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ブーンがツンとぶつかってツンが記憶喪失になったようです

(^ω^)
 研究室の窓から見える空はすっかり晩秋で、ぼくはこれから来る冬のことを考えていた。
今年こそは誰かと一緒に、心だけは暖かい冬を過ごしたい。
そんな事を考えながら実験をしていたぼくはうっかりビーカーを割ってしまった。
ビーカーの割れる音に呼応するかのように聞こえてきたのはツンさんの怒鳴り声だった。
「バカっ!何やってんのよ!内藤、またあんたなの!?」
ツンさんは人に対してとても厳しい。
「あんたがそんなだと、この大事な研究が進まないじゃない!わかってんの!?」
ツンさんがぼくのことを怒鳴っている間、他の研究生達はまたかという表情をしていた。
そう、こんな罵声はいつものこと。ツンさんはいつでも人を怒鳴っている気がする。
はっきり言うとツンさんはみんなに嫌われていた。
ちょっとした事ですぐに人を怒鳴り、感謝や謝るということを決してしないツンさん。
それでもその優秀な頭脳で独自の研究を進め、今、ある研究を完成させようとしている。
その研究が完成すれば、難病で苦しむ何千という人たちを救うことが出来るようになるという。
だが、その何千人が救われる前にぼくたちは何万回と怒鳴られることになるだろう。

(^ω^)
 ツンさんがぼくに文句の言葉を吐きつづけていると教授が現れた。
「やぁ、ツンくん。研究の進み具合はどうかな?」
教授はしまりの無い笑顔を浮かべながらツンさんを手招きした。
「君に紹介したい先生がいるんだ。ちょっと来てくれないかね」
ツンさんはぼくを一瞥すると教授と共に部屋を出て行った。
残されたぼくたちはまた実験を再開し、ぼくはビーカーを片付け始めた。
慎重に破片を集めているとドクオが話し掛けてきた。
「相変わらず、ツンさんったらひどいよな。ビーカー割ったくらいでさ。みんながこの実験のために努力してくれる他のことには一切感謝無しでよ。顔はかわいいのに、あの性格じゃあなー」
ぼくは破片を新聞紙にくるんでゴミ箱に捨てながら言った。
「しょうがないお。ビーカーを割ったのはぼくが悪いんだし」
「それにしたってよぉ。お前ぐらいだよ?ツンを嫌ってないの」
「確かに厳しい人だお。でも苦手なんだお、人を嫌うのって」
ぼくの答えを聞いたドクオはまだまだ文句を言い足りないという表情だった。
「教授も教授だよ。ツンさんの味方ばっかりしてさ。こんな悪い雰囲気じゃあ研究もうまく進まないぜ」
ドクオはちらっとドアの方を確認すると話を続けた。
「教授はさ、この研究が発表されると指導教官である自分の評価も上がるから、だからだぜ。ツンさんに甘いのは」
「でもこの実験は多くの人を助けるんだから、やる価値はあるお」
ぼくがそう言った時、ふいにドアが開きツンさんが戻ってきた。
ドクオは「ヤバッ!」というと自分の実験テーブルに戻って行った。
その時、小声で「今夜また、みんなでオレの家で飲むんだけどお前も来ないか?女の子達も来るぜ」と聞いてきた。
「残念だけど、まだやらないといけない実験と準備があるからたぶん行けないお」
とぼくは断った。事実、まだまだやらないといけない事が一杯あった。
今夜も遅くなりそうだ。

