イギリスの「バンド・エイド」の影響は、アメリカのアーティストたちをも動かした。

それがたとえ対抗意識からであったのせよ、彼らがノーギャラで行動した事実は変わらない。

 

動いたのはハリー・べラフォンテ

「ウィー・アー・ザ・ワールド」の12インチ盤には、アメリカ版バンド・エイド、「USAフォー・アフリカ」(正式名称:United Support of Artists for Africa)の経緯が記されている。これを中心に説明していくことにしよう。

50年代後半から活動し、「バナナ・ボート」のヒットで知られるハリー・べラフォンテは、ボブ・ゲルドフとは別にアフリカの飢餓状態を知り、ショックを受けていた。

「私は、昨年(84年)アフリカの現状を伝える映画を見て、大きなショックを受けました。そこに映し出された状態は実に悲惨なものでした。その日以来、私は眠れない夜が続き、仕事にも身が入らず、ずっと一つのことばかり考えていました。つまり、”何かアフリカの人々のために役立つ方法はないだろうか”と。そんな時に、イギリスの『バンド・エイド』を知ったのです。そこで真剣に思ったのです。”彼らは人間としての同士愛の精神でこれをやっている。なぜここ(アメリカ)ではできないんだ?”」

べラフォンテはライオネル・リッチー、ケニー・ロジャースのマネジャーであるケン・クレイガンを訪ね、クレイガンはすぐにリッチーに連絡を取った。リッチーはクィンシー・ジョーンズに、クィンシーはマイケル・ジャクソンに連絡を取り、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンによる共作によって「ウィー・アー・ザ・ワールド」を書き上げた。

 

レコーディング風景

85年1月22日、ケニー・ロジャースの所有するライオンシェア・スタジオに、バッキングを録音するために集められたのは、マイケル・ボディッカー(キーボード)、グレッグ・フィリンゲインズ(キーボード)、ルイス・ジョンソン(ベース)、ジョン・ロビンソン(ドラムス)、スティーヴ・ポーカロ(キーボード)、デヴィッド・ペイチ(キーボード)。最後の二人は言わずと知れたTOTOのメンバー。マイケルの「スリラー」に参加していたためであろう。プロデューサーはもちろんクィンシー・ジョーンズ。

28日にはいよいよロサンゼルスのA&Mスタジオに45人のアーティストが集結し、ヴォーカル・セッションが行われた。この日はちょうど「アメリカン・ミュージック・アウォード」の授賞式で、会場から直接駈けつけたアーティストもいた。夜10時から全員によるコーラス部分を録音、朝4時から各ソロパートを収録、8時に終了した。アーティストへのアプローチの多くはケン・クレイガンが担当、この日に集まったアーティストは以下の通り(アルファベット順)。

ダン・エイクロイド/ ハリー・ベラフォンテ / リンジー・バッキンガム(フリートウッド・マック)/ キム・カーンズ / レイ・チャールズ / ボブ・ディラン / シーラ・E / ボブ・ゲルドフ / ホール&オーツ / ジェームス・イングラム / ジャッキー・ジャクソン(ジャクソンズ)/ ラトーヤ・ジャクソン / マーロン・ジャクソン(ジャクソンズ)/ マイケル・ジャクソン / ランディ・ジャクソン(ジャクソンズ)/ ティト・ジャクソン(ジャクソンズ)/ アル・ジャロウ / ウェイロン・ジェニングス / ビリー・ジョエル / シンディ・ローパー / ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース / ケニー・ロギンズ / ベット・ミドラー / ウィリー・ネルソン / ジェフリー・オズボーン / スティーヴ・ペリー / ポインター・シスターズ / ライオネル・リッチー / スモーキー・ロビンソン / ケニー・ロジャース / ダイアナ・ロス / ポール・サイモン / ブルース・スプリングスティーン / ティナ・ターナー / スティーヴィー・ワンダー

ヴォーカル順は以下の通り。

ライオネル・リッチー → スティーヴィー・ワンダー → ポール・サイモン → ケニー・ロジャース → ジェームス・イングラム → ティナ・ターナー → ビリー・ジョエル → マイケル・ジャクソン → ダイアナ・ロス → ディオンヌ・ワーウィック → ウィリー・ネルソン → アル・ジャロウ → ブルース・スプリリングスティーン → ケニー・ロギンズ → スティーヴ・ペリー → ダリル・ホール → マイケル・ジャクソン → ヒューイ・ルイス → シンディ・ローパー → キム・カーンズ → ボブ・ディラン → レイ・チャールズ → スティーヴィー・ワンダー&ブルース・スプリングスティーン → ジェームス・イングラム

