EPISODE

 

ライヴ・エイドへの道

バンド・エイド、USAフォー・アフリカと広がったエチオピア救済の動きがどういう成果をもたらしたかをざっとおさらいしてみよう。

ボブ・ゲルドフはバンド・エイドの後、すぐに「バンド・エイド・トラスト」を登録し、管財人グループを結成した。メンバーは弁護士のジョン・ケネディ、プロモーターのハービー・ゴールドスミス、CBSレコード社長のモーリス・オバースタイン、BBCの番組担当重役ミッチェル・グレイド、劇場マネジャーのクリス・モリソン、そしてボブとミッジ・ユーロである。「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が初チャート・インで全英1位を取ったクリスマスまでには既にバンド・エイド・トラストの運営体制は整っていたという。

これにボランティア・メンバーや建築家、人類学者、会計士、貿易コンサルタント、広告代理店重役、土木技師、ジャーナリスト、レストラン経営者など、あらゆる分野の専門家も参加し、ミーティングを実施した。エチオピア在住の各関係団体と連絡を取り、今何が緊急に必要かを検討し、その後委員会を結成しイギリス国内の慈善団体と接触を図り、以来3艘の輸送船が操業中のほか、飛行機による緊急輸送は7回、計数百万ポンドの食糧や衣料品が届けられている。またイギリスおよびヨーロッパの慈善団体の救援物資、数千トンを輸送するための費用もバンドエイドがサポートしたという。

このように徹底した運営体制を取った理由は、かつて音楽界が開催してきた様々なチャリティ・イベントが会計上ウヤムヤにされてきたことがあるだろう。古くはボブ・ディランやジョージ・ハリスンらが参加したバングラデシュ・コンサート、ウイングスやエルビス・コステロ、プリテンダーズらが参加したカンボジア救援コンサートなど、後のライヴ・レコードの権利で揉めたり、金の使途が不明になったり、あるいは救援物資が軍部で止まったり、最悪の場合義援金が軍用武器に使われたりということまであった。ボブ自身もともと政治的意識の高い人間であり、それまでもチャリティには積極的であったが、自身が運営するにあたって、これほどまでに入れこんできちんと体制を整えたことはもっと評価されるべきであろう。

そして85年6月10日、ボブは「私たちは数百万人の人が何とか生きながらえる手助けをしてきた。今、私たちが彼らにもっと生き生きとした生命を与えなければならない」という声明とともにライヴ・エイドの構想を発表した。その結果、7月13日12時(イギリス時間)からスタートしたライヴ・エイドとなり、84年のロスアンジェルス・オリンピック以上の規模で衛星中継(通信衛星14個を使用)を行い、同時生中継が84カ国、VTR放映を含めると140カ国、計20億人がライヴ・エイドを体験したことになる。

 

イギリス・ステージ

イギリス国内でのライヴ・エイドに対する関心の高さは日本とは比較にならないほど高かったようである。1週間ほど前からテレビやラジオのニュースでミュージシャンや著名人のコメントを放映したり、会場設営のレポートを行ったりと、国家行事となっていた。

新聞でもこの計画発表の記者会見翌日の6月11日からは毎日紙上にライブ・エイド関連の記事が必ず掲載された。「ビートルズ再編か?」という記事が踊ったのもこの頃で、ジョンの替わりにジュリアンが入るなどと噂があった。

コンサート当日、ロンドンはウェンブリー・スタジアムに約8万人の観衆が詰め掛け、その周りにも入れなかった人々が集まっていたという。ちなみにチケットはアリーナ席が25ポンド(当時で約8250円)で、一般売りされたのはこの立見席だけだったが、発売後5分間でソールドアウトとなった。他にはロイヤルシート、豪華ディナーがついて250ポンド(約82500円)までの5段階に分かれており、100ポンド以上の席には他のアーティストの演奏を見ようと多くのアーティスト、著名人が数多く見うけられたそう。

ステージは円形で回転式となっており、120度ずつの3面に区切られた1面が観客席に相対し、他の2面が舞台裏となって楽器などのセッティングをするようになっていた。おかげで一部バランスが悪かったり、ボーカルが出なかったりというトラブルがあったりが、概ね円滑な進行がなされたようである。

オープニングを飾ったのはイギリスの英雄、ブギの王者、ステイタス・クォー。最高の始まりとなった。ちなみにボブ率いるブームタウン・ラッツは3番目、ミッジのウルトラヴォックスは4番目と早い出番で登場した。盛り上がったのはクィーン、そしてトリを飾ったポール・マッカートニー。そしてフィナーレは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」で、会場全体が大合唱の輪となった。

