技術全般

11)蹴上発電所の見学記

1) 蹴上発電所の建設・増強経緯のまとめ
 私が過去に蹴上発電所を見学したのは、平成4年5月4日の「発電所開所100周年記念」の公開日であった。当時は琵琶湖疏水への関心も薄く、技術者の一人としての歴史への興味に止まっていた。その後、琵琶湖疏水や蹴上発電所への知識も増え、再度の見学の機会を求めていたが、「近代京都の礎を観る会」のメンバーである兵庫一嘉さんのご手配により、私と川瀬弘冶さんの3人で、1月19日に発電所を往訪し関西電力の技術担当者から、詳細な説明を受けることが出来た。
 いただいた案内資料「蹴上発電所の歩み」や琵琶湖疏水記念館見学資料などを参考にして、若干の考察を試みた。蹴上発電所の建設にいたるまでの経緯については、すでに本ホームページで取り上げているので、ここでは3回にわたる建設および増強経緯に焦点を当てて紹介する。
  第1期 第2期 第3期
着工時期 明治23年(1890)1月 明治43年(1910)3月 昭和7年(1932)6月
完工時期 明治30年(1897)5月 明治45年(1912)5月 昭和11年(1936)1月
発電機 75〜200KW…19台
直流7台、交流12台
輸入品18台、国産1台
交流(1200KW)5台
(内1台予備)
輸入品(米GE社製)
交流(7500KVA)2台

国産(日立製)
水車 ペルトン水車(120馬力)
20台
輸入品
横軸フランシス水車
1700馬力・5台
エッシャーウイス製
縦型フランシス水車
10,500馬力・2台

国産(日立製)
出力 1760KW 4800KW 5700KW

 以下、第1期、第2期、第3期に分けて補足説明する。

2) 第1期工事の概要
 第1期工事として建設された建物は現在残っていない。写真によると、水車と発電機のセットが順次設置され、最終的に10セットが2列に並び、外見3つの屋根を持った建物に収まっている。(下の写真参照)
 中央の屋根の下に水車を2台並べ、両サイドの屋根の下に発電機を置き、両者を2段のベルトで繋いでいる。ペルトン水車は水しぶきが飛ぶので、水分を嫌う発電機との距離を保つ必要があった。
 最初の発電機として、見学したアメリカのアスペン水力発電所で使用していた直流型エジソン式80KW2台が明治23年12月に入荷したので、完工に先立って明治24年(1891)8月から運転を開始し、その後種々のタイプの発電機が順次稼動していった。


@:琵琶湖疏水記念館にある第1期建屋の模型

A:第1期建屋内の水車と発電機の配置

B:琵琶湖疏水記念館にある断面配置図

C:19台の発電機の仕様明細表

 建設当初は、自動調整器がなかったので並列運転が出来ず、19台の発電機を1台ずつ独立した送電線によって送電した。また、電力供給区域は直流のため、発電所から20町(約2km)の距離に限定されていたが、交流発電機の導入により順次拡大されて行った。
 一方、電力需要もインクラインの運転動力や近隣の電燈需要などに止まっていたが、紡績、製氷、煙草製造など工業用と広がっていった。そして京都電気鉄道(梶jは蹴上發電所から受電して、日本で初めて明治28年(1895)1月に塩小路(京都駅)から伏見油掛間6.4kmの市街電気鉄道を開通させた。

3) 第2期工事の概要
 第2期工事が完成した明治45年(1912)2月に、5機の発電機の内、2機の仮使用許可を受けたと同時に、第1期発電所が廃止された。第2期の赤煉瓦製(骨格は鉄筋コンクリート)の建物は、第1期建物に南接して建てられ、山麓地下を約20m掘削して横型フランシス型水車の放水点とした。
 第2代京都市長の西郷菊次郎は、明治28年(1895)の平安遷都1100年記念にあたり、
第2疏水建設を京都の3大事業の一つに取り上げ、増加してきた電力需要に対応して蹴上発電所の増強を計り、第1期の出力1760KWから第2期の出力4800KWへの増強を実施したのである。

D:外部の道路から見た東面の写真

E:発電所内部から見た西面の写真

 この建物の正面には、今上(平成)天皇の祖父にあたる久○宮邦彦殿下の筆による石額「亮天功」が掲げられている。これは“天功を亮(たす)く”と書かれており、中国の書経にある瞬帝の勅語の一節で、関西電力のパンフレットによると、“水力エネルギーという自然の恵みを、人々の暮らしに生かすことこそ、天の意思に叶うものである”(直訳)…と解説している。

F:正面を飾る石額(明治では右→左に読む)

G:建物の上部にある電線の取り出し口

 この建物は、現在内部機器を取り外してあり、利用されていない。この建物は戦後の昭和26年(1951)に京都大学の原子核物理学研究に使用するサイクロトロンが設置され、研究施設として活用されたが、既に撤去されている。

4) 第3期工事の概要
 第2期工事が完成してから、電力の需要は増加の一途をたどり、京都市ではより安価な水力発電の増強が必要となったので、昭和7年(1932)に第3期工事に着手し、3年半の工期で新發電所とこれにつながる変電所や送電線を建設し、これが現在の発電所となっている。三条通に面した正面入り口を入ると、左手に鉄筋コンクリートの3階建て白色ビルがある。我々見学者は、階段を上がって3階の部屋で、スクリーンを用いて概要の説明を受けた。そのあと2階に下りると、第3期工事で建設された大型発電機2機と操作パネルが設置されており、発電機の下に水車が連結されていると説明を受けた。

}H:現在使用されている大型発電機

I:建物の地下にある使用済用水池

 現在の発電所は、昭和11年(1936)以来現在まで70年以上稼動しており、隣接する蹴上変電所で目的に応じて変電している。この変電所の建物は、京都市の風致地区に建てられたので、寄せ棟の勾配屋根の建物となっており、外壁は南禅寺にある疏水の史跡「水路閣」をイメージしてデザインされている。なお、発電所も変電所も荒神口制御所で集中管理されているので、現在無人運転となっている。また、昭和54年(1979)4月には、出力を5700KWから4500KWに変更している。

5) 水力発電事業発祥地の碑
 この発電所の所有権は、昭和17年(1942)に京都市から関西電力に委譲されている。そして、正面入り口の近くに昭和37年、村野藤吾設計による碑が建てられた。
碑文を示すと

 蹴上発電所は、わが国最初の事業用水力発電所であり、時の京都府知事北垣国道氏の計画になる琵琶湖疏水工事の設計者田辺朔郎博士と疏水常務委員高木文平氏が、米国の利水施設を実地調査した結果、水力発電所を疏水に併設することになり、この地に建設されたものである。
 工事は京都市により施行され、明治24年(1891)には80KWエジソン式直流発電機2台をもって一部の発電が開始された。小規模ではあったが、当時としては画期的なもので、その後数次にわたり拡張され、昭和11年(1936)に出力5700KWとなり現在に至っている。ここに一碑を建立してその由来を伝えるものである。
  昭和37年12月    関西電力株式会社 社長 芦原義重

