(論文1)昔の剣術と現在の剣道のスタイルは、なぜ異なるのか?

その歴史的変化を追ったレポートです。

身体技術伝承の近代化

-旧弘前藩領における近世流派剣術から近・現代剣道への変容について-  

小 山 隆 秀

  論 文 概 容

  近年、身体論について各分野で研究が積み重ねられ、一般にも様々な理論によるワークショップが普及している。本論は、剣術及び剣道を伝統的な身体技術伝承の一例としてとらえ、最新の剣道史研究の成果に文献史学、民俗学の手法を加えて、型を主とする近世以前の流派剣術と、防具打ち合い稽古を主とする現代剣道が、理念上、同根の伝統的技術とされながらも、現在互いに異なるパフォーマンスが存在している現状が、何故に発生したのか分析する。

  その具体例として弘前藩の剣技の歴史的変遷を取り上げる。近世後期、多用な技術スタイルであった弘前藩の伝統的な流派剣術群が、シナイ稽古の導入から変化し、やがては藩主主導による幕末の軍制改革「一統面仕合稽古」令(文久2年)をきっかけとして、幕府講武所及び小野派一刀流式のシナイ打ち込み稽古方法に強制的に画一化された過程を報告する。

  近代以降は剣技伝承の担い手が、解任された旧藩歴代の剣術師範から民衆へと転換しながら、仙台から定期的に弘前市元寺町柾木座を訪れる武術興業の一座や、青森市での「小野派一刀流面仕合」などの都市部から流行したシナイ(竹刀)稽古をベースに、明治初期から昭和初期にかけて、中央から派遣された武徳会師範等により、青森県津軽地方の剣技が、教育・普及活動に適した全国式の近代剣道スタイルへと次第に均質化していったことを論じる。

  よって、旧弘前藩の近世流派剣術と近・現代剣道との間には、既に近代初頭において技術面だけでなく、伝承者層においても歴史的な断層が存在しており、近・現代剣道は、近代以降の市民が形成した全国組織の身体観の影響が大きいであろうことを論じた。

  そのため、現在の我々は、近世剣術と現代剣道の両者のパフォーマンスを同質のレベルで評価する技術観を喪失しているが、両者が伝統的に同根であるという理念を合理化し、納得する必要性があるために、様々な新しい説明理念を生み出し、技術を使い分けしている現状が発生したのであろうと推測した。そしてその方法は、古態と観光用の2タイプのパフォーマンスを使い分けしながら伝承されている全国各地の民俗芸能の現状報告例と一致するといえよう。


論 文 構 成

  1 はじめに

  2 事例の概容

  3 問題の所在

  4 近世後期の弘前藩による剣技改革

  5 合同シナイ稽古令

  6 近代の技術統合へ

  7 身体の変容

  8 まとめ

    図 表


「身体技術伝承の近代化

-旧弘前藩領における近世流派剣術から近・現代剣道への変容について-」

                              小山隆秀

 

  一.はじめに

 ここ数年、「身体」をめぐる言説が多方面で見受けられる。従来、身体を対象とした学究は欧米の文化人類学が先行し、日本では湯浅康雄や山折哲雄、野村雅一らを始めとする哲学、宗教学、文化人類学、社会学、中世史学、美術史、演劇論等の扱う分野が主流であったといえよう(1)。しかし最近は一般にも関心が広がり、一九九〇年代には解剖学の養老猛司による「唯脳論」を始めとする社会論が、近年では教育学の斉藤孝による復古的な身体論を提唱する書籍やワークショップがあるなど、各所で「身体」の語句を冠した出版物が刊行され、静かなブームを呼んでいるような印象がある(2)。

 一方、民俗学における身体への眼差しは、渋沢敬三らによる日本人のしぐさに関する考察を始めとして、従来その多くを民俗芸能研究が請け負ってきたといえよう。芸能の背景となる由来や伝承形態、社会的機能、事例の分布地域の検討の他に、パフォーマンスの一部である楽曲や唄、テキストの分析について研究や報告を蓄積している。その中でパフォーマンスの中核である身体技法については、分解写真や動画によって現状を記録し、結語として「優雅」、「勇壮」、「激しい」といった調査者自身の主観による美的イメージや、「鎮魂」、「五穀豊穣祈願」という信仰や儀礼的要素に仮託してステレオタイプの説明を付与してきたことが多かったようだ。

 こうした中で近年のアプローチの中には、伝統的な稽古の場で発せられる隠喩的表現のアドバイス「わざ言葉」の機能分析や、技法修得の場のメカニズムを分析した人類学、教育学、心理学等の隣接諸科学による学際的研究がある。(3)。また身体技法の記録手段として、ルドルフ=ラバン考案の記号を組み合わせることで、身体動作の各パーツと方向、レベル、時間等を把握しようとしたラバノーティション法の検証がある。しかし表記体系の複雑さから、調査現場での記録や事後の再現が不可能であるという。他には、自治体による民俗芸能記録事業の現状と課題を提示して、「音」の視点から芸態の把握と分析を行うための精密な採譜技術を確立しようとする動きがある(4)。 また、各地の民俗芸能や祭礼行事の形態変化に関して、芸能の背景となるムラ社会の変容や芸能大会の開催を通じて、伝承者自身が古態を強く意識しながらも、現芸態が変化しつつあることを自覚している様子について詳細な分析がある。加えて近代から現代にかけて保存団体が創設され、情報化や観光化が進展するに伴い、芸態の地域的差異が消滅して均質化し、新たな担い手と権威、評価基準が誕生してきた状況についても多くの指摘があるという(5)。

 本論では、身体技術伝承の具体的なパフォーマンス変遷の分析において、聞き取り調査や参与観察調査等の民俗学の手法に加えて、特定のキーワードを手掛かりとして史料や伝承記録を援用することで時間軸を組み込む。その手続きを通じて近世期の在地の身体技術伝承が、幕末から近現代にかけて特定の体系へと画一化され、新たな権威性を獲得しながら国民的に普及していった状況を地域から報告し、付随する身体観変容の分析も試みたい。

 その分析対象として、由来と伝承経路が特定可能で、かつ技法自体を記録した歴史的なテキストが存在し、技法変化が時系列で追跡できる身体技術伝承として、近世期の流派剣術と近・現代の剣道を取り上げる。従来、これらの武術・武道は、特定の士分層の伝統的職分技術であるという一般認識があり、より広範な層を対象とする民俗学において扱われない。それのみならず、従来この分野の扱いには、当事者の世界観を強化補強するような特定の人物伝承や流派談義に拘泥して社会史的視点が脆弱であったといえよう。そのためか歴史学においても、近世期の各藩校教授システムの一環でありながらも、学芸や思想史分野の研究対象として取り上げられることが希であるといえよう。

 しかし近年、主に各大学体育学部武道教員や経験者らが、近世史や社会史の分析手法を導入した客観的な実証研究を進展させており、従来の当事者内の世界観による伝承を再検証して、抽象的な観念論に陥らず、現実の自らの実践経験を踏まえた着実な体育史や社会史の研究報告と実績を積み上げている(6)。

 それによれば、近現代の「武道」競技のベースとなった近代以前の「武術」群は、様々な階層の人々が散在した中世村落において宗教的要素を含みながら発生し、近世期には武士だけでなく地方村落住民や江戸町人層において護身術や呪術、公開性のある芸能、遊芸、儀礼として広範に受容されていたという。そのため武の様式を持つ芸能が各地に現存しており、近世村落の視点からそれらの芸能を見つめ直せば、組織的な近代武道の成立とその理念形成過程の再検討につながるという意見がある。(7)

 実際に、石川県金沢市の獅子舞に含まれる「棒ふり」が、幕末から近代初頭にかけて、加賀藩武術師範や武術道場主によって創始され、流派名を名乗りながら民衆に普及したものであるという。筆者も民俗のフィールドワークにおいて、武士層とは異なるムラ在住の旧家筋で所蔵されてきた武術伝書類を実見している。例えば、青森県下北郡の漁村佐井村牛滝集落で、近世期から旧南部藩山師として海運業にも携わってきた坂井家が、一八世紀前半に柔術伝書を授受している例や、山村川内町家ノ辺(通称「畑」)集落のマタギの家筋岩崎家において、近世期の武術系伝書を伝えてきた例を確認している。両伝書には、刀槍や捕縛の具体的技術が記されているが、実際の技術の用途や伝承経緯は不明である。また、近代以降の「武道」は、全国各地の青年教育や戦時下の学校教育として利用されたことも知られ、全国及び青森県内でもその活動を記す史料群が確認され、報告されている(8)。

 これらのことから「武術」・「武道」に付随する身体技術伝承は、近世から近代にかけての、我が国の広範な層に関わる身体論を分析する上で、好データを提供してくれるものと考える。

 本論では、近世期の流派毎の伝承剣技を「近世流派剣術」、明治初期から第二次世界大戦まで全国組織によって形成された剣技を「近代剣道」、戦後から現在にいたる現行のものを「現代剣道」として表記し、青森県の旧弘前藩領を中心として、それらの技術構造のベースとされる脚部及び腰部の剣技の具体的な歴史変化を追跡し、近代以降、全国的に規格化されていった身体について、地域の視点から再検証するきっかけとしたい。

   二.事例の概要

   まず事例のひとつとなる近・現代剣道の概要を説明する。今日一般に「伝統的武道」とイメージされる剣道は、近代初頭に弓道、柔道、空手などと共に全国組織「大日本武徳会」を創設した近代武道種目のひとつである。第二次世界大戦下で公的教育に採用されたため、戦後の一時期はGHQによって活動が禁止された。しかし戦後まもなく、全国組織「財団法人全日本剣道連盟」が発足、日本全国及び海外にも多くの支部を設立し、現在は学校体育にも導入され、各地で多くの競技大会が開かれて、男女を問わず幅広い年齢層の参加を伴う生涯スポーツとして定着している感さえある。しかしここ十年は、次々と誕生する新スポーツや「格闘技」と俗称されている新しい武的競技の流行のなか、剣道競技人口の激減が悩まれているという。

 現在の剣道連盟及び師範の多くは、剣道の理念として「(剣道は)剣の理法の修練による人間形成の道である」ことを標榜し、そのベースとして剣技と共に礼節や倫理を重視する近世期の「武士道」のイメージを引用することが多いようだ。このような従来の武士のイメージと実像の差異については、近世史学が分析を進めつつあるようだが、今もなお剣道に日本文化の特性や、子供の躾を求める人々は少なくないようだ(9)。 現代剣道の技術体系は、全国的に統一規定があり、それを遵守した稽古、試合競技、段位授与が行われている。概要を述べれば、競技者が剣道着と袴、規程の小手、面、胴、垂れの「剣道具」を着用し、刀剣の代用物とされる規定の形態の「竹刀」を用いて、二人の競技者が互いに定められた部位(小手・面・胴・突き)の打突を競うものである。他の運動競技と比較して特徴的な点は、試合ルール以外にも、用具の着装や礼法についても詳細な規則が設けられ、違反者は失格となる場合がある。現在これらの体系については「武道の伝統的形態」という一般認識があり、その変更がタブーであるといえよう。

 その一方で、近・現代剣道には前述のような通常の技術とは異質なパフォーマンスが存在してきた。時折、各大会の開会式などで演武される「形」の技術である。これは前述の防具類や竹刀を使用せず、木刀または模擬刀を持った二人組によって、あらかじめ定められた手順の技を行うものである。連盟公式の形を「日本剣道形」、近代以前の在地の中近世期成立の形を「古武道」または「古武術」と呼んで区別している。後者は近・現代剣道の古態を示すものとして説明されるが、実際の一般競技者の多くは稽古することが希であり、大会の儀式的存在として認識していることも多いようだ。しかし「日本剣道形」は近代初頭の中央剣道界師範によって、近・現代剣道の源流と理念をシンボライズしたものとして制定されたといわれ、現在も昇段時の必修試験科目や高段者の副次的稽古法で用いられる。

