京都歴史

1)京都にある宮内庁管轄の三庭園見学
 今秋は、二条城築城四百年祭(2003年9月〜11月)で京都も賑わっているが、二条城の二之丸庭園は江戸時代初期の庭師である小堀遠州(1579〜1647)の代表作の一つとして有名である。今回紹介する三庭園の仙頭御所(十七世紀初期)と修学院離宮(十七世紀中期)の庭園も小堀遠州の作であり、桂離宮(十七世紀初沖期)の庭園も遠州の影響を受けた造園家によるものと言われている。したがって、これら三つの庭園も二条城の庭園と同時期に作庭されており、四百年位の歴史を持っていることになる。
 昨年末から今年にかけてこの三ヶ所の庭園を見学する機会を得た。見学するためには、事前に参観願いを出して日時の指定を受ける必要があり、その日の天候により運・不運があったり、一日当りの人数の制限があるので季節によって希望日が難しいこともあるが、いずれもトップクラスの庭園で、無料で宮内庁の人による約一時間の案内・説明付きなので、充分に満足できるものであった。
名称 見学時期 造園時期 造園目的 面積
桂離宮 2003.6.30 1615〜1649 宮家の別荘 約69000m
修学院離宮 2002.12.16 1659〜 後水尾上皇の御山荘 約540000m
仙頭御所

大宮御所(隣接)

2003.9.29

〜1630

後水尾上皇の御所

〃の皇后(女院御所)

約75000m

約16000m


 三庭園とも広大な池泉を持っている。修学院離宮は高地にあるので裏山からの谷川の水を引いており、桂離宮は近接する桂川が水源となっている。仙頭御所も鴨川から引水していたが、水量の変動が多く水の確保に困っていた。
 琵琶湖疏水が完成した時、疏水からの引水を考慮した経緯については、利用−A防火用水− 2)「御所水道と九条山浄水場」に“御所水道”として紹介したが、これが途中で中止となった理由について案内人に確認したところ、下記の説明があった。

"長年使用した御所水道の配管が途中で閉塞したが、周辺の住宅地化が進んで修復が不能となったので、現在では百メートル深さの井戸を掘って地下水を汲み上げ、庭園にある二ヶ所の滝口に流して水を循環使用している。地下に抜ける水も多く、余剰となった水だけが外部に放流されている。"

 当時の幕府と皇室の関係について若干補足する。三庭園の造園時期に登場する天皇は107代の後陽成天皇(在位1571〜1617)と108代の後水尾天皇(在位1611〜1629)であり、安土・桃山時代の終りから江戸時代に入った頃である。戦国大名が天下統一を計るため天皇を利用したので、天皇の権力が強くなったが、徳川が天下を取り権力の座が次第に皇室から幕府に移って行った時期にあたる。

 桂離宮は、後水尾天皇の叔父(父後陽成天皇の弟)にあたる八条宮智仁親王が創建したものを二代智忠親王が復興増築したもので、皇室にこのような大規模な離宮を宮家の離宮として造営する力があった時代である。
 そして、後水尾天皇が即位したのち徳川家康の強い希望で、将軍秀忠の娘和子(のちの東福門院)を皇后に迎えて幕府と皇室の関係が深くなったが、幕府は次第に天皇の外戚として専横が甚しくなり、天皇や公家の日常生活にまで干渉するに至ったので、天皇は怒って三十四才の若さで譲位され上皇となった。
 幕府は上皇に対し仙頭御所・修学院離宮・大宮御所の造営費用を負担して寄進している。後水尾上皇は、八十五才の長寿で死去されたが、譲位後も自分の皇女・皇子を109代明正、110代後光明、111代後西、112代霊元とし、その間朝廷に対し強い発言力を保持し続けた。
(以上、この欄は激動の時期を短くまとめたので説明の不備な点が多いと思う)


 今回は、庭園の細部説明をする予定はないが、とくに強く感じたことについて記述する。
@) 修学院離宮
 後水尾上皇は、離宮の設置場所の選定について調査を重ね、自ら情熱を傾けて設計建設されたと伝えられている。広い傾斜敷地内に三つの御茶屋(御茶屋・中の御茶屋・上の御茶屋)が点在し、松並木の砂利道で連絡されているデザインは、上皇の構想によると伝えられる。説明によると、小堀遠州が最初に作庭した基本デザインは残っているが、その後の修復により昔の面影が少なくなっていると言う。見学したのが年末であったが、あちこちで庭の清掃や修復が行われていた。珍しい形をした石灯篭や石橋などの石造品などは、建設当初のものと想像された。もう少し歴史の勉強をして訪ねたい庭園である。

@:高低のある離宮庭園

A:上の御茶屋前にある浴龍池
A) 仙頭御所
 修学院離宮の野性美のある雄大な庭園に対し、仙頭御所はデザインも洗練され、優雅な雰囲気を持った庭園である。現在は北池のある大宮御所の建物は残っているが、南池に面した仙頭御所は焼失したあと再建されていない。1747年頃に北池と南池が掘割(写真B)で繋がって現在に至っている。見学時期が9月下旬で紅葉には早かったが、池面に映された緑色が綺麗で、配布された案内書にある紅葉の写真と重ねて紅葉の姿を想像した。
 驚いたのは、南池の西の"州浜"に敷き詰められた楕円形の石(写真C)である。111,000個の自然石を1個につき米1升の約束で小田原藩が集めて運ばせたもので、見事な雰囲気を醸し出している。仙頭御所は都の中心部に位置するので、度重なる火災で焼失した建物も多いが、現在でも塀や建物の修復が進められていた。

B:掘割に架かる土橋(紅葉橋)

