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どうやらブーンはツンの父親だったようです

(^ω^)
 晩秋のお葬式はひときわ寂しい。
ここ数日、寒さが一段と厳しくなり、火葬場の待合室には既にストーブが点いていた。
底冷えのするコンクリートの建物で、わたしはたった一人、ストーブのそばにいた。
 ストーブの炎を見ながら、わたしは死んでしまった母の事を想い出していた。
母は父との恋愛を許されず、駆け落ち同然で家を出ていた。
それなのに、わたしの父はわたしが生まれる直前に事故で死んでしまっていた。
残された母は、ピアノの先生をしながらわたしを育ててくれた。
「わたしがツンに伝えてあげられるのはこれぐらい」
そう言って、母はわたしにもピアノを教えてくれた。
父の事を聞くと、最初哀しそうな顔になるが、すぐに笑顔になり「でも、ママは幸せだったのよ」と言った。
料理が下手で、わたしが作る料理を「おいしい。ツンは良いお嫁さんになれるわね」と言って食べてくれた。
生活は楽では無かったはずなのに、どこか大らかな所があり、困った時も「あらあら、うふふ」と笑ってやりすごしていた。
そんな母が死んでしまった。事故だった。
悲しいはずなのに涙も出ず、わたしはじっと炎を見続けていた。
 火葬場を出ると、高校のクラスメイトのクーが待っていてくれた。
クーは「寒かっただろう」と言って、わたしに温かい飲み物をくれ、それから、無言で一緒に歩いてくれた。

(^ω^)
 アパートの入り口でクーと別れて家に入った。
家の中が何だか今まで以上に広く、がらんとして感じる。
この家に母はもういない。そう思うとやっと涙が流れ出した。
わたしはそのまま泣き続けた。
しばらく泣き続けていたが、何かしないと、このまま体が動かなくなりそうな気がして、わたしは無理やり涙を拭って立ち上がった。
家に母がいないという事実がたまらなく嫌で、わたしは母の写真を飾る事にした。
笑っている写真がいい。そう思い、母が使っていた棚の中から写真を探した。
棚の奥から、写真が無造作に放り込んである箱を見つけた。
まだデジカメが普及する以前の、現像された写真その物が「思い出」として保管されていた。
写真は圧倒的にわたしが写っているものが多かったが、母の写真もいくつか見つける事が出来た。
一枚一枚、確認するように写真を見ていると、箱の中にまだ新しい一通の封筒を見つけた。
封筒は宛先がまだ未記入で、封もされていなかった。
そして、わたしはその封筒にひきこまれる様に中の手紙を取り出した。
『内藤ホライゾン様』で始まるその手紙は間違いなく母の字だった。
『あなたの所を離れて、もう十七年になります』
手紙はそう始まっていた。
ここまで読んでわたしは息が止まり、早まる鼓動の中、続きを読んだ。
『あの時は黙って出て来てごめんなさい』
手紙は、母がその内藤ホライゾンという人の所を黙って去って来てしまった事へのお詫びと、その人の戸籍に入ったままでいる事に対するお礼の内容だった。
そして手紙の最後にはこう書かれていた。
『もうすぐツンも高校を卒業します。そうしたら、全てを話そうと思っています』
母の署名と共に書かれた日付は数日前のものだった。
混乱する頭でわたしは必死にこの手紙が指し示す事実を考えていた。
手紙の相手、内藤ホライゾン――。
「これは誰? わたしのお父さんなの?」

(^ω^)
 二日後。母の葬式以来、初めて学校に行った。
職員室で担任や他の先生から色んな言葉をもらったが、何だか他人事みたいな感じがした。
昼休みになり、クーを誘って屋上に行き、手紙の事を話した。
「この、内藤ホライゾンって言う人がわたしのお父さんなのかな?」
クーは何も言わなかった。
「でも、お母さんはわたしには、お父さんは死んだって言ってた。それに教えてくれてた名前も違った」
わたしは腕を手すりに置いてよりかかると、そこにあごを乗せた。
「昨日ね、市役所に行ったの。お母さんの事で手続きがあって」
クーも同じように手すりによりかかって来た。
「その時に戸籍を見たんだけど、やっぱり、わたしとお母さんはその《内藤ホライゾン》っていう人の籍に入ってた」
わたしは溜め息をついてぼんやりと遠くを見た。
「ほんと、どういう事なんだろう? 教えて欲しいよ……」
ふと、クーが手すりから離れ、ポケットから一枚の紙片を取り出した。
「もし、ツンがその男に会いたいと望むのであれば」
紙片をわたしの方に差し出しながらクーが言った。
「これを見るといい」
わたしは驚いてクーを見つめた。
クーはわたしから目を逸らさずに真っ直ぐこっちを見つめたまま言った。
「勝手に調べて済まなかった。でも、ツンが大丈夫か気になってな」
以前にもクーがこういった事を調べてくれた事がある。何故かクーはそういう事を調べたり、問題を解決したりする事が出来る。
でも、何故出来るのか、詳しくは聞かないで欲しいと言われる。
わたしはクーに言った。
「心配してくれてありがとう」
「行ってみるのか?」
「うん」
「ついて行こうか?」
「大丈夫。一人で行って、会ってくる」
わたしはクーから紙片を受け取った。

(^ω^)
 翌日、学校を休んで、クーのくれた情報を頼りに内藤ホライゾンに会いに行った。
クーは住所や電話番号だけではなく、仕事先まで調べてくれていた。
住所だけだと、相手が帰って来るのをあてもなく待っていなければいけないところだった。
仕事先も住所もわたしの家からそう遠くない場所だった。
こんな近くに住んでいたなんて。
そして、わたしは目的の場所に着いた。
そこには《バーボンハウス》と看板の出ているお店があった。
店名のわりには普通の喫茶店のようだ。
内藤ホライゾンはここで働いている。ここのオーナーなのだろうか?
入り口から中を覗いてみたが、客の姿は見えなかった。
 わたしは深呼吸をすると、店のドアを開けた。
カラン、とカウベルの音が鳴り、奥から「ようこそ」という声が聞こえた。

(^ω^)
 店はそこそこ広かったが、やはり客は誰も入っておらず、静かに流れる音楽とお湯の沸く音だけが聞こえた。
入って左側にはカウンターがあり、そこに一人の男性がいた。
さっきの声はこの人のものだろう。
世の中の全てを知り尽くしたような寂しげな瞳が印象的だった。
「あなたが、内藤ホライゾン?」
わたしの質問に、その人は眉を下げながらも、さらりと答えてくれた。
「違うよ。ぼくはショボン。ブーンは今、買い物に行ってもらっている」
「ブーン?」
「ああ、ごめんよ。彼のあだ名なんだ」
ショボンと名乗ったその男性はわたしに席を勧めてくれた。
そして、わたしがカウンターの一席に座ると、手際よくコーヒーを煎れてわたしに出してくれた。
「このコーヒーはサービスだ。これでも飲んで待っているといい」
「ありがとうございます」
わたしはコーヒーを一口飲んだ。
そして沈黙。
「――ブーンと待ち合わせかい?」
ショボンさんがカウンターを片付けながら聞いてきた。
「ううん。わたしが来ることを向こうは知らないの」
わたしはカップを持ち上げ、口を付けた。
「それどころか、わたしのことさえ知らないかも」
ショボンさんは一瞬、わたしの事を見たが、再びカウンターの片付けに戻った。
「ねぇ、ショボンさん」
「なんだい?」
わたしは手に持ったカップを置き、聞いた。
「内藤さんって――、どんな人?」
「三十七歳、無職童貞」
ショボンさんが即答したその時、カランというカウベルの音と共にドアが開いた。

(^ω^)
「マスターただいまだお。ウエハースは口髭を生やしたおやじに買い占められて買えなかったお!」
妙なしゃべり方をする、一人の男の人が入ってきた。
声に反応して振り返る。その人は両手に荷物を抱え、ゆるみきった顔で笑っていた。
と、わたしはその人を目が合った。
すると、その人が少し驚いた表情を見せ、わたしに近づいてきた。
思わずわたしは身構えた。
そしてその人はにっこり笑うと言った。
「――久しぶりのお客さんだお。いらっしゃいませ、だお〜」
わたしに挨拶したその人にショボンさんが言った。
「ブーン」
ブーン!? この人が? わたしは一度ショボンさんに振り返り、それから再び視線を戻し、その人を凝視した。
「こちらのお嬢さん。君に会いに来たんだとさ」
「把握」
そうして、その人、内藤ホライゾンはわたしの方を向いて言った。
「ぼくが内藤ホライゾンだお」
にこにことわたしに微笑みかける内藤の後ろからショボンさんが言った。
「三十七歳、無職童貞」
「ちょっ、ヒドス……」
そんな二人にわたしは冷たく言い放った。
「無職はともかく、童貞な訳ないじゃない」
内藤とショボンさんはお互いに顔を見合わせた。
「どういう事だお? それより、君の名前は何ていうんだお?」
わたしは軽く溜め息をついて言った。
「わたしの名前はツン」
そして、その人を見据えて言った。
「――あんたの娘よ」
「……な、なんだってー!」
二人が声を揃えて叫んだ。

(^ω^)
 店内は重い沈黙に支配されていた。
スピーカーから流れる音楽だけが場違いにはしゃいでいる。
そのうちにショボンさんが呟くように言った。
「童貞じゃなかったのか……」
そして、内藤をちらりと見て、さらに小さい声で呟く。
「うらぎりもの……」
それから、わたしと内藤を見比べて言った。
「この子はこんなにかわいいのに……。君と似てないね」
「そんな事ないお。そっくりだお」
内藤が即答し、わたしは何も言わなかった。
それから内藤が、再びにこにこと聞いてきた。
「ツン。お母さんはどうしたんだお? 一緒に来てないのかお?」
わたしは内藤を睨んだ。
「ママは――、死にました」

(^ω^)
 内藤が持っていた荷物を落とした。
「ど、どうして?」
「事故です」
すると、内藤は「そう」とだけ言うと、うつむいてしまった。
しかし、しばらくして、ふいに顔を上げるとわたしに聞いてきた。
「じゃあ、ツンは今は一人で暮らしているのかお?」
「そうよ」
わたしの答えに内藤が言った。
「それなら、一緒に住むお!」
「え?」
「だから、一緒に暮らすお」
「なんでよ?」
思わず聞き返してしまった。
そりゃあ、親子なんだから一緒に住む事がいいのかもしれない。
でも、今日始めて会ったこの人がお父さんだと言われても何の喜びもなかった。
それどころか、わたしは困っている。
「寂しいから――」
内藤が言った。
「一人で住むのは寂しいお。だから一緒に暮らすお」
ひとりは寂しいから。
確かにそうだった。
でも、この人と暮らせば、寂しく無いのだろうか?
この人は母の死を告げても、ほとんど反応しなかった。
十七年も離れていたとはいえ、自分の妻が死んだというのに。
この人は本当に母の事を愛していたんだろうか?
そして、母は本当にこの人を愛していたのだろうか?
だとすれば何故、母はこの人の所を出て行ったのだろうか?
「少し、考えさせて」
わたしはそう答え、店を出て行った。

(^ω^)
 ――世の中は無常だ。
家に戻ったわたしを待っていたのは、アパートの大家さんだった。
そして、大家さんはわたしに部屋を出て行くようにと言った。
子供だけで住まわせる訳にはいかない。というのが大家さんの主張だった。
「家賃だって払ってもらえるか分かんないしねぇ」
恐らくはそっちの理由の方が大きいのであろう。
母の生命保険があったので、そのうちにお金は入ってくるだろうし、さしあたり生活に困るという事は無かった。
しかし、その事を話しても、やはり高校生だけというのでは信頼してもらえず、最低でも保証人を用意しろという事だった。
そして、わたしには保証人になってくれるような人は思い当たらなかった。
普通であれば、親の実家を頼ればいいのだろうが、母は実家とケンカ別れをしてしまっていたので、まったく交流が無かった。
実際、わたしは祖父も祖母も知らない。
そもそも頼れる祖父母がいれば、そちらに住むというものだ。
――そんなわたしに、一人だけ、心当たりがあった。いや、今日出来た。
わたしの父だという内藤ホライゾン。
今のわたしは彼に頼るしかなかった。
わたしは翌日、再び彼のいる店へ向かった。

(^ω^)
「そりゃー、無理だよ」
ショボンさんが言った。
わたしは彼の煎れたコーヒーを飲みながら聞き返す。
「どうして?」
「だって、ブーンの収入じゃあ保証人にはなれないだろう。何度も言うけど、無職童貞」
「童貞は関係ないお!」
内藤がショボンさんに反論する。
「あ、そうだ。童貞じゃなかったんだ。こんなかわいい娘がいたなんて……」
ショボンさんが拗ねた目で内藤を見ながら、もう一度言った。
「ま、とにかく保証人は無理だと思うよ」
「ねぇ、冗談じゃなしに、ほんとに無職なの?」
わたしは内藤に向き直って聞いた。
「ここでバイトしてるから、正確には無職ではないお」
――話にならない。
「でも、それじゃあ、わたしの住むところが無くなっちゃうのよ」
わたしの言葉を聞いて、内藤が目を輝かせた。
「だから、ぼくの家に来ればいいお!」
わたしは内藤の顔を見た。
「部屋もいっぱいあるから大丈夫だお」
内藤はにこにことわたしを見続ける。
「お金の節約になるし、一緒に住む方がいいお!」
悔しいけれど、反論する余地が無い。
いや、反論とかではなく、わたしには選択肢が無かった。
そうして、わたしは渋々、一緒に住む事に同意した。
それにしても――、今まで放っておいたくせに、何故こうも一緒に暮らしたがるのだろうか?
もしかして、わたしの体を狙っているという事も、ありえないとは言えない。
わたしは内藤に向かって言い放った。
「い、言っておくけど、わたし結構強いんだからね!」
――嘘は、バレバレだったと思う。

(^ω^)
 その日の午後、さっそく引越しを開始した。
元々、荷物はそんなに無かったので、引越しは順調に進んだが、一つだけ、どうするか悩んだ物があった。
――ピアノ。
母の仕事道具でもあり、わたしの物でもあった。わたしと母の共有品。
小さい頃から母はわたしにピアノを教えてくれた。
多くの時間を母とこのピアノの前で過ごし、思い出が一杯つまっている気がした。
それでも、わたしはこのピアノを持ち続ける事を躊躇した。
「置く場所もあるし、持って行けるお」
内藤はそう言ったが、それでもわたしは「……やっぱり、いい」と、持って行く事を止めた。
そして、ショボンさんにピアノ業者を探してもらい、引き取ってもらう事にした。
――わたしは母が死んで以来、ピアノの鍵盤に触れることは無かった。
ピアノは、わたしと母のコミュニケーションの道具だったのだ。
母が死んでしまった今、もうピアノは必要無くなった。
 全ての荷物をトラックに積み終わると、今度は内藤の住んでいる家に向かった。
そこは、小さなビルの最上階を1フロアー全て使っていて、予想以上に広かった。
広いリビングとキッチン、バス、トイレに部屋は五つもあった。
「どの部屋がいいかお?」
内藤が聞いてきた。
わたしはぐるりと見回し、内藤が使っている部屋から一番遠い部屋を選んだ。
「そこでいいのかお?」
わたしは頷き、三人で荷物をそこに運び始めた。
荷物を運んでいる時、内藤がわたしに話し掛けてきた。
「――本当は」
「何よ?」
内藤の方を見ずに返事をしたが、内藤が何も言わないので、手を止めて内藤の方を見た。
目が合うと、内藤は照れたような表情で続けた。
「一緒に暮らしたかったのはお金の節約とかの為じゃないお」
それから、またいつもの顔でニコニコと微笑むとこう言った。
「ツンとの失われた時間を取り戻したいんだお。家族としての時間を」
内藤の突然の言葉とその笑顔にわたしは照れてしまい、どうしていいのか分からず、「そう」とだけ言った。
 その、どうしていいか分からない気持ちは荷物を全て運び入れ、作業が終わっても続き、わたしは内藤の「今日からよろしくだお」という言葉にも「わたしの部屋には絶対に入らないでよ!」という言葉を返してしまった。
そして、そんなわたしの言葉に内藤は「羽根で織物でも作るのかお?」と言って笑った。

