建設工事

 

1)最大規模の煉瓦使用量となった疏水工事

 日本における"煉瓦"の歴史と製法については、(自著)の第3章5項で解説しているが、ここでは、新しい情報を中心に紹介する。明治時代前半における煉瓦を使用した最大の建築物は、明治21年の北海道庁(250万本)で、土木工事では明治23年の琵琶湖疏水(1450万本)、明治26年の碓氷トンネル(1500万本)である。煉瓦は製造コストが安いが運賃が高いため、大量に使用する場合には、使用場所の近くに専用工場を建設して供給した。

 琵琶湖疏水の場合は、山科区の御陵地区に建設されたが、現在はその姿を示すものは残っていない。しかし、地下鉄「蹴上駅」の2番出口の向かって左隣りに琵琶湖疏水竣工百周年を記念して、京都洛東ライオンズクラブが平成元年十一月に建立した小さい記念碑があり、その文字盤(写真@)に下記文章が刻まれている。

 鏡山・天智天皇陵を背景に、疏水建設に必要な煉瓦製造工場が御陵原西町一帯に設けられた。

 当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、京都府は自給の方針を立て、原料の採取と製品の運搬に適したこの地を選定、若き技師菊田宗太郎を起用し、明治19年7月操業開始、明治22年10月に閉鎖されるまで1370万個を製造した。

 京都再生への命運をかけた琵琶湖疏水建設が、日本の近代土木・工業技術等の発展の魁となった足跡を語る遺跡である。

 煉瓦工場概要:敷地:13.471坪、工場:10棟、窯場:3棟、窯:12ケ所、煙突:8基


@:記念碑

 山科区老人クラブ連合会「老人が子等に語る山科風土記」によると、近隣に煉瓦つくりの職人が殆どいなかったので、京都の建築家の三上古兵衛という人が職人を集めたという。また、原料の粘土は、山科区西野山地域に産出する「砥之粉」の産地からと推定している。

2)インクラインの仕組み

 琵琶湖疏水系では、蹴上と伏見の2ケ所でインクラインが採用された。その要旨は自著で紹介したので、ここではその仕組みについて話題として取り上げた。
 一般に舟運系で、落差のある2つの水路を荷物や乗客を下ろさずに繋ぐ方式として、「閘門方式」と「インクライン方式」があり、地形や落差の大小などで使い分けられている。蹴上インクラインは、「山科疏水」と「鴨東運河」の連結に、伏見インクラインは「鴨川運河」と「濠川」の連結に用いられた。また、インクラインも「片勾配式」と「両勾配式」の2つに分けられている。

 「片勾配式」とは、インクラインの上部と下部の両方に閘門を設け、軌道上に舟を浮かべた水箱を運行させる方式であり、「両勾配式」とは、軌道の両端が水路の水中まで伸びており、閘門も水箱も使用しないで台車に舟を乗せて運行させる方式である。
 疏水の建設にあたり、設計として海外で実績の多い「片勾配式」を採用する予定であったが、田辺朔郎氏と高木文平氏が明治21年に水力発電調査のため渡米した時、水位差が278mもあり、2種類のインクラインが23ケ所も使い分けられており、閘門も20ケ所ある巨大な「モーリス運河」を視察し、蹴上インクラインには「両勾配式」を採用することにしたと言われている。
 蹴上の「琵琶湖疏水記念館」地階の第3展示室には、両方式の原理が比較図示されており、蹴上インクライン全体の50分の1の模型(電動ボタンで舟の上下運行が観察できる)がある。

 蹴上疏水公園にある蹴上舟溜の近くに「インクライン運転の仕組み」という説明板があるので、その要旨を紹介すると、

…"インクラインの延長距離は約582mあり、落差36mで4本のレール(写真@)が敷設された複線方式となっている。台車を上下させる仕組みは、下部の南禅寺舟溜に設置された直径3.2mのドラム(巻上機)を35馬力(25KW)の直流電動機で回転させて、直径約3cmのワイヤーロープを巻き上げる。
 上部の蹴上舟溜の水中に、直径3.2mの滑車(写真A)が水平に設置されており、ドラムと滑車の間にワイヤーロープがゴムの輪を伸ばした形で連結されており、ワイヤーにセットされた台車が舟を乗せて上下する仕組みとなっている。
 ワイヤーロープは、両方の軌道の中心に引かれており、直径約60cmの縄受車を約9mの間隔に設置してロープが地面にずれるのを防ぎ、円滑にドラムに巻き取れるようにしてある。ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで、片道の所用時間は10〜15分かかる。"…

@:レール

A:滑車

 蹴上インクラインは、昭和初期までよく利用されたが、昭和23年11月に運転を止め、その後レールも撤去されたが、昭和52年に3000万円の予算で復元され現在に至っている。伏見インクラインの方は、昭和18年に運行中止となり、現在は国道24号線のルートとして活用されている。

3)明治初期における大土木工事の実績
 ヨーロッパにおいて、十七〜十八世紀における物資の輸送手段は、運河掘削による船運が重要な位置を占めており、閘門やインクラインを活用した船運が隆盛していた。ところが、十九世紀初頭にスチーブンソンが蒸気機関車の実用に成功してから、鉄道による陸送が多くなり、船運は衰退の方向を辿っていた。

 日本の明治元年は十九世紀半ばの一八六八年で、雇用された有能な外国人技術者達は、船運と陸運の新技術をもたらしたが、日本にとって鉄道による陸運は全く経験のない技術であり、自然の河川や堀を利用する船運については江戸時代から経験があったので、明治新政府は近代化の手段として、灌漑用水や水車動力としても活用できる運河建設と鉄道敷設の両方を推進する方式を採用した。そして、水運はオランダ人技師、陸運はイギリス人技師の指導により近代化を進めたのである。

 明治初期に、政府主導で進められた大土木工事について、琵琶湖疏水開通五十周年記念として京都市電気局が昭和十五年に刊行した「琵琶湖疏水及水力利用事業」誌に、十件の工事がまとめられているが、若干補足して別表を作成した。以下に項目別にその要旨を説明する。

