池泉用水

21)三条・五条大橋の旧橋桁の利用例−1

 三条大橋や五条大橋の旧石造橋桁(円柱など)を庭園庭石などに再利用する例は、本ホームページでもたびたび取り上げてきたが、本ホームページも開設以来約5ケ年を経過し、私自身の投稿数も300件を超えてしまった。旧橋桁の活用例も各所に分散したので、今回は石材の再利用に焦点を当てて、若干の修正を含めてまとめ直して見た。写真や文章などは重複使用している例があるので容赦願いたい。

1)三条大橋の駒札と石柱
 三条大橋の東詰北側に下記写真記述のある駒札が立っていたが、平成14年(2002)秋以降はなぜか無くなっていた。この記述の中に、“磐石の礎は地入ること五尋(約9m)、切石柱六十三本なり”の文があるように土台の石柱は立派なものであったと説明している。

今は存在しない三条大橋の駒札

三条大橋西詰めの北側にある石柱

  
 「京の三名橋(上)三条大橋」という田中緑紅氏の冊子(昭和39年発行)によると、三条大橋の石柱は、高さ10尺(約3m)、径2尺3寸(約70cm)あり、「天正17年7月吉日、津国御影とあり、京都国立博物館構内、豊国神社境内、円山公園その他に保存されている。この橋は洪水で再三損落し、架替のときに橋の寸法が変わっている。(17回の記録明細あり)明治45年(1912)3月に道路拡張のため新たに築造し、同年10月に竣工したが、このとき天正の石柱を全部取り替えた……と記載されている。
 川端通に沿った散歩道(川端雄と鴨川河川敷の間にある)を三条通から少し南に下った川端若松通のあたりに写真に示すような太く長い石柱が転がっている。

円柱石造品の全景と右端部の写真

円柱石造品の左端部の写真

 この位置は三条大橋に近いので、おそらく過去の水害で鴨川に崩れ落ちた橋柱の一部が川底から発見され、引き揚げられたものと想像される。両端に繋ぎ用の凸部が付いているのが確認できる。

2)五条大橋の由来と石柱について
 五条大橋についてはその由来を示す説明板や駒札がないので、多くの冊子の中から藤沢駒次郎氏の「京都千二百年を訪ねて」を参考にしてその歴史をまとめてみると、
 保延年間(1135〜)清水寺が賑わって参詣人が多くなったので、同6年(1140)鴨川の松原通に勧進橋(有料橋)を設け、清水寺が管理にあたった。ところが、貞和5年(1349)に清水寺の主要施設が焼失し、寺家での紛争が続出したので町衆の手で管理が続けられ、その頃からこの橋を「五条橋」と呼ぶようになった。
 時代が経過して天正17年(1589)に豊臣秀吉が、大仏殿建立するに当たって、松原通から現在の五条通(当時六条坊門と呼んでいた)に架け替えたので、これが「五条大橋のはじまり」といわれている。
 この五条大橋もたびたびの水害に逢って架け替えられたが、現在ある橋の欄干の擬宝珠に正保2年(1645)の刻印のあるものが残っている。
 昭和34年(1959)に当時の市長・高山義三が「五条大橋」を改造し、擬宝珠の不足分を追加鋳造しているが、その擬宝珠に改造当時の由来が刻まれている。
  
 豊臣秀吉が築造した五条大橋の石柱と三条大橋の橋桁が「京都国立博物館」の西の庭に展示されている。京都に「帝国京都博物館」が設置されたのは明治30年(1897)であるが、隣接する豊国神社や方広寺ゆかりの石垣や石造品などが庭園に展示されている。

秀吉が築造した五条大橋の石脚

三条大橋の石脚組立品

 上の写真の説明は博物館から見学時に配布された資料にもとづいているが、左の3本組のセットは豊国神社にあったものの移設品であることを確認(社務所で)している。右の写真の組立品は多くの既存資料を参考にして、前回の報告(G−1−5)で五条大橋のものと報告したが、京都国立博物館の資料によると、
    左側写真:五条大橋の石柱…刻銘・津国御影天正十七年五月吉日 
    右側写真:三条大橋の石柱…刻銘・天正十七年津国御影七月吉日
 と記載されているので、修正したい。

       ―本報告につづき、次報で他の例を紹介する予定―

22)三条・五条大橋の旧橋桁の利用例−2

1)五条児童公園の石柱
 明治37年(1904)8月に、岡崎の第四回内国勧業博覧会跡地に岡崎公園が開園したが、その翌年(1905)には、五条大橋の西詰北側に京都市最初の「五条児童公園」が開園している。この公園の南端部には「扇塚」の史跡(昭和39年石碑が建立)が存在し、その裏手に鴨川に沿って南北に伸びる「五条児童公園」が現存しており、写真に示すようにその南東の隅に3本、南西の隅に2本の石柱が建っている。

児童公園の南東隅にある3本の石柱

児童公園の南西隅にある2本の石柱

 これらの石柱は、存在場所からみて。秀吉が築造した五条大橋の橋脚部品であり、公園が完成した明治末期に設置されたものと推定される、この公園の南東部に巨大なエノキ(区民の誇りの木に指定)が枝を四方に伸ばしており、その雄大な姿を五条大橋上から眺めることができる。

2)平安神宮神苑にある石柱
 平安神宮の神苑は、明治・大正にかけて天才的手腕を発揮した庭師・小川治兵衛(植治)が造園したことで知られているが、庭園の庭石として三条大橋・五条大橋の橋脚・橋桁を数多く利用している。淡交社発行の「植治の庭・小川治兵衛の世界」(尼崎博正編)の年表を見ると、

 明治40年(1907)京都市長への申請に対し、五条橋橋柱14ヶの保管を委託される。
 大正03年(1914)京都市長への申請に対し、三条橋橋柱の無償贈与される。

などの記述があり、指定された散策道の中神苑から東神苑にかけて数十個の石柱が池の澤渡り用飛び石とか飾り石などとして利用されている。庭園内の石柱などの駒札には、三条・五条大橋の橋脚や橋桁など五十数個が神苑内に保管(利用?)されていると記載されている。
 代表的な利用例2件の写真を紹介する。

