鈴鹿市の史跡

長太(なご)の大楠

鈴鹿市南長太町285     

樹齢千年とも伝わる巨木で、根元に 「式内大木神社」 の石碑が建っています。
この大楠そのものが神社として護持されたと考えられ、県の天然記念物に指定されています。

 

伊勢国府跡

鈴鹿市広瀬町     

広瀬町の長者屋敷遺跡の調査の結果、政庁や官衙の遺構が確認され、
奈良時代中期から後期にかけての伊勢国府跡であることが明らかになりました。

しかし国府は未完成で、何故利用されなくなったのかは不明です。
鈴鹿川をはさんで南に位置する国府町には、奈良時代〜平安時代の、
国府が存在したはずですが、まだ見つかっていません。

 

国府跡の案内板があるところは、樹木が間引き伐採され、
下草も刈られて整えられていますが、遺構は見られません。

詳しくは、鈴鹿市考古博物館 「国史跡 伊勢国府跡」 をご覧ください。


伊勢国分寺跡

鈴鹿市国分町     

国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院です。
昭和63年から平成17年にかけて、伽藍などの確認調査が行われ、
現在は歴史公園としての整備が行われています。

国分寺の東側に国分尼寺もありましたが、こちらは住宅地になっています。
この地域の中に 「國分寺」 があります。

 
           国分寺跡                       国分尼寺跡方向

詳しくは、鈴鹿市考古博物館 「国史跡 伊勢国分寺跡」 をご覧ください。

鈴鹿市考古博物館は、伊勢国分寺跡にあり、館内には鈴鹿市で発掘された、
見事な埴輪、石器、銅鐸などが豊富に展示されています。

また、駐車場のトイレ付近が 「狐塚遺跡」 で河曲郡正倉跡と考えられています。


南浦(大鹿)廃寺

鈴鹿市国分町     

伊勢国分寺跡の南東600mに位置します。
長らく国分尼寺跡と考えられてきましたが、発掘調査の結果出土した瓦が、
国分寺建立の時期をさかのぼる白鳳期の瓦であったため、尼寺ではなく白鳳寺院であることが判明しました。
この地には古代豪族の大鹿氏が存在していることから、大鹿氏の氏寺ではないかと考えられています。

 


富士山1号墳

鈴鹿市国分町     

全長50m,後円部径30m,高さ6mの前方後円墳です。
竹やぶが墳丘全体を覆っていますので、見づらいです。

 

 
            前方部                          後円部


大鹿山1号墳

鈴鹿市国分町     

県道8号の国分町南交差点の、一本北のウッディクラフト前の三叉路を東へ曲がり、
道なりに下って行くと水田があり、その東の藪が直径35m、高さ5.5mの円墳です。

 


木田城跡

鈴鹿市木田町     

大鹿廃寺の南約400mに位置し、農道沿いに曲輪があり空堀と土塁が見られます。

 
            遠 景                          空 堀
 
            土 塁                          曲 輪

城主は山路弾正の一族といわれ、山路弾正は神戸城主神戸友盛の家臣で、
高岡城主と伝わりますが、その他の詳細は不明です。


大谷古墳

鈴鹿市木田町     

若宮八幡神社の境内が古墳です。
もともとは、全長43m、高さ5.3mの前方後円墳であったといわれていますが、
現在は、後円部のみとなり社殿の裏の祠の前に石室の石材が残されています。

 


神戸城跡

鈴鹿市神戸本多町

神戸城跡は公園として整備され、三重県の史跡に指定されています。
堀の一部、土塁、石垣が見れます。

 
          現地案内板                       本丸の土塁
 
          本丸石積                          天主台

天文19年(1550年)神戸具盛によって築かれました。
神戸信孝時代に五重の天守閣が聳えていましたが、文禄4年(1595年)に桑名城に移築され神戸櫓となりました。
明治8年に城は解体され、本丸と天守台の石積などが残されました。
大手門は、四日市市西日野町の顕正寺に、太鼓櫓は鈴鹿市東玉垣町の蓮花寺に移されました。

