第1・112151潜水隊司令

本稿では、各鎮守府に配置されたトップナンバーの4個潜水隊を取り上げた。

潜水艇で1個隊を編制して集中運用する発想は、水雷艇や駆逐艦と通じるものがある。

ただし潜水艇は研究開発が始まった頃に採用した艦艇であり、その運用は紆余曲折がある。

駆逐隊と違い、設置当初は隊番号の入れ替えはあまり多くなく、原番号のまま横須賀籍と呉籍をさまようことがあった。

大正7年4月1日より、駆逐隊と同様に

横須賀所属は1〜10、呉所属は1120、佐世保所属は2130、舞鶴所属は3140の番号が割り振られた。

さらに外洋行動を追求した結果、潜水艇は大型化したため、

大正8年4月をもって潜水艇を「潜水艦」に、潜水艇隊を「潜水隊」に改めた。

本稿で取り上げた第1潜水隊はもちろん日本初の潜水隊であり、敗戦までに5代編制された。

呉のトップナンバー11潜水戦隊は3代、佐世保のトップナンバー21潜水隊は2代編制されている。

舞鶴は空席のまま終戦を迎え、51潜水隊は番号が一巡して横須賀籍の潜水艦を中心に編成した混成部隊である。

 

第1潜水艇隊T第1・第2・第3・第4・第5・第6・第7

11潜水(艇)隊T(大正7年11月2日−)

言うまでもなく、日本初の潜水艇部隊として、当初は保有するすべての潜水艇が所属した。

これらを暖簾分けしていく形式で、揺籃期の潜水隊を増強している。

当初は横須賀に配置したが、小型すぎて外洋での訓練ができず、早くも翌年に内海の呉に転籍している。

一度も艦隊に召集されることなく、呉または横須賀で練習艦として訓練に従事した。

大正7年の番号改編によって呉のトップナンバー11潜水隊に改称した。

43年に事故沈没した第6潜水艇はじめ全艦は大正10年に引退した。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

明治38年8月1日

小栗孝三郎

15

石川

横須賀艤装委員

イギリス駐在

舞鶴鎮守府司令長官

 

明治39年2月24

東條 明次

21

徳島

第_潜水艇長

第_潜水艇長

朝鮮総督府御用掛

 

明治39年3月20

松村 純一

18

東京

軍令部参謀

造船監督官

第1潜水戦隊司令官

 

明治401030

 

 

 

 

 

 

 

明治411223

宮治民三郎

25

愛知

第2潜水艇隊司令

豊橋分隊長

潜水学校長

2sg司令

明治42年4月17

井出 謙治

16

静岡

イギリス出張

海軍省副官

海軍次官

 

明治4212月1日

平岡 貞一

16

東京

海軍省副官

第2潜水艇隊司令

横須賀工廠造兵部長

 

明治43年3月19

吉川 安平

22

山口

豊橋副長

イギリス駐在

横須賀鎮守府司令長官

 

明治431217

今泉哲太郎少佐司令心得

 

 

 

 

明治44年4月17

今泉哲太郎

25

佐賀

第_潜水艇長

イギリス駐在

第2潜水戦隊司令官

 

大正2年11月5日

福田 一郎

26

熊本

呉水雷隊参謀

第3潜水艇隊司令

伊吹艦長

 

大正3年1213

 

 

 

 

 

 

 

大正10年4月30日全艦除籍

 

 

 

 

 

第2潜水艇隊T第1・第2・第13(波号第6)・第16(波号第7)・第17(波号第8)

第1潜水(艇)隊U(大正7年11月2日−)

大正5年に暖簾分けして新設した第2潜水艇隊を、番号改編にともなって横須賀トップナンバーの1潜水隊にスライドした。

暖簾分け組の第1・第2にとっては2年ぶりの古巣ということになる。

以後3年あまり2代目を襲名し、大正10年に13潜水隊の8・9号と交換トレードされて横須賀を去った。

沿革については第2潜水隊を参照されたい。

第1潜水隊V第8(波号第1)・第9(波号第2)

明治41年の就役以来、13潜水隊で過ごしてきた両艦だが、先代1潜水隊の5隻と交換トレードされ、3代目となった。

重油ディーゼルエンジンで統一された後継艦と異なる旧式ガソリンサイクルエンジンもあいまって

やはり一度も艦隊に召集されることなく練習艦として訓練に従事した。

両艦は大正12年に等級変更を受け、波号のツートップに改名した。

昭和4年に両艦が引退し、1潜水隊は4代目結成までの11年間、空席となった。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

