技術全般

31)東本願寺修復の瓦の話題

1)まえがき
 東本願寺御影堂の修復作業の見学記については、ブログに紹介したが、修復前の御影堂の建設時期(1880〜1895)と琵琶湖疏水の建設時期(1885〜1890)が重なるので、建築土木面や材料面での比較に注目して修復作業を見学した。
 しかし、土木工事と寺院修復では共通するものがなかったが、煉瓦を多用した疏水工事と瓦を多用した修復工事を比較して、材料としての煉瓦と瓦のつながりを考察してみることにした。(結果的には勉強不足で、情報収集に止まった)

2)120余年前の瓦の製造技術
 見学現場には、「明治期の瓦づくりの流れ」と題した説明板と瓦の見本が展示されていた。また見学後に配布された“同朋新聞”にも詳しい解説記事があった。

6工程からなる瓦の製造工程絵図

製造された瓦の種類の展示

 同朋新聞に記載された説明文の要旨を紹介すると、
@ 土練り…田んぼなどの土取場から掘り出して、充分に寝かせた原土に水を加えながら足で踏んで粘土にしたが、まもなく機械化された。
A たたら取り・荒地製作…粘土を積み上げて「たたら」と呼ばれる大きな粘土の塊を作り、瓦の大きさに針金と定規を使って切り分け、木型(荒地型)で形を整え乾燥する。
B 成形…瓦の荒地を木型(切型)の上でタタキ(板)で叩いて形を整え、余分の粘土を鎌で切り落とし、ヘラ等を用いて瓦の荒地にみがきをかける。
C 乾燥…成形した瓦を、きれ目や歪みがおきないよう、天日が均等にあたるよう乾燥する。
D 焼成…だるま窯と呼ばれる焼成窯を用いて、900〜1000で焼成する。ころあいを見計らって松の割木を窯に入れていぶしあげ、自然冷却して取り出す。

3)製造した瓦の運搬方法
 前項で説明したように、手作業で生産された瓦は総計17万5千枚が実用されたが、生産地は、現愛知県の三河地区であり、製品の輸送には和船が利用された。この輸送経路について御影堂工事建屋の外側に下記絵図があった。

瓦の輸送コースを示した絵図

製作された瓦の見本

 この絵図によると、三河で生産された瓦は、和船に載せ紀伊半島をぐるりと回り、大阪で小さい船に積み替え、淀川経由伏見に送られ、陸路工事現場に運ばれた。
 明治15年(1882)の実績として、“8月28日に和船三南丸が瓦4314枚を積んで、三河工作支場を出発し、紀伊半島を廻って8月30日に大阪木場場に到着し、天道船(小型の和船)に約2000枚積み分けて、淀川を遡って8月31日に京都伏見港に到着する”と記載されている。今から130年前の水路運送の詳細な記録はきわめて珍しいので引用させていただいた。また、積み下ろしの面倒な瓦がわずか3日間で三河から京都まで運送できたことは想像したより短いと感じた。

4)今回の修復に使用された瓦の製造法
 第2項の120年前の製法と比較できるように、現在の修復用瓦の製法が同朋新聞に紹介されている。
@ 原土配合…8種類の良質な原土が粘土製造工場で配合される。その後瓦製作所に運ばれ、混練機で原料の中の水分を均一にする。このとき、破損した明治瓦を紛状にしたリサイクル材(シャモット)を混入した。
A 土練・成形…真空土練機で平らにし、切断して瓦の下地を作り、これに新調瓦の金型で高圧プレスをかけて瓦の形ができる。
B 仕上げ…手作業でていねいに形を整え、表面を磨いていく。一枚一枚に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌記念2008年修復」の刻印を押す。
C 乾燥…窯の余熱などを利用して、瓦生地を約10日間乾燥させる。
D 区画ごとに温度設定されたトンネル式窯を、長時間かけて進みながら焼き上げられる。
 トンネル内は最高1150度になる。焼成後、燻化ガスで約1時間のいぶし作業をする。

 このたびの新調瓦の製作には、完成までに約2週間かかったそうである。120年前の再建当時、職人を含めて延べ約三十六萬人の人々が、六年の歳月をかけて製瓦に携わった志貴野製瓦場の跡地には、記念碑が建てられている。瓦の品質は120年の技術の進歩で、瓦の軽さ・耐寒性・吸水性といった物理的性質は改良されたが、今回の改修では再使用を含めて古い明治瓦の約70%が再資源化の対象となっている。
 また、御蔭堂には鬼瓦が26個存在するが、一番大きいのは大棟の鬼瓦で、高さ・幅約4m、重さ3トン、30個の瓦で作られている。痛みが少なかったので120年前の明治瓦を再使用したと記載されている。

 以上は、東本願寺が作成した資料や見学時に聴取した内容をベースに筆者の責任で編集したもので、間違っている点があれば指摘してほしい。また、瓦や煉瓦の幕末明治期における製法の変化に興味があるので、引き続き調査したいと考えている。