C:州浜の丸石
B) 桂離宮
 桂離宮は桂川の西側に隣接しており、創建以来現在に至るまで火災に遭うことなく、四百年前の姿を残している貴重な文化財である。
 六月末の参観で天気に恵まれなかったが、想像通り高低のある回遊式庭園と数寄屋風の純日本風の建物で構成された完璧とも言える離宮で、案内人の説明によると"どこから見ても一枚の絵画になる"の表現を実感することができた。巡回コースのスポットをつなぐ敷石が、切石と自然石で組み合わされており、石造品の数々が上品に配置されており、当時の技術の粋を結集し、金銭を惜しまずに投入した傑作であると感じた。ただ背景の樹木が大きくなり、少し圧迫感のあるところもあった。

 今年の九月二日にTV放送されたプロジェクトX「桂・職人魂ここにあり」で、建屋の解体修理作業の放映があったが、当時の建築技術のレベルの高さに驚くとともに、日本最高の文化財の一つであることを実感した。残念ながら撮影禁止であったため写真を撮ることは出来なかった。季節を変えて訪ねる予定である。

2)「綾戸大明神」が神仏共同で記念大祭
 明治元年(1868)に新政府は、江戸幕府の仏教主導から天皇による神道主導に変えるため、神道を国教とする「神仏分離令」を発令したので、全国的に激しい「廃仏毀釈」が行われ、京都・奈良・滋賀などでも多くの寺院の建物や仏像が破壊され処分された。
 具体的な例として、奈良・興福寺では僧侶の全員が春日大社の神主になり、寺院内の多くの建物が破壊された。東大寺の大仏も取り壊すべきとの方針で、大仏に大砲をぶち込んで取り潰すことが検討された。
 また、大津市の山王権現でも仏像・仏具など仏教色のあるものはすべて焼却または処分され、名称も「日吉神社」と変えられた。京都御所でも仏像・仏具はすべて伏見の泉涌寺に移された。

 しかしながら、廃仏毀釈による建築物・仏像の破壊や古文書・美術品の焼却・海外流出と、民衆からの強い反発や仏教会の抵抗に行き過ぎを察した政府は、明治四年(1871)に「古器旧物保存方」の太政官布告を発するとともに、明治十三年頃から内務省から全国の主要な古社寺に補助金を与え、文化財の維持保存策を打ち出している。
 短い期間であったが、神仏分離令による文化財の損失は計ることが出来ないほど大きく、琵琶湖疏水まわりの社寺を訪ねるとその名残が多くのこっている。
 ところが、今年の九月二十四日の新聞記事で南禅寺の鎮守社である「綾戸大明神」が、亀山法皇の七百年忌を来年に控え、明治以来初めて神・仏共同で五月十五日に記念大祭を行うという報道があったので、当日大祭に参列させていただいた。

 「綾戸大明神」は南禅寺・中門の外の駐車場横にある小さい祠で、予想外に大勢の人が参列しており、最初に臨済宗南禅寺派の中村菅長による仏式法要(写真@)が行われ、つづいて僧侶同席下に吉田神社の沢井宮司を祭主に神式大祭(写真A)が行われ、南禅寺派の杉村法務総長が神前に玉ぐしを捧げた。


@:南禅寺僧侶の出席

A:吉田神社神官の出席

 新聞紹介によると、このように大勢の人が集まったのは、明治元年の神仏分離の布告以来百三十五年経過して、京都で初めて神仏共同で行われた式典であったためである。
 この計画は、今年の七月に発足した「古都の森観光文化協会」が推進したもので、十一月七日には清水寺で石清水八幡宮の神職を招いて、神仏合同の「国家安泰世界平和祈願祭」が開催されている。神道と仏教が結びついた「神仏習合」の歴史は古く千年以上前である。日本人の思想を形成してきた道徳倫理は、神道・仏教・儒教という多神教に原点があったと言われ、もう一度日本人の心のよりどころとなる宗教感を見直したいという動きの一つと考えられる。

この文章をまとめた十二月十二日の京都新聞・夕刊に、吉田金彦先生の「京都地名散策」の記事があり、「綾戸」が消えた地名の一つとして紹介された。これによると綾戸の語義は"鮎が集まってくる瀬戸"であり、亀山法皇が南禅寺の伽藍建立前の1293年に鎮守社として桂川に近いにあった「綾戸御宮」を東山に勧請したのが「綾戸大明神」であるが、その理由については明確でないと記載されている。先生の「京都・滋賀古代地名を歩く1、U」は私の愛読書である。
 私は、琵琶湖疏水の調査から始まって南禅寺の水路閣を訪ね、南禅寺の鎮守社である綾戸大明神を訪ねて吉田金彦先生の書物に辿り付くという歴史のリンクに終りはないと思っている。「そすいのさんぽみち」と題したホームページに直接関係のない「京都全般」の項を入れたのもこのリンクに将来の期待を込めたためである。専門家から見れば常識かも知れないが、私にとっては新しい話題なのである。

3)二条城にある和洋折衷庭園「清流園」

1) 二条城と二の丸庭園
 二条城といえば、今から約400年前の慶長8年(1603)に徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営し、そのご3代将軍家光が拡充整備して現在の規模にしたもので、15代将軍慶喜が二の丸御殿にて大政奉還したという京都市トップクラスの文化財であり、平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産に登録されている。
 4月18日(月)に久し振りに訪れたが、修学旅行の高校生や外人客で賑わっており、品種に恵まれた桜もやや盛りを過ぎた感もあったが充分に楽しむことができた。
 二条城の庭園といえば、特別名勝に指定されている「二の丸庭園」が有名であるが、近代庭園の元祖ともいわれる小堀遠州(1579〜1647)の代表作の一つであり、京都では大徳寺の弧蓬庵、南禅寺の金地院、仙道御所の庭園などを手がけている。

@:二の丸庭園解説の駒札

A:二の丸庭園の一部風景

 色彩に富んだ多くの自然石を配置し、一本の松葉にも気を使って整備された代表的な江戸期の日本庭園について何回観ても飽きないが、今回は年に1〜2回しか公開されないという「清流園」を見学し、和楽庵で抹茶とお菓子をいただく機会があったので、これを中心に紹介する。