イ) 琵琶湖疏水に先行した「安積(あさか)疏水」
 別表1項に猪苗代湖疏水工事と記載されていたのが「安積疏水」である。トンネルの多い難工事で、外人技師の指導で最新技術のダイナマイト利用掘削や蒸気機関による排水ポンプやセメント工事が採用された。当時の労働者賃金が二十銭/日、工場の小使が月給四円のときに、オランダ人技師ファン・ドルーンの月給は大臣級の五百円であったと言う。
 琵琶湖疏水工事を推進した北垣知事、田辺朔郎工事部長、嶋田道生測量部長は完工式に出席してその実態を見学しており、北垣知事は安積疏水の工事主任を務めた南一郎平技師に琵琶湖疏水計画の実地検討を依頼し、その工事の責任者となるよう依頼したが実現せず田辺朔郎技師を工事部長にしたという経緯があった。この疏水は開墾地の灌漑を目的にしてスタートしており、現在も多目的にかつ有効に活用されている。

ロ) 宮城県に展開された大運河計画
 別表の2項、3項、4項、7項はすべて関連あるプロジェクトである。明治新政府は、未開地である奥羽地方の開発拠点として巨大運河計画を建て、仙台市と石巻市の中間にある寒村「野蒜(のびる)」に新港を建設(2項)し、ここから北上運河(3項)と東名運河(4項)を建設し、さらに貞山運河をつないで広い地域の開発を進める事にした。
 明治十一年に着工したが、築港工事は内港工事が完了した二年後に台風が直撃し、外港工事の展開が難しくなり、工事を推進していた大久保利通郷も暗殺され、財政的にも苦しい状況の中で、政府は巨費を投じた築港工事の継続を断念したのである。運河計画は、北山運河は明治十五年、東名運河は明治十七年に完成したが、基本であった築港計画が挫折したので、本来の通船運輸の機能は小規模となり、鉄道による陸運の発達とともに物流のための利用は無くなり、現在は地域に住む人の憩いの場として親しまれている。

ハ) 日本三大疏水の一つである那須疏水
 別表5の那須疏水は、琵琶湖疏水と安積疏水とともに日本三大疏水と呼ばれている。明治初期の鍋島県令(知事)が、那珂川と鬼怒川間を結ぶ四十五kmの運河計画を立てたが、鉄道や国道建設の進展により実現できなかった。そのご船運から飲料水・灌漑用水の確保と方針を変え、三島県令の元に十万円の事業費(当時の土木局予算の十分の一)を確保し、国の直轄工事として幹線を約五ケ月で完成させ、引き続いて分線を完成させた。
 この工事は、琵琶湖疏水とほぼ同時期に工事が進められ、飲料水・発電・防火・工業用水など多目的疏水として現在も活用されている。技術面では、難工事は無かった。

ニ) 鉄道用隧道(トンネル)工事
 琵琶湖疏水の最大の難工事であった第一トンネル(二四三六メートル、明治二十三年)の前に、同じ滋賀県内で8項の逢坂山隧道(六五五メートル、明治十三年)と9項の柳ケ瀬隧道(一三三〇メートル、明治十七年)の二つのトンネルが完成した。田辺技師も嶋田技師も両トンネルを見学しており、経験を積んだ工夫の活用も出来て工事の推進に大きく役立った。

ホ) 道路用に掘削された鯖山隧道(トンネル)
 別表10項の山口県にあるこのトンネルは、琵琶湖疏水より少し前に完成した五百メートル余の短いトンネルであるが、当時の記録として、鯖山トンネルから来た現場作業員が琵琶湖疏水のトンネル工事で昼夜を問わず活躍したという評判が残されている。


別表
        明治初期に進められた大土木工事のリスト
  名称 所在地 目的 着工
完工
工費 所管 設計者
安積疏水 福島県 開墾地の灌漑 M-12-10
M-15-10
約41万円 内務省 ファンドルーン、
南一郎平
野蒜築港 宮城県 築港 M-11-07
M-17中止
約70万円 内務省 ファンドルーン
北山運河 宮城県 通船運輸 M-11-10
M-15-11
不明 内務省 ファンドルーン
東名運河 宮城県 通船運輸 M-16-03
M-17-02
約4万円 内務省 ファンドルーン
那須疏水 栃木県 飲料水
開墾地の灌漑
M-18-04
M-18-09
約6万円
約10万円
栃木県内務省 不明
利根運河 千葉県 通船運輸 M-21-05
M-23-05
不明 内務省 ムルドン
貞山運河 宮城県 運輸殖産 M-16-03
M-23-11
約30万円 宮城県  
逢坂山トンネル 滋賀県 鉄道敷設 M-11-10
M-13-06
約24万円 工部省 日本人
柳ヶ瀬トンネル 滋賀県 鉄道敷設 M-14-05
M-17-02
不明 工部省 日本人
10 鯖山トンネル 山口県 道路用
M-20-03
不明    

 追記:琵琶湖疏水は、明治十四年から予備調査を開始し、明治十八年六月に着工、明治二十三年四月に完工している。設計者は田辺朔郎技師で、百二十五万円の工費で京都市主導で進められた。

