蹴上周辺
| 1)蹴上疏水公園に集まる田辺朔郎の碑 | |
| 疏水の流れは、山科の御陵から第3トンネルをくぐって蹴上舟溜に達する。また、インクラインのゆるやかな傾斜道は、南禅寺舟溜から東に登り蹴上舟溜に至る。このあたりは、琵琶湖疏水にかかわる記念碑や工事記念品などが飾られており、第1疏水と第2疏水の合流点で、蹴上発電所への太い配管が急降下しており、春は桜の名所として多くの人に親しまれている。一般に蹴上疏水公園と呼ばれているが、地下鉄「蹴上駅」の1番出口から三条通に出て、西に向かって少し進むと「ねじりまんぽ」という小さな煉瓦造りのトンネルがあるので、これをくぐって右手の坂道を少し登ると蹴上疏水公園にでる。 本項では、設計技師として疏水工事を推進した田辺朔郎博士に関する碑について紹介する。その一つは、田辺朔郎氏の還暦を祝って京都府が大正12年(1923)に建立した「紀功碑」である。写真に示すように高さが4.5mもある縦長の碑で、表面は「工学博士田辺朔郎君紀功碑」と書かれ、裏面には京都府知事「池松時和」の名で、偉業をたたえる文が細かい字でびっしり埋められているが、苔むして読みずらい。 その左側に田辺朔郎の若き姿の立像が高い礎石の上に立っている。上記「紀功碑」は、疏水公園の整備時に他の場所からここに移設されたものであるが、この立像は、紀功碑から約60年後の昭和57年(1982)に市民等の寄付により建立されたもので、竹林征三氏の著書"湖国の「水のみち」"によると、像は京都の彫刻家江里敏明氏の作であり、青年技師田辺朔郎が明治21年(1888)米国に水力発電調査に赴く際、横浜港で撮影された写真をもとに製作されたという。 この立像の左横に、京都華頂ライオンズクラブ結成10周年記念として、同時に建立された小型の顕彰碑があり、現代文でその偉業をたたえた文章がわかりやすく刻まれている。 少し奥に入ったところに、疏水工事で殉職された犠牲者の鎮魂碑が建っているが、これは田辺朔郎が私費で建立したもので、裏面には犠牲者の職種と氏名が刻まれている。さらに進んで蹴上舟溜の奥にある「大神宮橋」を渡り、「日向大神宮」に向かう坂道から途中で左に曲がると大日山墓地あり、その一番奥に京都市から寄贈された田辺朔郎の墓がある。疏水関連設備に囲まれたこの地域で、田辺朔郎氏の偉業は永遠に語り継がれて行く。 |
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| 2)蹴上疏水公園にナイヤガラ瀑布が? | |
毎年冬季になると、第一疏水は清掃・修理のために通水を止める。私は山科疏水で水の流れていない疏水べりを散策する機会が多いが、底はすっかりモルタルで覆われており、昔の面影は残っていない。第二疏水連絡トンネルができて水量の確保が容易になったためか、第一疏水の休止期間も長くなったように思う。 第一疏水が休止している期間は第二疏水が頑張る必要があるが、蹴上疏水公園にある両疏水の合流点の様子を見るため、平成15年2月23日に現地を訪れた。公園の山手側に鉄柵で囲まれているコーナーがあり、ここから発電所に向かって太い配管が急降下しているので、発電所向けの取水池と想像している。また、この鉄柵の南側の小道に沿って行くと南禅寺・南禅院の前にある水路閣につながっているので、地元の散策者や行楽客がよく利用している。 このコーナーはいつも静かであるが、水流の音が激しいので鉄柵の近くに寄ってみると、合流点の側壁から第二疏水の水がオーバーフローして第一疏水側に流れており、小さい「ナイヤガラ瀑布」のようであった。思わずデジカメを柵の間に差し込んで写真@を撮った。 このあたりは疏水の水路が複雑で、正確には把握していないし、第一疏水の休止に関係なく第二疏水の流量調整のために実施された可能性もあるが、3月21日に訪ねた時は、写真Aに示すように同じ斜面に水の流れは無かった。 蹴上疏水公園を十数回訪ねているが、このような経験は初めてである。詳しく調べるよりも、偶然に巡りあえる方が楽しく、疏水べりのスポットとして紹介させていただいた。 また、疏水公園の上り口に「殉職者の碑」がある。裏面には、昭和16年11月建立で京都市電気局電気課一同と刻まれており、京都市長・加賀谷朝蔵書と記されている。 |
