還住(かんじゅう)と次郎太夫(じろうだゆう)

むかし、青ヶ島が噴火(ふんか)した時、
島の人々はとなりの八丈島(はちじょうじま)に避難(ひなん)しました。

でも、ふるさとがなつかしくて、恋(こい)しくて、
青ヶ島にもどってこようとしました。

そのとき、島の人々の先頭(せんとう)にたっていたのが、この像(ぞう)の人、
青ヶ島の英雄(えいゆう)、佐々木次郎太夫(じろうだゆう)です。

還住像碑文(かんじゅうぞうひぶん)
〜還住像碑文〜
還住像
 天明の大噴火で島人は残ら
ず去り 以後 半世紀にわた
る驚くべき勇気 忍耐と協力
の闘いで 先人は故郷の島に
還り住んだ。
 昔も今も 我等が島の若者
達は 手を高く挙げ まなじ
りを決し 島起こしの船出を
する。
 明日もまた。
 昭和六拾年四月弐拾七日
青ヶ島村
〜かんじゅうぞうひぶん〜
かんじゅうぞう
 てんめいのだいふんかでしまびとはのこら
ずさり いご はんせいきにわた
るおどろくべきゆうき にんたいときょうりょく
のたたかいで せんじんはこきょうのしまに
かえりすんだ。
 むかしもいまも われらがしまのわかもの
たちは てをたかくあげ まなじ
りをけっし しまおこしのふなでを
する。
 あすもまた。
 しょうわ60ねん4がつ27にち
あおがしまむら


噴火(ふんか)で住めなくなってしまった青ヶ島を、もう一度、人の住める島にしたい・・・
そう考えて、行動を起こした人が「三九郎」という人。
三九郎のあとを継(つ)いだのが次郎太夫(じろうだゆう)。
次郎太夫(じろうだゆう)は「青ヶ島のモーゼ」ってよばれています。
モーゼとは、何のことでしょう?

モーゼは、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)に登場(とうじょう)する人で、国を追(お)われたユダヤの人たちを、
40年かけてカナンの地に連れ帰ったひとです。
きっと人々から信頼(しんらい)された人だったにちがいありません。

モーゼも次郎太夫(じろうだゆう)も、他人の立場に身を置いて考えるという指導者(しどうしゃ)でした。
どんな困難(こんなん)にも決してあきらめず、みんなが力を合わせていくことに心を配(くば)った人でした。


<還住(かんじゅう)年表>

西暦
年号
できごと
1780安永9地震(じしん)がつづき、池之沢(いけのさわ)に火の穴があく。
1781天明1噴火(ふんか)、池之沢に岩がのこる。
1782天明2噴火、ふってくる砂のためやさいなど全滅(ぜんめつ)。
1783天明3大地震、大爆発(ばくはつ)で大池・小池埋(う)まる。
1784天明41年間災害(さいがい)なし。
1785天明5最大の爆発 昼でもまっくらな日が8日間続く。
163人が八丈島へにげ、あとの人約220人が死ぬ。
〜天明の別れ〜
1789寛政1名主(なぬし) 三九郎ら12人が青ヶ島を調べにもどる。
1793寛政5三九郎ら20人が青ヶ島に帰り、うち12人が島にのこる。
1794寛政6三九郎ら15人、青ヶ島へ出発するが、とちゅうで船がこわれてしまう。
1795寛政7一番船、八丈沖(おき)で てんぷくし8人死ぬ。
二番線。8人青ヶ島へ着く。
1796寛政8食料をのせた船がでるが、房州(ぼうしゅう・千葉県)へ流される。
1797寛政9三九郎ら14人出発するが、紀州(きしゅう・和歌山県)へ流され、三九郎ら12人死ぬ。
1801享和1青ヶ島にのこって8年間がんばった7人がとうとう八丈島にもどり、
それから16年間、青ヶ島は無人島になる。
1817文化14名主 次郎太夫、青ヶ島にもどる計画をたてて、八丈島の役所に出し、
みんなをまとめて還住にのりだす。
1835天保6長年の努力(どりょく)がみのって、とうとう青ヶ島の村人全員の還住を成功(せいこう)させる。

「天明の別れ」から50年ぶり。
男133人、女108人 合計241人

伝説(でんせつ)
還住(かんじゅう)と次郎太夫(じろうだゆう)
「おもうわよう」
島うた


学校しょうかい島の自然(しぜん)島の産業(さんぎょう)島の歴史(れきし)青ヶ島のことを書いた本


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