大正10年3月15

 

 

 

 

 

 

 

大正11年6月10

白根貞介少佐司令心得

 

 

 

 

大正1212月1日

 

 

 

 

 

 

 

昭和4年4月1日解隊

 

 

 

 

 

第1潜水隊W伊号第15・伊号第16・伊号第17

乙型2・丙型1で11年ぶりに1潜水隊を編制した。

編制当初から1潜戦に召集され、開戦時は乙型がアメリカ西海岸沖の通商破壊、伊17は甲標的母艦として真珠湾を奇襲した。

当初から部隊行動は取らず単艦行動が多く、

15はK作戦の補給、伊16はディエゴスワレス甲標的投入、伊17はカリフォルニア油田砲撃とそれぞれに活動した。

乙型は北方作戦に従事し、ダッチハーバー・アッツ偵察を行った後、伊16が行動するソロモンに合流した。

1517年8月に戦没したのちもニューギニア向けモグラ輸送を展開、ラエやウェワクへの陸戦隊上陸に成功した。

18年8月、伊17は敵本拠地のヌメアを偵察中に撃沈され、残った伊16を2潜水隊に移管して潜水隊を解散した。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

昭和151115

石崎  昇

42

東京

潜水学校教頭

日向艦長

第22戦隊司令官

 

昭和16年8月11

今里  博

45

長崎

第20潜水隊司令

第2潜水隊司令

報国丸艦長

 

昭和17年2月1日

今和泉喜次郎

44

鹿児島

第2潜水隊司令

さんとす丸艦長

第16潜水隊司令

 

昭和17年8月26

太田信之輔

47

京都

第19潜水隊司令

18年2月11日戦死

第1潜水隊司令

 

昭和18年3月25

岩上 英寿

46

栃木

11潜水隊司令

第2潜水隊司令

第2潜水隊司令

 

昭和18年9月25日第2潜水隊へ統合

 

 

 

 

 

第1潜水隊X伊号第14・伊号第400・伊号第401・伊号第402

甲型1・特型3隻で編制した最後の1潜水隊で、編制当初から第6艦隊直卒部隊となった。

パナマ運河奇襲爆撃を考慮した艦であることから、晴嵐を擁する艦載機も同時運用するべく631航空隊も指揮下に置いた。

実際はいち早く就役した伊14が単独でトラック向け彩雲輸送に出動し、就役が遅れた伊402は実戦に参加していない。

パナマ爆撃は机上の空論として破棄され、機動部隊が常駐するウルシーの奇襲を実行することになった。

往路の途中で終戦となり、伊400・伊401は入港前日に拿捕された。

深夜のうちに有泉司令は文書処分を済ませて自決し、横須賀入港をもって全行動を終えた。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

昭和191215

有泉龍之介

51

茨城

伊号第8艦長

20年8月29日自決

第1潜水隊司令

631fg司令

昭和20年9月2日解隊

 

 

 

 

 

 

第1潜水艇隊T第1・第2・第3・第4・第5・第6・第7

11潜水(艇)隊T(大正7年11月2日−)

横須賀と呉を右往左往していた初代1潜水艇隊が、ようやく呉に定着した大正7年に番号変更があり

呉トップナンバーの11潜水隊にスライドして初代11潜水隊となった。

大正10年に全艦が退役し、変更後わずか2年半で呉トップナンバーは空席となった。

沿革については第1潜水隊を参照されたい。

第3潜水隊V25(呂号第51)・第26(呂号第52)・第27(呂号第53

11潜水隊U(大正1112月1日−)

初代引退から1年のブランクを経て、3代目3潜水隊として結成されてからわずか2年弱で、

ヴィッカースL型3隻からなる若い部隊が呉に転入し、2代目11潜水隊を襲名した。

呉トップナンバーを16年間維持して老朽退役となった。

沿革については第3潜水隊を参照されたい。

11潜水隊V伊号第(1)74・伊号第(1)75・伊号第176

先代と入れ替わりに、唯一のオリジナル部隊である3代目が海大型最終ロット2隻で編制した。

最新鋭の攻撃潜水艦でもあり、編制当日から最前線の2潜戦に召集されており、解散まで2潜戦に君臨している。

連合艦隊隷下にあったため、日華事変には関与していない。

開戦時はハワイ砲撃と通商破壊、アリューシャン哨戒、ミッドウェー海戦支援、ソロモン偵察と1年間同一行動を取った。

17年8月に新海大型の伊176が加わったが、11月に伊175がトラックで衝突事故を起こし4ヶ月ドック入りとなる。

これに合わせて伊174も本土に戻り、伊176が単独でモグラ輸送を続行した。

これを機に、戦力が払底した12潜水隊の再建を図るために11潜水隊を放棄し、12潜水隊に移管することになった。

3隻とも健在なうちに解散となった珍しい部隊である。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

昭和131215

鶴岡 信道

43

東京

造船造兵監督官

五十鈴艦長

呉工廠潜水艦部長

 