2)「清流園」のある場所の由来
 「清流園」の場所は二条城の北側の外堀に面して東西に細長く位置している。京都市作成の資料によると、家康が二条城を創建した頃には,城内の通路と天守閣の一部が存在していた場所で、3代家光の頃に増改築工事が行われた時、天守閣は淀城に移築され、このあたりは空地になったと推定されている。そのあと幕府役人の住居が建てられ、幕末まで建造物群があったが、明治前期には撤去され、緑地となった。
 大正4年(1915)には大正天皇の即位式饗宴の場として活用されたが、関連設備が岡崎地区に移築撤去され、その跡地に7代目小川冶兵衛の手で庭園が造成された。
 戦後、この場所は進駐軍のテニスコート場として転用されたが、昭和40年(1965)に「清流園」として整備された。まだ造成されてから40年くらいの新しい庭園である。

3)「清流園」の紹介
 面積は約5,000坪(16,500m2)あり,東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分が2棟の建屋(香雲亭と茶室・和楽庵)を含む池泉回遊式の和風庭園となっている。河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部・庭石・庭木を無償で譲り受け、その庭園にあった800個の石をもとに全国から集めた名石300個を加え、昭和40年(1965)に造園し、当時の京都市長・高山義三が「清流園」と命名した。園内には200本の桜があり、表千家の残月亭を模して造られた「和楽庵」は市民の茶会や国賓のもてなしなどに使われている。

B:お茶室・和楽園への入り口 

C:清流園の由来を示す駒札

D:桜の木で包まれる清流園

E:通路を覆う満開の枝垂れ桜

 池の水は「清流園」の北西の隅に掘られた井戸(上林鑿泉工業の工事実績から推定)から和楽庵の東側を数段の堰を越えて池に流れ落ちている。和楽庵の名前は,染料の輸入で財をなした稲畑勝太郎氏が南禅寺界隈で購入した庭園に付けた名前と同じであるが,関係の有無は定かでない。外人観光客と並んで茶菓をいただいたが、別世界の雰囲気の中でその味は格別であった。

4)今後の二条城のあり方について
 桜と言えば造幣局の通り抜けが有名であるが、ここではすべての桜に名札がついている。今回、二条城に入場したとき、1枚の“二条城桜マップ”が配布され、表裏に桜の品種と開花時期を示したマップと22種の桜のカラー写真がついていた。これにより桜の季節に訪問した客は二条城の桜をより深く楽しめたと思う。できれば樹木に名札をつけてほしい。
 もう一つ感じたのは、堀の水が濁っていることである。明治時代に活躍した西高瀬川と堀川は開発の波により途中で分断されて“枯れ川”となり、堀への水流が止まってしまった。二条城の掘は約5mの巾で長さが約2kmである。現在は底から涌き出る地下水だけが流入しており、夏場になると植物プランクトンが増殖してアオコが発生する。
 現在京都市では、23億円かけて琵琶湖疏水の水を堀川に導入する工事がはじまっているが、平成20〜21年度には二条城堀の浚渫浄化、平成22年度には堀川→二条城堀の新設導水施設の設置が計画されていると聞く。

F:東大手門に向って右側の堀

G:東大手門に向って左側の堀

 二条城は、400年前の徳川時代の雰囲気と近代である明治・大正・昭和の雰囲気を併せ持つ不思議な空間であり、全く違和感がない。世界に誇る施設として保持していく必要がある。

4)京都御所秋季一般公開に見学
1)今年は「安政のご造営150年記念」
 京都御所は、春と秋に5日間づつ一般公開(無料)される。今年は11月2日から6日の5日間で、午前9時開門、午後3時閉門、延べ1,500mの公開コースとなった。
 京都御所が今の地に定まったのは元弘3年(1331)であるが、それから明治2年(1869)まで1075年の長期にわたり、京都は皇居のある場所として存在し続けた。しかし、その間に何度も火災に逢い、その都度再建されてきた。現存する御所の建物の大部分は、安政2年(1855)に再建されたもので、今年は丁度150年にあたり、これを記念して今年の秋の一般公開は「安政のご造営150年記念」とし、例年の一般公開範位に加えて北側の「皇后宮常(つね)御殿」を特別公開し、京都御所のほぼ全体を見学できるように配慮された。

2)見学コースに沿って概要説明
 入る前に厳重な手荷物検査が実施された。金曜日の見学で大きい混雑は無かったが、大型観光バスが列をなしていた。壁で囲まれた御所の西側にある「宜秋(ぎしゅう)門」から内部に入ると、正面にある「御車寄(おくるまよせ)」(公家達が参殿する入り口)は屋根葦替工事中で囲われており、つづく「諸大夫(しょだいぶ)の間」(参殿した公家達の控えの間)は、遣戸や障子が開放され、桜・鶴・虎の襖(ふすま)絵が見学できた。
 つづく別棟の「新御車寄(しんみくるまよせ)」は、天皇陛下が自動車を利用して出入りするために新築されたもので、天皇専用の玄関である。

@:宜秋門から入る参観者達

A:天皇が出入りされる新御車寄

 御所の正殿である「紫宸殿(ししんでん)」の南庭は回廊で囲まれている。朱色の柱と白壁と屋根瓦からなり「承明門(じょうめいもん)」、「日華門」、「月華門」を持っている。承明門は「建礼門」の内側にあり、三戸からなり、中央は天皇陛下の専用となっている。西側にある月華門、南側にある承明門の外側を歩き、東側にある日華門から内部に入った。

B:月華門から承明門の内側が見える

C:承明門の外側を歩く参観者

 久し振りに秋宸殿を正面から観たが、さすがに京都を代表する建物である。疏水仲間で話題になるのは、「御所水道」であるが、当初御所の防火用水として蹴上から配管で疏水の水を引くことになったが、水圧が足らないので九条山の中腹に大きい水槽を作り、水圧を上げて緊急時に備えた。(本ホームページの利用−A防火用水− 2)「御所水道と九条山浄水場」参照)この時の設計目標が、紫宸殿の屋根の頂部に水が届くことであった。現在は配管が老朽化し、住宅が密集して工事が難しいので、防火用水は地下水に頼っているそうである。

