技術全般

21)京都近代化の幕開けを指導したワグネル博士

1)ドイツ人化学者ゴッドフリード・ワグネル氏の紹介
 明治初期に数多い外国人技術者が来日し、日本の近代化推進に活躍しているが、化学者ワグネル博士は知識レベルの深さ・実行力と幅広い分野における教養と人柄の持ち主であったため、その活躍ぶりは際立っており、いまでもその名は日本における科学分野の歴史の中で語り継がれている。とくに貢献した分野は陶磁器・顔料であるので、土木建築をメインとした琵琶湖疏水事業との関係は少ないが、明治03年(1870)から明治25年(1892)の在日期間が琵琶湖疏水の企画・建設・試運転操業の期間と重なっており、京都には僅か3年(明治11年から14年)しか在籍していないにもかかわらずその貢献度が大きいことと、京都の島津製作所鰍フ発足にも関与しているので、ここに取り上げた次第である。
 細部に入る前にワグネル氏の略歴を紹介する。


 経歴書に示すように大学卒業後の職運は悪く、日本にきてからもスタートは不運であったが、万国博覧会への出展時に抜群の活躍をして認められたあと京都に暖かく迎えられ、過した3年間に京都において近代化に大きく貢献し、また多くの後継者を育ててくれた。
 ワグネルは、最初から高給で来日したお雇い外国人と違いビジネスで来日したが、京都では月給400円という高給で迎えられ、欧州の最新の技術を用いて指導をしてくれた。
 ワグネルが陶磁器分野で挙げた成果をいくつか紹介すると、佐賀藩に雇われて有田焼の技術指導を実施した時、@石灰を用いた経済的な釉薬の開発 A呉須にかわる安価なコバルト顔料の使用 B薪不足を解決するための石炭窯の築造など何れも革命的な成果を挙げており、京都では陶磁器・七宝・ガラスの製法を指導し、透明釉を開発して京都の七宝に鮮明な色彩を導入したとWikipediaが報告している。

 東京職工学校では新しい陶器の研究に着手し、試験工場を設けて吾妻焼と命名(後に旭焼と改名)している。ワグネルは生涯独身であり、持病のリュウマチに心臓病と肺炎を併発し61歳で亡くなった。

2)岡崎公園にある巨大なワグネルの記念碑
 左京区の岡崎公園にある京都府立図書館の北側にある公園の中に高さ4m、幅10mの巨大な石碑が建っている。この碑は、大正13年(1924)万国博覧会参加五十年の記念博覧会が岡崎公園で開かれた際、京都市がワグネルの功績をたたえて建てたものである。

左京区の岡崎公園にある巨大記念碑

ワグネル人物像の拡大写真

 Wikipedia資料によると、ワグネルの記念碑は京都以外にも存在する。東京工業大学の有志によって昭和12年(1937)大岡山キャンパス内に和洋折衷様式の碑が建てられ、中央の肖像プレートは経時劣化のため、昭和58年(1978)に伊那製陶(現INAX)から寄付された複製が飾られている。また青山墓地にある墓碑には旭焼のレリーフがはめられてあったが、関東大震災などで損傷したので、没後90年の昭和57年(1982)に日本セラミック協会によって修復され、現在に至っている。このように100年以上を経過したあともその功績が称えられるお雇い外国人は数少ない。

3)ワグネルと島津源蔵
 島津製作所が昭和50年(1975)11月に「科学とともに100年―島津製作所の歩み」と題した社史を発行している。この社史に「ワグネルと島津源蔵」という小文がある。源蔵というのは島津製作所の創業者であり、源蔵の仕事場がワグネルの仕事場である京都舎密局の門前であった。したがって、ワグネルの指導をうけるというより、ワグネルの指導・実験を助ける機器類の修理新作にあたっては、源蔵はなくてはならない存在であったに違いない。表現を変えれば、住み込みの助手としてワグネルの持っている技術のすべてを吸収できたと言ってよい。

創業100年を記念して開設された資料館

木屋町二条南にある資料館の外景

 この資料館の中に、創業当時に使用した「木製足踏み旋盤」が保存されているが、これもワグネルから贈られたといわれている。
 私も科学技術者として生計を立て、科学技術史にも興味があったので、600点におよぶ展示品一つ一つの歴史の原点に接することができ感激した。この資料館は島津製作所の歴史とともに、日本の科学技術発展の歴史に触れることができた。今度は孫を連れていって説明したいと思っている。
 ワグネルは、数学・化学・物理・地学・結晶・機械と広い範囲の学識を持っており、京都舎密局(舎密『せいみ』とはオランダ語の発音で化学の意)で指導した範囲は、陶磁器・七宝・石鹸・ビール・顔料・合金・耐火煉瓦・マッチ・ガラスなどの製法ならびに電気メッキ・写真・石版印刷・染色などの技法であった。また医学校(京都府立医大)での理化学教授や舎密局での全般教授・指導も実施した。そしてワグネルの家には夜遅くまで質問を持った訪問客が絶えなかったという。なお、京都舎密局については別途項を改めて紹介の予定。

22)島津製作所・創業記念資料館を訪問

1)資料記念館の建設経緯
 資料記念館は木屋町二条南の木屋町筋の西側に位置し、向い側には高瀬川源流庭園をもつ「がんこ高瀬川二条苑」がある。ここは高瀬川の出発点であり、一之舟入と呼ばれる約850mの舟溜りが現存する、二条通に接する北端にある資料館の南に「創業碑」が建っているので、その全文を紹介する。

鉄柵の奥に見える黒色の創業碑

二条苑から見た資料舘の全景

 創業碑の前に立つ解説駒札の全文を紹介する。


2)創業記念館の見学
 舘内には、創業以来製造してきた理化学器械やX線装置ならびに事業活動に関する文献・資料などおよそ600点が展示されている。受付の横のコーナーには、島津製作所の歴史、初代・二代目源蔵の足跡を示す資料が展示してある、階段を上がると、ガラスケースの中に日本の理科教育を支えた実験器具が詰まっている。我々が使用した器具の初期のものが懐かしく並んでいる。
 さらに奥に進むと、明治時代の小学校教科書や理科実験器具の目録などが並んでいる。螺旋階段を降りると、歴代のX線装置が並んでいる資料館のもっとも広い部屋がある。隅に小さい特設コーナーとして、田中耕一のノーベル賞受賞の紹介がなされている。
 初代源蔵は、理化学器械の製造により、事業の基盤を創ったが、昭和39年(1906)当時の島津取扱品目のリストをみると、物理器械2,373点、化学器械合計3,000点を超える品目を揃えている。


3)創業当初から明治中期における島津製作所
 昭和50年(1975)に島津製作所から発刊された社史「科学とともに100年―島津製作所の歩み」によると、明治8年(1875)初代源蔵は35歳で、現創業記念碑所在地(木屋町二条下ル西生洲町南端の一小屋において理化学器械製造の業をはじめ、明治10年(1877)にスズ製ブージ(医療具)を第1回内国勧業博覧会(東京)に出品して褒章をうけている。
 明治14年(1881)に蒸留器・排気機・などを第2回内国勧業博覧会(東京)に出品して蒸留器は有効2等賞を受賞、明治19年(1886)には月刊誌「理化学的工芸雑誌」を創刊して、舶来の新技術の紹介と当時新進気鋭の学者の論文を掲載して論陣を張った。
 明治27年(1894)に初代源蔵が急死したあと、長男梅次郎が26歳で二代源蔵を襲名して、初代源蔵と家督を継ぎ、理化学機器の動力源として重要な蓄電器の開発に成功して、業績を拡大し、工場も隣接地を北へきたへと拡大して、明治36年(1903)には河原町二条の地に1,220坪の新工場を建設して木屋町二条の工場機能のすべてを移転した。社史には明治35から40年頃の島津製作所全景絵図(セピア色)が掲載されており、手前の道路には、人力車とともに市電の姿が描かれている。

