ボウリングの歴史2について
本ページは 日本ボウリング場協会の歴史を参照しております

尚 2007年7月7日時点の更新となっております
今後 ボウリングの本当の歴史を勉強し、正しい情報をお伝えしていく所存でおります

ボウリングの歴史
 
  B.C.3000〜5000 A.C.12〜15 A.C.16〜17 1861.6.22 1869〜 1916〜 1952〜  
古代のボウリング(A.C.12〜15)
ファミリーボウリングのパイオニア マルチン・ルター
14世紀頃の上流家庭 ヘンリー8世は宮殿の中に特設レーンを作り熱中した

中世のイギリスでは、芝生の上に置いたボールめがけてボールを投げ、当たるか一番近かった者が勝ちとする「ローンボウルズ」が流行し、このボウルズが今の「ボウリング」の語源になったようです。またドイツでは、ケーゲルシュービル(棍棒倒し)というゲームが僧院で流行しました。当時は単純なゲームであったり、宗教的な儀式でしたが、宗教改革で有名なマルティン・ルターが9本のピンをダイヤ型に並べるナインピンズ・ボウリングを考え出してから、スポーツ的要素を帯びつつ、ヨーロッパ中に広がってゆくのです。

     
 
参考資料:日本ボウリング振興協議会発行 The Bowling 写真で見るボウリング
 
     
 
日本ボウリング資料館
日本ボウリング史料館はおもに、【History・Bowler・Collection・Bowl-O-Rama】の4つのコーナーから構成されています。このほかにも、国内外の書籍や雑誌、ビデオライブラリ等があります。








今から7200年(紀元前5200年前)と推定されるエジプトの古墳から、ボウリングの原型と思われる石製のボールとピン、それに大理石で作られたゲートが発見されています。 19世紀、イギリスの考古学者、サー・フリンダース・ペトリ教授によるものでした。現在「ロンドン博物館」に展示保存されています。

ペトリ教授はその著「エジプトの発展」の中で、「その用具は床の上で行い、3本の大理石のゲートをくぐらせ、石柱を倒すゲームであることは、最古のボウリングの原型」と述べ、世界から注目を集めました。

一方、サンディエゴ博物館のコルコム・ロジャース博士は、南太平洋ポリネシアにもボウリングによく似た遊びが原住民の間に伝わっていると発表しました。「コーラマイカ」と呼ばれるもので、18メートル離れたところから楕円形の球で直径8センチの石製の円盤に当てるというもの。数千年前から伝わっているものと考えられています。


ボウリングの発祥は古代エジプト


中世ドイツのボウリングを奨励したポスター


中世後半、12世紀にはいるとヨーロッパではさまざまなかたちでボウリングが広がっていきます。中でもドイツではキリスト教徒達の信仰の深さをはかるセレモニーとして行われていました。

異教徒にみたてたピンにボールを当て、うまく倒れたら信仰心が厚い人間。逆に倒れなければ信仰心の足りない異端者。と決め付けられたのです。

ボウリングのゲームのことは“ケグリング(kgling)”と呼ばれ、ゲームに勝った僧には「ケグラー」の称号が与えられ、これを祝う晩餐会が盛大に開かれたといいます。やがてこのケグリングは1個のボールでピンをどれだけ倒せるかを競う遊びとして、庶民の間でも人気を博しました。


ナインピンボウリングの原型ともいえるゲームとして“スキットルズ(Skittles)”が中世ヨーロッパで盛んに行われました。このゲームの特徴はひし形の板の上に並べられたピンを、重さ4〜7キログラムのボールで打ち倒すというもの。

ピンの数は9本であったり、8本であったりと、まちまちでした。ゲームのやり方には2種類あり、ひとつはピンから6メートル30センチはなれたところから、ころがす方法。もうひとつは、ピンが置かれている枠の線上からボールを軽く投げる方法です。

レーンも最初は屋外で、粘土や灰を敷き詰めた床であったのが、屋根が付き、木材を削って敷いたレーンを使用するなど、少しずつ変化していったようです。


英国の上流家庭ではスキットルズが流行


1366年、イギリスのエドワード3世は「ボウリングの流行は、国民の士気に重要な役割を果たしている弓術の練習をなおざりにするものである。」と批判。これを受け、議会は「ボウリング禁止令」を布告しました。


自宅で子供たちとボウリングを楽しむルター

しかし、ささやかな楽しみを奪われた一般庶民をはじめ、貴族、僧侶の間からも反対の声があがることになり、まもなく「禁止令」は取り下げられることになります。

非合法化されたということもあって、ナインピンボウリングは、ルールもバラバラで人気も停滞していました。この危機を救ったのが、あの宗教革命で有名なマルチン・ルター(1483〜1546)でした。

