[ TOP ] > ブーンは式神ツンの世話をしているようです
ブーンは式神ツンの世話をしているようです

(^ω^)
 ――遠い昔の日本。まだ妖魔達が世の中を闊歩していた時代。

(^ω^)
 竹林から空を見上げると、風に揺らめく葉々の隙間から青い空と秋の雲が見えた。
そして、その雲の間を泳ぐように飛んでいる白い龍がいる。
その龍は全身が白く、装具で左右二つに結ばれ、風に流れるように揺れているたてがみは金色。そしてどこまでも深い蒼い瞳を持っていた。
 ぼくは空を気持ちよさそうに泳ぐ彼女をしばらく見つめてから、彼女の名前を呼ぶ。
ぼくの呼びかけに気付いた彼女は一度、高く上昇すると、優雅に身体を反転させて一気にこちらに向かって降りて来た。
そのまま地面に激突するのではないかという速度で彼女はぐんぐんと近づき、その頭が竹林に入る直前にふっと姿を消した。
しかし、竹林は見えない何者かによって大きく葉を揺らす。葉の揺れる音がぼくを中心にぐるぐると回りながら降りて来る。
そして、ざぁっと一陣の風が巻き起こり、次の瞬間、ぼくの目の前にはかわいい女の子が立っていた。
透き通る様に白い肌、左右で結ばれた金色の髪、そしてどこまでも深い蒼い瞳。
彼女の名前はツン。
遠い昔に誰かが召喚した龍の姿を持つ式神なのだ。

(^ω^)
「何よ、せっかく人が気持ちよく泳いでたのに」
彼女がぼくを睨みつけて言う。
ツンは式神だが、ぼくに仕えている訳ではない――。
「もうすぐ晩御飯が出来るお。今夜はきのこご飯だお」
ぼくの言葉に彼女は「ちょっと早いんじゃないの?」とだけ言うと歩き始める。
歩いて行く彼女の凛とした後姿をぼんやりと見つめていると彼女が振り返った。
「何やってんのよ。早く帰るわよ」
そう言われてぼくは我に返り、彼女の後ろを付いて行く。
かさかさと落ち葉を踏む足音を林の中に広げながら、ぼく達は列になって歩いた。
そして彼女は、家に辿り着くまで一度も振り返らなかった。
 家に着くとぼくはツンと自分のご飯の用意をした。
食べ終わったら、後片付け、ツンのお風呂を沸かす、ツンの寝床を用意する、といった仕事が待っている。
そして朝が来れば、朝ご飯の用意、片付け、掃除に洗濯、そしてお昼ご飯の用意、などをしなければならない。
朝から夜まで、ツンの身の回りの世話がぼくの役目。
――そう。つまりは、ぼくがツンに仕えているのだ。
 そしてそれは今日で一ヶ月になる。
それはつまり、始めて会った日から一ヶ月経ったという事だ。

―― 一ヶ月前のあの日、ぼくはツンに命を救われた。

(^ω^)
――その時、ぼくは逃げていた。

 ぼくの死んでしまった祖父、新巻スカルチノフはかつては陰陽師の長として人間界を護っていた人だった。
その霊力は強大で、どの妖魔達も祖父に勝つことは出来なかった。
そして、人間界に対しても、その影響力は大きく、祖父の言葉は政治や軍の行動を変えさせる事さえあった。
そんな、祖父の死後、ぼくは二つの理由で妖魔達から狙われる事になった。
一つは単純に恨みから。
かつて祖父にやられた妖魔達が復讐の為に孫であるぼくを喰おうとしているのだ。
もう一つは霊力の為。
強大な霊力を持っていた荒巻スカルチノフ。その血族であるぼくにも強い霊力があると思っている妖魔が、ぼくを喰ってその霊力を自分の物にしようとしている。
 でも、残念ながらぼく自身は大した霊力があるわけでは無い。
無限とも思える術を使っていた祖父に対して、ぼくに使える術はたった二つ、《温守体の術》と《舞雲の術》だけ。
《温守体》は怪我の治癒をする術。
本来は致命傷になりえる傷でも治せるのだが、ぼくにはせいぜい切り傷の治癒が精一杯。
《舞雲》はその名通り、空を雲のように舞える飛行術だ。
でも、ぼくの舞雲は高所恐怖症の所為なのか、空を飛ぶ事は出来ない。せいぜい地上を速く走れるぐらいだ。
 全てがこんな感じ。ぼく自身、とても自分の霊力が高いとは思えない。
それでも、ぼくに強い霊力がある、という噂を聞きつけた妖魔達がぼくを狙ってくる。
攻撃する技も持たず、使える術はさっきの二つだけ。そんなぼくが妖魔達に対抗出来るはずが無い。
その為、ぼくはいつも身分を隠して一人、ひっそりと暮らしていた。
うかつに霊力を発揮してはいけない、と新しい術を覚える事も禁止されていた。
でも、そうやって普通に暮らしていれば、ぼくみたいなのは妖魔達もうっかり見過ごす程に平凡なのだ。
それでも何かの拍子に妖魔に襲われた時は祖父の弟子だった伊藤と陰陽師団が助けてくれた。
そうして今まで、ぼくは何とか普通に暮らしてきた。
 そんなある日、寝ているぼくの夢枕に祖父が現れた。
「ブーン、   から逃げろ。あれに取り込まれてはいけない」
そんな声が聞こえて、目を覚ますとそこには祖父がいた。
幽霊、なのだろうか? あれだけ強力な霊力を持っていた祖父だ。霊体になるぐらいわけの無い事なのかも知れない。
目を閉じ、まるで眠っているかのような状態で宙を浮遊する祖父がぼくに言った。
「東南東へ逃げろ。   から逃げろ」
何かから逃げろと言っているのだが、霊感の無いぼくには所々声が聞こえなくて、何から逃げろと言っているのかが分からなかった。
「逃げろ、ブーン。誰にも言わず、今すぐに」
それでも、逃げなければいけない事はわかった。
祖父は霊体になってもぼくを護ってくれているのだ。
「いずれお前を守ってくれる者が現れる。それまで逃げるのだ」
ぼくはその言葉に従ってすぐに家を出た。

(^ω^)
 言葉に従い、とにかく東南東へ向かった。
一晩中、舞雲で駆けた。
町を駆け抜けた。
畑を駆け抜けた。
田んぼを駆け抜けた。
ぼくは舞雲で駆け抜けた。
川を駆け抜けた。
林を駆け抜けた。
森を駆け抜けた。
ぼくは舞雲で駆け抜け続けた。
 山に入ると、雑鬼と呼ばれる小さな妖魔達がまとわりついて来た。
小さい蛇くらいの体に鳥のような頭の奴、細長い六本の手足を持つ鼠のような奴、まるで一片の紙切れのような奴。
これぐらいの雑鬼なら気にする事は無い。ぼくは構わず走り続けた。
でも、それは失敗だった。まとわりつく雑鬼の発する妖気が引き寄せたらしく、いつの間にか一体の妖魔がぼくの後を追いかけて来ていた。
その妖魔はぱっと見は人間に見えた。
しかし、その頭には髪の毛が無く、よく見れば耳も鼻もない。
見開かれた目には黒目が無く濁った白目だけ、真っ赤な口を大きく開き、笑っていた。
そして一番特徴的なのが、その左腕だった。
体の大きさにまるで合っていない、でたらめに大きなその左腕は絶えず上下に振られており、その動きに合わせるようにそいつは「いぉっぱぃおっぱ」と鳴声を上げていた。
 一晩中走っていたぼくの体力はこの頃には限界を迎え、駆ける速度は徐々に落ち、追い付かれるのも時間の問題だった。
いつの間にか竹林の中を走っていたぼくは、空が少し明るくなってきたのに気が付いた。
――まもなく夜が明ける。しかし、明るい中でも活動する妖魔は沢山いる。事態が好転するとは限らない。
その時、遥か前方にとても小さいながら、灯りが見えた。
もう少し明るくなっていたらきっと見落としていただろう。
ぼくは最後の力を振り絞って加速すると、妖魔を引き離し、その灯りを目指した。
 灯りは古い小さな家の窓の隙間から漏れていた。
その隙間から中を覗く。
荒れ果てた外観とは裏腹に家の中はきれいだった。
しかし、灯りが一つ点いているだけで、中には誰もいない。
正面に廻り、扉に手をかけると軽い力でするすると開いてしまった。
「こんにちは。誰かいますかお?」
ぼくの声に答えてくれる声は無かった。どうやら誰もいないらしい。
もう時間が無い。ぼくはここに隠れて妖魔をやり過ごす事にした。
家に入り、扉を閉めると土間にあった大きな箱をひっくり返してかぶった。
そして、自分が蛇になったつもりでじっと息を潜めて、そのまま妖魔が通り過ぎるのを待っていた。

(^ω^)
 どれくらいの時間が経っただろうか?
扉が開く音が聞こえ、それに続いて一人の足音が家の中に入って来た。
誰が入って来たのか。箱の中からは外が見えない。
ぼくは恐怖で声を上げそうになるのを必死で堪えていた。
 足音は家の中を行ったり来たりしている。
音が近づく度にぼくの心臓は警鐘のように早く打った。
足音が聞こえる事自体が怖くなり、ぼくは両手で耳をふさいだ。
しかしそれは、自分の心臓の音が大きく聞こえる事になり、余計に恐怖心が増大するだけだった。
耐え切れず、耳から手を離す。
すると、いつの間に近づいたのだろう。足音がぼくのすぐ前に来ていた。
そして次の瞬間。ぼくの頭上から箱に何かが当たったコトッという音が聞こえた。
「ヒッ!」
ぼくは思わず声をあげてしまった。
そしてそれと同時に箱の外からズザッという飛び退る足音が聞こえた。
――しばらくの沈黙。
それから声が聞こえて来た。
「誰かそこにいるの?」
それは女の子の声だった。
「そこにいるんでしょう? 分かってるんだから」
ぼくは動けなかった。
「ちょっと! 出て来なさいよ!」
ぼくはどうする事も出来なかった。
――再びの沈黙。
そして女の子が言った。
「これが最後の警告よ。おとなしく出て来なさい」
その声は氷の様に冷たく、ぼくは心臓が凍りついてしまいそうな気分だった。
そしてその言葉にすっかり萎縮してしまい、ぼくは箱から出る事にした。
「分かったお! 今出るお! だから命は助けて欲しいお!」
ぼくはゆっくりと箱を持ち上げて、声のする方を見た。
そこには、透き通る雪の様に白い肌に金色の髪を持った、美しい少女がいた。
そして、その子の瞳はどこまでも深い蒼色をしていた。