(^ω^)
 時計の針は12:00を超え、翌日になっていた。
ぼくは何とか今日中に終わらせないといけない実験と準備を終えた。
研究室に残っているのは自分だけかと思っていたら、隣の部屋にツンさんがいた。
彼女は飲み会には誘われなかったのだろうか。
ぼくはツンさんに声をかけた。
「ツンさん、お先に失礼しますだお」
こっちを振り返ったツンさんはひどく眠そうな顔をしていた。何日も実験で遅いのだろうな。
そういえば誰かが「あいつ、この研究を発表したら一躍有名人だからな。それで一所懸命なんだろ。何日も徹夜したりしてるみたいだぜ」と言っていた。
「ツンさん、疲れてるみたいだお。たまには息抜きした方がいいお」
僕はちょっと心配になってそう言ってしまった。
「余計なお世話よ」
ツンさんはとりあってもくれなかった。
「今日も研究室のみんなでドクオの家に集まってるお。ツンさんもたまにはどうですかだお?」
そうぼくが誘うとツンさんはメガネを外しながらこう言った。
「ここに来てから友達の家に行ったり、友達を家に呼んだりしたことなんて無いし、それに…そもそも友達と言える人がいないわね」
そういえば、みんなでの飲み会で彼女を見かけたことがない。
ぼくはちょっとショックだった。
彼女を嫌いな人が多いは知っていたが、そんなに嫌われていただなんて。
「明日はしっかりやってよ」
ツンさんはそういうとまたメガネをかけて自分の端末に向かってしまった。
ぼくはそっとドアを閉めて家路についた。
夜はすっかり寒くなっていた。

(^ω^)
 翌日、ぼくはうっかり寝過ごしてしまった。
まずい、このままでは遅刻してまたツンさんに怒られてしまう。
ぼくは急いで仕度をすると玄関を飛び出した。
この時間ならまだブーンすれば間に合うはずだ。ぼくは両手を広げてブーンで研究室へ向かった。
そして、いつものたばこ屋の角を通り抜けようとした時だった。
突然、頭に大きな衝撃。視界が真っ暗になりいくつもの星が舞い、ぼくは倒れた。
倒れているぼくは自分の下に何かやわらかいものがあるのに気がついた。
とくに右手の下が格段にやわらかい。
何だろう?とてもやわらかくて気持ちのいいもの。
それから目の前に誰かがいる。誰だろう?
上半身を起こして頭を振ると軽い頭痛がしたが意識ははっきりしてきた。
ぼやけていた視界が戻ってきて、ぼくは目の前の誰かの顔を見た。
!!!ツンさんだ!
ツンさんもぼくに気がついたようだった。
さらにぼくは右手に感じるやわらかいものを確認しようと右手をみた。
ツンさんも何故かぼくの右手の先を見た。
!!!ぼくの右手の先、そこにあったのはツンさんの胸だった。
ぼくは慌てて手を引っ込めた。そしてあらためて見ればぼくはツンさんに馬乗りになっていた。
「ごっ、ごめんなさいだお!」
ぼくは叫びながら飛び退いた。
飛び退いたぼくが目にしたのは、倒れた弾みでめくれあがってしまったスカートからのぞくツンさんのパンツだった。
ぼくは再び謝ることになった。

(^ω^)
 落ち着いて状況を確認した。
どうやらぼくは右からやって来たツンさんに気づかずにブーンで交差点に進入。彼女にぶつかったらしい。
よく見ればツンさんのひたいが少し赤くなっている。お互いに頭をぶつけたのだろう。
路上にはツンさんの荷物とぼくの荷物が散乱していた。それと何故か、かじりかけのトーストが一枚。
ぼくはツンさんを起こしながらもう一度謝った。
「ごめんなさいだお」
ツンさんはまだ意識がはっきりしていないのだろうか、少しぼーっとした表情でこちらを見ていた。
しかしその表情は次第に困惑へと変わっていった。
ツンさんがぼくの方を見て口を開いた。
「ここは…、どこ?」
何かを必死に思い出そうとしているようだった。
そしてしばらくしてあきらめ、再びぼくを見て聞いてきた。
「それから、わたし…だれ?」

