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ブーンがツンの髪を結うようです

(^ω^)
 ――ねぇ、ツン。憶えているかい? ぼく達の出会いを。

 今週発売のほとんどの雑誌の表紙にいる彼女は本当に綺麗で、絹の様な髪はサラサラで美しく、この世界の物質ではその美しさを侵せないように思えた。
そしてぼくはその髪を洗いながら、この行為に意味があるんだろうか、と思っていた。
「かゆい所はございませんかお?」
ぼくの質問に彼女は「無い」とだけ言った。
シャンプー中なので顔を覆った布のせいでその表情は見えないが、声から察するに不機嫌なのに違いない。
雑誌の表紙ではにっこり笑っている彼女だが、ここに来てからは一度たりとも笑顔を見せていなかった。
だが、放たれるオーラは本物で、彼女は間違いなく《スター》だった。

 彼女の名前はツン。

先日発売されたシングル一枚で瞬く間にこの世にその存在を知られる事となった歌姫だ。

(^ω^)
 その日、そんな彼女が突然にうちみたいな平凡なヘアーサロンにやって来た。
帽子を目深にかぶって、髪は後ろで束ねただけ。
実はぼくは彼女の事をよくは知らなかった。
今、人気の歌手である事ぐらいの認識だった。それでも、彼女が放つ段違いのオーラにぼくは、やっぱり芸能人は違うな、等と思っていた。
彼女が歌手のツンだと気付いた店長のショボンさんは眉を下げながら「どうしてうちを? うちなんかでいいの?」と聞いた。
そんな聞き方もどうかと思うけれど、それに対して彼女は「別に、どこだってよかったのよ……」と答えた。
それを聞いたショボンさんは更に眉毛を下げる事になった。
「……内藤、シャンプーよろしくね」
ショボンさんはぼくにそう告げ、よろよろと店の奥に消えて行った。
 そうして今、ぼくは彼女の髪を洗っている。
「熱くないですかお?」
シャンプーをすすぎながら聞いたぼくの言葉に今度は彼女は何も答えなかった。
それから、やさしくタオルドライを済ませるとぼくはお店の先輩のクーさんに声をかけた。
「クーさん、シャンプー終わりました」
ぼくの声にクーさんがこちらを振り返り言う。
「じゃあ、通りから見える所だと騒ぎになりそうだから、奥の席へ案内してくれたまえ」
ぼくは指示通りにツンさんを奥の席に案内した。
ここは他の席からも死角になっているし、会話もあまり聞かれない。
席についたツンさんにカットクロスをかける。
「苦しくないですかお?」
ぼくの質問に彼女はまたも不機嫌そうに「平気」とだけ言った。

(^ω^)
「お待たせしました。今日はどうします?」
間もなく、クーさんがやって来た。
クーさんはうちの店のトップスタイリストで、ぼくに言わせればハサミを使う魔法使いだ。
そして、クーさんと入れ替わりにぼくはその場を離れる事になる。
名残惜しいけれど、行かなければならない。ぼくに出来る事はもう今は無いのだ。
その時、ふいにツンさんがぼくを呼び止めた。
「あなたがカットしてくれるんじゃないの?」
「え? ぼくかお? それは、えっと……」
突然の質問にしどろもどろな僕に代わってクーさんが説明をしてくれた。
「すいません、彼はまだアシスタントで、カットは出来ないんです」
――そう、ぼくはまだこのお店でカットをする事を許されていなかった。
うちの店では二ヶ月に一回、カットの試験がある。
そして、この試験に合格しないと、スタイリストとしてお客様の髪を切る事は出来ないのだ。
実は、ぼくは既にこの試験を何回か受けている。
……でも、まだ受かっていない。
先々月にはぼくより後から入って来た後輩にも追い抜かれてしまった。
不合格になる原因は技術では無い。自分で言うのも何だけれど、技術はあると思う。
ただ、「試験」というものがひどく苦手で、とにかく緊張して失敗してしまうのだ。
今月、また試験があるけれど、受けるかどうかすら悩んでいる。
もしかしたら、ぼくは美容師に向いていないのかも知れない。
「――そう、分かったわ」
クーさんの説明を聞いてツンさんがそう返事をした。
「ええ、すいません。――それで、今日はどうしましょう?」
クーさんが再度、ツンさんにどういうカットにするかを聞き、それをきっかけにぼくはツンさんに頭を下げてその場を離れた。
「ねぇ、ちょっと待って」
しかし、再びぼくはツンさんに呼び止められた。
振り返り、鏡越しにツンさんと目が合う。
そしてツンさんはぼくを見つめたまま、微笑む事も無く言った。
「あなたが決めてよ」

(^ω^)
 一瞬、彼女が何を言っているのか分からずに、ぼくはクーさんに助けを求めて顔を見た。
しかし、クーさんも理解出来ないらしく、ぼく達はお互いに顔を見合わせるだけだった。
クーさんがツンさんに向き直り、聞いた。
「彼が髪型を決めるんですか?」
「そう。その人が決めてよ」
ツンさんはさらりとそう言った。
ぼくとクーさんはますます混乱する。
「失礼ですが、なぜ彼に?」
そんなクーさんにツンさんは涼しい顔で答える。
「別にいいじゃない。わたしは客なんだから、それぐらいの要望してもいいでしょ?」
クーさんはしばらくツンさんを見つめた後に、ぼくの方を振り返った。
それからしばらく、誰も何も言わず、誰も動かず、三人の間を沈黙だけが過ぎて行った。
「――ツインテールが似合うと思うお」
その沈黙を破ったのはぼくだった。
ぼくの発言にふたりが振り返る。
ぼくは二人に自分の髪を手で頭の横でまとめて見せた。
「こういうやつ」
ツンさんがぼくを見て、それからクーさんに確認の目を向けた。
「……ツーサイドアップだな」
クーさんがちらりとツンさんを見た後にぼくを見てそう言った。
「じゃあ、それで」
ツンさんはあっさりとそう言った。
「わかりました」
クーさんが返事をする。
「それと……」
それからツンさんが再びクーさんを見て聞いた。
「彼、最後のセットもダメなの?」
クーさんがぼくを見た。
ぼくはクーさんを見つめ返した。
そして、クーさんは「ご希望なら、彼にやらせましょう」と言った。
何だか三人で伝言ゲームをしているみたいだった。
「じゃあ、ホライゾン君。後で呼ぶからその時は頼む」
そうしてその奇妙な伝言ゲームは終わりをつげ、ぼくはその場を離れて、他のお客さんのシャンプーや床掃きといったいつもの仕事に戻った。
しかし、そんな中、店内を移動するたびに、ぼくはこっそりとツンさんを見た。
白いカットクロスを纏い、髪をピンで留められたツンさんは何だかとてもかわいかった。
他のお客さんはこの店内にあの歌姫ツンがいるなんて事は知らない。
ましてや、彼女はぼくに髪型を決めさせ、最後の仕上げをぼくにまかせようとしている。
ぼくは大声でその事を言って回りたい衝動を押さえるので一杯だった。
鼻歌交じりでシャンプーをし、箒を持って回転しながら床を掃いた。
――やがて、クーさんがぼくを呼びに来た。

(^ω^)
 シャンプー台でツンさんが待っていた。
まずはもう一度、髪を洗い流す。
左右十本の指で頭を捉え、端から中心までを押さえるように洗ってゆく。
ぼくの指はツンさんの頭の形を調べる3Dスキャナーのようにツンさんの頭をなぞっていく。
ツンさんの頭はまるで、神様が愛玩用に作ったみたいに小さく、形が良かった。
頭が小さく、スタイルも良くて、顔もかわいい。そしてその上、天使の歌声。
やっぱりどう考えてもツンさんは神様の作品に違いない。
ぼくはシャンプーの時にお客さんの顔を覆う事を考えた人に感謝していた。
だってきっと、目の前にツンさんの顔があったらぼくは照れてしまって何も出来ない。
 ぼくの指はツンさんの頭を二度、三度となぞり、次に髪をすすぎ始めた。
お湯をかけながら、撫でる様に髪をすすぐ。
ツンさんの髪が滑らかに指の間を通り抜けていく。
その指通りは信じられないくらい滑らかで、こんなに長い髪なのに、からんだりひっかかったりする事がまるで無かった。
何だかその感触がとても気持ち良くてぼくはこのまま永遠にこの髪に触れていたい、と一瞬思った。
「熱くないですかお?」
そんな自分の気持ちを振り切るつもりでツンさんに聞いた。
「え? 何?」
ツンさんがハッとした声で聞き返してきた。
「お湯加減は大丈夫ですかお?」
ぼくがもう一度聞くとツンさんはボソっと「そんな事いちいち聞かないでいいから、黙ってやりなさいよ」と言った。
神様の作った愛玩用の天使様はご機嫌斜めらしかった。

(^ω^)
 濡れた髪を軽くタオルで拭き、それからドライヤーで乾かす。
ドライヤーの風に彼女の髪が舞い、一本一本が輝くその姿はまるで生きているみたいだった。
そしてぼくは彼女の髪を結い始める。
手の平に薄くスタイリング剤を付け、手櫛をかける。
毛先から初めて少しづつ上へ、時間をかけて入念に。
ぼくの指の間を何度も何度も彼女の髪が通る。
彼女のやわらかい髪に手を通すのはとても気持ちが良かった。
そして、目の粗い櫛と細かい櫛の二つを使って髪をまとめていく。
あくまでさり気なく、それでいて細心に。
まとめる髪の量は多めで、位置はやや後ろより。
ふと鏡に目をやると、そこに映った彼女は目をつぶったまま微笑んでいるように見えた。
「どうですかお?」
ぼくは彼女に聞いた。
彼女が目を閉じたまま答える。
「うん。気持ちいい……」
「えっ!?」
彼女の言葉に驚き、ぼくは思わず聞き返した。
すると彼女がハッと目を開き、一瞬ぼくと目を合わせると、また慌てて目を閉じて言った。
「なっ、何でもないわよ! 黙ってやりなさいよ!」
それから彼女は終わりまで眉間に皺をよせて目を閉じ、口を尖らせたままだった。

(^ω^)
 髪を結い終え、クーさんを呼んだ。
クーさんが席の後ろに立ち、鏡を見ながらバランスをチェックする。
ぼくはその横で緊張しながら一緒に鏡を見ていた。
クーさんは全体を確認した後に言った。
「うん。いいじゃないか」
それから少しだけ修正のハサミを入れた。
クーさんの言葉にホッと安堵したぼくは最後にもう一度だけ確認して、まだ目をつぶったままのツンさんを呼んだ。
「お待たせしました。終わりましたお」
ツンさんの目がゆっくりと開く。
そして、ツンさんは鏡に映る自分の新しい髪形を見た。
一瞬、ツンさんが驚いたような表情を見せ、それから少し困ったような表情になった。
その表情を見てぼくは不安になった。
「どうですかお?」
ぼくは鏡を持って、後ろ側や横を見せる。
しかし、時間を追う毎に彼女の表情が段々と明るくなってきた。
「うん……」
そして、鏡の中の自分を見たままツンさんは言った。
「いいじゃない」
そう言ったツンさんは、少しだけ微笑んでいるように見えた。
 そうして、ツンさんは来た時にかぶっていた帽子を手に持ち、サングラスだけをかけて店を出ると、街の雑踏の中に消えて行った。
ツンさんが歩くのに合わせてぼくの結ったツインテールが揺れていた。

(^ω^)
 ツンさんがお店に来た翌日、仕事に向かう通勤電車の中で女子高生二人が話をしていた。
「ねぇねぇ、昨日のM速、観た?」
「ミュージック速報? 観たよ! 観た観た!」
朝からハイテンションな二人の会話にぼくは最初、少しだけ煩いと感じていた。
しかし、女子高生の次の言葉を聞いてぼくは思わず心臓が止まりそうになった。
「ツン、髪型変えてたね」
思いがけず話題の当事者となってしまったぼくはドキドキしながら更に次の言葉を待った。
「あー、変えてたねー。あんな髪型するのゴスロリだけかと思ったけど――」
けど? けど、何だ? ぼくは顔は窓の外の風景に向いていたが、全神経がその女子高生に向いていた。
「似合ってたね」
女子高生はあっさりとそう言った。
「うん。アリだよねー」
もう一人も続けて同意する。
この瞬間、ぼくは天にも昇る思いだった。
そして、少し誇らしかった。
頬がゆるむのを止められず、必死で唇を噛んでごまかした。
きっと他の人から見たら、最高にキモい奴だったに違いない。
思わず出そうになる独り言や鼻歌を必死で堪え、駅に着くと歩くのももどかしくなり、走ってお店に向かった。

 それから毎日、ツンさんの事ばかりを考えていた。
少ない給料の中からCDを買い、テレビに出ると知れば、観てニヤニヤし、コンビニに入ると本棚の前を通りながらツンが表紙になっていないか、何か記事が載っていないか探した。
もうすっかり歌手ツンのファンだった。
だがそんな行動は五日も経つと逆にだんだんと虚しくなって来ていた。
「どうせ、もう会う事は無いんだろうな」
そんな思いが胸にあった。

しかしそれから一週間後、ぼくに再び奇跡が起こった。

(^ω^)
 その日、何人目かのシャンプーが終わり、受付の整理をしていると店の電話が鳴った。
きっと予約の電話だ。ぼくは受話器を取って挨拶をする。
「はい! 《サロン・しょぼーん》ですお!」
横で聞いていた店長が眉を下げながら呟く。
「内藤、また間違えてる。うちの店の名前は《しょぼーん》じゃないよ、《シュヴーン》だよ。《cheveux'N》……」
ぼくは受話器を手で押さえながら店長に謝り、再び電話に戻った。
「お待たせして申し訳ありませんお。ご予約ですかお?」
受話器の向こうから聞こえて来たのは男性の声だった。
「すいません、そちらに内藤さんという方はいらっしゃいますか?」
「はい。ぼくですお?」
誰だろう? その声に聞き憶えは無かった。
「私、ドックンミュージックエージェンシーの者ですが」
ドックンミュージックエージェンシー? 聞いた感じ、芸能事務所っぽいけれどぼくに何の用だろう?
「あ、もしかして!」
その時、ぼくの頭にある考えが閃いた。
「もしかしてスカウトかお?」
ぼくがそう切り出すと、相手は何の抑揚も無く言葉を返す。
「いいえ、違います」
「じゃあ、何ですかお?」
あまりにきっぱりと相手が言うので、ぼくはぶすっとして問いただす。
「先日、うちのツンがそちらでヘアカットとセットをしてもらったと思うのですが」
ぼくはここまで言われてようやくツンの事を思い出し、心がウキウキするのと同時に、少し不安になった。
何だろう? もしかして、先日の事で何かクレームとかだろうか?
クーさんのカットにクレームが付くはずが無い。だとすればクレーム対象はぼくのセットという事になる。
「はい。確かにぼくがセットしましたお……」
ぼくが恐る恐る返事をすると、相手がさらりと言った。
「実はツンがまたあなたに担当してもらいたい、と申しておりまして」
「えっ……?」
突然の事にぼくは相手の言った意味が理解出来なかった。
「それで、急で申し訳ないのですが、今からでもお願い出来ないでしょうか?」
相手は話を続けるが、ぼくにはまだ事態がよく飲み込めない。
ツンがぼくを指名?
「えーっと?」
「それに、ツンが店の奥に席があると言っていたので、出来れば騒ぎにならないように再度そちらを利用したいのですが」
相手の付け足しにぼくは更に混乱する。
「えーっと、奥のツンさん?」
「いかがでしょう? 都合が悪いようであれば――」
ここで突然、ぼくは自分の身に何が起こっているのかを理解した。
ツンさんがぼくを指名しているんだ!
しかし、舞い上がりそうな喜びを押さえてぼくは伝えた。
「でも、ぼくはカットは出来ないんだお……」
すると、相手が言った。
「いえ、いいんです。ツンの希望もシャンプーとセットのみなので、カットすることがあればそこだけは別な方でもいいようです」
その言葉を聞いて、ぼくは事務所公認で舞い上がり、受話器に向かって叫んだ。
「分かったお! それなら大丈夫だお! いつでもいらして下さいだお!」

(^ω^)
 受話器を置いて、その興奮が一段落すると、ふと気が付いた。
しまった。予約台帳も確認してないし、店長に何も聞かないでオーケーしてしまった。
普通のお客さんなら問題は無いけれど、何しろ相手は芸能人だ。
ぼくは急いで予約台帳をめくると空いている事を確認し、それからクーさんに相談してみた。
「そうか。ならば先方の判断通り、奥の席の方がいいだろうな」
そう言って、クーさんは唇に手を当てて、少し考えると続けて言った。
「まぁ、芸能人だからどうと言う事も無いだろうが、店長は心配性だしな」
「そうなんだお」
「……よし! 私が一緒に店長に話しに行こう」
クーさんはぼくより先に歩いて、店の事務所になっている小部屋のドアを開けた。
眉を下げて帳簿に向かう店長にクーさんは淀みの無い説明と少々の取引で説得してくれた。
曰く、このままうまくいって、相手の了承も貰えれば店の宣伝にもなると。
「でも、失敗したらお店が訴えられたりするんじゃない……?」
「大丈夫です。前回に引き続きという事であれば、むしろ気に入ってもらえてる可能性の方が高い。と言うか心配し過ぎです、店長」
予想通り、店長は眉を下げながら心配していたが、クーさんの迫力と説得で少したじろぎながらも了承してくれた。
「分かったよ。じゃあ、くれぐれも粗相の無いように」
「ありがとうございますだお」
ぼくが店長に礼を言い、クーさんにも言おうとすると、クーさんが話を続けた。
「ああ、それから店長――」
再び帳簿に目を落としていた店長が顔を上げた。
「ホライゾン君はまだカットの資格はありません。ですが、最後の仕上げだけはハサミ持たせてやりたいんですが、構いませんよね?」
有無を言わさぬ眼光で店長を見据えるクーさん。
そんな目で見られた店長はこう答えるしか無かった。
「い、いいよ……」
そうして、ぼくとクーさんは事務所を出た。
事務所のドアを閉め、ぼくはクーさんに聞く。
「どうして、最後の仕上げをやらせてくれるんですかお?」
仕上げだけとは言え、まだ試験に合格していないぼくにハサミを持てるようにしてくれるなんて、普通では考えられなかった。
「いや、君の実力なら大丈夫だと思ったんだ。試験では『試験』自体に緊張しているだけなんだろう?」
そう言って、クーさんは微笑んだ。
「それに私は――」
クーさんがぼくを見ながら少し考え、そして言った。
「私は君に期待しているんだ」

(^ω^)
 数分後、店の前に窓に真っ黒なフィルムを貼ったミニバンが停まった。
そして、スライドドアが開き、中から大きなサングラスをかけたツンさんが降りて来る。
ツンさんはそのまま一人で店に向かって来た。
ぼくは急いで入り口に向かい、そして、運命の扉を開いた。
「いらっしゃいませだお」
「………………」
相変わらず、彼女は不機嫌みたいで、サングラス越しにぼくを見つめて僅かに頭を下げただけで何も言わない。
「こちらへどうぞだお」
店の空気が一変したように感じた。
みんな、ツンさんだと気付いてはいないみたいだったが、こちらを見ていた。
そんな中、ぼくはツンさんをシャンプー台へ案内した。
 お湯を出し、温度を確かめると彼女の髪を濡らし始めた。
髪を撫でるようにしながら、お湯を髪全体に行き渡らせる。
そして、ぼくは手にシャンプーを落とし、髪を洗い始めた。
十本の指はツンさんの頭の隅から隅まで走り回る。
力は強過ぎず、弱過ぎず。
時間は長過ぎず、短過ぎず。
動きは細かく、細かく。
「かゆい所は無いですかお?」
「……」
ぼくの質問にツンさんはやっぱり何も答えなかった。
そして、すすぎに入る。
溢れんばかりのお湯を使い、髪に摩擦を与えないようにお湯を通して行く。
指の間を流れて行く彼女の髪は相変わらず滑らかで、ぼくはやっぱりこの髪に永遠に触れていたいと思った。
「お湯の温度は平気ですかお?」
「……」
ぼくの次の質問にも彼女はやっぱり何も答えない。
そうして、髪のすすぎが終わり、タオルを髪に巻きつけるとぼくはツンさんを席に案内した。

(^ω^)
 以前も使った店の一番奥の席。ここなら外からも他の席からも死角になっているし、会話も聞えない。
カットクロスをツンさんに着せて聞く。
「苦しくないですかお?」
「……平気」
ツンさんはやっと言葉を発した。
ドライヤーのスイッチを入れ、ツンさんの髪を乾かす。
ぼくの視界がドライヤーの風に舞う彼女の髪でいっぱいになる。
髪に手を通して、乾かせ過ぎないように加減をしながら風に髪を流していく。
そしてぼくは髪を結い始める。
彼女のやわらかい髪に何度も手を通しながら、少しづつ、少しづつ。
鏡越しに彼女を見る。
彼女は微笑んでいた。
と、瞬間、彼女と目が合う。
彼女がハッと気付き、口を尖らせた。
「こんな感じでいいですかお?」
ぼくが彼女にそう聞くと、彼女が頬を赤くして言った。
「いいから、黙って続けなさいよ」
そんな彼女の様子がかわいくってぼくは何だか照れてしまい、鏡の中の彼女から目を逸らすと、再び黙って髪を結い続けた。
今日は少しだけ位置を高めにしよう。
さっき見た赤い頬で微笑むツンは少し幼く見えた。だから、髪型も少しだけ子供っぽくしたくなった。
そして全体を確認しながら、少しだけ仕上げのカット。
これが出来るのはクーさんのおかげだ。
でも、調子に乗ってハサミを入れすぎちゃあいけない。
――そうして、髪を結い終わり、彼女は無言で支払いを済ませ、店のドアに向かった。
ぼくは小走りで先に行き、ドアを開ける。
「ありがとうございましただお」
ツンさんは、ドアを出る瞬間に小さく「また来る」と言うと待っていた車に乗り込み、低い排気音を残して去って行った。

(^ω^)
 それからもツンさんは度々、ぼくを指名して店にやって来た。
それでも相変わらず、ほとんどの時間は無言の時間。
元々ぼくはお客さんと話すのが苦手だったのに加えて、ツンさんの髪を触っているとその気持ち良さについ会話をするのを忘れていた。
そして、ツンさんも相変わらず不機嫌そうで、めったに口を開かない。
ぼく達が交わす会話は、いらっしゃいませ、こちらへどうぞに続く五つだけ。
「かゆい所は無いですかお?」
「お湯の温度は平気ですかお?」
「苦しくないですかお?」
しかも、最初の二つには返事をもらえない。
それでも、その次の、四つ目の会話をする時、ぼくはこの役に任命された事を心の底から喜んだ。
その時、ぼくは鏡の中に彼女の笑顔を見る事が出来る。
しかしそれは、ほんの僅かな、ともすれば見逃してしまいそうな微かな微笑みだった。
ぼくは彼女に四つ目の会話を振る。
「こんな感じでいいですかお?」
毎回、彼女はここで自分が微笑んでいた事に気付き、慌てて精一杯の文句をぼくに言うのだ。そんな事を聞いてる暇があったらさっさとやってよ、と。
そうして、この四つ目の会話はここで終わり、ぼくは再び彼女の髪を結い始める。
ほどなくして、髪は結い終わり、最後にぼくが「ありがとうございましただお」と言うと、彼女は「また来る」とだけ言い残して店を出て行くのだ。