 

アメリカ・ステージ

アメリカ国内も7月に入ってから話題はライヴ・エイドでもちきりだったらしい。9万枚のチケットは4時間でソールドアウト、マスコミは連日のように「ソビエトのバンドがサテライトで参加」「ジャック・ニコルソン(!)がアメリカ側の司会に決定」などのニュースを流し、期待を高めていった。ライブ・エイドを形容する文句も「80年代のウッドストック」から「グローバル・ジューク・ボックス」「ロック史上最大のコンサート」となった。この文句はいまだに通用し、ライヴ・エイドを超える大規模なイベントは現在までない。

コンサート当日、フィラデルフィアのJ.F.ケネディ・スタジアムに10万人以上を集めて開催された。好天にも恵まれ、気温は30度を越すほどであったため、客席への放水では間に合わず、ガードマンがペットボトルに水をつめ、次々に客席へ放り込んだ。アリーナでたちっぱなしの人はそのボトルの水を飲んだりかぶったりして、水が残っていればさらに奥の人へ投げて渡し、空になったらまたステージへ投げ返し、ガードマンが拾ってまた水を詰めなおすといった状況であった。チケットは35ドルから、Tシャツは15ドル、プログラムは10ドルと比較的リーズナブル。

オープニングはなんとジョーン・バエズのアカペラ(!)。ある意味実にアメリカらしい始まりとなった。盛り上がったのはレッド・ツェッペリンの再結成。ジョン・ボーナムの替わりにはシックのトニー・トンプソン(当時パワー・ステーションでも活躍)、そしてイギリスでも登場したフィル・コリンズがコンコルドで駆けつけて参加した。さらにミック・ジャガーとティナ・ターナーのダイナミックなデュエット、デヴィッド・ラフィンとエディ・ケンドリックスというテンプテーションズ勢にホール&オーツが加わった楽しいステージ、その後も前述のミックとティナのバックを務める協力ぶりも好評だった。逆に不評だったのはバック・ステージでスーパースターを気取っていたといわれるマドンナ、「みすぼらしい」と評されたボブ・ディラン、「犬にしか楽しめない悲痛のハーモニー」と散々なレビューだったCSN&Yなど。

噂されたブルース・スプリングスティーン、マイケル・ジャクソンの飛び入りはなかったが、ステージ自体は盛り上がり、フィナーレの「ウィ・アー・ザ・ワールド」もイギリス同様大合唱となった。

アメリカではテレビ・ラジオ合わせて107局で放送され、MTVではオーストラリアのライヴ・エイドで幕を開け、終了までの20時間以上を放送した。独立TV系はベッド・ミドラー、シーナ・イーストン、ケニー・ロギンズなどの多彩な司会陣を使って11時間をカバーした。

なお、英米それぞれのステージ、参加アーティストについてはD♂kaさんのサイト「SOUL DEEP」に詳しい。本サイト版のステージ・リストはここを参照。またここまでのテキストの内容は85年の「FMfan」誌No17号を参照(というよりほとんど写している)しており、イギリスについては保科好宏氏、アメリカは佐々木ちさと氏のレポートに依拠している。

 

日本での状況

これについては既に伝説的なエピソード(悪い意味で)になっているので、同じく「FMfan」誌の相倉久人氏の記事をそのまま転載したいと思う。当時の洋楽ファンの怒りをまさに代弁する内容である。

ズタズタのライヴ放送に怒り

ライヴ・エイド15時間放映にたいする日本側(ことにTV局側)の対応のわるさというか、ひどさについては、既に言い尽されている。だから、このことにはあまり触れたくないのだが、かといってそこを回避していたのでは話が始まらない。

なによりあきれたのは、ロンドンとフィラデルフィアでリアルタイム(実際には1時間の時差があったそうだが)に進行している二つのコンサートが織りなす対位法的な時間の流れを無視して、深夜のワイド番組そのままのこまぎれ構成をやってのけた演出の無神経さである。それが見ている人間をいらだたせたかは、放映開始と同時に殺到した抗議の電話の数にも出ている。