石柱を利用した蒼龍池の臥龍橋

東神苑にある石柱3本の展示品

3)円山公園にある石柱

 円山公園は明治19年(1886)に造成された京都市最古の公園である。当時、西洋の公園では“噴水”が必須の設備であったが、日本では必要な水圧と水量を継続的に確保することが技術的に困難な時代であった。田邊朔郎は、第一疏水の第三トンネルから円山公園までの水位差25mを利用し、1.6kmの距離を鉄管でつないでひょうたん池に噴水を実現させた。この庭園工事を担当したのが小川治兵衛(植治)で、平安神宮の東神苑の造園工事と並行して円山公園にせせらぎの水路を明治44年(1911)に完成させたが、ここでも石柱を沢渡(飛石)と船場に多数採用している。
 今回改めて円山公園を調査した結果、利用された石柱の数は平安神宮に匹敵する数十個に達することが判明した。細部は別報でまとめる予定で、ここでは2枚の写真を紹介する。

弁天池の周辺に飾られた石柱

せせらぎの沢渡しの中央部に利用された石柱

4)岡崎文化ゾーンにある石柱

 平安神宮以外に石柱のある場所が2ヶ所ある。これは国際交流会館の庭園と鴨東運河の夷川舟溜りの南側散歩道である。国際交流会館は、旧市長公舎跡に建てられたもので、時期は不明であるが明治大正期頃(推定)その庭園に蹴上発電所用取水系から疏水の水が引水されている。会館の正面玄関を通り、左手の奥のガラス越しに見える庭園に石柱が1本存在する。
 鴨東運河に沿った散歩道をたどって鴨川に突き当たる道の途中に、煉瓦や石造品で飾られたレトロな休憩ゾーンが存在する。夷川舟溜りにある北垣国道像の南側にあたる。ここに2本の石柱が存在する。

国際交流会館庭園にある石柱

鴨東運河散歩道(夷川舟溜り)にある石柱

 三条大橋や五条大橋の旧橋桁や橋柱は、石造品であり大きいので壊れて消滅することはない。これを庭師であった小川治兵衛が庭園用庭石として活用したので保存され、今回紹介させていただいた。おそらく個人所有の庭園などを含めると、利用例はもっと多いと考えられ、鴨川の下流には未発見の石柱がもっと埋まっているのではないかと想像したい。また、今回説明した石柱で説明板がついているのは平安神宮に数ヶ所あるだけであるので、説明板の数を増やしたい。さらに、コンピューターグラフイック技術などを活用して秀吉が造った三条大橋の構造復元図を作成し、どこかに展示してほしい………と思うこの頃である。

23)円山公園にある円柱形庭石

1)円山公園と平安神宮の庭園について
 本ホームページを開設したのは平成15年(2003)3月7日であり、約2ヶ月後に第36話として「明治時代に造成された円山公園」と題したレポートを投稿しているが、その内容はきわめて貧弱なものであった。そのご5ヶ年を経過したが、淡交社から発行された「植治の庭・小川治兵衛の世界」(尼崎博正編)など多くの解説記事で、平安神宮や円山公園の庭園の造成を受注した七代目小川治兵衛の造園スタイルの知識も少しずつ増え、いくつかの関連レポートを追加してきた。
 上記資料にある小川治兵衛の年表をみると、
    明治44年(1911)…平安神宮・東神苑の工事に着手
    大正02年(1913)…円山公園改良工事着工
    大正03年(1914)…円山公園改良工事完工
    大正05年(1916)…平安神宮・東神苑の工事完成
のようにほぼ同時期に造園作業が進められており、その内容を現場で比較すると、多くの共通点が存在している。今回庭石として利用された三条大橋や五条大橋の橋桁や橋柱に焦点を当てて比較すると、平安神宮の石柱数(50数個)に比較し、円山公園にも少なくとも30個以上の利用(ただし、やや細い石柱も含む)が確認された。本報は円山公園で利用されている円筒状石柱を用途別に紹介したものである。

2)ひょうたん池北側の地上に存在する石柱
 ひょうたん池の北側に東部公園管理事務所の建物があるが、その間にある緑のゾーンに3本組の長い石柱(右側)と3本組の短い石柱(左側)が存在する。

向って左側にある3本の短い石柱

向って右側にある3本の長い石柱

 有名な丸山公園のしだれ桜の北側から東方を眺めると、2組の石柱がバランスよく配置されている。3本組の石柱は平安神宮、五条の児童公園や京都国立博物館にも存在するが、ほぼ同じ高さの長い3本組の石柱が存在するのはここだけである。

3)せせらぎの澤渡り石として利用された石柱
 第二疏水から引水した水は、円山公園の東部からゆるやかな傾斜に沿ってせせらぎの流れとなって西下するが、その途中にある散策路の澤渡り石として石柱が利用されている。

角石の中央部に利用された2ヶの石柱

自然石と組み合わせて利用された3ヶの石柱

 平安神宮の東神苑(栖鳳池)と中神苑(蒼龍池)をつなぐ水路に疏水の水が導入されて、せせらぎの流れが人工的に演出されている。円山公園のせせらぎの流れは類似した雰井気を持っているが、やや野生的ですばらしい。

4)ひょうたん池の舟着き場に利用されている石柱
 ひょうたん池の北面に舟着き場と想像される石組があり、そこに石柱が利用されている。

舟着き場としてセットされた石組例

左の石組みの右側に利用された石柱

 写真にある角柱も三条・五条大橋の橋桁部品ではないかと想像される。

5)ひょうたん池の周辺に飾り石として利用された石柱
 ひょうたん池の中央部に幅広い石橋が架かっており、向って右側に田邊朔郎が設計したという噴水が存在する。池の周辺は低木に遮られ見えない部分もあるが、4〜5ヶ所に石柱の集団が存在する。

―正確でないが、ひょうたん池の水辺周辺には、20〜30ヶの石柱が存在している―

 平安神宮・中神苑の蒼龍池の水辺周辺にも石柱の飾り石が存在している。円山公園をさらに細部調査すれば、石柱の数が増加する可能性がある。平安神宮の石柱については多くの記述が存在するが、円山公園の石柱についての記述が少ないので、詳しく紹介した。

24)京都府立植物園にある石像物(1)