4)創業初期における興味ある3件の話題
@ 軽気球飛揚に成功
 京都新聞が平成17年(2005)に「興せ近代新工風・京都舎密局の時代」と題したシリーズ記事(編集委員・辻恒人)を掲載しその第1回に「軽気球」を取り上げている。また、前述の100年史にも詳しく紹介されている。
 今から120年くらい前の明治10年(1877)12月、京都仙洞御所の広場に、人を乗せた軽気球が空に浮かび上がったのである。当時の槙村知事は、最新の科学技術の具体例を示して、府民の理化学教育に対する関心を高めたいと考え、軽気球の製作を島津源蔵に命じたのである。源蔵には文献上の知識しかなく、原材料や設備の調達に苦労した。鉄屑に希硫酸をかけると水素が発生することはわかったが、けた外れの量の水素が必要であった。
 明治11年に発行された版画集「大日本新工風」に「軽気球飛揚図」があり、概略がこれから推定できる。伏見の酒蔵にある四斗タル10ヶを円形に並べ、これに鉄屑を入れ、土瓶に入った希硫酸を人力で投入して発生した水素ガスを、導管で水を張った四斗タルをくぐらせて精製(酸ミストの除去)する「大量の水素ガス発生器」を考案した。
 球体は、試行錯誤の末、羽二重にダンマーゴムをエゴマの油に溶かして塗布する方法を見つけた。まず、体重の軽い虎吉なる人を乗せ20間ばかり揚げて写真を撮って引き下げ、つぎに人形を乗せて150間余の空中まで揚げ、1時間後にふたたび引き下げたという。この成功で島津源蔵の名は、当時の朝野新聞(東京)の報道により全国にとどろいたのである。

A エックス線写真 の撮影に成功
 レントゲン博士がドイツでX線を発見したのは、明治28年(1895)11月であるが、このニュースは驚くべき速さで世界に伝えられ、そして10ヶ月後の明治29年10月には島津製作所実験室で、はじめてエックス線写真の撮影に成功したのである。京都では第三高等学校の村岡範為教授が電源装置のある島津の実験室を拠点にして二代源蔵や弟の源吉も実験に参加した。島津が初めて医療用エックス線装置を千葉県の病院に納入したのが明治42年(1909)であり、その後も改良を重ね、世界市場に出荷されたのである。
 島津は放射線機器の開拓者であるが、放射線技術者養成が急務となり、大正10年(1921)に第1回レントゲン講習会を開催し、昭和2年(1927)には日本で最初の「島津レントゲン講習所」を開設した。このように島津の仕事はいつも機器の提供と活用のための教育がセットで進められたのである。

B 島津の蓄電池が日露戦争の勝利に貢献
 明治38年に、哨戒船信濃丸はロシアのバルチック艦隊が対馬海峡北上を発見し、「敵艦見ゆ」の第一報を旗艦三笠へ送信したが連絡不能、たまたま哨戒中の軍艦「和泉」がこれを傍受、三笠に転信して海戦大勝のキッカケをつくったという話は有名である。このとき島津の蓄電池が軍艦和泉で偉効をたてたのである。
 この島津の蓄電池の開発は二代源蔵が苦労を重ねて推進し、昭和5年に選ばれた十人の発明家の一人として宮中に召された。彼の発明のすべてな実験の繰り返しによって生まれたと言われている。のちに島津の研究者田中耕一氏がノーベル賞の栄誉を得たのも、けっして偶然ではなかった。(以上3件は島津五十年史より引用させていただいた。)

23)第4回「車石・車道シンポジウム」に参加して

1)2年前に発足した「車石・車道研究会」
 三条街道の車石敷設200年を記念して、平成17年(2005)にシンポジウムが開催されてから今年で2年を経過したが、その内容は充実してきて、趣味の会から学問の会へと充実してきた感がする。私はこの研究会には所属していないが、琵琶湖疏水と関係の深いテーマであり、研究会が企画したシンポジウムと散策会のすべてに参加している。
 私のホームページにも、第1回シンポジウムと第1回フイールドワークの参加記事を3回掲載し今回で4項目となる。
C‐3‐06 車石敷設200年記念シンポジウムに参加……05-11-03
B‐8‐02 日ノ岡峠の車石・車道散策―1………………06-10-04
B‐8-03 日ノ岡峠の車石・車道散策―2………………06-10-04
C-3-23 第4回「車石・車道シンポジウムに参加……07-09-08(今回)

2)車石の石材および石材産地
 第4回シンポジウムのメイン議題として、久保孝氏の石材産地の調査報告があったが、現地調査と文献調査により、三条街道は白川石・藤尾石・木戸石が利用され、竹田街道・鳥羽街道は加茂・笠置周辺の花崗岩と六甲系の花崗岩が利用されたと結論されている。車石の石材産地としての詳細報告は、初めてのものとして敬意を表したい。
 今年の2月に京都商工会議所が「琵琶湖疏水を活用した広域産業観光事業実施報告書」をまとめているが、このプロジェクトの実行副委員長を務めた岡野益巳氏((渇ェ野組代表取締役)の自己紹介に関する発言の中に車石の話題があるので、参考までに引用すると、
 …私は、慶応元年創業の会社の5代目になりますが、最初は石工だったんです。北白川から浄土寺のあたりに砕石場があったそうです。その石を細工して神社の石にしていました。
 明治になりますと、逢坂山や日ノ岡で石畳に牛車の溝をつくって正しい道を作る仕事などを明治8年にやっています。…
 岡野組は、琵琶湖疏水の建設とそのごの補修について多くの実績をもった地元の土建会社(京都市左京区岡崎円勝寺町85−4)である。「石畳に溝をつくる」という表現は、後から溝をつけたとも解釈できるので、確認したいと思っている。

3)車石は今・・・保存と展示・活用について
 これは早川幸夫氏の報告である。これによると、現在京都市や大津市の30校近い小中高校に車石が存在するようである。最近は「構内に立ち入り禁止」のところが多いが、今回の報告で、孫が通学している藤尾小学校、投票などでお世話になっている音羽川小学校、周辺を散策している洛東高校、長等小学校、大津市歴史博物館、JR大津駅前などに車石が展示されていることを知らなかった。本研究会の山嵜広会長によると、正確な車石の所在マップの作成を提言しておられるので期待したい。
 車石の展示場として、地下鉄東西線の開業に伴って廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用した車石広場が作られている。

                

 今回のシンポジウムで、展示品の外観や寸法が実物と異なっており、昔の車石・車道の実態と異なっているとの指摘が相次ぎ、研究会から市当局にクレームをつけるべきとの意見が述べられた。私も同意見であるが、これを製作設置した「前田環境美術KK」は全国各地のモニュメントや公園施設にかなり実績のある会社であり、ホームページに自信作の一つとして詳しく紹介している。これによると、荷車と敷石から直に型を採り、ポリエステル樹脂コンクリートで成形、着色して仕上げる工法を使っている。デザインにこだわり過ぎて実用されている姿を軽視した結果がこの展示物になったと考えられる。
 施主の京都市と製作設置担当の前田環境美術kkの間に発注者として轄pホ造園土木が入っているが、計画時に車石に知識のある技術者が入っていたのかどうか不明である。場所と広さに恵まれた立地であるので、ここを車石・車道の展示拠点とするため、問題点を整理して市当局に改修策を提案してはどうかと考える。