 これらを実見すれば、現代剣道の基本技術と形群の技法には多くの相違点が存在しているといえ、形の技術が現代剣道の稽古や試合の場で実際に用いられることは少ないようである。特に在地の流派剣術群の構えや攻撃部位は、現代剣道技術の禁止事項を多く含み、両者の技術上の隔たりは一層大きく見える。詳細について後掲の「表」を参照されたい。

 表中の三者とも、伝統的な技術とされて現形態の変更は忌まれ、互いに技法的差異を含みながら交わらずに並立して存在しているのが現状であるといえよう。そのためか、互いの具体的な技術上の関係性について当事者の中でも議論が分かれ、長年、近現代剣道界の課題として遡上しているようだ(10)。          

 表「技術差異の概略」中から、「3,足遣い」の技法について注目する。現代剣道には全国共通の基本技術テキストが存在し、全国各地ではそれに基づく「正しい基本」の指導、稽古、試合を行い段位を発行している。

 それによれば足遣いは、両つま先を正面に向けて右足のみ一歩前に出し、両かかとを僅かに浮かしてややつま先立ち、移動や打突時には必ず右前足から行い、すり足や送り足、踏み込み足等で行うことを基本としている(11)。

 これに対して形群は、全局面において通常歩行のような「歩み足」を用いることが多い。特に近世流派剣術群の技法には統一した規定が無いといえ、流派個別の技術伝承に分かれるといえよう。中近世期に発祥伝承を求め、近世期に全国各藩へと弘流した流派剣術伝書に記された足の技術伝承を示す。 

事例一 「亦云、他流にからす左足、ねり足などと云は、後の足をよせ、さきの足を早く□□ためなり。」(12)

 事例二 「其他千鳥足蟹足忍足進足抜足尺蠖足其外数足これあり。」(13)

 事例三 「足のはこびやうの事、つまさきを少しうけて、きびすをつよく踏むべし(中略)常にあゆむがごとし。」(14)

 事例四 「歩みは、(中略)常のごとくする<と何となき歩みよし。」(15)

  また現存の各近世流派剣術技法を実見すれば、両かかとを踏みしめて歩み足で移動したり、前足は左右どちらでも使い分け、両足を大きく踏み開いたり、後ろ足だけつま先を外側に開く「撞木足(しゅもくあし)」と通称される足遣いを多用しているようだ。

 つまり、足幅とかかとに注目すれば、現代剣道と流派剣術群は全く逆のことを行っていることになる。特に「事例三」の記述は、近現代剣道の昇段試験の記述問題にも引用されることが多く、講談や小説、映画で人気のある近世初頭の剣豪宮本武蔵の技法を記した「五輪書」であるが、足遣いが現代剣道の基本と著しく相違している(16)。

 このような足遣いの差異は、下半身のみならず、自ずと全身の運動構造全体に関わって、パフォーマンス全体の差異へと反映されている。両つま先を正面に向けて足幅を狭くとる現代剣道は、自ずと上体が正面向きで背筋が上方へ伸びた直立・腰高となる。その上に腰を前方へ入れ(反らせ)胸を張った姿勢を理想としている(図版1)。

 一方、足幅を広くつま先を外側に開く近世流派剣術は、腰が落ち気味で、上半身が「半身」や「一重身(ひとえみ)」と呼ばれる、正面へ対してやや斜め向きとなるものが多く、中には少し体を前傾させる流派もある(図版2)。

 では、このような技術上の相違を双方の当事者はどのように認識しているのだろうか。

 現代剣道では近世流派剣術の撞木足や低い腰を禁止している。その具体的な技術的評価としては、「(剣術のような)撞木足では、前方への踏み込みが遅くなり、外に開いた後ろ足を傷めやすい。」といったり、「両者の足の技法が異なるのは、剣術の殺人技術としての術から、剣道が活人剣としての道として昇華した際の変更である。」といった言い方がされて、剣術技法は好まれないようだ(17)。よって形全体への評価は、「殺伐とした時代のものであろう…」、「幽玄な趣の…」、「気迫のある…」といった全体の印象を述べるか、その開祖からの歴史説明に止まることが多い。最も多い見解として、「近世流派剣術が形のみの「華法」剣法へ形骸化したため、その打開策として竹刀稽古を主流とする剣道が発明された」とするものがある。

 一方、近世流派剣術からの現代剣道技法への評価は、「剣道がつま先立つのは、軽い竹刀を持って平坦な床の上での競技向きで、実際の戦闘では不整地で重い本身の刀槍を用いるため、腰を落とすべきである。」といったり、「剣道の足は瞬発力に頼った前後のみの直線運動だが、撞木足は全方向へ動け、瞬発力の衰えた老齢でも使える。」といった意の見解があるようだ。 また近年は近世流派剣術の撞木足が、伝統的な能や歌舞伎、民俗芸能や生業労働、インドや東アジア諸国の伝統的芸能群の足遣いと類似するしていることから、アジア世界特有の「ナンバ」と呼ばれる身体動作の一種と分析するブームがある。しかし筆者の管見の限りでは、いずれの指摘も両者の差異が明確になった後世の説明伝承であると考えられ、今後の慎重な検証が必要であろう(18)。

   三.問題の所在

  このように伝統形と現行技法の形態に差異があり、その具体的な連続性が不明となっている状況は、筆者の調査の範囲では、現代の柔道、空手、拳法の世界でも存在して、同様に論議を呼んでいるようだ。それらの技法的矛盾への対応もまちまちで、両者を別体系として認識して片方のみ習得する方法や、場面分けして併習する例も少なくないという。またここ数年の剣道や居合道、柔道、空手は、自由に技を掛け合う試合競技とは別に、定められた形の表演レベルを第三者の評定によって競う「形試合」を設けており、独自の優勝者を選出している。つまり現代の各伝統的武道種目の現場では、形技術と試合技術の二系統の技術を所持しながら、その関係性について曖昧な状況で運用している状況が存在しているといえよう。

 それではなぜ、同根の伝統的技術とされながら、現在異なる形態の技法群が並立しているのであろうか。その原因を、青森県の旧弘前藩領の近世流派剣術及び近・現代剣道の歴史的な技術変遷を例にとって分析したい。

 その際に近・現代剣道の技術的構造が、刀剣の代用品として自由打突稽古に用いられるシナイ、または竹刀の使用に大きく関わるという先学の指摘がある(なお本論では、竹製で打ち合い稽古に使用される刀剣の代用物として、近代以前の形態不詳のものを「シナイ」、近代以降の組織的に形態及び質量を規格化したものを「竹刀」と表記する)。特に足遣いの変遷については多くの先行研究があり、体育史学の長尾進によれば、近代剣道の有名師範が著した技術テキストの分析から、近世後期のシナイ稽古の流行から大正期の学校用団体基本教授法整備期にかけて、足遣いが平坦な道場内で、軽い竹刀をスピーディーに操作しやすく、団体一斉指導に向いた現行技術へと変形し、制度化されていったことを明らかにしている(19)。

 よって本論ではシナイまたは竹刀をキーワードとして、同藩剣技におけるシナイ・竹刀稽古の導入時期に着目し、それに伴う技術変化と身体観の変容について分析したい。従来、このようなシナイ・竹刀稽古の明確な導入時期と技術変遷のあらましに関する各地域の実態報告が、全国的に極めて少ない状況にある。そのため一般には、剣術から剣道への変遷過程が曖昧であり、関係者の間でも現代剣道の形態が、現状のままで古来から連綿と伝承されてきたというイメージが根強いといえよう(20)。

   四.近世後期の弘前藩による剣技改革

  寛政八年(一七九六)設立の旧弘前藩校「稽古館」には、「剣術教授方」などの武芸指南役が置かれた。現在、当時のバラエティーに富む武術流儀の伝書類が各所で発見され保存されている(21)。それらの中には、中世末期に日本各所で発祥し、近世中期以降に弘前藩に持ち込まれたという當田流、新夢想林崎流、小野派一刀流、卜傳流などの流派剣術がある。これらの流儀は近世後期当時においても、既に他藩では失伝していた古典的な流派であったといえよう。各々、独自の流祖と開基伝承をアイデンティティーとして掲げ、習熟度に応じて独自の技術伝承としての形、補助となる口伝、伝書類をライセンスとして段階的に授与し、伝承ルートとして複数の師範を抱えた点が、伝統的諸芸の伝承システムと類似する。反面、他流派と競合しながら近世期には技術交流や闘争を禁じたため、非常に閉鎖性の高い技術伝承であったようだ。そのため現在、各流の伝承実態を明らかにすることは難しく、藩の偶然記録や伝承史料、家々の伝書類や口伝承からおぼろげな外郭を判断するしかない(22)。

 それらの中から當田流剣術(棒術を含む)と小野派一刀流剣術の動向について取り上げたい。両流は一六,七世紀の発祥伝承を持ち、近世初期に全国的な伝播を見せた有名古流派であり、諸流の母体となったという(23)。現在も弘前市周辺部と東京都に、藩政期からの技術伝承が残り、毎年各種大会や弘前八幡宮大祭等で公開演武を行う。近年は、その偶像が流行映画「たそがれ清兵衛」や人気アニメなどで演じられて、根強いネームバリューがあるようだ。

 ただ、現存の形技法を見れば、當田流が独特の形態の木刀類を用いて、現代剣道とは異なる撞木足の低い腰構えを多用するのに対して、小野派一刀流は「鬼小手」と呼ばれる独特の防具と木刀を用いるものの、近・現代剣道に類似する直立した高い腰構えを多用している。その差異について両者の具体的なシナイ稽古導入時期とその影響から分析したい。

 まず、一九世紀の弘前藩史料群からは、各流派の稽古が、木刀や真剣、刃引き(刃部だけを落とした刀)の他に、竹刀の古型と思われる「撓」「袋竹刀」「シュ」などのシナイを混在して用い、個別のスタイルで打ち合い稽古を行っていた様子が伺える。

 「一 當流ニシナイヲ用ル事ハ、木刀當リ強ク疵付コト多シ、因テ互ニ労テ存分ニ打合コト成難シ、修行之実ヲ知ラス故、シナイヲ以テ存分之働ヲ教ルナリ、然モ韜ハカリ用テハ、ヲコタリ出調子拍子モ乱ルルユヘヲ以テ、仕形ヲ教ルニハ木刀ヲ用ル也

 一 免書ヲ授テ後、歯引ヲ用テ直剣之理ヲ伝スヘシ、歯引ヲ修練セスシテ直剣之位ハ知ヘカラサル也(以下略)」(24)

  なお、藩主前での剣術高覧は形(切組)が基本であったようだ(25)。ところが同時期の藩庁記録に、藩主寧親の剣術高覧で「しない(シナイ)」と防具類を用いて打ち合う「仕合」を始めた記録がある。

 「(略)文化九年(一八一二)十二月八日、御目付方より御用之義申参罷出候処、しない弐本頂戴被仰付候、其節被仰渡候には、此末席高覧ならひ三組頭御見分之節、仕合之義右しないに而仕合いたし候様 被仰出、稽古之義は是迄通と被仰付候、」(26)

 とあり、藩主が二本の「しない」を藩士へ恵与し、剣術高覧で用いて「仕合」することを命じている。この「しない」を用いた稽古は続行され、四年後には、

 「文化十三年(一八一六)三月七日

 一、武田弥学申出候、頬面仕合しない日ゝ之様二痛損候間、木刀同様二仕置候処、拳痛メ、仕込稽古方支相成候間、細キ手袋相用執行致せ候間、高覧并組頭中御見分之節、右手袋用せ度義、伺之通、」

「文化十三年(一八一六)三月七日

 一、武田弥学申出候、千年しない頂戴之節より、門弟剣術放仕合頬面相用稽古二付、此度高覧之節、右頬面相用度儀、伺之通、」(27)

