『コンプレックスリ』




「哲は、何をやってもダメだな」

「どうして、こんな簡単なこともできないんだ」

 薬瓶に入った錠剤を見ながら、耳朶に眠る過去の言葉が、

ふいに蘇った。僕は、三兄弟の末っ子として生まれた。両親は弁護士、

長兄は大学病院の医者、次兄は東大生で将来を目されている。

そんな完璧で優秀な家族、末っ子の僕だけが、何をやってもダメだった。

こんなに何の才能もない人間がいるのか、と呆れ通り越して、感心して

しまうほどだ。周囲にいる皆からも、いつも笑い者にされて、自分は

何のために生まれてきたんだろう、と途方に暮れる毎日。

それは、社会に入ってからも同じことの繰り返しだった。

何十回目で、ようやく就職が決まったと思ったら、その会社が倒産。

次に入った会社では、同期のエリートに濡れ衣を着せられて、

クビにされた。

 家に帰りづらくて、ふらふらと街を彷徨っていると、一枚の

ポスターが視界に飛び込んできた。

―――これ一錠で、貴方のコンプレックスが治る―――

そのキャッチフレーズは、僕にとって甘い誘惑のように感じた。

別に効果なんて、なくても良かったんだ。せいぜい気休め程度で、

効果など期待していなかった。

 僕はそのポスターが貼ってある、営業しているんだかしてないのか、

分からないような店に入った。店内は、いかにも怪しい雰囲気を

醸し出して、店の奥からお婆さんが出てきた。薄気味の悪い三白眼、

真っ白な白髪、染みとシワだらけの肌。僕は、口元を引きつらせながら、

「妖怪みたい」と思っていた。

「あの、外にあるポスター」

「……薬をお望みかい?」

「はい」

しゃがれた声が、静かな店内に不気味に響く。お婆さんは、

引出しから何かを出して、僕に差し出した。それは、錠剤の入った

薬瓶だった。僕が財布からお金を出そうとすると、お婆さんは首を

横に振って、気味の悪い笑みを残し、店の奥に入っていってしまった。

こうして、今に至る―――。


 白昼の公園だけあって、幼い子供達が母親と一緒に遊んでいる。

きゃあきゃあと、無垢な騒ぎ声が公園中に飛び交っていた。色んな

可能性を持つ子供達の声、何だかそれが、急に恨めしく思えた。

その公園の木陰にあるベンチに、スーツを着た社会人。傍目から見れば、

リストラされたサラリーマンに見えることだろうか。手元に薬なんて

持っているから、既に危ない人だと思われているかもしれない。

だけど、そんなことどうでもよかった。半ば投げやりに、持っていた

薬瓶から錠剤を一錠だけ出した。その一粒をじーっと見つめてみる。

特に、普通の薬と変わりはないようだ。喉の鳴る音が、異様に大きく

聞こえる。目をぎゅっと瞑って、一気にそれを飲み込んでみた。

自販機で買ったお茶で、その錠剤を流し込み、一息つく―――。

十秒、二十秒、三十秒。一分経っても、身体に異変は感じられず、

思わず笑いたくなってしまった。そりゃあそうだ。

こんな薬一粒で、コンプレックスが治るんだったら、苦労はしない。

こんな物に騙されるなんて、本当に僕は駄目だなぁ。

自嘲気味に笑って、深い溜め息を落とした。


 そして、その翌日―――。

「哲?昨日さ、僕の問題集に触った?」

「え……。ああ、ごめん。どんなのやってるのか、見てみただけだよ」

帰ってきた時、机の上にあった次兄の問題集。

一問だけやってみたけど、やっぱり分からなくて、結局やめたんだっけ。

「この問題、最後までやってみて」

「は?」

「いいから」

僕は、よく分からずに一応、最後まで問題を解いてみる。

すると、次兄はそれを見るなり、それよりも難しそうな問題を

出してきた。とりあえず、言われるがままに問題をこなしていると、

次兄はいきなり怒り始めた。

「哲、何で今まで出来ない振りなんてしてたんだよ!俺すらも

 出来ない問題が、何でお前に解けるんだよ!?俺のところ、

 馬鹿にしてたのか?」

「そんな、わけ……」

「じゃあ、何で問題が出来るんだよ!」

次兄の怒号を聞いて、昨日の錠剤が脳裏をよぎった。まさか、本当に

あの薬が効いた?僕は、慌てて父の書斎に入って、端から本を読んだ。

今までは、難しい本を読んでも、理解できなかった。

でも、どうしてだろう。全部の本の意味が分かる―――。

あの薬は、本当に効果があったんだ。何にも出来ない自分が嫌だった。

馬鹿にされ続けるのは、正直きつかった。でも、これで僕は完璧な

人間になれる。そう思うと、これからの人生が楽しく思えてきた。

頭脳を生かして、僕はすぐに就職できた。大手企業メーカーの

企画課で、様々なヒット商品の生み親として、雑誌にも取り上げられて、

一躍、時の人となった。少しの失敗がある度に、その失敗をカバー

するため、薬を一錠ずつ飲んだ。定期的に、あの店にも通って、

薬瓶を購入した。それから昇進して係長になった僕に、両親は

「哲は、自慢の息子だ」と言ってくれた。今までずっと罵られて

いた分、余計に嬉しかった。両親に認めてもらえた。

それが、何にも変えがたいご褒美だったんだ。

そう、全てが順調だった――――。

 
 そんなある日のこと、他の大手企業と接待があった。重要な接待で、

会社の今後を左右するものだった。出張したその足で、その接待に

向かうと上司に言っておいた。だが、出張先でトラブルが起きて

しまった。僕は携帯電話から会社に掛けて、その旨を伝えると、

電話口の事務社員は、

「はい、分かりました。確かに伝えておきます」

しっかりとした声で、そう言ってくれた。僕は、少し安心して

トラブルを片付けてから、接待に向かったのだ。

しかし、そこに待っていたのは地獄だった。

「片岡君、どういうことかね。連絡もせず!」

「え、いや。連絡はちゃんとしました。トラブルが起こったから、

 接待に遅れると」

「事務員は聞いてないと言っているが?」

「そんな……でも、確かに電話を」

「もう、向こうの社長さんは、おかんむりだ。うちとの契約も

 白紙に戻すと言われた。この損害をどうしてくれるんだ!

 片岡君、君はもうクビだ。出ていきたまえ!」

訳が分からないまま、僕は会社をクビになってしまった。

会社に私物を取りに来た時、何故こんな事態に陥ったのか、

原因が分かった。私物を持って廊下を歩いていると、資料室

から声が聞こえてきたのだ。

「いい気味だよな、片岡の奴」

「だな。俺達を散々、こき使いやがって」

「少し偉くなったからって、調子に乗りすぎだったもんな」

「これで、ようやくいなくなるから清々するよなぁ」

「確かに」

遠くに聞こえる下卑た笑い声、僕は放心しながら、

その場から去った。僕の周りは、いつのまにか敵だらけだったんだ。

―――信用できる奴なんて、最初から誰もいなかったんだ。

そしてまた、公園のベンチで薬瓶を眺めていた。

何故、あの時気付かなかったんだろう。

薬瓶のラベルに書いてある、重要な注意事項に……。


―――注意事項:服用し過ぎると、副作用が起こる恐れがあります。

        ご注意下さい―――


その副作用の一例として、人望が無くなる、とそう書かれていた。

                         END