環境保全


1)明治における伝染病対策と上水道計画

 伝染病(今年の4月から感染症の表現に変更)というと、14世紀半ばの欧州を襲ったペストによる大悲劇を思い出す。ペストの世界的流行は、過去に6〜8世紀、14〜15世紀、19世紀以降の3回起こった。2回目の流行は、1347年に発病したネズミがクリミヤ半島から欧州に移動して大流行となり、欧州全土で2600万人の病死者を出した。
 1348年には、僅か3ケ月で人口の3分の1が病死した町が出かり、イタリアのフイレンツェ市では人口の半分にあたる9万人が短期間に死亡した。金持ちは家族ともども海外に避難し、せめて子供だけでも助けるために留学させたという話しが残っている。
 3回目の19世紀では、インドで1200万人の死者が出ており、日本でも1899〜1911年に4回の流行があり、2200人が死亡している。当時の伝染病対策は、各国とも熱心に取り組んだが、病原菌がわからないので、対応に苦慮したのである。

 日本で明治期にもっとも広がった伝染病はコレラである。コレラは漢字で「虎列刺」と書き、発病すると3日で死ぬことから「3日コロリ」と恐れられ、明治年間に日本のコレラ死亡者数は37万人に達し、日清・日露戦争による戦病死者数をはるかに越えた。
 京都市でも明治14年以降明治年間に4600人の死者を出している。明治10年には、九州で発生したコレラが、京都を経由して西南戦争の帰還兵が地元に帰る時に感染したもので、明治28年までに5回の流行を見た。

年(明治) 10 12 19 23 28
患者数(人) 71 1404 3103 1005 1842
死者数(人) 53 1109 2497 864 1561
死亡率(%) 75 79 80 86 85

 明治28年3月に、九州の門司市でコレラ患者が発生の第1報が京都に届けられたのは、第四回内国勧業博覧会開催の1ケ月前であり、全国から集まる顧客のために京都市では、総力を挙げて伝染防止に努めたが、博覧会を無事成功に導いた。
 また、明治18年から23年にかけて進められた琵琶湖疏水の工事も、きびしい作業環境の中でコレラ患者が発生したとの記録も残っている。
 赤痢も、琵琶湖疏水の工事期間前後の明治17年から24年にかけて、日本全国で患者数25万人、死亡者数6万人となり、伝染病対策は極めて重要課題となっていた。

 しかしながら、病原菌探索の研究は世界規模で進められ、明治26(1893)にコッホがコレラ菌、明治27(1894)に北里柴三郎がペスト菌、明治30(1897)年に志賀潔が赤痢菌を発見し、問題点を絞った対策が講じられるようになったのである。北里柴三郎は、明治18(1885)年ドイツに細菌学の研究のため派遣され、5年間の留学期間を経て明治23年末に帰国予定であったが、その成果が認められ、ドイツのコッホ研究所より1年延長の要請があり帰国は明治25年となったが、日本は細菌学の分野でも北里の弟子である志賀潔の成果を含め、世界的連携のもとで活躍していた。

 「明治時代の京都の医療と衛生」と題して、京都薬大・人文科学教室の鈴木栄樹氏(当時助教授)が平成11(1999)年10月9日に同大学で講演された内容が京薬会誌に示されているが、京都は日本の医学先進地であり、古くからオランダ医学が広められていた。
 コレラ対策についても、大徳寺や東福寺の中に避病院が設けられ、汚染家屋の焼却など徹底した衛生対策が強制的に実施されたという。
 コレラや赤痢の伝染が、水や食物を経由して行われることがわかってきて、第一疏水が完成したあと、衛生的立場から琵琶湖疏水を上水(水道水)の原水にしようという企画が練られ、明治45年に第二疏水と蹴上浄水場が完成し、京都で水道事業がスタートしたのである。水道局の資料によると、現在1日あたり約200万m3の水が琵琶湖から引かれ、うち112万m3が水道水として利用されている。その後の実績をみると、上水道だけでは伝染病対策は不充分で、下水道の完備とともに伝染病は終焉して行ったのである。