フジTVは先にも東京国際映画祭のレセプション・パーティでも、同じ過ちを犯しており、国際的な規模のプロジェクトに、これで二度もたてつづけにミソをつけた勘定である。

だいたいこの手のライヴ・プロジェクトの司会進行に複数のキャスターを置くこと自体、いかにも日本的なやり方である。かてて加えて、入れかわり立ちかわりゲストがあらわれる、ゴチャゴチャしゃべりあう、ときているのだからたまらない。通信衛星を14も使っての多元中継という、ただでさえ流れにのりにくい番組の進行が、おかげでズタズタになってしまった。視聴者が見たいのは、プロジェクトに参加したミュージシャンたちのライヴ・ステージであって、説明や能書きではないということ。そんなことが分からないマスコミ体質の無神経さに、腹をたてなかった視聴者はいなかったはずだ。

おかげで、わざわざスタジオまで出向いてきて間接的な参加を表明した日本側アーティストたちは、大いに割をくった。ただでさえコンサートの盛り上がりを共有しえていないひけめを、ウダウダしたしゃべりで糊塗しているような印象を視聴者に与える結果につながったからである。(以後略)

少し補足をすれば、この時間の流れを無視した演出によって、日本では見られなかったアーティストが数多く存在する。当時日本でも人気のあったスパンダー・バレエ、ハワード・ジョーンズ、シャーディ、ニック・カーショウ、トム・ぺティ、カーズなどがまるまるカットされた。ちなみに日本からVTR参加し世界に紹介されたのはラウドネス、オフコース、矢沢永吉、佐野元春の4組。スタジオでは忌野清志郎らが演奏した。

 

ライヴ・エイドの影響

「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の売上800万ポンド(約27億円!)から85年6月までに10台のトラック、22台のランドクルーザー、18台の給水車、50の医療用テント、150トンの栄養ビスケット、1375トンの粉ミルク、52トンの医療品、510トンの野菜オイル、470トンの砂糖、1000トンの穀物、10トンの調理器具と食器などが届けられた。そしてライヴ・エイドによって得られた収益は全世界で1億4000万ドル(約350億円!!)を集め、灌漑設備や井戸の設置などの多目的に使われたようである。このうち当時不況であったイギリスだけでも募金で50億円以上を集めており、その後もマスコミで克明に報告されていった。

一方日本ではバリバリの経済好調期だったにも拘わらず、放映権を合わせても3億円程度しか集まらなかったようである。企業などからの大口寄付がなかったことも理由であるが、一番の理由は先に触れたテレビ放映のひどさのためではなかっただろうか。

以後、チャリティーによるイベントが次々と開催され、ディランが中心となった「ファーム・エイド」なども開催された。

 

ライブ・エイドのこぼれ話

ライヴ・エイドの盛り上がりには、それまでのマスコミによる報道の影響が強いが、中でも人々をひきつけたのは再結成絡みの話である。

実際に再結成したのはブラック・サバス(再結成というよりオジー・オズボーンの再参加)、3年ぶりに再結成したザ・フー、土壇場で参加が決まったレッド・ツェッペリン、14年ぶりのCSN&Yである。また先に触れたようにビートルズの再結成話も頻繁に登場した。もとはジュリアン・レノンがスティング、フィル・コリンズと共演する予定で、ポールの参加も決まっていたためジョージとリンゴも駆けつけるという話だったが、当のジュリアンがキャンセルしてしまい、幻に終わっている。

また出演予定だったはずがキャンセルとなったのはティアーズ・フォー・フィアーズ。ツアー・メンバーの脱退のためだった。ロッド・スチュワートもなぜかキャンセル。数日前から噂になっていたマイケル・ジャクソンとスティービー・ワンダーもデュエットするという噂もあったが、フィラデルフィア入り、会場に向かったという未確認情報を最後に実現しなかった。

電波ジャックという現象もあった。ライヴ・エイドが始まって2〜3時間後、日本ではカットされたがドイツからの中継の際、政治的メッセージが流された。詳しい内容は不明だが、ライヴ・エイドの主旨とは外れた政治的メッセージの発表ということでイギリスでは非難轟々だったようだ。

日本側のビデオの評判についても評判が悪かったよう。理由としてはあまりにPV的な作りでライヴエイドの主旨に沿ったメッセージも何もなかったため、「日本はライヴ・エイドの場を借りて、世界へのショーケースとして電波を利用した」と批判する人が多かったようだ。

ビデオといえばイギリスでは会場で初公開されたミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」が大好評。オリジナルはマーサ&ザ・ヴァンデラスの64年の大ヒットだが、踊りまくり歌いまくる二人のエンターテイナーぶりが印象的だった。一方アメリカでは出演できなかったプリンスがビデオ参加。アルバム「ウィー・アー・ザ・ワールド」でも収録された「フォー・ザ・ティアーズ・イン・ユア・アイズ」が流され、これも高い評価を得た。

 

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