D:向かって右側に左近の桜がある

E:12倍ズームで写した紫宸殿の額

 紫宸殿の左奥に「清涼殿」がある。前述の「諸大夫の間」の東側にあり、廊下で繋がっている。清涼殿は、平安時代に天皇が日常の生活の場として使用したところで、人形9体が配置されていた。
 その後、「御常(おつね)御殿」が別に構えられるようになったので、清涼殿も儀式用の御殿となった。しかし、形式的には日常の御殿たる性格は維持されてきた。紫宸殿の裏側を東に抜けて、「小御所」の前を北に進むと、右側に「御池庭」と呼ばれる庭園が広がる。小御所は、皇太子の元服などの儀式に使用される。

F:清涼殿での生活を示す人形

G:皇太子の元服などの儀式用小御所

H:小御所の前に広がる御池庭

I:御常御殿の前にある御内庭

 小御所の北側に「御学問所」があるが、今まで説明したすべての建物は廊下で繋がっている。その北側に別棟として御常御殿がある。天皇のお住まいとして清涼殿が用いられてきたが、室町時代に紫宸殿より大きい御常御殿が建造された。内部には大小15間があり、戦前までは、御学問所から廊下が伸びていたが、現在は独立した建物となっている。
 御所内の北側に新たに公開された「皇后宮常(つね)御殿」があり、御所北側の朔平門から出て見学コースは終了する。
      
J:皇后宮常御殿は障子を開放し、人形3体が飾られている

3)京都御苑内にある京都御所
 京都御所は、「築地(ついじ)」とよばれる土塀で囲まれている。この御所は6つの御門があり、それぞれ使用目的が決まっている。
 南側:御所の正門である「建礼門」があり天皇陛下と外国の元首が使用する。
 東側:「建春門」があり、明治以来皇后陛下、皇太子殿下と外国の首相が使用する。
 北側:「朔平門」があり、皇后宮常御殿の正門である。
 西側:北から「皇后御門」があり皇后宮常御殿の通用門である。
     次に「清所御門」があり、皇子女の参内用と御所の通用門として使用する。
     次に「宜秋門」があり、摂家・親王・門跡・公家などが使用する。
 このように、京都御苑内にある事物のすべてに歴史と伝統に包まれており、京都の中央に立地する広い空間は市民にとってすばらしい存在である。これからも少しづつ知識を広めていきたい。なお、手許の資料と見学の印象からまとめたので、間違いがあったら許していただきたい。

5)京都国立博物館の庭園紹介

1) 京都国立博物館の沿革
 京都国立博物館は、七条通と東大路通が交差する西北のコーナー(南側に三十三間堂がある)に位置する。現在日本には国立博物館が、東京・京都・奈良・九州の四ケ所に存在する。平成13年(2001)4月に独立行政法人・国立博物館法が施行され、文化庁所管の独立行政法人として運営されている。
七条通に面した南門から入ると、右手に赤レンガ造りの本館、正面左に新館があり、その手前の左右に庭園が広がっている。本館は、「琵琶湖疏水の御所水道・九条山浄水場ポンプ室」の設計者であり、宮廷建築の第一人者として知られる片山東熊博士の設計により、明治30年(1897)に開館している。ヨーロッパの華麗なバロック様式の建物で、年数回の特別展会場として利用されている。この本館と西側にある正門などは国の重要文化財に指定されている。

@:京都国立博物館・本館の外観

A:博物館敷地の西側にある正門

 常設館として利用されている新館は、昭和40年(1965)に森田慶一博士の設計で開館しており、館蔵品・寄託品約12,000件の中から考古・陶磁・彫刻・絵画・書跡・染織・漆工・
金工などを選んで展示しており、京都の歴史にふさわしい美術品・文化財が420円の入場料で楽しめる。

2) 京都国立博物館「東の庭」の概要紹介
 博物館の南門に向かって右側(東側)に存在し、比較的狭い敷地であるが、季節ごとに美しい花や葉色が楽しめる空間となっている。右側の歩道あるいは左側の石段を上ると、石造品に飾られた庭園がある。掲示板の説明によると、朝鮮時代(1392〜1910)の「墳墓表飾石造遺物」であり、高貴な人々の墳墓のまわりを石彫像で飾る朝鮮半島の伝統を紹介したものであり、散策道に沿って石彫品(石人・石羊・灯篭・基台・方台・石脚など)が配置されている。
 左側奥には、昭和33年(1958)に美術愛好家の上田堪(たん)一郎によって造営・寄贈された茶室「堪庵(たんあん)」があり、茶会・句会・香道の会などに利用されている。

B:東の庭に入る石段を上から見下ろした写真

C:「堪庵」の入り口(右側)に向かう道

3) 京都国立博物館の「西の庭」の概要紹介
 七条通に沿って広がる平地の庭園で、季節を彩る樹木の下に京都の歴史を語る数多くの石造品が収集展示されている。新館でいただいた解説付き庭園マップに沿って歩いたが、一番嬉しかったのは、五条大橋と三条大橋の造営に使用された石柱・石桁であった。

D:三条大橋の造営に使用された石柱

E:五条大橋の造営に使用された石柱と石桁

 何れも津国御影(摂津産御影石)・天正17年の刻印がある。これらの石柱は平安神宮その他に多く存在するが、上記右写真に示すような3本組の橋桁は初めて見学できた。天正17年(1589)といえば安土桃山時代で、豊臣秀吉が京都内部の整備のために造営したものである。
 この庭園には、横穴式石室に収められる家型石棺(6世紀、古墳時代)、行願寺伝来の石造大日如来像(12世紀、平安時代)、方広寺大仏殿の敷石(17世紀、桃山時代)、九条山付近で出土した車石(19世紀、江戸時代)など幅広い時代を代表した20件の石造品があり、京都の歴史の重みを伝えてくれる。

