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  夜嵐おきぬ   役者買いに狂った末の犯罪

幕末から明治にかけて浅草を代表する毒婦


 『夜嵐の覚めて跡なし花の夢』の辞世の句を残し、明治5年2月20日小塚原の露と消えた美人が「夜嵐おきぬ」こと原田きぬだった。
きぬは房州の出とか城ヶ島の産とか謂れ、生国は定かではないが、江戸生まれという説が有力になっている。少女時代は寄席芸人として、手品や曲芸をしていたという。

16歳の時尾張屋の小春を名乗り、左褄をとった。その頃のきぬを見初めたのが大久保佐渡の守という那須烏山の大名で、きぬは小春から花代と改めて側室となった。安政4年に世嗣ぎを生んだが、佐渡の守が没した後再縁を許され暇が出たが、緑の黒髪を下ろし真月院と改め小梅の寮を譲り受け、佐渡の守の冥福を祈る生活を始めた。何もかもが平和で幸せに流れる生活の中、おきぬは何かしら物足りなさを感じはじめていた。



箱根の湯治場で


そんな生活の中、おきぬはある日箱根へ湯治に出かけた日がな何度かつかる湯にあたり、縁側でほてった湯上りの身体を昼下がりの初夏の風で涼ませていると、どこからともなくかすかな尺八の音が聞こえてきた。得も云われぬその妙えなる音色に、真月院も三味線を取り出し弾きはじめた。するとそれに追いすがるように尺八の音色が大きくなって纏わりついてきた。しばらく後、夢から覚めた心地で、上気した顔を縁側から音のしていた方へ出すと、二階からこちらを見ている若者がいた。

ほどなくその若者が、今業平の異名を持つ日本橋の呉服商紀伊国屋の伜、角太郎と分かった。湯治場での自由気儘さから、二人が結ばれるのは自然の明だった。

江戸に戻ってからも二人の中はしばらく続いた。おきぬの下げた緑の髪もいつしか、髷を結うまでになり、年若い角太郎の膝にもたれて酒の酌をさせる日が続いた。そんな折、角太郎に縁談が持ち上がり、何だかだと理由をつけては角太郎の足はおきぬから遠ざかっていった。


小林金平との出会い


角太郎との恋におぼれたおきぬは再び刺激のある芸者の生活に戻っていた。戊辰戦争が激しくなる頃、戦争で疲弊した江戸庶民の生き血を吸って大儲けていた金貸しを生業としていた小林金平なる男が、その頃足繁くおきぬのもとに通って来て、このドサクサで儲けた金で金平は明治2年におきぬを身請けした。そして浅草の歌舞伎三座からほど近い猿若町に妾宅を構えた。おきぬ26歳の時だった

金平旦那、普段はひどくごうつくばりで因業な取立てをするのに、おきぬのこととなるとまるで目の中に入れても痛くないほど可愛がつた。おきぬにだけはふんだんに金も与えた。

そんな折、猿若町の森田座に役者の送り迎えをする伊之助という芝居者が小林家に金を借りに来るうちに、小遣い稼ぎにおきぬに役者を次々と紹介していった。生来、多情な性質だったおきぬは金にあかして次から次へと役者を買いあさった。市川団蔵、尾上菊五郎、市川女寅、助高屋高助、坂東家橘など、当時の名優とは皆関係した。歌舞伎役者はそれが金づるで人気取りの手立てとしていた。今風ホストがその頃の歌舞伎役者だった。


運命の引き合わせ


おきぬの役者狂いが頂点に達したころ。伊之助が連れてきたのが上方下りの嵐璃鶴(りかく)だった。璃鶴の柔らかい上方言葉はおきぬの耳には新鮮に響き、歯の浮くようなおべんちゃらも、おきぬはまるで箱入り娘のように真に受けていった。とりわけ璃鶴は当時菊五郎と並ぶ美男子だったので、海千山千の生活をしてきていても面食いだったおきぬは、どんどんと璃鶴に入れ込んでいった。金を使えば使うほど入れ込むのが世の理であり、おきぬもその男地獄にはまっていった。まるで生娘のように璃鶴への思いを募らせ逢瀬を待ちわびるおきぬだった。

明治3年12月の雪の降る向島の料理屋「植半」の離れ座敷での璃鶴との逢瀬で、おきぬは璃鶴の膝にもたれていた。
『おきぬはん、わてのこと忘れたら承知しまへんで。でもおきぬはんには金貸しの立派な旦さんが付いてるさかいなあ。そやなければ、明日が日にでも夫婦になりとうござんす』
『親方、本当に旦那と別れたら、あたしをお上さんにしてくれますか』
『そりゃもう一も二もなく、そうしますがな。そやなければ誰がこんな雪の日にわざわざ向島まで来るもんですか』璃鶴は相変わらずありもしないべんちゃらを続けた。
『それが本当なら、うれしい。きっとですよ』
『当たり前ですがな、あんたに会ってからは、この世でおきぬ
さん以外おなごと思うたことありまへん』
『神かけて嘘はいやですよ』
おきぬの心は酒の酔いと、璃鶴の甘い言葉にうっとりと夢心地の境地を漂っていた。見上げると、金平旦那の脂ぎったしつこい顔とはあまりにかけ離れた、年下の璃鶴の美しい顔がこちらをのぞいていた。


 石見銀山
ねずみ獲り(いわみぎんざん-殺鼠剤)


