ある町に、昔から人の寄り付かない、古い池があった。
池は、商店街から少し離れた閑静な住宅地の一角にある。一戸建ての
家とアパートが軒並みに混在して立ち並ぶ、その住宅地に池がある
というのは、何だか不釣り合いだと人々は感じていた。だが長年、
その地区で暮らしていれば、いつの間にか池の存在は、当たり前のもの
となっていた。
池の水は、濁っている泥水のようだった。池の周囲は子供の背丈
ぐらいの柵で簡単に囲ってあり、池自身が日陰にあるせいか、とても薄暗く、
そこだけが別世界のようだった。しかし、その付近で神隠しのような奇妙な
出来事が起こり始めると、人々はいつしか池を、こう呼び始めた。
「人喰いの池」と。
山の麓にある寺の鐘が、夕方五時を告げる。遠くの空で鳴きわめく
カラスの群れを、自転車を勢いよく飛ばしながら、見ていた。
五時と言っても、まだ空は明るいはずなのに、この辺りは昼間でも薄暗い。
だから、灯はこの道を通るのが苦手だった。池の近辺に住む人間は、
この道を使いたがらない。例え、近道でも、誰もが別の道を選ぶ。
その原因は、途中にある「人喰いの池」にあった。いつからそう呼ばれ
始めたのか分からないけれど、子供が喜びそうな池にまつわる怪談話が、
幾つも存在していた。異常なほどの恐怖からか、誰一人として、
池の近くでの肝試しはやらなかったけれど。
「早くしないと……」
ペダルを漕ぐ足が、気持ちとともに一層早まる。あとは、緩やかな傾斜を
上れば、外灯が立っているはず。少しだけ安心して、自転車のグリップを
ぎゅっと握った。なるべく視線を前方に向けて、池の方を見ないように
通り過ぎようとした。そう、通り過ぎたはずだった。
刹那、視界に白が横切る。自転車を止めるつもりなどなかった。
何があっても、止まるつもりはなかった。だけど、いきなり何かが
飛び出してきたのだ。急ブレーキを掛けたせいで、前につんのめって、
自転車ごと倒れてしまった。身体のあちこちが、痛い。どうやら左肘を
怪我したらしい。血がコンクリートにぽたりと滴る。
あれは、何だったんだろうか。
そんなことを考えつつ、自転車と一緒に身体を起こすと、そこはちょうど
「人喰い池」の前だった。池をこんな間近で見たことがなかったが、
噂通り異様な雰囲気が漂っている。確かに、人々が怖がるのも頷ける。
「何、してるの?」
「うわっ!」
今、気配あったっけ?背後から、いきなり声を掛けられて、私は驚いた。
おそるおそる振り向くと、そこには可愛らしい瞳を持つ、少女がいた。
目がくりっとしていて、この時代には珍しい、ぬばたまの黒髪を肩で
きっちり揃えたおかっぱ。その姿はまるで、日本人形のようだった。
「ねぇ、何してるの?」
「あ……」
少女は座り込んで、滴り落ちた血を指に絡めて、舐め始めた。
ぺろぺろぺろぺろ。
唇に付いた血の残りは、赤い口紅を思わせる。彼女に似合いの、血の口紅。
灯は、何も考えられなかった。怖いとか、そういう以前の問題だった。
彼女は、狂っている。これ以上、関わってはいけない。
自転車など、もはやどうでもいい。この場から、早く逃げなきゃ。
殺される。それだけだった。でも、次の言葉で逃げられなくなった。
まるで、足を糸で縫いつけられたみたいに、全く動かない。
「貴女は、何を悔いているの?」
何かがフラッシュバックした。私は―――。少女の言葉が、頭の中で
反芻される。映像が、シャッターを切る写真のように、切り取られる。
千切れる音。繋がる音。衝撃音。泣きわめくカラスの群れ。
そして、目の前で吹っ飛んだ小さな身体。
「いやああああああああああああああ」
ぺろり。唇に付いた、血も一緒に舐めた。
「ご馳走様」
少女は灯の耳元でそう囁いて、クスッと笑い、池の中へと消えた。
次の日、新聞の一面記事が町を震撼させた。清水 灯という女子
中学生が、町の交番に出頭したのだ。「人を殺した」と。
被害者の名は、井上 純。灯の親友だった。記事によると、
放課後、学校に残っていた二人は、ある交差点で別れたらしい。
その直後、純は大型トラックにはねられてしまった、とある。
だが、その後の警察の調べで灯という少女が、純の背中を押したと
いうことが分かった。殺人の動機については、警察が取り調べている
が、よく分からなかった。彼女は、聴取に対して笑いながら、こう言った。
「私、後悔なんてしてないよ?何で、後悔なんてしなきゃいけないの?」
少女の名は、人悔いの主、魅悔(という。「後悔」の気持ちを選り好んで、
喰う池の主。普段は泥水の中で、異常なほど白く美しい魚として、
生活している。
終
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