4)国の文化財に指定された各地の「閘門」
 辞書によると、閘門とは"水位の違う二水面間に船を通すため水位の調整をする構造物で、両側に門扉がありその間を「船をいれる閘室」とし、閘室内を上下流の片方と同水位にして船をいれ、門扉を閉じて他方と同水位まで水位を上下させたのち船を出す"(世界原色百科事典より)と書かれている。
 水運の盛んであった我が国でも、閘門は古くから利用されてきたが、明治維新初期から欧米の洋式閘門(煉瓦造り)が導入されるようになった。琵琶湖疏水でも建設当初からの洋式閘門(大津・夷川・伏見)が残っている。
 最近になって、明治時代に造られた二つの閘門が「国の重要文化財」に指定された。琵琶湖疏水の大津閘門は、これらの他の指定を受けた閘門に負けない内容を保持しているのに、平成八年に「国の史跡」に指定された琵琶湖疏水の十二ケ所(本ホームページ散歩道・蹴上周辺6項参照)にも入っていない。何とか追加申請が出来ないかと念じて概略の調査を実施した。要点を表示すると、
  名称 所在地 工期 設計者 文化財指定
見沼通船堀
日本最古の通船用木製閘門
埼玉県
浦和市
享保16年(1731)
に完成(約270年前)
井沢弥惣兵衛為永 S57年7月
国の史跡に指定
石井閘門
煉瓦製洋式閘門として日本最古
宮城県
石巻市
明治11年〜明治13年 フアン・ドルーン
(オランダ人)
H14年4月
国重要文化財に指定
大津閘
門日本人による煉瓦造りの最古の洋式閘門
滋賀県
大津市
明治20年〜明治22年 日本技術者:田辺朔郎? 未指定
船頭平閘門
複閘式として日本最古の洋式閘門
愛知県
立田村
明治32年〜明治35年 デ・レイケ
(オランダ人)
H12年3月
国重要文化財に指定
横利根閘門
我が国最大級の煉瓦造り複閘式閘門
茨城県
稲敷郡東町
大正3年〜大正10年 日本技術者 H12年5月
国重要文化財に指定

 日本には数多くの閘門が存在しており、上記五件以外に国や県の文化財指定を受けた閘門があるかも知れないが、ここではこの五件について補足説明を加える。

1) 見沼通船堀…八代将軍徳川吉宗の時代に完成した閘門式運河である。幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永が、見沼の干拓に成功したあと、二つの用水路を結んで舟運用の閘門式水路を開削したもので、これにより見沼と江戸が水路でつながり、年貢米や農産物を舟で送り、肥料や塩などが江戸から運ばれた。
 日本最古の閘門式運河として国の史跡に指定され、舟運で活躍した「ひらた船」が最近復元され閘門開閉の実験に成功したという。

2) 石井閘門…明治新政府により東北地方の産業復興のため進められた巨大プロジェクト 「野蒜築港事業」と一環として建設された船舶通航用施設である。このプロジェクトは明治17年の台風襲来で失敗に終ったため利用価値は半減したが、施設はほぼ原型のまま保存されており、公園化され地域住民のボート・カヌー用にも利用されている。
昨年、日本最古の洋式閘門として国の重要文化財に指定された。

3) 大津閘門…琵琶湖疏水の建設関係資料によると、閘門"と説明さ"当時我が国では北上川に木造のも のがあったが、大津閘門は煉瓦造りの初めての本格的れている。しかし、北上川にある上記石井閘門は煉瓦造りであり、使用目的が若干異なるので比較は難しいが、写真で見る限り類似構造なので、ここでは"日本人の手で建設された日本最古の煉瓦造り洋式閘門"と説明した。文化財としての指定はまだであるが、内容から見て充分にその価値はあると考える。

4) 船頭平閘門…木曽川下流は、木曽・長良・揖斐の三川の流れが入り乱れており、明治改修で「三川分離工事」を推進したが、その欠点を補うため木曽川と長良川の間に閘門をつけて舟運を可能とした。このルートは大正時代前半までフルに利用されたが、そのご交通量が減り現在は漁船やレジャー船が利用している。複閘式として日本最古級であり、技術的かつ歴史的価値ありとして重要文化財に指定されている。
治水の恩人として、設計者のデ・レイケの銅像が建っている。

5) 横利根閘門…この閘門は、明治33年から昭和5年にかけて国の直轄事業として実施された「利根川改修工事」の中で建設されたもので、利根川流域の水運の発達に大きく貢献した。この閘門の技術的水準も高く、日本最大の複閘式(両側を内開きと外開きの二重の門扉を採用)閘門で、土木技術史上煉瓦造り閘門の一つの代表的構造物として評価され、国の重要文化財に指定された。

 琵琶湖疏水の「大津閘門」が国の史跡として追加指定されると、大津の取水場から蹴上インクライン下までに十三ヶ所の国史跡がまとまることになり、舟運ルートに必要な"閘門"、"舟溜"、"インクライン"の三種と"当時最長であった手掘りのトンネル"が揃う日本唯一の「明治ロマンの散策道」が完成する。このルートに舟を浮かべたいという最終目標を目指して頑張って行きたい。


5)「インクライン」と名付けられた傾斜鉄道例
 インクラインについては、本ホームページ技術2項で「インクラインの仕組み」と題して紹介しているが、今回はインクラインの名称を用いたその他の傾斜鉄道例とその後入手したインクライン関連情報について紹介する。

1)インクラインの名称を用いた傾斜鉄道例
 「インクライン」の語源を調べてみると、ラテン語でclinare(傾く、横たわる)という動詞が語源であり、共通する単語としてincline(傾ける)、recline(横になる、もたれる)、decline(下落する、衰微する)などがある。「インクライン」という表現は広く使用されており、アメリカでは町の名前となっており、日本では会社の名前となっている。また、健康療法や健康器具の分野で、たとえば"角度のついた背もたれ椅子"のように傾斜の意味で広く使用されている。

 傾斜鉄道として幾つかの分野でインクラインの名が使用されているが、その代表例を別表にとりまとめた。分野別に若干補足説明を加える。

イ) 鉱山の斜坑インクライン
 日本の主要鉱山で広く使用されたが、現存するものは多くない。「鉱山用語集」には、"インクラインとは、荷物(ときには人)運搬用の軌道付昇降機で、きつい傾斜の土地で使用される"と書かれている。調べてみると、雄別炭鉱、別子銅山、大嶺炭鉱、明延鉱山、三峰石灰など日本全国にわたって鉱石の輸送や資材の運搬に利用されていた。一部は観光ルートとして利用されている。

ロ) 森林鉄道インクライン
 九州・四国・奥羽地方など交通手段の少ない森林の木材搬出手段として、インクラインは広く利用された。現存するものは少なくなったが、観光施設として利用しているところが数ヶ所ある。

ハ) ダム・発電所などの工事用インクライン
 「建設用語小辞典」にも"インクラインとは斜面にレールを敷き、台車を動かして荷物を昇降させる装置"と記載されている。とくに発電用ダムや高所架橋工事などではよく使用されており、黒部ダム、宮ヶ瀬ダム、中里ダム、今渡ダム、合角ダム、広島空港大橋などの工事に使用され、工事完了後も利用されているものが多い。