4)埋蔵文化財としての車石・車道の価値
 新聞紙上で1,000年以上昔の遺跡候補地を掘り返し、当時の姿を再現考察している姿に感激することが多いが、この研究会が追求している車石・車道はわずか200年前まで存在していた遺跡であるが、残念ながらその姿を見ることができない現状にある。過去の報告によると、車道の車石を撤去せずに土を盛り上げて道路にした場所があるそうだが、埋蔵文化財センターと相談して、埋め戻しを条件に10m〜20mでもよいから掘削調査することができないか?あるいは車道のルートに土建工事が計画されたときに車道の調査を考慮にいれて実施していただけないか?などの相談をしてはと考える。車石・車道の土木遺産は極めて重要度の高い幕末から明治初期にかけての近代遺産だと思う。

5)車輪の歴史から見た車道について
 Wikipedia資料によると、車輪は紀元前3,500年ころシュメールで発明(要出典)され、当時は磨耗防止のため、皮製のタイヤを周囲に巻いた形跡がある。そのご数世紀ほどで急速にユーラシア大陸の各地に広がったと伝えられる。中国の神話によると、車輪付き運搬用具が紀元前2,000年より前に使用されていた。日本で最も古いものとして奈良県桜井市の磐余遺跡群で飛鳥時代後半(七世紀半)の木製車輪(半分)が出土(産経新聞H13‐12-05)している。
 最近塩野七生氏のローマ人の物語(27)「すべての道はローマに通ず」で、紀元前三世紀に地球の西のローマでは全長15万kmの平坦な街道を建設したのに対し、東の中国では防壁として全長5,000kmの万里の長城を建設した。何れの国防のために建設し、ローマでは軍隊が容易に移動できるような石畳車道(馬車用)とし、その遺跡が残っている。中国「万里の長城」のテレビ放映をみたが、町には立派な石畳車道が残っていた。日本の車石・車道の発想は日本独自のものと思うが、ローマ帝国時代の街道や万里の長城時代には車石・車道の発想のあったと想像されるので、今後海外調査や文献情報に注目したい。

6)車石・車道の名が残っている雑話題
@ 名古屋市営地下鉄桜道線にある「車道駅」…その名の由来は、江戸時代に馬車や牛車用に作られた石畳の舗装道路があった。京都吉祥院にも「車道町」がある。
A 奈良の飛鳥資料館には周辺で発掘された石造品のレプリカが展示されているが、その中に表面に溝を掘った石があり、「車石」とよばれている。そのごの調査で水を流す目的の溝であるという説が有力とか。
B 北海道根室市の花咲灯台の海岸に露出する枕状溶岩が、「根室車石」の名で天然記念物になっている。枕の重なりが車輪に見えることからこの名がついた。福井県三島町の松原海岸にも多様な形状を示す柱状節理群があり、一見車輪のように見えるので「車石」とも呼ばれている。
C イタリアのベスビオス火山の噴火でポンペイの市街が埋没したのは弥生時代のことであるが、発掘の結果大通りは石畳の車道と歩道に分かれ、石畳には縦長の凹みが2本あり、「荷馬車の車輪のわだち跡」といわれている。

24)京都市内の浄水場に関する3件の話題

1) 平成19年度秋の琵琶湖疏水記念館・特別展を見学
 春の特別展「御所水道」につづき今回の特別展は「松ヶ崎浄水場の誕生」という題で、浄水場を建設した昭和2年(1927)から昭和32年(1957)頃までの30年間にわたる約70点の資料(設計図・地図・写真・文書など)が展示され、記念館の嘱託研究員から詳細な解説を受けた。
 展示された資料は、上下水道局の保有する資料・田邊家寄託資料・京都府庁・京都市会・府立総合資料館・京都歴史資料館などから集められたもので、当時の建設技術・浄水技術・行政面・地元の対応など質的にレベルの高いもので、貴重なものが多かった。とくに興味を持った事項を示すと、

@ 蹴上浄水場の場合は敷地面積が限られていたが、松ヶ崎浄水場ではこの制約がなかったので、緩速ろ過池が採用された。
A 松ヶ崎浄水場の送水管工事が、五山送り火の一つ「妙の字」を右下から左上に斜めに横切っており、8月5日までに「妙の字」を復元させるよう松ヶ崎村長からきつく申し入れがあった。
B 蹴上浄水場の設計を担当した技術者安田靖一は、水道行政の責任者である水道課長を経て土木局長となり退職されたが、退職後も種々の提案をされ、原水を予備ろ過と仕上げろ過の2回実施する二重ろ過方式を考案されたが、この方式は昭和32年(1957)日本で初めて松ヶ崎浄水場で実用化された。
C 昭和2年(1927)に完成したポンプ室は鉄筋コンクリート造2階建の煉瓦タイル張りで292mの広さがあり、戦前の松ヶ崎浄水場の姿をとどめる唯一の大型建造物であるとともに、現在の松ヶ崎浄水場を象徴する建造物となっている。(写真展示あり)
D オリベント式流量調整器がイギリスから導入され、ろ過流量の調整を行ったが、そのうち1号池の流量調整機室だけが浄水場敷地の東北隅に現存している。(写真展示あり)
E 配布された解説書(19-11-20付)には、展示された資料38件の解説と歴史年表がついていたが。歴史年表には大正7年からの地元の松ヶ崎村との交渉経過から、京都市水道事業の大正13年の第一期拡張工事(松ヶ崎建設)、昭和8年の第二期拡張工事(山科建設)を経て昭和32年の第五期拡張工事までの詳細な年表がついている。
F この年表は昭和32年までのものであるが、それから約50年を経過して現在に至っている。松ヶ崎浄水場は現在まで7回以上も増改修工事が施され、現在では京都市の水道供給量の約26.3%を占めている。貴重な資料で概略把握ができたが、一度内部の見学をしたいと願望している。また、特別展の開催が継続されることを期待している。

2) 山ノ内浄水場の廃止方針が発表
 平成18年(2006)3月の報道(京都新聞06-03-09)によると、地下水を利用した専用水道を設置し市営水道の使用を控える施設が増え、その大半が大口使用者であるため、水道料金収入が年間5.6億円も減少したと発表した。
 また翌年(2007)9月の報道(京都新聞07-09-21)によると、平成18年度の京都市水道事業の収益を示す「経営収支比率」が政令指定都市15市の中で最低になったと発表した。このような中で京都市は、経営合理化により、5年間料金値上げをせずに解決する抜本策として「山ノ内浄水場」を平成24年(2012)までに廃止する方針を発表した。
 現時点における京都市水道事業は、次の4ヶ所にある浄水場を活用している。

 廃止後の補充は、蹴上浄水場の給水能力を倍増の200,000m/日とし、山ノ内浄水場が分担していた西部エリアの供給は主として新山科浄水場が担うという計画である。
 山ノ内浄水場の敷地約6万mのうち、御池通を挟んで北側(約3万m)にある配水池などは水道の中継地として残し、南側については地下鉄太秦天神川駅と右京区の新たな交流拠点「SANSA右京」に隣接する有望な立地であるので、活用策を検討したいとしている。