 とあり、藩士武田弥学が、門弟にシナイ稽古とみられる「頬面仕合」、または、「剣術放仕合」をやらせ、藩主からもらった「しない」を破損した。その代用として木刀を用いて拳を痛める。そこで「細キ手袋」を右手に、かつ「頬面」の装着も認めてもらって藩主剣術高覧に臨みたいと申請している。これらの仕合や道具類の形態は不明である。ただ、破損「しない」の代用として木刀で稽古せざるを得なかったということから、この「しない」が、前述の藩内で通用していた各流派用シナイとは異なる、藩主ルートのみ入手可能な稀少品であったことが伺える。 その後もシナイ稽古の工夫は継続され四年後に、

  「文政三年(一八二〇)三月四日

 一、武田弥学申出候、門弟剣術しなひ仕合高覧相済候処二而、木刀江たんほ附頬面并小手相用候仕合、千年より仕込罷有候間、右仕合高覧被仰付度儀、伺之通、」(28)

 とあり、前述の武田による「しなひ仕合高覧」の後、数年来実験中という木刀へ「たんほ」をつけ、「頬面」と「小手」を着用した仕合を高覧してもらいたいという。なお、この武田弥学は藩主と同門の小野派一刀流師範と考えられ、「弥学氏ノ稽古場ハ繁リ」と人気を呼んで門弟が集まったという(29)。同流は近世初頭から幕府及び弘前藩主の指南役となり、第二次大戦前後には、弘前出身の元国務大臣故笹森順三によって全国へ弘流され、中央の近現代剣道界において多くの師範が修得した全国的有力流派である(30)。

 一方、この「しなひ仕合」に反対する流派も存在した。成立期がより古い中世末期とされる當田流である。

  「文政四年(一八二一)十月廿三日

 一、戸田茂太夫申出候、山崎半蔵儀、私親形左衛門門弟二而、当田流伝来之上、師範方伺之通被仰付候処、当月十三日、御見分之上、仕合切組帳差出候趣承知仕候、当流往古より、当田清源より制式二而、仕合之儀、決而不相成法式二御坐候間、御差留被仰付度義、申出之通、

 同日

 一、山崎半蔵門弟、剣術・和術御見分二付、仕合組差上候処、戸田茂太夫より御差留之義申上候由、私義は同人親行左衛門より、伝来死合と書候は、本意二候得共、仕合と同唱二而、常は仕合共相認、門弟為励合稽古為致、且利方難相顕候間、仕合仕込罷有候、年来之心懸二御坐候間、高覧并御見分之上、仕合込差出度儀、難被仰付候、」(31)

  同流は藩内歴代有名師範を輩出してきた老舗であり、伝系は小野派の母流のひとつにあたるといわれる(32)。シナイ稽古について同流師範戸田茂太夫は、流祖以来の教条で「仕合」は「死合」が本義として父左衛門から、山崎半蔵ともども教導されてきたことから、茂太夫と半蔵は教条を守って仕合高覧の断りを入れたいことと、山崎だけは普段門弟に仕合を稽古させているが、その効用を示しにくいことから同様に仕合高覧を遠慮したいという旨を述べる(33)。しかし実際にはシナイ稽古について、茂太夫が完全否定、山崎が一部導入を試みていることから、両者の態度は必ずしも一致していない。数年後にはついに山崎派當田流が導入に踏み切った。

  「文政七年(一八二四)二月朔日

 一、御馬廻山崎半蔵儀、当田流剣術右流儀江は、仕合無之候得共、同人存念二而、内ゝ小手・竹具足等相用、仕合稽古いたし罷有候間、已来見分等之節、仕合も見分致候様被 仰付候間可申付旨、御目付へ申遣之、三組頭江も申遣之、」(34)

  山崎は、以前から流儀の原則に反して個人的試みで「小手」、「竹具足」を用いたシナイ稽古を実験しており、それを藩主高覧でも行なうように命じられた。当時藩内ではシナイ稽古が小野派である藩主津軽寧親主導のもと、否定派まで切り崩す影響力の強い存在となり始めていたことがわかる。

 この後まもなく江戸へ登り、当時全国諸藩へと流行し始めていたシナイ稽古の中枢で、小野派と同系である中西派一刀流のもとで、シナイ稽古を学ぶ藩士が続出したようである(35)。その契機となったのが、小野派の山鹿高厚と同系の梶派一刀流須藤半兵衛の二名の藩士であった。山鹿家は代々藩主の小野派一刀流剣術指南役であり、父高美の代から竹刀稽古のメッカ中西家と交流していたようだ。形稽古派須藤は、シナイ稽古派高厚とシナイによる「道具附の稽古」で立ち合い、

  「(中略)間合によって組ても見んと、やつと云て立合ひし砌、真向を打たるれば大石を打たるか如く、小手をうたるれば伐れたるか如く、腹をうたれて五臓にひびき、堪へかねたるに、面の懸あり、組まんとすれば突のめされ、係付くこと能はず、立つこと能はず、首ヲかけられてハ、二三間も倒さる所、詮立合ふこと成り難し、帰るさに及で手足痛んて自ら帯すること能はず(以下略)」

 と高厚に敗北し、「素面稽古の達者」という自負を打ち破られ、高厚を「道具附きの稽古に於いては弘前藩中此人に勝る者よもあらじ」と賛嘆して門下となり、江戸修行へ出立したエピソードが各史料に散見する。その後須藤は、天保期から慶応期にかけて、弘前藩におけるシナイ稽古推進派の中核的役割を果たしたようである。これらの伝承記録は、当時の藩内一刀流勢が、新技術シナイ稽古へ驚愕し、江戸の中西派と藩内小野派の交流を契機として急速にシナイ稽古を導入していった状況をシンボリックに示すものといえよう(36)。

   五.合同シナイ稽古令

  ついに、文久二年(一八六二)には藩主承昭が、全藩士へ合同シナイ稽古を命じる「一統面小手稽古」令を布告し、シナイ稽古が藩公式稽古法として全流派へ徹底されるようになる。

  「二月二十四丁丑日曇(中略)

 一 御自筆之写左之通、武芸之義

 御先代様より段々被 仰出有之上者、今更申述候儀ニ及不申候得共、何れ茂存之通、近来之形勢ニ而者、何時如何様之事変相生候哉茂難計、武芸相励候様致度存居候、然処此度家中之面々、武芸一際相励せ、尚又剣術之儀者、一統面仕合稽古為致候様、大殿様より改而被 仰出有之、御尤之御儀難有事ニ候、極而家中之面々、流儀不拘面仕合致稽古候様申付候、 

 右二付約二用懸申付候間、用懸之者は別而、厚差含致取扱候様、其外頭二而茂、弥々心得取世話致、家中之面々茂申付候通、実意稽古致出精候様、万一非常之儀有之候而茂、国辱二不相成候様可被心懸候、猶又大成之儀者、職勢茂違候得共、小身之亀鑑二茂相来候間、別而心得可有之事二候、委細之儀者家老共より可申達候也

 二月 口達

 御家中武芸稽古之儀、前々被 仰出有之、別而亥江丑年異国船浦賀江渡来致、度々厳重被 仰出有之候得共、今以怠慢之族有之旨達、御聴今度、御自筆御書付を以被 仰出候通、当節之形勢不容易儀、各々茂存之通、何時非常之儀有之哉茂難計、公辺二而者、先年より講武場被差立、面仕合致稽古候様、御世話有之、尚又此度小野次郎右衛門殿趣意申立之趣茂有之、勝負合者流儀二拘候儀二者無之、全執行寄候儀二付、此度別段以思召剣術之儀者、流儀二不拘面仕合改致稽古候之様被仰出、尚又於大手先御用地稽古所御取建之上、御家中一般寄合面仕合稽古被 仰付、槍術之儀茂同様、寄合仕合稽古被仰付候、 尤銘々流儀格法之儀者、是迄之通相心得候之様被仰付候、依之当筋之面々者勿論、嫡子二三男二至迄壮年之族別而打込稽古いたし候様、(中略)

 二月  御家老、一 武芸引担之組頭江相渡候覚書、左之通

 覚

 武芸稽古之儀二付、別而近年度々厳重被 仰出有之候得共、今以実用之稽古致り、兼殊二芸道巧拙并精惰之御吟味茂、御行届難被茂候二付、此度別段之以委細口達書を以申達候通、剣術之儀者流儀二不拘、面仕合改稽古候様被 仰出而、又於大手先御用地稽古所御取建之上、御家中一統寄合面仕合稽古被 仰付、槍術之儀茂同様寄合仕合稽古いたし候様被 仰付候間、銘々流儀二泥着いたし、先祖先師江対し為何二有之候様存込候族可 有之様、執行者新古流儀二不拘実用趣立候儀専一之事二付、含違之族有之候者与得致教諭、当今之時勢不容易被 仰出候条厚差含、是迄是姿一変いたし、一同実意稽古相励候様可被取扱候、右二付稽古規則等精々評儀之上中出候、尚又相励候趣意有之候者、品々

 寄壱人限り申出候儀茂不苦旨被 仰出候以上

 (中略)一 此度別段以、思召剣術之儀者、流儀二不拘一同面仕合稽古被 仰付候二付、是迄一面仕合無是候、師範家別紙之面々江面仕合稽古道具四人分充被下置候、此旨可被 申通旨、御目付江申義之武芸取扱組頭江知を申義之勘定奉行江茂申義之別紙左之通山田又一郎、山田仁十郎、武田元之助、浅利万之助、唐牛甚右衛門、成田捨蔵、小山儀三郎、今鉄次郎、戸田八十八、白取惣次郎(以下略)(37)

  この布令で藩は、「合同シナイ稽古」導入の目的として次の点を掲げている。①欧米諸国への対外危機から「実意」を想定した武芸稽古の必要があり、剣槍術は新古流儀に関わらず、流派を超えた「寄合」の「一統面仕合稽古」を行うこと。②統一稽古が「各流派のメンツや流祖の教えと相違する」と考える藩士があるが、そのような旧習に拘泥せずに行なうよう各師範がよく説得すること。ただし流派名の区別だけは、従来通り存続して良いこと。③特に壮年の者は「打込稽古」をすること。

④全流派合同のシナイ稽古は、幕府設立の軍学所「講武所」の方式であり、幕府及び藩主の剣術指南役小野派一刀流小野次郎右衛門の意向でもあること(38)。などの項目を挙げて、全藩士へ徹底することを示し、各流師範に四人分の「面仕合稽古道具」を配布した。文中の建設中の「大手先御用地稽古所」とは、この後完成される全藩士向けの練兵場「修武堂」を指していると考えられる。「数百年其家流を奉じて他を顧みす」という状況だった在来諸流派は、強い抵抗感を表したという。

 「(略)当時の改革を厭ふこと甚たしく人心一時胸々として武人剣客朝暮引担の門に拠りて抗論哀訴止ます」(39)

  しかし同史料によれば、新制度は一時の混乱を経て受容されていったようだ。同様の合同シナイ稽古法は水戸藩講道館でも採用されていたといい、同年八月には、藩主参府に随行した弘前藩士が江戸詰めの藩士らと「仕合」を試みたり、他藩との交流試合も行うようになったようだ。そしてついに、代々仕合をタブーとする當田流でさえも、やむをえず時勢を考えて令に従ったという。

 「浅利万之助均致ハ(中略)世々当田流剣術之師範たり。(中略)承昭公の文久二年、剣術諸流合併面仕合に改正ありし時、当田流仕合なきを以て其令に従ふ事を難じたれとも、一旦時勢を洞察し、意を決して武芸締り方を勤む、人其情を憐む(以下略)(40)

  このように一刀流に発するシナイ稽古を技術ベースとした「一統面仕合稽古」令は、藩主による強制力を伴って全流派に徹底された。

 このような異なる技術体系を持つ異流派同士の剣術試合の様子については先学の史料報告があり、互いにルール設定で噛み合わずに混乱した様子が記されている。そのために互いに一定の判定基準や共通項目が歴史的に形成されていったという(41)。また、弘前藩においては、布告中の「講武所」及び壮年者に行わせた「打込稽古」が、近現代剣道の竹刀稽古技術体系の系譜に直結するものであることから、おそらくこの布告によって、各流派技術群が一刀流及び幕府のシナイ稽古技術体系をスタンダードとして均質化されていったことが予想されよう(42)。

