建設工事

 

11)諸羽トンネル東口近くにある鉄筋コンクリート構造物

 昭和45年(1970)の諸羽トンネル完成により、四ノ宮舟溜から安朱に向かう旧水路は散策路となっている。この道を少し西に進んだ山側の斜面に、巨大な鉄筋コンクリート製の構造物が置かれている。
 この構造物は近くで見ると巨大なもので、外面は風雨によりセメントが溶出して砂利が深く露出しており、作成時の木型の線らしい横線(内面はモルタル仕上げ)がついている。手持ちの小型巻尺で概略寸法を計ったところ底面の外径が約540cm(3間)、奥行約180cm(1間)高さ約240cmあることがわかった。
 表面をよく観察すると、誰かがコンクリートを削って鉄筋を確認したあとがあり、太さ8mmくらいの鉄棒が使用されている。

外面から見た鉄筋

内面から見た鉄筋

外壁の拡大写真

頂部の断面(側面)の腐食状況
 このような巨大な構造物が、わざわざ旧水路を隔てて反対側の山側斜面に置かれていることに興味を持ったので、約4年前に本ホームページで“使用目的、設置時期”などを質問したが、解答につながるコンタクトが無く、情報のないまま現在に至っている。
 私は、この付近で使用された構造物の予備が記念の目的で残されたと想像し、形から見て疏水水路の頂部か底部に使用された(または使用計画があった)と考え、諸羽トンネルの内径と構造物の底面の外径が一致することから、この可能性が高いと考えていた。
 ところが、最近この近辺で少年時代を過ごした藤本さん(八幡市在住)と一緒に散策したとき、諸羽トンネル完成前(今から約50年前)から、この構造物がここに存在していたという貴重な情報を得た。
 鉄筋コンクリート構造物が日本で試作されたのは、建物では筑前技光製鉄所(明治36年)、橋では山科疏水の日ノ岡の第11号橋(明治36年)が最初であり、論文に鉄筋コンクリートの名が登場したのも港湾工学の大家・広井勇(明治36年)といわれるから、この明治36年(1903)頃が一番古いと考えてよいと思う。
 「琵琶湖疏水の100年」誌によると、山科疏水の改修工事がおこなわれ「東山緑地公園」の名称となった工事細部について、昭和46年(1971)頃からスタートし、昭和49年(1974)に四ノ宮地区を整備し、日ノ岡までの工事が完了したのは昭和53年(1978)と記載されている。一方、湖西線工事の基本計画は昭和39年(1964)に策定され、昭和41年(1966)に山科〜西大津間の工事が進められ、諸羽トンネルの完成が昭和45年(1970)で、湖西線(山科〜近江塩津)の全線開業が昭和49年(1974)である。したがって、湖西線工事が先行し、そのあとこれと並行して東山緑地公園の整備が進められたと考えられる。

 また、湖西線の工事経過や藤本さんの記憶を考慮すると、このコンクリート構造物がこの場所に置かれたのは、諸羽トンネルの計画段階か第二疏水工事くらいしか考えられない。

 以上は一つの推論に過ぎないが、コンクリート構造物の風格には歴史の重みを感じるので、何とか知りたいし、その前に説明パネルを設置したい。この時期の話題についてはご存知の方が必ず居られる筈である。
 今後の調査の進め方として
1)コンクリートの専門家に実物を見ていただき、その古さを推定してほしい。
2) 水路の建設改修の歴史にくわしい琵琶湖疏水事務所や水道局建設部のような組織に残された記録の有無またOBの人の記憶などを期待したい。
3) 地元の古老からの情報を今後とも集めていきたい。
 などを通じて、少しでもその事実を把握したいと考えている。

12)諸羽トンネル横の造形物の由来が判明

1)過去に2回取り上げた同じ課題
 この課題をホームページの題として最初に取り上げたのが平成15年(2003)4月の第25話であった。「諸羽トンネル東口にある造形物」という題(第25話)で下記2枚の写真を付して、コンクリート造形物の由来を教えてほしいと尋ねた。

 この問いかけは、私がホームページを立ち上げてから約3ヶ月後のことで、その存在はかなり前から知っていた。
 この造形物の存在する場所は、一燈園横の四ノ宮舟溜(昔は重箱舟溜と呼称されていた)の西端にある諸羽トンネル横の旧水路を利用した散策道であり、ジョギングコースの100m指標を超えた山裾側に置かれているので、疏水を散策する方の大部分は覚えておられると思う。上の写真に示すように、少し危険ではあるが子供の遊び道具に利用されたり、近くにある公衆便所と水道を活用した屋根付き別荘として住み付く人もいた。
 直径が5.4mもある巨大なアーチ形であり、コンクリートの風化度も進んでいるのでかなり古いものと考えられ、また諸羽トンネルが建設された昭和45年(1970)より前から存在していることまでわかったが、約4年経過しても由来に関する情報は得られなかった。
 その後平成19年(2007)2月にホームページ(220話)で、下記側面写真と概略寸法図を示して再度問いかけをするとともに、琵琶湖疏水記念館の井垣館長にも調査をお願いした。

2)コンクリート成形物の由来が判明
 その後、一燈園の当番・西田多戈止さんからこの造形物で子供時代に遊んだ話を聞いたり、5月16日に山科アスニーで「琵琶湖疏水の散歩道」と題した講演を実施したとき、参加者から類似構造物の存在の話を聞いて調査したりして情報を蓄積してきたが、11月29日の疏水記念館における館長トーク会の席で、由来が判明したとの朗報を得た。
 館長によると、水道局の先輩やOBの方に機会あるたびに質問を重ねた結果、
 “あの造形物は、明治44年から45年にかけて建設された第二疏水の埋め立て水路の天井部に使用された鉄筋コンクリート造形物である。ただし、実用されたそのものでなく、その設計図にもとづいて作業者の製作訓練のために製造されたものである。当時鉄筋コンクリートは最新技術の一つであり、記念としてあの位置に残された”との報告を得た。

 この報告にもとづき、「琵琶湖疏水の100年」誌を再読した結果、第二疏水のトンネルは、小関・柳山・安祥寺・黒岩・日ノ岡の5ヶ所にあり、各トンネル間は土地を開削して底部と側壁は無筋コンクリート、アーチ部は鉄筋コンクリートで造り、水路が完成してから埋め戻す工法(現在のオープンカット方式)が採用されていることが確認できた。このアーチ部が今回の「鉄筋コンクリート造形物」である。
 さらに、昭和63年から京都新聞に連載された「疏水史を見る」の37号(昭和63年12月9日付)にトンネル水路工事にこの造形物らしき写真が掲載されており、また現在の小金塚団地から一燈園にかけて第二疏水の水路がオープンカット方式で工事されたとの記事も見つけた。