1)まえがき
 植物園を散策するときは、美しい花をつける草木や珍しい植物などに注目して歩くので、途中にある建物・石像・橋・記念碑などに気付かないことが多い。しかし、何回も訪ねていると、水琴窟・水車小屋・半木神社などの存在する道も散策道に入ってくる。ここまできても、存在する石造物の細部まで興味が出て来ない。これは植物園にいるという意識が強いからだと思う。今回は石造物を探すつもりで歩いてみた。
 私は年齢からみて一日一万歩以内と決めているので、24万平方メートルという広い敷地の植物園を歩いて探すには、数回に分ける必要がある。植物園の事務所で相談するのが先という考えもあるが、自分で歩いて探すのが私の主義である。最後に不明な点を絞って事務所に相談しないと本当の質問ができないからである。

2)「つばき園」の散策道で旧三条大橋の橋脚石柱を発見
 北山門から入って右手に「桜品種見本園」があり、その西側に向って「つばき園」が広がっているが、その散策道の途中に短い角石を敷き詰めた橋状の道があり、その入り口の左側と出口の右側に旧三条(または旧四条)大橋の橋脚石柱の一部が置かれている。

つばき園の散歩道にある石柱(入り口左側)

つばき園の散歩道にある石柱(入り口右側)

 地上部の高さは入り口左側の方が高く、いずれも中央部に接続用の凸部が存在している。
 この橋の建設時期や円形石柱の由来については未調査である。天正18年(1590)作であるから約420年経過した加工石である。

3)水琴窟エリアの石造物
 このエリアは、比較的最近整備された場所で、竹垣で囲まれた内部には落ち着いた感じの休憩小屋があり、3基ある灯篭の中央の前に水琴窟が設置されており、円形の伽藍石と幾何学的模様の角石を組み合わせた出口など日本庭園としての配慮がされている。

水琴窟エリアにある六角の休憩小屋

風変わりな灯篭前にある水琴窟セット

由来不明の円筒形石造品と灯篭

近代庭園の路地にみられる渡り石

 各石造品の由来については未調査であるが、散策して疲れたときに竹筒を耳に当てて、音色が楽しめる貴重なコーナーである。

4)水車小屋まわりの石造物
 植物園には水路が縦横に走っており、植物生態園や温室内には小さな滝組がセットされている。水琴窟に隣接する「半木の森」を囲むように池が設置されており、水は二筋の流れで「植物生態園」を南下して「かきつばた園」や「あじさい園」に到っている。また、北山門前には噴水のある池があり、温室前には大きい鏡池があり、温室内にも水路が巡っている。植物園のレベルが疏水分線の流れのレベルより少し高いので、園内に琵琶湖の水を供給することができず、水源は地下水を利用していると聞く。しかし、水車小屋がどのように活用されているのか、園内の水源がどこにあるのか未調査である。すぐ近くを流れる鴨川の水を利用しているかどうかも不明である。周辺を散策すると、水車小屋まわりには水路に架かる人工の石橋と巨大な平面石(坐り石)が存在する。

水車小屋の前にあるアーチ形の石橋

石製の大型坐り石(立ち入り禁止になっている)

 これらの石造品についても未調査である。

5)「あじさい園」の池に架かる円形飛び石
 あじさい園の中央部に存在する池には木製の「八つ橋」が架かっているが、池の西端に4ヶの丸石を用いた飛び石(橋)が存在する。その姿は、平安神宮の中神苑に架かる「臥龍橋」と呼ばれる飛び石によく似ている。

飛び石を縦から眺めた写真

飛び石を側面から眺めた写真

 このような円柱形の花崗岩製切石には、旧三条大橋の石脚石柱を模して造られた模造品が多い。この飛び石が豊臣秀吉時代に造られたものか最近の模造品であるかは、造園された庭師や設計士や注文主などが判断材料として重要と云われている。数回歩いて全体像を把握したいと思っている。

25)泉屋博古館とその庭園の見学

1)有芳園と泉屋博古館
 哲学の道に並行して南北に走る鹿ケ谷通と、東西に走る丸田町通(白川通に突き当たるところが終点)の延長道との交点のエリアには、旧住友財閥の施設が集っている。鹿ケ谷通の東側には、3000坪を越える敷地に七代目小川治兵衛が七年かけて造庭した「有芳園」と住友家の歴史を語る「住友資料館」が存在する。
 ここは、住友家十五代・住友吉左衛門友純の別邸があったところで、琵琶湖疏水の水を利用した治兵衛が大正2年(1913)に作庭した代表的庭園の一つであるが、残念ながら公開されていないし、見学の機会もない。
 この「有芳園」の向い側(交差の東北隅)に「泉屋博古館」が存在する。美術の知識に乏しい私は、この奇妙な名前の建物が中国美術の美術館であることを知らなかった。しかし。鹿ケ谷通に沿って桧林のある庭園が、十一代小川治兵衛の作庭したもので、苔の美しい庭として時々訪ねるようになった。
 この美術館の名前は、「せんおくはくこかん」である。住友の商標は井桁に住の文字であり、井と住で“いずみ”と語呂合わせして、江戸時代には屋号として「泉屋」を用いていた。また約千年前の中国宋代に編集された青銅器図録「博古図録」から「泉屋博古館」と名付けた。別名「住友コレクション」と呼ばれるように、旧住友財閥住友家の美術コレクションを展示する目的で、昭和35年(1960)に設立された。
 ここには十五代目住友吉左衛門(1864〜1926)が収集した中国古式青銅器類と、その長男の住友寛一(1896〜1956)が収集した書画が中心に展示されている。
 住友家は、洋式銅精錬法と別子銅山を起点として大財閥となったので、中国に焦点を当てて青銅機器や書画を集めたといわれているが、常設展示場にある中国の青銅機器は、今から数千年前に製作されたものがあり、完備された施設に飾られた機器を見て、人類の歴史のすばらしさに言葉を失い、しばし動けなかった。
 常設の第一室には楽器類、第二室には酒器類、第三室には食器類、第四室には鏡類と、文化の流れとともに利用法が変化する数千年レベルが一見できる場所は、美術の知識の有無を越えて“すばらしい”の一語に尽きる感がした。