 ところで同令の指向した「実意」とは、具体的にはどのような意味であろうか。これは単にシナイ稽古の効用のみならず、文化・文政期の同藩軍事政策に関わると考えられる。当時、ロシアの南下に対応して弘前藩は、大名課役として松前・蝦夷警備を担当し、寛政九年(一七八九)から文政四年(一八二一)にかけて毎年数百人を越える藩兵を蝦夷地へ派遣し続けていた時期にあたる。その経験から軍役規定の改変が続いた時期でもあった。前述のシナイ実験高覧の武田弥学も、平士として派遣人員数のピークである文化四年(一八〇七)年に出兵したようだ。藩は実際の砲撃戦を体験している(43)。そのためか、この時期の藩記録には、野外での組織的軍事調練を指すと思われる「野稽古」という語句が散見し、馬術、剣術、槍術ともに「野辺」での稽古を命じて、砲術稽古場「星場」が多く設置されている(44)。また幕末期、緒戦の遠距離戦で火器を用い、次段階の近接戦闘で刀槍を用いる戦術を想定していたが、維新期には火器のみの戦術観へと転換していった様子が見受けられる(45)。これらのことから布告の「実意」には、幕末維新期の即戦性の高い対ロシア戦演習、及び組織的軍事行動力を意図したのではないだろうか。そのため、従来の流派剣術のように段階を踏みながら、鍛錬性や修養を含む個人技としてのマンツーマン教授システムを採る方式よりも、大勢への一斉短期練兵が可能であり、集団戦のシュミレーションともなる合同シナイ稽古方式が採用されたと推測できないだろうか(46)。それ加えてシナイ稽古法が、幕府及び藩主のスタイルであったことも公式採用の大きな要因であろう。 

 しかしまもなく藩兵調練内容は、伝統的な剣槍技が姿を消し、西欧式の銃砲術、駆け足、鉄棒、ブランコなどの体練が中心となり、そのまま廃藩置県を迎えている(47)。修武堂に統合されていた旧藩武芸師範達は、軒並み解職となったようだ。ここに近世以来の流派剣術伝承の多くが、公式の担い手と伝承ルートを喪失していくことになった(48)。

   六.近代の技術統合へ

  しかし廃藩後も、一部の流儀と小野派を中心とするシナイ稽古が存続したようである。明治一四年(一八八一)、元小野派師範工藤貞三郎が、旧藩の師範達を招いて、弘前市笹森丁に「北辰堂」を開設して稽古を開始、後には「小野派面仕合ノ先徒岡格馬」に引継がれていったという。また当時、「仙台設立ト唱ヘ男女剣術者数人」が、同市内「元寺町柾木座」へ来て、木戸銭を取って、女性の演じる長刀・棒・鎌の武術や、組太刀及び「男ハ一途面仕合」の飛び入りも受付けて、数千人の観客を集めたという。この一座の興業はかなり流行したようで毎年来弘したので、弘前では「是ヨリ激剣的流行」して、警察官まで稽古を始めたという。他にも乗田庄作が、青森市濱丁で「小野派一刀流面仕合」の指導を始め、警察官や囚人まで始めて賑わったという(49)。これらの伝聞記録は、明治期以降、小野派一刀流シナイ稽古が、旧弘前藩領内の士族層のみならず、より広範な市民層へと受容されていった状況を示しているといえよう。特に同種の見せ物としてのシナイ稽古ブームは、明治六年(一八七三)から東京浅草で、元講武所剣術師範榊原健吉らによって始められ、関東を中心に活動した撃剣興業と酷似する。関東では相撲興行をまねて錦絵を売り、仕合前には観客へルール説明を行って見せ方まで工夫したので、大流行したという(50)。このようにシナイ稽古が旧弘前藩領のみならず、全国で紹介された。秘匿性の高かった近世流派剣術を知らない多くの人々にとっては、流行したシナイ稽古が伝統的な剣術であると認識したことが推測されよう。

 例えば、当時のシナイ稽古の具体的パフォーマンスを伺える映像資料が残る。明治十年頃、来日した欧米人が撮影した動画フィルムの中に、東京と京都で撮影された一刀流系統とみられる形の演武と、防具を着用した集団シナイ稽古の記録映像がある。後者を実見すれば、当時すでに現代につながる近代剣道の技術的要素が形成されていたことがわかる。他にも明治二四(一八九一)には、在京津軽協会の運動会で、集団による「竹刀戦争」と「激剣」を行った(51)。そして明治二八年(一八九五)、京都において近代剣道を含む各武道の全国組織「大日本武徳会」が結成され、全国から旧藩の剣術師範が集い、竹刀稽古を中核とする全国統一技術の整備・普及が進めれらる(52)。明治三二年(一八九九)には、その武徳会範士渡辺昇の一行が、剣道技術普及のため自費による全国周遊稽古を行い、青森県を訪れている。

 当時の弘前は各町道場が設立されて士族や市民が参集し、弁論大会で国家論を語る一方、シナイ稽古と類推される「撃剣」の稽古が続けられていた。この撃剣は夏の「ねぷた喧嘩」で、竹槍、仕込み杖で集団乱闘する際の実用技術となったようだ(53)。来弘した一行は合同稽古を行い、地元の稽古スタイルの違いを異様に感じた様子が記録されている。

  「(略)当日の試合のうち一種異様に感じたことは、当弘前旧藩時代から他流試合になると、睾丸を突き修行者を苦しめたのである。当日も私どもと稽古するうちに盛んにやるのでありました。これには閉口した。私どもの若い連中は先生に内証で盛んに突き返しました。稽古も殺気満々として生きた心持ちがしなかった。(以下略)」(54)

   同会が地方の剣技に違和感を感じたのは弘前だけでなく、全国各地で体験したようだ。特に九州では全く異装の剣技を目撃している。また大正三年(一九一四)五月五日『弘前新聞』には、「老剣士談」として、

 「今日の剣法は竹刀打に限って而かも気合は掛かって居無く共、又充分力は入ってなく共、そんな事は無茶で当りさえすれば宜いと云う。換言すれば遊技的体育法と偽って(中略)昔は竹刀打は『体コナシ』として真の修武として居らなかったのである。」

 との意見が出ている(55)。これらのことから、明治末期の日本各地では、未だに近世流派剣術の記憶を残しつつ、シナイ・竹刀稽古のスタイルも未統一のまま、地域毎の差異が存在していたことが推測される。

 その後大正、昭和初期には弘前地方からも、大日本武徳会師範市川宇門や、第二次大戦後の剣道復活に活躍した笹森順造元国務大臣などの師範群を中央剣道界へ輩出している。また、中央の剣道師範による講習会も頻繁に行われたようである。他にも剣道専門家育成のために、通称「武専」が設けられて各地から若者が参集して厳しい育成を受けた後、剣道指導者として各地へ配属された。彼らは近世流派剣術とは異なる新しい担い手となって近代剣道の全国弘流を支えた。これらの動向によって、地方と中央近代剣道界との交流が活発となり、弘前地方の剣風が全国統一の近代剣道スタイルへとしだいに同化していったことが考えられる(56)。

 一方、當田流などの近代剣道技術の導入を拒んだ諸流派は、近代以降旧師範家筋周辺の限定されたマイナーな伝承に止まり、近代剣道とは別の稽古が続いたようである。

   七.身体の変容

  以上、在地的な個別の技術伝承であった弘前藩近世流派剣術は、一九世紀の藩令によって一定のスタイルへと大きな技術的変容を迫られたことが判明した。それは対ロシア戦を想定した軍事的緊張下、一八一〇年代から二〇年代に、弘前藩小野派一刀流が、新技術シナイ稽古の試験的導入を始めたことに始まる。同技術は一八三〇年代、江戸との技術交流による藩内の急激な流行を発生させ、一八六〇年代初めには藩公式スタイルとして採用された。その後一九世紀後期弘前藩は、シナイ稽古先進地である関東および関西の剣術界に同調するように、全国的なシナイ稽古世界へ参入していったのであろう(57)。導入された交流性の高いシナイ稽古は、従来の諸流の技術差異を一刀流体系へと均質化する契機となったと考えらる。

 しかし幕末維新期の西洋式軍制改革と廃藩によって、剣技そのものが公的機能を失ない、シナイ稽古スタイルのみが、明治初頭の一八七〇年代に始まる全国的な撃剣興業の流れとともに民衆へ受容された。それは地域的差異を残しつつも、一八八〇年代には地域の各町道場へと定着していった。そして一八九〇年代には全国組織が成立し、近代剣道技術のベースとして整備されていった。それに伴い、シナイ稽古とは異系統である(図版2)に見られるような低い腰構えなどを用いた流派技術伝承は、近代剣道につながる(図版1)の構えへと同化し、または急速に淘汰されて有志による小規模な伝承に零落していったと考えられよう。

 例えば、全国的なシナイ稽古導入を行わなかった近世流派武術のひとつ當田流は、現在も稽古の場で近世期の絵伝書を手本とすることが多く、その技法図通りの低い腰と撞木足の姿勢をとる。同様の技法は、前述の棒踊りや諸民俗芸能においても多用され、近代以前に各分野で共有されていた身体技法であったと考えられよう。これらは、近・現代剣道などの近代システムに採用されず、その伝系ルートを縮小しつつも、パフォーマンスを描いた絵伝書群や祭礼の場が、古態の記憶装置として機能することで、各所で散在して、継承されてきたと考えられる。

 一方、近代剣道の中核技術となったシナイ・竹刀稽古は、全国的な体系整備を進めて、二〇世紀初頭には西洋近代スポーツ理論を導入して「剣道」として独自の技術体系を確立し、国民的に普及した。それに伴い技術伝承の担い手は、かつての師範家や流派から全国組織へと転換し、近世期とは異なる新しい技術観と身体観を成立させたといえる。

 例えば全国的に現代剣道の稽古や試合の現場で「伝統的な技術」として指導されている(図版1)のような、つま先立ちの腰高・直立の構えや、「手首のスナップを効かせて軽く早い打突を目指すこと」、「左足から動いてはならない」、「面技を重視する」、「正しい構え(正眼)と気勢のある発声が無くては、当たっても有効打突とは認められない」などの技術観は、近世流派剣術や直接の母胎となった小野派などの一刀流系の古伝書には見あたらない。

 むしろ近世期の弘前、八戸両藩下の剣槍師範のエピソードや伝書には、近・現代剣道技術とは異なる記述が見られ、「手首動く事」を悪い動きとしたり、「腰に釣合」、「釣合の妙所」、「足踏ノツリ合」、「五体は天地の釣り物也」、「身の備え釣り合いの事」、「総体釣り物と言う事」などという、身体の「つりあい」を重視する記述が流派を越えて散見できる。また、多くの近世流派剣術群の伝書類に記載のあった、宗教的な語彙や、様々な状況設定による対応法、他系統技術への対応法、日常生活の心得なども、近代剣道以降のテキストでは割愛されたようだ(58)。

 よって前述の近現代剣道の技術指標や身体観は、近世以来の在地の伝統技術ではなく、むしろ一九世紀から二〇世紀にかけて、青森県の民衆が受容した近代の技術、身体観であるといえ、近世技術伝承との断層が存在していると考えられる。この伝承の断絶は、昭和期の県内の高名剣道師範達が、郷土の近世流派剣術師範達の名を「全く知らない」と述べていることも証左となろう。

 そしてその身体は、歴史的に個々に受け継がれてきた差異性を持つ近世剣技伝承群が、近代以降の新たな担い手によって、近代社会の要求である試合競技運営や学校の集団一斉指導という場での、一定認識とルールを共有した同会派同志が行う競技性の高い全国的システムへと転換することを通じて全国的に普及していった存在であるといえよう。その全国的な流行性には、自由に打ち合える楽しさがあったという分析がある(59)。