![]() @:平成15年2月23日 |
![]() A:平成15年3月21日 |
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| 3)平成15年度・蹴上浄水場の見学 | |
地下鉄「蹴上駅」のA番出口から出てすぐ右隣りに、浄水場見学の出入口(南口)があったが、今年は三条通の複線工事が完了し周辺が整備されたので、新装された紅白の「花水木」の街路樹のある三条通を浄水場に沿ってしばらく歩いて北口から入門した。そして、本館の中を抜けて山手に登り、周辺を見学して南口から出門するという通り抜けコースが採用された。 毎年5月の初旬の連休が公開日になっている。昨年は自著でも紹介したように、ツツジの開花時期が早く公開日には盛りを過ぎていたが、今年はほぼ満開(写真@)に近い状態で見学者を充分に満足させた。 琵琶湖疏水の利用を考える場合、琵琶湖水面との落差がどれくらいあるかが重要となる。琵琶湖の平均水位と大阪湾の平均水位の差は85m(琵琶湖は海抜85mの意)であるが、傾斜地に存在する京都市の場合、その存在場所によって水位差が異なる。琵琶湖で取水された水は、僅か4mの落差で蹴上まで送られ、約30mの落差を水力発電に利用し、各浄水場からの水道水は、「山ノ内」(工事中)を除き、「蹴上」、「新山科」、「松ケ崎」から落差を利用して各家庭に送られている。 |
![]() @:満開のツツジ |
![]() A:京都市内各地の海抜値(m)を示す図表 |
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| 4)疏水の守護神「日向大神宮」を参拝して | |
地下鉄蹴上駅の@番出口から、三条通りに沿って西に百歩弱進むと、南禅寺方面に抜ける赤煉瓦巻きの小さいトンネル(通称ねじりまんぽ)がある。このトンネルを抜けてすぐ右手に坂道があり、登っていくと蹴上疏水公園に達する。 インクラインも、「琵琶湖疏水記念館」のある南禅寺舟溜から公園に並行して上ってきて、その終点となる蹴上舟溜に、「日向大神宮」に向かう「大新宮橋」が疏水に架かっており、「第3トンネル」の出口から勢いよく水が吹き出している姿が見える。 大部分の散策客は、ここが疏水関連施設の終点と考えて公園の方へ引き返すが、まだ幾つかのスポットがある。「大神宮橋」を渡らずに少しすすむと、「九条山ポンプ場」の看板がある水道局施設があり、蹴上・山ノ内両浄水場取水池となっている。 「日向大神宮」に向かって少し進むと、大正15年の建立された石鳥居があり、右手の坂道を登ると、田辺朔郎氏のある大日山墓地に至る。「日向大神宮」に向かう参道は車一台幅の舗装道路となっており、ゆるやかな坂を少し登ると「公家味噌」の看板のところに右折する道がある。この道を辿ると、少し曲折しているが、舗装道路で三条通りにつながっているが、途中の「関西日仏交流会館」の向かい側に、現在使用されていない「九条山浄水場」(写真@)がある。「公家味噌」の看板まで戻り、「日向大神宮」に向かう道を登りつめると広場があり、散策者の車がここまで入っていた。(途中に車通行不可のマークがあったが?) 本殿に向かう石段を登ると、正面に内宮(写真A)があり、横の山道を40mぐらい登ると「天の岩戸」と称する開運厄除の通り抜けの洞がある。内宮の石段下の右手には外宮があり、「伊勢神宮」の様式と雰囲気を持った格調高い神社である。この場所は、山科・毘沙門堂から南禅寺に向かう山道の途中にあたり、道標が立っている。 |
![]() @:九条山浄水場 |
![]() A:内宮 |
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| 5)田辺朔郎博士の「紀功碑」の細部説明 | ||
蹴上疏水公園に、昭和五十七年に市民からの寄付等により建立された田辺朔郎博士の若き日の全身銅像が建っている。向ってその右隣りに、博士の還暦を祝して京都府が建立した「紀功碑」が建っているが、石碑の高さは約4.5m、桿石の高さは約3.6m、幅約1.5m、厚さ約30cmという巨大な碑(写真@)で、表面に「工学博士田邊朔郎君紀功碑」、裏面には紀功碑記として1377文字がぎっしりと刻まれている(写真A)。残念ながら、字が細かくて碑の前に立っても判読することは困難(不可能)である。 |