 
       桑名城神戸櫓跡説明板                    神戸櫓跡
 
          顕正寺 移設門                      立葵紋
 
          蓮花寺 太鼓櫓                    太鼓櫓の中

蓮花寺の太鼓櫓の中を見せてもらいましたが、鐘が吊るされて鐘楼となっていました。
どちらの軒丸瓦にも、本多家の家紋である立葵紋が入っています。


高岡城跡

鈴鹿市高岡町     

神戸城主神戸友盛の家老・山路弾正が城主だった頃の永禄10年(1567年)初秋、織田信長が大軍を率いて攻めてきたが防いだ。
翌年2月、再度攻めてきたものの、これにも屈しなかったため、信長は三男の信孝の養子を条件に和睦した。

元亀2年(1571)正月、信長が友盛へ隠居を命じた。
主君友盛への謀反を企んでいた山路弾正は不意を襲われ自害に追い込まれた。
その後、信孝血縁の小島兵部が城主となった。

 

現在は、城山の南東部が高岡城跡公園になっていて、車で公園まで登れますが、
道が狭いので対向車が来ないことを祈りましょう。

 
            北の曲輪                        土 塁

駐車場の北へ続く山道があり、高岡神社の裏山まで遺構があります。
削平された竹林は、かなり広いので全てが当時の曲輪かどうかは判りません。

 
          西の空堀                        物見跡かな?

駐車場へ来た道を歩いて戻ると、左手に空堀、物見跡らしきところがあります。


寺田山1号墳

鈴鹿市高岡町     

鈴鹿川に架かる水道橋が高岡町の丘陵に突き刺さって見えます。
そこを通る道を登っていくと、突当りの右側に倉庫が建っています。
その左手前の農道を歩いて進むと 「寺田山一号古墳」 の碑が立っています。

 
          ここを左へ                        奥が墳丘

全長70m,後円部の直径が40m,高さ7mと市内最大の前方後円墳で、
農道が墳丘に沿っています。

現地は割と整えられていますので、墳の形状はよく分かりますが、
写真では上手く伝わりません

 
            前方部                          後円部


高山土公神陵

鈴鹿市山本町 椿大神社

椿大神社自体が史跡ですが、境内に高山土公神陵とよばれる、前方後円墳があります。
時代背景は全然合いませんが、祭神・猿田彦大神の墳墓といわれています。

 

神域のため発掘調査はされていません。


小岐須(おぎす)城跡

鈴鹿市小岐須町     

関盛信の弟、小岐須盛光が永禄年間(1558〜70年)に居城、
天正12年(1584年)羽柴秀吉により滅ぼされました。

 
         遍照寺の枝垂桜                     西側の土塁
 
         土塁上から北方                       空 堀

遍照寺と、その周辺が縄張りで、寺の西側に土塁が残り、
北西約100m位の藪に薄っすらとした空堀が見受けられます。
私が訪れたときには、遍照寺の枝垂桜が身頃でした。


山本城跡

鈴鹿市山本町     

小岐須城跡から県道11号を北東へ約1.4Km先、西側に西岸寺が有ります。
この寺の北の丘陵が山本城跡です。

戦国時代(16世紀)、この丘陵地には山本氏の居城する山本城があった。
しかし、16世紀の末、城は織田方と秀吉方の戦乱で焼失した。
今も土塁、石垣、井戸の跡が残る。
なお、山本氏は四日市鵜の森の浜田城主の系累といわれている。(現地案内板より)

 
           東 面                           北 面
 
            井 戸                          西の曲輪
 
         西の曲輪の土塁                       空 堀
 
          中央の曲輪                        東の曲輪

丘陵の北側の空き地から、簡単に城域に入れます。
入ってすぐ西側の低いところに井戸があり、水を湛えています。
三つの曲輪があり、土塁も空堀もしっかりしています。
竹林のため、見通しがきき遺構がよく分かります。


石丸野1号墳

鈴鹿市平野町     

本田技研工業工場の正門西側の公園内に有ります。
もともとは、全長47mあまりの前方後円墳であったとされますが、
前方部を失って径25m、高さ4mの円墳状になっています。

 

 

ここを訪れた時には、ちょうど発掘調査を行っている途中でした。

<2015.05.10 追記>

昨日、鈴鹿市考古博物館において 「発掘された鈴鹿2014 スライド説明会」 が行われ、
石丸野1号墳の発掘調査の結果が報告されました。

残念ながら、大規模に盗掘されており副葬品も出土せず、史跡としての保存は難しいとのことでした。


国府城跡

鈴鹿市国府町     

正平22年(1367年)、関実治次男盛門が国府氏を名乗り城主となりました。
国府氏は8代続き、天正12年(1584年)秀吉に攻撃され滅びました。
その後は亀山城主が支配して明治2年まで続きました。

