次に対米戦争の開始が、なぜパール・ハーバー奇襲でなくてはならないかは、山本五十六が1941年早々、及川古志郎・海軍大臣に送った手紙で明らかにされている。
「開戦劈頭 (パール・ハーバーの)敵主力艦隊(太平洋艦隊)を猛撃撃破して米国海軍および米国民をして救ふべからざる程度に その士気を沮喪せしむる事こと是なり・・・・不敗の地歩を確保し依りもって東亜共栄圏も建設維持しうべし」
ハワイの米艦隊を撃破したら、なぜ「米海軍や米国民の士気が沮喪する」のか、分からない。首都ワシントンと大都市ニューヨークを爆撃で丸やけにしたところで、米国民の士気が下がるはずもない。ハワイ全島が占領されたとしても、士気が下がる理由など無い。いわんや、ハワイ全島の占領ではなく、軍港(パール・ハーバー)一つが奇襲されただけなら、油に火を注ぐようなもので、反撃と復讐の怒りで士気が上がっても、下がることなどあり得ない。
「米国の士気沮喪・・・・」は、無能と化していた海軍トップを説得するために流した、山本五十六一流の計画的な嘘ではなかったか。山本は二年有余(1925年12月〜1928年4月)も駐米武官をしており、米国と米国民の不撓の精神を十分承知していたはずである。だから、米国が、沮喪どころか、逆上して、猛然と日本に襲ってくることを、実は正確に予測していたと思われる。
以下、少々長文だが、山本五十六が1941年1月7日、及川古志郎・海軍大臣に送った手紙「戦備ニ関スル意見」を紹介する。
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戦備ニ関スル意見 国際関係ノ確タル見透シハ何人ニモ付キ兼ヌル所ナレトモ海軍殊ニ連合艦隊トシテハ対米英必戦ヲ覚悟シテ戦備ニ訓練ニ將又作戦計画ニ真剣ニ邁進スヘキ時機ニ入レルハ勿論ナリトス 依テ茲ニ小官ノ抱懐シ居ル信念ヲ概述シ敢テ高慮ヲ煩ハサント欲ス(客年十一月下旬一応口頭進言セルトコロト概ネ重複ス) 一、戦備 戦備ニ関シテハ既ニ連合艦隊ノ意嚮ヲ中央ニ移シ中央ニ於テハ全力ヲ挙ケテ之カ整備ニ努力セラレツゝアルモノト信ス サレド前述ノ申入レハ一般主要ノ事項ニシテイザ開戦トナリ敵ト撃チ合フゾトナレハ尚ホ種々細カキ新要求モ出ツヘシ其中戦備必須事項ハ其旨附記申達スヘキニ付充分ニ考慮ナリ度 就中航空兵力ハ其ノ機材ト人員トヲ問ハス之デ満足トハ決シテ行カヌ筈ニ付アラユル機会ニ之カ増産方ヲ激励相成度 二、訓練 従来訓練トシテ計画実行シツゝアル大部分ハ正常基本ノ事項即チ邀撃決戦ノ場面ヲ対照トスル各隊ノ任務ニ関スルモノナリ勿論之ヲ充分ニ演練スルコトニ依リ幾多多様ノ実戦場面ニ応用善処セントスルモノナレハ十全ノ努力ヲ傾注シテ之ヲ練熟ヲ期セザルヘカラス 併シナガラ実際問題トシテ日米開戦ノ場合ヲ考察スルニ全艦隊ヲ以テスル接敵展開砲魚雷戦全軍突撃等ノ華々シキ場面ハ戦争ノ全期ヲ通シ遂ニ実現ノ機会ヲ見サル場合ヲモ生スヘク而モ他ニ大ニ演練スヘクシテ平素等閑ニ附サレ勝ナル幾多ノ事項ニ対シ時局柄真剣ニ訓練ノ要アリト認ム 尚ホ前述正常ノ基本的訓練ヲ行フニ方リテモ徒ニ大ザッパナル総合的戦術運動ノミニ熱中スルコトナク演習ノ推移ニ応シ自己ノ率ユル艦隊戦隊或ハ一艦一隊カ常ニ各場面ニ於テ其ノ戦闘力ヲ極度ニ発揮シツゝアリヤ否ヤニ関シ不断ノ検討ヲ要ス(之カ為偏弾射撃或ハ一部魚雷ノ実射ヲ演習及応用教練毎ニ必ス之ヲ織リ込ミ随時其隊・艦ヲ指命シテ実射セシメル等ハ有効ナルヘシ) 昨年英伊両艦隊カ地中海ニ於テ遭遇セル場合其ノ何レカガ平素ヨリ見敵必戦ノ攻撃精神旺盛ニシテ且突嗟砲戦ニ徹シ居リタリトスレハ其ノ二十五分間ノ砲戦ニ於テ互ニ一隻ヲモ撃沈シ得サリシ筈ナク此ノ如キハ我海軍ニ於テハ許スヘカラサル過失ナリト認ム 三、作戦方針 作戦方針ニ関スル従来ノ研究ハ是亦正常堂々タル邀撃大主作戦ヲ対象トスルモノナリ而シテ屡次図演等ノ示ス結果ヲ観ルニ帝国海軍ハ未タ一回ノ大勝ヲ得タルコトナク此ノ侭推移スレハ恐クヂリ貧ニ陥ルニアラスヤト懸念セラルゝ情勢ニテ演習中止トナルヲ恒例トセリ 事前戦否ノ決ヲ採ランカ為ノ資料トシテハイザ知ラス苟クモ一旦開戦ト決シタル以上此ノ如キ径過ハ断シテ之ヲ避ケサル可カラス 日米戦争ニ於テ我ノ第一ニ遂行セサルヘカラサル要項ハ開戦劈頭敵主力艦隊ヲ猛撃撃破シテ米国海軍及米国民ヲシテ救フ可カラサル程度ニ其ノ志気ヲ阻喪セシムルコト是ナリ 此ノ如クニシテ始メテ東亜ノ要障ニ占居シテ不敗ノ地歩ヲ確保シ依テ以テ東亜共栄圏モ建設維持シ得ヘシ 然ラバ之カ實行ノ方途如何 四、開戦劈頭ニ於テ採ルヘキ作戦計画 我等ハ日露戦争ニ於テ幾多ノ教訓ヲ与ヘラレタリ 其中開戦劈頭ニ於ケル教訓左ノ如シ (一)開戦劈頭敵主力艦隊急襲ノ好機ヲ得タルコト (二)開戦劈頭ニ於ケル我水雷部隊ノ士気ハ必シモ旺盛ナラス(例外ハアリタリ)其技量ハ不充分ナリシコト 此点最遺憾ニシテ大ニ反省ヲ要ス (三)閉塞作業ノ計画並ニ実施ハ共ニ不徹底ナリシコト 吾等ハ是等成功並ニ失敗ノ蹟ニ銘シ日米開戦ノ劈頭ニ於テハ極度ニ善處スルコトニ努メサル可カラス而シテ勝敗ヲ第一日ニ於テ決スルノ覚悟アルヲ要ス 作戦実施ノ要領左ノ如シ (一)敵主力ノ大部真珠港ニ在泊セル場合ニハ飛行機隊ヲ以テ之ヲ徹底的ニ撃破シ且同港ヲ閉塞ス (二)敵主力真珠港外ニ在泊スルトキモ亦之ニ準ス之カ為ニ使用スヘキ兵力及其ノ任務 (イ)第一・第二航空艦隊(已ムヲ得サレハ第二航空艦隊ノミ) 月明ノ夜又ハ黎明ヲ期シ全航空兵力ヲ以テ全滅ヲ期シ敵ヲ強(奇)襲ス (ロ)一個水雷戦隊 敵航空機隊ノ反撃ヲ免レサルヘキ沈没母艦乗員ノ収容ニ任ス (ハ)一個潜水戦隊 真珠港(其ノ他ノ碇泊地)ニ近迫敵ノ狼狽出動ヲ要撃シ為シ得レハ真珠港口ニ於テ之ヲ敢行シ敵艦ヲ利用シテ港口ヲ閉塞ス (ニ)補給部隊 燃料補給ノ為給油艦数隻ヲ以テ之ニ充ツ (三)敵主力若シ早期ニ布哇(=ハワイ)ヲ出撃来攻スルノ如キ場合ニハ決戦部隊ヲ擧テ之ヲ邀撃シ一擧ニ之ヲ撃滅ス 右ノ何レノ場合ヲ問ハス之カ成否ハ容易ニアラサルヘキモ関係将兵上下一体真ニ必死奉公ノ覚悟堅カラハ冀(=ねがわ)クハ成功ヲ天祐ニ期シ得ヘシ 右ハ敵主力部隊ヲ對照トセル作戦ニシテ機先ヲ制シテ菲島(=フィリピン)及新嘉波(=シンガポール)方面ノ敵航空兵力ヲ急襲撃滅スル(=マレー作戦)ノ方途ハ布哇(=ハワイ)方面作戦ト概ネ日ヲ同シクシテ決行セサルヘカラス 然レトモ米主力艦隊ニシテ一旦撃滅セラレンヤ菲島(=フィリピン)以南ノ雑兵力ノ如キハ士気阻喪到底勇戦敢闘ニ堪ヘサルモノト思考ス 万一布哇(=ハワイ)攻撃ニ於ケル我損害ノ甚大ナルヲ慮(おもんぱか)リテ東方ニ対シ守勢ヲ採リ敵ノ来攻ヲ待ツカ如キコトアランカ敵ハ一挙ニ帝国本土ノ急襲ヲ行ヒ帝都其他ノ大都市ヲ焼尽スルノ策ニ出テサルヲ保シ難ク若(ごと)シ 一旦此ノ如キ事態ニ立至ランカ南方作戦ニ仮令成功ヲ収ムルトモ我海軍ハ輿論ノ激攻ヲ浴ヒ延テハ国民志気ノ低下ヲ如何トモスル能ハサルニ至ラムコト火ヲ観ルヨリモ明ナリ(日露戦争浦塩艦隊ノ太平洋半周ニ於ケル国民ノ狼狽ハ如何ナリシカ差事ニテハナシ) 小官ハ(私、山本五十六は)本布哇作戦ノ実施ニ方リテハ航空艦隊司令長官ヲ拝命シテ攻撃部隊ヲ直率(=直接指揮をとること)セシメラレンコトヲ切望スルモノナリ 爾後堂々ノ大作戦ヲ指導スヘキ大連合艦隊司令長官ニ至リテハ自ラ他ニ其人在リト確信スルハ既ニ曩ニ口頭ヲ以テ意見ヲ開陳セル通ナリ 願クハ明断ヲ以テ人事ノ異動ヲ決行セラレ小官ヲシテ専心最後ノ御奉公ニ邁進スルコトヲ得シメラレンコトヲ |
➡要は、ハワイ奇襲大作戦を提示して、その大作戦を直接指揮できるのは、私(山本五十六)だけだから、私を連合艦隊司令長官に昇進させてください、及川・海軍大臣様よろしく、という“出世おねだり文書”なのだが、これで実際に山本五十六が司令長官になってしまうから、この文書が“出世おねだり文書”から“現実の海軍大作戦方針”と変貌を遂げる。歴史が、この文書方針どおりに動きだすのである。
1941〜42年の弱い米海軍力ならば、その対日攻勢攻撃に、日本はたやすく邀撃撃破できた。太平洋においては、日本が、海軍力の対米絶対優位であったからである。上記手紙の中で、山本が及川に、「決戦部隊をあげて之を邀撃し一挙に之を撃滅す」と書いているが、これは可能であった。及川も熟知していた。
問題なのは上記手紙の「万一布哇(=ハワイ)攻撃に於ける我損害の・・・・帝都その他の大都市を焼尽するの策に出でざるを保し難く若し」である。
この一文と、先の斎藤博・駐米大使との会話「少なくとも1年は・・・・」及び近衛文麿総理への回答の「はじめ半年か一年の間は・・・・」を複合解釈すれば、論理的に、ハワイ奇襲に成功しても半年か1年は戦えるが、それ以降、米国太平洋艦隊が復活して攻めてくれば、結局日本の東京及び主要大都市は焼尽される運命であるとしか解釈できない。以下に添付する原田熊雄と山本の会話記録を見ていただきたい。
山本五十六は部下には決して本心を明かさない性分であった。むしろ幼友達や笹川良一(20機以上の飛行機を海軍に寄贈した)のような海軍外にある人物と信頼関係をもった。ただし上司、とりわけ人事権者には忠誠を示している。長い海軍生活における処世術であったろう。
また、山本は海軍次官の時代、宮中との交遊もあった。もっとも親しい関係を築いたのは西園寺公望の政務秘書原田熊雄であった。原田とは親しく会話した(『西園寺公と政局』8)。
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1940年10月14日晩、山本五十六連合艦隊司令長官 食事・原田熊雄 「實に言語道断だ。しかし自分は軍令部総長及び大臣の前で、これから先、どうしても海軍がやらなければならないことは準備として絶対に必要である。自分は、思ふ存分準備のために要求するから、それをなんとかしてできるやうにしてもらはなければならん。自分の考では、アメリカと戦争するといふことは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵條約を結んでも、ソヴィェトなどといふものは当てになるもんぢやない。アメリカと戦争してゐる内に、その條約を守って後から出て來ないといふことをどうして誰が保証するか。結局自分は、もうかうなった以上、最善を義して奮闘する。さうして長門の艦上で討死するたらう。その間に、東京あたりは三度ぐらゐまる焼けにされて、非常にみじめな目に会ふだらう。さうして、結果において近衛だのなんかが、氣の毒だけれども、國民から八裂きにされるやうなことになりやあせんか。實に困つたことだけれども、もうかうなつた以上は已むを得ない。」 『西園寺公と政局』は、数日間の記録を原田が語って筆記させたものである。目的は西園寺公望へ持参し、面会者との会話記録を確乎たるものにすることにあった。このため、書かれた内容は面会者が言ったことのみであって、原田がどう尋ねたかは記録に残っていない。 原田の質問を想像で補って書くと以下の通りとなる。(これはあくまで想像の域) 原田:近衛や木戸は、三国同盟をもって日米戦争を防止するといっているが、それについてどう思うか(原田や西園寺は三国同盟に反対であり、この点で平沼内閣のときと同様、山本もと思い込んでいる)。 山本:實に言語道断だ。 原田:すると日米戦争をむしろ引き起こしかねないということか。海軍は準備ができているのか。 山本:これから先、どうしても海軍がやらなければならないことは準備として絶対に必要である。 原田:船と飛行機が要るな。 山本:自分は、思ふ存分準備のために要求するから、それをなんとかしてできるやうにしてもらはなければならん。 原田:近衛や木戸の意見は三国同盟にソ連を入れて四国同盟にしたいようだ。 山本:自分の考では、アメリカと戦争するといふことは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵條約を結んでも、ソヴィェトなどといふものは当てになるもんぢやない。アメリカと戦争してゐる内に、その條約を守って後から出て來ないといふことをどうして誰が保証するか。 原田:結局、米独で戦争が始まれば、日本はドイツに味方して参戦するしかなくなる。海軍は中心になって米国と戦うことになるだろう。 山本:結局自分は、もうかうなった以上、最善を義して奮闘する。さうして長門の艦上で討死するたらう。その間に、東京あたりは三度ぐらゐまる焼けにされて、非常にみじめな目に会ふだらう。さうして、結果において近衛だのなんかが、氣の毒だけれども、國民から八裂きにされるやうなことになりやあせんか。實に困つたことだけれども、もうかうなつた以上は已むを得ない。 |
もし、日本がハワイを攻撃せずに、東南アジアやマリアナ諸島の島嶼の要塞化に重点を置けば、五年以上は米国海軍力を撥ねつけるし、西太平洋の海上覇権を米国は五年以上手にすることができない。この時初めて米国の士気の低下が起こる。
山本五十六は、対米勝利は期待できないが対米不敗のこの確実な方法を思考しなかったのか。できなかったのか。それとも分かっていたが、軍令部や海軍全体にこの方法を選択させたくなかったのか。
「パール・ハーバー奇襲」と一年後(実際には約三年半後となったが)の米国海軍逆襲による、「日本の大都市・東京その他の焼尽・廃墟」を山本五十六は予見していたにもかかわらず、敢えてその道を選択した。いや、日本に選択させた。これは紛れもない事実である。
「博打好きの山本五十六の対米戦争」とは、「戦争という名の博打」であったと思われる。
博打打ちは、一発大勝負を好む。そこには「勝ちを期待するが、負けてもともと」という“スリル”を楽しむ「ニヒリズムを基底とする快楽主義」的な性向がある。
そして博打打ちは一発大勝負で大勝ちしても、そこで博打をやめることは少ない。必ず、大勝ちした元手(資金)でさらなる勝負に出る。そしてこの勝負を繰り返し繰り返し行い、最後は必ず元手ゼロとなる。この繰り返しを元手ゼロになるまで止められないのは、負けた時の腹いせとさらなる一発逆転の到来を期待する心理である。最後に元手ゼロになった時、「あの時止めておけばよかった」と後悔し絶望するが同時に「しょうがないや、自分の責任だから」と割り切って諦める。これが、博打打ちの中毒症状である。
山本五十六の対米戦争は、「パール・ハーバー奇襲(最初の一発大勝負):戦果ほぼゼロだが、大勝利と思い込んでいる➡ミッドウェー海戦(二度目の大勝負)大敗➡この大敗北の腹いせに、大敗を取り戻すべく、太平洋の島嶼で勝負を繰り返すが、ほぼすべて玉砕敗北➡(山本は途中で戦死するが、山本の博打戦争を海軍が引き継ぎ)➡サイパン島陥落➡マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦大敗➡硫黄島陥落➡B29 本土空襲➡沖縄戦敗北➡とどめの広島・長崎原爆投下」と博打打ちが元手(資金)を失っていく過程そのものであり、博打の元手(資金)を(領土と軍艦と兵士)に置き換えただけ。途中で切り上げることもしない。そして最後は、「日本の廃墟」。元手が完全にゼロ(=日本国民総玉砕あるいはソ連の日本占領)になる前にかろうじて昭和天皇の“ご聖断”により、博打戦争にストップがかけられた。これにより、日本最後の元手である、本土の日本国民の多数の生命と秘宝の財産である天皇及び皇室が保守された。この日本の元手ゼロ(=日本の廃墟)を山本五十六は予見しながら、対米戦争に踏み切ったのだから、彼には精神医学上の重大欠陥があったと思われる。
彼の思想は「賭博打ち的快楽主義と敗北受容型ニヒリズム」と「敗北受容型ニヒリズムから派生したポスト・モダン思想的な祖国廃墟主義・祖国喪失病」の複合思想であった。だから、彼の「本心の本心」を見抜くのは、正常人にはほぼ不可能であったであろう。
(B)「両洋艦隊法」に腰を抜かして、永野修身・軍令部総長の“ヤケッパチ”
永野修身は、軍令部総長になった1941年4月9日頃より、特に6月をもって、対米戦争に突っ走る過激な言動を鮮明にした。1941年7月2日の御前会議で定まった『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』において「対米戦争を辞せず」なる文言が入った。これは海軍全体の意志でもあったが、永野の自説でもあった。永野はこの時、昭和天皇のご臨席の御前会議で、次のように、対米開戦論をぶち上げている。
「仏印および泰に対する諸方策を完全に遂行致しもって南方(オランダ領インドネシア)進出の体制を強化する・・・・。米国が参戦いたしましたる場合には・・・・大東亜共栄圏建設のためついには武力を行使する施策の完遂を図るべきである・・・・」
海軍トップの軍令部総長ですら、米国との戦争を過激に口にできるのだから、中堅の課長(大佐)クラスはもとより、海軍全体も対米戦争に意気込んでいたことがわかる。二ヶ月を経た1941年9月6日の御前会議になると、仏印(フランス領インドシナ)全土に軍事進出(1940年9月23日北部進駐・1941年7月28日南部進駐)の既成事実ができあがっていたこともあって、永野修身の鼻息はさらに荒い。米国との戦争を開戦した場合について、自信を持って、次のような論旨で上奏している。
1.
