池泉用水

11)小川治兵衛と平安神宮

 本ホームページで平安神宮に関する記事をすでに下記2回取り上げている。
  〜利用〜―@―5) 疏水の水でうるおう平安神宮(2003.5.31記)
  〜利用〜―@―8) 三条大橋の橋桁石柱が近代庭園の石材に(2003.11.16記)
平安神宮は疏水マニアにとって格好の位置にあり、見学の頻度も多く関連する解説書を読む機会も多いので、その間に集めた情報を改めて取り上げた次第である。

1) 小川治兵衛の年表の中から平安神宮の項を抜粋
 京都芸術短期大学の尼崎博正副学長(現)が編集された「植治の庭・小川治兵衛の世界」と題した豪華本に、七代目小川治兵衛(植治)の詳細な年表があるが、この中から平安神宮に関する項を抜粋(一部縮小または追加)して次表に取りまとめた。
明治26年
(1893)
34歳 平安神宮神苑の作庭を受注し、作業開始
(この項は筆者が追加)
明治28年
(1895)
36歳 白虎池を中心とする西神苑と蒼龍池を中心とする中神苑の作庭が七分通り出来あがる。
明治30年
(1897)
38歳 西神苑と中神苑をつなぐ流れが竣工する。
明治40年
(1907)
48歳 平安神宮が京都市長宛に「石柱・庭石等の払い下げ願い」を提出。
五条大橋の橋桁・橋柱など14個の保管を委託される。
明治44年
(1911)
52歳 平安神宮が京都府に三条大橋の石材の払い下げ願いを提出し、無償贈与される。この時期に東神苑の作庭に着手する。
翌45年に尚美館(貴賓館)を建築中。
大正5年
(1916)
57歳 平安神宮の東神苑完成。(旧京都市美術館跡地に造る)

 上表に示すように植治は34歳から57歳に至る24年にわたり平安神宮の作庭にかかわっており、この壮大な庭園は植治の執念が篭った作品であると言える。なお、見学入口にある南神苑と東神苑の橋殿の南側は後年に作庭されたもので植治の作ではない。

2) 小野建吉氏の考察を読んで
 平安神宮の神苑など作庭の研究については、文化庁・主任文化財調査官の小野建吉氏が第一人者で、昭和50年代の後半から60年代にかけて対外発表をつづけられ、最近の京都新聞(04‐06‐03)でも平安神宮神苑の石材利用について報告している。

 小野氏の報告や解析の中からいくつかのポイントを紹介すると、

イ) 神苑の設計当初から平安神宮の社殿が周辺の民家の火災による延焼を避ける防災緑地の役割が考慮されていた。
ロ) 遷都1100年記念(明治28年)に創建された平安神宮の建設予算は厳しい環境(日清戦争の最中)の中で本殿の建設が中心となり、神苑の予算枠は少なかった。植治は伏見城まわりに散在していた庭石や三条・五条大橋の改修に伴う石材などの活用で予算の節約に努めた。これにより植治の作庭の風格が高まった。
ハ) 明治末期から大正初期にかけて造園された東神苑に必要な石材には滋賀県守山地区の石を使用し、琵琶湖疏水の舟運を利用して運んだ。
ニ) 植治は平安神宮神苑の作庭にとりかかったのは、山縣有朋の別邸「無鄰菴」の作庭に関与しはじめた明治26年(1893)であり、第一期とも言われる中神苑と西神苑が完成したのが明治28年頃と言われている。この時期については正確な記録が残っていないが、同時期に帝室博物館(京都国立博物館)の作庭も受注しており、京都の庭師として注目されていた一人であった。(この項の文責は筆者)
ホ) 神苑全体が東山を借景して造園されたが、100年余を経過して樹木が伸びて散策道から東山を望めるところは無くなった。しかし周辺に迫った高層ビルや自動車などの騒音をさえぎる役目を果たしている。

 数年来修復のためカバーされていた尚美館(貴賓館)もその姿(写真@)を現わし、また汚れと褪色の目立った平安神宮の赤い大鳥居の修復(写真A)も始まった。また最近の報道では琵琶湖で発生しているコイヘルペス病が疏水の流れに乗って岡崎地区の池泉のコイに伝染し始めて話題になっている。平安神宮神苑のコイへの影響が心配されている。

@:修復新装なった尚美館

A:修復が始まった大鳥居

 今回は、小野氏の解説に沿って臥龍橋の石材の現場での確認と、神苑全体に利用されている石材に注目して歩いて見た。
 蒼龍池の臥龍橋には五条大橋の橋桁(角材3ケ)が利用されており、やや小型のものが臥龍橋の入り口に1ケ(写真B)、出口に2ケ(写真C)を配置し、その間に14ケの橋柱(円筒形・写真D)があるが、その大部分が五条大橋、一部が三条大橋の橋柱を利用している。これ以外に蒼龍池には十数ケの橋柱(写真E)が使用されている。

B:臥龍橋の入口部の1ケの橋桁

C:臥龍橋出口部にある2ケの橋桁

D:両橋桁を結ぶ14ケの円筒形橋柱

E:蒼龍池の各所に配置される橋柱

 また神苑内のベンチにも橋桁らしい石材(写真F、G)が利用されている。

F:橋桁を利用したベンチ(?)

G:橋桁を利用したベンチ(?)

12)小川治兵衛の庭のデザイン感覚について
1)まえがき
 このテーマについては多くの庭園研究家が解説しており、私がとくに新しく取り上げる材料を持っているわけでもないが、庭園の専門的知識の少ない琵琶湖疏水愛好家が疏水の水を引いた庭園を観賞するときの参考にしていただく目的で取りまとめてみた。
 現在疏水の水を引いている庭園は岡崎地区を中心に数十ヶ所存在する。この中には古来から伝承された庭園に疏水の水を引いているところもあるが、ここで紹介する小川治兵衛の近代庭園は、新しく造成されたところに新しい感覚で庭園をつくっているケースが多い。
 従来の日本庭園には永年伝承された約束事が多くあり、その範囲を大きく越えない造園方式が採用され、改良を試みた庭師として14世紀前半の「夢想国師」や17世紀前半の「小堀遠州」が挙げられ、第三の改革者として明治・大正・昭和にかけて活躍した「小川治兵衛」が登場したのである。その斬新さを味わう具体的方法について紹介する。

2)まず全体像を把握する
 まず庭園に入る前に疏水の水の取水口がどの辺にあり、出口がどこかを確認する。わからない時は中に入ってから確認する。そして取水口から出口に向かって流れに沿って歩いてみる。時々見学者コースが逆行していることもある。そして受付の管理人に疏水の話か外来魚の話をすると、その庭園独自の情報を聞けることもある。
 小川治兵衛は従来の箱庭的な感覚で設計していない。周辺とか背景とか地形などを考慮しており、細部見学する前に全体像を頭に入れると良い。

3)水の流れに"せせらぎ"の音を演出している
 治兵衛は"水の魔術師"と呼ばれているが、庭園の浅い流れの一部に小さい栗石と拳大の石を敷き詰めて、静かな雰囲気の中に"せせらぎ"の音が出るように流れの傾斜を設定している。疏水の水の導入口を少し高くして二段または三段の滝口から水を落とし、木陰の間からゆるやかに止まることなく屈曲して流れる様子は山奥にいる感覚を持たせてくれる。このような贅沢さは豊富な疏水の水があってこそ味わえるもので、治兵衛の庭には存在する技の一つとなっている。

4)苔の代わりに芝生を導入
 日本庭園には苔があちこちに植えられているが、その中を歩くことができず外から眺めて楽しむものでありその維持管理が大変である。昔の庭園は少ない人数の客をもてなす場として飛び石を伝って苔で飾られた斜面の道を歩いて楽しんでいた。
 ところが、明治に入ってから大庭園を所有できる実業家や政治家には大勢の来客をもてなす場所が必要であった。治兵衛は西欧で広く利用されている芝生を採用して広い場所を靴のまま利用できる園遊会場とした。もちろん苔も採用しているが、おそらく外遊の経験の多い山縣有朋らのアドバイスがあったものと推定される。

5)多彩な樹木の採用
 従来庭園に採用される樹木の種類は限定されていたが、治兵衛は近くの山に自生している樹木を積極的に採用した。赤松・黒松・椎・杉・桧・樫・柊・樅などの木も採用された。同じ木の群生の手法も得意技の一つであり、奥深い林の雰囲気を導入した。また木の実を求めて集まる小鳥のサエズリも設計の手段となった。
 これは、庭園が狭い敷地の中で独立して存在するのを避け、近隣の東山の風景との連続性を考え、自然とのつながりを重視した設計を行なった。そして周囲を囲む塀などは樹木の影に隠した。治兵衛の設計した庭園は作庭して以来100年前後経過したものが多く、樹木も成長して東山の借景を遮るようになり、庭園の再整備の時期が来たようである。