(^ω^)
 ある日、ぼくはどうしても我慢出来なくて、ツンさんが店に来ると最初に聞いてみた。
「ねぇ、ツンさん?」
ツンさんが振り返る。
「何よ?」
「いつも、来てくれて嬉しいお。でも――」
ぼくは少しだけ躊躇した。
「……質問の途中で止めないでよ」
ぼくの止まった台詞にツンさんが苛立つ。
「いや、やっぱりいいお」
「何よ? もったいぶらないでよ。気になるじゃない」
もったいぶっている訳では無かった。何だか、そんな事を聞いたらツンさんは怒るんじゃないかと思って聞けなかった。
「で、でも……」
「いい加減に言いなさいよ! 怒るわよ!」
……どうやら、どっちにしろぼくは怒られるらしい。
「じゃあ、聞いてもいいかお?」
「いいわよ。聞きなさいよ。何でも答えてあげるわよ」
ツンさんはそう言って、腕を組んだ。
そしてぼくはおずおずと切り出した。
「――どうしてなんだお?」
「何が?」
ツンさんが不思議そうに顔を傾ける。
「どうして、いつもここに来て、ぼくに髪を結わせるんだお?」
「そ! それは……」
今度はツンさんが躊躇いだした。
「えーっと、その……」
ツンさんはしばらく答えを言うかどうか考えていたみたいだった。
「……何でも答えてくれるんじゃなかったのかお?」
そう言うとツンさんがすごい目でぼくを睨んだ。
「……い、いいお。無理に答えないでも」
その様子にぼくは冷や汗を流しながらそう言った。
するとツンさんは何かが吹っ切れたように叫んだ。
「あー、もう! 分かったわよ! 何でも答えるって言ったのはわたしなんだし、答えるわよ!」
そして、一瞬、ぼくを見つめた後、目を逸らして照れくさそうに言った。
「あんたの指が髪に通るの――、気持ちいいのよ」

(^ω^)
 あの日以来、ぼくとツンの間で交わされる言葉の量は飛躍的に増えた。
まるで、今まで話さなかった分を取り戻そうとするかのように。
でも、ぼくに向けられるツンの言葉の多くは意地悪で、まるで恨みでもあるかのよう。
最初、ぼくはその口の悪さに戸惑った。
――けれど今、ぼくは知っている。
ツンのその口の悪さは、恨みなんかでは無く、強がりだったり、照れ隠しから来ている事を。
でも、実はその半分位はツンの地なのもぼくは知っている。
「かゆい所は無いですかお?」
ぼくのそんな質問にもツンは答えを返すようになった。
「頭のてっぺん」
時には強がりを返す。
「お湯の温度は平気ですかお?」
「ぬるい位よ」
とにかく、ツンはぼくにイチャモンをつけないと気が済まないみたいだ。
カットクロスをツンに着せ、「苦しくないですかお?」とぼくが聞けば、ツンは答える。
「苦しい」と。
テレビの中や雑誌のインタビューで見られる、おしとやかな歌手ツン。
そして、ここに来る口の悪いツン。
二人はまったく別人だった。
でも、ツンと過ごすそれは、とても楽しい時間だった。

 ある日、ドライヤーをかけながらぼくはツンに言った。
「そう言えば最初は、髪を洗ってる時、ツンは機嫌が悪いんだと思ってたお」
「どうしてよ?」
彼女は目を閉じたまま聞いて来る。
「だって、いつでもぼくが何を言っても無言だったから」
ぼくの答えに彼女が口篭もった。
「そ、それは……」
そして、ぼくは続けた。
「でも、顔が隠れて見えなかっただけで、実は気持ち良くてうっとりしてたんだおね?」
「なっ――!」
閉じていた目を見開き、鏡越しにぼくを睨むとツンが怒鳴った。
「ば、ばっかじゃないの!? そんな訳ないじゃない! あれはあんた何かとしゃべりたくなかっただけよ!」
ツンは図星をつかれると、よくこうしてぼくに怒鳴った。
でも、そうやってツンが怒鳴るのは本心を隠すための強がりで、本当は顔を真っ赤にして照れていると言う事に気が付くと、むしろぼくはこんな風に怒鳴られるのが楽しくてしょうがなかった。

(^ω^)
 その日、シャンプーのすすぎをしているとツンがぼくに話しかけてきた。
「ねぇ、内藤」
「なんだお?」
「この仕事楽しい?」
ぼくはツンの髪にお湯と自分の指を通しながら答えた。
「楽しいお」
するとツンが聞いてくる。
「でも、シャンプーや薬剤で手とかすごく荒れるんでしょ?」
そう。確かにぼくも手が荒れていた。
「うん。でも、それを差し引いても楽しいお」
そうして、今度はぼくがツンに聞き返した。
「ツンはどうだお? 昨日もM速でツンが歌うのを観たお。司会のヒロユキとの話も面白かったし、歌手は楽しそうだお」
するとツンは少し間を置いて、シャワーの音にかき消されそうなくらい小さい声で言った。
「あんまり、楽しくない……」
ツンの沈んだ声にぼくは何て言っていいのか分からなくて「そうなのかお」としか言えなかった。
そしてそれ以上、ぼく達は言葉を交わさなかった。
髪をドライヤーで乾かし、カットクロスをツンに着せた。
そして、いつも通りの台詞をツンに投げかけた。
「苦しくないですかお?」
しかし、ツンから返されたのはいつもとは違う台詞だった。
「――わたし、スカウトされたんだ」
ツンはぽつりとそう言い、それから、ツンはぼくに髪を結われながら話をした。

(^ω^)
 ツンは高校の学園祭でライブに出た時に、たまたま知り合いの娘を観に来ていた今の事務所の社長にスカウトされたんだそうだ。
芸能界に入るという事に、最初はツンも迷ったし、両親の反対もあり、契約には至らなかった。
しかし、社長は熱心に何度もツンの元に通い、とうとう、高校卒業までは待つという条件で契約を交わした。
「本来なら、ちょーシンデレラストーリーなのにね」
そう言って、ツンは弱々しく微笑んだ。
「うん。ツンはシンデレラだお! じゃあ、社長さんは魔法使いだおね」
はしゃいでそう言うぼくにツンがぽつりと呟いた。
「でも、シンデレラも苦労したろうな。――急に今までとまったく違う世界に入って」
そして小さく溜め息をつくと、ツンはぼくに芸能界の苦労を語った。
卒業と共に、ツンは芸能界入りした。
歌を歌う為に。
しかし、ツンが望んだ『歌を歌う』という行為は、その才能ゆえに、多くの敵を作る事になった。
「――人を陥れようとする奴とか本当にいるのよ。靴に画鋲とかが冗談にならない世界」
ツンのように突然売れてしまった人に対するやっかみは大変な物らしく、どこに行っても敵だらけだ、とツンは言った。
そして、有名になってしまった事のリスク。
「有名な《某巨大掲示板》なんて怖くて見られないわよ」
ぼく達が週刊誌で読んだり、噂で聞いたりする芸能界のニュースは多くがデマだけれど、逆に噂以上に酷い実情も数多くあるらしい。
「わたしは歌が歌いたかっただけなのよ。別に人気者になりたいとか、人を押しのけて頂点に立ちたいとか願った訳じゃないわ」
ツンの声が震えていた。
「歌いたかっただけ、……それなのに、どうして? どうしてこんな余計な苦労が付きまとうの?」
いつもの口の悪い気丈なツンはそこにはいなかった。
「もう、歌う事自体を嫌いになりそうよ。……そして何よりもそんな自分がすごく嫌」
そして、鏡の中のツンの目から一筋の涙が零れた。
「こんな気持ちで歌う歌に何の価値があるのよ……」

「――それでも、ぼくは君の歌が好きだお」

(^ω^)
 ぼくはそう言った。
その時ぼくは、昨日観たテレビの中のツンを思い出していた。
画面に映し出されたツンは凛然としていて、その歌声はとても力強かった。
歌を歌うツンはとても自分と同じ人間とは思えなかった。
ぼくの目と耳はツンという存在とその歌声をまるで圧力のように感じ、気を抜くと後ろによろよろと倒れそうな錯覚に陥った。
何度も聴いている歌なのに鳥肌が立った。
ツンの歌は特別だった。
もし、ツンの歌が一つの宗教だとしたら、ぼくは盲目の信者になっていただろう。
「――ツンがどんなに歌を嫌いになっても、自分の事が嫌になっても。ぼくはきっと君の歌う歌を嫌いにはなれないお」
ツンはうつむいたまま、何も言わなかった。
ぼくも無言のまま、止まっていた手を動かし、再びツンの髪を結い始めた。
しばらくすると、ツンが口を開いた。
「こんな事話したのあんたが始めてよ……」
「ちょっとはすっきりしたかお?」
ぼくがそう聞くとツンは小さい声で「うん」と言った。
ぼくは何だかほっとして鏡に映るツンに向かって微笑んだ。
すると、ツンがおずおずと言った。
「ねぇ、内藤?」
「うん? なんだお?」
ぼくが仕上げのハサミを入れながら聞くとツンが言った。
「これからも――、たまにこんな話を聞いてもらってもいいかな?」
鏡越しに、ツンは少しうつむいたまま、目だけをぼくの方に向けてそう聞いてきた。
「もちろんだお」
ぼくはそう返事をして、ツンの髪を結い終えた。

(^ω^)
 それは、ぼく達二人だけの秘密の時間だった。
ぼく達は髪を結いながら話をし、時々、ツンは悩みを打ち明けてくる。
勿論ぼくなんかに大したアドバイスが出来る訳は無く、相談相手として役に立つとは思えなかったけれど、ツンもぼくにそんな期待はしていない、という事が分かっていたので、ぼくはむしろ気軽に返事をした。
それでも、聞いてもらいたかった事を誰かに話す、という行為がツンの気持ちを少しでも楽にしているのであれば、そういう意味での役には立っていたかもしれない。
「――芸能界、向いて無いのかなぁ」
ツンがもらすそんな一言にぼくは返事をする。
「どう見ても向いてるお。――こんなに猫かぶるのがうまいもん」
ツンは頬を膨らまし、ぼくは笑う。
ツンは笑ったり拗ねたり、実に自由奔放だ。
今ではテレビの中で淑やかに振舞うツンを見ると、ぼくは思わず吹き出しそうになる。
その事を言うとツンは「違うわよ! イメージ悪くならないように、テレビなんかでは大人しくしてるのよ!」と言って、さらに頬を膨らませた。
「そういうのを、猫かぶるって言うんだお」
ツンが口を尖らせて反論する。
「しょうがないじゃない。社長がそうしろって言うんだし、社長の言う事は聞くようにしないと」
ツンのそんな言葉を聞いて、突然、ぼくは芸能界に関してよく聞く、良からぬ噂の事を考えてしまった。
「社長の言う事は、かお……」
ぼくは心が冷やされてしまったような気持ちになり、思わず、そう呟いた。
そして、そんなぼくの下らない考えを察したツンは小さく溜め息をつくと言った。
「……分かってるわよ。あんたの考えてる事」
「な、何の事だお?」
誤魔化すぼくにツンは淡々と言った。
「芸能界で、デビューするためには社長の言いなり、そして仕事を取る為には社長やプロデューサーなんかと寝るとか思ってるんでしょ」
「そ、そんな事……」
ぼくの言葉を聞きもしないでツンは続けた。
「ばっかじゃないの? そんな事ある訳無いじゃない」
いつもの照れ隠しで言う言い方とは違っていた。軽蔑するような口調だった。
「ご、ごめんだお」
ぼくはツンに謝った。
ツンは「今回は許してあげる。でももう二度とわたしに失望させないでよね」と言った。
ぼくは頷き、それから沈黙がながれた。
「も、もし」
沈黙に耐えられなくなったツンが口を開き、言い放った。
「そんなのがあったとしてもそんな奴は所詮三流よ! わたしは違うわ!」
それから、ツンはきっぱりと言った。
「それに、そんな事になるぐらいならわたし、この世界辞める!」
「そうなのかお」
ぼくの返事にツンが「そりゃそーよ」と言った。
「だって、本当は今すぐにでも辞めてもいいくらいだもん」
そんな事を言うツンにぼくは少しだけ驚いた。
ツンが鏡越しにぼくをちらりと見上げる。
それから、「これ、秘密よ」そう言ってツンは笑った。
 ほんと、ツンは拗ねたり笑ったり、今までテレビで見て知っているつもりでいたツンとはまったくの別人だ。
でもぼくは、そんなツンが前以上に好きだった。
そしてそれは以前と違い、ツンを歌手としてではなく、一人の女性としての「好き」だった。

(^ω^)
 そして、今日もぼくは聞く。
「かゆい所はございませんかお?」
ツンは答える。
「頭のてっぺん」
髪をすすぎながらぼくは聞く。
「お湯の温度は平気ですかお?」
ツンは答える。
「ぬるい位よ」
カットクロスを着せ、ぼくは聞く。
「苦しくないですかお?」
ツンは答える。
「ちょっと! いつもいつも苦しいのよ!」
たまにはぼくも言い返す。
「ちょっとぐらい我慢するお!」

(^ω^)
 ある日やって来たツンはひどい様子だった。
サングラスで隠されていた目元は酷いクマーで顔色も悪く、疲れている事が一目瞭然だった。
そして珍しく、事務所の人と一緒にお店に入って来た。
マネージャーなのだろうか? その人を待合席に待たせるとツンはぼくにこっそりと言った。
「なるべく、ゆっくりやって」
そうして、ツンはシャンプー席に座ると目を閉じた。
閉じられた目の間、眉間にしわを寄せて。
「仕事、忙しいのかお?」
「最悪よ。もうずっと休み無し」
「売れっ子は大変だお」
ぼくの言葉にツンは何も言わなかった。
そしてぼくは髪を洗い始めた。言われた通りになるべくゆっくりと、ツンがリラックス出来るようにお湯の温度にもいつも以上に気を使った。
髪を洗い終わり、席に移動する。マネージャーがこちらを見ていた。
席についてからも、ツンは頻繁に溜め息をつき、ちらちらと待合席で待っているマネージャーを気にしていた。
「この後、仕事かお?」
ぼくがそう聞くとツンは「そうよ」とだけ言った。
「もしかして……、行きたく無いのかお?」
ぼくがそう聞くとツンは一瞬、ピクリと体を硬直させた。
そして、大きく息を吸うと言った。
「この世界に入ってからわたしに近付いてくるのは、わたしを利用しようと愛想笑いを貼付けた奴か、わたしを陥れてそれで何か得しようとする奴だけ」
「そんな事ないお……」
ぼくはそう言ったが、ツンは首を振って続けた。
「誰もわたしの事なんて見てないのよ……」
それからツンは黙ってしまった。
ぼくは髪を結い続けた。
しばらくすると、ツンが声を搾り出すように呟いた。
「――もう嫌だよ。疲れたよ」
そして、震える声で「誰にも会いたくない……」と言った。
その瞬間、ぼくはツンに言った。
「じゃあ、一緒に逃げるお!」
「え?」
ぼくの言葉に戸惑うツン。
でもぼくはそんな事にも構わず、ツンを再びシャンプー台へ連れて行った。
そして、蛇口をひねりシャワーから水を出すと、ツンに向かって浴びせた――。
ツンが小さく悲鳴をあげた。
その声にみんながこちらを振り返る。そこには水に濡れたツンとぼく。
「たっ、大変申し訳ありませんお! こちらへどうぞだお!」
ぼくはそう叫ぶと、ツンの手を取って唖然とするマネージャーの前を抜けて事務所へ入った。
そして、ツンの手を握ったままふたりで裏口を使って店から逃げ出した。
初めてつないだツンの手は小さく細く、そして温かかった。

(^ω^)
「ちょっと! 何するのよ!」
しばらく、ぼくに手を引かれるままに走っていたツンが我に返って叫んだ。
ぼくの手を振り解き、その場に止まる。
「仕事キャンセルすると大変なのよ! どーしてくれるのよ!」
そしてぼくを睨んで言った。
「帰るわよ!」
ぼくは何も言えない。
しばらく、ツンはぼくを睨むように見ていたが、やがてくるりとぼくに背を向け来た道を歩いて帰り始める。
仕方なく、ぼくはその後ろをついて歩いた。
ツンとぼく、ふたり、縦に並んで歩いていた。
前を歩くツンが振り向きもせずに言った。
「何でこんな事したのよ?」
「だって……、ツンが辛そうなのを見ていたく無かったんだお」
ぼくはおずおずと正直な気持ちを伝えた。
ツンが立ち止まり、ぼくの方を振り返った。
「何でよ? わたしの事なんて放っておきなさいよ!」
そんな、ツンの返事にぼくはもっと正直に気持ちを伝えた。
「だって、ぼくはツンの事が――好きなんだお」
次の瞬間、ツンはぼくに怒鳴った。
「ばばば、ばっかじゃないの!?」
「ほんとの事だお」
見ればツンは異常なくらい顔が真っ赤だった。
「それよりツン、顔が真っ赤だお? 大丈夫かお? 濡れて走ったから風邪ひいちゃったかお?」
「――あ、あんたが!」
そう言って、ツンは口篭もり、肩をいからせてぼくを見ていたが、やがて小さく息を吐くと肩を落として言った。
「……て言うか、わたしびしょびしょじゃないの」
驚きと怒りで気付かなかったんだろうか? ツンは今更そんな事を言った。
「実はぼくもだお」
そして、そんなぼくもツンに水をかける時に一緒に自分にかかっていて上半身がびしょびしょだった。
「そんなの自分が悪いんじゃない」
ツンはそう言ってから、一度大きく息を吸って吐くと言った。
「このまま仕事に行く訳にもいかないし。もういいわ」
そして、車道に向かってタクシーを止めるために手をあげた。
「一回、家に帰ろう」
すぐにタクシーが停まり、開いたドアにツンは乗り込んだ。
ぼくはツンを見送ろうと思い、歩道に立っていた。
すると車内からツンがぼくを見上げて言った。
「何突っ立ってんのよ? 早く乗りなさいよ」

(^ω^)
 マンションに着き、部屋に入るとツンはぼくにタオルと着替えのシャツを投げつけた。
「乾かすから、今着てるのこっちの籠に入れときなさいよ」
そして、「シャワー浴びるから出たら、髪、ちゃんと結ってよね」と言うとさっさとバスルームに行ってしまった。
ぼくはシャツに着替えて、濡れた服を指定されたの籠に入れるとリビングのソファーに座った。
どうにも落ち着かず、あたりを見回す。
白いソファーに白い絨毯。ツンは白が好きなのかな?
大きなテレビに棚にはDVDがいくつか収まっていた。でもあまりあちこち見るとツンに怒られそうな気がして、ぼくはソファーから動く事が出来ず、じっとしていた。
どうにも手持ち無沙汰で、携帯をいじろうとして気が付いた。
「あ、携帯も店に置いてきちゃったお。……今頃、大騒ぎだろうな」
やがて、ツンがシャワーから出て来て、無言でぼくに背中を向けてぼくの前の床に座り込んだ。
手にはブラシを持っている。どうやら髪を結えという事らしい。
ぼくはツンからブラシを受け取ると、髪を結い始めた。
「あーあ、きっと帰ったら店長に怒られるお」
髪を結いながらぼくがそう言うとツンも言った。
「わたしだって社長に怒られるわよ」
それから、少し間を置いてツンがぼくに怒鳴った。
「……って言うか、あんたのは自分が悪いんじゃない!」
「おっおっおっ。ツンあんまり動くと髪が結えないお」
「何がおっおっおっよ!」
ぼくは笑ってごまかし、ツンはまた怒鳴る。
それから、そんなぼくを見てツンは諦めたように言った。
「……まぁ、もういいわ。今日の所には事務所からレジュメ出しておけばいっか」
そしてツンが天井を向きぽつりと呟いた。
「それで事務所をクビになるのなら、それもいいか……」
そういえば、以前にも芸能界を辞めたいと言っていた。
「前もそんな事言ってたけど、本当にもう辞めてもいいのかお?」
ぼくがそう聞くとツンはさらりと言った。
「いいわよ。歌を歌うのは好きだけど、もう芸能界なんて大嫌い」
ぼくは再びツンに聞く。
「どうして、芸能界は嫌なんだお?」
「さっきも言ったでしょ? わたしに近づいてくるのは、わたしを利用しようと愛想笑いを貼付けた奴か、わたしを陥れてそれで何か得しようとする奴だけだって」
ツンは視線を下げ、溜め息をついた。
「シンデレラもきっとお城でそんな生活だったに違いないわ。彼女を見るみんなの目は《彼女》じゃなくて、《新しい王女》を見ていた」
ツンは続ける。
「――そう、誰もわたしの事なんて見てないのよ。みんなが見ているのは《わたし》じゃない《歌手であるツン》。そこに人格は無い。それは利用する為のただの素材」
ぼくは何て言ってあげればいいのか分からず、ただツンの髪を結いながら話を聞きつづけた。
「あんただってそうでしょ」
ツンがぼくの方を振り返った。その弾みでぼくの手からツンの髪が逃げていく。
「そうよ、さっき、わたしの事が好きなんて言ってたけど、どうせわたしが歌手だから好きになったんでしょ?」
ツンが、その強い瞳でぼくを見つめながらそう聞いた。
ほんの少し、ぼくは考えて、そして答えた。
「――きっと、そうなんだお」

(^ω^)
 ぼくの答えに、ツンは一瞬、強くぼくを睨むとまたぼくに背を向けた。
「ぼくが好きになったのはあの時、歌手のツンだお」
そしてぼくは再びツンの髪に指を通し、髪を結いながらツンの背中に向かってぼくの気持ちを伝え続ける。
「それはつまり、あの時のあのままのツン。だから、もしあの時ツンがあの時のツンじゃなかったら、ぼくはツンのことを好きになっていなかったかも知れないお」
ツンは何も言わず、ただじっとぼくに髪を結わせていた。
ぼくは最後の仕上げをしながら続けた。
「ぼくが好きになったのは歌手のツン。でも、この先ツンが歌手じゃなくなっても。例え、ツンが歌わなくなっても」
そしてぼくは髪を結い終わり、ツンに全てを伝えた。
「――ぼくは君の事を好きでい続けるお」
ツンは何も言わなかった。そしてぼくもこれ以上、伝える想いは無かった。
しばらくの間、沈黙が続いた。
しかしやがてツンが背中を向けたまま言った。
「……今まであんたに、色々と話を聞いてもらったりしたけど」
ツンは何か考えているようにゆっくりと言葉を選びながら話していた。
「何て言うか、その――、もう話を聞いてもらうだけじゃ物足りないって言うか……」
「物足りないのかお?」
ぼくの返事にツンは即座に言い返す。
「ちっ違うわよ! 別に物足りないとか、これ以上の関係になりたいとかじゃなくて……」
「これ以上の関係?」
「わー! わー!」
ツンは慌ててぼくの言葉を制して言葉を繋ぐ。
「あの、その――。考えたら、随分とプライベートな事まで話したし、もしかしてわたし……」
ツンの言葉が途切れ、ぼくに振り返る。
ツンの潤んだ瞳を見て、ぼくは言った。
「大丈夫だお! 心配しなくても誰にも言わないお!」
ツンがうなだれてぼくに背中を向けた。
「ツン?」
ぼくが声をかけるとツンが突如として言い返してきた。
「そ、そんなの信用出来ないわね!」
そして再びぼくの方を振り返ってツンが言った。
「だっ、だから……、だから誰かに話したりしないように、これからあんたはわたしの監視下におく事に決めた! いいわね!」
ぼくを見据えるツンは頬を膨らませて、真っ赤な顔をしていた。
「でもツン、忙しくてぼくの事なんか監視してる暇なんか無いんじゃないかお? どうするんだお?」
「え? えーっと……」
ぼくがそう言うとツンはまたまた考え込む。
「だ、だから――、だから!」
突然、ツンはそう叫び、すっくと立ち上がると腕を組んでぼくを見下ろしながら言った。
「だから、――ここに、わたしと一緒に住みなさい!」

(^ω^)
「おかえりだお」
鍵を開ける音と共に深夜、ツンが帰って来る。
そしてぼくはドアが開くのと同時にツンよりも先にそう言う。
「……ただいま」
ツンはまだ少しだけ照れくさそうにそう返す。
「あー、疲れた。シャワー浴びよーっと」
ツンはそう言ってバスルームに直行する。
そうして、ぼくがソファーに戻りテレビを見ていると、バスルームからはツンの歌声が聴こえて来る。
ぼくはテレビを消して、ツンの歌を聴く。
やがて、ツンはシャワーから出て来ると、ソファーに座るぼくの前の床に背中を向けてぺたんと座りこむ。
ぼくはソファーの横にいつも置いてあるドライヤーでツンの髪を乾かす。
そして、髪が乾くと、ツンの滑らかな髪に指を通し、軽くまとめる。
画面の消えたテレビに映ったツンは目をつぶって静かに微笑んでいた。