ニ) 不特定多数の人の移動用インクライン
 米国のピッツバーグ市にある住民用、ナイヤガラ滝のカナダ側の観光客用に示すように海外では人用インクラインが利用されているが、日本では人用には類似装置であるケーブルカーが使用されている。

舟運以外にインクライン実用の代表例

実用分野 代表例
鉱山の斜坑 雄別炭鉱(北海道阿寒町)
大正年間に北海炭鉱鉄道が鉱石の運搬用に複線式インクラインを設置した。現在は炭鉱の閉鎖により存在しない。
別子銅山(新居浜市)
東平インクラインと呼ばれ、鉱山の生活物資や鉱石・木材の輸送に活躍した。長さ100m、傾斜角35度、複線式であったが、現在は撤去され220段の階段になっている。
森林鉄道 宮崎森林鉄道(宮崎県)
丸太を積んだトロッコを制動器を加減しながら上下させる複線式インクラインで、略して「インクラ」と呼称された。一部保存されて資料館もできている。
馬路森林鉄道(高知県)
馬路村の村起こし運動として開発されており、現在あるインクラインは、高低差50m、傾斜角34度で、水の力を利用して上下させる話題の施設となっている。
ダム・発電所建設用 黒部ダム(冨山県)
雑誌・TVなどでよく紹介される日本最大のインクラインで、地下軌道になっており、標高差450m、長さ815m、傾斜角34度、作業員の輸送や重量物の運搬に実用されている。
宮ヶ瀬ダム(神奈川県)
ダムの横に傾斜に沿って標高差121m、長さ216m、傾斜角35度の複線式インクラインが設置されており、資材運搬に用いられたが、現在は観光用に利用されており、記念館もできている。
人用交通機関 モノンガヘラインクライン(米国ピッツバーグ市)
低地にある工場地帯と高地にある住宅地を結ぶ通勤用・生活用インクラインで、1870年(明治3年)開業。標高差112m、長さ193m、15ラインあったが現在2ラインが残っている。観光客にも人気ある有名なインクラインである。
観光用鉄道(ナイヤガラのカナダ滝)
有名なナイヤガラ滝のカナダ側にカナダ滝があるが、滝に接近するのに高低差があるので観光用インクラインが設置されている。

ホ)舟用インクライン
 疏水・運河・河川などのルートにインクラインを利用する例は、欧米には多く存在するが、日本では琵琶湖疏水以外に例はないようである。舟用の例として、美濃加茂市にある関西電力今渡ダムで、台車で舟を昇降させるインクラインを補修して四〇年振りに舟が往来したという情報がある。また、埼玉県秩父市にある合角ダムにある人造湖「西秩父桃湖」の下部に巡視船と集塵船を格納する艇庫があり、艇庫と湖面を結ぶ専用のインクラインが存在しているという。しかし、これらの例は舟運に利用されたインクラインではない。

注)パソコンの不調で本項はここで終了とする。


6)「ねじりまんぽ」に関する追加情報
 筆者が自著で「ねじりまんぽ」に関する記事をまとめたのは一年半前であるが、インターネット情報も当時に比べて約二倍となっており、一部修正と追加のため本項をまとめた。
 もっとも重要な情報は、「わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究」と題した学位請求論文で学位を取得された小野田滋氏が、平成十五年一月に「鉄道構造物探見」と題した冊子を刊行し、その97〜100頁に「ねじりまんぽ」が詳しく紹介されていることである。小野田氏の本は実際に歩いて確認された豊富な写真をベースにわかりやすく説明されている。その他情報とともに若干の解説をする。

イ)「ねじりまんぽ」の建設時期からの考察
 私は自著の中で蹴上インクライン下にある「ねじりまんぽ」は、山科疏水に架かる日本最初の鉄筋コンクリート橋(第十一号橋)と同じように日本最初の「ねじりまんぽ」の可能性が大きい?と記述したが、小野田氏の報告によると明治七年に開業した大阪〜神戸間などの鉄道導入期の路線に存在しており、国内に現存が確認されている「ねじりまんぽ」は二十五ケ所あるそうである。利用された場所は二十四例が蒸気機関車の走る鉄道であり、一例が琵琶湖疏水の舟用鉄道(インクライン下)である。
 このような特殊な煉瓦積み工法は外国人技術者により導入されたと推定され、明治六年にはオランダから煉瓦職人アルンスト夫妻が来日したとの記録も残っている。
 蹴上インクライン下の「ねじりまんぽ」を設計した田辺朔郎氏が在籍した工部大学の教科書「ランキン氏土木学」にもこの特殊工法が記載されており、実際に工事が行われたのは明治20〜21年であるから、日本最初のものでないことは確実である。小野田氏によるとこの特殊工法は欧州では古くから各国で実用されており、ルネッサンス時代のイタリアで発明された技法との説もある。

ロ)「ねじりまんぽ」の名の由来
 蹴上のインクラインを散策した時、多くの人から「ねじりまんぽ」の名前の質問を受け答えることが出来なかった。インターネット調査で山科地区にある短いトンネルを「まんぽ」と呼称していたとか蹴上地区の人が「ねじりまんぽ」のことを「まんぽ」と言っていたとか、マンホールの名前から由来するとか幾つかの話題があった。
 小野田氏の本に"「まんぽ」の語源"と題したコラムがあり、「まんぽ」は線路の下をくぐるトンネル状の通路を示す方言だと説明されている。呼び方は「まんぽ」、「まんぷ」、「まんぷう」、「まんぼう」、「まんぼり」など地域によってさまざまである。主として関西地方を中心に北陸や東海地方で使用されている。
 「ねじりまんぽ」の名は煉瓦がねじれた螺旋状に巻かれているから、ねじれた「まんぽ」になったのであり、全国にある二十五ケ所に通用する名かどうかはわからない。ひょっとしたら蹴上地区で最初に呼称された"ねじり「まんぽ」"の名が広がったのかも知れない。小野田氏によると谷崎潤一郎の「細雪」にも「まんぼう」の名が登場しており、京都には「まんぷ越えれば山科や」という唄さえある。このように各地に類似の名前が残っていることは発音の難しい外来語である可能性が高いといえる。