6)山科勧修寺の菊花と紅葉を訪ねて

 山科の勧修寺といえば、杜若(かきつばた)(5月中旬)、花菖蒲(6月頃)、睡蓮(6月上旬〜7月中旬)、蓮(7月中旬〜8月中旬)の花で有名であるが、新聞で秋の紅葉と菊花展開催の記事を見たので、11月10日の午後出かけてみた。
 地下鉄山科駅で乗車し、3つ目の小野駅で下車すると、歩いて6分のところに勧修寺がある。我が家を出てから30分足らずの距離である。

1) 勧修寺の由来
 勧修寺の発音(読み方)は使い方により異なる。勧修寺はこの地域一帯の地名であり、ポスタルガイドによると、勧修寺○○町のような郵便番号の異なる町が29ケ所もある。この場合の読み方は「かんしゅうじ」であるが、お寺の名前は庭園内の説明坂にもあるように「かじゅうじ」と読む。
 この寺は真言宗十二流の一つである山階(やましな)派の総本山で、千百余年の歴史を持つ古寺である。醍醐天皇が生母藤原胤子の菩提を弔うために建立したもので、藤原高時が列子と結ばれて胤子が生れるロマンスは今昔物語に登場する。
 醍醐天皇の外祖父藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号し、天皇家、藤原家の帰依のもとに門跡寺院として繁栄したが、幾多の戦禍や事件にさらされながらその度復興され、平安時代の雰囲気を残した数少ない寺院である。
2) 菊花展の見学
 勧修寺庭園に入る手前の前庭に、色や形の異なる菊花の鉢が、約300鉢分別して展示されている。これは「勧修寺菊花愛好会」が主催しているもので、10年前から無料公開されている。規模が小さいので、全体としての威圧感はないが、個々には優れた作品が多く充分に眼を楽しませてくれた。



3) 勧修寺氷池園と呼ばれる庭園散策
 入場料を払って中門から入ると、すぐ右側に寝殿作り風の宸殿があるが、元禄10年(1697)に旧御所から移設されたもので、その裏側に江戸初期書院作りの典型とされる書院(重要文化財)があり、優れた襖絵があるが、通常非公開となっている。

@:旧御所の明正天皇の御殿を移設した宸殿
 
A:紅葉の始まった散策道

 書院の南側には大きい庭園が広がっており、2万m2ある氷室池は枯れ蓮模様で、まだ鴨や白鷺の姿が見られた。

B:池泉庭園の中心にある氷室池の枯れ蓮
 
C:庭園広場の周辺を彩る紅葉

 新聞報道によると、勧修寺の紅葉の見頃は11月中〜下旬であり、今回の訪問は少し早かった。今度宸殿や書院内部の特別公開の機会があれば再度訪ねて、数多く残されている庭園内の平安の遺物を詳しく追ってみたい。

7)京都御所障壁画の新春初公開
1)今回の初公開の趣旨と内容について
 現在の京都御所は、その立地条件や建築材料などの面から江戸時代だけでも8回再建(うち6回は火災焼失による)されており、現存する建物(約20棟の御殿)は江戸時代末期の安政2年(1855)に再建されたものである。
 再建されてから今年で152年経過した。その間、建物の外観公開とか内部の部分公開などはあったが、障壁画(襖絵など)を御所外に持ち出して公開されることはなかった。今回公開される障壁画は、安政2年の再建時に当時の京都における代表的な絵師97名が動員され、1年半かけて完成させたもので、全部で1,800面の障壁画が現存しているが、今回の公開の対象は、天皇が日常的に住まわれた御常御殿、和歌の会などに使用された御学問所、七夕など内々の行事がおこなわれた御三間の3部屋の障壁画200余面である。
 国立京都博物館では、平成19年度(2007)の新春特別展覧会として「京都御所障壁画」を取り上げ、1月6日から2月18日の会期で公開した。今まで私は障壁画について特別の興味を持っていなかったが、今回の見学でその世界に魅了され、琵琶湖疏水の流れる周辺だけでも文化財として価値の高い多くの障壁画が存在していることに改めて気付いた。

博物館の入り口を飾る展示板

展示会場である博物館の正面
 この展覧会は、会期前から終了後にかけて多くの新聞や冊子に解説記事が掲載され、その概要を自分なりに把握することができた。
 京都国立博物館・佐々木丞平館長の解説の一部を引用すると、この時期(1854年)は日米和親条約の締結された年で、西欧化の波が押し寄せる前における最後のわが国絵画の在り方をとどめるもので、様々な個性的画法描写が林立した18世紀から、写生を元にした近代的二十世紀への画風の大転換の時期にあたる。
 また、従来の寺院にある襖絵は、狩野系の御用絵師によるものが中心であったが、京都御所では、御用絵師約3割、町絵師約7割という当時の京都画壇の勢力を反映しているという。障壁画の主題も従来の漢画中心から大和絵が重用されている。また、建物の使用目的に対応して絵師も使い分けされており、歴史的意義の大きい展示会である。

2)障壁画の定義
 日本の伝統的な家で常用されるものとして障子・襖・屏風・衝立などがあり、これに紙に描いた絵を貼り付けて楽しむ習慣が定着してきたが、外国の家では壁が煉瓦・石・コンクリートなどでできており、寺院などでは固定した壁に絵を描く壁画などが描かれている。
 世界原色百科事典(小学館)によると、これらを綜合して「障壁画」と呼んでいる。
 英和辞典で調べると、襖(ふすま)の英字はa sliding doorであり、障壁画は、a sliding door panel、屏風はfolding screen、壁画はmural paintingであり、今回の展覧会のパンフレットにもSliding Door Panelの表現が用いられている。 
 私は、海外の友人を京都の寺院に案内したとき、襖をdoorのかわりにwallを用いて説明したことがあるが、外国人は障子や襖を見て、その利便性に感嘆の声を上げる。
@狭い部屋を仕切っている襖を取り除けると、大きい部屋に変身する。
A襖の両面に絵があり、隣接した部屋の仕切りとして両側から絵が楽しめる。
B必要なときに襖を交換して、季節に応じた絵を楽しむことができる。
C屏風は、連続した4〜6枚の絵を部屋の部分仕切りに使用し、折りたたんで収納できる。
D木や紙で造られており、屏風も障子も襖もおどろくほど軽い。
 このように外国人に説明すると、しばらく話題がつづくテーマである。