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![]() @:紀功碑の正面からの写真 |
![]() A:紀功碑の裏面からの写真 |
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| この碑は、当初加茂川と高野川の合流点付近の出町剣先にある広場の一角に建立され、大正十二年七月一九日に盛大なる除幕式が挙行されたが、その後「蹴上疏水公園」の整備時に現在地に移設されたものである。 「田邊朔郎博士六十年史」によると、この碑を建てるにあたり、博士の業績は自分一人の力でなく関係者の総力によったものと博士の強い希望により、碑の下に石の唐櫃を作って、その中に関係者の名前リスト、関係書類、新聞記事などをまとめて入れ埋められたという。六十年史の中に紀功碑記の全文があったので引用する。(一部現代略字を採用)
田辺博士は、大正十年十一月二十九日に還暦を迎えているが、門下生の有志が祝賀記念の費用を博士の授業を受けた者に限定して募集したところ、九百余名が応募し、総額一万円余が集まった。博士は、この企画について最初から固辞しており、資金を公共事業に寄付することを条件に納得していただいたが、総額を京都帝国大学に奨学資金とし、その一部で博士の胸像をつくって贈呈したという。 |
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| 6)国の史跡に指定された疏水施設 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 本項については、自著の第十三章十六項に概略の説明を行っており、認定の対象となった十二ケ所の施設の現場には、これを伝える説明が一切ないと説明したが、最近、蹴上疏水公園内に十二ケ所全体を説明したパネル(写真)が存在することがわかった。 その由来を示した説明文が、簡潔にまとまっているので、その全文を紹介する。 |
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| 史跡 琵琶湖疏水 明治二年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって、第三代京都府知事北垣国道は、京都に近く水量豊かな琵琶湖に着目し、疏水を開削することにより、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力・灌漑・防火などに利用して京都の産業振興を図ろうとしました。この疏水工事の御用係に選ばれたのが明治十六年工部大学を卒業したばかりの田辺削郎でした。 工事は最も難関が予想された第一隧道(トンネル)から取りかかることになり、施工方法についても東西両口からの掘削の他、わが国初の試みとして途中に竪坑方式も採用しています。 ここのインクライン(傾斜鉄道)は我が国初めての試みで、これによって舟を南禅寺の平地に下ろし、舟溜から鴨川までを鴨東運河で結んでいます。明治二十四年には、米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年十一月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。水力発電は新しい産業の復興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。 琵琶湖疏水は、当時我が国の重大な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみの手によって行った近代的大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、平成八年六月にこのインクラインをはじめ十二ケ所が国の史跡に指定されています。この疏水の水は、現在においても水道用水の他、発電・防火・工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っております。 指定を受けた十二ケ所の史跡一覧表
