旧東海道

 

1)旧東海道散策@ 酔芙蓉の寺・大乗寺を訪問

1) 大乗寺はどこにあるか?
 山科に居を移してから7年半、京都新聞の山科関連記事を切り抜き保存してきたが、私が最初に大乗寺の酔芙蓉の記事に注目したのが平成14年(2002)9月であった。「白花変化・参拝者うっとり」の見出しに強い印象を持ったが、山科西部の北花山地区の地理に弱い私にとって、気にしながらも訪ねる機会は無かった。
 今年に入り、御陵在住の長谷川正さんの案内で、琵琶湖疏水の東山用水ルートを探索したとき、その存在場所を教えていただいた。私は関西地区にある花の寺の多くを見学してきたが、酔芙蓉を鉢植え・地植えを含めて1,500本あるところは初めてなので、その場所を正確に紹介する。
 地下鉄御陵駅のB出口のエレベーターで三条通に出て、少し京都側に歩いて日ノ岡交差点の信号で大石道と名付けられた道を南に進み、10分くらい歩くと旧東海道の細道と直交する。そこに大乗寺と書かれた標識があるので、右折して坂道を登っていくと大乗寺に登る急な石段があるが、さらに数十メートル進むとゆるやかな参道がある。その立地は旧東海道の狭い道に沿った山の斜面に存在するので、車でのアクセスは困難である。

  大乗寺に入る最初の急な石段
    左手に有名な亀の水不動尊がある

数十メートル先にあるゆるやかな参道入り口
右手の道路は旧東海道筋、一方通行の車道

2) 大乗寺の由来
 大乗寺を訪ねた時にいただいた「当山の由緒と酔芙蓉について」という資料に詳しく説明されているので、その一部を紹介(文責筆者)すると
 約300年前に京都の七本松に建立された寺で、禅宗系の寺から法華教の寺に改宗され、その後は尼寺として受け継がれ、約200年前に法華宗の大本山本能寺の末寺になった。
 この寺は建物も老朽化し、留守番としていた尼僧の申し出で約20年前に本山の意向にもとづき、現在の山科の地に移転してきた。
 しかし檀信徒がほとんど無く、若い僧侶を交代派遣したが落ち着かず、廃寺にしないよう本山御貫首の遺命があり、本山の要職にあった岡澤海宣(現住職)が無住の当寺に移り住んだ。
 平成4年に移り住んだ住職夫婦は、草庵に等しい荒れ寺をツルハシ一本で参道造りから始め、傍ら吟道宣州流瑛心会という吟詠会の吟友の薦めにより酔芙蓉の苗木100本ほどの寄贈を受け、毎年百数十鉢に挿し木して現在1,500本を越えるところになった。

3) 酔芙蓉の名の由来
 植物関係の本を読むと、酔芙蓉には一重咲き・八重咲き・ししがしらの3種類があると書かれているが、一般には八重咲きが知られている。大乗寺の酔芙蓉も八重咲きの大輪で、朝の咲き始めは白色であるが、昼から午後にかけて薄桃色に変わり、夕方になると赤色となりしぼむ。この姿が酒に酔って顔が赤くなる様に似ていることから酔芙蓉の名がついたという。

午前の咲き始めは白色の花

午後の次第に桃色に変色する花

夕方しぼむ頃赤くなる花

 この花の咲く時期は、その年の季節の変化により変わるが、日照時間や気温に関係があるようである。酔芙蓉はアオイ科の落葉低木で、10年足らずに3m近くの高さに育つ。真夏の暑い日は変化が早く、涼しくなった秋に咲く花はゆっくり変化する。
 酔芙蓉の花は、一日で終わる“一日花”であるが、多くのつぼみが次々と咲きつづけるので花期は1〜2ヶ月と長い。前にも説明したが、モミジの場合気温が低くなると、葉の緑色の色素(クロロフイル)が壊れてその下に隠れていた黄色の色素(カロチノイド)が表面にでたのが黄葉で、葉に取り残された糖分が赤色の色素(アントシアン)に変化したのが紅葉と説明されている。
 酔芙蓉の場合も日照や気温の変化で、花に含まれる化学成分が分解・合成され、色の変化が起こっているものと想像される。

4)日本人に愛される酔芙蓉
 夏の終わりから秋の初めにかけて、アオイ科のムクゲ・フヨウ・モミジアオイ・タチアオイ・ハイビスカス・トロロアオイ・スイフヨウなどが咲くが、酔芙蓉(スイフヨウ)はこの時期の花の王様と言ってもよいと思う。とくに午後の昼下がりの薄桃色に変色した八重の酔芙蓉が一番好きである。
 酔芙蓉は、中国大陸・台湾・九州・沖縄など暖地に自生する落葉低木であるが、神奈川県西北の南足柄市のふくざわ公園も酔芙蓉で有名であり、北海道を除く本土で生育可能のようである。花言葉では“しとやかな恋人・繊細な美しさ・微妙な美しさ”を表現されており、中国では、玄宗皇帝の愛妻・楊貴妃のほろ酔い姿に例えられている。私はハンナリと表現される京の女性を想像する。

 今回の訪問は9月末の午後1時から2時ころであったが、入門時に白色であった花が帰りには薄桃色に変化していた。比較的狭い庭園は酔芙蓉で覆われていたが、その花の中に多くの文学碑が存在していた。帰宅してからインターネットで大乗寺のホームページを検索したところ、充実した内容のものがあり、文学碑も含めて詳しく紹介されているので興味ある方は検索していただきたい。
 http://www.cable-net.ne.jp/user/tk118243/daijyoji/dtop.htm

2)旧東海道散策A 日ノ岡峠の車石・車道散策1

 去る10月9日、車石・車道研究会主催の散策会に参加した。地下鉄御陵駅に集合し、そこから旧東海道に沿って車石・車道関連史跡を巡回し、三条通の京津国道紀年碑まで約3時間の散策を楽しんだ。このコースは、山科区誕生25周年記念として発行された歴史探訪誌「やましなを歩く」にも紹介されているが、今回は車石に焦点を絞っており私にとっては初めてのコースだったので、2回に分けてその要旨をとりまとめた。
 解説を担当された久保孝氏(京都女子大付属小教諭)や関係者の緻密な調査資料が配布されたが、参加者が予想を越えて多く、途中で資料を読む暇もなく、現場説明を十分に聞くことが難しかったので、以下の解説は私の浅い知識にもとづく表面的なものになってしまったことを最初にお詫びしておく。