 約90余年前に建設された第二疏水に用いられたトンネル用鉄筋コンクリート製アーチ部の見本が現存していることは、嬉しい発見(確認?)であるとともに、後世に伝え残していきたい産業遺産であると思う。

13)第一トンネルと第一竪坑工事

1)本稿を取り上げた経緯
 琵琶湖疏水の工事記録によると、第一トンネル(竪坑工事を含む)工事の工期は4年7ヶ月を要し、一日平均の掘削距離は1.5mであった。この工事の開始は第一竪坑の掘削から始まり、完工は疏水完成の2ヶ月前であった。一方、第一竪坑は45mの深さに達するまで196日を要しており、計算すると一日平均の掘削距離はわずか20cm強であった。
 過去の工事記録や多くの解説書によると、工事内容をくわしく報じているのは第一竪坑であり、疏水の工事全体における最大の難工事は第一竪坑であったと解説している。しかし、工事費からみると、琵琶湖疏水の全工事費125万円の中で、第一トンネルの工事費の占める割合が43万円で、その内訳として第一竪坑の工事費はわずか2万円強となっている。(以上の数値は概略値であり、以下に示す値と若干異なるものもある)
 私の理解では、第一竪坑の最大の難点は湧き水対策にあったと思うので、当時の日本における竪坑掘削技術のレベルについて少し調べてみた結果をとりまとめた。

2)第一トンネルと竪坑の工事日程図
 第一トンネルの工事記録として一番詳しいのは、昭和15年(1940)に京都市電気局がまとめた「琵琶湖疏水及水力使用事業」であるので、この資料にもとづき竪坑を含む第一トンネルの建設工事の日程を次図にとりまとめた。
 

この図表をゆっくり眺めると、

@ 工事を開始したのが第一竪坑の着工日(18-08-06)であり、完工日が大津口と第一竪坑口が連結した日(22-02-27)である。
A 第一竪坑口完成と同じ日に東西に掘り進めており、このあと4〜5ヶ月後に藤尾口と大津口の掘削が開始されている。
B 第一竪坑の工期は8ヶ月余であったが、この竪坑の主役割は掘削口の増加であり、大津口と第一竪坑口間の坑道連結がかなりの難工事であったことが想像される。
C 第二竪坑は、送風機の新設より坑道掘削の方が安価のため設置されたが、工期も1ヶ月で、地質面や湧き水によるトラブルがなかった。
D 大津口の掘削を開始して順次レンガの巻き立て工事を進めたが、残されていた大津口の近くの巻き立て工事にとりかかった明治21年10月5日に落盤があり。65名が生き埋めになる事故が発生した。細部は省略するが、3日後全員無事救出された。完成の4ヶ月半前の出来事であった。
E トンネルの地下水路の上を小関越え道が通っているので、第一竪坑と第二竪坑の地上部を見学することができる。


第一竪坑の地上部


第二竪坑の地上部


 第一竪坑と第二竪坑の地上および地下部分の寸法を紹介すると、
 

3)わが国における洋式竪坑技術の導入経過

 日本で水路トンネルに建設された最初の竪坑は「箱根用水」である。これは甲州武田信玄流といわれる鉱山掘削技術を用い、300年以上前に空気流通用として、人間が通れる堅穴が造られており、明治17年(1884)に田邊朔朗氏も見学しているとの報告がある。
 海外からの竪坑の洋式掘削技術導入は、九州の炭鉱開発が最初のようである。鹿児島県がとりまとめた「九州近代化産業遺産の意義」に記載された関係記事の一部を紹介する。
 明治維新前後の慶応8年(1868)に英商グラバー氏の斡旋で、イギリス人技師モーリスと技術者数名が招聘され、蒸気ポンプや蒸気巻揚機などを採用した洋式竪坑技術が紹介された。
 そして、明治2年(1869)に長崎の高島炭鉱(北渓井坑)で実用されたのが日本初の洋式竪坑である。これがパイロットプラントの役割を果たし、明治9年(1876)に三池炭鉱にポッター氏が赴任して洋式竪坑の掘削や蒸気動力による揚水ポンプの設置など炭鉱の近代化が進められた。この時期に琵琶湖疏水のトンネル工事用の竪坑建設が始められている。
 
 工部大学校(のちの東京大学)で土木工学を専攻し、蒸気動力の先進国である英国人の教授に指導を受けた田邊朔郎氏は、湧き水対策として海外技術もふまえて検討した結果、琵琶湖疏水の第一竪坑の掘削にあたって高価な蒸気動力の採用を避けて人力による足踏み式だるまポンプ方式を採用した。しかし、竪坑とかトンネル工事の場合には基本ルールはなく、坑道の岩質や水脈など掘ってみないとわからない仕事である。
 第一竪坑の場合、予想を超える湧き水に遭遇し、工事途中で用意した中古の蒸気動力のドンキ−ポンプが能力不足となり、大阪造幣局から購入した中型スペシャルポンプを用いて竪坑の掘削を実施したが、英国から輸入手配したトンネル湧き水用の大型スペシャルポンプ(横穴用に竪坑底に設置)の設置時にもトラブルが重なり、工事が遅延した。
 当時九州の三池鉱山勝立炭鉱で大型竪坑掘削の湧き水対策に苦慮していた團琢磨主任(米国のマサチューセッツ工科大学卒)とも交信しあい、團主任は琵琶湖疏水の第一竪坑(工事中)まで来訪して相談している。
 竪坑掘削の成否の鍵は、その地質と水脈により、予想外の湧き水量が発生したとき据え付けたポンプまで水没してしまい、團主任は対応策を求めて明治20年(1887)に渡米している。第一竪坑掘削の苦労話については、田村喜子著「京都インクライン物語」に事実にもとづいてくわしく解説されている。