6)石造品に加工石を積極的に採用
 庭園の石といえば、自然石の形や色を愛でるのが普通であったが、治兵衛は人工的に加工された石材を庭石に多く採用している。とくに有名なのは平安神宮の蒼龍池に架かる飛び石に三条大橋の橋脚や橋桁を利用しており、本ホームページ(〜利用〜―@―11)小川治兵衛と平安神宮)でも紹介している。その他にもいろいろな加工石がさりげなく利用されている。

@:平安神宮の飛び石

A:洛翠庭園の飛び石

 治兵衛は大量に使用する石材の調達にも経済性を考慮し、できるだけ近在の産地の石を利用している。琵琶湖疏水の舟運を利用して守山石を運んだり、山陰本線の稼動後は山陰地方の石を採用し、靴脱ぎ石には特徴ある鞍馬石を用い、古い寺の伽藍石を探したと言う。

7)残された建物や茶室をうまく活用
 新造成地に作庭する場合のデザインは注文主の希望をふまえて庭師がデザインするが、すでに誰かが作庭した古い庭を近代庭園に変える注文もある。この場合注文主の希望で残してほしい物件があるケースもある。私の印象として、治兵衛は古い物件を近代庭園の中にうまく取り入れる名人のような気がする。
 一般に古い庭園には必ず茶室があり、露地と称する坪庭が存在する。治兵衛の場合これを樹木林の中に隠して近代庭園を歩いていくと自然に露地の中に引き入れられる。新しいものの中に古いものを巧く配置して全体の調和をうまく計っている。

8)建屋と庭園との考え方
 通常は建屋が主で予算枠も建屋が多くを取り、庭園は残りの予算という考えであるが、治兵衛は庭園があってその一角に建屋があるという考えを持っていた。また、建屋から庭園に降りる沓脱石(くつぬぎいし)にも工夫を凝らし、手水鉢にも水が涌き出る「流れ蹲踞(つくばい)」を採用した例がある。部屋から眺める庭の主要部分にはとくに工夫し、石が目立たぬよう捨石や伏石を配置し、池や川筋の護岸には"崩れ石積み"の手法を採用している。

9)あとがき
 治兵衛の近代庭園の評判は次第に日本中に高まり、京都以外に東京・大阪・滋賀などの有名な庭園を手がけている。初代の小川治兵衛(1751〜1763)は苗字帯刀を許された造園家で、今回紹介したのが七代目小川治兵衛(1860〜1933)で日本各地の名勝および文化財指定庭園を手がけた。琵琶湖疏水を利用した近代庭園は七代目と八代目小川治兵衛(1882〜1926)が作庭し、現在は京都市立美術大学出身の十一代目が活躍している。

 南禅寺には日本三名人と言われる造園師が作庭した庭園が揃って存在する。「夢想国師」の南禅院には疏水の水がポンプアップして利用されている。「小堀遠州」の金地院庭園にも疏水の水が引かれており、「七代目小川治兵衛」が作庭した光雲寺庭園にも疏水の水が引かれている。七代目が最初に作庭した並河邸宅も死直前まで作庭した葵殿庭園も公開されている。この岡崎・蹴上地区には色々な楽しみ方がある。

13)疏水の水を引く東山南禅寺界隈の施設

 蹴上舟溜・南禅寺舟溜・疏水分線・扇ダムの水路から疏水の水を引いて庭園に利用していると推定される施設のリストを作成し、個々の施設の関連情報を集約してみた。今後とも新情報を追加して充実して行きたい。

1)南禅寺およびその塔頭(たっちゅう)関係
 南禅寺は、琵琶湖疏水の分線ルートとして境内の土地の一部(水路閣など)を提供したので、疏水の水を利用する権利を持っている。したがって南禅寺およびその塔頭の大部分の庭園に疏水の水が利用されている。そして高い位置にある塔頭で使用された水はより低地にある塔頭に送られて再利用しており、敷地内での水の流れは正確には把握し難い。一部推定を含めてその施設をまとめて見た。

イ) 南禅院・・・疏水分線にもっとも近い位置にある塔頭である。夢想国師の作と伝えられる 池泉回遊式庭園(京都の三名勝史跡庭園)がある。疏水分線のレベルより高い位置にあるので、疏水の水をポンプアップして池に導入している。
 ここには亀山法皇離宮址が存在するので、トンネルコースを避けて水路閣コースを採用した。池から出た水は下方にある塔頭(正因庵)に導かれている。
(公開寺院) 

ロ) 天授庵・・・三門に向かって右側に正因庵と天授庵の二つの塔頭があり、正因庵で利用された疏水の水は隣接する天授庵に導入される。本堂前庭は枯山水庭園で、書院南庭は紅葉が美しい池泉回遊式庭園がある、池から出た水は下方にある塔頭(真乗院)に導かれている。天授庵には細川幽斎や横井小楠の墓がある。
(公開寺院)
 
ハ) 真乗院・・・天授庵の下方の少し離れた位置にあり、天授庵の池から出た水は真乗院に導かれている。表に山名宗全の墓の存在を示した石柱がある。ここから出る水は、南禅院・正因庵・天授庵の3ケ所の庭園にある池を経由しており、扇ダム放水路に導かれている。
(非公開寺院)

ニ) 智水庵・・・ネジリマンポをくぐって南禅寺に向かう道で、左側に最初にある庭園であり、その立地から見て元南禅寺塔頭跡地の一つで、その後第三者の手に移ったと推定した。
 元横山隆興氏(北陸の鉱山王)の別邸で小川冶兵衛氏の作庭とか聞いたことがある。蹴上舟溜から疏水の水を引いており、池から出た水は塔頭(金地院)に導かれている。
(非公開庭園)
ホ) 金地院・・・南禅寺最大の塔頭といわれ、徳川家光時代の南禅寺の住職「以心崇伝」が5 年がかりで小堀遠州に造らせた"鶴亀の庭"の池には琵琶湖由来の外来魚ブルーギルがすんでいると受け付けのおばさんが教えてくれた。崇伝は徳川家康の参謀として活躍し、南禅寺の威光を高めた。
(公開寺院)

ヘ) 大寧軒・・・南禅寺の元塔頭(大寧院)跡にあり、聚洸苑とか環翠荘とか呼ばれた時期もある。明治末期に茶人・藪之内紹如の作庭による池泉庭園があり、疏水の水が導入されている。2004年に開催された「京都・庭園見学―岡崎」のイベントの中で初めて公開された庭園で、この池の水は近接した塔頭(南陽院)に導かれている。
(通常非公開)

ト) 何有荘・・・南禅寺の元塔頭跡にあり、実業家故稲畑勝太郎時代は和楽庵と呼称されていた。その後川東商事の所有となったが現在の所有者はわからない。場所はネジリマンポから南禅寺に向かう道の途中にあり、上記大寧軒の向かい側にあたる。
 今年100年ぶりに公開されており、広大な庭園が蹴上疏水公園に隣接しているという立地条件を生かして30mあるという疏水の水を活用した滝の雄大さを誇っている。
 南禅寺側では、本体と無関係であると張り紙しており、何有荘側のパンフレットにも明確な説明がない。立派な庭園であり、もし問題があるなら早く解決して公開を続けてほしい。
(今年春から公開中)

チ) 南陽院・・・金地院の正面にある塔頭で、比較的新しい建物である。時々イベントの会場に利用されていることもあるが通常は非公開である。南陽院を出た水は、真乗院からの水と合流して扇ダム放水路に導かれる。
(通常非公開)

リ) 旧帰雲院(現龍淵閣)・帰雲院・・・今回説明材料を持っていないが、南禅寺北門の外に位置しており、南禅寺本堂から引水している。
 北門の手前に湯豆腐で有名な聴松院(公開)があり庭園の池に疏水の水を引いており、正面にある牧護庵(非公開)には子供の石像が沢山あり、疏水の水が引かれている。また寺域外にある塔頭の光雲寺庭園(小川冶兵衛作)にも疏水分線経由で水が引かれている。最後になったが南禅寺本体にも疏水の水は連結されている。

2)個人所有の庭園関係
イ)對龍山荘・・・金地院と西側で接している東山地区における代表的な近代庭園の一つである。この山荘は薩摩出身の実業家・伊集院兼常氏が造営した屋敷であったが、明治35年に京都の実業家・市田弥一郎の所有となった。その後小川冶兵衛の手で疏水の水を引いた近代庭園に改造したが、公開されることは無かった。
 現在市田から不動産投資運用会社の手に移り、平成13年秋に期間限定で公開されたが、その後非公開のまま現在に至っている。
 水の流れは何有荘から南陽院に流れるルートから疏水の水を導入しており、蹴上放水路から南禅寺舟溜に排出されている。
(非公開庭園)

ロ)洛翠・・・明治時代に琵琶湖海運や関西の鉄道事業で成功した故藤田伝三郎氏の別邸であり、1,700坪の敷地内の庭園は明治42年に小川冶兵衛によって作庭されたものである。池の形が琵琶湖を模しており、琵琶湖由来の事物があって面白い。左隣が織寶苑であり、現在宿泊可能な京料理の店として活躍している。
(有料公開庭園)