昭和141115

竹崎  馨

45

愛媛

 

第8潜水隊司令

舞鶴工廠潜水艦部長

 

昭和16年9月1日

水口 兵衛

46

静岡

 

 

 

 

昭和171128

岩上 英寿

46

栃木

21潜水隊司令

第1潜水隊司令

第2潜水隊司令

 

昭和18年3月15日第12潜水隊に統合

 

 

 

 

 

 

21潜水隊T18(呂号第1)・第21(呂号第2)

長らく呉と横須賀で潜水隊を育成してきた海軍は、佐世保にも潜水隊を配置することにした。

9年3・4月に就役して14潜水隊に編入していたフィアット型2隻を暖簾分けすることになり、3季目に佐世保へ転出させた。

船体強度が弱いため潜航深度が浅く、フィアットエンジンのコピー技術が伴わずカタログスペックを達成できない船であり

結局は艦隊に召集できないままではあったが、佐世保最初の潜水艦部隊として練習に供された。

昭和7年をもって両艦とも退役し、佐世保トップナンバーは5年間空席となった。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

大正9年12月1日

 

 

 

 

 

 

 

昭和7年4月1日全艦除籍

 

 

 

 

 

21潜水隊U呂号第33・呂号第34

新海中型のタッグで2代目の21潜水隊を編成した。

元来はロンドン条約で日米英同量に制限された潜水艦枠の中で、数を稼ぐために実験的に建造された船であり、

艦隊投入は15年度に4潜戦へ召集されるまで大きく遅れた。

新型中型艦のタッグという扱いやすい編制のため、潜水艦の現場から離れていた新米司令の育成に向いていた。

太平洋戦争はジャワ攻略に備えた哨戒と通商破壊に従事し、のちにソロモンへ渡った。

長らくラバウルを拠点にソロモン・ニューギニアの哨戒任務に従事していたが、

17年7月に呂33が戦没したために呂34が単艦で取り残されてしまい、10月をもって正式に解散した。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

昭和12年5月31

魚住 治策

42

福岡

隠戸副長

第8潜水隊司令

第15根拠地隊司令官

 

昭和131215

佐々木半九

45

広島

木更津航空隊副長

第12潜水隊司令

第6艦隊参謀長

 

昭和141115

 

 

 

 

 

 

 

昭和151115

水口 兵衛

46

静岡

 

 

 

 

昭和16年8月11

加藤 行雄

47

和歌山

呉工廠潜水艦部員

第28潜水隊司令

第28潜水隊司令

28sg司令

昭和161110

岩上 英寿

46

栃木

第6潜水隊司令

11潜水隊司令

第2潜水隊司令

 

昭和17年8月20

藤本  伝

48

東京

 

第13潜水隊司令

潜水学校教官

 

昭和1710月5日解隊

 

 

 

 

 

 

51潜水隊呂号第100・呂号第101・呂号第104

局地哨戒に特化した小型を統率するために編制したのが51潜水隊である。

従来の潜水隊と違い、所属鎮守府の枠をはずした混成部隊であり、機能的に小型でそろえた部隊という側面が強い。

スタメンはラバウルに進出し、ソロモン・ニューギニア各地の哨戒任務に従事した。

しかしアメリカの対潜掃討技術の前に戦没が相次ぎ、新造艦も逐次追加されたが喪失も激しくなった。

105座乗の加藤司令が戦死した19年5〜6月には、護衛駆逐艦イングランドに5隻、テイラーに2隻仕留められた。

19年8月をもって小型の潜水隊統率は断念され、7潜戦直卒となったものの、小型18隻は全艦戦没という最悪の結末となった。

 

司令氏名

本籍

前職

後職

最終職

兼職

昭和18年8月20

 

 

 

 

 

 

 

昭和18年9月1日

加藤良之助

48

愛知

第33潜水隊司令

19年6月25日戦死

51潜水隊司令

 

昭和19年6月25

田上 明次

51

三重

 

第52潜水隊司令

第52潜水隊司令

 

昭和19年8月15日解隊