3)最近の障壁画に関する話題
 新聞・雑誌の記事や寺社仏閣の見学案内などをみると、障壁画に関する話題がきわめて多い。その中から幾つかの話題を紹介する。

@)織田信長がローマ法王に献上した屏風の話題
 広辞苑(岩波書店)によると、障壁画は平安時代以来日本絵画の画面形式として発展し、とくに安土桃山時代から江戸初期にかけて、装飾性に富む豪華な作品が登場している。たとえば織田信長は安土城天守閣内部の襖絵を狩野栄徳に描かせ、豊臣秀吉も大阪城、伏見城に狩野派の襖絵を描かせている。
 信長は、安土城の全景を描いた豪華な屏風絵をイエズス会宣教師に与え、この屏風をキリシタン大名の名代として選ばれた12〜13才の4人の少年からなる天正遣欧使節団が持って1582年長崎を出発し、3年後にローマに到着、1585年3月にローマ法王に謁見した際屏風絵を献上し、8年後に帰国した・・・という有名な実話がある。
 しかし、その屏風絵が現在行方不明となっており、滋賀県安土町ではこの屏風絵を探すため調査団(団長:若桑みどり千葉大学名誉教授)をイタリアに派遣したというニュースが大きい話題になった。約1ヶ月間の調査結果が平成19年(2006)2月に報告され、この屏風は少なくとも7年間バチカン宮殿内の展示室「地図の回廊」に置かれていたことを確認できたが、所在地の確認には至らなかった。しかし、関連情報も得られ今年から来年にかけてさらに調査を継続するので、近い時期にロマンに満ちた探索が成功することを期待したい。

A)西本願寺・御影(ごえい)堂の障壁画の補修完了
 去る3月15日付の京都新聞が、御影堂内陣の北余間の障壁画(幅約8.3m、高さ約5.5m)の半年ぶりの補修完了が発表され、報道関係者に公開されたと報じた。南余間の同サイズの障壁画は平成17年(2005)に修復が完了している。
 西本願寺では、平成23年(2011)の宗祖・親鸞の七百五十回大遠忌法要に向けて、平成10年(1998)から約56億円かけて御影堂の修復を進めているが、この中には障壁画(襖絵、壁貼り付け画、天井画など)の修復が含まれている。
 日経ネット関西版(06−07−22)によると、上記障壁画は十数枚の紙が層状に張り合わせてあり、絵が描かれている本紙は1ミリもない薄い紙である。この作業は経験ある専門の表具師が時間をかけて実施されるが、ロウソクのすす汚れを落としてひび割れを直し、黒ずんだ金箔を綺麗にし、蓮の花や池、雲が鮮明に浮かび上がらせた。国宝や重要文化財の修復ができる業者は全国で10社だけと紹介している。

B)二条城の障壁画の修理について
 京都新聞(06−01−25)によると、二条城には954面の障壁画があり、重文の絵画では全国で最多である。年間120万人の観光客が訪れ、長年外気にさらされて障壁画の損傷は著しい。本格修理は平成14年(2002)度からで、年間1,200万円の国庫補助事業により4年間に計16面の修復を実施した。この線で修復すると完了に130年かかることになるが、新年度から予算の大幅増額が認められ、修理期間が24年に短縮された。
 しかし、今後20年以上も予算が継続して確保できるかどうかわからないし、国宝のニ之丸御殿の耐震補強を含めた本格的な解体修理が必要な時期にきており、数十億円規模の資金が新たに必要になる可能性もある。一方で大人600円の入場料がなぜ文化財修理に役立てられないかという疑問も根強い。観光都市を目指す京都市にとって、多額の資金を必要とする文化財保護に関する情報公開をもっと積極的に実施し、市民の理解を得る努力をすべきだと解説している。

C)文化財絵画のデジタル複製の動き
 京都の美術品の多くは、明治期や戦後の荒廃期に海外の美術館や収集家などに売却され、国内にあれば、国宝・重文クラスのものも少なくない。京都新聞(07−03−15)によると、文化財絵画のデジタル複製に取り組む京都国際交流財団とキヤノン鰍ェ、京都から海外に流出した作品を複製して京都に戻す「文化財未来継承プロジェクト」を発足させたと報じた。そして、アメリカのメトロポリタン美術館が保有する尾形光琳の「八橋図」と狩野山雪の「老梅図」の2作品の複製許可を取り付けた。デジタル複製は、色彩が忠実で形の狂いもなく、早く仕上がる。このプロジェクトでは3年計画で15作品ほど手がける予定であり、資金や機材はキャノン鰍ェ提供し、「八橋図」は京都市、「老梅図」は本来所有していた妙心寺天祥院に寄贈される予定である。
 デジタル複写の世界の技術革新は著しく、今後美術文化財の保存・利用など広い分野での活用が大きく期待されている。

D)京都迎賓館の壁面装飾
 京都国立近代美術館が平成16年(2004)3月に「京都迎賓館・その人形展」を開催したが、その時の資料によると、京都迎賓館の建設には京都の伝統的技能が11分野にわたって生かされており実例が紹介された。襖や壁の表装を行う表具の技術は、晩餐室・主賓室・大広間玄関・会議室などで活用されている。
 京都新聞(05−01−19、05−10−02)に、晩餐室に採用されたつづれ織りの壁画(四季の花、長さ16m、高さ3m)と大会議室に採用された2枚のつづれ織り壁画(東壁に『比叡月映』、西壁ニ『愛宕夕照』、長さ12m、高さ1.2m)のカラー絵図が紹介された。作者としては、21世紀に活躍する比較的若い人として箱崎睦昌氏と鹿見喜陌氏が選ばれた。
 この最大級のつづれ織り壁絵を見学する機会を待ちたい。