ハ)織寶苑・・・この庭園は明治42年に滋賀県出身の実業家・塚本与三次の邸宅「福地庵」としてスタートし、大正14年(1925)に三菱財閥の創設者・岩崎小弥太の別宅「巨陶庵」となり、その後敷地が2分され、戦後進駐軍に一時的に接収され、昭和23年(1948)に龍村美術織物の迎賓館となり、現在にいたっている。庭園は小川冶兵衛の長男・白陽の作で、平成15年(2003)以来春と秋に開放されている。
(有料公開庭園)
ニ)清流亭・・・元塚本邸野の西半分が織寶苑であるが、東半分が清流亭となり、長浜町(当時)出身の実業家・下郷伝平の別邸となった。通常は非公開庭園であり、時々イベントの会場として利用されている模様である。
通常非公開庭園)

ホ)真々庵・・・元染谷寛治氏の別邸(聚遠亭)であったが、松下幸之助のPHP研究の場として活用されるようになった。真々庵の名は真実真理を探求する道場であることと、シンシンと静かであることの意味を重ねて幸之助が命名した。小川冶兵衛の庭園であり、現在松下電器の迎賓施設となっている。疏水の水は扇ダムから取水され扇ダム放水路に排出されている。
(通常非公開庭園)

ヘ)碧雲荘・・・野村美術館に隣接して存在する近代日本庭園の代表とも言える存在である。
 もと南禅寺の塔頭跡地7,000坪の場所に作庭家として知られる野村財閥の野村得庵(徳七)が小川冶兵衛と長男・白陽の手を借りて大正6年(1917)から10年かけて造った庭園である。疏水の水は扇ダムから取水され、扇ダム放水路に排出されている。
(通常非公開庭園)

ト)怡園(いえん)・・・もと南禅寺の塔頭であった少林院の跡地であり、不動産業の塚本与三次、道具商の春海敏の所有を経て昭和2年(1927)ころから昭和7年にかけて細川護立の別邸として小川冶兵衛が作庭したものである。疏水の水は扇ダムから清流亭に送られる配管の途中から引水し、使用後は白川に放流されている。
(通常非公開庭園)

チ)和輪庵・・・疏水分線から直接引水している。元藤原達弥氏の別邸であったが、現在は京セラの迎賓館となっている。住友春翠氏の鹿ケ谷別邸として知られる有芳園も疏水分線から引水し、使用後両者とも桜谷川経由白川に放流されている。
(通常非公開)            

リ)菊水・・・インクラインの南禅寺側に沿ってある料亭・旅館で、もと呉服商・寺村助右衛門の別邸であった。となりの八千代も料亭・旅館で、両者とも小川冶兵衛の作庭した庭園を持っている。
(利用者に公開)

ヌ)白河院庭園・・・庭園は動物園裏の法勝寺跡にある。最初は呉服商の下村忠兵衛氏が土地を所有し、武田五一の設計した建物と小川冶兵衛の作庭した庭園が造られたが、昭和58年に日本私学振興・共済事業団に所有権が移った。庭園の水は桜谷川からの引水との説もあり、疏水系でないかも知れない。現在宿泊所として一般にも利用されており、昼食だけでも可能である。
(利用者に公開)
3)公的機関で利用されている疏水の水
イ)平安神宮の神苑
 小川冶兵衛が明治26年(1893)から大正5年(1916)まで二十数年かけて、冶兵衛の年齢から見ると34歳から57歳までかけて造成した延べ3万平方メートルの4つ池には疏水の水で満たされている。このような大きい水の空間が岡崎公園の中に存在することは驚きであり、小さい琵琶湖と呼ばれる理由もよくわかる。この水のルート「岡崎動物園」や「市立美術館」や「国際交流会館」にある池にもつながっている。

ロ)独立して供給されているルート
 「東本願寺」が防火用水として蹴上舟溜から本願寺の費用で引いた配管は「本願寺水道」と呼ばれ、現在でも利用されている。東本願寺の庭園として有名な「渉成園」にある印月池や本願寺周辺を取り巻く堀には疏水の水が導入されている。
 京都御所の防火用に引いた配管も「御所水道」と呼ばれていたが、施設の老朽化により現在は使用されていない。
 丸山公園は明治19年に造成された京都市最古の公園であるが、明治26年に疏水の水を利用した噴水が瓢箪池に取り付けられ、明治43年には小川冶兵衛の手で本格的な池泉回遊式庭園が完成し現在に至っている。
 故山形有朋の別邸として知られる「無鄰菴」の庭園も小川冶兵衛の初期の作品であり、庭園で使用された疏水の水は隣接する高級料亭「瓢亭」の庭に引かれている。
 「並河靖之七宝記念館」の庭園は小川冶兵衛が疏水の水を利用した最初の作品(明治27年)として知られており、「ウエスチン都ホテル京都」にある「葵殿庭園」は小川冶兵衛の最晩年の作(昭和8年)で、疏水の水をポンプアップして落差15mの"雲井の滝"を演出している。

4)細部未調査の施設
 疏水の水を利用している施設として細部未調査の施設を示すと、
永観堂庭園、八島邸(旧中井居然亭)、有楽荘、旧小堀邸(元久原庄三郎邸)、環水園(旧原弥兵衛邸)、旧外村定次郎邸、旧横山別邸、つる屋、上田邸、宝庵、NHK寮などがある。

14)「無鄰菴」と「何有荘」の両庭園を見学して
 「近代京都の礎を観る会」主催の秋の記念行事として「疏水の水を利用した岡崎近辺の近代庭園の散策会を11月23日に実施し、掲題の両庭園の見学を行いその解説を担当した。
 明治時代に成功した人達の最大の贅沢は、庭園付き別荘を保有することと言われたが、政治の世界でトップに立った山県有朋と若くして実業界で財を掴んだ稲畑勝太郎が、岡崎・蹴上の地にほぼ同時期に持った庭園を比較すると、その個性が覗われて面白い。おもな特徴を比較表示したのが下表である。
項目 無鄰菴 何有荘
立地 南禅寺の南西地区に広がるゆるやかな傾斜地にあり、約1,000坪。左京区南禅寺草川町に所在。 南禅寺山の険しい傾斜面にあり、蹴上疏水公園に隣接。約6,000坪。左京区南禅寺福地町に所在。
所有者 明治の元勲・山県有朋の庭園。昭和16年に京都市に寄贈。元丹後屋という湯豆腐屋の敷地。 染料輸入業の成功で財をなした稲畑勝太郎の庭園。稲畑の死後、宝酒造・大宮氏を経て宗教法人の所有。元南禅寺の塔頭のあった敷地。
使用目的 京都を訪ねた時に使用する別荘。静かな雰囲気を楽しみ、限られた友人との交流の場として使用。 京都から大阪に活動の場を移したあとも、ここを住居として使用。実業界の雄として園遊会開催の場として活用。
作庭時期 小川冶兵衛が明治26〜29年にかけて作庭。山県自らの設計監督による。冶兵衛の近代庭園の最も初期の作品。 小川冶兵衛の明治28年作庭の記録が残っている。下の平面の池泉回遊式庭園は、南禅寺塔頭時代の古いもの?で上部と傾斜面を寺兵衛が作庭と想像。
庭の特徴 東山連峰を借景として疏水の水を川の流れとして活用。古来からの日本庭園の常識を無視し、豊富な疏水の水でせせらぎの音を演出。多彩な樹木を採用。苔の一部を芝生に変える。煉瓦建ての土蔵を建造。
土蔵の1階は小川冶兵衛の記念室となっており、略歴と代表的庭園の写真と開設がある。2階に豪華な洋室があり、日露戦争開戦前に要人が集まって秘密戦略会議を開いた場所として有名。
住宅として使用していたので、本道の裏に非公開の洋館がついている。私は春と秋の2回の見学をしたが、パンフレットの説明も不充分であり、過去の文献・資料も少ない。
発電所の取水池から引水しており、30mの落差を持つ瑞龍の滝(他に龍吟の滝、連珠の滝がある)が雄大である。斜面の上部にある草堂から見下ろす眺望がすばらしい。巡回路の一部がトンネル構造になっているのが珍しい。

 何有荘については本ホームページの〜利用〜―@―9) 疏水の水を引いた「何有荘庭園」見学で春の見学記を紹介しているので、ここでは秋の紅葉の写真を紹介する。

@:何有荘の疏水公園側の入口

A:高所にある草堂から見た眺望

B:庭園の歩道から見た紅葉風景

C:茶室『龍吟庵』まわりの紅葉

 散策会に使用した説明資料(地図は省略)を以下に添付した。

近代京都の礎を観る会主催                                       04−11−23

         無鄰菴庭園見学会説明資料

1)立地…南禅寺草川町(昔の南禅寺境内)に位置する。南禅寺の参道。
     南禅寺草川公園横に「南禅寺惣門」…疏水工事前は今の南禅寺橋横。
     瓢亭・ぎんもんど南禅寺・国際交流会館に隣接。何れも治平衛の庭。
     無鄰菴の敷地に丹後屋という湯豆腐屋あり。

2)面積…約1,000坪(3,100平方メートル) 何有荘の約6分の1.
  