先制すれば、開戦初期の戦いには勝利する。
2.
だからといって、米国が両手をあげることはなく、長期戦に入る。このとき日本には、長期戦を回避するための、米国の戦意を挫く方策を持ち合わせていない。
3.
しかし、日本も南西太平洋(東南アジア)全域を占領するので、資源的に長期戦をすることが可能である。
4.
日米間の戦争の終結方法は、軍事的な日米間の決戦では定まらない。開戦後の「日本の国家総力」と「世界情勢の推移で決まる」
上記の論旨を一言で言えば、「日本は米国に自力では勝てません」と言っているだけである。プロ野球で言えば、「自力優勝消滅」状態である。この論旨で「対米開戦」を上奏するとは狂気であり、正常な人間ならば上記の論旨により「対米開戦は絶対回避が不可欠である」と上奏するべきである。
4.の「世界情勢の推移」とは、「独英戦の推移」を意味し、英国がドイツに敗北した場合の米国の態度による、という意味だろう。が、ドイツは前年の1940年7月10日に開始したバトル・オブ・ブリテン(英国本土空襲)において制空権を確保しようとしたが、英国の激しい抵抗にあい、同年8月、英国本土上陸は不可能と判断し、1940年9月19日にヒトラーは正式に英国本土上陸作戦の中止決定をしていた。一年も前に確定している、議論の余地なき自明の現実を無視して「世界情勢の推移」とは笑止である。
狂信的な「親独」であった永野は“ドイツの英国上陸・占領”という、1年前に不可能と確定している現実を無視してなお、「ドイツの逆転勝ち」を妄想していた。
海軍には、正常の域で戦争計画を論じられるものなど、一人もいなかった。だから、高木惣吉や石川信吾のようなコミュニストで“スーパー反米屋”の極左の低級な“悪の洗脳”に簡単にやられるのは、自己喪失と自暴自棄が海軍全体を覆っていたからである。
1941年9月6日の永野修身・軍令部総長の上奏の中で、米国について次のように述べている部分がある。これは、第二次ヴィンソン法(1938年5月17日)と第三次ヴィンソン法(1940年6月14日)、両洋艦隊法(1940年7月19日)によって、米国が、海軍力の大増強に邁進している状況を指している。
「米国の軍備は非常なる急速度を持って強化増勢されつつありまして 明年後半期(1942年秋以降)ともなりますれば 米国の軍備は非常に進捗し その扱ひ困難となるの情勢にあります」
米国は、日本がワシントン条約から離脱(1936年12月31日失効)しなければ、第二次ヴィンソン法(1938年5月17日)の、建艦競争再開の狼煙を挙げはしなかった。ドイツがフランスを占領(1940年6月14日)し英国本土上陸(バトル・オブ・ブリテン・1940年7月10日)をしようとしなければ、第三次ヴィンソン法(1940年6月14日)両洋艦隊法(1940年7月19日)もなかった。上記の永野修身の絶望の衝撃を隠せない“ぼやき”は、自分たちが、(「反米・反独」の大角 岑生・海軍大臣の大角人事で)1933〜34年に、「親米」の優秀な将官たちを鶴首してまで、米国との建艦競争を開始する決断をした、その反動が余りにも大きく、「このままでは、俺たちはおしまいだ!」の自暴自棄の言であった。ワシントン海軍軍縮条約があれば、これらの米国の海軍力強化に対して、「条約違反だ!」と糾弾して阻止できたのである。あるいは、仮に阻止できなくても「大義」は日本側にあるから、日本の仏印進駐に対して、米国は対日資産凍結や対日石油輸出全面禁止をしかける「名分」を失っていたはずである。米国との「無条約」を選択した日本は、自分で自分の首を絞めることになった。この教訓は現代でも極めて重要である。
どんな事があろうと、決して米国を敵に回すことはしてはならない。日米条約堅持のみが日本国の生存原理である。
日本のワシントン条約破棄に対する米国の対抗大軍拡は予想できなかったとの回想が、戦後かなりある。が、これは虚偽である。第三次ヴィンソン法(1940年6月14日、)両洋艦隊法(1940年7月19日)が制定されて、三年後(1943年)に日米の海軍力の格差が劇的に大逆転することを、帝国海軍は完全に知っていた。先の1941年9月6日の永野・軍令部長の上奏での中で、「1942年秋以降にもなれば、米国の軍備は非常に進捗し、手がつけられなくなる」とはっきり明言しているではないか。海軍軍令部のトップが予想(というより確信)しているのに、“帝国海軍は予想できなかった”とは狂言ではないか。
1943年夏以降、米国が次から次に戦場に繰り出してくる、空母・戦艦のおびただしい数について、日本海軍は、1940年7月の両洋艦隊法の成立時点で正確に予測していた。戦後、旧海軍関係者の言い訳の決まり文句、「物量に負けた」は、1940年時点で知っているのに知らなかったふりをして捏造した、“真っ赤な作り話”の弁解である。
「物量に負けることを知っていて、博打的なヤケクソ戦争をして負けた」が歴史事実である。
昭和天皇は、永野の対米開戦論を「捨鉢の戦をすることにて誠に危険なり」と正しく見抜かれておられた。
史上最大の海軍大軍拡である、1940年の第三次ヴィンソン法と両洋艦隊法とは、次のようなものであった。空母は、この二つの法律で、一気に11隻が建造されることになった。しかも、主にエセックス型(基準排水量2万7千トン、34ノット)の、この空母11隻は1945年の沖縄線まで入れれば、すべて太平洋戦争に参加した。ワシントン海軍軍縮条約があれば、これらは条約上限(空母は13万5千トン)を越えるので、1隻も建造できなかった。このうち7隻は早々と1942〜43年、対日開戦に出撃してきた。
しかし、1942年11月30日のルンガ沖海戦まで、これらの新規空母の参戦は1隻としてなく、日本の空母絶対優位は、パール・ハーバー奇襲(1941年12月8日)から確かに丸1年間は続いていた。パール・ハーバー奇襲時における、日米海軍力のギャップは以下の表の通り、太平洋では日本は米国の3倍であった。
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パール・ハーバー奇襲時における、日米海戦力比較 |
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日 本 |
≫ |
米国(太平洋艦隊のみ) |
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空 母 |
10隻 |
≫ |
3隻 |
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戦 艦 |
10隻(直後に「大和」で11隻) |
> |
9隻 |
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重巡洋艦 |
18隻 |
≫ |
12隻 |
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軽巡洋艦 |
20隻 |
≫ |
7隻 |
|
駆逐艦 |
112隻 |
≫ |
45隻 |
山本五十六の「1年間は暴れて見せる」などは、この開戦時の日本絶対優勢の軍事バランスを踏まえた発言だった。ところが、ミッドウェー海戦(1942年6月5日〜7日)に大敗北し、ソロモン海戦における、ガダルカナル攻略戦(1942年8月9日〜1943年2月7日)のも大敗北し、公約の「暴れて見せる」の逆の結果を招いたのは、山本五十六が、無能の司令長官だったからである。
また、艦艇の保有比率、「対米比率7割以上なら勝利」「7割以下なら負ける」との加藤寛治の的外れな熱唱が単なる嘘宣伝であった以上に、いかに絶大な害毒であったかは、開戦時の日本は「対米8割強」であったのに大敗北した事実で明らかである。
1941年12月16日時点(戦艦「大和」就役の日)での「日本の対米比率」は以下の表のごとく83.5%であった。
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対米比率「8割強」でも敗北した日本(御田俊一氏の計算による) |
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日本 |
米国 |
日本/米国(比率) |
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戦艦 |
41万3284トン |
57万6300トン |
―― |
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空母 |
20万6250トン |
16万8600トン |
―― |
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重巡洋艦 |
21万3000トン |
17万1200トン |
―― |
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軽巡洋艦 |
9万8855トン |
15万7775トン |
―― |
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駆逐艦 |
16万5868トン |
23万9530トン |
―― |
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潜水艦 |
9万7900トン |
11万6621トン |
―― |
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合計 |
119万5157トン |
142万0026トン |
83.5% |
D“海軍のラスプーチン”黒島亀人を重用した山本五十六
(A)海軍を簒奪した、「サイコパス」山本五十六と「統合失調症」黒島亀人
目的不明のパール・ハーバー奇襲作戦(1941年12月8日)も、大敗北となったミッドウェー作戦(1942年6月5日〜7日)も、その立案を、軍令部はしていない。軍令部の指揮下にあるべき、連合艦隊司令長官の山本五十六と先任参謀の黒島亀人が、“下克上のクーデター”で軍令部を簒奪し、両名が私的に策定したからである。“山本五十六と黒島亀人の下克上”それが、「1941から42年の日本海軍」であった。
1931年9月18日、満州で石原莞爾らが、陸軍参謀本部を無視して、下克上で敢行した柳条湖事件に始まる満州事変の、その海軍版であった。パール・ハーバー奇襲とミッドウェー海戦は「海軍の満州事変」であった。だが、満州事変は、「下克上の計画的犯罪ではあることに間違いない」が、結果的に日本に新たな資源と経済力をもたらし、また、ソ連軍を北満州から撤兵させ国益と合致したのに対し、広大な太平洋を戦場とする対米戦争は、国富を蕩尽し、まっしぐらに亡国の道を転落する、国家叛逆の愚行であった。山本/黒島コンビの“海軍ハイジャック”は、「負の満州事変」となった。
ミッドウェー海戦とガダルカナル島争奪戦が惨憺たる結末となったのは山本の妄想と黒島の妄想の複合産物だからである。山本五十六は、日頃の女遊びと博打狂がたたり、判断力は老化し知見は涸渇し、このため計画は杜撰をきわめ、発想すべては現実から乖離するものとなっていた。黒島亀人とは、海軍内部では統合失調症(いわゆる精神分裂症)として広く知られ、大作戦の計画立案を任せられる人物ではなく、人格異常の欠陥軍人であった。このことは、黒島亀人が「特攻(特別攻撃隊)」の発案者であることからも自明である。
しかし、山本五十六は「狂人」黒島亀人を重用し、連合艦隊司令部の参謀長(宇垣纏)より「上席」に扱って筆頭側近にした。山本五十六もまた、人格に重大な欠陥を持ち似通った同病同士で意気投合したのであろう。精神医学的に言えば山本はサイコパス系の人格破綻者であった。
黒島を寵愛する山本五十六の度合いは尋常ではなかったが、反町栄一の『人間山本五十六』によれば、1942年11月、黒島の何らかの重大なミスに怒る三和義勇・作戦参謀に対して、山本五十六は、問題と責任がある黒島の方を肩入れする不公正な弁護をしたあげく、黒島を批判したのは許さないと、この直後12月1日、真に作戦参謀の才に恵まれていた三和義勇参謀の方を馘首した。
黒島亀人の人格の異常性は、戦後、宇垣の『戦藻録』第六巻を抜き取り紛失させた事件でもよくわかる。米軍に押収される前に、ガダルカナル攻略戦における、自分の責任問題になる部分を証拠隠滅したのである。
このような人間に、国家の命運を左右する、パール・ハーバー奇襲作戦とミッドウェー作戦とガダルカナル攻略戦の作戦立案を丸投げ的に任せた山本五十六が「死刑」に処されるべきに、異論など、何処に存在できようか。
(B)自分の“思いつき作戦”に批判を一切認めない“ならず者”山本五十六
山本五十六は、自分の“思いつき作戦”への批判を一切認めなかった。次のは、ミッドウェー作戦の出撃に際し、1942年5月25日、「大和」の最上甲板に張った天幕における、各艦隊の司令長官や参謀長に対する、山本五十六の訓示である。
「もし、本作戦に疑義ある者は直ちに申し出られたい。即刻、退艦を命ずる」
海軍の特徴は、組織内部で自由な言論が禁止状態だったことで、これはハワイ奇襲作戦でも同じであった。ハワイ奇襲の図上演習は、海軍大学校と戦艦「長門」艦上の二回行われた。この二回のいずれの場合でも、山本五十六は、ハワイ奇襲作戦の実行そのものを批判し、反対することを絶対に許さなかった。
しかも、山本は、上官や上部組織に対しても、天性の“ならず者”らしく“脅し”の乱発で、下克上的に、独裁的に、抑え込むのが常であった。例えば、パール・ハーバー奇襲作戦に関して、黒島亀人を使って、「もし軍令部が了解しないならば、司令長官を辞任する」と脅した(1941年10月19日)。すでに前月の9月6日の御前会議の後で、そのような人事が不可能なことを知った上での、“博徒”山本らしい“暴力団の凄み”であった。
海軍の正常な意思決定過程は、@山本が自分の参謀たちを引き連れA軍令部において、B「軍令部・連合艦隊」合同研究会を何日も何週間も開いて議論と分析を尽くして決定すべきであり、これ以外ではあってはならない。だが、山本は、ⓐ瀬戸内海の戦艦「長門」でのんびりカード(ポーカーなど)にうち興じ、ⓑ自分の参謀長である宇垣纏すら軍令部に派遣しなかった。山本にとって、軍令部は心理的には下部組織だった。山本五十六が、「オレ様は海軍の帝王」「オレ様は海軍の独裁者」との狂った感覚に生きていたのは間違いない。
ミッドウェー作戦の時も、山本は、渡辺安次・参謀を軍令部に派遣して、「山本は、了解なき時は辞任する」と、同じ手口の脅しをさせた。ハワイ奇襲よりひどい、素人目にも出鱈目の極み、ミッドウェー島攻略作戦を、永野修身はまたしても了解した(1942年4月5日)。永野修身は、軍令部総長が務まらない愚鈍と無責任と臆病を絵にかいたような人物であった。
ミッドウェー島は、攻略後どうやって維持していくのか、兵站輸送のシー・レーンはどうやって確保するのか?。こんな無意味でばかげた作戦を認可するとは、軍令部はすでに“木偶の坊集団”と化していた。「帝国海軍と日本国をつぶした“A級戦犯の海軍大将”といえば、山本五十六と永野修身である」は明白にすぎる公理である。
そもそも、山本五十六の“ならず者性”はパール・ハーバー奇襲の了解を、海軍の公式の意思決定システムを無視し、まず、“自分の連合艦隊司令長官への昇進の人事おねだり”である、及川古志郎・海軍大臣への手紙「戦備ニ関スル意見」(1941年1月7日)を送ることから始めていることでも、糾弾されなければならない。