 現在のトンネル工事は、無人のコンピューター制御によるシールドマシン工法で直径10mのトンネルを一日10mの速度で掘削・壁面仕上げをすることができるが、当時の疏水の第一トンネル工事は、電力の利用できない時代で、ダイナマイトの使用は可能であったが、ほとんどの工事はカンテラの明かりを頼りに、人力によるハンマーとノミによる掘削であり成否を危ぶむ声も多かった。
 この中で、第一竪坑は、工期の短縮以外に発生土砂の排出口、作業用具の般入や作業員の出入り口、空気送風口、明かり取り口など多目的役割を果たした。この工事の早期完成が疏水全体の工事期間を左右する最大の要素であったことは間違いない。

4)第一トンネル工事のよもやま話
 京都新聞の昭和43年1月初めから45年末まで「風雪京都史」と題した連載記事が掲載ており、3月23日から4月10日まで琵琶湖疏水記事が16回取り上げられている。この中から第一トンネルと第一竪坑に関する部分の一部を紹介する。
@ 第一トンネル(別名:長等洞)の貫通式は明治22年3月10日三保ヶ崎湖岸で行われ、陸軍軍楽隊奏楽のうちに田邊朔郎技師作の「ふたつなき長等の洞の直やかに、ひらけゆく世に逢うぞうれしき」という歌一首がよみあげられた。
A 明治21年10月5日の落盤事故で65人の工夫が生き埋めになったが、危機を伝えるため独自に手で掘り進んで最初に助けられた工夫のツメが全部なくなっていた。そして同志社病院のペレ−博士が待機するなかを65人全員が救助された。そして全員救助のニュースが全市に伝わり諸方より見舞金が続々と集まり、盛大な祝宴が開催された。
B 第一竪坑の底に輸入した大型ポンプを据え付け、エレベーターの設置作業中に既存の小型ポンプが故障で止まってしまい、湧き水の水位があがってきた。もし小型ポンプの修理が間に合わなかったら、新型ポンプは水没してしまう。ポンプ運転担当の大川米蔵の懸命の作業で修理が完了して水の汲み上げができることを確認した大川は、「これで世に思い残すことはない」と叫んで竪坑の中に飛び込み死んでしまった。
C 当時電灯はなく、カンテラで照らして工事をしたが、通風の悪く水のしたたる環境の中でカンテラの灯が消え、ススの発生に苦しんだ。半年くらいは風邪をひいてタンがでると黒色が混じっていた。
D 疏水が完成し疏通式が行われた翌日から3日間、第一トンネル、第二トンネル、第三トンネルのいずれか一つの縦覧が許可され、上京区・下京区の各家に一枚(一人限定)の縦覧券が配布された。その一日には府立・市立各学校生徒が招待され、大津の鹿関橋から乗船し、第一トンネルをくぐって山科に上陸し、尋常小学校の児童は山科から乗船して蹴上に上陸した。
E 工事中には電灯がなかったが、竣工式には蒸気動力の電灯が京都電灯株式会社の手で第一トンネル内の藤尾工場(竪坑工場)あたりに取り付けられ、第三トンネル内にも島津源蔵の持っていた機械をかりつけ、五十燭光の電灯3個が設置された。

14)琵琶湖疏水の舟溜りについての考察

1) 舟溜りの表現について
 琵琶湖疏水の歴史書は「船溜」の表現を採用しており、私の自著でもこの漢字を採用したが、船の字は一般に大きい船に用い、舟の字は小型の舟に用いるので、疏水舟を疏水船と書くのに抵抗があった。また、最近の検索で「舟溜り」とか「舟溜まり」の表現が多いので、Google検索で調べてみたら、文献数として下記数値が出た。
 内容を考察すると、港湾(河口を含む)を対象とした漁船記事が多いこと、川舟を対象とした記事は比較的少ないこと、戦前の古い記事は漢字の船溜を使用していること……などから見て妥当な値と考えられる。辞書を引いても「溜(ま)り」と書いてあるものもあり、戦前の教育を受けた私にとって一番苦手な課題である。そこで、琵琶湖疏水の場合は「舟溜り」と表現することにしたが、問題の指摘を受けたら修正したいと考えている。

2) 琵琶湖疏水に建設された「舟溜り」の数
 昭和15年(1940)に発行された「琵琶湖疏水及水力使用事業」によると、9ヶ所に「舟溜り」を建設したと記述されており、その仕様と完工日が記されている。これに現在の状況を含めて表示したのが次表である。

各舟溜りについて若干補足説明をすると、
@ 四ノ宮舟溜り…西大津の三保ヶ崎からの最初の舟溜りである。当時存在しなかった一燈園の横に位置し、その形から重箱ダム(舟溜りをダムと呼称)と呼ばれていた。当時から賑わっていた四ノ宮地区の人の往来や物資の出入りで活躍していた舟溜りであった。
A 諸羽舟溜り…四ノ宮舟溜りに近接しておるが、現在は湖西線工事による水路変更により埋め立てられて児童公園となっている。この舟溜りの少し西側に毘沙門堂の参道があり、周辺の敷地が狭い四ノ宮舟溜りが人の乗降中心に対し、ここは物資の揚げ降ろしや船頭の休憩ゾーン中心であったのかも知れない。
B 日ノ岡舟溜り…比較的長い第三トンネルの東口に位置しており、船頭の休憩ゾーン的な利用と御陵地区北部の物資の揚げ降ろしを目的とした舟溜りであったと想像するが、新山科浄水場向けの取水設備設置のため転用され、現在は存在しない。
C 蹴上舟溜り…第三トンネル西口に設置された舟溜りで、疏水建設以前から山水を集めた池があったそうである。インクラインの最高位置にあり、舟の出入りの多い場所であったが、その後九条山浄水場ポンプ室や蹴上浄水場・山ノ内浄水場の取水池の設置などで舟溜りの敷地はかなり縮減されている。
D 南禅寺舟溜り…インクラインの下部に位置し、白川との合流点である。舟溜りの周辺は動物園(北)と琵琶湖疏水記念館(東)と仁王門通(南)に囲まれており、鴨東運河の出発点であり、発電所・浄水場などを含めて琵琶湖疏水関連施設の集まったゾーンを形成している。
E 聖護院舟溜り…夷川舟溜りの呼称で知られているが、鴨東運河が鴨川と直交する少し手前に夷川閘門と夷川発電所があり、その建物に接して夷川舟溜りが存在する。今では鴨東運河を季節巡航する十石舟が南禅寺舟溜りを出発し、夷川舟溜りでUターンする場所としてしられている。
F 五条舟溜りと稲荷前舟溜り…鴨川運河に設置された舟溜りである。鴨川運河は、現在大部分が地下化しており、地上部にあった舟溜りなど関連施設の大部分は姿を消している。この二つの舟溜りの細部情報は少なく、調べてみたい課題である。
G 伏見舟溜り…墨染舟溜りとも呼称されている。昔はこの南隅から伏見インクラインが降りていたが、この施設も姿を消し、墨染(または伏見)発電所も外側から眺めるだけで淋しいゾーンとなっている。
H 追加…平成2年(1990)に発行された「琵琶湖疏水の100年」によると、山科疏水に四ノ宮・諸羽・御陵・日ノ岡の4ヶ所に舟溜りがあると記載されている。実際に疏水を歩いてみると、御陵地区(安祥寺の西側)に舟溜りと同じ構造をした水路があるので、私はこれを「安祥寺舟溜り」と名付けてきた。その場所は住宅地まで急斜面で荷物の揚げ降ろしには適しないとかんがえられるが、山科地区にある4つの小学校が4つの舟溜りを水泳場に利用していたという話も聞いており、また湾曲した水路のため土砂の沈降のための舟溜りとの解釈もできるので、追加した次第である。 