 

私が訪れたときには、土塁を壊して整地をしている最中でしたので、
近日中に無くなるかもしれません。


保子里古墳群

鈴鹿市国府町     

保子里古墳群は、鈴鹿回生総合病院の周辺にあります。

保子里1号墳

 

鈴鹿回生総合病院の駐車場にあり、双円墳という直径20m前後の円墳がくっついた形をしていて周壕も残ります。

保子里2号墳

 

同じく駐車場内の1号墳の西側にある全長23mの前方後円墳です。

保子里5号墳

 

病院への進入道路沿いにある方墳です。


王塚古墳

鈴鹿市国府町     

王塚古墳は、西ノ野古墳群に属す前方後円墳で、全長62m、後円部径37m、高さ6m、
前方部幅47mで周濠が掘られ外側には土塁が築かれています。

 

 
      後円部から前方部を望む                   後円中央

航空写真なら、この形状がよく分かると思いますが、地上からでは上手く写りません。
現在は、綺麗に整備されていますが盗掘され副葬品は出ていません。

西ノ野古墳群の2号墳は王塚古墳のすぐ脇にあり、5〜10号墳は王塚古墳の南に固まっていて、
11号墳は、ここから東約500m先と離れています。

4号墳と13〜16号墳の5基は王塚古墳の北200〜350mくらいの所で発掘調査がされていますが、
現地で見つけることが出来ませんでした。
また、12号墳の消息も調べましたが判りませんでした。

   


 
             2号墳                         5号墳

 
             6号墳                          7号墳
 
             8号墳                          9号墳
 
            10号墳                          11号墳


北町古墳

鈴鹿市石薬師町     

六世紀頃の前方後円墳で、もとは全長20m以上のものと思われる。
後円部は道路建設のため削られ、その他の部分も土取りなどで崩れたと思われる。

現在残存長13m、後円径7m、高さ2.3mである。
後円部の石棺が開いており比較的平らな花崗岩で組み合わされているのがわかる。
東が正面である。                       石薬師魅力再発見委員会

 


南町古墳
鈴鹿市石薬師町     

北町古墳の南約500m先の山ノ神社が古墳です。
西側に墓地の駐車場があり、その前から畑の中を通ります。

六世紀頃の前方後円墳で、全長50m、高さ6.5m通称 「陶古山」 という。
大正三年、沢庵漬の石にしようと掘り出したところ古墳と判明した。
(中略)
前面の二つの石は石室の袖石で、山ノ神の石は石室の奥壁である。
                            石薬師魅力再発見委員会

 
       説明板後が墳丘の残骸                前2個袖石 奥に奥壁


白鳥塚古墳

鈴鹿市加佐登町     

三重県指定史跡 白鳥塚古墳 昭和12年11月10日指定 平成18年3月17日追加指定

この古墳は古くから日本武尊の墓との言い伝えがあり、尊が葬られた後に白鳥となり、
飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれている。

かつて県内最大の円墳とされていたが、近年の発掘調査の結果、
東側に造出しを持つ帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。

墳丘長は78mで、円丘部の径67m、高さ9m、方丘部の長さ16.4m、幅27.0mである。
円丘部は高さ1.5m、径77mの基檀上に二段に築成されており、葺石・埴輪を有する。

方丘部は丘陵を幅8mの溝で区画することにより形作られている。
埴輪には円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、壷・蓋・盾形の形象埴輪があり、
その型式から5世紀前半に築造されたとみられる。
鈴鹿川流域を支配した首長の墳墓である。          平成21年3月 鈴鹿市

 

白鳥塚古墳は、日本武尊を祭神とする加佐登神社の北西にあります。
加佐登神社には、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖が、
ご神体として祀られ、本殿横にずんぐりむっくりな尊の像が建っています。

 
          加佐登神社                        日本武尊


双児塚古墳群

鈴鹿市長沢町     

ここには、3基の円墳がありますが、まともなのは径17mの1号墳だけです。

 

 

1号墳の東に石室が開口していて、横穴式石室が覗けます。


武備塚古墳

鈴鹿市長沢町     

長瀬神社の本殿裏に径25mの 「武備塚」 と呼ばれる円墳があります。
江戸時代に亀山藩が日本武尊の陵と定めました。
明治12年、当時の内務省により亀山市の能褒野王塚古墳が尊の陵墓と治定され現在にいたります。