 岡山大学・環境理工学部の小野芳朗氏(当時助教授)が、平成13(2001)年に「水の環境史・京の名水はなぜ失われたか?」という本を発刊しておられ、しっかりした内容で興味を持って読ませていただいたが、琵琶湖疏水がもたらしたマイナス面として、京都の地下水の利用というメリットが摘み取られてしまったことをあげている。筆者も疏水の効用を否定するものではないが、都市計画・開発面で地下水の存在を充分に配慮し、地下水の有効な活用を並行して考えることが望ましいと思う。

 最後になったが、今年の3月に発生した「新型肺炎・SARS」は色々なことを教えてくれた。発生のメカニズムのわからない段階は、14世紀のペスト騒動と同じ対策しかなく、その後も明治のSARSであったコレラ対策と同じであった。発生してから約3ケ月後の6月18日に、WHO(世界保健機構)が事実上の制圧宣言を発表したが、全世界の感染者8465人、死者801名であった。昭和58(1983)年に病原体を特定できた「エイズ」は、昨年末現在で感染者約4200万人、累積死者は2000〜3000万人と推定されている。
 今後の新感染症の発生も不安であるが、琵琶湖疏水のみを水道水の原水としている京都市民にとって、衛生面からの充分なチェックとともに、世界水フオーラムで討議された諸対策を忘れずに進めていくことが必要と考える。


2)琵琶湖疏水の各所に設けられた放水路
 琵琶湖疏水には、緊急増水対策または補修対策用として各所に放水路が設けられている。調査が不充分なところもあるが、その要点を報告する。間違っている点があればご指摘して欲しい。
1)伏見新放水路
 鴨川運河と濠川をつなぐ伏見インクラインが国道二十四号線に転用され、疏水の水は墨染舟溜から暗渠を通して伏見郵便局西側付近に流出しており、津和橋から流れの音が確認できる。流れに沿って南に六十メートル位進むと、濠川に向う既存の流路から分岐して西に流れる流路があり、約九百メートル先の新高瀬川につながっている。この流路(写真@)を「伏見新放水路」という。この分岐点から南に六十四メートルの既存流路に、制水門と閘門が大正十三(1924)年頃設置されており、今も水音高く稼動している。

 放水路に架かる最初の橋は、分岐点にある東住吉橋で、その先に越前橋、黒茶屋橋、榎橋、神泉苑橋、新景勝橋、景勝橋の七橋があるが、その大部分が大正十四年頃の竣工で、放水路完成と同じ時期に造られたものと想像される。この放水路は常時流れているようであり、水量も本流に負けない位あるので、設置の目的などさらに詳しく調べて見たい。

2)扇ダム放水路
 南禅寺の北門を抜けて、永観堂禅林寺に向う車道の途中に東山学院があり、南校舎と北校舎の間の急斜面の小道に沿って、山手から疏水の流れが西に向って幅一メートル位で流下し、野村美術館と野村別邸(碧雲荘)の間をいきおいよく流れて、「琵琶湖疏水記念館」の庭にある出口に達する。この流れが「扇ダム放水路」(写真A)である。
 この出口は、トンネル洞門(写真B)の形をしており、記念館建設当時の京都市長・合川正秀氏の揮毫による石額「楽百年之夢」があるので、記憶されている方も多いと思われる。

 この放水路の建設目的は、南禅寺・永観堂裏の疏水分線にある扇ダム(中継池)が溢れて水害が生じたので、これを防止するために設けられたと聞くが、現在では常時流れているようである。この放水路には、周辺にある疏水の水を利用した近代庭園の排水にも利用されている。
 淡交社から平成十五年三月に発行された「京都水ものがたり」(著者:平野圭佑)の六十二ページに「南禅寺界隈疏水園池群水系系統図」があり、京都造形芸術大学の尼崎博正副学長の調査結果(労作)が紹介されているが、扇ダム系・南禅寺系・市田系の多くの庭園の水がこの放水路に流され、南禅寺舟溜に放出されている。