1) 旧東海道沿いに残された車石と一里塚
 御陵駅の@番出口から三条通を横断して、旧京津電鉄線路跡につくられた「綾ヶ岡みどりの道」の西口を少し越えたところから旧東海道筋の住宅街に入る。何となく古い面影を持つ狭い道筋を西に進むと、あちこちの住宅の庭・玄関・垣根石などに車石が存在している。説明者の指摘が無ければ判別の困難な車石もあった。

垣根石に利用された車石

道路横の仕切り石として利用された車石

 旧東海道が大石道と交差するあたりから坂道となる。このあたりは、木食正禅上人が日ノ岡峠の土砂を削り取って、坂の勾配をゆるめたときに排出された土砂を放り捨てた場所で、今でも日ノ岡ホッパラ町の名が残っていると説明を受けた。この坂道の少し手前の直線部分に「御陵一里塚跡」がある。
 一里塚とは、江戸日本橋を起点として一里ごとに塚が設けられ、旅人の目的地までの行程の目安として利用された。塚には榎や松が植えられてあった。125里目の終点・三条大橋の一つ手前の124里目が「御陵一里塚」であるが、明確な塚跡は残っていない。
 この一里塚は慶長9年(1604)に徳川家康が秀忠に命じて築造したと伝えられるが、塩野七生著「すべての道はローマに通ず」によると、紀元前120年頃からすべてのローマ街道には1ローママイル(1.485km)毎に石柱を立て、距離だけでなく種々の情報伝達の役目を果たしたという。その後一里塚は東海道・北陸道など主要道路のみでなく甲州・日光などの小さな街道にも設置されていった。

2) 亀の水不動尊・木食正禅上人・梅香庵跡
 北花山の山裾に沿って少し上がったところに有名な亀の水不動尊があり、現在も亀の口から水を流下させている。この亀の顔には、短い耳がついている。おそらく仏教の教えに登場する動物の姿を重ねたものと想像されるが、その由来はわからない。今回の散策会でこの水源は山の1区画を契約して自然水の安定確保をしていると説明を受けたが、京都新聞(02-04-14付)によると、40年以上不動尊の世話をしつづけている岩田良三さんの話として、新山科浄水場を造るとき太い導水管が通って地下水が枯れたので、今は水道水のお世話になっていると紹介されている。

亀の水不動尊の正面全景

亀の顔には耳がついている

 この不動尊の入り口に、綾ヶ岡自治会連合会が設置した「木食遺跡B梅香庵跡(亀の水不動)と題した説明板が立っているので、参考までに全文を紹介すると、



 綾ヶ岡自治会連合会の説明板
                         

説明板の裏墨に木食上人が使用した摂待用
かまどと車石が置かれている
3) 江戸時代の三条街道の主な改修工事について
 今回の散策時に、木食正禅上人が実施した日ノ岡峠の改修に車石を使用したかどうかが話題になり、車石は使用していなかったらしいと説明があった。前の研究会資料で久保孝先生が過去の史料に残るものとして、
@ 宝栄3年(1706)〜宝永4年(1707):三条街道車道付け替え工事
A 享保21年(1736)〜元文3年(1738):木食上人による日ノ岡改修工事
B 文化元年(1804)〜文化2年(1805):三条大橋から大津に至る三条街道の工事
  この時に車石が敷き詰められた。(昨年は車石200年記念行事あり)
C 嘉永2年(1849)の改修工事
D 慶応元年(1865)の日ノ岡峠迂回路開削工事
E 明治8年(1875)〜10年(1877)大津街道修繕工事の一環(マカダム式道路)として日ノ岡峠を一丈一尺四寸(3m45cm)余り切り下げる。この工事で車石は撤去。を示された。これによると、Bの時代に車石使用は確実であるが、Aの木食正禅上人の時代には車石は無く、まだ小石・大石を敷き詰める方式であった可能性があるのだろうか?(従来、木食正禅が車石を設置したという記述や遺跡が多い)

4) 木食正禅上人の紹介
 インターネットで調べると、木食上人と呼ばれる僧侶は何人か居られ、木食正禅上人はその一人であった。そして京都東山五条坂にある安祥院が上人のゆかりの寺であることがわかったので、10月18日、東山五条坂にある安祥院を訪ねたが、たまたま居合わせた加藤住職の案内で、寺内および本堂内の寺宝を見学する機会を得た。
 木食正禅上人は、24才(1711)で高野山にて木食行を修め、30才で粟田口に名号碑を建立(B-8-3項参照)し、40才(1727)で安祥院をこの地に再建し、ここを本拠として51才で日ノ岡峠の改修を実施し、76才(1763)で入定しこの寺に葬られている。安祥院の細部紹介については、項を改めて実施したい。

3)旧東海道散策B 日ノ岡峠の車石・車道散策2

1) 三条通に点在する車石・車道遺跡の巡回コース
 亀の水不動尊から大乗寺・光照寺を経て日ノ岡峠を越えたところに、京都洛東ライオンズクラブが昭和63年(1988)に建てた「旧東海道」の石碑があり、この一車線の狭い旧東海道であることを改めて示している。今回はB‐8‐2項の続編である。
 旧東海道の道はやがて三条通(国道)に合流するが、国道の両側には多くの車石・車道遺跡が点在している。
 散策コースは国道の左側を蹴上に向かって進んだが、道路沿いに「車石広場」、「修路碑」、「粟田口刑場跡」、「日ノ岡峠人馬道碑」、「大日如来石佛」があり、つづいて道路の向い側に出て御陵駅に向かって、「日ノ岡峠雍壁の車石探し」、「旧鋪石車石」、「京津国道改良紀念工事碑」、「題目碑」、「名号碑」と巡回し、紀念工事碑の前で解散した。以下おもな項目について補足説明する。
 

2) 蹴上方向に点在する遺跡
@ 車石広場(姥ヶ懐)
 金蔵寺墓苑の隣に、京都市が「車石広場」と題して牛車の実物大の見本や車石を並べて、ちょっとした休憩場が国道沿いにもうけられている。
中央写真の説明板には、