32)田邊朔朗が疏水着工前に設計したアーチ橋

1)田邊朔郎が設計した時期について
 「琵琶湖疏水の100年誌」の水路閣の解説欄に、“こぼれ話:明治のアーチ橋を保存”として下記記事がある。

 京都新聞の「京滋橋ものがたり(03−07−27)」にも取り上げられているが、現在の姿を“京都から丹波路へ入る国道9号・老ノ坂トンネルを抜けると、わき道に人知れず小さな古い石橋が目にとまる。車を下りて眺めると石橋の横に車の行き交う新王子橋、さらに京都縦貫道路の大きなアーチ型の橋が架かる。保津川の上流鵜ノ川の谷をまたぐ明治・昭和・平成の三代の橋のそろい踏みが山間の緑に映えて美しい“と紹介している。
 そして、田邊の疏水工事着工は翌明治18年、時の北垣知事が大工事の前に米国帰りの青年の技術を試すために架けさせたのではないか、ともいわれていると解説しているが、田邊朔朗の年賦をみると、
  明治14年(1881)10月 卒業論文まとめのため、疏水路線の現地調査実施
  明治15年(1882)04月 北垣知事が東京で初めて田邊朔朗と面談
  明治16年(1883)03月 朔郎、工部大学校(現東京大学)を卒業
  明治16年(1883)05月 京都府に採用される
  明治17年(1884)03月 田邊朔朗設計の王子橋が完工
  明治18年(1885)06月 琵琶湖疏水着工
  明治22年(1889)01月 田邊朔朗・高木文平米国調査を終えて帰国
  明治23年(1890)03月 琵琶湖疏水完工

であり、王子橋の設計・建設期間を考慮すると朔郎が設計したのは在学中で、王子橋の完成した約2年前の明治15年に北垣知事から田邊朔朗(面談時?)に設計依頼したと考えられる。また、米国帰りの青年の技術を試すため・・・の記事は間違いと考える。
 
 石橋について、情報検索すると、石橋の架橋技術は江戸時代に中国からいくつかのルートで日本に伝来し、九州地区で多く建造され、平成10年(1998)に雄山閣出版鰍ゥら発刊された「橋の文化誌」によると、“全国で現存するアーチ型石橋は1030橋で、その960橋が九州に集中している(山口祐造氏発表)“である。明治初期までに架けられたアーチ型石
橋約600橋の半数近くが熊本県に集中しているという報告もある。

2)王子橋が土木学会選奨土木遺産に認定
 土木学会選奨土木遺産とは、社団法人土木学会が、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として選奨する賞で、平成12年(2000)に創設された権威ある賞である。平成19年(2007)度に「王子橋」が選ばれ話題になったが、その経緯について紹介する。
 明治17年(1887)に建造された王子橋は、前項で紹介したごとく京都府の技術者の手により進められた「京都宮津間車道開削工事」によって建造された8ヶの石橋の一つで、現在では舞鶴市の旧岡田橋と王子橋の二つが残っている。
 橋の寸法は長さ28.4mで、九州以外では一番長い径間(18.0m)を誇る見事なアーチ型石橋である。欄干部分は昭和9年(1934)に増幅されたが、橋本体は当時のままである。
 土木学会の選奨理由として、・・・「輪石と壁石が夫婦天端で一体化した非常に珍しい構造形式を持つ道路橋(現在は人道橋である。)」・・・と説明されている。

 アーチ型石橋は、石の自重と全体のバランスで支えあう技術であり、紀元前数千年前に建造されたローマ時代の水道橋は、下を潜り抜けるのが怖いほどの見事な高さを維持し続けている。九州の石橋群は伝来した技術の模倣であるが、王子橋は伝来した技術に学問的解析を加えて設計された橋として意義深いと考える。現在の王子橋は人道橋となっているが、歩く人影もほとんど無く、静かに歴史を伝えている。
 なお、欄干工事で撤去された石製の親柱は近くの王子神社に移されていたが、そのご、の橋の側に移されている。

33)北垣知事が最初に着工した土木工事

1)京都宮津間車道開削工事と琵琶湖疏水工事に関する話題

 北垣国道が京都府に着任して推進した土木工事は、次の2件である

 今回は、琵琶湖疏水よりは知られていない車道(京都宮津間)の開削工事に関係する話題を紹介する。
 前報(C‐03‐32 田邊朔郎が疏水着工前に設計したアーチ橋)で、京都宮津間車道開削工事の中の「王子橋」の設計を田邊朔郎が実施したと紹介し、王子橋の設計時期を京都府に採用される前と推定したが、残されている王子橋建設記録には田邊の名がないとの資料もあるので、もう少し詳しく調べてみた。
 平成14年8月付の京都新聞連載「みやこの近代」に、同志社大学教授の高久嶺之介氏の京都宮津間車道について詳細な報告がある。これによると、明治13年(1820)7月に京都府会が、同計画を槇村知事に請願して拒否された翌年の明治14年(1821 )5月の府会で、後任の北垣知事がこれを承認した。この道は厳しい山道・峠道の連続で、当初の計画では5年間・17万5千円余の建設費を予定したが、難工事のため最終的には8年間・31万8千円余の費用となった。この工費の調達には北垣知事の政治力によったところが大きかったと報告されている。
 京都新聞(08−04−17付)によると、この工事を請け負った地元の有力者が工事の難航で資金が尽き、山林を抵当として低利融資を求めた嘆願書(明治18年2月付)が京丹波町の民家で発見されたと報じているが、当時の公共工事はまず請負人が費用負担し、完成後に公金を支払うシステムだったと解説している。

 本論に戻るが、末尾に添付した北垣国道の年表に、京都宮津間車道開削工事(赤)と琵琶湖疏水工事(青)の年表を重ねて、田邊朔郎が設計した王子橋について推論してみると、
@ 北垣国道が工部大学を往訪し、大鳥圭介学長から、琵琶湖疏水開発の論文をまとめた田邊朔郎の紹介を受けたのが初めての面談である。その直後北垣は、京都宮津車道工事の王子橋の設計者についても大鳥学長に相談したところ、田邊朔郎の提案を受けて琵琶湖疏水とともにお願いをした。
A 当時、石橋の設計技術は日本でも実績があり、田邊朔郎はすぐ設計に取り組んだが、王子橋が完工するまでに最初の面談から3年弱の期間がある。石橋建設の工期は2年くらいと推定されるので、この間に実施できたと考える。
B 北垣が初めて田邊と面談したとき、田邊は学生であり、正式に京都府に任官したの
が約1年後である。したがって、王子橋設計者として田邊の名が残っていないのは、知名度が少なかったためで、田邊朔郎設計と知られたのは建設後のことと推定できる。田邊は土木を専攻したが、建築・機械・電気分野にも通じるマルチ技術者であり、王子橋という関西地区では珍しい構造の石橋を設計したとしても不思議ではない。