2)青銅の歴史について
 青銅とは銅とスズの合金である。銅は人類が最初に多用した金属といわれているが、融点が高く加工が困難であった。銅の融点を下げる手段としてスズとの合金が発見され、硬度も増加することから、広く世界で利用されるようになった。
 資料によると、もっとも早いのはメソポタミア(前4000〜3000)、スズ鉱石の産出しないエジプト(前2000)、印度(前2500)、中国の殷(商)代(前2000)であり、鉄が出現するまで続いた。考古学では材料の活用面から、石器時代、青銅器時代、鉄の時代と分類している。日本への伝来は、弥生時代(前500〜後300)に中国を源流として朝鮮半島から伝来したと伝えられる。以上は繋ぎ合わせの情報にもとづく精度のわるい記述であるが、泉屋博古館に提示されている殷(商)周時代の青銅器の古さがよく理解できる。

3)泉屋博古館の展示概要
 昭和35年(1960)に建設された泉屋博古館は、写真に示すごとく、近代的な建造物である。

     南側の入り口から見た全景

東側に二つの出入り口がある庭園

 建物は、手前の一号館と奥の二号館があり、一号館には前述の常設展示場があり、二号館では「仏の形・心の姿―東アジアの仏教美術―」と題して国宝・重文を含む46点が展示されていた。
 平成14年(2002)には、東京六本木に「泉屋博古館分館」が開設され、主として茶道具・能関係品・近代の陶磁器などの工芸品、日本やヨーロッパの近代絵画が展示されている。
 京都には、他の旧財閥系の美術館が多く存在し、とくに岡崎や疏水分線沿いに集っている。「泉屋博古館」の開館期間は、3月中旬〜6月・9月〜12月中旬・月曜休館(祝日は除く)と年間の半分は休館しており、臨時休館もあるので、訪問する前に確認したほうが良い。(TEL:075−771−6411、HP:http://www.sen-oku.or.jp

4)庭園の概要
 前述のように、この庭園は第十一代・小川治兵衛の作庭と言われているが、単なる近代庭園ではなく中国唐様庭園とも言われており、比較的狭い敷地にあるが、全体感がしっかりしている庭園である。しかも開館時には自由に見学できるので嬉しい場所である。庭園全体が桧の樹林となっており、その中を巡る白沙の小路が見事に映えている。

07−05−23に写した庭園風景

08−10−19に写した庭園風景

 私が感心したのは、道を縁取る杉苔が見事に管理されており、自由見学できる庭園として散策する人のマナーがよいのか観光客が少ないのかわからないが、心休まる庭園である。

白沙の散策道や小川を縁取る杉苔

庭園に飾られた石造品

 右上の写真は、庭園に飾られた石造品で、石臼の下部と円筒石柱である。この円筒石柱はトップが手水用に浅くくり貫かれており、外見上は、旧三条大橋の石柱を活用したものに見える。ご存知の方が居られたら教えてほしい。

26)京都府庁・旧本館の庭園見学

 京都府庁・旧本館の中庭にある枝垂れ桜を見学する観櫻会は、一昨年春から開催されているが、今年は秋の一般公開があり、「京都新世代いけばな展2008」が同時開催された。
 今回は、配布された資料を参考にして、旧本館の庭園(中庭および前庭)に焦点を当てて調査結果を報告する。

1)七代目小川治兵衛が作庭した旧本館庭園
 旧本館は、明治34年(1901)11月に起工し、37年(1904)12月に竣工しているが、小川治兵衛の年賦(尼崎博正編の「植治の庭・小川治兵衛」より引用)によると、治兵衛による府庁の作庭は明治38年1月9日に完成と記載されている。
 この時期は、日露戦争(明治37年2月〜38年9月)の開戦前後にあたり、巨額の戦費を必要とした時に、建設費36萬余円の豪華な府庁の建設が実行されたことは驚くべき事実である。小川治兵衛が、山縣有朋の指導で作庭した無鄰菴の洋館で、日露開戦への方針が決められたのも明治36年4月21日である。この旧本館は、明治中期における日本人建築家による本格的西洋建築で、現役の官公庁舎建築の最古のものとして、平成16年(2004)12月に国の重要文化財に指定されている。

 小川治兵衛が府庁旧本館の作庭を行った時期は40歳半ばの充実した期間で、三条・五条大橋の旧橋柱を多用した平安神宮の中神苑・西神苑の作庭を実施していた時期と重なっている。そして旧本館の中庭の西南隅に3本の橋柱を景石として飾っている。

旧本館中庭の西南隅にある3本の石柱

頂面にある凸部が中心線よりずれている石柱

 3本の石柱のうち2本には、由来を示す文字が刻まれており、一番低い石柱の頂面にある凸部の位置と径が、通常と異なっている。
 近くに立っている説明板の全文を紹介すると、

 平成16年度の京都府公報によると、中庭は西欧型の整形式庭園(対称形の造園計画)で、庭内に3本の枝垂れ桜を含む19種類58本の中高木、7種類62株と密植114m2の低木の植栽がなされ、かつての五条大橋の橋脚もある・・・と記載されている。

2)中庭の中央円形部にある枝垂れ桜
 四角形の中庭のセンター部に紅枝垂れ桜が存在する。府庁の配布資料によると、「この桜について、「桜守」として知られる造園家の16代佐野藤右衛門によると、氏の父である先代とともに昭和30年代に円山公園の枝垂れ桜の実生木(種から育った木)を植えたもので、円山公園の初代枝垂れ桜の孫になる・・・と記載されている。

07−04−05に2階窓から撮った写真

08−10−29に地上で撮った写真

 円山公園にある掲示板によると、公園の初代の桜は、根回り約4m、高さ12m、樹齢200年余りもあり、昭和13年(1938)に天然記念物に指定されたが、昭和22年(1947)に枯死してしまった。15代佐野藤右衛門が、昭和初年に初代の桜から種子を採って育てたのが現在の二代目である。この桜の正式名は「一重白彼岸枝垂桜」で、もっとも寿命の長い桜といわれており、三代目といえる府庁・旧本館の桜も長期間その姿を留めるものと期待されている。