(^ω^)
 翌日、二日ぶりに学校に行った。
担任に引っ越した話をしたが、面倒なので内藤の事は伏せておいた。
午前中の授業を受け、昼休みに、クーを誘ってまた屋上へ行った。
屋上は風が冷たかったが、風があたらずに陽が届く場所はぽかぽかとして暖かかった。
わたし達は入り口横の日向に並んで座った。
「どうだった?」
クーが単刀直入に聞いてきた。
「もー大変よぉ。引越しまでした」
「引越し?」
「……一緒に暮らす事になった」
わたしの言葉にクーは安心したようだった。
「よかったじゃないか。いい人だったんだな」
「それが……」
わたしは少しだけ躊躇すると言った。
「まだよく分からないけど……。とりあえず、何か変なしゃべり方なんだよね。うーん、キモい?」
クーはそれを聞くとプッと噴き出して言った。
「そうか。でも、ツンのお母さんが好きになった人なんだし、それを差し引いても良い所があるんだろう」
「うーん」
わたしは考えてしまった。本当に母はあの人を好きになったんだろうか? わたしにはまだその《良い所》が分からない。
「まぁ、何かあったらいつでも言ってくれ。ツンの為なら何でも協力するよ」
そう言って微笑むクーにわたしはお礼を言った。
「ところで、ツン?」
「何?」
クーが心配そうにわたしに聞いてきた。
「引越ししたって事は転校するのか?」
わたしは首を振って答えた。
「ううん。何とか通える範囲だから、転校はしなくていいんだ」
それからわたしは「うーん」と伸びをすると言った。
「あー、何か面倒だなぁ、色々と」
そんなわたしを見て、クーはふふと笑った。
「何?」
「いや、すまない。ただ、今日は『何か面白い事ないかなー?』じゃ無いんだなと思ってさ。いつもは『あー』と伸びした後はそう言うから」
「え? わたしいつもそんな事言ってる?」
「ああ、言っているよ」
わたしは驚いた。わたしにそんな口癖があった何て今の今まで知らなかった。
そして、口を尖らせてクーに言った。
「だって、『面白い事』じゃないけど、もう色々起ってるもん」
そう。そしてこれからもしばらくは色々ありそうだ。

(^ω^)
 家に帰って、荷物の片付けの続きをしていると内藤が帰って来た。
わたしの部屋のドアをノックして顔を覗かせる。
「おかえりだお」
「ただいま」
わたしは返事をして荷物の片付けを続けた。
しかし、内藤は相変わらずドアの隙間からこちらを見ている。
「何?」
わたしが聞くと内藤が言った。
「ぼくには『おかえり』って言ってくれないのかお?」
一瞬、言っている意味がわからなかったが、わたしは「おかえり」と内藤に言った。
その言葉を聞いて、内藤は満面の笑みで「ただいまだお!」と言った。
「仕事は?」
わたしが聞くと内藤は「ツンが帰ってるかもと思って、ちょっと寄っただけだお」と言った。
まったく、何をやっているのやら。
「ところで……」
「何だお?」
わたしは昨日から疑問に思っていた事を聞いた。
「ここ、こんなに広くて、家賃高そうだけど、あんなバイトだけで払えるの?」
「ここはショボンに借りてるからタダなんだお」
内藤がさらりと答えた。

(^ω^)
「マスター! わたしもここで働く!」
内藤の答えを聞いたわたしは、内藤を引っ張ってショボンさんのお店に飛び込むと、そう言った。
ショボンさんと連れてきた内藤がお互いの顔を見合わせた。
「どうしたの?」
のん気にそういう二人にわたしは思わず声が大きくなる。
「内藤! あんた、仕事も家もここに頼りっぱなしじゃない!」
わたしの剣幕に押された内藤が一歩下がりながら答える。
「そ、そういう事になるのかお?」
「『かお?』じゃないわよ! そうでしょう? それがどういう事か分かってるの!?」
内藤はオロオロしながら懸命に考えて言った。
「え、えーっと。……ショボンありがとう?」
「違ーうっ!」
わたしの声に内藤はビクッとし、ショボンさんは「違うの……?」と眉を下げた。
それから、わたしは一呼吸して言った。
「ここが閉店しちゃうと、わたし達の収入も、それどころか住む所まで無くなっちゃうのよ!」
内藤は初めて気付いたかのようにハッとし、ショボンさんは「閉店しちゃうの……?」と更に眉を下げた。
「今日もガラガラじゃない。お客さん、全然来ないんでしょう?」
二人は何も言わなかった。
「お客さんに来てもらうんだったら、まず何と言っても店をもっと綺麗にしないと。この手書きのメニューも全然ダメ」
内藤は何も言わず、ショボンさんは「ダメなの……?」と言った。
「もっとお客さんが来るようにしましょう!」
見えない何かを指差してわたしは宣言し、ふたりはこくこくと頷いた。
「だから、わたしもここで働く!」
内藤が拍手をし、ショボンさんは「そんなに人手いらないのに……」と言った。

(^ω^)
「お願い。給料は安くてもいいの。ショボンさん……いえ、マスター。きっと売上伸ばすから!」
わたしは彼の手を握ってそう言い、下から見上げるように見つめた。
「わたし、もう住む所が無くなるのはいやなの……」
ショボンさんはボッと音がしそうな勢いで顔を赤らめた。
そして、「わわわ、わかったよ。そこまで言うなら」と言って、わたしを雇ってくれた。
「それでそれで? 具体的にはどうするんだお?」
内藤が嬉しそうに聞いてきた。
そーね、とわたしは周りを見回す。
「さっき言った事と、メニューはわたしが書くし、看板も変えたいんだけど……」
そこで内藤が「はいはーい」と手を上げて言った。
「メイド服はどうだお?」
「却下」
わたしは即座に答え、内藤を見ると言った。
「そんな事より、あんたにはやってもらう事があるわ」
「し、執事かお?」
「違う、馬鹿っ! そのしゃべり方よ!」
「何の事だお?」
「それよ、その最後の『お』ってやつ! それ、やめなさい!」
「わかったお」
思わずわたしは内藤を睨みつけた。
「あんたね〜、わざとやってんの? ちょっと普通に男らしくしゃべってみなさいよ」
「わ、わかった……ぜ?」
「何で疑問系なのよ?」
「これで、いいのか……よ。どうだい?」
「………………」
それを聞いたわたしはしばらく考えて言った。
「やっぱ、どっちでもキモいからいいわ」
背後でがっくり肩を落とす内藤を放っておいて、わたしはショボンさんと本格的に店の事を話し始めた。

(^ω^)
 その夜、夜中に目が覚めて、水を飲もうと部屋を出ると、内藤の部屋のドアが小さく開き、そこから光がもれていた。
その小さな隙間から中を覗くと、ベッドの上に座った内藤が一人、肩を震わせていた。
内藤は泣いていた。声も出さず、ただ涙を流していた。
「どうしたのよ?」
わたしが声をかけると、ビクッと内藤が振り返り、言った。
「君のお母さんの夢を見たんだお。夢の中で、ぼくと君のお母さんで遊んだお」
内藤は流れる涙を拭おうともせずに続けた。
「そして、――楽しかったんだお」
内藤の声が震えていた。
「楽しかったんだお。あの頃と変わらずに、楽しい時間だったんだお。――まるで、死など無かったかのようにだお」
わたしは大人が泣くのを見るのは初めてだった。
その姿はわたしの胸を締め付けた。
内藤が泣く、その理由は、この人の愛した、わたしの母のためだった。
――ああ、この人もやっぱり母を愛していてくれたんだ。
わたしは心のどこかでほっとしていた。
そして、考えていた。
この人が母を愛していたとして、わたしのことも娘として愛してくれるんだろうか――?
「かっこ悪いところを見られたお」
内藤が涙を拭きながら言った。
そんな事はない、と言おうとすると内藤が続けて言った。
「娘に泣いてるところを見られるなんて、かっこ悪いし、恥ずかしいお」
わたしは何て声をかけていいか分からず、とりあえず言った。
「だっ、大丈夫よ!」
それから、その言葉の直後のほんの少しの沈黙が怖くて思わず続けて言ってしまった。
「どうせ、かっこいい所なんて見せられないんだから」
内藤は「ちょっ……」と言ったが、それから打ち明けるように言った。
「本当はね。ツンが来た日も、ツンが帰ってからずっと泣いてたんだお。あの時はマスターには悪い事をしたお」
「マスターも災難ね」
また、つい言葉が出てしまった。
でも、内藤はそんなわたしの言葉を気にしなかったようで、わたしを見つめて言った。
「でも今はこうしてツンがいるから大丈夫だお」
そして、いつもの笑顔で続けた。
「君のお母さんにはもう会えないけれど、ツンがいてよかったお」
わたしの心にまた、あのどうしたらいいのか分からない気持ちが湧き上がっていた。

(^ω^)
 ある日、ショボンさんのお店で働いている時に内藤に聞いてみた。
「ねぇ、いつまでバイトしてるの?」
内藤は首をかしげて聞き返してきた。
「質問の意味がわからないお?」
わたしはもう一度聞く。
「だから、今は前の会社を辞めて、転職中とかじゃないの?」
「違うお」
内藤が続けて言った。
「会社に就職した事は無いお」
「え?」
今度はわたしが聞き返した。
「つまり、ずっとバイト生活って事?」
「そうだお」
そして内藤はいつになく真面目な顔で遠くを見つめて言った。
「この内藤ホライゾンには夢がある!」
それから、その表情のままわたしを見つめて言った。
「だから、その為には就職して夢を忘れる訳にはいかないお!」
――内藤の背後からゴゴゴゴゴと音が聞こえるようだった。
しかし、そんな内藤を見て思わずわたしは言い放った。
「夢、夢ってあんた馬っ鹿じゃないの?」
わたしからの言葉が思いもよらない物だったらしく、内藤はあっけにとられていた。
「自分がいくつだか分かってんの? もう、そんな夢なんかよりも、ちゃんと生活することを考えなさいよ!」
弾みがついたわたしは、その他にも内藤の生活に関する文句をいくつか言い、それが終わった頃には内藤の背後から例の音が消えた気がした。
そして、それからその日は何だか内藤にイライラしてしまい、家に帰ってからもろくに話をしなかった。

(^ω^)
 翌日、学校に行くとオーケストラ部の指揮者をしている男子に呼び出された。
ちなみに、うちの学校には吹奏楽部では無く、オーケストラ部がある。
その男子はわたしが少なからずいいな、と思っているかっこいい人だった。
そんな人からの突然の呼び出しに、わたしは期待半分、不安半分で会いに行った。
音楽室で待っていた彼はわたしを見ると、前置きも無く頭を下げてわたしに言った。
「ツン君。お願いだ。僕達の為にピアノを弾いてくれ」
わたしは訳がわからず、とりあえず彼に頭をあげてもらった。
「どういう事なの?」
わたしの質問に彼が事情を説明してくれた。
オーケストラ部は二ヵ月後にコンサートでピアノコンチェルトを演奏することになっていた。
しかし、昨日の夜にピアノ奏者の子が指を怪我してしまい、コンサートで弾く事が出来なくなってしまった。
そこで、指揮者の彼がわたしに弾かせようと思ったらしい。
「受験間近で忙しいのは分かっている。それでも何とかお願いしたい」
そう言って、彼は再び頭を下げてきた。
「何でわたしなの? 部内の方がうまい人が沢山いるんじゃない?」
彼が頭を下げたまま、わたしを見上げて言った。
「―― 去年、ニューソークのコンクールに出たでしょう?」
それは、わたしの母がわたしの知らない間にエントリーしたコンクールだった。
そして母は、このコンクールの為にいつも以上にわたしにピアノを一生懸命教えてくれた。
その結果、わたしはそのコンクールで準優勝をした。
そんな事があった。
「ぼくもあのコンクールに出てたんだ。まぁ、結果は惨憺たるものだったけどね」
彼はそう言ってぺろっと舌を出した。それから再び真剣な表情で聞いてくる。
「やってくれないかな?」
「……もう、わたし、ピアノはずっと弾いてないの」
わたしはそう答えた。
そう。わたしは母が死んで以来、ピアノを弾いていない。

(^ω^)
「君なら練習すれば大丈夫だよ。君のピアノを知っている僕が保障する」
「でも、それに……今は、ピアノが無いの」
「君さえよければ、学校のを休み時間も放課後も自由に使えるようにしておくよ」
わたしは返事が出来なかった。でも、自分でも何がひっかかっているのか分からなかった。
考えてみれば、母が死んでからあまりの状況の変化にピアノの事を思い出す時間さえ無かったのだ。
「お願いだよ……」
彼が言った。
「少しだけ――、少しだけ返事、待って。ごめんなさい」
わたしはそう答えた。
「分かった。でも、僕達もあまり時間が無いんだ」
彼はそう言って、不安そうな笑顔をわたしに向けた。
「うん。わかってる」
わたしはそう言って部屋を出た。
わたしの背中に向かって彼が「いい返事を待っているよ」と言った。
部屋を出ると、わたしは考えた。今まで考えたの無い事を。
――わたしにとって、ピアノとは何だったんだろう?

(^ω^)
 その日はショボンさんの店は定休日だったので、わたしはまっすぐに家に帰った。
家に着くと、内藤は部屋にこもって何かをしていた。
パソコンのキーを叩く音がする。
どうせ、掲示板に書き込みでもしているのだろう。
まだ慣れない家の中を見て回っていると、棚の隅に埃をかぶった小さいピンクの箱があるのを見つけた。
何だろう?
手に取ってみるとそれは軽かった。
そして、蓋を開けると、そこには綿に包まれて何枚かの貝が入っていた。
「ねぇ、内藤ー。これなーにー?」
わたしの声に内藤が部屋から出て来た。
「ああ、これは――」
内藤は懐かしそうにその中の一枚を取って見つめた。
「これは、君のママとの出会いの思い出だお」
そう言って、内藤はわたしの母との出会いを教えてくれた。

(^ω^)
 十八年前のその日、内藤は大学の授業をサボって、一人、冬の海に来ていた。
何か目的があって来た訳では無く、考え事をしながら歩いていたら何時の間にか海に来ていたそうだ。
海からの風が冷たかったけれど、暖かい飲み物を買うお金も無かったのでポケットに両手を突っ込んだまま堤防から海を見ていたという。
そんな時、岸にある東屋の下で同じように一人で海を見つめる女性を内藤は見つけた。
その人は海に遊びに来たという雰囲気では無かった。
きちっとしたスーツを着て、まるで仕事の途中か、会社に行く途中で電車を降りて、そのまま海に来てしまったような感じだったらしい。
それが母だった。
とても寂しそうな瞳をしていたお、と内藤は言った。
内藤は堤防から移動して母の近くへ行った。
ナンパじゃなくて、その寂しそうな瞳が気になったんだお、そう言って内藤は目を細めた。
内藤が何と声をかけようかと思案していると、母が内藤に言った。
「冬の海は寂しくて嫌ね」
「うん。寒いし。……春が待ち遠しいお」
そう答えた内藤に母は「春になったら何かいい事があるの?」と聞いたという。
しばらく考えて、内藤は「花見が出来るお!」と答えた。
その答えを聞いた母は、同じ様にしばらく考え、「そうね、舞い散る桜は綺麗ね」と言った。
それから寂しそうに「見たいな」と呟いたと言った。
そんな母を見て、内藤は言った。
「じゃあ、今から花見をするお」
もちろん、母は内藤に聞いた。
「ここで?」
「ここで」
即答した内藤に母は、「おかしな人ね」と言って笑った。
そして、初めて母の笑顔を見た内藤はすっかり母に惹き込まれてしまい、「笑顔もかわいいお」と言った。
「笑ったのは久しぶりかも」
母はそう答え、二人はお互いに顔を見合わせた。
じっと見つめられた事で内藤は照れてしまい、「とにかく、花見をするお! ちょっと待ってるお!」と言って、浜辺へ駆けて行ったそうだ。
そこまで話して内藤は「今になって思えば、あの時『おかしな人』と言ってぼくを見る君のママの目は本当におかしな人を見る同情が含まれていた気がするお……」と言って勝手に落ち込んだ。
とにかく。それから、浜辺へ駆けて行った内藤は地面を見ながら海岸の端から端まで《それ》を拾いながら歩いたそうだ。
そして、《それ》で両手がいっぱいになると母の所へ再び走って戻った。
「じゃあ、始めるお」
何をするのかと、少し不安な顔を見せる母に、内藤はそう言って、両手いっぱいの《それ》を空中へ撒いた。
「舞い散る桜だお!」
内藤が集めたのは桜貝だった。
小さなピンクの貝がら達は冬の太陽に照らされて、きらきらと空中を舞い、短い時間だったが確かにそれは舞い散る桜のように見えたという。

「――それが、ぼくとツンのママの出会いだお」
そう言って、内藤は手に取った桜貝を箱に戻した。

(^ω^)
 そんな出会いをした二人――。
「ねぇ、どうして二人は別れちゃったの?」
わたしの突然に質問に、内藤は少し驚いた様子だった。
「彼女が君を身篭って。――色々あって、ぼく達は入籍したお」
内藤が静かに話を始めた。
「でもその時、彼女は働いていたけれど、ぼくはまだ学生だったお」
内藤が寂しそうな表情になる。
「だからきっと、彼女は、ぼくとでは君を生んで育てる事は出来ないと考えたんだと思うお。ある日ぼくが学校から帰って来ると、彼女はいなくなっていたんだお」
その表情は次第に寂しさを増してゆく。
「ぼくはそれから何日も彼女を探したお。でも、手がかりは余りにも少なく、ぼくにはあまりにも力が無さ過ぎたお。結局彼女は見つからなかったお」
ついには泣き出しそうな顔で内藤は言葉を搾り出すように話していた。
「ぼくは悲しかったお。単純に、もう彼女に会えなくなる事が」
ほんの少しの沈黙。
「でもね。ぼくのところを去る前日、彼女はぼくにこう言ったお」
内藤がぱっと顔を上げた。
「『ねぇ、ブーン。本を書き続けてね』って」
本? 内藤は本なんか書いていたの? わたしは内藤に聞いた。
「ツンのママに出会う前から書いてたんだお。そして今では、それが自分の存在理由そのものと言ってもいいかもしれないお」
部屋にこもってキーボードを叩いていたのはそういう事だったのか。
「以前、ぼくには夢があるって言ったおね?」
内藤はそう言ってわたしを見つめる。わたしは「う、うん」と返事をした。
「その夢っていうのは、ぼくの書いた本を出版する事なんだお」
内藤の目が真っ直ぐにわたしに向けられていた。