ハ)蹴上「ねじりまんぽ」の建設について
 蹴上インクラインと蹴上ねじりまんぽと前後の設備の建設時期との関係について水道局資料より若干補足すると、
・ 第3トンネル西口……着工:20-7-18、貫通:21-6-3、トンネル完成:22-3-26
・ インクライン上部……着工:20-5-9、完成:21-6-5
・ ねじりまんぽ ………着工:20-9-26、完成:21-6-5
・ 田辺朔郎渡米調査…水力発電およびインクラインなど運河設備見学(21-10)
・ インクライン下部……着工:22-2-16、完成:22-4-28
 この経緯より、第3トンネルの掘削で排出された土砂を用いて582mあるインクライン傾斜道の埋立てを実施し、この時「ねじりまんぽ」の建設も実施し、田辺技師の渡米により、インクラインの形式が「片勾配式」か「両勾配式」に、水車から水力発電に変更されたので設計変更をしてインクライン下部の工事に着手したことがわかる。そして三条通から「ねじりまんぽ」をくぐって南禅寺境内に達する道が29-9-12に着手され29-10-27に完成したと記録に残っている。

ニ)「ねじりまんぽ」の定義
 日本独自の表現である「ねじりまんぽ」が鉄道用語辞典に次のように掲載されている。
"築堤の下を斜めに交叉してトンネルや暗渠などを造る際にアーチが荷重を垂直に受けるように煉瓦を斜めに螺旋を描くように積み上げる工法"

 高さ10尺(約3m)、幅8尺5寸(約2.5m)、長さ10間(18m)の「蹴上ねじりまんぽ」は多くの観光案内図に紹介されており、あやしげな名前としてよく話題になる場所であるが、現地には全く説明板が存在しない。地下鉄「蹴上駅」を下車して1番出口から三条通に沿って少し西進すると右側にインクライン傾斜道をくぐる風変わりな赤煉瓦巻きの小さいトンネル「ねじりまんぽ」がある。これをくぐるとすぐ南禅寺に至るのに観光客はマップを片手にウロウロしている。「ねじりまんぽ」の正面写真@と内部煉瓦写真Aを添付するので楽しんでいただきたい。

@:三条通から見た正面写真

A:内部の螺旋状に巻かれた煉瓦

7)第1疏水と第2疏水の工法の比較

 第1疏水は明治18年(1885)に着工し23年(1890)に完工しており電気も鉄道もない時代の工事であったが、第2疏水は明治41年(1989)に着工し明治45年(1912)に完工しているから異なった工法が採用されている。
 第2疏水が建設されたのは、第1だけでは電力需要などの増大に応じ切れなかったことと他府県より遅れていた水道事業に対応することが主目的であり、第2疏水の完成で京都市の近代化は大きく推進されたが、西大津の三保ケ崎から蹴上に至る水路がすべて地下トンネルであり、このページの散歩道としては価値ない道であるので紹介する機会がなかった。筆者として気になっていたテーマであり取り上げた次第である。

1) 第2疏水の取水口とその流路
 京阪浜大津駅の改札口(高架)をでて琵琶湖の見える方向に歩き、階段またはエレベーターを利用して地上に降り、琵琶湖岸に並行して走る国道16号線に沿って少し北上すると第1疏水入り口に架かる「新三保ケ崎橋」があり、すぐ先に第2疏水入り口に架かる「尾花川橋」がある.この橋の上から右方には琵琶湖があり左方は小さい入り江となっており、その入り江の左奥に第2疏水の取水口(改築された両側の石垣の間にある)の存在(写真@、A)がわかるが、細部は確認し難い。第1疏水の揚水機場外柵の道路に向かい合って「第2疏水取水口」の看板が架かったゾーン(写真B、C)があり取水音は聞えるが内部は鉄柵に囲まれて近寄り難い。
 写真@の右にある2階建ての建物は、大津市にある疏水管理事務所(推定)であり、ブルーのカバーがついた建物が第1疏水の流れに沿って建設中のマンションである。この柵の中に「第2疏水連絡トンネル」の取水口も存在するから、この工事が進められた"琵琶湖総合開発事業(平成4年〜11年末)"の時にこのあたりの改修工事が行なわれたものと推定される。

@:第2疏水の取水口

A:尾花川橋を渡った地点からの写真

B:第2疏水取水口の正面門札

C:第2疏水取水口の正面全景

2) トンネル工事面からの両者の比較
第1疏水は電気にない時期の工事で、トンネル内ではカンテラの灯火を利用しポンプもやっと蒸気機関作動の不便な時代で、土砂の運搬は牛車を利用した。第2疏水では蹴上発電所からの電力が利用でき、鉄道や道路も整備された時代であった。
第1疏水の第1トンネルは極めて難工事であり初めて竪抗方式を採用したが、27mの間隔で並行して進む第2疏水の小関トンネルの場合は既存の第1トンネルと新トンネルの間を11本の横抗で繋ぎ、これを利用して土砂の排出・材料の運搬・作業員の交代・涌き水の排出などが可能となり、工期を短縮できた。
第1疏水の場合セメントは高級品で煉瓦の目地に使用されたが、第2疏水では煉瓦の使用に代わって鉄筋コンクリートが主役となった。
第1疏水は掘り抜きトンネルとオープン開路の組み合わせで実施されたが、第2疏水ではオープン開路ではなく埋立てトンネル方式が採用された。掘り抜きトンネルは小関・柳山・安祥寺山・黒岩・日ノ岡の5ケ所であり、平地のところでは地面を掘りそこに半円形型の鉄骨を組み枠組をしてセメントを流し込み、最後に土を被せる埋立て式トンネル(地下鉄工事でのオープンカット方式に似ている)を採用し全水路が地下にもぐった。途中での汚染の心配が少ないので主として水道揚原水とされている。
三保ケ崎から蹴上まで流路が屈曲している第1疏水の距離は8,705mであるが、第2疏水の場合直線コースを採用したので7,423mと短くなっている。7,423mのうち掘り抜きトンネルが約70%、埋立て式トンネルが約30%となっている。
第2疏水は鉄筋コンクリートが使用されたが、その外壁の厚さは工事費の節約と経験の少なさから1cm弱で工事された。ところがコンクリート関連の故障が比較的早く出て、建設後僅か十数年で大改修工事が行なわれた。第1疏水の場合は煉瓦巻きで大きいトラブルもなく現在に至っている。
第1疏水の第1トンネル掘削で琵琶湖に大雨が降ってその水がトンネル経由京都に流れ込むのを恐れ、トンネルの入り口に開閉式鉄製門扉(写真D)を取り付け現在も残っているが、第2疏水の場合も滋賀京都両知事間の協議のもとに鉄扉を取り付けたと記録されているが、現在は取り外されている。
第2疏水の勾配は2,200対1であり、取水量は秒あたり15.3立方メートルと第1疏水の倍量近い能力を持っている。したがってこの工事に並行して鴨東運河と鴨川運河の拡巾工事が実施された。