(^ω^)
 ぼくらはとりあえず、研究室に来た。
ツンさんの研究室の身分証明書があったので、ここに来ることは納得してもらえたからだ。
研究室には教授を始め、ほぼ全員が揃っていた。
「そういう訳で、ツンさんが記憶喪失になってしまったお」
ぼくが一通り説明すると教授は真っ青になってツンさんに詰め寄った。
「ど、どうなんだツン君!本当に何も憶えていないのかね!?」
ツンさんは困惑の表情で教授を見つめた。
「こ、これはどうかね?君が今、研究中の論文だ!これについては憶えているよな!?」
彼女の論文を必死に振り回しながら教授はツンさんに聞いていた。
ツンさんはそれを受け取ると、数ページをめくった。
「わかりません。何が書いてあるのかまったく…」
彼女はほとんど泣きそうな表情になっていた。
そして、その言葉を聞いた教授は絶望の表情をしていた。
教授はぼくの方を向いて
「こうなったのは全て、内藤!お前のせいだ!責任もって彼女の記憶を取り戻したまえ!」
そう言うと、大きな音を立ててドアを閉めて部屋を出て行ってしまった。

(^ω^)
 とにかく今日はもう家に帰った方がいいかもしれない。
そう思い、ツンさんに住所を聞いてみたけど、やはり住所も覚えていなかった。
研究室の他の人に聞いてみたけれど、誰もツンさんの家を知らなかった。
持ち物の中には住所が記載された物は無く、携帯電話からも手がかりは得られなかった。
このままでは記憶が戻るまで帰る家すらない。とりあえず誰かの家に泊めてもらわないと。
研究室の女の人に相談してみたけれど、誰もが「ツンさんを家に泊めるのはちょっと…」と拒まれてしまった。
ツンさん、やっぱり嫌われているみたいだお。
その内に「お前が原因なんだから、お前が面倒を見るべきだ」という意見が広がり、結局ぼくがツンさんを泊めることになってしまった。

(^ω^)
 医者の話では脳に損傷は見つからないのでショックによる記憶喪失という話だった。
ただし、記憶がいつ戻るかは分からないらしく、一時間後かも知れないし、もしかしたら何年もかかるかも知れないということだった。
とにかく、ぼくはそれまでの間ツンさんの面倒を見ないといけなくなった。
ぼくらは帰り道の途中でスーパーに寄り、ツンさんの生活用品を買った。
ツンさんはもちろんお金もあまり持っていなかったので、これらは全てぼくの支払い。ちょっと痛いお。
家に着くと玄関でツンさんはたたずんでしまった。
どうしたんだろう?もしかして靴の脱ぎ方も忘れてしまったのかお?
ツンさんに声をかけると少し驚いたようだった。そしてすごく不安そうな顔をしている。
そうか、記憶を無くした上に憶えてもいない人間の家に入るのだ。不安に違いない。
ぼくはキッチンでお湯を沸かして紅茶を作った。
それから玄関のツンさんに渡して、これを飲んで落ち着いたら上がってくるといいお。と言った。
10分ぐらい経っただろうか、ぼくがソファーで雑誌を読んでいると玄関の方から足音が近づいてきた。
「お、おじゃまします」
そう言ってツンさんは入ってきた。

(^ω^)
 「ツンさんは嫌いな食べ物はあるかお?」
ぼくは聞いた。そろそろ晩御飯を作らないといけない時間になっていた。
「嫌いな食べ物…。わからない」
そうだ、記憶が無いんだった。
それにしても記憶喪失のメカニズムとはよくわからないお。
自分の名前や嫌いな食べ物は憶えていなくても日本語は覚えているし靴の脱ぎ方なんかも忘れていない。
「それじゃあ、とりあえず作るから食べて嫌いだったら言ってほしいお」
ぼくはキッチンに入って夕飯を作り始めた。
ツンさんはソファーにうずくまってぼくの読んでいた雑誌をぱらぱらとめくっている。
夕飯はハンバーグとサラダにご飯とお味噌汁にした。
ダイニングテーブルに出来上がった料理を並べてツンさんを呼んだ。
「とりあえずハンバーグにしてみたお。これなら嫌いって人はあんまり聞かないから」
ツンさんを席につかせると、ぼくは食べはじめた。
「いただきますだお〜」
ツンさんは一品づつ全ての料理を確認するかのように眺めると、とても小さな声を出した。
「い、いただきます…」
それからツンさんはゆっくりと食べ始めた。