個人的にはリンジー・バッキンガムのヴォーカルがないのが残念。また彼が呼ばれていてスティーヴィー・ニックスがいないのはなぜだろう。またポール・サイモンが参加しているが、ヴォーカル力でいうなら彼よりもアート・ガーファンクルの方がふさわしいはずだが。さらにモータウンの大御所スモーキー・ロビンソンのヴォーカル・パートがないのは意外。ダン・エイクロイドはやはり「ブルース・ブラザーズ」での歌唱力を買われての参加か? ではソロ担当アーティストの当時の状況をざっと見てみよう。

「ウィー・アー・ザ・ワールド」の作者の一人でもあるライオネル・リッチーは、コモドアーズ脱退後、順調にソロ活動を継続。84年発表のアルバム「キャント・スロー・ダウン」もあっさり全英・全米1位を記録。ロス五輪でもアメリカ代表として舞台に立った。80年代のブラコンをマイケルと共に支えた立役者である。

 

 

スティーヴィー・ワンダーは前年に久々に大ヒット「心の愛」を発表したが、それは映画「ウーマン・イン・レッド」の主題歌だった。このサントラ(全英2位・全米4位)ではディオンヌ・ワーウィックとのデュエットも聴けるが、かつてのサウンド・クリエイターぶりとは違った、ポップ・フィールド寄りの作品を以後も発表していく。

 

 

80年のアルバム「ワン・トニック・ポニー」以後、ソロ活動としては低迷期にあったポール・サイモン82年にサイモン&ガーファンクルを一時再編させるも、83年の「ハーツ・アンド・ボーンズ」はまた不調に終わる。そんな彼が大復活するのは86年の「グレイスランド」(全英1位・全米3位)まで待たねばならなかった。

 

カントリー畑のケニー・ロジャースは70年代後半からこの80年代前半までが最盛期で、既に大ヒット・アルバムを連発していた。当時の最新作は「アイズ・ザット・シー・イン・ザ・ダーク」で、これもあっさりトップ10入り(全米6位)を記録。「ミスター・ウォーム・アット・ハート」の異名があった。

ジェームス・イングラムは当時ひっぱりだこの黒人シンガー&ソングライター。自身作としても84年のアルバム「イッツ・ユア・ナイト」(全米46位・全英25位)がロングセラーを記録した。後にデュエット・シンガーとしてちょくちょく大物に呼ばれ、中でもリンダ・ロンシュタットとの「サムホエア・アウト・ゼア」(87年全米2位)の名唱が印象深い。

83年にヘヴン17の別プロジェクトBEFのゲストシンガーとして「レッツ・ステイ・トゥゲザー」で見事な復帰を遂げたティナ・ターナーは、84年の「プライベート・ダンサー」(全英2位・全米3位)で一躍時の人となっていた。シングル「愛の魔力」でとうとうグラミー賞も受賞。元々実力のある人だけに、苦労重ねた末の大復活劇は感銘を呼んだ。

 

 

グラミーといえば常連のビリー・ジョエル。公私共に絶好調だったのがこの時期で、アルバム「イノセント・マン」はついにイギリスでも大ブレイク(全英2位・全米4位)。この作品も超ロングセラーを続けた。この後も順調に活動を続け、70年代から90年代までチャート上でも第一線で活躍し続ける数少ないアーティストである。

 

 

いわずと知れたマイケル・ジャクソンは、MTVとダンスを駆使し、ブラック系アーティストの一般への浸透を広めた音楽史上最重要人物の一人となった。この時点でモンスターヒット「スリラー」を発表して3年を過ぎようとしており、84年にジャクソンズとしてミック・ジャガーとのシングル「ステイト・オヴ・ショック」も発表していたが、ソロの新作を待望されていた(次作「BAD」は86年に発表)。

 

マイケル・ジャクソンのアーティストとしての育ての親であるダイアナ・ロスは、81年のライオネル・リッチーとの「エンドレス・ラヴ」を例にあげるまでもなくソロとしても順調に活動を継続、84年のアルバム「スウェプト・アウェイ」(全英40位・全米26位)もロングセラーを記録し、シングル「追憶の涙」も時間をかけて全米10位まで上げた。

ディオンヌ・ワーウィックはホイットニー・ヒューストンの叔母としても知られるが、60年代のバカラックご用達シンガーの頃から当時まできっちり現役活動をこなしており、82年の「ハートブレイカー」もヒット、83年も「ソー・アメイジング」を発表している。翌86年にはディオンヌ&フレンズとして「愛のハーモニー」を年間チャート1位に送りこんでいる。小柳ゆきが年を取るとこういうルックスになるのでは?