しかも、この及川大臣への手紙には、とんでもない騙しがある。山本五十六は始めから自身はハワイに出撃する気などさらさらないのに、さも、ナポレオン戦争時の英国ネルソン提督や日露戦争時の東郷平八郎のごとく、戦場で先頭に立って先陣をきると、次のような嘘をついている。実際には、部下の南雲忠一・海軍中将にさせた。南雲・中将の空母6隻を掩護するためにも、戦艦「長門」はその先頭に配置されなくてはならないが、自分が危険にさらされる臆病から、山本は「敵前逃亡」した。
「小官は本ハワイ作戦の実施に当たりては航空艦隊司令長官を拝命して攻撃部隊を直率せしめられんことを切望するものなり」
E昭和天皇も日本国民もすべてを騙せ、「海軍」のため―――巨大な嘘戦果プロパガンダと帝国海軍の「反・国家」
「虚報のオリンピック大会」というものがあれば、スターリンや毛沢東などの共産圏諸国を別とすれば、帝国海軍は世界一かもしれない。非共産圏での「虚報の金メダル受賞者」といってもほぼ間違いない。二千年の日本の歴史においては、帝国海軍よりひどい嘘つきは見当たらず、その虚言の規模とそれがもたらした(自国民大量虐殺を含む)弊害は、前例のない、甚大な規模となった。海軍の頭には、日本国も日本国民も存在しなかった。
「台湾沖航空戦」(1944年10月12日〜10月16日)について、新聞は、「撃沈は空母11隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻、撃破は空母8隻/戦艦2隻/巡洋艦4隻・・・・」と報道している(『朝日新聞』1944年10月20日付)下表参照。
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台湾沖航空戦の(海軍発)嘘戦果 |
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(撃沈) |
嘘報道数字(現実数字) |
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空 母 |
11隻(ゼロ) |
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戦 艦 |
2隻(ゼロ) |
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巡洋艦 |
3隻(ゼロ) |
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(撃破) |
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空 母 |
8隻(ゼロ) |
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戦 艦 |
2隻(ゼロ) |
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巡洋艦 |
4隻(2隻) |
これは大本営海軍部の、子供でも分かる“真っ赤な嘘の大戦果”発表をそのまま報じたもので、海軍の“世紀の大虚報”癖の最たる症状の一つとなっている。
「台湾沖航空戦」の実際は、米国の空母も戦艦も、一隻たりとも撃沈していない。被弾すらしていない。被弾大破して戦列離脱したのは。巡洋艦二隻「ヒューストン」「キャンバラ」だけだった。これが、帝国海軍の航空機300機以上を海の藻屑とした代償であり、同数のパイロットの命の代償であった。
この超・大嘘戦果発表は、次の三つの問題を提起している。
イ)
敵空母に対する航空攻撃能力が日本に全くないということが、四か月前のマリアナ沖海戦(1944年6月19日〜6月20日)で証明されているのに、なぜ繰り返したかである。同じ愚を繰り返すのは、頭が極度に悪いか、人格に極度の異常があるか、が原因である。
ロ)
戦果など、どうでもよいとの投げやりな“ニヒリズム”が海軍の中枢部に蔓延していたが、それは、いつしか、次代の日本を担う若者を無限に無駄死にさせる“サディスティックな冷酷性”に発展していた問題である。
ハ)
帝国海軍にとって、米国太平洋艦隊は、もはや「対等に戦える敵」などではなく「圧倒的強さの巨大な怪物」になっていた。決して勝てない敵と戦う「帝国海軍」の心理とは、第一に「敗北主義のニヒリズムとポスト・モダン思想的祖国廃墟思想」の複合が起こり、第二にそれが、「帝国海軍の多数の壊滅の犠牲だけ」を払って、「祖国日本が廃墟となる前に白旗を揚げてしまうこと」があっては、決して「帝国海軍として納得できない」という、「祖国日本への呪詛」への変遷であろう。だから、これほどの嘘戦果発表をしてでも、祖国日本(天皇・国民・陸軍)を騙し、決して降伏の白旗を揚げさせることがないように誘導したのである。
実際に陸軍は海軍のこの嘘戦果に基づきレイテ島作戦(1944年10月20日〜終戦)をなして八万人部隊の97%以上の戦死者を出し、全滅した。海軍のどこにも“正常”はなく、国家叛逆と自国民大量殺害のみが基調であった。
以下、主な海戦の嘘戦果発表について、順不同で列挙する。
イ)
1942年5月7日〜8日の珊瑚海海戦については、米空母「サラトガ」「ヨークタウン」と米戦艦「カリフォルニア」、および英国戦艦「ウォスバイト」を撃沈したと発表した(『朝日新聞』1942年5月9日付け)。
ロ)
第一次ソロモン海戦(1942年8月9日)については、米甲巡ウィチタ型1隻/米甲巡アウストリア型5隻/英甲巡3隻/英乙巡1隻/米乙巡3隻/駆逐艦9隻/潜水艦3隻・・・・を撃沈」であった(『朝日新聞』1942年8月15日付け)。
ハ)
第二次ソロモン海戦(1942年8月24日)については、米国の「空母大型1隻大破、空母中型1隻中破。戦艦1隻中破」であった。(『朝日新聞』1942年8月28日付け)。
ニ)
1942年10月26日の南太平洋海戦に関しては、海軍の発表では、米海軍損害は、下表の通り(『朝日新聞』1942年11月17日付け)
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南太平洋海戦(海軍発)嘘戦果 |
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(撃沈) |
嘘報道数字(現実数字) |
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空 母 |
3隻(1隻) |
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戦 艦 |
1隻(ゼロ) |
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巡洋艦 |
3隻(ゼロ) |
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駆逐艦 |
1隻(ゼロ) |
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(撃中破) |
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空 母 |
ゼロ(1隻) |
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戦 艦 |
ゼロ(1隻) |
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巡洋艦 |
3隻(ゼロ) |
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駆逐艦 |
3隻(1隻) |
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(航空機) |
200機以上 |
ホ)
第三次ソロモン海戦(1942年11月12日〜15日)では、米海軍の損害は、「巡洋艦8隻/駆逐艦4か5隻/駆逐艦1隻の撃沈、巡洋艦3隻/駆逐艦3か4隻の大破」であった(『朝日新聞』1942年11月19日付け)。
ヘ)
ルンガ沖夜戦(1942年11月30日夜)では、米側損害は、「戦艦1隻/オーガスタ型巡洋艦1隻/駆逐艦2隻の撃沈」であった(『朝日新聞』1942年12月4日付け)。
ト)
ソロモン諸島・レンネル島沖海戦(1943年1月29日〜30日)では、米海軍は「戦艦1隻/巡洋艦2隻が撃沈され、戦艦1隻/巡洋艦1隻が中破した」と報道された(『朝日新聞』1943年2月2日付け)。
チ)
イザベル島沖海戦(ケ号作戦・ガダルカナル島撤退作戦1943年2月1日〜7日)では「巡洋艦1隻/駆逐艦1隻/駆逐艦1隻/魚雷艇10隻を撃沈」であった(『朝日新聞』1942年2月11日付け)。
海軍の嘘戦果発表のワースト3は、「ミッドウェー海戦(1942年6月5日〜7日)」「台湾沖航空戦(1944年10月12日〜16日)」「フィリピン沖海戦(レイテ沖海戦:1944年10月23日〜25日)」である。
ミッドウェー海戦の大嘘報道は、山本五十六が創った“世紀の虚報”だが、その後の帝国海軍の墜落を徹底させたターニング・ポイントになった。米空母は(1隻しか撃沈できなかったのに)2隻撃沈したとか、日本の空母喪失は(4隻にもなるのに)空母1隻の撃沈にとどまったとか、これらのおぞましき捏造は皆、山本の命令である。(『朝日新聞』1942年6月11日付け)。フィリピン沖(レイテ沖)海戦では、大本営海軍部は、下表のごとく発表した(『朝日新聞』1944年10月28日付ほか)。
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フィリピン沖海戦の(海軍発)嘘戦果 |
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(撃沈) |
嘘報道数字(現実数字) |
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空 母 |
8隻(3隻) |
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巡洋艦 |
4隻(ゼロ) |
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駆逐艦 |
4隻(3隻) |
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(撃破) |
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空 母 |
9隻(2隻) |
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戦 艦 |
1隻(ゼロ) |
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巡洋艦 |
2隻(1隻) |
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駆逐艦 |
3隻(ゼロ) |
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(撃沈) |
500機以上(125機) |
だが、実際はカッコ内の微々たるものであった。撃沈空母は高速軽空母1隻、護衛空母2隻であった。海軍は、国家としての戦争ではなく、国家から浮遊した私的な団体として戦争をしていたと思われる。少なくとも上記の虚報体質はそれを裏付けている。だから、政府や日本国民、さらには畏れ多くも大元帥の昭和天皇に対してすら、とてつもない大嘘が平気でつけたのである。
以上に挙げた海戦の嘘戦果発表を加算すると帝国海軍は米国の空母97隻を撃沈し、84隻を撃破している。つまり、帝国海軍は合計97+84=181隻の米空母を撃沈または撃破したことになる。しかし、実際は11隻の撃沈であった。戦艦にしても、36隻を撃沈し、56隻を撃破したことになるが、実際は、たった1隻の撃沈であった。とんでもない詐欺的大虚報である。
しかも、このマリアナ沖海戦や対話沖航空戦・レイテ島沖海戦以前の、1943年末時点ですら、海軍の発表は出鱈目で、下表のように、米海軍の保有空母隻数(全く損害を受けなかった場合の真の保有隻数)より、「日本が撃沈したと称する隻数」の方が多い???のである。米国の空母保有隻数は1943年末、日本の新聞嘘報道によれば、「マイナス12隻」である。いったいこれはどう考えればよいのだろうか。
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(帝国海軍発)新聞虚報道数字から計算した1943年末の米海軍の軍艦残存数 |
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正規空母 |
戦艦 |
巡洋艦 |
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帝国海軍が発表した米軍艦撃沈隻数 |
26隻 |
12隻 |
79隻 |
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米海軍の真の軍艦保有隻数(撃沈なしの時) |
14隻 |
24隻 |
56隻 |
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(海軍発)新聞紙上の残存米海軍の軍艦隻数 |
−12隻 |
+12隻 |
−23隻 |
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実際に日本が撃沈した米海軍の軍艦隻数 |
4隻 |
3隻 |
8隻 |
(7)「山本五十六の太平洋戦争」とは―――山本五十六の「大罪」(U)
@“部下の大量戦死を気にも留めない”山本五十六の「冷血非道人格」
(A)山本五十六の“海戦大敗北の口封じ”
山本五十六の“海戦敗北の口封じ”が実際に実行されたのが、「ミッドウェー海戦の大敗北」と「その後の措置」である。前者では、四隻の空母とともに三千数百名が戦死したが、「戦死させた」が正しい言い方であろう。後者では、この海戦でかろうじて生還した者を、大敗北を知っているからと“口封じ”すべく、山本五十六は直ちに彼らの「殺害」を冷酷・沈着に実行していった。
まず、空母4隻から生還した第一級のパイロットたちは、上陸もさせず、休息も与えず、バラバラに分散して次々に遠方の前線に配属させた。海戦の勇者である戦傷パイロットに対しても、病院に隔離して、家族はむろん、友人の海軍軍人とすら面会謝絶を徹底させた。
例えば、淵田美津雄の回想記『ミッドウェー』は次のように記述している。
「私は海戦当日 南雲部隊の旗艦<赤城>にあったのであるが、・・・・戦傷のため・・・・横須賀海軍病院に後送された。人通り漸く絶えた軍港の黄昏時、(私を乗せた)深く覆いをかけられた担架は、こっそり病院の裏門から運ばれた。(私の)病室は完全に外部との交通を遮断されていた」
「付き添いの看護人は許されなかった。外部との通信も禁止された。つまりミッドウェーの戦傷患者は・・・・俘虜収容所にあるのではないかとの錯覚に陥るほどの、治療に名を藉る軟禁であった」
無傷で生還した空母のパイロットの配属先は、必死に至らしめる、新たな戦場に転属させたし、それ以外にも杉田一次が、次のように、むごい措置だったと、その一端を書いている。