(^ω^)
「彼女がいなくなって、孤独に耐えられなくなった時。ぼくは彼女の『本を書き続けてね』という言葉を思い出したお。――そして、こう思ったんだお」
内藤の目はわたしを通してわたしではない誰か――恐らくは母の姿を見ていた。
「もう、ぼくが彼女に会う事はもう無いかも知れないお。けれど、ぼくの書いた本が出版されて、それが本屋に並んだら。ぼくの書いた本達は彼女に会う事が出来るかもしれないお」
一息置いて、内藤は言った。
「そしてその時、ぼくは彼女に会えたことになるんだお」
それからぱっと明るい表情になり、言った。
「それに、もしかしたら彼女もその本を見てぼくの事を思い出してくれるかも知れないお」
内藤の目が強い意思の光を放っているようだった。そして内藤がはっきりと言った。
「だから、ぼくは本を書き続けるお」
その話を聞いて、わたしは思い出した。
「そういえば、ママが『まだ発売されていないけど、いつか読ませたい本がある』って言ってた……」
そう。母が以前にわたしにそう言った事がある。
その話をした時の母は何だか嬉しそうで、わたしが『発売されてないのに、分かるの?』と聞くと母はふふふ、と目を細めて笑うだけだった。
あれは内藤の事だったのか。
内藤は母の事を想って本を書きつづけ、母は内藤の本を待っていた。
「――でも、もうその本を見せる相手がいないのよ」
わたしは内藤に今の事実を突きつけた。
そして、脳裏に浮かんだ母の暖かい笑顔と、それとは対照的な自分の言葉の冷たさにわたしは自分で驚き、泣き始めてしまった。
内藤は泣いてしまったわたしに少し困ったような笑みを浮かべてこう言った。
「確かにそうだお。ぼくの目的は失われてしまったお。でも、君のママが君に『いつか読ませたい本がある』って言ってたんだったら――」
内藤がわたしに一歩、近づいた。
「ぼくは、今度は 君のママがその約束を守れるように書き続けるお」
泣き止まないわたしの頭を、内藤がやさしく撫でてくれた。
その手は大きく、暖かかった。

(^ω^)
 翌日、学校の帰り道。クーに昨日、内藤から聞いた話をした。
「でも、なんだか。何かを隠してるみたいな気がするのよね」
わたしは昨日の事を思い返してクーにそう言った。
「内藤が学生だったから、何て言ってるけど、それにしては別れてからも籍は入れっぱなしなんだよ?」
「うーん、もしかしたら。それはツンの為だったのかもしれないな」
クーがそう言ってわたしを見た。
「婚姻関係に無い女性が子供を出産すると、その子供は《非嫡出子》という扱いになるんだよ。今は法改正で戸籍上の区別は無いが、私達が生まれた当時は区別もあったはずだ」
それからふっと小さく溜め息をついた。
「……それにやはり、悲しいが就職や結婚でもマイナスイメージがある場合があるからな。それを心配しての事かも知れない」
「ふーん。よく知ってるね?」
わたしがそう言うとクーは口だけで笑って言った。
「私の周りに多いからな、そういう人達が。まぁ、あまり……」
「『詳しくは言えないが』。でしょ?」
わたしはクーの言葉の続きを先に言って笑った。
クーもそれを聞いて笑った。
「ふふ。そうだ。いつもすまないな」
そしてクーは前を向いて言った。
「それよりも、驚いたのはツンのお父さんの《夢》の話だな」
クーは驚いているというよりも、感心しているような口調だった。
「うーん。でも、どうかと思うのよね? だって十七年以上、夢を見続けてるんだよ? これはもう夢じゃなくて、妄想じゃないの?」
わたしの言葉にクーが笑いながら答えた。
「まぁ、そう言いたもうな。すごい事だぞ? ツンには出来るか?」
そう言われて、わたしは考える。
――《夢》。
考えてみれば、わたしには《夢》自体が無かった。
先日、クーに指摘された『何か面白い事ないかなー?』が全てを物語っている気がする。
わたしはいつも「何か面白い事」が起こらないかと思って生きてきた。
何だか、これから未来へ羽ばたく高校三年生としては少し不健全な気がした。
みんなにはあるんだろうか? 《夢》。
クーに聞いてみようと思ったが、きっとクーにはあると思い、そう答えられるのが怖くて、結局聞けなかった。

(^ω^)
 クーと別れ、ショボンさんのお店に行くまで少し時間があったので、近くのデパートに入った。
服や本を見ながら各フロアーをぶらぶらと歩く。
下の階に降りようと、下りのエスカレーターに向かうと、そのすぐ横に西村楽器店があり、何台かの電子ピアノが展示されていた。
わたしはそれらのピアノに引き寄せられ、鍵盤にそっと触れた。
冷たい中に感じるほんの少しの温かみ。
そして、わたしはピアノを弾き始めた。
少し本物とは違うが、それでも鍵盤を指で叩く感覚は圧倒的に気持ちが良かった。
わたしの指が鍵盤を叩く。鍵盤は重く、叩いたわたしの指を押し戻そうとする。
だが、わたしが指先の力を増し、その均衡を崩すと、鍵盤はわたしの意思のままにストンと落ちる。
――そしてその時、わたしの指先は音を作り出す。
わたしの指先が作り出す音は、次第にその数を増やし、そしていつしかそれは音楽になる。
今まで何も無かったこの空間に、目には見えない音楽が発生し、それが広がってゆく。
わたしはその気持よさに身をゆだね、奏でる音の中でたゆたう様にピアノを引き続けた。
しかし、次の瞬間、わたしは恐怖で目が醒めた。
曲がクライマックスにさしかかった時、わたしは自分の指が以前のように動かない事に気が付いたのだ。
わたしは愕然とした。思わず曲を止め、足早にその場を立ち去った。
エレベーターを探して乗り込むと、ドアを閉め、壁にもたれかかった。
――わたしが音楽を与えてあげないと、わたしの指はどんどんピアノを忘れていく。
そして、この先、わたしの指はどんどんとピアノを忘れていくだろう。
わたしはエレベーターが一階に着くまでの間に決心した。
いつか、この先きっと、わたしはピアノが弾けなくなる。
だったら最後に一度、思いっ切りピアノが演奏したい。
エレベーターが1階に着くと、わたしはそのまま走って学校に戻った。

(^ω^)
 学校に着くとオーケストラ部の彼を探し、コンサートでピアノを弾く事を伝えた。
喜んだ彼は、わたしをそのまま部室まで連れて行き、部員に紹介した。
それから、わたしはみんなに挨拶をし、演奏する曲目を聞き、自分の分の楽譜を受け取った。
そんな事をしていたらあっと言う間に時間が過ぎ、ショボンさんの店に着くのが大分遅れてしまった。
わたしはショボンさんに遅れた事を謝り、明日からも練習で少し遅くなる事を伝えた。
「すいません。明日から学校でコンサートに向けてピアノの練習をするので、店に来るのが遅くなります」
ショボンさんが眉毛を下げて言った。
「うーん。最近はお客さんが増えて、以前よりも忙しいからホールに二人いないとちょっと大変な時もあるんだよね……」
それを聞いて、内藤が割り込んで来た。
「でも、そのお客さんが増えたのも、元はと言えばツンのおかげだお!」
「うん。それはそうだね」ショボンさんが言った。「中にはツンちゃん目的のお客さんもいるみたいだし」
「そんな訳で、遅れるのは全然問題ないお!」
内藤が張り切って答えた。いや、しかし何故内藤が決めているのか。
案の定、ショボンさんが眉を下げ、小声で「決めるのは僕なのに……」と呟いていた。
しかも、何故か内藤がものすごく嬉しそうだ。
「ツンもピアノ弾けるのかお!?」
内藤が満面の笑顔で聞いてきた。
「え? う、うん」
わたしの答えに内藤は深く頷いた。
「そーかー。実はね、ツンのママはすごくピアノが上手だったんだお!」
「そんな事、あんたに言われなくても知ってるわよ」
そもそも、わたしにピアノを教えてくれていたのは母だったんだし。
そんな事を話していると、突然、真面目な表情になった内藤が、恐る恐るといった感じで聞いてきた。
「……ツン。やっぱりピアノ、あのまま持って来た方が良かったんじゃないかお?」
「いいわよ、別に。どうせこれが最後なんだし」
わたしがそう応えると、内藤が驚いて聞いてきた。
「どうして最後なんだお? それじゃあ、ぼくはツンがピアノを弾くのを一回しか見れないお!?」
「一回しか見れないって、そもそも見に来ないでいいよ。それに――」
わたしはさりげなく来ようとした内藤を拒否し、話を続けた。
「今からピアノが欲しいって言ったって、どうせピアノ買うお金なんか無いでしょ」
わたしの言葉に内藤は「あうあう」言うだけだった。

(^ω^)
 それから毎日、放課後、授業が終わるとピアノの練習をした。
オーケストラと一緒に練習する前に、一人でその曲を弾き込む事にした。
楽譜を読み、ピアノを弾く。
最初は自分の中で曲を思い、考え、それを指に伝え、曲を送り出してゆく。
しかし、だんだん音楽に入り込んでくると、もはや自分の中で曲を考える事が無くなる。
むしろ、そうしていてはいつまで経っても、本当の自分の音楽が生まれない。
音楽に、曲に入り込み、今ここでピアノの前にいる自分を忘れることが出来た時、自分の奏でた音楽を聞くことが出来るようになる。
自分が生み出す音、旋律、そして曲、音楽。
それら全てがまるでどこからか降りそそいで来るように聴こえて来る。
そして、それは自分の感情の高まりに応じて変化し、その表情を変える。
 ――ピアノを弾いている時は母を感じることがあった。
それは自分の指のタッチが母ゆずりで似ているからなのかもしれない。
でも、それが嬉しかった。
 そのせいもあるかもしれないが、一度、夢中になり過ぎて、お店に行く時間を過ぎてしまった事がある。
それ以来、携帯でアラームを鳴らすようにしていたのだが、それでも、アラームの音に気付かずに遅刻してしまう事があった。
わたしはこんなに何かに夢中になったのは初めてだった。
そして、それは幸せな時間だった。

(^ω^)
「どうだ? そろそろ日常に慣れて、『何か面白い事ないかなー?』って言うようになって来たか?」
学校の帰り道、クーがわたしに言った。
今日は音楽室が使えなかったので、ピアノの練習は休みだった。
「全然よー」わたしは笑って答える。「あれからどれだけの事が起こったと思ってるのよー。成り行きでバイトを始めた。父親が未だに小説家志望。ピアノのコンチェルトをやる事になった。それにもうすぐ受験もあるし」
「大変だな」
クーが笑った。
そういえば、クーは受験しないって聞いたな。
「クーは家の仕事を継ぐんだっけ?」
「そのつもりだ」
そう言ってクーは前を向いたまま話した。
「家は男兄弟がいないからな。わたしが継ぐしかないんだ」
「ねぇねぇ。そういえば聞いた事ないんだけど、クーの家って何やってるの?」
クーは少し考えるとポツリと言った。
「人材派遣業?」
それからすばやく話を切り出した。
「ところで、ツンは音大とかに行くんじゃないのか?」
そして矢継ぎ早に続ける。
「今回も部員じゃないのにも関わらず選ばれたし、こないだの大きなコンクールでも準優勝だったんだろう?」
「ううん。お金も無いし、短大に行くのが精一杯」
そう話し、一呼吸置いてから、わたしはクーにオーケストラのピアノを受ける事にした理由を打ち明けた。
「――実は、オーケストラのピアノを引き受けたのは、ピアノが弾け無くなってたからなんだ」
クーが訳が分からないという顔でわたしを見る。
わたしは楽器屋での事を話した。
「でも、このままいつかは弾けなくなるんだし、そんな事にも慣れないといけないよね」
わたしはクーから目線をそらし、空を見上げて言った。
「だから、これを最後のピアノにするの」
何だか、口に出して言ってみると、少しだけ楽になった気がした。
「やっぱり、わたしにとってピアノはお母さんとのコミュニケーションだったのよ。そして、お母さんもいなくなっちゃったし……」
今まで黙って聞いていたクーがわたしに聞いてきた。
「いいのか? 本当に」
わたしは、うん、と答えた。
「お母さんがいなくなってしまったのなら、次はお父さんとのコミュニケーションでもいいじゃないか」
クーはそう言った。
わたしはしばらく考えて、「やっぱりいい」と言った。

(^ω^)
 それからも話題を次々と変えながらクーと歩いていた。
その時、車道を挟んだ反対側に内藤が歩いているのが見えた。
お店のエプロンをしたまま、買い物袋をぶら下げて歩いている。
わたしは気付かないふりをしてやり過ごそうと、横の、内藤とは反対側のお店のショーウインドウの方を見ながら歩いた。
しかし、内藤は目ざとくわたしを見つけ、道路の反対側から声をかけてきた。
「ツーン!」
そして、大きく手を振りながら道を渡って来る。
わたしは恥ずかしくて、内藤を睨んだ。
でも、内藤はそんな事をまったく気にせずにニコニコと笑っていた。
「今、帰りかお?」
「そーよ」
わたしはぶっきらぼうに答える。
すると、内藤はわたしの横にいたクーに気が付いた。
「おっ。ツンのお友達かお?」
「こんにちは」
クーが内藤に挨拶をする。
そんなクーに内藤が言った。
「ツンと仲良くしてやってね」
……わたし達は小学生か。
「もういいじゃない。仕事中でしょ! 早く戻りなさいよ!」
思わずわたしは内藤にそう言い、クーに「クー、行こう」と言うと足早にその場を去った。
歩き出して数歩で、内藤が後ろから叫んだ。
「ツン! 知らない人に付いて行っちゃだめだお!」
顔が赤くなるのが自分でも分かった。振り返りもせずに歩くスピードを上げた。
「良いお父さんじゃないか」
クーが後ろからそう言って笑い始めた。
「違うわよ。懸命にお父さんっぽくしようとしてるだけよ」
そう言うわたしにクーが再び言った。
「でもそれはツンのためだろう? だったら、いいお父さんじゃないか」

(^ω^)
 ピアノの練習開始から、一ヶ月が経ったある日、放課後の音楽室で一人、ピアノの練習をしていると、わたしを誘ってくれてオーケストラ部の彼が来た。
彼はわたしの演奏を一通り聴くと、「うん、とてもいいね」と言って笑顔を見せた。
「さすが僕が見込んだだけはある」
腕を組んで深く頷きながらそう言うと、彼はにやっと笑った。
「じゃあ、そろそろ、他のみんなと合わせて練習した方がいいね」
そして彼はわたしを待たせて部屋を出て行った。
わたしは彼のわたしに対する態度と褒められた事がうれしくて頬が緩むのを押さえられなかった。
もしかしたら、これをきっかけに彼ともっと親密になれるかもしれない。そんな期待が頭をよぎった。
数分後、彼が一人の女子を連れて戻ってきた。
「こちら、うちのオーケストラ部の第一ヴァイオリン主席奏者」
「よろしく」そう言って会釈すると彼女が言った。「さっそくだけど、一回聴かせてもらえる?」
わたしが彼の方を見ると、彼が説明してくれた。
「彼女、コンサートマスターなんだ。だからちょっと君のピアノ聴かせてやってもらえるかな?」
わたしは了承して、ピアノを弾き始めた。
――そして、音楽室をわたしの指先から生まれた音楽が満たしてゆく。
目に見えず、ただの空気の振動でしかないはずの音が耳に届き、鼓膜を揺らす。
その振動は今度は人体の構造とかそう言ったものでは説明出来ない、人の感情を揺らす。
何故なのだろう?
そして、そんな音達を生み出す事が何故こうも気持ち良いのだろう?
そんな疑問に答えられる人はいないだろうし、もし答えを聞いたとしてもきっと納得出来るものではないと思う。
そうして、わたしはピアノを弾き終えた。
小さな拍手が聞こえた。