(^ω^)
 それにしてもまさかツンさんと二人、ぼくの家でご飯を食べることになるとは。
ぼくはこれからどうしたものかと考えながら食べていた。
「これ…、嫌い…」
ツンさんは苦そうな顔をしながらそういうと、サラダの中のピーマンを指した。
「それは、ピーマンだお。そうか、ツンさんはピーマン嫌いなんだね」
小さくうなずくとハンバーグの付け合せのにんじんも指した。
「それから…、これも…」
「それは、にんじんだお。ピーマンとにんじんが嫌いなんて、ツンさん子供みたいだお」
ぼくはつい微笑んでしまった。
あの、人を怒鳴ってばかりのツンさんがピーマンとにんじんが嫌いだなんて何だかかわいい秘密を知ってしまった。
「それと…、これ」
ツンさんはハンバーグを指した。
「ええ!?それも嫌いだった?ごめんだお。まさかハンバーグが嫌いとは思わなかったお。それじゃあ何か新しいおかず作るお」
席を立とうとするぼくに向かってツンさんは首を振った。
「ううん。これは…、おいしい…」
ツンさんはそう言ってぼくを見た。
「ありがとうだお!」
ぼくはツンさんにお礼を言った。
「ありがとう?」
ツンさんは不思議そうな顔でぼくを見た。
「そうだお。ぼくのハンバーグを美味しいと言ってもらえて嬉しかったから感謝の言葉だお」
ツンさんはふたたびハンバーグを見てつぶやいた。
「うれしかったからお礼の言葉、感謝の気持ちを相手に伝える言葉」
それからツンさんはピーマンとにんじん以外の全ての料理を食べ、ぼくが後片付けをしている間、またソファーに戻って雑誌をめくっていた。

(^ω^)
 翌日にぼくらは研究室に行った。
ぼくの家にいるよりも研究室の方が記憶が戻るきっかけがありそうだと思ったのだ。
最初、ツンさんはどこにも居場所がないかのように部屋の隅っこにいた。
その後、ぼくがツンさんの使っていた机に案内するとそれでも居心地悪そうにしていたがそこにずっといた。
他の研究生達はあえてツンさんを避けているようだ。
たしかに、記憶喪失の人になんてどう接したらいいんだか分からない。
教授も一度研究室に来たが、ツンさんの記憶が戻っていないと分かるとすぐに部屋を出て行ってしまった。
結局、夕方まで研究室にいたけれど何の進展もなかった。
ぼくらはまた夕飯の買い物をして家に帰った。
今日はパスタとサラダ。サラダはもちろんピーマンを入れていない。
「めしあがれだお!今日のサラダはツンさんのためにピーマンを入れてないお」
そうぼくが勧めるとツンさんは小さい声で言った。
「あ、ありがとう。わたしの為に…」
ツンさんはそう言うと、真っ赤な顔をしてうつむいてパスタを食べ始めた。

(^ω^)
 「ツンさんに喜んでもらってぼくも嬉しいお」
ぼくがそういうとツンさんは不思議そうに聞いてきた。
「わたしがお礼を言うと、内藤がうれしいの?」
ぼくは首を振った。
「ううん、お礼を言われるのが嬉しいわけじゃないお。
ぼくはツンさんに喜んでもらえるのが嬉しいんだお。
ツンさんが嬉しくなることがぼくの喜びなんだお」
何を言ってるんだぼくは?自分で言いたいことがわからなくなってしまった。
するとツンさんがぼくの目を見てつぶやいた。
「わたしの喜びは内藤の喜び、内藤の嬉しさはわたしの嬉しさ。
お礼を言うと喜びと嬉しさが生まれて、それが人の数だけ増えるんだね」
ツンさんはそういうと、ふたたび赤い顔で、少し嬉しそうにパスタに向かった。