「機動部隊の生存者を九州各地に隔離し、下士官、兵は家族との面会もないまま、やがては南方に転属させられた。空母「赤城」艦長の青木泰二郎・大佐は救助され生還したが、(口封じのため)責任を問われて予備役に編入された」
“零戦の天才パイロット”酒井三郎も、“部下殺し”の残忍な山本五十六を告発している。1942年の初期マレー作戦で、台湾の台南海軍航空基地の「中攻(中型陸上攻撃機:陸上攻撃機とは陸上から飛び立つ攻撃機の意味)」隊のうち、1機が被弾して敵地に不時着し、マレー半島の現地人に保護されたあと救出された6名の搭乗員に対して、「捕虜になった」と認定して、山本五十六は「5月上旬」と指定した「死刑」の“自爆”を命じた。
かくして、6名が乗る「中攻」1機は、ラバウル基地から東ニューギニアのラエ基地に飛び、そこから敵の高角砲陣地にめがけて「自爆=自殺」した(『零戦の真実』)。このように、山本五十六はパイロットの命を“虫けら”としか考えなかった。国家の財産である中型爆撃機1機など“ちり紙”としか考えなかった。
話をミッドウェー海戦に戻す。ミッドウェー島の占領のため、ミッドウェー海戦に参加した唯一の陸軍部隊「一木支隊」(第7師団歩兵第28連隊基幹の2,300名、一木清直・陸軍大佐)を帰国させるとミッドウェー海戦の大敗北が陸軍全体に知れ渡るので、「休養」という名でグアムに「軟禁」した。そしてガダルカナル島に転進させた(1942年8月)。
ガダルカナル島攻略は、フィジー島・サモア島攻略作戦(FS作戦)のための航空基地をつくる必要からで、実際に飛行場をつくった(1942年8月5日一期工事完了)。しかし、ミッドウェー海戦で攻撃型空母4隻を喪失し、FS作戦が一時中止された以上、もはや不要となった。が、米国にとってガダルカナル島のこの航空基地は、対日反攻には有効で、何としてでも確保することになった。日本の海軍が、わざわざ、米国のために戦略的に重要な航空基地を発見し、つくってしまった、という結果になったのである。
日本として、ガダルカナル島を米国側に渡さない方が望ましいのは当然だが、問題が二つあった。第一は、この島は、米海軍・米海兵隊と、熾烈な争奪戦をして、日本の海軍力と陸軍部隊に多大な損耗の犠牲を強いるだけの戦略的価値があるのか否か。第二の問題は、島嶼攻略戦の知見の全くない、そのための軍備もない、兵員や兵站を輸送する能力が超弱劣な「山本五十六海軍」で、実際にこの争奪戦に勝利できるのか。また、いったん攻略しても、いつまで維持できるのか。
だが、山本と黒島は、ガダルカナル島攻略に、海軍力をかなり集中的に投入し奪還作戦をやることにした。しかし、山本五十六は、ガダルカナル島争奪戦における敵陸上部隊や敵輸送船団の撃滅・撃沈に最高の艦砲射撃能力のある戦艦「大和」も「武蔵」も、(トラック島にあるのに)出撃させなかった。
ガダルカナル島攻略に失敗すれば、その責任は海軍ではなく、陸地占領であるから陸軍(第17軍)の失敗に帰せられる。自分のミッドウェー敗北問題がうやむやになる。 つまり、山本五十六と黒島亀人が立案したガダルカナル島攻略には、初めからその大敗北は見えていた。その上、ミッドウェー海戦の敗北を知る、生き証人「一木支隊」を投入すれば、その抹殺もできる。
彼らの思惑通り、1942年8月21日に「一木支隊」はガダルカナル島で壊滅した。
(B)ミッドウェー島攻略の目的―――喝采を欲した山本五十六の“名声づくり”
「ミッドウェー島/アッツ島/キスカ島の同時占領」は軍事的には無価値だが、国民から大喝采を浴びやすいショーとして、つまり「神話的提督」にならんとする、山本五十六の私的な名誉欲には効果抜群の、“壮大な舞台”であった。
山本五十六の異常な名誉欲は、ハワイのパール・ハーバーから凱旋する南雲忠一・海軍中将の機動部隊をわざわざ小笠原諸島まで「出迎える」べく、自分が坐乗した旗艦「長門」を出動させたことでも一目瞭然である。帰投時の南雲への拍手喝采を「横取り」するためだった。そして、この横取り策は大成功し、(生存者ではたった一人)山本五十六のみ叙勲された。山本とは、何という卑怯者か。
さて、ミッドウェー島は、ハワイから空爆される距離にあり、ハワイを占領しない限り、その占領維持は困難である。また、日本側の太平洋作戦にとって戦略的価値が無い。
そもそも、インド洋作戦をしていた南雲機動部隊を太平洋に呼び返してまでの、ミッドウェー島攻略は、その価値が無かった。一方、インド洋作戦は、英国の援蔣ルートの切断だから、支那の蒋介石・国民政府を降伏させるのに決定的な価値があった。しかし、大喝采を浴びたい一念の山本五十六の邪念一筋が、ミッドウェー海戦を強行させたのである。
「大敗北」となった以上、山本五十六は直ちに軍法会議で、死刑かもしくはそれに準じる処分を受けなければならない。ミッドウェー海戦の敗北は日本海軍史上、最悪・最低のスキャンダラスな不祥事であるから、連合艦隊司令長官の辞任で済むレベルではなかった。だから、死刑相当の「犯罪者」となった山本五十六は、生還した最優秀なパイロットすら“口封じ”すべく、戦死し易い戦場に配属したり、あらん限りのさらなる犯罪的処置を講じて、ミッドウェー海戦大敗北の事実の隠ぺい工作に精を出した。
「山本五十六の犯罪」のもう一つは、ミッドウェー海戦敗北の原因究明を禁止したことであろう。敗北の研究なくして、その後の海戦で勝利することはできず、敗北が恒常化していく。だが、山本は、その後の太平洋戦争がいかに日本の敗北の連続になろうとも、「そんなの、俺には関係ねえ」の方針を貫いた。
海軍の史料の中から、戦後、「ミッドウェー海戦の敗因に関する研究論文・報告書」が1本も見つからないのは、終戦時に焼却されたのではなく、初めから1つとしてないからである。この種の研究論文を1942年11月に書き上げた杉山利一・海軍中佐(横須賀海軍航空隊教官)は、次のように回想している。
「・・・・11月頃までかかって、ミッドウェー海戦の戦訓をつくった。これを80部くらい刷って各部に配布したところ、福留繁・軍令部第一部長から、誰に頼まれてこの研究をやったのかということで、猛烈に叱られたことを記憶する。この戦訓は直ちに回収させられた」
上記に挙げたほんの僅かな事実だけでも、山本五十六という人物が、軍人としても、人間としても、正常でなかったのは明らかである。
また、上記の福留繁の行動が示すように、山本以外の、帝国海軍の将官も、“戦争の勝利”など興味が無かった。福留にとって海軍は、市役所と同じで、出勤し、失敗を犯さず、出世するところでしかなかった。この異常は、すべての海軍将官に共通していた。
A怯懦に生きた“世界一の臆病提督”山本五十六
山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、“卑怯”の二文字を絵に描いた、史上最低の高級軍人であった。連合艦隊司令長官でありながら、空母6隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。
日露戦争の日本海戦(1905年5月27日〜28日)で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保港に浮かぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できるだろうか。あるいは、1805年10月21日のトラファルガル海戦で「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史のifとしても考え付く者はいないだろう。
しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところが、いざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、“率先垂範の指揮”という海軍の伝統をも無視し、瀬戸内海の戦艦「長門」の艦上でカード(ポーカー)三昧の日々であった。
(A)山本五十六は海軍刑法第四十四条により「死刑」が妥当
1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は世界史上、“最悪・最低の狂将”であった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は以下の通り。
イ)
ミッドウェー島攻略の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているのにもかかわらず、空母4隻の前方2kmにいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540kmに「逃亡=職場放棄」していた事実。
ロ)
4隻の空母のうちの3隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していく時、山本五十六は、後方540kmの戦艦「大和」艦上で「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の職務放棄。
この「職場放棄」と「職務放棄」は海軍刑法第四十四条、もしくは第三十八条の定めに従って、山本五十六の罪は「死刑」である。
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海軍刑法第四十四条(明治41年4月10日公布、同10月1日より施行) 「指揮官その艦船軍隊を率ゐ 故なく守所もしくは配置の場所に就かず またはその場所を離れたるときは左の区別に従て処断す 一、敵前なるときは死刑に処す 二、 略 三、 略 ※ミッドウェー海戦は1942年6月であるから上記が適用される ➡参考に1944年(昭和19年)法律第1号による改正後では、 海軍刑法第三十六条 「指揮官敵前に於て其の尽すへき所を尽さすして艦船、軍隊を率ゐ逃避したるときは死刑に処す」 海軍刑法第三十八条(明治41年4月10日公布、同10月1日より施行) 「指揮官その尽くすべきところを尽くさずして 敵に降り または その艦船もしくは守所を敵に委したるときは死刑に処す」 ➡参考に1944年(昭和19年)法律第1号による改正後では、 海軍刑法第三十五条 「指揮官其の尽すへき所を尽さすして敵に降り又は其の艦船若は守所を敵に委したるときは死刑に処す」 |
女と博打の生涯であった山本五十六の正体は、脳が極度に劣化した無能人間で、高いIQを必要とする大海軍の指揮官の適性が無かった。他の海軍将官も皆同じであった。それを示すエピソードがある。
米内光政/山本五十六/井上成美/大西瀧治郎/豊田貞次郎の5人が、揃いも揃って常軌を逸した“アホ・バカ・間抜け”であることを示した「水ガソリン事件」である。米内や山本らは、H2O(水)にはC(炭素)が含まれていると信じていた。彼らは小学校4年生の水準すらなく、その頭は異常であった。
1938年、ある閣議の後で、近衛首相から「水がガソリンになるそうだ。調べてみたら」と米内・海軍大臣に耳打ちがあり、海相から軍需局長に伝えられた。軍需局では詐欺行為であることを熟知していたので取り上げるべきではない、と結論された。
軍需局から実験申し込みを断られたこの詐欺師(自称化学者・本多維富)は話を海軍航空本部に持ち込んだ。
海軍次官の山本五十六(中将)と航空本部教育課長だった大西瀧治郎(大佐)は、元軍需局課長で燃料局部長の柳原博光(少将)の中止勧告を聞き入れず、詐欺話を信じた。そして、山本五十六が海軍次官として命令を出し、海軍航空本部の地下室でこの詐欺師に3日間に及ぶ公式実験をさせた。この時、これに協力した航空本部長は、1941年7月、外務大臣になれたうれしさで、近衛文麿首相を支持して「南進」を決定する、あの豊田貞次郎(中将)であった。海軍大臣であった米内光政も、たぶんに、この「水ガソリン」を信じたのだろう、最初、大臣室での実験を勧めたという。なお、この時、「馬鹿げている」と直言して、この実験に反対する部下に対して、井上成美が、「上司に逆らうな」と叱責している。井上成美もまた、自由な討議を一切禁止した、息が詰まる帝国海軍の末期症状に加担していた一人であった。
もう一つの事例は、ミッドウェー海戦に通ずるもので、米内/山本/大西ら、当時の海軍出世街道を走る連中は、「兵器における、攻撃と防御の不可分性」が理解できない、度外れの欠陥軍人だった問題である。米内光政の渡洋爆撃や大西瀧治郎の重慶爆撃の時、いずれにも、護衛(掩護)戦闘機が無く、これらの爆撃機の被害は甚大であった。ミッドウェー海戦で、空母4隻のそれぞれに2隻ずつ、計8隻の護衛戦艦をつけなかった山本とは、このような爆撃機に護衛戦闘機をつけない米内らと同じ、「防御不要(鎧不要)」という、非軍人的発想をしていたからである。
ちなみに、1937年8月15日の、米内が主導した渡洋爆撃も同じであった。長崎県大村から出撃した、海軍の新しい爆撃機「九六式陸上攻撃機(中攻)」20機は、掩護戦闘機なしであった。だから、東シナ海を渡洋して南京を爆撃したが、4機が撃墜され、6機が被弾した。その戦果はゴミのレベルであった。さらに翌日、このうち9機が済州島から蘇州を再爆撃したが、1機が不時着して大破し、結局2日で半減した。
戦場の現実を全く想定できず、「鎧なしで戦え」と、鎧を着けさせずに平気に部下を戦場に出撃させる“狂気の提督”、それが米内/山本/大西らであった。
掩護戦闘機の量的不足と軽視が、味方爆撃機の極端な損耗となった。一式陸上攻撃機(一式陸攻)の生産総数は2,416機、終戦時残存は162機であった事実は、掩護の欠如ぶりのひどさを物語っている。“爆撃機万能論”は「大艦巨砲主義」より、はるかに始末が悪く、帝国海軍自滅の主因の一つであった。
(B)命惜しさの無線封じ―――世界の戦史上類を見ない“超臆病軍人”山本五十六
ミッドウェー海戦(1942年6月5日〜7日)の敗因は、山本五十六を庇うために奥宮正武(1937年12月12日パナイ号事件を仕掛けた人物)らが考案した、弁解用の創り話「兵装転換による無駄な時間を生じたことによる、魔の五分間」などでは、もちろんない。最大の主因は、軍人にあるまじきレベルの、“山本五十六の怯懦”(臆病)にある。第二の原因は、偵察機の情報を知力解析して、敵空母の正確な位置を推算する能力に欠けていたからである。第三の原因は、空母の運用が稚拙で実践から乖離していたことであろう。
“山本五十六の怯懦”とは、山本が自分の命を惜しんで、戦艦「大和」の通信傍受隊が敵空母の位置を一日以上も前にキャッチしているのに、それを南雲提督が率いる空母機動部隊に知らせなかった事件である。“無線封止”を解けば、自分が乗艦している「大和」の位置を敵に知られて攻撃される可能性があると、山本は、自分の命大事と戦々恐々として、それを避けたのである。
佐々木彰・航空参謀は、次のように回想している。これは他の証言と合わせると概ね正確のようである。山本五十六こそが、南雲空母機動部隊に、敵空母の位置を知らせなくて良いと最終決定したのである。
「(1942年)四日夜<大和>にあった敵信(敵通信傍受)班は、ミッドウェーの北方海面に敵空母らしい呼び出し符合を傍受したと(私に)報告してきた。(すぐに南雲司令官のいる空母<赤城>に知らせるべきかどうかについては、最終的に)この電報は(山本)長官に申し上げて(打電しなくて良いと指示されたので)打電しないこととした」