12)墨染発電所および夷川発電所の概要

1)墨染発電所の建設経緯
 本ホームページで既に報告したように、琵琶湖疏水のルートに3つの発電所が存在する。
 今回、蹴上発電所と併せて墨染発電所の内部を見学する機会(06‐01‐19)を得た。ちょうど今の季節は、第1疏水の水を止めて清掃する時期であるが、鴨川運河も水を止めており、したがって墨染発電所の運転も中止していた。
 京都市は、電力需要の増大に応えるため、明治41年(1908)10月に第2疏水の建設工事を開始し、明治45年(1912)4月に完成させ、これに併せて蹴上発電所の第2期工事を実施したが、明治45年(1912)5月に夷川発電所(鴨東運河と鴨川運河の落差を利用)と墨染発電所(鴨川運河と濠川との落差を利用)の建設を開始し、大正3年(1914)4〜5月に完成させた。
発電所名 出力(KW) 落差(m) 使用水量(m3/s) 発電開始年
蹴上 4,500 33.7 16,700 明治30年
夷川 300 3.4 13,910 大正3年
墨染 2,200 14.3 12,710 大正3年

 墨染発電所は、蹴上発電所に次ぐ出力2,200KWである。竣工当時は、縦型フランシス水車1台、三相交流発電機1台で、出力は1,320KWであったが、昭和29年(1954)に出力増強工事が行われた。外観は元のままであるが、水車は縦軸カプラン水車(可動羽根プロペラ)に、発電機は明電舎製の三相誘導発電機に変更され、近代化された。
 この水車・発電機には、当時大型用としては世界初の磁気軸受(軸の四方向に電磁石を配置して吸引しながら軸を中空に安定させるために変位センサーで常にバランスを検知する仕組み)が採用された。

@:墨染発電所の発電機の写真

A:墨染発電所の外観

 この発電所は、墨染舟溜から見ると、小山の裏側にあり、また反対側にある取水口から見ると1段低い位置にあるのだ、外側から眺めることはできない。
 また、映像の紹介も少ないので、今回許可を得て内部の写真を取らせていただいた。国道24号線横の旧インクライン道にある門から入ると、桜並木の道があり、樹木も大きく育って外部の喧騒から遮断された公園の雰囲気であった。
 写真に示すように建物は、コンクリート製の2階建てで、横の小さい出入り口をくぐって階段を上がると正面に発電機がある。水車は発電機の下にあり、鴨川運河から導入された水は円筒型の深いタンクに導入され、底から縦軸カプラン水車を回転するように配置されている。この墨染発電所は無人運転のため鉄柵で囲まれているが、内部の清掃は行き届いていた。

2) 夷川発電所の建設経緯
 墨染発電所と同時に着工され、墨染発電所より1ヶ月早い大正3年(1914)4月に完成した。初期は、水車が英国ボービング社製の4連フランシス水車、発電機が米国ウエスチングハウス社製の同期発電機であったが、平成4年(1992)に水車は富士電機製の横軸単輪単流円筒型チューブラー水車、発電機も富士電機製の交流三相回転界磁型に変更し、効率改善と運転保守の向上を計った。

B:夷川舟溜(東側)から見た夷川発電所

C:出口(西側)から見た夷側発電所

 土木学会は、平成13年度の土木学会選奨土木遺産(10件)として、琵琶湖疏水発電所群を選定したが、その選定理由として
 蹴上発電所……ルネッサンス調の大胆なアーチ模様のデザインをもつ。
 夷川発電所……ネオ・ルネッサンス様式の装飾的な建屋をもつ。
 墨染発電所……最初期のRC発電所(現在3番目に古い)となる。

と説明している。
 現在、これら3発電所は荒神口制御所から遠隔制御されている。

13)保津峡開削400年を迎えて(その1)

1) 豪商・角倉一族による保津峡開削の歴史に触れて
 今年は、角倉了以が嵯峨と丹波(亀岡市)を結ぶ大堰(おおい)川(保津川)を踏査し、幕府の認可を得て慶長11年(1606)3月から8月までの僅か5ヶ月間で開削を完了してから、400年に当る年である。今年は亀岡市や京都・嵐山を中心に色々なイベントが計画されている。
 琵琶湖疏水は、完成から今年で116年の年月を経過するが、その原点をたどると保津川の開削につながる。この意味で、機会あるたびに保津川開削の歴史に注目してきた。昨年後半から現在までの経緯をリストしてみると、

05‐08‐03:シンポジウム角倉フオーラムに参加、「角倉一族の活躍」ぶりに触れる
05‐09‐09:京都新聞丹波総局の本田貴信氏の記事「保津川開削400年」を読む
05‐12‐24:思文閣出版発行の「京都高瀬川―角倉了以・素庵の遺産」石田孝喜著を読む
05‐12‐26:フランスの世界遺産「ミデイ運河」が高瀬川開削とほぼ同時期に完成を知る
06‐02‐03:農水省の「疏水百選」に「洛西用水」…保津川エリアを含む…が選定される
06‐02‐04:京都新聞で、京大名誉教授の上田正昭氏の解説「保津川開削400年」を読む
06‐02‐08:“学びのフオーラム山科”で角倉了以研究会長の吉田周平氏の講演を聴く

 このように、私のような素人でも僅か半年の間に多くの情報に触れることができ、より詳しい情報に触れたい気持になる。私のホームページは、メモ帖がわりに記述しているので、今回も私にとっての追加情報を中心にまとめさせていただいた。

2) 開削当時の日本の河川土木技術に関する情報
 2月8日の講演会では、嵐山千光寺・大悲閣にある「河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘」と題した碑の解説を中心に進められた。この碑は、寛永7年(1630)7月12日付けで、了以の長男の素庵(玄之)が建立したもので、1,400字を超える漢文のため肉眼で判読できない碑文を読み易いように説明文にしたものが配布された。
 とくに興味を持ったのは、流れの邪魔をしている巨石を取り除く方法で、
イ) 石が地上にある時、朱印船の荷の上げ下ろしに使用する滑車を用いてこれを牽く
ロ) 水中にある石は、浮楼(移動式やぐら)を用いて数十余人の力で、先端の尖った太く長い鉄棒を縄で吊り上げ、高所から落として砕く
ハ) 石が水面より出ている時、表面を烈火で焼き、水をかけて砕く
 この他、広くて浅い流れは仕切りをして狭めて流れを速めて舟を通す「水寄せ」の技法は現在も使用されている。全体として通舟のテクニックは現在と同じで、変わったのは、木舟からグラスフアイバー舟に変わっただけという説明は印象的であった。また、文章の中に、峻険な大井川を開削して舟を“通し”のところに“疏(とおし)”という疏水の疏の字が400年前にも使用されていることがわかった。
 淡交社発行の「京都水ものがたり」(平野圭祐著)によると、この石碑(高さ約2m、幅約90cm)は、儒学者の林羅山が記したもので、昭和53年(1978)の本堂解体工事の際、石碑の上部が破損したため、平成14年(2002)に寺と角倉同族会の手で修復され、約5m程移動し、石の土台もつけられた。