(^ω^)
「すごい! すごく良いよ!」
彼女はそう言って精一杯の拍手をしてくれた。
そして、わたしを見て打ち明けた。
「ほんとはね。この人が『絶対うまいから』とか言ったんだけど信用してなかったの」
ちらっと彼の方を見ると彼女は続けた。
「いくら彼氏だからって、こういう事は部の為にもちゃんと判断しないといけないしね」
――彼氏?
わたしは自分が懐疑的に見られていた事なんかよりも、その単語にショックを受けた。
そうか、彼には付き合ってる彼女がいたんだ。そしてそれがこの人なんだ。
付き合っている二人と、ただピアノ目当てで呼ばれたわたし。
わたしはそこで急に二人との間に透明な壁が出来たような感覚に陥った。
うん、別にいいんだ。彼の事、いいなとは思ってたけど、好きってほどじゃなかったし、ましてや本気で付き合おうと思ってた訳じゃない。
ただ、もしかしたら彼はわたしを好きなんじゃないかと、心のどこかで期待していた。
でも実際は、全然そんな事は無くて、彼にはもう好きな人がいて、私なんかの入る隙はどこにもなかったんだ。
わたしは二人を見て、わたしは彼に好かれるはずも無かったという一方的な事実が胸に刺さり、自分が誰からも必要とされていないように思えた。
「じゃあ、明日からオケと一緒に練習しよう」
彼女がそう言い、それから彼と彼女が色々話していたが、わたしは何だか関係無い世界の話を聞いているようだった。

(^ω^)
 学校から帰り、バイトしていたショボンさんのお店も閉店時間になり、わたしは片付けでお店の裏にゴミを出しに行った。
その時、持ちきれなかった空のビンを落としてしまった。
ビンは割れなかったが、わたしの足に直撃した。
「痛い……」
わたしはうずくまって足を押さえた。
そして、自分が惨めになり、涙がこぼれ落ちた。
泣きなれていないわたしは、自分が泣いている事でさらに泣いてしまった。
「どうしたんだお?」
背後から声が聞こえた。
内藤だった。
内藤はわたしが泣いている事に気付いた。
「ど、どうしたんだお!?」
慌ててそう聞いてくる内藤にわたしは何も言わなかった。
「大丈夫かお? 怪我したのかお?」
内藤がしつこく何度も聞いて来るので、わたしは「足にビン落とした」と言った。
内藤がわたしの顔を覗き込んで来た。
「じろじろ見ないでよ!」
泣きながらそう言うと、内藤は「ちょっと待ってるお」と言ってお店に戻って行った。
そしてすぐに、わたしの荷物を持って戻って来ると、わたしにコートをかけた。
そして、「さ、帰るお」と、わたしに背中を向けてしゃがんだ。
「さっ、ほら。ショボンには言って来たから平気だお」
そう言って内藤はわたしを振り返った。
最初、わたしは内藤が何をしているのか分からなかった。
「どうしたんだお? 早く乗るお」
そう言われて気が付いた。内藤はわたしをおぶって帰ろうとしているんだ。
わたしは「いいわよ。自分で歩ける」と断った。
しかし内藤は「泣くほど痛いんだから、ぼくがおぶって行ってあげるお」と譲らなかった。
仕方なくわたしは内藤におぶってもらい、家に帰ることにした。

(^ω^)
 街はクリスマス間近で、道行く人はみんな幸せそうだった。
途中、腕を組んで、楽しそうにおしゃべりをしながら歩いているカップルとすれ違った。
女の人と男の人の腕は組まれ、その先の手はそのまま男の人のポケットに一緒に入れられていた。
きっと二人の気持ち同様に、二人の手はあのポケットの中でしっかりと結ばれているのだろう。
いつもなら何とも思わない光景だったが、白い息を吐きながら尚も楽しそうに話している二人を見ると、またも自分が誰からも必要とされていないという気持ちが甦ってきた。
再び涙がこぼれて来てしまい、わたしは声を出さないように泣いた。
「大丈夫かお?」
内藤が聞いてきた。
「……本当は足なんか痛くないのよ」
わたしがそう答えると内藤は「うん」とだけ言った。
わたしは内藤の背中に顔をうずめて、泣いた。
しばらくそうして歩いていたら、内藤がよろよろし始めた。
「降りようか?」
わたしがそう言うと、内藤が答えてくれた。
「ツンを背負ってると暖かいお。だから、ここにいていいんだお」
わたしも暖かかった。
そして、内藤の背中は思っていたよりもずっと広かった。

(^ω^)
 翌日、昼休みに音楽室に行って、力の限りピアノを弾いた。
最初から最後まで、作曲者の思惑など一片たりとも入る余地の無い、わたしの感情だけのピアノを。
めちゃくちゃな演奏だったと思う。
わたしの指先が生み出していた音は単なる騒音だったと思う。
それでも、とにかくピアノを弾いた。
昼休みが終わる頃にはわたしはへとへとになっていた。
ふーっと息を吐き、手を止めて、音楽室の窓から空を見上げた。
そこには大きな丸い雲が浮かんでいて、その雲を見てわたしは何故か内藤のにこにこと笑った顔を思い出した。
それから、昨日の内藤の「ここにいていい」という言葉を思い出した。
わたしは思わずぷっと笑ってしまった。
何だか心が軽くなった気がした。
指と腕の疲れも心地よくて、何だか彼のことが吹っ切れる気がした。
そして、その事に気付き、また笑った。
こんなにあっけなく吹っ切れるなんて、わたしも単純ね。
 昼休みが終わるまで、まだ少しだけ時間があった。
わたしは最後に一曲、今度はちゃんとピアノを弾いた。
ピアノはわたしの想いに応えて、心地よい曲を生み出してくれた。

(^ω^)
 年末のある日、お店のカウンター内で洗い物をしているとショボンさんが聞いてきた。
「ご機嫌だね。何か良い事でもあった?」
「え? 別にないけど、どうして?」
突然、そんな事を言われて驚いたわたしは聞き返した。
「いや、鼻歌なんか歌いながら洗い物して、上機嫌な感じだったからさ」
気付かなかった。いつのまに鼻歌なんて歌ってたんだろう。
そして、そんなわたしを見てショボンさんが呟いた。
「ツン、やっぱりお父さんに似てるね」
わたしは咄嗟に言い返す。
「そんな事ない! あんな奴とは似てないわよ!」
「でも、何だか雰囲気と言うか、感じがブーンにそっくりだよ」
尚も言ってくるショボンさんにわたしは別の話題を振った。
「ねぇ、ところで何でブーンって言うの?」
ショボンさんはすぐにわたしの話に乗り、答えてくれた。
「あいつさ、子供みたいに、走る時こう、両手を広げて走るんだよ」
そう言って、両手を広げると、話を続けた。
「それでその時に言うんだ。『ブーン』ってね。だから、ブーン」
その話を聞いて、わたしは呆気にとられた。
そして本気で内藤は馬鹿なんじゃないかと心配した。
わたしの表情で察したのか、ショボンさんが言ってくれた。
「大丈夫だよ。あいつ、ユニークでちょっと子供っぽい所があるだけだよ」
そう言って、さらに話を続ける。
「それからね。実は、もっと面白い続きがあるんだ」
ショボンさんがいたずらっぽい目つきでわたしを見る。
「その、ブーンしてる時の口癖が『空も飛べるはず』。どう? ユニークだろ?」
わたしは困惑した。そりゃあ、ショボンさんはユニークで済むけれど……。
その時、カランというドアベルの音と共に内藤が帰ってきた。
「ただいまだおー。今日もウエハースは口ひげおやじに買い占められてたお」
そう言ってカウンターに向かってくる内藤にわたしは言った。
「ちょっと内藤。恥ずかしいから、わたしと一緒の時はブーンなんてやらないでよね!」
ショボンさんはくっくっくと笑い、内藤は何の事か分からずに首をかしげていた。

(^ω^)
 その夜、わたしが眠ろうとベッドに入ると、お風呂から上がった内藤が鼻歌を歌いながらリビングに来た。
わたしはその歌を聴いて驚いた。
何故なら、その歌はわたしが子供の頃に母が読んでくれた絵本の中に登場する歌だったからだ。
でも、それは絵本の中に書いてあるので、どんな歌なのかは読んだ人まかせだった。
それでも母はそこを読む時、いつもちゃんと歌ってくれて、わたしはその歌を含めてその本が大好きだった。
もちろん、母が歌ってくれた歌は、母のオリジナルで、わたしと母以外の誰も知らないはずだった。
それなのに、その歌を内藤が歌っていた。
わたしは部屋を出て、リビングに行った。
リビングは電気が点いていなかったけれど、カーテンの開けられた窓からの月明かりで内藤の輪郭が浮かび上がっていた。
内藤は水を飲みながら歌を歌っていた。
「その歌――」
わたしの声に内藤が振り返った。
「ああ、ツン。ビックリしたお」
「ねぇ、その歌――」
わたしはもう一度言った。
「うん? この歌? 気に入ったかお? ぼくが作ったお話にツンのママが歌を付けてくれたんだお」
内藤の言葉を聞いて、わたしは一気に記憶が戻ってきた。
わたしはその絵本がとても好きだった。
でも、その絵本はストーリーはとても面白かったが、絵がやたらと下手だった。
あのお話と、もしかしたら絵も内藤が書いたんだ。
記憶の中ではちゃんとした本だったけど、もしかしたら画用紙に描いたような絵本だったのかもしれない。
「ママがそのお話、読んでくれた。わたしその話大好きだったよ」
わたしがそう言うと嬉しそうに言った。
「うれしいお。ぼくが父親として最初にツンにしてあげられた事だね」
「でも」と内藤は続けた。
「これからは、もっともっとツンのために色んな事をしてあげるお!」
内藤はそう言って微笑んだ。
わたしは何かを内藤に言いたかったが、何を言っていいか分からずにいた。
すると内藤は、「今日はもう寝るお。ツンも早く寝るんだお」と言って自分の部屋に入って行ってしまった。
わたしは窓から月を眺めながら、懐かしいあの絵本を思い出していた。

(^ω^)
 元旦、内藤がまだ暗いうちからわたしの部屋のドアをノックした。
わたしは半分寝ぼけながら返事をする。
「何よー。まだ暗いじゃない」
わたしの返事に内藤が嬉しそうな声で答えた。
「初日の出を見に行くお!」
「行かないわよー」
「ショボンも一緒に行くんだお」
「行かないってばー」
何度かそんなやりとりをして、最後には内藤が諦め、一人で家を出て行った。
 そして、陽も昇り、目覚めたわたしは顔を洗いに部屋を出た。
すると、リビングにはもう内藤が帰って来ていて、わたしに気付くと手招きをして呼び寄せた。
わたしが近寄ると内藤が床に座り、手を付いて言った。
「あけましておめでとうだお」
「……おめでとう」
わたしが返事をすると、内藤はにこにこと笑ったままポケットから何かを取り出した。
「はい」
内藤がそれをわたしの手に握らせた。
「何これ?」
内藤が満面の笑顔で言った。
「お年玉だお!」
なるほど、確かにそれはポチ袋で、表面にはかわいい絵柄が描いてあった。
「あっ、ありがとう……」
わたしは驚きと嬉しさで頬が熱くなるのを感じた。
「金額は少なくてごめんだお」
そう言って少ししょげる内藤にわたしは「いっ、いいのよ高校生だから!」と訳の分からない事を言った。

(^ω^)
 その日、正月気分もすっかり抜けて、街はいつも通りに動き出していた。
学校も始まり、放課後のピアノの練習も終え、ショボンさんのお店で働いていると、突然、内藤が泣きそうな顔で叫びながらわたしの所にやって来た。
「ツツツ、ツン! ぼくみたいな男と付き合ってるのかお!?」
……何を言っているのだ、この男は。
わたしは取り乱す内藤には何も言わず、ショボンさんを見た。
ショボンさんが困ったような顔をしながら説明してくれた。
「いや、今ね。ツンがブーンに似てるって話から始まって、僕がツンを見ながら『あのかわいいツンもいずれは君みたいなのを連れて来るのか』って言ったらさ」
ショボンさんは肩をすくめて続けた。
「何だか考えが暴走しちゃったみたいで、そうなっちゃった」
「違うのかお!?」
内藤がわたしに迫る。
「違うわよ! もう、鬱陶しいな!」
何だって、そんな話を。わたしはショボンさんを睨んだ。
「だって、女の子は結局、父親に似た人を選ぶって言うじゃない?」
「まず、以前も言ったようにわたしは内藤とは似てないし、それにわたしは絶対にこんな男に似た人なんか選びません」
わたしは即答した。
それから、「買い物行って来ます! ウエハースまだ無いんですよね?」と言って店を出た。
背後で閉まる扉の向こうで内藤がわたしの名前を叫んでいるのが聞こえた。

(^ω^)
 ウエハースを買いに行く途中、わたしは歩きながらピアノの事を考えていた。
あれから、オーケストラに入っての練習はとても楽しかった。
指揮者の彼とも、コンサートマスターの彼女とも音楽を通して気持ちよく意思の疎通が出来た。
彼に誘われた当初は、自分の境遇や少しだけ彼に対する気持ちで揺らいでいたが、彼に振られ、生活も落ち着いた今、わたしは純粋に音楽に向き合えている気がする。
コンサートで弾く曲を歌い、指を動かしながら歩いていたら、うっかり人にぶつかってしまった。
わたしは「すいません」と謝りながら通り過ぎた。
その時、通り過ぎた背後から怒鳴り声が聞こえた。
「ちょっと待て、ゴルァ!」
振り返ると、ガラの悪い、見るからにやくざな男が二人。髭を生やした一人はこっちを睨んでいて、もう一人の長髪の男は自分の肩を押さえていた。
「ギコの兄貴〜、肩が、肩が痛いよ〜」
肩を押さえた長髪がニヤニヤしながらそう言っていた。
髭が眉をひそめながらわたしに言う。
「どうしてくれんだよ!? オレのかわいい、またんきの腕が折れちまったじゃねーか。ああ!?」
わたしは咄嗟に言い返した。
「はぁ? 馬っ鹿じゃないの? 今どき、そんな脅しする人いないわよ」
わたしの言葉に髭は真っ赤になって怒り出した。
「てめぇこそ、馬鹿じゃねーのか? オレ達を誰だと思ってるんだ?」
長髪は折れてるはずの腕をバタバタと上下させながらわたしに言った。
「ばーかばーか」
わたしはそいつらを無視して振り返り、歩き始めた。
すると、髭がわたしの腕を掴んだ。
「痛いじゃない! 離しなさいよ!」
わたしはそう言って腕を振り払おうとしたが、髭の力は強く、どうにもならなかった。
「またんき、お前、車取って来い。こいつ、連れて帰るぞ」
車は近くに停めてあったらしく、長髪が「へい」と返事をしてから車が来るまで三分とかからなかった。
ここまで来て、わたしは真剣に身の危険を感じた。
「誰か……」
周りを見回すが、誰も助けてくれそうにない。
そして、わたしが車に押し込まれ、もうダメだと思った瞬間。反対側のドアが開いて誰かがわたしを引っ張り出してくれた。
その人は相手のやくざ二人にこう言った。
「ツンに何をするだぁー!」
その人は内藤だった。

(^ω^)
「何だてめぇは?」
髭が内藤に言った。もっともな質問だった。
「ぼくは内藤ホライゾンだお」
内藤はわたしを自分の背中側に回らせながら、そう答えた。
「お前の名前なんか聞いちゃいねぇよ。何者かって聞いてんだよ」
やくざはそう言って、わたし達に近づいて来た。
わたしは震えそうなくらい怖かった。
でも、内藤の背中に隠れていると何だか少しだけ安心できる気がした。
しかし、その安心はすぐに消え去った。
やくざが何の前置きも無く、内藤を殴ったのだ。
内藤がどさっと地面に倒れた。
そんな内藤を一瞥し、髭がわたしを捕まえようと腕を伸ばしてくる。
しかし、髭は何かに気を取られ、足元を見た。
見ると、内藤が髭の足に掴まっていた。
「ツンに手を出すなお……」
そう言って、内藤は立ち上がろうとした。
だが、髭が今度は内藤を蹴り倒した。
倒れた内藤は再び、「ツンに……」と言いながら髭の足を掴む。
「しつけーんだよ、ゴルァ!」
そう叫びながら髭は内藤を何度も蹴り始めた。
しかし、内藤は蹴られながらも髭の足を離さなかった。
内藤は鼻血を流し、口の中も切れてくちびるから血が飛んだ。
髭を止めようとしたわたしは長髪に羽交い絞めにされ動けなかった。
わたしは叫んだ。
「やめて! やめなさいよ! 内藤が! 内藤!」
そして、内藤の手から力が抜け、髭の足から離れた。
髭が息を荒くしながら長髪に言った。
「おい、さっさと二人とも車に乗せちまえ」
わたし達は車の後部座席に押し込まれ、ドアが閉められた。
運転席側でロックしているらしく、ドアも窓も開かなかった。
そうして、髭と長髪がそれぞれ運転席と助手席に乗り込もうとした時、知っている叫び声が聞こえた。
「おい! お前等、何をやっているんだ!」
その声はクーの声だった。
「こんな街中で何をやってるんだお前達は!」
クーがそう言いながらつかつかと車に近づいて来た。
「人の迷惑になるような事は控えろとあれほど――」
そして、わたしと目が合うと、そこで言葉が途切れた。
「――ツン?」
クーが驚いている顔は初めて見た気がする。
「何で? 一体?」
そう言いながらクーは前の席にいる二人を見た。
前の二人は車から飛び出ると、クーに深々と頭を下げて言った。
「すっ、すいやせん! お嬢!」
クーがわたしを見て言った。
「とりあえず……、家に来て」