 このように変化から産まれた近・現代剣道は、現在も特性である可変性を持ちつづけている。技術面ではランニングやマシントレーニング、イメージトレーニングやコンディション作り、スポーツ栄養学、コーチング方法の導入が、組織としては数年毎の試合ルール改良、用具の規格化、トーナメントやリーグ戦による効率的な大会競技運営法の研究、観客論など、先端の欧米スポーツ理論導入や現代社会の要求に対応しつつあり、全国的により開かれた技術体系と競技人口の拡大を目指しているようだ(60)。

 しかし、このような現状の技術体系変化や異質のスタイルに対して否定的な意見も多いといい、理念面では現代剣道がかつての近世流派剣術のような変化を好まない指向性を持ち始めているともいえよう。この背景には、近代以降、大日本武徳会や東京高等師範学校、国士舘専門学校が、近代剣道技術を形成しながら有力な剣道教員を多数輩出してきていることから、それらのエピソードが模範とされてステイタスを獲得してきた状況が関係しているようだ。一部には、近年の全国的な剣道技術の画一化を「全剣流」として疑問を投げかける動きもあるようだ(61)。

 また近・現代武道群が、伝統性をアイデンティティとして標榜することが、自ずと近世流派武術群との歴史的連続性を意識する立場を生んでいるようだ。例えば技術面で現代剣道の稽古や試合の場で指導される「真剣の理法に沿った打突を」、「刀を用いるように竹刀を使え」などのいわゆる実際の刀剣の使用を意識した「わざ言葉」がそれを表象していよう。

 しかし本論によって旧弘前藩領においては、近・現代剣道がすべての近世流派剣術の系譜につながらず、シナイ稽古を中核とした特定流派体系へ連続している可能性が判明した。これらのことは、近現代剣道の試合形式自体が、近世村落における公開性を持つ娯楽競技に由来しているが、明治期以降、その上に近世流派武術の規範をモデルとした「武士の戦技に由来する」という理念を導入し、技術と理念の相反の上に成立してきたという先学の分析と重なるといえよう(62)。

 よって、伝系及び技術体系が異なる他系統伝承の多くが失伝し、サブカルチャーとして周辺に位置づけられている現在、現代剣道技術が、乖離してきた中近世期の技術体系の評価視点をカバーしているとは考えにくい。そのことが、異技術同士の交流や立ち合いを行わない現代において、他系統である流派剣術の演武を実見した一般競技者が、あたかも具体的な技術評価基準を持ち得ない「部外者」として立ちすくむしかない現状を生んでいると考えられよう。代わりに、自体系と異なるパフォーマンス中から、類似要素のみを抽出し合理化して判断するが、適合しない部分については外見的イメージを曖昧に把握する方法をとっていると考えられる。

 筆者は、これらの技術の画一化と、近代の新しい評価基準の誕生による技術改変が、当該地域のみならず全国的に展開してきたと予想する。しかしここではその動向が、獅子踊りなどの民俗芸能の地域性的差異が、近代以降の有識者による恣意的な特定の指標をベースとした大会行事出演等を通じて、その受賞評価に沿うように芸態を変化させてきたという報告と構造的な同質性を持つことを指摘するのみにとどめたい。他にも宇佐美隆憲によると、同様の現象が沖縄角力などの東アジア世界の草相撲でも見られるという。今後のさらに多くの事例の収集と再検証を慎重に行う必要があろう(63)。

   八.まとめ

 身体伝承は様々な場で意図的に、また無自覚に表出され、各人が身に帯びている非常に親近性の高い研究対象である。しかし文字史料や遺物とは異なり、客観性を持って固定して資料化することが困難であり、諸学では検証理論の確立へ向けて精力的な研究が続けられていることは前述した。さらに現状分析のみに留まらず、時間軸の視点を持つことが困難であると考え、本論はその試行であった。

 その中で、本論のような特定の身体技術伝承は、当事者が技術的正当性を、師匠筋から弟子につながる自らの実体験の伝承経路に求めることが多く、研究対象として対象が絞り込みやすいといえる。しかし実はその伝系システム自体が、個人間で恣意が混在し変動性を帯びている。また、膨大な情報量を含む身体伝承について各世代の個人が、先代から完全かつ正確に伝達されたことを客観的に証明することは不可能であろう。伝統芸道の「口伝」と呼ばれる言語と共に身体を用いる伝承方法の可変性、脆弱性は、剣技の世界でも歴史的な留意事項であったようで、「口傳末弟ニ至リテアヤマル事多シ」と記載する史料も残る(64)。また、伝承者自身が超世代的な視点に立って、客観的に自らの伝承技術の歴史的変遷像を俯瞰し把握しようとすることも希であり、現実には至難の業であるといえよう。加えて実用性を問われる技術では、時代毎に変化する社会的要求に応じて、技術形態そのものが改変される可能性がある。 

 このような不安定な可変性ゆえに、身体技法を認識する眼も揺らぎやすいのではないだろうか。その隙間に、客観性を求める研究においても、伝承者と研究者が知らず知らずのうちに、共同で特定の言説やイメージを強化、再生産してしまう現象が発生するのではないか(65)。

 例えば、異体系の身体技術へ、初めて遭遇した驚きの様子が記された史料がある。幕末に来日したアメリカ人フランス=ホールが、万延元年(1860)七月に、横浜(現神奈川県横浜市)の州干弁天祭の女性達による「踊り」を観て、その印象を記している。「踊り」は、西洋のダンスのような跳躍運動とはかけ離れ、「奇妙」で「あまり意味があると思えない」、「優雅さに欠ける」、「滑稽」な所作だと記しており、よく理解できなかったようだ。同様のことは、十九世紀末に来日したラフガディオ=ハーンも記しており、「日本の歌舞音曲が西洋人の感覚と全く異なる進化をとげたからだ」と考えている(66)。この認識不能の眼差しは、所属文化圏の差異から生じた事例ではあるが、現代の我々が自国の能や歌舞伎、神楽等の伝統的身体技法へ向ける眼差しと共通する点があるようで興味深い。

 つまり、同文化圏内においても、本論のように、特定の古典が変化を導入して普及したタイプと、古態を保持して限られた伝承に止まったタイプに分離して伝承され、長い時間(本論では約二世紀)を経て比較し、互いの現状形態の差異について認識できる指標を喪失していた場合、理解不能という同種の状況を発生させることがありうるのではないだろうか。

 しかし、理解不能でありながらも異体系を受容し、解釈せざるをえないとき、本件のように古態としての剣術と、現行競技としての剣道の、それぞれの場に応じて二系統の技術を使い分ける戦術をとりながら、一方では互いに同起源という理論的矛盾を合理的に解決し、自らの伝統的正当性を再定義するために、新しい説明理念を産み出していく状況を発生させるのではないだろうか。

 また、このような戦略は、民俗芸能研究者の橋本裕之が指摘するように現在の民俗芸能が、実践の場で伝統的正当性を強調する一方で、理念としての自らの無形民俗文化財としての価値性と、現実の社会的要求である観光資源としての二つの社会的文脈へ応じるため、二系統のパフォーマンスを開発しつつあるという分析と、類似性の高い構造であるとはいえないだろうか。(67)その一方で、全国組織の復古的な指向性が、マイナーな近世期の伝承存続をサポートする役割を果たしていることも指摘できよう。

 伝承という行為は、上位世代から下位世代へ連続する客観的事実よりも、当事者の持つ「連続している」とする意識とその機能を問うことであるという(68)。本論は身体技術伝承の分析において、特定のキーワードに着目した上で、パフォーマンスを描く絵伝書や技術伝承史料等を援用しながら、近世の小集団が所持していた個別の身体技術伝承が、特定の用具の使用による技術変化に始まり、異体系同士の交流制度導入による同質化を招き、明治期以降の社会的要求を反映しながら、規格化された大衆的な全国システムと新たな権威性を獲得していった状況を地域の視点から報告した。そしてそれに伴う人々の身体観の変容を分析し、これらを身体技術伝承の「近代化」例として提示することを試みた。事例には、伝承形態の変化を先行したり後追いしながら創り上げられてきた、伝承ルートの保護・強化装置としての近代成立の「伝統性」の物語が存在していたといえよう。同様の現象について、現在「伝統的」とされる他分野の習俗についても慎重な検討が必要とされよう。

 また、伝承には口頭伝承と動作及び所作伝承があり、その存続条件として「型」があるという(69)。口頭伝承では話形や定型句などの「型」の研究が進展しているが、動作、所作伝承の分析では未開拓分野が多いといえる。本論は、幕末から近代にかけての身体の「型」の変容であった。現在、和太鼓やよさこいソーランなどの「和風」パフォーマンスともいうべき芸能がブームを呼ぶなか、多くの人々に「和風」として認識される身体技法構造の客観的な分析を行えば、歴史的な伝承要素とともに、現代人が指向する日本的イメージが抽出できるのではないだろうか。(了)

 (表)各剣技における技術差異の概略

                           近・現代剣道              本剣道形            近世流派剣術

    1       用具            規定の剣道具および竹刀        木刀・模擬刀                木刀・刀・シナイほか

    2       手の握り      基本あり                               剣道に準じる                流派毎の伝承

    3       足遣い         右足前が基本                       歩み足                        流派毎の伝承

    4       姿勢            正対・直立腰高                     剣道に準じる                 向身・半身・一重身ほか    

    5       構え            正眼または上段                    五行の構え(五種類)      流派毎の伝承

    6       発声            有声(重要視)                       剣道に準じる                流派毎に有声・無声の差

    7       稽古法         竹刀稽古                             形稽古(剣道の補助)     形とシナイ稽古

    8       成立時期     M28年全国組織成立              T元年制定          中近世の各伝承有り

    9       教導方法     連盟による公式テキスト            剣道に準じる                個別の 技術・伝書・口伝等

   10      ライセンス  連盟による昇段試験               無し                            個別の目録・免許・印可等

   11      伝承母体      大日本武徳会→日本剣道連盟        剣道と同じ                   家または流派毎の伝承

 

   (図版1)現代剣道の基本「中段の構え」        (図版2)當田流の構え「合車」(撞木足)

   .JPG      

(財団法人全日本剣道連盟 2000年『剣道和英辞典』20頁)       (浅利伊兵衛1714年『(當田流太刀)』弘前市立図書館蔵)

 〈注〉

(1)湯浅康雄 一九九〇『身体論―東洋的心身論と現代―』講談社、山折哲雄 一九八四『「座」の文化論』講談社。なかでも二〇世紀の身体論研究史として、野村雅一 一九九九『技術としての身体―二〇世紀の研究史から―』( 同・市川雅編『叢書・身体と文化 第1巻 技術としての身体』大修館)があり、『叢書・身体と文化』全3巻シリーズとしてまとめられている。また、政治社会学、日本近代文学、学校教育学、社会学、文化研究、カウンセリング、建築学、絵画、思想史、演劇、生態心理学、日本美術史、表彰文化史の研究者による論集に、栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉2000『 越境する知1 身体;よみがえる 』東京大学出版会がある。

(2)養老孟司 一九八九『唯脳論』青土社、斉藤孝 二〇〇〇『NHKブックス八九三 身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生―』日本放送出版協会など

(3)渋沢敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編 一九八八『絵巻物による日本常民生活絵巻』全五巻 平凡社、生田久美子 一九八七『「わざ」から知る』東京大学出版会、福島真人編 一九九五『未発選書第二巻 身体の構築学―社会的学習課程としての身体技法―』ひつじ書房、他にも小松和彦・香月洋一郎編 一九九八『講座日本の民俗学2 身体と心性の民俗』雄山閣、等がある。

(4)中原ゆかり 一九九一「ラバノーティションによる動作記録」(長崎獅子舞調査会編『豊島区長崎獅子舞調査報告 第一分冊』東京都豊島区教育委員会)、小野寺節子 二〇〇二「民俗芸能のマニュアル作成における成果と課題―青森県の『伝承マニュアル』を例に―」(東京国立文化財研究所芸能部編『芸能の科学』二九)