3) 舟溜りの使用目的
 川の乗船の場合、往路と復路のいずれかが主目的となり、動力のない時代には流れの反対方向に上るのが大変で、琵琶湖疏水の場合も船頭の人力に頼った。したがって、一定間隔のところに休息所を設ける必要があった。また、旅客の移動や物資の運搬のための駅の役割を果たした。異常気象の場合には大量の土砂やゴミが流れて来るので、場所を選んで沈降堆積する場所を設ける必要もあった。
 琵琶湖疏水の場合はトンネル水路の側面に綱を張って、船頭が綱をたぐったり、また、水路の大部分に犬走りと呼ばれる小道がついていて、船頭がそこを歩いて綱で舟を曳いた姿が疏水記念館に絵として残されている。
 京都中心部を流れる高瀬川の場合は、「舟溜り」の代わりに「舟入」という表現を用いており、出発点の二条下ルから四条までの約1,000mの間に約100m間隔で9つの舟入が西岸
に設けられた。現存するのは最初の「一之舟入」で三十石舟が浮かんでいるが、長さ90m、幅15mあり、舟の方向転換や運搬物資の揚げ降ろし場として活用された。

15)本邦最初の鉄筋コンクリート橋について
1)コンクリートおよび鉄筋コンクリートの歴史
 コンクリート技術の起源はきわめて古く、紀元前の古代エジプトやローマ帝国時代に伽藍・橋・水道橋などの構造物として多用され、中国では、大地湾遺跡から紀元前3000〜5,000年時代の出土品(現在のコンクリートに近い品質)が見付かっている。
 しかし、これらのコンクリート技術は西暦476年の西ローマ帝国の滅亡とともに歴史の舞台から姿を消し、再び姿を現わしたのはその1,400年後であった。この原因は謎といわれているが、教会や寺院の建設に必要な絢爛豪華さの欠如にあったとの解釈もある。
 現在工業的に広く利用されている水硬性セメント(ポルトランドセメント)の技術は、18世紀後半から19世紀前半にかけて英国を中心に発展し、これがコンクリートの基本技術となり、嘉永3年(1850)ドイツ、明治4年(1871)アメリカ、明治8年(1875)日本、明治11年(1878)フランスと工業生産が世界に広がったのである。そして19世紀前半までは石橋のかわりにコンクリート橋が使用されたが、引張強度が弱いという欠点がわかったので、19世紀後半から鉄筋コンクリートが使用されるようになった。
 鉄筋コンクリートの技術を最初に発表したのはフランスの造園家モニエで、慶応3年(1867)鉄網で補強したセメント製植木鉢の特許を取得し、明治8年(1875)には長さ16m、幅4mの鉄筋コンクリート製アーチ橋が建造され、世界的に注目された。
 日本において明治37年(1904)に山陰線の米子〜安来間に初の鉄筋コンクリート鉄道橋である島田川暗渠が完成しているが、これは欧米の技術者の設計指導にもとづいたもの(筆者の推定)であった。
 田邊朔郎氏が琵琶湖疏水系に米蘭(メラン)式鉄筋コンクリート橋「第11号橋」を建設したのは明治36年(1903)であるが、オーストリアのメランが吊橋のたわみの理論を発表したのが明治21年(1888)であり、メラン式鉄筋コンクリートの特許が発表されたのは明治25年(1892)であるから、メラン式アーチ型は鉄筋コンクリートの中でも比較的新しい技術であった。
 田邊朔郎氏は北海道勤務を終え、明治33年(1900)に京大教授として京都に赴任しているが、琵琶湖疏水の完成13年後の明治30年代後半に当時の最新技術といわれたメラン式鉄筋コンクリート橋の日本での実用化に取り組み、設計データ採取のためのテスト用「第11号橋」を建造し、そのデータにもとづき実用橋「第10号橋」を建造しているが、この両橋は百余年を経過した今も歩道橋として使用されている。
 
 この両橋が注目されたのは、昭和6年(1931)の疏水改修工事に立ち会った田邊朔郎氏がその橋の由来を市職員に話したことから、京都市が昭和7年(1932)に第11号橋の横に碑を建立しており、さらに平成8年(1996)に指定された琵琶湖疏水の「国の史跡12ヶ所」の中に両橋が加えられている。以下に両橋の写真と仕様ならびにその位置について概略を紹介する。

@ 第11号橋の概要

 山科側の終点に第三トンネル東口があり、松方正義が揮毫した「過雨看松色」の石額があるが、その手前に第11号橋が架かっており、昨年の改修で安全柵が新調された。そしてその北側に京都市が建立した記念碑がある。

南側から見た疏水をまたぐ第11号橋

京都市が建立した記念碑

 第11号橋は長さ7.2m、幅1.5mの小橋で、橋を渡って少し北進して急坂を登ると南禅寺境内に通じる。京都市が昭和7年に建てた記念碑は、高さ216cm、幅85cm、奥行14cmの大型で、第11号橋について南面(表)に「本邦最初鉄筋混凝土橋」(鉄筋コンクリート橋)、北面(裏)に「明治36年7月竣工、米蘭式鉄筋混凝土橋桁、工学博士田邊朔郎書之」と紹介している。碑文中の「米蘭式」とは「メラン式」というコンクリート工法の一種で、田邊朔郎氏が日本に紹介した。