3)角倉一族が各地の水運開発を実施した技術背景について
吉田周平氏の説明の中で、角倉一族の系譜を用いて土木水利事業を推進した背景の説明があったが、了以の父の宗桂は、策彦周良にしたがい、遣明船に乗って2度にわたり中国にわたり、多数の書物や知識を持ち帰っている。本職の医術が中国でも評判となり、明の皇帝世宗を診たと伝えられる。青壮年期に父から教えられた了以は、ベトナムを相手の朱印船貿易で巨万の富を築き、土木水利事業として大堰川(1606)、富士川(1607)、天竜川(1608、実現せず)、賀茂川(1610)、高瀬川(1611〜1614)、琵琶湖疏水計画(1614、実現せず)と活躍した。
 了以の息子の素庵も朱印船貿易を引き継ぐとともに、土木水利事業として了以とともに大堰川・富士川・天竜川・賀茂川・高瀬川・琵琶湖疏水計画を推進し、淀川転運使(過書舟の支配)や木曽の巨材採運使など幕府の役人を務めている。 
 素庵の2人の息子玄紀と巌昭は、高瀬川・淀川・大堰川などの舟運管理や支配を担当して経営の安定化に努めた。
 また、前に本ホームページで取り上げた「菖蒲谷隧(ずい)道」の開削を、一族の医師光長と数学者光由が1623年頃実施している。
 
 大堰(おおい)川の開削工事に着手する前々年前、岡山の和気川で遊んだとき、喫水の浅い舟でも渓流を下ることができることを知り、早速大堰川の周辺を探索し、可能性が確認できたので開削工事を急ぎ、了以は操船術に長けた船頭を岡山から嵯峨に招き、新しい水運に備え、居住地を整備して定住させている。行動力の優れた了以は、自らハンマーをかついで開削の現場に立ち、短期間にいくつかの水路を自費で開拓し、高瀬舟を運航する権利で財を築いたのである。
 この保津川の水路の完成により、筏による木材の運搬に加え、船による炭・米・石材が丹波から京都に運ばれ、京都の発展に大きく貢献した。明治に入り、保津川の舟下りが始まり、また平成3年(1991)から嵯峨から亀岡間のトロッコ鉄道が動き、船運から遊船への転換も順調に進んでいる。今後、この地区で平安京以前から活躍した渡来人・秦(はた)氏(うじ)の水利土木技術についても調べて見たい。

14)日本には実用例のない「運河リフト」の紹介

1) 明治初期から欧州で活用された「運河リフト」
 運河の航路の途中で、船を高所の流れから低所の流れに移動させたり、あるいは低所から高所に移動させたい場合、「閘門方式」、「インクライン方式」、「運河リフト方式」の3つの手段がある。
 もっとも古くから活用されているのは「閘門方式」であるが、1回で上下させる距離は数メートル前後が多く、さらに長い距離を上下させる必要がある時は、閘門を多段に使用した「多段閘門方式」を採用して10〜30メートルをクリアすることができた。イギリスやフランスでは10〜30段の閘門を活用して岡越えを果たした実用例がいくつかある。
 しかしながら、「多段閘門方式」は移動操作が大変で所要移動時間が長いので、このような場所には古くから陸上で利用されてきた「インクライン方式」が運河に活用されるようになった。

 一方、その地形が急斜面であったり、ダム湖から真下にある河川に舟を移動させたりする場合、「インクライン方式」の採用が難しいので、百貨店のエレベーターのように垂直に移動する「運河リフト(運河エレベーター)」が明治初期から欧州で活用されてきた。日本では実用例がないので、海外の3件の訪ねて観たい代表例を文献・情報から拾ってみた。調査が不充分なので順次修正または補充をしていきたい。

2) ベルギーのサントル運河にある世界遺産登録の「運河リフト」
 この運河はムーズ川とエスコー川を連結して、ドイツからフランスへ直通幹線を造るために、67メートルの高度差を解消する手段として建設された4段の「運河リフト」である。
 運河の建設時期は、1888年(明治21年)から1917年(大正6年)にかけてであり、イギリス人技術者クラークの設計により建設された。
 その構造と運転方式を説明すると、1本の太い支柱の両側にロープで連結された2基の上下移動式鉄槽(長さ40メートル、幅5メートル)があり、一方の鉄槽は上部水面、他方の鉄槽は下部水面にセットする。舟は浮かんだまま下方の鉄槽の中に入り門扉を閉じる。そして上方の鉄槽に水を導入して、両方の重力差で舟を上方に持ち上げる方式を採用している。動力としては水の重力のみで運転しており、建造当初から現在まで稼動している世界唯一の「巨大リフト」として周辺の景観を含めて1998年(平成10年)にユネスコ世界遺産に登録されている。
 また、同じサントル運河に2002年(平成14年)完成したSTREPY・THIEU運河リフトは、高度差73メートル、1,350トンの船を収納する巨大運河リフトを2基備えている。
3) 英国のトレント&マージー運河にある最古の「運河リフト」
 英国は小さい島国であり、運河網は発達したが短い運河が多く、運河を通航する船も、ナローボートの名のとおり最大長さ70フイート(約21メートル)、幅7フイート(約2メートル)の小型ボートであり輸送能力も少なかったので、鉄道の発達とともに運航中止が相次いだ。ところが最近になってレジャー産業の発達とともに、ふたたび脚光を浴びるようになった。
 今回紹介するのは、トレント&マージー運河にあるアンダートン運河リフトであり、1875年(明治8年)に蒸気エンジンを動力として建設された。田中憲一氏の著書「イギリス・水の旅」によると、1903年(明治36年)に電動モーターに変更されている。この運河リフトの成功が、前項のサントル運河建設の動機となったと紹介されている。そのご船運の衰退で運転が休止されたが、2003年(平成15年)春に記念館とともに新装オープンされ、レジャー用設備として活用されているそうである。

4) 中国の長江にある三峡運河に設置された巨大運河リフト
 長江流域に建設中の巨大ダムで、運河ではないが、船舶航行のための5段閘門設備と、これとは別に大型の船舶リフトを備え、閘門では1万トン級、リフトでは3,000トン級の船舶航行に対応している。
 朝日新聞(05‐11‐30)の記事によると、このダムはチベット高原から上海まで全長6,300キロメートルある長江の河口から、約2,000キロメートル遡った湖北省宜昌市で工事中の世界最大規模のダムである。
 従来、武漢までは5,000トン級の大型船が入れたが、上流の重慶までは1,000トン級が限界であった。ダム湖が完成する2009年には上流の水位が上昇して、重慶まで1万トン級の大型船舶が運航できることになり、その発電能力とともに周辺域の経済発展効果は計り知れないものがあると期待されている。
 閘室サイズ280メートル、幅34メートルの巨大閘門は2航路5段(各段22〜23メートルの水位差)で合計113メートルの落差を3時間半で通過できるが、リフトの場合一気に113メートルを上下できる。

5) 琵琶湖疏水建設に検討されたか?
 工事の設計段階で、欧州ですでに実績のあった「運河リフト」を、蹴上にある「インクライン」の代わりに採用を検討したという記録はないが、おそらく水車動力面や鉄骨構造面など何らかの理由で検討の対象にはならなかったと考える。昭和〜平成の時代に入って、夢物語として数回琵琶湖を経由する日本横断運河計画が登場したが、敦賀から琵琶湖への急斜面や、宇治川の天ヶ瀬ダムの舟運航計画にはインクラインと並行してリフト活用が話題となっている。