上表の中の1〜10番の施設は、現場を通過しても一切説明が無く、それぞれの場所に由来を示したパネルを設置して欲しいと思う。 |
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| 7)蹴上地区に関する話題(1) | |
去る4月18日に国際交流会館で「十石舟めぐり」に関連する講演会を実施したとき、蹴上の日向大神宮の宮司・津田光茂氏の「蹴上地区のよもやま話」の講演を聴く機会をありいくつかの情報を得たので、これを含めて関連話題を取りまとめた。 1) 蹴上地区の行政区分は? 最近では地下鉄東西線に「蹴上駅」ができ、疏水では「蹴上インクライン」、「蹴上疏水公園」の名称が使用されるようになったが、地名として「蹴上」の名のついたところは存在しないようである。立地的にみると山科区・東山区・左京区が複雑な形で入り組んでいるところである。 たとえば、第3トンネル出口・九条山浄水場ポンプ室・日向大神宮などは山科区にあり、インクライン敷地は左京区と山科区、蹴上浄水場は山科区と東山区、蹴上発電所は東山区と左京区の両敷地にまたがっており蹴上駅は東山区にある。散策に訪れた若いカップルが"「けりあげ」とは変な名前ね"と話し合ったり、"「この字は何と読むの?」"と相手に聞いている姿をみて、これを「けあげ」とすぐに読める人がどれくらいいるか?心配になる。 つまり、「蹴上」とは山科区・東山区・左京区にまたがって昔の京都の東玄関口として賑わったところであり地名でなく地域の名前ということである。 2)「蹴上」の名の由来 いくつかの本に名の由来が書かれているが、いずれも類似した解釈がなされている。 竹村俊則氏の「昭和京都名所図会」にもあるように、このあたりは三条白川橋から山科大津に至る街道筋にあたり旅人が往来する道であった。 安元3年(1177)の秋、牛若丸(後世の源義経)が金売り吉次に伴われて奥州目指してくだる途中、たまたまここを通りかかった平家の武士関原与市重治の馬が水溜りの水を牛若丸に蹴りかけてしまった。牛若丸がその無礼をとがめて喧嘩となり、与市を斬り捨てたことからこの地区を蹴上と呼ぶようになったという。 このとき斬られた与市主従9人の菩提を弔うために9体の石仏が安置されたというが、山科の歴史探訪(山科の歴史を知る会)によると現在下記3体の仏像が蹴上地区に残っている。 A 義経大日(薬師如来、鎌倉時代) 疏水神明橋近く B 薬師如来坐像石佛(鎌倉時代) 蹴上浄水場東端国道北側 C 地蔵石佛(江戸時代末) 京津線九条山電停前 私自身B、Cは未確認であるが、Aはインクライン上部にある「琵琶湖疏水殉難碑」のすぐ横にあり、数回移転を重ねて現在の地に来たと伝えられ、立派な建屋付きの大きい石像(写真@)であるが、由来を示す説明板のようなものはない。 |
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![]() @:大神宮橋の手前にある義経大日 |
![]() A:清掃で水を抜いた蹴上舟溜 |
3)狭くなった蹴上舟溜と九条山の名称 琵琶湖疏水が完成する前から、蹴上舟溜あたりには大きい池があったそうである。そこが疏水の第3トンネルの出口にあたり「蹴上舟溜」となった。インクラインのできた場所は山の急斜面で、トンネルの掘削で生じた土壌を利用して傾斜鉄道の道が造成されている。 完成当時の蹴上舟溜の面積はかなり広かったが、その後各浄水場の取水口や九条山浄水場ポンプ室などを建設するため舟溜の一部を埋立てており、現在の舟溜は当初よりかなり狭くなっている。 九条山の名は地図上にはなく、本当の名は東山三十六峰の一つである「神明山」である。元九条家所有の山だったから九条山と呼称されている。山頂には九条家の石柱が境界杭として埋めこまれているそうである。 地名として存在しない「蹴上」の名が地下鉄東西線「蹴上駅」として登場したのに対し昔の京阪京津線にあった「九条山駅」が地下鉄東西線の開通により消えてしまった。歴史を感じる地域である。 4)日向(ひむかい)大神宮への参道 今年も5月の連休に蹴上浄水場のツツジの公開があり、天気に恵まれて訪問したことは、別項で紹介しているが、今回私が狙っていたスポットは"三条通から日向大神宮に向う参道"を浄水場側から写すこと(写真B)であった。 前述の「昭和京都名所図会」に蹴上地区の昔の賑わいが詳しく記載されているが、三条通り北側の弓屋、南側の藤屋・井筒屋などの大きい茶店のあったところを写真で確認することができた。 |