A 第10号橋の概要

 井上馨が揮毫した「仁以山悦智為水歓」の石額のある第三トンネル東口の手前に、第11号橋の設計・建設データにもとづいて翌37年(1904)に、第10号橋が建設された。

美しい姿で現存する第10号橋

一部の文字が消えた建設者名

 第10号橋の正式名は「山ノ上橋」であるが、その地名から「黒岩橋」、形から「太鼓橋」とも呼ばれる。少し前までは、橋台下部に「明治37年 請負人・大西巳之助、技師・山田忠三、技手・河野一茂」の文字があったが、写真に示すように最近の補修作業で判読できるのは「大西巳之助」の名のみとなった。現在も疏水の北側に住む住民の生活橋(自転車の通行は可能)としての役割を果している。

2)第11号橋が日本最初の鉄筋コンクリート橋かどうかの議論

 日本最初とか世界最初という肩書きは名誉なことで、地元にとっても大切なことであるが、明治〜大正時代のように情報伝達や記録保存の悪い時代の肩書きには異論がでることが多い。
 琵琶湖疏水の「第11号橋」とほぼ同じ時期に、神戸市にある「若狭橋」も建設されていることが多くの報告に紹介されてきた。昔の報告では“第11号橋につづいて若狭橋”の表現であったが、最近の報告では“若狭橋が第11号橋より1ヶ月早く完成している”という表現が見られるようになった。書物によっては、第11号橋を“日本第2の鉄筋コンクリート橋”とする記載もでてきた。
 若狭橋については設計者も様式も報告されていないので、コメントできなかったが、最近「若狭橋」はスラブ型であるとの情報を見つけた。スラブ型とは鉄筋コンクリート板を並べる方式なので、メラン型より古い様式と考えられる。もしこれが事実ならば、第11号橋は「メラン型日本最初の鉄筋コンクリート橋」であり、若狭橋は「スラブ型日本最初の鉄筋コンクリート橋」と区別する必要がある。
 この分野にまったく知識のない私がこれ以上のコメントをするのを避けるが、試験橋と本格橋が並んで存在し、今も昔の姿のままで歩道橋として活用されている琵琶湖疏水の両橋が日本最初の表現に相応しいと考えている。

16)第二疏水の建設工事資料

1)第一疏水と第二疏水の概略比較
 「第一疏水」の建設工事に関する公開資料は比較的揃っているが、第二疏水の工事記録は公表されたものが少なく、そのすべてが現在地下に存在しているので、話題になることも少なかった。そこで手許にある数少ない資料を用いてその概要を考察してみた。
 「第二疏水」は能力増強の目的で増強されたが、その後琵琶湖の水位低下対策として建設された「第二疏水連絡トンネル」があるので、この3者の比較表示したのが次表である。
 第二疏水のルートを第一疏水と対比して説明すると、取水口は両方とも同じ西大津の三保ヶ崎であり、第一疏水の取水口の北側に存在する。第二疏水取水口の洞門には久邇宮邦彦親王の揮毫による石額「萬物資始」が掲げられている。
 第二疏水のルートは、第一疏水のルートの北に沿い約27m(15間)の間隔をもって三井寺山下を「古関トンネル」で貫いて藤尾下に出て、第一疏水と離れて柳山の下を「柳山トンネル」で貫いて安朱に出て第一疏水に近づき、ふたたび離れて安祥寺山の下を「安祥寺山トンネル」で貫いて再度第一疏水に近づき、これより以西は第一疏水とほぼ並行して「黒岩トンネル」と「日ノ岡トンネル」を経由して蹴上にでて第一疏水と合流している。
 西大津から蹴上までの第二疏水の流れは一部を残して全ルートが地下水路となっており、地上から判別することはできないが、5つの各トンネル間を結ぶ水路は、工事をしたあと埋め戻す工法を採用したので、「埋立水路」と呼称されている。
 第二疏水の水路の中で藤尾(四ノ宮寄りで第一疏水の側水橋のあるところ)に約54m(30間)の開渠部を設けて第二疏水の水量調査を実施したと記録されている。この場所に「側水橋」と呼ばれる橋が架かっており。平屋の住宅(現在無人)が建っているが、橋を渡って調べても現在開渠部を確認することはできなかった。
 第二疏水は全長7400mの水路であるが5つのトンネルと5つの埋立水路の長さを示す資料が残っているので、次頁にまとめて表示した。(原文に第4埋立水路の長さが欠如していたので、筆者の責任で推定値を採用した)

2)工事の細部考察
 第二疏水は第一疏水の18年後に建設したが、その間における建設技術の進歩により難工事度は大幅に軽減された。両者を比較すると、
@ トンネル建造技術面では、第一疏水ではセメントが高価な時代でレンガ巻きが主体であったが、第二疏水では鉄筋コンクリートが採用された。
A 第一疏水の工事では電力の実用が難しい時代で、トンネル内の明りは灯油を使用したカンテラを採用したので、油煙が坑内に充満し、工夫は手提げランプを提げて作業を実施したが、第二疏水では蹴上発電所からの電灯下の作業で作業効率が大幅に改善された。
B 工事用の電力も200HPの電力を受け、排水用に20台の電動ポンプが活躍した。第一疏水では蒸気動力のポンプが工事後半から活用され、工事用照明の最終段階で試験的に電灯が実用されるの止まった。
C 第一疏水の場合は竪坑を掘って工期を短縮したが、第二疏水の古関トンネルが第一疏水に並行して走っておりその間隔が狭いので、両疏水間に11ヶ所の横坑を掘って連結し、そこを拠点として左右に堀り進め、作業員の出入り、材料の運搬、土砂の運び出し、湧き水の排除などに利用することができた。この横穴方式は日ノ岡トンネルと第3トンネル間でも1ヶ所採用された。
D 第一疏水の場合の資金捻出には国内資金中心に推進したが、第二疏水の場合は外債をを導入した。
E 第一疏水に比べて第二疏水は直線コースを中心として、幅も狭く設計したので長さも短くなり、流速も早くなった。
F 第二疏水連絡トンネルは第二疏水完成後80年目に完成したが、第二疏水取水口横でニューマチックケーソン工法で立て坑を掘削し、トンネル工事は岩盤対応防爆型泥水加圧シールド機で掘削するという新工法(鴻池組)が採用された。当初計画では事業費85億円で平成9年度完成を目指していたが、地質が軟弱なため工法の変更が相次ぎ、工費が増加した。また、ルート上に境内のある三井寺との間で紛争も生じた。しかしこの工事により、琵琶湖水位がマイナス1.5mまで下がっても対応できることになった。