 
           長瀬神社                    日本武尊御陵道の碑
 
            武備塚                          車 塚

また 境内の奥に 「車塚」 という古墳があり、
日本武尊の最後の御歌が刻まれています。

 波師祁也師 和宜敝能加多由 丘茂韋太致久母
 ( はしけやし わぎへのかたゆ くもいたちくも )

口語訳: ああなつかしや 我が故郷の方から あれ あのように雲がやってくる


舟塚古墳

鈴鹿市上野町     

鈴鹿クリーンセンターの裏にテニスコートがあり、その駐車場から東の公園内にあります。

六世紀頃の直径約15m、高さ約2mの円墳で、周りに巾1.5mの濠が掘りめぐらされていました。
この古墳は公園を整備するにあたり、復元されたものですので外観が良すぎます。

 


若宮古墳

鈴鹿市上野町     

船塚古墳から北西約500mの、若宮八幡神社跡に残る円墳ですが、
かなり削平され、「古墳跡」 という感じです。

 
          円墳ですが・・・                   若宮八幡神社舊趾の碑


高神山観音寺 (真言宗御室派)

鈴鹿市高塚町     

この寺の裏山で起った任侠同士の縄張り争いが 「血煙荒神山」 として浪曲などで広められ、
高神山よりも、荒神山の名で知られるようになりました。

この寺は弘法大師が、日本武尊の神霊を仏像として祀り、神事山(こうじやま)と称したのがはじまりで、
寛治元年(1087年)に、大和の国の法陵律師が堂宇を建立し、十一面観音菩薩を安置したのが創建とされます。

中世に衰退しましたが、寛永10年(1633年)春日局の援助により再興しました。
また、春日局が提案した高神山の祭が、のちに荒神山の喧嘩の要因となりました。

元禄4年(1691年)に高野山の末寺となり、高神山へと改称しました。

    
          春日局

春日局は、天正7年(1579年)生まれで、三代将軍家光の乳母として知られます。
順海上人という異父母の弟は、寛永10年(1633年)伊勢参詣をする途中で眼病を患い目が見えなくなりました。

伊勢大神宮に目が見えるように願いをかけた処、神事山の十一面観音菩薩像を祈願するように告げられました。
順海上人は、神事山を参拝したところ、7日目に眼病が治り目が見えるようになりました。

このことを聞いた春日局は大変喜び、正保4年(1647年)に梵鐘と5体の仏像を寄進しました。
また、奥の院の三宝荒神は春日局と順海上人が礼祭したものです。

 
                                        春日局歌碑
鐘楼の横の春日局歌碑に、こう刻まれています。

 「さと遠き かうじが山乃紅葉に 観音大悲 ひかりとどまる」

春日局は、高神山が人里をはなれて寂しい場所にあることを気にかけ、
順海上人の目が治った4月7日〜8日に、祭を行うことを提案しました。

これを期に、祭の日には大勢の博徒が寺近辺に集まり、博打をするようになりました。
賭博場となる寺には、場所代が支払われ、このことから 「寺銭」 というようになったそうです。


荒神山の喧嘩

この地は、もともと神戸の長吉の縄張りでしたが、長吉が他国に出ている間に、
賭博で得る利益が大きいことに目を付けた、桑名の穴太徳の手に渡ったため、
これを奪回すべく、慶応2年(1866年)4月8日に争いが行われました。

人数では大きく劣る神戸の長吉勢でしたが、穴太徳勢を崩し退散させました。
しかし、長吉勢に加勢に来ていた吉良の仁吉(清水次郎長一家)は銃弾を受け、
四日市に運ばれる途中に息絶えました。

この時に放たれた、もう一発の弾の跡とされる穴が、高神山の鐘楼の柱に残ります。

 
           鉄砲弾の痕                      吉良仁吉之碑

吉良の仁吉が殺されたことを知った清水次郎長は、大挙して仕返しにやって来ましたが、
穴太徳が謝罪して、事なきを得ました。

二代目広沢虎三は、浪曲 「血煙荒神山」 の中で、吉良の仁吉は喧嘩が始まる3ヶ月前に、
穴太徳の妹、お菊と結婚したばかりでしたが、長吉への助太刀のためにお菊を離縁し、
出入りに駆けつけたという設定にしましたが、これは作り話です。

高神山の境内に、広沢虎造が建立した 「吉良仁吉之碑」 があります。



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