と書かれている。車石関連では最も新しい史跡である。

A 修路碑
 この修路碑は、明治8年〜10年の街道改修を記念して明治10年(1877)3月に建立されたもので、「やましなを歩く」誌によると、碑文の大意は、京都三条から近江国界まで往来困難で、特に日ノ岡峠は甚だしく、人々は往来に苦しんできた。街道改修は明治8年起工、10年完成、峠の道を一丈一尺四寸(3m45cm)低くした。文は京都府知事槙村正直の撰、篆額は太政大臣三条実美、書は京都府四等属中村勤と刻まれている。車石・車道研究会資料には、修路碑拓本(高橋昌博著:先人の碑V)と修路碑の全文(伊藤宗佑氏HP:京都の石碑)が紹介されている。
B 粟田口刑場跡碑
 江戸時代に京都では東と西に刑場があり、東の刑場は粟田口にあった。国道より少し高い位置にある刑場跡には「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が建っている。
 昭和6〜8年に国道工事が行われた時、この付近で多数の人骨が発掘されたので、罪人の回向のため建立されたものである。場所は修路碑より少し蹴上側にある。
C 日ノ岡峠人馬道碑
 九条山バス停から東山ドライブウエイの花鳥橋に上がると、向い側民家の裏の畑に石碑が立っている。この石碑は比較的最近(二十数年前?)発見されたもので、高さ2.4mの石柱には“日岡峠人馬道・木食正禅が享保21年(1736)建立”と刻まれている。
 雨天の街道で通行に難渋する人馬を見て、幕府の許可を受けた木食正禅上人が、街道周辺の改修工 事を進め、人道と牛車道を分けたのである。
3)御陵方向に点在する車石・車道遺跡
@ 日ノ岡峠雍壁の車石探し
 少し判別は困難であったが、よく見ると多数の車石が雍壁材料として利用されていた。
 
 道路の改修工事で多数の車石が撤去され、その一部が雍壁材料として活用されたことをしめしている。

A 京津国道改良紀念工事碑
 この碑は、三条通を車で往来するとき最も大きい車石モニュメントである。峠を降りたところの道路脇に存在し、大きい碑の正面には「紀念・京津国道改良工事・昭和八年三月竣工と刻まれている。

京津国道改良工事記念碑の全景

同左記念碑の基台に使用された車石


 山科区作成の「やましなを歩く」にある紹介記事(大阪朝日新聞・昭和8年5月28日付)の一部を引用すると、改良された新国道は延長763m、総工事碑230万円、京津間の難所とされた日ノ岡と逢坂山両峠を削って勾配を緩やかにし、幅員も11mに拡大、平坦部では16m以上とし、完全な舗装化によって京都大津間を自動車で僅か17〜18分になり、従来より12〜13分短縮されたとある。

B題目碑                                                             
 上記紀念碑につづいて、昭和15年(1940)12月に建てられた供養塔がある。この九条山付近にあった粟田口処刑場で処刑された罪人数は、平安京発足以来15,000人余にのぼったといわれ、1,000人に1基づつの供養塔が15基建てられたと伝えられる。明治の初め、刑場が廃止されたあと廃仏毀釈のため破壊され、道路や石垣に転用されていた。京津国道の工事の際、供養塔の断片が発見されたので、有志によりこれを基台として題目碑が建立された。基礎には多くの車石が利用されている。

C名号碑
 日ノ岡バス停西方の道路脇には上述の紀念碑・題目碑とともに名号碑(みょうごうひ)が並んでいる。碑の横に、「木食遺跡@粟田口の大名号碑」と題した山科区日ノ岡朝田町作成の解説板があるので、全文を紹介する。



中央部を接合された大名号碑


隣に設置された解説板
 以上、車石・車道研究会主催の日ノ岡峠の散策記録をまとめて見て、ある程度概要の把握ができたが、土木工事は歴史的に改修工事が繰り返されているので、どの時代であるかを正確に見極めることは難しいと思った。一方、石造物は変質しにくいので、今後の調査が期待されるテーマであると思う。

4)山科地区(四ノ宮〜追分)の車石探索・1

1)車石・車道研究会主催の山科地区探索会に参加
 10月8日の午後JR山科駅前に集合し、約40名の参加者とともに、旧東海道沿いの四ノ宮・横木・追分にある車石の探索を実施した。約2kmの行程で三十数ヶ所のスポットを約3時間かけて探索し、最終地点の閑栖寺で住職らの講演もあって楽しい半日を過ごすことができた。案内を担当した研究員によると、この行程に少なくとも90ヶくらいの車石が観察できると説明を受けたが、車道沿いの散策で説明者に追従するのも難しく、私自身70ヶくらいの確認に止まった。本報ではすべてを紹介するのが難しいので、とくに注目される場所について、周辺の若干の解説を加えて説明することにした。

2)マンション三品ビル前にある車石
 JR山科駅から南に向かう外環状線を下がり最初の信号を左折すると、本日の探索道である旧東海道筋(旧三条通)が東に伸びており、北に伸びる小道を含めて数ヶ所に車石が姿を見せている。少し歩くと、数年前まで御菓子三品本舗という伝統ある店舗のあった場所(現在マンション三品ビル)に、東海道と刻まれた石標が建っている。石標の裏面には、「昭和23年11月に往来安全のため三品英造建立」、側面には「大津札の辻まで一里半」と刻まれている。その石標と建物の狭いあいだに車石が置かれており、山科三条商店会の印刷文字の解説板がある。この車石と説明板は、最近設置されたものと想定される。

三品ビル前にある東海道碑と車石

山科三条商店会の車石説明板


3)「山科地蔵と徳林庵」の駒札の場所にある車石
 さらに東に進むと、左側に大きな十禅寺の石標と六地蔵廻りの寺の一つである徳林庵・四宮地蔵堂があり、道路に面して「車石」が無造作においてある。

道路に面して右下隅に置かれた車石

地蔵堂の裏にある蝉丸と人康親王の供養塔

 山科地蔵と徳林庵を解説する京都市の駒札を紹介すると、


 左手の道を北に進むと、人康親王を開山として創建された「十禅寺」があり、周辺の住宅の庭に車石が置いてあるところがある。少し東北の方向に進むとJR東海道線の旧斜面の狭いところに人康親王の墓地があり、その近くに「琵琶琴元祖四ノ宮大明神、行者神変大菩薩、弘法大師不動明王、京都石佛大日如来」のある斜面の台地に入る狭い道がある。

四ノ宮大明神(右)のとなりの祠の台座に車石(中央に割れ目)が使用されている


4)四ノ宮地区の道路沿いにある車石
 旧東海道が四ノ宮川と交差する橋の西南隅にある地蔵尊の建物の台座にも「車石」が利用されている。

地蔵尊の建物の台座に車石を利用

地元の人に愛される地蔵さん

 土建業を営む個人住宅の庭には、約40年前の工事で入手した車石が庭の周辺に多く利用されていた。また、山科四ノ宮郵便局の裏手にある溝の壁面にも多くの車石が利用されていたが、研究員の説明によると、チャートと呼ばれる硬い石の車石であるそうである。
郵便局の裏手の溝壁面に利用されている車石(これがチャートの写真であるかどうか自信なし)