3)地上で観察できる第二疏水の構築物
 第二疏水および第二疏水連絡トンネルの取水口と関連建屋は三保ヶ崎にある「第一疏水揚水機場」の道路を隔てた西側に存在するが、その地域は塀に囲まれている。
 出口となる蹴上舟溜りでは第二疏水の水位が第一疏水より約40cm低いため、合流地点に洗堰が設けられており、合流トンネル出口洞門には田邊朔朗氏の揮毫による「藉水利資人工」の石額が掲げられている。

第二疏水の取水口の導入口と建屋の遠景(北側)

第二疏水および連絡トンネル取水施設(南側)

 第二疏水の通風・工事用竪坑が藤尾(藤尾橋東側)と御陵(正嫡橋東側)にあり、諸羽トンネルの南側散策路には第二疏水埋立水路の天井部に用いられたコンクリート構造物が展示されている。

第二疏水の通風・工事用竪坑(藤尾)

諸羽にある埋立水路の天井部構造物

第二疏水(合流トンネル)出口洞門

4)第二疏水工事年表

 参考までに第二疏水の工事年表の一部を紹介する。

1 明治39年(1906)3月  政府第二疏水の工事認可
2            4月  京都府・滋賀県両知事が連署で工事許可
3 明治41年(1908)6月 古関トンネル横坑(11ヶ所)着工
             10月 三尾神社と平安神宮前で三大事業起工奉告祭
             11月 日ノ岡トンネル横坑(1ヶ所)着工
             〃  黒岩トンネル工事着工(43−01−18完工)
4 明治42年(1909)4月 古関トンネル工事着工(44−12−20完工)
             〃  柳山トンネル工事着工(44−05−10完工)
             8月  日ノ岡トンネル工事着工(45−03−31完工)
             〃  安祥寺山トンネル工事着工(45−09−01完工)
5 明治43年(1910)6月 御所水道工事着工(45−05−14工事落成式)
             7月  第二疏水蹴上放水洗堰工事着工(45−03−31完工)
6 明治44年(1911)7月 白川放水路工事着工(45−02−29完工)
7 明治45年(1912)4月 第二疏水工事終了
             5月  第二疏水の通水開始の許可

主な引用資料
1) 琵琶湖疏水及水力使用事業(京都市電気局・昭和15年発行)
2) 琵琶湖疏水の100年(京都市水道局・平成2年発行)
3) 京都新聞連載記事(風雪京都史・昭和44〜45年連載)
4) 京都新聞連載記事(疏水史を見る・昭和63〜平成2年連載)

17)伏見新放水路の建設経緯と現状
 
1)伏見新放水路の建設経緯
 建設当初の鴨川運河は、伏見津知橋の下流で旧伏見城の外堀であった濠川と合流し、ジグザグの水路を経由して高瀬川と合流して宇治川・淀川に注いでいた。しかしながら、この水路だけでは、異常出水時に伏見地区に水害をもたらす心配があるため、水路の途中にバイパスとして放水路を設けることが検討されてきた。これが具体化したのは昭和6年(1931)であった。この経緯について「琵琶湖疏水の100年誌」の記述をまとめると、

2)工事の概要
 今回の工事は、鴨川運河に架かる津知橋の下流およそ60メートルのところを起点として、本流から分岐して西方の新高瀬川に到る900メートルの放水路を造成すると同時に分岐点下流約60メートルの本流に制水門と閘門を新設する工事である。
 この放水路のサイズは、水路底幅13.6メートル、水深1.5メートルで、毎秒22立方メートルの液量を放流できる断面とした。建設後行われた工事として、堤防の高さの嵩上げである。新放水路の両岸堤防と疏水本流の堤防を、新高瀬川左岸の堤防と同じ高さに嵩上げして、豪雨時に宇治川が逆流して伏見新放水路と津和橋下流があふれるのを防止するためである。昭和3年(1928)には景勝橋、昭和45年(1970)には新景勝橋が新高瀬川寄りに追加され、放水路に架かる橋は8橋となった。
 また、昭和61年・62年には放水路の雑草が繁茂して種々の問題が発生するので、川底コンクリート工事が実施された。この工事は中央部(水路幅の3分の1くらい)が深くなり、両側が浅くなっている。
 新伏見放水路の堤防の上は、自転車やバイクの通過は可能であるが、一方交通の幅しかないので車の通過はなく、建設当初の面影が残っている。
 本流の制水門・閘門の設計・建設・改修・休止・現状については、別項で紹介する予定である。
               
3)新放水路に架かる8つの橋周辺の紹介
 前述のごとく、新放水路には8つの橋が架かっている。全体で900メートルしかないが、地図で見ると、南北に走るすべての道に橋が架かっているので、橋上からいくつか先にある橋を眺めることができる。橋ごとに周辺の様子を紹介する。
@ 東住吉橋…鴨川運河の津知橋以南の右側には、道路が南北に走っており、放水路の最初の橋として「東住吉橋」が架かっている。大正14年(1925)6月に竣工しており、放水路の南側には伏見住吉小学校の敷地と建屋が東西に延びている。橋桁は4本の円柱2組で構成され、欄干の高さから利用度の高い橋であったと想像される。

東住吉橋の側面写真

コンクリート底の放水路の中央部は深い

A 西鍵屋橋
…東住吉橋と同時期の大正14年(1925)6月に竣工しており、南側には住吉公園の敷地が次の越前橋まで延びている。橋の欄干の構造はシンプルで、低いコンクリート壁の上に一本の太い鉄管がついているだけで、利用度の少ない感じの橋である。

南北に伸びた西鍵屋町に架かる西鍵屋橋

やや幅の狭い越前橋

B 越前橋
…上右に示すように鉄製の欄干がついている。大正14年(1925)2月に建造されたもので、橋桁は橋の幅に応じて、3本の円柱組みの2ヶ所となっている。                  
C・D 黒茶屋橋と榎橋…黒茶屋橋は大正14年(1925)3月に竣工した橋で、平成7年(
1995)に改造されている。また、榎橋は大正13年(1924)12月に竣工した橋で平成6年(
1994)に改修されている。新旧両橋柱が並べて保存されているので、伏見放水路の歴史がわかる貴重な場所となっている。