次に山本五十六は、味方空母を敵の艦爆隊護衛する(自分が坐乗する)戦艦「大和」などの戦艦部隊を南雲空母機動部隊の前方に展開しなかった。東郷平八郎が敵艦隊の前面に出て艦橋に自ら立ったのとはまるで異なっていた。山本は自分の命を惜しんだ。しかも、空母機動隊より、はるか後方、なんと540kmも離れた、絶対安全圏に「大和」を位置させ、その司令長官室で将棋を指していた。
何のために、山本五十六は、ミッドウェー海戦に出撃したのか。その必要は全くなかった。むしろ、山本五十六という疫病神が出かけて、指揮を混乱させたから、4隻の空母喪失という大敗北となったと、戦闘記録は無言で行間に語っている。
山本の臆病は、ガダルカナル島作戦における、米海軍の提督たちと比較するともっとはっきりする。山本は、将兵の激励のため、ガダルカナル島に一度も足を運んでいない。一方、米国側は、ニミッツ提督が1942年10月に、ハルゼー提督が同11月に、ノックス海軍長官すら1943年1月に、現地部隊の将兵の激励に訪れている。そもそも、山本の人格には、“死闘の激戦”が繰り広げられている「戦場の将兵激励」という発想が無い。某刑事ものの邦画で「事件は、会議室で起こっているんじゃない。現場で起こっているんだ!」とのセリフがあったが、戦場の将兵はまさにこの心境で戦っていたであろう。
臆病の問題以上に、もっとトンデモない、もっと本質的な問題が山本にはある。ガダルカナル島での、日本の陸軍部隊の損害は死者20,000人を超え、この20,000人のうち餓死が15,000人以上だったが、これらの陸軍の将兵の死を聞いた山本が、手を合わせたとか、涙ぐんだとかの、そのような記録も回想も皆無である。山本は唯物論的な無神論者だったという指摘は多いし、これは事実であった。3,000名を超えるミッドウェー海戦の部下の死に対しても、山本は、葬儀はおろか弔意も表していない。
ミッドウェー海戦における山本の問題はもう一つある。4隻の空母を撃沈された時、戦闘はまだ終了したわけではなかった。日本側にはアリューシャン列島に展開している小型空母が二隻あり(搭載航空機27機の「隼鷹」、36機の「龍驤」)、これをミッドウェー海域に呼び戻し、まだミッドウェー海域にある改装空母二隻(計39機)と戦艦11隻をこの護衛につけて再編成し、自分の坐乗する戦艦「大和」を旗艦として山本五十六が指揮すれば、米海軍に最後に残る手負いの空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)を撃沈することなど容易であった。
なぜ、山本五十六は、「退却」の名目で、慌てふためき「敵前逃亡」したのか。それは、「職務放棄」ではないか。山本は、恐怖に震えていた上に、指揮する自信がなかった。空母機動隊の発案はしたが、実践のできない“口舌の徒”にすぎない自分の真像がばれるのが怖かった。
山本は、その後しばらくして、戦艦「大和」をつれて、トラック島に逃げ込んだ。ミッドウェー海戦大敗北のほとぼりが冷めるのを待つことにしたのである。山本の頭と行動には「自己保身」以外、何もなかった。
(C)「レイテ湾沖反転」の栗田健男、「マリアナ沖七面鳥撃ち」の小澤治三郎
山本五十六の異常な怯懦病と無責任症(ルール無視)は、他の海軍の高官たちを重く篤く汚染した。「敵前逃亡」と「職務放棄」は、帝国海軍の日常となった。
「敵前逃亡」の好例は、レイテ湾沖海戦(1944年10月)における、栗田健男・海軍中将の、命令に反した「反転」もその一つである。栗田が怖くなって戦場を離脱したのは明らかである。だが、これは、ミッドウェー海戦における山本五十六の「戦場から540km離脱」と「戦場からの即時逃亡」という、二つの「敵前逃亡」を真似ただけである。
栗田の「反転」=「敵前逃亡」が海軍内で糾弾されなかったのは、それをすると山本の「敵前逃亡」も問題とせざるを得なくなるからである。旧海軍関係者が、戦後、栗田問題に口を閉ざし続けたの理由の一つは、「山本神話」を守るためであった。
栗田はレイテ湾突入まであと2時間の、1944年10月25日正午頃、レイテ湾における敵上陸部隊を攻撃する任務を放棄した。この「職務(職場)放棄」は、北方からの米機動部隊の来襲に恐怖したからである。
確かに、米陸軍部隊は1944年10月21日深夜には、10万人を超える主力がレイテ島上陸をし終わっていた。10月20日であれば、栗田艦隊のレイテ湾突入は、上陸作戦中の上陸部隊を壊滅できた。栗田艦隊のレイテ湾突入のタイミングが5日遅れていたことは事実である。それでも、上陸したばかりの米陸軍部隊に対する艦砲射撃や、荷揚げされたばかりで海岸に積み上げられた膨大な武器弾薬食糧に対して攻撃し炎上させることは、その後のレイテ島での日米陸戦を決定的に左右する軍事的効果があった。たとえ敗北しても、レイテ島での陸軍戦死・餓死者を97%でなく、50%以下ぐらいに抑えたことは間違いないだろう。
だが、栗田健男・中将らは任務を遂行したあと敵の空母に襲われて全滅するだろう、恐怖に慄き臆病を優先し、命令である陸上攻撃にそれほどの価値はないとして放棄した。帝国海軍では「海軍とは海上戦闘/艦隊決戦なり」の日露戦争時代のアナクロ教育がなされており、“陸上攻撃こそ海軍の主たる任務”との、「現代海軍」の理論が全く教育されていなかった。
山本五十六に比すれば、疲労は限度を超えていたのは事実だから、栗田健男・中将には特段の同情を禁じ得ない。それでも「敵前逃亡」は、厳正に、海軍刑法第三六条に従って、「死刑」の処断がなされなければならない。「敵前逃亡」を「反転」などと糊塗してはならない。
マリアナ沖海戦(1944年6月)における、小澤治三郎・海軍中将も、山本五十六の「怯懦病」が伝染した罹患者であった。小澤の採った“アウトレンジ戦法”は、指揮官が自分の命を惜しむ臆病から自分が坐乗する空母を敵の攻撃範囲外に陣取るもので、その結果、部下の艦載航空機をとてつもなく遠方から出撃させた。海上を長距離飛べば、それだけで疲労困憊する。そのような艦載機で、待ち受ける疲労ゼロの敵機と空中戦して勝てるはずがない。「マリアナの七面鳥撃ち」になったのは、当然の結果であった。
さらに、海軍は、味方空母の護衛の研究を、ミッドウェー海戦の敗北後もやってはおらず、「航空攻撃に対しては(1隻の空母につき)戦艦2隻と重巡洋艦2隻」と「潜水艦攻撃に対しては(1隻の空母につき最低)駆逐艦4隻と潜水艦2隻」の、基本陣形も知らなかった。だから小澤は、新鋭の正式空母の「大鳳」(排水量29,300t)と「翔鶴」を敵潜水艦の魚雷で失っている(1944年6月19日)。「大鳳」は寿命3ヶ月の命であった。
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翌日には、空母「飛鷹」が航空攻撃で撃沈された。小澤はこれら3隻の空母を守るに充分すぎる、戦艦5隻、重巡洋艦11隻、駆逐艦29隻、潜水艦イ号6隻/ロ号2隻を指揮下に置いていたのである。潜水艦戦をまったく等閑視した指揮官の無能がどんな結果になるかはかくの如しである。
※航空母艦(aircraft carrier 略称は空母)は、飛行甲板を持った艦船のことを言う。航空母艦の多くは航空機を離艦・着艦させると同時に、航空機に対する整備能力と航空燃料や武器類の補給能力を有し、海上において単独で航空戦を継続する能力を有する軍艦(艦艇)。現代では洋上基地(司令部)としての機能も求められ海の上のどこからでも航空機を発進させることができる空母は、現代海軍の主用艦艇である。また、空母は極めて特殊な性格を有する艦種である。すなわち軍艦としての攻撃能力は殆ど搭載機に依存しており、最強の“長槍の戦士”だが、それが故に艦船重量の制限上、ボディーが弱く、鎧を着ていない。だから、両脇は鎧を着た重厚な戦士である、巡洋艦と駆逐艦が囲み、敵潜水艦攻撃から「鎧代行」をして空母を護らなければならない。
また、前方と後方には、敵航空攻撃からの空母護衛のため、艦砲射撃力の高い、戦艦2隻を張り付けなければならない。
このように、空母は鎧を着ていないから敵攻撃に弱く、敵の航空攻撃の射程圏内に入るときには、決して2隻以上の団子状態に固めて航行してはならない。空母が団子状に固まれば固まるほど敵航空機の射撃の的をを広げることになるからである。空母は、原則1隻ずつで陣形を組む。
なお、「飛鷹」は、「商船改造」と誤解されているが、「隼鷹」とともに、実はワシントン海軍軍縮条約の抜け穴として「偽装商船」として建造された、れっきとした軍艦であった。空母3隻の喪失において、「空母絶対安全のアウトレンジ戦法」など、実践の戦法ではないことが証明された。アウトレンジ戦法の正体は、指揮官の「敵前逃亡」を糊塗する“臆病戦法”であった。
小澤治三郎の「犯罪」は海軍刑法第三六条に従って「死刑」に処すべきであった。“戦場の後方遠く”に陣すること事態、第三六条の「逃避」に相当する。また、空母3隻の喪失という、余りの無能ぶりは看過してはならず、軍法は厳正に適用されねばならない。また、4ヶ月後のレイテ湾沖海戦で4隻の空母を撃沈されている小澤は、その喪失空母が合計7隻となって、山本五十六の4隻を超える。ミッドウェー海戦当時より戦況がかなり悪化していたとはいえ、これで「死刑」でないとは、帝国海軍の軍刑法は死文化していた。
(D)山本五十六の「職務放棄」―――ハワイ奇襲とガダルカナル島攻略
戦争の最中、山本五十六は、連合艦隊司令長官なのに、自分が指揮を執るべき、当然の任務を「逃避」する「職務放棄」に徹した。この山本流の「職務(義務)放棄」「職場放棄」は、海軍全体のモラル(士気)を一気に低下させていた。
まず、ハワイ奇襲の場合。
南雲たちが、最小限の仕事を終えるとさっさとハワイから一目散に帰還した最大の理由は、指揮を執るべき山本五十六が、瀬戸内海の戦艦「長門」で、のんびり優雅に過ごしていたからである。草鹿龍之介(南雲忠一・機動部隊の参謀長)は、このときの怒りを次のように回想している。
「(ハワイからの帰途、連合艦隊から、ミッドウェーを空襲・破毀・使用不能にせよ、との命令を受けたとき)私としては内心大いに怒りを感じた。・・・・広島湾内に安居して机上に事を弄する人たち・・・・」
「一面つまらぬ感情の点から言っても、相手の横綱を破った関取に、帰りにちょっと大根を買ってこいというようなものだ」
だが、山本五十六が、瀬戸内海で自堕落な「王様気分の日常」を送っていようといまいと、草鹿龍之介が戦場の軍人として「ちょっと帰りに大根を買う」“戦争の正道”を踏み外してよいわけではない。草鹿もまた、戦争をわきまえない、将官であった。命令があろうとなかろうと、ハワイの帰りにミッドウェーの占領はともかく、そこに敵の軍事基地があるのならば、そこを完膚無きまで破壊尽くすのは、軍人の当然の仕事ではないか。この作戦をしていれば、南雲部隊は、空母「レキシントン」と遭遇し、空母1隻の撃沈という、真の戦果を得ることができたはずである。
山本五十六に関して、糾弾の手を姑息に引っ込めてならないのが、ガダルカナル島攻略での山本五十六の「敵前逃亡状態」=「職務放棄」の問題である。山本は、自分が坐乗する戦艦「大和」がガダルカナル島の目の前のトラック島にいるのに一度もガダルカナル島に出撃しなかった。
死と直面する、ガダルカナル島に投入された駆逐艦など小艦艇の指揮官に、山本五十六への怨嗟は大きなものになっていた。「大和」が、就役後であれば、「武蔵」とともに、出撃して艦砲射撃すれば、米海軍力はまだ日本に及ばないレベルだったから、戦況は一変したのである。しかし「海軍の王」になったつもりの山本五十六は、1941年12月〜1943年2月の1年3ヶ月間、決して戦場には行かなかった。山本への海軍内の怨嗟は、爆発しようとしていた。
(E)福留繁の「機密漏洩の重大犯罪」―――海軍乙事件
帝国海軍上層部の無法・無秩序と腐敗は、1944年4月1日、福留繁(連合艦隊参謀長、中将)の「海軍乙事件」(1944年3月31日)という大事件の当事者に対して、軍法会議にかけなかったことで頂点に達した。「海軍乙事件」とは、二ヶ月半後に迫る、6月のマリアナ沖海戦に関する最高機密、Z作戦文書と暗号書の入った鞄を、福留らがフィリピン・ゲリラに盗られ、それが米陸軍に渡り完全に翻訳された事件を指す。この翻訳の結果、米国側は、日本のマリアナ沖海戦について詳細を知るところとなり、あの惨たる「マリアナの七面鳥撃ち」がおき、加えて3隻の正式空母「翔鶴」「飛鷹」「大鳳」が撃沈されたのである。
福留らの乗った二式大型飛行艇が悪天候で着水に失敗し大破して漂流したことは不可抗力だが、この鞄をセブ島のゲリラに盗られたことを知りながら、「現地人はなんら関心を示さず」と、海軍省で虚偽報告をした福留繁の罪は重犯罪である。すなわち、@海軍省はこの事件の「責任者、主犯」福留繁を、海軍刑法第二十二条の三にて裁き、「死刑」かそれに準じる刑罰を課し、A軍令部は「Z作戦」を全面的に変更する措置を緊急にとらなくてはならないのに、いずれもしなかった。
海軍省も軍令部も、田舎の村役場の役人の感覚しかなかった。
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海軍刑法第二十二条 左ニ記載シタル行為ヲ為シタル者ハ死刑ニ処ス 一 軍隊又ハ艦船、兵器、弾薬其ノ他軍用ニ供スル場所、建造物其ノ他ノ物ヲ敵国ニ交付スルコト 二 敵国ノ為ニ間諜ヲ為シ又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助スルコト 三 軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏泄スルコト 四 敵国ノ為ニ嚮導ヲ為シ又ハ地理ヲ指示スルコト 五 敵国ニ降ラシムル為指揮官ヲ強要スルコト 六 敵国ノ為ニ俘虜ヲ奪取シ又ハ之ヲ逃走セシムルコト |
福留は戦後すぐ、千早正隆がZ作戦文書をGHQ内で見たことによって、米軍側に渡っていたことを知らされたが、自分自身が最高軍事機密を漏洩した「海軍乙事件」の“主犯”だとの自覚すらなく、その著『海軍生活四十年』では、次のように、開き直っている。
「そんなことは絶対にあり得ない。飛行機は・・・・猛烈な炎を上げて一晩中燃えていた。・・・・焼け残っているはずもない。むろん十時間も泳いで命からがら助け上げられた私達がそんな書類を持って上がるはずはない」
なお、現在、この機密文書は、米国ワシントンDCのスパイ博物館に展示されている。
B「海上艦隊決戦」―――日露戦争時代とのアナクロニズム(時代錯誤)
(A)日本の「戦艦軽視」と米国の「戦艦重視」
山本五十六は、海軍戦略に無知で素人すぎた。山本五十六の知見は、「旅順港奇襲封鎖」と「日本海海戦」の、日露戦争のままであった。1941年の山本の時計は40年前の1904〜05年で止まっていた。戦争の帰趨は、第一次世界大戦の英独海軍間のジュットランド沖海戦(1916年5月31日〜6月1日)を境に、「艦隊決戦」では決してない新時代に入っていたことを山本五十六は知らなかった。戦争は陸上の取り合いであり、太平洋を制するのは、「太平洋の戦略的要衝の島嶼の争奪戦」でなければならないことが自覚できない、時代錯誤であった。
島嶼の確保が戦争の帰趨を決する以上、「敵の上陸阻止」と「味方の上陸支援」こそが、海軍の主目的となる。だが、“時代錯誤のアナクロ人”山本五十六には、
イ) 島嶼の要塞化
ロ) 島嶼への敵の上陸阻止
ハ) 島嶼への味方の上陸支援
など現代海軍の基本任務は、ちんぷんかんぷんだった。ガダルカナル島攻略戦の、惨憺たる敗北は、戦艦「大和」を出撃させない“山本の怯懦”に加え、“山本の戦略的無知”こそが主因であった。