(^ω^)
 それから、五人で車に乗ってクーの家に向かった。
クーの家はとても広く、大勢の人が出迎えてくれた。
そして、その大勢の人は恐らくは全員やくざなのだろう。
「客間に、父上を呼んでくれないか」
クーがそう言うと、数名が「へいっ」と言って走って行った。
それから、わたしと内藤はその客間に案内された。
「ちょっと待ってて」
そう言うと、クーは一度部屋を出て行った。
「どういう事なんだお?」
内藤がわたしに聞いてきた。
「そんなの、わたしにも分かんないわよ」
わたしはそう答えるしか無かった。
それにしても内藤はひどい顔になっていた。
鼻血の跡がうっすらと残り、顔は所々青あざになって、目の上がひどく腫れていた。
――帰ったら冷やしてやらないと。
そんな事を考えていると、襖がすらりと開き、和服に着替えたクーとさっきの髭と長髪の二人、それにもう一人、和服の男の人が入って来た。
「この度は家の子分共が大変失礼しました」
そう言って、和服の男の人が頭を下げた。
つられて、内藤も頭を下げ返した。
わたしが何がどうなっているのか分からずにクーを見ると、クーが言った。
「わたしの父親。そして、この組の総代。いわゆる組長だな」
「え? ちょっと待って。組長が父親って……。クー、家を継ぐって言ってたよね?」
わたしがそう言うと、クーはわたしを真っ直ぐに見返して言った。
「――そう、わたしが次期総代。組長になるの」
わたしは声が出なかった。

(^ω^)
 クーの父親が頭を上げてわたしの方を見ると、言った。
「この度は娘のご友人とは知らず、とんだご無礼を」
そう言って、例の二人をわたし達の前に土下座させた。
「もっ、申し訳ありませんでした!」
二人は額を畳に擦り付けながら叫ぶように言った。
クーの父親が二人の方を見ながら言った。
「この、ギコって奴は根はいい奴なんですが、興奮すると手が付けられなくなるんです。それにこの、またんきは兄貴分のギコの事が好きで、何をするにも一緒になってやってしまうんです」
二人はまだ土下座したままで、体が微かに震えていた。
「ただ、そうは言っても責任は取らせます。どうぞ指の一本でも二本でも」
クーの父親がそう言って、再び頭を下げた。
「「ちょっ!!」」
思わず、わたしと内藤がハモった。
「い、いいお。指を集める趣味は無いお」
内藤が続けてそう言うと、クーの父親が言った。
「しかし、組の為にも今回のような事は野放しには出来ないのです」
「でも、そんな事をされたら、かえってわたし達の気分が悪くなるわよ」
わたしがそう言うと、クーの父親が頭を下げたまま目だけを上げてわたしを見た。
いや、見ると言うにはあまりに鋭い眼光。睨まれたわたしは息をのんだ。
「やめてよ、お父さん」
その時、クーが言った。
「子分のした事は親である組長の責任でしょ? わたし達がツンとツンの父上にきっちりお詫びをするべきじゃない」
クーはそう言ってわたし達に土下座をした。
わたしは慌てて、そんなクーを止めた。
「ちょっと、やめてよ。クーが悪い訳じゃないでしょ?」
クーが頭を下げたまま言った。
「子分のした事は親の責任。私達は契りを交わした以上、本当の親兄弟以上にきちんと責任を取らないといけないのよ」
わたしは思わず声が大きくなる。
「止めて! 止めてよ、そんなの! クーは、わたしにとってのクーは普通の友達なのよ!」
「ツン! 私だって普通の友達でいたかったんだよ! でもこうなった以上――」
クーも悲痛な叫びをあげ、修羅場になりかけたその瞬間、部屋に声が響いた。
「みなの者! おもてを上げーい!」

(^ω^)
 みんなが一斉に声の方を見た。
そこには満面の笑みをたたえた内藤が立っていた。
「おっおっおっ。大岡越前は、水戸黄門、桃太郎侍に続く日本三大真似したいシチュエーションの一つだお」
それから肩の袖をまくる振りをしながら言った。
「この桜吹雪が〜」
「それ、遠山の金さん」
間髪入れずに長髪がそう言うと、内藤がおろおろし始めた。
「何よ!? 何がしたいのよ?」
わたしが内藤にそう言うと、内藤は再び毅然とした顔になり、みんなを見て言った。
「――大岡越前の《三方一両損》って知ってるかお?」
「結局、大岡に戻るのかよ」
今度は、そう言う長髪の突っ込みにもめげずに内藤は続けた。
「さて、今回の事件。クーちゃんはツンに知られたくなかった事を知られて一両損。ツンはクーに土下座されて言い争いをしたから一両損」
目線をみんなに移しながら話す。
「親分さんは子分が悪い事をして一両損。そっちの二人は親分に怒られて一両損。そして、ぼくは殴られて一両損」
一通り、みんなを見ると、内藤はもう一度ぐるりとみんなを見回した。
「結局、みんなが一両づつ損してるから、これにて一件落着だお」
そして、内藤はテーブルに片足をかけ、膝に肘を乗せて言った。
「三方ならぬ、五方一両損の内藤裁きだお!」
「でも……」
クーが声を出したが、内藤が覆いかぶせるように言った。
「い・っ・け・ん・ら・く・ち・ゃ・く!」
すると、クーの父親が深々頭を下げ、そして言った。
「分かりました。では、そういう事にさせてもらいましょう。――ありがとうございます」
それから頭を上げて内藤に言った。
「但し、私ども、仁義を欠く事は出来ません。今日の事は借りという形にさせて下さい」
内藤もそれ以上は何も言わなかった。
「わかったお」
「何時でもご用命ございましたら。仕事柄、調査のたぐいも得意ですので、仕事で知りたいライバルの動向や、追い込みをかけたい奴などいましたら、どうぞ使ってやって下さい」
あ、成る程。クーが色々調べたり出来るのはそういう訳だったのか。
そんな事を納得していたら、内藤がわたしの方を向いて言った。
「ツン。子供達は外に行って遊ぶお」
「う、うん」
思わずわたしは素直に返事をした。
そして、「行こう、クー」と、クーを誘って部屋を出た。

(^ω^)
 二人で黙って、クーの家の広い庭を歩いた。
「いつかは――」
しばらくすると、クーがぽつりぽつりと話し始めた。
「自分の家の事を言わないといけないと思ってはいたんだ。……黙っていてすまない」
そしてわたしを見て言った。
「実際、ツンには想像もして欲しくないような事もしなければいけない時もある……」
それからクーは少し寂しそうな表情で聞いてきた。
「ツン。わたしを嫌いになったろう?」
クーの真っ直ぐにわたしに向けられた瞳は美しかった。
「ううん。ちょっと驚いたけど、こんな事で嫌いになったりはしないよ」
わたしはやっと微笑む事が出来て、そう言った。
「そうか。よかった……」
クーも安堵の表情を浮かべ、少し微笑んだ。
「それに、クーが調べてくれたおかげでわたしは内藤に会えたんだよ」
「うん」
「五方一両損とか言い出す父親だけどね」
「五方一両損」
「そう。五方一両損」
わたしとクーが同時にぷっと笑った。
それから二人で声を出して笑い合った。
ひとしきり笑った後にわたしはクーに静かに言った。
「……でも、なるべくなら悪い事はして欲しくないな」
それを聞いたクーが空を見上げてこう言った。
「ああ。どうせ継がなくてはいけないんだ。いい組にしたい。出来る限りの事はするつもりだ」
「うん。クーならきっと出来るよ」
まだ先のことだけれど、わたしはクーが取り仕切る組を想像していた。

(^ω^)
 母屋に戻ると、クーが「着替えてくる」と言うのでわたしは一人で客間に戻った。
客間の襖に手をかけ、部屋に入ろうとすると、中から内藤とクーの父親の話し声が聞えた。
「お嬢さんはクーと友達でいてくれるでしょうか?」
クーの父親が心配そうに聞いていた。
「大丈夫だお。ツンはそんな事で態度を変えるような子じゃないお」
内藤が即答した。わたしは何だか気恥ずかしくなってしまった。
そして、それを聞いたクーの父親はホッとしたらしく、声の調子が明るくなった。
「いや、さっきは帰って来るなり娘に『子分の教育がなってない、私の友達が巻き込まれた』って怒鳴られましてね」
「ぼくもいつもどなられてばっかりだお」
内藤がそう答えると、二人は笑った。
「お互い、年頃の娘を持つと大変ですな」
「おっおっおっ」
何だか少しだけ二人がかみ合って無いように感じたが、それでも楽しそうな雰囲気だった。
もしかしたら、クーの父親はこんな事を他人に話すのは初めてなんじゃないだろうか?
「私は子沢山で、しかも歳取ってからの子供が多いですからな」
クーの父親がそう言った。
「いや。と言っても本物の子供じゃなくて子分どもの事ですが。まぁ、さっきも言ったように本当の親子みたいなもんです」
クーの父親の話に内藤が言った。
「ぼくもだお」
「え?」
クーの父親が聞き返した。
「ぼくもこの歳になってからの子供だお。ツンとはまだ一緒に暮らし始めて二ヵ月なんだお」
そうか。もう二ヵ月なんだ。いや、まだ二ヵ月かな?
そんな事を考えていると、着替え終わったクーが戻って来た。
そうして、わたし達は二人で部屋に入ると、それぞれの父親の横に座り、またもお互いに頭を下げたり下げられたりしてから別れた。
「それじゃあ、頼みますお」
門のところで内藤がそう言うと、クーの父親は深々とおじぎをした。
帰り道、わたしが内藤に聞いた。
「何? クーのお父さんに、頼みますおって」
「ん? んー、これからもツンと仲良くして下さいって頼んだんだお」
わたしは呆れて言った。
「だから、そんな事言うのは小学生までだって。ほんとに恥ずかしいなぁっ」
「いやー、とにかくツンが無事でよかったお」
話題を変える為に内藤は唐突そんな事を言った。
まぁ、確かにわたしは無事だった。しかし、内藤は家に帰って自分の顔を見たらきっと驚くに違いない。
「コンサート――」
わたしは前を向いたまま言った。
「見に来てよ」
その言葉を聞いて、内藤はひどいことになっている顔をさらに歪ませて喜び、興奮のあまり両手を広げて走りまわった。
やれやれ。帰ったら内藤の腫れと舞い上がった頭を冷やしてやらないと。

(^ω^)
 数日後、学校でコンサート前日の最後の練習をした。
泣いても笑っても明日が本番。
毎回、各パートへ細かい指示を出していた指揮者の彼も、今日は特に指示を出さずに「楽しくやろう」と言った。
――演奏が始まり、各楽器が音を出す。
一つ一つの楽器が奏でる音が集まり、単体では決して作り出すことの出来ない音が生まれる。
そしてそんな中で何よりも感じたのは、みんなとの一体感だった。
ずっと一緒に練習してきたみんなと、まるで体が一つになったかのようなこの気持ち。
指揮者の彼の下、わたしの出す音と、みんなが出す音が合わさり、生まれた曲がまるで生き物のように動き出す。
みんなの出す音に、わたしの指先から音を織り込み、その生き物に感情を与えてゆく。
そして生まれた曲はその与えられた感情の赴くままにこの空間に広がり、みんなの耳に届く。
明日でわたしのピアノは終わり。
わたしが最後に生み出す曲が、聴いてくれる人々の心を揺さぶってくれるといいな。
そう思いながら、わたしはピアノを弾いていた。

(^ω^)
 その日の夜、ショボンさんのお店も閉店して、家に帰ろうと内藤を外で待っていた。
その時、道路の向かいに止まっている車の中で一瞬、何かが光った気がした。
はっとしてわたしがその車を見ると、車はエンジンをかけて何処かへ行ってしまった。
何だか、ここ二、三日、こんな感じで誰かに見られている気配を感じた。
 内藤もなかなか来ないし、寒いし、不安になってお店に戻った。
お店に戻ると、電気の消えた店内で内藤の耳元にショボンさんが囁いていた。
「いいだろう? 今夜は久々に付き合っておくれよ」
何だかとても妖しい雰囲気だった気がする。
「で、でも、ツンが待ってるお」
内藤は困った様子でそう言った。
「そうだ、ツンだよ。彼女が来てから君は彼女の事ばかり。僕と彼女とどっちが大事なんだよ?」
「もちろん……、ツンだお」
そう言った内藤にショボンさんが眉を下げた。
わたしはこの辺りで、何か言い様のない不安を感じた。もしかすると、この二人――。
「そうか。それは当然だよな。うん。でも――」
内藤を見上げてショボンさんが言った。
「嫌な事を言うようだけど、僕は君に家を貸して、さらには家賃だってもらって無い。だから――、分かるだろう?」
内藤は何も言わなかった。
「今夜は僕のお相手をしてくれよ。ぼくの、ずっと使って無いんだ。このままじゃ何の役にも立たないただの棒になっちゃうよ」
ショボンさんはにやりといやらしい笑みを浮かべた。
わたしは寒気がした。やっぱりこの二人――。
「君だってそうだろう?」
ショボンさんが内藤にそう聞き、内藤はしばらく考えた後に言った。
「わかったお。ぼくもひさびさにやりたいお」
そこまで聞いて、わたしは居ても立っても居られずに話に割り込んだ。
「ちょっと! 内藤!」
すると、内藤が振り返って言った。
「あ、ツン。ツンも一緒にやるかお?」
「え?」
わたしはあまりに突然の出来事にどうしていいか分からずにいた。
「そうだ、君も一緒に三人でプレイしよう。棒と玉で遊ぶんだ。初めてだろうけど、きっと楽しくて癖になるよ」
ショボンさんがそう言って、にやりと笑った。
「じゃあ、道具を取ってくるお」
「どっ、道具!?」
そう言うわたしを置いて内藤は店の物置に行ってしまい、ショボンさんはタクシーを呼んだ。
それからすぐにタクシーは来て、わたしは両脇を内藤とショボンさんに固められ有無を言わさずタクシーに乗らされてしまった。
どういう事になるのか分からないまま、タクシーは深夜まで動いている繁華街へ向かっていた。

(^ω^)
 15分後、わたし達は快音響くバッティングセンターにいた。
「ツンちゃん、見てろよー。今度こそホームランだ!」
お店から持ってきた自分のバットを振り回し、空振りする度に転びそうになるショボンさんがそう言った。
「はぁ……。一体何なのよ?」
わたしは少し怒った口調で独り言を吐く。
「何を怒ってるんだお?」
内藤が聞いてきたが、恥ずかしくて、そんな事、言える訳が無い。
「何でもないわよ!」
わたしがそう言うと、内藤が口を開いた。
「ツンが来る前はお店が終わるとしょっちゅうショボンと二人でこのバッティングセンターに来てたんだお。まぁストレス解消だね」
「あんたにストレスなんてあるの?」
わたしはまだ自分の想像してた事が恥ずかしくて内藤の顔をまともに見れず、悪態をつく。
「ひどいお。それよりも――、さっ、ツンもやるお!」
そう言って内藤がわたしに自分のバットを差し出した。
「え? そんな、野球なんて小学校以来やった事無いわよ」
「いいんだお。棒を振り回すだけで楽しいお!」
その言葉を聞いてわたしは赤くなってしまった。
「そっ、その、棒って言い方やめなさいよ!」
そうして、わたしは打席に入った。
「ゆっくりの球にするから、ツンでも打てるお!」
正面のモニターに投手の映像が映り、その投手の動きに合わせてボールが飛んで来た。
わたしは思い切りバットを振った。
しかし、バットは空しく宙を切る。
「ボールを良く見るんだお!」
「見てるわよ!」
そして二球目、再び空振り。
「振るのが遅いお!」
わたしはその場で、二度、素振りをした。
そして三球目。
またも空振り。
「ツン、バットをもう少し短く持つんだお!」
言われた通り、短く持った。
そして四球目。バットに手応え、だが打球は足元に転がっただけだった。
「惜しいお!」
わたしは振り返って内藤を見た。笑顔の内藤が言った。
「大丈夫。次は打てるお!」
そして、五球目。
わたしは鋭くバットを振り、心地よい音と確かな手応えを感じた。
そして、わたしの打ったボールはネットに向かって吸い込まれるように飛んで行った。
「打てたっ!」
「ツン! やったお!」
わたしが叫び、内藤も歓声を上げた。
嬉しくて内藤の方に振り返って喜んでいると、内藤が「ほら、次が来るお」と言い、わたしは再び投手に向かった。
それから、何回かの空振りに内藤のアドバイスそして、何回かのヒット。
わたしが楽しくて笑いながら打席から出ると「野球で、親子の触れ合いだお」と内藤が言った。
わたしは「そういうのは普通、息子とやるのよ」と言うと内藤は「そんなの、気にしないでいいんだお」と言った。
それから入れ替わりに内藤が打席に入り、わたしは内藤が打ったり転がったりするのを見て楽しんだ。