ウィリー・ネルソンはケニー・ロジャースとならぶアメリカ・カントリー界の大御所。ヒット作も数多く、82年には「青い影」(全米2位)「グレイテスト・ヒッツ」(全米27位)をチャートの上位に送り込んだ。シングル「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」はプレスリーのカバーで、同年全米5位の大ヒットを飛ばしたが、「ウィー・アー・ザ・ワールド」では出だしをトチってディオンヌに助けられている。

アル・ジャロウは元々ジャズシンガーとして世に出たが、80年代に入ってジェイ・グレイドンと組み、AORシンガーとしてヒットを飛ばす。当時の最新作は「ハイ・クライム」だが、その前年の83年に出た「ジャロウ」(全英31位・全米13位)は大ヒットを記録した。

70年代に既にスーパースターとしての地位を築いていたブルース・スプリングスティーンだが、84年発表の「ボーン・イン・ザ・USA」(全英・全米1位)は未だに彼の最大ヒット作となっている。「アメリカの良心」としてのロックンローラーは全英にも人気が飛び火し、スプリングスティーン旋風を巻き起こした。

 

 

70年代はロギンズ&メッシーナとして活躍していたケニー・ロギンズも、解散後順調なソロキャリアを築いていった。ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」の作者としても名を売ったが、この時期はなんといっても「フットルース」に代表されるサントラ主題歌の名手としての頃である。後には映画「トップガン」「オーバー・ザ・トップ」も手がけ、やはり大ヒットした。

 

 

当時のアメリカを代表するバンドといえばなんと言ってもジャーニーであったことは疑いもない。そのヴォーカリストがスティーヴ・ペリーで、USAフォー・アフリカへの参加アーティストを考えるにあたり、ケン・クレイガンが真っ先に思いついたのは彼であった。スティーヴは当時ソロとしても活躍、賛否両論のPVが話題を呼んだ「Ohシェリー」(全米3位)がヒットした。

 

 

80年代を代表するヒットメイカーといえばホール&オーツで、その中心人物がダリル・ホール。フィラデルフィア・ソウルに傾倒した彼のボーカル・スタイルは「ウィー・アー・ザ・ワールド」でも見事な歌を聴かせる。当時はアルバム「ビッグ・バム・ブーム」(全英28位・全米5位)が久々のオリジナルアルバムであったこともあって、シングル共々大ヒットを記録した。

 

 

再度マイケルが歌った後登場するのはヒューイ・ルイス。自身のバンドの作品であるアルバム「スポーツ」(全英23位・全米1位)が大ヒット&ロングセラーを続けていた頃だが、実は彼のフレーズ部分は元々プリンスが歌うところだったらしい。ところがプリンスがスタジオへ向かう途中トラブルに遭ったため、彼がピンチヒッターとして歌ったらしい。が、彼はその代役を見事に務めている。

 

 

当時は新人シンガーであったシンディ・ローパー。アルバム「NYダンステリア」(全英16位・全米4位)がヒット、シングルも「タイム・アフター・タイム」でNo.1を記録した頃で、同じ頃にブレイクしたマドンナとよく比較されていた。しかしそんなこともお構いなく、「ウィー・アー・ザ・ワールド」では最もピッチの高いフレーズを歌いこなしている。

 

そのシンディの声量に押されてあおりを食ったのが続くキム・カーンズ81年のシングル「ベティ・デイヴィスの瞳」は年間チャート1位を記録するも、続くヒットが出せないでいた。元々ハスキーな声であるだけに、シンディの後というのはいかにも分が悪く、この人らしいといえばこの人らしいポジションであった。

大合唱の後に登場するは大御所ボブ・ディラン。ボブ初体験だった私は当時、彼の歌い方や声にとてつもない嫌悪感を感じたものだった。当時の彼はキリスト教に傾倒した作品を作り続けていたが、84年発表のアルバム「リアル・ライヴ」から再び徐々に時代性を取り戻していった。

 

さらに登場する大御所はレイ・チャールズ。ビリー・ジョエルをはじめ、信奉者が多く、既に伝説の人のような存在であった。独特の野太い声はさすが。フェイクぶりも見事で、スティーヴィー・ワンダーが誰を目標としていたかがよくわかる。そしてそのスティーヴィーがブルース・スプリングスティーンと掛け合いを演じ、ジェームス・イングラムがフェイクを聴かせて、大合唱の中この曲はフェイドアウトする。