(^ω^)
 食べ終わって、ぼくはキッチンで洗い物をしていた。
ツンさんが「手伝う」とだけ言って、洗ったお皿を拭いてくれた。
拭き終わったお皿を棚にしまおうとツンさんがかがんだ時、洗い物をしていたぼくにぶつかった。
その弾みでぼくは水道の蛇口をスポンジで押さえてしまい、行き場を失った水は僅かな隙間から激しくキッチン中に降りそそいだ。
「キャー!」いきなり水をかけられてツンさんは驚いて悲鳴をあげた。
ぼくはすぐに蛇口からスポンジを離して水を止めた。
「ご、ごめんだお!」
床にしゃがみこんだツンさんはびしょぬれだった。
「大変だお」
ぼくはとっさに近くにあった布でツンさんにかかった水を拭いた。
ツンさんがぼくを見上げた。髪から水がしたたり落ちている。
「内藤もびしょぬれだよ」
そういうと、ぼくの手から布を取ってぼくの顔を拭き始めた。
そして二人同時に、ぼくの顔を拭いているその布が雑巾だと気付いた。
ツンさんは目をそらしてうつむいて黙ってしまった。
そして、少しすると消えそうな小さい声で
「ご、ごめんなさい。わたし…」
と言って、他のタオルを探し始めた。
「大丈夫。気にしなくていいお。それに、元はと言えばぼくが渡したんだお」
ぼくはそう言うとこらえきれずに笑い出してしまった。
ぼくが笑うのを見てツンさんも笑った。
キッチンでふたり、ぬれたまま笑っていた。

(^ω^)
 翌日、また研究室へ行ってみた。
実はここ以外のどこに行ったらいいのか思い浮かばなかった。
ツンさんはまた自分の机で過去に自分が書いたレポートを読んだりしていた。
ぼくはやらなければいけないことがあったので、お昼にツンさんと食堂で待ち合わせをして部屋を離れた。
お昼になり、食堂へ向かう途中でドクオが興奮した様子でやってきた。
「内藤〜、ちょっと待てよ。あれ、どうしたんだよ?ツンさん、変じゃないか?」
ぼくは慌てた。ツンさんの具合が悪くなったのだろうか?
「どうしたんだお!ツンさんに何かあったのかお!?」
「おいおい、落ち着けよ。別に何かあったわけじゃないよ」
ドクオはそう言って何があったか話してくれた。

(^ω^)
 待ち合わせの食堂にはツンさんが先に来ていた。
ぼくはツンさんに謝った。「遅れてごめんだお」
ツンさんは「いいよ、気にしないで」と言い、それからとても嬉しそうに話を始めた。
「今日はね、みんながとても優しかったの。なんだか嬉しかったなー」
そうだ。さっきのドクオの話――。
ぼくが部屋を離れた後、誰かが紅茶を入れ、それをツンさんにも出したらお礼を言われたらしい。
それもとびっきりの笑顔で。
それから、部屋を歩いていて机にあった誰かの資料をひっかけて落とした時にはその人に謝ったという。
以前なら、こんな所に置いておいたら危ない、置いている方が悪い。位のことは言ったもんだ。
そういえば、記憶を無くしてからのツンさんはとても素直だ。
きっと彼女はもともと悪い人では無いんだと思う。
ただ色々と複雑な感情があって素直になれなかっただけなんだろう。
それが、記憶を無くしたことでそれら自分自身という枠から開放されて素直になったんだろうか。
素直になったツンさんはなんだかとてもかわいく見える。
今、こうして目の前で話している彼女を見てもちょっとドキドキしてしまう。
「それはよかったお」
ぼくも何だか嬉しかった。
ツンさんが資料をひっかけて落とした事を話した。
「ねぇ、内藤。昨日の夜、あの時に気付いたんだけどね」
「キッチンで水かぶった時のことかお?」
「うん、そう。あの時、気付いたの。誰かに『悪いなー』と思った時ね」
「うん?」
「あやまると、何だかホッとするね」
彼女はそう笑顔で話した。
そんな彼女の話に相槌をうちつつ、彼女の笑顔を眺めているのがぼく自身とても楽しかった。