(^ω^)
 翌日、演奏するホールに着いたわたしはその広さに驚いた。
「こんな大きなホールだったの?」
わたしの質問に指揮の彼が言った。
「うん。今年から会場が変わってこんな広い所になったんだ。嬉しいよね」
オーケストラ部のみんなも嬉しそうだったが、わたしは不安でしょうがなかった。
何しろ人前で演奏するなんて、以前のコンクール以来、二度目なのだから。
一応のドレスアップをし、バックステージに行ってからも落ち着かず、舞台の脇から何度も客席を覗いたりしていた。
しかし、それは失敗だった。そこから見える大勢の人達がかえって、わたしを緊張させた。
「大丈夫だよ。君の演奏なら」
指揮の彼はそう言うが、とても落ち着けなかった。
その時、「ツンはいるかお?」という声と共に内藤がバックステージにやって来た。
「来ていいとは言ったけど、こんな所まで来ないでよ」
わたしがそう言いながら内藤の方に行くと、内藤はわたしを見て、口を開けたまましばらく何も言わなかった。
「……き、きれいだお」
やっとという感じでそう言うと、次にわたしの緊張した表情を見て微笑みながら言った。
「初めてぼくにピアノを弾くところを見られるから緊張しているのかお?」
「ばっ……! そんな訳ないでしょ!」
わたしは咄嗟に言い返した。
そして、そんなやりとりで何だか緊張しているのが馬鹿らしく感じてしまい、心が少し楽になった。
内藤に何かを言おうと思ったが思い浮かばず、わたしは「とにかく、見るならおとなしくしててよ!」と言った。
ステージの方から拍手が鳴り響いた。前の学校の演奏が終わったらしい。
オーケストラ部のみんながステージに向かう準備を始めた。
「演奏が終わったら、また来るお」
内藤はそう言って、客席に戻って行った。
「さぁ、みんな。精一杯演奏しよう!」
指揮の彼の言葉にみんなが力強くうなずき、わたし達はステージに向かった。

(^ω^)
 ――タクトが振られ、演奏が始まる。
鍵盤に指を置き、わたしは、静かに自分のパートが始まるのを待った。
その数秒で、わたしは客席にいる大勢の人の存在を忘れていた。
いや、客席にいる人々だけでは無い、このホールの存在自体が意識から消えていた。
そして、その時が来て、わたしの指は音楽を奏で始めた。
今、わたしは自分の目の前のピアノとだけ向き合っていて、意識を支配しているのは演奏しているこの曲だけだった。
目は見えているのに何も見えない。しかし、耳からは全ての音が聴こえていた。
バイオリンの一弦一弦の音、クラリネットのリードの震え、タクトの空気を切る音さえも聴こえる気がした。
そして、そこに自分の生み出した音を、旋律を、そして感情を混ぜてゆく。
そうして生まれる、ひとつの音楽。
今まで、クーに指摘されたように、わたしは「何か面白い事がないか」と思っていた。
しかし、今、わたしは《何処かにある面白い何か》を探しているでは無く、こうして自分でその《何か》を生み出している。
音楽が自分の手で生み出され、そこには、何かを自分がやっているという確かな感覚があった。
そして、わたしはやはりピアノが好きだった。ピアノを弾くことが好きだった。
小さい頃から当たり前のようにあったピアノ。
しかし、それは日常に溶け込み過ぎて、自分にとってのその意味がぼやけてしまっていた。
これで最後のつもりだった。
でも、これを始まりにしたいと思った。
ピアノを通じて、もっと色んな表現をしたかった。
哀しみを、怒りを、そして喜びを表現したいと思った。
演奏が終わりに近づき、わたしは最後の一音まで、持てる限りの想いを指先からピアノに伝えた。
そして、鍵盤から指が離れ、全ての音が消えた。
数秒の無音。
そして、次に聞こえて来たのは大きな拍手の音だった。

(^ω^)
 バックステージに戻ると、大勢の部員、特に女子が感極まって、泣き始めた。
部員同士、みんなで抱き合って泣いていた。
中には男子に抱きついて泣いている子もいる。
指揮者の彼を探すとその腕にはしっかりと彼女が抱かれていた。
わたしも喉に込み上げるものがあったが、それをぐっと押さえてみんなの輪から少し離れた。
わたしはまだみんなとの付き合いが短く、抱き合って泣くなんていう事まで出来る気がしなかった。
その時、バックステージの入り口に内藤が現れ、何も言わずにわたしに向かって両手を広げた。
わたしは内藤に「何やってんのよ」と言うつもりだった。
しかし、声を出した瞬間に喉がこわばり、声が震え、そしてわたしは泣いてしまった。
「とても、いい演奏だったお」
内藤がそう言い、わたしは内藤の広げた胸に飛び込んだ。
わたしにも泣ける場所があった。
内藤の腕の中だ。

(^ω^)
 次の日、放課後に屋上で風景を眺めているとクーがやって来て横に並んだ。
「何か面白いものでも見える?」
「うん」
わたしは頷いて、クーの方へ向き直った。
「わたし、見つけたんだ」
「ん?」
わたしは真っ直ぐにクーを見つめて言った。
「見つかったんだ、自分のやりたい事」
クーはわたしを見ると微笑んで「そうか」と言った。
「何よー。やりたい事が何だか聞いてくれないの?」
わたしは頬を膨らませた。
「ピアノ――。だろ?」
クーが静かに言った。
「何だ、知ってたの?」
わたしの問いに、クーは遠くを見ながら答えた。
「知ってたよ。ずっと前から。うん、きっとツンが自分で気付くより前から」
「えー、知ってたんなら、教えてよー。クーのけち」
わたしは再び頬を膨らませて言った。
ふふふ、とクーは笑った。わたしも笑った。
でもすぐに、わたしは言った。
「でも、音大は無理だろうな。もう受験まで日が無いし、それに何よりもお金が無いし」
クーは「まだ、あきらめるな」と言った。
それから、しばらく二人で景色が夕陽に染まるのを見ていた。
「行きたかったな、音大」
わたしは呟いた。
「行けるといいな」
クーが言った。

(^ω^)
 帰り道、クーと別れて一人で商店街を歩いていると、前方に内藤が歩いているのを見つけた。
わたしはそーっと近寄り、耳元で大きな声を出した。
「わっ!」
「――エンッ!」
驚いた内藤は変な叫び声を上げ、手に持っていた袋をいくつか地面に落とした。
そして、笑っているわたしを見ると恥ずかしそうに笑った。
「何だお。ツン、驚いたお……」
「何やってるの?」
わたしが聞くと、内藤は落とした袋を拾って「これを買いに来たんだお」と言った。
見るとその袋にはウエハースの箱が入っていた。
「あ、もしかして……」
わたしは少しうつむいて内藤に聞いた。
「うん。きっと今ので粉々だお」
「ご、ごめん」
わたしが謝ると内藤は「罰として荷物半分持つお」と、袋を一つ渡してきた。
そうして、二人でショボンさんのお店に歩いて向かった。
交差点で信号待ちをしていると、ふと、また誰かに見られている気配を感じた。
今回のは今までとは少し違う感じだった。何かねっとりした空気を感じた。
立ち止まって周りを見回したが何もない。
「ツン、何やってるんだお。置いてくお」
何時の間にか信号が青になり、交差点を渡り始めた内藤に呼ばれ、わたしは再び歩き出した。
それから、内藤と二人、並んで歩いた。内藤は今日、お店であった出来事をおもしろおかしく話し、わたしは音大の事を考えていた。
しばらく考えた後、やはり思い切って内藤に相談してみようと思い、内藤の話を遮った。
「ねぇ」
――その時、再び、誰かに見られている気配がした。
「どうしたんだお?」
内藤が間の抜けた顔でそう聞いてきた。
「……ねぇ、何だか誰かに見られてるような気配がしない?」
わたしがそう言うと内藤はきょろきょろと周りを見回し、それからわたしに向き直って言った。
「そんな気配わかるわけないお」
「でも……」
不安がるわたしに内藤は「確かにツンはかわいいけど、それは自意識過剰だお」と言って笑った。
「なっ……!」
わたしが内藤に言い返そうとしたその時、一台の黒塗りの高級車がわたし達に向かって突進して来た。
ぶつかる! そう思ったが、その車はわたし達のギリギリ横で止まった。
運転席のドアが開き、映画に出て来るような、制服に帽子の運転手が降りて来た。
運転手は一礼すると、後部座席のドアを開けた。
そして、一人の初老の女性が姿を現した。
その女性はわたしを見ると言った。
「――ツン。迎えに来ましたよ」

(^ω^)
 それから数十分後、わたしと内藤はわたし達の住んでいる街から遠く離れた郊外の大きな屋敷の大きな応接間にいた。
部屋にはアンティークの家具が置かれ、座らされたソファーは柔らかく、壁には絵が飾られている。
そういう物に縁の無いわたしでも、きっと高級品なんだろうと分かる物ばかりだった。
ソファーのわたし達は、出された紅茶にも手を付けずにただ座り、そして、正面にはさっきの女性が座っていた。
「さて……」
女性が話し始めた。
「もう気付いているかも知れませんが、私はあなたの母親の母親。つまり、あなたの祖母です」
何となくそんな予感はした。そうでなければこんな所までのこのこ付いて来たりはしない。
何も言わずにいたわたしを見て、その女性は話を続けた。
「あなたの母親はひどい娘でしたよ」
会っていきなり、祖母とはいえ、母の事を悪く言われてわたしは驚くと同時に気分が悪かった。
「社会に出てすぐに未婚で妊娠して、最後には家を出て行ってしまったんだからね」
女性が小さく溜め息をついた。
「でも、そんな娘も死んでしまった。そこで、娘の子供はどうしているのかと調査機関を使って調べてみたら――」
ああ、あの見られている感じはそれだったのか。
「まったく知らない男と暮らしてる。……どうなっているのやら」
そう言って女性は頭を振った。
この女性の話からは自分の娘に対する愛情がまったく感じられなかった。
母が可哀想で、そして何だか悔しかった。
わたしはうつむいたまま小さく声を出した。
「あなたがそんな感じだから……」
「何?」
わたしの声に気付いた女性がわたしを見る。
わたしは顔を上げると女性を真っ直ぐに見据えて言った。
「あなたがそんな感じで反対するから――。だからママは出て行ったのよ」
わたしの言葉にその女性はあっさり言い返した。
「そりゃあ、しますよ。父親がいないんだから」
父親がいない?
「え? それってどういう……」
わたしは女性が言っている意味が分からなかった。
「だって、ママは内藤と結婚して……」
何とかそう言ったわたしに女性が言った。
「結婚? 入籍の事? そうね。入籍は結局ツン、お前の為だったんだろうけど、賢明な判断だったわ」
そして、女性は冷たい目で内藤を見て言った。
「――結局あなた、この子とは何の関係も無いでしょう?」
内藤がわたしから目を逸らせて言った。
「そ、それは……、そうだお……」

(^ω^)
「ちょっと! どう言う事なのよ!? 説明してよ!」
わたしは体ごと内藤の方に向いて聞いた。
「おや、知らなかったのかい? お前はこの男とは血なんか繋がってないんだよ」
女性が少し愉快そうにそう言った。
「お前の父親はお前が生まれるずーっと前に死んでいるんだよ」
わたしの父親は死んでいる?
未だに話が理解出来ないわたしは、ただひたすらに女性を睨む事しか出来なかった。
「それでも子供を産むと言って、お前の母親は家を出て行ってしまった」
女性があごで内藤を指し示して言った。
「そして、どこかでこの男と知り合って、入籍だけしたのさ」
内藤は黙ったままだった。
「本当なの、内藤? 内藤はわたしの父親じゃないの?」
わたしは内藤を見つめたまま聞いた。
しばらく黙っていた内藤はやがてぽつりと言った。
「……ほんとだお」
その瞬間、目の前が真っ暗になり、わたしは叫んだ。
「何よ! ずっと騙してきたのね!」
「違うお!」
内藤は即座に言い返してきた。
「入籍した時、ぼくは本当にツンの父親になるつもりだったんだお! 血が繋がってないとか、そんなの関係無いお!」
わたしも内藤も、それ以上何も言えなかった。
「――さて、美しい話だが、ツン。これから、どうするのかを決めなさい」
膠着状態になったわたし達の間に女性が割って入ってきた。
「結局は赤の他人、そして生活能力も無いこんな人間とお前は暮らすのかい? そして、低い生活水準で将来を台無しにするのかい?」
蔑んだ目でちらりと内藤を見ると、わたしに向き直りにやりと笑って続けた。
「家で養ってあげてもいいわよ」
驚いて女性を見たわたしに今度は無表情に言った。
「一応、あなたも我が家の一族。あなたの母親に続き、そんな恥さらしが二人も出るなんてトンデモナイ」
女性はわたしを見つめて、少し微笑むと得意げに話を続けた。
「今からでも遅くありません、私がちゃんとした大学に行かせてあげます。そして卒業したら、ちゃんとした仕事に就いて、いずれ、ちゃんとした結婚をさせてあげる」
そして、そこまで話すと、今度は再び冷たい表情になって言った。
「ただし、その場合はその男と一切の縁を切ってもらいます」

(^ω^)
 街に戻る車内、わたしも内藤も一言も口を利かなかった。
女性の提案に、わたしは「考えさせて」と言った。
女性は「何を考える必要があるのか分からないけど、まぁいいわ。わたしは明日から旅行に行くから、一週間後、わたしが帰って来るまでに考えなさい」と言った。
そうして、車がショボンさんのお店の前に着き、運転手がドアを開けた。
車を降りると内藤が笑いながら言った。
「ふひひ、ばれちゃったお。ツン、黙っててごめんだお」
わたしは何も言えなかった。
下を向いたまま何も言わないわたしに内藤が言った。
「残り一週間、よろしくだお」
わたしは内藤を見上げた。
「今まで以上に楽しい日になるように、ぼくも努力するお」
そう言って笑う内藤にわたしは言いかけた。
「内藤、わたし――」
「ツン」
わたしを遮って内藤が言った。
「あの人の言う通りだお。ぼくといたらツンの将来がダメになっちゃうお。ツンはあの家で暮らした方がいいお」
その言葉を聞いて、わたしはお店に飛び込み、倉庫に鍵をかけて閉じこもり、泣いた。
ドアの向こうで、ショボンさんの「あ、ブーン。ツンちゃんはどうしたんだい?」と言う声が聞こえた。
内藤は静かに「年頃の娘は色々悩みがあるんだお」と言った。
 それから、わたしは内藤をおいて、一人で先に家に帰った。
家に帰る途中で、また視線を感じた。あの、絡みつくような嫌な視線。
わたしの祖母がまだわたしを見張らせているのだと思っていた。だが、それは違う視線だった事を後で知ることになる。
 家に着いて、鍵を開けて一人で中に入った。
電気の点いていない家は暗く、誰もいないリビングはがらんとしていてひどく広く感じた。
昨日まで、家族と住んでいたと思っていたここは今日、他人の家になった。
あの人はわたしの父親ではない。
わたしはもう、あの人の世話になってはいけない。
わたしはもう、ここを出て行かないといけないんだ。

(^ω^)
 次の日からも内藤は普通に話し掛けてきた。
まるで、昨日の事など無かったかのように。
そして、そんな内藤に合わせて、わたしも普通に振舞った。
しかし、内藤がはしゃげばはしゃぐ程、わたしが笑えば笑う程、それはやがてやってくる別れを感じさせた。

(^ω^)
 それから、四日目の夕方だった。
わたしが学校から帰って来ると内藤が電話をしていた。
いつになくぼーっとした表情で電話をする内藤の横を通って、わたしは自分の部屋へ行こうとした。
その時、電話をしたまま、内藤が突然、わたしの腕を掴んだ。
「何よ?」
そう言うわたしに振り返りもせずに、内藤は電話を続けた。
やがて、「あ、ありがとうございますだお」と言って内藤は電話を切った。
内藤がぼーっとしたままわたしを見る。
「何よ?」
わたしは再びそう言った。
ぼーっとしていた内藤の目に徐々に光が戻って来る。そして、わたしの顔をじっと見ると、今度は突然、抱きついて来た。
「なっ、何よ!?」
あまりの事に戸惑うわたしに内藤がぼそっと言った。
「受賞したお」
「え?」
わたしが聞き返すと内藤はわたしから一度離れ、わたしの両肩を握って言った。
「新速出版社の新人賞を受賞したんだお!」
そして再びわたしに強く抱きつく。
「これで、これでぼくの本が出版されるお!」