平成に改修された黒茶屋橋(改修内容は不明)

平成に改修された榎(えのき)橋

E 神泉苑橋
…この橋は大正13年1924)11月に竣工した橋であり、横から観察すると、古い橋桁を利用して上部は改造されている。古い橋柱を利用し、改修した橋に橋柱がないので改修時期は不明である。武田街道の名のバス道で歩道橋が設置されている。 
F・G 新景勝橋と景勝橋…新高瀬川周辺の開発が進み、昭和になって二つの橋が追加された。最初にできたのが景勝端で、昭和3年(1928)12月に竣工している。橋桁は、4本の円柱が2ヶ所ある古い様式が採用されている。新景勝橋は、昭和45年(1970)3月に完成したもっとも新しい橋で、神泉苑橋と景勝橋の間に設置された。この橋には橋桁が存在しない。

橋桁にない新景勝橋の側面写真

新高瀬川にもっとも近い景勝橋

伏見新放水路付近には建設当初の大正の面影が残っている珍しい場所と感じた。

18)安朱地区にある第二疏水関連施設

1)第二疏水に関する過去の報告

 本ホームページで、第二疏水・第二疏水連絡トンネルに関連する記述は各所に存在するが、第二疏水に絞った報告は少なく、下記5件存在する。
 @ B−02−05 諸羽トンネルの東口にある造形物・第025話(03−04−05)
 A C−01−07 第一疏水と第二疏水の工法比較・第096話(04−07−04)
 B C−01−11 諸羽トンネル横にある造形物・第220話(07−02−22)
 C C−01−12 諸羽トンネル横の造形物の由来が判明・第264話(07−12−05)
 D C−01−16 第二疏水の建設工事資料・第290話(08−04−28)           

 今回の報告にあたり、理解を深めるために下記2表を前の報告から再記した。
(A)表 琵琶湖疏水の3水路
(B)表 第二疏水のルート明細(一部推定を含む)

2)安朱地区における第二疏水の埋立水路
安朱地区の第二疏水の流れは、(B)表に示すごとく柳山トンネル(645m)と安祥寺山トンネル(738m)の間をつなぐ第三埋立水路(297m)にあたり、この間は水道局の管理下の土地となっており、民間の住宅は存在しない。
 第三埋立水路297mの水路は地下水路として、第一疏水の水路と並行して東西に進み、安祥寺川と直交して洛東高校の下をくぐって安祥寺山トンネルに入っている。

3)第三埋立水路上の施設と連絡トンネルの合流施設
 毘沙門堂参道の東側は、休憩広場になっており、数本の桜の下にはベンチもあり、小さい公園となっている。その奥に第二疏水と第二疏水連絡トンネルとが合流する施設が存在するが、コンクリート製施設で立入禁止となっている。

04−01−06−8018 連絡トンネル合流点

04−01−06―8021 公園広場

 毘沙門堂道の西側には「安朱ポンプ場」の建屋と児童公園がつづき、道路を隔てて水道局エリアがあり、西側に疏水の水流の音がよく聞ける金網区画(空気抜き?)があって安祥寺川と直交している。

09−10−23−2855 安朱ポンプ場

09−10−2858 児童公園

09−10−23−2864 安祥寺川を渡る

09−10−2868 四段堰の下を潜る

 今回の水路調査には、醍醐歴史散歩の会・武内良一さんのお世話になった。上述の四段堰(仮称)は通常一段でよいので不思議に思っていたが、ちょうどその下を第二疏水の埋立水路が通っているためと教えていただいた。さらに、第二疏水の水も灌漑(かんがい)用水に使用されているという推理にもとづいて三条通まで水路をたどった。(別報で紹介する予定)

 水道局の作成したMAPや資料によると、第二疏水連絡トンネルの水路は、琵琶湖・南湖・三保ヶ崎の取水場に深く竪坑を掘り、琵琶湖の水位が1.5mまで下っても取水できるように配管を伸ばして取水し、第一・第二疏水より深い水路で三井寺山を迂回し、安朱地点も深い位置で到着している。地下にもぐった第二疏水や第二疏水連絡トンネルの水路ではあるが、地上にもその面影を残すものが多く存在することがわかった。

19)第二疏水連絡トンネルの建設工事資料

1)まえがき
 この水路は、平成3(1991)年に着工し、平成11(1999)年に完成した琵琶湖疏水の第一疏水・第二疏水に次ぐ第三水路で、比較的新しい水路である。第二疏水は疏水べりを歩いて地下関連施設に触れることもできる場所もあるが、この第三水路についてはその存在に触れることは難しい。しかし、京都市上下水道局が発行している「琵琶湖疏水」と題した冊子(琵琶湖疏水記念館で入手)の19頁に詳しい解説があり、側面図や断面図を用いて、3つの水路の深さの差がわかりやすく説明されている。
 私は、トンネル掘削技術の進歩があるのもかかわらず、工事が長引いた理由を知りたいので関連情報を探してきたが、工事を担当した建設会社や当時の新聞記事を見付けたので、少し補足したのが本報告である。

2)建設会社「鴻池組」のホームページの記載記事
 建設会社のホームページの記事内容は上記「琵琶湖疏水」誌とほぼ同じ趣旨が記載されているが、鴻池組が担当した上流側工区にあたる取水口の「立坑」構築にはニューマチックケーソン工法を用いて深さ28.7mの立坑を施工し、トンネル工事は、全長約4500mの上流約1700mの区間を岩盤対応防爆型泥水加圧シールド機で外径4430mm(二次覆工で仕上がり内径3.4m)のトンネルを掘削したと記載があり、岩盤対応に苦労したことが推察される。連絡トンネルの下流部分の約2800mは、「琵琶湖疏水」誌によると、山岳トンネル工法(NATM)方式が採用されている。
 また、連絡トンネルは平成11(1999)年8月に通水したが、その後、管理棟の構築や取水口の改良を行い、工事完了は平成15(2003)年11月と記載している。立坑の内径について写真や記事があったが、専門知識が皆無の私では、残念ながら把握できなかった。