(^ω^)
 その日の夜は借りてきた映画を観ながらピザを食べることにした。
ピザは嫌いな物があるといけないので2種類を頼んだが、どちらも美味しそうに食べていた。
それからコーラ、これは飲めることが分かった。
映画はレンタルビデオ屋にある何千という中からツンさんが「これ、知ってる気がする」と言って選んだ一本だった。
それは、貧乏な青年と上流家庭のお嬢様が恋に落ちたり、乗っている船が沈んだりする映画で、
ツンさんはアクションシーンでは身を乗り出し、時々声を出してハラハラし、
ダンスのシーンでは本当に楽しそうにニコニコし、
ロマンチックなシーンでは自分が恋をしているかのようにドキドキしながら観ているようだった。
映画を観るために照明を落とした部屋で、画面の明るさで浮かび上がるツンさんの横顔をぼくはドキドキしながら観ていた。
今まで研究室で見ていたツンさんはよく怒る人、それだけだった。
でも今、ぼくの横にいるツンさんは豊かな感情を持った、とてもかわいい人だ。
そして映画のクライマックス、ツンさんの目から涙があふれたのを見た時、ぼくは自分が恋に落ちたのに気がついた。

(^ω^)
 翌日の研究室は和やかな雰囲気だった。
みんながツンさんの記憶を取り戻す手がかりを探そうとしてくれた。
今の記憶の無いツンさんは人を怒鳴ったりしない。それどころかとても素直でかわいい女性だ。
みんなそんなツンさんに惹かれているのだろう。
あれこれ質問をしてみたり、色々な物を見せたりしていた。
それら一連の事を見ていて気がついたのは、ツンさんが忘れているのは自分に関することばかりだという事だった。
まるで、自分の存在を消したかったかのように。
ツンさんは変わりたかったのかもしれない。
でも実際にはどうすることも出来なかった。
そこで、ぼくとぶつかった拍子に自分の嫌いだったところが出てこなくなったのか。
そんなことを考えていると、ふいにツンさんがみんなに質問をした。
「ねぇ、わたしはどんな人だったの?」
一瞬、みんな口をつぐんでしまった。
どうにも、人に怒ってばかりで常に機嫌の悪いあのツンさんと今のツンさんが結びつかなかったのだ。
今のツンさんが元々の自分のことを知ったらどう思うだろうか?
そう思うと誰も何も言えなかった。

(^ω^)
 誰も何も答えてくれないことにツンさんは不安を感じたらしく、その表情はどんどん哀しげになっていった。
ぼくは慌てて話を始めた。
「ツンさんは、難病の人を救う研究をしていたんだお」
そうだ、ツンさんは人を救う研究をしていた。
その研究に辿り着いたのは偶然だったんだろうか?
そんな事は無いだろう。明確な目標を持って研究を進めないかぎりこれだけの成果は出せないはずだ。
ぼくは確信した。
ツンさんは決して自分の評価のために研究していた訳ではない。本当に人を救いたくてこの研究をしていたのだと。
ぼくはツンさんを見て言った。
「きっとツンさんは、心の中はとてもやさしい人だったんだお。人を救うための研究をとても一所懸命にやっていたお」
「心の中は?」
ツンさんが不安そうに聞いてきた。
しまった。うっかりそんな言い方をしてしまった。
以前から思っていたが、ぼくはデリカシーにかけるようだお。
ごまかしようが無いのでぼくは正直に話した。
「ちょっとだけ、誤解されやすい態度が多かったお」
「誤解されやすい態度?」
「人のことをよく怒っていたお」
ツンさんは案の定、寂しげな顔をしてうなだれてしまった。
ぼくは慌てて話を続けた。
「でもそれはきっとぼく達の誤解だったんだお」
「誤解?」
「そう、ぼく達が本当のツンさんを分かっていなかったんだお。だって、それに…」
「それに?」
ツンさんがぼくを見上げた。
ぼくはツンさんの目を見つめて言った。
「それに、今の君はこんなにも素敵だお」