(^ω^)
 翌朝、スーツ姿の内藤が、学校に行くわたしに言った。
「これから取材を受けて、夜にはショボンの店でぼくの受賞パーティーだから、寄り道せずに帰って来るんだお」
わたしは「うん」と言いかけてから思い出して言った。
「あ、そうだ。今日の放課後、担任に残るように言われたから、ちょっと遅れるよ」
「わかったお。あ、それから帰って来たらちょっとだけ話があるお」
「……うん」
わたしは躊躇いがちに返事をした。きっと家を出て行く話だろう。
少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。
そして、その沈黙を破るように内藤が照れくさそうにモジモジしながら聞いてきた。
「どうだお? スーツ、変じゃないかお?」
「うん。変だよ」
わたしは笑って答えた。
「ちょっ……」
「だけど、かっこいいよ。行って来まーす!」
そう言って、わたしは玄関を飛び出した。
それから、学校に着くと、まず最初にクーをパーティーに招待した。
一緒にお父さんも、と内藤からの伝言を伝えたが、クーは「そんな場所に父がいると色々不都合だろう」と断った。
そうだなぁ。きっと、ショボンさんなんか眉が下がりっぱなしだろうな。
「よかったな。ツンも嬉しいだろう」
そう言って、クーはわたしに微笑んだ。
「うーん。嬉しいとは思うけど、実は、あんまりピンと来ないんだよね」
「そうか。自分では無く、父親が受賞だものな。そんなものなのかも知れないな」
クーがそう言った。
――わたしはクーに、祖母が現れた事、内藤が本当の父親では無かった事を話していなかった。
そうだ。あの家に引っ越したら、クーとも別れる事になる。
うつむくわたしに気付いたクーが「どうした?」と聞いてきた。
「う、ううん。そうなんだよね。それに新人賞取ったからって、賞金も大した事ないし、それだけで終わっちゃう人もいっぱいいるしね」
わたしはそう言ってごまかした。
「相変わらず、ツンはお父さんに厳しいな」
そう言ってクーは笑った。
それから、今日一日は祖母の事を考えるのは止めて、内藤が受賞した嬉しさだけを考えようと決めた。
そしてその日、放課後までわたしはスーツ姿の内藤がどんな感じで取材を受けているのかを想像し、微笑んだり、心配したりしながら過ごした。

(^ω^)
「失礼します」
放課後、担任に呼ばれて職員室に行くと、応接テーブルにこの学校の先生では無い人がいた。
仕立ての良いスーツを着て、口ひげをたくわえ、髪は殆ど銀髪の紳士。
まるで眠っているかのように細い目をわたしに向けて、その人が言った。
「やぁ、君がツン君だね。待っていたよ」
わたしが会釈すると、担任がやってきて、わたしを席に座らせた。
わたしの向かいに担任とその人が座り、担任の咳払いと共に話が始まった。
「こちら、備府音楽大学の荒巻教授」
担任がそう言って、その人を紹介した。
「始めまして、ツンです」
わたしが挨拶をすると、荒巻教授は話しを始めた。
「さて、さっそくだが、君に私の学校に来てもらいたい」
突然の話に驚き、わたしは担任に視線を移した。
「ツン、お前、先週、オーケストラ部に混じってコンサートに出ただろう?」
わたしは頷く。
「その時にな、この荒巻さんが会場にいて、お前のピアノを聴いたんだ」
担任がそこまで言うと、荒巻教授が口を開いた。
「あの演奏は素晴らしかった。オーケストラも勿論だが、私は特に君のピアノに惹かれた。この子を是非、私の手で指導したい、そう思ったんだよ」
荒巻教授は一息置くと、少し身を乗り出して話を続けた。
「私が持っている推薦入学枠にまだ空きがあるんだ。どうだろう? 来てみないか? まだギリギリで間に合う。勿論、試験はあるが、君ならきっと通る」
この人はわたしを音大へ行かせてくれると言っているのだろうか?
いや、事実そうなのだが、何だか目の前の出来事が現実では無いような感じがして、わたしはぼーっと荒巻教授を見つめていた。
返事をしないわたしを見て担任が口をはさんだ。
「そうか。お前、最近母親を亡くして生活が大変なんだっけか」
それを聞いた荒巻教授は担任を見て、それから再びわたしを見て言った。
「そうなんですか、それは大変でしたね。――でも、本校には奨学金制度もあるので、そちらも問題は無いと思います」
それから、わたしをじっと見て荒巻教授が言った。
「そんな訳で、ツンさん。来てみませんか? いや、来なさい。私は君に教えたい事が沢山ある」
「あ、ありがとうございます……」
未だに現実感が無く、わたしはそう答えるのが精一杯だった。
「君に多くの事を伝えたい。そして、君に多くの事をピアノを通して表現して欲しい。それは哀しみだったり、怒りだったり、喜びだったり。ツンさん! 私と一緒にそれを目指しましょう!」
その言葉を聞いて、わたしは目が覚める思いだった。
「はいっ!」
わたしの返事に荒巻教授がより一層目を細めて、満足げに頷いた。

(^ω^)
 職員室を出たわたしはこの喜びを分かち合おうと、クーを探した。
教室に戻ってみたが、クーはいなかった。
「クーなら、『一度、家に帰ってから行くとツンに伝えてくれ』って言って、今さっき帰って行ったよ?」
教室に残っていた子がそう教えてくれ、わたしは急いで教室を出た。
走ればまだクーに追いつくかもしれない。
わたしは走りながら考えていた。
――これでわたしは大学に、しかも念願の音大に行ける。
もう、祖母に頼る理由は何処にも無くなった。
わたしはあの家には行きたくなかった。内藤の家にいたかった。
でも――、内藤はわたしに祖母と暮らすように、と言った。
もしかして、もう内藤はわたしと暮らすのが嫌なのだろうか?
――いや、分かっている。本当はそれが、祖母の家に行くのが正しい事なんだ。
あの人はわたしの祖母で、内藤はわたしにとっては何の関係も無い人。
つまり、内藤から見れば、わたしは本来、自分とは何の関係の無い存在なのだ。
戸籍が入っているから、だから仕方なく一緒に暮らしていただけなのかも知れない。
わたしの事を戸籍から抜く事が出来るなら、一人で自由に生きたいのかも知れない。
そして、これから小説家としてやって行くには、こんなわたしの存在は邪魔でしかないのかも知れない。
 目の前に置かれたチャンスを喜んでいたわたしは、その周りを固める現実の状況を思い出した。
そして、何だかやるせない気持ちになったわたしの走るスピードは徐々に落ち、やがてついには一人うつむいて、とぼとぼと歩いていた。
そんな、元気無く歩くわたしに一台の車が近づき、窓から運転していた男の人が「すいませーん、道を教えて下さい」と言った。
車がわたしの進路を塞ぐように止まり、「ちょっとカーナビの地図見てもらえますか?」と言って、男の人が助手席のドアを開けた。
仕方なくわたしは車に身を乗り入れ、カーナビの画面を見た。
その時、チキチキチキという音と共に、引き攣るような痛みが走り、全身の力が入らなくなった。
男は、痛みで呻き声を吐き出すわたしを車内に引き込むと、タイヤの音を鳴らしながら車を発進させた。

(^ω^)
 暗闇から目が覚めた。
いつの間にか気を失っていたらしい。
体に痛みはなかったが、手が後ろで縛られ、足も縛られた状態で床に寝ていた。
わたしは上体を起こして周りを見回した。
がらんと広いだけで何も置いていない部屋だった。
わたしの後ろの壁にドアがあり、正面の壁に大きな窓が一つだけあった。
苦労しながらも何とか立ち上がると縛られた両足で跳ねながら窓に近づいた。
窓は嵌め殺しで開かない。
わたしは窓におでこを付けながら見える範囲で外を見た。
どうやら、ここはビルの一室らしい。
正面に、小さい路地を挟んでビルの屋上が見えた。
そのビルの階数を数えると、七階建てのビルだった。
七階建てのビルの屋上が下に見えるということはここは八階くらいなのだろうか。
正面のビルの先にはもっと高いビルが建っていて、その壁が先の視界を遮っていた。
窓からの見える角度では他に見える物は何も無く、ここが何処だかはまったく分からなかった。
「何なの、一体……」
わたしはそう呟いて、その場に座り込んだ。
その時、鍵の音が聞こえ、わたしの向かいにあるドアがゆっくりと開いた。
そして入って来たのはさっきの運転手だった。
「やぁ、ツン。目が覚めたかい?」
男はわたしを見ると、嬉しそうに微笑んだ。

(^ω^)
 部屋を見回して男がすまなそうに言った。
「ごめんよ。こんな何も無い部屋で。家具類は今、注文してるから後数日で全部が揃うよ」
それから再び微笑み、両手を広げてわたしを見つめると言った。
「そしたら、一緒に楽しい生活を送ろう」
わたしは自分の置かれた状況とこの男の笑顔のギャップが怖くて仕方が無かった。
それでも、震える声を必死で押さえ、わたしは聞いた。
「あなた、誰なの? 何でわたしを?」
「僕は君のファンだよ。ツン」
男はにっこりと笑ってそう答え、そして続けた。
「先週のコンサートで僕は君を見つけたんだ」
目をつぶり、そのまま上を向いて、思い出すようにしながら男は話した。
「あのコンサートにはたまたま行ったんだ。知り合いが出るって言うからね。でも、今思えばそれが運命の始まりだったんだね……」
首を振ったり大きく頷いたりしながら男は話した。
「最初は退屈だったさ。高校生のコンサートなんかレベルが低すぎる。でも、君の学校が出て来た時、ぼくは驚いたよ。何しろピアノの前には天使が座っているんだからね」
男が目を開き、うっとりとした表情でわたしを見た。
「そして、その天使のピアノはまさに神の音楽だった! 君は輝いていた。ぼくは震えながら君の演奏を聴いていたよ」
男の目が徐々に狂気を帯びてくる。
「演奏が終わると僕はプログラムで学校名を確認して、すぐに電話で君の事を聞いたよ。そして、翌日に学校の近くへ行って君を待った。初めて君を見た時は嬉しさで涙が出たもんさ。以来、ずっと君の事を見守っていたんだ」
男の狂気の目はわたしの方に向けられていたが、焦点が定まらないままわたしを通した何かを見ているようだった。
「わたしなんか代理でピアノを弾いただけだよ……」
何か言わないと、そう思ったわたしはそんな事を口にした。
しかし、男は腕を組んで頷くと、こう言った。
「そうだったのか。ならば、君に代理を頼んだ人は素晴らしい。その人のおかげで君はその魅力を世間に知らしめる事が出来、そしてぼくに出会えた訳だ」
男はまるで舞台で演技しているかのように大きく手を振りかざしながら話を続けた。
「実際、あれから他にも、君の所に人が来たろう? 音大関係者とか。僕が学校に電話をした時、電話に出た人に『あなたも音大関係者ですか?』と聞かれたよ。――つまりそれだけ君は目立っていたんだよ!」
もう、わたしは何も聞きたく無かった。それでも男は話を続ける。
「そして、そんな人は僕の所に来るのがふさわしい。そう。僕こそがそんな君にふさわしい! そう思った僕は、君と一緒に暮らす事に決めた。だから君をここに連れて来たんだ」
次の瞬間、男が急に動きを止めると、低い声でわたしに聞いてきた。
「ところで、一緒に暮らしてるあいつは誰だ?」
答えようとして、わたしは言葉に詰まった。
「あれは……」
そうだ――。内藤はわたしの父親では無い。
わたしにとって内藤は何なのだろう?
そして、内藤にとってわたしは何だったんだろう?
沈黙するわたしに男が言った。
「答えられないような奴か」
男は少しの間、何かを考えているようだった。
「……まぁ、邪魔者に変わりは無いな。よし、あいつは殺してしまおう」
男はまるで晩御飯のメニューでも決めるかのように、あっさりとそう言った。
「待って! 違うの、父親よ!」
思わず叫んだわたしに男は冷たい声で言った。
「嘘をつくな。君の学校に確認してるんだ。君に父親はいないだろう」
それから男は再び微笑むと「待っててね」、そう言って部屋を出て行った。

(^ω^)
 わたしは最悪の考えが頭を離れなくて、怖くて泣きそうだった。
だが、ここで泣き始めたら、もう何も考えられなくなってしまう。
わたしは必死に泣かないようにもがいていた。
気が付くと、陽が落ち、部屋の中がほぼ真っ暗になっていた。
窓から入る街の光で、うっすらと明るいだけ。
暗闇がわたしの考えを悪い方へ引きずり込む。
「内藤……」
わたしが呟いた時、再び鍵の音がして、ドアが開いた。
開いたドアの隙間から明かりが差し込む。
逆光になった男が何か重そうな物を引きずりながら部屋に運び入れた。
そしてドアが閉まり、再び部屋は暗闇に落ちる。
男の歩く音が聞こえ、それからパチンとスイッチを入れる音がした。
蛍光灯が何度か瞬きながら点る。
明るさに目を細めながら、わたしは男の方を見た。
「お待たせ」
男がそう言って微笑んだ。
そして、わたしは男のすぐ横の床を見て、息が止まった。
――そこには、動かなくなった内藤が倒れていた。

(^ω^)
「内藤っ!」
わたしは叫び、内藤に駆け寄ろうとして転んだ。
「だっ、大丈夫かい? ツン!?」
そう言いながら男がわたしに近づいて来た。
「やめてっ! 来ないで!」
わたしは男に怒鳴った。
「わたしの事も殺すんでしょ?」
震えながらそう言うと、男が寂しそうな表情で言った。
「何を言ってるんだい? 君を殺す訳が無いだろう?」
それから内藤の方をちらりと見て続けた。
「あいつだって死んでないよ。気絶してるだけだよ」
その言葉を聞いて、わたしは全身の力が抜け、床にへたりこんだ。
「僕はやさしいからね。一晩、話をするといい。僕と住むって事をこいつに知らせてあげるんだ。君だって本当はこいつと一緒にいたくなんかないんだろう?」
そして、男は冷たい笑みを放って言った。
「そしたら、こいつは僕が始末してあげるよ」
すっ、と男は立ち上がった。
そして、「じゃあね、おやすみ」と言うと電気を消して、ドアから出て行き、再び鍵を締めた。
わたしは震えが止まらなかった。
そして、内藤の所までどうにかたどり着くと必死で内藤を起こした。
「内藤! ちょっと内藤! 目を覚ましてよ!」
内藤がもぞもぞと動き出した。
「う〜ん、もう食べられない……」
「………………」
事情を知らないとは言え、のんきに寝言を言う内藤にイライラしたわたしは縛られた足で思いっきり蹴り飛ばした。
「おふうっ!」
内藤は転がりながら目を覚ました。
「いい加減にしないと殴るわよ?」
「な、何だか今、蹴っ飛ばされた気がするお……」
そう言って内藤はきょろきょろと辺りを見回し、それからわたしに気付いた。
「おっ、ツン。何やってるんだお?」
「何やってるんだじゃないわよ。あんた、後数時間で殺されちゃうのよっ!」
わたしがそう叫ぶと、内藤は「おっおっおっ」と笑い、続いて「嘘だお?」と聞いてきた。
「本当よ」
わたしは答えた。
内藤が目を見開いて「ガクガクブルブル」と震え出した。

(^ω^)
 とりあえず、わたし達はお互いの縄を解いた。
それから、電気のスイッチを探して点けてみたが、外からブレーカーが落とされているらしく、電気は点かなかった。
次にドアを開けようとしたが、やはり鍵がかかっていて開かず、ドア自体も鉄製でとてもではないが壊す事は出来なかった。
他に唯一、外に繋がる窓も、そこから外を見てもつかまって降りるような物は何も無く、下の路地には誰も通らなかった。
大声で叫んで助けを呼ぶ事も考えたが、男に聞かれて戻って来られたら何をされるか分からないので、それは試せなかった。
結局、ここから逃げ出す術は見つからず、わたし達は薄暗い部屋の中で壁に背をつけて並んでしゃがみ込んだ。
「ぼくはどうして殺されるんだお?」
内藤が聞いて来た。
「そんなの、わたしにもよく解らないよ」
わたしは内藤に誘拐されてからの事を話した。
「……うーん。どうやら相手は精神異常のストーカーだお」
「内藤はどうして掴まったの?」
わたしが聞くと内藤が語り始めた。
「――ツンがちっとも会場に来ないから、ぼくは心配になって学校に迎えに行ったんだお」
「わざわざ?」
「うん。そしたら、もう帰ったって言われて、それから『クーを探してた』とも言われたんだお」
あ、わたしがクーの居場所を聞いたあの子が内藤にそう言ったんだな。
「それで、クーちゃんの家に行ったお。二人一緒にいるかと思ったんだお」
「そしたらわたしはいなかった」
「うん。それでショボンに電話してもまだ来て無いって言うし、ツンの携帯も繋がらない」
話している内藤の眉がだんだんとショボンさんみたいに下がって来ていた。
「時間ばかりがどんどん過ぎてしまって、ぼくがおろおろしてるとクーちゃんがぼくを連れて家に帰ったお」
「クーの家に?」
「うん。それでクーちゃんは大きな部屋に組員を呼び集めると、別人のようなキリッとした顔で話を始めたお」
内藤はすっくと立ち上がると腕を組んで正面を睨んだ。
「『諸君、説明した通り、わたしの大事な友人、ツンが何かの事件に巻き込まれた可能性がある。現刻より状況を開始する』」
内藤がクーの真似をしながら言った。
「『もし、ツンに危害を加える存在があったとしたら。私が許可する、そいつにツンに、私の親友に手を出した事を死ぬほど後悔させてやれ』」
内藤が興奮して鼻を広げながら、真似を続けた。
「『だが忘れるな、最終目的はツンを安全に奪還する事だ。そして、その為に私の命が必要ならば、私は喜んで差し出す。だから、その時、もしお前達の命が必要ならば、わたしが冥土まで付き合うから、その命を私に預けてくれ。――さぁ諸君、撃鉄を起こせ!』――と、こんな感じ! いやー、クーちゃん、かっこよかったお!」
興奮冷めやらぬ様子でそう言いながら内藤は再び座った。
「で、クーちゃん達とは別にぼくも一人で探してたんだお。そしたら車が近づいて来て『道を教えて下さい』って。で、気付いたらここにいたんだお」
内藤はそう言って肩を落とした。
しかし、それからわたしを見てにっこり笑った。
「でも、ツンが無事で本当によかったお」
わたしは思わず目を逸らして言った。
「ばっ、馬鹿っ。今はあんたの命が危ないのよっ」