おきぬは角太郎にムキになった以上に、璃鶴に入れあげていった。向島での逢瀬以来、おきぬの心にある言葉がむくむくと膨らんできていた。それは璃鶴がべんちゃらで云った「旦那さえいなければ、明日が日からでも夫婦になりとうござんす」、おきぬはとりわけ「旦那さえいなければ」という言葉を心の端にいつも持つようになっていった。「旦那さえいなければ」この言葉はいつしか恐ろしい思いに変わった。

伊之助にこのことを相談すると「旦那にいなくなってもらうのには、石見銀山を葛湯の中に混ぜるのが一番ですぜ。何で死んだか絶対に分かりっこありゃせんや」と、いう確信的なアドバイスを受けて、正月のある晩、おきぬは早速実行に移した。伊之助の云った通り、金平旦那は鼠のように参ってしまった。

その後、そ知らぬ顔で璃鶴との逢瀬を楽しんでいたおきぬだったが、世間でこ
の噂が取り沙汰され、明治4年5月末おきぬは捕らえられた。初めのうちは「粗相で葛湯に混じってしまったかもしれません」などと、うそぶいていたが「璃鶴にそそのかされての事だろう」と、問い詰められると、助けたい一心から素直に白状した。

その後、璃鶴も捕らえられたことを知らされたおきぬは「私の心得違いから親方にまで迷惑をかけて申し訳ない」と、涙にむせんだという。

 
刑の執行の延期


捕らえられ小伝馬町に繋がれた、おきぬはこの時、璃鶴の胤を宿して五ヶ月だった。子供を生むまでの間は刑の執行は延期された。
梅雨の六月、猛暑の夏を過ぎ、10月1日おきぬは璃鶴似の男の子を産んだ。身重の体で暑い夏を牢の中で、刑の執行を待つ思いは、芸妓上がりのおきぬにとって、どれほど過酷な思いだっただろう。
しかし、おきぬは自分のことよりも璃鶴の苦しさを思い、一日も早く親方が出所できますように祈っていたという。

子供が生まれたとき、すなわちおきぬが死ぬときでもある。まだ乳離れのしないうちに、母親との永遠の別れをしなければならない赤ん坊の無心な寝顔に頬をすり寄せ、おきぬは身震いしながらむせび泣いた。


夜嵐の覚めて跡なし花の夢

北風が吹きすさぶ2月の寒い夜明け、おきぬは小伝馬町の牢屋敷から、両手をわら縄で縛られ寝案駄という長細い竹篭の中に入れられ、小塚原に送られた。途中猿若町で森田座の前を通ると、役人が慈悲で「見えるか」と尋ねると、「はい」と、答えて幾度も幾度も身動きできない籠の中から振り返り涙にむせんだ。

刑場に着いたとき「最後に何か言い残すことはないか」と、役人が聞くと、「親方はどうなりましたでしょうか」と、身を乗り出すように尋ねた。死罪ではない璃鶴はまだ入牢中だったが、役人が気を利かし、「あれはお前、もうとっくに死罪になり、今頃は三途の川でお前を待っているよ」と、云うと「さようでしたか、わたしゆえに可哀想なことをしてしまいました」と、ふっとため息をつき、「夜嵐の覚めて跡なし夢の花」という辞世の句を残し二十八歳の短い生涯を閉じた。


首斬り朝右衛門の話


明治5年2月20日おきぬの首を刎ねたのは、八代目山田朝右衛門19歳の時だった。(この日を八代目は9月と勘違いしている)


晒し首にするので斬り方が非常に難しく、水平に斬らないと晒した首のすわりが悪く倒れてしまいます。
おきぬの場合は、失敗のないよう自分の愛刀、関の孫六兼光二尺三寸五分、幅一寸三分のものを使いました。大衆の面前で処刑するので、それはそれは気を遣います。

おきぬがいよいよ牢を出る時、他の女囚たちが別れを惜しんで、「おきぬさん、未練を残さず往生遂げなさいよ、これは私たちの志だから」といって、米粒の数珠を渡した。百八粒の米粒を見事に、こよりに通してありました。

おきぬは縄取り役人に最後に、「璃鶴さんはどうしました」と聞きましたが、まさか達者で生きているとも云えず、「おまえあれは蓮の台で半座を分けているだろうよ」といいますと、「わたしゆえ可哀相なことを致しました」とホロリと涙を流しました。
実際は璃鶴は3年で放免になり、市川権十郎となって大変な人気を取りました。これもおきぬの一件が幸いしたのでしょう。


浅草寺雷門


浅草寺も最近は中国からの団体でいっぱい
芝居通りの端 この辺まで連なって朝早くから多くの客で込み合った


回向院から見たコツ通り


芝居通りの端にチョウセン朝顔が化粧石鹸の匂いを漂わせていた
裏へ入るとこんな光景も
かっての猿若町の芝居通り
昔日の面影はなくわずか右に見える
藤波小道具という会社が残るのみ


反対から回向院方面を見たコツ通り
猿若町の芝居小屋は現在の浅草6丁目5と18〜21までに集まっていた

刑死された遺体を引き取った回向院       

この前の通りが通称コツ通り。
土を掘ると骨が出てきたことからこの名がついたとも云われている。明治14年7月廃止になるまで20万人以上の刑が実行された。
杉田玄白の解体新書がここの屍体の腑分けにより書かれた。


小塚原(こづかっぱら)塚原こづかっぱら


嵐璃鶴のち市川權十郎に改名
お絹との一件で有名になった

回向院

伝馬町牢屋敷跡

伝馬町処刑場跡

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