2)若き日に漢学を習った北垣国道
 末尾の略歴に示したように、北垣国道は儒学の素養を持つ父の勧めで池田草庵のもとで論語など漢学を学び、約20年間師弟の関係にあったという。池田草庵(1813〜1878)は但馬の生んだ偉大な儒学者で、門下生からは明治の近代化を目指す多くの人材を輩出している。
 北垣国道は、琵琶湖疏水の建設にあたり、3ヶ所に扁額・石額を残している。一つは第一トンネルの内部に「寶祚無窮」(国の福運は永久に続く)という石額を設けており、トンネルを通過する船客に親しまれた。他の二つは、インクラインの下をくぐるトンネル道「ねじりまんぽ」の両洞門に「雄観奇想」「陽気発處」の2枚の扁額を掲げている。
 京都宮津間車道の旧栗田(くんだ)隧道の洞門に「撥雲洞」という北垣知事の揮毫した石額がある。北垣は晩年「静屋(せいおく)」と号して多くの書を残している。
 明治時代の政治家の多くは漢学の素養が深く、近代化の象徴と言える明治の大型土木工事には、多くの政治家の揮毫文字が残されている。

3)北垣国道に関する雑話題
@ ねじりまんぽの扁額文字
上述の「陽気発處」の言葉は中国宋代の儒学者である朱熹の言葉「陽気発處金石亦透、精神一到何事不成」から引用されたものといわれており、インクラインとねじりまんぽのある蹴上の地に相応したすばらしい詩と考える。
A 嵯峨路にある祇王寺について
祇王・祇女の事跡のある祇王寺は、明治時代の初めに廃寺となり、木像や墓は大覚寺に保管されていたが、北海道勤務の明治28年(1895)に再建の話を聞いた北垣は、
嵯峨の自分の別荘内にある茶室を寄進して本堂とし、再建を果した。
B 塵海と静屋
「塵海」とは、琵琶湖疏水建設前後に北垣が記した日記帳の名前であり、おそらく中国由来の漢書から引用したと推定される。「静屋」は晩年に用いた北垣の号で、京都時代の最後に鴨川運河の完成前に追われるように北海道長官となり、4年間の北海道勤務を終えて地方官としての人生を終わったときの心境を表している。明治時代を駆け抜いた一人の政治家の全身銅像が夷川舟溜りの地に建っている。
              
北垣国道略歴

天保07年(1836)    養父市能座村の庄屋・北垣家の長男として生れる
天保14年(1843)7才  父の勧めで、青渓書院・池田草庵のもとで漢学を学ぶ
慶応01年(1865)29才  生野義挙に参加して失敗、因幡に逃れ、偽名で鳥取藩に仕官
明治01年(1868)     山陰道鎮撫史の西園寺公望軍・北越征討軍に参加して軍功
明治02年(1869)     弾正小巡察に任官
明治03年(1870)     弾正大巡察に昇進、北海道・樺太を視察
明治04年(1871)     弾正台廃止に伴い開拓使(北海道)
明治07年(1874)     鳥取県参事
明治08年(1875)     元老院書記官に着任
明治10年(1877)41才  熊本県書記官(西南戦争直後の困難時に赴任)
明治12年(1879)      高知県県令(自由民権運動のはげしい時に赴任)
明治13年(1880)     徳島県県令を兼務(阿波を分離して県として独立させた)
明治14年(1881)45才  1月東京の次に位置する京都府知事に着任(京都再建のため)
               4月、北垣知事が東京で初めて工部大学生の田邊朔郎と面談
               5月、京都宮津間の車道開削工事計画を承認

明治15年(1882)     1月、京都宮津間の車道開削工事を着工
               (?)田邊朔郎設計の王子橋(京都宮津間の車道)着工

明治16年(1883)     05月、田邊朔郎、京都府に採用
               11月、北垣知事が状況し、琵琶湖疏水起工特許を請願
明治17年(1884)     03月、田邊朔郎設計の王子橋(京都宮津間の車道)が完工
明治18年(1885)     06月、琵琶湖疏水工事着工
明治19年(1886)     京都宮津間の栗田隧道完成(洞門に北垣の揮毫文字あり)
明治22年(1889)     08月、京都宮津間の車道掘削工事完工
明治23年(1890)     03月、琵琶湖疏水工事完工
明治25年(1892)56才  07月、北垣知事、第四代北海道庁長官に転出
               11月、琵琶湖疏水・鴨川運河工事着工
明治27年(1894)     09月、琵琶湖疏水・鴨川運河工事完工
明治29年(1896)     北垣長官退任、拓殖務次官(地方官の幕を閉じる  男爵
明治32年(1899)     貴族院議員
明治35年(1902)     京都市参事会の議決により、夷川に全身銅像が建立された
明治45年(1912)     枢密顧問官
大正05年(1916)79才  京都土手町の自宅で79歳の生涯を閉じた