 旧東海道がゆるい坂道にかかるところに京都市と大津市との境界線があり、町の名称は四ノ宮から横木に変る。東海道筋を歩いてみると、大部分の住宅の塀や庭の下部はコンクリートかブロックに変っており、車石を利用した塀や庭園のありそうな家は極めて少ない。
 今でも工事が進捗中のところがあり、また昔のことを記憶している年配者の数も少なくなってきている。車石・車道研究会が発足してかなりの調査が進んだが、研究会では現存する車石の戸籍簿を作ろうと計画していると聞く。散逸を防ぐ意味でがんばってほしい。
 今回の散策会のメモをまとめたが、3頁になったので、以下は次報で紹介する。

5)山科地区(四ノ宮〜追分)の車石探索・2

5)個人住宅の玄関まわりや庭先にある車石
 探索した旧東海道筋の個人住宅にある車石の写真の幾つかを紹介する。
 

6)小関越え道標と近隣個人住宅で見学した牛車車輪
 ショッピングセンター・フレスコの東側に北に曲がる小道があり、その角に「三井寺観音道(南面)、小関越(西面)」と刻んだ大きい石柱が建っている。この小道を進むと、小関越え道が現存しており、裏から三井寺境内に通じる小道もある。また、近隣の個人住宅の玄関先で、牛車の車輪の模型(?)を見学させていただいた。
 また、道路に面して6ヶの車石を並べた家や玄関前を飾った家もあった。

7)国道1号線で分断された旧東海道筋
 小関越の道標を横に見ながら東に進むと竹内医院の駐車場横に「旧東海道マップ」と題した巨大看板が立っている。
 
道路の右側を国道1号線が走っており、正面上を名神高速道路が走る交通の要所


 この地図は旧東海道の小関越道標から逢坂山関跡碑までを示している。全行程3130mであり、途中で2回国道1号線を陸橋で跨いでいる。

8)走井餅本家の大津追分本店を訪問
 上記交通の要所の国道1号線沿いに本店があり、走井餅、大津絵、大津そろばん、車石など逢坂山界隈の歴史の紹介を熱心に進めている。今回はこれらの歴史資料の見学と休憩場所として利用させてもらった。店内に展示された車石と説明板を紹介すると、

店内に展示された車石
 
写真と説明文(下記に全文紹介)


 走井餅本家のホームページに車石について次の記載があるので紹介する。
 「江戸時代のレール」という題で…2列に並べた車石の上を牛車が通る様子を説明、「工夫を凝らした一方交通」という題で…道は歩道と車道に分かれていて、歩道は車道より高くしてあり、通行の安全を図るために、また車の通行の邪魔にならないように配慮してある。
 また車道は単線のため、午前は京都行き、午後は大津行きと時間による一方通行になっていたと紹介している。
 また、「追分」の説明駒札と「大津絵発祥の地」のパネルが入り口に、店内に「大津そろばん発祥の地」のパネルと大津そろばんの展示がある。

9)閑栖寺門前にある車石と説明板
 国道の右側にある旧東海道筋の民家にも車石が各所にあるが、最後の訪問先である「閑栖寺」には山門前に車石と解説駒札が立っており、今回の訪問を伝える歓迎の垂れ幕が掲げられていた。

今回の訪問を伝える垂れ幕
 
門前に置かれた車石と説明駒札


 本日の最後に、当寺の住職佐藤賢昭さん(今回の探索に最初から参加)とお箸の文化資料舘の井津明楽さんの講演があった。佐藤さんは平成17年10月の大津のシンポジウムで「追分と車石」の題で講演されているが、2人の講演内容の一部を紹介する。

佐藤住職…@ 洛東高校の構内に展示されている3ヶの車石は、第1期生の佐藤住職が寄贈したもの。
         A 宝暦時代(1751〜1763)に四国の人・西原宗左衛門の車石の説あり。
         B 宝暦3年(1753)に閑栖寺の内陣余間造立の記録があるが、明和6年(1769)に内陣余間(六畳敷)の修復をしたとき、床下から車石の礎石がでてきた。現在も車石の礎石1ヶが残っているが、取り出すことは危険と大工から止められている。
         C したがって文化2年(1805)車石敷設より古いことがわかる。

井津明楽…日本列島でも近江の国は米どころ、お隣は王城の地の京都、人口も多く、経済も発達した消費都市。近江の各藩は、京都へのお米の出荷により藩の財政も豊かであったが、雨季になるといつも、お米や他の物資の輸送が、日ノ岡・逢坂山、両峠の悪路のため問題になっていた。
 そこで、近江の国、膳所の城主、本田候が、雨季でも物資の輸送が円滑にいく秘策を提供したものには、苗字帯刀を許す、と募集した。そこで、「車石」の発想を提供したのが近江の国、滋賀郷の百姓であったという。早速、両峠付近には「車石」が敷設され、おまけに日本でも珍しく人道と車道が区別されて、車道は車石で舗装もされていたという。それによって、諸物資の交流が飛躍的に増加した、京都大津間の街道筋も相当賑わったといわれている。
 現在の府道三条通りの日ノ岡付近に、当時の人達の豊かな発想と努力を讃えて「車石」の記念碑が建立されている。(配布資料より引用)

10)閑栖寺および周辺の民家にある車石
 参考までに撮影した車石の写真の一部を紹介する。
 

6)平成20年度車石散策会の行事に参加−1

1)過去の経緯
 三条街道の車石敷設200年を記念して、平成17年(2005)に「車石・車道研究会」が発足してから、毎年シンポジウムとフイールドワークに参加して、その要旨をホームページに整理を兼ねて掲載してきたが、下記のように分類や題名が混乱してしまったので、今後はC(技術―技術一般)からB(散歩道―旧東海道)だけにまとめることにした。過去と今回の報告番号を示すと、

 この研究会は学校の先生達が中心となり、そのネットワークを活用して緻密に計画運営されており、翌年のスケジュールが発表されている。
  平成21年度シンポジウム    平成21年8月30日(日)山科アスニーにて
  平成21年度フイールドワーク  平成21年10月12日(日)JR大津駅〜京阪大谷駅
 参加者も年々増加しており、来年を楽しみにしている。

2)車石・車道2008年シンポジウムに参加
(この項は9月1日付のブログに掲載したので、重複もあるがその記事をそのまま引用した)
 8月31日、山科アスニーで第5回シンポジウムが開催された。この会合は、平成17年(2005)に学校教職員たちが主導して開催されたのが始まりで、「東海道三条街道車石敷設二百年」と位置づけてスタートした。車石をテーマにした会合は本邦最初と評判を呼び今回は約120人のマニアが集まった。
 大津から京都への水の道である「琵琶湖疏水」の大津・山科・御料・蹴上の周辺には、昔の車石街道と近接するために多くの車石が存在するので、私はこの3年間、フイールドワークを含めてすべての計画に参加させていただいた。
 このシンポジウムの特徴は、学者レベルの集会でなく郷土史家レベルの集まりであるため、スタート時の討論は幼稚な面も感じたが、推進担当の先生方の熱心な研究活動もあって、年々質的に向上し、出席者の知識レベルも向上して学会らしい雰囲気も出てきた。
 私がもっとも興味があった報告は「「明治初年・日ノ岡峠切り下げ工事」と題した久保先生の講演で、車石街道の末期と琵琶湖疏水計画段階と重なる話題も含まれており、パワーポイントを用いたスライドの助けもあってくわしく理解することができた。