3)白川放水路
 鴨東運河の夷川舟溜にある「京都市水道局・疏水事務所」の北側を通り、鴨東運河に並行して舟溜から鴨川まで引かれている水路を「白川放水路」という。この放水路(写真C)は、大文字山一帯に異常豪雨が降り、白川から南禅寺舟溜に流れ込む水量が多くなった時に使用される非常用水路であり、通常時は枯れ水路となっている。
 この水路は、むかし鴨川運河の下の京阪電車の地下工事の期間中、本流を閉鎖してメイン流路として使用し水を鴨川に放流したそうである。鴨東運河が川端通りをくぐるところに、田辺朔郎博士の名をとった「田辺橋」があるが、この放水路に架かる橋は「田辺小橋」と呼ばれている。

4)その他放水口
 緊急用放水口として、白川に流れる「分線方水口」、鴨川に流れる「冷泉放水口」、「仁王門放水口」、「塩之小路放水口」、「三ノ橋放水口」などがあり、また各所に農業用水放水口もあり、その場所にある制水門を開いて放水できるようになっている。

@:伏見新放水路の分岐点

A:扇ダム放水路

B:扇ダム放水路の出口

C:白川放水路

3)琵琶湖・南湖の水環境科学館を訪ねて

1) 矢橋帰帆島公園
 琵琶湖南端部の近江大橋の北側に、近江八景の一つである「矢橋(やばせ)の帰帆(きはん)」として有名な矢橋港跡地がある。場所を現在の地名で示すと草津市矢橋町帰帆となるが、江戸時代では東海道経由京都に上る時に草津から大津に向う近道として矢橋港から舟を利用する旅人が多く、賑わったところであった。
 しかしながら、鉄道の発展とともに廃港となり、活用の道もなく琵琶湖のゴミ処理場として利用するに止まっていた。そのご草津市では、この地区を埋め立てて約半分を流域下水道浄化センターを建設し、残りの半分を市民の憩いの場として、野球場・テニスコート・相撲場・多目的グランド・プール・サイクル広場・芝生広場・子供遊園地などを設置して「矢橋帰帆島公園」と名付けて開園した。
 この公園は島と名付けられているが、その外側(琵琶湖側)を湖岸道路(さざなみ街道)が通っており、公園の入り口は浜街道からの橋を渡って入るので、島という印象はない。広大な緑地が広がっているので、琵琶湖に接した公園とは思えない。


@:公園内部緑地地帯


A:公園内の施設配置図


 休日には500台用の無料駐車場も朝早くから満杯になり、老若男女の憩いの場として利用されている。

2)滋賀県立水環境科学館
 公園に入る矢橋大橋を渡ったすぐ右側に存在する科学館である。7月7日付の京都新聞でも紹介されたので訪ねてみた。
 この科学館は、琵琶湖の水が広く利用されたあと、下水道処理施設で精製されて琵琶湖に戻って行く水の循環過程を科学的に学べる全国でも数少ない施設である。とくに、小学生・中学生に体験学習の場を提供しており、平成5年(1993)に開館してから入場者は約65万人を数える。


B:水環境科学館の入り口


C:科学館正面にある花の塔


 「花の塔」は、水と土と花のつながりを幻想的に表現した噴水で、平成2年(1990)大阪の鶴見緑地公園で開催された「国際花と緑の博覧会」に滋賀県と信楽町が共同出展したもので、花はすべて信楽焼で、約2万枚の陶花で作られている。上の写真は1段目であり、高さは30分間隔で最高7mまで3段階に伸びる。
 また、下水道処理場内部の精巧な模型が作られており,最終固形廃棄物は溶融個化して硝子状のペレットとなり、土木建築資材として再利用される過程が把握できる。
 無料公開されている科学館であるが、大人が見て知識吸収できる目玉が少なく、若干物足りなさを感じた。しかしながら,「矢橋帰帆島公園」全体の施設も追加されつつあり、訪ねる価値は充分にあるスポットと考える。

4)京都の下水道処理場の歴史と藤棚見学

1) 世界の下水道の略史
 もっとも古いと言われているのは、紀元前5,000年頃のメソポタミア時代であるが、この時代以降、下水道の末端は沈殿池に流して最終的には地下に浸透させり、近くの河川に放流していたと推定されている。そのご19世紀に入ってから、都会地を中心にコレラの流行で多数の人が死去し、下水道の必要性が認識され、1856年(安政3年)にロンドンに下水道処理場が建設され、世界各地の主要都市でも下水道が建設されていった。