34)人工水路に応用される逆サイホン技術
 
1)琵琶湖疏水における逆サイホン技術の応用例
 一般に人工水路を造成する場合、既存の河川・道路・鉄道など障害物と交差することが多いが、この場合、障害物の上に橋を架けてまたぐ「水路橋方式」と障害物の底をくぐる「逆サイホン方式」がある。琵琶湖疏水の場合、山科疏水と安祥寺川・疏水分線と南禅寺境内・東山用水とJR東海道線などでは水路橋方式、疏水分線と白川・洛東用水と四ノ宮川・洛東用水とJR東海道線などでは逆サイホン方式を採用している。

JR東海道線の上を通る東山用水の水路

四ノ宮川と逆サイホンで交差する洛東用水

2)逆サイホン技術の歴史について

 日本の用水路の歴史は、弥生時代の稲作文化とともに海外から伝来した農業用水が起源といわれているが、農業用水路に多く利用されている堰、樋門、逆サイホンなどの土木技術も伝来技術と想像するが、細部はまだ未調査である。
 「逆サイホン技術」が農業用水路に実用されたという記録は、下記例のごとく江戸時代初期からで、「伏せ越し」の名で登場している。

 江戸時代初期において、逆サイホン技術の最大の難点は、地中に通す水路の材質の選定であった。金属管・コンクリート管などのない時代で、木製の水路が採用された。
 辰巳用水の記録(京都新聞04−06−28)によると、コの字形の木材を隙間なくつないで水漏れを防ぐ「木管連結」は、当時の土木技術の粋を結集したものと記載している。しかし、木材は地下配管材料としては不適で、江戸時代の後期には石管の採用が相次いだ。
 記録に残っているものとして、金沢市の「辰巳用水」では天保14年(1834)に木樋を石樋(凝灰岩をくりぬいたもの)に交換し、漏水を防ぐため継手に厚く松脂が塗られたと記載されており、嘉永7年(1854)建設の熊本県矢部市の「通潤橋」に採用された逆サイホンの石管では、漏水を防ぐため継ぎ手に塩を混ぜた漆喰を使用したと記録されている。

 明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水の疏水分線を堀川までつなぐ工事では、高野川と賀茂川と交差するところに「逆サイホン」が採用され、当初「木樋」が採用されたが、改修時にコンクリート管に交換された。
 昭和36年(1961)に完成した愛知用水の大高サイホンは、JR東海道線・新幹線・国道・溜池などの下をくぐって、丘から丘をつなぐ内径3m、延長548mのコンクリート製巨大サイホンで、大型機器を活用した日米合同の工事として注目されたことを思いだした。

 逆サイホン技術は各所で活用されているが、外見からその存在を確認することは難しい。水路が急に暗渠にはいり、離れた位置にある暗渠から顔を出している。琵琶湖疏水系でもっとも新しい「逆サイホンのライン」は今年の3月29日に通水式が行われた堀川である。第二疏水分線の水が加茂川の底をくぐって紫明通に顔をだしている。

加茂川の東側にある逆サイホンの入り口

加茂川の西側にある逆サイホンの出口

 逆サイホン水路の欠点として雑廃棄物による水路の詰まりがあり、定期掃除が必要であったが、最近の新設サイホンには、掃除機能のついたものも存在している。
 動力や機器の開発が進んだ時代となったが、逆サイホンの原理は今後とも利用されつづけていくことは間違いない。

35)インクライン関連情報のまとめ

1)インクライン記事の投稿件数

 ホームページの投稿数が多くなると、分類も乱れてくるし、記事を探すのに時間がかかるようになる。ホームページ内のグーグル検索のボタンを設けたが、「インクライン」で検索したら26項目もでてくる。ここでは、投稿報告書のリストを中心にまとめてみた。
 私が琵琶湖疏水の散策および調査を本格的に実施してから、インクラインに関する記事をホームページに投稿したのは下記7件である。


(分類Bは散歩道、Cは技術を表す)

                         
 第1項は、琵琶湖疏水記念館を初めて訪問し、蹴上インクラインを初めて歩いた約6年前の印象を2ページにまとめた幼稚なレポートである。
 第2項は、舟運以外の分野で活用されたインクラインを検索調査してまとめたもので、鉱山の斜坑・森林鉄道・ダム発電所の工事用など水運より歴史が古いことを説明。
 第3項は、伏見インクライン跡を初めて散策したときの報告書。
 第4項は、加山昭氏の「アメリカ鉄道創生記」の紹介記事で、鉱山用インクラインが18世紀末に登場しており、両勾配式インクラインは米国で実用化されたらしい。
 第5項は、日本鉄道建設公団が地下鉄東西線工事で蹴上インクラインの施設の一部を解体し、工事後復元したときレポートをまとめている。この報告書に加筆して蹴上インクラインの詳細年表をとりまとめた。
 第6項は、片勾配式と両勾配式の比較考察、蹴上と伏見の両インクライン比較結果をまとめたもので、琵琶湖疏水の水位対策にインクラインが果した役割を解説した。

 インクラインの専門学者による解説論文などは未調査であるが、専門外の人による解説記事も見当たらない現状にある。どんな技術でも歴史を解説することは底が深いので、間違いも多いと思うが、修正を重ねていきたいと思う。本記事とホームページ内検索ボタンを組み合わせれば、必要記事を見付け易くなるので利用してほしい。
               
2)蹴上公園にあるインクライン解説板 

 @ インクラインの頂部(蹴上舟溜)にある説明板


03−05−05−6129 台車と水中滑車

03−05−05−6130 説明板

A インクラインの線路中央部にある解説板
インクラインの線路上の中央部に三十石舟の運搬架台(舟は老朽化して撤去)があり、その横にインクラインの解説板が存在する。

09−08−22−2365 解説板(左手)と架台

09−08−22−2366 解説板

 この解説板は水道局が、京都市で第三回世界水フオーラムが開催された平成15年(2003)3月に設置したもので、その内容は、建設前の段階から、着工に到るまでの経緯を説明し、琵琶湖疏水による舟運の歴史とその終焉までをくわしく説明している。
ここでは、舟運とインクラインに関係ある部分の全文を紹介することにした。