山科アスニーでの車石・車道シンポジウム風景

発砲スチロールを活用した車石の全形拓本

 今回は、日本拓本家協会の大橋さんの講演があり、試作された軽い車石の立体拓本の見本が展示された。前回までは、車石の重い実物を会場まで運ぶのに苦労したが、今回小指で動かせる実物そっくりの車石を見学することができた。このような他の分野の専門家との交流ができたことは嬉しいことである。

3)2008年フイールドワーク(大谷〜逢坂峠)に参加
 10月13日の体育の日に、京阪大谷駅を13時半に出発し、大谷駅周辺から三条街道(旧東海道)を経由して逢坂峠周辺の車石を探索し、16時半までの約4時間を楽しんだ。天気に恵まれ、予想を越える63名の参加者があったが、本項では大谷駅周辺の車石(約100個の車石が確認されている由)の見学結果について紹介する。
 集合した場所は大谷駅に近い蝉丸神社であるが、ここに「車石復元公園」がある。元藤尾公民館長の西口秀雄さんより詳しい設立経緯の報告があった。1995年3月24日付の朝日新聞滋賀版によると、20年前の竹下内閣のときに「ふるさと創生事業」として、3300市町村に1億円が配布されたが、その資金を活用して「車石復元公園」が建設された。
 逢坂峠の改修工事で掘り出された車石が近辺の民家や神社に保管されていたので、これを集めて約3メートルの石のレールが復元されている。「ふるさと創生事業実行委員会」の委員長を務めた西口さんによると、藤尾地区に300萬円の割当てがあり、「藤尾の歴史」という冊子の作成と車石復元公園の建設が実施されたが、予算枠や車石の収集面の苦労話を伺うことができた。
 急傾斜の石段を登ると本殿があるが、そこにはチャートと呼ばれる硬い石の大型車石(通常の2倍の長さ)があった。

蝉丸神社の急傾斜の石段

車石復元公園の全体写真

 公園には、下記の車石の解説板が立っている。


 すぐ前の道は旧東海道筋で、蝉丸神社の斜め前にうなぎ料理で有名な「かねよ」があり、ご好意で車石がある立派な庭園を見学することができた。この庭園には車石以外に、信楽焼の鬼念仏像、逢坂関のかんぬき石、百人一首で有名な“さねかずら”など逢坂山ゆかりの料亭であった。

車石の上に載った荷物運搬車の説明

無造作に庭隅に置かれた車石と碾臼

7)平成20年度車石散策会の行事に参加−2

1)逢坂峠を越えて東へ進む
 「料亭かねよ」を出て交通量の多い三条街道に突き当たり、信号を利用して右側の歩道に移り、「逢坂の関址」の石碑を見ながら東海自然歩道の下をくぐる。久保さんの説明によると、昭和初年の逢坂峠の切り下げ工事前までは、今より10mくらい高い道(東海自然歩道の陸橋くらいの高さ)であり、さらに昔は今より20m以上高い交通の難所であった。
 このあたりの三条街道の両壁は、模様入りのコンクリート壁で、日ノ岡峠のように車石を利用しているところはなかったが、途中に小さい車石説明板がはめられていた。

逢坂峠にある逢坂常夜燈と逢坂の関址碑

三条街道を下る参加者

2)片岡自治会館前の車石

 向い側にある逢坂山弘法大師堂の少し手前の道を右折して住宅地に入ると、あちこちの道路沿いに車石を見かけるが、片岡自治会館前に立派な車石が展示されている。

竹原自治会館に展示されている車石

同左説明駒札

 この駒札は読みにくいが、蝉丸神社の車石復元公園と同じ時期に設置されている。

3)民家庭園の車石
 三条街道筋の山科寄りに「関西詩吟同好会練習場」の看板があり、その門前にある庭園に車石が展示されている。

民家の庭園に飾られた車石

同左説明駒札



4)月心寺の十文字車石見学

 最近「哲学の道」の北端近くにある「白沙村荘」を見学し、橋本関雪の造営した庭園の美に感激したが、今回関雪夫妻が眠る逢坂の「月心寺」見学の機会を得た。
 配布された資料によると、「月心寺」の地は古くから知られる走井の茶店跡で、住む人もなく荒廃していたので、近代の日本画家として知られる橋本関雪が整備して大正三年(1914)に別邸とした。書院南側には山の斜面を利用した池泉回遊式庭園があり、石塔や石橋が庭の雰囲気に趣を添えている。庭には十文字に溝のある車石が存在する。

月心寺の入り口から見える井筒

庭園内にある有名な十文字の車石


5)大津算盤発祥の地・片岡庄兵衛旧宅にある車石
 三条街道沿いにある片岡庄兵衛旧宅の前に、車石4枚を組み合わせた車道と車輪が展示されている。車輪の前には大津算盤発祥の地と刻まれた石柱が立っている。

三条街道に沿って展示された車石

牛車の車輪(模型)と算盤の石柱

 裏の庭園に回ると、数多くの車石が利用されていた。
片岡庄兵衛旧宅の裏庭に利用されている車石群

 この建物の座敷に上って、まとめの会が開かれたが、この地区の歴史と三条街道の車石敷設ルートについて、地元の楠井さんから詳細説明があった。準備した50部の説明資料が不足したというから、参加者のほとんどがここまで参加したことになる。
 事務局から最初に配布された冊子は古い資料をそのまま寄せ集めたもので、知識に乏しい私にとって理解し難かったが、最後の説明と帰宅してからの読み直しで理解が深まった。
 
 注)車石の溝が最初から刻んであったか、後から摩擦で磨り減ってできたかについて今回紹介した説明板では両方の見解があるが、車石・車道研究会の現時点での見解は後者の磨り減ったとしている。

8)平成21年度車石研究会のイベントに参加

1)2009年度車石・車道シンポジウムに参加して

 車石・車道シンポジウムは今年で6回目を迎えた。会社生活を終えてから、シンポジウムという名の講演会に連続して出席させてもらうことは珍しくなった。滋賀と京都を結ぶ道として、私は琵琶湖疏水という水の道をテーマに選んだが、道路・橋・鉄道・輸送機関・動力など関連する調査課題は多い。このなかで、車石は道路(未舗装)・輸送(二輪荷車)・動力(牛による)の時代における一種の技術の産物である。車石の存在は前から知っていたが、泥道の保全に使用される砂利や石畳の一種程度の知識しかなかった。
 これを学問のレベルまで引き揚げたのは、この研究会の中心メンバーの山嵜・久保・早川さん達の努力の成果であり、敬意を表したい。

