技術全般

41)運河の近代化遺産「閘門」に関する追加情報(1)

1)閘門に関する過去の調査結果
 ホームページを開設してから投稿件数が428話になるが、最初に設定した分類では、投稿内容が納まり難くなり、ホームページ内のグーグル検索機能も詳し過ぎて焦点が絞り難い。そこで、この項では、過去に投稿した閘門関連報告8件を 摘出し、その要旨を古い報告から並べてみた。

@ B−07−03「伏見十石舟の運航と三栖閘門」第59話(03−08−28)
A B−01−02
「大津運河に設置された大津閘門」第65話(03−08−28)
B C−01−04
「国の文化財に指定された各地の閘門」第66話(03−11−18)
C
  B−01−07「大津運河の散策ガイド」第134話(05−08−15) 
D
  C−03−08「80ヶ所の閘門を有するミディ運河」第148話(05−12−12)
E
  C−03−09「疏水着工時点における世界閘門の技術」第151話(06−01−04)
F B−05−06
「鴨川運河の記録メモ・勾配と閘門」第282話(08−03−19)
G F−03−09
「世界遺産の認定を受けた世界の運河」第411話(10−09−18)

 私のホームページの目次欄にあるHP内検索で「閘門」をインプットすると、21件の閘門関連記事
が検出されるので、内容に興味のある方は読んでいただきたい。
 上記8件は古い記事が多いが、今回は、そのご入手した文献や資料を数件紹介したい。

)全国の閘門に関する詳細資料の紹介
 国土交通省の下部機関である木曽川下流河川事務所に「木曽川文庫」という治水の資料館がある。
 ここは、オランダ技師デレーケの研究で有名であり、有名な船頭平閘門に隣接している。「木曽川文庫」がまとめた資料の中に全国閘門一覧(111ヶ所)があるが、閘門名・場所・管理者・住所・河川名・備考欄が記載されている。この中に、琵琶湖疏水系の閘門が4ヶ所リストされている。北海道から九州にかけて順番に並べてあるが、伏見閘門の記載がない。興味のあるのは、管理者名である。
 第一疏水揚水機場が閘門に分類されているのが珍しかった。

      閘門名          管理者            河川名
大津閘門 ・・・・・・・・京都市水道局・・・・・・・・・・・・ ?
琵琶湖第一疏水揚水機場・・近畿地方整備局琵琶湖河川事務所・・・淀川水系
夷川閘門 ・・・・・・・・琵琶湖疏水記念館 ・・・・・・・・・淀川水系鴨川(左岸)            
三栖閘門 ・・・・・・・・近畿地方整備局琵琶湖河川事務所・・・淀川

 次項で説明する「来原(くりはら)岩樋」の管理者は、大阪の「六軒屋第一閘門」、「六軒屋第二閘門」とともに、“歴史史跡”と分類されている。

3)日本最古の閘門は来原(くりはら)の岩樋か?
 第一項の投稿番号Bに記載に示した「閘門」の定義を再記すると……水位の違う二水面間に舟を通すために水位を調整する構造物で、両側に門扉があり、その間を“舟を入れる閘室”とし、閘室内を上下流の片方と同水位にして舟を入れ、門扉を閉じて他方と同水位まで水位を上下させたのち舟を出す(世界原色百貨事典より引用)……である。
 投稿番号Eに記載したように、閘門方式が最初に提案されたのは15世紀のイタリアルネッサンス時代で、イタリア・ミラノの技術者レオナルドダビンチらと言われているが、日本最古の通船用木製閘門は、埼玉県浦和市にある「見沼通船堀」と言われ、昭和57(1982)年に国の史跡に認定されている。
 この閘門が完成したのは八代将軍徳川吉宗の時代で、享保16(1731)年に完成{約280年前}である。幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永が設計したもので、第4回世界水フオーラム(2006年・メキシコ)で発表された皇太子殿下の基調講演「江戸と水運」の中でも日本最古の閘門として紹介されている。