15)舞鶴の「赤れんが博物館」を見学

1) 見学に至った経緯
 琵琶湖疏水関連調査の過程で、れんが材料に触れる記述によく出会ったが、海外で何千年も昔から土木建築材料として主役を演じてきた“れんが”が、鎖国時代のオランダや中国との交流の中で日本に根付かず、明治維新による近代化の象徴として突如注目されたかについて不思議に思い、また、明治24年(1891)の濃尾地震で耐震性の弱点が指摘され、さらに鉄骨建築や鉄筋コンクリートの出現により、土建分野における主役の座から短期間に下ろされてしまった悲劇の材料として強い興味を持っていた。
 れんが構造物は目地の改良により耐震性が向上することが見出され、鉄骨との組み合わせなどにより寿命をつないで行った。私は“れんが”の魅力に取りつかれた森田信代(主婦)さんの著書「日本れんが紀行」という労作に出会い、日本にはまだ数多くのすばらしい煉瓦構造物が残っており、そのロマンチックな美しさに魅せられ、興味がさらに強くなった。そして、舞鶴市には「赤れんが博物館」が存在していることを知り、かねてより訪問の機会を探っていたが、今年の10月中旬にやっと訪問することができた。まだ見学していない方も多いと思うので、その要旨を報告する。

2)舞鶴に「赤れんが博物館」が建設された歴史
 いただいた資料の中に、「舞鶴のれんが建造物マップ」という新聞紙2頁分の大きさの地図があり、舞鶴市に現存する131個所の赤れんが建造物の写真・説明・存在場所が地図上に示されている。明治34年(1901)に日露戦争勃発に備えて旧海軍鎮守府が舞鶴市に開庁し、関連する多数の赤れんが建造物が建設され、現存するものが多いので、市民と行政が一体となって“赤れんが”を生かした町造り運動が始まったのである。
 昭和57年(1982)に日本建築学会から、第2次大戦以降使用されずに放置されていた「旧海軍の煉瓦造建築」の保存要望書が提示され、これを機に調査活動が繰り広げられた。
 そして平成3年(1991)には「赤煉瓦倶楽部・舞鶴」が発足し、平成5年(1993)に市制50周年記念事業の一環として、旧海軍兵器廠魚雷形水雷庫用に明治36年(1903)に建造された建物を利用した世界初の「赤れんが博物館」が誕生したのである。
 
 平成3年(1991)10月に発足した市民団体「赤煉瓦ネットワーク」には、横浜・舞鶴・江別・喜多方・愛知・大阪・呉・宇部・長崎・日南など全国から三十八団体が集い、1,300人の会員間の交流や情報交換など、その活動は日本全体に広がっている。
 “れんが”の歴史は、人類の文明と同じくらいという言葉があるが、これだけ歴史があるのに煉瓦専門の充実した博物館は世界にも例がないといわれている。今後とも充実して世界の博物館として育って欲しい。

3) 舞鶴の「赤れんが博物館」の見学内容
 市文化財である建物の耐震強度を補強工事(8,400万円)を行い、平成17年(2005)4月に再オープンした博物館は、鉄骨れんが壁2階建の建物である。

赤煉瓦博物館建物の正面玄関


博物館ゾーンの内側から見た入り口


 この博物館では、世界39ヶ国から集めた1,300点の煉瓦のうち約400点を展示している。写真パネルで煉瓦や煉瓦建築の歴史を紹介しており、1階には海外の煉瓦が中心となっている。古いものでは、紀元前660年頃象形文字が刻印されたものや、紀元前1250年頃の楔形文字入り煉瓦がある。形や色も様々で、一枚づつ丁寧に眺めていると煉瓦の歴史の重みが伝わってくる。2階には、日本の煉瓦の歴史解説コーナーがあり、琵琶湖疏水の写真説明もある。舞鶴にある煉瓦建物の解説コーナーもある。

1階展示室の外観

2階展示室の外観

 この博物館建物の文化財としての価値について、案内書に次の5点を挙げている。
@ リベット接合法と圧延鋼材を用いた本格的な鉄骨構造建築物としては、わが国に現存する最古のものの一つと考えられる。(現在の鉄骨建築とほぼ同等の鋼材を使用)
A 鉄骨にカーネギー社の銘があり、鋼材の製造会社が特定できる。(輸入品)
B フランス積れんが建築物の数少ない例である。(明治20年以降はイギリス積が主流)
C れんが壁が耐力壁でなく非耐力壁として使用されている。(壁の厚さが薄い)
D 明治時代の旧海軍の遺構として貴重である。(世界的に見ても最先端の技術水準)
E 明治時代の日本トップクラスの建築家や技術者が関与していた。

4)舞鶴にある煉瓦構造物の特徴
 今回訪問したのは、「赤れんが博物館」と赤れんが倉庫群の中にある「舞鶴市制記念館」の2ヶ所だけであったが、いただいた多くの資料からその特徴を考察した。

舞鶴市役所に隣接する市制記念館


倉庫群の屋根部の美しさ

@ 舞鶴の主要赤れんが構造物の大略分類
  旧陸軍の砲台・・・・・・・・明治33年(1900)〜昭和18年(1943)に竣工
  旧海軍の造船廠・・・・・・明治35年(1902)〜大正09年(1920)に竣工
  旧海軍の兵器廠・・・・・・明治34年(1901)〜明治35年(1902)に竣工
  旧北吸浄水場・・・・・・・・明治34年(1901)〜明治45年(1912)に竣工
  旧JR舞鶴線・・・・・・・・・・明治36年(1903)〜明治37年(1904)に竣工
  旧海軍機関学校・・・・・・昭和04年(1929)〜昭和08年(1933)に竣工

A 京都の赤れんが建造物との比較
 京都の同志社大学にある同志社彰栄舘は、明治17年(1884)に竣工した京都最古の現存する建物で、同志社には明治19年(1886)〜明治26年(1893)の建物の6棟ある。
 第三高等中学校には明治22年(1889)〜明治26年(1983)があり、初代京都駅は明治10年(1877)に完成しているから、舞鶴に比較して少なくとも10〜15年は古い。
 しかしながら、舞鶴の赤れんがサイズは通常より大きく手抜き成形されたものが多く国営事業で仕上げもよいといわれている。
 京都の蹴上浄水場と舞鶴の北吸浄水場を比較すると舞鶴の方が約10年古い。

B 土木工事面での比較
 琵琶湖疏水のトンネルや水路閣工事は明治20年(1887)から明治23年(1890)に行われている。舞鶴の鉄道工事は、日露戦争勃発の直前に緊急敷設された路線で、明治37年(1904)に完成したもので、トンネルや鉄道の架台などに利用された「れんが」は、100年を経過した今も現役で活躍している。