 山ノ内浄水場の取水池のある蹴上公園に、導水管に実物見本と説明板が存在する。

 この説明板の内容によると、京都市の各浄水場に使用されているもので、わかりやすい内容となっているので、その全文を紹介する。


3)現存しない山科浄水場の話題
 平成6年(1994)度ふるさと創生事業の一環として「藤尾の歴史」と題した冊子が学区内の全家庭に配布されているが、その中に藤尾地区の水道事業が記載されている。大津市の柳ヶ崎浄水場が昭和5年(1930)に完成したときは、逢坂山という地勢の関係で藤尾地区への配水は計画から除外されていたが、昭和6年(1931)に山科・醍醐が京都市に合併し、京都市は翌7年(1931)第一疏水から引いて象ヶ鼻に浄水場を設け、そこからポンプアップして芝ノ町門の木の貯水池に送ることになった。そのため藤尾地域である横木を通らなければ水道工事ができないので、京都市側は藤尾地区への配水条件を受け入れ、昭和11年(1936)7月1日から配水が開始(一部の地域を残して)されたと記載されている。
 大津市の藤尾側ではこの浄水場を「象ヶ鼻浄水場」と呼称したが、京都市側では「山科浄水場」と命名した。
 第1項で紹介した水道局発行の「松ヶ崎浄水場の誕生」資料の年表によると、「山科浄水場」は昭和7年(1932)3月に計画が発表され、昭和8年(1933)5月に着工し、昭和11年(1936)8月に4,000m/D規模の浄水場が完成したと記載されている。
 しかし、その所在地がどこにあったかについて藤尾地区の現地調査を実施しているが、まだ不明の段階にある。また廃止された時期も不明であるが、昭和45年(1970)に「新山科浄水場」ができた時と推定している。ご存知の方が居られたら教えてほしい。

25)十石舟と三十石船の話題(1)

1)まえがき
 伏見市の濠川・宇治川派流地区の十石舟めぐりは伏見観光協会が平成10年(1998)に復活させ、平成14年(2002)から「兜嚮ゥ夢工房」が事業を受け継ぎ定期運航するようになり、平成16年(2004)からは京都府が第3回世界水フオーラムの記念事業として建造した三十石船を借用して定期運航をスタートさせ、現在では「十石舟・三十石船」の運航は伏見地区の観光事業の柱として定着している。
 また、京都市岡崎地区でも第3回世界水フオーラムが開催された平成15年(2003)の記念事業の一つとして岡崎地区(鴨東運河)の十石舟運航が企画実現しされたのがキッカケで、そのときに建造された十石舟2隻を活用して、編成された実行委員会による十石舟の春季運航が平成16年(2004)から4年間運航実績を重ねた。今年からは、十石舟2隻を新調して自立運航をスタートさせた経緯については前報(285話)で紹介したとおりである。
 このように、琵琶湖疏水の中心に位置する鴨東運河と疏水の末端につながる濠川・宇治川派流の運航が、この十年間の努力で実現できたことは嬉しいことである。
 本項では、「十石舟と三十石船」のフネの漢字を舟と船に使い分けて、関連する話題を取りまとめてみた。

2)石(コク)の意味について
 尺貫法とは中国から伝道した日本古来の度量衡の体系で、長さは「尺(シヤク)」、重さは「貫(カン)」、量は「升(シヨウ)」が用いられてきたが、明治24年(1891)にメートル法が導入され、1尺=10/33メートル、1貫=3.75キログラムとなり、両法が併用されてきた。昭和41年(1966)に尺貫法が廃止され、全面的にメートル法となったので、それ以降に教育を受けた人は尺貫法を教えてもらっていない。
 しかし、土地の面積を表す「坪=3.3平方メートル」や液体の量を表す「升=約1.8リットル」などは非公式に通用しており、舟の積載量とか酒蔵の大きさなどに「石(コク)」の単位も非公式に用いられている。

 十石舟や三十石船に用いている「石(コク)」は
   ……1石=10斗=100升=180リットル(1升壜100本)……
 の関係であり、若い人達にはイメージしがたい単位と思う。

 さらに難しいのは、十石舟とか三十石船とは正確な積載量を示して折らず、わかりやすい表現で示すと、10〜20人乗りの小型の舟を十石舟と呼び、20〜30人乗りの中型の舟を三十石船と呼んでいる。いずれも形や型式は自由で、川舟や湖舟の呼称に用いられ、貨物の場合は重量ベースと容量ベースで積載量が変わり、航路の地形によって型式が工夫されている。しかし、昔を回顧する名前として考えると良い名称といえる。

3)十石舟の伝統技術にもとづく建造法について
 前項で紹介したように第3回世界水フオーラムの記念行事の一つとして岡崎十石舟めぐりが実施された。そのときに使用した十石舟2隻は京都商工会議所が日本財団の助成金で建造している。この舟は、伝統技術を伝承する舟大工に木造和船の建造を依頼し、材料の調達から製造工程のすべてを記録して次世代に伝承することをテーマとして掲げている。
 建造を担当したのは大津市今堅田の杢兵衛造船所で、基本仕様は全長8m、全幅1.9m、全深0.65m、船頭2名を含めて14人乗り、15HPの船外機を付けた。

京都商工会議所が作成した記念パンフレット

岡崎・鴨東運河を走る建造された十石舟
 上記記念パンフレットに記載されている「十石舟の建造工程」の要旨を紹介すると、
@ 素材入奥…敷板(底板)や側板(ほて板)などの主要部分は杉材を用いる。
A 敷作り/板合わせ……素材にカンナをかけ、5枚の板を隙間なく板合わせする。
B 敷作り/釘目作り……約1cm角、奥行約5cmの釘目を作る。釘が抜けないように、中に行くほど広がる仕事をする。
C 敷作り/板継ぎ……先にノミで道を作ってから長さ約15cmの弓なりになった船釘を15cm間隔で打っていく。豊富な経験と高度な技術を必要とする。
D 敷作り/釘跡埋め込み……釘跡埋め込みに使用する部材を板継ぎの部分に丹念に埋め込んでいく。
E ほて・敷繋ぎ……敷作りと合わせて「ほて作り」を行い、底板の「敷」と側板の「ほて」を繋ぐ。この作業もC項と同様むつかしい作業である。
F 芯組立……船尾上部の「上板製作・組立」を行い、船首の「芯組立」を行う。舟の骨格となる重要な部分であり、細心の注意を払って芯を立てる。
G 平板組立……「平板」は舟行において水を切るもっとも重要でむつかしい部分である。4枚の板を斜めに丸みをもたせながら立てていく。熟練の舟大工の技術が必要。
H 追花組立……「追花」は船首付近に左右に配する桧の部材で、優美な仕上がりが必要。
I マキナワ埋め込み……船体の板継ぎした部分を「まき縄」で水止めしていく作業。
J 伊達カスガイ……板と板の合わせ目に数mm程度の長方形の掘り込みを施し、「赤まき」と称する銅版張りを行い、その上に墨を塗り込んでいく。総仕上げの化粧である。

 記念パンフレットには、各工程別に写真がついており、小型和船の建造手順が詳しく紹介されている。

4)三十石船の建設手順について
 大津歴史博物館では、平成5年7月から9月にかけて企画展「琵琶湖の舟―丸木舟から蒸気船へ―」が開催され、同名の冊子が発行されているが、その中に疏水船の記事や写真が含まれている。冊子の執筆者として3名の歴史博物館学芸員の名が挙げられているが、疏水船の記事を担当された和田光生氏の紹介を受け、疏水船に関する知見や参考図面の提供を受けることができたので、その一部を紹介する。
 この冊子によると、琵琶湖の舟大工の大部分は堅田出身といわれているが、大津の舟大工も堅田とともに豊臣秀吉以来の由緒を伝えてきており、尾花川「船元」(竹内家)と観音寺「船善」(松村家)の資料が多く紹介されているが、明治以降この両家の仕事として琵琶湖疏水の三十石船の注文がメインであったと記載されている。そして、船善が作成した三十石船の参考図をいただいたので、これを参考にして下記図を作成した。