3)完工間近を報道する京都新聞記事
 京都新聞・平成11(1999)1月7日に「琵琶湖第二疏水連絡トンネル今春完成」の記事が報道されている。この記事の一部を引用すると、
“第二疏水連絡トンネル(滋賀県大津市観音寺〜京都市山科区安朱、4.5km)は1992年(平成4年)に着工した。琵琶湖総合開発事業に伴い、琵琶湖の水位が渇水時に最大1.5mまで下ることが予想されるため、第一疏水の下(地下の意)約20mからトンネルを掘って、京都で第二疏水に合流させる計画“と紹介している。

 実際に、着工後の平成6(1994)年秋に過去最低水位のマイナス123cmを記録し、水不足が深刻な問題になったが、このトンネルが完成すれば、マイナス150cmの最低利用水位になっても契約水量の毎秒23.65トンが取水可能となる。
 当初計画では、事業費85億円で、平成9(1997)年中の完成を目指していたが、地質が軟弱なため工法の変更が相次ぎ、工期が1年伸びた。建設事業費も予定の1.4倍(118億円)に膨らんだ。また、工事をめぐってはルート上に境内がある大津市の園城寺(三井寺)と   
の間で紛争も生じたと報道している。

 最近の報道(asahicom/2011-02-01)によると、京都市は明治23(1890)年、国の許可を受けて大正11(1921)年施行の国有財産法に基づき、30年ごとに土地使用権を自動更新してきたが、寺側は3度目にあたる今年の更新は認めないと提訴したことを報じている。寺側では、疏水の水を制限するのが目的でなく権利関係を整理したいと言っているが、双方の主張にも一理があり、対立の根の深さを物語る提訴と感じた。

4)あとがき
 上述の「琵琶湖疏水」誌によると、第二疏水の水路は第一疏水の水路より約27m(小関越え付近で)離れて、約2m低く掘削されている。一方「第二疏水連絡トンネル水路」は第一疏水の水路の直下、約20m低い水路を採用している。連絡トンネルの立坑は25mの深さがあり、立坑からポンプ無しで山科区安朱まで水が送られていることになる。
 連絡トンネルは地下深い水路で、掃除や修理の難しい水路である。南湖の藻類の流入が無いよう工夫されていると思う。もし機会があれば、水道局の専門家にくわしく伺いたいと思っている。

20)第二疏水の建設工事資料(2)

1)まえがき
 第二疏水関係の建設に関連する報告は下記3件で、歩けない地下水路のため検討が遅れ、何れも最近の数年にまとめた報告である。
C−01−16 
第二疏水の建設工事資料(08−09−06)・・・・・・・・290話
C−01−18 
安朱地区にある第二疏水関連施設(09−10−31)・・・・368話
C−01−19 
第二疏水連絡トンネル建設工事資料(11−03−01)・・・436話

 今回の報告と同じ題目の「C−01−16」は、昭和15年発行の「琵琶湖疏水及水力利用事業(京都市電気局)と平成02年発行の「琵琶湖疏水の100年(京都市水道局)に記載の報告を参考にしてまとめたが、今回、第二疏水が完成した直後の大正2年から大正3年にかけて京都市役所から刊行された下記2種の冊子(京都府立図書館)を閲覧する機会を得たので、その要旨をまとめてみた。
「京都市三大事業誌 卷1〜4 第二琵琶湖疏水編」京都市役所 1912〜1914年
「京都市三大事業誌 第二琵琶湖疏水編 図譜」京都市役所 1913年


 大正初めの図書のため、活字や数量の単位・表現方法などが異なり読み難い冊子であったが、図面・寸法・写真が詳細にわたってあり、今後細部調査が必要なときに再読するために目次を取りまとめたのが本報である。

2)4分冊に製本された第二琵琶湖疏水編の目次
(1)第一巻(第1集〜第3集) (大正元年8月とりまとめ)
・水利調査(M29−03−12〜M31−04−17)
・琵琶湖疏水運河増水願(M32 −11−06〜M34 −10−19)
・新水路開鑿計画(M35−03−20)
・琵琶湖疏水水路開鑿願(M35−04−11〜M35−07−26)
・訂正琵琶湖疏水水路開鑿願(M35−10−20)
・滋賀県に対する水路開鑿願(M38−09−01)
・工事許可(M39 −04−04〜M39−04−04)
・電気事業変更申請書(M39−07−10〜M39−10−12)
・疏水工事施工願(M39−12−04〜M40−04−06)
                
 第二疏水は、明治41(1908)年に着工し明治45(1912)に完工しているが、第一巻では着工前の事前調査・諸届・関連文書が収録されている。

(2)第二巻(第4集〜第6集)(大正2年3月とりまとめ)
・水路測量
・工事設計
・第一工区(大津三保ヶ崎〜古関隧道工事)
・第二工区(柳山隧道工事〜安祥寺山隧道工事)
・第三工区(黒岩隧道工事〜日ノ岡隧道工事〜大日山隧道工事)
・電気工事
・第四工区(南禅寺舟溜り以西浚渫工事)、白川放水路、鴨川運河雑工事

 以上、第二巻には第二疏水の建設工事(第一工区〜第四工区)の掘削トンネル・埋立トンネルの工事と鴨東運河関連工事記録が収録されている。

(3)第三巻(第七集〜第九集)(大正2年4月とりまとめ))
・第七集…第五工区(七条〜伏見間水路工事、伏見舟溜り以西水路工事)
・第八集…市会記事
・第九集…起工式、大津三尾神社奉告祭、平安神宮奉告祭
・付録……新聞記事

(4)第四巻(続集)(大正3年8月31日とりまとめ)
・伏見発電所図面・写真など(発電所、変電所などを含む)

追記
 京都府立図書館は、「琵琶湖疏水に関する資料の紹介」と題した2頁の資料をH−22−12−12付で作成し、府立図書館が保有する琵琶湖疏水関連資料39件のリストを紹介している。
@ 琵琶湖疏水について(9件)        D 琵琶湖疏水がもたらしたもの(6件)  
A 琵琶湖疏水について・専門編(9件)    E 当時のことを調べる(3件)
B 琵琶湖疏水について・写真集(2件)    F 教科書に記された琵琶湖疏水(2件)
C 疏水をつくった人々・伝記、図書(6件)  G 視聴覚資料(2件)
 今回紹介した2冊もこの資料のAから読ませていただいた。この中には、私の著書「琵琶湖疏水の散歩道」が@に含まれている。まだ多くの未読の本があるので、楽しみにしている。