 本項と前項を合わせると、インクラインの全容を把握することが可能であり、インクラインの最下部から階段でつながっている琵琶湖疏水記念館には、50分の1サイズのインクライン模型があり、電動操作で稼動状況を見学することができる。この2枚の説明板については、その前を通過しても全文を読む機会がなかったので、手許の記録を兼ねて引用させていただいた。

B 琵琶湖疏水記念館に展示されているインクラインのレール見本
 インクライン建設のときに使用された明治20年(1887)製造の鋼鉄製37kgレールの断片が記念館に展示されている。“当時の鉄道では英国式の錬鉄製双頭レール(上下ひっくり返して再使用できる)がよく使われていたので、この鋼鉄製平底型レールは当時の最新型でした”と説明されている。
 インクライン用レールは消耗品で、磨耗度によって交換されるが、前述した私のホームページの弟5項にレールの関連記事があるので、興味ある方は開いてほしい。

36)琵琶湖疏水工事の煉瓦の話題(2)

本ホームページで過去に煉瓦の話題を5回取り上げている。


そのご若干の情報が集ったので、整理の目的でまとめてみた。

琵琶湖疏水用煉瓦製造に関する記述と話題

1) 「琵琶湖疏水の100年誌」129〜130ページの記事を要約すると、明治初期における大型需要向け煉瓦製造は、そのほとんどが自営工場で製造された。輸送機関の整備されていない時代は、輸送費用を節約するため、需要地の近くに煉瓦工場を建設したのである。
 琵琶湖疏水も1400万本の需要を満たすため、燃料や原料粘土の調達面から宇治郡御陵村が選ばれた。工場は4.4haの敷地に10棟、12ケ所に6段あるいは12段の登り窯を築き、本場の堺から技術者を招いて指導を受け、明治19年7月21日から事業を始め、同22年10月31日に閉鎖するまで1368万余個の煉瓦を焼き上げた。事業に使用したのは1073余個であった。御陵工場は自営工場の最後の例(以後は専門メーカーが供給)となった。

2)山科綾ヶ岡小学校のホームページに「疏水の煉瓦工場」と題して次の記述がある。煉瓦工場の場所は確定していないが、原西町から封じ山にかけて広い面積であったと推定される。この地方から煉瓦屑が大量に発見されていることから間違いない。記録によれば、三条通から疏水にかけて幅2〜3間の新道を、煉瓦運搬のために新設したとあり、この道は現在永興寺道とも百花園道とも呼ばれている道に該当し、及川商店の横から疏水の太鼓橋にいたる道である。当時煉瓦職人は近郊にいなかったので、京都の建築家・三上古兵衛という人の手で集められたと伝えられている。

3)京都新聞連載「風雪京都市」S43−03−24によると、煉瓦工場では多くの囚人が作業をしたと記載されているが、「琵琶湖疏水の100年誌」の年表によると、明治21年(1888)2月28日から煉瓦工場のうち北工場を監獄に委託し、服役者に製造させたと記述されている。「疏水を拓いた人びと」(京都教育史サークル著)によると、煉瓦工場の労務者の約4割が服役者であったと記載している。
   
4)本ホームページの第22話にも紹介したが、地下鉄御陵駅の2番出口の向って左隣りに、疏水竣工百周年を記念して、京都洛東ライオンズクラブが平成元年11月記念碑「琵琶湖疏水煉瓦工場跡」を建立し、その文字盤に下記文章が刻まれている。
 「琵琶湖疏水100年誌」の画集・田村宗立39番に明治20年(1887)に描かれた煉瓦製造所全景があり、前景に牛車や人力車が描かれている。煙突は4本であるが、煙突は後に8本になったと田邊朔郎が昭和12年(1937)に付記している。

5)京都府総合資料館が発行している「総合資料館だより」No.149(06−10−01)に、御陵煉瓦工場跡地の行方と題した記事がある。要旨を紹介すると、工場跡地13,500坪(内4,000坪は政府買上げ地)の有力な活用策として、陸軍の火薬製造所にする案が検討されている。
 清国との戦争をにらんだ明治20年代前半には、中国大陸に近い関西での火薬製造所の建設が課題となっており、関係文書が残っている。この問題は予算面で後回しとなり立ち消えとなったが、日清戦争開始後の明治27年に黄檗火薬庫に隣接する宇治郡宇治村五ヶ庄に火薬製造所の設置が決まった。宇治製造所の敷地は17万坪あり、御陵を利用した場合は敷地の狭隘と運び出し時に京都市街地を通過するという欠点があったためと推定されている。

6)織田直文著「琵琶湖疏水」の192〜194ページに、煉瓦工場の技師として採用された菊田宗太郎の経歴について記述している。菊田を紹介したのは疏水事務所の尾越署長である。菊田家は徳川幕府に仕え、京都町方元締役をしていたが、明治初期に島津藩を京都で接待したのがきっかけで、島津藩の笠野と縁組している。この笠野に明治6年(1873)工部省から煉瓦納品の命が下り、笠野の世話で菊田は堺の煉瓦製造所で従事することになった。
 工部省は明治3年(1870)に堺に鉄道用の煉瓦工場を設置しており、菊田は英人技師の指導で煉瓦製造技術を習得し、若干19歳で職工の指揮にあたったという。菊田はそのご京都府に出仕し、府の警察署に勤務していたが、尾越疏水所長の説得で疏水事務所に入り、煉瓦製造の責任者となり、工場設計は職工集めに奔走したという。