(^ω^)
 あまりの美しさにぼくが見とれていると、少女はキッとぼくを睨みつけた。
「ちょっと! 『何が命は助けて』よ! 勝手に人の家に入って来て言う科白じゃないでしょ!?」
「あうあう」
ぼくを睨むその蒼い瞳は強く、ぼくはまるで心を射ぬかれたような気がした。
「何とか言いなさいよ。あんた、人の家で何してるのよ?」
少女の言葉にぼくは我に返り、ここに来た事情を説明しようとした。
「あ、あのあの」
その時だった。
突然の破裂音と共に少女の後ろで扉が吹き飛んだ。
舞い上がる噴煙の中、姿を現したのはぼくを追って来たあの妖魔だった。
そいつは扉を吹き飛ばすのに使ったであろう巨大な腕を上下に振りながらゆっくりと家の中に入ってきた。
そして、ぼくを見ると、その口を徐々に大きく開いて言葉を発した。
「喰ってやる喰ってやる。お前を喰ってやる。喰ってやる喰ってやる。頭から喰ってやる。喰ってやる喰ってやる。手も足も、指の一本も残さずに喰ってやる」
そう言う口はどんどんと大きく広がり、今では妖魔の頭の三分の二が口という状態だった。
その異様さにぼくは思わず後ずさりした。いや、後ずさりするつもりだった。しかし実際は恐怖で一歩も動く事が出来なかった。
「――うるさいわね。今、わたしがそいつと話してるのよ」
その時、何か声がした。でもぼくは一瞬、何を聞いたのか分からなかった。
それはさっきの少女の声だった。
そういえば――。気が付けば、少女はさっきの場所から一歩も動かずにぼくの方を向いたままだった。
すぐ背後に異形のものがいるというのにまるで気にしていない。
「それに、何なのよ? 人の家の扉壊して。扉くらい普通に開けられないの? あんたは?」
そう言って少女は妖魔の方を振り返った。
そして、振り返る時に一瞬見えた、怒りを含んだ少女のその表情は、震え上がる程美しかった。

(^ω^)
 少女は妖魔と睨みあう形になった。
「お前から……喰ってやる」
そう言って妖魔はその巨大な腕をゆっくりと振り上げ、それから少女に向けて凄まじい勢いで振り下ろした。
高速で振り下ろされた腕が空気を切り裂き突風を起こす。
巻き起こった風に思わず目を閉じると、次の瞬間には鼓膜が破れんばかりの大音響と衝撃を受けた。
振り下ろされた腕が少女を叩き潰し、更にはそのまま地面に激突したらしい。
家の中はその衝撃で舞い上がった土煙で何も見えない。
 ――次にやられるのはぼくだ。
ぼくはこの土煙に乗じて逃げ出したかった。しかし、ぼくの意思に反して、ぼくの足は震えるだけでまったく動こうとしなかった。
やられる。やられる。ぼくはここで死んでしまうんだ。
ぼくは全身が震え出し、口からは言葉にならない声が漏れ始めた。
「おっおっおっおっおっおっおっおっ」
そして、土煙がゆっくりと収まり始め、視界が開けてくる。
最初に目に入ったのは、ぼくを狙う妖魔のあの濁った白い目だった。
ぼくはもう震えることさえ出来なかった。声を漏らしながら、ただただ背筋が冷たくなるのを感じていた。
「おっおっおっおっおっおっおっおっ」
土煙が収まるにつれ、視界がどんどん開けてくる。
そして、次にぼくの目に入って来たのは、金色の髪だった。
ぼくは目を疑った。
ぼくと妖魔の間、そこには叩き潰されたと思った少女が立っていた。
少女は顔だけをぼくの方に向けると言った。
「うるさい」
少女は頬に傷がついていた。
しかし、それ以外はまったくの無傷のようだった。
どうなっているんだ? あの攻撃をかわした?
その疑問は妖魔も同じらしく、妖魔は明らかに動揺していた。
そして、妖魔が再び腕を振り上げた瞬間、少女が組み合わせた手を妖魔に向けた。
ドンッ、という低い音が身体に響いてきた。
そしてそれと同時に、妖魔が家の外に向かって弾き飛ばされていた。

(^ω^)
 妖魔は竹林まで吹き飛び、そこに生えていた一本の木にぶつかって止まった。
それを確認した少女がゆっくりと家を出る。
そして少女に引き寄せられるようにぼくも家の出口まで移動していた。
 木にぶつかり地面に倒れている妖魔を見て少女が呟いた。
「低属霊が」
それを聞いた妖魔はぐるりと少女の方を向き、ガチガチと歯を鳴らしながら高速で口を開閉し始めた。
「喰ってやる喰ってやる喰ってやる喰ってやる喰ってやる喰ってやる喰ってやる」
そして、四つんばいのまま少女に向けて突進した。
かなりの距離があったにもかかわらず妖魔は一瞬でその間合いをつめた。
「つかぁまえたぁー」
微動だにしない少女に、妖魔が今では頭のほとんどの大きさを占める口で喰らいつこうとした。
その時――。
少女を中心に旋風が起った。
落ち葉が舞い上がり、視界を赤く染める。
そして、その風の中で、少女は一匹の龍になった――。
 始めは、何が起ったのか分からなかった。
赤かった視界の中で強い白い光が生まれた。
その光は真っ直ぐに空に向かって昇り、やがて停止した。
そしてその時にやっとその白い光が白い龍だという事に気が付いた。
龍は全身が白く、金色のたてがみを持っていた。
そして、そのどこまでも深い蒼い瞳は間違いなくさっきの少女のものだった。

(^ω^)
 龍がその蒼い瞳で妖魔を見つめる。
「し、式神!?」
そう言った妖魔の声は震えていた。
――式神。陰陽師などが妖界から呼び出し、使役する契約を交わしたあやかし達。
しかも龍ともなればかなり上級な式神に違いない。
正体に気が付いた妖魔はすっかり怯えている。
それでも、何とか戦うつもりらしく、再び巨大な腕を振って龍を威嚇し始めた。
妖魔をじっと見つめていた龍が動き出した。 上空で一度大きく回転すると、そこから一気に降下して来た。
どんどんと加速しながら妖魔に迫る。
妖魔もそれに合わせるように腕の振りを速め、体勢を整える。
そして、――勝負は一瞬で決まった。
降下して来た龍と巨大な腕を振り回す妖魔が高速ですれ違う。
その一瞬、妖魔は肩から腰までを真っ二つに裂かれてしまった。
血飛沫とすれ違う風で舞い上がった落ち葉が周囲を紅く染める。
そして、その中に浮き上がる白と蒼。
龍はそのまま空へ飛び去り、妖魔はその場に崩れ落ちた。
 空に戻って行った龍がぐるりと身を捻り再び地上に向かって来た。
そして、その途中で、ふっとその姿が消えた。
だが、見えない何者かが周囲の木々の葉をざわめかせる。
そのざわめきが段々と地表に近づき、やがて、地表につむじ風が巻き起こった。
そして、そこにはさっきの少女が戻って来ていた。

(^ω^)
 ぼくは今見た事が信じられなかった。
それでも、目の前に再び現れた少女は現実だった。
白かった肌は戦いで少し紅潮していて、そんな少女が小さく溜め息をついた姿にぼくはどきりとした。
少女に見とれていたぼくは、少女の頬の傷から血が流れているのに気が付いた。
「大変だ! 怪我してるお!」
ぼくは思わず家から飛び出し、少女に向かって走った。
駆け寄るぼくの方に向かって少女が早口で何かを言い、それと同時にぼくは何かにぶつかって後ろに弾き飛ばされ、倒れた。
起き上がって、再び少女の方に行こうとするが、そこには見えない壁があってそこから先へ行く事が出来なかった。
少女がぼくを睨んで言った。
「次はあんたが相手?」
「ちょ、まっ……」
どうやら少女はぼくを敵だと思っているらしい。ぼくは全力で否定した。
「ち、違うお。ぼくはさっきの妖魔に追われてただけだお」
少女はぼくをじっと睨んでいた。
「えーっと、えーっと。追われて。それで、それで逃げ切れなくて、そしたら目の前に家があって、それで、それで隠れてたんだお。君の家だなんて知らなかったんだお」
少女は尚もぼくをじっと睨んでいる。
「……勝手に入ってごめんなさい」
それからしばらくの間、少女はぼくを睨み続けていたが、ふっと睨むのをやめて、もう一度早口で何か言った。
恐る恐る手を伸ばす。そこにはもうさっきの見えない壁は無かった。
「あんたみたいな間抜けそうなのがわたしの敵になるはずもないか」
少女がそう言って腕を組んだ。
ホッとしたぼくは少女の顔を見て思い出した。
「そうだ! それより、怪我をしてるお!」
ぼくは少女に駆けより頬の傷を温守体の術で治そうと、少女の頬に手を寄せた。
すると、驚いた少女がぼくをひっぱたいた。
「ごっ、ごめんだお! でも大丈夫すぐに治るお」
そうして、ぼくは再び少女の頬に手を当て、術を使った。
「あ……、何これ? 暖かい……」
少女が少し驚いた顔でぼくを見た。
「大丈夫。……はい。終わったお!」
傷は思ったよりも小さく、術はすぐに効いた。
少女が不安な表情で自分の頬を触る。
治っているのが分かったのだろう。今度は驚いた表情になった。
それから、ぼくの方を向き直って言った。
「お礼は言わないわよ。あんたがわたしを巻き込んだ所為なんだからね」
今度は少し、不機嫌な表情。
くるくる変わる表情が魅力的だった。

(^ω^)
「お礼を言うのはぼくの方だお。助けてくれてありがとう」
ぼくがそう言うと少女は「別にあんたの為に倒したんじゃないわよ。あいつがわたしも狙ってきたから。それだけよ」と言った。
「それでも、ぼくは助かったんだお。ありがとう」
少女はうつむいてしまった。
その時、少女が倒した妖魔の方を見て、声を出した。
「あ……」
ぼくもそっちに視線を移す。すると、地面に倒れている妖魔の身体がやわらかい光に包まれていた。
それから、砂のようにさらさらと崩れ出し、やがて風に吹かれて消えてしまった。
ぼくは目を閉じ、死んでしまった妖魔の為に手を合わせ祈った。
そんなぼくを見て少女が聞いてきた。
「何で? あんたを喰べようとした奴よ?」
「でも別にあの妖魔が悪い訳じゃないお。妖魔が妖魔として生きて行くには当然の事だお」
「あんた――」
少女はそっぽを向いて言った。
「ばかじゃないの?」
そう言う少女の言葉からは悪意は感じられなかった。
「ところで、あんた」
少女が聞いてきた。
「何で追われてたの?」
ぼくは答えた。
「おじいちゃんの幽霊に逃げるように言われて、逃げてたら追われちゃったんだお」
少女が驚いた声を上げた。
「何よそれ。順番が逆じゃないの? それに、そんなよく分からない理由で!?」
「で、でも。おじいちゃんは陰陽師だったから……」
少女が呆れ顔でぼくを見た。
「それで? この先どうするの? こんな山の中じゃあまた狙われるのがオチよ?」
「………………」
「何処か行く宛てはあるの?」
「………………」
少女が溜め息をついた。
「行く先どころか、何も決めてないのね?」
「そ、そういう事になるお……」
少女が顔をそむけて言った。
「そう。じゃあ……、いたかったら、しばらくここにいてもいいわよ」