疏水運輸船(三十石)の図面例

企画展冊子の表紙
 上図は50分の1縮尺であるから、長さ約11m、中央部幅(外径)約2m、中央部深さ約50cmである。想像したより小さく浅い船であるが、明治24年(1891)に決められた疏水船のサイズは、長さ10.9m、幅/内径1.8m、積量五十石以内であることから納得できる寸法といえる。

 この三十石船の製作手順について和田学芸員がまとめた資料(絵図省略)を引用すると、
@ 原木を製材し、利用する形に墨を打ち切り分ける。そして敷板をまず組む。スリノコで板間を充分すり合わせたあと、船釘で接ぎ合わせていく。
A 側板を取り付け梁木(イクラ)を渡す。梁木の数は船の種類によってまちまちである。
B とも板を付け、シンを立てる。
C シンを目標に舳板(ヘイタ)を左右に並べていく。
D 追鼻・上柵・綱くくりなどの他、金具類を付けて完成。

 この説明と前項の十石舟の製作手順はほとんど一致しており、製作手順を十分理解して乗船すると楽しみが深くなると思う。私は船元には船の製作図面があると思っていたが、和田学芸員の説明によると、“琵琶湖の舟大工は敷の長さや幅、深さといった簡単な寸法によって製作しており、基本形は一緒なのであとは細部を施主と打ち合わせをして決めていった。したがって、残されたものは図面でなく帳面が多く、簡単な板図がある場合もある”…といった世界のようである。
 また、宇治川派流の三十石船や昔の淀川三十石船の場合は全長17mが標準サイズのようで、これら周辺の話題については別途紹介する予定である。

26)十石舟と三十石船の話題(2)

1)川舟に設計図がないという話
 前報(第288話)で述べたように、舟大工は設計図にもとづいて舟を建造するのでなく、長さ・幅・深さという概略寸法をベースに細部は施主と相談しながら建造すると紹介したが、もう少しくわしく情報を検索してみると、

@ 長年の舟造りの経験で、手がしっかり技術を覚えており、設計図は頭の中にある。
A 上流・下流など川の使用場所、岩が多い水路であるかどうか、どのような用途に使用するかなどで舟の形が変わってくる。川舟の構造は川毎に特徴がある。
B 川の背景となる森や山の情報を把握し、異常気象の発生有無なども考慮して舟を製作しないとよい川舟はできない。
C 急流の場合は舟底の反りを大きくするとか、ゆるい流れの場合は平底にする。
D 杉材の選択も重要な仕事で、粘りがあって割れにくい丸太を見抜く力が必要。また杉材の乾燥も経験が必要。太い良質の杉材を確保するのは難しくなったと云われている。
E 記録や資料が少ないので、舟大工の息子でも親父の仕事ぶりを眼で盗んで覚える。
など、関連話題が見つかった。このように舟大工には長期の実務経験が必要であり、木造の川舟の需要が減少する中で経験者の高齢化と後継者育成の難しさが問題になっている業界であることも理解することができた。

2)全国の船大工の現状に関する統計資料
 三重県鳥羽市にある「海の博物館」には、和船の建造に関する展示資料が多く存在している。ネット検索をしてみると、財団法人・東海水産科学協会・海の博物館が日本財団からの助成を受けて、@全国の船大工存在確認調査報告書(2003)をまとめており、全国252人の船大工と面接し、造船可能と答えた船大工121人を選別している。A木造和船の造船可能性調査報告書(2005)もまとめており、FRPの登場や動力化や技術保有者の高齢化の流れで技術伝承は難しくなっており、現在できることは、その技術を記録し遺産として残すことしかないと強調している。
 また、日本海学研究支援グループ支援事業(2006)として、「和船建造技術を後世に伝える会」が全国の現地調査を実施しており、中間報告が発表されている。これによると、和船そのものの保存展示の動きも活発化しており、経済産業省が認定した近代化産業遺産の中に伏見の十石舟と三十石が入っているので、具体的な展示保存策までつながることを期待している。
3)琵琶湖疏水の舟運の歴史について
 「琵琶湖疏水の100年」誌の第3章第1節に、「舟運の興亡」と題して26頁にわたり疏水完成以来の舟運について記述されている。その要旨に若干の補足をおこなって本項をとりまとめた。

@ 通船規則の制定まで
 明治23年(1890)4月9日に疏水の竣工式が開催された。最初は遊船のみ許可することにしたが、4月末には参入する遊船業社が続出し、5月に入ると鴨東運河や第2トンネル西口から蹴上間に100隻近い遊船が浮かび、昼夜にわたる宴席で賑わったので5月末に申請方式を打ち切り、入札による場所貸与をする方式に変更した。

A 5月21日付「京都市有疏水運河条例」を制定
 最初は遊船を対象として改めて営業希望者を募集し、使用期限は5年区切りを第一期とした。遊船の形として長さ約11.5m、幅(内径)約1.6m以内の屋形舟とし、長さ約4.5m、幅約1.5m未満のものは屋形なしで可とした。また、疏水船(荷物運搬用)については種々の雛形を伏見の舟大工に造らせてテストを繰り返し、10年区切りを第一期、舟形は長さ約10.9m、幅(内径)約1.8m、喫水0.6m以内、積量は50石(7,5トン)以内とした。

B 本格的渡航船が運航開始

 当初は遊船のみであったが、明治24年(1891)7月に大津の業者が大津〜蹴上間の渡航船を開業してから、たちまち競争が始まった。京都遊園会も渡航船の営業に乗り出し、馬車会社や人力車も値下げして競争となった。
 明治26年(1893)には遊船30隻増加の認可を発表したが、競争率は100倍を超える人気であった。開通4年目に当たる明治27年(1894)には年間通船数14,522隻、乗客者数129,881人と大幅に増加した。
 明治28年(1895)の第四回内国博覧会は、疏水ブームに拍車をかけることになり、定員25名の渡航船60隻がフル回転をし、この年は約30万人が舟遊びを楽しんだ。

C 鴨川運河の開通で大津〜大阪間の舟運ルート完成

 明治27年(1894)鴨川運河の開通により、大津〜鴨東11kmに加えて伏見堀詰に達する9kmと全長20kmの運河が濠川・宇治川につながり、琵琶湖と淀川が連結した。鴨川運河に最初の疏水船が就航したのは明治28年(1895)1月10日であった。
 通船数は徐々に増加し、高瀬川舟運との競合の中で大正末期まで増加していったが、大正9年(1920)6月には高瀬川舟運は300余年の歴史を閉じたのである。一方、琵琶湖疏水ルートは第二次世界大戦による大正景気とあいまって、輸送量は明治年間平均75000トンの倍量147,000トンに達し、大正14年(1925)には疏水史上最高の22万2927トン、1日の通船数約150隻を記録している。

D 昭和(戦時下)の運河輸送

 昭和3年(1928)の大典記念博覧会の後、世界大恐慌(昭和4〜7年)、満州事変(昭和6年)と緊迫の度を加え、自動車輸送の急速な発達により疏水の運輸船は大正期の半分以下に減少し、昭和11年(1936)までの貨物量は年間平均11万4000トンと大正期より3割方減少し、11年以降は上り貨物はゼロとなり、市のし尿船のみとなり、軍隊関連の輸送が目立つようになった。
 疏水の舟が市民を乗せて最後の疏水下りを実施したのは、昭和13年(1938)4月の市制50年記念の運航で、市民200人が7隻の舟に分乗して楽しんだ時であった。戦時下の物資不足の中で石炭の輸送が姿を消し、ガソリンの代替として滋賀県の天然ガスが疏水船約30隻で終戦直前の3年間輸送されたのが目立った活用であった。