37)インクラインに復元された三十石船

1)HP内の十石舟・三十石船に関する過去の報告

 疏水舟と各地の川舟のサイズや建造方法、舟大工の統計資料などについて、ホームペー
ジ内の次の2報に集約している。
  C(技術)−03(技術全般)−25 十石舟と三十石船の話題―(1)・・・08−04−05
  C(技術)−03(技術全般)−26 十石舟と三十石船の話題―(2)・・・08−04−05

平成15年(2003)の第三回世界水フオーラム開催時に、「京都商工会議所」が大津市杢兵衛造船所で十石舟2隻を建造して、鴨東運河で就航させて話題になったが、今年の3月に「京都滋賀県人会」がインクライン線路上にある船架台に三十石船2隻を復元した。
 本報では新しい三十石船の話題を中心に紹介する。

2)新しくインクラインに復元された三十石船
 寄贈した「京都滋賀県人会」は昭和35年(1960)に発足した団体で、近江商人の気質を受け継ぐ京都在住滋賀県出身の約400人が所属している。毎年、滋賀県・京都新聞と3者共済で「江州音頭フェスティバル京都大会」を開催している。
 今年は、京都滋賀県人会の発足50周年にあたるのを記念して、水を通した滋賀京都の結び付きを形で示すため、インクラインに2隻の三十石船を大津市杢兵衛造船所に発注し、3月28日京都市に寄贈した。
 前に製作した十石舟(全長8m、全幅1.9m)は杉材を用いたが、今回の三十石船(全長11.6m、全幅2m)は国産ヒノキ材を用い、昨年12月から船大工3人が作業に取り組んだ。

 インクラインの頂部(旧蹴上舟溜り)に復元された三十石船(大神宮橋上から写す)は、 

復元前の船と架台(08−02−11−839)

復元後の船と再塗装された架台(10−03−30−867)

 インクライン中央部にあった三十石船と架台を示すと、

半壊した三十石船と架台(01−09−25−3281)

船が撤去されて架台のみ(07−01−12−669)

 今回復元された写真を示すと、

復元された三十石船と再塗装された架台(10−03−30−889)

説明板(10−03−30−887)
 
架台から旧三十石船が撤去された時期は不明であるが、5年くらい前である。新しい説明板には、次のように記載されている。

38)蹴上発電所の柵外に初めて設置された説明板

1)疏水系にある発電所関係報告

 このホームページ内に、疏水関連の水力発電所に関する報告が6件存在する。
@ C−03−03 日本における水力発電の歴史について(04−07−07)・・・・第097話
A C−03−04 蹴上発電所の創建に貢献したデブロー氏(04−08−30)・・・第101話
B C−03−05 宇治川に存在する3ヶ所の水力発電所(05−06−16)・・・・第128話
C C−03−11 蹴上発電所の見学記(06−01−24)・・・・・・・・・・・・第154話
D C−03−12 墨染発電所と夷川発電所の概要(06−01−26)・・・・・・・第155話

@では、明治15年(1882)に薩摩の島津斉彬が出力5kwの実験用水力発電装置を建設したのが最初で、明治21年(1888)から明治23年(1890)にかけて宮城紡績(宮城県)、
下野麻紡績(栃木県)、足尾銅山・間藤発電所が自家用水力発電所を建設しているが、明治24年に運転を開始した蹴上発電所は、「日本最初の営業用水力発電所」であると解説した。
 Aでは、田邊朔郎と高木文平が渡米してアスペンを訪問するまでの経緯を、高木家に伝わる資料から詳細に調査し、アスペン工場の数日間の滞在で水力発電のノウハウを吸収できたのは、面談したデブロ−氏(フランス貴族出身)が工学・鉱山学の専門家で、マルチエンジニアーの田邊朔郎の間で密度の濃い討議ができたことを紹介した。
 Bでは、疏水系にある蹴上・夷川・墨染の3発電所と宇治川系の喜撰山・天ヶ瀬・宇治の3発電所の特徴を解説した。
 CとDでは、特別の見学許可をいただいて、平成4年(1992)に蹴上発電所と墨染発電所を訪問したときの見学記をとりまとめた。

 その後、平成19年(2007)、経済産業省が選定した「近代化産業遺産」に蹴上発電所が認定され、平成22年(2010)春に関西電力(株)は、蹴上発電所の由来と関連文化財を紹介する4枚の説明板を外側に設置したので、その詳細を紹介する。

2)蹴上発電所の外側に設置された説明板
 蹴上発電所は、琵琶湖疏水系でもっとも重要な存在で、その由来は世界に誇る内容を持っており、その場所も疏水系の要(かなめ)といえる位置に存在していたが、発電所の周辺には名称も由来書もまったく無く、何らかの対応が望まれていた。
 関西電力鰍ナは、平成22年(2010)3月に待望の説明板4枚を設置したので、その要旨を速報としてブログ(http://blog.goo.ne.jp/kankanbow/d/20100401)157番で紹介したが、ここでは少しくわしく紹介する。
 4枚の説明板は三條通に面した蹴上発電所正門の外柵の左側に存在する。判読を願って拡大して示した。            

水力発電事業発祥の地 蹴上発電所のあゆみ  (10−03−23−815)

第1期  蹴上発電所 (10−03−23−816)

第2期  蹴上発電所 (10−03−23−817)

第3期  蹴上発電所 (10−03−23−318)