――そうして、少女のこの言葉以来、ぼくはここにいる。
少女の名前はツンと言った。

(^ω^)
「ブーン、おかわり」
ツンがぼくが作ったきのこご飯をぺろりと平らげてお椀を差し出してきた。
「あんたの作るご飯、おいしいわね。それは褒めてあげるわよ」
ぼくはツンにおかわりを盛りながら、笑ってお礼を言った。
この家にツンと一緒に暮らすようになってから、炊事はぼくの担当だ。
後は、食後の片付けもぼくの担当。他には、お風呂準備に布団の上げ下げ、掃除や洗濯もぼくの担当だ。
よく考えてみれば、全部ぼくが担当している。
ツンにあれこれ命令されてやってるうちにこうなってしまった。
けれど、それは全然苦にならなかった。
今までの一人暮らしでもやっていた事だったし、それが二人分になるのは楽しい事だった。
ましてや相手はかわいい女の子。やりがいがあった。
――でも、そのかわいい女の子ツンは陰陽師が召還した式神だ。
普段はかわいい女の子だが、白い龍に変身する。
しかし、召還した術師が死んでしまい、契約が解除されないままずっと一人で暮らしていたらしい。
ぼくはツンにこんな山の中に一人で住んでいて寂しくないか聞いた事がある。
ツンは「寂しい? そんな事感じるのはあんた達人間だけじゃないの? 寂しくなんかないわよ」と言った。
 昼間、ぼくが掃除や洗濯をしている間、ツンは散歩に行っている。散歩と言っても、空の散歩だ。龍の姿になって空を泳いでいるのだ。
確かに、ツンの泳ぐ姿を見ていると気持ちが良さそうだ。特に今ぐらいの秋の季節は最高なのだろう。
でも、実際ぼくがそんな事をしたら、高所恐怖症なぼくは恐ろしいばかりで気持ちいいとは思えないだろうな。
 たまに、ツンが小さい怪我をして帰って来る事がある。
そんな時、ぼくは自分の使えるたった二つの術の内の一つ、《温守体》でツンの怪我を治してあげている。
ある日、温守体での治療が終わるとツンが言った。
「あんた便利よねぇ。怪我は治せるし、ご飯作るのもうまいし。人間にしては中々いいわ。どう? わたしの新しい術師にならない? たっぷりこき使ってあげるわよ?」
そう言うツンの表情はまるで悪魔のように美しかった。
「ちょっ、こき使うってそれ立場逆……」
ぼくの返事にツンは頬を膨らませて言った。
「いいじゃない、そんなのどっちでも」
でも、残念だけど、ぼくは《温守体》と《舞雲》の二つの術しか使えないから式神使いにはなれない。
その事をツンに言うとツンは「ほんと、役に立たないわね」と言った。
ぼくは少し落ち込んだ。
しかし、それからツンは思い出したように言った。
「……でもまぁ、怪我が治してもらえるのは助かるけど」
ぼくはその事が本当にうれしかった。

(^ω^)
 ツンが怪我をするのには理由があった。
ツンは式神で、術師との契約でその力の使い方が制限されているせいだった。
普段、女の子のツンは妖魔に襲われる事がある。本来であれば、ツンは龍の化身なのでその辺の妖魔が敵うような相手ではないのだ。
しかし、契約による制限で、どうしても相手に先制攻撃されてしまうのである。
式神の制限は三つある。
 一つ目は「術師の命令以外の攻撃は出来ない」という物。
術師の命令無しに攻撃を行うと自分の命が無くなるというのだ。
そして、術師を失ったツンは、つまりはもう攻撃をする事が出来ないのだ。
 但し、術師の命令が無くても攻撃出来る条件があった。
それが二つ目の制限で「自分を攻撃し命を狙って来た敵への反撃は可能」という物。
これのおかげでツンは自分の命を守る事は出来る。
ただ、どうしても相手に先制攻撃を許す事になる。そのせいでツンは怪我をするのだ。
 三つ目の制限は「自分の攻撃対象を狙う、第二の敵への攻撃は可能」という物。
つまり、ツンが倒そうと思っていた《対象一》を、関係の無い《対象二》が狙っていた場合、ツンは直接に《対象二》を攻撃出来る。
これは、術師が要求した攻撃対象の獲得を優先的に行うためにあるらしい。
でも、こんなものはツンが自分の身を守る事には何の役にも立たない。
ツンはいつでも、攻撃されると、傷つき、それからでないと反撃出来ないのだ。
この話を聞いたのは、ツンがお風呂に入っている時だった。
風呂場の外で火の番をしていたぼくはツンの「もっと熱く」という命令で火を強くした。
そして「これぐらいでどうだお?」と聞いた時にうっかりお風呂を覗いてしまい、その時にツンの背中に傷があるのを見てしまった。
ツンにその傷はどうしたのかと聞くと、怪我をする理由と、その傷を付けられた時は最初にくらった一撃が強烈で危なかったという話を聞いた。
その話を聞いた時、ぼくは悲しくなって思わず泣いてしまった。
そんなぼくにツンは驚き「あんた、ばっかじゃないの?」と言った。
湯気でよく見えなかったけれども、その顔は戸惑いつつも嬉しそうだったような気がする。
それからハッと我に返り「何覗いてんのよ!」と怒鳴るとツンはぼくに熱湯を浴びせた。

(^ω^)
 一緒に暮らし始めた当初、ツンはまったく笑うことが無かった。
ぼくの事も便利なやつを拾ったぐらいにしか思っていなかったようで「あれやって」「これやって」と命令してくるばかり。
会話らしい会話もほとんど無く、ぼくが一人で何かをして、一人でしゃべっている感じだった。
ひどい時には昼過ぎにふらりと出て行ったまま翌朝まで帰って来なかったりもした。
ぼくはツンと色々おしゃべりをしたかったし、何よりもツンを笑わせたかった。
普段、あれだけかわいいツンの事、笑ったらきっとすごくかわいいはずだ。
「お帰りなさいませだお。ご主人様」
ある日、ぼくは散歩から帰ってきたツンをこう言って出迎えた事がある。
きっとツンは笑ってくれると思った。
だって、式神のツンがご主人様だなんておもしろいお。それに今のぼくはツンに命令され使われてばかりで召使いみたいだし。
でも、返って来た言葉は「あんた馬鹿にしてんの?」だった。
ツンは不機嫌な顔でぼくを見つめる。
動揺したぼくは慌てて言葉をつないだ。
「だって、ツンはぼくのご主人様みたいな感じだお」
しかしツンはますます不機嫌になった。
「何がご主人様よ。わたしは術師に仕える式神で、しかもわたしを召還したその術師は勝手に死んじゃったのよ!?」
ツンが燃える様な蒼い目でぼくを睨んだ。
「そのせいで、そのせいでわたしは自由になる事が出来ないのよ!」
ツンの体から立ち上る怒りの霊気が見えるような気がした。でもその霊気は多分に悲しみを含んでいた。
「そんな状態がずっと続くのよ。明日も明後日も……」
ツンは泣いていた。
「こんなの何の希望も無い。明日が来たって意味が無いよ……」
ぼくはそっとツンの頭をなでた。
「触らないでよ! 人間なんかに触られたくない!」
そう言ってツンはぼくの手を払った。
それでもぼくはツンの頭をなで続けた。二回目からはツンは手を払わなかった。
「――いつかぼくが」
ぼくはツンに言った。
「いつかきっと、ぼくがツンを自由にしてあげるお」
ツンは何も言わなかった。
それからもツンは声も無く泣いていたが、しばらくするとスッと立ち上がり、ぼくを見つめた。
ぼくは何か言われるかと思い、おろおろしていた。
そしてツンはそんな間抜け面なぼくを見ると言った。
「ぷっ。それにしても『お帰りなさいませご主人様』? まあちょっと気持ち良かったかもね」
その言葉を聞いてうれしくなったぼくは調子に乗って言った。
「じゃあ、そういう茶屋を作って商売したら儲かるお!」
「あんた馬鹿ぁ? そんな茶屋の需要なんかあるはず無いわよ」
呆れ顔でそう言うツンは笑っていた。

(^ω^)
 色々あるけど、やっぱりツンとの暮らしは楽しかった。
ある日、ぼく達は月見をした。
ぼくが満月に気付いて、ツンに「月見をしよう」と提案したのだ。
だけど、ツンは「月なんか見てどうするのよ? まったく人間の考える事は解らないわ。見たかったら一人で見なさいよ」と言って全然興味を示さなかった。
仕方が無く、ぼくは一人で月見をする事にした。
裏の林からすすきを刈って来て、月見団子を作った。
そして一人、縁側で月を見ていた。
しばらくするとツンが背後から声をかけてきた。
「何やってんのよ? ぼーっとして」
「これが月見だお」
ぼくは答えながら振り返り、そして息をのんだ。
月明かりの下で見るツンはこの世のものとは思えない美しさだった。
「ねぇ? これは何?」
ツンはぼくの用意したすすきと月見団子に興味深々だった。
「つ、月見をする時にはこれが無いといけないんだおっ」
「何どもってんのよ? で、このお団子は食べていいの?」
「い、いいお! どんどん食べるお!」
「そう。じゃ、もらうわね」
ツンはそう言ってお団子を食べた。
ぼくはどきどきしながらツンを見ていた。
ツンがお団子を食べながら夜空を見上げた。少しかかっていた雲が抜け、月はその明るさを増した。
ツンの髪が月と同じ色に光り、月明かりがツンの顔を青白く浮かびあがらせ、その目の蒼さを一層深いものにした。
光り輝いているように見えるツン。怖いくらいに美しかった。
「ふーん。こうしてじっくり見てみると月って綺麗なものね」
ツンがぼくの方を振り返った。蒼い目がぼくを捕らえて離さない。
「人間もたまにはいい事考えるのじゃない」
そう言ってツンは笑った。
相変わらず、ツンはめったに笑わなかったけれど、笑うとほんとうにかわいかった。
笑顔が咲く。というのはああいう笑顔の事を言うんだろうな。
結局その日、ぼくは月よりも長い時間、ツンの事を見ていた。