E 戦後平成元年までの疏水遊船および運輸

 戦後は運輸船10隻が砂・砂利・石材を中心とした輸送をつづけた。昭和23年(1948)秋にはインクラインが休止状態に入ったが、大津〜蹴上間の砂輸送が四隻の運輸船によってつづけられた。そして昭和26年(1951)9月に大津から山科まで4.5トンの砂を輸送したのを最後に、疏水の舟運は60年にわたる任務を終えたのである。
 舟の運航が無くなった後も、昭和42年(1967)ごろには生洲船や屋形船を模した料亭など5軒が三条・四条・宮川筋の水面に姿をみせており、鴨東運河でボートを楽しむ市民の姿も見られたが、平成元年(1089)現在疏水上に船の影は見られなくなった。

F 平成以降最近までの動き

 平成3年(1991)に京都府が、伏見開港四百年記念事業として三十石船を復元し、府立伏見港公園の川岸に停留されていた。当時の新聞記事によると、この船は府の伝統産業優秀技術者である故野崎四郎氏に建造依頼したもので、そのサイズは昔の淀川三十石船の標準サイズである長さ約17m、幅約2.5m、乗員約30人であった。平成15年(2003)の第3回世界水フオーラムでは、この三十石船にエンジンを取り付け、4日間で800人が乗船して船遊びを楽しんだ。
 伏見観光協会では、三十石船と並行してFRP製十石舟2隻(秀吉号と龍馬号、長さ8m、最大幅2m、屋根付き)を建造して運航し、伏見開港四百年記念(平安建都1200年祭も兼ねて)事業として水運の再現に成功した。これを契機に十石舟の春・秋の季節運航が平成8年(1996)〜平成13年(2001)の間実施された。これ以降は平成14年(2002)4月に設立された兜嚮ゥ夢工房が運航業務を引き継ぎ、現在に至っている。
  (伏見の記事は新聞記事中心に筆者の責任でまとめたもので確認したものでない)

 また、第3回世界水フオーラムの記念行事として、会場となる滋賀―京都―大阪を結ぶ疏水下り舟運(学生を中心とした探検隊による)を企画し、各府県知事・市長のメッセージを大津・三保ヶ崎から疏水・宇治川・淀川経由大阪の淀屋橋まで運ぶことにしたが、琵琶湖の水位低下で中止され、残念ながらメッセージは京阪電車での移動となった。
 もう一つの企画として、京都商工会議所が日本財団の助成を受けて十石舟2隻を建造した。これは全長8m、幅2m、定員14人の木造で、平成15年(2003)3月から鴨東運河において期間限定の舟遊が実施され、3月中旬には3日間雅楽船が運航された。
 平成16年(2004)以降4年間、この2隻の十石舟は桜の季節から5月連休までの期間、「岡崎桜回廊十石舟めぐり」の名で毎年開催され、今年は大型の2隻の十石舟を新造して継続運航されている。

27)琵琶湖船運の主役・丸子船の解説(1)

1)まえがき
 琵琶湖疏水の船運で活躍した三十石船と淀川船運で活躍した三十石船とを比較すると、それぞれに構造上の特徴が存在している。全国各地で活躍した和船の歴史をたどると、その風土や積荷や地理的条件に適した構造または運転法が存在している。しかしながらプラステイック船や鉄船の登場で大型木造和船は姿を消し、小型の木造和船も運搬用でなく観光用としてわずかに残っている現状にある。また受注の仕事が無くなった和船大工は高齢化し、後継者も訓練する場がなく、伝統技術の保存が大きい課題となっている。
 琵琶湖にも独自の構造を持つ「丸子船」が存在したが、現在運航されているものは存在していない。しかし、丸子船の実物は手厚く保存・展示されている。琵琶湖疏水の場合も観光用に十石舟や三十石船が残っているが、その実物の保存策は今後の課題となっている。
 本報では「丸子船」の保存策の現状を中心に紹介する。

2)丸子船の概要
 丸子船の細部についての専門書は少ないといわれているが、本報告では伝統技術の保全策がテーマであるので、公開資料を参考にして簡単な説明を行いたい。
 琵琶湖周辺では木をくり抜いた「丸木舟」や舟を漕ぐ「櫂(かい)」の発掘が相次ぎ、約4000年前の縄文時代後期から縄文人が長さ8m、幅60cmくらいの丸木舟を使って生活していたと推定されている。そのご時代を重ねて琵琶湖水運の重要性が増してきて、平安時代には琵琶湖の水運支配が政治的・軍事的に注目され、天下取りをねらう武将が支配権を争ったが、江戸時代には琵琶湖特有の形を持った大小の「丸子船」が最盛期には1300艘も活躍したのである。
 丸子船は使用目的に応じて7石積みから400石積みまであったが、近代に入ると、蒸気船・鉄道連絡船・東海道線など動力機関に追われその姿を消していったのである。
 「丸子船」の最大の特徴は、丸太を二つ割りにした「おもぎ」の平面を内側にして舟の側面に巻いて外から張り出して見えることであり、竿が折り畳み式の帆で運航し、風の無い時は風待ちするか櫓を漕いで運航することができるようになっていた。
 断面を見ると,敷板(底)を丸く浅底に接ぎ上げていることも特徴の一つである。また、船首近くに見える黒い虎模様の「タテカスガイ」は船体構造には関係のない飾りといわれているが、オシャレな文様として親しまれている。また帆の上部いっぱいに太い丸の字が一つ描かれている丸子船船団の姿は宝船の面影があったという。
 大津市歴史博物館では、平成5年(1993)に企画展「琵琶湖の船〜丸木舟から蒸気船〜」を開催しその冊子を発行しているが、豊富な資料や絵図を用いており、琵琶湖水運の歴史を理解するのに適した本であるので一読をおすすめする。

3)「北淡海・丸子船の舘」を見学
 JR湖西線がJR北陸本線と合流する「近江今津駅」の一つ手前の「永原駅」を下車して車で5分のところに「北淡海・丸子船の館」がある。西浅井町という琵琶湖最北のエリアに存在する。この地区は、昔から北陸と京都・大阪を結ぶ重要な交通路で、大浦・菅浦・塩津の3つの港を持ち、多くの丸子船が出入りした。
 道路から建物の中を覗くと、巨大な船の末尾部分が見える。駐在する女性から説明を聞きながらこの施設を見学し、2階のビデオで建設に至る経緯と解説を見て、丸子船のすべてを短時間に把握できたと感じるほど充実した施設であった。

琵琶湖を走る丸子船の勇姿(絵図)

保存されている百石船の後部写真

 この船は昭和6年(1931)に建造された百石船(米俵250俵を積載可能)で、長期にわたり「神與丸」の名で貨物の運搬に活躍した船で、保存が決まってから琵琶湖各地の漁村に保管されていた部品を集め、磨きをかけて修復したものである。全長17mであるが室内でみるともっと大きく感じる。焼玉エンジンを搭載した動力船で、船を操縦するための船室(キャビン)がつくられている。

前方の船室にはベテラン船頭が二人

後方の船室には若手船頭が二人

 解説者の説明によると、乗船している四人の人形は有名な人形師の作品で、その一人は西浅井町出身の政治家「谷口久次郎」がモデルである。滋賀県知事であった谷口は「丸子船の保存に尽力された方で、昭和39年(1964)に建立された琵琶湖大橋開通記念碑にも、滋賀県知事・谷口久次郎の名が刻まれている。
 下左の写真は船首部分の側面で、作業の細部まで観察できる。また、昔は帆走用の帆に「むしろ」が用いられたが、1785年に高砂の廻船問屋「松右衛門」によって考案された帆布が丸子船に採用され、その実物が展示されていた。