2) 日本の下水道の歴史
 日本では、昔からし尿を農作物の肥料として活用する習慣があり、便所も汲み取り式であったため下水道の発達が遅れた。しかし、明治10年(1877)にコレラの大流行があり、明治14年(1881)、横浜に下水道が築造され、明治17年(1884)に東京の「神田下水」が造られたが、急速に全国には広がらなかった。
 日本最初の近代工法による下水処理場は、大正11年(1922)に建設された東京の「三河島処理場」で、標準散水ろ床法が採用された。そして、昭和5年(1930)に名古屋の「熱田処理場」では散気式活性汚泥法が初めて採用された。

3) 京都市の下水道の歴史
 京都市でも明治27年(1894)に下水道設置の基礎調査を実施したが、財政上などの理由から実現に結び付かなかった。そして、昭和5年(1930)に失業応急事業として下水道事業に着手したのが始まりである。
 京都市で一番古い下水処理場は「吉祥院処理場」で、昭和9年(1934)に散気式活性汚泥法が採用された。現在下表に示す4ヶ所の処理場が存在している。
  吉祥院 鳥羽 伏見 石田
開始時期 昭和4年 昭和14年 昭和48年 昭和56年
処理能力(m3/D) 7,800 78,000 27,500 20,000
現在能力(m3/D) 114,000 1,047,000 155,000 140,000
敷地面積(m2) 29 496 140 88
処理面積(ha) 587 8,119 1,876  
放流河川 西高瀬川 西高瀬川・桂川 宇治川 山科川

(上下水道局の資料より引用)


 この他に、流域関連公共下水道事業として、洛西浄化センター(桂川右岸・S54年)、洛南浄化センター(木津川・H元年)、京北浄化センタ―(京北町・H17年)の3ヶ所の浄化センターが存在する。
 平成16年(2004)4月に京都市では、水道局と下水道局が統合して上下水道局となり、前表の4つの処理場は「○○水環境保全センター」の名称となっている。

4) 鳥羽水環境保全センターの藤棚見学
 鳥羽センターの敷地面積は約50ha、西日本1位(全国では4位)で、甲子園球場の約13倍の広さを持っている。現在設備を段階的に高度処理方式(硝化・砂ろ過方式、嫌気好気法・砂ろ過方式)の導入を進めている日本を代表する処理場である。
 所在地は南区東九条東山王町であるが、鴨川と桂川が合流する三角地点に存在し、交通的には不便なところにある。鳥羽センターでは、毎年4月下旬に藤棚の一般公開を実施しているが、京都駅裏のAVANTI前からセンターまで往復無料バス(約17分)を運行している。この一般公開は平成12年(2001)から開始されたが、私が初めて一般公開に参加した平成13年は、暖冬と陽気つづきで例年より一週間早い満開で、残念ながら盛りを過ぎた花見となった。新聞報道によると、平成14年は3分咲きであり、今年(平成18年)の2回目の訪問では4月の冷え込みの影響で、一週間早いちらほら咲きであった。


2002年4月27日の藤棚


2006年4月27日の藤棚


 鳥羽センターの藤棚は、写真に示すごとくセンターの東南の角に位置し、緑色に着色した場所にある。


(藤棚の前の説明板を写す)

 緑色の中央部の細長いところに120メートルの藤棚回廊(487m)があり、ノダフジが17本植えられている。回廊の外側に藤棚の休憩ゾーン(411m)があり、ここにもノダフジが17本植えられている。何れも幹径が20cmを越える立派なもので、最盛期には60cmを超える花房が垂れる。


1週間後が期待される藤棚


周辺を飾る満開の紅芝桜


 写真の左手にあるせせらぎ広場にある藤棚(45m)では、早咲きの白いヤマフジが満開であった。

     
(説明板によると白ヤマフジの花房は短いが、手入れが行き届き奇麗であった)


 年に一回の公開であるが、蹴上浄水場の一般公開とともに水の重要性を再認識する機会を与えてくれて感謝したい。藤もツツジも天候に左右される花見であるが,健康であるかぎり毎年訪ねたいと思う。