D:第1疏水の第1トンネル東口にある門扉

E:冬場の第2疏水単独運転時の風景

3) 蹴上にある第1疏水と第2疏水の合流点
 第1疏水は第3トンネル西口から蹴上舟溜に流出するが、第1疏水の水位が第2疏水より約70cm高いので洗堰を設けて両疏水の水を混合し、逆梯形の形をした小さい石額のついた合流トンネルに入る。そして「籍水利資人工」という田邊朔郎筆跡の石額のある合流トンネル出口から出て各所に配出される。
 蹴上のこの近辺から各浄水場・蹴上発電所・疏水分線・各所の庭園池用水・防火用水などに仕分けるための幾つかの開閉式水門があり、流路の細部までわからない。たとえば、比較的水使用量の少ない冬には清掃のため第1疏水を止めることがあるが、この時は第2疏水がフル活動をして合流水路から第2疏水の水が洗堰をオーバーして流れる姿(写真E)を楽しむことができる。


参考資料:琵琶湖疏水の100年(京都新聞・京都水道局)
       京都新聞連載「疏水史を見る」31〜44(第2疏水工事)S63年〜H元年
       京都市水道局資料:「琵琶湖疏水」その他

8)「ねじりまんぽ」に関する新しい情報

 小野田滋氏の著書「鉄道構造物探見」(JTBキヤンブックス発行)にある「ねじりまんぽ」の記事を参考にして、本ホームページの第79話(04‐01‐29)にてその要旨を紹介したが、その後小野田氏より「ねじりまんぽ」に関するさらに詳しい解説のある専門書「鉄道と煉瓦…その歴史とデザイン」(鹿島出版会発行)という著書をいただいた。
 京都の疏水仲間の中でも、「ねじりまんぽ」は謎の存在として話題になるが、その名前の由来や類似構造物が関西地区を中心に多く存在することが記載されているので、追加情報としてその要旨をとりまとめた。

1) 明治時代の鉄道工事に利用された「ねじりまんぽ」技法
 小野田氏の調査によると、明治7年(1874)に開業した大阪・神戸間の鉄道工事にこの技法を採用したのが、わが国で最初である。これは、西ノ宮と芦屋の間にある安井橋梁と東皿池橋梁の2ケ所にあり、現在も実用されている。当時この区間の工事はイギリス人技師を中心とする外国人技術者の指導によっている。
 そしてこの技法は、明治9年(1876)に開業した大阪・京都間に4ケ所、明治13年(1880)に開業した京都・大津間に1ケ所で採用されている。日本で「ねじりまんぽ」の技法が紹介されたのは、ランキン氏の著書「Manual of Civil 」を翻訳した水野行敏著「蘭均氏土木学」が発行された明治13年(1880)と想定されるので、海外の技術者を通して日本に導入されたとみてよい。
 蹴上の「ねじりまんぽ」の設計者である田辺朔郎氏も、工部大学在学中にランキン氏の本でその技法を学んでおり、また関西地区での鉄道での利用に関する情報も知っていたはずで、明治20年にインクライン建設時にその活用を考えついたと想定できる。

2) 日本における「ねじるまんぽ」技法の採用数
 小野田氏は、全国の鉄道用として既に廃止または撤去したものを含めて30例をリストしているが、トンネルに利用されたのは僅か2件で、残りはすべて橋梁に利用されている。そしてその大部分は、明治初期に建設された関西の東海道本線に集中している。
 鉄道以外に利用された唯一の例が、琵琶湖疏水のインクライン下にあるトンネル(ねじりまんぽ)である。
 この工法は、かなり面倒な工事であり、鉄筋コンクリートの登場とともに新規に採用されることがなかった。また、工事で破壊されたり、改造されたりして、次第に数は減少していき、現存する「ねじりまんぽ」は、明治の文化遺産として貴重なものとなっている。

3) 琵琶湖疏水の蹴上インクラインの下にある「ねじりまんぽ」
 蹴上にあるインクラインの線路は、南東〜東北の方向に付けられており、東西の方向に向っている三条通りから、インクライン下のトンネル道をくぐる時に線路と道路が斜めに交差する。疏水インクラインも鉄道と同様に重い荷重がかかるので、通常の積み方の煉瓦では、強度的に問題が生ずる。そこで、煉瓦を螺旋状(ねじって)に積むトンネル(まんぽ)にしたので「ねじりまんぽ」の名が付いたのである。
 当時、疏水トンネルの出入り口の洞門に、明治元勲の揮毫した扁額をつけて近代化を唄ったが、「ねじりまんぽ」の出入口に北垣国道の揮毫した扁額が付けられた。

@:南口扁額文字:「雄観奇想」

A:北口扁額文字:「陽気發處」

 何れも漢詩の一節を採用しているが、雰囲気がうまく表現されている。この扁額は、粟田口にある陶器商が寄付した陶器板と伝えられるが、北口の文字が消えかかっており、早急な修復が望まれる。
 また、トンネル下部には珍しい装飾デザインが採用されている。