 ぼくとツンとの生活――。
ツンを連れてお店を逃げ出したあの日から、ぼく達は一緒に暮らす事になった。
嬉しさと驚きで、あの後お店に帰って店長に怒られていた時もぼくはほとんど上の空だった。
でも、お店もクビにならずにまだ勤めている。
ショボン店長の優しさと、ツンが事務所の社長経由でお咎め無しにしてくれたおかげだ。
ただし、ツンはもうお店には来られない。ツンの事務所の社長さんにしてみたら、ただで済ませる訳にはいかなかったんだろう。
もうお店でツンに会う事は出来ないけれど、そんな事はなんでも無い。
だって、ぼくには家に帰ればツンがいる。
何だかみんなを騙しているみたいな気がして少しだけ後ろめたかった。
だから、クーさんにだけはツンと暮らしている事を話していた。
ぼくがその事を話した時、クーさんは「そうか、何だか悔しいな。先を越されてしまったか」と言った。
そして、ぼくが「クーさんも誰かと同棲する予定なのかお?」と聞くと、クーさんは笑って「いいや違うよ」と言った。

 ――ツンは強く気高く、そしてほんの少しだけ寂しがりやだ。
それは例えばこんな台詞に凝縮されている。
「ちょっと内藤、ちゃんと聞いてるの!? あんた以外にこんな話しないんだからしっかり聞きなさいよ!」
そして、ぼくの答えにツンは笑ったり怒ったり、真っ赤になって照れたりする。
そんなツンとのやりとりの中で、ぼくは息が出来なくなるほどの幸福感を感じていた。

(^ω^)
「ただいま。はい、これ」
ある夜、ツンは帰ってくるなり、ぼくよりも先にそう言って紙袋をぼくに差し出した。
「おかえりだお」
ぼくは返事をしながら紙袋を受け取る。
「何だお、これ?」
「今日行ったお店のデザートが美味しかったから、もう一個頼んで持って帰って来た」
「わざわざ、ぼくの為に? ありがとうだお!」
ツンは反射的に言い返す。
「ちっ、違うわよ! わざわざあんたの為にお土産なんて持って来ないわよ!」
「じゃあ誰に?」
「わ、わたしが食べるのよ。美味しかったから家に帰ってもう一個食べようと思ったの」
ぼくは笑いを堪えるので必死だった。
そして、そんなぼくの様子に気付いたツンは「お、お風呂入って来よーっと!」と言ってバスルームに向かった。
しかし、直後にバスルームからひょっこり顔だけ出した。
「ほんとにわたしのなんだから、勝手に食べないでよね!」
そう言ってツンは再びバスルームに引っ込み、その後、シャワーの音が聞えてきた。
ぼくは紙袋を冷蔵庫にしまった。
 そして、今日もバスルームからはツンの歌が聴こえて来る。
ツンの歌は聴いていて気持ちがいい。それはツンの、歌に対する愛情がたっぷり含まれているからだ。
この数日間、ぼくはツンの歌を聴き続けた。
そして、ツンの歌う事への愛情を肌で感じていた。
拗ねた事を言ったり、芸能界を辞めたい、なんてツンは言うけれど、きっとツンは辞められない。
自分では気付いていないみたいだけれど、今のツンに一番必要なのは歌が歌える環境だ。
 シャワーの音が止まり、バスルームから出て来たツンはぼくの前に無言で座る。
ぼくがドライヤーを手に取るとツンが言った。
「さっきのデザート……」
「ちゃんと冷蔵庫に入れてあるお」
「考えたら、こんな時間から食べると太っちゃうから食べない事にした。――捨てるのもったいないから内藤、食べてもいいよ」
「わかったお。しっかり片付けるお」
「うん」
ツンはそう言うと、ぼくにもたれかかってきた。
ぼくはドライヤーのスイッチを入れ、ツンの髪を乾かし始めた。
ツンの髪がぼくの指を通る。
それはとても気持ちがいい。
そしてツンは、ぼくの指が髪を通るのが気持ちいいと言った。
だからぼくはツンの髪に指を通す。――ツンが歌を歌い続けるために、芸能界で疲れたツンが元気になっていつまでも歌えるように、と。

(^ω^)
 ふたりでの生活が始まった一週間後、ぼく達の関係がツンの事務所の社長さんに見つかってしまった。
その日の朝、ツンを迎えに来たマネージャーさんの為に一階のオートロックを開けた数分後、部屋に上がって来たのは社長さんだった。
ツンがドアを開けると、社長さんはツンの横を通り抜け部屋の中まで入って来た。
そして、ぼくを見つけると敵でも見るかのような視線でぼくを見た。
「やっぱり、お前か……」
その言葉から察するに社長さんはツンがぼくと一緒に暮らしている事をある程度は予想していたらしい。
「食べ物とか持って帰るから、最初は犬でも飼い始めたのかと思ったんだけどな――」
そしてツンに向き直り「いつから?」と聞いた。
「一週間前……」
ツンがまるで怒られた子供のように口を尖らせて答える。
「あの日か。あれだけ行くのを楽しみにしてたヘアサロンに行く事をあっさり諦めたから変だとは思ったんだ」
その言葉にツンがぼくを見ながら慌てて言った。
「たっ、楽しみにしてなんか……!」
社長さんが手でツンを制した。
そして、再びぼくを睨む。
「す、すいませんだお……」
思わず、社長さんに謝るぼくにツンが言った。
「何で謝るのよ!」
そして、社長さんがツンの方に振り返ると、ツンは小さい声で「別にわたしが誰と暮らそうといいじゃない」と言った。
「……そうはいかない事、分かってるだろう?」
社長さんがなだめる様にツンにそう言った。
そして、ぼくに向き直り、困ったような顔でぼくに言う。
「なぁ、内藤君。確か、名前、内藤君だったよな? なぁ、分かるだろう? 彼女は歌手なんだ。こんな事でスクープになったら、彼女の歌手生命が終わってしまうかもしれないんだよ」
――そんな風に言われて、一体ぼくにどうする事が出来ると言うのか。
ツンは芸能界は嫌いだけれど、歌を歌うことは好きだ。
だったら、それをぼくのせいで辞めさせるなんて事、出来るわけが無いじゃないか。
長い間うつむいていたぼくは顔を上げて、ツンを見つめると言った。
「……わかったお」
その瞬間、ツンがぽろぽろと涙をこぼし始めた。
そして言った。
「辞める」
「「えっ?」」
ぼくと社長さんは同時に聞き返した。
ツンは涙をこぼしたまま、もう一度言った。
「――歌手なんかもう、辞める」

(^ω^)
 ツンの言葉は脅しなんかでは無く、どう聞いても本気だった。
そして、その言葉にぼく以上に狼狽したのは社長さんだった。
ツンの、歌に対する執着心に自分で気付いていない、というのは、実は強みなのかもしれない
「待ってくれ、それは――」
社長さんの言葉にかぶせるようにツンが言った。
「もう嫌なの!」
それから、長い沈黙が続いた。
みんなが何かを考えているか、あるいは考えることすら停止していた。
やがて、社長さんがぽつりと言った。
「――オレは君という存在を失いたく無い」
そんな、愛の告白みたいな言葉を。
そして彼は真っ直ぐにツンを見つめると続けた。
「オレは……、オレはせっかく見つけた才能をみすみす失う訳にはいかないんだ」
それから、社長さんも混乱していたんだろう。何とかツンを引きとめようと脈絡のないことをあれこれツンに言った。
「そう。失うわけにはいかない」
「それにもう、世界は君を知ってしまった! 知ってしまったんだよ」
「今更、この世界から抜けられはしないさ」
「スケジュールはどうするんだ? スケジュールは!」
「もう一年以上先まで埋まってるんだぞ!」
「今、君に辞められたらオレは終わりだよ!」
「頼む、辞めないでくれ……」
そうして社長さんはツンを見つめたまま黙り込んでしまった。
ツンが社長さんから目を逸らし、言葉を発した。
「――でも」
「分かった! こいつと暮らすのは認めよう!」
社長さんはツンの言葉を遮り、ぼくを顎で指してそう言った。
その言葉を聞いてツンの顔がぱっと明るくなる。
「ただし!」
何かを言おうとしたツンを遮って社長さんが言った。
「――こいつの事を認める訳じゃあ無い」
やっぱり、彼にとってぼくは敵なのだ。
でも、それはそうだ。せっかく見つけた歌姫を突然さらった上に、そいつのために歌姫は歌姫でいる事を辞めると言うのだから。

(^ω^)
 ぼくとの付き合いを認めはしないと社長さんは言った。
そして、社長さんは続ける。
「この事は一切公表はしないし、一緒にいる所を見つかっても絶対に関係を認めない」
そして、ツンに向いたまま、今度は親指でぼくを指しながら言った。
「とりあえず、二人でいる所を見られた場合の言い訳として、こいつは君の専属ヘアメイクという事にする」
突然の社長さんの提案。
マスコミ対策だと分かっていながらもツンは明るい顔で頷いた。
「それから最後にもう一つ」
社長さんが人差し指を立てて、ツンを強く見据えて言う。
「今回、オレがこうするのは妥協じゃあ無い。オレは君に歌い続けてもらえるためなら何でもするという事だ。だが逆に――」
それから、一瞬だけぼくを見てツンに向き直り言った。
「君が歌を辞めると言うなら、オレは何をするかわからないぞ」
その言葉を聞いて、ぼくは社長さんのツンに対する想いを知った。
ぼくとは種類が違えども、彼がツンに対して持っている感情もまた、愛なのだと。
社長さんはしばらくツンを見つめた後に聞いた。
「わかったな」
ツンは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、そういう事でいいな」
「いいわよ」
そして、その言葉を最後に今までの緊張が一気に解き放たれた。
止まっていた部屋の空気が再び流れ出したような感覚だった。
そして、張り詰めていた神経を開放するためにみんなが努めてリラックスした雰囲気を作ろうとした。
ツンがぼくの方を振り返って言った。
「内藤、どう? 一流アーティストの専属ヘアメイクになった気分は」
「まぁ、ただ単に二人でいるところを見つかった時の良い訳なんだがな。……そんな幼稚な言い訳が通るとも思えないが」
すぐにそう言い返す社長さんにツンが笑って言った。
「心配し過ぎなんじゃない? もし一緒の所を見られたって、わたしがこんなやつと付き合ってるなんて誰も思わないわよ」
柔らかくなったその場の空気にぼくも笑って返す。
「ちょっ、ひどいお!」
社長さんがニヤリと笑って言った。
「まぁ、ツンの言う通りだな」
「ちょっ、社長さんもヒドス」
そして、そのままぼくに振り返ると、少しだけ真剣な顔で言った。
「だがそれだけに、付き合ってると思われた時は大きなイメージダウンになってしまう」
「テラヒドス……」
そう言いながらもぼくは緩む頬を押さえきれなかった。

(^ω^)
 それから、ぼく達ふたりの生活は続いていた。
ツンはアルバムのレコーディングを開始し、以前よりも断然楽しそうに仕事に向かうようになった。
 社長さんは相変わらずぼくの事を良く思っていないみたいだ。
たまに顔を合わせても何も言わなし、ぼくを見るその目は依然、敵を見る目だ。
あの目を見る限り、いつかは仲良くなれるなんて到底思えなかった。
きっと彼がぼくに笑顔を見せる時はぼくがツンと別れる時だ。
 ぼくは次回のカット試験に向けて、閉店後、毎日お店に残って練習をしている。
練習を終え、店を出る頃には親指の筋肉がくたくたで、薬指は麻痺したみたいになっている。
それでも、ツンが帰ってくればぼくは彼女の髪に指を通す。
レコーディングは大変なようで、最近は髪を乾かしている途中でツンはそのまま寝てしまう事がある。
「――それでね、その時ねベースのりつこちゃんがね」
「うん。りつこちゃんが?」
「りつこちんが、またぞろけむたりぃ……」
「またぞろ……? ツン?」
今日もツンは髪を束ねている途中で眠ってしまった。
寝てしまったツンをぼくはそっと抱き上げる。
彼女はうっすら微笑んだまま、軽い寝息をたてていた。
そして、そんな彼女を見て、ぼくもまた微笑み、そのままベッドルームへと彼女を連れて行った。

(^ω^)
 ぼくの横にはいつも君の笑顔、あるいはふくれっ面があった。
ツンのオフと店の定休日が重なったある日、ぼく達はふたりでVIPランドに遊びに行った。
VIPランドには芸能人もよく来るとはいえ、見つかったら大変な事になる。
なので、ツンは一応の変装をする事にした。
まぁ、変装と言っても付け髭をしたりする訳にもいかないし、帽子とサングラスで顔を隠すぐらいなんだけど、それぐらいでも意外と見つからなくなるものだった。
でも、ぼくはツンと一緒にいられる事が幸せで、逆に「見つかってしまいたい」という背徳的な願いを併せ持っていた。

「痛っ!」
ホーンテッド・マソソソと言うお化け屋敷系のアトラクションに乗るために列に並んでいると突然、ツンが声を上げた。
見ると、帽子から出ていたツンの髪の先端がぼくのジャケットのボタンに絡んでいた。
「怖がってくっついた時だお」
演出で場内が一瞬停電した時にツンが怖がってぼくにくっついて来た時に絡んだらしい。
ぼくがそう言うとツンが言い返す。
「く、くっついてなんか無いわよ。あれよ、足元が見えなくてちょっとよろけただけよ!」
そう言って、ふん、とそっぽを向こうとしたが髪がひっかかってツンが再び声を出した。
「い、痛っ……」
ほどこうと思い、絡んだ部分をいじってみたが、何がどうなったのかまったく解けなくなっていた。
そうこうしている間に列が進み順番が来てしまい、ぼくはしょうがなく乗車口の係員に事情を説明した。
「少々お待ちください」
係員はそう言うと、無線で誰かと話していた。
ぼく達は乗車の列から少し離れ、ぼく達の後ろに並んでいたカップル達が次々とゴンドラに乗車して行くのを眺めていた。
ぼくとツンもあんな風にちゃんとカップルに見えてるんだろうか? ぼくは楽しそうに乗車していくカップル達をみながらそんな事を考えていた。
しばらくすると無線で呼ばれた係員がやって来てツンに聞いた。
「どうしましょう? もし何だったら絡まっているところ、切ってしまってもかまいませんか?」
「うん。もう、しょうがないからいいわ」
ツンがそう答えると、係員は小さなハサミを取り出した。
そして係員はツンの髪を切り、ぼくはそれを眺めていた。
それから、ぼくのボタンから残った髪を取り除くとその係員はお辞儀をして去って行った。
ぼく達は列に戻り、やってきた小さなゴンドラに乗った。
ゴンドラが動き出すとツンが笑いながらぼくに聞いてきた。
「あの人のカットの腕前はどうだった?」
「どうって……」
ぼくの声は自分でも驚くほど暗かった。
「ねぇ、内藤」
そんなぼくにツンが言った。
「内藤がカット出来るようになったら――」
ツンがかぶっていた帽子を取った。
そして、ぼくを上目遣いに覗き込むように見て言った。
「一番最初に、わたしの髪を切らせてやってもいいわよ」
そんなツンを見て、ぼくはいてもたっても居られない程の幸せを感じ、暗闇にまぎれてツンをぎゅっと抱き寄せた。

(^ω^)
 閉店後、カットの練習を続けていると帰ったはずのクーさんが戻って来た。
「何だ、ホライゾン君。まだいたのか」
「あ、クーさん。お疲れ様だお」
「うむ、まぁ飲みに行っていただけだから疲れてはいないんだが。それよりもいいのか? 帰らないで。 彼女が待ってるんじゃないか?」
「いいんだお」
クーさんの質問にぼくは拗ねて答える。
「どうした? ケンカでもしてるのか?」
心配して聞いてきたクーさんにぼくは悪い気がして、ぼくは微笑んだ。
「違うお。大丈夫だお」
「そうなのか?」
「うん。最近ツンは帰って来るの遅いから、それでだお」
このところ、ツンはどんどん忙しくなり、それに比例して二人の時間はどんどん減っていっている。
一緒にいられるのは深夜、ツンが帰宅してからの数時間。ひどい時には帰って来ない日もある。
「それでも、それでツンがいい歌を歌えるんだったら、ぼくはかまわないお。だってぼくはツンの歌が好きなんだお」
口ではそう言っていたが、心の中は少し違っていた。
ツンと一緒にいられない寂しさもあったが、もう一つ、それとはまったく関係の無い、とある感情が心の中に渦巻いていた。
仕事が順調で充実しているツン。そしてそれとは反対に、ツンの専属ヘアメイクなんていうのは形だけで、未だにカット試験に受からない自分。
ぼくは自分で自分が嫌になり、そしてツンが妬ましいとさえ思う事があった。
「そうか」
そう返事をしたクーさんは全てを見抜いているようだった。
「――どれ」
クーさんがそう言って、ぼくのカットしたウィッグを見始めた。
「ふむ、いいじゃないか」
そして、一通りチェックすると、ぼくに振り返って言う。
「だがもう指も腕も限界だろう?」
ぼくは頷いた。
「今日はもう帰りたまえ。これ以上無理をしても変な癖が付くだけだ」
「わかりましたお」
ぼくは素直にそう返事をして、帰り支度を始めた。
電気を消し、セキュリティ装置をセットすると、店を出てドアを閉めて鍵をかけた。
「じゃあ、お疲れ様でしたお」
「気をつけて帰りたまえ」
クーさんはそう言うとぼくとは違う方向の駅に向かって歩き出した。
「クーさん!」
ぼくはクーさんの背中に呼びかけた。
そして、振り返ったクーさんに「今日は、ありがとうございましただお」と言った。
クーさんは微笑むと、「また次回、練習する時には付き合ってあげよう」そう言って、駅に向かって歩いて行った。

(^ω^)
 家に帰るとツンが帰ってきていた。
「おかえり」
ツンが笑顔で出迎えてくれた。
「ただいまだお」
「ご飯まだでしょ? 今、作ってるから一緒に食べよ?」
そう言って、ツンはキッチンに入って行った。
ツンを追ってキッチンに入ると、ツンは「だ〜め、手洗いうがいをして来なさい!」とぼくを追い出した。
「ぼくは歌手じゃないから、喉は気にしなくていいんだお」
ぼくがそう言い返すと、ツンは「バカ。風邪ひかないようによ」と言った。
「そんなに心配されて、ぼくはツンに愛されてるお」
ぼくがそんな事を言うと、ツンは顔を赤くして言った。
「ち、違うわよ! あんたが風邪ひいたら、そしたらわたしうつされて、それで歌が困って歌えなくなるとだから――!」
途中から支離滅裂になっているけれど、ツンの言いたい事と、それがいつもの照れ隠しだという事はわかった。
そして、そんなツンに「日本語でおk」と言うと、ツンは持っていたお玉を振りかざして「早く行きなさい!」と怒鳴り、ぼくは笑いながら洗面所へ逃げて行った。
 それから、食事も終わり、ぼくは後片付けをし、ツンはシャワーに向かった。
洗い終わった食器類を片付けていると、リビングの点けっぱなしだったテレビからツンの声が聞えてきた。
深夜のバラエティ番組で、ツンは人気男性アイドルグループ・スマンプと談笑をしていた。
スマンプの一人が「ツンちゃん、ほんとかわいいよねー」と何度も言っていた。
ツンは(ぼくが思うに)作り物の笑顔を振りまいて「もう、やめてくださいよー」とその人の腕を叩いていた。
ぼくは片付けている途中だった皿を持ったままリビングに歩いて行き、テレビを消した。
 やがて、ツンがシャワーからあがり、いつもの場所に座った。
ぼくは皿を片付け、ソファーに座るとドライヤーのスイッチを入れ、ツンの髪を乾かし始めた。
「……ツン、ずっと一緒にいたいよ」
ぼくは小さい声でそう言った。
そんな声ではドライヤーの音でツンに聞えないのは分かっていた。
いや、むしろ聞こえないと分かっていたから言ったんだ。
こんな事、芸能人であるツンには言えないし、言っても仕方がない。
――ぼくだけのツンでいて欲しい。
 最初の頃、テレビに出ているツンを見てぼくは優越感を感じていた。
ぼくはこの人と一緒に暮らしてるんだぞ、みんなの知らない本当のツンを知っているんだぞ、と。
でも最近のぼくはテレビのツンを見て不安ばかりを感じていた。

(^ω^)
「やはり、君達が付き合うのは無理があるのではないか?」
クーさんはぼくの横に立って、ぼくのカットを見ながらそう言った。
閉店後、カットの練習をクーさんに見てもらっていると、いつの間にかぼくの人生相談になっていた。
「やっぱり、ぼくみたいな一般人が芸能人と付き合うのは無理な事なのかお?」
ぼくの言葉にクーさんがぼくの目をを見て言った。
「原因が芸能人と一般人というところにあるのかはともかく、少なくとも今の君は幸せで一杯には見えない」
それから、再び視線をぼくの手先に戻して言う。
「彼女がどう思っているかは分からないが、少なくとも君には不満があるんだろう?」
「不満じゃないお。不安だお」
ぼくはハサミを動かしながらそう返事をする。
「不安という事は、相手に分からない事があるという事だ」
クーさんがそう言った。
そうか。じゃあ、ぼくは何が分からなくて、何が不安なんだろう?
ぼくはそんな事を考えながらカットを続けた。
「待ちたまえ」
突然、クーさんがぼくを止めた。そしてぼくに聞く。
「ちゃんと考えてカットしているか?」
ぼくはいつの間にかツンの事を考えながらぼーっとカットをしていた。
ぼくが「すいませんだお」と謝るとクーさんが言った。
「別に謝る必要は無い。誰だって苦手な個所はある」
ぼくはぼーっとカットしている事を怒られているんだと思ったけど、少し違ったようだ。
首を傾げるぼくにクーさんも首を傾げる。
「そこのカットが苦手なんじゃないのか? 何だか見ていてそんな感じだったが……」
言われて、初めて気が付いた。ぼくはいつも苦手な個所をカットしていた。
「そう、そうだお! そういえば、この仕上げのカットがうまくいく時といかない時があるお」
慌ててそう言うぼくにクーさんが言った。
「ちゃんと頭の形を考えて髪を取っているか?」
それから、その箇所の髪を取りながら説明してくれた。
「同じ様に切ってもベースになる頭の形が違ったら当然、違う仕上がりになるだろう?」
そして、ぼくの留めたピンをずらしながら続ける。
「マネキンもそうだし、ましてや人間になったらもっと一人一人の頭の形が違うんだから、最終的なイメージからその事を考えて仕上げないと駄目だ」
それからぼくに向き直ってクーさんは言った。
「こんな事は基礎中の基礎だぞ?」
「……すいませんだお」
ぼくは素直に謝り、カットを続けた。
クーさんに言われた通り、頭の形を確認しながらやると、それはうまくいった。
嬉しくて、クーさんの方を向き微笑んだ。
続いて反対側にハサミを入れる。
「待ちたまえ」
クーさんがハサミを入れる直前に再びぼくを止めた。
「こっちを切るには逆の方がいい」
そう言って、ハサミを持たずに手本を示しながら、反対側をカットするコツを教えてくれた。
「こうかお?」
ぼくは言われた通りに逆向きにハサミを構える。
「腕をもっとこっちに上げるんだ。そして指はこう」
クーさんがそう言いながら、後ろからぼくの腕を持ち上げ、ぼくのハサミに自分の指を絡めてくる。
背中にクーさんの体とその体温を感じた。そして指にはぼくより少しだけ温かいクーさんの指が触れている。
――時間が止まったような気がした。
その時、その体勢のままクーさんがふふ、と笑って言った。
「ホライゾン君は意外と背が高いんだな。こうやって後ろから教えようと思ったが、これでは手元が見えないよ」
そして、クーさんはぼくから離れ「さぁ、やってみたまえ」とぼくの横に戻った。
ぼくはハサミを動かしながら、何だかドキドキしていた。

(^ω^)
 そうして練習を終え、店を出るとツンから電話がかかってきた。
「内藤、明日お店休みでしょ? わたしもオフになったから、今度はVIPシーに行こうよ」
「行くお! 行くお!」
ぼくは大喜びで返事をした。
「シー行くのは初めてだお」
「実はわたしも」
「初めて行く相手がツンで嬉しさ倍増だお!」
「……わ、わたしも」
ツンが珍しく素直にそう言った。
「ツン……」
ぼくは嬉しくて何だか次の言葉が出て来なかった。
ツンも何も言わず、無言のまま時間だけが過ぎていく。
けれどそれは嫌な沈黙では無かった。言葉は無くともツンと心が繋がっているのがわかった。
「じゃっ、じゃあ、もう切るわよ」
ツンがそう言うと直後に電話を切った。
ぼくには電話の向こうで顔を赤くしているツンが想像出来た。
携帯をポケットにしまい、ぼくは駅に向かって歩き始めた。
すると、道行く人々がぼくを見て変な顔をしている。
何でだろう? 何かおかしな物でもつけているのかと自分の服や鞄を見たがおかしな所は無かった。
再び歩き出し、有名ブランドのビルの大きなウインドウの前を通った時に、ぼくはその原因が分かった。
ショーウインドウに映るぼくの顔がひどくニヤけていた。
慌てて、真面目な顔をしようとするが、どうしても止められない。
その日、ぼくは家に帰るまで何回、あくびをするふりをしただろう?