39)リニュ−アルされた天ヶ瀬ダム見学記

1)まえがき
 昨年2月、NPO法人瀬田川リバプレ隊企画の現地ツアー「見る・知る・学ぶ−淀川の今と昔」に参加させていただき、その結果をまとめて本HPのB‐07‐10(338話)とB‐07‐11(339話)に報告している。
 今年5月には、三川合流までの「天ヶ瀬ダム、流れ橋、東一口、久御山排水機場」の現地ツアーに参加させていただいた。事前に詳細な関係資料が郵送され、基礎知識を把握して見学させていただけるので、見学効率が大きくアップするが、事務局の後藤三郎さんの努力に感謝したい。本稿は「天ヶ瀬ダム」に焦点をあててまとめた。

2)天ヶ瀬ダムの概要
 見学資料によると、所管は「国土交通省淀川ダム統合管理事務所天ヶ瀬ダム管理支所」という国土交通省直轄のダムであり、資料から“設置経緯”を引用すると、
   昭和28年に13号台風が襲来し、淀川に未曽有の大洪水をもたらしました。淀川の基準地点(枚方)では、計画洪水流量6950トン/秒をはるかに上回る7800トン/秒を記録し、中でも宇治川向島で破堤、沿岸地帯では甚大な被害をこうむりました。それをきっかけとして、淀川水系の治水計画が大幅に見直され、淀川水系改修基本計画が昭和29年に決定され、昭和34年「洪水を防ぐ」・「電気を作る」・「飲み水を供給」の3つの目的で、天ヶ瀬ダム建設に着工、昭和39年に完成した多目的ダムです。

 ウィキペディア資料よりダム諸元を引用すると、
   ・河川     淀川水系淀川          ・電気事業者   関西電力
   ・ダム湖    鳳凰湖(公募で命名)      ・発電所許可出力
   ・ダム形式  アーチ式コンクリートダム      天ヶ瀬ダム92,000kW
   ・堤高     73.0m                  喜撰山ダム466000kW
   ・堤頂長    254m                ・施行業者    大林組
   ・堤体積    122,000立方メートル
   ・流域面積  4,200平方キロメートル
   ・湛水面積  188ha
   ・総貯水容量   26,280,000立方メートル
   ・有効貯水容量 20,000,000立方メートル

3)天ヶ瀬ダムの見学記
 天ヶ瀬ダムな、年間約5万人が訪れる宇治の観光地の一つであるが、危険防止のため、平成20年(2008)12月から一般開放を禁止し、改修工事を行ってきたが、頂上部の転落防止用側壁や通路を改修し、平成22年(2010)4月から一般開放を再開した。
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10‐05‐23‐1275 説明を受けた管理支所の外観
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10‐05‐23‐1276 アーチ型天ヶ瀬ダムの外観

 通路の側壁の高さは、従来の高さより20cm高い1.3mになり、手すりも転落防止を考慮した構造に替えられ、ダムや宇治の歴史、源氏物語の宇治十帖などを解説するパネル100枚が設置された。小雨の天候であったが、珍しい構造の「ドーム型アーチ式コンクリートダム」を楽しむことができた。

4)天ヶ瀬ダム湖にあつまる「ごみ問題」

 天ヶ瀬ダム管理支所での説明会のあと、リバプレ隊員が記録したダム湖に集積したゴミの収集作業のビデオが放映された。
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10‐05‐23‐1278 鳳凰湖の表面に仕切られた柵
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10‐05‐23‐1282柵内のゴミをクレーンで除去

 配布された新聞記事(S45‐05‐27)によると、天ヶ瀬ダムは上流の集水流域面積が、淀
川水系の53%あり、とくに琵琶湖を含んでいるので、ゴミの集積量が年々増加し、ゴミの捨て場が限界に達していると報じている。当時、ゴミの量が1回でトラック200台に達し、宇治市が滋賀県のゴミを引き受けている形で、国土交通省も対策に頭を悩ましている。ゴミの質も経済発展とともに変化している。その間回収機器や回収方式も改良されているが、難問であり、リバプレ隊も問題解決に取り組んでいる。

5)天ヶ瀬ダム建設で水没した「大峰ダム」
 過去に聞いた話であったが、大峰ダムの細部知識がなかったので、少し調べてみた。大正13年(1924)、志津川発電所へ送る水を堰き止めるため、高さ30.6mの重力式コンクリートダム「大峰堰堤」が建設され、最大出力28,000kWの志津川発電所が稼働した。当時最大級の発電所であったが、昭和39年(1964)に完成した「天ヶ瀬ダム」によって出現した鳳凰湖に堰堤が水没してしまった。
 同時に志津川発電所も稼働を停止したが、発電所の赤レンガ建物は近代化遺産として維持されており、現在民間の「ニューエジック水理実験所」の施設として利用されている。
 舟運の歴史は、大正13年完成の大峰ダムや昭和39年完成の天ヶ瀬ダムによって、影響を受けたので、別途情報を集めて整理したいと思っている。

6)天ヶ瀬ダム再開発計画の推移
 淀川水系の4つのダム(丹生ダム・大戸川ダム・川上ダム・天ヶ瀬ダム)の整備計画については、国土交通省の推進派と地方自治体の凍結派の間にはげしい討論が重ねられてきた。
 天ヶ瀬ダムの場合、平成元年(1987)より、洪水調節機能の強化と新規利水を目指し、国内最大規模の放水路トンネルを建設する「天ヶ瀬ダム再開発計画」が進められてきたが、反対運動や水需要の減少などにより、平成15年(2003)に計画の見直しが図られた。
平成17年(2005)の淀川水系流域委員会の答申でも計画中止が妥当とされたが、国土交通省の推進意向のまま、実質的には検討中断の状態になっている。