(5)長谷川方子 二〇〇一「民俗芸能の変容と現在―青森県南部地方の事例から―」(青森県民俗の会『青森県の民俗』創刊号)、安藤直子 二〇〇二「地方都市における観光化に伴う「祭礼群」の再編成―盛岡市の六つの祭礼の意味付けをめぐる葛藤とその解消―」日本民俗学会『日本民俗学』第二三一号)など

(6)日本武道学会の研究業績は、日本武道学会 一九九八『武道学研究文献目録』石川忠雄、で検索できる。他にも中村民雄 一九八五『史料近代剣道史』島津書房、榎本鐘司 一九八八「幕末剣道における二重的性格の形成過程」(『日本武道学研究』島津書房、同 二〇〇一「剣道はどこからやってきたのか―近代剣道のルーツ―」(スキージャーナル社『剣道日本』三月号、渡邊一郎古希記念論集刊行会編 一九九五『武道文化の研究』第一書房、長尾進 二〇〇二「特別寄稿 シナイ・防具稽古の発生と普及―天保期以前―」(濱田雅彦編『文武館』第一八号平成一四年新春号文武館出版部、中村民雄 二〇〇一「防具(剣道具)の歴史」(体育とスポーツ社 二〇〇一『剣道時代』三月号No三四四)、大塚忠義・宇都宮伸二・坂上康博 一九九〇『のびのび剣道学校』窓社、大塚忠義 一九九五『日本剣道の歴史』窓社などがある。

(7)榎本鐘司・和田哲也 一九九五「近世村落における武術史研究の現状と課題」(前掲書『武道文化の研究』所収)。

(8)金沢市史編さん委員会二〇〇一『金沢市史 資料編 一四 民俗』金沢市四六二~九、他にも埼玉県鴻巣市原馬室で、七、八歳の子供達が太刀、真剣、六尺棒などを用いる棒術があり、演目名には「五箇」、「七箇」、「棒車」、「青眼」、「小手揚」、「捻捕」、「抜附」、「虎走り」などの中近世流派武術の技名と共通する語彙が含まれ、礼法やパフォーマンス自体も流派武術の形態と酷似する点が多い。また、演技終了後に二本の棒を山型に組み合わせて置く礼法も同様のことが指摘できる。(埼玉県立民俗文化センター 一九八五『埼玉県民俗芸能調査報告書第四集 原馬室の獅子舞・棒術』)。青森県下北郡の近世期武術史料は、青森県史編さん民俗部会調査において確認したもので、享保十三年(一七二八)牛滝の坂井儀兵衛による「観世流折和起證文之事」(佐井村教育委員会編 一九九四『佐井村牛滝坂井家所蔵資料目録』五一頁、文書№E-1)、及び志賀道知元資による「萬事之巻」(年代不明、川内町家ノ辺岩崎菊之助家蔵)である。特に「観世(夢想観世)流」は、別名を「諸賞流和術」といい、鎌倉幕府の源頼朝が開いたという相撲会に創流伝承を求める流儀で、近世期は盛岡藩で柔・小具足・剣・縄の技術を含む流儀として伝承され、現在は、岩手県盛岡市の無形文化財に指定されているもので、坂井家伝書も関連性が考えられる(綿谷雪・山田忠史編 一九七八『増補大改訂 武芸流派大辞典』東京コピイ出版部、三七八頁)。

 近代については、大塚忠義 一九九五『日本剣道の歴史』Ⅱ~Ⅲ章、坂上康博 一九九〇「大正期における大日本武徳会―その政治的・軍事的機能の検討を中心として―」(『体育史研究』第七号)、財団法人日本剣道連盟 二〇〇三『剣道の歴史』第四部、青森県の事例については、青森県剣道史編集委員会 一九八四『青森県剣道史』青森県剣道連盟の第二部~五部、が詳しい。

(9)現在の剣道界の動向については、真砂威 二〇〇二「シリーズ武道の活性化を考える五八 剣道 当面する課題と将来展望」(財団法人日本武道館 二〇〇二『月刊 武道』五月号ベースボールマガジン社)がある。また剣道連盟は剣道を「日本の伝統的運動文化財」とし、その理念は「剣の理法の修練による人間形成の道である」としている(財団法人全日本剣道連盟1999『剣道 社会体育教本』一四~五頁)。

(10)スキージャーナル社 一九九四『月刊 剣道日本』八月号の「特集 剣道形に生命を!」が詳しい。近年は両者の技法的違いから現代剣道にマッチした新しい形を作ろうという動きもあるという。

(11)財団法人全日本剣道連盟編 一九八五『幼少年剣道指導要領[改訂版]』三九~四〇頁・四八~五〇頁、には他にも「歩み足」、「開き足」、「継ぎ足」などが紹介されているが、これらはすべて右前足から初動する。また、実際の試合・稽古で「歩み足」を多用することは良しとされない。また同書四二頁の「下段の構え」、「八相構え」、「脇構え」のよいうな近世流派剣術と共通する技法は、現実の竹刀稽古では全く使用されることはない。

(12)「柳生新陰流 月之抄」(今村嘉雄 一九六六『日本武道全集一 剣術(1)』人物往来社一三六~七)。

(13)馬庭念流「念流兵法心得」(明治二十二年(一八八九)群馬県吉井町、今村嘉雄 一九六六『日本武道全集二 剣術(二)』三七一~二頁)

(14)新免武蔵 正保二年(一六四五)「五輪書 水之巻」(渡辺一郎 一九八五『五輪書』岩波書店四八頁)。

(15)平宗矩 寛永九年(一六三二)「兵法家伝書 活人剣 下」(渡辺一郎 一九八五『兵法家伝書―付新陰流兵法目録事―』岩波書店七二頁)

(16)「又飛足をこのまざる事、飛あしはとぶをこりありて、とびていつく心あり。いくとびも飛ぶとゆふ理なきによって、とびあし悪しし。」と現代剣道の踏み込み足のように跳ねることを忌むようだ。前掲書『五輪書』一二八頁)

(17)「(前略)ひとつ例をとれば、神道無念流でこそ正しい撞木足が、左右の足ともまっすぐ相手に向ける現代剣道の基本を侵してしまっては元も子もない。あるいは古流を信望する人には、撞木足こそ本物で、現代剣道のまっすぐな足を否定する声もある。しかし、遠間から打てる足の備えは現代剣道では理想であり、それを覚えてこそ「道」たりえる生涯剣道は可能となろう。一方、剣術に見られる撞木足は、生死を賭したやりとりを生き抜くために工夫されたものの一つである。「術」の世界は、敗れれば形を変え、だからこそさまざまな流派は存在した。そうした「点」の世界を、各流派を代表する大家が各々の良いところを持ち寄り、「線」へつなげる努力を試みたのが、「術」から「道」への昇華である。ーそう理解しているからこそ、生涯、線でつながる剣道をしっかり学ぶことを優先し、その上で古流に接する必要性を感じているのである。(以下略)」戸賀崎正道氏(昭和十九生まれ、剣道教士七段、神道無念流宗家八世)「師の背中」(二〇〇一『「月刊 剣道日本』八月号」一〇頁下段一四行~一一頁一〇行)より。近現代剣道の代表的な見解を示しているといえよう。実際に剣道連盟による一般向けのテキストでも、写真図解入りで「種木足」を「悪い例」としている(財団法人全日本剣道連盟一九九九『剣道 社会体育教本』五一頁)。

(18)この「ナンバ」は近年、各分野で使用されることが多い語彙であるが、語源と定義付けが確立されていない。実際の動きとしては、腕を振らずに半身になって歩く動作や、右手と右足、左手と左足がそれぞれ同調して歩む動作だといい、アジア世界の伝統芸能や伝統的労働に共通して多用される動作の特徴を言い表しているという。野村雅一 一九九六『身ぶりとしぐさの人類学―身体がしめす社会の記憶―』中公新社の「Ⅰ 歩行とディスプレイ」の章、養老孟司・甲野善紀 一九九三『古武術の発見』カッパ・サイエンス七九頁、河野亮仙 一九九九「舞踊・武術・宗教儀礼 芸能と祭りの身体論へ」(野村雅一・市川雅編『叢書・身体と文化 第一巻 技術としての身体』二〇二~二一〇頁)。従来、ナンバは日本の伝統的な身体動作の「摺り足」と混用されて、田植えのぬかるみを歩く仕草や、民俗芸能の反閇などの動作が、大地の神霊を踏んで鎮撫する儀礼動作を起源とする抽象論が多かった。しかし儀礼とは異なる伝統的な実用技術(流派剣術)において、「無足の法」、「一文字腰」、「撞木足」と称して、闘争の場での実効性を説く近世以来の身体技術伝承が存在することに留意したい。黒田鉄山 一九九一『居合術精義』壮神社五八~六五頁)

(19)中村民雄 一九九五「剣道の技の体系と技術化について―打突部位別の体系から対応の仕方による体系へ―」、長谷川弘一 一九九五「 同 ―胴技を中心として―」、小林義雄 一九九五「 同 ―面技を中心として―」、長尾進「剣道における競技的技術の形成過程について」(各論とも、前掲書『武道文化の研究』

(20)幕末から近代にかけての剣道成立史については、近年の実証研究の成果を集めた『剣道の歴史』(2003年、財団法人日本剣道連盟)が刊行された。今後、全国的に同種の研究が飛躍的に進展することが期待できよう。

(21)青森県教育史編集委員会 一九七二『青森県教育史 第一巻記述編一』青森県教育委員会五一頁。また、現在弘前地方に残る藩政期からの流派は、確認できるだけで、小野派一刀流剣術(小舘俊雄・北辰堂系)、富田流剣術、同棒術、本覚克己流和、林崎新夢想流(寺山龍夫系)、卜傳流剣術があり、他県へ転出した流派に、小野派一刀流(笹森順造系)、林崎新夢想流(笹森順造系)、直元流長刀(白取系・笹森系)等があり、他にも直心影流剣術がある。これらの伝書史料の多くは弘前市立図書館で閲覧できる。

(22)富山に伝承された近世流派剣術の伝統的な教授スタイルの様子を記録したものに、黒田鉄山 一九九二『剣術精義』壮神社三六~四〇頁がある。

(23)笹森順造 一九六五『一刀流極意』同刊行会の二~四章など。

(24)明和六年(一七六九)写 棟方作右衛門「卜傳流剣術目録追加」弘前市立図書館岩見文庫蔵。他にもシナイ使用に関する記述について、例えば一七世紀後半の弘前藩主信政は、二つの一刀流を修めていたが、「竹刀木刀、其流儀の道具」、「小太刀のしなひ」、「中太刀の竹刀」を用いて「仕合」をした。(青森県文化財保護協会 一九五九『みちのく双書第七集 津軽歴代記類』青森県文化財保護協会一七二頁)。また、同藩主信興は槍術用の「十文字竹刀」(木製の槍カ)と「木太刀」で「剣槍の竹刀仕合」を行なっている。(青森県叢書刊行会 一九五四『奥富士物語 上』青森県立図書館二四七頁)

(25)形の藩主高覧記事は数多く散見する。例えば、寛政三年(一七九一)三月十八日、十六日の剣術御内覧の夜、酒に酔った藩士が打太刀の遣い方を巡り、木刀と間違えて同座の者へ刀で斬りつけたという(弘前市教育委員会 一九九一『御用格 寛政本 下巻』一二九四頁)。

(26)弘前市教育委員会 一九九一『御用格 寛政本 上巻』九七五頁

(27)弘前市教育委員会 一九九三『御用格 第一次追録本 上巻』)九四・六〇七頁。

(28)前掲注(27)九三・六一〇・六一二(文化四年にも同じ記事あり)。

(29)青森県立図書館郷土双書第一六集 一九八〇 内藤官八郎「弘藩明治一統誌 人名録 全」の「百石丁 武田弥学 山下町 武田元之助」の項)