山本五十六の“航空主兵主義”も未熟で、空母重視の軍備方針を貫きながら、空母をどう運営するのか、空母の戦闘陣形はどうあるべきか、などについて無知であった。ミッドウェー海戦の大敗北は山本五十六“空母音痴”と“航空機音痴”が原因である。
敗戦後、旧海軍関係者が、声を大にして、米国負けた理由として、「大艦巨砲主義が原因」を合唱したのには驚くほかない。なぜなら、日本は、米国より早く、“戦艦無用論”に立ち、戦艦の建造を即座に止めた海軍国である。日本の最後の戦艦は「武蔵」で、1942年9月に就航した。この時をもって、日本は、戦艦建造とは永遠に無縁となった。
一方、米国は戦艦を、空母とともに重視し続けた。去りゆく米国戦艦の、最後の雄姿は、1991年の湾岸戦争で、ペルシャ湾からイラクの標的に向けて、トマホーク巡航ミサイルを撃ちまくっていた。太平洋戦争中にも、米国は、新規の戦艦を10隻も建造し就役させている。サウスダコだ型4隻、アイオワ型4隻、アラスカ型2隻である。米国は、島嶼確保が、太平洋戦争の帰趨を決定する要素であると的確に把握しており、艦砲射撃の有効性を熟知していた。
日本の「戦艦軽視」が、米国の「戦艦重視」に負けたのである。帝国海軍は現代海戦における戦艦の運用法を知らなかった。戦艦は@空母の護衛とA島嶼攻略の艦砲射撃に不可欠で、この活用なしには、米国との太平洋島嶼争奪戦において勝利も不敗もありえない。永野修身にしろ、山本五十六にしろ、米内光政にしろ、海軍の将官たちは、日常、政治屋的なうごめきばかりにすべての知恵と時間を使って、自分たちの本職である“海軍の現代的戦争”について、関心もなかったし研究もしなかった、そのツケである。
海軍にも井上成美が「新・軍備計画」の案を出し、“現代海戦”を理解しているものはいたのは確かであるが、理解することと、具体的な計画を立案できるかは全く別問題である。
(B)井上成美の新軍備計画論
井上成美が航空本部長として、1941年1月22日、及川・海軍大臣に提出し、一顧だにされなかった「新軍備計画論」はその一部であるが次のように論じている。
イ) 太平洋の島嶼は天与の地上航空基地となり、航空兵力が主力となる。
ロ) 航空基地争奪戦が、日米間の主作戦となる。上陸作戦と島嶼防衛戦が重大な作戦となる。
ハ) 基地の要塞化を急ぎ実施する必要がある。
確かにこれは、半ば正しい。なぜなら上記の計画は、理屈は正しくとも、どんな軍備や部隊で実現するのかの具体的な検討・研究が全くなされていない。アイデアだけなら、外部の評論家でもでき、職務として責任ある戦争専門家集団であるべき航空本部の計画書ではない。
具体的には、まず、島嶼防衛の上陸作戦に投入する海兵隊10個師団(1個師団は約一万数千名から二万名程度で、合計十数万人〜二十万人)創設計画とともに、この海兵隊を急速に派兵展開する、高速武装輸送船/対地攻撃戦用空母/上陸用舟艇などは、設計図ができていなくてはならない。次に、どこどこの島に航空基地をつくり、どのように要塞化するとの具体案がなくてはならない。セイロン島、アンダマン島、パラオ、テニアン、サイパン等が明記されてこそ、計画書である。しかも、要塞化は相当なノウハウが必要で、後に栗林忠道・陸軍中将が硫黄島に創った坑道式要塞は、世界的にも第一級の要塞であったが、このようなものが研究されていなくてはならない。
そして何よりも、空母機動部隊の主任務は島嶼を守るために存在するとの、空母機動部隊の任務は、敵の上陸部隊の阻止にあることが、海軍内部でしっかりと叩き込まれる必要がある。
このような専門家レベルでの研究が付随していないから、井上成美の“航空基地主義”の「新軍備計画論」は、アイデアとしては60点の合格でも、計画書としては落第点であった。ガダルカナル島に良質の航空基地ができるのを発見してその基地づくりを主導したのは井上成美であったが、敵の上陸を阻止する研究をしていないから、支配できないできない海・空域での航空基地の維持(守備)が、根本的には不可能であるのがわからず、あのような無駄で甚大な損害を出すことになった。
以下、少々長文であるが、井上成美の「新軍備計画論」原文を記載する。
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新軍備計画論
総論 一、海軍軍備計画ハ根本的ニ改定ヲ要ス 軍令部説明軍備計画ヲ見ルニ、其ノ考へ方ハ、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、其ノ他ノ各艦種及航空兵力ニ就キ、対米比率ノ或ル一定水準ノ保持ヲ目的ト為シ居ルヤニ見エ、口ニハ質ヲ以テ量ノ不足ヲ補フト云フモ、其ノ行キ方ハ単ニ個艦能力ノ優ヲ求メ、之ニ依リ勝テ相ニ考へ居ル迄ナリ。而カモ其ノ口ニ云フ質ノ考へ方モ、其ノ内容ヲ突キ詰ムルトキハ、結局、大砲口径ノ大、登載数ノ大、等ヲ覗ハントスルモノニシテ、矢張量的競争ニ過ギズ、海軍々備全体トシテノ質的ノ考へ方、甚少キガ如ク感ゼラル。殊ニ潜水艦勢力ノ対米比率迄モ気ニシ居ル如キ物ノ考へ方ヲ見ルニ至ッテハ、何処ニ自主的ナル軍備計画アリヤヲ疑ハザルヲ得ズ。素々潜水艦ハ、決シテ相手國ノ潜水艦ト相戦フヲ本質トスル艦タネニ非ズ。想定敵國ト潜水艦保有量ノ比較ハ、軍備條約ニ於ケル両國ノ建艦ノ権利ヲ比較シタル軍備條約時代ノ、単ナル政治的ノ思想ニシテ、其ノ間少シモ兵術的ノ表現シ居ラザル素人ノ考へ方ナリ。 軍令部当局ハ、各艦種ニ就キ、何レモ此ノ思想ニテ軍備計画ヲ立案シ居ルモノノ如ク、成ル程、此ノ思想ハ軍備計画上、一応一ツノ考へ方ニ相違ナク、財力豊富ニシテ、想定敵國ヨリモ優勢海軍ヲ保持シ得ル英・米ノ如キ國情ニ於テ一応首肯シ得ルモ、ソノ思想ハ、海軍々備ノ相対性ヲ極メテ狭ク考へ、各艦種毎ニ優勢ヲ保持スレバ海防ハ安全ナリ、トノ考ニ出発ス。 帝國ハ其ノ國力ニ於テ、英・米ト飽ク迄建造競争ヲ行ハントスレバ、遂ニ彼ニ屈服スルノ外ナキハ、乍残念明瞭ナル事実ナレバ致方ナシ。曩ニ軍縮條約ヲ破棄セル際ノ帝國ノ決心ハ、彼ト量的ノ建艦競争ヲ行ハントセシニ非ズ。軍備ノ自主性ヲ求メントシタルニ外ナラズ。即チ、帝國海軍ハ軍備條約破棄ヲ契機トシテ軍備充実ノ自由ヲ獲得シ、自主的ニ帝國々情、地理的情勢ニ適応セル、特徴アル軍備ヲ充実シ、ソノ特徴ニ因ッテ帝國國防ノ安固ヲ求メントセシ次第ナリ。 然ルニ爾来参年ヲ経過セル今日、軍令部当局ノ立案セル将来軍備計画ヲ見ルニ、其ノ間何等新味ナク、何等ノ特徴ナク、旧態依然タルモノアリテ、最近ノ米國ノ大建艦計画ノ報ニ周章、只只量的ニ彼ニ追及セムコトヲ考へ居ルニ過ギズ。 斯クシテ帝國ハ、対米比率ニ於テ軍備條約時代、條約ノ存在・恩恵ニ依リテ保障(結果ヨリ見レバ此ノ通ナリ)セラレタル約七割ノ軍備ガ、無條約時代ニ至ッテ漸次却ッテ其ノ比率ガ低下セントシ、其比率ノ低下ヲ防ガントシテ四苦八苦ナリト云フガ現状ナルニ非ズヤ。其ノ間、何レニ軍備ノ自主性アリ、何レニ海軍々備ノ特徴アリヤ。軍縮條約破棄ノ際、海軍ガ多大ノ希望ヲ懸ケ、國民ニ迄声明セシ自主的軍備ハ、何処カニ置キ忘レラレタルノ観アリ。殊ニ航空機、潜水艦ノ異常ノ発達ハ、戦争ノ方式ニ大ナル変革ヲ来シツツアリ。又一方、支那問題、東亜共栄圏ノ問題等、帝國ノ地位、東亜ノ情勢ニモ大ナル変化アル今日、吾人ハ徒ラニ米ニ対スル量的競争ノミヲ目途トスルコトヲ止メ、一旦日米開戦ノ暁、日米戦争ハ如何ナル形態ヲ採ルヤ、吾ハ如何ナル作戦を実施スベキヤ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置キ方策如何等ヲ、根本的ニ考察シ、独自ノ見解ニ立チ、新ナル 着想ノ下ニ、新軍備計画ヲ樹立スルノ要、切ナリト謂フベシ。 吾人ハ何モ、帝國ハ英・米ニ比シ劣勢ニ甘ンズルヲ要スルガ故ニ、軍備ノ自主性ヲ論ジ、特徴軍備ヲ主張スルモノニ非ズ。例令帝國ガ英・米ニ対シ、量的ニ優位ヲ保チ得ルトスルモ、軍備ノ自主性ハ常ニ緊要ニシテ、彼ニ対シ充分ナル優勢ヲ保持シ得ルト仮定スルモ、今後艦隊決戦本位ノ建艦ハ、之ヲ止メ、新形態ノ軍備ニ邁進スルノ要アルコト勿論ナリ。 二、日米戦争ノ形態 帝國ガ米國ト交戦スル場合、ソノ戦争ノ形態ヲ考察スルニ、帝國ハ米國ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能ニシテ、又是非共然アルベキモ、又一方、日本ガ米國ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ。其理由ハ極メテ明白簡単ニシテ、 (一)米國ノ本土ハ極メテ広大ナルヲ以テ、其國土全土ヲ攻略スルコトハ不可能ナリ。 (二)米國ノ首都攻略モ(一)ト同一理由ニヨリ不可能ナリ。 (三)日本ハ米ノ作戦軍ヲ殲滅スルコトハ不可能ナリ。 (四)米國ハ物資豊富ニシテ、其ノ國外依存ノ程度少キヲ以テ、封鎖ニヨル苦痛僅少ニシテ、彼ノ死命ヲ制スルニ足ラズ。 (五)米國ノ海岸線ノ長大、帝國ヨリノ遠大距離ニ在ル事、及び太平・大西洋ニ海岸線ヲ有スル為、日本軍ニヨル海上封鎖ハ不可能ニ近シ。 (六)北米大陸ノ中央ヲ占メ、陸境ヲ有スル地理的関係ヨリ、米本國ノ完全封鎖ハ不可能ナリ。 米國ノ対日作戦ハ、日本ガ米本國ヨリ遠大距離ニ占位シ在ルノ一事アル為、米ノ吾ニ対スル作戦ガ、吾ノ米本國ニ対スル作戦ノ困難ナルト同様ノ共通点アルモ、他ノ情況ハ、日ノ米ニ対スルト大イニ趣ヲ異ニシ、 (一)日本国全土ノ占領モ可能ナリ。 (二)首都ノ占領モ可能。 (三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ。又、 (四)海上封鎖ニヨル海上交通制圧ニヨル物資窮乏ニ導キ得ル可能性大。 (五)海上封鎖モ技術的ニ不可能ニ非ズ。 右ニ述ブル如ク、日本ハ対米戦争ノ場合、米ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スルヲ以テ、吾ニ於テ、万一此ノ弱点ヲ守ルノ方策ニ欠クル処アルニ於イテハ、彼、吾ノ弱点ヲ突クノ公算多ク、帝國々防ノ安泰ヲ期シ難シ。旧時ニ於テハ、戦術的ニ対米決戦ニ敗レザルノ兵力ヲ保有スル事ニ依リ、前述ノ弱点ノ手当ハ完全ニ行ハレ、帝國ノ國防ノ安泰ヲ期シ得タルモ、潜水艦及航空機ノ発達ハ海防上ノ大変革ヲ来シ、旧時代ノ海戦ノ思想ノミ以テハ、何事モ之ヲ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ。今、試ニ、対米戦争ノ場合ノ戦争形態ヲ論述スルニ、概、以下列記ノ通ナリト考ヘラル。勿論、以下ハ、純正ナル兵術思想ヲ基礎トセル経過ノ予察ニ過ギザルヲ以テ、彼レ米ニシテ、突飛ナル作戦ノ挙ニ出ズル場合アラバ、吾人ノ予想ト相違スルコトアルベキハ論ヲ俟タズ。又、戦争ハ相対的ナルノミナラズ、情況ハ千変万化、所謂定形ナシ。故ニ厳格ニ細部ニ亘リ、的確ナル予想ヲ行フ事ハ至難ナルベキモ、全体的ナル荒筋ハ大体ニ於テ当ルモノト見ルベシ。 (一)米國ハ多数ノ潜水艦ヲ日本近海及日本ノ生命交通線ニ活動セシメ、航空機ト協力シ根強ク日本ノ海上交通破壊戦ヲ行ヒ、日本ノ物資封鎖ノ挙ニ出ズルベシ。 日本ハ國家生存及作戦遂行上ノ必要ニヨリ、米ノ潜水艦及航空機ノ攻撃ニ対抗シ、海上交通線ノ確保ヲ要スベシ。此ノ意味ニ於イテ、海軍ノ海上交通確保戦ハ、日米作戦中重要ナル一作戦ナリ。 米の潜水艦及航空機ハ、韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米國ノ領土ヲ基地トシテ活動スベク、吾ハ之ガ抜本塞源的方策トシテモ、此等在東洋米國領土ノ攻略ヲ必要トシ、且、之等領土ヲ我ニ占有スルトキハ、所在航空基地ヲ逆ニ我ニ利用シ得ベク、之ニヨリ我ガ航空機ノ活動ヲ更ニ積極化シ、且、前進セシメ得ルノ見地ヨリ、在東洋米領土ノ攻略ハ、殆ンド絶対ニ近キ必要性ヲ帯ビ来ルヲ以テ、日本ハ此等領土攻略戦ヲ実施スベシ。 尚、米ガ対日戦ニ於テ、英其ノ他ノ國ノ領土ヲ作戦ニ利用スル場合ニ於テハ、此等三國領土ニ対スル日本ノ攻略作戦ハ是非共必要トシ、ソノ攻略戦ハ、米ガ作戦ニ利用スル程度ニモヨル事ナルモ、原則トシテハ、帝國領土ニ近キモノヨリ順次ニ足場ヲ固メツツ、歩歩前進的ニ実施セラルベキモノトス。 (二)日本ハ、海上ヨリスル敵ノ攻撃ニ対スル直接帝國領土ノ防衛ノ為ニハ、多数ノ潜水艦及航空機ヲ配ス。彼、又航空機ヲ以テ我ニ対シ、基地攻略ノ手段ニ出ズルベシ。此ノ作戦ハ、韮島・台湾・パラオ間、及南洋方面、季節ニヨリ北海方面ニ於テ行ハルベシ。米ハ時ニ好機ヲ見テ、日本本土ノ空襲ヲ企図スベシ。 コノ意味ニ於テ、吾ハ直接国土防衛ノ方策上、此等米國ノ基地攻略ヲ実施スルノ必要アリ。此ノ要求ハ、第一項ニ論ジタル通商線・交通線確保ノ為ノ米領土攻略ノ要求ト相一致ス。 此ノ米領土攻略戦ニ於テ、日本ノ作戦有利ニ展開シ、在東洋米領土全部ヲ攻略シ得ルニ於イテハ、米國航空機ノ西太平洋ニ於ケル活動ハ大ナル制限ヲ受ケ、爾後ノ作戦ハ概ネ吾ニ有利ニ推移スルヲ得ベク、航空機ト潜水艦ノ活動ニ依リ、米ノ主力艦ノ如キハ、米艦隊長官ガ非常ニ無智無謀ナラザル限リ、生起ノ公算ナシ。 然レドモ、米モ亦、吾ガ前進基地ヨリ漸次ニ作戦正面ヲ狭窄スルガ如ク帝國ノ領土攻略戦ヲ実施スベキヲ以テ、台湾方面、南洋方面、及北海方面ノ基地奪取戦ハ、相互的ノ努力トナル事、勿論ナリ。 側チ、日米相互ノ争フ此ノ領土攻略戦ハ、日米戦争ノ主作戦ニシテ、此ノ成敗ハ帝國国運ノ分岐スル所ナリト言フモ過言ニ非ズ、其ノ重要サハ旧時ノ主力艦隊ノ決戦ニ匹敵ス。
(三)日本ガ韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米領土ヲ全部攻略スルコトニ依リ、戦ノ大勢ハ決セラレ、帝國ハ西太平洋ノ事実上ノ王者タリ得ベシ。 勿論、潜水艦ノ存在スル限リ、制海権ノ意義ハ旧時ノ如ク絶対的ナラザル事ニ注意スルヲ要ス。 (四)日本ハ、其潜水艦兵力ヲ以テ、進ンデ布哇及遠ク米本國ニ多数ノ潜水艦ヲ配シ、彼ノ海上交通破壊戦ヲ行フト共ニ、彼ノ水上兵力ニ対シ、機会アル毎ニ突撃ヲ加フベシ。旧来ノ如ク、敵艦隊出撃、西航ノ時機ヲ捕へ、之ヲ通報スルト共ニ、之ニ接触セントスルガ如キ任務ノ如キハ、其実現ノ機会少キヲ以テ、突撃一点張ノ任務を課スルヲ要ス。
(五)以上ノ情況ニ於テ、日米戦争ハ持久戦ノ性質ヲ帯ビ、吾ニモ新シキ手ナク、彼ニモ新シキ手ナク、平凡ナル経過ヲ辿ルベシ。 (六)結論 帝國ハ、以上述ブル所ノ情況ヲ考へ、帝國ヲ先ズ不敗ノ地位ニ置キ、持久戦ニ耐へ得ル丈ノ準備ヲ為シ置ク事、最緊要ニシテ、速戦速決ノ如キハ、云フベクシテ行ハレズ。従ッテ、速戦速決ノ目途トスル艦隊決戦兵力ノ整備ノミヲ考フルトキハ、其ノ整備スラ思フニ任セズ、之ニ焦慮シ居ル間ニ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置クノ方策ニ大ナル欠陥ヲ生ズベシ。其ノ情況ニテ開戦トナルニ於テハ、決戦兵力ノ如キハ之ヲ用フルノ機会ナキ中ニ、帝國ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナルノ危険アル事ヲ認識スルヲ要ス。 三、帝國ノ海軍軍備整備ノ要点 前章ニ於テ日米戦争ノ形態ヲ明ニセシコトニヨリ、帝國海軍軍備ハ何ヲ目途トスベキヤハ自ラ明白ナリ。勿論、日米戦争ガ必然的ニ前述通ノ形態ノ経過ノミヲ辿ルト断言スルヲ得ズ、時ニ吾人ノ予想セザル形態ニ発展スルコトナシトセザルモ、夫ハ概ネ彼ガ兵術常識ニテ考エラレザル型破リノ戦法ニ出デタル場合ナルベク、其ノ場合ニ於テハ、弱点ニ乗ジ彼ノ兵力減殺ノ機会ヲ得ベク、敢テ意トスルニ足ラザルノミカ、吾ニ幸スルモノト云フベシ。 故ニ吾人ハ、前述ノ戦争形態ニ適応セル戦備ヲ整フルコトニ依リ、帝國海防安全ノ万事ヲ解決シ得ルモノナリ。 以下順ヲ追ヒ、帝國海軍々備整備ノ要件ヲ述ブ。 (一)帝國ハ、帝國ノ生存上必要ナル、又戦争遂行上必要ナル、國トシテノ海上補給線ノ確保ニ必要ナル兵力ヲ整備スルヲ要ス。帝國ガ其國家生存上及戦争遂行上、國家トシテ日満支連絡線、並ニ蘭印ヲ含ム西大平洋海面交通線ノ保持ヲ必要トスルヲ以テ、戦時此ノ場合、会敵ヲ予期スル敵兵力ハ、航空機、潜水艦及機動水上部隊ナルベク、吾ハ之ニ対応スル兵力ヲ保持・運用スルヲ要ス。 |