彼は「ケグラー」の一人で、当時ヨーロッパで主流だった“ナインピンボウリング”の統一ルールを作った人でもありました。そのルールは「一列3本のピンを3列、ひし形に並べ、幅30センチの長い一枚板を地面に敷いたレーンで木製のボールをころがしてピンを倒す。少ない投球回数で倒した者が勝者となる。」というもの。日本にも明治時代に紹介され「九柱戯」と名付けられました。


1620年、オランダ移民船は新大陸アメリカに上陸しました。場所は北米中部マンハッタン島(現在のニューヨーク・マンハッタン島)でした。この時、ナインピンボウリングも同時に上陸しています。現在、「自由の女神」行きの観光船が発着するバッテリー・パークへ向かうと、その途中に「BOWLING GREEN」と名付けられた小さな公園があります。

ここは、ヨーロッパ大陸からやってきたオランダ移民が安息日の日曜日にナインピンボウリングを楽しんだところでした。

今この場所には、当時の英国人総督の銅像が建っているだけですが、記念碑には次のように刻まれてあります。「オランダ移民はひと握りのコショウと引き換えに英国人総督より土地を借り入れた」と。


1876年アメリカ、ボルチモアでのボウリング大会

東海岸の都市で盛んだったボウリングも中部の工業都市でも人気は上昇、またたくまに全米に広がりました。17世紀から19世紀にかけての200年間のアメリカはボウリング大流行の時代だといえます。しかし、やがてボウリングは賭け事の道具になりました。レーン付き酒場のボウリング場で盛んになる、賭け事に英国系の清教徒たちは猛烈に異を唱えはじめました。これを受けアメリカ州議会はボウリングゲーム禁止条例を出すにいたり、またもやナインピンボウリングは、危機を迎えることになります。



19世紀ニューヨークのボウリング場

ナインピンボウリングの苦境を救ったのが19世紀末に誕生した“テンピンボウリング”でした。19世紀末から20世紀末半にかけて、アメリカではルール改正、新組織の結成がすすみます。それは、賭け事の道具となり評判を落としたナインピンにかわり近代ボウリング発展の原動力となったテンピンボウリングを完成させる過程でした。

1875年NBA(ナショナルボウリングアソシエイション)が結成。これはニューヨーク市ブルックリンの9つのボウリングクラブが中心になっててきた組織でした。

レーンの長さが60フィート、1ゲームの投球数を20球に(それまでは30球)、ピンの高さを15インチにするなどテンピンボウリングの基本がこの時に出来上がったといえます。

そして近代ボウリング発展の原動力となったのが、1895年に結成されたABC(アメリカ・ボウリング・コングレス=全米ボウリング協会)でした。


ホワイトハウス特設レーンでのトルーマン大統領

1895年頃の米国のボウリングファッション

現在のルールや規格はこの時に、確立されたといえます。1952年に結成されたFIQ(国際柱技者連盟)は世界テンピンボウリング協会と世界ナインピンボウリング協会の2部門から成り、テンピンボウリングだけでも80数カ国が加盟しています。日本は1962年に加盟しました。

世界では、紀元前、原始時代にまでさかのぼることができるボウリングも、わが国では比較的新しいゲームといえます。


鎖国政策を取りつづけていた江戸時代。唯一海外の文化を受け入れた長崎出島。その近くに外国人居留地がありました。時は幕末、この地にヨーロッパで大人気を博したナインピンボウリングが上陸しました。 当時外国人居留地で読まれていた英字新聞「The Nagasaki Shipping List and Advertiser」 の中に小さな広告記事がでていました。ヘンリーギブソンという人が出したもので、ボウリング場をもつ社交サロンの文久元年(1861)オープンを告知するものでした。

この歴史的事実がわかったのは昭和39年に英字新聞ジャパンタイムス紙の特集号でのこと。以後業界関係者の広く知られるところとなりました。


日本ボウリングの発祥の地となった幕末・長崎の外国人
居留地ヒロババ・ストリートのボウリング・サロン(中央の建物)


大正6年東京YMCA内に設置されたボウリング場での一コマ。
特訓した会員ボウラーの得意げな表情が見えている。

文明開化の明治時代にはいり、ボウリングも着実に根づいていきました。明治2年(1869)4月20日、神戸で駐在外国人の会員制クラブ「ユニオンクラブ」が誕生しています。のちに「神戸クラブ」の名で親しまれたこのクラブにはボウリングレーンの設備がありました。