(^ω^)
 ある夜、突然ツンが意を決したように言った。
「ブーン、明日は新速山に行くわよ!」
「どうしたんだお? いきなり」
ぼくの問いにツンは何故か不機嫌な感じで答える。
「あの辺は標高が高いから今頃が綺麗だって、昔、人間が言ってたのを聞いたのよ」
「紅葉だね。それは楽しみだお」
翌朝、ぼくは早くに起きてお弁当を作った。ツンと二人で楽しく山道を歩くのを想像してにやけながら。
そしてぼく達は家を出た。
しかし、いざ登山口に着くとツンは、「じゃあ、頂上近くの少し開けた所で待ってるから」と言うや否や龍になってさっさと飛んで行ってしまった。
「ちょっ……」
残されたぼくは一人、もくもくと山を登った。
それでも、頂上が近づくにつれ、木々の色づきが鮮やかになり、ぼくはそれらを見ながら楽しんで登って行った。
約束の場所に着くと、ツンが腕を組んで待っていた。
「遅いわよ」
ぼくはツンに謝りながらお弁当を食べる準備をした。
紅葉が見渡せる斜面に敷物を敷いて、お弁当を広げる。
「さ、食べるお」
ツンはご飯が冷たくなってるとか飲み物がぬるいとか言いながらも、ぼくの用意したお弁当を残さず食べた。
食べ終わってからもぼく達は二人、並んで座ったまま景色を眺めていた。
ツンがポツリと言った。
「また、来てやってもいいわよ」
ぼくが「うん」と返事をすると、ツンは立ち上がった。
「さっ、帰るわよ」
ぼくも立ち上がり、お弁当と敷物を片付ける。
それからぼくはツンが飛び去る前にお願いをしてみた。
「ツン。帰りはぼくを乗せて飛んでくれないかお?」
「いやよ」
にべもなく断られた。
「ぼくが帰るのが遅くなるとツンの夜ご飯も遅くなるお」
「走って帰って来なさいよ」
ご飯にもなびかなかった。
「お願いだお」
以前に桜の国の王様に聞いた「困った時は下からのアングル」でツンに懇願すると、ツンは嫌々ながらもようやく願いを聞いてくれた。

(^ω^)
 ぼくを載せて飛び始めたツンは数分もしない内に着地した。
ツンが女の子の姿に戻って言った。
「無理」
「どうしたんだお?」
ぼくの質問にツンは溜め息をつきながら言った。
「あんたが肥座だから重くて飛べないのよ」
「肥座って何だお?」
「妖魔達の間じゃあ、あんたみたいに座って食べてばかりで肥えた人間の事をそう呼ぶのよ。動きも鈍くて格好の獲物」
「ひ、ひどいお」
ツンの周りで風が起った。龍になって飛んで行ってしまうんだ。
ぼくはツンが龍になる前に引き止めた。
「ツン! 待って! 一緒に歩いて行こうだお!」
風が弱くなる。ぼくはもう一度言った。
「ね。一緒に帰ろう。ほら、一人で待ってても寂しいでしょ?」
ツンが少しだけ考えるようにして言った。
「そうね。さ……、退屈かもね」
そうして、ぼく達は一緒に歩いて山を降りた。
途中で大きな水溜りに出くわした。登る時には道を大きく外れて迂回した所だ。
ぼくが迂回する為に道を外れようとした時、ツンが言った。
「ねぇ、あんた舞雲の術使えるんでしょ? 回り道なんて面倒な事しないで、これぐらい飛び越えなさいよ」
「一応、使えるけど空はまったく飛べないんだお……」
ツンが冷ややかに言った。
「飛び越えなさい」
「……はい」
 ぼくは精神を集中して舞雲での浮遊を始めた。
両手を広げ、少し前傾姿勢、そして片足は膝を曲げて上げ、一本足で立つ。軽く深呼吸、そして詠唱。
「舞雲」
よろよろと足が地上を離れる。そして、ほとんど浮いているかいないかの高さのまま前に進み始めた。
普通に歩くのよりも遥かに遅い速度でふらふらと前進を続けるぼくの舞雲。
水溜りの上に差し掛かり、緊張が一気に増す。
そうして、集中を続けるには気の遠くなりそうな時間をかけて、水溜りを半分超えた。
「あと半分。あと半分」
ぼくは思わず呟く。
そんなぼくを後ろから無言で見つめるツン。
その時、大きな鳥がすぐ近くの木から飛び立ち、その音に驚いてぼくの集中力は一気に乱れてしまった。
ばちゃっ。とぼくは前のめりに水溜りに突っ込んだ。
起き上がり、振り返ってツンを見る。
「まぁ、がんばったんじゃない?」
ツンはそう言って、ひらりとぼくの頭上を越えて、水溜りを飛び越した。
「それにしても見事な突っ込みっぷりね」
そうして、泥で真っ黒なぼくの顔を見て笑った。
舞雲の術はやっぱり出来なかったけど、ツンが褒めてくれたのと、笑顔が見れたのでよしとする。
でも、その後の帰り道、ツンは全身泥まみれのぼくとは離れて歩いた。

(^ω^)
 翌日、ツンは空に散歩に、ぼくは川に洗濯に行っていた。
昨日、泥まみれになった服と持ち物を丹念に洗った。
まだ冷たくない水が気持ちよくて、ぼくはついゆっくりと洗濯してしまい、帰り道は時間が気になって少しだけ森を突っ切って近道をする事にした。
森は鬱蒼と生い茂った木々で太陽の光があまり届かずかなり暗かった。
ガサガサと草を掻き分け、落ち葉や枝を踏むぼくの足音。
しばらく歩いていると、そんなぼくの足音とは別にもう一つの足音が背後から聞こえた気がした。
思わず止まって背後を振り返る。
するとその足音も止まった。恐る恐る振り返って見たがそこには何もいなかった。辺りは森の静寂に包まれている。
気のせいかお? 
再びぼくは歩き出す。するともう一つの足音がまた聞こえた。
気のせいでは無い。
不安にかられ、ぼくは自然と早足になっていた。
すると、ぼくの速度に合わせて、その足音も速くなって来る。
聞こえる足音から逃れようと速度を上げているうちに、気が付くとぼくは完全に走っていた。
途中、洗濯物がいくつか落ちたかもしれない。でもそんな事は気にしていられなかった。
ぼくは夢中で走っていた。
背後からは今では遠慮の無い大きな足音が聞こえてきた。
そして、それと共に聞こえて来たのは無機質な鳴き声だった。
「テマスワカッ――テマスワカッ――」
妖魔だ――。
夢中で走り続け、もはや何処にいるのかも分からなかった。
明るい方を目指して走っていると突然、森を抜けた。
そして、そこからは、胸の高さ程の草が生える草原が続いていた。
草原に駆け込んだぼくは草むらに足を取られ転んでしまった。
それでもぼくは転んだ勢いのまま、草原の中を這って進んだ。
奥へ奥へ。こうして這って進めば草に隠れて妖魔にはぼくが何処にいるか分からないはずだ。
だけれど、それは同時にぼくからも妖魔が見えない事になる。
ぼくはもう少し奥に進むとそこにしゃがみ込んで動くのを止め、聞こえて来る音に全神経を集中した。
「テマスワカッ」
遠くで妖魔の鳴き声と草を分けて進む音がした。
それらは段々と小さくなってゆき、やがて聞こえなくなった。
それでもしばらく、ぼくはその場を動かなかった。
草の中から空を見上げると日が傾きかけていた。
そろそろ大丈夫だろうか? もう妖魔の鳴声も歩く音も聞こえない。妖魔は行ってしまったようだ。
ぼくがホッと胸をなでおろし、立ち上がろうとしたその時――。
すぐ背後から声が聞こえた。
「テマスワカッ」
ぼくは背筋がぞっとして反射的に振り返った。
――そこには、巨大な二つの目がこちらをじっと見つめていた。
その妖魔は子供くらいの大きさだが、頭が異様に大きく、さらに、その頭のほとんどを巨大な二つの眼球が占めていた。
そして、その真っ黒な眼が真っ直ぐにぼくを見つめていた。

(^ω^)
 ぼくは声を上げることも出来ずに、後ろに倒れ、尻餅をついた。
ぼくを見つめる妖魔が口を開くと言った。
「おまえ、知ってる。おまえ、新巻の血族。おまえ、聞いた。おまえ、霊力強い」
ぼくは首を振るのが精一杯だった。しかし妖魔はそんな事を気にもせずに続けて言った。
「おまえを喰う。霊力を喰う。力、貰う。お前を喰って、力を貰う」
そして次に、妖魔がどこからか取り出した大きな鎌を振り上げた時、ぼくは叫び、転がるように走り出した。
ぼくは走った。草を掻き分け、方角も出鱈目に。
どっちへ行ったらいいのかも分からない、でも止まる事だけは出来なかった。
草原は何処までも続き、ぼくは何度も転びながらも走り続けた。
すぐ背後には妖魔が迫り、何処までもぼくを追いかけて来る。
振り返り、妖魔の何もかも吸い込みそうな黒い目を再び見た時、ぼくは走りながら叫び出した。
そしていつの間にかぼくはツンの名前を呼んでいた。
――その時、ぼくの遥か前方の空に白い光が見えた。
その光は、凄まじい速さでぼくの方に向かって来る。
圧倒的な速度で大気を割り、その風圧で草原を切り開きながら、ぼくに近づいて来る。
そして、光は轟音と共にその速度のままぼくのすぐ真上を通り過ぎた。
巻き起こる風でぼくと妖魔は飛ばされそうになり、足を止めた。
通り過ぎた光が向きを変え、再びぼくの方に、今度は左側からやってきた。
近づいて来た光がふっと消えた。
しかし、風だけは尚も草原を切り開きながら近づいて来る。
そして、ぼくの周囲の草原がざっと二つに別れ、風が止まった。
ぼくの目の前にはツンがいた。

(^ω^)
 ぼくはツンに「助けて」と言おうして思い止まり、「逃げるお!」と叫んだ。
そして、ツンの手を引いてぼくは再び走った。
「何よ? 人を呼んでおいていきなり『逃げる』ってどういう事よ!?」
「いいから、逃げるお!」
後ろからは妖魔が再びぼく達を目指して近づいていた。
ツンは走りながら振り返ると言った。
「あいつに追われてるんでしょ? いいわよ! 倒してやるわよ!」
そうして、ツンは止まった。
「だめだお!」
ぼくはツンに怒鳴った。ツンはぼくの声に驚いて体を硬直させる。
そんなツンを見て、ぼくは我に返った。
「あっ……。怒鳴ってごめんだお。でも、ぼくはツンにはもう傷ついて欲しくないんだお」
そう。ツンが妖魔と戦う為には自分が傷付かないといけない。
そんなのは嫌だった。もうこれ以上、ツンには辛い思いをさせたくなかった。
それにあんな巨大な鎌でやられたらツンだって無事では済まないかもしれない。
――気が付くと、一気に間を詰めて来た妖魔がぼく達のすぐ後ろに迫っていた。
ぼく達を自分の間合いに捕らえた妖魔は間髪入れずにその巨大な鎌を振り下ろした。
鎌はぼくの腕を切り裂き、さらにその反動でぼくは倒れてしまった。
それを見たツンは妖魔の前に立ちはだかり、次の攻撃を自分に向けさせようとした。
妖魔はその通りに、ツン目掛けて再び鎌を振り下ろす――。
その瞬間、ぼくは立ち上がり、ツンを抱きかかえるようにツンと妖魔の間に割って入った。
――背中に衝撃を受け、冷たい感触が背中を走り抜けた。
そのままぼくはツンを腕の中に抱きかかえて倒れた。
「ブーン!」
ツンが声を上げた。
体が動かなかった。
背中から温かい何かが流れて出て行く。
視界の隅で、妖魔がゆっくりと鎌を振り上げるのが見えた。