3)前庭の中央にあるビャクシンの老木
 京都府庁・旧本館と正門の

にある前庭の中央部に、ビャクシンの木が植えられている。
 この木は上京区の「区民の誇りの木」に選定されているが、荒々しく幹を捻じ曲げて、異様な姿の木である。


旧本館の正庁の正面に植えられたビャクシン

正庁側から見たビャクシンの全景

 正面に京都府の名で由来を示す説明板が立っている。


 上京区の資料によると、この木のサイズは高さ4.8m、枝張6.2m、幹周1.3mである。この木は、四国・九州・朝鮮半島・中国大陸にかけて分布しており、とくに有名なのは沼津市大瀬崎の「ビャクシン樹林」である。海岸線沿いに130本が群生しており、昭和7年(1932)に国の天然記念物に指定されている。樹齢1000年以上の老木もあるそうで、府庁前に移植されたのは“長寿の木”の意味合いがあったと思うが、“樹の成長が少なく建物を隠す心配がない樹木である”ことも景観上大きいと考えられる。

27)岡崎の洛翠庭園の見学記

1)かっぱ研究会主催の講演会・見学会に出席
 3月8日「かっぱ研究会」主催の「京の水文化を語る座談会(植治さんと洛翠庭園を歩いてみませんか)」に声をかけていただき、楽しい時間を過ごすことができた。私が洛翠庭園を最初に訪問したのは平成15年(2003)7月で、7代目植治が作庭した庭園を50年ぶりに11代植治が修復復元して公開されたときであった。当時植治が作庭した庭園として公開されていたのは無鄰菴・平安神宮・円山公園・並河靖之記念館などの公的庭園のみで評判を呼び、2日間に1,000人の見学者が押しかけ、私もその一人として見学させていただいた。修復が完了した同年12月には、3日間の特別無料公開が行われている。
 平成15年(2003)といえば「第3回世界水フオーラム」の開催年であり、洛翠庭園の初公開の年であるとともに、「かっぱ研究会」の発足年であることを知った。同時に私が「琵琶湖疏水の散歩道」という冊子を発行し、「琵琶湖疏水を語る部屋」という名のホームページを開設したのもこの年であった。水フオーラムのときの活躍された京都精華大学教授の嘉田由紀子氏は、現在滋賀県知事として水問題に取り組んでおられる。あれから5年余経過した今回の行事に、懐かしい気持で参加することができた。

2)講演会・庭園見学会の概要
 私の庭師に対するイメージは、自宅の小さい庭の剪定に時々やってきた伝統にこだわる庭師であり、TVなどに登場する庭師も、弟子をきびしく指導する頑固親父であった。今回お会いした11代植治の略歴について、冊子などである程度の予備知識を持っていたが、低姿勢の中に強い信念を秘めた人で、「植治の庭」の基本的理念を約40分説明され、そのあとの見学会や食事会を通じて、質問に対する返答に理念のブレは全く無かった。
 洛翠庭園の概要については、私のホームページ(E−01−07・03−07−07付)で紹介しているので、今回の講演や質疑応答で印象深かった事項や興味を覚えた事項に若干の補足を加えて紹介する。

(@)琵琶湖の形の池を持つ七代目植治の庭園
 11代植治の過去の講演議事録によると、7代植治は琵琶湖の形をした池を持つ3つの庭園を作庭している。最初は明治42年(1909)に作庭した洛翠庭園、次は明治44年(1911)に着手した平安神宮の東神苑の栖鳳池、最後は同じころに着手した清風荘庭園である。庭園の完成時期は追加や手直し作業で明記することが困難だし、洛翠庭園は藤田小太郎邸として知られていたが、今回の11代植治の講演によると、平成15年(2003)に半世紀ぶりに、植治の手で庭園復元を実施したときまで、琵琶湖の形の池が存在するという記録が残っていなかったと聞いて驚いた。清風荘については公開されることが少なく、まだ見学していないし、栖鳳池は面積が広く高所から見ることができないので比較できないが、洛の庭を回ってみると琵琶湖の名所を示す事物を多く備えていた。

講演会でいただいた洛翠池の全景 

洛翠庭園の琵琶湖疏水の導入口
 今回の説明で、洛翠庭園の池の流れは疏水分線の支流のようなものであると聞いたが、尼崎博正氏の「南禅寺界隈疏水園池群水系統図」によると、疏水分線の扇ダムから直接導入し、蹴上の手前で白川に放流されている。平成16年(2004)6月の鯉ヘルペスで池の鯉を全部処分したが2匹が残っているとか、外来魚対策など苦労話を伺った。

(A)施主の藤田小太郎について
 藤田小太郎(1863〜1913)は、関西の藤田財閥の創始者である藤田伝三郎(1841〜1912)の甥にあたり、琵琶湖の水運業の責任者であるので、施主の好みに併せて琵琶湖を庭園の主題に取り入れた。
 藤田伝三郎は長州・萩の出身で、幕末には高杉晋作が創設した奇兵隊に参加し、仲間の伊藤博文・山縣有朋・井上馨など長州族の活躍で政商の地位を確立し、建設・土木・鉱山・運輸・電力・金融・紡績・新聞など幅広い分野の経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた人物であるが、京都では明治13年(1880)竣工の逢坂山トンネルの施工を担当し、琵琶湖疏水工事に当っても、トンネルの難工事を大阪の藤田組・東京の大倉組・地元の岡野組が協力のもとで成功に導いた。また、藤田組は琵琶湖周辺の鉄道工事や水運事業でも活躍している。
 伝三郎は庭園趣味も造詣が深く、京都では角倉了以の邸宅(第二無鄰菴)の所有者であり、東京では山縣有朋から椿山荘を譲り受け、箱根の有名な小湧園の所有者でもあった。
 伝三郎には3人の男児がいたが、長男の平太郎(1869〜1940)、次男の徳次郎(1880〜1935)、甥の小太郎らが事業を引き継いだと考えられるが、洛翠庭園の造営(1909)に当っては、造園に詳しい伝三郎の指導があったと考えても不思議はない。大阪にも邸宅跡が公園になり、藤田美術館には親子3人で集めた美術品が展示公開されている。