 ところが、最近になって島根県出雲市大津町来原にある「来原岩樋跡」が、「見沼通船堀」より30年早い1700年に完成していたと発表された。これは「島根大学地域貢献推進協議会・遺跡データベ−ス分科会」や農林水産省の「中国四国農政局・斐伊川沿岸農業水利事務所」などの発表があるので、遺跡研究の新しい成果と考えられる。
 島根大学の調査資料によると、斐伊川流域の来原岩樋の対岸にある「出西岩樋」は1685年(貞亨2年)に完成し、樋守(樋の水門番)が水門を上げ下ろしして、水位を調節して舟を通していたので、「来原岩樋」より16年古いことになる。
 一般に新記録というのは、過去の記録を越えた場合に表現されるが、考古学の場合は、過去の記録にさかのぼる場合を示す。来原や出西の岩樋は、古代より治水を重ねて稲作に励んだ出雲の地域にあり、誇るべき遺跡といえる。

4)日本最古の洋式閘門は琵琶湖疏水の「大津閘門」か?
 “琵琶湖疏水の100年誌”の166ページに、…「疏水の建設当時にあった閘門は、北上川に木造のものがあっただけで、疏水ののど首にあたる大津閘門は、レンガ造りの初めての本格的な閘門として注目を浴びた」と記載されている。この記述は、昭和14(1939)年に発行された“琵琶湖疏水略誌”に記載されており、別資料では田辺朔郎博士も「日本では初めての本格的閘門」と報告している。
 私も、第一項の投稿番号Aでは、これにもとづいて報告したが、その後の調査(投稿番号B)で、宮城県石巻市にある「石井閘門」が、オランダ人ファンドルーンの設計で、明治11(1880)年に建設されており、“日本最古のレンガ製洋式閘門”として平成14(2002)年に国の重要文化財に指定されていることを紹介した。
 したがって、琵琶湖疏水の「大津閘門」は“日本人技師の設計によるレンガ製洋式閘門として日本最古の閘門”とする方が正確である。私は石井閘門を見学したことはないが、写真で見る限り大津閘門と類似している。素人の判断であるので、間違っていたら指摘してほしい。

 平成12(2000)年以降、船頭平閘門(愛知県立田村)や横利根閘門(茨城県稲敷郡)が国の重要文化財に指定されている。大津閘門は京都市水道局の手で、形態保存されており、申請すれば国の重要文化財か史跡に認定される可能性は高いと思う。

42)コンクリ−トと鉄筋コンクリ−トの歴史

1)まえがき
 琵琶湖疏水の第一疏水は、ちょうどセメントの国産化が始まった時点で、品質面と供給能力が期待できず、半量以上を輸入品に頼ったが、高価な貴重品扱いの材料であった。そして構築材料として石材や煉瓦の時代で、その目地となるモルタルとして使用された。そのご石材や煉瓦に変って鉄筋コンクリ−トが登場し、第二疏水の工事では安価な国産セメントを用いた鉄筋コンクリ−トやモルタルが主役を演じた。
コンクリ−トや鉄筋コンクリ−トの歴史については、本ホ−ムペ−ジのC−01−15「本邦最初の鉄筋コンクリ−ト橋」(第281話、2008−03−12)で若干説明しているが、最近質問されることも多いので、関連情報も含めて時系列に再整理したのが本報である。
 土木分野について全くの素人の考察であり、間違いがあったら教えていただきたい。

2)世界におけるセメントの歴史
 ウィキペディアの記述に若干補足して説明すると、その起源はきわめて古く、紀元前3000〜5000年またはそれ以上にさかのぼり、古代ロ−マ帝国時代や中国の大地湾遺跡出土品に発見されている。ロ−マ人は、イタリア地区に堆積する火山灰と石灰、砕石の混合物に水を加えると硬化する性質を利用し、中国では粘土を含有する石灰石を焼成したセメントを利用し、エジプトのピラミッド築造には焼成石膏とナイル川の粘土練り上げたものを使用した。何れも近隣に産出する原料内に含まれるカルシウムイオンの化学反応による硬化作用を利用したもので、ロ−マ人にとってロ−マンコンクリ−トと呼ばれるこの材料は革命的材料であり、大型構造物が建設され、優れた耐久性により現存するものが多い。

 しかしながらこのセメント活用の技術改良はされないまま西暦476年の西ロ−マ帝国の滅亡とともに主役の座を降り、再び姿を現したのはその約1400年後であった。この原因は謎といわれているが、教会や寺院の建設に必要な豪華絢爛さの欠如との解釈もある。
 1824年イギリスのアスプジンは水中でも硬化するセメントを発明し、ポルトランドセメントと名付け、原料配合や焼成条件の改良が進み、現在のセメントの製法が確立されていった。
 この技術にもとづくセメントの生産は、嘉永3(1850)年にドイツ、明治4(1871)年にアメリカ、明治8(1875 )年に日本、明治11(1878)年にフランスで開始され、新材料として日本の近代化に大きく貢献したのである。