――だがその日、とうとうツンは帰って来なかった。

(^ω^)
 ツンが帰って来たのは翌日の昼前。
何かあったんじゃないかと心配で、でも何をしたらいいのか分からずにおろおろするぼくの前にひょっこりと現れた。
「ただいま……」
ぼくは「おかえり」を言う前にツンに怒鳴っていた。
「ただいまって――! 今までどこに行ってたんだお!? 携帯もつながらないし、心配したお!」
そんなぼくの怒鳴り声にツンは強くぼくを睨んで怒鳴り返してきた。
「ずっと仕事よ!」
そして鞄から携帯を取り出すと、一瞬、気まずそうな顔になったが、またぼくを睨んだ。
「スタジオに入る時に電源切ってそのまま忘れてたのよ!」
「それにしたって連絡ぐらいしてくれたっていいじゃないかお!」
「しょうがないじゃない! あの後ずっと接待だったんだから、電話なんて出来ないわよ!」
言い返そうとするぼくにツンがかぶせて言う。
「それに何よ! あの後、遅くなるって言おうと思って電話したら、内藤の携帯だって繋がらなかったじゃない!」
きっと、地下鉄に乗っている駅と駅の間だったんだ。何てタイミングの悪い。
「そんなのぼくのせいじゃないお!」
始めはぼくは怒っていた訳では無かった、ただツンが心配だったから、それでつい怒鳴ってしまっただけだった。
でも今では、何でもいいからただ、ツンに怒鳴る事が目的になっていた。
「それに、接待なんてあんな時間から今まで? ありえないお!」
「そんなの、この世界では普通よ!」
たぶん、ツンも同じなんだろう。ぼく達は分かっていても止められない、何の意味も無い言葉のぶつけ合いをしていた。
「たまたま、音楽番組のプロデューサーがいて、ドクオが売り込みに行っちゃったからしょうがないでしょ!」
このまま続けていてたら、ぼくは言ってはいけない言葉を吐いてしまう。
ぼくはそれを止めるのに必死だった。
「――――――」
「――――――」
ぼくの沈黙にツンも沈黙で応え、それからしばらく、相手にぶつける言葉も無くお互いにただ黙っていた。
「もういい! 疲れたから寝る!」
沈黙の末、ツンがそう言ってそのままベッドルームに向かった。
ベッドルームのドアを開けると、ツンは振り向きもせずに言った。
「今日はもう、VIPシーは行かないから!」
そして、ツンはドアの先の暗闇に電器も点けずに消えて行ってしまった。

(^ω^)
「不安の原因は分かったのかね?」
クーさんがぼくの横で、ぼくのカットを見ながら聞いてくる。
 結局その日、ツンは夕方になってやっと部屋から出て来たかと思うとそのまま何処かへ行ってしまい、残されたぼくは一人でやる事も思いつかず店に来た。
すると、たまたま店の前を通りかかったクーさんが、中にぼくがいるのを見つけて入って来た。
そして、どうせ暇だからと、昨日の復習を兼ねて、またカットの練習をする事になった。
 ハサミを動かしながらぼくは呟くように返事をした。
「……たぶん、芸能界の事がわからないからだお」
そして、昨日の夜から今朝にかけての出来事をクーさんに話した。
「ツンは本当にぼくの事が必要なのか分からなくなってきたお……」
クーさんは小さく息を吐くと、ぼくを見ずに言った。
「そうだな。仕事が原因ですれ違うというのはよくある事だ。相手の事情が分からずに自分に価値が無いように思わされてしまう事もな」
そして、ほんの少しだけ間をおいて続ける。
「ましてや君の場合、相手の仕事は芸能界。我々のような一般人には想像もつかないしな……」
ぼくは何の返事も出来ず、ただ黙ってハサミを動かしていた。
「ホライゾン君! ちゃんと切っている髪の髪質を理解しているか?」
突然、クーさんがぼくの手元を見ながらぼくに注意した。
「こんなに細くて柔らかい髪だ、それじゃあダメだろう?」
「……すいませんだお」
ぼくは謝り、今度はちゃんと髪質を考えてカットを続ける。
クーさんは再び黙ってぼくのカットを見ていたが、やがてぽつりと小さな声で言った。
「――同じ仕事の者同士なら、さっき言ったような苦労は無いんだがな」
そう、同じとは言わないまでも、せめて知っている職業ならばよかったのかもしれない。――ぼくとツンは世界が違い過ぎた。
ぼくはクーさんの言葉を聞いて、ぼくはツンを選んでしまったために余計な苦労をしているのかな、と思った。
 やがて、課題にしていたカットも終わり、クーさんがチェックをしてくれた。
「ふむ、いいじゃないか」
「ほんとですかお? うれしいお!」
ぼくが喜んでそう言うと、クーさんは手を口に当てて少し考えるとぼくに言った。
「後の問題はやっぱり試験で緊張する事か」
「……あうあう。そうだお」
そうだった、《試験》と言われると緊張して手が思い通りに動かなくなってしまうのだ。
これを何とか克服しないとぼくはどうやっても先に進めない。
そうしてぼくが目の前の問題に思い悩み、うつむいているとクーさんがこう言った。
「よし、ホライゾン君。私の髪を切りたまえ」

(^ω^)
 目の前に立つクーさんが何を言っているのか分からなかった。
「クーさんの……髪を切るのかお?」
「そうだ。それで『自分には出来る』という自信が付けば、試験でも緊張しなくなるだろう?」
クーさんはさらりとそう言った。
「でも、でもそんなの、試験よりよっぽど緊張するお!」
ぼくがそう言うとクーさんは微笑んだ。
「大丈夫だ。私が鏡で見ながらアドバイスをするよ」
確かに、それなら致命的な失敗をするということは無くなる。
それでも、ぼくは躊躇していた。
クーさんの黒く輝くナチュラル・ストレートレイヤーのロングヘアー。そんな美術品みたいな髪にぼくがハサミを入れていいんだろうか。
そんなぼくの様子を見てクーさんが言う。
「大丈夫だ。私も失敗して変な髪になるのは嫌だからな、丁寧に指導するよ」
そう言って笑うクーさん。
言われたぼくはとても笑う事なんて出来やしない。
既に心臓が飛び出しそうな位ドキドキしていた。
「まぁ、落ち着きたまえ。まずはシャンプーでもしながらリラックスしようじゃないか」
クーさんがそう言ってシャンプー台に向かった。
 そうして、ぼくはクーさんの髪を洗い始めた。
クーさんの髪に指を通す。
クーさんの髪もツン程ではないが気持ちが良かった。
ぼくはゆっくりと髪をすすぎながら聞いた。
「どうして、ここまでしてくれるんだお?」
「それはだな……」
クーさんが少し考えてから答えた。
「前にも言ったろう? 君には期待してるって」
「でも……」
「ホライゾン君」
その答えに何だかすっきりしなくて、もっと何かを聞こうと思ったぼくを制してクーさんが言った。
「君は思ってた以上に鈍いんだな」
そう言ってクーさんは笑った。

(^ω^)
「どうだ、私の言った通りだろう? やれば出来るじゃないか」
鏡の中のクーさんがミディアムレングスの髪を揺らしながら笑っていた。
ミディアムレングスのローレイヤーAライン。
「クーさんのおかげだお」
ぼくは鏡の中のクーさんを見ながらそう言った。
「私は何のアドバイスもしてないぞ?」
クーさんが座ったまま顔を上げ、席の後ろに立っているぼくを直接に見てそう言った。
そう。クーさんはカット中ずっと鏡を通してぼくのカットを見ていたが、結局、最後まで何も言わなかった。
「それでも、クーさんのおかげなんだお」
ぼくは逆さになったクーさんの顔を見つめ返して言った。
「ありがとうだお」

(^ω^)
 その夜、家で夕飯を食べていると玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた。
続いて、玄関からツンの明るい声が聞こえてくる。
「ただいまー! 内藤ー! 今日はねー、わたしの恋愛師匠を連れて来たよー。男の気持ちも女の気持ちも分かるモナーさん。 ……あー、もうこのブーツ脱ぎにくいわねっ! 彼ね、両方の視点を持ってるから、失恋した時に話聞いてくれてなぐさめ上手なんだよー。 ……脱げたっ!」
そして、そのまま喋りながらリビングへと入って来る。
「それよりね。彼、実は今一番人気の美容師なの! それで、内藤が色々教えてもらいたい事があるかと思っ……て…………」
リビングに入って来たツンがふいに止まった。
その結果、ツンの後ろを歩いてきた男が「いやねー、一番人気なんて照れるモナー、ふふ」と言ったところで突然止まったツンにぶつかった。
「何よツンちゃん、突然止まってどうしたモナ?」
そう言って男がツンの横からツンを覗き込むが、ツンは依然として動かない。
ツンの、その視線の先にはクーさんがいた。
「こんばんは。お邪魔しています」
クーさんがツンに会釈をした。
しかし、ツンはクーさんを無視してぼくの方を向くと聞いてきた。
「――誰なの?」
「え? あ、えーっと、お店の先輩」
ぼくが説明するとツンはもう一度クーさんを見た。
「あ、ほら、ツンが最初に店に来た時にカットをしてくれた人だお」
「ふーん。……それで? 何でその人がここにいるの?」
ツンがぼくに向き直る。
「あ、えーっと、さっきまでカットの練習を見てもらってて、それが終わって夕飯を食べようって事になって、それで家に呼んだんだお」
「家にって、ここはあんたの家じゃないでしょ」
ツンが冷たくそう言い放ち、家の中を重い空気が流れ始めた。
ぼくは慌てて流れを変えようと話題を振った。
「と、ところで、後ろの人は誰だお?」
ツンはぼくをじっと見たままその人を紹介した。
「さっきも言ったじゃない……」
「こんにちはモナ」
妙なオネエ言葉で喋るこの男性、ぼくはどこかで見た事があった。
「もしかして、モナーさんかお?」
「あら、そうよ。あたしの事、知ってるモナ?」
「知ってるお! こないだもテレビに出てるのを見たお!」
その人は、最近人気のヘアスタイルを数多く提案していて、芸能人もよく指名する、ほんとに今一番人気のスタイリストさんだった。
「すごいお! モナーさんだお! クーさんも知ってるかお?」
ぼくは興奮冷めらやず、クーさんにも聞いた。
「ああ、知っているよ」
冷静に言葉を返すクーさん。そして、そのクーさんを見て、今度はモナーさんが反応した。
「クー? あら、クーなの? 久しぶりじゃない」
「ええっ!?」
その言葉にぼくは驚いてクーさんに振り返った。
「クーさん、知り合いなのかお?」
ぼくの質問にモナーさんが答えた。
「知り合いもなにも、あたしが唯一認めたライバルだモナー!」
それからモナーさんはモジモジと言った。
「クーは人間としても尊敬出来る人モナ。もう、あたしが男だったら、絶対に狙っちゃうモナよ!」
「……どうみても、男だお」
「相変わらずだな。お前は」
ぼくとクーさんそれぞれにそう言われて、モナーさんは「やーねぇ、うふふ」と笑った。

(^ω^)
「何よ、勝手に三人で盛り上がっちゃって……」
ぼくらから少し離れた位置でこのやりとりを見ていたツンがぼそっと呟いた。
ぼくはツンの方を振り返りお礼を言った。
「ツン。ぼくのためにありがとうだお!」
「ちっ、違うわよ! あんたの為なんかじゃないわよ!」
ツンがいつもの感じで否定する。そこへ、モナーさんが言った。
「何言ってるのよツンちゃん。会って色々教えてあげて欲しいって言ってたのはこの子モナ? あたしはそれで連れて来られたんじゃない」
ツンが目を反らして「なっ、何言ってんのよ! こいつになんか何教えたって無駄よ」と言った。
そんなツンを見てモナーさんが言った。
「やあねぇ、ツンちゃんさっきからどうしたモナー? いつものかわいいツンちゃんはどこ行ったモナ?」
「どうせ、今のわたしはかわいく無いわよ」
「もぅ……」
モナーさんが笑いながら、でも少し困った顔でぼくに振り返った。
「い、いいんだお、モナーさん。ごめんなさいだお」
ぼくはモナーさんにそう謝り、続けて言った。
「ツンの癖なんだお。照れてるだけなんだお」
――それは失敗だった。ぼくがそう言った次の瞬間、ツンが烈火のごとく怒りだした。
「そんな事ないわよ! ばっかじゃないの? 何でわたしが照れないといけないのよ!」
「わかったお、ツン。ごめんだお」
「こんな奴、何教えたって無駄よ! どうせカット出来るようになったって、センスのかけらも無いに違いないわ!」
「ツン! ツン! もういいお! ぼくが悪かったお!」
ぼくが何を言っても、ツンを止める事は出来なかった。
でも、たぶんツンも何をきっかけに止めたらいいのか分からなかったんだと思う。
「そりゃあ、シャンプーしてもらった時は気持ちよかったわよ、でも」
ツンは泣きそうな顔で叫んでいた。
「――最初にこいつにカットを頼もうと思ったのだって!」
そして、ツンが言った――。
「センスの無いヘアースタイルにして、その日の仕事をキャンセルしようと思ってたからよ!」
言った直後にツンはハッと気付き、ぼくを見て動きを止めた。

(^ω^)
 ツンは言った。
ぼくを選んだのは失敗するためだったと。
つまりぼくはツンに認められたから選ばれたんじゃない。
認められなかったから選ばれたんだ。
 突然にツンの口から真相を告げられて、その瞬間から急に周囲の音が小さくなり、目の前の風景がぼくに関係の無いものに思えてきた。
それでもぼくは精一杯の努力をして言葉を出した。
「そ、そうなのかお? まいったお」
みんながぼくを見ていた。たぶん、顔はうまく笑えていたと思う。
ツンはぼくに何かを言いたいが、何を言ったらいいのか分からないという表情でぼくを見ていた。
「失礼だが――」
その時、クーさんがツンに振り返ると言った。
「あなたは自分の恋人の事をよくご存知無いようだ」
ツンがぼくからクーさんに視線を移した。
「まぁ、もっとも一緒にいる時間が少ないようだし、それは仕方が無い事なのかもしれないが」
少しも表情を崩さずに話を続けるクーさん。だが、それが返って凄みを増す結果になっていた。
「私は彼の事をいつもすぐそばで見続けてきた」
クーさんのそんな言葉を聞いて、ツンはクーさんを睨み返した。
ツンの刺すような視線を真正面から受けながらもクーさんは言った。
「彼にセンスが無い? ふん、笑わせてくれる」
クーさんが怒っていた。彼女の背中から蒼い炎が吹き上がるのが見えたような気がした。
「私のこの髪、どう思う? 私はすごくいいと思うし、気に入っている」
「そういえば、クー、髪切ったのね? クーといえばロングヘアーと思ってたけど、それぐらいもいいわよね。素敵よ」
モナーさんがそう言い、クーさんはツンの答えを待たずに言った。
「これをやってくれたのはホライゾン君だ」
そして、それを聞いた瞬間、ツンが今度はぼくを睨んだ。
ぼくにはツンがぼくを睨む理由が分かっていた。
『ぼくが最初に髪を切るのはツン』、その約束を破ったからだ。
ツンはじっとぼくを見つめ続け、やがて言った。
「――内藤、わたしの髪も切りなさい」

(^ω^)
 ツンの瞳に見つめられたぼくはやっとの思いで返事をした。
「わ、わかったお。じゃあ今度」
「今すぐよ!」
ぼくの返事を打ち消すようにツンが言った。
「で、でも……」
動揺するぼくにツンは尚も言う。
「今、ここで切ってよ!」
「でも、ここじゃあ……」
「ヘアメイクの道具ならモナーが一式持ってるわよ。ねぇ、モナーいいでしょ? 借りても」
「それは別にいいモナ。けど……」
「決まりね」
ツンはそう言って再びぼくを見つめる。
ぼくは逃げられない事を悟り、返事をした。
「……わかったお」
「じゃあ、あっちの化粧台のある部屋で」
ツンはそう言って歩き出すと、「内藤だけ来て」と言いリビングを出て行った。
「――ホライゾン君」
クーさんがぼくを見て言った。
「すまない。何だかわたしのせいで変な事になって……」
「大丈夫だお。ツンにぼくのカットの腕を見せつけてやるお!」
ぼくはクーさんにそう言って手をちょきちょき動かして見せた。
「二人共、冷蔵庫の飲み物とか自由に飲んでいいから、悪いけどちょっと待っててほしいお。それからモナーさん。道具、お借りしますお」
そう二人に言い残して、ぼくはリビングを後にした。
 ――本当はやりたくなかった。
緊張はしていなかった。でもその代わりに、ぼくは怯えていた。
かつて、ツンはぼくを選ばなかった。
そして、ここで失敗したら、ぼく達はどうなってしまうのだろうか。
いつも、ずっと触れていたい、と思っていたツンの髪が怖かった。
そんな事を考えながら、ぼくはのろのろと洗面所に置いてある予備のハサミを取りに行った。
ふと洗面所の鏡に映った自分を見る。
とても、これから自分の好きな人の髪を切る顔には見えなかった。
それでもぼくはツンのいる部屋に入り、――そして、ツンの髪にハサミを入れた。

(^ω^)
 数十分後、ぼくは死人の様な有様で部屋を出た。
部屋から出てきたぼくにクーさんとモナーさんが振り返る。
「ホライゾン君、どう――」
ぼくの顔を見て、クーさんの言葉が止まった。
そしてその時、ぼくの後ろ、部屋の中からツンの声がした。
「モナー。……ちょっと来て」
モナーさんがぼくの横を抜けて、ツンのいる部屋に入って行った。
背後で部屋のドアが閉まり、ぼくはその場に座り込んだ。
「ホライゾン君! 大丈夫か?」
クーさんがぼくに駆け寄って来た。
「顔色が悪いぞ。とにかくあっちでソファーに横になるといい」
そうしてクーさんはぼくをリビングのソファーまで連れて行ってくれた。
 ソファーに腰を下ろすと、ぼくはそのままうなだれた。
クーさんが横に座り、ぼくの手を両手で握ってくれた。
「失敗――、しちゃったお」
ぼくはそれだけ言うと、後はもう何も喋れなかった。
ツンの髪にハサミを入れ初めて、しばらくするとぼくは小さなミスをした。
本来であれば、そんなミスはミスでさえ無かった。いくらでも修正が出来た。
でも、その小さな失敗はぼくの心に大きくのしかかり、ぼくはすっかり萎縮してしまった。
その結果、その小さなミスを修正しようとしたハサミはぼくの弱った心を反映し、逆に失敗を広げていった。
そして、ぼくはそれ以上、失敗に蝕まれるのが怖くて怖くて、もうハサミを動かせなくなった。
ぼくはツンの髪から逃げ出してしまった。
クーさんは何も言わず、ただぼくの手を両手で包むように握り続けていてくれた。
 それから、どれくらいの時間が経ったのだろう? 永い永い時間に思える。
やがて、モナーさんが部屋から出て来た。
モナーさんはぼくに微笑むと「ちょっと失敗しちゃったモナね。でも直しておいたから、大丈夫モナよ」と言ってくれた。
ツンは依然として部屋から出て来なかった。
部屋のドアは閉まったままで、中からは何の音も聞えてこなかった。
――ツンに責めてほしかった。いっそ、責められれば言い訳が言えた。でも彼女は何も言わない。
だったら、ぼくが何かを言わないといけない。
このままではきっとぼく達は終わってしまう。
ぼくは閉められたドアの前まで行くと最後の力を振り絞り、震える声で話しかけた。
「ツ、ツン。あの……」
すると中からカタンという音に続いてツンの声がした。
「もういい。みんな出て行って……」
その声は、いとも簡単にぼくの心を打ち砕き、最後の力を奪っていった。

(^ω^)
 マンションのエントランスを通り抜けると、オートロックの自動ドアがぼくを追い出すかのように閉まった。
もう、ぼくはあの部屋へ戻ることは出来ない。
ぼくは鍵を持って来ていなくて、だからこのドアから中に入るにはツンに開けてもらわないといけない。
でもきっと、それはもう叶わない。
エントランスを抜けたぼくはただただ、その場に立ち尽くしていた。
これからどうしたらいいのかが分からず、そもそも何を考えたらいいのかも分からなかった。
そんなぼくにクーさんがやさしく声をかけた。
「すまない。元を正せば私のせいだ……」
「そんな事ないお。クーさんは悪くないお」
ぼくはそう返事をした。
「私が、戻って謝って来よう」
クーさんは心配そうな顔で尚もそう言う。
でもぼくはそんなクーさんを見つめると、静かに言った。
「ううん。もういいんだお」
――ぼくはツンを傷つけてしまった。
そんなつもりも無かった。むしろ幸せになってもらたかった。
でも、どこかでぼくはボタンを掛け間違えてしまい、結果として、ぼくはツンを傷つけてしまった。
ツンの最後の声が頭から消えなかった。
「ホライゾン君。とりあえず今夜は私の家に泊まるといい」
クーさんがそう言って「さぁ、行こう」と、ぼくの肩を押した。
モナーさんと別れ、ぼくとクーさんは夜の道を歩き始めた。

ツンの最後の声が頭の中で響いていた。
ツンはもうぼくを必要としていない。
心が空っぽだった。
この空白を何で埋めたらいいのか、ぼくにはまったく分からなかった。

(^ω^)
 それから三日間、仕事にもいかず、ぼくはクーさんの家にいた。
家からも出ず、かといって眠る事も出来ず、ぼくはただ座っているだけだった。
「店長にはホライゾン君はインフルエンザだと言ってある」
クーさんはそう言ってぼくに夕飯を作ってくれる。
「大丈夫だお。明日からはちゃんと行くお」
ぼくはそう返事をしてからクーさんにお礼を言い、翌日からは仕事に行った。
でも、ぼくはもうカットの練習はしない事にした。

 朝の電車でいつかの女子高生二人が話していた。
「ねぇねぇ、昨日のM速、観た?」
「ミュージック速報? 観たよ! 観た観た!」
相変わらずハイテンションな二人。
「ツン出てたね!」
ツンという名前にぼくは無意識に反応し、背中が冷たくなるのを感じた。
「髪、ちょっと短くしたんだね」
「うん。セミロングも似合うね!」
明るく返事をする彼女にもう一人が腕を組んで言った。
「うーん。あれはあれでアリだけど、でもやっぱり前のロングの方が良かったなー」
ぼくは心の中で彼女に頭を下げた。ごめんなさい、そうなった原因はぼくなんです。
それからも彼女達の会話は続く。
「それにしてもさー。何だか態度がめちゃめちゃ悪く無かった?」
「ほんとほんと、何だか不機嫌でさー」
「生放送だったから何かあったのかねぇ?」
「それにしてもひどかったよ。もう、ファン辞めようかと思ったもん」
「そやねー」
それから、少女達の会話はとりとめの無い方向へと進み、スマンプのイッタク君の話になったところでぼくは聞き耳をたてるのをやめた。