3)名前…無鄰菴か無隣庵か?…疏水か疎水か?に似ている。
     無鄰菴入り口の駒札と石柱に注意。
     第1無鄰菴…長州吉田(今の下関)の清水山麓(現存しない)
     第2無鄰菴…京都・木屋町二条の角倉家の別邸(明治24〜25年作庭)
     第3無鄰菴…市が保有していた南禅寺敷地(明治27〜29年作庭)
  山県有朋は椿山荘(東京・明治10年)、小淘荘(大磯・明治20年),古希庵
  (小田原・明治42年)、新椿山荘(東京・大正6年)など邸宅造成が趣味。

4)見学のポイント
イ)小川冶兵衛の近代庭園の初期作品(山県有朋の作庭指導で)
  35〜37才の頃、同時期に平安神宮の神苑作庭に取り組む。
ロ)疏水の導入口…醍醐寺三宝院庭園の滝石組を参考に3段の滝
  東山の奥から落ちる滝と自然の渓流を思わせる。
ハ)東山を借景にした緩やかな傾斜地を利用した"せせらぎ"の音の演出。
  浅い流れにコブシ大の石と小石を組み合わせて動きを強調。
ニ)西洋庭園の特徴を生かして、苔(こけ)の代わりに芝生を。
  眺める庭から楽しむ庭へ。山県にとっては休養の場。
ホ)古来の日本庭園には使用しない多彩な樹木を採用。自然の樹林を描く。
  杉・樅・檜のような大木からナンテン・ヒイラギ・ボケなどの小木まで。
  常緑樹の間に落葉樹の組み合わせ。
へ)建物は庭を鑑賞するためのもので、質素なもの。…山県有朋の考え方。
  他の近代庭園には数奇屋風の建物を持つものもある。
ト)醍醐寺三宝院の庭園用に豊臣秀吉が切り出せなかった大石を山県自らが現地に行き導入。
チ)明治天皇が京都御所の松の若木を下賜。明治34年に成長した姿を写真に撮って捧げたら、
  天皇から歌が贈られた。
  "おくりにし若木の松が茂りあひて老の千歳の友とならなむ"
  これに対し山県は返歌を贈っている。
  "みめぐみの深きみどりの松かげに老も忘れて千代や経なまし"
リ)煉瓦造りの2階建て(明治31年建立)
 1階に「小川冶兵衛の記念室」あり。代表的庭園として
  ・ 碧雲荘…野村得庵(徳七)が10年かけて大正12年に作庭.
  ・ 清水家十牛庵…清水吉次郎、昭和3年完成。
  ・ 織寶苑…塚本与三次→岩崎小弥太→龍村美術織物。
  ・ 対龍山荘…伊集院兼常→市田弥一郎→不動産運用会社所有。
  ・ 丸山公園…明治19年の日本最初の公園。明治43年に冶兵衛が作庭。
  ・ 平安神宮神苑…明治26年から大正5年まで20余年かけて作庭。
  ・ 無鄰菴…本庭園。

 2階:日露戦争を始める前の外交方針を決めた「無鄰菴会議」で有名な洋室。
  明治36年、当時の政府首脳が集まって外交方針を決めた。
    山県有朋(長州藩)…前々総理(2回総理)
    伊藤博文(長州藩)…前総理 (3回総理)
    桂 太郎(長州藩)…現総理 (3回総理)
    小村寿太郎(飫肥藩)…外務大臣(のちのポーツマス条約の全権大使)
  討議内容は、連合艦隊の充実・外国から戦費調達・ロシアでの諜報活動等。
  当時のロシアの国家予算は、日本の10倍。

近代京都の礎を観る会主催                                       04−11−23

        何有荘(かいうそう)庭園見学会説明資料

1)立地…三条通から「ねじりまんぽ」をくぐって南禅寺に向う参道の左側には、蹴上浄水場の排水処理施設(旧蹴上プール跡)、智水庵庭園(薩摩冶兵衛・非公開)、大寧軒庭園(通常非公開)とつづいて金地院に至るが、右側には蹴上疏水公園への昇り道と発電所に向う導水管の隣から金地院前にある南陽院に至る広大な傾斜敷地に「何有荘庭園」が広がっている。(右図参照)

2)面積
…古い史料には4,800坪と紹介されているが、見学用パンフレットでは6,000坪となっている。南禅寺山の傾斜面を利用している。

3)所有者の履歴
…南禅寺の塔頭「正因庵」住職が明治初期に敷地を売却したと伝えられ、 最初の所有者は染織分野で財を成した稲畑勝太郎で、「和楽庵」と称し、昭和24年に死去したあと昭和28年に宝酒造の大宮庫吉の所有となり、「何有荘」と名付けられた。
 その後の経過は不明であるが、現在「大日山法華経寺(幸福寺)」所有となっている。

4)作庭者
…稲畑が植冶(七代目小川冶兵衛)に注文したのが明治28年と云われており、植冶37才の初期作品である。大正にかけて改造・修復の記録あり。

5)見学のポイント

イ)稲畑は明治初期15才で京都府派遣の留学生として8年間フランスに留学し、その後も数回渡歐しているので西洋庭園の知識はあったと思うが、山県有朋のように植冶に作庭の注文をつけた印象は少ない。
ロ)想像であるが、稲畑が敷地を購入した時は古い下部庭園だけであり、疏水が完成して明治28年に植冶に作庭を依頼したのは、主として上部庭園(芝生広場を中心)と瑞龍の滝のデザインが中心であったと思う。
ハ)植冶の庭で傾斜地に作庭したのは、何有荘庭園と晩年の葵殿庭園の二つであり、他の平地庭園にない特徴をもっている。
ニ)通常出入口は1ケ所であるが、何有荘には表門(下部)と裏門(上部)がある。約30mの高低があり、両方が見学者の出入口となっている。庭園見学が目的の場合裏口から入り表門に出る方が楽である。
ホ)何有荘庭園に関する報告は極めて少なく、見学用資料の説明もわかりにくい。100年振りの一般公開で、今後の調査研究に期待したい。

15)「何有荘」と稲畑勝太郎
 このホームページで、「何有荘」の登場は3回目であるが、今回、稲畑勝太郎翁喜寿記念伝記刊行会が昭和13年(1924)10月に刊行した「稲畑勝太郎君伝」を読んだところ、「何有荘」の前身である「和楽庵」を手に入れた年月が私の推定と異なっていることがわかり、したがって私のこれまでの推論を訂正する必要がでてきた。つつしんでお詫びを申し上げたい。以下訂正内容を列記する。

イ) 稲畑勝太郎邸の和楽庵の庭園を小川冶兵衛が作庭したのが明治28年(1985)、と記載した冶兵衛の年表があり、私はこれにもとづいて考察をしてきたが、稲畑氏の年表を見ると、彼が京都織物(株)を退職して明治23年京都市に夫婦2人で稲畑商店を開業し、やっと商売が軌道に乗った時期で、大庭園を購入できる資産はどうしたか?と疑問に思っていた。
今回の伝記を読むと、和楽庵は明治初年に某氏の手にわたりその邸宅となったが、明治38年(1905)稲畑氏の手に移り、新たに隣地を購入して庭園を広げ、建て増しをして5,000余坪の面積になった。それから、稲畑勝太郎の死後昭和28年(1953)、宝酒造の大宮庫吉の所有となって和楽庵の名称を「何有荘」と変更し、最近宗教法人の手に移っている。

ロ) 小川冶兵衛が昭和28年に作庭した時は,稲畑氏以前の所有者であり、その時点で「和楽庵」の“瑞龍の滝”は存在していたが、滝の名称はついていなかった。稲畑氏の所有となって、大正末期に西園寺公望公が和楽庵を訪れたとき、滝の名付け親を依頼し、最初の名前が“和楽の瀑布”であったが、“瑞龍の滝”に変更したという。
また、山県有朋の「無鄰菴」が近いので、着流しの姿で散歩の途中に稲畑は山県を尋ねて歓談したと伝記に紹介されている。

ハ) 稲畑氏は、活動基地を大阪に移したあとも「和楽庵」を住居として活用し、同時に商社活動の中で来日する諸外国の要人を自宅に招いて接待し、和楽庵は外国要人の巡礼の一名所となるに至った。このように、稲畑氏は民間外交家として華麗な活動をし、伝記には諸外国から贈られた数多い勲章の写真で飾られている。
稲畑氏が山県のように造園の趣味があったという証拠は見当たらないが、和楽庵の造園に投資を惜しまなかったと想像される。とくにトンネルを掘って疏水公園に出る道を造ったのは稲畑氏ではなかろうか?別項で紹介した「関西日仏学館」を歩いて10分くらいの九条山に立地させたのは、稲畑氏の力が大きかったなどこれから調査をしたい。
稲畑氏は日仏交流に大きい貢献をしており、これからも私のホームページに登場するので、彼の略歴(現時点で判明している分)を次頁に添付した。