3)日本のセメント産業の始まり
 日本でセメントが使用されたのは幕末で、主としてイギリスからの輸入品が使用されたが、生産の開始は明治6(1873)年に、東京深川の大蔵省土木寮建築局摂綿篤製造所(官営工場)が設置され、明治8(1875)年にポルトランドセメントの生産に成功、この工場は明治17(1884)年に民間に払い下げとなり、旧日本セメント(現太平洋セメント)となる。
 また、明治14(1881)年に山口県小野田市に民営セメント工場(旧小野田セメント・現太平洋セメント)が誕生し、第一号製品が明治16(1883)に生産されている。琵琶湖疏水の着工時点に国産工場が存在していたが、当時の生産量は両社併せて月産230トン程度(720トンの報告もある)で、品質も安定せず、その国産品の使用量は全体の半分以下に止まったと「100年誌」は報告している。

 なお、当時のセメントの包装様式の変更記録があるので、参考までに引用すると、
    明治08(1873)年 樽入り400ポンド(181.4kg)……輸入品の包装
    明治34(1901)年 樽入り380ポンド(172.4kg)
    大正13(1924)年 樽入り 170kg
    昭和02(1927)年 樽入り 170kg、袋入り50kg
    昭和46(1971)年         袋入り40kg
    平成08(1996)年         袋入り25kg

と需要量の増加とともに日本人の体力に見合った包装の軽量化が進んだ例として興味深い。
 琵琶湖疏水の建設当時の絵図には、セメント樽が描かれている。

4)鉄筋コンクリート技術の歴史
 山科疏水に本邦最初の鉄筋コンクリ−ト橋が存在するので、関連事項を時系列に示すと、
@ コンクリ−トは圧力には強いが引っ張る力には弱いという欠点があったが、鉄線による補強策が提案され、1861年のパリ万博にフランスのランボ−が鋼製の金網にモルタルを塗り固めたボートが出品され、1867年にはフランスのモニエルが針金入りのセメントモルタル製植木鉢の特許を取り、これが貯水槽の受注につながり、アントワ−プの
産業博に出品されて評判になった。
A 明治8(1875)年には幅4m、長さ16mの鉄筋コンクリート橋がフランスに登場した。そして1880年のケ−ネン(独)や1890年代後半のアネビク(仏)らによる鉄筋補強に関する理論的研究が進み、鉄筋コンクリ−トの基礎ができあがっていった。
B 明治34(1901)年には、日本最初の鉄筋コンクリ−ト構造物(筑前枝光製鉄所)が完成し、
明治36(1903)年には、琵琶湖疏水の山科地区(第11号橋)と神戸市(若狭橋)に日本最初の鉄筋コンクリ−ト橋が建造された。
第11号橋と若狭橋はほぼ同時期に建設されており、その差は1ヶ月との説もあるが、私は過去の報告を参考にして、第11号橋はメラン式、若狭橋はスラブ式と区別してみた。現場で確認してみたいと考えている。
C この第11号橋の経験をベ−スとして、翌明治37(1904)年に大型の第10号橋で鉄筋とコンクリ−トのなじみ効果を確認し、その結果が第二疏水のトンネル工事や蹴上浄水場の大型水槽工事の設計に活用され、鴨川の四条大橋の改築にも活用されているので、田辺朔郎の試みは京都の早期近代化に大きく貢献したと改めて感じた。
D 鉄筋コンクリ−トはあらゆる分野の構造材料として大量に使用されているが、基本的原理は今も変わっていない。しかし、用途や施工方法の多様化とともに、種々のコンクリ−ト添加剤(硬化促進、減速剤・増粘剤・防錆剤・発泡剤・繊維質補強材・空気連行剤・減水剤など)が開発されている。

5)あとがき
 現在の琵琶湖疏水は、建設当時の石材・煉瓦積み(流路の底部や側面)の上を補修時にセメントモルタル思るで塗りこめている。低コストを目標とする水道局の管理下では止むを得ないとうが、文化財的価値を維持するためには、別部門で必要予算を計上して昔の姿を保存す必要がある。また、鉄筋コンクリ−トを補修に採用している場所もある。
 最近では、琵琶湖疏水の観光面での活用が強く望まれてきた。コンクリートやモルタルの長所を生かした工夫をした中で、琵琶湖疏水の散歩道を外見上「明治のロマンが感じられる道」に少しずつ戻していきたい。