レコーディング状況はバンドエイドと比べると、エゴもなくスムーズに進行したようである。しかしチャリティーの目的意識が薄れ、お祭り騒ぎのような浮いた雰囲気となったようである。それを一喝したのが誰あろう、イギリスから駈けつけたボブ・ゲルドフで、パーティー気分の中、スピーチを求められた彼は切々とアフリカの現状について話し始めた。スタジオはしんと静まり、涙を浮かべるアーティストもいた。これで締まったアーティストたちはレコーディングを続け、気合の入ったスプリングスティーン(眠気を押さえて何度も何度も歌ったようだ)のソロパートや懸命に練習するダリル・ホールの姿に触発されたこともあり、レコーディングは無事終了した。ダイアナ・ロスは感激のあまり床に座り込んで大粒の涙を流したそうである。

 

ヒットの状況

集まったメンツはバンドエイド以上に豪華であり、曲を作ったのがライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンである。売れないはずがない。アメリカ・イギリスをはじめ、世界各国で1位を記録した。グラミー賞3部門、MTVアウォードも獲得し、社会現象としても取り上げられた。

日本では原盤がコロンビア・レコードであったため、日本での配給元であるCBSソニー(現ソニー・ミュージック・エンターテイメント)から12インチシングルとして(B面はクィンシー・ジョーンズのインストナンバー「グレース」)発売された。バンドエイド同様、レコード会社、小売店、広告媒体まで無料で行ったが、バンドエイドと異なり輸入盤ではなく日本でプレスされたものだった。枚数も限定ではなかったため、バンドエイドよりも入手はしやすかった。

 

85年5月には、この曲を含むオムニバス・アルバムを発売し、これも当然のようにヒット(全英31位・全米1位)。収録曲は各アーティストの未発表曲やライヴ・ヴァージョンが収められた。収録曲は以下の通り。

-@ウィー・アー・ザ・ワールド(USAフォー・アフリカ)/ Aイフ・オンリー・フォー・ザ・モーメント・ガール(スティーヴ・ペリー)/ Bジャスト・ア・リトル・クローサー(ポインター・シスターズ)/ Cトラップト(ブルース・スプリングスティーン)/ B-@ティアーズ・アー・ノット・イナフ(ノーザン・ライツ) / A4・ザ・ティアーズ・イン・ユア・アイズ(プリンス&ザ・レヴォリューション)/ Bグッド・フォー・ナッシング(シカゴ)/ Cトータル・コントロール(ティナ・ターナー)/ Dア・リトル・モア・ラヴ(ケニー・ロジャース)/ Eトラブル・イン・パラダイス(ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース)

いかにもアウトテイクっぽい曲もある一方、A-CやB-Eのような優れたライヴや、A-BやB-Aのような質の高い未発表曲、さらにはカナダ版バンドエイドであるB-@も収録されており、当時のアメリカの音楽シーンが一望できる興味深いアルバムとなった。カナダ版バンドエイドであるノーザン・ライツの参加メンバーは以下の通り。

ブライアン・アダムス / キャロル・ベイカー / ヴェロニーク・ビリーヴォー / サロメ・ベイ / リオーナ・ロイド / ジョン・キャンディ / ロベルト・シャルボア / トム・コクレーン / ブルース・コックバーン / バートン・カミングス / ダルベロ / ゴードン・デップ / クロード・デュボア / ロビン・デューク / ドン・ゲラード / ブライアン・グッド / コリー・ハート / ロニー・ホーキンス / ダン・ヒル / マーク・ホルムス / トミー・ハンター / ポール・ハイド / マーサ・ジョンソン / マーク・ジョーダン / ユージン・レヴィ / ゴードン・ライトフット / バーロン・ロングフェロウ / リチャード・マニュエル / マレー・マクラクラン / フランク・ミルズ / ジェディ・リー / キム・ミッチェル / ジョニ・ミッチェル / アン・マレー / ブルース・マレー / アルド・ノヴァ / キャサリン・オハラ / オスカー・ピーターソン / コリーナ・フィリップス / キャロル・ポープ / マイク・レノ / ロレイン・セガート / ポール・ショーファー / グラハム・ショウ / リロイ・シブルス / ジェーン・シバリー / リバティ・シルヴァー / ウェイン・セント・ジョン / イアン・トーマス / シルヴィア・タイソン / シャロン・リー・ウィリアムス / ニール・ヤング / ザッパコスタ

残念ながら地元カナダで活躍するアーティストが多いらしく、日本で知名度の高いアーティストは少ないが、コリー・ハート、ゴードン・ライトフット、ジョニ・ミッチェル、アン・マレー、ラヴァーボーイのマイク・レノやニール・ヤングといった名前も見うけられる。作曲とプロデュースはデヴィッド・フォスター、作詞は当時「レックレス」で人気沸騰中のブライアン・アダムスとソングライティング・パートナーであるジム・ヴァランスが担当、美しいバラードに仕上がった。チャリティー・ブームはこれにとどまらず、西ドイツ版やへヴィメタル版(「スターズ」)も登場した。