(^ω^)
 妖魔が鎌を振り下ろす。
ぼくが死を覚悟した、その時だった。
妖魔の背後の空に黒い影が現れ、こちらに向かって動いて来た。
刹那。
それは飛来する何十本という大量の矢の塊だった。
直後、それらの矢はまるで一つの黒い生き物のように妖魔に襲い掛かった。
密集した矢が爆音を立てて妖魔に降り注ぐ。
妖魔の背中にそれらの全ての矢が突き立ち、妖魔は口から黒い血を吐いた。
それでも妖魔は驚異的な生命力で尚も生きていた。
そして、何が起こったのかと背後を振り返った。
その一瞬の隙を捉えたツンがぼくを引きずるようにしてその場から駆け出した。
ぼく達が逃げ出した事に気が付いた妖魔が再びこちらに向き直り、鎌を振り下ろしたが、ギリギリでそれをかわす事が出来た。
妖魔は黒い血を流しながら再びぼく達を追って来ようとした。
「お前、喰う。霊力、貰う。強く、なる。強く、なる。死、なない」
その時、空にさっきよりももっと大きな黒い影が見えた。
黒い影は再び、妖魔目指して一直線に襲い掛かって来た。
ぼく達に気を取られていた妖魔がその事に気付き、振り返った。
しかし、時既に遅く、黒い塊になった矢は前回にも増して、体が震える程の爆音を立てて妖魔とその周囲に降り注いだ。
そして、数秒続いた爆音が止み、静寂が訪れると、妖魔がいた辺りには地面が真っ黒になる程びっしりと矢が乱立していた。
――妖魔は矢に全身を撃たれて死んだ。
 ぼくとツンは何が起っているのか理解出来なかった。
ただ分かっているのは、とりあえず助かったという事だけ。
そしてぼくは気を失ってしまった。

(^ω^)
 気が付くと、ぼくはツンに膝枕されていた。
「ブーン、大丈夫?」
ツンがぼくを覗き込んで聞いてくる。
「大丈夫ですよ。温守体での治療は完了しました。もう何の問題もありません」
頭上から声が聞こえてきた。聞いた事がある声だった。
そういえば、背中も全然痛くない。
「大丈夫みたいだお」
ぼくがそう言うとツンは「じゃあいつまでもわたしの膝に寝てないでよ」と言って立ち上がった。
その結果、ぼくはツンの膝枕から転がり落ち、後頭部を地面にしこたま打ち付けた。
痛む後頭部をさすりながらぼくは体を起こした。
横にはさっきの矢がまだ地面に突き立っていた。
ぼくは妖魔の死に、手を合わせ、黙祷する。
そして目を開けると、周囲を見渡した。
そこには大勢の兵士達と知った顔があった。
その知った顔の女性がさっき打ったぼくの後頭部にやさしく触れながら言った。
「大丈夫ですか? ブーン様」
「伊藤じゃないかだお!」
「お久しぶりです」
伊藤が微笑みながらぼくにお辞儀をした。
「誰?」
ツンが聞いてきた。
「伊藤はぼくのおじいちゃんの弟子だお」
伊藤がツンに軽く会釈した。
「伊藤は女の人だけど、すごく頼りになるんだお! 小さい頃からぼくの面倒を見てくれてるんだお」
そう話すぼくを遮って伊藤がぼくに言った。
「それよりも! 突然いなくなったので心配しましたよ。でも見つかってよかったです」
そうだ。ぼくがおじいちゃんの言葉に従って誰にも言わずに来てしまったからだ。
「心配かけてごめんだお。でもおじいちゃんが誰にも言うなって言ったから」
ぼくの言葉を聞いて伊藤が眉をひそめた。
「新巻師団長が?」
「あ、いや。本物じゃなくて夢で……」
ぼくがそう言うと伊藤は再びにっこり笑った。
「そうですか。夢の話でしたか」
それから人差し指を立ててぼくに諭すように言った。
「でも、あなたは元陰陽師団の団長の唯一の血族。勝手にいなくなられては困りますよ」
そしてぼくに手を差し出した。
「さ、それでは帰りましょう」

(^ω^)
 ツンがこちらを見ながら居心地悪そうに佇んでいた。
「ちょっと、ブーン」
ツンがぼくに声をかける。その時ぼくは思い出した。
「そうだ! ねぇ伊藤、聞きたい事があるんだけど?」
おじいちゃんの弟子の伊藤ならきっとツンを自由にする方法を知っている。
でももし「方法が無い」と言うのがツンに分かってしまったらツンはこの先ずっと悲嘆にくれる事になる。
ぼくはツンに聞こえないように、少し離れた場所に伊藤を連れて行き、そこでこっそり伊藤に聞いた。
ツンが式神である事、術師が死んでしまった事を説明し、そして契約を解除して自由になりたいという事を伝えた。
伊藤は一度ツンを見ると、再びぼくに向き直って言った。
「そうですね。高尚術師が契約の解除をする事は出来ますが、それにはツンさんと契約した術師を調べないといけません」
よかった。ツンは自由になれるんだ。
それを聞いたぼくは今度はツンに内緒にして驚かせてやろうと思い、再び小声で伊藤に聞いた。
「よかったお! それで? 術師はどうやって調べればいいんだお?」
「師団の本部に資料が残っているので分かりますよ」
伊藤がぼくに微笑んだ。
「ですから、ここはひとまず帰りましょう」
「うん、わかったお!」
ぼくは嬉しくて顔がにやけるのを必死で止めていた。
その時、怒鳴り声が響いた。
「ちょっと! ブーンってば!」
それはツンだった。
ぼくは驚いてツンの方を見た。ツンは不貞腐れた顔でぼくを睨んでいた。
「な、なんだお?」
「別に」
「ちょっ、怒鳴っておいて別にって」
「………………」
「………………」
「……帰るの?」
「うん。帰るお」
ぼくの答えを聞いてツンは益々不機嫌になった。
「えっと……今日のわたしの夕飯はどうするのよ?」
「今日は適当に済ませておいて欲しいお」
「適当って何よ。こっちを優先しなさいよ」
「でも、早く帰りたいんだお。そしたら……」
うっかり、ツンに自由になれる事を話してしまうところだった。その先、ぼくは口篭もった。
「そう。早く帰りたいのね……」
ツンが呟くように言った。ぼくは返事をすることが出来なかった。
「あうあう」
ぼくのそんな返事を聞いて、ツンが泣きそうな目で睨んだ。
「勝手にしなさいよ!」
そう叫ぶとツンは龍に変化し、風を巻き起こしてぼくを倒すと、空高く去って行ってしまった。
「さ、帰りましょう」
伊藤が手を差し出してぼくを起こしてくれた。
「うん。帰るお」
飛び去るツンの後姿を見ながらぼくは、ツンを自由にしてやり、『ブーンありがとう』と言われる事を想像して独りにやけていた。

(^ω^)
 ――困った事になった。
というか、自分がどうゆう状況に置かれているのかがよく分からない。
陰陽師団の本部に戻ってくると伊藤はその態度を一変させた。
冷たい表情でぼくを見つめ、本部にある高い塔のてっぺんの部屋にぼくを連れて行くと、一緒にいた兵隊がそこにぼくを突き飛ばした。
転んで部屋の床に倒れているぼくを伊藤は冷たい目で見下ろしながら言った。
「あなたには私の為の人形になってもらいます」
ぼくを殺すつもりなのだろうか?
不安な表情で見上げたぼくに伊藤は言った。
「ご心配無く、殺したりはしません。でもまぁ、ただ生きているというだけで死んでいるも同然ですが」
ぼくは意味がわからずに目をぱちくりさせながら伊藤を見つめ返すだけだった。
そして、去り際に伊藤がにやりと笑って言った。
「こうして、あなたがあなたでいられるのも夜明け過ぎまでです。せいぜいそれまで、今までの人生を振り返っていて下さい」
何を聞いたらいいのかも分からず、ただ無言で伊藤を見続けていたぼくの目の前で扉が閉められ、ガチャリと鍵のかかる音がした。
――こうして、ぼくは理由も分からないまま監禁されてしまった。
部屋には、扉とそれ以外の三面の壁に窓がある以外、何も無かった。
窓には木の格子がはめられているだけだったので、これなら格子を壊せば脱出できるかもしれないとぼくは思った。
しかし、確認のために窓に近づいたぼくは外の風景を見た瞬間に窓から飛び退いた。
そこは恐ろしく高かった。
下には大きな広場といくつかの建物があり、周囲は大きな門とそれに続く塀で囲まれていた。
本部敷地内は松明が焚かれて明るくかったが、対照的に堀の外には真っ黒な森が広がっている。
そして、その森がこの塔から見ると遥か眼下に見えるのだ。
森なんだから高い木が生えているはずだ。それにも関わらず、下に見えるとは、この塔はどれだけの高さなのだろうか?
高所恐怖症のぼくがそんな所から脱出できる訳が無い。
そして、そんな恐ろしい風景が見える窓なんか近づくのでさえごめんだ。
ぼくは扉のある壁に背中をぴったりと付けて座り込んだ。
 それにしても伊藤が言った「ぼくがぼくで無くなる」「生きた人形」とはどういう意味なんだろう?
まぁ、いずれにしても良い意味では無いはずだ。「死んでいるも同然」そんなのが言い意味な訳がない。
夜明け過ぎには、ぼくはぼくで無くなるらしい。
外には星空が見えていた。しかし、このままだとこの星空を再び見る事は出来ないという事になる。
でも、それを阻止する為にぼくに出来る事は何もなかった……。

(^ω^)
 ぼくが膝を抱えてうずくまっている間に時間はどんどん過ぎ、夜空には月が昇っていた。
雲がかかっていないらしく、窓からは月明かりが差し込んでいた。
「そういえば、あの時のツンは綺麗だったお」
ぼくは月見の時のツンを思い出した。
そして、それからはツンの事ばかりを考えていた。
「ぼくの人生、そんなに良い事は無かったけど、ツンに会えたのは良かったお」
ぼくは声に出して言ってみた。
ツン。ぼくはもうすぐいなくなってしまうみたいだ。
ツン。ごめんね、ツン。ぼくは君との約束を守れそうにないよ。
ごめんね、ツン。
君の事を自由にしてあげられなくて。
――空が明るくなり始めていた。