(B)庭園修復の苦労ばなし
 植治流の庭園様式は、自然のままの庭を尊重し、自然の生命力に満ちあふれた明るい庭を造ることであり、建設当時の姿に復元することではないと説明された。私は建設時に成長の早い杉は桧を植えたから東山の借景が見えなくなったと考えたが、背景の山の樹木も成長し、庭園周辺の環境も住宅密集地となった現在、成長した樹木が近隣との遮蔽効果もあると感じた。また庭園は低い位置から眺めることが重要と芝生に横になって見学したが、
そこに新しい庭園の姿が発見できた。

空は見上げるものでなく池面で見るもの

池の前にあった高い垣根を剪定して見易くした
(W)石臼を活用した飛び石
 平安神宮や円山公園の造園時、7代植治は旧三条・五条大橋の石柱を多く活用したが、洛翠庭園では古い石臼を活用した。

石臼の上に立って観る景色は抜群とか

池にかかる飛石として石臼を活用
 私達昭和初めの世代では家に石臼があり、戦時中食糧難のときに活用した思い出がある。
                 
(X)無鄰菴の話題
 11代植治がある講演会で示された「植治の考え方」として、庭というものは庭師の作品でなく施主のものであり、施主の趣味を反映し、施主に喜んでいただけるように作庭するものである。施主の決めた予算枠で、施主になり代わって作庭する力量をもとめられている。これはすばらしい表現だと思っている。
 また、7代植治が施主の山縣有朋から無鄰菴の作庭を任されたとき、山縣公から具体的に三つの注文があったと11代植治の著書「植治の庭を歩いてみませんか」に紹介されている。
@ 季節によって干上がる心配のない琵琶湖疏水の生きた水を使うこと
A 庭園の樹木として樅・杉・桧など自然の山に存在している木を主役にすること
B 自然で明るい空間を造るため芝生ゾーンを設けること
 この条件は洛翠庭園にも生かされている。

(Y)琵琶湖を示す多くの工夫
 洛翠庭園の池には、多くの工夫がなされている。瀬田の唐橋を模した沢渡り石があり、その隣に四国の青石を渡した近江大橋がある。少し離れて手彫りの一枚岩の琵琶湖大橋がある。作庭したときには琵琶湖大橋は無かったので、将来を予測したのではないか?
 琵琶湖の北部にあたる場所に、今から250年前に中国から移築された「画仙堂」があり、その前に長浜港を摸した石組みがあり、対岸の今津港の石組みがある。池の中央部に竹生島を摸した岩が存在し、100年来の赤松が育っている。
 前項で紹介した臼石を活用した橋が琵琶湖の北湖の中央部に架かっているが、この橋は平安神宮の中神苑の蒼龍池に架かる臥龍橋に相当するもので、画仙堂の屋根にある鳳凰と併せて「臥龍鳳雛」の故事に因んでいると解説されている。7代植治は琵琶湖の地図がなかったので、伊能忠敬が作成した地図を活用したとか、道路沿いにある「不明門(あけずのもん)」は伏見城から移築したもので、賓客用の出入口であったとか話題が尽きない庭園である。

(Z)名庭残る「洛翠」閉館のニュース
 今回訪問した1週間後の京都新聞報道で、「洛翠」は5月10日に閉館すると発表された。所有者である日本郵政共済組合(東京)は、昭和33年(1958)に職員の保養施設として購入し、昭和62年(1987)には地元企業「洛翠」に委託し、一般宿泊可能な施設として活用してきたが、利用率の低下などを理由に公社から閉鎖の通知があったようである。
 売却先は未定と報道されているが、庭園の維持と今後の公開について継続される方向での解決をこころから望みたい。

28)京都御苑内にある旧石柱の利用例

 京都市内に存在する旧石柱使用例について
 本ホームページに下記10件の報告を実施している。
 旧三条・五条大橋の石柱は、七代目小川治兵衛が近代庭園の庭石として活用しており、近代庭園には琵琶湖疏水の水が多く利用されたので調査の対象としてきたが、予想される石柱の数からみれば、個人的庭園など未調査の利用例が多いと思う。今回は京都御苑で見つけた2例を紹介する。

1)京都御苑の旧九条邸跡での利用例
 地下鉄「丸田町駅」の1番出口から丸田町通を少し東に進むと、京都御苑の「間ノ町口」があり、入ったすぐ右手に九条邸跡がある。京都御苑に存在した公家屋敷跡の面影を残す施設として有名な場所であり、この九条家の庭園は無料公開されているので御苑散策のコースとしていつも訪ねてきたが、勾玉状の形をしている九条池に架かる高倉橋は、最近改装されて美しい姿になった。
 高倉橋の橋桁は円柱状の石柱であり、旧三条大橋や五条大橋の石柱の姿を想像しながらその姿を眺めてきたが、最近になって8組ある橋脚石柱の外見が微妙に異なり、建設時に集めた石柱の転用品ではないかと思うようになった。
 そして、ネット検索の結果、高倉橋改修工事の詳細を記録した論文を見出し、これが旧三条・五条大橋の橋脚の転用品であることが判明した。

九条池に架かる高倉橋の石柱

九条池に延びる藤棚
 京都営繕事務所・技術課・北川秀三氏の「伝統技術の継承と現代技術の融合(京都御苑・高倉橋改修工事での事例)」報告に、高倉橋の歴史として次の記述がある。
…高倉橋は、九条家の茶室別邸として利用されていた拾翠亭の前方に広がる九条池の中央に架かっている。明治15年(1882年)当時御所の周囲に空家として残っていた公家の屋敷を取壊して苑池に整備された際に、京都御所の建礼門から南へ真っ直ぐ丸太町通りに通す行幸道路が計画されて、この橋が架けられることになった。
 建設当時に用いられた橋脚は、以前に鴨川に架けられた三条大橋および五条大橋の石の
橋脚を転用しており、天正17年(1589年)に豊臣秀吉が建設していて400年以上が経過している。昭和34年(1959年)に、床板、欄干及び擬宝珠を更新する大規模な改修が行われていて、この時に床板が木製から鉄筋コンクリートに変更された。現在の高倉橋は反橋で、全長42.6m、幅3.2mある…
      (橋の歴史を記述した興味ある資料なので、全文を引用させていただいた)
 
 この報告によると、古くから伝わる伝統手法を伝承した実績ある大工が、現代の技術を積極的に採用して改修されており、このような公共事業がこれらの伝統技術の継承を支えているという記述に重みを感じた。このように、古い石柱橋脚を新しい橋脚に再利用された事例は初めてであるが、他にも事例の有無を調べたいと思っている。