 今回のシンポジウムは去る8月30日に山科アスニーで開催された。とくに興味があったのは、石材の産地に関係する考察(早川氏)と牛車を引いた車牛(久保氏)の報告で、充実した内容であった。また、拓本の技術で、車石の溝形成過程の解明に有効であることが報告された。すばらしい応用例であり、今後車石の研究に役立つものと期待される。
 シンポジウムでは、「車石・車道からひろがる謎―牛車・車牛、日岡峠、車石石材―」と題した53ページの冊子(参加料500円)が配布されたが、興味のある方は車石・車道研究会に問合わせれば予備があると思う。

2)車石・車道フイールドワークin逢坂に参加
 2009年度のフイールドワークは、10月12日(体育の日)に開催された。JR大津駅前の車石モニュメント前に1時半に集合した。このモニュメントは、大津ロータリークラブによって2006年2月に設置されたもので、大津の歴史年表と鈴木靖将画伯の絵があり、11個の車石を集めた苦労話が報告された。
09−10−09−2607、2610  JR大津駅前にある車石モニュメントと鈴木靖将画伯の絵の拡大図

 次は、逢坂小学校の復元車石列で、車石18ヶが2列に並べられ、周辺の石積みにも6ヶの車石があり、近くの藤野石材店が寄贈と施工(施工時期は不明)をしたと説明を受けた。

09−10−09−2611逢坂小学校の車石列

09−10−09−2613  説明石版

 そのあと、牛車が京都よ大津町に入る道筋と帰路の道筋の説明を受け、東海道と北陸街道の分岐点・札の辻近くにある大津宿本陣跡の説明を受けた。大津宿は元禄12年(1699)の記録で135軒の旅籠があり、人馬継立の諸施設が集ったという。
09−10−09−2618、2617大津本陣跡

 そのあと長安寺の石段を登って牛塔や獣魂碑を見学し、藤野石材店に立ち寄って刻字入りの車石を見学した。そして、安養寺を経て旧逢坂山トンネル跡を訪ねた。
 薄暗い雰囲気のトンネル跡であったが、私にとって産業遺産として興味のある場所で、京滋鉄道史ミニ資料館館長の藤井勉さんがくわしく説明していただいた。この場所については別途とりまとめる予定があるので、ここでは割愛させていただく。そのあと国道道を進んで、関蝉丸神社、弘法大師堂、逢坂峠常夜塔の基壇の車石などを見学しながら、終点の逢坂の関跡記念公園に達した。
 いただいた散策資料26頁に「逢坂の関記念公園が出来るまで」と題した地域研究家の楠井喜代治氏の説明資料があり、“大谷町住民の夢の実現に30年”と苦労話しを聞かせていただいた。本件も別途まとめる予定で。ここでは割愛する。
              
3)車石の謎を追って(論文)について
 フイールドワーク資料の末尾に「車石の謎を追って−溝は牛車の轍によってつくられた−」と題した久保先生の論文(12ページ)がついている。筆者が長期にわたり数百の車石一つ一つを詳しく調査した結論として重みがある。しかし、歴史の世界では決定的な証湖がないと事実とは認められない。謎のある課題は、時々専門家以外からの思いがけない情報に接することがある。
 この論文では、次の四課題が現時点で謎として新情報や意見を求めている。
@ いつ、誰が発案したか?
A 車石敷設工事のスポンサーは誰か?
B 車道の軌道幅はいくらか?
C 溝は初めから彫ったものか、自然にできたものか?

 何か意見、質問があれば、車石車道研究会kurumaishi@aaa.or.jpに連絡してあげてほしい。

9)一燈園と車石について

1)一燈園に車石が存在するという話題

 私は平成17年(2005)に「東海道車石敷設200年」を記念して車石・車道研究会が発足してから、毎年実施されるシンポジュームとフィールドワークに参加し、その熱心な活動のおかげで、車石に関する興味と知識が深まったと感謝している。
 私の興味の対象は「琵琶湖疏水」であるが、疏水系にある石造物やコンクリート構造物の調査のために四ノ宮の一燈園を訪ねたとき、車石に関連する資料に出会った。
 打ち合わせ用としていただいた資料は、一燈園の機関紙『光』の583号〜586号(昭和44年)に連載された「祈り(※)をここに」と題した同人・谷野捨三氏の投稿報告である。『光』誌は、大正8年(1919)11月に創刊され、現在も続く日本最古クラスの月刊誌である。この資料の中に、“昭和3年(1928)に左京区の鹿ケ谷から現在の四ノ宮に移った一燈園敷地内に11個の車石が存在するという報告とその由来、車石建設費用の寄進者の話題などが含まれており、一燈園の了解を得て、その要旨を紹介する。
 
2)一燈園にある車石の由来
 谷野氏の報告によると、一燈園の敷地内に昭和44年(1969)時点で存在した石造物に名前をつけて次の8種に分類されている。
@ 無怨石…昭和5年(1930)、蹴上の刑場にあった土石を運んで無怨塚に祀った。
A 神武石…昭和5年(1930)、西田天香氏が日向国の美々津浜で拾った数個の石。
B 産土石…昭和3年(1928)、一燈園の造営をしたときから存在した石。
C 冥加石…無用となった石を貰って活用した石として
      @)国道1号線舗装改良時に発生したコンクリート塊
      A)京津電車軌道の敷石で利用できない破損石
      B)昭和44年の第二疏水のトンネル内部修復で不要になった石材
D 疎開石…戦時中に強制疎開の名で京都御池通から撤去された庭石や石燈籠など。
E 雲来石…岐阜県下麻生の里から移築された建屋とともに来た石垣や庭石
F 供養石…敷地内にある三基の供養石碑。
G 仏心石…敷地内に11ヶの「車石」が存在し、沓脱石・庭石・石垣に利用されている。