 今回は、舞鶴全体の観光を兼ねての訪問であったが、調査対象を絞ってもう一度舞鶴を訪ねたいと考えている。

16)大阪歴史博物館で「煉瓦・タイル」の特別展を見学

1)特別展の見学に至った経緯
 大阪歴史博物館の開館50周年記念と大阪最古の煉瓦建造物「泉布舘(せんぷかん)」の重要文化財指定50周年を記念して、「煉瓦のまちタイルの町―近代建築と都市の風景―」と題した特別展が開催されるという案内パンフレットを京都アスニー山科の棚で見つけたとき、35枚の装飾タイルで飾られたカラフルな美しいパンフレット(左図)に強い印象を持った。
 当時の私の知識で、煉瓦構造物が耐震性に弱いことと、鉄骨コンクリートの出現により、新建築材料として使用されないようになり、鉄骨建築の表面を飾る薄い煉瓦として需要をつなぎ、これが日本でタイルの源流として進化して行ったと想像していた。つまり、琵琶湖疏水と関係がないタイルの歴史について興味を持ったことは無かった。煉瓦については、最近「舞鶴市赤れんが博物館」を見学していたので、今回はタイルの歴史に焦点を当てて、12月8日に大阪歴史博物館を初めて訪ねた。
 大阪駅の東梅田から谷町線に乗り、7分乗車して谷町4丁目で下車、9番出口から外にでると、9階建ての巨大な博物舘前に出る。
 今回の特別展は6Fの特別展示室で開催されたが、10Fは古代フロア、9Fは中世近世フロア、8Fはなにわ考古学研究所、7Fは近代現代フロア、地階ではおよそ1350年ほど前の飛鳥時代の古代遺跡が見学できる。
 6F以外の見学は次回に譲って、今回は特別展に絞って見学を行った。6Fの展示室の入り口に綺麗な飾りがあったので、外からホームページ用に写真を撮りたいと申し出たが、内部も外部も写真撮影は禁止で、上記案内パンフレットを利用して欲しいと断られた。舞鶴市赤れんが博物館では、すべて撮影はオープンだったと残念に思った。(最近の展示会では、マニア用に1〜2ヶ所の撮影コーナーを設けているケースが増えてきた)
 外に出て、関連書籍を販売しているコーナーで今回の特別展の解説書を購入し、ゆっくり読み直してみたが、編集が行き届いていて質的にも優れており、博物館スタッフの努力を感じた。煉瓦愛好グループの仲間にもこの解説書を回覧したいと考えている。
 ここは琵琶湖疏水のホームページなので、とくに印象に残ったところに焦点をあてて紹介をしたい。


大阪歴史博物館の全景


2)大阪最古の煉瓦造建造物「泉布舘」の紹介
 大阪周辺は昔から良質の瓦の生産地として知られてきたが、瓦を焼く炉を改造して煉瓦を作ることができ、また粘土を焼成する技術の蓄積もあったので、明治の初期から多くの煉瓦工場が建設されている。
 小野田滋氏の「鉄道と煉瓦」(鹿島出版会発行)によると、明治2年(1869)に大阪造幣寮(現在の造幣局)建設用煉瓦工場が、兵庫県明石と大阪府鴫野に建設されており、明治3年(1870)に大阪造兵司(大阪砲兵工廠)用煉瓦工場が大阪府堺市に建設されている。
 今年が重要文化財指定50周年に当たる「泉布舘」は、明治4年(1871)に操業を開始した「大阪造幣寮」の応接所として建てられたもので、大阪最古というよりは日本に現存する煉瓦造建造物の中でも極めて古いものである。泉布舘の名は、明治5年(1872)に明治天皇が行幸されたとき、「貨幣の館」を意味する言葉として名付けられている。
 また、今回の特別展には、琵琶湖疏水の第3トンネル西口洞門の石額文字(美哉山河)を揮毫した三条実美が、明治10年5月に揮毫した泉布舘の扁額文字が展示されていた。
 この泉布舘は外観上白い建物であるが、説明によると花崗岩の円柱が使用されており、赤煉瓦を積み上げた表面に白漆喰が塗られている。京都の無鄰菴にある煉瓦造建物も同様な仕様で外見は白壁になっていることを思い出した。
 この泉布舘の設計図面、暖炉の床面タイル、側面壁のタイルなどの解説があり、明治6年(1873)に完成した「日本帝国大阪造幣局」の全景を描いたイタリア人マンテーニーの絵を見ながら、明治初期の建造物を楽しむことができた。
 京都の赤煉瓦は明治20年代中心、舞鶴の赤煉瓦は明治30年代中心であるが、大阪には明治5年以前の建物がそのまま残っていることに歴史の重みを感じた。

3)タイル製法の歴史
 解説書によると、平成14年(2002)に兵庫県淡路島で陶磁器の窯跡がつぶされているという連絡が兵庫県教育委員会に入り、現地調査を実施した結果、江戸時代後期に栄えた「a平焼」の工房であることが判明し、この地が近世・近代を通じて窯業の変遷を伺い知れる大発見になったと記載されている。
 大阪歴史博物館発行の特別展の解説書に、兵庫県教育委員会の深井明比古氏が「タイルの編年について(a平焼窯跡発掘調査成果から)」と題したレポートが掲載されているが、素人が読んでもゾクゾクする感動を覚えた。
 彩色タイルの源流は、紀元前27世紀のエジプトのフアイアンスタイルにさかのぼるということを知って驚いたが、常滑市にある「世界のタイル博物館」所有の数々のタイルを見学させていただき、また「タイルの消長表」と題した絵図によると、日本におけるタイルの源流は明治20年代で、明治30年代から大正にかけてその美しい花が開いて行ったことが理解できた。
 私は、疏水を散歩していて、国の史跡となっている6ヶ所のトンネル洞門が色彩的に地味で、石額文字も遠くから判読し難いことを残念に思っている。またインクライン下のトンネル「ねじりまんぽ」にある扁額が少し近代的であるが、粟田焼の陶板製と聞き調査したいと思っている。今回の特別展を見て、もう少し早く彩色タイル技術が日本に導入されていたら、琵琶湖疏水に活用され、カラフルな明治の近代化遺産になったのでは?・・・と感じた。
 深井明比古氏によると、タイルは近世・近代の歴史遺産でありながら、その研究は不充分であり、「タイル考古学」は始まったばかりと述べている。今後の研究の進展を期待するとともに、機会があれば常滑市の「世界のタイル博物館」を見学したいと考えている。

4)その他
 とくに印象に残ったことを紙面一杯まで数件紹介する。

@ 解説書の中で、大阪歴史博物館の船越幹央氏が「煉瓦という言葉」という文の中で、日本の煉瓦の歴史をうまくまとめているが、幕末に海外に渡った人々の日記には、「煉瓦石」「練瓦石」「煉化石」「練化石」「錬化石」などの表記があり、明治になっても「煉瓦」という表現は一般的でなく、「煉瓦石」のように「石」をつけるのが主流であったと紹介している。しかし、明治5年の東京丸の内大火後に建設された「銀座煉瓦街」には「石」の表現はなく、鏑木清方の回想文の中に、・・・歩道にも煉瓦を敷いてあったので、銀座通を煉瓦通または煉瓦と呼び、“煉瓦をひとまわりして来よう”という言葉は“銀ぶらしようよ”の明治語である・・・と書かれていると紹介している。

A 東京帝国大学工科大学建築科を卒業したあと、大正9年(1920)新設された京都帝国大学の工学部建築科の初代教授となった武田五一は、京都市でも数多く作品を残しているが、約3年前に京都市文化観光資源保護財団の企画展として、京都芸術センターで開催された「近代京都の生活デザイナー・建築家・武田五一展」を見学し、教育者・工芸・文化財など幅広い分野で活躍した学者・建築家であることを知った。今回、武田五一は大正・昭和初期の一般的な建築材料のコレクションをし、これが「京都大学建築材料コレクション」として国の登録有形文化財となり、その中からタイル関係の資料が展示された。学者の選んだコレクションをゆっくり見学できた。