(^ω^)
 ツンさんの顔が真っ赤になった。
そんなツンさんの顔を見て、ぼくは気がついた。
これでは告白したも同然ではないか。
次の瞬間、ぼくは自分の顔が赤くなっていくのがはっきり分かった。
ぼくらが赤い顔のままお互いを見つめ合っていると、突然ドクオが叫んだ。
「おっ、オレも今のツンさんの事、好きだぜ!」
それを皮切りにみんなが、おれも私もと同意し始めた。
ツンさんはみんなの顔を見渡しながら驚いていた。
それから、まぶしい笑顔で
「みんな、ほんとにありがとう」
と小さい声ながらも言った。
そして最後にぼくの方を振り返った彼女の目からは涙が溢れそうだった。

(^ω^)
 その夜、ぼくらはドクオの家に行って、みんなと飲んだ。
ツンさんはどれ位飲めるのか分からないので、少しづつ飲んでもらう事にした。
飲み会はいつも以上に盛り上がり、気が付いた時には終電も無くなっていて、いつものようにそのまま朝まで飲むことになった。
ツンさんは意外なほどお酒に強くて、一人また一人と眠りに落ちて行く中、最後まで起きていた。
そして、ツンさんのお酒をコントロールしていたぼくもまたあまり飲まなかったせいで最後まで起きていた。
「ちょっと片付けようか」
そう言うとツンさんはテーブルの上のグラス類をキッチンに持って行って洗い始めた。
ぼくがテーブルの上の残った食べ物を片付けていると、キッチンからツンさんの小さい悲鳴とグラスの割れる音が聞こえた。
ぼくはあわててキッチンに行った。
「あはは、さすがに酔ってるみたい。グラス落として割っちゃった」
「大丈夫?危ないから気をつけてだお」
ツンさんが割れたグラスを片付けようとしていたけれど、酔っているみたいなのでぼくがやることにした。
「心配だからぼくがやるお」
ツンさんはぼくを見て聞いてきた。
「心配?」
「そうだよ。君に怪我をして欲しくないんだお」
ツンさんがぼくの目を覗き込んできた。
「内藤はわたしの心配をしてくれるの?」
ぼくはツンさんの瞳を見返しながら言った。
「ぼくは――、君のことを想っているんだよ」
みんなの寝静まった深夜、二人きりのキッチンでぼくらはキスをした。

(^ω^)
 翌朝、研究室に行くと教授がツンを探していた。
教授はツンを見つけるとすぐに満面の笑顔で近づいてきた。
「ツンくん!君の記憶を戻す方法が見つかったよ!明日、その治療を行うから説明がある。ちょっと来てくれないか」
そう切り出すとツンを連れて何処かへ行ってしまった。
研究室に残されたぼくやドクオたちはとても喜んだ。
しかし、15分後に帰ってきたツンは嬉しそうではないばかりか少し青い顔をしていた。

(^ω^)
 ツンの話によるとこういう事だった。
教授は他の研究室で作られた短期記憶喪失を治す薬を手に入れたらしい。
これは、来年には発売される薬で安全性には問題は無いという。
それならいいじゃないか。そう思ったが、ひとつだけ副作用があるという。
それは、記憶を失ってからその薬を投与するまでの間の記憶が残らない。ということ。
つまりは記憶を失う前の状態にリセットされてしまうのである。
説明を終えたツンはぼくを見ながら聞いた。
「ねぇ内藤。そしたら今のわたしは何処に行っちゃうの?」
ぼくは何も答えられなかった。
「わたしは、いなくなっちゃうのと同じなのかな?」
ツンはぼくと一緒に過ごしたこの数日の記憶を失う。
そしてぼくは、ぼくの愛したツンを失うことになるのだろうか?
ぼくには分からなかった。ぼくが愛したツンは誰なのか。ツンの愛はどこにあるのか。
そんな問題に答えられるわけが無い。
ぼくらは何も話すことが出来なかった。
しばらくするとツンがつぶやいた。
「でもわたしの研究が止まったままだと、何千という病気の人が苦しみ続けてしまうんだよね」
そう言ったツンはたぶん、もう決心しているのだろう。
それでもぼくは何も言えなかった。
「ねぇ内藤。今晩はまたハンバーグがいいな」
そう言うツンは笑顔だったが、頬には涙の跡があった。
「じゃあ、とびきり美味しいのを作るお」
ぼくはそう言うのが精一杯だった。