(^ω^)
 階下から、金属音を響かせ、兵士が昇って来る足音が聞こえた。
ぼくは最後の抵抗として扉が開かないように押さえた。
当然のように、外から扉が叩かれ、その激しさは次第に増してくる。
ぼくは扉と一緒に揺さぶられながら必死で耐えていた。
しかし、最後に叫び声と共に扉が破壊され、ぼくはその反動で部屋の反対側まで転がって行ってしまった。
破壊された扉から棍棒を持った兵士が一人、入ってきた。
ぼくは床に散らばる扉の破片を手に兵士に向かって行った。
しかし、兵士は片手でぼくの突進を止めるとなんの苦労も無く壁に向かって投げ飛ばす。
飛ばされ、壁にぶつかり、床に倒れたぼくにゆっくりと兵士が近寄る。
ぼくはすっかり油断している兵士の足に全体重をかけてさっきの破片を刺した。
短い呻き声を上げ、兵士はよろよろと数歩下がった。
そして、ぼくを睨むと、再び叫び声を上げ、手に持った棍棒を振り下ろした。
棍棒は窓と壁を削りながらぼく目掛けて一直線にやって来る。
ぼくは咄嗟に横に転がり、その線上から逃げ出した。
鈍い音を立てて棍棒が床にめり込んだ。
――その時、外から声が聞こえた気がした。
ぼくは振り返って窓から外を見た。そこには明るくなった空以外、何も無かった。
ぼくは懐に手を入れて兵士との間合いを取る。
本当は懐には何も入ってなんかいない。しかし、さっきの油断でやられた兵士は緊張し、容易にぼくに近づこうとはしなかった。
何も無い事がばれたらその場で全てが終わる。兵士との間合いを取りながらぼくは次の窓に移動し外を見た。
下にいる兵士達の動きが慌しかった。大勢が広場の方に向かって走って行く。
更に間合いを取りつつ、ぼくは最後の窓に移動した。
そこはさっきの兵士の一撃で壁ごと崩れており、ぼくはそこから落ちそうな恐怖でいっぱいだった。
そして、そこから見た光景に驚いた。
 誰かが正門から、進入を阻止しようとする兵士達を蹴散らしながらこの塔に向かって走っていた。
襲い掛かる兵士達に比べて小さく細いその身体。そして金色の髪。
――ツンだ!
ツンが兵士達と戦っていた。
そしてこちらに気付いたツンが叫ぶ。
「ブーン!」
これだけの距離があるにもかかわらず、ぼくにはその声がはっきりと聞こえた。
ぼくの方を向いたツンの隙を狙って、兵士が剣を振り下ろす。
しかし、ツンは剣をギリギリでかわすと手の平を兵士に向け、兵士を吹っ飛ばした。
そして、再びぼくに叫ぶ。
「飛んで!」
ぼくは下を見た。そしてその高さに恐怖し、首を振りながら一歩後ずさりする。
しかし、そこには棍棒を構えた兵士が立ちふさがっている。
もう一度、崩れた壁の間から外を見る。
ツンの後ろの建物から弓矢部隊が出てくるのが見えた。
ぼくはツンに視線を戻す。
ツンと目が合った。
もう一度、ツンが叫んだ。
「飛びなさい!」
ぼくはツンの命令に反射的に覚悟を決めると、迷うことなく塔から飛んだ。

(^ω^)
 ぼくは落下した。
もしかしたら、舞雲の術で飛べるかもしれないという期待はあっさり裏切られ、ぼくは落下した。
自分の期待に裏切られたぼくは地上に向けて一直線。このまま地面と激突して終わり。さよならぼくの人生。さよならツン。
落下しながら、ぼくはツンを探した。そして視界の隅に逆さに映るツンを見つけた。
その時、ツンの周囲に風が巻き起った。近くにいた兵士が中心から連なるように倒れ、その中から龍になったツンが飛び立った。
ツンは落下するぼくに向かって信じられない速度で飛んで来る。
その後方、ツンが飛び立った広場では弓矢部隊がツンとその先を落下するぼくに狙いを定めていた。
そして、矢が放たれた。
黒い矢の塊がツン以上の速度でぼく達目掛けて襲い掛かってくる。
当たる! そう思い目をつぶった時、急激に体が今までとは違う方向へ加速するのを感じた。
ツンが、矢がぼく達に到達するより一瞬早く、ぼくを掴んで急転回したのだった。
ぼく達を捉えられなかった黒い矢の塊はそのまま塔に当たり、ぼくがいた塔のてっぺんの部屋は半壊した。
 ぼくを受け止め、矢から逃れたツンは塔を越えて、裏手に回った。
このまま逃げるのかと思ったがツンはその場で急降下し、敵の目を撹乱するようにでたらめに飛ぶと、誰もいない大きな蔵の裏手に着地した。
着地と同時にツンは女の子の姿に戻った。
「だめ、やっぱりあんたを連れて飛ぶのは無理。それに……」
ツンが苦痛に顔を歪ませた。
「ど、どうしたんだお?」
ツンの腕から流れた血が地面に滴り落ちた。
「ツン! 怪我してるのかお!」
ぼくはツンの手を引いて蔵の中に入った。
そしてそのまま蔵の二階に上がると、一番端の天井の板を外し、屋根裏へ上がった。
「子供の頃に絶対に見つからなかった隠れ場所だお。とりあえずここに隠れるお」
そこはぼくが子供の頃に祖父に会いに来ては事ある毎に隠れていた秘密の場所だった。
まだ誰にも知られていないらしく、昔ぼくが持ち込んだ数々の本やおもちゃが置きっぱなしで埃を被っていた。
「本当に大丈夫なんでしょうね?」
周囲を見回すと、ツンは不安気な顔で聞いてきた。
「絶対に大丈夫だお! それより、傷を治すお」
そして、ぼくは温守体でツンの腕を治した。だが、武器で付けられた傷は深く、完全に消す事は出来なかった。
「ごめんだお。ぼくの術力じゃあ、傷が消せなかったお」
「いいわよ。今更」
そう言って、ツンは置いてあった本を指でつまみ上げて、ぱらぱらとめくり出した。
ツンはそう言っていたが、やはり傷が残るのは嫌なんだろう。無理して無表情を装っているようだった。
女の子だし、傷が残るのがいいわけがない。
ぼくを助けにさえ来なければ、こんな傷が付く事も無かったのに。
――ぼくを助けに?
そういえば、ツンは何で突然現れたんだろう? ぼくを助けに来てくれたんだろうか?

(^ω^)
「ツン、どうしてぼくを助けに来たんだお? と言うか、何でぼくが助けを必要としているって分かったんだお?」
ぼくが聞くとツンは本から視線を移さずに平然と答えた。
「あんたを助けに来たんじゃないわよ。来てみたら何だか知らないけど攻撃されたから。成り行きよ、成り行き」
ツンは顔を上げるとそう言って肩をすくめた。
「まったくあんたに関わるとろくな事にならないわね」
そうか、助けてくれたのは偶然なんだ。――でもそれなら?
「じゃあ、ツンはそもそも何しに来たんだお?」
ぼくがそう聞くとツンは真っ赤になって動揺し、持っていた本を落とした。
「べっ、別にあんたに会いに来たんじゃないわよ!」
それから本を再び取り上げると、凄い勢いで頁をめくり始めた。
「久しぶりに一人で家にいたら寂しかったとかそんなんじゃないからね!」
本は最後の頁までたどり着き、今度は後ろから前へとめくられ始めた。
「わわわ、忘れ物よ! ほら、聞き忘れたのよ! えーっと……そう! お味噌汁! 飲もうと思ったら出汁が無いじゃない! 昆布何処に仕舞ったのよ!」
それからツンは延々とぼくへの文句を言い始めた。あんたが来たせいで台所の配置がどうこう、洗濯物がどうこう。
そして、ふと頁をめくる手を止めると、ぽかんとした顔でぼくに聞いてきた。
「ところで、あんた。あんな所でなにやってたのよ?」
「……気付くの遅いお」
 ぼくは自分に分かっている範囲でツンに説明した。
伊藤が突然変わってしまった事、ぼくは何かされそうな事。
「そう、それであんたを連れ戻しに来たと思ってわたしは攻撃された訳ね」
ツンがくちびるに手を当てて何か考えていた。
「うーん、でも何なのか分からないなー。あんた、ちょっと行って聞いて来なさいよ」
「ちょっ……」
結局、ツンがどうしてぼくの所に来たのか、本当のところは分からなかった。
だけど――、ぼくに会いに来たんだといいなぁ。

(^ω^)
「あんた、ちょっと行って聞いて来なさいよ」
「ちょっ……」
その時、床下から声が聞こえた。
「知りたければ教えてあげましょう」
伊藤の声だった。
そしてその声を皮切りに、大勢の兵士が秘密の入り口から上がって来て、あっという間にぼく達を取り囲み槍を向けてきた。
それからゆっくりと伊藤が上がって来る。
「あなたが子供の頃、いつも何処に消えるのかと思っていましたが、こんな所があったんですね」
伊藤は微笑みながら近づいて来ると、床に転がるおもちゃの一つ取り上げた。
「おや、懐かしい。これは私があげたんですよ。憶えていますか?」
そう言って懐かしそうにおもちゃを眺めていた。
「ブーンをどうするつもりなの?」
ツンが伊藤を見据えながら聞いた。
伊藤はツンを見て言い返す。
「おや、君は昨日の式神だね」
そして兵達に命令を出した。
「お前達、こちらのお嬢さんには一切攻撃をするな」
それからにやりと笑って続けた。
「そうすれば、このお嬢さんは我々を攻撃する事は出来ない」
すると、ぼく達を取り囲んでいた槍がぼく一人に向けられるようになった。
「では、ブーン様。行きましょうか」
ぼくは槍で追い立てられ、仕方なく歩き始めた。
「ブーン!」
ツンがぼくを見て、それから再び伊藤を睨んだ。
伊藤はツンが睨んでいる事などまるで意に介さないようで、微笑むようにツンを見つめ返して言った。
「さっきの疑問に答えますので、式神のお嬢さんも一緒に来ていただけますか?」
どうする事も出来ないツンはぼくと一緒に歩き出した。

(^ω^)
――ぼくは地下牢に閉じ込められてしまった。
鉄格子を挟んで伊藤と向かい合う、伊藤の周りには数人の兵士達がいて、その横に手枷をはめられたツンがいた。
伊藤がツンに向かって言った。
「まず、お嬢さん。この手枷は特殊法礼が施してあるので術を使って外せません。ですから、無駄な努力はお控えください」
そして、ぼくの方を向いて言った。
「さて。本当ならば、今朝あなたに儀式を施して私の生きる人形になってもらうはずでしたが、今日はもう儀式が出来る時刻を過ぎてしまいました」
伊藤がぼくに微笑んだ。
「ですので、明日、改めて行わせていただきます。でも、よかったですね、人生を振り返る日が一日増えて」
その微笑にぼくは背筋がゾッとした。
「一体、儀式って何をするつもりなんだお?」
ぼくの質問に伊藤は胸の前で手を組むと、その手を揺らしながら答えた。
「簡単に言えば、あなたの魂を抜いて、わたしの思い通りに動いてもらうのです」
成る程、私の為の生きた人形、とはそういう意味か。
でも、しかし――。
「何のために?」
ぼくは聞いた。ぼくなんかを操って何の得があるというのか。
伊藤は尚も微笑を絶やさずに話を始めた。
「失礼ながら、あなた自身には何の意味も価値もありません。ただし、あなたにはあなたにしか無い利点がある」
組んだ手の指を一本立ててぼくを指差す。
「それはあなたが、新巻の唯一の血族だという事です」
「おじいちゃん?」
伊藤はぼくに背を向け、組んでいた手をほどき、両腕を大きく広げた。
「そう。かつての陰陽師団の長、新巻スカルチノフ。数々の伝説を残し、未だに国の中枢機関にその名を知られる存在」
そしてくるりとぼくの方へ向き直り、見開いた目でぼくを見据える。
「その血族であるあなたを長として師団を再編する事に国の官僚達は何の疑問も持たないでしょう」
「こんなろくに術も使えない奴が?」
ツンが話に割り込んだ。
「ふふふ、術を覚えない様にしたのはわざとですよ。実際に力を持たれてしまってはこちらが困る。でもそれに、そんな事は誰も知りません。むしろ――」
伊藤は笑いながら話を続けた。
「『新巻の血族《ブーン》は強い霊力を持っている』というのは、この世界では有名な噂ですよ? 事実、それが原因で妖魔に襲われるでしょう?」
ぼくはやっと理解した。
おじいちゃんの死後、ぼくはずっと伊藤の陰謀の為に育てられていたわけで、伊藤がぼくを守っていたのも最後に利用する為だったんだ。
そして、おじいちゃんが逃げろと言ったのは伊藤からだったんだ。
「さて、話を戻しましょうか。既にご覧の通り、陰陽師団には術をかけて掌握してあり、私の好きなように動かせます」
そして、広げていた両手をパンと鳴らしながら合わせた。
「――後は、新たに団長になったあなたの意見という事で軍部を動かし今の政府を潰して、この国を支配するだけです」
そう言って伊藤は高らかに笑った。