                 稲畑勝太郎氏の年表
 
1. 文久02年(1862)  京都の著名な和菓子屋「亀屋」の長男として生れる
2. 明治09年(1976)  府下小学校の優秀生として師範学校第1期生に選抜される
3. 明治10年(1977)  16才で京都府フランス留学生に選抜され留学
 染料技術の習得とともに、工業学校で染色、リヨン大学で化学を習
 得、地元の染工場で3年間徒弟として実習、各地の染織工業を視察
4. 明治18年(1885)  8年余のフランス留学を経て帰国、京都府御用掛を命じられる
 京都染工講習所開設に尽力、開設後講師となる
5. 明治19年(1886)  2年間、宮内庁から皇居御造営業務を担当
6. 明治20年(1887)  26才で2回目の渡仏
7. 明治23年(1890)  京都織物会社の設立に尽力、同社の染色技術長となる
 同年意見の違いで解職される 同年京都市に稲畑商店を設立
 夫婦2人の門出、合成染料の直輸入貿易を開始
8. 明治28年(1895)  モスリン紡績会社を設立,監査役→取締役→社長
 第四回内国勧業博覧会の審査員
9.明治29年(1896)  モスリン研究のため3回目の渡欧、39才
 医薬品をフランスから初輸入
10.明治30年(1897)   本店を京都から大阪に移す
 稲畑染工場を設立、
 フランスよりシネマトグラフを輸入、映画興行を本邦初の実施
11.明治33年(1900)  陸軍のカーキ色染の研究
12.明治36年(1903)  第五回内国勧業博覧会の審査員、42才
13.明治38年(1905)  業容が拡大し、染工場を合資会社とする
14.明治42年(1909)  日仏協会の京都支部および大阪支部の理事を嘱託
15.大正3年 (1914)  日仏協会の評議員を嘱託、53才
16.大正7年 (1918)  稲畑商店を株式会社稲畑商店とし、社長に就任
17.大正11年(1922)  大阪商工会議所会頭に就任
18.大正14年(1924)  貴族院議員となる
19.昭和元年 (1926)  フランス大使と協力して京都に財団法人日仏文化協会を設立
20.昭和2年 (1927)  現「何有荘」の庭園内に稲畑氏の功績碑が建つ
21.昭和10年(1935)  稲畑染工場を東洋紡績(株)に譲渡する
22.昭和12年(1937)  社長を稲畑太郎に譲る
23.昭和17年(1942)  勲二等瑞宝章を受章
24.昭和24年(1949)  88才で死去

16)南禅寺と琵琶湖疏水

1)南禅寺の立地と琵琶湖疏水
 疏水分線は、蹴上疏水公園の発電所取水口のところから、西に向かって山裾に沿って進み、南禅院の横から南禅寺境内に建造された水路閣上を流れ、最勝院前から第5および第6トンネルを経由して若王子にでて哲学の道につながっている。
 本来であれば、蹴上公園からトンネルで山沿いに進み、第5および第6トンネルにつなげば、南禅寺の境内を抜ける水路閣コースは不用であった。しかし、トンネルのコースに亀山法皇のご遺言によりご分骨を埋葬した御陵があったので、トンネル工事ができなかったためといわれている。

2)廃仏毀釈(ハイブツキシャク)運動の影響
 明治維新直後の明治元年(1868)3月17日に、新政府は「神仏分離令」を施行し、江戸時代の仏教国教から神道国教に急旋回し、廃仏毀釈運動が全国規模で広がった。そして、全国の寺院の半数くらいが廃寺となり、多くの寺宝が破却・焼却され、また海外へ流出した。たとえば、奈良の興福寺では、全寺僧が神官となり、五重の塔が金具代の30万円で売りに出された。鎌倉の鶴岡八幡宮では、薬師堂・護摩堂・大塔・経堂・仁王門が取り壊された。
 この急激な動きは、明治4年前後がピークであり、キリスト教迫害に対する諸外国の抗議や、仏教会・民衆からの反発が強く、明治8年(1875)ころには終焉を迎えた。
 京都の南禅寺は皇室ゆかりの寺院であったが、廃仏毀釈の風潮の影響を受けて、檀徒の大部分が神式葬祭に改め、多方面からの寄進も大幅に減少した。そして、この危機を乗り切るため、周辺に存在する塔頭を売却していった。
 疏水分線のルート選定にあたり、京都市では水路閣ルートの採用を南禅寺に申し入れたが、寺側は、寺域の雰囲気にマッチしないと再考を強く申し入れた。しかし当時の行政側の力は寺側を大きく上回り、簡単に押し切られたと伝えられる。

                                    明治23年に完成した赤レンガ造りの水路閣は、百余年を経過し、周辺の事物とマッチしている。
 昭和52年(1977)に淡交社から発行された「古寺巡礼・京都12・南禅寺」の中で、直木賞作家の杉森久英氏は、建設当初の水路閣の不調和を“靴を履いたまま日本間に上がり、懐石料理にカツレツの一皿を並べたもの”と表現して、当時の寺側の無念をなぐさめている。明治8年(1875)に京都市は、病弱者の療病院の設置を決め、今は国宝となっている南禅寺の方丈の明渡しを命じている。しかし、明治15年にはこの制度は廃止となり、方丈は南禅寺に還付された。
 しかし、百余年を経過したあと、水路閣は南禅寺のトップクラスの観光スポットになっており、疏水の水は、南禅寺塔頭群の池泉用水として大きく貢献している。

3)南禅寺本坊の見学記
 南禅寺本坊には方丈庭園(南面)・如心庭(東)・六道庭(北)・中庭(西)の4つの庭が存在する。名勝に指定された方丈庭園は方丈広縁一杯に広がっており、小堀遠州(1579〜1647)が金地院庭園を作庭したとき、同時に造られたという説がある。大岩と2ヶの小岩が並んだ姿が“親虎が2頭の子虎を従えて小川を渡る姿”と似ていることから、「虎の子渡しの庭」の通称を持っている。


方丈庭園の左半分

方丈庭園の右半分

 この枯山水庭園は、室町時代以後に流行した様式であるが、しばし広縁に座って解説のテープを聞いて動かない訪問者の姿が多い。私もこの空間が好きであるが、昭和の初期に現在の庫裏が新設されたので、建設当初の南禅寺山の借景が無くなったといわれている。
 苔と白砂のバランスがよい六道庭、中庭および唐門前の写真を紹介する。
      
苔で埋められた六道庭         苔と白砂が美しい中庭         唐門前の苔と石畳

 南禅寺本坊には、西北に位置する茶室・不識庵の前に小さい池があるだけで、その他に池は存在しない。疏水の水は本坊では使用していないようである。

4)南禅寺の臨済宗における寺格
 南禅寺の解説書をみると、寺格が「五山の上」と書かれている。南禅寺は、禅宗の臨済宗南禅寺派の大本山である。亀山天皇が臨済宗に帰依する事により、この地にあった自らの離宮を寺に改修し、1291年東福寺から大明国師・無関普門を招いて開山したことが南禅寺の始まりである。後醍醐天皇の時代に京都五山の一位となり、室町時代に足利義満から京都・鎌倉五山の上に昇格した。

寺格 五山の上 1位 2位 3位 4位 5位
京都五山 南禅寺 天竜寺 相国寺 建仁寺 東福寺 満寿寺
鎌倉五山 南禅寺 建長寺 円覚寺 寿福寺 浄智寺 浄妙寺

 上表(何れも臨済宗の寺院)は、京都の天皇家と鎌倉の幕府による最高の支持をいただいたことを意味している。その後、室町幕府の衰退で、南禅寺も低迷したが、豊臣秀吉や徳川家康の厚い庇護のもとに隆盛を極めた。南禅寺の創建当時の建物は、室町時代に3回の火災があり現存するものは無く、現在のものは桃山時代以降に再興されたものである。
 しかしながら、寺宝には、鎌倉時代、室町時代の国宝や重要文化財が多数存在している。


17)南禅寺塔頭−南禅院と天授庵を見学

 淡交社から発行された平野圭祐氏の「京都水ものがたり」に南禅寺界隈疏水の水系系統図が紹介されている。この図表は、尼崎博正博士の作成したものがベースとなっているが、精度が高くその実態をわかりやすく示している。
 この中で、“南禅院→正因庵→天授庵→真乗院→扇ダム放水路”のコースに着目し、公開されている南禅院と天授庵の2ヶ所を訪問したので、見学要旨を報告する。

