透き通るような笛の音が、どこからか聴こえてくる。
そんな不思議な夢を見た。切なく、物悲しい、だけど……どこか
懐かしい音色。遥か遠い遠い古の時代に、同じ音色を聴いたことがある。
でも、何時どこで聴いたのかは、記憶に魔法の鍵をかけられたみたいで、
思い出すことはできなかった。
低血圧な私は、毎朝意識を朦朧とさせながらゆっくりと起きる。
でも、その日だけは違っていた。親に起こされもせず、家の誰よりも
早く起きた。眠気も嘘のように無くなって、神経が研ぎ澄まされた
ような感覚だった。布団の中から鳥の囀りを、識別して分類できる
くらいだから、相当なものだと思う。すぐに起き上がり、カーテンを
開けた。まだ太陽も起きたばかりなのか、優しい日差しを放っている。
そっと窓を開けて、朝の心地よい空気を吸い込み、大きく深呼吸を
した。視界に薄紅色がちらついた。よくよく目を凝らして見ると、
森の深い緑に紛れ、薄紅の桜が一際異彩を放っていた。
「あれ?まだ桜が咲いてる……」
四月と言えど、この地域の桜の見頃はとっくに過ぎたはず……。
学校に行くにも早いけど、たまには寄り道して行こう。私は急いで
制服に着替え、軽く朝食を済ませて、忍び足で家から出ていった。
森に入ると草木が、でたらめに生い茂っているせいか、少し薄暗い。
しばらく歩いていると、やがて大きな屋敷に辿り着いた。
「こんな場所に民家なんてあったっけ……?しかも、
こんな大きなお屋敷」
早朝という、あまりにも非常識な時間。「無駄足だったかな」と
思いつつ、踵を返した。その時、今朝見た夢と同じ音色が、
そのお屋敷から聴こえてきた。自分の耳を疑ったが、私は吹奏楽を
やっているため、音感だけは確かだった。間違いなく夢と同じ奏者だ。
私はスカートを履いていることを気にも留めず、美しい音色に
魅せられるように、傍に植えられていた大木の枝を伝い、
私はその屋敷に忍び込んだ。
一瞬、空気が変わった。
空気が歪んだと言った方が近いかもしれない。枝から器用に
飛び降りた後、振り返って訝しげに宙を見つめた。だけど、
いつも見ている空と何ら変わらない青空だった。次の瞬間、
目の前の風景に愕然と立ち尽くした。
そこは、まるで別世界だった。平安時代の貴族住宅を切り取った
ような寝殿造。庭園には躑躅が咲き乱れ、季節折々に楽しめる
様々な種類の花が植わっていた。紅の反橋から見る大きな池には、
赤と黒い二匹の錦鯉が優雅に泳いでいる。外の世界に干渉も影響も
されず、大切に守られてきた平安の雅は華々しい美しさと厳かな
美しさを併せ持っていた。笛の音は、庭内からどこからか聴こえて
いた。霞むような調べなのに、はっきりと整った音階と研ぎ
澄まされた奏で手。その音源はどうやら、庭の片隅に堂々と
咲き誇っている桜の大木からだと感じ取り、私はそっと桜の大木
に近付いてみた。
桜の精。
妖精などの類を信じない私でも、彼女を一目見てそう確信した。
馬鹿な話かもしれない。でも、本当にそう感じた。凛とした顔立ち、
白い着物に似た装束を身に纏いて、時を越えて平安からやってきた
ような少女。漆黒の揃えた長髪は春風に弄ばれ、波打つその髪に
桜の花弁が流れていく。簡単に折れてしまうような手先を巧みに
使って、金色の龍の装飾が施された竜笛を吹いていた。
刹那、音は止んだ。春風が二人の間を凪いでいく。
彼女は鳶色の双瞳を軽く細め、じっと私を見つめていた。
「そなたは?」
「わ、私はみおり。宮吹 深織」
何だかとても緊張していて、声が上擦ってしまった。
だから「宮吹」と名乗った時の彼女の表情は読み取る事が
できなかった。でも小さな身体を、兎のようにぴくっと震わして
反応したことは見間違えではないと思う。
「我は、鈴珠。そなた……どうやって此処に入れた?」
「杏の枝を伝って……おっとと。えーと、その笛の音に魅入られ
ちゃって……ってなんか言い訳にしか聞こえないわよね」
深織はどうやって許してもらおうか、と頭の中で考えながら一人で
「うーん」と唸っていた。そんな深織を見ながら、鈴珠は目を軽く閉じて
門番兼護衛の任に就いている祐に問い掛けてみた。
『結界はどこも異常ありません。結界にどうやって入った
のでしょうか?』
『ふ……む、異客か』
目を開けて「何故に、ここへ来たのだ?」と鈴珠は訝しげに
問い掛けてみた。
「……桜が見えたからかなぁ。この時期なのに珍しいなぁって。
でも、ごめんなさい」
それは、鈴珠にとって意外な答えであり、気の遠くなるような年月を