(^ω^)
 それからどれくらいだろう? わたし達はどうする事も出来ずに並んで座ったまま天井を眺めていた。
「ねぇ、内藤……」
わたしが長い沈黙の末に声を出した。
「わたしが始めて内藤の前に現れた時――」
わたしは内藤の顔を見ずに話した。
「何でわたしを引き取ったの? あの時、実の父親じゃない。わたしとは血の繋がりも無い。って言えばそれで終わりだったのに」
内藤が即答した。
「そんな事は関係無いお」
そして、わたしの方を向いてもう一度、言った。
「血の繋がりなんて関係ないお。血が繋がって無くても親子にはなれるお」
たとえば、と内藤が話を続けた。
「人が一番愛してる人と結婚して、夫婦になっても。それで二人の血が繋がるわけじゃないお」
内藤は微笑みながら言った。
「だったらその娘と血が繋がらないまま親子になったっていいじゃないかだお」
「内藤……」
わたしは内藤を見た。
「ほらそれに、クーの家を覚えてる? やくざの親兄弟だって血は繋がってないけど本物の親子以上だって言ってたお」
内藤はそう言って、おっおっおっ、と笑った。
「じゃあ、どうして?」
今度はわたしは体ごと内藤の方を向いて聞く。
「どうして、わたしにあの家に行けって言うの? 本当はわたしと暮らすのが嫌だったの?」
少しの沈黙の後、内藤が答えた。
「正直、最初はどんな娘かと心配だったお。ずっと一緒にやっていけるのか不安だったお。でも今、ぼくはツンの事が大好きだお」
その言葉を聞いて、わたしは涙が出そうだった。
「わたしだってそうよ」
溢れそうになる涙を必死でこらえ、わたしは内藤にそう言った。

(^ω^)
「でも、それじゃあ何で?」
そして、わたしは聞いた。
「何でわたしに、あの家に行け何て言うの?」
内藤が少し、寂しそうな顔で答える。
「でも、あそこにいれば大学だって行けるし、将来も安泰だお」
わたしはまるでなだめるように内藤に言った。
「ねぇ、内藤。わたし、推薦で音大に行けるの。奨学金だって貰えるのよ?」
わたしの話に内藤が驚いた表情になった。
わたしは話を続けた。
「それに自分の将来なんて、自分で切り開くわよ。――だから、あの家に世話になる理由はもう無いんだよ」
わたしはこれで、内藤がもうこれ以上、わたしを追い出す言葉を持ち出せなくなると思った。
しかし、内藤はしばらく考えた後に言った。
「――実は、ツンにはもう一つ選択肢があるお」
もう一つの選択肢?
内藤が真剣な顔でわたしを見て言った。
「あれから、クーちゃんのお父さんに頼んで、ツンの本当のパパの家族を探してもらったんだお」
わたしの、死んでしまった本当の父親の家族――。
それにしても、わたしとクーが部屋を出ている間にそんな約束をしていたなんて。
「それが昨日、見つかったんだ。連絡したら、ツンに会ってみたいって」
わたしは何も言えなかった。いや、何も言わなかった。
「その人達も、あの人も、どっちも、ツンの本当の家族なんだお?」
何も言わないわたしに内藤がそう言った。
そして、おずおずとこう言った。
「ツンだって、ぼくなんかじゃなくて、血の繋がった本当の家族といたいんじゃないかお?」

(^ω^)
 わたしは震える声で必死に内藤に言った。
「ねぇ、内藤。言ってる事が矛盾してるよ……」
限界だった。そして、声を出した事でその限界を越え、ついにわたしは泣き始めてしまった。
「血の繋がりは関係無いんでしょう? わたしもそう思うよ?」
泣きながら、わたしは内藤に話し続けた。
「だって、わたしが欲しいのは血の繋がりなんかじゃないの。わたしが欲しいのは――」
嗚咽で言葉が詰まる。
わたしはそれを押さえ、言葉を出した。
「わたしが欲しいのは、――温かい家族なの」
内藤の目からもすーっと涙が溢れるのが見えた。
「ねぇ、内藤? だから――」
再び詰まる言葉をわたしは懸命に吐き出した。
「――だからわたしは、あなたといるわ」
内藤は真っ直ぐにわたしを見たまま、こぼれる涙を拭こうともせずに言った。
「――ツン、帰ったらピアノを買いに行くお」
帰ったら。
そう、わたしは内藤とここを出て、あの家に帰るんだ。
「うん。そしたら今度はピアノを弾いてる時に、ママだけじゃなくて内藤のことも感じれるね」
わたしは内藤の肩に頭をもたれかけてそう言った。
――あの家に帰って、そして、ずっとあの家にいるんだ。

(^ω^)
 二人で身を寄せ合って、少し眠った。
窓の外が薄っすらと明るくなり、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
わたしが目を開けると、内藤がわたしを見つめていた。
「おはようだお」
わたしはそれからもしばらくそのまま座りながらうとうととしていた。
やがて、陽が完全に登り、室内も明るくなった。
内藤がすくっと立ち上がって言った。
「ツン、この窓を破るお」
「何するの?」
わたしの問いに、内藤は窓を調べながら答えた。
「あの向かいのビルに飛び移って、助けを呼びに行くお」
「無理よ!」
わたしは即座に言った。
ここから向かいのビルまで助走も無しに飛ぶなんて、距離がありすぎる。
「それしか方法は無いお」
内藤がわたしを見て言った。
「向かいのビルの方が低いから、弓なりに落ちて行けばきっとぎりぎりで届くはずだお」
そう言って、内藤はわたしに笑顔を見せる。
「でも、失敗したら……」
そう。この高さ。向こうのビルに届かずに墜落すれば、内藤は死んでしまう。
止めて、と言おうとしてわたしの心を察してか内藤が言った。
「でも、このままじゃあ、二人であの家に帰る事が出来ないお」
もう、内藤の中では決意が固まっているようだった。
内藤が自分のジャケットを使って、音がしないように慎重に窓を割り、残りの破片を取り除いて外に出られるようにした。
そして、そのまま窓枠に乗り、飛び移る準備をする。
「内藤……」
不安で泣きそうなわたしに内藤が言った。
「大丈夫だお」
その顔は今まで見たこともないような真剣な表情だった。
それから、いつもの笑顔に戻って、内藤が言った。
「ツンが信じてくれたら、お父さんは空だって飛べるお!」
――そして、内藤は空を飛んだ。

(^ω^)
 内藤は飛んだ。
窓から隣のビルに向かって。
全てがスローモーションに感じた。
飛ぶ内藤がゆっくりとわたしから遠ざかり、目的のビルに近づく、そしてその高度は徐々に落ちてゆく。
ビルまではまだまだ遠く、内藤の飛ぶスピードはとても足りないように思えた。
呼吸をする事を忘れていた。自分の心臓さえも動いていないような気がした。
後1メートル。後50センチ。30センチ。10センチ……。
――そして、内藤は着地した。
ビルの縁にかろうじて届き、そして、着地の勢いそのままにままごろごろと屋上を転がった。
「……!」
わたしは安堵し、全身の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
手のひらに汗をかき、動いていないと思った心臓は、今度はもの凄いスピードで脈打ち、体が震えていた。
わたしは深呼吸をして体の震えを押さえると、再び立ち上がって、窓から内藤を見た。
内藤は転がって止まった場所からまったく動いていなかった。
「内藤!」
わたしは叫んだ。
しかし、内藤はぴくりとも動かない。
「内藤ッ! 内藤!」
着地は出来たが、その衝撃で頭でも打ってしまったんだろうか?
わたしは動かない内藤に向かって叫び続けた。
その時、慌てて鍵を開ける音が聞こえ、続いてドアが開いた。
「何をやっている!」
あの男が怒鳴りながら入って来た。
そして、わたし一人しかいない部屋と割れた窓を見ると、こちらに走って近づいて来た。
「あいつは何処へ行った!?」
男はわたしを押し退け、窓から外を見る。
そして、周囲を見回し、正面のビルにいる内藤を見つけると不安そうな表情を浮かべた。
しかし直後、男は内藤が動かないのを確認すると、笑い始めた。
「ははっ、はははははっ! 何だあいつ? 動かないぞ? 死んだのか? 死んだんじゃないか?」
それから、身を乗りだすようにして見ながらさらに笑った。
「見ろよ! 足が変な方向に曲がってる。それに、頭から血を流してるぞ? 死んだ。死んだー! はははははー!」
その言葉を聞いて、わたしは男を突き飛ばしてもう一度、窓から内藤を見た。
内藤は男の言ったように、よく見ると右足が曲がっていて、頭の下の床には血が溜まり、それが徐々に広がっていた。

(^ω^)
「ないと――」
わたしがもう一度、内藤を呼ぼうとした時、頭に衝撃があり、わたしは少し飛ばされて倒れた。
瞬間、何が起こったのかわからず、倒れた床から窓の方を見た。
「僕を突き飛ばすなんて許さない……」
そこには、そう言って、息を荒げた男がわたしを見下ろしていた。
しかし、男ははっと気が付くとすぐに笑顔になり、わたしに謝った。
「ああ、ごめんよ、ツン。そんなにひどく殴り飛ばすつもりは無かったんだ。ただ時々、僕は自分が押さえ切れなくなってしまうんだよ……」
気が付くと、左の頬がジンジンと痺れ、痛み始めていた。
男がしゃがみ、わたしに目線を合わる。
「さて、ツン。とりあえず、場所を移動するよ。ここはガラスが割れてしまったし、これから僕達の新しい生活の為の家具を入れに来る人に、君を見られたくないからね」
それから「じゃあ、車の準備をしてくるよ」と言うと、再びドアに鍵をかけて出て行った。
――わたしは立ち上がる気力も無く、その場にへたりこんだままでいた。
頭にさっき見た光景が反射した。
動かなくなった内藤。
頭から血を流し、倒れている内藤。
男は内藤が死んだと言った。
内藤が死んだ?
さっきまで、わたしと話していた内藤が死んでしまった?
でも、人間は簡単に死んでしまう。
内藤が死んでしまった。
内藤は死んでしまった。
わたしにとって内藤は何なのか、その答えがもうすぐそこにあったのに。
その内藤は死んでしまった。
わたしは動く事すら出来ず、そのまま床に伏せって泣いていた。

(^ω^)
 長い時間が過ぎた気もするし、少しの時間だった気もする。
鍵の音に続いてドアが開き、そこにはあの男が笑顔で「ツン、お待たせ」と佇んでいた。
しかし、その直後に男は「うわっ!」と叫んで、勢い良く開いたドアが壁にぶつかる轟音と共に、部屋に入って来た。
いや、入って来たという言い方は正しくない。
――男が部屋の中に飛ばされて来た。
文字通り、男は飛び、数メートル飛んだところで重力に従い地面に落ちた。
そして、飛ばされてきた男に続き、「ゴルァ!」という怒声と共にいつかのクーの組の髭が部屋に突入してきた。
髭は地面に落ちた男に飛び乗り、押さえ込むと、何度も何度も男を殴った。
数発目で男はぐったりとし、その横では長髪が腕を上下にバタバタさせながら殴られる男に「ばーかばーか」と言い続けていた。
突然の事に、わたしは何が起きたのか理解出来なかった。
ドアの方を見ると、そこにはクーの家で見た事のある男の人達が何人もいた。
そして、その中から、クーがゆっくりと姿を現した。
クーはわたしに歩み寄ると、やさしく抱いて「もう大丈夫だ」と言った。
わたしはやっと理解した。
クーが助けに来てくれたんだ。
安堵したわたしは泣きながらクーにしがみつくように抱きついた。
「クー。助けに来てくれたんだね」
クーがわたしの頭をぽんぽんとやさしく叩いた。
「……でも、内藤が」
わたしはそう言って、さらに強くクーに抱きついた。
「大丈夫だよ」
クーが言った。
「え?」
「お父さんなら大丈夫だよ」
わたしはクーから離れて、その顔を見つめた。
クーがやさしく微笑んだ。
「ツンの父上が教えてくれたんだ。ツンがここにいる事。さっき、わたし達に電話をかけてきてくれてな」
その時、ドアの方から声が聞こえた。
「ツン! ツンは無事かお?」

(^ω^)
 わたしが振り向くと、ドアの周りの人達が退いて道を開けた。
そして、ドアから、クーの組員であろう二人の男性に両肩を抱えられながら入って来たのは、――内藤だった。
内藤は片足を曲げて地面に着かないようにし、頭には応急処置と思われる包帯がぐるぐると巻かれていた。
「遅くなってごめんだお。ちょっと気を失ってたのと、足が痛くて走れなかったのと、それに何より今って公衆電話が全然見つからないんだお」
そう言って、内藤がわたしに微笑んだ。
内藤を抱えていた一人がクーに言った。
「すいません、お嬢。どうしても病院に行く前にこっちに行くって言って聞かなくて……」
クーがその組員さんに「かまわないよ」と言い、わたしに向かって言った。
「ほら」
クーの声に背中を押されるように立ち上がったわたしは、ふらふらと内藤に歩み寄り、その顔を確認した。
内藤はいつものようにわたしに微笑んでいる。
「――お父さん」
そう言って、わたしは内藤に抱きついた。
「ツ、ツン」
内藤の耳が真っ赤になった。
わたしはもう一度言った。
「助けてくれてありがとう。――お父さん」
そう、この人は確かにわたしのお父さんなんだ。

(^ω^)
 ――半年後。

 夏の合宿が終わり、わたしは家に電話をかけた。
「もしもし、内藤ですお」
それから声が続く。
「ただいま留守にしてますお。御用の方はピーと鳴ったら……」
その声に向かってわたしは言う。
「もしもし?」
「お、何だ。ツンかお。催促の電話かと思って偽装しちゃったお」
わたしは呆れながら話を続ける。
「何よ、また締め切りに間に合わなそうなの?」
「とてもヤバいお。連載は大変だお……。ところでどうしたんだお?」
わたしは夏の晴れ渡った空を見上げた。
「うん。合宿終わったから、これから帰るね」
「おっ、ピアノはいっぱい弾けたかお? 待ってるから、気を付けて帰って来るんだお」
わたしは、うん、と答えしばらく間を置いて言った。
「ねぇ、ところでさ」
「何だお?」
「合宿中に彼氏が出来たから、今度、紹介するね」
わたしの言葉に内藤が三秒だけ沈黙し、それから慌ててしゃべりだした。
「ちょっ、ツン! そんな、そんなのまだ早いお! ふじこふじこ!」
「何よ、自分だって学生結婚じゃない」
わたしは少し意地悪く言う。
そして、あうあう言う内藤を置いて、「じゃあね」と電話を切った。
「――電話終わった? 誰にしてたの? ずいぶん楽しそうだったよ」
離れて待っていた西川君がわたしの電話が終わったのを見て、近づいて来た。
「うん。お父さん。今度、西川君を紹介するって言ったら焦ってた」
「ちょっ、紹介って……」
それを聞いて西川君も焦り出す。
「大丈夫だよ。冗談だってば」
西川君はほっとした表情で聞いてきた。
「ねぇ、ツンのお父さんは美人なの?」
「はぁ? 何よそれ?」
わたしが答えると西川君が笑って言った。
「だって、女の子はお父さんに似るって言うじゃない?」
それはちょっと違うと思うよ、西川君。
呆れ顔のわたしに西川君が聞いて来る。
「どう? ツンはお父さんに似てるの?」
そのやりとりで、以前、ショボンさんが言ってた事を思い出した。
『娘は父親に似た人を選ぶ』。
わたしはまじまじと西川君を見つめ、そして答えた。
「うん。何度か似てるって言われた事あるよ」
そう、わたしはきっとお父さんに似ている。
そして――、わたしが選ぶ相手は、やっぱりどこかお父さんに似ているんだろうな、と思った。


2006.12.26掲載


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