 点けっ放しのテレビからツンの声が聞えてきた。
ツンが出ている化粧品のコマーシャルだった。
そこに映っているツンは本当にきれいで、まるで天使のようだった。
「そういえば、以前にもツンを天使だと思ったことがあったお」
ぼくは画面を見ながらそう呟いた。
「あの時は、ツンは不機嫌な天使だったお」
そう言って、ぼくは微笑んだ。
きっと、そんな事を本人の前で言ったらツンは怒るに違いない。
でも、テレビの中のツンはぼくに怒ったりはしなかった。
テレビの中のツンはぼくの言葉に、怒ったり笑ったりはしてくれない。
そしてこの先、ぼくはツンを笑わせたり怒らせたりする事は出来無いのだ。未来永劫に。

(^ω^)
「他に行き場の無い君にこんな事を言うのはフェアでは無いのかもしれないが」
ある夜、夕飯の仕度をしながらクーさんが突然ぼくにそう切り出した。
ああ、もしかしていつまでも居候しているぼくが邪魔なのかもしれない。
そうだ。ここにずっといる訳にはいかない。
ぼくはいつかはここからも出て行かないといけないんだ。
「分かったお。明日、出て行くお」
ぼくはそう言った。
するとクーさんが寂しそうな顔でぼくを見た。
「それはつまり、お断りという事か」
「?」
ぼくはクーさんの言った意味が分からなかった。
「クーさん、意味がわからないお?」
それを聞いてクーさんも不思議そうな顔をする。
「ん? ……じゃあ、さっきホライゾン君が言ったのはどういう意味だったんだ?」
「え? クーさんがぼくがいるのが邪魔になって、それで出て行けって言うのかと思ったんだお?」
それを聞いたクーさんはホッとしたような泣きそうな顔になった。
「違う、違うんだよホライゾン君――、むしろその逆だ」
それから小さく深呼吸をするとクーさんは言った。
「私は君が好きなんだ。ずっと一緒に暮らさないか?」

(^ω^)
 クーさんの突然の告白にぼくはどうしたらいいのか分からなかった。
いや、分からなかったんじゃなくて、頭が考えることを拒否していた。
それはつまり、結論を出す事、いや、既に出ている結論を認める事を拒否していたのだ。
何も言わずうつむくだけのぼくにクーさんが言った。
「分かっている。君がまだツンへの想いを断ち切れない事は」
「そ、そんなことはないお……」
そう言ったぼくの本心を見透かすようにクーさんは続けた。
「いいではないか。君がツンを好きだろうと、それでも君を好きだと言っているのだ。私は君に『私だけを見て』等と言ったりしない」
ぼくを見つめるその目は少しだけ寂しそうに見えた。
「ただいつか――」
クーさんが寂しそうな目のまま柔らかく微笑んだ。
「たとえそれが三十年先だって構わない、いつか君が自ら私だけを見てくれるようになると信じて、今は私は待ち続けるよ」
そこまで言われたのに、ぼくは返事が出来なかった。
今、ぼくが出来る返事はクーさんを傷付ける事になる返事だった。
「今は……、返事が出来ないお……」
ぼくがそう言うと、クーさんがうつむいて言った。
「いいんだ。今すぐ返事をもらおうとは思っていない。ホライゾン君の中で何かが分かったら、その時言ってくれればいい」
そして、クーさんが用意の出来た夕飯を小さなダイニングテーブルに並べ始めた。
「変な話をしていて冷めてしまったかもしれないな。早く食べよう」
並べ終わったクーさんはそう言って笑った。
ツンを諦めきれていないぼくと、それを知っていてぼくを好きだと言ってくれるクーさん。
そんな、クーさんの優しさが温かかった。

(^ω^)
 その夜、夢を見た。
高いビルの屋上、その淵にツンとクーさんの二人が掴まっている。
ぼくは二人に「大丈夫だお! 二人共、今助けるお!」と声をかける。
しかし、ツンがぼくに言う。
「あんたばかぁ? 自分が何でも出来ると思ってるんでしょ? 残念だったわね。あんたに助けられるのはせいぜいどっちか一人よ」
その言葉を聞いて、ぼくは理解する。ああ、きっと一人を助けるともう一人は落ちてしまうんだ、と。
「でも、ぼくは二人共助けたいんだお!」
そう言ったものの、どうしていいのか分からずにぼくは二人の間を行ったり来たりするだけ。
時間だけが過ぎていき、やがて二人は力尽き、落ちて行った。
ぼくは叫びながらビルを降り、地面に横たわる二人に近づく。
二人は死んでしまった。
だが、ぼくが近づくと血まみれの二人は目だけを開き、ぼくを見た。
そして地面に横たわったクーさんが目から涙のように血を流し、ぼくに言った。
「君のその中途半端な優しさがみんなを殺すんだ」
ぼくはクーさんから目を逸らし、ツンを見る。
しかしツンは何も言わず、ただ瞳孔の開いた目でぼくを見続けた。
「っ!!!」
――そこで、ぼくは目を覚ました。
気が付けば目からは涙が流れていた。
それから、夢の内容を思い出し、ぼくは自嘲するように笑った。
だって、どのみちぼくにはもうツンを助ける事なんて出来ないんだから。

(^ω^)
 翌日からもクーさんは今までと何一つ変わらない様子でぼくに接して来る。
あの夜の告白はぼくの聴き違いだったんだろうかと思うほどに。
でもそれがクーさんらしいと思ったし、ぼくは急いで結論を出さなくてもいいという事で助かっている。
――人に好かれるというのは単純に気持ちが良かった。
「ぼくを必要としてくれる人がいる」
「自分に価値を見いだしてくれた人がいる」
その事実は自分に自信を与えてくれるし、何よりも自分で自分の価値を認めることが出来た。
「こんなぼくでも必要としてくれる人がいた」
「こんな自分に価値を見出してくれる人がいた」
クーさんはぼくの事を好きで、ぼくに優しくしてくれる。
今の状態はぼくにとってとても心地良かった。
心がふわふわと浮き立ち、ツンの事もあまり考えずにいられる。
でもいずれ、ぼくはクーさんに返事をしないといけない。
ただもう少しだけ、ぼくは今の状態でいたいと思っていた。

 お店でも、ぼくとクーさんはいつも通りの感じで過ごしていた。
そうしてクーさんから告白されてから五日が過ぎた。
ぼくは未だにクーさんに返事をしていなかった。
もしかして、今の状態がずっと続くんじゃないかとぼくが錯覚し始めた頃、運命の歯車が回り始めた。
 その日の閉店間際、排気量の大きそうな車のエンジン音が店の前で停まり、すぐに続いて店のドアが開かれた。
そして、一人のスーツ姿の男性が入って来た。
――それは、ツンの事務所の社長さんだった。

(^ω^)
 社長さんは店内を見渡し、ぼくを見つけると真っ直ぐにこっちに向かって来た。
ぼくは何が起こったのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。
そして社長さんがぼくの目の前に立ち、ぼくを睨みながら言った。
「今夜、もう一度ツンの家に行って、彼女の髪を切れ」
「え?」
社長さんの言っている意味が分からなかった。
「ツンからの伝言だ。『今夜、家に来てわたしの髪を切って』と……」
意味は分かったが、ぼくは躊躇した。
「でも、ぼくは……」
そんなぼくの態度に社長さんが舌打ちをした。
「いいから、もう一度行け。ツンがそう望んでいるんだ」
「――ずいぶんと都合のいい話だな」
その時、横からクーさんが話に入って来た。
そして、社長さんを見据えて言った。
「ホライゾン君はもう彼女とは何の関係も無いだろう?」
だが、社長さんもクーさんを睨み返して言う。
「こいつはツンの専属ヘアスタイリストって事になってるんだよ」
そして、二人は黙ってお互いの視線をぶつけ合っていた。
しばらくすると、クーさんがぼくに振り返って言った。
「ホライゾン君。そんなテストみたいなの事、受ける必要は無いぞ」
社長さんは踵を返し、出口に向かった。
そして、途中で振り返り「行く、行かないはお前の自由だ。別に――、行かなくてもいいんだぞ」と言うと、店を出てエンジン音を響かせて去って行った。

(^ω^)
 ぼくとクーさんは二人、閉店後のお店でお互いに何か言わなくてはと見つめ合っていた。
「行くのか? ホライゾン君」
クーさんがそう聞いてきた。
ぼくは何も言わず、ただクーさんを見つめ続けた。
「行ったところでどうなるかは分からないんだぞ?」
クーさんが続けて言った。
――そう。クーさんの言うように、これからツンのところに行って髪を切っても、それに何の意味があるのかは今のところツンにしか分からない。
ぼくの心の中に「またツンと一緒になれるかも」という期待があるのは事実だが、本当にそうなれる保障はどこにも無い。
そして、クーさんもぼくの考えは分かっている。
だから、ぼくが今夜ツンのところに行くというのは、つまりクーさんの告白を断るということ。
ぼくはもしかしたら今夜、全てを失うかもしれない――。
「――行かないで、くれないか?」
クーさんがすがるような目でぼくを見てそう言った。
心が揺らいだ。
ぼくを好きだと言ってくれて、ぼくに自信を与えてくれるクーさん。
そんなクーさんに飛び込むのはきっと自分は居心地がいいだろう。
でもぼくは気付いてしまった。
その居心地の良さは、ぼくがクーさんに対して優位だと感じていたからなんだ。
だってぼくは、ぼくを好きだと言うクーさんに対して何も返事をしない、という自分にとって一番居心地のいい場所にい続けていた。
それは、返事をする事によって対等な場所に行きたくなかったからなのだと思う。
ぼくは、ぼくのくだらない満足心のためにクーさんの気持ちを利用していただけなんだ。
あの夢で見た、クーさんの、ぼくを見つめる血にまみれた目を思い出した。
『君のその中途半端な優しさがみんなを殺すんだ』
夢の中でクーさんはそう言った。
――確かに、そうかも知れない。
このままでは、ぼくはクーさんを傷付けてしまう。いや、ぼくはもうクーさんを傷付け続けている。
ぼくが、クーさんの優しさに本当に応えるならば、ぼくはクーさんのところにいては駄目なんだ。
「ホライゾンく――」
「ぼくはこのテストを受けるお」
何かを言おうとするクーさんを遮ってぼくはそう言った。
そしてもう一度、自分に言い聞かせるつもりで言った。
「ツンの髪を切るお!」
「――失敗しても、もう私は君を受け入れることは出来ないぞ」
クーさんがぼくの目を見つめたままそう言った。
「わかってるお」
「……そうか」
そして、クーさんは小さく息を吐き、肩の力を抜くと、腰に手を当てて言った。
「君を救えるのは私だと思ったんだがな。どうやら違ったようだ。それに――」
ぼくは目でクーさんに話の続きを促す。
「矛盾しているようだが、これで君が楽な方、私のところへ逃げるような人間だったら、君の事を嫌いになっていたかもしれない」
そう言って、クーさんは微笑んだ。
そして、その世界の全てを見通すような強い瞳でぼくを真っ直ぐに見つめて言った。
「――さようなら。ホライゾン君」

(^ω^)
 マンションのオートロックを解除してもらい、ぼくはエレベーターに乗った。
ドアが閉まり、上昇して行くエレベーターの中でぼくは一回、深呼吸をする。
これからぼくはツンの髪を切る。
緊張も、恐れもそこには無かった。
そこにはただ一つ、「覚悟」があった。
ぼくは今度こそ、逃げる訳には行かない。
 エレベーターは小さなベルの音と共に目的の階に止まった。
ぼくはエレベーターを降り、廊下と進み、ツンの部屋の前に立つ。
そしてもう一度、小さく深呼吸をして、ぼくは呼び鈴を押した。

「いらっしゃいモナ」
ドアを開けてくれたのはモナーさんだった。
「モナーさん……」
「来てくれたモナね。さっ、入って入って」
モナーさんに促されて、ぼくはツンの部屋に入る。
部屋の中は何も変わっていない。
ほんの少しの時間しか経っていないはずのに、懐かしさがこみ上げてきた。
ぼくも使っていた靴箱、ぼくのタオルがあった洗面所、そして、ぼくとツンで座っていたソファー。
「――あっちの部屋でツンが待ってるモナ」
モナーさんがそう言って、以前と同じ部屋を指差した。
「ありがとうだお」
ぼくはモナーさんにお辞儀をしてツンの部屋に向かった。
そして、ドアの前に立ち、ぼくはドアをノックする。
「――どうぞ」
部屋の中から懐かしい、でも決して忘れる事の出来ない声が聞えてきた。
ぼくはドアを開けて、部屋に入った。
――そこにはツンがいた。
ぼくに背中を向けて椅子に座っているが、それは確かにツンだった。
ぼくはツンに近づき、口から溢れ出しそうな数々の言葉を押さえ込み、静かにツンの髪にハサミを入れ始めた。

(^ω^)
 頭の中に、新しいツンのイメージを創り出す。
そして、そのイメージを現実のツンに投影し、余計な箇所を少しづつカットして消していく。
投影されたイメージと現実の補正するには、基になる頭の形と新しいイメージを反映する髪質を把握していないといけない。
だが、問題は無い。
ぼくはツンの頭と髪を世界で一番多くの時間、触った人間だ。
ツンの頭の形をぼくは誰よりも知っている。
そして、ツンの髪を誰よりも理解している。
ぼくは創り出したイメージに向けて無心にハサミを動かし続けた。

(^ω^)
 カットが終わり、ぼくはツンの髪を結っていた。
もしかして、これが最後になるかもしれない。
そう思い、ツンの髪に指を通しながら、ツンに出会ってからの事を思い返していた。
「ずっと――」
その時、今まで一言もしゃべらなかったツンが言葉を発した。
ぼくは驚いたが、それでもツンの髪を結う手を止めなかった。
「ずっと内藤に会いたかったの……」
ツンがそう言った。
そして、姿見の鏡を通してぼくを見つめる。
「でも、どうすればいいのか分からなかった。それに内藤が会ってくれる自信も無かった」
その言葉を聞いて、ぼくも鏡を通してツンを見つめた。
ぼくと目があうと、ツンはうつむき、そして悲しそうな表情で言った。
「……内藤がセンス無さそうだから選んだのは本当よ。でも――」
そして、うつむいたままツンは言った。
「それでもわたしは内藤を好きになったのよ」
ぼくの手が止まった。
「それに初めて会ったあの時、内藤のつくってくれた新しい自分を見てわたし、がんばろうって思ったの。あなたに勇気を貰ったのよ」
「――ツン」
鏡の中のツンはうつむいたままでいる。
ぼくは一度止めた手を再び動かし、髪を結いながら話した。
「ぼくは、ツンがぼくを選んだ理由を聞いた時、とてもショックだったお。ぼくの全人格を否定された気分だったお」
そう言って、ぼくは微笑み、話を続けた。
「でも、ぼくが『ツンを好きだった』という事実に変わりは無いお。それに――」
最後のピンを止めて、ツンの髪を結い終わった。
鏡の中にはぼくが創り出した新しいツンがいた。
ぼくは鏡の中の新しいツンに向かって言った。
「その事を知ってからも、ぼくはずっとツンを好きだったお」
鏡の中のツンが顔をあげてぼくを見た。
「来てくれないかと思った」
そう言うと、ツンの目から涙が零れ落ちた。
「内藤、来てくれて、わたしのところに帰って来てくれてありがとう」
ぼくは後ろからツンを抱きしめた。

――そう、確かにぼく達の出会いの理由は最悪だった。でもそんなことは今はもう関係無い。ぼく達にとって重要なのは今、ふたりがどう思っているかという事だ。

ぼくは腕の中にいるツンにいたずらっぽく言ってみた。
「ぼくが来なかった時のためにモナーさんを呼んだんだおね?」
「ちっ、違うわよ!」
ツンがぼくの腕の中で急に振り向いた。
ぼくの目の前、10センチの距離にツンがいた。
ツンはやっぱり天使のように美しく、目にたまった涙でさえも真珠のようだった。
「だって、モナーさんは『失恋した時に話聞いてくれてなぐさめ上手』って言ってたじゃないかお」
そう言うぼくにツンは頬を赤くして言った。
「ば、ばっかじゃないの? そんな訳ないじゃない! モナーに来てもらったのは……、あ、あんたが失敗した時に直してもらう為よ!」
そうしてフン、とぼくから目を逸らす。
ぼくはツンのそんな、今まで通りの強がりと嘘が愛しくて、もう一度ぎゅっと強く抱きしめた。

(^ω^)
 それからの日々、ぼく達ふたりは夢のように幸せだった。
ツンはアルバムの録音が順調に進んでいるらしく、毎日、帰りは遅いが楽しそうだった。
「あーあ、《芸能界》なんてものが無くて、毎日レコーディングとライブで歌うだけならいいのに」
お風呂上りにそう言いながらぼくの前に座るツンの髪をぼくは結う。
「ツン、髪が伸びたお。明日の夜、お店に寄ってくれたら切ってあげるお」
そう、ぼくの生活にも変化があった。
ぼくはカットの試験に合格し、今ではお店でカットを担当している。
そして驚いたことに指名してくれる人も順調に増えている
「――あんたがあんまり喋んないからじゃない?」
指名が増えてる事をツンに言った時、ツンがそう指摘した。
「あんた、人見知りで最初はあんまり喋らないでしょ? わたしの時もそうだったじゃない」
その話をした時はふたりで夕飯を食べている時で、ツンはフォークでぼくを指しながらそう言った。
「そういえば、そうだお」
「でしょ? きっとお喋り美容師うっとおしー、って思ってる人があんたを指名してるのよ」
ツンはパスタに入っている海老をぱくりと食べる。
「うん、おいしー。もぐもぐ。でも、調子に乗ってくると意外とおしゃべりよね」
一匹目を飲み込むと次に手を伸ばしてぼくの皿からも海老を取り上げ、口に入れた。
「だから……もぐもぐ」
「だから?」
ツンはぼくを見たままごくり、と二匹目の海老も飲み込むと言った。
「だから、心配しなくてもその内減るわよ」
そうして、にっこりといたずらっぽい笑みをぼくに向ける。
その笑みにぼくはすっかりやられてしまい、彼女を見つめながらただ「あうあう」言うことしか出来なかった。

(^ω^)
 ある日、店の定休日に合わせてツンが休みを取ってくれて、ぼく達は海へ行った。
最初は、以前に約束したVIPシー行く予定だった。
しかし、家を出てから、お互いにそれが一時的にせよ別れる原因となった事を意識してしまい、目的地が近づくにつれ、二人とも言葉数が減ってしまった。
そんな時、運転中のツンが突然叫んだ。
「やっぱり本物の海がいい!」
そして、ツンは高速道路のVIPシーへの出口では降りずに、そのまま空港へ向かった。
それから、ぼくはあうあう言う間も無く飛行機に乗せられ沖縄へ飛び立った。
「さ〜、まずはお昼ご飯を食べて、遊んで夜ご飯食べて帰るわよ!」
沖縄空港のゲートを出たツンは張り切ってそう言う。
「ちょっ、日帰りなのかお!?」
ツンが振り返り不思議そうな顔で聞いてきた。
「え? だって明日、仕事でしょ?」
「それは、そうだお……。でも沖縄で日帰りって……」
「何か変?」
そう言えば、たまにツンが夜遅くに帰って来ると沖縄や北海道の名物がテーブルに置かれている事があった。
ツンに聞くと「うん、プロモーション中に貰った」と言っていたが、あれは現地で貰っていたのか。
そして、仕事で沖縄や北海道に日帰りで行くという事は、あらためて言う程では無い位、ツンにとっては普通の事なのか。
「ツン、すごいお」
「何がよ?」
思わず口をついて出た言葉に当然のようにツンが疑問を持つ。
ぼくはそんなツンの疑問を振り切って、声を上げた。
「何でもないお。それより、さっそくレンタカーを借りて海へ行くお!」
「おー!」
ツンも声を上げ、ぼく達は海を目指して出発した。

(^ω^)
 沖縄はすっかり夏みたいだった。
「二月とかでも、太陽が照り付けると暑い時があるわよ」
そう言って運転中のツンは窓を開けた。
風にツンの髪がたなびく。
「あぁ!」
ふいにツンが叫んで急ブレーキを踏んだ。
それからウインカーを点けて、ゆるゆると左へ車を寄せる。
車を停めると、何事かときょろきょろするぼくを置いてツンは車から弾けるように降り、ドアの間から顔だけを再び車内に入れて聞いてきた。
「内藤、飲み物は何にする?」
何の事かと思い、窓の外、ツンの後方を見るとそこには「タコライス」と書かれた看板を掲げたお店があった。
「タコライス……かお?」
ぼくが聞くとツンが明るく答えた。
「うん。お昼ご飯、これでいいよねー?」
ツンの勢いに、ぼくは頷き、飲み物にはコーラを頼んだ。
そして数分後、ツンは紙袋を2つ持って車に戻って来た。
「食料も買ったし、海に向けて再度しゅっぱーつ!」
ツンのそんな掛け声と共に車は再び走り出す。

「ちょっとー、ここは何処なのよ!?」
再出発してから数十分後、ツンがそう言いながらナビの画面をいじりまわしていた。
「そろそろ海のはずなのに、何でこんな森みたいな中にいるのー?」
やがて、車は小さな広場に出て、そこから先へはどこへも進めなかった。
するとツンが言った。
「もう! 内藤、降りるわよ!」
そして車を隅に寄せて停めて降りると、紙袋を引っ掴んで森の中へずんずんと進んで行った。
「きっと海はこの先よ!」
そんなツンをぼくは後ろから追いかける。
「ちょっ、危ないお、ツン。ハブがいるかもだお!」
「ハブ!?」
ぼくの言葉にツンが立ち止まる。
そして、「あんた、先に行きなさいよ」と言うとぼくを先に押し出し、シャツの裾を掴んで後ろをついて来た。
しばらく、森の中を歩き続けていると、かすかに波の音が聞えてきた。
「ツン! 海の音が聞えるお!」
ぼくはそう叫んで走り出す。
ツンは「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」と言いながらぼくを追いかけて来る。
やがて、森が途切れ、ぼく達は海岸に出た。
そこには青と白しか無かった。
蒼い海、青い空。
白い砂浜、白い雲。
そこにはぼく達の他に誰もおらず、波が打ち寄せる音と、引き波で珊瑚の破片が立てるシャラシャラとした音だけがそこに広がっていた。

(^ω^)
「誰も……、いないお」
目の前に広がる風景をただぼーっと見ながらぼくが言った。
「誰も……、いないわね」
ツンも同じように呟く。
「すごいお」
「すごいわ」
「プライベートビーチだお!」
「プライベートビーチね!」
ぼく達は笑い、手を繋いで波打ち際まで走った。
そして、そのまま海に飛び込もうと思った瞬間、ある事を思い出した。
そうだ、このまま夜には飛行機に乗って帰らないといけないんだ。
ぼくは波打ち際で急停止した。
ツンに「濡れたら飛行機乗れないお」と言うと、ツンは「そりゃそーよ」と言って笑った。
どうやら盛り上がって海に飛び込もうとしたのはぼくだけらしい。
そしてぼく達はいそいそと靴とソックスを脱ぎ、ズボンを膝までまくると、もう一度手を繋ぎ直して、膝まで海に入った。
風はほとんど無く、日光が熱かった。
そしてそれと対照的に海に浸かった足が冷たくて気持ちがいい。
「夏だお」
「夏ね」
ぼく達はそのままでしばらくいた。
――ぼくは目を細めて水平線を眺めた。
見えるのは海と空、聞こえてくるのは波の音だけ、そして手にはツンの手が握られていた。
今、ぼくの世界に存在しているのはぼくの他にはツンただ一人だけだった。
「まるで、世界にぼくとツンのふたりだけ、取り残されたみたいだお」
ぼくは水平線を見つめたままそう言った。
「――世界にたった二人、取り残されたとしても」
横でツンがぼくと同じように水平線を見ながら言った。
「一緒にいるのが内藤だったら。それでもいいよ」
そう言って、ツンはぼくの手を握る力を強める。
ぼく達はお互いの手を強く握りながら、もうしばらく、二人しかいない世界に居続けた。