経て待ち望んでいた瞬間だった。鈴珠は、うなだれている深織を、
愛しむような優しい眼差しで見つめて言った。
「何故謝る?そなたは悪くないはずであろう?」
「でも、でも……」
「……良い。そなたにさっきの曲聴いて貰おう。最初で最後の調べを。
あの陽の光が屋敷に射し込む頃、出て行くと良いぞ」
「あ、有難う」
私は美しいは調べを聴きながら、昔を思い出していた。
あれは、十歳くらいの頃。祖父母の家で住んでいたことがあった。
今住んでいる隣町にその家はあるのだが、好奇心旺盛だった幼い私は、
言い付けを破って庭にある立派な蔵に入ってしまったことがある。
ちょっとした事故でその蔵から出られなくなって、家族は勿論、
警察を巻き込んだ大騒動になってしまった。
そのせいで、祖父母の家に分別がつく年になるまで行かせて
もらえなくなったのは、ちょっとした余談だが……。
あの蔵から、出れなくなってしまった時にある青年に出会った。
彼は外に出れる通路を知っていて、条件付で教えてくれた。
「これから紡ぐ詩を覚えてくれたら、通路の場所を教えてあげる」
そう言って、彼は言葉を一つ一つ紡いで聞かせてくれたっけ。
笛の音がふいに途切れた。
太陽はいつの間にか、少し見上げるほどの位置に昇っていた。
「本当に綺麗な調べ……。そうだわ!ちょっと待ってね」
私は鞄から慌てて紙を出して、聴かせてくれたお礼として彼に
教わった詩を書き綴った。
「よし。この歌詞を貴女に贈るわ。素敵な音色を聴かせてくれて、
どうも有難う。それじゃ、鈴珠。もう……行かないと」
「……生まれ変わってもそなたは、また我を一人残していくのだな」
「え?」
寂しそうに切なげな表情で彼女は何かを呟いたが「何でもない」と
にっこりと笑って言った。
「さようなら、鈴珠。あなたに出会えて良かったわ」
最後に呟いた言葉は分からなかったけど、私は素直にそう言って笑った。
深織が屋敷を出ると、鈴珠はふぅと息をついて呟いた。
「織也と同じ事言うなんて、皮肉なものね……。さようなら、織也の
生まれ変わり」
その呟きは、宙で風に掻き消されてしまった。
鈴珠がまだ幼い頃、貴族の屋敷の宴に招かれたことがあった。
幼少の頃に母が他界し、母の形見として竜笛を持っていた。私の音色は、
巷でたちまち噂になり、貴族の宴に奏者として招かれた。その時、
桜の大木の懐で青年が短歌を詠んでいた。その青年の名は『織也』。
優しかった。優しいが故に儚い人生だった。医者も手を尽くしたが、
出会って半月もしないうちに私と約束を置いて、あの世へ先立った。
私と織也は、ある約束をした。
「鈴珠の作ったこの曲。あれに見合う歌詞をつけてあげるよ」
「本当?じゃあ、この曲は私たちの曲になるのね。約束よ?絶対ね!」
「ああ、約束する」
自分の小さい小指をしっかりとした小指に絡めて、二人は小さな
小さな約束をした。小さかったけど二人にとっては、大切な約束だった。
半月経って、織也は床に伏すことが多くなった。だから、
医者に今夜が峠だと聞かされた時は織也が泣かない代わりに、
私が泣いた。約束と死への恐怖だけで泣いていたわけじゃなかった。
死に向かっていく、織也を見ているだけで何もできない悔しさと
やるせなさで泣いてしまった。約束なんて二の次。織也さえ生き
長らえてくれれば……と。
「泣かないで、鈴珠」
「嫌よ、嫌!そんなの絶対に嫌!約束破るなんて酷いじゃない!」
「……ごめんね、鈴珠。貴女に出会えて良かった」
「ねぇっ、待って!私を置いて逝かないでよぉぉぉぉぉ!」
鈴珠の悲痛な叫びは織也に届かず、春の雨雲だけを呼び覚まし、
その翌日には桜の涙が地面を覆った。
「酷い人ね。私をこんなに待たせて……」
どうしても死にきれず、約束のために待ってもらった命の刻限。
外界に気付かれないように暮らして、約束の時を待つのであれば
『時のない世界』を作ってあげよう、しかし気付かれてしまったら命を
すぐに冥府に送る。これが冥府の役人の出した条件だった。
『鈴珠様。約束の時です、行きましょう』
「祐、長い間……本当に有難う。もし織也に会っていなかったら……
私は貴方を―――」
『―――私は、幸せでしたよ?』
「最期の最期まで、貴方という人は……」
薄紅の ひとひら薫る 涙のごとき
嵐に 舞い散り 春の淡雪
水面に浮かぶ 花弁の杯
遅れ桜は 哀しき涙
憂い瞳に何を思ふ
Fin.
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