B:下部はかなり傷んでおり、落書もある

C:天井からの水漏れも数カ所ある

4)「ねじりまんぽ」の名前の由来
 この技法で造られた構造物の下をくぐると、煉瓦がねじれて組まれているので、“ねじり”という語頭は日本語であると想像する。小野田氏によると、語尾の“まんぽ”については鉄道用トンネル構造物の呼称で、場所により類似した呼称が用いられている。
   まんぽ……石川、福井、三重、京都
   まんぼ……新潟、静岡、愛知、三重、滋賀
   まんぷ……福井、京都
   まんぼう…長野、静岡、滋賀、奈良
   まんぼり…奈良
 この名前の由来については、外来語説、マンホールがなまった説、鉱山の坑道を示す古語“まぶ”説など色々あるが、まだ明確でない。ただ言えることは、鉄道工事の移動に伴って全国に広がったもので、私の説は外来語由来と想像している。指導した外人技術者由来の表現であり、その発音が難しいので地域によって若干の変化を伴ったと推定したい。
 これを証明するには、欧米における類似施設の呼称をくわしく調べるのが一番だと考えるが、この不思議な名前の由来は永久にわからない方はよいと考えることもある。

9)「ねじりまんぽ」の語源関連調査(1)

 “鉄道構造物”の権威である小野田滋氏の著書「鉄道構造物探見」の98ページに,「ねじりまんぽ」の「まんぽ」の語源について記述されているが、この中で、“岐阜県や三重県では農業用水路のトンネル(カナート)に対しても使われている”と述べている。
 私自身、三重県の四日市市や滋賀県の草津市で会社生活したことがあるが、「まんぼ」と呼ばれるトンネルや農業用水路が存在することを聴いたことがある。今回、農業用水路の観点から、その名称の由来について若干調査してみた。

1)イランの「カナート」について
 ヤフー検索で、“日本・カナート”で検索してみると、14,000件近い数値がでるほど「カナート」の名はよく知られている。日本のカナート研究の第一人者である小堀巌氏によると、「カナートとは横井戸式地下水かんがい体系」であり、わかりやすく言えば地下鉄のようなものだと述べている。
 砂漠のように雨の少ないところで、地下水のあるところに竪穴を掘り、そこから50〜100間隔で一つの方向に竪穴を掘り、これらの竪穴を横穴でつないでいくと長い地下トンネル水路ができ、水のないところに水を引くことができる。つまり、地下鉄の駅が竪穴に相当し、地下鉄網が広がっていく姿がカナートである。
 カナートは、イラン全土に5万本もあり、その開発の起源は2,000年以上前にさかのぼると云われている。また、このようなカナートを掘り維持するには労力と資金が必要であり、ほとんどのカナートは地元の大地主が所有し、農民は水も種子も農具も肥料も全部地主の世話になり、農民の収入は少なく、生活も安定しないという欠点があると、鳥取大学の遠山柾雄教授が解説している。
 遠山柾雄著「砂漠緑化への挑戦」…読売新聞社・読売科学選書22 1989年発行

2)日本のカナート「マンボ」と呼ばれる農業用地下用水路
 カナートの技術の発生は、イラン高原あたりと云われているが、アフガニスタンでは「カルーズ」、アルジェリアでは「フオガラ」、オーマンでは「フアラジ」、中国のジュンガル盆地では「バールチン」と呼ばれる類似技術が存在している。
 日本でも、江戸時代後半から明治(大正も少し存在する)にかけて、岐阜県・三重県・を中心に奈良県・滋賀県・大阪府・神奈川県・熊本県に「マンボ」と呼ばれるカナートが存在しており、現在も活用されているものがある。
 いろいろと調べてみたが、一番詳しい資料は三重県立図書館・地域資料コーナーの第31回地域ミニ展示として紹介された「鈴鹿山脈東麓のマンボについて」で、約70件の引用資料にもとづく詳細な解説がなされている。
 注:この資料は、「鈴鹿山脈東麓のマンボ・三重県立図書館」でヤフー検索すれば、全文閲読可能(ホームページからのアクセスはできなかった)
 
3)「マンボの名前の由来」
 上述の三重県の資料で記録上もっとも古いマンボは、寛永13年(1636)につくられた三重県の北勢町平野新田の「六反マンボ」で,その後、江戸時代後半から明治にかけて各地で掘られているが、昔の呼称は「間風、間歩、間保、間府,間夫、間符、万歩、万法、万堀、真風」などであり、何時からマンボと呼称されるようになったかは明確でない。
 一般に、関西以西では、短い地上のトンネルのことをマンボ、マンポ、マンボリ、マンプウ、マンプなどと呼ぶが、上記カナートの呼称と無関係では無いと云われている。
 小野田滋氏は、著書の中で線路の下のアーチ橋を斜めに架けるため、「ねじりまんぽ」と名付けられた煉瓦積みの技法の採用例について関西地区を中心に30例を紹介しているが、その建設時期が外人技師の指導による日本の鉄道建設時期と近似性が高いことから、マンボ、マンポなどの表現は明治以降に伝えられた外来語ではないかと推定している。
 しかし、現時点で何れの説も確証はなく、マンボが存在する地域の郷土史のような記録などを掘り下げると、その鍵が判明すると期待している。

4)各地の代表的な農業用水としてのマンボの紹介
イ) 三重県員弁郡(近鉄富田駅で三岐鉄道に乗換える)地区にはマンボの数が多く、300ヶ所以上におよび、とくに大安町では100余が集中している。この中で、長さ約1キロメートルの「片樋のマンポ」は、水土里電子博物館資料によると、この地区の代表的マンボで、現在も約7haの水田に利用されている。この地区のマンボは昔「間風」と呼ばれ、昭和59年(1984)には「間風顕彰碑」が建立されている。また、この地区には、農作業の余暇を利用した「間風掘りさん」が昭和20年代頃までいたという。三重県員弁郡地区でのマンボの語源とされるマブ(間風、間府、間夫、間保、間歩)は、鉱山の坑道の意味だとする説もあり、マンボが外来語でないという説の一つとなっている。
ロ) 岐阜県の垂井盆地もマンボが多数存在しており、垂井町に114本、存在すると云われている。垂井町のマンボ掘りの技術は、三重県北勢地区由来の「間風(マンボ)」と福井県由来の「マンブまたは間夫(マブ)」の2つがあり、何れも導入時期は江戸末期で、現在も垂井盆地北部の扇状地に広がる田を潤しているという。
ハ) 三重県四日市市は、私が延べ10年以上勤務したところであるが、四日市史跡紹介資料によると、大きいものだけでも11ヶのマンボが現存している。代表的なものは、江戸時代末期にできた490mの和無田町マンボは現在も利用されている。