2)京都御苑にある京都迎賓館にも石柱が
 京都迎賓館はまだ見学する機会がないが、京都新聞の平成17年(2005)9月25日付けの記事と写真によると、正面玄関の回廊から見える池の中に細長い石(瀬戸内海塩田の堰石)と円柱型の石(旧五条大橋の橋脚)があり、池底に敷き詰められた小石は、迎賓館の建設にあたって掘削された土の中に混じっていたもので、鴨川が氾濫を繰り返していた昔に堆積した石を利用したと解説されていた。ぜひ見学したいと思っている。

29)高瀬川の水を引いた廣誠院と庭園見学記
 
1)まえがき
廣誠院は、京都市の平成16年度の指定文化財(建物)・名勝(庭園)に認定された施設で通常非公開であるが、今回特別公開に招待され「京都の文化財を守る会」ボランティアによる誘導案内で見学する機会を得た。場所は高瀬川の源流に近い「一之入町」にあり、薩摩出身の実業家で、数奇屋風の建物と造庭に詳しい伊集院兼常氏の住宅であったので、約1時間かけて十分に楽しむことができた。
 我々琵琶湖疏水の愛好家にとっても伊集院兼常の名はよく知られており、とくに山縣有朋と小川治兵衛との交流に興味があったので、庭園分野に焦点を当てて考察してみた。
2)伊集院・山縣・小川の造園活動について
 この3人は、明治初期に高瀬川源流地区と蹴上・南禅寺地区で複雑に交流し、特徴ある造庭作業をおこなっている。精度はよくないが活動経過を概略表示すると、
上表を補足説明すると、
@ 高瀬川源流地点を含めて、すべての庭園が琵琶湖疏水建設完了後に作庭されている。
                  
A 山縣が庭園付き角倉別邸を明治24年7月に購入して第二無鄰菴としたが、僅か1年4ヶ月で三野村利助に売却している。伊集院は山縣が売却した数ヶ月後の明治25年11月に、近接した廣誠院土地を購入して建物と庭園を造成している。
B 伊集院は廣誠院の整備後まもなく南禅寺の敷地内の土地を購入して明治27年に對龍山荘を造営し、明治29年に廣誠院を下郷伝平に売却している。一方、山縣は第二無鄰菴
を売却後蹴上に土地を購入して第三無鄰菴の建設に入り、小川治兵衛に作庭を手伝わせ、明治29年末に工事を完了させたと記録されている。また對龍山荘と第三無鄰菴の立地はきわめて近接している。
C 伊集院は明治29年に完成した對龍山荘を明治31年末清水喜三郎に売却し、そのご市田彌一郎の所有になってから、明治35年から明治38年末にかけて小川治兵衛の手で庭園を拡大改装している。
D 日本建築学界の九州学会講演集(1998年9月)の矢ヶ崎善太郎氏の報告(9199)に伊集院兼常の人物像が紹介されているが、多くの建築を担当しているなかで、自分の住居も11ヶ所つくり、大抵3〜4年で他の土地に移っていると記載している。山縣も住居建設は、東京椿山荘(明治10年)、大磯小淘荘(明治20年)、第二・第三無鄰菴、小田原古希庵(明治42年)、東京新椿山荘(大正6年)と多い。しかし、第三無鄰菴は死去するまで京都別邸として保持された。
E 3人の登場人物は、伊集院兼常(1836〜1909、74歳で死去)、山縣有朋(1838〜1922、
83歳で死去)、小川治兵衛(1860〜1931、74歳で死去)とほぼ同世代を生き抜いた人といえる。治兵衛の最初に手がけた庭園は隣家の並河家の庭園であるが、これの完成が明治27年11月であるから、着工は明治26年はじめ(記録はない)と推定できる。
第三無鄰菴・對龍山荘・並河家庭園の3庭園と小川治兵衛の家の立地は徒歩の距離にあり、相互交流はかなり早かった可能性もある。
F 伊集院は東京で、宮内省・海軍省・工務省の営繕局長を務めたあと日本土木会社(のちの大成建設)の社長となっており、権勢の中枢にいた山縣有朋とも建築・造庭の趣味を通じ、東京時代から親しい関係にあったと推定できる。

3)廣誠院庭園と小川治兵衛の造庭技術の比較
 今回廣誠院庭園を初めて見学し、多くの共通点を見出して驚いた。七代目小川治兵衛は、生前に造庭技術の師として、山縣有朋と伊集院兼常の名を挙げているが、治兵衛への影響は伊集院の方が多いと感じた。写真による説明ができないので、項目別に比較すると、
@ 鴨川から引水した人工の高瀬川源流にある角倉家庭園を買収した山縣有朋や、そのすぐあと廣誠院庭園敷地を買収した伊集院兼常は、琵琶湖疏水から引水した蹴上南禅寺地区での造庭構想(夢)があったのではないかと想定される。少なくとも建設すぐあとに、より広大な庭園を求めて新構想の具体化に進んだと推定できる。
A 廣誠院庭園を見学して、小川治兵衛の庭と共通点が多いと感じた。多くの石造品の中に加工石の利用が多かった。たとえば、旧三条(または五条)大橋の石柱を加工した手水鉢があり、寺院の礎石を庭園の飛石に利用しており、楕円型の石臼や漬物石が無造作に置かれており、池の中央に架かる細長い花崗岩製の橋や個性的な石灯篭なども目立ち、琵琶湖疏水の舟便で輸送されたと思われる守山石の配置などを見て、小川治兵衛は伊集院兼常から多くの技術を学んだと想像した。
B 小川治兵衛は、第三無鄰菴の作庭で山縣有朋から芝生を活用する洋式庭園を学び、せせらぎの演出を経験して技術の幅を広げていった。伊集院・山縣・小川の3人に関する当時の記録があまり残っていないが、琵琶湖疏水が完成した翌年の明治24年頃から交流があったような気がした。
C 数奇屋造りの茶室見学の機会が少ない私にとって、その細部の説明は驚きの連続であった。伊集院は裏千家の茶をたしなみ、建築と作庭の両方に造詣の深い人が設計した廣誠院を、機会があれば再訪したいと思っている。