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![]() B:浄水場からみた日向大神宮の参道 |
![]() C:九条山浄水場の立体模型 |
また、日向大神宮の津田宮司の講演で配布された1864年作成の「再撰花洛名勝図会」に参道の入口にある「神明一の鳥居」とその周辺の絵図が描かれているが、このあたりの昔の姿を楽しむことができた。 蹴上浄水場の本館の中に大きい立体模型が飾られてあるが、九条山浄水場の部分の写真Cを撮ってきた。来年の公開日にもう少し調べて詳しい説明をしたい。 |
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| 8)インクラインの軸線上に位置する関西日仏交流会館 |
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| 1) 関西日仏交流会館 蹴上にある疏水公園の一番奥に蹴上舟溜がある。疏水に架かっている大神宮橋を渡って、日向大神宮に向ってゆるやかな坂道を登っていくと、「公家味噌」の看板のある建物があり、そこを右折(まっすぐ進むと日向大神宮)して少し進むと左手に「関西日仏交流会館」の建物がある。 |
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![]() @:入り口横にある名称掲示板 |
![]() A:正面から見上げた会館 |
この建物の正式名称は「関西日仏交流会館・ヴイラ九条山」で、建設経緯については、ホームページに詳細に説明されている。 http://www.villa-kujoyama.or.jp ホームページの中に、ヴイラ九条山創設当時に関西日仏学館の館長ミッシェル・ワッセルマン氏が“関西日仏交流会館・ヴィラ九条山の始まり「九条山から九条山」”と題してまとめておられるので、年表の部分を解説すると イ) 昭和元年(1926)ボール・クローデル駐日仏大使と大阪商工会議所会頭・稲畑勝太郎氏の後援で、「財団法人・日仏文化協会」設立 ロ) 昭和02年(1927) 京都・九条山に「関西日仏学館」の校舎がオープン ハ) 昭和11年(1936) 九条山校舎を放棄し、京都大学に隣接して2代目の学館を新設 ニ) 昭和19年(1944) 大戦末期に九条山校舎は約2年間政府に徴用され、軍事用機械工場として活用 ホ) 昭和56年(1981) 九条山旧学舎(廃屋)を取り壊し、土地売却先を調査 ヘ) 昭和61年(1991) 日仏文化協会60周年を記念し、九条山敷地の活用策を発表 ト) 平成03年(1991) 新しく「関西日仏交流会館・ヴィラ九条山」を設立 |
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| 九条山に昭和2年11月2日建設された初代の「関西日仏学館」は、急斜面の丘の中腹にあたる土地を整備し、その上に建てられた西洋建築で、そこから京都盆地を見下ろす景色はすばらしかった。この敷地は疏水のインクラインの軸線上に位置していたが、そこに新たに建設された「ヴィラ九条山」の建築計画にもその軸上にアプローチや諸々の空間単位が地形にしたがって上昇するように配置計画されたとホームページに紹介されている。 「ヴィラ九条山」の活用法は、フランスの芸術家が滞在して創作活動をする施設であり、日本側が建物を建設し、フランス政府がその運営を担当する方式を採用し、現在までに巾広い専門の芸術家約120名が利用してきたという。 この近辺は若干不便な場所であるが、日曜日に近辺を散策すると、買物から帰ったフランス人芸術家をよく見かけるし、地元の人に聞くと選挙の投票場としても活用されている。 この正面の道をさらに進むと、すぐに三条通に下りる道がある。コーナーに九条山浄水場(休止中)があり、まっすぐに進むと住宅地がある。映画俳優の片岡千恵蔵や宮城千賀子の別荘があり、昭和初期には有名人の別荘地であったと聞く。 |