(30)小野派一刀流は代々弘前藩主津軽家の剣術指南家であり、津軽家は全国の同流門弟三千人のうちで格別の扱いを受けたという。(青森県立図書館 一九五四『青森県立図書館叢書 奥富士物語 上』同図書館 一九三頁・二七六頁、『同 下巻』一四二頁・一七二頁、青森県文化財保護協会 一九五九『みちのく双書第七集 津軽歴代記類』同会 一七二頁・一九二頁・二九一頁など)。そのため同藩士にとって小野派は、特別の配慮を払うべき流派であったようだ。元禄四年(一六九一)から四年間の諸国武者修行へ出立した同藩の剣豪浅利伊兵衛も、「江戸に於いては小野次郎右衛門殿、御名高く御座候へとも、恐多奉存御間、小野次郎右衛門は信政公の御師範なり脇々を随分と承り候へともたのみ高き上手とも承合不申候(以下略)」と記す(前掲『津軽旧記伝類』四一四頁)。また近世後期の水戸藩においても小野派一刀流は政治的地位が高く、諸流統合のベースとなったという。須加野征博 一九九五「水戸藩における一刀流についての研究」(前掲書『武道文化の研究』)。

(31)弘前市教育委員会 一九九三『御用格 第一次追録本 上巻』)六一二頁。

(32)當田(とだ)流は十六世紀後半の剣豪戸田清玄(清源)を流祖に仰ぎ、弘前藩下では、十七世紀後半の浅利伊兵衛均録や一戸三之助宗明らの高名な師範を輩出した。彼らの優れた腕前ついて伝承記録が残る。(太田前掲書上巻一一〇頁・津軽藩旧記伝類三九六頁~四一七頁)。

(33)「しなひ仕合」を否定する同流派の主張によれば、普段の稽古がそのまま「仕合」であり、それより先の段階は真剣の仕合となるいう。また、稽古は、一本とられる毎に休みを入れたりするもので、そのような稽古の場と真剣の場を区別して認識していれば、いざというときに不覚を取るとしている。当流は、藩主信政代の諸流剣術高覧においても、「仕合」を「死合」として忌避したという伝承が残り、仕合を行なわないのは、当流儀の慣行であった(「古往万徳集 上・下」弘前市立図書館蔵)。

(34)弘前市教育委員会 一九九三『御用格 第一次追録本 上巻』六一六頁。なお、山崎については、「若年ノ頃鹿児嶋肥後藩辺二征行武芸二深ミ終二當田流ノ一奥ヲ究メ帰国文化八年流法ヲ発シテ師範ヲ開キ(以下略)」との伝承があり、シナイ稽古先進地であった西南日本で、全国的なシナイ稽古導入の実状を実見してきた可能性がある。青森県立図書館郷土双書第一六集 一九八〇 内藤官八郎「弘藩明治一統誌人名録全」の「徒早川端山崎同吉」の項)。

(35)十九世紀前半の文政年間から嘉永年間にかけて弘前藩士岡格馬、柿崎謙助らの事例。青森県文化財保護協会編『みちのく双書第五集 津軽藩旧記伝類』同会 四二〇頁~二三。

(36)『弘前藩武芸資料(旧記伝類抜書弓道之部=目録署名=」(弘前市立図書館八木橋文庫蔵)。しかし、高厚の父八郎左衛門高美は小野派一刀流師範として、同じ一刀流中西忠兵衛のシナイ防具稽古を批判した人物であった。大塚忠義によれば、中西は一刀流の刃引き・木刀稽古の原則を破って「竹刀打ち込み稽古」を採用し、「竹刀稽古は遊技だ」とする形稽古派の山鹿高美との書簡においても、「仮想の世界に耽溺しがちな形稽古を是正して実戦性を求めるための竹刀稽古」を推奨した。しかし一方で中西は、シナイ稽古が、本来の意図とは反する形で大流行してしまい、本意や実用から遠ざかり弊害が生じてきた状況を中西本人が嘆いていた点を指摘している。(大塚前掲書「のびのび剣道学校」一四頁~一五頁)また、父を継いで寛政十二年(一八〇〇)に弘前藩主寧親の小野派一刀流「剣術御相手」を拝命した高厚であったが、積極的な「道具附の稽古」派であったようだ。高厚は、天保年間に活躍した同藩士須藤半兵衛とその門下岡格馬を教導し、彼らは子弟共に江戸の中西藤兵衛の門人となったという。(弘前藩武芸資料 山鹿次郎作高厚・須藤半兵衛正万・岡格馬許寛の項。および青森県文化財保護協会 一九五八『みちのく双書第五集 津軽歴代記類』同会 四二〇頁)。

(37)『弘前藩庁日記』文久二年(一八六二)二月条 弘前市立図書館蔵。また布告文末の武田、浅利、小山、白取らは、藩校稽古館創設当時からの剣術教授師役及び添師役の師範家である。(青森県教育史編集委員会『青森県教育史』青森県教育委員会五二頁。

(38)安政三年(一八五六)に、江戸築地小田原町に設立された講武所の稽古法は、「一 剣術槍術は仕合、(中略)撓は柄共総長さ曲尺にて三尺八寸より長きは不相成、たんぽは革にて円経三寸五分より小さきは相ならず候事」という規則を持ち、近代剣道の原型であったことが伺える。(堀正平「大日本剣道史」 一九八六「近代剣道名著体系 第十巻」同朋舎一〇五頁~一〇七頁)。他史料も、一八六〇年前後の江戸では、各流儀間で免状授受システムのもと、剣の稽古では、「竹刀」・「面」・「小手」を、槍の稽古では「タンポ」を用いて打ち合う近代に直接つながる稽古法が広範に流布していたことを示す(篠田鉱造 一九二九『増補 幕末百話』岩波書店一九九六年復刻版 p一八九頁~一九一頁、二二〇頁~二二二頁)。

(39)下沢保躬「小田桐友平翁傳」(同『津軽古今人物傳銘録 巻第三』(明治初期カ 弘前市立図書館八木橋文庫蔵)。

(40)前掲『津軽藩旧記伝類』四一七頁。

(41)前掲注(6)の榎本鐘司、長尾進、中村民雄の論考。また、幕末の関東および西南諸藩の試合剣術史料には、面・籠手・突、左脇腹、横面、左胸などの打突部位を示す記述や、打突に関して綺麗、立派、軽い、鍔にかかった、拙劣などという評価をしている文言や、十三本勝負などを行い打突本数よりも試合内容を記している様子、判定は当事者同士と観戦者が行っている様子が記録されており、近現代剣道の試合ルールの萌芽が見られる。村山謹治2003「武道学最前線第12回 剣道を歴史的資料により分析する-剣道の歴史を知るための基礎資料-」(財団法人日本武道館2003『月刊 武道 三月号』)

(42)前掲、大塚忠義『日本剣道の歴史』一三頁~一四頁、前掲『剣道の歴史』三六八~九。

(43)浅倉有子 一九九九『北方史と近世社会』清文堂 第五~六章、長谷川成一 二〇〇二「蝦夷地と近世北奥羽―多様な交流と蝦夷地観―」(北海道立文書館 二〇〇二『研究紀要 第一七号』)

(44)青森県叢書刊行会 一九五四『奥富士物語 上』青森県立図書館 四六頁、弘前市教育委員会 一九九三『御用格 上巻 第一次追録本』五九〇頁 文化六年九月三日条・五九八頁 文化三年十二月十一日口達・六〇八頁 文化十四年条・六三八頁 文化九年条・八七〇頁 文化三年条など。また「野稽古」とは、野外での軍事演習を指すものと考えられる。同 一九五四『奥富士物語 下』四六頁)。

(45)嘉永三年(一八五〇)と同六年(一八五三)に、対異国船として「実意を以て武芸能々稽古致候様、」、「惣而戦闘之道ハ全く人数之多少に拘ズ、偏二武芸之巧拙と」という藩主自らの布令が出される他、沿岸警備強化や銃砲術訓練、「水練稽古」を義務付けた。文久元年(一八六一)には「西洋小銃ハ、当時必要之利器二付き」とし、翌年(一八六二)二月に前述の「面小手一統仕合」令と共に、銃火器増強と銃隊操連に励むことを命じており、遠距離戦で火器を用いて、接近してから「我利器之刀槍を以、打ひしぎ候こと可為勝利候」と、刀槍を使用するという戦術観を述べている。この後まもなく元治元年(一八六四)には、「当分之形勢追々変革致し、自然砲隊に無之而ハ難得必勝」となり、明治元年(一八六八)には「近来於修武堂、刀槍寄合稽古申付候(中略)然二追々世態変遷に随ひ兵制改革之儀ハ自然之形勢二(中略)此度惣兵銃隊二変革之儀、」と、刀槍術は全て火器兵器へと交替していくのである。(「青森県文化財保護協会 一九五九『みちのく双書第八集津軽歴代記類』同会一五〇頁・一六〇頁~一八二頁・一九六頁~二〇〇頁・二一一頁)。

(46)藩の意図する「実意」とは、従来の個人戦技よりも集団戦闘技術であったであろうという(弘前大学教養部教授太田尚充 一九九二『津軽弘前藩の武芸』下(1)(私家本一八九頁)。またシナイ稽古法が、個人指導を越えて一斉集団指導に向いていることはシナイ稽古発明者の中西も述べていることであった(大塚前掲書『日本剣道の歴史』八頁)。その特性を現代剣道が受け継いだといえ、指導法として「個人指導法」と「集団指導」を掲げて、「個人指導」では心構えや注意事項など理念的な説明に止まるが、「集団指導」では「一斉指導」、「グループ指導」、「グループローテーション」など図式を用いた具体的指導法を示しており、より集団指導法の方を開発深化させてきたことを物語るといえよう(財団法人全日本剣道連盟一九九九『剣道 社会体育教本』一三六~一四七頁)。

(47)実際に明治二年(一八六九)、修武堂で養成された藩兵が、北海道二股での実戦闘に参加したが、戦いは刀槍戦闘ではなく火器中心であった。(太田前掲書 下巻(1)二〇〇頁~二〇三頁)。そのため翌年には、修武堂で火器を中核とした仏式操練法が導入され、訓練内容は銃砲術の他に「一途馳足ノ事」・「木馬ヲ踏事」・「ブランコノ事」・「高飛ノ事」・「手摺縄ノ事」・「縄ハネノ事」という西洋式体操が加えられた(青森県立図書館 一九八一 『青森県立図書館郷土双第書18集 弘藩明治一統誌 第一五巻 武備録 全』青森県立図書館)。坂本寿夫 一九八四「明治軍政改革の研究」(長谷川成一編 一九八四『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会)。

(48)青森県立図書館 一九八〇 『青森県立図書館郷土双書一六集 弘藩明治一統誌人名録 全』には、修武堂の閉鎖とともに家業を辞めていく各武芸師範の動向が記録されている。例えば、その中には剣技伝承を個人で継続した旧師範もいたようだ。當田流剣術・林崎新夢想流師範家の同藩士浅利万之助(一八二四~一八九七)は、奇兵隊員として幕末の戦闘に参加し、廃藩置県後は神職を経て無職となり武芸の指導に専念した。(太田前掲書 下巻(1)一八四頁)。また、幕末の卜傳流・林崎新夢想流居合師範家小山英一は、廃藩置県で道場を閉鎖することへの嘆きを額文にして、弟子達と岩木山神社へ奉納している。その後は、明治二十一年(一八八八)に「撃剣教授補」として北辰社から委任状をもらい、大正初期まで、家伝の流派武術と共に弘前城内の武徳殿にて「剣道」を教導したという。(小山英一明治二十二年「卜傳流剣術・林崎新夢想流居合額上文」・明治二十一年「(北辰社免状)」・小山秀弘蔵)。