帝国海軍は、現代海軍の主任務が“地上戦闘支援”であるのが分からなかった。“艦対間の海上決戦”は、この“地上戦闘支援”に至るための、時に不可避の“中間過程の海戦”にすぎないことが分からなかった。スペイン無敵艦隊の対英侵攻のためのアルマダ海戦(1588年)や、ナポレオンに対峙する「隻腕の提督」ネルソンのトラファルガルガル海戦(1805年)などに代表される、“艦隊間の海上決戦”が戦争の帰趨を決定する時代は、日露戦争の日本海海戦(1905年)をもって、人類史からすっかり消えていた。第一次世界大戦における、英独艦隊の大海戦であったジュトランド沖海戦(1916年5月31日〜6月1日)が、戦争の帰趨を左右しなかったように、「海戦は戦争全体の一コマ」に過ぎなくなっていた。
第一次世界大戦は、欧州における地上戦闘で、その帰趨が定まった。戦争は「陸軍が主、海軍が従(陸軍の補完)」が不動の原理となっていた。陸軍との関係をより厳密に言えば、ネルソン提督の時代でも東郷平八郎の時代でも、戦争の帰趨はやはり陸軍が決定し、海軍はその補完であった。それらが、第一次世界大戦以降と相違するのは、陸軍間戦争を左右する海上覇権の争奪が、「一回の海戦で定まる」のか「数回から十数回の海戦で定まる」のかの違いが発生しているに過ぎない。
実際にも、例えば、東郷提督の大勝利は、直ちに日露戦争を勝利とはしていない。もし日本海海戦で、日本側が敗北していたら、南満州においていったん勝利した帝国陸軍が日本からの海上通商路(兵站輸送路、シー・レーン)が切断されて、“陸の孤島”的に敵に包囲される事態に陥り、「陸軍の勝利=戦争の勝利」が振り出しに戻るが、この事態を起こらないようにしたのが、東郷提督の日本海海戦勝利であった。
「戦争の勝敗は、陸軍の勝敗で定まる」のは六千年間の人類戦争史において、普遍の原理である。トラファルガル海戦における、ネルソン提督の戦死を代償にした大勝利も、ナポレオンの革命フランスに対する、英国の“戦争の勝利”にはならなかった。英国はフランスへの陸軍部隊の派兵を安全にできる、ドーバー海峡の制海権を手にしただけであった。英国の対仏勝利は、ウェリントン侯爵の指揮下、ベルギー領ワーテルローの陸戦(1815年6月)にて、ナポレオン率いる大軍を撃破して決着した。この陸戦なしには、ナポレオンの最終惨敗とセントヘレナ島への永久流刑はあり得なかった。
第一次世界大戦の英独間の主要な海戦は十回近くあり、ジュットランド沖海戦(1916年5月31日〜6月1日)はその一つに過ぎなかった。そして英・仏連合と独・墺連合軍の戦争は、日露戦争が奉天会戦(1905年3月1日〜10日)その勝敗が定まったごとく、陸戦のこう着状態の優劣ににて定まった。海戦は負けると大変だが、勝利しても、それは陸戦を補完するものであって、あくまで戦争の帰趨を決定するのは陸戦の勝利である。そのような時代が、この1916年をもって到来していたのである。
1941年12月8日のパール・ハーバー奇襲から1945年4月7日の戦艦「大和」撃沈までの日本の対米海戦は、ジュットランド沖海戦から25年も経っているのに、1905年の日露戦争のままであった。いや、“戦争の大原理”「海軍の主任務は、陸上戦勝利のための補完」との自覚がなかったことにおいて、1805年のトラファルガル海戦のネルソン提督の時代より、もっと時代錯誤であった。1588年7月21日〜30日のアマルダ海戦(スペイン無敵艦隊と英国艦隊の海戦)がとほぼ同じ頃の時代感覚(時代錯誤)、それが、山本五十六/永野修身らの海軍観であった。
(C)海軍の戦争能力も戦闘能力も破壊した“対米比率至上主義”
「大艦巨砲主義」とは、1922年のをめぐる対米軍備交渉から生まれた、加藤寛治の海軍思想「対米比率主義」の派生体である。厳密に言えば、1922年に発生した「対米比率主義」が、1933年に「大艦巨砲主義」に発展して1940年まで帝国海軍を呪縛し、帝国海軍から戦争能力を腐蝕的に剥奪した。平時の軍備管理から生まれた「対米比率信仰」が、石川信吾の「次期軍縮策私見」(1933年10月)で示すような、意味不明で奇怪な「超弩級戦艦が対米戦争勝利を確実にする」だから、敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚い装甲を備えた戦艦が海戦では有利であり、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が必要である、との宗教的“おまじない建艦理論”をつくったからである。これを「大艦巨砲主義」という。しかし、世界史的視野で見れば、「大艦巨砲主義」は1900年代初頭から、1920年頃までに既に世界の海軍の戦艦の設計思想となっていた。が、軍拡競争に一定のハドメをかけるため、1922年のワシントン海軍軍縮条約でいったん収まり「条約主義・比率主義」になるが、1933年頃から上記石川信吾の私見に示すように再び復活の兆しが見え始め、1937年の海軍無条約時代に入ると再び軍拡競争時代に入り、比率主義思想(対米7割堅持)を引きずったまま「大艦巨砲主義」が復活したということである。
しかし、1939年ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、緒戦の航空機の活躍を受けて、海軍の主力の座は航空母艦に譲られ、新しい戦艦は建造されなくなった。日本でも、1941年には、石川のような(空母軽視/戦艦重視の、対米比率堅持型の大艦巨砲主義)建艦理論は全く消滅していたので、対米戦争中に「大艦巨砲主義」など存在していなかった。実際にも、1940年、米国が第三次ヴィンソン法(6月)と両洋艦隊法(7月)を制定するのと同時に「対米比率主義」とそれに基づく「大艦巨砲主義」は、弊害を置き土産に、瞬時に消えた。米国の超軍拡に対米比率7割堅持は財政的に困難であること、海軍の主力は航空母艦に譲られことが主要因である。
このように、海軍は1940年、「対米比率信仰」と「大艦巨砲主義」から覚醒したが、1941年、現実に対米海戦に直面したとき、では現代海軍として作戦や戦闘はどうあるべきかについて知見がゼロであることに気付かなかった。だから、パール・ハーバー(ハワイの一軍港の)奇襲だけして、ハワイ諸島を占領して軍の駐留もせず、さっさと引き上げてきてしまったのである。この意味で、“矯激な反米”観で親子であった、加藤寛治と石川信吾は、「対米比率主義(大艦巨砲主義)」の魔語をふりまいて、帝国海軍のもつべき「正常な軍備戦略」=“陸戦が主であり、海戦はその補完”かつ“海戦になった場合は空母による航空戦が主、戦艦・巡洋艦・駆逐艦は敵航空攻撃及び敵潜水艦攻撃からの空母の掩護”を破壊した一種の毒ガスであった。日本海軍から、戦闘の実践力を去勢して「戦えば必ず負ける」海軍に仕立て上げた、海軍の白蟻群であった。
「大艦巨砲」とか「対米比率」とかは、スローガンに過ぎずお祓いのお札である。こんなもので戦争や戦闘に勝てるわけがない。実際にも、日本海軍の敗因は、
イ)
暗号が解読されていたこと
ロ)
レーダー技術が格段に遅れていたこと
ハ)
日本の潜水艦はスクリューやエンジン音が大きく敵駆逐艦のソナーにすぐかかったこと
ニ)
敵の潜水艦に対する対潜能力が極めて低かったこと
など、たくさんある。対米比率が「7割」とか「6割」とかは、敗因にもならないし、勝因にもならない。
例えば、日本の空母「大鳳」「翔鶴」は潜水艦の魚雷で撃沈され、敵の空母艦載機の航空攻撃ではなかった。山本の「航空主兵主義」が的外れなのは、この事実一つでわかる。軍艦の排水量を足した「総排水量」など、海戦に一切関係しない。ミッドウェー海戦で4隻の空母が、敵の3隻の空母に撃沈されたが、排水量で言うと、日本の4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)は合計108,000トン、米国の3隻(ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット)は合計59,000トンで、日本のほうが約2倍であった。「敵の7割あれば必ず勝利する」などの加藤寛治の「比率主義」が狂妄な詐話に過ぎなかったかは、自明であろう。「20割で大敗北した」のである。
そもそも現代海戦で、潜水艦をおろそかにするとは、それでは制海権の掌握も維持もできない。
マリアナ沖海戦で空母「大鳳」「翔鶴」が潜水艦で撃沈されることを、指揮官の小澤は全く想像していなかった。フィリピン(レイテ湾沖)沖海戦でも空母「瑞鶴」は、航空攻撃のほか魚雷を何本か被弾したのである。1944年11月末、新鋭空母「信濃」(世界最大の62,000トン)は回航中、敵潜水艦の魚雷で撃沈した。就役後4ヶ月目の高速空母「雲竜」(17,500トン、34ノット)も「信濃」に続き、米国潜水艦に撃沈された(1944年12月末)。重巡洋艦「摩耶」「愛宕」も潜水艦に撃沈された。太平洋戦争の全体では、潜水艦による撃沈損害の合計は下表のとおりで、概ね全被害の3割を超える。
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米国潜水艦に撃沈された、日本の軍艦 |
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空 母 |
9隻 |
うち1隻は航空攻撃も伴う |
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戦 艦 |
2隻 |
同上 |
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巡洋艦 |
16隻 |
― |
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駆逐艦 |
37隻 |
― |
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潜水艦 |
24隻 |
― |
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海防艦 |
34隻 |
― |
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特務艦 |
13隻 |
うち(海軍の)タンカーが8隻 |
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合計 |
135隻 |
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「対米排水量比率」は平時の軍備管理の方法として、米英日の外交交渉という特定の便宜に供するための、数量化でしかなかった。そんな数字が、実際の戦時の戦争や戦闘を左右するなど、万が一にもあり得ない。加藤寛治が考案した“世紀の出鱈目”「対米比率主義」に、帝国海軍の頭は腐蝕されて、考えられない大敗北の地獄に日本を突き落としたのである。
C大東亜戦争とは、何だったのか―――大東亜戦争の大局的本質
大東亜戦争(1937年7月7日〜1945年8月15日)の背後に潜む、政治哲学思想を総括すれば、次のようになる。
1.
昭和初期を風靡したマルクス主義/マルクス・レーニン主義/スターリン主義等の「共産主義」と「親ナチズム(国家社会主義)」の左右両翼の二つの全体主義思想。
2.
1929年の世界恐慌にはじまる、米国のスムート・ホーリー法(超高率関税法)による保護貿易政策や英国/仏国/蘭国等植民地保有国のブロック経済政策による資本主義(自由主義)経済国への不信からくる「矯激な反英米主義・対英米戦争主義」。
3.
敗北の連続による、「虚無思想(ニヒリズム)」。マルクス主義の核心である「無神論/唯物論」とそれに基づく、階級闘争・革命・進歩の名を借りた「自国民大量殺戮肯定主義(マルクス・レーニン/スターリン主義)」。
4.
「コミンテルン32年テーゼ」に代表される「敗戦革命主義」と「世界共産化」
5. 東京帝国大学(現・東京大学)法学部教授の上杉真吉・宮沢俊義らによる「天皇神格化主義」と「明治憲法つぶし(無効化)」
※宮沢俊義は、明治憲法について、天皇の「神勅主権論」を説き、神の御裔/現人神/神国/神勅/神孫/天孫降臨など「神」という言葉を乱発した(1942年『憲法略説』)。明治憲法に「神」が使われるのは、第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」の部分だけで、これは、立憲君主制国家の君主の無答責(君臨すれども統治せず)を定める、ごく平凡な世界共通の普遍的表現である。ベルギー憲法第六十三条「国王の一身は犯すことができない」スウェーデン憲法第三条「国王の身体は神聖である」等々。明治憲法を起草した伊藤博文も井上毅も金子堅太郎も天皇を「神の御裔」「現人神」など述べたこともないし考えたことすらない。ただ、「万世一系の天皇」と言っただけである。天皇を「神」と結びつける解釈は、すべて宮沢俊民が発案しそれを軍部が利用したのである。そうしておいて、敗戦すると宮沢は一転して自分が考案した「天皇神がかり憲法」が、明治憲法の本質であり開戦/敗戦の主原因であるとし、「敗戦という革命(八月革命説)」によって神権主義が捨てられ、天皇主権の国体は国民主権の国体になったという。はっきり言って「気狂い(分裂病)」である。
※上杉真吉の「天皇主権」説は表面上、「天皇親政」を主張する、民族主義・国粋主義を装っている。が、彼の言説を聞けばすぐわかるように、要するに彼は昭和天皇にドイツのヒトラーやソ連のスターリンのような独裁者となって(親政して)ください。明治憲法など廃棄して、すべての政治機関をつぶして、天皇の意思のみで政治を行う全体主義国家にしましょう、と煽動しているのである。
昭和天皇は上杉の意図を見抜いておられ、美濃部達吉の「天皇機関説」を支持されていた。なお、そもそも明治憲法に「主権」という言葉は一字もないので、「天皇主権」というのは、上杉の造語であって、本来、言葉自体存在しない。ゆえに単に「天皇」を「国民」に置き換えただけの「国民主権」などあろうはずもない。国民にあるのは立憲主義に制限された、「国民権もしくは公民権」のみである。世界の立憲主義国家の常識であるが、現代日本人にはそれが理解できない。日本国民の知的退廃である。
6.
大和の武士の、「敵に捕らわれの身になるならば、負けを認め、潔く“自害”“切腹”する」という武士道精神に基づく「高貴なる、武士の死に際の思想」を、そのような武士道精神が(一部の国民・軍人などを除き)皆無となっていた昭和初期の時代に、東条英機は『戦陣訓』(生きて虜囚の辱を受けず)という形で復活させ、末端兵士(戦争終盤では全国民・国民皆兵)まで徹底させた。しかし、ここには「高貴なる武士道精神」の発揚など存在せず、ただ「敵に捕まるという醜態をさらすな。機密がもれたら迷惑だ。死ぬまで戦って、それでも生きていたら自ら死を選べ。決して生き残ろうとしてはならない。」という冷酷な命令であった。
7.
3.の「ニヒリズム」と「無神論・唯物論」と7.の「生きて虜囚の辱めを受けず」が重なると、必然の結果として「特攻」「玉砕」「自決」などの妄想が生じる。
8.