(^ω^)
 伊藤がぼくに再び微笑みながら言った。
「そんな訳でブーン様、ご協力をお願いしますよ」
それからツンの方を見て聞く。
「さて。それで、式神のお嬢さん。あなたはどうしますか?」
伊藤に見つめられたツンは身じろいだ。
「まぁ、そんな事はしないと思うが、君が先に我々を攻撃すれば君は自分の命を失う事になる。つまり先制攻撃権は我々にあり、君はどちらにしろ死んでしまう訳だ」
ツンは何も言えなかった。
「だが、私は美しいモノが好きでね。君は見す見す殺してしまうには惜しい存在だ」
伊藤がツンの喉下から顎を指先でなぞり、顎を上げた。
「さっきの話を聞いていたが、そもそも君は彼を助けに来た訳じゃないんだろう? 巻き込まれた訳だ。だったら、この儀式が終わるまでおとなしくしていてくれないか?」
ツンは伊藤を睨んでいた。
「最後まで大人しくしていてくれたら、ご褒美に契約を解除して自由にしてあげよう」
自由、という言葉を聞いてツンの表情が変わった。
伊藤はその隙を見逃さず、ニヤリと笑うと話を続けた。
「どうせ人間は嫌いだろう? 後は妖界に帰って好きなように暮らせばいい」
ツンは動揺していた。
今まで放たれていた殺気がかなり薄れているのが分かった。
ツンの顎から手を離すと伊藤はくるりとツンに背中を向けて言った。
「それにこの先しばらく、この世界には戦いが満ち溢れる。へたな奴が新しい術師に指定されると戦争に利用されるやもしれんぞ」
うつむいて「戦争」を語る伊藤の、その口元は笑っていた。
それから再びツンを振り返って見るとふと言った。
「それにしてもひどい施術だな。きちんと消えてない傷がいくつもあるじゃないか。これではせっかくの美しさが台無しだ。高尚術師に綺麗にさせてやろう」
そして指を鳴らして「貞子、こちらのお嬢さんの体をお前の温守体で綺麗にしてやってくれ」と言った。
するとどこからか、髪の長い、白装束の見るからに術師といった女の人が現れた。この人が貞子なのだろう。
「こちらへ」
貞子と呼ばれる女の人がツンを手で案内する。
「………………」
ツンは一度だけぼくの方を振り返ると貞子の後について歩き始めた。
その表情からは、ぼくは何も読み取れなかった。
二人を見送った伊藤がぼくの方に向き直ると深々とお辞儀をして言った。
「では、ブーン様。また明日」
――地下牢にはぼく一人だけになった。

(^ω^)
 ぼくは再び、膝を抱えてうずくまる事になった。
地下牢には窓が無かったので時間がまったく分からなかった。
ぼくは悔しかった。
伊藤に負けているのが悔しかった。
と言っても、ずっと騙されていた事がでは無い。
何だか、あまりにも事が大きくて、もうそんな事はどうでもいいように思えていた。
それよりも悔しかったのはツンの事だった。
伊藤はツンを自由にしてやる、と言った。
多分、それは本当なんだろう。
ぼくに出来なかった事を伊藤は出来るんだ。
それが悔しかった。
それにぼくに消せない傷も伊藤には消すことが出来る。
ぼくがツンのために出来ることは何も無かったんだ。
ぼくは考えた。
きっともう逃げる機会は無いだろう。
だったら。それでツンが自由になれるんだったらいいじゃないか。
ぼくが儀式を受ければ、それが終わったらツンは自由になれるんだ。
そうだ。ぼくが抵抗しないで、それでツンが自由になれるんだったら。
それはぼくがツンを自由にした事になるんじゃないか?
――ぼくはツンとの約束を守れるんじゃないか?

(^ω^)
 そして、ぼくは一本の高い柱に磔にされた。
あれから、「起きろ!」という声で目が覚めた。いつの間にかぼくは眠っていたらしい。
剣で追い立てられるように広場に連れて来られると、そこには祭壇があった。
祭壇には中央に一本の高い柱があり、その横にはそれと同じ位長い槍が立ててあった。
祭壇の前には大勢の黒装束の術師が列を作って並んでおり、その後ろにはもっと多くの兵士が整列している。
そして、その最前列には伊藤と昨日の貞子と呼ばれた女の人、その横にツンがいた。
――ツン。
ツンはもう手枷をしていなかった。そして、うつむいたままでぼくと目を合わせようとしない。
「おはようございます。ブーン様」
儀式用なのだろうか? 地面まで届く長い黒装束姿の伊藤は、その着ている物とこれから行う事の不気味さとは裏腹な笑顔をぼくに向けた。
「おはようだお」
ぼくも精一杯の笑顔を返す。そう、もう抵抗はしないんだ。
伊藤は少し驚いていた。何だか一杯食わせてやったようで少し嬉しかった。
「どうやら、覚悟を決めたようですね。てっきり泣いて抵抗すると思っていましたよ。ブーン様、成長しましたね。伊藤は嬉しゅうございます」
再び笑顔に戻って伊藤は話を始めた。
「それでは、覚悟が決まったようなので、具体的に何をするのかお教えしましょう。その方がより一層気持ちよく逝けましょうから」
「じゃあ、お願いするお」
そう返事をしたが、先に心臓麻痺で死ぬんじゃないかと思うぐらいにドキドキしていた。
目の前の事がどこか遠い所で起っているように見え、顔が冷たかった。
「――で、この虚無の槍をあなたを打ち込みます」
その言葉で意識が引き戻された。
さらりと伊藤が言ったその言葉はあまりにも現実感が無く、それが余計にぼくには怖かった。
「もちろん、槍で刺されたあなたは一度死んでしまいます。ですが、明日の朝にはあなたは再び目覚め、わたしの人形としての新しい人生を歩むのです」
気が付くとぼくは泣いていた。
怖くて怖くて仕方がなかった。
でも、ぼくは「わかったお」と何とか言う事が出来た。
そして伊藤が指を鳴らすと、柱が一度倒され、ぼくはそこの頂上だった部分に縛り付けられた。
身動きの出来ないぼくに伊藤が「おやすみなさい、ブーン様」と言った。
そして、伊藤がぼくから離れ、ぼくを磔にした柱は再び立てられた――。

(^ω^)
「第一詠唱!」
伊藤の掛け声と共に、術師達が一斉に呪文を唱え始めた。
その一糸乱れぬ詠唱は不気味に響き、空気を震わせ、大地を震わせ、そしてぼくの体を震え上がらせた。
ぼくは湧き上がる恐怖の中、ツンを見た。
ツンはうつむいたままだったが、それでもぼくは少しだけ心が落ち着いた。
そう。ぼくはツンを自由にしてあげるんだ。
怖いけれど、とても怖いけれど、ツンのためなら我慢出来るお。
「第二詠唱!」
呪文が転調し、それと共に詠唱する術師の数が増え、その響きは一層不気味なものとなった。
暗雲がたちこめ、今にも空が落ちて来そうだった。
耳の中に詠唱が響き渡りぶつかり合い、大きく聞こえているはずなのにだんだんと何も聞こえなくなってきた。
そして、意識が遠のいていく。
「槍の準備を」
遠くから伊藤の声が聞こえてきた。
目も見えなくなってきて、薄ぼんやりとした視界の中で槍が動かされ、ぼくに向けられるのが見えた。
ああ、もうすぐぼくがぼくでいられる最後の時が来るんだ。
でもこれはぼくが望んだ事。
そう。ツンの為に。
ツン、君が自由になるならぼくは構わないよ。
だってぼくは君に会えて本当に良かったと思っているから。
それにきっと――。
「――ツン。明日、ぼくがぼくで無くなっても、君との楽しかった思い出はきっと忘れないお」
ぼくの口から言葉がこぼれた。

(^ω^)
 その時、誰かがぼくの名を叫んだ。
地上から強風が巻き起こり、詠唱が止まる。
そして、ぼくのぼんやりとした視界の中に強い白い光が現れた。
詠唱が止まった事によってゆっくりと戻ってきたぼくの視界に映ったのは龍になったツンだった。
ツンの蒼い瞳がぼくを見つめる。
ぼくもツンを見つめ返す。
地上ではツンの巻き起こした風で一時止まっていた詠唱が再び始まった。
ツンが寂しそうに笑った気がした。
それから、ツンは伊藤に向かって急降下を始めた。
――それはまさに神速だった。
伊藤自身の防御も、周囲の兵隊達の攻撃も圧倒的な速さの前には何の役にも立たなかった。
伊藤はほとんど無防備なままツンに吹き飛ばされた。
ずいぶんな距離を飛ばされ、地上に落ち、何回か弾んだ後に止まると、そのまま動かなかった。
伊藤の首が変な方向に捻れているのが見えた。おそらく即死。何が起ったのかも分からないまま死んで逝ったかもしれない。
そして、伊藤の死に伴い、伊藤に術をかけられていた兵や術師達も気を失い、みな倒れてしまった。
ぼくがツンと見つめ合ってからほんの数秒後。
そこに立っている者は誰もいなくなった。