(49)内藤官八郎 一九八〇『青森県立図書館郷土双書第一六集 弘藩明治一統誌 人名録 全』の「笹森丁 北辰堂」の項。仙台から来た一行はどのような剣技であったのだろうか。嘉永三年(一八五〇)年前後に描かれた『仙台年中行事絵巻』には、板の間の道場で、剣道具を着用し、股立ちをとって、剣や槍の打ち合い稽古をしている藩士の姿が描かれている。幕末の仙台藩の稽古が、近代剣道のスタイルに酷似していたことがわかる(仙台市編さん委員会 一九九七『仙台市史 資料編三 近世二 城下町別冊』仙台市 七七頁)。よって明治期に仙台からやってきた一座もほぼ同様の稽古スタイルであると推測できよう。

(50)撃剣興業のブームは剣道の学校正課採用の動きへ繋がったという。(石垣康造 二〇〇一『撃剣会始末』一七七頁~一八三頁、二一七頁~二六一頁 島津書房)。

(51)オーギュスト兄弟撮影「日本の剣士(Lutteurs japonais)」(一八九七年、撮影地京都、四十一秒、カメラマンC・ジレル)では、路地で二名の男が小野派一刀流に類似した形を打つ光景が、同「日本の剣術(Escrime au sabre japonais」(一八九七年、撮影地京都、四十二秒、カメラマンC・ジレル)では、日本家屋の玄関先の路上で、約八名の剣道防具を付けて竹刀を持った剣士が集団で密集して自由乱打をしている光景が撮影されている。(オーギュスト=リュミエール・ルイ=リュミエール「リュミエール兄弟と映画」№六〇〇七 国立民族学博物館大森康博監修マルチメディア)。青森県史編さん室『青森県史 資料編 近現代2』七八七~八頁の史料七九七。また現代剣道の中で一太刀打った後に走り抜ける技術が明治期の撃剣興業で派生した技術であるとの伝承がある。前掲書黒田鉄山三七頁。

(52)前掲大塚忠義『日本剣道の歴史』Ⅱ章

(53)明治中後期に設立された旧弘前城下内の町道場には、明治館、北辰堂、城陽会、求道館、清友館、陽明館があったが、現存するのは北辰堂のみである(『弘前道場来歴』(写)小山秀弘蔵・青森県史編さん近現代部会編 二〇〇二『青森県史 資料編 近現代1』青森県六九六頁 史料№六四九)。同道場には近代から現代にかけての多くの門人札が多量に現存しており、実見すれば、市長や職業軍人、元士族、農業、実業家、医者など多彩な様々な層からの入門者があったことがわかり、近代剣道の当地における広範な層への普及の様子が伺える。また、「ねぷた喧嘩」は、十八世紀の弘前藩庁日記にも記載があるが、明治期に激化したという。特に明治二十四年(一八九一)八月十・十一日の「北辰堂襲撃事件」では、総勢約八〇名が、刀剣や木刀、竹槍で乱闘して死傷者が出た。(藤田本太郎 一九七五『弘前市立図書館創立70周年記念出版 ねぶたの歴史』弘前市立図書館後援会一二四頁~一五一頁)。

(54)堀田祐弘 一九一八「剣道の極意 附録全国武者修行記」(一九八五「近代剣道名著体系 第五巻」同朋舎)。 反面、渡邊昇は神道無念流斉藤弥九郎門下であり、彼の安政年間の「撃剣修行」の様子は、「竹刀、面、小手」を用いて打ち合う近代剣道のスタイルで当時の江戸での一般的な稽古スタイルであったと考えられる(前掲書『増補 幕末百話』二二〇頁~二二一頁)。

(55)当時の市内の各道場では、元藩士が流派剣術の形稽古を行い、竹刀稽古で時折防具外れを打った話や、異なる流派同士が素面素籠手で木刀の決闘を行なった話等が記述され、近世期の遺風が残っていたようだ(笹森順三「剣道と私」(体育とスポーツ社 一九七四『剣道時代一月号創刊号』・同「笹森順三自叙伝 剣道の物語」第八回(同 二〇〇一『同剣道時代四月号№三四五』・同「わが学生時代」(浅野茂夫 一九六六『武道春秋十月号』武道タイムス社)。他にも、同道場の卜傳流・林崎新夢想流師範家では、明治四十五年以降、大正期まで同流の門人を抱え、免状を発行していた。(大正二年「卜傳流 林崎新夢想流居合旧師範家小山儀三郎門人」小山秀弘蔵)。そのためか大正三年(一九一四)五月五日『弘前新聞』の「老剣士談」は、竹刀剣道のことを「煤払剣術」と批判し、面白みが無いように見られがちな「剣術の組型」の重要性を説いている。(前掲「青森県剣道史」四〇八頁~四一〇頁)。

(56)武道のエリート育成機関であった通称「武専」(大日本武徳会武道専門学校)は、明治43年に設立され、昭和20年に廃校となった。そこでは近現代剣道技術の中核となる「切り返し」と「掛稽古」を中心とした稽古に主眼がおかれた(堀籠敬藏「剣の清流第12回 武専の思い出」(財団法人日本武道館2003『月刊 武道 三月号』)。また、青森県の近代以降については、注(8)前掲書『青森県剣道史』及び弘前剣道連盟三十年史編集委員会 一九七一『三十年史』弘前剣道連盟が詳しい。また、旧弘前藩卜傳流師範家では、近代剣道技術に直結する北辰一刀流の伝書『剣法秘訣』(一八八四年)の写しを所蔵している(高坂昌孝ほか 一九八五『近代剣道名著体系第二巻』同朋舎 三二三頁)。同家の伝承によれば、幕末維新期に青年期を過ごした英一(一九一七年没)の代から「剣道」の稽古を導入して老齢まで稽古をしたといい、その先代師範精蔵までは家伝の剣術形稽古のみであったという。(故小山秀雄ノート(明治三十七年生)『卜伝流解説 附小山家系図 昭和四十一年一月』小山秀弘蔵より)その後、近代剣道の大家高野左三郎と同じ一刀流で撃剣興業に参加した宮川義令や地元出身の市川宇門らの武徳会教士が大正期に弘前地方に赴任して近代剣道を教導したという(註45前掲書石垣二七五頁と故小山秀雄の聞き取りより)。これらの資料は、幕末維新期以降が旧弘前藩における流派剣術と近代剣道の過渡期にあたり、その後近代剣道が地方へ波及していったことをを示す証左とみてよいだろう。

(57)榎本・和田前掲書一四二頁。

(58)注(19)。「つりあい」の記述は、寛政年間の無辺流槍術小舘儀兵衛の記事(青森県文化財保護協会1972『みちのく叢書第三集 津軽藩旧記伝類』国書刊行会 四三〇頁)、小山英正(写)明治三二年「卜傳流剣術目録序」(小山秀弘蔵)、服部孫四郎「願立剣術物語」(年代不明近世ヵ、八戸市立図書館蔵)。

 また、筆者の管見の限りでは、現代剣道の技術テキストにおいて、源流である小野派の伝書に含まれた神道、仏教、儒教的な知識と見られる宗教用語や坂、野宿、戸入りといった状況に応じた対応法の知識などについては、近代以降の時代的な用途が無いためかほとんど引用されることはない。また、異なる技術体系を持つ他流派への対応法も無い。よって現代剣道公式テキストは、同会派内におけるシナイ技術部分のみを継承したものと考えられる(前掲書笹森の第四章第四編を参照のこと)。

(59)前掲『青森県剣道史』の第一部第一章では当時の師範方が、明治以降の近代剣道の思い出について談話会をしているが、近世期については推論に終始して地元の近世流派剣術師範群を「全然知らない」と述べている。技術伝承の断絶が伺えよう(同 一一頁~五二頁)。また、伝統芸能の昔ながらの稽古法が、学校教育に対応する新しい稽古システムへと改変していく様子とそれに伴って技術自体が大衆化へと変容していく様子については、西郷由布子 一九九五「芸能を<身につける>―山伏神楽の修得過程」(『福島真人編『未発選書第2巻 身体の構築学―社会的学習課程としての身体技法―』ひつじ書房)の分析がある。近代剣道においても同様に幕末から大正期にかけて集団一斉指導用へ技術体系が改変整備され、体捌きや運動方向が単純化して現代剣道技術が形成されていったという(注19の各論文)。

打ち合う楽しさが普及に一因であったことは、大塚前掲書(六頁~一九頁)に詳しい。

(60)現代の剣道連盟の一般向けテキストでは、欧米の近代スポーツトレーニング理論の説明から始まり、ヴォーミングアップ、クーリングダウン、ストレッチ、ベンチプレスやスクワットなどのウエイトレーニングについて写真の図解入りで説明しており、実際に高校や大学の部活動などでマシントレーニングやランニングなどが導入されて定着しているという。これらの鍛錬法は流派剣術には見られない現代剣道特有の新しい特徴といえよう。(財団法人全日本剣道連盟一九九九『剣道 社会体育教本』「剣道の体力トレーニング」一四九~一七二頁、スキージャーナル社 二〇〇二『月刊 剣道日本四月号』の「特集 剣道のための身体づくり」)。また近年、剣道具の形態も変化が始まり、競技者の頑張る表情が観客にわかるように顔面を透明な強化プラスティックに変えた面が市販されている。

(61)前掲『月刊剣道 日本』二〇〇二年八月号の「特集 剣道の本筋」のレポート記事。剣道教員を育成した学校については前掲『剣道の歴史』三九六~四〇一頁が詳しい。また「全剣連流」については、現代剣道の高段者の中でも、昇段審査等で一定のスタイルの技術が好まれて合格率が高いという見解が存在し、そのスタイルを「全剣連流」と呼ぶ関係者もいるようだ。(前掲『月刊 剣道日本 2003年3月号』三〇頁)

(62)前掲書(注7)

(63)獅子踊りの変化については、大村達郎二〇〇三「青森県における獅子踊り研究の現状と課題」(東洋大学『東洋大学大学院紀要 第39集』二八六~七、宇佐美隆憲 二〇〇二『草相撲のスポーツ人類学ー東アジアを事例とする動態的民族誌ー』岩田書院二二九~三〇頁など

(64)小山次郎太夫 文化八年(一八一一)『卜傳流剣術目録追加一』小山秀弘蔵。

(65)橋本裕之 一九九五「「民俗芸能」における言説と身体」福島真人編前掲書所収。

(66)ジェラルド=グローマー「外国人の見た幕末の芝居-横浜と長崎を中心に-」(日本歴史学会編一九九五『日本歴史 6月号』吉川弘文館七九~八〇)、ラフガディオ=ハーン1894年「日本瞥見記(上)」(平井呈一訳 一九六四『全訳小泉八雲作品集 第五巻』恒文社)一八五~九三、二七〇~七一、三一六~一九、三五六~六一頁など。

(67)橋本裕之二〇〇〇「民俗芸能の再創造と再想像-民俗芸能に係る行政の多様化を通して-」(香月祥一郎・赤田光男編『講座日本の民俗学10民俗研究の課題』雄山閣七八頁)

(68)小池淳一二〇〇二「伝承」(小松和彦・関一敏編『新しい民俗学へ-野の学問のためのレッスン26-』せりか書房五四頁)

(69)平山和彦一九八九「民俗学的発想」(鳥越皓之一九八九『民俗学を学ぶ人のために』世界思想社一一~一八頁)

 

(謝辞)本論の執筆にあたり、民俗芸能の研究動向について日本民俗学会大村達郎氏に、近世史料翻刻については弘前大学国史研究会泉正信氏及び小石川透氏から御教示を受けた。また本論は、弘前剣道連盟公式ホームページ(http://www.hirosakikendourenmei.com/fr2.html)「現代剣道研究」内の拙論「流派剣術から近代剣道へ―旧弘前藩領における合同シナイ稽古の導入―」(二〇〇二年七月)を草稿として大幅に改訂執筆したものである。草稿段階では、松聲館甲野善紀師範に実技指導と共に執筆動機を、福島大学社会学部坂上康博教授には温かい励ましと今後の課題についての御教示を戴いた。他にも當田流剣術宗家竹内大師範にもご教示を戴いている。諸氏に深く感謝申し上げたい。

 (本論は、青森県民俗の会編『青森県の民俗』第3号 2003年7月刊行 所収のものである。)

 

1