40)琵琶湖疏水記念館特別展「疏水分線の移り変わり」

1)過去の特別展について
 琵琶湖疏水記念館では、ときどき特別展が開催されているが、その内容は、初公開資料を含めて研究資料としても評価される内容のレベルのものである。私の記憶している見学は今回で下記の5回目となる。
 平成19(2007)年春  琵琶湖疏水と京都御所用水
 平成19(2007)年秋  松ケ崎浄水場の誕生
 平成20(2008)年秋  琵琶湖疏水と電気事業
 平成22(2010)年春  琵琶湖疏水の風景(絵画展)
 平成22(2010)年秋  疏水分線(蹴上〜哲学の道〜銀閣寺)の移り変り

2)今回の特別展の要旨
@ 話題―1
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10-11-18-300 見学案内
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10-11-22-3070 説明資料(特別展説明資料)

 今回の展示でもっとも注目される資料は、島田道生の「疏水分線実測図」(初公開)である。この図(縦1553mm、横2076mm、)の作成時期は、常設展示図録の2点と同じく、疏水工事着工前の明治16(1883)年と紹介されている。
    従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路目論見実測図(明治16年4月)…………島田道生作
   近江国琵琶湖ヨリ京都鴨川筋エ通水路目論見実測図(明治16年11月頃)…記載なし
   
琵琶湖疏水蹴上白川間通水路目論見実測図(明治16年頃)…………………島田道生作
 明治16(1883)時点の計画では、疏水分線が灌概と舟運を兼ねた疏水本線であり、現在と異なっているが、田畑の多い当時の岡崎地区の様子がうかがえる図である。

A 話題―2
 高齢者の琵琶湖疏水に関する話題は、水路や船溜りで水泳をした思い出が圧倒的に多いが、写真として残されているものは少ない。先日も、「南禅寺プール」の写真はないか?と尋ねられ、古い京都新聞の連載にあった写真を紹介した。今回の展示写真に「若王子プール」も私にとって初めての写真であり、解説であった。
 昭和31(1956)年に撮影された写真で、…若王子プールは疏水分線の遊水池を利用したもので、大正8(1919)年7月に京都市教育会が設置した…と紹介し、昭和28(1953)年には改装されたと記載されているが、各地に設置された疏水水泳場の写真や記録は、まだまだ残っていると思うので、もっと集めて公開してほしい。(個人では集めにくい)

B 話題−3
 個人的な話題で恐縮だが、「若王子プールの小便小僧」には興味を持った。私の若い頃にベルギー・ブリュッセルのEEC本部を訪問(昭和37年9月)したことがあったが、家族に出した絵葉書に小便小僧の画像を選んだ。私の会社の欧州事務所がブリュッセルにあったので、その後、実物も拝見する機会があった。当時日本ではあまり知られていなかったが、この小便小僧は「ジュリアン坊や」と呼ばれ、市庁舎に仕掛けられた爆弾の導火線を小便で消して町を救ったという伝説がある。この「ジュリアン坊や」は衣装持ちで、全国から贈られた衣装による衣替えをするので有名である。
 今年のNHK番組で有名になった水木しげるのゲゲゲの鬼太郎の小便小僧が、出身地の鳥取県境港市にあるが、この小僧用の衣装も各地から贈られているという話題を聞いた。小便小僧をヤフ−ネット検索してみたら、写真だけでも6万件を超えるビッグサイトで驚いた。世界中の小便小僧の写真を楽しむことができ、「小便少女」という座った少女の像がブリュッセルに存在することも知った。
 今回の展示にある小便小僧の解説によると、作者は森野嘉光という日本を代表する京焼陶芸家で、のちに京都市文化功労者に選ばれた人であり、おそらく受注製作したと想像される。今回の展示でこの像が、かって「若王子プ−ル」の入り口近くにあり、現在も上下水道局に保存されていることを知り、昔の記憶を思い出すことができた。

C 話題−4
 案内資料の最初のぺージにある建設当初の水路閣の写真は、説明にもあるように、京都府立総合資料館所蔵の写真である。京都北山アーカイブズの中にある琵琶湖疏水工事写真というファイルに含まれている水路閣の3枚の写真の1枚である。この写真は京都府会議員として疏水工事に尽力した中村栄助の三男・元京都市長・高山義三の所有写真で、77枚
の写真のうち53枚が疏水工事の写真である。この53枚の写真の撮影場所の考察を、私のホームページF(文化)−芸術石学(2項)の13項にまとめている。53枚の写真の中で20枚が所在不明となっていたが、その中に第二疏水と疏水分線のトンネル工事と推定される写真があったので、平成21(2009)1月に府立総合資料館を訪問して相談したことがある。53枚の写真の撮影時期に幅があるので、今回配布された資料にある水路閣の写真の撮影時期が特定されていないのは正しい判断と考える。
 最近のデジカメ写真の電子記録には、撮影時間まで詳細に記憶されているので推定に困らないが、疏水工事が実施された明治初中期は、カメラの所持自体が珍しい時代であり、琵琶湖疏水の100年誌にも田村宗立と河田小龍の工事絵がまとめられている。
  山科地区では個人が所有する古い山科の写真を募集して、写真集「古今相照」を発行(山科区誕生30周年を記念して)した。琵琶湖疏水については、上下水道局が特定写真や工事写真を中心に継続保管しており、特別展などで紹介しているが、時々刻々変化する周辺の変化や季節の写真についての現在の記録の蓄積も重要と考える。

2)疏水分線の移り変わり
 今回の展示の題目は、「疏水分線の移り変わり」であったが、今回の内容は疏水分線の各場所の昭和の頃と現在の写真の対比が中心で、やや迫力に欠ける点があった。周辺を含めた疏水分線の姿は時代とともに、変化を見せており、工事面から少し解説してほしかった。
 展示場所の都合もあったと思うが、今後とも沢山の情報を持つ上下水道局の特別展を継続してほしいと願っている。