(1)南禅院庭園の見学
@)亀山法皇の木像が安置されている方丈
 疏水分線・水路閣の最初のアーチをくぐって石段を登ると、左方向に入り口が見える。門を入ると大きい方丈があり、その広縁に沿って庭が広がっている。
 入場券の裏面にある説明によると、「鎌倉時代の中頃、文永元年(1264)に亀山天皇は、この地の風光明媚を賞されてここに離宮を営まれた。そのあと天皇は深く禅宗に帰依され、正応2年(1291)に離宮で出家して法皇となられ、この離宮を寄付して禅寺とし、大明国師を開山とされた。当南禅院は実に離宮の遺跡であり、南禅寺発祥の地である。

@:方丈の広縁に沿って庭園が広がる

A:方丈の内部写真

 南禅寺方丈は、離宮の遺構であったが、明徳4年(1393)の火災で焼失し、北山御所の寝殿を賜って再興されたが、再び応仁の乱で焼失した。現在の建物は、元禄16年(1703)五代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で再興されたもので、総桧の入母屋造りこけら葺で、内陣中央には亀山法皇御木像が安置され、襖絵も有名である。
(一般公開の時は方丈内部の見学は出来ないが、マイクでの説明が聞ける)

A)疏水分線より高い位置にある南禅院庭園
 約530坪ある南禅院庭園は、鎌倉時代に作庭された池泉回遊式庭園である。竜の形に造られた曹源池(上池)の中央には、中国の伝説で不老長寿の仙人が住んでいた蓬莱山があり、鶴島・亀島と連続する三尊石組手法がとられている。
 庭園の左奥に滝口の石組がある。この滝は山からの自然水を利用していたが、前回南禅院を訪ねた時、住職から、滝の水は疏水分線から引いた水をポンプで汲み上げて、庭園に供給していると伺った。今回細部をよく観察したら、水の流出口は2ヶ所あることがわかった。この庭園は、南禅寺に関係の深い夢想国師(1275〜1351)が手を入れたと伝えられており、同時代に作庭された天竜寺庭園、苔寺庭園とともに、古くから京都の三名勝史跡庭園と呼ばれており、訪問する人が絶えない。

B:上池の中央に造られた蓬莱島

C:上池の左奥にある滝口

 記録によると、築庭当初は、吉野の桜、難波の葦、竜田の楓など各所の名木を移植した庭園であったが、現在は人の手が入らない自然のままの場所が残されている。石橋で分けられた西側の下池には心字島が設置されており、鎌倉時代の作庭であることが各所に伺える。
 疏水の流れは、下池の隅から排出され、正因庵を経由して天授庵庭園に送られている。

(2)天授庵庭園の見学
@)天授庵庭園の特徴
 天授庵は、南禅寺三門の道路を隔てて右側にある。水路閣を目指してゆるい坂道を歩く道の途中にある。正面に平面配置を示す大きい絵図が掛かっている。

D:天授庵の全景

E:奥の池泉庭園付近の拡大図

 南禅寺では、三門(500円)・本坊(500円)・南禅院(300円)の3ヶ所をセットにして1,000円の拝観券を発売しているので、比較的多くの人が訪れているが、この外に、天授庵と金地院というすばらしい庭園を持つ塔頭が公開されている。私は南禅寺近辺を数十回散策しているが、天授庵は入り難く見学する機会は無かった。真夏というのに秋の紅葉の写真を飾る不思議を感じながら、初めて訪ねて見た。

A)天授庵創建とその後の由来
 南禅寺開祖の大明国師は、南禅寺を創建してすぐに亡くなり、二世の南院国師が南禅寺の基礎を造った。そのため、大明国師による開山の功績をたたえる開山塔がないまま、数十年が経過した。このことを嘆いた十五世の虎関師錬が、暦応2年(1336)に朝廷の勅許を得て、南禅寺の開山塔として完成したのが天授庵である。
 しかしながら、文安4年(1447)の大火や応仁の乱の兵火に見舞われたあと、百三十年余荒廃したままであった。慶長年間に入り、天授庵復興が取り上げられ、細川幽斎に復興を要請し、慶長7年(1602)に細川家の菩提所として再建されたのが現在の天授庵である。
細川幽斎の略歴
  安土桃山時代の戦国武将であり、文化人としても知られる。最初は室町将軍家に仕え、のちに織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、重用された。剣術・茶道・和歌など武芸百般に通じるその時代随一の教養人。

B)本堂前庭の枯山水庭園

 白壁で囲まれた庭園の小さい門を入ると、すぐに本堂に沿った鱗敷(うろこじき)の石畳の通路があり、少し進んで右に曲がると、本道正面に奥行きの浅い枯山水庭園が広がる。

F:本堂と庭園の間を直線で走る石畳の通路

G:通路に沿って広がる枯山水庭園

 この石畳の構成は、寺伝によると創建当初からのものであるが、枯山水庭園が現在の形に整備されたのは細川幽斎による再興後と言われる。つまり、白砂を用いた枯山水様式は創建当初には無かったと専門家が解説している。ちょうど墓参りに訪れた老夫人が、もう一筋ある石畳の道を通って白砂の庭園を横切り、墓地のある門に消えた。この墓地には細川幽斎とその一族の墓や、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻の墓、明治維新政府の参議であった横井小楠の墓がある。
 本堂の広縁に座り、緑濃い山を背景に白砂と苔で縁取られた庭園を静かに眺めると、不思議にも禅僧になったような気分を味わえた。

C)書院前庭の池泉回遊式庭園
 本堂の隣にある庫裏の裏(南側)に書院がある。庫裏と書院は一体となっているらしく、庫裏の正面から奥を覗くと、庭園が額縁に収まって見える。
 この庭園の通路はかなり複雑で、表にある全景図を想い返しても、自分の居る位置関係がよくわからない。秋にもう一度訪ねる予定であり詳細な説明はその時に譲りたい。庭園内に高い位置から紐状に落ちる滝と2ヶ所の浅い滝があり、丸い加工石の飛び石と八つ橋様の橋があり、疏水の水が何処から入り、何処に流れているか把握できなかった。

H:庫裏の正面玄関から見た庭園風景

I:一筋の滝が滝口にはじけている

J:池の両側から繋がっている丸石の曲線美

K:八つ橋様の木製の橋

 専門家に記述によると、この池泉回遊式庭園は、設計の基礎となる地割の上からみると、鎌倉末期から南北朝時代の特徴を残している。しかし、明治初年に大きい改修がなされているが、庭の生命である地割まで変更されていない。
 私も庭に入って近代庭園の雰囲気を感じたが、南北朝時代と近代の特徴が生かされたすばらしい庭園だと感じた。右手奥には普門殿という名の建物があるが、よくわからない。
 紅葉の季節で天気のよい日にもう一度訪ねて可能な限り調べてみたい。また、本報で間違っている点があったら是非指摘して欲しい。

18)蹴上・何有荘(かいうそう)庭園の歴史

1)まえがき
 何有荘庭園が、平成16年(2004)4月に100年振りに一般公開され話題を呼んだが、突然の公開で何有荘に関する情報に乏しく、また公開時に配布された案内書にも理解し難い表現があり、庭園見学料もやや高額で、第1回の訪問では庭園に関する質問に返答できる人も不在で、少し不自然さを感じた。その後、秋になって2回目の見学をしたが、インターネット上にも見学記が十数件発表されるようになり、私もこのホームページで今まで3回何有荘に関する話題を取り上げた。
 その結果、この庭園は琵琶湖疏水の立場から重要な存在であり、内容的にもすばらしい庭園であることが判明した。しかしながら、平成17年(2005)7月に所有者の詐欺事件で、僅か1年3ヶ月で非公開となってしまった。そこで、現時点における何有荘の歴史について推定を含めてその要旨をとりまとめてみた。間違っている点があればご指摘いただきたい。

2)和楽庵時代
 南禅寺には、境内周辺に多くの塔頭が存在していたが、度重なる災害や明治維新による廃仏毀釈・寺領上知の令などで、寺の運営がきびしくなり、塔頭の売却処分で切り抜ける時期があった。
 明治初年に、三門の改修費用捻出のため、当時南禅寺管長であった正因庵住職が、自らの塔頭(現在の何有荘敷地の一部)を某氏に売却したあと、染料分野の実業家稲畑勝太郎が手に入れたが、その場所には、近くにある塔頭・金地院の鶴亀庭園や南禅寺本坊の方丈庭園を作庭した小堀遠州の弟子が作庭したと伝えられる池泉回遊式庭園があった。
 稲畑は、少しずつ庭園周辺の土地を買い増して5,000〜6,000坪とし、明治23年(1890)に琵琶湖疏水が完成して、庭園のすぐ裏の蹴上に疏水の水が来たことで、この水を庭園に引いて斜面の崖を利用した落差30メートルの瀑布を造りたいと考えた。
 そこで、明治28年(1895)に近くの無鄰菴の作庭で実績のある七代目・小川冶兵衛に近代庭園の作庭を依頼した。この庭園は、頂部の芝生広場と低部の和式庭園を瀑布が結ぶ形となり、これを「和楽庵」と名付けて、明治・大正・昭和にかけて内外の要人が訪ねる京都の社交場所として活用された。なお、和楽庵が完全に稲畑氏の所有となったのは明治38年(1905)との記録もある。