いただいたパンフレットの末尾に記載されている専門家の表現を借りると、
   “庭造りの系譜においては、近世から近代への途上に位置する庭園といえます。  この庭園は建物と水流が融和する近代の黎明期に造られた庭園として貴重です“

30)旧三条・五条大橋の橋脚石柱の利用例集約
 
末尾に記載したごとくホームページ内に掲題の関連した報告が多くなり、別件で集約する必要ができたので、その要旨をとりまとめたのが本報告である。

1)京都府庁の旧本館庭園

小川治兵衛の年表(植治の庭・小川治兵衛)によると、この庭園は明治38年1月完成と記載されており、旧本館の完成時期(明治37年12月)と一致する。3本の石柱の中央には天正17年5月吉日と刻まれており、明治10年の五条大橋の改修で余った石柱を持ってきたと説明板に記載されている。
2)蹴上の国際交流会館庭園

 国際交流会館の建物は、旧市長公社跡に建てられたもので、その時期は明治大正期ではないかと想像される。会館の正面玄関を通り、左手奥のガラス越しに見える庭園にも三条・五条大橋の旧石柱が一本たっている。 国際交流会館庭園にも疏水の水が蹴上から引水されている。
3)鴨東運河の夷川舟溜り前

 鴨東運河の夷川舟溜りに北垣国道像が立っているが、その南面にある散歩道(そすいの小道)に石造品を集めたコーナーがあり、そこに2本の石柱が立っている。写真の奥に見える赤煉瓦の建物は、夷川発電所である。このコーナーには、疏水第4トンネルの南口洞門の頭部(第二疏水工事で撤去されたものと推定)も置かれている。
4)平安神宮神苑にある石柱群

小川治兵衛が神苑の作庭を受注したのが明治26年の34歳のときであり、完成したのが大正5年の57歳である。この間に、五条大橋(大部分)・三条大橋(一部分)の石柱をフルに利用している。この中でとくに有名なのが、写真に示す蒼龍池の渡り石である。治兵衛は全部で五十数個の石柱を確保したとも伝えられる。
5)円山公園に利用された石柱群

 第二疏水から引水された“せせらぎの流れ”は、円山公園を下って瓢箪池に達するが、植治の年表によると、大正2〜3年に作庭されており、多くの石柱が利用されている。
瓢箪池の北側の広場にある3本組の石柱を写真(長い石柱の3本組は珍しい)に示したが、全部で30個くらいの石柱が園内に利用されている。
6)京都国立博物館にある石脚組立品

博物館の西の庭に五条大橋の石柱3本組と三条大橋の石脚組立品(写真に示したもの)が展示されている。石柱3本組は隣接する豊国神社から移設したものである。
五条大橋の石柱には津国御影天正十七年五月吉日、三条大橋の石柱にも天正十七年七月吉日と刻印されており、石材は摂津の国(神戸)から運ばれたものである。
7)三条大橋西詰片側にある石柱

 三条大橋の駒札にその由来が記されているが、豊臣秀吉の命により奉行益田長盛が天正十八年(1590)に大改造し、磐石の礎は地に入ること五尋(約9m)、切石柱六十三本と記されている。
 写真の石柱には天正十七年と刻まれている。
狭い場所にあり、放置自転車に囲まれているので、気付かない人が多い。
8)三条通川端下るの散歩道にある石柱

鴨川べりにある川端通に並行した散歩道に転がって置いてある太長い石柱であり、止め石で固定されている。三条大橋から近い位置に存在しているので、知られた存在である。
 おそらく、三条大橋に近い鴨川の底から引き揚げられたものと推定されるが、手で触れる最大の石柱である。
9)五条大橋西詰の児童公園にある石柱

明治38年(1905)に京都市最初の「五条児童公園」が開園し、その南寄りに三本セット(
写真)と二本セットの石柱が展示されている。
おそらく五条大橋の旧石柱と考えられるが、この公園の南端に史跡として有名な「扇塚」があり、東南部にある巨大なエノキ(区民誇りの木で、写真の背景に見える)が四方に枝を伸ばしている。
10)京都府立植物園にある石柱

北山門から入ると、右手に「桜品種見本園」があり、その西側に「つばき園」が広がっているが、その散策道の途中に四角の石を敷き詰めた橋状の道があり、入り口の左側と出口の右側に写真のような石柱が存在する。その由来は不明であるが大橋の石柱を利用している。「あじさい園」の池にも丸石の飛石があるが、やや小さいので違うようである。
11)泉屋博古館庭園にある石柱

 鹿ケ谷通と丸田町通の終点あたりには住友財閥の施設が集っているが、中国の美術品を展示した泉屋博古館に十一代小川治兵衛が作庭した美しい庭園が道路沿いに展開している。その一角に石柱を加工した円筒形の石造物(写真)が展示されている。
 美術館は住友家が集めたものを展示しており、青銅の時代が楽しめる。
12)京都御苑・九条池の高倉橋

 丸太町通の間ノ町口から御苑に入ると右手に九条邸跡があり、勾玉状の形の九条池に高倉橋が架かっている。
 この橋の橋脚8組に、旧三条・五条大橋の石柱が利用されていることが記録されている。旧橋脚が他の橋脚として再利用された例は珍しい。
13)高瀬川から引水した廣誠院庭園にある手水鉢

 この庭園は、薩摩藩出身の実業家・伊集院兼常が明治25〜26年ころ作庭したもので、その内容は琵琶湖疏水から引水した南禅寺界隈の別荘庭園群の先駆けであったと注目されている。この庭園にある手水鉢(写真)は、旧三条・五条大橋の石柱を加工して造られており、正面に“天正”の文字が確認できる。
14)京都御苑内にある迎賓館にある石柱
  京都迎賓館はまだ見学する機会がないが、京都新聞(17年9月25日付)の記事と写真をみると、正面玄関の回廊から見える池に円筒形の石柱(旧五条大橋の橋脚と説明)1本が存在するのを確認した。できるだけ早い時期に見学したいと願っている。
15)本ホームページ内の関連報告一覧表
 今回の報告は、14件の実用例について代表写真と要旨を紹介したものであり、詳細については下記報告を参照してほしい。また、利用例の調査は続けていきたい。