(^ω^)
 それから木陰に入り、途中で買ったタコライスを食べ始めた。
「東京で食べると何かが違うのよねー」
そう言いながらツンはぼくの分を渡してくれた。
「いただきまーす」
ツンが食べ始める。
「もぐもぐ。うん! これこれ!」
そんな独り言を言いながらツンは食べている。
そんな中、ぼくはご飯の上に乗っている具を混ぜながらツンに聞いた。
「ツン、ぼくのには蛸が入ってないお?」
ハムスターみたいに頬を膨らませたツンが目を丸くしてぼくを見た。
「……内藤、もしかしてタコライス食べたことないの?」
それからぼくはツンからタコライスの講義を聞かされた。
「なるほど、それでタコライス! そういうのもあるのか」
ぼくは納得してタコライスを食べ始める。
うん。確かにそれは美味しかった。

(^ω^)
 食後、木陰に入ったままぼく達は休んでいた。
暗い木陰から見る蒼と白の世界はよりコントラストが高く、ぼくはやっぱりここが世界の全てだという気がしていた。
その時、ふいにツンの歌声が聞こえてきた。
横にいるツンが歌を口ずさんでいる。
無意識に歌っているらしく、海を見たまま、途切れ途切れに歌っていた。
そしてぼくはそんなツンをずっと見つめていた。
しばらくして、ぼくの視線に気付いたツンがぼくを見て「な、何よ」と言った。
「良い歌だお」
ぼくがそう言うとツンが目線を逸らして言い返した。
「あ、当たり前じゃない! あんた何かに褒められても嬉しくなんかないわよ!」
「うん」
ぼくは頷いてそれから聞いた。
「聴いた事ない歌だお」
ツンはまだ目を逸らしたまま言う。
「し、新曲よ。次のシングルカットになるやつ」
「ふーん。ほんと良い歌だお。シングル発売されるのが楽しみだお」
ぼくがそう言うとツンがすっくと立ち上がって言った。
「そうだ! 人もいないし、ここ、練習にいいわね!」
それから赤い顔をぼくに向けて言う。
「ちょっと歌の練習するから、特別に聴いててもいいわよ!」
そしてツンは深呼吸をすると波の音だけを伴奏に歌を歌い始めた。

(^ω^)
 ぼくはそこで始めてツンが生で歌うのを聴いた。
――ツンの歌声はぼくを撃ち抜いた。
直接に聴くツンの歌声は次元が違った。
CDで聴く歌でさえ、あれだけのものなのに。
録音技術がいくら進歩しようとも、やはりそこには圧倒的な壁があるんだとぼくは知った。
歌のうまい歌手、才能のある歌手、様々な歌手がいるが、ツンはぼくにとっては奇跡の歌手だった。
今までも歌を聞いて「かっこいい」だとか、「歌詞がいい」とか思った事は何度もある。
でも、ここまで心に直接に響いてくる歌は聴いた事がなかった。
歌詞だとか、曲だとかはもうどうでもいい存在にさえ思えてくる。
ただ彼女の歌声だけが、圧倒的な存在感でぼくに迫ってきた。
彼女の歌声がぼくを包み込み、そしてぼくを浸食していった。
まるで、ぼくの心の欠けていたピースを埋めるかのように、ツンの歌声がぼくにピッタリとはまった。

 窓の外を街の明かりが流れて行く。
東京に戻り、空港からの帰りの高速道路をぼくは運転していた。
横では軽く寝息をたててツンが寝ている。
ぼくは運転しながら、時々ツンの顔を見て幸せを確認する。
ふと、ラジオからツンの歌が流れ出した。
ぼくはツンを起こさない範囲で少しだけボリュームを上げた。
曲の終わりにDJが「今、ツンは新曲をレコーディング中! 発売はまだ未定だけど、みんな早く聴きたいよな!?」と言った。
ぼくは運転しながらひとり、にやける。
「ぼくはもう聴いたお」
そして、一方的に喋るDJに向かってそんな事を言った。

 ぼくはさっき聴いたツンの歌声を思い出していた。
そしてぼくはその時思った。
ぼくはあの歌声を忘れはしない、と。
そう、永遠に。

(^ω^)
 数日後、閉店後にツンがぼくの事をテレビの歌番組の録画に呼んでくれた。
収録はほとんど深夜だというのにスタジオには一般の観客が大勢いた。
ぼくはそれらの観客に混ざってツンの登場を待った。
そして、ADの「ではツンさん入りまーす。拍手をお願いしまーす!」という掛け声と共にツンがステージに現れた。
ADの言葉なんて必要なかったろうと思うほどの拍手と歓声。
ステージ上のツンはライトで照らされ、別世界の人のように見えた。
そして、演奏が始まり、ツンが歌い出す。
その途端に歓声が更に大きくなり、観客はみんな跳ねたり、手を振り上げたりしながらリズムを取った。
ぼくもみんなと一緒に足を踏み鳴らしながらリズムを取った。
そして、気が付くとぼくは周りの他の観客と一緒にリズムを取りながらも、目からは涙を流していた。
沖縄の海でツンが歌ってくれた時に味わった、ツンの歌声に包まれ侵食される感覚が再びぼくに降りそそいでいた。
それからふと、この歌声をこのスタジオにいる全員が聴いているのかと思うと何だか嫉妬した。
この歌声をぼくだけのものにしたかった。
でもそれは、どんなに深くツンと愛し合っていても叶わない願いだという事も知っていた。
「でも彼女はぼくが好きで、ぼくは彼女を手に入れているんだお」
歓声の中でぼくは小さく呟いた。
そして、いつかツンの歌さえもぼくだけのものにする事が出来るといいな、と密かに思っていた。

 収録が終わってすぐに携帯にツンからメールがあった。
ぼくはメールの指示通りに裏口に向かった。
しばらくそこで待っていると反対側からツンが小走りでやって来た。
そして、ぼくの腕をつかむと「早く早く」とぼくを引っ張って行く。
やがて大通りに出て雑踏に紛れるとツンが言った。
「へへー、また接待とか言うから逃げて来ちゃった」
「いいのかお? この前も行かなくて怒られたんじゃないのかお?」
「いいのいいの」
ツンはそう言ってにっこりと微笑む。
ぼくは「仕事なんだからちゃんとしないとダメだお」などと言いつつも、ツンが一緒にいてくれるのが嬉しくてしょうがなかった。

(^ω^)
 仕事から戻ってテレビを点けるとツンが出ていた。
ぼくは夕飯の用意を後回しにしてテレビの前に座る。
テレビの中のツンは大人気で、ぼくは彼らに再び嫉妬し、自慢したくてしょうがなくなった。
「ふふふ、君達は知らないけれど、ツンはぼくと住んでるんだお」
ぼくはテレビに向かって自慢してみた。
その時、鍵を開ける音と共にツンが帰って来た。
突然の鍵の音に驚いたぼくは何故か慌ててテレビを消した。
そして、わざとらしい位に明るく玄関にツンを出迎えに行った。
「おかえりだお! ご飯はこれから作るお!」
「しっ!」
ツンが閉めたドアに耳をつけて外の音を聴いていた。
「……何をしてるんだお?」
ぼくが小声で聞いてもツンは何も言わない。
しかし、しばらくするとドアから離れ、ぼくに振り向き真剣な顔で言った。
「写真週刊誌にバレてるかも……」

 ――そして翌週、ツンとぼくの関係は日本中の人が知る事になった。
写真週刊誌がぼく達の関係をスクープしたのだ。
マンションにはマスコミや野次馬が押しかけ、大変な騒ぎになり、ぼくもツンもマンションに帰ることは出来なくなってしまった。
幸い、ぼくは誌面では顔を隠されていて名前も出なかったのでマンションから離れていれば普通の生活を送る事が出来た。
しかし、ツンはそういう訳にはいかなかった。
ぼくはツンの事務所が用意してくれた小さなアパートで暮らし始め、ツンは「場所が決まったら連絡する」と言ったきり何処にいるのかぼくにも分からなかった。

(^ω^)
 ツンと離れて暮らすようになって一週間が過ぎた。
相変わらず、ツンからは連絡が無い。
携帯にかけても番号が変わっていた。
ぼくは何だかとても不安になった。
もしかして、このままツンと一生会う事は無いんじゃないか、と思ったりした。
いや、それどころか、今までのツンとの生活が全てぼくの見た夢だったんじゃないか、とさえ思う事がある。
 仕事の帰りに寄ったコンビニでツンが表紙のファッション雑誌が売っていた。
ぼくはその雑誌を手に取って表紙をまじまじと見た。
表紙の彼女はぼくに微笑みかけているが、その微笑みはぼくだけに向けられたものでは無かった。
ぼくは、その微笑みはぼくだけのものだと思いたくて、そんなファッション雑誌なんか読みもしないのに買っていた。
 家に辿り着き、テレビを点けるとそこにはツンが映っていた。
何かの歌番組らしい。彼女の登場と共に観客席からは大きな歓声が上がった。
テレビの中の彼女は相変わらず大人気で、ぼくはそんな彼らに前以上に嫉妬していた。
みんな、彼女がぼくと暮らしていたと知っているのに、それでも彼女は大勢の人から好かれている。
普通の人であれば、そんな事はありえないと思う。
そんな事を考えていたら、もしかしたらぼくは彼女を手に入れてなんかいないんじゃないか、そして彼女は永遠に手に入らないんじゃないかとさえ思った。

(^ω^)
 ぼくの不安が限界を超えそうになった頃、やっとツンから連絡があった。
「ツン? 大丈夫かお? どこにいるんだお?」
「今? フォックス・スターホテル東京。なかなか快適よ」
ぼくの不安や心配をよそに、ツンはしれっとそう言う。
「内藤はどうなの? 事務所の方で当面の家は用意したって聞いてるけど」
「うん、用意してもらったお。小さいながらも快適な我が家だお」
「そう、小さいんだ」
「神田川って感じだお」
「は? 何それ?」
「ちょっ、歌手のくせに知らないのかお?」
「ししし、知ってるわよ!」
ツンの声が一段高くなる。
「じゃあ、今度ここから一緒にお風呂に行くお」
「は? お風呂? 何で突然お風呂?」
ぼくは堪えきれずに笑いながら言った。
「ツン、やっぱり知らないんじゃないかお」
ツンが慌てて言い返す。
「し、知ってるってば! ちょっと度忘れしただけよ。あれでしょ? ほら、神田川沿いの露天風呂?」
ぼくは腹筋が痛くなるほど笑った。
そして、その痛みが今までのツンとの生活が夢じゃないんだと教えてくれた。
ひとしきり笑い、他の話をして笑い、ぼくが笑い疲れた頃にツンが言った。
「ねぇ、そうだ。肝心の話を忘れるところだった」
「何だお?」
腹筋をさすりながら聞くぼくにツンが言った。
「今回の事で、内藤にも知っておいてもらいたい事があるから、明日の晩ここに来てくれない?」

(^ω^)
 翌日の夜、お店が終わるとぼくはフォックス・スターホテルへ向かった。
ドアを開けてくれたツンに続いて部屋に入ると奥のソファーに社長さんが座っていた。
社長さんは無精髭を生やし、何だか疲れてるみたいで、心なしかスーツもよれた感じだった。
この一連の騒動で大変だったんだろう。
ぼくは一応、「こんばんはだお」と挨拶をしたが、社長さんはちらっとぼくを見ただけで何も言わなかった。
そんな社長の様子にぼくがツンの方を振り返ると、ツンが言った。
「この人が、今回の騒動の原因よ」
「お?」
まったく意味が分からなかった。
「どういう意味だお?」
聞き返すぼくにツンは社長さんを見たままもう一度言った。
「この人が犯人。わたしと内藤が一緒に暮らしてる事を写真週刊誌に教えたのはこの人なの」
「おー?」
やっぱり意味が分からない。
「今回の騒動が起こって、事務所の親会社が調査をしたの。何しろいきなりだったでしょう? 普通は直前でも何でも事務所に話が来るのよ。それで、親会社が調査したら、情報の出所がこの人だったって訳」
成る程、意味は分かった。でも今度は意図が分からない。
「そういうスクープって高く買ってもらえるのかお?」
ぼくがそう言うと突然、社長さんが叫んだ。
「違うっ! そんな理由じゃないっ!」
ぼくとツンは驚いて社長さんの方に振り返った。
「ツン――」
社長さんは座ったまま、ツンを見つめていた。
「俺は、君という才能が駄目になっていくのを見たくなかったんだ……」

(^ω^)
 そして、社長さんはその理由を語り始めた。
「俺は君を歌わせる為に何でもした。そう何でもだ。君の知らないところでも……」
それはツンも分かっていたのだろう。社長さんに見つめられていたツンは少し目線を逸らした。
「そして、君が歌うためにこいつが必要だと言った時にはそれを認めた」
社長さんがぼくを親指で指しながら言った。
「その時は別に何とも思わなかった。どうせすぐに飽きて別れると思ったんだ」
そう言って、社長さんは視線を床に落とす。
「だから、こいつが出て行ったって聞いた時は正直、嬉しかったよ。これで君に必要なのは俺だけになると思った」
床を見つめたまま、社長さんは静かにそう言った。
「――でも君はやっぱり内藤を必要とした」
社長さんの声色が変わった、そして顔を上げ、視線を床からぼくに移し、ぼくを睨む。
「お前に、ツンの髪を切ってやれ、と言いに行った俺の気持ちが分かるか!?」
ぼくに返事を期待しているわけでは無いことは分かっていた、だがどのみちぼくには返事をする事なんか出来なかった。
「それでも俺は、ツンに歌ってもらうためにそれだってやりとげた。いや、お前が来なくても、俺は何とかした」
社長さんの声が段々大きくなり、そして最後には叫んだ。
「お前は来るべきじゃなかったんだ!」
しばらくの沈黙。部屋の空調の音が低く響いていた。
「……だが結局、お前はやって来て、ツンは再びお前と暮らすようになった」
社長さんが小さな声で再び話し始めた。
それからツンを寂しそうな目で見て言った。
「そして君は堕落し始めた」
「そんな事……」
そう言って否定しようとするツンを拒むように社長さんが言葉を続けた。
「そんな事無い? 最近の君はどうだった? 打ち合わせは抜け出す、あいさつ回りは行かない。
 今は人気があるからいい。しかし、いつまでもそんな態度で仕事が来るほどこの業界は甘くない。
 だが、君もそんな事は知っていたし、歌を歌う為に君は嫌々ながらもそういった事もやってきた。今までは!
 今までは……な。
 そう、そして最近の君はさっき言った通りだ。
 じゃあ、君がそうなった原因は何だ?
 それはそいつだ、その男が原因だ。
 ならば、ならばその原因、そいつと別れさせてしまえばいい。
 だがツン、君の性格を考えれば、力ずくで別れされるのは無理だ。
 ならどうする? どうする?
 そう、二人が一緒にいられない状況を作り出せばいい。
 それで――
 二人の事を写真週刊誌に話した訳さ」

部屋を再び沈黙が支配した。

(^ω^)
 何も言えないぼくとツン。
そして社長さんがぼく達を見てにやりと笑って話を続けた。
「今回みたいな恋愛ざたで落ちた人気なんていうのはどうせすぐに回復する」
しかしその表情は突然、今までの自信に満ち溢れたものから不安へと変わり、声も呟くように低いものになった。
「……でも、あのままでこの世界からはじき出されたら?」
表情はさらに変わり怯えたようになり。そして社長さんは頭を抱えて吐き出すように言った。
「――この世界、一度はじき出されたらもうそれでおしまいなんだよ。そうなってしまったら、君の才能がどんなに素晴らしいモノだろうと、この世界には不要な物になる」
ほんの少し、沈黙があった。しかし、ぼくもツンも何も言えない。
「計画は順調だったよ」
社長さんがパッと明るい顔で言った。
「君とこいつは離れて暮らす事になった。そして、このまま引き伸ばせば、いずれ君はこいつの事を忘れてくれると思った」
しかし、次の瞬間、社長さんの表情が険しくなり、ぼくを睨んで言った。
「だがどうだ? 内藤、ツンが何て言ったかわかるか?」
ぼくは何も答えられない。ただただ、社長さんに睨まれながら立っているだけだった。
「ツンは言ったよ。『内藤と一緒にいたい。今のわたしには歌よりもそっちの方が大事なの。歌えなくなっても内藤がいればいい』と。聞いたか? 内藤!? 彼女は『歌えなくてもいい』、そう言ったんだぞ!」
長い間、社長さんはぼくを睨んでいた。
だが、やがて肩を落として呟いた。
「悔しかったよ。俺が惚れた才能の持ち主は、その才能を捨ててでもお前なんかといたいと思っている」
それからずっと社長さんは黙ってソファーに座ったままだった。
ぼくもツンも何も言えなかった。
こんな話を聞いて、社長さんをひどい奴だと思うかもしれない。
でもぼくは社長さんの気持ちが少し分かった。
社長さんも、ぼくとは方向が少し違っていたけれど、ツンの事を本気で好きだったんだ。
そして、どうしても自分の手に入れたかったんだ。
ぼくもツンのことを手に入れたいと思い、手に入れたと思っても、次の瞬間には本当に彼女を手に入れているのか不安だった。
しかし、その不安を消してくれたのは皮肉な事に社長さんだった。
社長さんが教えてくれた、ぼくのいない間のツンの言葉がぼくを不安から救ってくれた。
長い間ずっとぼくの胸に住み着き、心に絡み付いていた不安は今日、やっと霧散した。
――ぼくは確かにツンを手に入れていたんだ。

(^ω^)
 それから更に日は過ぎ、マスコミのツンへの追求もほとんど収束していたが、未だにぼくはツンとはたまにホテルで会うぐらいしか出来なかった。
以前のぼくならきっとまた不安になっていただろう。
でも、ぼくはツンを信じて待っていればいい。
ぼくは、今ぼく達を引き離しているこの事件によって、ツンを本当に手に入れた。
いや、以前からぼくはツンを手に入れていた。
ただ、ぼく自身がその事を信じきれていなかっただけだ。
でもやっと、ぼくはツンとそして自分自身を信じる事が出来るようになったんだ。
「もうすぐ新しい家を用意してもらえるから、そしたらまた一緒に暮らそう」
ツンがそう言った。
「今度の家は前よりちょっと広いのよ。大きいテレビとか買っちゃおうか?」
そして、今度はどんな部屋の配置にしようか考え始める。
「大丈夫なのかお?」
「何が?」
「こんな騒動になったけど、事務所はまたぼくと暮らさせてくれるのかお?」
「大丈夫、また『やめる』って言えばいいのよ。ほら、まだわたし人気あるし、それ位の我侭は通してもらえるわよ」
そう言ってツンは笑う。
そしてぼくはツンと一緒に二人の生活空間を想像する。
そうだ、柔らかいクッションを一つ買ってソファーの前に置いておこう。ぼくがツンの髪を結ってる間、ツンの足が痛くなら無いように。

(^ω^)
 ある日、ツンに会いに行くとドアからちょうど誰かが出て来るところだった。
ぶつかりそうになったその人をぼくは知らなかった。
でもその人はぼくの事を上から下まで冷たい目線でなめるように見た。
そしてその人はツンに振り返り、「じゃあ、これからよろしく」と言うとエレベーターへ向かった。
ぼくは部屋に入るとツンに聞いた。
「今の誰?」
「ん? ああ、新しい社長さん」
ツンがそう答えた。
前の社長さんはあの事件の責任を問われ、事務所とその親会社に損害を与えたという事で解雇になったらしい。
そして、親会社から送られてきた新しい社長がさっきの男だと言うことだった。
新しい社長の冷たい目線が頭にこびりついていた。
カマキリを人間にしたらきっとあんな感じだろうな、とぼくは思っていた。
そんなぼくに気付いたツンが言ってきた。
「何よ、あの人が気になるの?」
「そんな事ないお。ただちょっと怖そうな人だなと思って」
ぼくがそう答えるとツンはいたずらっぽい目でぼくを見て言った。
「あの人、やくざなの」
「ええっ!?」
驚くぼくにツンが笑って言った。
「冗談よ」
「なんだお。そんな冗談笑えないお」
「まぁでも、あの人っていうか親会社がね。結構、そっちと関係あるって噂。で、彼はその親会社から来た人だからさ」
何だか、本気なんだか冗談なんだか分からずに、ぼくは少し不安になった。
「大丈夫なのかお?」
「大丈夫よ。それに――」
ツンがぼくを下から見つめる。その瞳にはぼくが映っていた。そしてツンが言った。
「わたしが危なくなったら内藤が守ってくれるでしょ?」
そんな瞳で見つめられて、一体誰が断れると言うのか。ぼくは全身全霊をかけて返事をした。
「守るお! そんな奴からだけじゃないお! 例え世界の全てを敵に回しても、君のことはこのぼくが守るお!」
ぼくを見つめるツンの表情は柔らかく、ぼくはそれだけで舞い上がりそうだった。
そして調子に乗ったぼくは続けて言った。
「ぼくはナイト・ホライゾンだお!」
「……それ、」
そう言った瞬間。ツンの柔らかかった表情は一気に呆れ顔に変わった。
「騎士のナイトと内藤をかけてるの?」
「……そう……だお」
「………………」
沈黙の中、ツンの視線が冷たかった。
「……あの、さ」
「ぷっ」
しばらくして沈黙に耐えられずにぼくが何かを言おうとするとツンが小さくふきだした。
そして「ナイト・ホライゾンだって」と言うと笑い始めた。
どうやらつぼに入ってしまったらしく、ツンはこんなくだらない事で涙を流して笑っていた。
そんなツンの笑いにつられて、ぼくも一緒に笑った。
「あー」ひとしきり笑うとツンが言った。「くだらな過ぎて逆に笑えるわね」
「ふひひひひ」
結局その日は一晩中、ツンはぼくの事を「ナイト!」と呼び、その度にぼく達は笑っていた。

(^ω^)
 その日は朝からはっきりしない嫌な天気でぼくがツンのホテルに着く頃には雨が降り出しそうだった。
ぼくはすっかり顔見知りになったホテルのフロントに軽く会釈をしてエレベータに向かった。
するとフロントの人がやって来てぼくに言った。
「ツン様は昨日、チェックアウトされました」
「え? チェックアウトって、もうここにはいないって事かお?」
「ええ。お客様からあなた様に手紙を預かっております」
そう言って、彼はぼくに一通の封筒を渡した。
「ホテルを変えたのかお? あ! もしかして新しい家に引っ越したのかも知れないお! 今度の家は前よりも広いんだお」
ぼくはその場で封筒を開け始めた。
「それは楽しみでございますね」
「新しい家には大きいテレビも置くんだお」
「やはり新居にはテレビですね」
「それに、新しい家にはね――」
フロントの人とそんな会話をしながら、ぼくは封筒から中の手紙を取り出し、読んだ。
そこには、こう書かれていた。

  内藤へ
 やっぱりわたしは、あなたとは違う世界で生きているんです
 そして、わたしは歌を選びます
    さようなら

ぼくは自分の目を疑い、この47文字を何度も読んだ。
縦読み、斜め読み、一文字飛ばし。あらゆる方法でここに書いてある以外の結末を探した。
しかし、そこには他に何の文章も表れなかった。
どうして? 何で?
理由が分からなかった。
ぼくは頭が混乱し目眩がした。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
突然、フロントの人にそう言われ、気が付くとぼくはその場にしゃがみ込んでいた。
「新しい家には、柔らかいクッションを……、置くつもりだったんだお……」
ぼくは意味も無く、彼にそう言った。
そして、何とか立ち上がり、歩き始めた。
風景が全て灰色に見えた。
遠くでフロントの人が「大丈夫ですか?」と言っている声がしたが、ぼくはそれを無視してホテルを後にした。