明治42年(1909)京都YMCA建設と同時にボウリングレーンの設置が計画されたと記録に残っています。


京都YMCAでは大正5年(1916)本館地下に2レーンを設置し4日間にわたってボウリング大会が開催されました。当時米国から購入されたブランズウイツク社製の価格が400円。輸入第1号のボウリング施設でした。

大正6年(1917)には東京神田の東京YMCAの体育館にもボウリングレーンが設置されています。1ゲームの料金が15銭と格安であったことから、行列ができたほどだったといいます。


徳島県鳴門市大麻町、ここは第一次世界大戦の敗戦国ドイツの兵士が捕虜となって収容されていた坂東収容所があったところ。

終戦時に約4000人が12箇所の収容所に分かれて管理されていましたが、その中でも最大規模だったといいます。

ここにナインピンのレーンを設置した木造の独立家屋が出来たのが大正6年(1917)の事でした。1000人にも及ぶ捕虜たちが4年半にわたって楽しんだというのです。


坂東収容所でボウリングを楽しむドイツ兵士


またそこで使われたレーンやボール、ピンにいたるまで職人歴のある捕虜たちの手作りだったというのですから驚きです。

当時、収容所内のボウリング場で使われていた大小2個の手作り木製ボールは跡地に建設されたドイツ館に現在も展示保存されています。


戦後間もない昭和21年(1946)、横浜、座間などの米駐留軍基地内に兵士たちのレジャー用としてボウリング場がつくられました。その後も千歳(北海道)、厚木(神奈川)、横田(東京)、岩国(山口)、那覇(沖縄)、など20数箇所に次々と建設され、わずか2年余りで合計400レーンにも及びました。


横浜の小湊基地(ナスブビーチ)のボウリング場(昭和23年)


基地内のボウリング場はすべて手動式でした。そこでは若い日本人がピンボーイとして大活躍していました。後にわが国のボウリング業界を主導する人たちがその中から生まれています。その一人島森久好は東京ボウリングセンターの副支配人をつとめた人でもありました。

わが国のボウリング業界にエポックを築いたのが、昭和27年(1952)民間第一号としてオープンした東京ボウリングセンター(TBC)でした。戦後の混乱の中での設立は奇跡的なことだともいわれました。建設費の調達もままならない外国為替管理制度の中、レーンの輸入許可をいかに手に入れるか。GHQ(連合軍総司令部)大蔵省、文部省をどう説得するか。など、いくつもの難問をクリアーしての設立でした。


用地は大蔵省払い下げの旧学習院戦災地跡(現在の東京都港区青山北町)。
設備の輸入の際、課税対象の品目になかったため、横浜港の税関担当官が手続きに手間取り、貨物の搬入が大幅に遅れたというエピソードが残っています。それとは裏腹に、開場パーティには皇族、政財界の要人が集まり華やかな門出だったようです。


民間第一号としてオープンした東京ボウリングセンター(TBC)


昭和36年4月、第4回東京国際見本市が東京晴海で開催されました。そこで披露されたのが米国2大メーカー(AMF社とブランズウイツク社)の開発したハイテク機器でした。今日ではあたり前になった自動式設備ですが、わが国では同年6月、後楽園ボウリングセンターに導入されたのが初めでした。昼夜の別けなく待ち時間が5〜6時間に及ぶ大盛況でした。


関西で第1号の開場となった
大阪ボウリングセンターの外観

関西では同年7月近鉄が経営する大阪ボウリングセンターが、12月には福岡市内にカネボウ福岡ボウリングセンターがオープン。その後も新設のボウリング場は増え続け、昭和40年末にはレーン数で昭和36年の63倍を記録しました。(因みに昭和36年末現在のレーン数は75) 日本が高度成長を遂げるに伴い、ボウリング界も年々活況を呈していきました。


爆発的なボウリングブームの先駆けとなった女子プロ第1期生13人の面々


昭和42年には、日本プロボウリング協会が設立、19人のプロボウラーが誕生しました。そして、ボウリングブームの呼び水となったのが女子プロボウラーの登場でした。須田開代子、中山律子、並木恵美子らが登場するテレビ番組はピーク時、週7本という過密ぶりでした。

しかし、昭和48年に起こった石油危機でボウリング人気は急激に影をひそめます。なんと半年間で381センター、12,410レーンが姿を消しました。その後、この低迷期に光明を与えたのが昭和53年の第8回アジア大会にボウリングが正式種目に採用されたことでした。平成にはいり、“安・近・楽”が多くの日本人のレジャー志向となる中、手軽に楽しめるスポーツとして、安定した支持を得るに至っています。 




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