船首部分を飾るタテカスガイ

現存する最後の一枚といわれる「松右衛門帆」

 西浅井町の県道・大浦〜菅浦沿いに丸子船「勢湖丸」が屋根付きで屋外展示されているという古い情報があったので探したところ、数年前に別の場所(小学校?)に移設されたようで、見学できなかった。その代わりとは言えないが、途中に「赤崎丸子船P」という名のパーキングがあった。

丸子船の形状を模した休憩ゾーン

赤崎丸子船P・さざなみ一理塚の表示

 「北淡海・丸子船の舘」では琵琶湖水運の歴史を説明する資料も豊富であり、隣接する「大浦ふるさと資料館」も見学できるので、お勧めできる個性的博物館といえる。

28)琵琶湖船運の主役・丸子船の解説(2)

1)琵琶湖博物館に展示の丸子船
 今年の2月に「琵琶湖の伝統的木造船の変容―丸子船を中心に」と題した本が雄山閣から発刊された。著者はイスラエル留学のあと琵琶湖博物館開設準備室に勤務し、博物館発足の記念展示となった丸子船の製作を担当した牧野久美氏(現鎌倉女子大準教授)で、その成果を集約した冊子である。この本には立木の伐採・本堅田までの運搬・製材・製作・進水式までの経緯が15枚の写真とともに詳しく記載されている。
 この船は、滋賀県の現役では最後といわれた船大工・松井三四郎(平成18年92歳で死去)さんとその息子さんが3年がかりで製作復元した丸子船で、全長19mの百石船である。
 この船は「人と琵琶湖の歴史 B展示室」の工事開始時期に堅田で製作した丸子船を琵琶湖博物館の予定地の烏丸半島まで湖上曳航して搬入した。
 松木三四郎は対象13年(1913)生まれで、12歳頃から堅田の杢兵衛造船所で修行を始め、20歳頃に棟梁となり、丸子船製作を実施している。

百石船の後方から見た写真

百石船の先端部の側面写真

 この展示室では、解説資料も多く展示されており、製作過程を示したビデオの見学も可能であり、すでに姿を消した「丸子船」の貴重な実物模型を後世に残す意義はきわめて大きいといえる。また、「北淡海・丸子船の館」で見学した丸子船(17m)は修復改造されたものであるが、ここの丸子船(19m)は新造船で、とくに前報(294話)で説明した「おもぎ」の取り付け方法のビデオは理解を深めることができた。

2)丸子船による観光に情熱をかけた三上元彌さん
 三上氏は琵琶湖汽船鰍フ観光船の船長を13年間務め、昭和56年(1981)に退職したあと現役最後の廃船一歩前の丸子船を買い取り、「丸子船保存会」を立ち上げて修理したあと観光船として運航した人である。
 この船は50年以上前に建造され、最近まで湖北町で木材や砂利の運搬に実用されていた
琵琶湖最後の丸子船であったが、廃船一歩手前の状態にあったのを買取り、「丸子船保存会」を結成して松井造船所の松井三四郎氏に依頼して観光船へ改修を実施した。
そのごについて新聞記事などから推定すると、・・・当初の予算より大幅に増加したが、テレビやトイレの設置など観光船としての改修が完了し、「丸子丸」と命名して28人乗り観光船として運航を開始した。しかしながら、研修目的用や観光客の伸びが少なく維持が困難となり、平成16年(2004)夏より松井造船所前に繋留されるに至った。そのご企業への売却を打診したがまとまらず、文化財としての保存策を提案したが、改造度合いが高く難しいと拒否され、活用策の見通しは立っていないようである。・・・

追記
 丸子船については琵琶湖博物館」から数多い研究調査報告が発表されており、また、「北淡海・丸子船の館」にも多くの調査資料が集められている。「大津歴史博物館」でも、丸子船から蒸気船へと転換していった琵琶湖の船の歴史が調査されている。
 代表的な大きさといわれる百石積みの丸子船が本報で紹介したように2艘完全な形で保存されている。親方の技術の盗み見とかメモ帳かわりの板切れしかなかった船大工の世界も、しっかりした記録が残されるようになった。「琵琶湖疏水の散歩道」の立場からの調査はこの辺で止めたい。

29)疏水分線第4・第5・第6トンネルの現状

1)建設当初の疏水分線
 琵琶湖疏水を建設した時、本線および分線併せて6本のトンネルが掘削された。疏水記念館資料より引用表示すると、

 上表の着工〜完工の期間をみるとその工事の難易度が推定できるが、「琵琶湖疏水の100年史」の173頁によると、第5トンネルは当初の計画には無かった。明治22年4月の豪雨で南禅寺方丈わきの疏水石垣の一部が崩壊し、地元から苦情が出たので新しく第5トンネルを掘削し、当初建設した第5トンネルを第6トンネルにしたと記載されている。
 第4トンネルが消えた経緯については次節に紹介するが、現在見学できるのは、南禅寺塔頭「最勝院」の入り口にある第5トンネルの南洞門(水路閣の水路につながる)だけで、第5トンネル→扇ダム→第6トンネル→若王子橋(哲学の道の入り口)までの区間は非公開地域となっている。

 第1・第2・第3トンネルの出入り口には、明治の元勲たちが揮毫した洞門石額があり、国の史跡に指定されているので広く知られているが、疏水分線の第4・第5・第6トンネルについては過去の記録も少なく、見学できないためにあまり知られていない。
 昭和14年(1939)に京都市電気局が発行した「琵琶湖疏水略誌」の紹介記事がその後の書籍にも引き継がれているので、紹介すると、

第四隧道

 東山の一部である大日山の下を貫き、長さ75間、内径8尺の円形を成しているもので、工事は之を第1段と第2段に分けて開始し、第1段の工事は明治20年10月1日に着手し、同年11月21日に貫通(59日間)、第2段の工事は隧道内の整理を目的とするもので、75日を要した。成形支保工はすべて煉瓦を以ってした。

第五隧道

 南禅寺の背後に連なる字瑞龍山の下を貫き、長さ56間、内径8尺の円形を成しているもので、洞中に10度の曲線がある。工事は明治22年9月18日着手、同10月13日に貫通、翌23年1月13日に完成した。

第六隧道

 永観堂および若王子山を通過する延長100間、内径8尺の円形を成しているもので、洞中に10度の曲線がある。地質は3トンネルとも略同じであるが、湧き水は幾分多量であった。明治20年10月21日着工、21年2月6日南北両口の貫通を見、同年8月21日に竣工した。

2)第二疏水建設により蹴上地区の設備が改造
 第3トンネルの西口洞門から出た第一疏水の水は、蹴上舟溜りで第二疏水の水と合流しているので合流トンネル(87m)が新たに掘削された。北口洞門には田邊朔郎の揮毫した石額「藉水利資人口」が架かっている。

第一疏水と第二疏水の水位差を調整する合流洗堰

合流トンネル北口(出口)の洞門

 「琵琶湖疏水100年誌」の518頁に次の記事がある。
 ・・・“大日山の下を貫く第4トンネルは、第二疏水工事に伴って閉鎖していたが、昭和24年(1949)松ヶ崎浄水場の第3期拡張工事によって取水量の増加を迫られ、第一疏水より汚染度の低い第二疏水から引水するため再開された。合流トンネルの側壁を開口して接合部を新設し、その上に入孔を設けた。”・・・
 また、琵琶湖疏水記念館の参観資料によると、蹴上から若王子橋(哲学の道の入り口)までの水路は、水路閣の上を流れて第4トンネル(?)→第5トンネル→第6トンネルを経由する第一疏水の水と合流トンネル→第4トンネル→南禅寺トンネルを経由する第二疏水の水と2つの水路が走っているように見える。長さ1000mと記載された南禅寺トンネルの記事についての報告があれば教えてほしい。