5)疏水堤防の決壊事件の細部考察
1)まえがき
 この事件は約80年前の昭和5年(1930)1月18日午後零時30分に発生しており、その一部を琵琶湖疏水100年誌(資料−1)から引用して、このホームページで6年前に紹介
(資料−2)しているが、現時点でもこの事件をくわしく報告されているのは(資料−1)のみで、これを頼りに現場を散策しても決壊場所を特定することは難しい現状にあった。
 今回の報告は、関連報告の読み直しと現場の現状の再チェックを実施し、場所を推定してみたものである。この現場に出会って記憶されている人は85歳以上となっており、もしよりくわしい情報に出会えることを期待して本報をまとめたものである。

2)過去の情報の要旨
(資料−1)の514ページに記載されている発生原因の文章を引用すると、……この事故の原因を調べてみると、明治43年(1910)第二疏水の開削当時、湧水の自然流下をはかるため、第一疏水の下を横断する暗渠(山からの谷水用)内の張石を取り外し、底部をさらに掘削して排水溝を設け、同45年(1912)春第二疏水の完成後に排水溝を埋め戻して張石
を復旧していたことがわかった。以来20年間暗渠(谷水が通過)の水が側面内部に漏水して空洞をつくり、これが少しずつ大きくなっていくに従って、疏水の底部との間に土砂が陥没し、ついに運河(第一疏水)の底が暗渠の上に崩れ落ち、その勢いで左岸の土留石垣が破壊され、一気に水が陵墓内に流れ込んだ
……と記載している。
 これによると、最初に建設された「第一疏水」の底を横断する谷水用暗渠があったところで、暗渠より深いレベルに「に第一疏水」と並行して「第二疏水」が建設され、三段構造の水路が集り、長期使用の間に複雑に関係したことが原因と解釈している。
 公式発表として……山科陵墓裏を流れる第一疏水左岸堤防が、その下を横断する暗渠を中心に水路の底から3.8m下のところで、延長9m幅18mにわたって決壊した。水は陵墓内に通じる水路からあふれ出て、付近一帯の民家や田畑約20haを浸した……と報告している。今回の事故は、「第一疏水」の壁面が決壊したのでなく。「第二疏水」と谷川用の暗渠との間の工事後の手仕舞いが原因であったのである。

3)決壊場所における第一疏水と第二疏水の位置関係
 第二疏水は、外見上全部トンネル工事となっているが、山を掘削したトンネルと山と山をつなぐ埋立トンネル(地上から水路を掘ってトンネルの下部のコンクリート工事を実施し、コンクリートの蓋をかぶせて埋め戻す)の組み合わせでできている。
 この工法は(資料−3)に紹介しているが、決壊場所が存在する区間の第二疏水の水路は第四埋立水路(約760m)に位置しており、第7号橋と第8号橋の間の北側散策道にある
第二疏水の制水弁と空気弁の位置(鉄板製蓋)が示すように、ここでは第一疏水と第二疏水がきわめて近接並行して流れていることがわかる。
第二疏水(地下)の制水弁(左)と空気弁(右)の写真、鉄柵の向こうは第一疏水(地上)の流れ

4)陵域に流れる北山からの谷水ルートについて
 天智天皇山科陵の北側境界を示す石柵は、7号橋と8号橋の中間より少し西側から疏水の散歩道に沿って8号橋と9号橋(大岩橋)の中間あたりまで続いているが、この間における北山からの谷水が疏水の下をくぐって陵域に南下しているルートは二ヶ所存在する。
 この2ヶ所には、石柵を加工して領域内に入れる開閉扉(施錠)がついている。この二ヶ所(AとB)について補足説明をすると、
@ ルートA
 石柵の東端から少し西に進んだところに扉が付いており、陵内を覗くと幅1mくらいの水路が傾斜に沿って斜面を南下している。第一疏水の流れの北側には、安全対策の金属製柵で囲まれたゾーンがあり、北山から流れ落ちた谷水が壁石で囲まれた孔に落ちている。

北側にある金属製柵で囲まれたAゾーン 

北山からの谷水の道(ルートA)

@ルートB
 天智天皇陵の石柵にある二つ目の開閉扉は8号橋南端の位置にあり、石柵の柱の間から陵内を覗くと、すぐ左下に谷水を受けるコンクリート製桝と南下するルートを観察することができる。

北側にある金属製柵で囲まれたBゾーン

北山からの谷水の道(ルートB)

5)決壊ルートはAかBか?