B 大正12年(1923)に東京日比谷に建てられたライト氏設計の旧帝国ホテルの模型や透かし彫り煉瓦や装飾煉瓦を楽しみ、赤煉瓦で美しい毛馬閘門と洗堰の風景画と現在の写真を楽しんだ。煉瓦は外来語でなく日本語由来であるからレンガと書くのは間違いで“れんが”または“煉瓦”であるべきとの指摘があり、本文はこれに従った。

17)琵琶湖疏水に使用された煉瓦について

1)執筆の経緯
 煉瓦に関する記事は、ホームページ作成の初期段階で1回取り上げているが、追加情報も乏しく遠ざかっていた。最近、小野田滋氏の著書「鉄道と煉瓦」を読んで興味ある材料であることに気付き、舞鶴の「赤れんが博物館」や大阪市の歴史博物館で開催された「煉瓦のまちタイルのまち―近代建築と都市の風景―」と題した特別展を見学し、日本・海外における煉瓦材料の概略を把握することができた。
 そして、両博物館でも琵琶湖疏水の煉瓦の見本と解説を見つけたので、もう一度疏水の煉瓦のことを整理してみることにした。

2)疏水工事で使用された煉瓦の量
 琵琶湖疏水は、当時の日本における最大量規模の煉瓦使用工事であった。そして量的に外部から供給を受けることができないので、疏水工事の中央部に位置し、原料となる粘土と燃料となる松材の豊富な御陵の地に府営の煉瓦工場を建設したのである。
 この件に関する「琵琶湖疏水・楽百年之夢」誌の5th 016storyの記事によると、建設した工場は、約3ヶ年の操業で約1367万本の煉瓦を焼き、疏水工事に1073万本の煉瓦を使用し、残りの295万本を売却したと報じている。
 京都市電気局がまとめた「琵琶湖疏水及電力使用事業」誌に建設工事の工程別の使用量が紹介されている。

3)京都府直轄の煉瓦製造工場の概要
 前述の府下宇治郡御陵村の工場敷地は、明治19年5月10日に決定し、面積13,471坪を手配し、工場10棟、窯場3棟、登り窯12ヶ所(順次増強)、煙突8本の設備をわずか2ヶ月余りで建設した。そして、煉瓦工場の責任者として、明治3年(1870)以来阪神間鉄道用煉瓦製造所堺工場で、英人技師の指導を受けた熟練技術者・菊田宗太郎を招き、経験ある職人も集め、作業員の充足のため囚人も活用した。
 明治21年(1888)の建設中に石積予定であったトンネル側壁や下窮(インバート)の大部分を煉瓦巻に変更したため、一時的に大量の煉瓦を必要とし、工場の生産能力では間に合わなかったので、不足した煉瓦を日本土木会社、江州、湖東、刑務所などから購入したこともあった。
 この工場は京都府の直営工場であり、予定通り生産完了後ただちに閉鎖された。現在地下鉄蹴上駅A番出口の左隣に、「琵琶湖疏水煉瓦工場跡」と題した記念碑とその解説文字盤が設置されているが、工場跡地は特定されていない。(細部はC−1−1を参照)
 なお、煉瓦工場の写真は残っていないが、疏水記念館や琵琶湖疏水の100年誌に画家の田村宗立や河田小龍が描いた煉瓦工場や作業風景の絵があるので、興味のある方は見ていただきたい。

4)疏水工事に使用された煉瓦
 幕末から明治の初期にかけて日本に設立された主な煉瓦工場が「鉄道と煉瓦」誌に23ヶ所紹介されているが、その場所は北海道から九州に至るまで分布している。また、文献による鉄道用煉瓦の供給地が36ヶ所の鉄道線べつに表示されている。
 東海道本線の大阪〜京都(1873〜1877)では、明治7年京都府葛野郡川田村大字川島に直営の煉瓦製造所を設けて供給している、 東海道本線の大津〜京都(1914〜1921)を例に示すと、逢坂山トンネルは、泉州堺、岸和田、姫路、滋賀県山田、膳所、八幡の煉瓦を、東山トンネルは姫路、堺、岸和田、滋賀県山田の煉瓦を使用している。
 明治初期には民間の製造所の能力が小さいので、直営工場を建設しており、琵琶湖疏水の場合も直営としたが、これが最後の直営となり、その後はすべて民間工場の煉瓦を使用するようになった。
 煉瓦の場合、産地を示す刻印をつける場合があり、改造工事や災害のよる崩壊などがあれば、廃材として古煉瓦が発生するが、一般に価値のない物として捨てられ、保存されているケースが少ない。
 琵琶湖疏水の場合、煉瓦の生産地が急激な住宅化の進行で特定されてなく、また大型改修工事も少なく、残っている古煉瓦の数も少ない。わずかにインクライン改修工事やネジリマンポの補修工事で採取された煉瓦の中に疏水工事に関係ある刻印や番号入りのものが見つかっている。これから、改修工事も増えると考えられるので、オリジナル煉瓦のあるところは留意して調べてほしい。

18)同志社の煉瓦建造物を見学

1)今出川校区にある赤煉瓦建物群
 同志社大学の今出川校区は道路側から見ても赤色の建物が多く、校区内に入っても大部分の建物の外装が赤煉瓦または赤色類似物となっている。地下鉄今出川駅の@番出口をでて、烏丸通に面した西門から入ると、左手に歴史の重みを感じる赤煉瓦造りの建物が並んでいる。「学校法人・同志社」がガイド用に作成した「同志社の文化財建築物」によると、最初の建物は「彰栄舘」と称するもので、同志社の中で最も古い赤煉瓦造り校舎であり、京都市内に現存する最古の煉瓦建築物である。中央正面にある時計台と鐘楼を兼ねた塔屋は重厚そのものである。隣にある三角屋根の「礼拝堂(チャペル)」は、日本に現存するプロセスタントの煉瓦造りの教会として最古の物である。その隣にある「ハリス理化学舘」(工学部の前身)は、明治23年(1890)に開設された「ハリス理化学校」の中心的な建物であり、現在その2階が「Neesima Room」として公開されている。
 このように、同志社の今出川校区の比較的狭い敷地の中には、各時代の赤色の歴史的建造物が詰まっており、そのほとんどが修復を重ねながら現在も活用されている。私のような赤煉瓦マニアにとって、この区域はすばらしい散策スポットである。

西門横にある案内掲示板より引用

同志社作成のガイド用資料より引用

2)校区内に存在する国の文化財について
 校区には、国の重要文化財に指定されている建物として明治時代に建造されたものが5件存在し、平成8年(1996)に新しく制定された国の登録有形文化財に指定された建物として、大正から昭和初期に建造されたものが3件存在している。
 重要文化財として指定されている5件は、何れも赤煉瓦造の建物であるが、原状復帰を前提に大規模な修復作業がなされてきた。その一つである「有終舘」は復旧時に煉瓦の補強に鉄骨を利用しており、また「クラーク記念館」は2008年完成を目標に現在修復作業が進行している。明治遺産の内外装をそのまま維持することは大変であり、次表のように最近では、外装は原状を残し、内部改造の比較的自由な登録有形文化財が採用されている。
            国の文化財指定を受けた建物8件の概要

3)Neesima Room企画展「戦後の同志社」を見学
 ハリス理化学舘の2階に「新島襄の生涯」展が常設されているが、今回「戦後の同志社一九四六〜一九八六」と題したNeesimaRoom第30回企画展が開催され、1946年から京田辺キャンパス開校(1986)までの40年間における大学のハード面での充実や学生の増加、学生運動、文芸運動の展開などを資料や写真を用いて説明されていた。