E)東山七条近辺で見学できる障壁画
@ 京都国立博物館・・・東山七条角にある常設展示舘で、いくつかの襖絵を見学した。一つは狩野雅楽助筆と伝えられる「四季耕作図(重文)」は、1513年に創建された大徳寺山内の大仙院を飾る襖絵で、浸種から入倉までの農作業が克明に描写されている。もう一つは円山応挙(1733〜1795)の描いた「群鶴図屏風」で、江戸時代・18世紀の2連の6枚屏風は迫力満点である。
A 智積院(ちしゃくいん)・・・東大路通・東山七条すぐ南にあり、秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した寺院で、宝物舘には長谷川伯筆の雄大な「楓図」とその弟久蔵による叙情的な「桜図」が有名。入場料350円。
B 養源院・・・京都国立博物館の南側にある三十三間堂の東手にある。秀吉の側室淀君が父浅井長政の菩提を弔うために創建。焼失後伏見城の旧材を用いて、淀君の妹徳川秀忠夫人が再建した。俵屋宗達筆の「松図」、「唐獅子図」、などがある。入場料500円。
C 妙法院・・・東山七条のすぐ北にある天台三門跡の一つで、室町期に焼亡と再建を繰り返した。秀吉の遺品が多く特別公開の時、大玄関の「松図」や狩野派の襖絵が見学できる。
 このように、京都には多数の障壁画を保有する寺院が存在しており、常設展示だけでなく特別公開される寺院も多い。

8)二ヶ所で開催された赤穂義士祭を見学

 12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日で、全国各地で義士祭が開催されている。今年は山科疏水の安朱橋を通過する「山科義士祭」と鴨東運河のすぐ横にある本妙寺の「元禄義挙記念祭」を見学したので、その概要を報告する。
1)全国で開催される義士祭の紹介
 とくに大きく報道される義士祭は、浅野家の城下町であった兵庫県赤穂市の義士祭で、毎年数万人規模の観光客が訪れる。また東京港区にある泉岳寺、墨田区本所松坂町公園の吉良屋敷跡、などの義士祭も有名であるが、京都市山科区は大石内蔵助ゆかりの地として数百人規模の行列ができることで知られている。
 この他に、四十七士個人のゆかりの地として、九州・四国・本州・北海道など全国規模で義士祭が開かれており、三百余年前の事件で全国的に行事がつづけられているのは他に例がないと思う。また、「全国義士会連合会」という全国規模の組織があり、京都府からは「京都山科義士会」と「京都義士会(本妙寺)」の2つが加盟している。

2)山科の義士祭を見学
 京都山科で義士行列が始まったのは昭和49年(1974)である。山科駅前三条商店街の提案で、区内の七商店街連合会の費用で商店主出演による義士行列が行なわれた。その後この事業は山科保勝会が引き継ぎ、現在は十三学区の自治連合会を中心とした「山科義士祭実行委員会」が行なっている。今年(2007)は三十三回目で、毘沙門天から出発して旧三条街道・外環状線などを南下して約200人の行列が大石神社まで行進した。
 行列が出発する前に、毘沙門道にある瑞光院で住職による供養式が行なわれた。


瑞光院の門(日常は閉鎖されている)


浅野長矩公の墓前で供養する住職


 瑞光院は、昭和37年(1962)に京都市上京区から当地に移転してきたが、この地は千年以上の歴史がある「朝野稲荷」があった場所で、豊臣時代に浅野長政がここに下屋敷(別荘)を建て,朝野を浅野と読み替え「浅野稲荷」として鎮守したという浅野家ゆかりの地であった。
 瑞光院墓地にある駒札に次に示す記載がある。

 10時に住民が扮装した四十七士の行列が毘沙門堂を出発し、花飾りのついた先導車につづき、瑞光院住職に見送られながら毘沙門道を行進した。

毘沙門堂を出発する義士行列 

疏水に架かる安朱橋を渡る行列

 一行は山科駅前で子供義士隊も参加して賑やかとなり、沿道の見物客を喜ばせた。今年の山科義士祭の行進見学をここで止め、地下鉄で東山の次の義士祭見学に向かった。

3)左京区仁王門通の本妙寺の記念祭を見学
 本妙寺は、地下鉄東山駅を下車し@番出口にある信号を渡って古川通を北進し、仁王門通に突き当たった斜め前にあり、東大路通と仁王門通の交差点(東入り)にある。すぐ東に鴨東運河が流れている。この寺の門前にある駒札の要点を紹介すると、

 正面本堂前には「討ち入りそば」のテントが張られ、昭和5年(1930)建立された義士堂の内部正面には四十七士の木像が並び、左右の壁には25面の軸(易墨)が掛けられており、担当者より説明を受けた。

本妙寺の正面門外から内を見る


義士堂の正面入り口


4)上京区寺ノ内通の妙蓮寺墓地に遺髪墓が

 今回は訪問しなかったが、吉良討ち入り三百年記念行事の一つとして、平成14年(2002)に妙蓮寺で、元禄時代に建てられた赤穂義士の遺髪墓の表面が損傷し、四十六人の戒名が剥がれ落ちていたのを三百年振りに新調したと報道された。
 妙蓮寺は義士の一人片岡源五右衛門の菩提寺で、四十六人の遺髪が納められているが、義士の中でただ一人切腹しなかった寺坂吉右衛門から托された源五右衛門の妻が寺に預け、墓地の一角に埋葬されている。
 全国義士会連合会会報第24号(本妙寺で受領)によると、平成19年11月における“今期中出版された元禄事件関係新刊本”は61件と報告されており、305年経過したあとも研究がつづけられており、熱い論争も重ねられている。

9)京都御苑歴史ふれあいの道散策(1)