 大阪を基盤として事業活動を進めた稲畑勝太郎は、終生京都の和楽庵を住居とし、昭和24年(1949)にこの地で88才の生涯を閉じた。和楽庵の芝生庭園には、大正15年(1926)に貴族院議員に勅撰されたことを記念して、関西実業家で組織する三日会員17名が計り、昭和2年(1927)に建立された功績碑が現存している。
 前報で紹介していないこの庭園の特徴をいくつか挙げると、
 @洞窟風のトンネル通路の存在……頂部の南西に草堂と呼ばれる建物があり、京都市街地を眺望できる見晴台となっている。この建物は小川次兵衛の作庭以前から存在しているが、この建物の地下部にトンネル通路があり、途中で疏水公園へ向かう道と崖斜面の中央部に出る道に別れている。この斜面の中央部の出口から地上部の茶室・龍吟庵まで道がつながっている。
 このトンネルの建設時期については不明であるが、工事材料などから明治の後期と想像される。また、明治天皇が和楽庵を訪ねた時に造成されたとの記述もある。
 A庭園のシンボルである瑞龍の滝……当初滝の名前はついていなかったが、大正15年(1926)11月、西園寺公望公が和楽庵に来遊した時、滝の名付け親を依頼し、最初「和 楽の瀑布」としたが、のちに南禅寺の号である瑞龍山の名をとって「瑞龍の滝」と命名した。天然水では実現できない水量の多い瀑布は、京都では珍しかった。
 B和楽庵に居住した稲畑氏は、大正5年(1916)に建築家武田五一(1872〜1938)の設計で、和楽庵内に和洋館を建設した。武田五一は明治後期から昭和初期にかけて活躍した著名な建築家で、この建物を含め、多くの作品が現存している。
 C稲畑勝太郎(1862〜1949)は、本業である化学商品の輸出入業のほかに、日本に活動写真映写機を初めて導入し、映画の興行面での活躍も有名であり、妻トミが京都音楽啓蒙の支援者であったことから、和楽庵の自宅は京都の音楽活動の源泉となった。
 また、稲畑氏は、明治10年(1877)にフランスに留学して染色を学んだことで事業家として成功したが、日本とフランスとの文化交流に尽力し、昭和2年(1927)に和楽菴のすぐ裏の九条山の関西日仏会館(現在この地で関西日仏交流会館が活躍)の建設に大きい役割を果たした。現在の関西日仏会館は、京都市左京区東一条近くに存在するが、その庭園には、稲畑勝太郎の胸像と功績碑が建っている。

@:京都大学前に平成15年新装された関西日仏会館

A:関西日仏会館庭に昭和11年建造された胸像

 また、稲畑勝太郎は、大正11年(1936)から昭和9年(1934)まで大阪商業会議所(昭和13年より大阪商工会議所)の会頭を務めたが、その正面に全身像が立っている。

3)何有荘(酒造会社保有)時代

 稲旗勝太郎没後の昭和28年(1953)に宝酒造(梶jの大宮庫吉会長が「和楽庵」を譲り受けた。そして“何か有るようで何もない。何も無いようで何かある”という禅の言葉から、その名を「何有荘」と改名した。
 江戸時代の天保期の伏見で、四方家が創業した酒造りの個人商店が、宇和島出身で新式焼酎の開発技術者であった大宮庫吉氏をスカウトし、業容を一気に拡大させた。宝酒造鰍ニなってから、大宮庫吉は昭和20年(1945)に社長、昭和26年(1951)には会長となっている。
 その後、宝酒造鰍ヘ新社長(長男)のもとでバイオテク分野へ大きく展開したので、庫吉は宝酒造の中興の祖と呼ばれており、また地元への貢献をたたえ、出身地の宇和島の和霊公園に昭和36年(1961)に銅像が建立されている。
 そして文化人としても活躍した庫吉は、何有荘を関連業界や各種文化活動面での交友の場として広く活用したのであるが、この時期の記録はあまり知られていない。

4)何有荘(建設会社保有)時代
 大宮庫吉の死去のあと、何有荘の所有権は、昭和59年(1984)に土地開発や埋立て工事で成功した建設業の日本工業且ミ長の大山進氏が取得し、何等かの理由で平成3年(1991)に所有権は宗教法人(大日山法華経寺・幸福寺)に所有権が移されている。
 その後、所有者の周辺で金銭面のトラブルが発生し、何有荘が日本工業鰍フ債権の担保だったため、平成10年(1998)に何有荘が競売にかかり、銀行から債権を譲り受けたRCC(整理回収機構)も競売権を継承したと新聞が報じている。
 しかしながら、その後も大山氏は何有荘に住み続け、昭和16年(2004)に何有荘庭園を100年ぶりに一般公開に踏み切った。一方、この間に大山氏は別の詐欺事件で逮捕起訴され、
 平成17年(2006)7月に何有荘は突然非公開となった。そして大山被告は立ち退きとなり、京都地裁から登記変更を禁じる保全処分が公示された。

B:板塀で完全に閉鎖された何有荘

C:登記変更を禁じる保全処分の公示書

 上記記述は、法律分野に弱い私にとって間違っている点があるかも知れないが、何有荘が競売中であるようで、早く結論を出してほしいと願うものである。

5)最近の何有荘周辺の散策記録
 7月上旬に何有荘周辺を散策した時、公開禁止中の何有荘庭園内の整備・清掃がかなり綿密に実施されていることが判明した。昨年の一般公開中には、疏水分線の細道から、何有荘庭園内部の建物は樹木で覆われ見ることが出来なかったが、今回は写真に示す如く、芝生公園横の「草堂」と奥の「展望台」の萱葺き建物が、周辺の樹木の伐採により写真に示すごとく姿を見せた。

D:疏水分線の小道から見上げた草堂

E:疏水分線の小道から見上げた展望台

F:囲われた庭園内部の清掃も行き届いている

G:何有荘(右側)から南陽院に流れる疏水の水路の清掃

 また、竹格子の間から覗くと庭園内部の清掃は行き届いており、瑞龍の滝から流れ落ちた疏水の何有荘敷地から排出される出口の掃除まで実施されていた。これも京都地裁による売却のための保全作業かな?と驚いた。
 私は、この何有荘が京都市の所有となり、無鄰菴とともに一般公開されることを願っている。

 追記:何有荘内にあるトンネル道路の工事設計者、建設時期などについてご存知の方が居られたら教えてほしい。

19)山縣有朋の絶頂期に建設された無鄰菴

1)山縣有朋が作庭した邸宅
 明治の政界で活躍した有名人の中で、庭園の造営に深い知識を持ち、自らの設計で多くの邸宅を建設したのは山縣有朋が第一人者といわれている。彼は次表に示すごとく8ケ所に別宅を建造した。

上表から次のことが言える。
@)全体から見ると、約10年間隔で別荘を造営している。
A)無鄰菴と名付けた別宅を3回造営している。名前が気に入っていたと考えられる。
B)目白椿山荘・蹴上無鄰菴・小田原古希庵の3つがとくに傑作といわれている。
C)当時の総理大臣の年俸は、現在価値換算で8,000万円とも伝えられるが、蹴上無鄰菴の造営時期が山縣有朋の絶頂期であったと想像される。
D)山縣有朋(1838〜1922)は80歳になっても新居を造営しつづけた。超多忙な職務の中で和歌・漢詩・書・仕舞にも通じ、とくに造園の趣味は一流といえるものであった。

2)海外渡航で学んだ洋式庭園技術
 山縣有朋の経歴書を調べると、下表に示すように3回欧米を訪問している。

 最初の外遊は32歳の若さであったが、感受性の強い年頃であった山縣にとって合理性の整った洋式庭園は強い刺激があり、これが明治10年に築庭した目白椿山荘に生かされ、2回目の外遊による知識と経験を含めて、京都蹴上の無鄰菴の造営に生かされたと想像する。

3)三ヶ所に造られた無鄰菴の概要

@ 第1無鄰菴

 長州奇兵隊とは、高杉晋作らの発案で組織された長州藩の戦闘部隊で、藩士だけでなく藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊として、数々の戦果をあげていた。幕末に山縣有朋(当時狂介と名乗る)が奇兵隊の軍監を努めていたころ、奇兵隊の屯所のあった清水山の麓に草庵を建て、隣近所のいない静かな場所として“無鄰菴”と名付けた。
 その後、高杉晋作は大政奉還を目前にして病没したとき、山縣は晋作の愛人「おうの(後の梅處)」に無鄰菴を譲り、梅處は出家して無鄰菴で晋作の菩提を弔った。
 これは山縣が第1回目の外遊をした直前(明治2年)のことであった。そのご明治17年に、伊藤博文・井上馨・山縣有朋らの寄付により、無鄰菴の隣接地に“東行庵(晋作の号をとって)”を建立、梅處が初代庵主となって明治42年その生涯を閉じるまで晋作の菩提を弔った。現在無鄰菴(第1)は残っていないが、東行庵周辺は自然公園となり、夏の菖蒲・秋の紅葉の季節は観光客で賑わっている。