ハリス理化学舘の正面写真

今回の企画展のポスター

ハリス舘2階の展示室風景

イギリス積み煉瓦のハリス舘



「同志社の文化財建築物」より
借用したクラーク記念館(修復前)

4)創建当初にこだわる改修作業
 同志社大学は、明治8年(1875)に同志社英学校として開校し、翌年京都府政に大きい影響力をもつ山本覚馬の所有する薩摩藩屋敷跡(現在の所在地に移った。前項で紹介した8件の文化財のすべてが米国関係者からの寄付で建設されている。この中で、最も美しい外観を持つクラーク記念館は、平成15年(2003)1月から全面的解体修復工事にはいっており建物全体がカバーで覆われているが、今年には新しい姿が見られる予定である。解体工事中の話題を二つ紹介する。京都新聞(04−11―17)によると、創建当時は鉄筋コンクリートが普及する前で、鉄骨で煉瓦を補強する技法が広まっていた。今回の解体工事で、鉄道レールが補強材として使用されているのが発見された。当時、輸入鋼材よりは中古の鉄道レールのほうが安かったためと想像される。
 クラーク記念館は美しい尖塔が有名で、写真のように屋根は銅板葺の緑色である。京都新聞(05−08―19)によると、今回の修復では古写真を参考にして、屋根の色は創建当時の鉄板葺(黒色)となるという。
 また、文化財として最も新しい「アーモスト舘」(同志社女子大区域)も煉瓦造りにこだわっており、唯一「栄光舘」が鉄筋コンクリート造であるが、赤煉瓦タイルを張った外装となっている。
 同志社の重要文化財指定の建物は、琵琶湖疏水の設計段階から操業段階に建造されたものである。土木工事の場合は、改修工事の時の正確な記録が残っていないケースが多いが、建築工事の場合の多くは残っている。
 今回のクラーク記念館修復の場合は、重要文化財であるため、極めて慎重な配慮のもとに改修工事が進められている。完成後の工事記録が公表されれば、明治初期〜中期における煉瓦建築に関する多くの知見が得られるものと期待している。同志社の今出川校区は、週末でも一般に公開されているので、今出川通を挟んだ位置にある京都御苑とともに散策を重ねて知見を増やしていきたい。

19)インクライン技術の考察(1)

1)片勾配式と両勾配式
 琵琶湖疏水記念館の地階第3展示室に、インクラインの稼動状況を押しボタンで実演できる50分の1の模型があり、壁には片勾配式(ロックプレイン式)と両勾配式(サミットプレイン式)という2つのタイプのインクライン原理図がかけてある。そして、琵琶湖疏水のインクラインは片勾配式で設計し建設する予定であったが、田邊朔郎・高木文平が渡米し現地のインクラインの稼動状況を確認した結果、これを両勾配式に変更したことはよく知られた事実である。
 両タイプの原理図をみてもよく理解できなかったが、ロックは「閘門」を意味し、サミットは「分水嶺(峠、頂上)」を意味することがわかり、理解することができた。片勾配式は両側に開閉閘門のついた箱の中に舟を浮べたままレールを上下する方式であり、両勾配式は頂上で舟は水から出て架台に乗ってレールを上下する方式である。片勾配式は操作面で手間がかかるので、より短時間で操作可能な両勾配式が開発されたと考えられる。

2)蒸気動力が存在しなかった頃のインクライン
 前にも紹介したが、鉄道の発展はレールと動力の技術の発展に重なる。歴史書によると16世紀中頃に鉱石運搬に木製レールを用いて貨車を馬が引いたと書かれている。18世紀中頃には木製に代わって鋳鉄製レールが英国で考案され、鉄道馬車時代が到来した。
 インクラインの場合も鉱山から鉱石を降ろす手段として傾斜面に木製レールを敷き、重力で鉱石を降ろし、降りる力を利用して空車を引き上げた。19世紀に入り英国で蒸気動力が実用化され、これを活用してインクラインが陸上で多用されるようになった。
 舟運の場合、低流から高流に舟を上げる手段として閘門技術が活用されてきたが、門の開閉が人力であり門の材質も木製のため、1つの閘門でクリアできる高度差は2〜3mであり、多段閘門という面倒な操作に頼らざるを得ない状況であった。蒸気動力の発明により水運面でもインクラインの実用範囲が拡がったのである。
 日本においても明治に入り、鉱山の鉱石運搬・森林鉄道・発電所建設資材運搬用にインクライン技術が活用されていったが、水運に利用されたのは「琵琶湖疏水」が最初で最後であったのである。ただし、蒸気発電ではなく水力発電による動力を採用したのは世界で初めてではないかと推定する。

3)琵琶湖疏水に活用された2つのインクライン
 琵琶湖疏水には山科疏水と鴨東運河をつなぐ水路に「蹴上インクライン」、鴨川運河と伏見濠川をつなぐ水路に「伏見(または墨染)インクライン」の2つのインクラインが存在する。これを比較表示したのが次表である。


 両者の規模を比較すると、後にできた伏見インクラインはすべて2分の1とサイズであり、伏見インクライン跡地は国道24号線のルートに転用されており、その名は市バスの停留所「伏見インクライン前」に残るのみとなっている。

4)国の史跡となったインクライン
 インクラインは、昭和58年(1983)に水路閣とともに京都市の指定文化財となっている。そして平成8年(1996)に12ヶ所の施設の一つとして、国の史跡に認定されている。インクライン以外の11ヶ所は単独設備が認定されているが、インクラインはその敷地全体が認定されているので、左京区と東山区にまたがっている。
 琵琶湖疏水の舟運とインクラインの復活は将来の夢として語られるが、施設の現状維持を前提とする「国の史跡」であることが大きい障害の一つになると考えられる。

 私はもう少し若ければ行ってみたい場所の一つにインドの「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」がある。これは始発駅と終着駅「ダージリン」の標高差2,000m、距離88mをループ線3ヶ所、スイッチバック6ヶ所を用いて、7〜8時間かけて登る蒸気機関車の旅である。
 この蒸気機関車は100年以上稼動しつづけており、カーブを通るときは運転手が線路に砂を撒いて滑り止めをする。この鉄道は明治12年(1879)に当時インドを統治していたイギリス人が避暑地ダージリンへの道として建設したもので、明治14年(1881)に全通している。この鉄道が世界遺産に認定されている。
 よく「琵琶湖疏水を世界遺産に」という声を聞く。しかし、琵琶湖疏水は日本の文化財(近代化遺産)としての価値は高いが、世界遺産のレベルでみると、日本での審査(候補の選定)段階をクリアすることも難しいと思っている。
 運河として世界遺産に唯一認定されているフランスの「ミディ運河」は多段閘門が目玉の施設となっているが、実用面を考えインクラインのバイパスを追加している。琵琶湖疏水の舟運・インクラインの観光用運航の珍策を考えているこの頃である。