(^ω^)
 歩いている間、ぼくが感じたのは悲しみではなく無力感だった。
結局、ツンにとってぼくはその程度のことだったんだ。
ぼくやっぱりツンを手に入れることが出来ていなくて、ぼくの信じた自分自身はまったく信じるに値しないものだった。

 家に着くと大家さんが嬉しそうにぼくを待っていた。
何でも今朝、この先五年分の家賃が先払いで振り込まれたそうだ。
「……手切れ金って事かお」
ぼくはそう呟いて、部屋に入った。

 部屋に入ると、以前に買ったツンが表紙の雑誌があった。
再び、ツンは雑誌やテレビの中だけの存在になり、ぼくの言葉に笑ったり怒ったりしてはくれなくなった。
ぼくはもう一度、ツンに笑ったり怒ったりして欲しかった。
――いや、例え笑ったり怒ったりしてくれなくてもいいから、ぼくのそばにいて欲しかった。

(^ω^)
 とにかくもう一度、話だけでもしたかった。
ツンが突然、別れを言い出した理由が知りたかった。
もしかしたら、何かすごく小さな誤解があって、それを解決しさえすれば、また元通りに戻れるかもしれない。
そうだ、きっとそうなんだ。ツンと直接話しさえ出来れば、ぼく達はまた一緒に暮らせるに違い無い。
 ぼくは毎日、仕事が終わるとテレビ局の裏口でツンを待った。
そこにツンが来るという根拠があったわけでは無い。
ただ、ぼくは他にツンを待つべき場所を知らなかった。
毎日、時には待ちながら眠ってしまったりもしながら、ぼくはほぼ徹夜でツンを待った。
しかし、いつまでも待ってもツンは現れず、ぼくの体はぼろぼろになり、精神はだんだんと荒んでいった。

 そうして、もう何日目か分からなくなったある日、一台のミニバンがぼくの前を通過し、テレビ局の建物の入り口の前で止まった。
そして、スライドドアが開くと、そこから一人の女性が降りて来た。
帽子を深くかぶり、大きなサングラスで顔のほとんどが隠れていたが、ぼくにはすぐに分かった。
――ツンだ。
ぼくはツンを見た。そしてツンもぼくを見た。ぼくとツンは視線を交わした。
しかしツンはぼくを見て一瞬驚いた後、すぐに何も無かったかのように入り口に向かって歩き出した。
その瞬間、ぼくはツンと話し合おうとか、誤解があったら解こうとか思っていた事を全て忘れて叫んでいた。
「結局! 君は、歌が一番大事だったのかお!」
そんな事を言った。
じゃあ、ぼくは?
ぼくはツンの為に、ツンと一緒にいる為に、今の自分の全てを捨てられるだろうか?
わからない。もしかしたら、そんな事は出来ないのかも知れない。
だから、これはただの我侭だ。
でも、その我侭はぼくの本当の気持ちだったんだ。
ツンはぼくの声にびくっと震え、その場に止まり、ぼくの方を振り返った。
ツンがサングラスの向こうからぼくを見つめる。
ぼくもツンを見つめ返すが、サングラスに隠されたツンの瞳はぼくには見えない。
しばらくの間、そうやってツンは一方的にぼくを見つめていた。
しかしやがて、ツンは何も言わずにテレビ局の建物の中に消えて行った。

(^ω^)
 それからぼくはツンの事を忘れようと思った。
ツンの事を忘れようと、早朝から深夜まで仕事とカットの練習に明け暮れた。
おかげでカット技術が向上し、ぼくを指名してくれるお客さんも増えた。
ショボン店長は「おいおい、早くも独立する気か?」と言って笑いながらも眉を下げた。
でもぼくは、そんな事には何の喜びも感じなかった。
ぼくにはたとえカットが巧くなっても、どんなに指名が増えても、その事を話して一緒に喜んでくれる人、あるいは「そんなのすぐに減るわよ」と意地悪に笑ってくれる人がいなかった。
ぼくはただ一人、寂しさと共に生きていた。
そして、ぼくはいつまで経ってもツンの事を忘れられなかった。
 そんなある日、かつてツンの事務所の社長だった彼がぼくのところにやってきた。
それは深夜、ぼくが店から帰って来て、家の鍵を開けている時だった。
「よぅ、久しぶりだな」
そう言って、彼は暗闇から現れた。
「何の用だお」
ぼくは不機嫌にそう言い返す。
すると彼は何の前触れも無くぼくに言った。
「ツンを助けてやってくれ――」

(^ω^)
「助けるって何だお?」
動揺するぼくに彼が続けた。
「色々とだよ。まぁ、それにハッキリ言うと、ツン、今日あの新しい社長にやられちゃうぞ」
「何でだお!?」
さらに動揺するぼくに彼は静かに言う。
「芸能界ではよくあること」
そして沈黙が流れた。
ぼくはどうしていいのか分からずに、こんな事を聞いた。
「……どうして、今日そんな事になるって分かるんだお?」
社長さんはぼくを見据えたまま言葉を返す。
「こう見えて俺は未だに人望があるんでな、馬鹿社長が誰かに言えばそんな話は回ってくるのさ」
「でも、ツンは芸能界って言ってもそんな事は無いって言ってたお……」
「ばーか、俺が全部食い止めてたんだよ。俺はあいつの才能を壊すような事は何一つしたくなかったんだ……」
社長さんが遠い目でそう言い、微かに微笑んだように見えた。
「まぁ、そうじゃなくても、そんな事するぐらいなら辞めるってのがあいつにはあったからな」
それから、鋭い目線で何かを考えるように話を続けた。
「それなのに最近のあいつは何かおかしい。まるっきり今の社長のいいなりで、俺に見せたような反抗心のかけらも無い」
「それは、威厳の違いじゃ……」
「馬鹿言え。俺はあえてそうさせてたんだ」
呆れたような顔でぼくにそう言い返すと、社長さんは寂しそうな表情で言った。
「――最近のあいつが輝きが失われつつあるように見えるよ。
 それが、新しい社長のせいなのかは分からない。
 でも今日、仕事のため、何かのためにそうするんだとしたら、あいつはきっと駄目になる。
 そしてこのままだといずれ、ツンの才能は死んでしまうだろうな」
社長さんの言った『死』という言葉にぼくはどきりとした。
そして社長さんはぼくに視線を向け、頭を下げて言った。
「だから、頼む。――あいつを助けてやってくれ」
その時、ぼくは思い知った。
彼が愛していた、いや、今でも愛しているのはツンのその才能なんだ。
それは歪んだ愛の形だったかもしれない。
でもこの人はこの人で、真剣にツンの事を想っていたんだ。
誰も彼のことを否定する事なんて出来はしないはずだ。
「でも、社長さん」
ぼくの言葉に、社長さんが肩をすくめて言った。
「もう俺は社長じゃないからな。ドクオでいいぞ」
「じゃあ、ドクオ……。そこまで想っているのに、何で自分で行かないんだお?」
「俺だって出来ることならそうしてる。……でも、きっとツンはお前じゃないとダメなんだよ」
そうしてほとんど睨むような目でぼくを見つめるドクオ。
そんなドクオに、ぼくは溜め息をつくと言った。
「……ぼくには無理だお。……ぼくはツンに見捨てられたんだお」
そう言ったぼくにドクオは冷たい目線を投げつける。
「――ツンがおかしくなったのはお前に原因があるんじゃないのか?」
「でも……」
何か言い訳をしようと口を開いたぼくに、ドクオは畳み掛けるように言う。
「お前、ツンに本気で別れようって言われたのか? その言葉を信じたのか?」
「………………」
ぼくは言葉を返せなかった。
そしてドクオがぼくにこう聞いた。
「それに、何より――、お前はそれでいいのか?」

(^ω^)
 ぼくはフォックス・スターホテルの裏にある小さな入り口のそばにいた。
入り口から少し離れた所にある大きな柱、その影に潜んで、すぐ横の駐車場に入って来る車をじっと見つめていた。
ドクオの情報では、今夜ツンと新しい社長はここに来るはずだという。
しかし、本当にそんな事まで分かるんだろうか? もしかしてぼくは騙されているのかもしれない。
――いや、例え騙されていたとしても構わない。
ツンと会って話が出来るチャンスがあるんだったら、何でも乗ってやる。
ドクオの言葉がぼくを行動させてくれた。
『お前はそれでいいのか』とドクオはぼくに聞いた。
そう、いつの間にか、ぼくは諦めていた。
一度去られただけでぼくは全てを諦めようとした。
ぼくはツンを手に入れていなかったと思い込み、全てを無かった事にしようとしていた。
でも、ぼくはまだツンから何の話も聞いていない。
ぼくはツンから直接に別れの理由を言われるまでは終われない。
ぼくは例え、それが最後になるとしても、もう一度だけツンに逢いたかった。
それだけを考え、ぼくはただひたすらにツンを待った。
そして、ぼくの前にツンが現れたのはそれから間もなくの事だった。
 フルスモークのメルセデスがホテル横の駐車場に停まり、運転席からはあの社長が、そして助手席からはツンが降りて来た。
社長が入り口に向い、ツンがその後に続く。
ぼくはここまで来ても、まだ目の前の光景が信じられなかった。
勿論、これはただの打ち合わせだという事も考えられる。そしてまた、ツンが本当に社長と愛し合っているという可能性も。
しかし、そうでは無い事はツンの様子を見れば分かった。
 入り口に向かって歩くツンが、ふと靴紐が解けているのに気付き、それを直すためにしゃがんだ。
止まったツンに、社長は「先に行くぞ」と言い、ツンを残して建物に入って行った。
ツンはのろのろと靴紐を直した。
だがそれもすぐ終わり、ツンは立ち上り、入り口に向かって再び歩き出した。
そしてぼくは柱の影からゆっくりと出ると、ツンを呼び止めた。
「――ツン」

(^ω^)
 ぼくの声にツンは足を止め、振り返った。
ツンの瞳はまたもサングラスに阻まれて見る事が出来なかった。
一体、彼女は今、どんな瞳でぼくを見ているのだろうか?
ぼくはそのまましばらくツンを見つめ、ツンもまたぼくを見つめ返していた。
まるで時間が止まったように思えた。
出来ればこのまま時間が永遠に止まってしまえばいい、ぼくはそんな事を思った。
そして、ぼくは聞いた。
「――ツン。ぼくはまだ、この前君に聞いた事の答えを聞いていないお」
そして、社長の入って行った入り口をちらりと見て言った。
「それに、こんな事、君は望んでいないんじゃないのかお?」
しかし、ツンは何も答えなかった。
そして、ぼくに背を向けて再び歩き始めた。
ぼくは離れて行くツンの背中に向かって叫んだ。
「ぼくは君の口からちゃんと答が聞きたいんだお!」
もう一度、ツンの足が止まった。
しかし、今度はツンは振り返えらなかった。
ぼく達二人の間の時間が再び止まった。
――やがて、ツンが口を開いた。
「この前のって『君は歌が一番大事だったのか』ってやつ?」
ツンは振り返り、サングラスの向こうからぼくに言った。
「ばっかじゃないの? あんたより歌を選ぶなんて、そんなの当たり前じゃない! ……それにこんな事、芸能界にいるんだから何て事ないわよ」
ぼくは、ツンのその言葉を聞いて全てを理解した。
「ツン――」
そしてぼくはツンに言った。
「君がそういう言い方をする時は、強がって嘘をついている時だよ」

(^ω^)
 ぼくのその言葉を聞いた途端、ツンが嗚咽を漏らした。
サングラスで隠れた目からは涙がこぼれている。
そして震える声でツンが言った。
「そうよ。――わたしに取って一番大事なのは内藤、あなたよ」
ぼくはツンに駆けより、その体を強く抱きしめた。
二度と離れないように、二度とぼくから去って行かないように。
「あなたと一緒にいたい……」
そう言って、ツンもぼくの体に腕を回す。
そしてぼく達は抱き合った。
強く強く抱き合った。まるで、その強さで今までの失われた時間を取り戻すかのように。
「さぁ、一緒に帰るお」
ぼくがそう言うと、どこからともなく拍手が聞えた。
そして続いて聞こえてくる声。
「愛の力ってやつか?」
そこにはいつの間にか戻ってきていた社長がいた。
ツンが驚き、ぼくから離れた。だが、ぼくはかろうじてツンの手だけは離さなかった。
「だが、残念ながらそこまでだ。お前にはそれ以上、何もする事が出来ないよ」
「どういう意味だお!?」
ぼくの質問に社長は冷たい目でぼくを見ながら言う。
「お前には何の力も無いって事だよ。お前に出来るのはせいぜいそうやって一緒に泣く事くらいだ」
「そんな事は無いお。ぼくはツンのためなら――」
「何でも出来る?」
社長がぼくの言葉を遮り、薄っすらと笑いながら聞いてきた。
「ふん。じゃあ、例えばだ。お前はツンに歌う場所を与える事が出来るのか?」
ぼくは言葉を詰まらせる。
「それは……出来ないお」
ぼくはツンを見た。ツンはサングラスを外し、濡れた瞳でぼくを見つめていた。
そして、ぼくは以前にドクオから聞いたツンの言葉を思い出した。
かつてツンは、歌えなくなってもぼくと一緒にいられるならそれでいい、と言ってくれた。
ぼくは社長に向き直り、彼を真っ直ぐに見て言った。
「――でも、ツンと一緒にいてあげる事は出来るお!」
それからツンに振り返り、ぼくは言った。
「ツン、もう歌を辞めてぼくと一緒に暮らそう!」
しかし、ツンはぼくを見て泣くだけで何の返事もしない。
「ツン?」
そして、そんなぼくを見て社長が笑いながら言った。
「残念ながら、お前にはそれすらも出来ないよ」
「どうしてだお?」
狼狽するぼくに社長が告げた。
「ツンは歌手を辞める事は出来ないんだ。――それもお前の為にな」
「どういう事だお?」

(^ω^)
 社長がポケットから煙草を取り出した。
それから一緒に取り出した金に輝くライターで火を点ける。
「確かに、ツンは言ったよ。『やめるから!』ってな」
社長はそう言って、一度煙を吐き出した。
そして、肺に残った煙と一緒に続きの言葉を出す。
「しかし、そもそもそんな言葉を言うこと事態が大きな勘違いだ。辞める辞めないなんてツンには決める権利は無いんだ。そんな事は事務所の決める事。ツンは事務所のモノで、すなわちそれはわたしの物なんだよ」
ぼくにはただ、この口から煙を吐く男を睨みながら話を聞く事しか出来なかった。
社長は続ける。
「でもまぁ、歌わせ続けるために彼女に手荒なマネをする訳にはいかない。彼女は大事な商品だし替えも効かないからね。同じ事を彼女にも言ったよ。『君には手を出さない』とね」
社長が横目でツンを見た。その目はやはり以前に感じたようにカマキリの目だった。
「――そしてわたしはツンに言ったんだ。『そういえば、君には専属のヘア担当がいたね』とね」
その言葉を聞いて、ツンがびくっと震えた。
同時にぼくも背筋が冷たくなるのを感じていた。
ぼくはツンが言った言葉を思い出した。『あの人、やくざなの』
確かに、今の彼の台詞にはそれを納得させるだけの冷酷さがあった。
ぼくは嫌な汗をかきながらも、必死で彼を睨み続けた。
そんなぼく達を見て、煙草を咥えた社長の口元が歪んだ。
もしかしたらそれは微笑みで、彼はぼく達の反応を楽しんでいたのかもしれない。
「それから、ツンに注意したんだ。『もし君が勝手にいなくなったりしたら、あのヘア担当が怪我をしたり、運が悪ければ行方不明になるかもしれないよ』とね」
社長が話を再開し、最後にまた口から大きく長く煙を吐き出すと言った。
「――以来、ツンは実に素直になったよ」
そうして社長はツンに目を向ける。
ぼくもその目線を追ってツンを見た。
ツンが泣いていた。
ツンのそんな姿を見て、社長は再び口元を歪ませた。
――ぼくの目の前にいるのは悪意そのものだった。
それから社長は煙草を投げ捨て、ぼくに言った。
「さぁ、分かったら大人しく帰りたまえ」
社長がぼく達の方に歩いて来た。
ぼく達は動く事も出来ず、ただその場に立ち尽くしていた。
そして社長がツンの腕を掴むとそのままツンを引っ張って入り口に向かって歩き出した。
ツンは逆らう事も出来ず、社長に引き摺られて歩き出した。
そして、ぼくの手からは、最後まで掴んでいたツンの手が離れて行った。

(^ω^)
 ツンがぼくの視界から消えようとしていた。
あのドアを越えたら、ツンはぼくの視界から永遠に消えてしまう。
このまま、ツンを行かせる訳には行かない。
ぼくは世界の全てを敵に回したって、ツンを取り戻さないといけない。
 そしてぼくは決意した。
その決意は後ろ向きな決意なんだろうか?
いや、後ろ向きでも何でも、それでツンと未来に向かえるんだったらそれでいい。
ぼくは、初めて手をつないだあの日と同じに、ぼくは再びツンを連れて逃げる事を決意した。
そしてぼくはツンに向かって叫ぶ。
「ツン! ぼくと一緒に逃げるお!」
ツンが振り返った。
しかし、社長がツンの手を強く引き、先へ先へとツンを連れて行く。
「無駄だよ。言ったろう? お前には何をする力も無い」
社長は振り返りもせずにそう言った。
ぼくは何とかこの状況を変えられないかと、無意識にポケットの中を探った。
すると、ポケットに冷たい金属の感触がした。
何時の間にこんな物をポケットに入れていたんだろう?
無意識のうちにツンのために用意したのかもしれない。
そして、これを使えば、この状況を変えられる。ぼくはツンと一緒に逃げる事が出来る。
でも、これを使ったらもう後戻り出来ない。今までのぼくの全てを捨てないといけない。
――でも、それでも構わない。
ぼくはツンといる為なら、全てを捨てられる。

 そしてぼくは社長の背中に向かって歩き始めた。
社長は背後から迫るぼくに気付かない。
ぼくは《それ》をポケットから出し社長の背中に向けながら歩き続けた。
そしてぼくは社長にぶつかった。
ぼくのハサミは音も無く社長の体に入って行った。

(^ω^)
 ツンが窓辺に座って外を見ていた。
ぼくはツンの後ろに立ってツンが見ているものを見た。
そこから見えるのは庭にある小さな花壇で、そこには赤い花が一杯に咲いていた。
花を見ながらツンが言った。
「引退したら、こんな風に庭に植えられた花を眺めて過ごしたいなー」
「あれは、何ていう花なんだお?」
ぼくが聞くとツンがしばらく考えた後に言った。
「……知らない。そう言えば花の名前とかほとんど知らないなー」
ぼくはツンに言った。
「じゃあ、花の勉強もしなくちゃだお」
ぼくの言葉にツンが振り返り、「うん」と言って微笑んだ。

 ぼくとツンは海沿いにある小さな別荘に泊まっていた。
昨日の夜、ぼくは社長を殺してしまった。
ぼくが社長から離れると社長はぼくに振り返った。
それから腰のあたりに刺さったぼくのハサミを社長は自分で引き抜いた。
そして、ハサミとぼくを交互に見つめ、二言三言何かを呟くと社長はその場に崩れ落ちた。
地面に倒れた社長の下に血が広がっていった。
ぼくは広がる血を眺め続けようとする自分の目をむりやり動かし周囲を見回した。
辺りには誰もなかった。
いるのはぼくとツン、そして死んでしまったであろう社長。
ぼくはツンの手を引くと走ってその場を逃げ出した。
それから、どうしたらいいのか分からなかったぼくを助けてくれたのはドクオだった。
ホテルに行く前に聞いていたドクオの携帯に電話をし、ツンを連れ出した事、そして社長を刺してしまった事を告げると、この別荘を貸してくれた。
「ここは会社とは関係無く、俺が個人で使っている所だから奴等にバレる事も無いだろう。とりあえずはここにいろ。三日後に様子を見に行く」
そうして、ぼくとツンはこの別荘にしばらく隠れる事にした。
しばらく、とは言ってもいつまでなのか、そしてこの先どうすればいいのかは誰にも分からなかった。

(^ω^)
 周囲には別荘が多く、リゾートマンションが建っていたり少し大きなスーパーがあったりして小さな避暑地の町という感じだったが、時期はずれのせいで人はあまりいなかった。
とりあえず、数日間は家から出ないようにしようと、スーパーに行って食料品や日用品を買い込んだ。
どんどんと一杯になっていくカートを押しながらぼくとツンはスーパーの中をくまなく歩いた。
何だかそんな事をしているとまるで今までの事が夢で、ぼくはツンと楽しく生活を続けているような錯覚に陥った。
そして、そんなゆるんだ気持ちでぼくがお菓子売り場でポテトチップを選んでいると、いつの間にかツンがいなくなっていた。
ぼくは慌ててツンを探す。名前を呼んで探す訳にもいかず、ぼくは無言でカートを押しながらスーパー中を周った。
さっきまで忘れていた不安が目の前を覆い、ぼくは再び悪夢の中に引き戻された。
カートを押して走りながら、視界を遮る商品の棚で作られた通路にひたすらにツンの姿を探した。
何本目かの通路を探した時、そこを横切るツンの長い髪が見えた。
ぼくは慣性の法則にしたがって前進しようとする重いカートを力ずくで方向転換し、棚にぶつかりそうになりながらもその長い髪を追った。
しかし、そこには既にツンの姿は無く、ぼくは息を切らせてその場に立ち尽くした。
孤独と不安がぼくに押し寄せ、ぼくは自分が暗闇に閉じ込められるような気がした。
その時、背後から何かがカートに入れられた。
ぼくは驚いて振り返る。
そこにはツンがいた。ツンは急に振り返ったぼくに驚いて言った。
「どうしたのよ?」
ぼくは全身の力が抜けそうなほどホッとし、思わずツンの頬に両手を添える。
「なっ、何よ?」
そう言ってツンが赤くなった。
ぼくも急に恥ずかしくなってしまい、ツンから手を離すと「なんでもないお」と言って、慌ててカートの中を見た。
そこには髪用のハサミや櫛、ピンなどの一式が入れられていた。
ぼくがツンに振り返ると、ツンはぼくを上目遣いに見て「ちょっと切ってよ」と言ってはにかんだ。

(^ω^)
 別荘に帰り、ぼくが食料品を冷蔵庫にしまっている間にツンにはお風呂で髪を洗ってきてもらった。
玄関にあった大きな鏡を一番明るい部屋に移動し、床に新聞紙を敷き詰めてぼくはツンを待った。
そして、バスローブ姿で部屋に来たツンにハサミに付いていたカットクロスを巻き、ぼくはツンの髪を切り始めた。
部屋にシャキシャキとハサミの音が響く。
ツンの髪に指を通すのはいつ以来だろう?
ツンの髪は相変わらず気持ちが良くて、こうしてツンの髪に触れている間、ぼくは不安も絶望も感じることは無かった。
「こうやって毎日、髪切ってもらえたらいいのに」
ツンが言った。
「それじゃあ、切る髪が無くなっちゃうお」
ぼくは笑って答える。
「じゃあ、そうね――」
ツンが考えながら言った。
「また前みたいに毎日結ってね」
「それならいいお」
「約束よ」
そうして部屋にはハサミの音が響き続ける。
「さて、じゃあもう一度お風呂場で髪を流すお」
カットが終わり、ぼくはツンにそう言った。
「内藤がやってよ」
「え?」
「え、じゃないわよ。内藤がやってよ。今回はトリートメントもするんでしょ?」
「そ、そうだお」
「じゃあ、お願いね」
そう言ってツンはバスルームへ向かった。
ぼくはツンの後を追ってバスルームへ向かう。
ツンがバスローブを脱ぎ始め、その白い肩と背中が露になったところでぼくは思わず目が釘付けになった。
しかし、ツンはぼくの視線に気付くと、その場で脱ぐのを止めてひとりお風呂場に入り、ドアを一回閉めるて数秒後に小さく開けたドアの隙間からバスローブを渡してきた。
そして、シャワーのお湯を出してしばらくすると「いいわよ」とぼくに声をかけてきた。
ぼくはドアを開けた。
そこにはツンがぼくに背中を向けて座っていた。
ぼくはシャワーを手に取り、少しだけお湯の温度を下げると、ツンの背後から髪を流し始めた。
シャンプーを使って軽くすすぎ、その後にトリートメントを髪に揉みこんだ。
そして、その間中ずっと、ツンの背中を見ながら、どうして羽根が生えてないんだろう? などと馬鹿な事を考えていた。