(^ω^)
 ツンはぼくの所に再び戻って来ると、ぼくの拘束具を外してくれた。
それから、空中で女の子の姿に戻るとぼくに微笑み、そして――墜落して行った。

(^ω^)
「ツン!!!」
ほとんど悲鳴に近い声を上げ、ぼくは急いで柱を降りた。
だが、柱に人が昇り降りをする為のものは何も無く、ぼくは半分は滑り落ちる様に、そしてもう半分は飛び降りる様にツンの倒れている祭壇を目指した。
ツンに駆け寄り抱き寄せると、ぼくは全力で《温守体》をツンに施した。
しかし、その行為にはまったく意味が無かった。
温守体は怪我の様な具体的なものにしか効果が無い。式神の制限を破った事による生じる魔力の様なものには効かないのだ。
それでも、ぼくに出来るのはそれぐらいしかなかった。
意味が無い事と分かりつつもぼくは術を使い続けた。
「ブーン……」
ツンがぼくの名前を呼んだ。
「どうして、どうしてなんだお?」
ぼくは泣きながらツンに問う。
「あんな事をしたら代償として命を失う事は分かっていたはずだお! なのにどうして!?」
ぼくを見つめるツンの頬にぼくの涙が落ちた。
「それに、あのままぼくを放っておけばツンは自由になれたんだよ!」
ツンが手を伸ばし、ぼくの目から涙を拭った。
「そう。でも、あなたがわたしに新しい呪縛を付けたから――」
「何の事だお? ぼくにはそんな力なんか無いお」
ツンはふふと笑って答えた。
「あなたと暮らしたせいで、わたし、一人が寂しいと思うようになっちゃった」
その笑顔にぼくの涙が次々と落ちる。
「だから、そのせいね。こんな事しちゃったのは」
ぼくは心の中がおかしくなりそうだった。いや、おかしくなるのならなりたかった。こんな事、耐えられなかった。
「ツン! 嫌だ! ぼくもツンと一緒にいたいお! ぼくを一人にしないでお!」
ツンが目を閉じるとすーっと涙が流れた。笑顔がどんどん弱ってゆくのが分かった。
「ね、ブーン? わたしが死んでも祈ってくれる? そして忘れないでいてくれる?」

(^ω^)
 その時、ぼくは信じられない事を思い付いた。
そんな事を思い付いた自分は悪魔なのでは無いかとさえ思った。
だけど、それ以外にぼくに出来る事は思いつかなかった。
ぼくは涙を拭うとツンに聞いた。
「ツン、聞いて。ぼくに考えがあるお。それがうまくいけばきっとツンを助けられるお」
ツンが薄っすらと目を開ける。
「でも、ぼくにはそれが出来るか自信が無いんだ。自分の力が信用出来ないんだ」
ぼくは震える声でツンに告げた。
「大丈夫よ」
ツンが言った。
「あなたが自分を信じられないとしても。わたしはあなたを信じてあげる」
「でも、でも――」
「だって、わたしはあなたに既に一度救ってもらってるもの」
ツンはそう言って手を差し出して来た。そしてぼくがその手を握るとツンは言った。
「あなたに会って、わたしは明日を愛せるようになったわ」
ぼくを見上げるツンの瞳。
その蒼色は変わらず深く、その深遠がぼくに決意させた。
「ツン。ぼくがきっと助けてあげるお」
ぼくは一度ツンを祭壇の床に横たえると、祭壇を降りて、倒れている兵士の腰から短剣を抜き取った。
それを持って祭壇に戻り、ツンを再び抱きかかえる。
ぼくはツンを見つめた。ツンもぼくを見つめた。
ぼくを見つめるツンがそっと目を閉じ、ぼくはツンに口付けをした。
そして、ぼくは短剣を振り上げ、――ツンの胸に突き立てた。

(^ω^)
 ビクン! とツンの身体が跳ねる様に震えた。
直後に短剣を引き抜くと、ぼくはその傷口に《温守体》施した始めた。
全身全霊をかけて精神を集中した。
体中、力を込められる場所には全力で力を込めた。
大きく息を吸い、止められる限り息を止め、深々と息を吐いた。
術を使う上で、そんな一連の動作に何の意味も無い事は分かっていた。
ただ、自分に出来る事は全てやらないと気がすまなかった。
ぼくはぼくの使えるたった二つの術の内の一つ、舞雲の術にも失敗した。
ただの水溜り越えでも失敗し、命懸けの状況でさえも、ぼくは失敗し空を飛べなかった。
でも、これだけは、今この温守体だけは失敗出来ない。
何が何でも、どうしてもツンの命を助けたかった。
ぼくは自分の術が信じられなかった。でも、ツンはぼくを信じてくれた。
ツンが信じたぼくをぼくが信じない訳にはいかない。
ぼくは自分にお願いをする。
ツンを助けて。助けて。助けて。助けて。
ぼくは決心を強くする。
ツンを助ける。助ける。助ける。助ける。
ぼくはきっとツンを助ける。
ツンは一人が寂しいと言った。そのツンを一人でこの世から去らせるわけにはいかない。
一人では寂しいから。それはぼくも一緒だ。だから二人でいるために――。

(^ω^)
 どれくらいの時間が経ったのだろうか?
ツンの目がゆっくりと開いた。
「――ブーン」
どこまでも深い蒼い瞳がぼくを見つめる。
ぼくは傷に当てていた手をゆっくりどけてツンの胸を見た。そこには大きな傷跡が残ってはいたが、刺された傷はすっかり治っていた。
胸に耳を当てて心音を聞く。
とくん、とくん。とツンの心臓は動いていた。
「もう、大丈夫だお」
ぼくはツンに伝える。
「わたし、生きてるの?」
ツンはまだ不安な顔でぼくを見つめる。
「そうだお。胸の傷も治ったし、魔力で死ぬ事もなくなったお」
「でも、どうして?」
ぼくは説明した。
 式神には三つの制限がある。
「主人の命令以外での攻撃は出来ない。これを破れば自身の命が無くなる」
「但し、自分を攻撃するものへの攻撃は可能」
「自分の攻撃対象を狙う第二の敵への攻撃も可能」
ツンはぼくのために、自分を攻撃しない伊藤への攻撃を行った。これによって制限を破った事になり、制限の魔力で命を落としそうになっていたのだ。
でもぼくは二番目と三番目の制限を利用する事を思い付いた。
ぼくはツンを短剣で殺そうとした。これでぼくは二番目の制限により、ツンの敵で攻撃対象になった。
そして、そのことによって、ぼくを殺そうとした伊藤は、三番目の制限の、自分の攻撃対象を狙う第二の敵となり、ツンから伊藤への攻撃が有効になったのだ。
 でも、これを成功させる為には、ぼくは本気でツンの命を危険にさらさなければならなかった。
そして、温守体が効かなければ、ツンはそのまま命を落としていたのだ。
「そう。助けてくれてありがとう」
ぼくの説明を聞いてツンが言った。
「ううん。君が信じてくれたから。だから、ぼくは君を助けることが出来たんだお」
それからぼくの顔を見て笑う。
「ブーン、わたしの敵になったのね」
「そうだお。――と、ところで」
ぼくはツンに残してしまった傷の事を思い出した。
「なに?」
「せっかく、綺麗にしてもらった身体にまた傷を残してしまったお。……ごめんだお」
ぼくがそう言うとツンが首を振って言った。
「いいの。これはあなたが助けてくれた思い出だから」

(^ω^)
 その時、祭壇の下から呻き声が聞こえた。
気を失っていた、伊藤に術をかけられた兵士達が再び活動を始めたようだ。
十数人の兵士が起き上がり、剣を握ったまま何かを探すように周囲を見回していた。
その中にぼくの知っている、ショボンという、おじいちゃんの弟子の弟子がいた。
ショボンを含めた全員が虚ろな表情でよたよたと集合し、何かをぼそぼそと話し合っている。
その時、ショボンがこちらに気付いた。
ショボンが全員に何かを伝えると、そのショボンを先頭に兵士達がゆっくりとぼく達の方に向かって来た。
ぼくは近くに落ちていた剣を拾い上げ、ツンを守るように身構えた。
「ツンはぼくが守るんだお!」
そう叫んで、ぼくは兵士達に向かって祭壇から飛び降りた。
――ぐき。と音がして着地したぼくの足が捻れた。
あまりの痛みに立っている事も出来ず、ぼくは剣を落として座り込んだ。
必死で温守体を施すが、まったく効かない。
そうしている間にも兵士達は一歩また一歩とぼくに迫る。
ぼくは痛みと吐き気を堪えながら必死で拳を握り、構えた。
そうして、眼前にショボンの顔が迫った。
冷や汗をかくぼくにショボンが口を開いた。
「なぁ、オレ達なにやってるんだ? みんな気が付いたらここにいて、何がどうなってんだかさっぱり分かんないんだけど……ブーン、お前知ってる?」
ショボンが眉を下げて聞いてきた。

(^ω^)
 伊藤の死で、術にかかっていた兵士達や術師達は開放されて、自我を取り戻した。
陰陽師団は元のあるべき姿に戻り、この国を支配しようなんていう計画は無くなった。
 ツンはそのまま本部で契約術師を調べてもらい、高尚術師だった貞子によって契約を解除され、自由の身になった。
全てはめでたしめでたしと言ったところだ。
 さて、ぼくはと言えば、祭壇から飛び降りた拍子に捻挫した足が治らず、あれから数日間、自分の家で静養していた。
ぼくが家から出られずにいる間に自由の身となったツンは何処かへ行ってしまったらしい。
これからも二人で一緒に暮らすと思っていたぼくはがっかりした。
ツンは妖界へ帰ってしまったのだろうか?
何だ。結局、本当に一人が寂しいのはぼくだけだったのか。
そんな事を思いながら、ツンの事を考えた。
「ふん。人は軟弱ね」
とツンが言うのが聞こえるような気がした。

(^ω^)
 一週間後、足の治ったぼくは久々に家を出て歩き始めた。
町を出て、畑を通り、田んぼを越えて歩いた。
まだ少しだけ痛む足を休めながら。
川を渡り、林を進み、森を抜けた。
そうして、ぼくはツンと暮らしたあの家に来た。
扉に手をかけてみたが、錠がしてあり、開かなかった。
――あの時、同じ様にこの扉が開かなかったら、ぼくはツンと出会う事は無かった。
窓の隙間から中を見たが、ツンはいなかった。
家の中は整然としており、もう何日も使われていないようだった。
やっぱりいないのか。ぼくは小さく溜め息をついた。
それから家の周りを何周かすると、やっと諦めがつき、自分の家に帰ることにした。
明るい竹林の中をかさかさと音を立てて歩く。
その時、ざぁっと一陣の風が吹き、竹林の葉が大きく揺れた。
その揺れと葉のざわめく音は、上の方からぼくを中心にぐるぐる回りながら、だんだんと近づいて来る。
そして、目の前でつむじ風が起きると、ぼくの目の前にはかわいい女の子が立っていた。
透き通る様に白い肌、左右で結ばれた金色の髪、そしてどこまでも深い蒼い瞳。
「ツン――」
ぼくが彼女に近寄ろうとすると彼女が頬を紅く染めながら言った。
「あっ、あんたに会いたくて戻ってきたんじゃないんだからねっ」
「うん」
ぼくは頷いた。
「あんたはわたしの敵になったのよ! だから、あんたを殺すのはわたしなんだから、それまで他の誰かに殺されないように見張る必要があるでしょ!」
「うん」
ぼくは再び頷く。
「だから――」
「だから?」
うつむいたツンが蒼い目だけを見あげると言った。
「だから、あんた。これからもわたしと一緒に暮らしなさいよ」
「うん」
ぼくはもう一度頷いた。


2006.10.28掲載


感想・批評等お願いします。[ゲストブックへ書き込む]
TOPへ戻る