43)京都市水道創設100周年記念式典に出席

1)まえがき
 1月22日、京都会館第一ホールで「京都市水道創設100周年記念式典したがさせていただいた・イベント」があり、ほぼ満席に近い、「近代京都の礎を観る会」の皆さんと一緒に参加させていただいた。

 消防音楽隊によるオープニングミニコンサートで開幕し、来賓の祝辞・来賓の紹介
主催者の紹介のあと選定された記念ロゴの紹介・表彰があり、上下水道局長より「京都市水道100年のあゆみ」と題した講演が映像を用いて実施され、有意義な時間を過ごすことができた。ここでは、配布された記念カラー冊子や日本水道新聞(2012-2601-19)および説明の中から、記録として残したい内容(筆者の文責)をとりまとめてみた。

2)京都市の水道事業に関する入手・聴取事項
@ 浄水能力の推移
 明治45(1912)年に完成した蹴上浄水場の施設能力は1日あたり6.8万トン、給水人口約50万人であった。そのご8期にわたる拡張工事で、バブル経済の平成3年度には1日あたり最大給水量89.5万トンと史上最高を記録し、平成8年度に4浄水場合計で105万トンの施設を完成したが、給水量は平成2年度をピークに減少傾向にあり、平成22(2011)年度には、設備能力合計約95万トンに対し、給水量は約61万トン(稼働率約64%)となって余力が生じてきた。
 現在「京(みやこ)の水ビジョン」を策定し、施設の老朽化と立地のよくない「山ノ内浄水場」を廃止して、3浄水場体制に合理化する給水区域再編による大変革を推進している。これは100年の歴史の中でも初めての大きい取り組みとなっている。
A 京都の水道水の品質
 琵琶湖の生態系が変化していき、微生物の構成も変化している。ホルミジウムが主な臭気生成微細物であった時もあったが、その後オシラトリアとなり、さらにアナベラが出たりと変遷した。京都市としては現在活性炭処理だけであるが、高度浄水処理の必要性が無くなったわけではなく、将来の課題として必要性がでればオゾン+活性炭処理の導入や膜処理の技術の動向を含めて最善策を考えたい。(淀川水系の下流地域はオゾン・活性炭処理になっている)
B 水道管の老朽化問題
 昭和38(1963)年頃から計画的な更新工事を開始しており、石綿セメント管や鋳鉄管はすでに無く、初期のダクタイル鋳鉄管が残っているくらいである。これが老朽化しているので更新を始めており、この更新スピードを上げることが緊急の課題となっている。鉛製給水管も残っているので、平成29年度末を目標に作業を進めている。
C 今後の京都市水道の展望
 「京(みやこ)の水ビジョン」の中で、琵琶湖→淀川→大阪湾→瀬戸内海という水循環系の一部を担っていると謳っているが、大都市の中で京都市だけが、上水道と下水道の組織を一体化しており、下流への影響を絶えず意識して運営したいし、まもなく国会で「水循環基本法」が出されるので、近隣地域との交流を深めて進めたいと表明があった。
D 水道の水源
 新山科浄水場の水源は、琵琶湖疏水の他に宇治川からの給水があると聞いていたが、上下水道局の鈴木技術長は、現状は100%琵琶湖疏水経由と説明があった。
E疏水の改修工事に関する事項
 水道から見ると、現在は明治41(1908)年に着工した第二疏水から取水しているが、第二疏水も100年経過しており、大正15(1926)年には第二疏水の底板コンクリートを改修している。第一疏水も昭和06(1931)年に山科地区の開水路部分をコンクリートで底張りするなどの改修を行っている。また、昭和43(1968)年から昭和47(1972)年までの間には、導水路整備事業として第一・第二疏水を全線に渡って大規模な改修を実施している。
F 京都市水道事業の特徴
 琵琶湖の基準水位は86.5mあるので、その位置エネルギーだけで取水しており、さらにそこから浄水・配水過程をポンプを使用せず、3分の1の家庭までポンプなしで供給している。また、琵琶湖を水源としているので、水源開発としてダムを造るとかする必要が無かったので、水道料金は全国平均より安い。
G 京都市水道創設100周年記念冊子
 33ページのカラー冊子をいただいたが、第一期から第八期の拡張事業別に写真と解説がまとめられており、大切に保存したいと考えている。