 近隣の北山の散策にくわしい岡本幸三さん(10号橋近くの住人)によると、他と比較して谷水の水量が際立って多いのがルートBであり、決壊原因から推定してルートBではないかと推定してくれた。
 現場を観察しても、コンクリート工事が多く見られ、第一疏水の底をくぐる前(8号橋の北側に土砂除去用と思われる角型沈降槽が設置されていた。陵域内の水路手前のコンクリート製角桝をみると、決壊事故後の工事の大きさを想像されるものであった。

8号橋北側にある大きい土砂沈降槽 

陵域内に落ちた谷水の受け入れ桝
 
今回の調査の結論として、昭和5年(1930)に発生した疏水堤防決壊事件の舞台の中心は、8号橋近辺であったとまとめた。              
6)昭和6年(1931)に実施された改修工事
 (資料−1)によると、疏水の決壊直後に留守中の土岐市長に代わって安川助役が市長代理として宮内庁にお詫びのために上京している。当時の第一疏水は完成以来40数年が過ぎて水路の破損が著しく。翌昭和6年(1931)に大規模な修復工事を実施しているが、この中で水路の下を横断する暗渠は、前年起きた決壊事故を教訓に水路橋方式に改め、6号橋(安祥寺橋)と9号橋(大岩橋)付近のものはコンクリート管に変更したと記載(515ページ)されている。また、重箱(四の宮)・諸羽・高野・日ノ岡の船溜りは素掘りのままであったので、底部にコンクリートを打ったと記載されている。
 したがって、前項に示したルートAやルートBのコンクリート工事も、決壊直後の応急工事か翌年の改修工事によるのか区別することはむつかしい。

7)加藤氏の随筆集「疏水のほとりから」での紹介記事
  第9号橋の近くに住まれる加藤玲子氏は随筆集「疏水のほとりから」(資料−4)の中で、“疏水の底が抜けた話”と題した小文を発表している。本を発行したのが平成4年(1991)で、随筆を書かれた日付が前年であり、山科町誌をひもといて調べた話と書かれている。
 その内容は、「琵琶湖疏水の100年誌」(資料−1)と一致しているが、近隣の古老から聞いた話しとして、“事故は大津に急報され、すぐに三井寺下の水門が閉鎖された。現場には警察・消防・青年団が出動して応急修理を実施すると同時に、上流の水門や御陵付近の用水路の水門を開いて排水につとめた。それでも全部の水が引くまでには相当な時間がかかったようで、御陵前の京津電車踏切の付近の水は大人の膝ぐらいの深さでした“と紹介している。
 加藤氏は平成15年(1992)に「続・疏水のほとりから」を刊行(資料−5)を刊行しているが、さすがに随筆家といわれるだけに、疏水まわりでの生活の様子がよく伝わってくる文章である。
 また(資料―1)の117ページに山科・四ノ宮育ちの水道局OBの草川英三氏が証言史として“疏水が天智天皇陵の裏あたりでで、山から暗渠で溝があふれ、決壊したことがある。このとき、三井寺のゲートを閉じてから蹴上の水門が止まるまで2時間かかった”と報告している。その後定期的に補修が重ねられているので、決壊事故は起こっていない。

参考資料
1 資料−1 「琵琶湖疏水の100年」誌・叙述編513〜514・水道局(平成2年発行)
2 資料−2 A−02−03 疏水堤防決壊事件(49話) 平成15年7月20付
3 資料−3 C−01−16 第二疏水の建設工事資料(280話)平成20年4月28日付
4 資料−4 「疏水のほとりから」加藤玲子著 平成4年8月1日発行
5 資料−5 「続・疏水のほとりから」加藤玲子著 平成15年11月10日発行