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| 9)平成17年度「蹴上浄水場」の見学 |
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| 蹴上浄水場の見学は、平成14年(2002)から連続して4回の訪問となり、内部の様子については、各所に立っているガイドより詳しいレベルに達した。今回は4月29日の訪問であったが、最高気温が今年最高の28.9度(京都地方気象台調べ)に達する暑さであった反面、ツツジの開花は春先の冷え込みが影響したためか五分咲き程度であった。 | |||||||||||||||||||||||||||||
![]() @:オオムラサキツツジは五分咲き |
![]() A:真っ赤なキリシマツツジは満開 |
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今回は、平成10年(1998)から開始された改修工事が一部を残して完成したので、設備改修の歴史について水道局の資料を参考にして説明したい。 1) 沈殿池・ろ過池について 蹴上浄水場には、2系統の設備が存在する。第1系統は、明治45年(1912)の当初から稼動したもので、日本最初の急速砂ろ過装置を備えた京都市最古の浄水場であった。当初の給水能力は、1日あたり68,000立方メートルであったが、浄水場創設50周年にあたる昭和37年(1962)に第2系統が建設され、能力は3倍近くの198,000立方メートルに拡大した。ところが、第1系統の設備の老朽化が進んできたので、平成10年(1998)これを解体撤去して新設工事(第1期工事、約120億円)を行い、平成15年(2003)末に完工した。 |
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![]() B:粉末活性炭接触池(旧沈殿池の転用) |
![]() C:平成15年末に完成した新ろ過池 |
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第2期工事は約50億円かけて実施する予定であるが,京都市にある4カ所の浄水場の全体能力と水需要の動向を見極めて着工時期を決める予定と言われている。したがって現在の蹴上浄水場の供給能力は、半分の9,900立方メートル/日に止まっている。 2) 配水池について 浄化された水は、配水池に貯蔵されて水の需要に応じて自然流下で市内に給水されている。配水池は、低区、高区、最高区の3レベルに建設されており、給水先のレベルに応じて利用されている。各配水池の容量と基数と設置時期を下表に示したが、明治45年の創業当初の構築物は第1高区配水池のみとなった。 |
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![]() D:第1高区配水池の北側入り口 |
![]() E:第1高区配水池の外壁部 |
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| 第2系統の3つあった沈殿池の1つは、「粉末活性炭接触池」として活用されている。最近水道水のカビ臭の発生が問題になることが多くなったが、京都市では旧式の粉末活性炭を投入処理して対応している。しかしながら平成19年(2007)から臭気に関する検出基準値が強化されるので、京都市では大津市や淀川流域ですでに採用されている生物処理やオゾン処理などの高度水処理施設の検討を始めているが、方式によっては数十億円〜数百億円かかると見込まれている。 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 10)建設当初の「蹴上浄水場」の話題 |