そして、米国に連敗を重ね、徐々に敗戦観念が現実味を帯びて日本本土に迫ってくると、7.の妄想はさらに拡大されて、「一億総玉砕」つまり「日本国の廃墟」思想が生じてくる。つまり、ポスト・モダン的「日本国廃墟思想」である。なお、開戦時から日本の勝利はないと確信していた山本五十六などは、当初からこのポスト・モダン的「日本国廃墟思想」に冒されていたと言ってよい。
大東亜戦争は、大局的に見ると、上記「1.〜8.の政治哲学思想」の1つ、または、幾つかの複合思想に洗脳された、複数の政治家・国家官僚・軍人・学者またはそれらが構成するグループや研究会などが、昭和天皇にも、日本国と日本国民にも叛逆した、次の二つの目的で遂行された“狂気の戦争”であった、と解釈される。
イ) 日本を総力・長期戦争の疲弊と敵の攻撃によって、人的にも産業的にも極限まで荒廃させ、“廃墟の日本”に至らしめること。
ロ) 戦争の敗戦による精神の荒廃と物的な荒廃をもって、共産革命の土壌を形成し、スターリンのソ連を招き入れ、ソ連の属国としての共産体制の日本をつくること。加えて、大東亜共栄圏の共産化。
これらが、近衛文麿とその一派が主導した大東亜戦争の核心であろう。だが、ソ連と通牒し、スターリンの意に沿った、日本の共産化を目指した「近衛の大東亜戦争」に便乗し、スターリンの指示とは別個に、不可解な戦争を展開した海軍エリートが存在した。山本五十六や黒島亀人ら、日本を対米戦争に引きずり込んだ異常人格者の軍人たちである。
近衛文麿/風見章/富田健治などの赤い政治家の群れと、武藤章/影佐禎昭/瀬島龍三/種村佐孝/美山要蔵などの帝国陸軍の赤い将校の群れとは、ソ連と通牒しつつ、このイ)、ロ)の双方の目的に向かって、計画的に大東亜戦争を誘導した。が、海軍の山本五十六や黒島亀人は、このイ)の目的のみに絞って、日本の次代を担う若者を特攻や玉砕をもって大量殺戮し、日本国を廃墟とすることを目指したとしか思えない。
以上のような目的で行われた「大東亜戦争を肯定する論理」を後世に教育することは、国家を自滅に誘導した山本五十六を英雄視する狂気を次代に洗脳するのと同じであり、必ず国家廃滅に至らしめる。「国家の悠久の存続なんぞどうでもよい、日本人など絶滅すればよい、日本領土なんかなくてもよいのだ」という狂気を麻薬として吸引させるのと同じである。
以上が、正統なバーク保守主義の立場から観る「大東亜戦争」である。
大東亜戦争を「自存自衛・アジア解放であったから正当である」とか、「侵略戦争であったから、不当である」とする歴史観はあまりにも歴史事実を矮小化した、短絡的思考にすぎる。
D撤去・焼却すべき「山本五十六記念館」
新潟県長岡市にある「山本五十六記念館」(1997年設立)は、面妖な展示館である。山本五十六とは、コミュニスト近衛文麿と相違して、ソ連に通牒したわけでもないし、アジア共産化を考えたこともないが、結果としては、近衛とともに大東亜戦争を通じて、東アジアの共産化にもっとも貢献したワースト・ツーである。「スターリンと毛沢東に奉仕し、原爆の報復など日本人大量殺害を招いた、日本史上最悪・最強の軍人」と断定してよい。
そんな人物を記念する「館」とは、いわば“(日本にとっての)悪魔を讃える館”で、このような怪奇な建造物は、中国共産党が歴史の捏造として建設した「南京大屠殺遭難同胞記念館」(1986年)と同じ性格が背後にある。日本という国家に唾する、反日行為を奨励する「反日の館」、それが、「山本五十六記念館」である。
(日支戦争を除く)太平洋戦争という“亡国の愚行”によって、“250万人以上の死者”をもたらした張本人は、日本という国家にとって「重犯罪人」ではないのか。それを逆立ちさせ、軍神を祀るかのごとき「山本五十六記念館」は、直ちに破壊され焼却されなければ、日本人の倫理が冒瀆される。国家の存続に義務を負う健全な国民の“愛国の精神”が腐食する。
山本五十六は、顕彰されるべき硫黄島の栗林忠道・陸軍中将とは対照的に、最も恥ずべき最も唾棄されるべき日本史上最悪の軍人である事実を、日本国民は未来永劫記憶にとどめるべきである。「大敗北の提督」など記念館ともども、祖国日本から抹殺されないとすれば、国防の根本が否定され、日本国の未来が危うい。
(8)冷酷非情な「特攻」作戦と帝国海軍の悪魔性
(A)「“勇者の美徳”の賞賛」と「“反倫理の悪の作戦”の糾弾」の峻別の重要性
“神風(カミカゼ)”と世界に名を馳せた「特攻」に関し、「特攻」に散華した、陸軍・海軍併せて数千人の勇者の若者は、最高の栄誉において未来永劫にわたり、讃えられねばならないし、追悼されねばならない。鹿児島の知覧(陸軍)にせよ、鹿屋(海軍)にせよ、そのほか数十か所の航空特攻基地や特攻基地は、(フィリピンのマラバカット/セブなど)海外を含め、日本政府は、最高の追悼式典を毎年必ず挙行しなければならない。
また、小・中学校の修学旅行は、国家に殉じた特攻隊員のその精神において顕現された最高の美徳(つまり、「@家族・親戚・友人・恋人など現世代の大切な祖国民と祖国及びその代表たる天皇、A天皇の“世襲の法”に顕現され、過去より連綿と繋がる日本国のすべての祖先と祖先の守り続けてきたものとしての日本国、B未来の日本国民(子孫)及び日本国とその代表たる天皇」を自らの命と引きかえに守護しようとする義務意識と義務の実践という、最高の美徳)を学んでこそ、学校教育の神髄であるから、(共産主義者の革命の拠点たる広島でも長崎でもあっては決してならない)知覧と鹿屋こそ、その代表として、最優先に選択されるべきである。
「特攻」に関する戦後の多くの出版物は、「特攻」に散華した戦士の霊を慰め、われわれ子孫がその精神を継承するべきことを強調するにとどまり、軍事的合理性も軍隊の保持すべき最低限度の倫理道徳性も一切なき「特攻」作戦を計画し遂行した陸海軍将官の「罪」を、「特攻は戦士自身の自発的行為によるものである」等の虚言によって、免責する“すり替え”をしてきたが、ここでは、この“すり替え”を断固として拒否し、その真相を追求するものである。
敵艦に体当たりできるパイロットは、敵艦に爆弾を投下して無事に帰還できる高度な技量を持つパイロットでなければならない。その逆に爆弾命中も爆弾投下後の帰還もできないような技量のパイロットなら、敵の対空砲火の中をくぐり抜けられない(敵艦に体当たりできない)から、必ず無駄死になり、「特攻」そのものは、“体当たり攻撃”という名ばかりの“体当たり直前の空中自殺”を強制する“悪魔の制度”にならざるを得ない。若きパイロットという中枢戦力の無駄な消耗に他ならない。
「航空特攻」は、実際にも戦果がほとんどなかったように、戦果は限りなくゼロであるのは理論的に初めから明らかであった。すなわち、「特攻」制度の本性は、1944年に入って敗戦色濃い戦況に陥り、闘うすべを考え付かない軍令部や参謀本部の高級軍人たちが、自分たちの右往左往を隠し、国民に対して@さも米国と五分五分に戦っているかに見せるショー、さも勝利がありうるかに見せるショーであった。A敵国と五分五分に戦っているとの幻想上の安心と自己満足のためであった。(軍高官たちの一種の狂った、精神安定剤であった。)そればかりか、B自国の若者を大量に殺している現実への感覚の麻痺(無神論・唯物論の顕現)であった。
戦争における兵器も作戦も、「生還の確立50%」が軍隊の守るべき絶対基準であり、これ以下の兵器を作ってはならないし、これ以下の作戦を部下に命令してはならない。任務達成後に自らの能力と幸運によって生還する機会を、出撃する部隊や兵士から決して奪ってはならない。これが戦時の軍隊のルールである。
例えば、海軍がつくった、(燃焼時間たった30秒の)ロケット付きグライダー「桜花」は、初めから「生還の確立ゼロ%」で設計された、人類史上最も反倫理的な兵器であった。しかも、理論的にも敵艦に到達する可能性の全くない、戦う前に「戦果ゼロ」が自明な兵器であった。冷酷非情というより、「桜花」は搭乗員にとって棺桶であり、“悪魔の兵器”であった。当時の米軍が、「桜花」のコード・ネームを、日本語のバカをそのまま用いて、「バカ爆弾(BAKA BOMB)」としたが、適格な表現であった。
海軍の人間魚雷「回天」もまた、「戦果限りなくゼロ%」が自覚されながら設計され生産された。この「桜花」と「回天」の生産を命令した責任者は米内光政(海軍大臣)であった。その作戦を命じた責任者は、及川古志郎(軍令部総長)であった。が、戦後の日本は、米内光政/及川古志郎を、「桜花」「回天」の生産・作戦をした「罪」で糾弾していない。「戦果少なき航空特攻を作戦とした問題」であれ「特攻能力のない特攻兵器を生産し作戦とした問題」であれ、理論上の軍法会議的な裁きはしておくべきだが、戦後日本は決してしなかった。
日本の高級軍人たちが愛国心も国家意識も喪失したのは、八年間の大東亜戦争においてであった。祖国愛があれば、“若者殺し”になる「特攻」制度は決して考え付かない。国家意識があれば、「特攻」作戦を命じた責任者への糾弾をしている。民族主義的な保守論客陣は、戦後日本の愛国心や国家意識の喪失を短絡的に、GHQ占領政策に責任転嫁して事足れりとするが、大東亜戦争それ自体の影響の方がGHQの占領政策の影響の何万倍もひどく、日本国民から愛国心と国家意識を剥奪した。戦後日本の精神の退嬰は、スターリンと共産主義に傾倒し、日本共産化を“戦争目的”とした大東亜戦争の後遺症である。
(B)「特攻」作戦の責任逃れ―――戦後も虚言に徹した海軍軍人
帝国海軍の特性は、“組織挙げての虚言”が常態化していた以上に、個々の海軍軍人に虚言症の人格欠陥者があまりに多いことだろう。いつの頃から海軍がそうなったかは分からないが、米海軍のパナイ号を計画的に撃沈したのを“誤爆”と強弁した1937年12月以降、この特性は右肩上がりにエスカレートし、虚言が海軍の常習となった。「米国は騙せば済む」という海軍特有の発想が、「天皇や日本国民は騙せば済む」という発想に転化・発展した。
例えば、1942年のミッドウェー海戦の“嘘戦果”発表を皮切りに、大本営海軍部の発表の、超誇大広告ぶりは、悪徳不動産業者でも、オレオレ詐欺・振り込め詐欺集団でも、悪徳宗教団体の霊感商法でも、真似できない、度外れの詐欺広告であった。しかもこの海軍の嘘情報のおかげで、日本は戦争全体の合理的・有効な作戦立案そのものが不可能になり、国家の敗戦に繋がったのに、海軍がそれを気にした様子はない。帝国海軍の上層部には、日本国という国家が全く消えていた。むしろ、投げやり的に、日本の敗北と亡国を予想して冷笑していた感がある。
帝国海軍全体の虚言症は、海軍の“戦争勝利意識の欠如”や“国家存続意識の不在”と一体となっていた。帝国海軍の提督たちには、国家の存亡に責任ある立場が自覚されなかった。あったのは、責任逃避と出世欲だけであった。彼らには、クロポトキンやプルードンあるいは幸徳秋水や大杉栄、現代思想ではゲイでエイズで死んだM・フーコーやその系譜の福田和也に代表されるポスト・モダン思想のようなアナーキズムかつ国家廃墟イデオロギーと同じ、無法と無国家を信条とする“精神の退嬰”のみが、盛んであった。
「特攻」の兵器生産/制度化/作戦について、それらを敢行した海軍責任者は、米内光政・海軍大臣/井上成美・海軍次官と、及川古志郎・軍令部総長/伊藤整一・軍令部次長/中澤佑・軍令部第一部長(作戦部長)の、合計5名である。米内と井上の決裁がなければ、特攻兵器の開発も生産もできない。及川と伊藤と中澤の決裁がなければ特攻部隊の編成(制度化)と出撃(作戦)はできない。
この5名は、たとえ海軍刑法上の罪で立件されなかったとしても、一般社会の通念では、部下に対して自殺の強要である「特攻」制度という、倫理と軍事合理性に反する極悪非道の無意味な作戦を推進した「犯罪者」たちである。しかも、(沖縄特攻で戦死した伊藤を除き)彼ら4名は、戦後、「特攻」の英雄とその遺族に言葉一つの謝罪もなかったし、そればかりか、自分が決裁したことを隠し続けた。責任逃避という卑劣、それが、日本海軍トップの提督たちに共通する人格であった。妹尾作太男は、『海軍中将 中澤佑』(中澤佑刊行会編、原書房)の記述における、「大西瀧治郎個人がつくった」という航空特攻制度創設にかかわる、中澤の明らかな嘘を暴いている。大西はマニラに赴任すべく1944年10月8日午前に羽田を出発した。中澤は1944年10月2日に横浜を発ち、10月9日にマニラから東京に戻った。

この両人が会うことの決してできない10月5日/6日/7日のいずれかの日に、「軍令部で、及川・伊藤・中澤・大西の四者会談中、大西が自ら特攻のアイデアを提案した」と中澤は真っ赤な嘘の回想をしている。『海軍中将 中澤佑』(中澤佑刊行会編、原書房)
しかも、公刊戦史まで、中澤の捏造と同じ嘘がそのまま書かれている。海軍は、戦後に至るも虚偽を貫くべき、口裏を合わせている。また、作戦参謀・源田実の10月13日付け起案電報、「大海機密第261917番電」(大西はマニラ滞在中)に、敷島隊/朝日隊などの、中澤佑と源田実の合作らしい特攻部隊名の命名があるから、航空特攻は大西瀧治郎が創った策ではない。「特攻」は、マニラに発つ前に中澤が決裁しているから、軍令部としての公式の意思決定は、10月1日以前である。10月8日に、マニラに発つ大西瀧治郎は、その「特攻」の指揮を一方的に命令された。これが、歴史事実である。
(C)「桜花」「回天」「震洋」のおぞましき戦果
既存の航空機の「特攻」転用(航空特攻「神風」)も、馬鹿げたトンデモ兵器たる「桜花(ロケット付き特攻グライダー)」「回天(人間魚雷)」「震洋(特攻モーターボート)」の発案も、精神の病に冒されているとか人格的に異常とか、海軍の中で悪評判ワーストの3奇人――黒島亀人、大西瀧治郎、源田実――が深くかかわっている。この三人に、山本五十六を加えれば、パール・ハーバー奇襲という“亡国の大愚行”を企画・実行した、「四人組」となる。彼らは、開戦から終戦まで、最初から最後の最後まで、祖国への大叛逆者であり続けた。
海軍特攻は、状況証拠的には、次代の日本人を大量殺戮するのも主目的の一つだが、この「四人組」が祖国愛(パトリオティズム)を全く持たない事実とも符合する。
黒島も関与して推進された「桜花」に関して、それがいかに反軍事的で、いかに出鱈目な兵器だったかを、まず検証する。「桜花」の設計開始は1944年8月、1ヶ月後の9月には生産開始、10月1日には部隊渡し。この間たった2ヶ月にも満たない。杜撰極めた兵器であるのは、この破天荒な強行日程だけでも判明する。
「桜花」部隊は、沖縄を護らんとして、10回の出撃をした。@1945年3月21日を皮切りに、A4月1日/B4月12日/C4月14日/D4月16日/E4月25日、F5月4日/G5月11日/H5月25日/I6月22日。
まず、初回は15機の「桜花」を15機の一式陸攻が搭載し、このほか護衛のため3機の一式陸攻と戦闘機30機が直接掩護した。結果は、「桜花」の母機なった15機の一式陸攻と護衛の3機の一式陸攻合計18機の一式陸攻は、沖縄に近付くと、空中待機した米軍の艦載機とレーダーによって捕捉され、すべて撃墜された。この被害は下表の通りである。
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第一回「桜花」出撃の戦果(1945年3月21日) |
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撃墜された機 |
戦死した搭乗員 |
敵の損害 |
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桜花15機(全機) |
15名全員 |
艦艇ゼロ |
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一式陸攻18機(全機) |
135名全員 |
戦闘機ゼロ |
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掩護戦闘機10機(30機中) |
10名(20名生還) | |