 谷野氏が付けた石の名前の由来は省略したが、車石に関連する第8項を次節にまとめた。
                  
3)仏心石(車石)の解説
 谷野捨三氏の文章の車石部分をそのまま引用させていただいた。
                
“この石が光泉林に十一箇あって、沓脱石、庭石、或は石垣に偶然混ざり込んであったりして、多くは見過ごされているが、これは京都市民にとって、忘れてならぬ、大切な歴史的記念物として銘記すべき石である。
 この石は江戸時代、大津のびわこ湖岸より京都三條大橋に至る凡そ三里の間、牛馬の為に敷き詰めてあった花崗岩の舗石である。今から百五十余年程前に造られたと聞いたことがある。長年に亘っての車の轍の跡が深い溝となって残っている。
 古来、京都市民を養ってきた江州米、または北国からの物資は、びわこの舟運によって大津に集められ、ここから牛車や駄馬を利用して、逢坂山を越え、山科の里を通り、いよいよ都への入口にさしかかって、日の岡という険阻な峠を越さねばならなかった。
 昔、秀吉の頃、木喰応其上人が旅人の難儀を救わんとこの峠に庵を結んで、道を平にしたとの伝説もある。
 徳川の代になって、旅人は政策上、徒歩以外は馬か、駕によるしか許されなかった。車は只大津から都への米俵を運ぶ牛車だけが許されてあった。
 大津の代官所が調べた記録によると、一ヵ年に五十万俵を越える米がこの道から都へ運ばれた。又その牛馬の数は一万五千二百九十七輌であったと誌されてあったという。さてこれだけ沢山の牛馬がこの道を通ったわけであるが、雨天つづきともなれば逢坂山や日の岡の嶮はぬかるみ、轍は没し、滑って脚を傷める牛の苦難は、大変なものであった。
 こうした状態を見るに忍びず、市井の一奇特の士が私財を投じて、動物愛護の悲願から、大津、三條間に石を敷詰めたのが今も遺る車石である。勿論今も道に敷かれているのでない、明治八年から十年にかけて京津国道の大改修があって、日の岡峠などは三米半も低め、平にされた際に、車石を全廃したので、或は土に埋まり、或は付近の農家の石垣となって散逸して仕舞ったが、今も日の岡より蹴上間の東側崖の石垣に沢山「車石」と銘記してはめ込まれ、日の岡交番の側にある記念碑(昭和八年第二回目の大改修時)の二重の基壇が全部この車石を使っている。山科でも大野木氏邸の石垣に多数使われている。
                   ○
 さて、前記にこの車石は市井の一奇特の士の寄進によると書いたので、この人のことについて、筆者が聞き及んだことを述べねばならぬ。 
 昔の東海道五十三次の終点京都三條大橋の東詰よりほど遠からぬ処、今の京都三條駅の東側に、大黒町という短い片側町がある。大黒町という町名が付いたのは、昔大黒屋伝兵衛さんという質屋さんがあったので、その名がついたという。大黒屋の屋敷跡が今のバスのターミナル付近であったらしい。
 大黒屋の主人伝兵衛さんという人は、仏教の篤信者で大変慈悲深い人であった。貧しい人には抵当もなしにお金を都合して上げたり、公のこと、世の為になることには、惜しみなく寄進をしたので、町の人達は誰云うとなく仏伝兵衛と敬愛したということである。
 住居が三條大橋のほとりだから、毎日米俵を積んだ牛車の頻繁な往来を眼の当りにして、特に雨の日などの泥まみれで疲れた牛の姿を見て、佛心止み難く、遂に大津まで石を敷き詰めて牛の難儀を軽減しようと発願したのであった。但し当時の金で一万両の大金を要したというから、伝兵衛さん一人の財だけでなく、発願に賛同者が次第に現われ、京都に当時心学の道場を開いていた脇坂義重という人が社中の者に説いて金を集めたり、他に江州日野の中井源左エ門というお金持ちが不足の残金を全部引き受けて、ようやくこの大事業が完成したが、その大業のパン種になったのが伝兵衛さんの仏心であった。
                  ○
 さて又、この伝兵衛さんの心に仏心を育てた陰の人があったことをも書かねばならぬ。伝兵衛さんの日頃随喜していた人に、歌の中山清閑寺に智真禅師という大徳があった。禅師から見れば伝兵衛さんは、まだまだ渋皮の厚い信者であった。いつかこの渋皮を剥いでやろうと祈っていた。或日、伝兵衛さんに招じられて先祖の回忌にお参りして、誦経も済み、お斎の席となり、主人とよもやま話の中に、主人が禅師に質問して曰く、
「禅師様、一体地獄極楽などあるものでしょうか」
「おお、あるとも、有るとも」
「禅師様、それでは私めに一度お見せ頂けますまいか」
「おお、よいとも、よいとも」
 こんな話をしている内に、お斎もすんで、お布施も出て禅師のお帰りとなったので、
「禅師様、先程の地獄極楽はいつ見せて頂けましょうか」
「おお、わしに随いてござれ、見せて進上ぞ」
と玄関で禅師履物をはきながら、主人に、
「この布施を小銭に替えて呉れまいか」と申されるので、主人仰せの通りにして差し上げると、それを無造作に袖に入れて外に出られたので、主人も急いで後に随った。
 やがて、清水坂へかかると、そこに癩者や乞食が大勢並んでいて、お馴染みの禅師様のお帰りだというので皆拝んでいる。すると禅師は、並み居る乞食たちに、
「今日はな、お布施が沢山あるから皆に貰ってもらえるわい」と一人一人に袖の小銭を何文かずつ与え尽して「やれやれこれで袖が軽くなったわい」と音羽の滝より右の坂道を清閑寺へと帰り着かれた。
 禅師が居間に坐るが早いか、待ち兼ねたように、
「禅師様、お約束のことをお見せ頂けますか」といえば、禅師矢庭に側に有った如意を取って、伝兵衛の肩をハッシと打って
「あれ程仏の手を見せても解らん奴には、鬼の手じゃ」と大喝されて、ハッと伝兵衛さんの眼が覚めたのであった、厚い渋皮がポロリと剥げたのであった。
 経文に「仏心とは大慈悲なり」とあったことが会得出来たのであった。爾来家業の質屋
は己の利得の業でなく、利他の仏業に変ったのであった。帳場に坐って大福帳を繰っている伝兵衛さんに人が「よくお精が出ますね」と挨拶すると「ハイ、只今大般若経の転読中」と答えたということである。一燈園の言葉でいえば宣光社になったわけである。車石を「仏心石」と名付けたのはこんなことからである。“

4)追記
 質屋の大黒屋伝兵衛と車石の話しは、すでにネットにも登場しており、江戸初期の寛文十年(1670)頃の出来事と伝えられるが、住職の法話の形になっていて説得力があるので、紹介させていただいた。
「祈り(※)をここに」の最初に、…京都には沢山の名園があり、観光の対象になっているが、天香さんが『うちの庭園は植治以上じゃ』と笑話に申されたことがある。『何故かといえば、植治に庭を作って貰うには @ 大変な金がかかる。A 植治の庭があるような邸宅に住む子弟は大方、不知不識軟弱に育ち、二代、三代目には「売家と唐様で書く」ことになる。ところが光泉林の庭は、白樫さんという地元の庭師さんが指導し、ほかは同人さんと塾生さんの修行者が作業するので金は少しもかからない。修行者は庭を作ることによって心境一段と進み、塾生は質実と勤労が身に着き、出来た庭を観る人は、菩薩心を発すという一石二鳥、三鳥という利益がありとすれば、植治以上の庭というても、満更ホラでもあるまい』と語られた。…と書かれている。
 一燈園にある車石は偶然に集った仏心石であり、一陶園の歴史の重みを深く感じることができた。