京都府立図書館で古い京都新聞を閲覧した時、昭和63年(1988)4月から平成2年(1990)3月まで98回にわたり隔週毎に「疏水史を見る」と題した連載記事があることを見付けた。その中に「蹴上浄水場」に関する記事が16回にわたり写真付きで掲載されていた。今回は、この記事に「琵琶湖疏水の100年」誌やその他の情報を加えて、明治・大正・昭和にかけての「蹴上浄水場」の話題をまとめてみた。 1)蹴上浄水場におけるツツジの一般公開の歴史 ツツジの一般公開は、昭和12年(1937)から始まったと推定されている。その後、日中戦争や太平洋戦争などのため中断され、昭和25年(1950)の5月のゴールデンウィークに、13年ぶりに再開された。そして、昭和32年(1957)〜昭和41年(1966)と昭和50年(1975)〜昭和53年(1978)の期間、工事などのため中断されたが、ほぼゴールデンウイークの土・日曜日に定着した。蹴上浄水場にはツツジ約4,000本、サツキ約3,000本で、専門の業者が年2回手入れを行っている。 2)蹴上浄水場創設の歴史的背景 琵琶湖疏水の工事は、今なら1兆円規模の超大型プロジェクトであった。そして日清戦争などで国の財政はきびしくなり、蹴上発電所や内国博覧会など大型出費で、京都市の財政も極めてきびしい状況にあった。 疏水の水量を増加して上水道計画用にしたいという構想は、明治32年(1899)からあり、実行計画を重ねる中で京都市長は内貴市長から西郷菊次郎市長に移り、明治39年(1906)に三大事業(上水道・道路改築・電気鉄道)の1つとして認可され、フランスかたの借金(外債発行)で実施されることになった。 日本における近代水道の第1号は、イギリス人の設計指導で完成した横浜水道で、首都東京に近い開港地として建設費のほぼ全額を国庫が負担したが、その後国の負担額は縮小され、京都市の場合、投資額300万円の1/4である75万円が国庫補助された。このように、京都市の浄水場は第1号の横浜から20年遅れのスタートとなった。しかしながら、技術面では「急速式ろ過装置」が全国で初めて採用された。 当時の浄水場の敷地は5万平方キロメートル余で、現在の半分しかなく平地部が少なかったので、“硫酸バンド”を添加して不純物をすばやく凝集する「急速式ろ過装置」を採用し、不足する所要敷地面積をカバーした。 この装置はジュウェル式で、従来の「緩速式ろ過装置」と比べて30倍程度の早さで処理され、2日に1回くらい目詰りした砂層を洗うため、下からろ過と逆方向に大量の水を吹き上げる逆流洗浄装置と、鉄製くま手を用いて表面を掻き混ぜる装置が設置され、専用屋根が取り付けられた。また明治36年に山科疏水に建設された日本最初の鉄筋コンクリート橋の技術が、明治43年(1910)に浄水場の沈殿池という大工事に採用されたのである。 また疏水の増水策として、西大津から蹴上までの疏水の全延長の両側と川底にセメントモルタルを塗り、水藻の発生を防止する工事により、自然に両側と川底の摩擦が減り水量の増加を計ることができた。 3)給水開始状況 沈殿池が1年半後の大正元年(1912)に完成したが、給水開始時の京都市の人口は約50万人で、このうち水道を引いたのが約4万人、1日の消費量はわずか3万立方メートルであったという。しかしながら需要は漸増し、昭和37年(1962)には浄水場の能力は大拡張されている。 4)低区および高区配水池の設置 京都市は北が高く南が低い細長い地形であり、その中心軸といえる四条通より40メートル高所に蹴上浄水場が立地している。そして四条通以南の区域には「低区配水池」、四条通以北の東山山麓一帯への配水は、「高区配水池」(浄水場の背後にある華頂山台地に設置)から送り、給水には自然重力を利用した。 浄水された水を高区配水池に送るために、加圧ポンプ室が設けられ、モーターと直結したタービン式ポンプ(2台稼動、2台予備)が配置された。高区配水池の有効容量は約9,000立方メートルであり、当時の1日最大給水量のおよそ5時間分にあたる水量であった。 長方形の鉄筋コンクリート製水槽の周囲はレンガ造りで、屋根部には厚さ60センチメートルの土盛りをし、一面に芝生を植えて水槽内の温度変化を避けた。 追記:発足当時は「京都市水道浄水地」と呼ばれており、「蹴上浄水場」の呼称は後に出てきたものである。 上記記述は、平成元年5月時点にもとづくものである。 |