20)水位から見た琵琶湖疏水の考察

1)まえがき
 5月26日(水)に京都市教育委員会・(財)京都市生涯学習振興団主催の「学びのフオーラム山科」にて「琵琶湖疏水の散歩道」と題した講演を実施した。初めてパソコンのパワーポイントを用いた図表や写真を利用したが、「アスニー山科」の南辻館長や山副専門主事の親切な指導と、整った会場施設のおかげでなんとか実施することができた。
 「アスニー山科」では、毎週水曜日に1時間半の講演会を実施しているが、私の講演は第378回目であった。最近では定員200名を越える盛況がつづいており、講演の前に30分実施される歌唱指導では高年齢の全員が大声で唱和するこのイベントの評判は高く伏見や東山区からの常連もいるという。
 今回の私の講演は、琵琶湖疏水を出発点の琵琶湖から終着点の大阪湾まで、高度(水位)をキイとして解説したもので、希望者もいるので項目別に内容の要旨を紹介する。

2)傾斜の町・京都市街と琵琶湖水位との関係
 琵琶湖の基準水位(BSL:Biwako Surface Level)は、従来瀬田の唐橋横にある鳥居川水位観測所の水位で代表していたが、平成4年より琵琶湖周辺の5ヶ所(片山・彦根・大溝・堅田・三保ヶ崎)の水位の平均値を洗堰の制御基準として使用している。
 一般値としては、大阪湾の海面から約85m、ちょうど大阪城のてっぺんくらいの高さに琵琶湖の水面があるといわれている。これに対し、京都市の市街地は下表に示すごとく傾斜している。

 琵琶湖の水を勾配だけで送水するには、水位85mより高いところに送ることはできず、遠くへ送水する場合の圧力損失を考慮すると、少し小高い位置にある京都植物園や京都大学の雑用水用(白川の水を吉田山の取水池に引水して使用)に送ることはできないことがわかる。蹴上浄水場(水位値な沈殿池満水面)や新山科浄水場にはぎりぎりの線で送水していることもわかる。

3)琵琶湖疏水の舟運行の水位対策・閘門技術
 運河を通過する舟の水位を上下させる技術として「閘門」がある。この技術が考案されたのが15世紀のイタリア・ルネッサンス時代で、レオナルドダビンチの考案と伝えられる。ヨーロッパにおいて、水路による輸送網を確立するために、河と河とを結ぶ運河が建設され、この水路の途中に存在する高低を調整するために「閘門」が多用されるようになったが、フランスで1642年に建造されたブリアール運河には50kmの距離に19ヶ所の閘門を採用した。その後建設された運河で240kmの距離に190ヶ所の閘門が採用された例もある。しかしながら、一つの閘門で上下させうる水位差は、門扉の構造で2.5mが限度であり、高度差の大きいところでは20段を超える連続閘門方式が採用された。このようにして、明治維新のころ、洋式閘門の技術は欧米において完成された技術となっており、琵琶湖疏水でも石やレンガを使用する洋式閘門が多く建設された。

 日本最初の洋式閘門は、オランダ人技師フアンドルーンが設計した石井閘門(重要文化財)で、宮城県石巻市に明治13年に建設されている。琵琶湖疏水の大津運河にある大津閘門は田辺朔郎の設計で、日本人の設計による日本最初の洋式閘門である。

4)琵琶湖疏水の舟運航の水位対策・インクライン技術
 陸上の大量長距離輸送の分野でも、動力源の発明される前の段階は牛車や馬車による輸送が中心で、北国の雪道では犬ソリやトナカイなど動物の力が利用された。また、水位差を利用した水車動力も古くから利用されたが、利用場所が水車の近くに限定された。
 そのご道路の発達とともに木製レールが開発され、馬車鉄道の時代を迎え、19世紀に入って英国で蒸気動力が開発され、鉄製レールの実用により、蒸気機関車による鉄道時代を迎えたのである。
 インクライン技術発展の経緯については、本ホームページC-3-19項で紹介しているが、傾斜のゆるい坂道に木製レールを敷いて、重力や馬力を利用して重量物の運搬に利用するインクライン方式が鉱山などで利用され、これが蒸気動力に替わっていった。
 舟運の場合も、動力のない時代に多用された連続閘門技術が、蒸気動力の発明によりインクライン技術へと替わっていった。
 琵琶湖疏水の設計建設段階において、欧米ではインクライン技術が運河に多用されており、当時欧州で主流であった片勾配式インクライン技術の採用を前提に設計していたが、工事の終盤に米国の現地調査により、米国で多用されていた両勾配式インクライン方式に設計変更し、利用場所が制限される水車動力を水力発電に変更したことは、当時世界の技術動向を把握していた田辺朔郎の大きな功績と考える。琵琶湖疏水に採用された2つのインクラインの仕様を示すと、

 伏見インクラインは、国道24号線のルートに転用されて現存しないが、蹴上インクラインは形態保存され、日本唯一の運河用インクラインとして国の史跡に指定されている。

5)関連する河川の琵琶湖水位の変動対策
 琵琶湖の面積は滋賀県の面積の6分の1にあたり、集水域が滋賀県全体に相当し、1級河川119本、支流を合わせると460本の河川の水が流入している。一方、出口は明治23年に琵琶湖疏水が完成するまでは瀬田川1本であった。この瀬田川は、琵琶湖からの流入地区の構造面と周辺の禿山からの土砂の流入により、狭くなっており、異常気象の発生による琵琶湖の水位の変動が琵琶湖周辺や瀬田川下流に大きい被害をもたらしてきた。
 そして瀬田川の浚渫作業の推進と手動の南郷洗堰の設置により、応急対策を進め、更に全自動の瀬田川洗堰とバイパス水路を設置し、琵琶湖から淀川に至る関連河川の動きを計測自動管理できる体制が整って、トラブルを未然に防ぐ体制ができた段階にある。


 鴨川運河は伏見で既存の濠川に接合するが、濠川が宇治川に合流するところに水位差調整用「三栖閘門」が昭和4年(1928)に建設された。陸運の発達と天ヶ瀬ダムの完成により宇治川の水位が低下したことから昭和37年(1962)にその役割を終えたが、国土交通省は歴史遺産として保存すべく、平成15年(2003)の第3回世界水フオーラムの京都開催を機に観光スポットとして復活し、資料館が設置されている。

6)琵琶湖の出口側にある水位差を利用した発電所
 瀬田川ラインに宇治川・天ヶ瀬・喜撰山の3つの発電所があり、喜撰山発電所は天ヶ瀬ダム調整池を下部池とした揚水式発電所である。琵琶湖疏水ラインに蹴上・夷川・伏見(墨染とも呼称)の3つがあり、小型ながら現在も運転をつづけている。

 瀬田川−宇治川ラインにある3つの発電所の内部は公開されておらず、散歩道から望見しがたい。琵琶湖疏水ラインの3つの発電所も内部の公開はされていないが、蹴上と夷川の発電所は赤レンガの建物の外観を散歩道から楽しむことができる。なお、蹴上と伏見発電所については特別に申請して内部見学をさせていただき、その要旨を本ホームページのC−3−11項「蹴上発電所」と12項「伏見(墨染)発電所」にとりまとめた。

7)水位コントロールの現状
 琵琶湖疏水にとって、瀬田川にある瀬田川洗堰の改良された制御方式により、異常高水位による影響は心配ない状況にある。また異常低水位についても、第2疏水連絡トンネルの完成でマイナス1.5mの低水位まで取水できる体制ができた。
 しかし、瀬田川ルートでは、異常時における洗堰の開閉条件について、洗堰の上流と下流で相反する問題があり、討議が重ねられている。