(^ω^)
 その夜、ぼくらは一緒にハンバーグを作った。
そして、楽しい話だけをして笑い。
共に朝を迎えた。

(^ω^)
 明け方にぼくが少し眠ってしまうと、ツンは眠るぼくを残して一人で出て行ってしまった。
ダイニングテーブルには「ありがとう」とだけ書かれたメモが置かれていた。
ぼくはそのメモをポケットに突っ込むと研究室へ向かった。
研究室にはツンと教授がいた。
教授はぼくを見つけると
「お、内藤君。彼女の記憶はすっかり戻ったよ。今までご苦労だったね、君の役目は終わりだよ」と言った。
ぼくはツンを見た。
ツンはぼくと一瞬だけ目をあわせると何も言わずに自分の端末に向かい教授と話を続けた。
――君の役目は終わりだよ。
教授の言葉が頭の中で繰り返された。
そうだ、ぼくの役目は終わったんだ。
ツンはやはりぼくの事、ここ数日の事、全ての記憶を失っていた。
元の、数日前のツンさんに戻っていた。

(^ω^)
 これも失恋なのだろうか。ぼくはどうにもやりきれない思いを抱えていた。
今日はもう帰ってしまおうか。そう思ったけれど、ツンの思い出の残るあの部屋に帰るのもいやだった。
午前中を屋上で過ごし、お昼を過ぎて研究室に戻った。
研究室ではツンさんを始め、みんなが今まで通り何も無かったかの様に実験をしていた。
ぼくは自分が担当している実験の準備を始めた。
ぼくを見つけるとドクオが寄って来て「ツンさん、戻っちゃったな。残念だよ」と言った。
みんなツンさんが戻ったことに気がついたのだろう。実験室全体にそんな雰囲気が漂っていた。
ぼくはドクオに「そうだね」とだけ言った。
やる気が出ずにだらだらと準備をしていたぼくはうっかりビーカーを落としてしまった。
ビーカーの割れる音に呼応するかのように聞こえてきたのはツンさんの怒鳴り声だった。
「バカっ!何やってんのよ!内藤、またあんたなの!?」
その怒鳴り声にみんなが失望の表情を浮かべた。
やはり元のツンさんに戻ってしまったのか。
そして、ぼくがツンさんに謝ろうと彼女の顔を見たその時だった。
彼女は顔を真っ赤にしながら、小さい声でこう続けた。
「あっ、危ないじゃないの。あなたが怪我でもしたらどうするのよ…」

(^ω^)
 その唐突な好意に驚いたぼくは思わずお礼を言った。
「あ、ありがとうだお」
「ばっ、バッカじゃないの?何お礼なんて言ってんのよ。
いいわよ、そんなの気にしないで。
それにいつも手伝ってもらってお礼を言いたいのはこっちよ。
と、とにかく気をつけなさいよ!」
そこまで言って、彼女は目をそらして振り返ってしまった。
それから、それは小さな小さな声だったけれど続けてこう言った。
「それと…いつもありがと」
ああ、ツン!ぼくの愛したツン!
大丈夫、君はここにいるよ。君はいなくなってなんかないよ。
ぼくらが過ごしたこの数日は小さく、だけど確かにツンの中に残っていた。
そして、その数日は研究室から見える空をすっかり冬空に変えていた。
これから来る冬、ぼくはツンを愛し続けると思う。いつかは彼女も再びぼくのことを好きになってくれるだろうか。
今年の冬はもしかしたら、ツンと一緒に心の暖かい冬を過ごせるかもしれない。
ぼくは割れたビーカーを片付けながら、彼女の後姿から見える真っ赤になった耳を眺めていた。


2006.1.17掲載


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