10)インクラインの追加情報(1)

1) 過去に取り上げたインクライン関連記事
 本ホームページで、今までにインクライン関連記事を4回報告している。
 このうち最初の3件は、国内実績を中心に約3年前にまとめたもので、最後の1件は新しい記事であるが、海外の実績を中心に紹介した。今回は、蹴上と伏見に建設されたインクラインのその後入手した情報を紹介したい。

2) インクライン関係の年表
 最近、琵琶湖疏水記念館で、平成10年(1998)に発行された「史跡琵琶湖疏水・蹴上インクライン復元工事報告書(ダイジェスト版)」を閲覧する機会を得た。この冊子は、日本鉄道建設公団が日本土木遺産調査会に編集を委託して発行したものである。
 地下鉄東西線の建設工事の中で、地下に蹴上駅舎を設置するにあたり、工事用搬出入口として採用した竪坑の一つをインクライン敷地内に掘削することになった。当時インクラインは京都市の史跡に指定されていたが、京都市ではインクライン復元(詳細は調査をふまえて決める)を条件に許可した。この報告書は、その間の経緯を専門的な立場から詳細に記録したもののダイジェスト版であったが、インクライン関連報告書の少ない中で貴重な情報を得ることができた。
 その中に「インクライン形態の変遷の記録」と題した表があるが、その内容の一部を筆者の責任で追加し、一部修正したものを作成したので、以下に紹介する。
          インクライン建設以来現在に至るまでの経緯・年表

3) 前表27項の一部解体の工事内容
(@)レールの取り外し状況
 報告書によると、今回の解体工事で、レールと枕木がインクライン全長4分の3近く取り外された。そして全本数の2割にあたる54本(80年以上経た)の古レールがあったと報告している。また、この古レールの34本を、舟受台車から上に向かって古い順に配置した。
 この中には全部で5ヶ国6メーカーなど希少価値のあるものが含まれていて、「レールの野外博物館」づくりを目指した(レールの明細があるがここでは省略)と書かれているので、現場を確認したが、素人の私には判別ができなかった。

舟受台車の上部のレール

地面との空間が目立つレール

段差にあるレールの継ぎ目

 このように、軌道はレールを繋いだだけで、形態保存の現状(整備されていない)が確認できた。琵琶湖疏水記念館地階には、インクライン建設のとき使われた明治20年(1887)製の鋼鉄製37kgレールの実物が展示されており、『当時の鉄道では、英国式の錬鉄製双頭レール(ひっくり返して再使用できる)がよく使われていたので、この鋼鉄製平底型レールは当時の最新型であった。レールには次の浮き出し文字がある。BARROW STEEL6°-1887 272 ISR75L2』と説明されている。今回の報告書によると、現存のインクラインの軌道に、このレールが9本残っていると記載されている。
 また、別の記録によると、明治21年(1888)に田邊・高木が渡米したとき、当時アメリカで製造が始まったばかりの新型平底型レール(英国より導入?)を輸入してインクラインに使用したと記載されている。このレールがドイツ製とか英国製とかアメリカ製とか報じられているが、英国でも希少レールとなっており、「レールの野外博物舘」のような説明板(過去に計画された?)が欲しいと感じた。
(A)石積
 解体の調査段階で、石積部分は京都市の史跡の範囲に入っていなかったので、復元工事ではコンクリート打ち放し擁壁などの近代工事も検討されたが、元の伝統的工法である空石積で復元することになった。石積はレール下の上段石積と三条通に接した下段石積の2段となっており、下段のオリジナルは明治23年(1980)に築造されたが、上段は明治28年(1895)と明治40年(1907)の2回に築造され、部分改造をする時はできるだけ外観上変更がないよう配慮したと記載されている。

三条通から見た上段石積と下段石積
 
インクライン断面説明図(報告書より引用)

(B)オリジナルの地形
 明治23年(1890)に建設されたオリジナルに以下の5つの工事が影響を与えた。
・ 明治24年(1891)・・・発電所の水圧鉄管の建設
・ 明治26年(1893)・・・仁王門通の建設
・ 明治27年(1894)・・・東本願寺水道の建設
・ 明治28年(1895)・・・発電所水圧鉄管・放水路建設
・ 明治45年(1912)・・・三大事業のひとつである新発電所の建設
 しかし、これらの工事は部分的な小さい工事であったので、インクラインの基本構造は変化していないと判断された。たとえば、オリジナルの勾配は1/15であるが、今回の測量調査から勾配を割り出すと1/14.9と殆ど同じ値が得られた。
(C)インクラインの桜
 京都の桜守として有名な佐野藤右衛門は、丸山公園や蹴上インクラインの桜の手入れを続けられていると多くの解説書に書かれている。現在の藤右衛門は16代目で、世界的に有名な桜守として、平成9年(1997)にユネスコ本部から「ピカソ・メダル」を受賞しているが、今回の復元工事でも藤右衛門が法面(のりめん)の桜の移植・管理を担当された。
 報告書によると、法面の桜は大部分がソメイヨシノで、古木が多く寿命に近いものが多かった。そして、再移植可能な古木を自動車排気ガスにさらされない勾配のゆるい南禅寺側法面に移植した。これに対し三条通側の法面には新しく購入した元気な桜を新植した。
 この法面は勾配がきつく、サクラの植栽が難しいため、竹のシガラで植え床(上記写真を参照)をつくり、地被植物のタマリュウを配植したと記載されている。

 その他、「ねじりまんぽ」の改修も実施されているが、別報で紹介する予定。