(^ω^)
 髪を流している間にツンの身体が少し冷えてしまったので、髪を流し終わった後にツンは熱いシャワーを浴びる事にした。
ぼくはバスルームに通じる廊下でツンが出て来るのを待った。
「お待たせ、ちょっと長くなっちゃった」
ほどなくして、ツンがそう言ってバスルームから出て来た。
「いいお。神田川気分だったお」
ぼくがそう言うとツンが「立場、逆じゃない」と言った。
どうやらいつのまにか神田川の事を調べたらしい。
ぼくはそれを調べているツンの事を考えて、何だかほほえましく思った。
「神田川と言えば、あの家――」
ツンの髪をドライヤーで乾かしながらぼくは言った。
「あの家にはもう帰れないお。せっかく家賃が五年分も払ってあるのにもったいないお」
そう言ってからぼくはハッとした。
昨日の事を思い出させるような事を口にした自分の馬鹿さ加減に嫌になった。
今は昨日の事なんか忘れて、ツンとふたりでいることを楽しみたかった。
しかし、ツンはぼくのそんな言葉を気にもせずにさらりと言い返した。
「いいのよそんなの。もう家賃を払う時に願った願いは叶ったんだし」
「どういう意味だお?」
ツンがまったく気にしなかった事と、突然の話にぼくは混乱して聞き返す。
「え? いや、いいじゃないそんな事……」
ツンはそう言って教えてくれない。
「でも……、気になるお」
ぼくがそう言うと、ツンは少し考え、それから照れくさそうに話し始めた。
「――あの五年分の家賃はね。事務所じゃなくて、わたしが自分で払ったの」
「ぼくは手切れ金なんだと思ったお」
「違うわよ。ばかね」
ツンが鏡越しにぼくに言う。
「じゃあ、どういう意味があったんだお?」
ぼくが聞くとツンが教えてくれた。
「五年分払っておけば、あんたは少なくとも五年はあそこにいるでしょう?」
「多分、そうなるお」
鏡の中のツンがぼくを見つめていた。
「それはつまり、その五年の間であれば、あそこに行けばわたしはあなたに逢う事が出来る。だから、よ」
「――ツン」
ぼくはドライヤーを止めて、ツンに抱きついた。
ツンは「ちょっと! いいからさっさと髪結ってよ!」とぼくに怒鳴った。

あるいはそれは、先の見えない自分達の未来に対する不安から逃れるためだったのかもしれない。
それでも、ぼく達はお互いの事だけを考えながらこうして三日間を過ごした。

(^ω^)
「ちょっ、ツン。それじゃあ髪取りすぎだお」
ぼくは鏡越しにツンに言う。
「だーいじょーぶ、大丈夫! 内藤のやるのをずっと見て勉強してたんだから巧く切るわよ」
その日はいつもと逆でツンがぼくの髪を切っていた。
「ちょっ、それ、髪の流れが……」
「もー、煩いわねー。黙って雑誌でも読んでなさいよ」
そう言ってツンはぼくに雑誌を渡したが、ぼくが最初の1ページをめくったところでツンがハサミを動かし、「あ……。ま、いっか」と言い、それ以降、その雑誌の2ページ目がめくられる事は無かった。
それでも、ぼくの髪を切るツンは楽しそうで、ぼくは失敗した所は後でこっそり自分で直そうと思い、なるべくツンのやりたいようにやらせてあげた。
「はい、完成〜。髪流すのとセットは自分でやってね」
そんなこんなで何とか切り終わり、ぼくは少しだけ自分で修正しようと小さいハサミをツンに隠し持ってお風呂へ向かった。
お風呂で髪を流し、服を着て髪を乾かすと鏡を見ながら修正のハサミを入れた。
そして、ハサミを再びポケットに隠すとぼくはツンのいる部屋へ戻ろうとバスルームから出た。
 廊下に出るとリビングの方から男性の声が聞えた。
ドクオが来たのかと思い、声をかけながらリビングへ入って行った。
「ドクオかお? ここはいい別荘――」
ぼくの言葉はそこで途切れた。
リビングにいたのはドクオでは無く、数人の男達。
ソファーにはツンが座らされていて、そしてその横には、ぼくが刺した社長が座っていた。
「久しぶりだな、元気だったか? 内藤ホライゾン」
社長がそう言ってぼくを見た。
「どうした? オレは死んだとでも思ったのか?」
ぼくは小さく頷いた。
「急所を外れたおかげで死にはしなかったよ。但し、しばらくこいつが無いと力が入らなくて歩けないがな」
社長がそう言って、横に置いてあった金属製の松葉杖を立てた。
「そう言う訳で、お前にはずいぶんと貸しがあるからな――」
ぼくの横に屈強そうな男がすっと寄ってきた。
「一緒に来てもらおう」
社長の言葉と同時にその男が何かをぼくの頭めがけて振り下ろした。
頭に大きな衝撃を受け、きな臭い匂いが鼻腔に広がった。
そして暗闇の中、ツンがぼくを呼ぶ声がだんだんと小さくなっていった。

(^ω^)
 気が付くとそこは車の運転席でどういう訳か体が動かなかった。
頭痛と吐き気がした。
「内藤っ!」
ツンの声がして、横を見ると助手席にはツンがいた。
助手席のツンは両手が後ろ手で縛られ、シートベルトが締められている。多分、ぼくも同じ状況なのだろう。
その時、反対側から声が聞こえた。
「お目覚めかね?」
声の主は社長で、ぼくの右側、開いたドアの前に立っていた。
どうやらここは屋外らしい、空は既に暗かった。
地面はオレンジのライトで照らされたコンクリートだったが、その先には突如として真っ暗な闇が広がっている。
「ここは……どこだお……?」
まだ、頭がくらくらしていた。ぼくは定まらない視点で必死に周りを見た。
フロントガラスから見える地面の先にも闇は広がり、その闇の中にはキラキラと何か輝くものが時々見えた。
「ここか? 港だよ」
社長にそう言われ、ぼくはもう一度周囲を見回した。
不気味に広がる暗闇は海、そして輝いているのは波に反射した港のライトだった。
そして、ぼくは社長の横に立っている男に気がついた。
「……ドクオ?」
そこにはドクオが立っていた。
ドクオが「よぉ」と言った。

(^ω^)
「どういう事だお?」
ぼくはドクオに聞く。
ドクオは肩をすくめるとぼくに言った。
「どうって、お前。逃げ切れる訳ねーだろ? だからさ、こいつと取引したんだ」
そう言ってドクオは社長を顎で指す。
「ツンだけは助けてくれるんだったら、お前の居場所を教えるってな」
そうだった――。
ドクオはツンの為であればそれぐらいの事はする男だ。
裏切られたという思いは無かった。
元々、ぼく達の間にそんなに深い信頼関係があった訳では無い。
それどころか、ぼくはホッとしていた。
これでツンだけでも助かるんだ、と。
「わかったお」
ぼくはドクオに言った。
「さて」
そこへ社長が割って入って来た。
「じゃあ、夜のドライブ・アンド・ダイブと行こうか」
運転席にいる理由と体が動かせない理由が分かった。きっとぼくは、このまま車ごと海に沈められてしまうのだ。
ぼくはツンに振り向き、言った。
「ツン、お別れだお」
ツンは泣きながら首を振った。
その時、社長がぼくとツンに言った。
「おぉーっと、残念。いや、逆に嬉しい知らせかな? 君達、お別れはいらないよ」
ぼくは言っている事が理解出来ずに、社長の方を向いた。
ドクオも訝しげな顔で社長を見やる。
そして社長が口を歪ませ、薄笑いを浮かべながら言った。
「お前達は二人揃って海に沈むんだよ」

(^ω^)
「どういう事だお!?」
ぼくは動かせない体で社長に詰め寄ろうと暴れながら聞いた。
「大体、ツンもそこに縛られてる時点でおかしいとは思わなかったのか?」
そう言って、社長はぼくとツンを縛っているロープの切れ端をぼくに見せた。
「これはな、海水に浸かると三分で解けるロープなんだ。便利だろう? 『人気歌手ツン、深夜のドライブでハンドル操作を誤り港から海中に転落!』そんな事故の偽装にぴったりさ」
そしてニヤニヤと笑いながら「まぁ三分もあれば大抵の人間は溺れ死ぬからな。そしてその頃には証拠は自然消滅」と言った。
その時、「てめぇ! 騙しやがったなぁ!」と言う叫び声と共にドクオが社長に殴りかかった。
しかし、すぐ横に待機していた部下にドクオは取り押さえられ地面に組み伏せられてしまう。
社長はドクオを見下ろしながら平然と言った。
「どうせ、もう歌わないとか言い出すだろ? でもこいつの才能を世間は放っておかないよ。後々、他の事務所に移られるくらいなら、今こうして保険金を頂いた方がうちの利益になるってもんだ」
それから「お前ももう用済みだ」と言うと部下に合図をしてドクオを何処かへ連れて行かせた。
「ツン! すまない! 俺は、俺は! でも待っていろ! すぐに助けに戻ってくるからな!」
ドクオは連れて行かれる間、そう叫び、それからずっとツンの名前を呼んでいた。
やがて、車のエンジンがかけられ、走り出す音がした。
しかし、しばらくするとブレーキのスキール音と共に車が何処かにぶつかる音が聞えてきた。
社長が面倒そうな表情で部下の一人に「見て来い」と言った。
そして、再びぼく達に振り返り言った。
「それじゃあ、次はお前達の番だ」
それからぼくに顔を寄せ、微笑んだ。
「オレは特等席から見させてもらうよ」
そう言って、別な部下に「オレが合図したら車をスタートさせろ」と告げると、社長は港の岸壁に向かって歩き始めた。
歩いている途中、振り向きざまに社長がぼくに言った。
「今から死んでいくまでの時間――、オレに歯向かった事を懸命に後悔するんだな」
そして、ぼく達の乗っている車のエンジンがかけられた。
ぼくは必死で体を動かして抜け出そうとした。
しかし、そんなぼくを見て、横で待機していた部下が言った。
「無駄だよ。シートベルトもロックされてる。知ってるか? シートベルト外れないと意外と抜け出せないんだぜ」
そして、社長が岸壁に辿り着き、こっちに向かって手を上げた。
まるでスタートフラグを振るスターターのように。
そして――、社長の手が振り下ろされた。

(^ω^)
 ギアがドライブレンジに入れられ、サイドブレーキが解除される。
車がクリープ現象でゆっくりと動き出し、ドアが閉められた。
ぼくは比較的自由になっている足でブレーキを踏んだ。
しかし、ペダルはまるで手ごたえの無いまま床に付き、ブレーキはまったく効かなかった。
車は徐々に加速し、そして真っ暗な海へと近づく。
ぼくはツンを見た。
ツンが泣いていた。
そして、前方には社長が口を歪ませたいやらしい笑みを浮かべて立っていた。
ぼくは思い出した。以前にもあいつはツンを泣かせた。
ぼくはあいつが許せなかった。
ツンを泣かせるあいつを許せなかった。
ただ、ひたすらにあの悪意が許せなかった。
――思えばこの時、ぼくは狂っていたのかもしれない。
ぼくはアクセルを踏み込むと、車を加速させた。
急に加速した車にあいつは驚いていた。
それでもあいつは再び笑った。
ぼくは更に車を加速させた。
そして、ぼく達を見ているあいつが近づいて来ると、口でハンドルを咥え、あいつの方向にきった。
ヘッドライトの明かりの中にあいつの引き攣る顔が浮かび、叫び声と共に消えて行った。
そして車は社長を踏み越えて走り続け、海に落ちた。

(^ω^)
 車はすぐには沈まなかった。
ぼくは何とか脱出しようと必死で体を動かした。
その時、ポケットに何かがある感覚がした。
体を捻り、縛られた手をポケットに入れると、そこには小さいハサミが入っていた。
ツンが切った髪を直す為にこっそりとポケットに入れていたあのハサミだった。
「ツン! ハサミがあったお! これで助かるお!」
ぼくはツンに叫び、不安定な体勢で必死にツンのシートベルトをハサミで切った。
ハサミは小さく、シートベルトは思ったよりも硬く、なかなか切れなかった。
そうしている間にも水はどんどんと車内に浸水して来る。
ぼくはシートベルトを切りながら必死でツンに話し掛けた。
「大丈夫だお! きっと、きっと助けるお!」
ツンは恐怖でただぼくをじっと見つめるだけで何も言わない。
水が胸を越えたあたりでツンのシートベルトが切れた。
「ツン! 次はロープを切るからこっちに手を向けるお!」
ぼくがそう言うとツンはぼくに言った。
「わたしは大丈夫、いざとなればこのままでも出られるから、先に内藤のシートベルトを切って!」
ツンにそう言われ、ぼくは自分のシートベルトを切り始めた。
ぼくはシートベルトを切りながらツンに言った。
「このままだと水圧でドアが開かないから、一度、車内一杯に水が入るまで待って、それからドアを開けるんだお!」
ツンが頷いた。
「ちょっと怖いけど、大丈夫かお?」
ぼくが聞くとツンが答えた。
「それぐらい何て事ないわよ! わたし、泳ぎには自信あるもんね!」
その顔は蒼白くて、とても無理しているのが分かった。
でもぼくはあえて言った。
「さすがツンだお! ぼくが溺れたら人工呼吸を頼むお!」
「ばっ、ばかね! 何言ってんのよ!」
そうしている間に水はあごにまで迫る。
そしてぼくも自分のシートベルトを切り終わった。
「切れたお! さっ、ツン、手をこっちに向けるお!」
シートベルトが無くなった事で水に浮き、かえって作業が辛かった。
それでもぼくは天井との隙間で必死に呼吸をしながらツンのロープを切った。
「よし! 切れたお!」
ぼくがツンのロープを切り終わり、そう言った瞬間、車が大きく傾いた。
そして、それと共に水位の上昇が一気に早まった。
「ツン、もうすぐ水が一杯になるお。ぼくはこのまま出るから海の上で会おうだお」
「うん。後でね」
ぼく達はお互い見つめあったまま水が一杯になるのを待った。
そして数秒後、一気に流れ込んで来た水で車は完全に水没し、海底に向かって沈み始めた。

(^ω^)
 車内が水没する直前に思いっきり息を吸えたので心に余裕があった。
まずはツンがドアを開け、車から脱出した。
良かった。ドアのロックまでは細工されなかったらしい。
ツンの脱出を見届け、続いてぼくも脱出する事にした。
後ろ手で縛られた状態から、何とかドアを開けて車から出ようとした。
そして、上半身を車から出した時、結構な衝撃と共に車が海底に着いた。
腕に何かがぶつかった感覚がした位で特に問題は無かった。
最初に思ったのは「ああ、結構明るいんだな」という事、次に思ったのは「意外と浅かったな」という事。
海の中は港のライトでずいぶんと明るく、さすがに水の中なのではっきりとは見えなかったが、見上げれば四、五メートル位上に海面が見えた。
きっと今頃ツンも海面に出ているはずだ。
ぼくもあそこ、ツンのいる海面に行こう。
そう思い、車を体から出そうしたが何か金属のような物が後ろで縛られている腕の内側にひっかかりそこから動けなかった。
もしかして、海底に着いた時の衝撃で車の部品か元々海底にあった何かが曲がったりしてぼくの腕の間に入ってしまったのだろうか?
しかも、それは自分の背後を通っているせいで振り返って確認する事も出来ない。
「何て事はないお。端っこから抜け出せばいいだけだお」
ぼくは焦る自分を落ち着かせ、見えない金属を手で触りながらその端を探した。
しかし、どっちの端も車の下に潜り込んでいて、抜け出す事は不可能だった。
「だ、大丈夫だお。腕が縛られてるから抜けないだけで、ロープを切れば脱出できるお。それぐらいの間なら息も持つお」
そしてその時、ぼくは気付いた。
――いつの間にか自分がハサミを落としていた事に。
そして、ぼくは観念した。
「せっかく助かると思ったのに、情ない最後だお」
それからあらためて思った。
「でも、ツンが助かったならそれでいいかお」
ぼくはライトで明るい海面を見上げた。
「あの光の中にツンはいるんだお。これからもツンは光の中で生きていくんだお」
ぼくは海の底から明るい光を見続けた。
もう息がもたなかった。
段々と視界がぼんやりとして来て、やがてぼくの視界は真っ白になった。

(^ω^)
 光の中に何かが見えた。
それは徐々に大きくなり、ぼくに近づいて来る。
何だろう? 光の世界からぼくを迎えに来た天使だろうか?
ぼんやり考えていた次の瞬間、唇にやわらかいものが押し付けられ、そして肺に空気が送られて来た。
そうして、天使はまた光の中を昇って行った。
だが、すぐにまた天使は戻って来てぼくの唇にやわらかい感触と、肺に空気を残していく。
途切れそうになる意識。だがその天使の送ってくれる空気のおかげでぼくは何とか意識を保った。
光の中、やってくる天使。
ぼくはその正体に気付いた。
ツンだ。
ツンが海面に浮上しては、息を吸い、再びぼくの所に潜って来ては口移しで空気を送ってくれているんだ。

 それから一体どれ程の回数、ツンはぼくに空気を送ってくれたんだろう?
段々と戻って来るのに時間がかかるようになってきていた。
海面で空気を吸い、泳いでぼくの所まで来て空気を送り、また泳いで海面に戻る。そんな事をしているツンはぼく以上に苦しいに違いない。
ツン。もう無理をしないでいいんだよ。これで君がどうにかなってしまったら、まったく意味が無いじゃないか。
ぼくはそう思うが、ツンに伝えるすべも無く、そしてツンはいつまでもぼくのために戻ってきた。
やがて、ぼくは縛られている手に異変を感じた。
手に食い込んでいたロープがゆるくなっている。
ロープが海水に溶け始めているのだろう。
ぼくは必死で手を動かし、溶け始めたロープを切ろうとした。
ツン、もう少しだよ。もう少しで一緒に海面に上がれるよ。
ぼくはツンから空気をもらい、手を動かし続けた。
やがてロープはゆるゆると伸び、そしてついに耐え切れずに切れた。
上を見るとツンがぼくに向かって来ていた。
ぼくは自由になった手をツンに向かって伸ばした。
ツンもぼくに手を伸ばし、そして二人、手を繋ぎ、海の中を光に向かってのぼって行った。

(^ω^)
 海面に上がると、ぼく達はまず思う存分に呼吸をした。
それからしばらくして息が落ち着くとぼくは改めて周りを見回した。
何時の間にか流されていたらしくぼく達は岸から結構離れた位置にいた。
辺りは時々波の音がするだけで、何だかとても静かだった。
そして、ぼくの隣にはツンがいた。
「歌で鍛えた肺活量が役に立ったわね」
ツンが微笑みながらそう言った。
「ツン、ありがとうだお」
ぼくがそう言うとツンが言い返した。
「何よ。あんたが『溺れたら人工呼吸してくれ』って頼んだんじゃない」
それから少し冷たい目をぼくに向けて言った。
「それにしてもあんなの想定外よ。中々上がって来ないから見に行ったら引っかかってるんだもん」
「ふひひ、サーセン」
そしてぼく達は笑った。
 その時、岸でちかちかと赤と青のランプが何個も点滅しているのが視界に入ってきた。
ぼくはそのランプの方を見るとツンに言った。
「ほら、ツン。岸を見てごらん。パトカーがいっぱい来てるお。きっとドクオが逃げ出して呼んだんだお」
「よかった」
それから、ぼくがツンに「行くお」と声をかけ、ぼく達は岸に向かって泳ぎ始めた。
しばらく泳いでいるとツンがぼくを呼んだ。
「ねぇ内藤」
その声は息が絶え絶えで苦しそうだった。
「どうしたんだお? ツン、大丈夫かお?」
ぼくは止まってツンを見た。
ツンはぼくを見て「うん、大丈夫」と言った。
だが、呼吸も浅く顔色も真っ青でとても大丈夫そうには見えなかった。
「ツン、もう少しで岸だからがんばるお!」
ぼくはツンにそう言い、何か浮きになる物は無いかと周りを見回した。
「うん。ねぇ、それより聞いて。……わたしね、決めたの」
ツンはきょろきょろと浮きを探すぼくの袖を引っ張ってぼくを自分に向かせると見るだけで切なくなるような瞳をぼくに向け、言った。
「わたし、もう歌わない」
「えっ!?」
驚くぼくにツンは続けた。
「わたしもう、人のためには歌わないの」
それからツンはまるで秘密を打ち明けるかのように上目使いでぼくの目を覗き込みながら言う。
「それでね」
「うん?」
「――これからは、自分と、内藤のためだけに歌うの」
そう言って微笑んだ次の瞬間。
ツンは海中へ沈んで行った――。

(^ω^)
 ――あの日、君の歌声はあの海へと消えて行った。
あれから一年。もう世間は君の事なんか忘れてしまったかのように次々と新しいものを追い求めている。
何だかちょっと、寂しいね。
でも、おかげでぼくは、やっと君を手に入れる事が出来たような気がするよ。

「はい! バーボンハウスです!」
夏の夕方、お店の電話が鳴り、ぼくは受話器を取るとそう言った。
「はい、そうですお。ええ、美容室ですお。はい、変な名前ですいませんですお」
ぼくはショボンさんのお店の二号店をまかされていた。
このお店の名前はショボンさんが、どうしてもこの名前だけは譲れない、と強固な姿勢で付けた名前だった。
「明日のご予約ですかお? カットでよろしいですかお?」
お店の場所は結構田舎で、敷地面積も広く、お店の奥は住居になっていてぼくはそこに住んでいた。
「はい、じゃあ明日の14時。お待ちしておりますお」
ぼくは電話を切ると、お店を閉店させた。
ここは田舎なので、夕方以降にお客はほとんど来ない。
店の片づけをして、帳簿をつけるとぼくは奥の自宅に戻った。
夏の陽は長く、空はまだ明るかった。

 庭の見える窓際に彼女は座っている。
ぼくは彼女に声をかける。
「――ツン。お待たせ、仕事が終わったお」
でも彼女は振り返らない。
窓際の椅子に座ったまま、庭を眺め続けている。
庭にはぼくが植えた一面の向日葵。ぼくが彼女に名前を教えてあげられる数少ない花の一つだ。
でも、彼女は向日葵を見てはいない。
――彼女は何も見ていない。
 あの日、水中に沈んでしまったツンは数分後に助け出されたが、既に意識が無かった。
それから数日後、彼女は目を開いた。だが目を開いたそれだけ。意識や意思といったものは彼女から無くなった。
酸素欠乏で脳細胞が破壊され、彼女は起きてはいるが植物人間同然の状態になってしまった。
彼女はもうこの世の出来事に何の反応もしない。
彼女に出来ることは、ただ車椅子に座っている事だけ。
そしてぼくはそんな彼女のそばにいる事しか出来なかった。

『世界にたった二人、取り残されても』いつだったか彼女はそう言った。
でもぼく達は逆に、たった二人、この世界とは離れた世界に来てしまったみたいだ。

彼女が唯一反応する事がある。
「ツン。髪が解れてるから結い直すお」
ぼくはそう言い、彼女の髪に指を通す。
そして、愛しいその髪をゆっくりと結ってやる。
ぼくが髪を結っているその間、彼女は天使のような笑顔でうれしそうに微笑む。

 ――ねぇ、ツン。この先、君がぼくに話す事はもう無い。
君の声はもう聞くことが出来ないけれど、ぼくの中で、君の歌は永遠だ――。


2007.5.15掲載


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