 後日、谷野捨三氏の経歴について一燈園を訪問し、境さん、村田さん、谷野氏の次女あたるに相さんより聴取することができた。谷野捨三氏は明治30年生まれ、石川県能登あるの大寺院の出身で、寺院の継承の道に悩んで一燈園の道を選んだ方であるが、満州連部メンで長年托鉢活動を実施し、終戦まで22年間、満州における一燈園活動をした幹バーして95の一人である。帰国後も一燈園活動を続け、平成3年(1991)頃、最長老と歳いたことの長寿を終えている。谷野捨三氏は仏業から離れたが、仏心を生涯維持してがわかった。
 また、一燈園の満州での活動を紹介した「燈影荘物語」を入手し、谷野捨三氏の経歴と人柄に接し、改めて感動したことを付記する。

 ※原文では旧字体        

10)平成22年度車石・車道研究会に参加

1)まえがき
 車石・車道研究会のシンポジウムは今年で7回目を迎え、8月28日にアスニー山科で「くらしを支えた車石・車道…幕末京都をめぐる物流路…」が開催され、議題が終わったあとに時間をいただいて「琵琶湖疏水の歴史散策」誌を配布し、説明の機会を与えていただいた。10月11日には京都駅前に集合し、「フイールドワーク竹田街道(1)…東洞院小路から竹田街道の車石・高瀬川・チンチン電車を探る…」の散策会に参加した。
 ここでは、散策会の記憶を整理する意味で、見学会で教えていただいた内容の要旨をまとめてみた。

2)フイールドワークのコース
 京都市の山科区に移り住んで約10年、京都市南部の京都駅まわりを歩いた経験のない私にとって、今回の散策は、約50人(推定)の参加者のガイド役のあとを追って、参加者に迷惑をかけないように約3時間のコースを歩いた。東西南北の方角を理解できずに帰宅してから資料に沿って細部確認し、なんとか全体像が把握できたツアーであった。しかし、充実した資料とくわしい説明があり、内容的には興味あるコースであった。
 訪ねた場所は、@ 「電気鉄道事業発祥の地」碑、A 竹田口・東洞院七条下ルの車石、
B さる寺(正行院・輪型地蔵尊)、C 陶化小学校の車石、D 長福寺の輪型地蔵、E東和小学校の車石、F 桃陵中学校の長大車石、G 御香宮神社の復元車石列の8ヶ所で、地下鉄も利用するコースであった。
 今回のコースは京都がら伏見に向かう竹田街道の前半で、来年のフイールドワークは、後半の竹田久保町から終点の京橋までを実施すると説明があった。

3)@とAの細部説明
 京都駅の向かって左手にある「電気鉄道事業発祥の地」碑前に集合し、研究会代表の挨拶のあと、鉄道友の会の方よりチンチン電車の発祥経緯と関連話題の説明があった。
 第4回内国勧業博覧会の伏見経由の大阪からの観光客用の足として明治28(1895)年に開業した電車である。
 竹田街道は、京都と伏見を結ぶ牛車による輸送路として役割を果たした街道であるが、発達した鉄道との交差で、現在の姿は大きく変わっており、散策用資料や現場説明がくわしくあったが、残念ながら理解することはできなかった。                
http://inoues.net/club/new_takasegawa001.jpg
電気鉄道事業発祥の地」碑
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10-10-11-2130 東洞院七条下ルの車石

 「発祥の地」碑から東洞院通りを数分北に進んだところにある清光堂八ツ橋店舗前に車石と説明板が存在する。東洞院通りは今から350年くらい前は洛外から洛中に入る牛車の通過したメイン道路であり、この車石は昭和の初め頃、店舗の前の道路工事ででてきたもので、写真に示すように溝が深い特徴ががある。

4)BとDの細部説明
 Aから少し南に下がったところに「正行寺(通称さる寺)」がある。正行寺の門前にある輪型地蔵堂は今回の最重要な見学ポイントで、道路から掘り出された車石(輪型石)の裏側にお地蔵様が彫られてあったので、それを祀って地蔵堂が造られた。地蔵堂の内部の壁には、輪型地蔵尊縁起絵図・明治初年東塩小路村絵図・安政の額絵(竹田街道の車道と牛車)・高瀬川地図・御土居図面・初代京都駅土地測量図面などが貼られ、住職から概略の説明をしていただいた。(寺内の庭園には8ヶの輪型石が存在する由)
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10-10-11-2135正行院本堂の正面写真 
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10-10-11-2140 長福寺の輪型地蔵

 正行院の正門前の道を東に進み、河原町通を南下し、九条通りとの交差点を西に曲がると長福寺があり、正行院と同じように、背中に溝が彫られた地蔵(写真)が存在する。住職の説明によると竹田街道車道の土中から 掘り出されたもので、なぜこのような形態のものが出土したかについて見学者の話題になった。

5)CとEの細部説明
 陶化小学校の正面と東和小学校の校門右手に車石が飾られていたが、休校で閉門しており、外から説明を受けた。資料にも詳しい説明があるので、ここでは省略する。
地下鉄九条駅から桃山御陵前まで乗車して、桃陵中学校Fと御香宮神社Gの車石を見学した。

6)FとGの細部説明
 校門を入った正面にある築山にある車石は長大で、両面に深い溝がある珍しい形態のものであった。案内の久保さんは、車石サイズの規格化される前の物と説明された。
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10-10-11-2155桃陵中学校の長大車石 
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10-10-11-2160御香宮神社の復元車石列

 御香宮神社は、伏見区の竹田街道沿いの酒屋から車石の寄贈を受け、平成20(2008)年に車石・車道研究会の監修で、車石列の再現に取り組んだ。久保事務局長は、当時の牛車の車軸と同じ5尺(約1.5m)の間を空け、牛が歩きやすいように周囲砂利を砂利で囲んだと当時の雰囲気を再現したと説明し、最後の挨拶に立った山嵜会長は、研究会の最初の作品と胸を張り、全員拍手で解散となった。
 竹田街道のフールドツアーは前半が終了したので、来年の後半が終わった時点で、全体的な考察をしたいと思っている。