A 第2無鄰菴

 明治24年(1891)5月に首相の座を降りた山縣有朋は、同年7月に京都木屋町二条の旧角倉了以別邸の地を購入し、ここを“無鄰菴(第2)”と名付けた。この立地は、鴨川から水を引いて高瀬川流し込むところであり、小堀遠州作の立派な庭園が存在していたが、敷地が狭く、近隣の開発が進むことにより静寂な雰囲気の維持が困難になると判断した山縣は、この地を僅か1年半後の昭和25年(1892)11月に売却している。その後の経緯について、現在の所有者は次のような看板を立てている。

 料亭として公開されている庭園と高瀬川の出発点の写真を示すと、

庭園風景と流れ込んだ高瀬川の出発点風景

B 第3無鄰菴(現在の蹴上無鄰菴)
 旧来の伝統を重んじる京都の造園業界に、自然風景に重点をおく近代庭園の手法を導入したのが、山縣有朋であり、この指導のもとに実践に移した庭師が7代目小川治兵衛であり、この二人の出会いは、知恩院近くに別邸を持っていた実業家久原庄三郎の紹介と言われている。小川治兵衛は、隣家の並河家の研磨用に引いた琵琶湖疏水の水を庭園用水として利用しており、疏水の水を活用する可能性に着目していた。欧米で見聞した洋式庭園の実現を夢見てきた山縣有朋は、疏水の水を活用して滝や小川を配置し、従来庭園に使用しないモミの木などを植え、苔の代わりに芝生を採用する構想を治兵衛に示し、治兵衛はこれを実現させた。また少し遅れて、赤煉瓦造りの洋館を隅に建造した。
 敷地は約950坪と広くないが、百年余経過した今、東山の借景が伸びた樹木により隠れている以外は、歴史の重みとともに当時の広大な近代庭園の雰囲気を維持しており、京都市文化市民局の管理下に年間4万人の観光客を集めている。

東に向かって拡がる芝生庭園風景        

樹木で囲われた煉瓦つくりの洋館

 蹴上無鄰菴については多くのレポートが発表されており、ここでは細部紹介を避けるが、この庭園の中に、明治天皇御下賜の稚松2本が石柵に囲まれて園路の両側に存在している。
 これは御所の稚松を御下賜されたもので、「御賜稚松之記」の解説がついていたが、昨秋1本が枯れた。残った1本も百年経過したとは思えぬ細さである。

昨秋枯れた御下賜の稚松(近く植樹の予定とか)    

残った稚松も細い

樹林を流れる疏水の水

 今回のレポートは3頁の予定であるが、小川治兵衛の世界については、尼崎博正、矢ヶ崎善太郎、小野健吉他諸先生の研究で尽くされていると言える。私にできることは、もっと歩いて、その良さを噛みしめることと思っている。

20)無鄰菴にある小川治兵衛の記念室

1)無鄰菴内にある赤煉瓦造りの洋館
 無鄰菴の庭内に煉瓦造り2階建ての洋館が建っているが、建設時期は明治31年(1898)であり、1階は倉庫で2階に部屋があり、この別邸内で唯一の公的な雰囲気を持つ部屋である。この部屋で、明治36年(1903)に政府首脳が集まって日露開戦の方針を決定した「無鄰菴会議」は有名であるが、秘密会議を開催するには格好の場所である。この1階が「小川治兵衛記念室」に利用されたことは前報(E-1-19)にて紹介したが、同時に京都市唯一の「山縣有朋記念室」でもあり、有朋関連の記念品や解説記事がある。

洋館内部の記念室への入り口

記念室内部の上部煉瓦壁

 この建物の設計者は、発見された棟札から明治時代の建築家として知られる片山東熊の後輩にあたる新屋孝正であり、工事は清水満之助(清水組の4代目)であることがわかっているが、片山東熊といえば蹴上にある御所水道のポンプ室の設計者であり、田辺朔郎の姉が片山東熊に嫁いでいるので、疏水仲間ではよく知られた建築家である。
 この片山東熊は山口県出身で、奇兵隊に参加して戊辰戦争に参戦しており、同郷の山縣有朋に重用された建築家と伝えられ、山縣の東京本宅である椿山荘内の洋館も設計している。また京都国立博物館の設計を担当した当時のトップクラスの片山東熊に、無鄰菴の洋館も設計を依頼していたことは興味深い事実である。

2)洋館内にある山縣有朋の紹介パネル
 山縣有朋の紹介記事の全文を紹介する。

 山縣有朋は、第3代総理として軍事予算の拡大に努めて日清戦争への道を開き、第9代総理として日露戦争を迎える体制を作り、両戦争推進の指揮者となったが、多くの犠牲者を出した勝利であった。同時に治安維持法を制定して労働運動などの弾圧を進め、同じ長州出身で民権重視の伊藤博文の政策面での対立もあった。軍閥の形成で立場の維持を高めた山縣は人気のない明治の元勲と言われたという記事が多く残されている。国民から人気の高かった大隈重信が死去したとき、「国民葬」に30万人の参加者があったが、約1ヶ月後の山縣有朋の「国葬」は寂しい式典であったといわれている。
 私は、山縣有朋が最初に作庭した目黒の椿山荘を小学生のころ訪問する機会があり、その強烈な印象を忘れることができなかった。そして戦災で痛んだ庭園を整備してフオーシーズンホテルが建設されてからも3回仕事で外人客を案内し、その偉大な庭園に再会しているので、私の中では山縣有朋の存在は大きいものである。

3)小川治兵衛記念室の細部紹介
 無鄰菴庭園の中で、私の好きな場所は東の隅にある琵琶湖疏水の導入口近辺と洋館前から眺めた疏水の水が流れ出る近辺(いずれも深い森の中の雰囲気)である。

疏水の導入口である三段の滝

大きい鯉が泳ぐ疏水の水の出口

 記念室にある小川治兵衛の略歴を紹介すると、

 記念室には小川治兵衛の代表作7件が写真とともに展示されている。

@ 對龍山荘庭園
・・・市田弥一郎の所有となった明治35年から39年にたけて作庭されたもので、植治の作風が確立したときの代表的作品。特に北側の庭園は橋・中島などに各種の手法を用い、東山を借景とした構成がきわめてすぐれている。(非公開)

A 平安神宮神苑
・・・明治28年に平安建都1100年を記念して造営された。庭園は無鄰菴にに続いての着工で、植治の初期の作品。特に西神苑の滝・沢飛び・石積み、中神苑の橋脚・橋げたを利用した飛び石などに植治独特の手法が見られる。(有料公開)

B 無鄰菴庭園
・・・・明治27年〜29年に作庭された植治の最も初期の作品。なだらかな傾斜 地の最奥に三段の滝を配し芝生と水の流れをモチーフとする明るい空間構成に特色がある。近代庭園に大きい影響を及ぼした植治の作風の原点ともいえる庭園(有料公開)

C 碧雲荘庭園
・・・・野村財閥の創始者・野村徳七の別荘.明治3年完成の植治最晩年の作品で、南禅寺周辺の別荘中スケールが大きい。大きな池の水面の広がりに無数の泉石を配するという独自の手法が見られる。(非公開)

D 清水家十牛庵
・・・大阪の商人清水吉次郎が大正14年に購入した土地に、植治の指揮の下に昭和3年に完成した高台寺近くの庭園。比較的狭い空間ながら石を主体とした機能的で美しい庭園である。東南隅の井筒から水を湧き出させる手法にも植治独得のものが見られる。(非公開)

E 織宝苑
・・・・・・明治末年から大正初年にかけて植治の長男白陽に現場をまかせて作庭したもの。大正14年分割されて岩崎小弥太の別荘になった後、一部改修され瀧村平蔵に譲られた。無鄰菴に通じる自然の趣と繊細なデザインなどに植治の作風が見られる。(非公開)

F 円山公園
・・・大正2年から3年にかけて植治の設計監督により作庭された。別荘庭園から公共庭園という新たな領域に挑戦した植治の進歩性を示す作品。滝から流れ落ちた水が上流から下流にかけて絶妙な変化を見せる「せせらぎ」などに植治の手法が見られる。(一般公開)

 以上7件についても、所有者の変更となったものがあり、この他にも治兵衛の作庭した近代庭園は多く存在する。嬉しいことであるが、非公開の中でも特別展とか期間限定の公開など見学できる機会が増える方向にあるといえる。