1)環境庁が御苑整備・初の長期計画を発表
 京都御苑は、琵琶湖疏水との係わり合いから見ると「御所水道」くらいであるが、御苑の総面積は約63ha、通常非公開の京都御所・大宮御所・仙洞御所の面積を加えると約92ha(南北約700m ,東西約1300m)となる広大な敷地を有しており、東京ドームの広さの約60倍となり、光厳天皇が即位された元弘元年(1331)から明治始めまでの歴史が詰まったスポットである。
 環境省の京都御苑管理事務所では、昨年7月から専門家を集めた作業委員会による会議を重ね、資源活用推進のための再整備計画を本年2月にとりまとめた。御所関係は宮内庁が管轄しているが、その周辺を国民公園とし、昭和46年(1971)度から環境省京都御苑管理事務所が維持・管理してきた。今回の再整備計画の重点策として、公家町跡の整備・バリアフリー化・自然環境の保全などが挙げられているが、今年の4月に「歴史ふれあいの道」が誕生し、苑内20ヶ所に設置された駒札型の案内板を見れば、公家町の歴史を学ぶことができるようになった。
 12月7日に、京都御苑と命名されてから130年、ゆかりの深い源氏物語1千年紀を記念して「京都御苑歴史散策の集い」が開催された。そして京都検定1級合格者55名を擁するNPO法人「京草」のメンバーが各駒札の前で解説してくれ、約3時間の散策で御苑の要所を平面的に把握することができた。
 
2)散策順路に駒札の要旨を説明
 自分の勉強のためにまとめたので、正確さを欠く記述があれば順次修正したい。
 以上は、京都御苑の西側(烏丸通側)に存在する9件の駒札で、寺町通側と中央下部にある11件については次報で紹介する。

3)上記9件の駒札の補足説明
@)閑院宮邸跡
 京都御苑は、江戸時代には二百もの宮家や公家の屋敷が集った「公家町」であったが、明治になって都が東京に移ったあとは、これらの邸宅は姿を消した。閑院宮邸だけは、その姿を残し、宮家が東京に移ったあとは、華族会館や裁判所などに利用されてきた。平成15年度から3ヶ年計画で改修整備が行われて公家屋敷として保存され、資料の展示室もあり、月曜・年末年始を除いて無料公開されている。

12月7日の見学会、閑院宮邸前に集合

敷地面積約9500平方メートル

A)出水の小川

 江戸期、相国寺の中を流れる加茂川の細流を、今出川御門あたりから御苑に取り入れ、「御溝水(みかわみず)」や御所・公家の池に使用していたが、明治45年(1912)に琵琶湖疏水から分水した「御所水道」の水に切り替えられた。
 この「出水の小川」も、昭和56年(1981)に御所周りの流路「御溝水」から導水して、長さ110m、深さ20cmの水路をつくったが、平成4年の御所水道の閉鎖により、今は井戸からポンプで汲み上げ、循環ろ過して流れを維持している。

出水の小川の現状写真

日英中韓の4ヶ国語で書かれた駒札

 実際に駒札を捜して歩いたが、御苑の面積は広大で、駒札を捜すのに苦労した。今回は人が集っている場所が駒札のあるところなので、見つけることができた。また、駒札の順路が平安時代から現代までミックスしており、「京都御苑歴史ふれあいの道」の散策に更なる工夫が必要と感じた。

10)京都御苑歴史ふれあいの道散策(2)

1)散策順路に従って駒札の要旨を説明
 前回は京都御苑の中央より西側にある駒札9枚の紹介をおこなったが、今回は東側にある駒札6枚について紹介する。

2)上記駒札の補足説明
@ 明治天皇誕生の地(中山邸跡)
 最近整備された場所で、表に解説板が立っていた。要旨を示すと、
 後の明治天皇となる祐宮(さちのみや)は、嘉永5年(1852)9月26日(旧暦)に誕生された。母親の中山慶子は、ここに産屋を建て、祐宮を出産された。その産屋だけが現在も残っている。祐宮は5歳まで中山家の屋敷で育てられ、15歳のときに明治天皇として即位された。

明治天皇生誕の地」の碑

祐宮2歳のときに掘られた井戸「祐井」

A 皇女和宮生誕の地(橋本家邸跡)

 表に立てられた説明板の要旨を示すと、
 和の宮の生れた時は、すでに父親の仁考天皇は亡くなられており、母親の橋本家で育てられた。4歳の時に有栖川宮と婚約したが、14歳の時、公武合体政策のため婚約は解消され、14代将軍徳川家茂と結婚した。移動中の妨害を恐れて中仙道を通り、江戸に向った。しかし、家茂との結婚も永く続かず、長州征伐に出かけた家茂は大阪城で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。和宮に約束した京土産の西陣織だけが帰ってきた。
 和宮が暮していた桂宮邸は、明治26年に天明の大火で焼失していた二条城の本丸御殿として移築され、公家住宅の遺構として重要文化財に指定されている。

「皇女和宮生誕の地」の碑

橋本家跡の駒札(日英中韓4ヶ国語)

B 学習院跡と桜松

 東京に学習院大学があるが、この名は京都が最初であり、明治天皇がこの名に因んで東京の学校名としたと伝えられる。学習院跡のすぐ南に「桜松」の立て札が立っている。
 左の写真は、嘉永2年(1849)孝明天皇より学問所に下賜された額(近衛忠能の書)で、明治10年(1877)明治天皇より改めて下賜されたと説明せれている。

孝明天皇から下賜された額

桜松(さくらまつ)の現在の姿

 右側の写真は、倒れた黒松の木から山桜が生えているものである。黒松の樹齢は約100年、山桜の樹齢は約40年で、黒松の空洞に山桜が生えて花を咲かせていたが、平成8年4月17日に黒松は枯れて倒れてしまった。しかし、倒れたあとも、桜は地中まで根を伸ばし、春には花を咲かせている。そして「桜松」とか「松木の桜」と呼ばれ、親しまれている。