3)不要になった第4トンネル洞門部品の行方が判明
 琵琶湖疏水の建設当初の絵図が「琵琶湖疏水の100年誌(3分冊)」についており、田村宗立と河田小龍の工事絵が多数残されている。また、京都府会議員として疏水工事の推進に尽力した中村栄助の三男に当たる元京都市長・高山義三氏から寄贈された琵琶湖疏水工事写真が京都府立資料館に「京都北山アーカイブズ/琵琶湖疏水工事写真帖」として残されている。これらの写真の中には第4・第5・第6トンネル出入り口付近の写真が含まれており、建設当初の様子を具体的に把握することができた。(写真の掲示には手続きが必要のため今回は止める)
 このほど、鴨東運河の夷川発電所南側の散歩道にある石造物展示ゾーンにある造形物が第4トンネル洞門部品であることを琵琶湖疏水記念館の井垣館長が調べてくれた。

石造物で作られたコーナー(背景は夷川発電所)

中央にある加工された大型石造物

 この方形の石造物は外見上花崗岩製で、概略寸法は幅76cm、奥行90cm、高さ55cmの大型である。井垣館長によると、これは不用となった第4トンネルの洞門部品を記念に残したもので細部(製作時点や南北どちらの洞門かなど)はこれからとのことであった。
 本件は疏水散策仲間にとって嬉しい情報であるので、私のブログにも速報として掲載したが、建設当時の第4トンネル洞門の頂部に類似構造物が存在することを絵図で確認している。以下私の想像であるが、・・・“これは明治23年(1890)の疏水建設当初に第4トンネルの南口洞門の頂部部品として製作されたもので、第二疏水建設当時に不用となって記念品として保存され、「鴨東運河」の散策道として「六勝寺の小道」が昭和51年(1976)整備されたときに現地に設置されたものである”・・・と解釈している。間違いがあれば順次改めていきたい。

30)橋の歴史を語る旧橋柱を残そう

1)琵琶湖疏水系にある橋について
 琵琶湖疏水系には、個人住宅専用の無名橋を含めて120橋を超える橋が存在しており、建設当初の姿を留めるものから、新規改造を繰り返した近代橋などバライエティに富んでいる。時代が経過して利用目的も変わり、当初木製であった橋も鉄橋にかわり、さらに鉄筋コンクリート橋になっていく。
 橋の四隅には橋柱がついており、それぞれの橋柱には、「橋の漢字名」・「橋のひらがな名」・「建造年月」が刻まれており、琵琶湖疏水系の橋には場所を示す「疏水」の文字が刻まれている場合が多い。この橋を撤去して大型の橋を新設する場合、旧橋柱は捨てられることが多いが、私はこの旧橋柱は橋の墓石であり、橋の近くに先祖代々の橋柱(名前と建造年月を示す)を並べることができたら、周辺の開発発展の経過を語る「歴史遺産」になるのではないかと考えてきた。
 私は約5年間疏水の周辺を散策してきたが、私の希望を適えた4ヶ所の事例があったのでその概要を紹介する。

2)鴨東運河の「徳成橋」の旧橋柱について
 「徳成橋」は鴨東運河と東大路通(旧東山通)が交差するところに架かる橋であり、東大路通の交通量の増加に合わせて、平成7年3月改造と刻まれた鉄筋コンクリート製の大型近代橋が架かっている。この徳成橋と次の熊野橋との間にある水流に沿った北側の散歩道に、写真に示すような旧徳成橋の橋柱が保存されている。
……鴨東運河の流れに沿った散歩道に旧徳成橋の橋柱が保存展示されている……

 写真の背景に熊野橋が写っており、大正2年5月竣工の文字が刻まれている、大正2年(1913)といえば、京都市市電の東山線の南線と北線が接続されて、三条から熊野神社までが直通になった年で、今から95年前に完成した熊野橋の橋柱であることがわかる。
 隣りにある熊野橋は、大正12年(1923)3月に建造されたまま現在に至っているが、この近辺ではもっとも古い橋の一つである。熊野神社の正面参道として架けられた橋といわれ、大型車両の通過は難しい感じの橋であるが、利用度が少ないのでそのまま現在に至っている。

3)鴨川運河の伏見地区にある「きとろ橋」の旧橋柱
 鴨川運河の塩小路橋から墨染発電所に至る間にある31ヶ所の橋については、このホームページ「B−05−05 鴨川運河に架かる橋」(塩小路〜伏見堀詰)」で紹介しているが、車の通過できない三角橋(舟の通行のため水路上を高くしてある)が、3分の2に相当する20橋存在し、そのうち13橋が大正末期に建造されたままの姿で残っている。
 この中で改造した時の旧橋柱の頂部をカットして現在の橋に利用されたり、横に設置して保存されている橋が多く存在している。手許にある写真として「北新橋」、「下極楽橋」、「きとろ橋」、「高田橋」、「藤の森橋」、「高松橋」があるので、今回は「きとろ橋」、「北新橋」、「藤の森橋」の写真を紹介する。
……大正13年7月に改造した時に利用された「きとろ橋」の旧橋柱……

大正12年9月に改造された「北新橋」

大正14年12月に改造された「藤の森橋」

 上の3つの例に示すように、場所によって様式が異なっているのは面白い。

4)堀川にある「一条戻橋」の旧橋柱の保存例
 現在の「一条戻橋」は平成7年(1995)5月に完成した鉄筋コンクリート製の橋で、すぐ横に橋の由来が書かれた立て札が存在するが、橋が新しいので伝説の橋というイメージがない。

堀川通側から見て右側の端柱

堀川通側から見て左側の端柱

 堀川通は右側の堀川に並行して北上しているが、一条通と堀川の交差するところに戻橋が架かっている。次の交差点は堀川今出川になるが、一条通と今出川通との中間地点の反対側に、安部清明を祀る「清明神社」が存在する。堀川通を挟んで戻橋の反対側に清明神社が存在する。
 陰陽師であった安部清明と戻橋との関係にまつわる伝説は数多く存在するが、平成7年に新しい戻橋が建設されたとき、旧橋の橋柱が清明神社の境内に移された。

移設された一条戻橋の橋柱(東側から写す)

移設された一条戻橋の橋柱(西側から写す)

 説明板によると、移設された一条戻橋の4つの橋柱は、大正11年(1922)から平成7年(1995)まで73年間実際に使用されたもので、このような形で保存された例は少ない。
 近く堀川に疏水の水が通される予定であるが、この「一条戻橋」と「清明神社」の周辺は観光コースとして再認識されるものと期待される。

5)伏見新放水路系にある旧橋柱の保存例
 鴨川運河の水は、伏見舟溜り経由地下水路で顔を出し、津知橋の下をくぐって濠川に向って流れるが、伏見閘門・伏見制水門の手前にある東住吉橋をくぐって、約900m西進して新高瀬川につながっている。
 この伏見新放水路系には大正末期の建造された橋が6橋あるが、この地区は経済発展の動きの少なかった所で、昔のままの姿を保っている橋も多い。この中で平成7年(1995)に改造された黒茶屋橋と平成6年(1994)に改造された榎橋は、新設された橋柱の隣りに旧橋柱が並べて保存されている。

大正14年(1925)の旧橋柱がある黒茶屋橋

大正13年(1924)の旧橋柱がある榎橋

 また、改造したときに新橋柱を造らずに旧橋柱を利用したのが神泉苑橋である。改造時に設置された歩道橋に新しい「神泉苑橋」の金属プレートが付けられている。

……旧橋柱を四隅に建て、新橋柱を省略した神泉苑橋……


 この旧橋柱には大正13年(1924)竣工の記載があり、この位置に保存されたため90年くらいの歴史があることがわかる。