 

楽曲としての評価と「チャリティー」というものの意味

当時の人気アーティストが集まって作った曲である以上、売れないはずはない。バンドエイドの場合、当時のイギリスのセールス記録を更新した。それまでがポール・マッカートニー&ウイングスの「夢の旅人」(77年)だったが、さらにその前はビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」(63年)で、またしてもバンドエイドとしてポール絡みの作品が記録を更新したことになる。USAフォー・アフリカも当時のビルボードの集計からいけば異例ともいえるハイ・ポジションからの初登場を記録し、3週目にして1位を獲得した(当時ではまったく異例といえる)。

そうなると問題は曲自体の出来である。当時も今もUSAフォー・アフリカよりもバンドエイドの方が評価が高い。これは「ウィー・アー・ザ・ワールド」という陳腐なタイトルや歌詞(おそらくはマイケルが担当)、そしてあまりに定型的なメロディー(おそらくはライオネルが担当)のために面白みが薄いせいだと思われる。またソロパートがあまりに多く、コーラスが延々と続くところに冗長さを感じさせる点も評価が低い理由であったろう。それでも決して悪くはない曲であるし、普遍的な内容の歌詞、そして何よりも圧倒的なコーラスはやはり名曲と呼んでよいと思う。

そういう意味ではバンドエイドはタイミングが良かったのであろう。USAフォー・アフリカがどんなに素晴らしくてもそれは「二番煎じ」の謗りは免れないであろうし、楽曲にしても「クリスマス」を題材にとっているだけに分かりやすさ、親しみやすさが備わっている。徐々に盛り上がって最後はあっさりとコーラスで終える潔さも良かった。

さて日本では面白い論争が一部であった。それはバンドエイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の歌詞をめぐる論争である。この曲の歌詞にはこういう一節がある。

でも祈ろう他の人のために / クリスマスの季節それは難しいことだけれど / 自分が楽しんでいる時でも窓の外には別の世界が /不安と恐怖でいっぱいの世界があるのだから / そしてそこに流れる唯一の水は身を切るような涙のみ / そしてその地に鳴るクリスマスの鐘は悲惨な運命の響き / そう、それが自分ではなく彼らであったことを神に感謝しよう

問題は最後のフレーズである。「彼ら」とはすなわちアフリカの人々であり、この個所は「あぁ、苦しんでいるのが我々じゃなくて、あいつら(=アフリカの人々)でよかった」という意味に取れ、植民地的思想である、という批判があったのである。この部分だけを読むと確かにそのように取れるが、キリスト教国であるイギリス人の思想からいけば、恐らくは免罪符的な意味合いをこの部分に持たせているのであろう。この部分の元の歌詞は"Well tonight thank God it's them instead of you"であり、「我々の代わりに彼らが酷い目に遭っているのだ、そのことに神に感謝せねばならない」、だから「彼らのために我々は祈らねばならない」という最初のフレーズにたどり着くことになる、と解釈すべきであろう。事実、他の国ではこういう論争は起こらず、日本だからこそ起こったトピックである。

「チャリティ」という言葉は日本ではとかく美化され、誤解を呼びやすい言葉である。それはわが国の歴史(敗戦国)や文化(無宗教)に由来するものであろうが、「チャリティ」の名のもとに何でも許されるような風潮がある。「チャリティ」には人の生き死にが関わる以上、本来過大な負荷が個人にかかるものであり、自己責任の意識が薄い日本にはなじまない(これは批判ではない。かわりに日本にはコミュニティの中での相互扶助の精神がある)ものである。さらに言えば「チャリティ」の本質は「金で慈善を買うこと」であり、これは決して美化されるような行動ではない。むしろある種の後ろめたさを感じながら行動するものである。だからこそそれを覚悟して行動したボブ・ゲルドフは称えられるのである。このアイロニーを理解しない限り、日本で行われるあらゆる「チャリティ」なるものは薄っぺらなものになるだろう(某TV局におけるチャリティ番組に妙な自意識や自分たちの正当性の押し付けを感じるのはそういう理由である)。

 

さて、このヒットでチャリティ熱は収まるどころか、さらに一大ムーヴメントを起こすことになる。それがあの伝説のイベント、「ライヴ・エイド」である。80年代を生きた人間として、これらは忘れられぬ一連の出来事であった。

 

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